April 05, 2006

深き夜を花と月とにあかしつつ‥‥

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Information「Shihohkan Dance-Café」

-今日の独言- もう満開宣言

 数日前に開花宣言を聞いたかと思えば、今日のバカ陽気に大阪は突然の満開宣言。おまけに夕刻からは雨しきりだ。なんとも気忙しい天候が続いて桜便りもめまぐるしい。今度の日曜日は花の回廊の下、一興パフォーマンスをと予定しているのだけれど、この分ではそれまでもつのかしらんと甚だ心配。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-39>
 深き夜を花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春の釭  藤原定家

拾遺愚草、中、韻歌百二十八首、春。
釭(ともしび)-音はコウ。灯ともし、油皿のこと。
邦雄曰く、建久7(1190)年、定家34歳秋の、韻字を一首の末尾に象嵌した。「風通ふ花の鏡は曇りつつ春をぞかぞふ庭の矼(いしばし)」がこの歌と押韻する。まことに技巧的な作品群中、唯美的な眺めの際立つ一首。要は「よそにぞ」、この世の外、異次元に消える春燈を、作者は宴の席から眼を閉じたまま透視する。この世はよそ、うつつにしてまた非在の境、と。

 雲みだれ春の夜風の吹くなへに霞める月ぞなほ霞みゆく  北畠親子

玉葉集、春上、春月を。
生没年未詳、村上源氏の裔、権大納言北畠師親の養女、実父は源具氏。1300年前後に京極派歌人として活躍。新後撰集初出、勅撰入集は52首。
邦雄曰く、さらぬだに霞んでいた月が、更にひとしお霞むという。しかも月の周りは夜目にもしるく乱れ飛ぶ雲。春夜の月に新味を加えるため、さまざまな技巧を創案する。
「うす霞む四方の景色をにほひにて花にとどまる夕暮の色」
は永仁元(1293)年4月の歌合歌だが、「霞める月」以上に美しい。下句の「花にとどまる」など、ほとほと感に堪えない濃やかな表現だ、と。

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April 04, 2006

春来れば空に乱るる糸遊を‥‥

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-今日の独言- すっぽんの鳴き声?

 一茶の句にこんなのがあった。
  「すつぽんも時や作らん春の月」
「おらが春」所収の文政2年の作、前書に「水江春色」と。
亀やすっぽんが鶏のように時を告げて鳴こうというのか、人を喰ったような句にも思えるが、鎌倉期、藤原定家の二男、為家に「川越のをちの田中の夕闇に何ぞときけば亀のなくなり」があり、この歌以来からか、亀も鳴くと信じられてきたらしい、というのだからおもしろい。
俳諧で「亀鳴く」は春の季語となっているようで、実際のところ亀もすっぽんも鳴きはしないが、ありそうもない譬えに「すっぽんが時を作る」という諺もあるとは畏れ入る。
楸邨氏の解説によれば、水を漫々と湛えた水辺は春色が濃くなって、春の月が夢幻の境をつくりだすような夜、これに誘われてすっぽんも鶏のように時をつくるのではないか、との句意で、ありもしないことだが、古くからの伝を踏まえて、この夢幻境を生かしたのだろう、と。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-38>
 春来れば空に乱るる糸遊をひとすぢにやはありと頼まむ  藤原有家

六百番歌合、春、遊糸。
糸遊(いとゆふ)は陽炎(かげろふ)に同じ。
邦雄曰く、有家は新古今歌人中、繊細にして哀切な作風無類の人、この歌の下句も恋歌を思わせる調べ。この歌合の年38歳、六条家の歌人だが、むしろ、俊成・定家の御子左家に近い新風・技法を随所に見せる、と。

 明くる夜の尾の上に色はあらはれて霞にあまる花の横雲  慈道親王

慈道親王集、春、朝花。
邦雄曰く、雲か花か、山上の桜の曙の霞、下句の豊麗な姿は心を奪う。殊に第四句の「霞にあまる」は珍しい秀句表現。歌い尽された花と霞に新味を加えるのは至難の技。この歌などその意味でも貴重な収穫であろう、と。

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April 03, 2006

みのむしもしづくする春がきたぞな

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<古今東西-書畫往還> 辻惟雄の「奇想の系譜」

 本書の初版が刊行された1970(S45)年当時、衝撃的な異色作として迎えられたことだろう。
文庫版解説の服部幸雄の言を借りれば、「浮世絵以外の近世絵画の中にこれほど迫力があり、個性的かつ現代的な画家たちが存在していたとは、思ってもいなかった。そういうすぐれた画家たちがいたことを、私は多くの作 品とともに、本書によって初めて教えられた。眼からうろこが落ちるとは、こういう時に使うべき表現であろう。」ということになり、「近世絵画史の殻を破った衝撃の書」と賞される。
 初版は、1968(S43)年の美術手帖7月号から12月号にかけて連載された「奇想の系譜-江戸のアヴァンギャルド」を母体に、新しく長沢蘆雪の一章を加筆したのが70年「奇想の系譜」として美術出版社から出されたのだが、それは江戸時代における表現主義的傾向の画家たち-奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)なイメージの表出を特色とする画家たちの系譜を辿ったものだが、美術手帖連載当時、部分的には私も眼にしていたものかどうか、40年も経ようという遠い彼方のこととて深い靄のなかだ。
 ただその頃、厳密には少し前のことになるが、広末保らによる幕末の絵師「土佐の絵金」発見があり、そのグロテスクにして奇矯な色彩、劇的な動きと迫力に満ちた絵画世界が注目されていたことは、私の記憶のなかにも明らかにある。絵金の表現する頽廃とグロテスクな絵は、宗教的・呪術的なものに媒介された絢爛と野卑の庶民的な形態としての実現であったろうし、民衆の想像力として爆発するそのエネルギーに現代的な意義が見出されていたのだろう。
 著者は「奇想の系譜」を、岩佐又兵衛(1578-1650)、狩野山雪(1590-1651)、伊藤若冲(1716-1800)、曽我蕭白(1730-1781)、長沢蘆雪(1754-1799)、歌川国芳(1797-1861)と6人の画家たちで辿ってみせる。彼らの作品は、常軌を逸するほどにエキセントリックだ。或いは刺激的にドラマティックだ。また意外なほどに幻想的で詩的な美しさと優しさに溢れていさえする。それらはシュルレアリスムに通底するような美意識を備えており、サイケデリックで鮮烈な色彩感覚に満ちていたりする。まさしく60年代、70年代のアヴァンギャルド芸術に通ずるものであったのだ。
 著者はあとがきで言っている。「奇想」の中味は「陰」と「陽」の両面にまたがっている。陰の奇想とは、画家たちがそれぞれの内面に育てた奇矯なイメージ世界である。それは<延長された近代>としての江戸に芽生えた鋭敏な芸術家の自意識が、現実とのキシミを触媒として生み出したものである。血なまぐさい残虐表現もこれに含めてよいだろう。これに対し陽の奇想とは、エンタティメントとして演出された奇抜な身振り、趣向である。「見立て」すなわちパロディはその典型だ。この一面は日本美術が古来から持っている機智性や諧謔性-表現に見られる遊びの精神の伝統-と深くつながっている。さらにまた芸能の分野にも深くかかわっていた。奇想の系譜を、時代を超えた日本人の造形表現の大きな特徴としてとらえること、と。
 辻惟雄の近著「日本美術の歴史」(東京大学出版会)では、これら奇想の系譜の画家たちが、美術史の本流のうちに確かな位置を占めている筈だ。

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April 02, 2006

春の野にすみれ摘みにと‥‥

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Information「Shihohkan Dance-Café」

-今日の独言- 図書記念日

 今日4月2日は図書記念日だそうな。その由来は、明治5(1872)年のこの日に4月2日に、東京・湯島に日本初の官立公共図書館として東京書籍館が開設されたことによるらしい。
図書館の思い出といえば、大学受験を控えた高3の夏以降、休日はおろか、よく授業を抜け出したりして、まだ比較的新しかった西区北堀江の市立中央図書館の自習室に通ったくらいだったのだが、40年余を経て、近頃はずいぶんと厄介になるようになった。
理由は、今浦島ではないけれど、知らないうちにずいぶん便利になっていたこと。いつ頃からかは調べもしていないが、蔵書をネットで検索できるし、カード登録さえすれば予約もできる。おまけに居住区の最寄りの図書館へ取り寄せてくれたうえで、ご丁寧にメールの通知もくる。些か待たねばならないがそれも4、5日から一週間ほど、受取りと返本の手間さえ煩わしがらねば、こんなありがたいことはない。
絶版となって書店で手に入らなくなった書や、ちょっと手が出せないような高価本など、或いはわざわざ蔵書に加えるほどでなくとも食指が動かされる場合など、図書館のお世話になるのが賢明と、この年になって思い知ったような次第だ。
昨夜も、読み終えたばかりの辻椎雄の「奇想の系譜」に刺激されて、古い記憶が呼び覚まされるように広末保らが紹介していた「土佐の絵金」関連をあらためて眼を通したくなったものだから、蔵書検索したところ目ぼしいものがあったので早速予約したのだが、これが夜の12時前後のこと。思い立ったらすぐさま手が打てるのがいい。昨夜はさらにあれもこれもと思い立ち、計4冊を予約してしまった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-37>
 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける
                                    山部赤人

万葉集、巻八、春の雑歌。
奈良町初期、聖武天皇の時代の宮廷歌人。長歌よりも短歌に優れ、叙景歌に見るべきものが多い。万葉集に長歌13首、短歌37首。平安初期に編まれた赤人集があるが、真偽は疑わしい。三十六歌仙。
邦雄曰く、古今集の仮名序のまで引かれたこの菫の歌、簡素で匂やかな姿は、時代を超えて人々に親しまれる。菫摘みはあくまでも野遊び、一夜泊りも情趣を愛してのことだろう。恋歌の後朝を想像するのは邪道に近い。後世、あまたの本歌取りを生むだけに、遥かなひろがりと爽やかなふくらみとを持つ季節の讃歌、と。

 たなばたも菫つみてや天の河秋よりほかに一夜寝ぬらむ  冷泉為相

藤谷和歌集、春、楚忽百首に、菫。
弘長3年(1263)-嘉暦3年(1328)、藤原定家二男為家の子、母は阿仏尼、冷泉家の祖。晩年は鎌倉の藤谷に住み、関東歌壇の指導者と仰がれた。新後撰集初出、勅撰入集は65首。
邦雄曰く、赤人の菫摘みの微笑ましくも艶な本歌取り秀作。七夕の星合の定められた一夜のみならず、春たけなわにもいま一夜、牽牛と織女は、野で逢うのではあるまいかと、恋の趣を加味して歌う。天上の花なる星が、地上の星なる花を求める発想も、星菫派の遥かな先駆けを想わせて愉しい、と。

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April 01, 2006

巨勢山のつらつら椿つらつらに‥‥

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-四方のたより- Dance Caféは4/27

'06年のダンス・カフェvol.1は4月27日(木)と決まった。
今回はWork-Shop風にしようということに、
したがって、Improvisation AtoZ、
見るもよし、動くもよし。
どちらの立場からでも愉しんで貰いたいという訳だ。
以下、開催要領。

――――――――――――――――――――――――
四方館 Dance Café
in COCOROOM Festivalgate 4F
Date 4.27 (Thu) 19:00 start
1coin (500) & 1drink (500)

――――――――――――――――――――――――
<Improvisation AtoZ>
見るもよし、動くもよし。
Shihohkan Method Work-Shop

――――――――――――――――――――――――
Improvisation-即興-を
個有の新しい表現回路として身につけるには
いくつもの階梯を経なければならない。
Improvisation AtoZ では
表象としての<心-身>の位相を往還しながら
さまざまな経験として鮮やかに記憶されるだろう。
立会者には、まさに、見るもよし動くもよし、のひとときとなる。

※ Work-Shop で
動きの実践希望者は当日18:30までに受付登録してください。

――――――――――――――――――――――――
-出演-
Dancer : Yuki Komine
     Junko Suenaga
     Aya Okabayashi
Pianist : Masahiko Sugitani
Coordinator : Tetsu Hayashida

――――――――――――――――――――――――
-問合せ・連絡先-
SHIHOHKAN Body-Work Institute
559-0012 Higashi-Kagaya 1-7-9-505,Suminoe-ku,Osaka-city
Tel&Fax 06-6683-8685 Mail alpha_net@nifty.com
URL http://homepage2.nifty.com/shihohkan/

――――――――――――――――――――――――

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-36>
巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を
                                    坂門人足

万葉集、巻一、雑歌、大宝元年秋九月、太上天皇の紀伊国に幸しし時の歌。
坂門人足(さかとのひとたり)は伝不詳、太上天皇とは持統のこと。
巨勢(こせ)は大和国の歌枕、現在の奈良県御所市吉野口あたり。
椿は現在のツバキとも山茶花とも。
邦雄曰く、持統帝行幸は秋で、眼前の椿は黒緑色の艶やかな樹林だが、心には真紅の花咲き匂う春景色。「つらつら椿つらつらに」の弾み響く音韻が、おのずから椿の照葉と、同時にエンジ色の点綴を連想させる楽しさは格別。人足の歌は万葉にこの一首のみだが、この椿の秀作を以って永遠に記念される、と。

 吾妹子を早見浜風大和なる吾を待つ椿吹かざるなゆめ  長皇子

万葉集、巻一、雑歌。
生年未詳-和銅8年(715)、天武第七皇子(第四皇子説も)、同母弟に弓削皇子。
早見浜風-所在不詳だが、難波の住吉の浜か、足早に吹く浜風に早く会いたいの意を懸けている。吾が待つ椿-待つと松の掛詞から椿を吾妹子(おのが妻)へと寓意している。吹かざるなゆめ-二重の否定で、吹けと強勢。ゆめは決しての意味でさらに強調。
邦雄曰く、椿はすなわち妻、早見浜風の掛詞と、八代集の縁語・掛詞を先取りしたような、巧妙な言葉の脈絡が面白い。なによりも一点の紅の椿の印象は鮮明、と。

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March 31, 2006

はかなしな夢に夢見しかげろふの‥‥

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-今日の独言- マクドナルドと食育基本法

 昨夕、どの放送局か確認し忘れたが、TVニュース番組で、マクドナルドの店が一軒もないという奄美大島のとある小学校に、わざわざ業者が島に乗り込んで、マックのハンバーガーを給食として子どもたちに試食させている風景が放映されていた。子どもたちの半数以上は初めて食するマック処女だったろうか。みな一様に美味しそうに且つ嬉しそうにバーガーを頬張る姿が映し出されていた。ニュースの解説ではどうやら昨年7月に施行されたという「食育基本法」なる寡聞にして初めて耳にする法律と関わりがあるらしく、この新法の趣旨に沿った日本マクドナルドによる協賛行為のような意味づけがされていたように聞こえたが、学校給食とマックのハンバーガーという取り合せに違和感がつきまとって仕方なかったし、この話題を採り上げるマスコミの神経にも驚きを禁じえなかった。
「食育基本法」? なんだよその法律? マックのハンバーガーを子どもたちの給食にというような行為が奨励礼賛されるような法律って、いったいどんな法律だよ?
「食生活情報サービスセンター」なるこれまた耳慣れない財団法人のHPに「食育基本法」が全文掲載されていた。
=http://www.e-shokuiku.com/kihonhou/index.html
基本法と銘打つだけに、前文と四章三十三条及び附則二条から成るごく簡明な法である。
前文の中ほどには「国民の食生活においては、栄養の偏り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、過度の痩身志向などの問題に加え、新たな「食」の安全上の問題や、「食」の海外への依存の問題が生じており、「食」に関する情報が社会に氾濫する中で、人々は、食生活の改善の面からも、「食」の安全の確保の面からも、自ら「食」のあり方を学ぶことが求められている。」というような件りもあった。
総則としての第一章第十二条では、食品関連事業者等の責務として「食品の製造、加工、流通、販売又は食事の提供を行う事業者及びその組織する団体は、基本理念にのっとり、その事業活動に関し、自主的かつ積極的に食育の推進に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する食育の推進に関する施策その他の食育の推進に関する活動に協力するよう努めるものとする。」とある。
成程、日本マクドナルドが、店舗が一軒もないという奄美大島にわざわざ出向いて、小学生たちに自社のハンバーガーを給食代わりに食体験させるという行為が、この新法に則った食育キャンペーン事業の一環だという訳だ。給食とマックのハンバーガーという取り合せは話題性もあるといえばある。だからといってこれを積極的に採り上げるマスコミの神経もどうかしてるんじゃないか。なにしろ人口の60%以上という桁違いの肥満率を誇る?アメリカである。引用した前文にもあるように、肥満や生活習慣病の増加現象の一翼を担っているのが、まぎれもなくマクドナルドを筆頭とするアメリカ食文化のわれわれ消費者への圧倒的な浸透そのものじゃないか。
美辞麗句で飾り立てているものの、「食育基本法」などという新法の成立自体、拙速の牛肉輸入再開と同様、内実は超肥満大国アメリカによる外圧に発しているのではと、穿った見方もしてみたくなろうというものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-35>
 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
                                    大伯皇女

万葉集、巻二、挽歌。
詞書に、大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首、とある後一首。
邦雄曰く、諮られて死に追いつめられた悲劇の皇子大津を悼む同母姉の悲痛な挽歌。不壊の秀作であろう。馬酔木の蒼白く脆く、しかも微香を漂わす花と、この慟哭のいかに哀れに響きあうことか。時に朱鳥元(686)年、大津23歳、大伯25歳の春、と。

 はかなしな夢に夢見しかげろふのそれも絶えぬるなかの契りは
                                    藤原定家

拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、逢不会恋。
邦雄曰く、歌の心がそのまま彩となり調べとなり、余情妖艶の典型。初句でとどめを刺す表現は定家の好むところ、目立たぬ倒置法で、五句は纏綿と連なり、「絶えぬる」と歌いつつ切れ目を見せぬ。歎きの円環の中にさらに夢と蜉蝣がもつれあい、ほとんどはかなさの綾織の感がある。定家70歳、関白左大臣家百首中の恋歌、と。

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March 30, 2006

霞立つ末の松山ほのぼのと‥‥

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-今日の独言- 八百屋お七

 天和3(1683)年の今日3月29日は、男恋しさのあまり自宅に火付けをした江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七が哀れ刑場の露となった日だそうな。浄瑠璃や歌舞伎で名代の八百屋お七である。
天和・貞享・元禄と五代綱吉の世だが、この頃暦号がめまぐるしく変わっているのも、この「お七火事」事件と少なからず関わりがありそうだ。
天和2(1682)年の暮れも押し迫った12月28日、江戸で大火が起こった。駒込大円寺から出火、東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及び、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95を焼失、焼死者3500名という大被災。その際、家を焼かれ、駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避難したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさで、火事があれば会えると思い込み、翌年3月2日夜、放火したがすぐ消し止められ、捕えられて市中引廻しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたというのが実説。
 この八百屋お七がモデルとなって西鶴の「好色五人女」に登場するのが早くも3年後で、元禄期には歌祭文に唄われていよいよ広まり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色されていくが、とくに歌舞伎では曽我物の世界に結びつけた脚色が施され、八百屋お七物の一系統が形成されていく。

                 ―― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-34>
 霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空  藤原家隆

新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、春曙といふ心を。
末の松山-陸奥国の歌枕、宮城県多賀城市八幡、宝国寺の裏山辺り。二本の巨松が残る。
邦雄曰く、末の松山が霞む、霞の彼方には越えられぬ波が、ひねもす泡立ちつづける。うすべにの雲が、縹の波に別れようとする。横雲を浮かべた空自体が海から離れていく幻覚、錯視のあやういたまゆらを掴むには、これ以外の修辞はなかったろう。霞・雲・浪と道具立てが調い過ぎているという難はあろうが、これだけ流麗な調べの中に籠めるとその難も長所に転ずる、と。

 物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花
                                    大伴家持

万葉集、巻十九、堅香子草の花を攀じ折る歌一首。
物部の八十乙女(もののふのやそをとめ)-物部は八十=数多いことに掛かる枕詞。堅香子の花-片栗の花とされるのが通説。
邦雄曰く、寺の井戸のほとりには早春の片栗の、淡紫の六弁花がうつむきがちに顫えている。水汲む乙女らは三人、五人と入り乱れてさざめく。「物部の八十乙女」の鮮明な動と、下句の可憐な花の静の、簡素で清々しい均衡は、家持独特の新しい歌風の一面である、と。

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March 29, 2006

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ‥‥

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-今日の独言- 痩せ蛙の句

 一茶のあまりにも人口に膾炙した句で恐縮だが、蒙を啓かれた思いをしたのでここに記しておく。
 「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」
について、「一茶秀句」(春秋社)での加藤楸邨氏の説くところでは、
「希杖本句集」には句の前書に「武蔵の国竹の塚といふに、蛙たたかひありける、見にまかる。四月廿日なりけり」とあり、古来、「蛙いくさ」とか「蛙合戦」といわれて、蛙は集まって戦をするものと考えられていたが、実はこれは、蛙が群れをなして生殖行為を営むことである、と。いわば本能に規定された遺伝子保存をめぐる小動物たちの生死を賭した闘いだという訳である。
一匹の雌にあまたの雄が挑みかかるので、激しい雄同士の争いとなる。痩せて小さく非力なものはどうしても負けてしまうのだ。一説には「蛙たたかひ」というのは、蛙の雌に対して、多くの雄を向かわせ、相争わせる遊戯だという話もあるそうだが、楸邨氏曰く、いずれにせよ、単なる蛙の戦というような綺麗ごとではなく、そうであってこそはじめて、「一茶是にあり」と、軍記物よろしく名乗りを採り入れた諧謔調が精彩を発するのであり、この句の一茶は、痩せ蛙に同情している感傷的なものではなく、むしろ爛々と眼を光らせた精悍な面貌なのだ、と説いているのだが、成程そうかと膝を叩く思い。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-33>
 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯
                                    京極為兼

風雅集、春、題知らず。
邦雄曰く、新古今時代も「霞める山」を幽玄に表現した秀歌はあまた見られ、これ以上はと思われるまでに巧緻になった。だが、為兼の「なほ奥の峯」にまでは修辞の手が届かなかった。雄大で微妙、華やかに沈潜したこの文体と着想が、二条派とは一線を劃する京極派美学の一典型。初句六音、三句切れ、体言止めの韻律は掛替えのないものになっている、と。

 荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立返り菫をぞ摘む
                                   二条院讃岐

千五百番歌合、二百四十八番、春四。
永治元年(1141)?-建保5年(1217)?。源三位頼政の女。二条院の女房となり、後鳥羽院の中宮宣秋門院にも仕えた。新古今時代の代表的女流歌人。小倉百人一首に「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」の作がある。千載集以下に73首。
邦雄曰く、「離(か)れ」と「枯れ」を懸けて、新古今調「故郷の廃家」を歌う。但しこの「ふるさと」には「古き都に来て見れば」の趣が添う。この歌合当時讃岐は60歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に20年余の歳月が過ぎていた、と。

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March 27, 2006

見ぬ世まで思ひ残さぬながめより‥‥

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-今日の独言- ドストエフスキーの癲癇と父殺し

 「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」の文豪ドストエフスキーが、癲癇性気質だったことはよく知られた話だろうが、亀山郁夫の「ドストエフスキー-父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、フロイトが1928年に「ドストエフスキーと父殺し」と題する論文で、ドストエフスキーの生涯を悩ました癲癇の発作について、彼の持論である「エディプス・コンプレックス」を適用してみせている、とこれを引用しつつ論を展開しているが、なかなかに興味深く惹かれるものがあった。以下、フロイトの孫引きになるが、
「少年フョードルは、ライバルでありかつ支配者である父親を憎み、その反面、強者である父親を賛美し、模範にしたいというアンビバレントな感情に苦しめられていた。しかし、ライバルたる父親を亡き者にしたいという願いは、父親から下される罰、すなわち、去勢に対する恐怖によって抑圧されていた。そして、その父親が(彼の支配下であった)農奴によって殺されたことで、図らずもその願いが現実化したため、まるで自分が犯人であるかのような錯覚にとらわれた」というのである。
「ドストエフスキーの発作は、18才のときのあの震撼的な体験、すなわち父親の殺害という事件を経てのち、はじめて癲癇という形態(痙攣をともなう大発作の型)をとるに至った」
或いはまた「この癲癇の発作においては、瞬間的に訪れるエクスタシー(アウラ)のあと、激しい痙攣をともなう意識の喪失に襲われ、その後にしばらく欝の状態が訪れる」といい、
「発作の前駆的症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験されるのであって、それは多分、父の死の報告を受け取ったときに彼が味わった誇らかな気持ちと解放感とが固着したものと考えていいだろう。そしてこの法悦の一瞬の後には、喜びの後であるだけに、いっそう残忍と感ぜられる罰が、ただちに踵を接してやってくるのが常であった」と。
フロイトはさらに、少年フョードルの心の深く根を下ろしている罪の意識や、後年現れる浪費癖、賭博熱などいくつかの異常な行動様式にも同じ視点から光をあてている、としたあとでこの著者は、
「60年に及んだドストエフスキーの生涯が<エディプス・コンプレックス>の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。フロイトの存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキーは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、表象化するほかに手立てはなかったのだ。」と、ドストエフスキー文学の深い森の中へと読者を誘ってゆく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-32>
 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春の曙  藤原良経

風雅集、雑上、左大将に侍りける時、家に六百番歌合しけるに、春曙。
邦雄曰く、六百番歌合きっての名作と称してよかろう。右、慈円の「思ひ出は同じ眺めに帰るまで心に残れ春の曙」と番。左右の方人ことごとく感服、判者俊成「心姿共にいとをかし。良き持に侍るべし」と、滅多に用いぬ最上級の判詞を認める。過去・現在・未来を別次元から俯瞰したような、底知れぬ深み、青黛と雲母を刷いたかの眺め、賛辞に窮する、と。

 春といへばなべて霞やわたるらむ雲なき空の朧月夜は  小侍従

千五百番歌合、五十四番、春一。
生没年未詳(生年は1120年頃-没年は1202以後とみられる)。父は石清水八幡宮別当大僧都光清。「待宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の恋歌で知られ、「待宵の小侍従」と異名をとる。後鳥羽院歌壇で活躍、俊成・平忠盛・西行らと交遊、源頼政や藤原隆信らと贈答を残す。家集に「小侍従集」、千載集初出、勅撰入集55首。
邦雄曰く、空前の大歌合に列席の栄を得た小侍従は、87歳の俊成に次ぐ高齢。ゆるぎのない倒置法で風格を見せるところ、さすがに老巧、と。

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March 26, 2006

はかなしやわが身の果てよ‥‥

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-今日の独言- 小野小町

 美貌の歌人として在原業平と好一対をなす小野小町の経歴は不明なことが多く、またそれゆえにこそ多くの説話が語られ、全国各地にさまざまな伝説が生まれた。
鎌倉初期に成立した「古事談」では、東国の荒れ野を旅する業平が、風の中に歌を詠む声を聞き、その声の主を捜し歩くと、草叢に髑髏を見出すが、実は其処こそ小町の終焉の地であった、という説話がある。小町の髑髏の話はこれより早く「江家次第」という古書に見えるという。また同じ平安後期の作とされる「玉造小町壮衰書」なる漢詩では、美女の栄枯盛衰の生涯が小町に託されて歌われているとか。さらには鎌倉初期、順徳院が著したとされる歌学書「八雲御抄」では歌の神として小町が夢枕に立ち現れたという話もあり、これらより天下一の美女であり歌人の小町伝説は、さまざまな歌徳の説話や恋の説話が展開され、老後には乞食となり発狂したという落魄の物語まで生み出される。
 今に伝わる小町の誕生地と終焉の地とされるところは全国各地に点在しており、かほどに小町伝説が広く流布するには、同じく生没年不詳の歌人和泉式部が書写山の性空上人により道心を起こし諸国を行脚したとされ、これより瘡蓋譚をはじめさまざまな説話が全国に広まるが、これら式部伝説と重なり合って流布していく一面もあったかとも考えられそうだ。
鎌倉期以降には小町伝説や式部伝説を語り歩く唱導の女たちが遊行芸能民化して全国各地を旅したであろうし、また神官小野氏の全国的なネットワークの存在も伝説流布に無視できないものだったのではないか。
 そんな小町伝説をいわば集大成し、文芸的な形象を与えたのは世阿弥以降の能楽である。今日にまで残される謡曲に小町物は、「草子洗小町」、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「雨乞小町」「清水小町」と七曲ある。なかでもよく知られたものは、小町に恋した深草少将が、百夜通えば望みを叶えようと約した小町の言葉を信じて通いつめたものの、あと一夜という九十九夜目にして儚くも死んでしまったという「通小町」と、朽ちた卒塔婆に腰かけた老女が仏道に帰依するという話で、その老女こそ深草少将の霊に憑かれた小町のなれの果てであったという「卒塔婆小町」だろう。
 江戸化政文化の浮世絵全盛期、北斎はこれら七様の小町像を「七小町枕屏風」として描いている。
また元禄期の俳諧、芭蕉らの巻いた歌仙「猿蓑」ではその巻中に、
  さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆
   浮世の果てはみな小町なり    芭蕉
と詠まれているのが見える。

――――――――――――――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-31>
 春霞たなびく空は人知れずわが身より立つ煙なりけり  平兼盛

兼盛集、春頃。
生年不詳-正暦元年(990)。光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。三十六歌仙。後撰集以下に87首。
邦雄曰く、小倉百人一首に採られた「しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」の作者兼盛は、逸話多く、家集も数多の恋の贈答を含む。この「春霞」も誰かに贈った歌であろう。「煙」は忍ぶる恋に胸を焦がす苦しい恋の象徴、と。

 はかなしやわが身の果てよあさみどり野べにたなびく霞と思へば
                                    小野小町

小町集。
生没年不詳。文徳・清和朝頃の歌人。小野篁の孫とも出羽郡司小野良実の女とも、また小野氏出自の釆女とも。古今集・後撰集に採られた約20首が確実とされる作。六歌仙・三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、哀傷の部に「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野べの霞と思へば」として入集。小町集のほうが窈窕としてもの悲しく、遥かに見映えがする。伝説中の佳人たるのみならず、残された作品も六歌仙中、業平と双璧をなす。古今集には百人一首歌「花の色は移りにけりな‥‥」が入集。貫之が評の如く「あはれなるやうにて、強からず」か、と。

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March 25, 2006

月影のあはれをつくす春の夜に‥‥

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-今日の独言- 袴垂と福田善之

 「袴垂保輔」とも別称される「袴垂-ハカマダレ」とは平安時代に活躍したとされる伝説の盗賊だが、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」では「袴垂」と「保輔」は別人とも見られるようだ。両者がいつのまにか合体して伝説的な大盗賊の名となったのだろうが、その経緯のほどは藪の中である。
今昔物語や宇治拾遺には「いみじき盗人の大将軍」たる「袴垂」が、笛を吹きつつ都の夜道を歩く男を襲って衣類を奪おうとしたが逆に威圧され果たせなかった。その相手が和泉式部の夫として知られる藤原保昌であった、という一節がある。また宇治拾遺の別段では、「保輔」という盗人の長がいて、この男は藤原保昌の弟であったとされている。
藤原保輔という名は「日本紀略」にその名を残しているようで、永延2年の条に「強盗首」と記されており、「追悼の宣旨を蒙ること十五度、獄中にて自害した」とあるそうな。
どうやらこれらの話が縺れ合わされて、いつのまにか「袴垂保輔」なる伝説上の大盗賊ができあがってきたらしい。

 ところで話は変わって、もう40年以上昔のことだが、「袴垂れはどこだ」という芝居があった。1964(S39)年初演で、たしか大阪労演にものった筈だ。脚本は福田善之。
頃は中世末期か、うちつづく戦乱と天変地異による凶作で逃散するしかない百姓たちが、伝説の盗賊「袴垂」を救世主として求め、尋ね探しゆく放浪の旅を果てしなくつづけ、最後には自分たち自身が「袴垂」に成ること、彼ら自身の内部に「袴垂」を見出すべきことに目覚めていくという物語。
福田善之得意の群像劇とでもいうべき一群の演劇シーンは、状況的には60年安保と呼応しながら、それまでの戦前からの新劇的世界を劃するものとなったと思われる。
彼の処女作「長い墓標の列」は57(S32)年に当時の学生演劇のメッカともいえる早稲田の劇研で初演されている。
60年安保を経て、翌61(S36)年発表された劇団青芸の「遠くまで行くんだ」は演出に観世栄夫を迎えたが、アルジェリア紛争と日本の60年安保を平行交錯させた展開の群像劇は、挫折感にひしがれる多くの知識人や学生たちにとって鮮烈に響いたにちがいない。
63(S38)年春に同志社へ入学、すぐさま第三劇場という学生劇団に入った私は、この「遠くまで行くんだ」を是非自分たちの手で演ってみたいと思ったが、先輩諸氏の心を動かすに至らず、残念ながら果たしえなかった。
福田善之的劇宇宙は、明けて62(S37)年の「真田風雲録」をもって劃期をなす。この舞台は当時の俳優座スタジオ劇団と呼ばれた若手劇団が結集した合同公演で俳優座の大御所千田是也が演出した。
このスタジオ劇団とは、三期会(現・東京演劇アンサンブル)、新人会、仲間、同人会、青芸、らであるが、今も残るのは広渡常敏氏率いる東京演劇アンサンブルと劇団仲間くらいであろうか。
「真田風雲録」は早くも翌63(S38)年に東映で映画化され話題を呼んだからご存知の向きも多いだろう。監督は加藤泰、主演に中村錦之助や渡辺美佐子。渡辺美佐子は舞台の時そのまま「むささびのお霧」役だった。新人劇作家による新劇の舞台が、なお五社映画華やかなりし時代に映画化となったのだから、ちょっとした驚きの事件ではあった。
さらに63(S38)年の秋、川上音二郎を題材にした「オッペケペ」(新人会)で福田善之の劇宇宙は健在ぶりを示し、翌年の「袴垂れはどこだ」(青芸)へと続く。どちらも演出は観世栄夫。
これら福田善之の一群の仕事と、同時代の宮本研や清水邦夫ら劇作家の仕事は、戦前から一代の功成った新劇界の旧世代と60年安保世代ともいうべき若き新しい世代との、時代の転換を促し加速させたものであり、新しい世代によるアンチ新劇は、アングラ演劇などと呼称されながら、小劇場運動として以後大きく花開いてゆく。それは新劇=戯曲派に対する、唐十郎の「特権的肉体論」に代表されるような役者の身体論を掲げた、演劇=俳優論への強い傾斜でもあり、遠くは80年代以降の演劇のエンタテイメント志向に波及もする潮流であったといえるだろう。
唐十郎の「状況劇場」の登場はこの64(S39)年のこと。劇団「変身」の旗揚げは翌65(S40)年、同じ年、ふじたあさやと秋浜悟史の三十人会が「日本の教育1960」を上演し、別役実と鈴木忠志の「早稲田小劇場」、さらには佐藤信らの「自由劇場」の旗揚げはともに66(S41)年であった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-30>
 人問はば見ずとは言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの
                                    藤原為氏

続後撰集、春上、建長二年、詩歌を合せられ侍りし時、江上春望。
貞応元年(1222)-弘安9年(1286)、藤原定家の二男である権大納言為家の長子。御子左家二条家の祖となる。後嵯峨院、亀山院の内裏歌壇において活躍。後拾遺集の選者として奉覧。続後撰集初出、勅撰入集232首を数える。
玉津島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれ、和歌の浦に浮ぶ小島。
邦雄曰く、春霞立ちこめた紀伊の玉津島の眺めの美しさは筆舌に尽しがたい。ゆえに「見ずとは言はむ」。思考の経過の一部を大胆に切り捨てて否定表現にしたのは、実は父・為家の示唆によるとの逸話もある。万葉集・巻七の「玉津島よく見ていませあをによし平城(なら)なる人の待ち問はばいかに」以来の歌枕、彼はこの歌の返歌風の本歌取りを試みた、と。

 月影のあはれをつくす春の夜にのこりおほくも霞む空かな
                                    藤原定家

拾遺愚草、上、閑居百首、春二十首。
邦雄曰く、定家25歳の作。言葉もまた入念に、殊更に緩徐調で、曲線を描くような文体を案出した。六百番歌合せはなお6年後、まだ狂言綺語の跳梁は見せぬ頃の、丁寧な技法を見せる佳品だが、勅撰集からは洩れている。春二十首には「春の来てあひ見むことは命ぞと思ひし花を惜しみつるかな」も見え、噛んで含めるかの詠法が印象的、と。

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March 24, 2006

見てもなほおぼつかなきは‥‥

051127-014-1

-今日の独言- 檸檬忌

   春の岬 旅のをはりの鴎どり
   浮きつつ遠くなりにけるかも

 三好達治の処女詩集「測量船」巻頭を飾る短歌風二行詩。
安東次男の「花づとめ」によれば、昭和2(1927)年の春、達治は伊豆湯ヶ島に転地療養中の梶井基次郎を見舞った後、下田から沼津へ船で渡ったらしく、その船中での感興であると紹介されている。
梶井基次郎と三好達治はともに大阪市内出身で、明治34(1901)年2月生まれと明治33(1900)年8月生まれだからまったくの同世代だし、同人誌「青空」を共に始めている親しい仲間。梶井は三高時代に結核を病み、昭和2年のこの頃は再発して長期療養の身にあり、不治の病との自覚のうちに死を見据えた闘病の日々であったろう。「鴎どり」には湯ヶ島に別れてきたばかりの梶井の像が強く影を落としているにちがいない。
 梶井は5年後の昭和7(1932)年、31歳の若さで一期となった。
奇しくも今日3月24日は梶井基次郎の命日、いわゆる檸檬忌にあたり、所縁の常国寺(大阪市中央区中寺)では毎年偲びごとが行われている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-29>
 見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞を分けて出づる月影
                                   小式部内侍

続後撰集、春下、題知らず。
生年不詳-万寿2年(1025)。父は橘道貞、母は和泉式部。上東門院彰子に仕えたが、関白藤原教通、滋井中将公成との間にも夫々一男をなしたといわれる。母に先んじて早世、行年25、6歳か。後拾遺集以下に8首。
邦雄曰く、秀歌揃いの続後撰・春下の中でも小式部の春月は、第四句「霞を分けて」が実に心利いた修辞。この集の秋にも「七夕の逢ひて別るる歎きをも君ゆゑ今朝ぞ思ひ知りぬる」を採られた、と。

 ほのかにも知らせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を  後朱雀院

後拾遺集、恋一。
寛弘6年(1009)-寛徳2年(1045)。一条天皇の第三皇子、母は藤原道長の女・彰子、子に親仁親王(後の後冷泉帝)や尊仁親王(後の後三条帝)。関白頼通の養女嫄子を中宮とする。病のため譲位した後、37歳にて崩御する。後拾遺集初出、勅撰入集9首。
邦雄曰く、靉靆という文字を三十一音に歌い変えたような、捉えどころもなく核心も掴み得ぬ、そのくせ麗しい春の相聞歌。暗い運命を暗示する趣もあり、忘れがたい作、と。
靉靆(アイタイ)-雲や霞がたなびくように辺りをおおっているさま。

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March 23, 2006

あかなくの心をおきて‥‥

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-今日の独言- センバツの甲子園

 WBCでの王ジャパン優勝で湧き上がったかと思えば、高校野球の春のセンバツがもう始まっている。出場校32校のうち初出場が12校というせいか初めて眼にするような校名が多いのに少し驚かされる。センバツにしろ夏の大会にしろ、高校野球のTV中継なぞもう長い間ろくに見たことがないから、出場校一覧を眺めても、どの学校が強いのやら前評判のほども知らずまったく見当がつかない。
 そういえば「甲子園」というのはなにも高校野球にかぎらず、いろんな催しに冠せられるようになって久しいようだ。高校生たちによる全国規模の競合ものならなんでも「~甲子園」とネーミングされる。これもいつ頃からの流行りなのかは寡聞にしてよく知らないが、そういう風潮がやたらひろがっていくなかで、本家本元・高校野球の甲子園が相対的に色褪せてきたようにも思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-28>
 笛の音は澄みぬなれども吹く風になべても霞む春の空かな
                                    藤原高遠

大弐高遠集。
天暦3年(949)-長和2年(1013)、清慎公藤原実頼の孫、参議斉敏の子、藤原公任とは従兄弟。管弦にもすぐれ、一条天皇の笛の師であったという故事が枕草子に覗える。
邦雄曰く、朧夜に銀線を引くように、笛の音が澄みわたる。春歌にはめずらしい趣向である。道長の女彰子が一条帝後宮に入る祝儀の屏風歌として詠まれた。家集400余首に秀作も少なくはない。勅撰入集は27首にのぼり、死後一世紀を経た後拾遺集に最も多い。

 あかなくの心をおきて見し世よりいくとせ春のあけぼのの空
                                   下冷泉政為

碧玉集、春、春曙。
文安2年(1445)-大永3年(1523)、藤原氏北家長家流。御子左家の末裔。権大納言持為の子、子に為孝。足利義政より政の字を贈られ政為に改名したという。
邦雄曰く、春に飽かぬ心、幾年を閲しても惜春の心は変わらず余波は尽きぬ。「見し世」と「見ぬ世」、過去と未生以前を意味する、簡潔で含蓄の多い歌言葉だ。下句、殊に第四句も「見し」を省いてただならぬ余情を醸す。冷泉家の歌風を伝える碧玉集は三玉集の一つ。上冷泉為廣・三条西実隆とともに15世紀の風潮を示し、彼の作は殊に鮮烈な調べをもつ、と。

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March 22, 2006

見渡せば山もと霞む水無瀬川‥‥

051127-112-1

-今日の独言- 11年前の3月20日

 昨日は、素人目から見ても穴だらけの奇妙なWBCシリーズで、幸運にも恵まれて決勝戦に勝ち残った王ジャパンがキューバを降してチャンプになった騒ぎ一色に塗りつぶされたような一日だった。もちろんケチをつける心算は毛頭ない。あのクールな野球エリートだったイチローが、これまで決して見せなかった熱いファイターぶりを、まるで野球小僧のように惜しげもなくTV画面一杯にくりひろげる姿は意外性に満ちて、それだけでも見ている価値は充分にあった。
3月21日のこの日が、第1回WBCを王ジャパンが制した記念日として球史に刻まれることは喜ばしいことにはちがいないし、イチローを筆頭にこのシリーズの王ジャパンの活躍ぶりが、とりわけ一昨年からゴタゴタの続く斜陽化した日本のプロ球界に大きなカンフル剤となったことだろう。

 ところで、11年前の1995年の一昨日(3/20)は、オウム真理教団による地下鉄サリン事件が凶行された日だった。ちょうどこの日も一昨日と同じように、日曜と春分の日に挟まれた、連休の谷間の月曜日だった
この無差別テロというべき事件の被害者60人余への聞書きで編集された村上春樹の「アンダーグランド」を読みはじめたのは昨年の暮れ頃だったのだが、なにしろ文庫版で二段組777頁という大部のこと、折々の短い空白時を見つけては読み継ぐといった調子で、やっと読了したのは一週間ほど前だ。
本書のインタビューは事件発生の翌年の1月から丸一年かけて行われたらしい。被害者総数は公式の発表ではおよそ3800人とされているが、そのうち氏名の判明している700人のリストからどうやら身元を確定できたのは二割の140人余り。この人たちに逐一電話連絡を取り取材を申し込むという形で、承諾が得られインタビューの成立したのが62人だったという。
眼に見えぬサリンという凶器による後遺症やトラウマに今もなお苦しみ悩むそれぞれの日々の姿が縷々淡々と述べられているのだが、読む此方側がなにより揺さぶられるのは、彼ら被害者を襲う身体的な苦痛や心的障害がサリン被害によるものと、その因果関係を容易には特定できないということだ。このことは結果として被害者一人ひとりの心を二重に阻害し苦しめることになる。
本書を村上春樹がなぜ「アンダーグランド」と名付けたのかについては、彼自身がかなりの長文であとがきに書いているその問題意識から浮かび上がってくる。
「1995年の1月と3月に起こった<阪神大震災と地下鉄サリン事件>は、日本の戦後の歴史を画する、きわめて重い意味を持つ二つの悲劇であった。それらを通過する前と後とでは、日本人の意識のあり方が大きく違ってしまったといっても言い過ぎではないくらいの大きな出来事である。それらはおそらく一対のカタストロフとして、私たちの精神史を語る上で無視することのできない大きな里程標として残ることだろう。-略- それは偶然とはいえ、ちょうどバブル経済がはじけ、冷戦構造が終焉し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、日本という国家の有り方の根幹が厳しく問われている時期に、ぴたりと狙い済ましたようにやってきたのだ。この<圧倒的な暴力>、もちろんそれぞれの暴力の成り立ちはまったく異なっており、ひとつは不可避な天災であり、もう一つは人災=犯罪であるから、暴力という共通項で括ってしまうことに些かの無理はあるが、実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力の唐突さや理不尽さは、地震においてもサリン事件においても、不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。-略- 被害者たちに共通してある、自分の感じている怒りや憎しみをいったいどこへ向ければいいのか、その暴力の正確な<出所=マグマの位置>がいまだ明確に把握されないなかで、不条理なまま立ち尽くすしかない。-略- <震災とサリン事件>は、一つの強大な暴力の裏と表であるということもできるかもしれない。或いはその一つを、もう一つの結果的なメタファーであると捉えることができるかもしれない。それらはともに私たちの内部から-文字どおり足下の暗黒=地下(アンダーグランド)から-<悪夢>という形をとってどっと噴き出し、私たちの社会システムが内包している矛盾と弱点とを恐ろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対し、現実的にあまりに無力、無防備であったし、その出来事に対し機敏に効果的に対応することもできなかった。そこで明らかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な欠陥であり、出来事への敗退であった。我々が日常的に<共有イメージ>として所有していた(或いは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった、ということになるだろう。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-27>
 見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ
                                    後鳥羽院

新古今集、春上、男ども詩を作りて歌に合せ侍りしに、水郷春望。
水無瀬川-歌枕。山城と摂津の境、現在の大阪府島本町を流れる水無瀬川。
邦雄曰く、元久2年6月15日、五辻御所における元久詩歌合の時の作。「なにおもひけむ」の鷹揚な思い入れが、上句の縹渺たる眺めに映えて、帝王の調べを作った。二十歳の時の院初度百首にも「秋のみと誰思ひけむ春霞かすめる空の暮れかかるほど」があり、作者自身の先駆作品とみるべきか、と。

 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人  九條家良

衣笠前内大臣家良公集、雑、弘長百首。
浜名の橋-歌枕。遠江の国、静岡県浜名湖に架かる橋。
邦雄曰く、橋は霞に中断されて、旅人は、その霞を渡り継ぐ他はない。言葉の世界でのみ可能な虚無の渡橋とでも言おうか。浜名の橋は貞観4年に架けられた浜名湖と海を繋ぐ水路の橋。袂に橋本の駅あり、東海道の歌枕としていづれも名高い、と。

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March 20, 2006

春雨はふりにし人の‥‥

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-今日の独言- 結婚式の二次会パーティ

 昨夕(3/18)はしのつく雨の中を、いまどきの若いカップルには恒例化した結婚披露パーティなる集いに家族三人で出かけた。
正規の式・披露宴の後、友人たち中心に行われる二次会というやつである。会場は中之島のリーガロイヤルホテルの一階にあるナチュラルガーデン。
当の若いカップルとは連れ合いが習う琵琶の師匠のお嬢さんとそのお相手で、ともに26歳同士とか。彼女も幼い頃から門前の小僧で母親から琵琶の手ほどきを受け、すでに師範の資格を得ているから、連れ合いにとっては若くても大先輩の姉弟子となる。加えて師匠一家とは家族ぐるみのお付合いにも近いものがあるから、牛に引かれての類で私も出番と相成る訳だ。
会場の出席者を見渡したところ、どう見ても私一人が突出して年嵩だ。おそらく私が占める空間だけがなにやら異なる雰囲気を醸し出して、周囲にはさぞ怪訝なものに映っていたことだろう。
しかし、春にも似合わぬ冷たい雨に祟られたのも大いに加担したかもしれないが、祝い集った友人たちにも、いまひとつ浮き立つような晴れやかさなり若者特有の躍動ぶりが、些か欠けていたように私には感じられたのだが、この手のパーティも既にあまりに常態化している所為ではあるまいか。
だれもがエンターテイメント化した軽佻浮薄さのなかで、こういうパーティがある種の興奮や熱気に包まれ、出席者たちに一様に宴の後のカタルシスをもたらすには、かなりの企画力と演出力がスタッフたちに要求されようが、どうやらバレンタインの義理チョコめいた、そんなお付き合いにも似た仲間内での請け合いでお茶を濁しているというのが実態に近いようで、だとすればこの二次会パーティ流行りもそろそろ年貢の納め時だろう。

今月の購入本
 富岡多恵子「中勘助の恋」創元社
 辻惟雄「奇想の系譜」ちくま学芸文庫
 M.ブキャナン
  「複雑な世界、単純な法則-ネットワーク科学の最前線」草思社
 J.クリステヴァ「サムライたち」筑摩書房
 安東次男「花づとめ」講談社文芸文庫
 安東次男「与謝蕪村」講談社文庫
 久松潜一・他「建礼門院右京太夫集」岩波文庫

図書館からの借本
 加藤楸邨「一茶秀句」春秋社
 山口誓子「芭蕉秀句」春秋社
 安東次男「澱河歌の周辺」未来者
 椹木野衣「戦争と万博」美術出版社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-26>
 春雨はふりにし人の形見かもなげき萌えいづる心地こそすれ  道命

道命阿闍梨集、思ひにて、春頃、雨の降る日。
天延2年(974)-寛仁4年(1020)、大納言藤原道綱の子、兼家・道綱母の孫。13歳で比叡に入山、良源(慈恵)を師とし、後に阿闍梨となる。また天王寺別当に。和泉式部との浮名も伝わり、栄花物語・古事談・宇治拾遺・古今著聞集などに逸話を残す。
邦雄曰く、早春に我を偲べと降る涙雨、悲しい形見を亡き人は残していってくれたものだ。その春雨は、一度は収まっていた悲嘆さえも、また草木の芽が吹き出るように、むらむらと蘇ってくる。この歌、単なる機智ではない。出家らしい輪廻の説法でもない。薄れかけていた心の痛みが、ふとまた兆すことを独り言のように歌ったのだ。第四句が切ない、と。

 山の端はそこともわかぬ夕暮に霞を出づる春の夜の月  宗尊親王

玉葉集、春上、春月を。
邦雄曰く、窈窕ともいうべき春夜の眺め、新古今調とはまた趣を異にした、雲母引きの、曇り潤んだ修辞の妙は13世紀末のものであり、玉葉調の魁とも思われる。勅撰入集190首は歴代王朝の最高で、その技法も卓抜。玉葉・春上ではこの歌の次に、藤原定頼の秀歌「曇りなくさやけきよりもなかなかに霞める空の月をこそ思へ」が続く、と。

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March 18, 2006

春の苑くれないにほふ‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅥ<錯綜体としての心-身>

 すでに価値のヒエラルキーによるパースペクティヴは、意味のパースペクティヴであったが、コミュニケーションの発達は、空間のパースペクティヴを時間のパースペクティヴ(時間地図)によっておきかえ、さらに記号(シグナルやシンボル)のパースペクティヴへと移行させる。隔たりは距離によって示されると同時に、時間によっても、また記号によっても示される。計器運行する列車や飛行機やロケットの操縦者にとって空間は、一連の記号によって構成されている。これらもろもろのパースペクティヴは、たがいに入り組み、われわれは錯綜したパースペクティヴをたえず変換しながら行動する。
 射影幾何学的なパースペクティヴから解放されたわれわれは、数量化された量的空間のみならず、質的な意味空間のパースペクティヴを回復し、より自由な仕方で世界を秩序づけようとする。もちろんこの意味空間は、権威のヒエラルキーによる一義的な価値空間ではありえない。むしろパースペクティヴそのものが、新たな意味空間を出現させるような仕方で構成され、あるいは生成するのである。

 こうしてわれわれは、多次元のパースペクティヴが錯綜する多重の過程を一挙に生き、またつぎつぎとパースペクティヴを変換してゆく。この多次元的な世界の風景は、自己の風景にほかならない。それにもかかわらず世界が一次元的にみえるとすれば、それはあたかも運動体をとらえるストロボ写真のように、われわれがとびとびに特定のパースペクティヴを固定し、また同時にはたらいている他のパースペクティヴを抑圧するからである。実をいえば、この抑圧は自己の風景を抑圧することにほかならない。われわれが世界を恐れるとき、われわれは同時に自己を恐れているのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-25>
 春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ
                                    大伴家持

万葉集、巻十九、春の苑の桃李の花を眺めて作る二首。
邦雄曰く、天平勝宝二(750)年三月一日の歌。巻十九の冒頭に飾られた、艶麗無比の一首。絵画的な構図色彩の見事さ、感情を現す語を一切用いず、しかも歓びに溢れる。桃李を題材としているところは、明らかに監視の影響だろう。越中に赴任して四年目の春鮒の作品、と。

 水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくも思ほゆるかな  笠女郎

万葉集、巻八、春の相聞、大伴家持に贈る歌一首。
生没年未詳、笠氏は笠氏は吉備地方の豪族、備前笠国の国造。万葉集には大伴家持に贈った計29首の歌があり、家持が和した歌は2首。
邦雄曰く、潤みを帯びた黒緑色を鴨の羽にたぐへたのだろう、新鮮な色彩感覚。愛人の家持にも「水鳥の鴨羽の色の青馬を今日見る人はかぎりなしといふ」があるが、春山のほうが遥かに効果的だ。もっとも歌の真意は、掴みがたい男心に悩む、間接的な訴えだ。万葉期の緑は青と分かちがたく鈍色・灰色をも併せて青と呼んでいたようだ、と。

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March 17, 2006

玉かぎる夕さりくれば‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅤ<遠近法の変奏>

 歴史上にあらわれた遠近法は、権威への中心化にはじまり、個への視点の奪還をへて、多様な視点への変換可能性の自覚を生み、さらには反遠近法主義と現実の時空構造のシンボル的変容の発見にいたる。

 視点が個をこえた権威におかれるとき、権威が構成するのは、価値のヒエラルキーによる遠近法である。エジプト芸術やキリスト教芸術にしばしばみられるように、対象の大きさは、宗教的あるいは身分的な価値の尺度に応じて決定される。神や人間は、動物、植物あるいは家よりも大きくえがかれる。王、貴族、男は、より象徴的・記念碑的に、民衆や女は、より自然主義的に表現される。奥行きは価値の奥行きであって、空間の奥行きではない。それゆえ空間は平面化される。空間の奥行きは意味あるものとは考えられていないのである。

 視点が個におかれるとともに、近代的な遠近法が成立する。個-in-dividuumとは、それ以上分割しえない、ゆずることのできない主体である。この主体の認識能力の基本を理性とみなせば、射影幾何学的な線遠近法が成立する。線遠近法が成立するためには、空間は均質的・連続的でなければならない。主体の認識能力の基本を感覚におくならば、空気遠近法、色彩遠近法、ぼかしの遠近法などの体験的遠近法が成立する。ここでは空間は、非均質的・非連続的なものとしてあらわれる。画家はこの二つの遠近法のあいだで動揺する。絶対的空間にたいする理性的信と、体験的空間にたいする感覚的信徒の間で引き裂かれているからである。しかしその視点そのものは絶対的な一視点である。ゆずりえない個への確信は、その一視点に対して現れる実在の姿の真理性を確信させる。

 しかしゆずりえない個に対する信頼の喪失とともに、個は多数のなかの任意の個となる。視点は、たえず任意の地の一視点へとすべってゆき、相対的な多視点の遠近法(キュビスム、他)が、構成される。空間もまた均質の絶対空間とはみなされない。移行する相対的な多数の視点が対象の空間を構成する。ここではパースペクティヴは空間を構成するものとして自覚されている。そのことによってパースペクティヴは、対象の内的構成をあきらかにするはずであったが、事実は、対象の内的分解をあらわにしたかに見える。個の解体に相応して、対象も統一を失い、モザイク化する。微分的な分解は、対象の奥行きを失わせ、空間的構造を平面のうちに展開される一連の記号と化す。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-24>
 玉かぎる夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく  柿本人麿

万葉集、巻十、春の雑歌。
玉かぎる-夕・日・ほのか・岩垣渕などに掛かる枕詞。猟人(サツヒト)-サツはサチ(幸)と同語源といわれる。この歌では弓月が嶽を誘い出す枕詞化している。弓月(ユヅキ)が嶽-大和の国の歌枕。奈良県桜井市穴師の巻向山の峰。
邦雄曰く、きらめくような春宵、うるむ巻向山の峰。枕詞の「猟人の」が単なる修飾ではなくて、古代のハンターを髣髴させる。巻十春の雑歌冒頭は人麿の七首が連なる中に、「弓月が嶽」は抜群の眺め、と。

 を初瀬の花の盛りを見渡せば霞にまがふ嶺の白雪  藤原重家

千載集、春上、歌合し侍りける時、花の歌とて詠める。
大治3年(1128)-治承4年(1180)、六条藤家顕輔の子、兄は清輔、子に経家・有家ら。従三位太宰大弐に至る後、出家。清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継いだ名門。また詩文・管弦にも長じていたと伝えられる。
初瀬-泊瀬とも。大和の国の歌枕。奈良県桜井市初瀬町の地。
邦雄曰く、後撰集の詠み人知らず「菅原や伏見の暮に見渡せば霞にまがふを初瀬の山」の本歌取りだが、「花」を第二句に飾って、一段と優美にした。六条家歌風とは異なる新味あり、後に風雅集に、最も多く、七首入選したのも頷ける、と。

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March 15, 2006

散るをこそあはれと見しか‥‥

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-今日の独言- 西行忌

 建久元(1190)年2月16日、西行は河内の弘川寺で入寂した。時に73歳。
旧暦の2月16日は、新暦では今日3月15日にあたる。そういえば昨夜は満月、帰りの道すがら、東の空には大きなまんまるい月がかかっていた。
ところで入寂当時の1190年2月16日を新暦に読み換えると3月23日だったそうで、たとえ桜花爛漫といかないまでも、「花のしたにて春死なん」と詠ったように、ほぼその願いは叶えられ桜は相応に咲き誇っていたかもしれない。

以前に読んだ辻邦生の「西行花伝」では、その最終章に藤原俊成の遺した、
かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に
願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
かくよみたりしを、をかしく見たまえしほどに
つひにきさらぎ十六日、望の日をはりとげけること
いとあはれにありがたくおぼえて、物に書きつけ侍る
願ひおきし花のしたにてをはりけり蓮の上もたがはざるらん
と献じた一文を引いたうえで、西行の一首
   仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
でこの大作の幕を閉じている。

西行忌は涅槃の日の15日とされているようだが、あれほど全国を旅し、各地にゆかりの寺も数多いけれど、特別の修忌を営まれることが聞かれないのも、西行の生きざまや詩精神が後世の人々によくよく浸透し、「花あれば西行の日と思ふべし」の心があまねくゆきわたっているからかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-23>
 散るをこそあはれと見しか梅の花はなや今年は人をしのばむ
                                     小大君

後拾遺集、雑三、世の中はかなかりける頃、梅の花を見て詠める。
邦雄曰く、人が散る花をあはれんだのは去年のこと、今年は梅の花がはかない人の世を追想してくれるだろうと詠う。次々と身辺に人が没したのであろう。後拾遺の巻頭が彼女の「いかに寝ておくる朝に言ふことぞ昨日を去年と今日を今年と」と、一捻りした諷刺の勝った作品は、小大君集にもあまた見られ、王朝の最も特色ある閨秀歌人の一人であろう、と。

 淡雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも
                                    駿河采女

万葉集、巻八、春の雑歌。
生没年、伝不詳。駿河より出仕した采女。
はだれに-まばらにはらはらと降るさま。
邦雄曰く、梅の花といわず、疑問のままで一首の終りをぼかしたところが心憎い。第四句までの24音で、泡のような雪の降るさまをまざまざと思い描かせておいて、結句で嘱目の花に移り、しかも明示しない。作者は他に一首見るのみの伝未詳の歌人だが、この春の雑歌では、志貴皇子や鏡王女に伍して、些かも遜色はない、と。

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March 14, 2006

聞くたびに勿来の関の名もつらし‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅣ<脱中心化と可逆性>

 視点の変換がくりかえされ、中心を移動する操作がかさねられるにつれて、身体図式にひずみが生じ、臨界点に達するとともに、ゲシュタルト・チェンジによって、身体図式が構成し直される。個々の中心化作用は、いわば身体的に反省された中心化作用としてしだいに中心化され、仮説的になる。パースペクティヴは特定の状況への癒着から解放され、可動性と可能性をもつようになる。
 このような脱中心化は、感覚・運動レヴェルでもすでにはじまっているが、それが仮設的性格をもっているかぎり、想像力や思考がはたらく表象レヴェルの統合に達して、はじめて十全に実現される。<いま-ここ-私>に中心化されつつ、<別の時-あそこ-もう一人の私(他者)>へと身を移すためには、私は想像によって表象的な経験をしなければならない。

 私の経験のなかで、<いま>と<別の時>、<ここ>と<あそこ>、<私>と<もう一人の私(他者)>が表象として保存されることによって、私のパースペクティヴは互換性を獲得し、経験は可逆的となる。私は知覚的にはここにとどまりつつ、表象の上ではあそこに身を移してみる。さきほどまで<私>はパースペクティヴの原点であったが、いまは転位した私のパースペクティヴのうちに配置された仮設的な対象(他者)となる。あそこはこことなり、ここはあそことなる。他者は私となり、私は他者となる。この中心移動が再度くりかえされると、さきほどの対象はふたたび私となり、表象的経験は知覚的経験とかさなる。これはまさに生きられた反省といえよう。中心化された知覚的経験としてのパースペクティヴは、非可逆的性格が強いのにたいして、脱中心化された表象的経験は可逆的性格をもつのである。

 しかしそれが経験をとおして把握されるかぎり、幾何学的遠近法のような可逆的な構図も非可逆的経験の地平の上に成立する。もしこの地平が拒否されれば、経験はもはや誰の経験でもない空虚な経験、現実化することのない空しい可能性となるであろう。このような現実とのかかわりを拒否した<疎隔された脱中心化>においては、対象は一つのパースペクティヴによって中心化されていないかわり、中心を失ってばらばらの存在となり、現実感覚と自己所属感が失われるのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-24>
 車より降りつる人よ眉ばかり扇のつまにすこし見えぬる  正廣

松下集、五、僅見恋。
応永19年(1412)-明応3年(1494)、近江源氏佐々木氏の一族で松下氏。幼くして出家、13歳より正徹に入門、正徹没後の招月庵を継承する。一条兼良・飛鳥井雅親・宗長らと親交。
邦雄曰く、この恋歌の淡彩の爽やかな簡潔さなど、現代短歌の中に交えても佳作としてとおる。事実、寛から迢空にいたる作品中にも同種の歌は散見できる。「怪しげに人もぞ見つる白紙に紛らかしつる袖の玉章は」は顕るる恋、諧謔をさりげなく含ませたところなど、珍しい恋歌である、と。

 聞くたびに勿来の関の名もつらし行きては帰る身に知られつつ
                                    後嵯峨院

新後撰集、恋三、實冶の百首の歌召しけるついでに、寄席恋。
勿来(なこそ)の関は、陸奥の国の歌枕、常陸の国と境を接する関所で、いわば化外の地と分かつ所であればこそ、来る勿れとの意から生まれた呼称。現在の福島県いわき市付近とされる。
邦雄曰く、来るなと禁止するその関の名、通っていくたびに冷たく拒まれて、すごすご帰る身には、まことに耳障りなつらい名ではある。六百番歌合の「寄関恋」では、須磨・門司・逢坂などが詠まれ、家隆が「頼めてもまだ越えぬ間は逢坂の関も勿来の心地こそすれ」と歌った。後嵯峨院は勅撰入集200首を越え、うち恋歌は30余首、いずれも趣きあり、と。

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March 13, 2006

いつとなく心空なるわが恋や‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅢ<自-他、変換可能性>

 ここでは物は、単に対象化された受動的な存在としてではなく、<能動-受動>的な存在としてあらわれる。物は、われわれによって把握されると同時に、われわれにたいして自己を表現するのである。日常の明瞭な意識の基底にあるこの深層のレヴェルでは、主体の秩序と物の秩序、私のパースペクティヴ展望と対象からのパースペクティヴ展望がみわけがたく交叉し、原初的な両義性のうちで、私は気づかぬままに。一方の秩序から他方の秩序へと、一方の展望から他方の展望へと移行する。われわれが電車の窓から外をながめるとき、また林の樹々のあいだをとおりぬけてゆくとき、私は私のパースペクティヴ遠近法で、前景、後景の移りゆく風景や樹々の配置をながめているが、ふと私は、向こうからのパースペクティヴ遠近法にとらえられ、配置されているのに気づくことがある。私の存在は、深層において主体から対他物存在へと転換し、私が風景をとらえるのではなく、私が風景によってとらえられ、樹をみつめている私は、いつしか樹にみつめられていることを発見する。

 このようなパースペクティヴの変換可能性は、私の対他者存在の把握に暗に含まれている主体としての他者の了解によって顕在化され、かつ内面化される。私のパースペクティヴは、原理的には、つねに別のパースペクティヴでもありうること、すなわち具体的な個々の知覚や行動は、いぜんとして<いま-ここ-私>に中心化されているが、同時にいまは別の時でもありうること、ここはよそでもありうること、私は別の私あるいは他者でもありうることが了解されるようになる。それはまた自己と他者の視点の交換可能性を自覚することによって、癒着的な自己中心性を脱却し、より脱中心化された自己を確立する過程でもある。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-23>
 なぐさめし月にも果ては音(ネ)をぞ泣く恋やむなしき空に満つらむ
                                      顕昭

続古今集、恋三、後京極摂政の家の百首の歌合に。
邦雄曰く、秀歌には乏しい六条家の論客顕昭の、一世一代の余情妖艶歌とも言えよう。俊成が「月にも果ては」と言へる、優なるべしと褒めている。だが、なによりも下句の虚空満恋の発想が、独特の拡がりと儚さに白々と霞む感あり、見事と讃えたい、と。

 いつとなく心空なるわが恋や富士の高嶺にかかる白雲  相模

後拾遺集、恋四、永承四年、内裏の歌合に詠める。
生没年不詳。一条天皇の長徳末・長保頃の出生か。源頼光がその父或は義父という。相模守大江公資と結婚し、別れた後は修子内親王に仕えたらしい。後拾遺集以下に45首。
邦雄曰く、十一世紀半ばの繊細になりまさる恋歌の作のなかで、悠々たる思いを空に放つかの調べは珍重に値しよう。古今集に「人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそわが身なりけれ」がある。相模の作は下句が即かず、やや離れてまさに虚空に浮かぶ感のあるところ、本歌を遥かに超えている。富士山と恋心の照応の超現実性は万葉写しか、と。

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March 12, 2006

今はとて別るる袖の涙こそ‥‥

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-今日の独言- 伝統工芸展の粋美と貧相と

 すでに旧聞に属することになってしまったが、先週の日曜日、稽古を終えてから、昨秋新装なった心斎橋そごうで開催されていた「日本伝統工芸展」を観に出かけた。友人の村上徹君(市岡17期)の木工漆器、おまけに草木染の志村ふくみの直弟子と聞く細君の染織と、夫妻揃っての出展と聞いては是非にも観ておかずばなるまいと思った訳だ。
出品数736点という壮観ぶりに大いに驚かされつつ堪能もした。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、そして諸工芸と七部に分けられていたことも、この分野に疎い私には成る程そういうものかと得心させられた。
一人一品という出展だから、全国から名工達人がこぞって出品しているということだろう。会場で手渡された出品目録によれば、重要無形文化財即ち人間国宝の手になる作品が41点を数える。念のためググって調べてみると伝統工芸関係の人間国宝は平成16年度時点では48件57人となっているから、その大半が出品している訳で、伝統の匠の高度な技芸が一堂に会していることにもなろうから、見応えのあること夥しいのだが、まことに悲しくも情けないと思われるのは、会場のあまりにも狭いこと。
一点々々を鑑賞するに充分な余白の空間がなく、どれを見ても視界には必ずいくつもの作品が眼に入り、上下左右、隣近所の質の異なる作品同士が競合しあっているといったありさまなのだ。これでは各々の作品の質、レベルの高さが泣こうというもので、主催には大阪府教育委員会や大阪市ゆとりとみどり振興局、NHK大阪局、朝日新聞社と名を連ねており、文化庁の後援というには、あまりに貧相でお粗末な展示ぶりで、この国の文化度は畢竟この程度かと、作品世界の質の高さと所狭しとばかり雑多に並べられた展示会場の不釣合いな落差に憤慨しつつも、一緒に行った連れ合いと顔を見合わせて思わず嘆息してしまったものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-22>
 今はとて別るる袖の涙こそ雲の上より落つる白珠  藤原元眞

元眞集、賀茂にて人に。
生没年未詳、10世紀中葉の人。甲斐守従五位下清邦の子、母は紀名虎の女、従五位下丹波介。年少より歌才を顕し、屏風歌を多く遺すも、勅選入集は遅れ、後撰集が初にて、計29首。三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、恋よりもむしろ別離に入れたいような凛然たる趣きも見える。類型に堕した作のひしめく平安朝恋歌の海の中に、まことにこの一首は、決して紛れぬ一顆の大粒の真珠さながらに光る。涙雨の換言にすぎないのだが、細々と訴えるのではなく、朗々たる歌の姿を保っているところが、いかにもめでたい、と。

 さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
                                    作者未詳

万葉集、巻十四、相聞、駿河国の歌。
邦雄曰く、逢うて寝た間はほんのたまゆら、玉の緒よりも短いのに、胸の中の騒立つ恋心は富士の鳴沢の音さながら。万葉風誇大表現の一パターンながら、二句切れの弾む調べと快く華やかな詞とが、鮮やかな印象を創り上げた、と。

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年も経ぬ祈る契りは‥‥

051127-075-1

<今日の発言> PCトラブルのご難

 先の日曜(3/5)の夜からずっとPC故障の災厄に見舞われていた。
HPを弄っていたらどう無理が祟ったか、まったく動かなくなった。
仕方なく再インストールを試みるも、これもいっかな受けつけてくれない。
どうやら素人の私などの手には負えない重症と観念して、専門医に救急治療を要請。
ドクター曰く、ハードディスクと冷却ファンの取替が必要との診断。
哀れ、PC本体はお預けの身と相成り、今夕ようやくご本懐あそばした次第にて、
ちょうど一週間ぶりのお目見えとなりました。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-21>
 天雲のはるばる見えし嶺よりも高くぞ君を思ひそめてし  元良親王

続千載集、恋一、女に遣はしける。
寛平2年(890)-天慶6年(943)。陽成天皇の第一皇子。和歌上手、風韻の聞こえ高く、徒然草や大和物語などに逸話を多く伝える。元良親王集は女性との贈答歌の多いことで異色の歌集。後撰集以下に20首。
邦雄曰く、第十五代集続千載・恋の巻首は、風流男(みやびを)として聞こえた元良親王の作。選者二条為世の見識であろう。雄大にして鮮明、晴々として実にほほえましい。音吐朗々たることで有名であったという親王の面影を彷彿させる、と。

 年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮  藤原定家

新古今集 恋二、摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに、祈恋。
邦雄曰く、六百番歌合きっての高名な作。恋の成就を祈願参籠したが験は現れぬままに満願、今宵も晩鐘は鳴り、よその恋人たちの逢う時刻。複雑極まる心境を圧縮して万感を余情にこめたところ、無類の技巧である。だが父・俊成は「心にこめて詞に確かならぬにや」と冷たくあしらい、定家の作をさほど認めていない、と。

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March 04, 2006

花の色も月の光りもおぼろにて‥‥

051129-041-1

-今日の独言- パースペクティヴⅡ<自己と二つの対他存在>

※以下は1月11日付<神とパースペクティヴと>と題して掲載した、市川浩著「現代芸術の地平」より抜粋引用した一文に続くものである。

 私の知覚や行動は、つねにいま-ここにある原点としての私に中心化されている。すべての知覚、すべての行動は、いま-ここ-私から発し、(いま-ここ-私)に貼りついた癒着的パースペクティヴのもとにある。生体は、自己を中心にして価値づけられ、意味づけられた世界をもつ。
 それは私の知覚・行動・思考に、私の知覚、私の行動、私の思考という意味と感覚をあたえる基盤ではあるが、さしあたって<私>はまだ未分化である。<いま-ここ-私>は未分化のまま生きられているにすぎない。逆説的のようではあるが、この<中心化>が、<自己化>を達成するのは、視点の変換によってである。

 自己性は、他なるもの(他性)を介する私の対他存在の把握をとおして確立される。ふつう他性としてはたらくのは他者であり、私の対他者存在にほかならない。しかしふつういわれる意味でのこの対他存在の下層には、もう一つの意味での対他存在、すなわち他性を介するもう一つの原初的な自己把握である前人称的な対他物存在が潜在している。私が石にさわるとき、同時に私は石によってさわられているのであり、こうして私は、他なるものによって対象化された私の対他物存在を把握する。

 二つの対他存在は、幼児期には、おそらく未分化のまま把握されていたのであり、他者が分化するとともに、対他者存在としての自己が、より明瞭に把握されるようになったのであろう。しかし意識されることがまれであるとはいえ、対他物存在による世界との入り交いは、われわれの世界認識の基底に潜在する基本的な構造であり、世界の深みをさぐる鍵ともなるものでもある。それは、われわれと世界との親和と異和の深い繰り返しを形成する。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-22>
 おほかたの春の色香を思ひ寝の夢路は浅し梅の下風  後柏原天皇

柏玉和歌集、春上、祢覚梅風。
寛正5年(1464)-大永6年(1526)、後土御門天皇の第一皇子、応仁の乱後の都の荒廃、朝廷は財政逼迫の渦中で即位。連歌俳諧時代の和歌推進者であり、書道にも長けていた。
邦雄曰く、早春、既にたけなわの春を思い描き、おおよそは味わい尽しつつ眠りに落ちる。短い春夜に見る夢はたちまちに覚め、その覚めぎわに、清らかな梅の香が漂ってくる。珍しい四句切れ体言止め。御製集は秀歌に富み、三條西実隆の雪玉集、下冷泉政為の碧玉集とともに、和歌復興期の三集をなす、と。

 花の色も月の光りもおぼろにて里は梅津の春のあけぼの  他阿

他阿上人家集。
嘉禎3年(1237)-文保3年(1319)、他阿弥陀仏と号し、はじめ浄土宗の僧であったが、建治3年(1277)九州遊行中の一遍上人に入門。一遍に従って全国各地を遊行遍歴。一遍没後はその後継者として時宗第二祖となる。北陸・関東を中心に活動し、嘉元元年(1303)、相模国当麻山無量光寺に道場を開く。
梅津-山城の国の歌枕、桂川の左岸の荷揚げ地で、梅宮神社がある辺り。
邦雄曰く、平家物語にも「比は如月十日余りのことなれば、梅津の里の春風に、余所の匂ひもなつかしく」とあり、梅津は梅の名所であった。花の名は言わず地名でそれと知らせるあたり洒落ている。他阿は京極・冷泉両家とも交わり、作歌をもよくした、と。

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March 03, 2006

袖ふれば色までうつれ‥‥

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-今日の独言- 桃の節句のヒナ

 3月3日、桃の節句だというのにまたしても厳しい寒波にうち震えているが、それでも桜の開花予想は例年より各地とも一週間余り早いという、よくわからない気象異変。
中国の古い風俗に、3月上巳の日に、水辺に出て災厄を払う行事があり、これが曲水の宴となって、桃の酒を飲む風習を生んだ、という。
日本でもこの風習は早くから伝わったようで、天平勝宝2年(759)のこの日、大伴家持が越中の館で宴を開いて
  からびとも舟を浮かべて遊ぶとふ今日ぞわが背子花かづらせよ
                              -万葉集、巻十九
と歌っている。
また、日本固有の行事としては、巳の日の祓いと言って、人形-ヒトガタ(形代とも撫で物ともいわれる)-で身体を撫で、穢れを移して、川や海に流すという風習があったそうな。
「源氏物語」の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に人形を舟に乗せて流す場面が描かれている。
この祓いの道具である人形から転じて、宮廷貴族の雛遊びとしての美しく着飾った雛人形が登場してきたのだろうとされている。
このあたりの事情から想像を逞しくすれば、和語としての「ヒナ」は「雛」でもあり「鄙」でもあったのではないか、同じ根っこではなかったか、などと思えてくるのだが、真偽のほどは判らない。
 現在に至る華麗豪華な内裏雛のように坐り雛になったのは室町の時代からとか。やはりこれも中国から胡粉を塗って作る人形技術が伝わった所為だそうで、桃の節句の雛祭りは、端午の節句とともにだんだん盛大なものに形を変えて、今日まで受け継がれてきた。

  草の戸も住替る代ぞ雛の家   芭蕉
  とぼし灯の用意や雛の台所   千代女
  雛の影桃の影壁に重なりぬ   子規
  古雛を今めかしくぞ飾りける   虚子

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-21>
 袖ふれば色までうつれ紅の初花染にさける梅が枝  後嵯峨院

続拾遺集、春上、建長六年、三首の歌合に、梅。
歌意は、袖が触れれば、匂いばかりか色までも移し染めてくれ、紅の初花染めのごとく色鮮やかに咲いた梅よ。
邦雄曰く、珍しい紅梅詠。初花染めはその年の紅花の初花を用いた紅。重ね色目にも紅梅は古代から殊に好まれた。この歌、律動感に溢れ、袖振る人の面影まで顕つ。人か花、花か人、鮮麗の極を見せ、歴代の御製中でも秀歌の聞こえ高い一首、と。

 梅の花咲きおくれたる枝見ればわが身のみやは春によそなる
                                   守覚法親王

北院御室御集、春。
邦雄曰く、「なにとなく世の中すさま゛じくおぼゆるところ」云々の詞書あり、季節に後れたる梅、世にとりのこされる自らを侘びしむ歌であろうか。後白河院第二皇子、式子内親王には兄、後鳥羽院には叔父。仁和寺六世の法灯を継ぎ、新古今時代の有力な後援者であった、と。

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March 02, 2006

きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ‥‥

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-今日の独言- ガンさんこと岩田直二

 ガンさんこと岩田直二氏の晩年は、一見するところいかにも飄々とした好々爺で、親しみやすい面貌であったが、内面夜叉ともいうべき筋金入りの演劇人であり、戦前・戦後の関西新劇界を牽引してきた人である。
 彼自身が回想するところによると、芝居を専門的にはじめたのは昭和8年(1933)頃だという。おそらく旧制中学を出てまもない頃のことだろう。その後、昭和10年(1935)にはいくつかの劇団が合同して大阪協同劇団が生まれるが、彼もこれに参加している。
 日本の新劇運動の幕開けともいうべき画期は築地小劇場の誕生に擬せられるが、この成立には大正12年(1923)の関東大震災が深く関わっている。当時、ドイツ留学中の土方与志は震災の報を聞き急遽帰国、震災復興のため建築規制が緩められたことから、小山内薫とともに仮設の劇場建設を構想、劇場建設と劇団育成の二軸を立て、半年ほどで築地小劇場の開場までこぎつけた。大正13年(1924)6月のことである。千田是也や滝沢修をはじめ日本の新劇の水脈はほぼ築地小劇場より発するといっても過言ではない。
昭和3年(1928)12月に小山内薫が急逝、翌年には土方与志・丸山定夫・久保栄・山本安英・薄田研二らが新築地劇団を結成、残留組の築地小劇場とに分裂した。
 岩田直二は、’30年代後半の一時期上京し、新築地劇団の薄田研二宅に居候し、この劇団の芝居に出演もしているという。やがて戦時下体制のもとで、リアリズム演劇を標榜していた新協劇団や新築地劇団は強制解散され、大政翼賛会支配下の移動演劇隊活動となっていく。太平洋戦争も敗色濃厚となった昭和19年(1944)11月には、徴兵検査の丙種合格であった岩田直二までが召集され、ソ連軍に対面する東満州に服役している。
 終戦の昭和20年(1945)12月、東京では新劇合同公演として「桜の園」が上演されているが、関西や他地域では復興の足取りは重い。昭和22年(1947)、岩田直二演出でドフトエフスキーの「罪と罰」上演あたりが復興の狼煙か。翌23年(1948)には、土方与志を演出に招いて、合同公演「ロミオとジュリエット」を上演したのが復興期のメルクマールともいうべきものだつたろう。この時、岩田直二はロミオを演じ、ジュリエットには当時民芸の轟夕起子が客演した。
 昭和24年(1949)に発足した大阪労演は’50年代にその会員を着実に拡大していった。この観客組織の成長が専門劇団としての「関西芸術座」の誕生を促進する一助となったのは間違いあるまい。昭和32年(1957)、五月座・制作座・民衆劇場の三劇団が合同して関西芸術座が創立され、岩田直二は劇団の中軸として長年のあいだ演出を担当。晩年になって退団して後も、いろいろな劇団で演出や指導を行なってきた。
 岩田直二はその生涯にわたり関西新劇界のつねに中軸にあって牽引役を果たしてきた。その功を偲びつつ、ご冥福を祈りたい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-20>
 明けやすきなごりぞ惜しき春の夜の夢よりのちの梅のにほひは
                                     亀山院

亀山院御集、詠百首和歌、暁梅。
邦雄曰く、春夜はたちまちに明方を迎え、見果てぬ夢はなお名残りを止める。夢の中に聞いた人の袖の香はうすれつつ、そのまま薄明の梅の花の匂いにつづく。夢とうつつのおぼろな境を、至妙な修辞で再現した秀作である。亀山院は後嵯峨院の第三皇子、続古今集以下に106首、御集には300首余伝わり、その堂々たる調べは13世紀末の歌群に聳え立つ、と。

 きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ梅が香かすむ春のあけぼの
                                    宗尊親王

柳葉和歌集、弘長二年十一月、百首歌、梅。
仁治3年(1242)-文永11年(1274)、後嵯峨天皇の皇子、母は平棟基の女棟子、亀山院の異母兄。建長4年(1252)、執権北条時頼に請われ鎌倉幕府第6代将軍として鎌倉に下る。文永3年(1266)、謀反の嫌疑をかけられ京都に送還される。続古今集初出、最多入集。以下勅撰集に百九十首。
邦雄曰く、ほのかな光の中に漂うゆかしい香気は梅の花、否、先刻飽かぬ別れをした愛する人の衣の薫香の残り香であろうか。後朝の心も空の陶酔を裏に秘めた、まことに官能的な梅花詠。宗尊親王は後嵯峨院の第一皇子、鎌倉に将軍として迎えられるも、24歳にて京へ逐われ憂愁の日々を送る。一代の秀歌、実朝の塁を摩す、と。

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February 28, 2006

梅の花あかぬ色香もむかしにて‥‥

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-今日の独言- ギリヤーク尼ヶ崎と‥‥

 大道芸人として日本国内だけでなく世界各国も遍歴した孤高の舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎が、その若かりし頃、邦正美に舞踊を学んだという事実は意外性に富んでいてまことに興味深いものがある。
邦正美とはわが師・神澤和夫の先師であり、戦前にドイツへ留学、M.ヴィグマンに師事し、L.ラバンの舞踊芸術論や方法論を「創作舞踊」として戦後の日本に定着せしめた人であり、また「教育舞踊」として学校ダンス教育の方法論化をはかり、多くの教育課程の学生や現職体育教員に普及させた人である。

 ギリヤークの略歴をインタビュー記事などから要約すると、
1930年、北海道函館の和洋菓子屋の次男として生まれ、子どもの頃から器械体操が得意な少年として育ち、戦後初の国体では旧制中学4年の北海道の代表選手に選ばれたほどだという。映画俳優になりたくて51年に上京したが、強いお国訛りがことごとく映画会社のオーディションをパスさせなかったらしい。
その後、邦正美舞踊研究所で舞踊を学び、俳優の道をあきらめ、57年に創作舞踊家としてデビューしているが、折悪しくその頃、実家の菓子屋が倒産、東京生活を断念して帰郷する。3年ほど青森の大館で家の手伝いをしながら、大館神明社で創作舞踊を考案しながら過した、という。
ギリヤークの踊りに影響を与えたのは禅思想だ。「一瞬一瞬を生きていく」という鈴木大拙の思想を形にしたいと考え、踊りで表現したいと思った、と言っている。
大道芸人として路上パフォーマンスを誕生させた契機は、知遇を得た故宮本三郎画伯から「青空の下で踊ってみては」と言われたことに発する。踊りに専念しその道で喰うこと、それには細い一筋の道しかなかったのだろう。すでに38歳、人生の一大転換は68年のことだった。

 ところで、神澤和夫は1929年生れで、ギリヤークとは1歳しか違わず、まったく同時代人といっていいが、この二人が相前後して邦正美に師事しながら、その後それぞれに開いて見せた世界は反対の極に位置するほど対照的であり遠いところにあるかに見える。
神澤は先達の邦正美を通して、M.ヴィグマン、L.ラバンへと参入していき、自身をその系譜の正嫡たらしめんと厳密なまでに自己規定し、自らの表現世界を創出してきた。他方、ギリヤークにはかような自己規定も問題意識も皆無というほどに見あたらない。彼の自己規定は、その生涯をひたすら踊る人としてあること、彼の関心はこの一大事に尽きるように思われる。正統も異端もない、一所不在、漂白の芸能民としておのが舞踊を実存せしめた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-18>
 山城の淀の若薦かりにだに来ぬ人たのむわれぞはかなき
                                  詠み人知らず

古今集、恋五、題知らず。
若薦(わかごも)-若くしなやかなコモ。かりに-「刈りに」と「仮に」を懸けている。
邦雄曰く、眼を閉じれば、掛詞の淀の若薦の淡緑の葉が鮮やかに靡く、薦若ければ刈らず、故に仮初めにも訪れぬ恋人をあてにする儚さを歌う素材ながら、その彼方にまた、利鎌(とかま)を引っ提げて近づく初夏の若者の姿さへ彷彿とするところ、古今集の「詠み人知らず」恋歌のゆかしさであろう、と。

 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじ形見の春の夜の月  俊成女

新古今集。春上、千五百番歌合に。
邦雄曰く、新古今集の梅花詠16首中、艶麗な彼女の歌は、皮肉にも嘗ての夫、源通具の「梅の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」と並んでいる。人は変わったが梅も月も昔のままと懐かしむ趣き、言葉を尽くしてなほ余情を湛える。藤原俊成は孫娘の稀なる天分を愛でて養女とし、俊成女を名のらせた。後鳥羽院がもっとも目をかけた当代女流の一人であった、と。

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February 27, 2006

ひさかたの月夜を清み梅の花‥‥

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-今日の独言- 母と娘、それぞれ

 4歳のKは、一昨日、日々世話になっている保育園の生活発見会、いうならば昔の学芸会で、ようやく呪縛型緊張の壁を破った。
人見知りのやや過剰なKは、これまでこの手の催しでは、いざ本番となると一度も普段の稽古どおりにやれたことはなかった。父母たちが多勢集ったその雰囲気に呑まれてしまってか、まったく動けなくなるのが常だった。ハレやヨソイキの場面ともなると自閉気味に緊張の呪縛に取り憑かれたがごときに、固まるというか強張るというか、そんな心-身状態にきまって陥るばかりだったが、この日のKは違った。やっとその呪縛から自らを解き放つことができて、懸命にリズムをとりながら振りどおりに身体を動かしていた、いかにも必死の感がありありと見える体で。

 35歳のJは、2月のアルティ・ブヨウ・フェスと昨日の琵琶の会と踏破すべき山が連なり、それぞれ表現の個有性の課題に挑まざるを得なかったのではないか。
元来なにかと拘りは強いくせに意気地がない、些か分裂型の気質かと思える彼女だが、重なった二つの山は相互に作用したようで、表現の自律と自立、それは自ら能動的に自発的にしか獲得しえぬということが、これまではいくら頭で理解していても、自身の心-身はどこか消極的な振る舞いのうちに身を退いてしまうようなところがあったのだが、やっと彼女なりの<信>を得たのではないか。それは自ずと定まるところの課題の発見でもあるだろう。
今後さらに、彼女の<信>がそうそう揺るぎのないものへと強まっていくことを、見届けていきたいものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-17>
 ひさかたの月夜を清み梅の花心ひらけてわが思(も)える君  紀小鹿

万葉集、巻八、冬の相聞。
生没年未詳、紀朝臣鹿人の娘、安貴王の妻で、紀郎女とも、名を小鹿。万葉集巻四には夫・安貴王が罪に問われ離別する際に歌われたとされる「怨恨歌」がある。また天平12年(740)頃に家持と歌を贈答している。
邦雄曰く、梅の花は現実に咲き匂うその一枝であり同時に万葉少女の心を象徴する。「梅の花心ひらけて」の幼く潔い修辞が、まことに効果的であり、大伴駿河麿の「梅の花散らす冬風(あらし)の音のみに聞きし吾妹を見らくしよしも」と並んでいる。作者のなまえそのものが現代人には詩の香気を持っていて愉しい。「わが思へる君」で突然終る調べの初々しさも格別、と。

 冴えし夜の梢の霜の朝曇りかたへは霞むきさらぎの空  肖柏

春夢草、上、詠百首和歌、春二十首、余寒霜。
邦雄曰く、二月の霜、春寒料峭をそのまま歌にした感がある。名だたる連歌師ゆえに、この一首も上句・下句が発句・脇句の照応を見せ、それがねんごろな味わいを醸している。たとへば「梅薫風」題でも、「梅の花四方のにほひに春の風誘ふも迷ふあけぼのの空」と、第四句の独得の修辞など、一目で連句のはからいに近いことが判る、と。

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February 26, 2006

梅が香におどろかれつつ‥‥

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-今日の独言- 奇妙な集まり

 昨夜は市岡高校OB美術展の打上げ会。
例年のことだが、まずは午後3時頃から会場の現代画廊に出品者が三々五々集って搬出までの時間を懇親会よろしく歓談する。集ったメンバーは17期が他を圧倒して多い。やはりこの会の精神的な紐帯として彼らが中軸なのであり、辻正宏が17期で卒業したことと大きく関わっているのだ。
辻正宏が存命なあいだはこの会の生れる必然はなく、彼が故人となったときはじめて誕生した理由を今更ながら確認させられる。
この会はまったく不思議な集りだ。特定の思潮があるわけでもない。内容はおろか形式さえも多種多様、絵画にかぎらず、彫刻、工芸、書、デザイン、陶芸にいたるまでが、狭い画廊にてんでに居並んで奇妙な空間を生み出している。フリの訪問客がプロもアマを混在した自由な展示がおもしろいと語っていったという、そのことが含んでいる意味は深いところで本質を衝いているのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-16>
 梅が香におどろかれつつ春の夜の闇こそ人はあくがらしけれ
                                    和泉式部

千載集、春上、題知らず。
邦雄曰く、梅の香りを、それとも知らず、誰かの衣の薫香と錯覚して驚き、かつ誘われていく。闇なればこそ夢がある。月光の下では一眼で梅と知れよう。古今集「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」を逆手に取ったこの一首、出色の響きである。春の夜の闇は人を心もそらにさせるとは、婉曲でしかも艶な発想だ、と。

 鶯の花のねぐらにとまらずは夜深き声をいかで聞かまし  藤原顕輔

左京大夫顕輔卿集、大宮中納言の家の歌合に、鶯。
寛治4年(1090)-久寿2年(1155)、六条藤原家、顕季の三男、正三位左京大夫。藤原基俊没後、歌壇第一人者となり、崇徳院の院宣により「詞花集」を選進。金葉集初出。勅撰入集85首。
邦雄曰く、深夜に鳴く鶯の声を主題にした歌は珍しい。「花のねぐら」というあでやかな言葉に、コロラチュラ・ソプラノの「春鶯伝」を連想する。第三句と結句の、ややアクの強い修辞が、一首の味わいを濃くして、十二世紀半ば、金葉・詞花集時代の特徴を見せる、と。

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February 25, 2006

梅の花にほひをうつす袖のうへに‥‥

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-今日の独言- 「むめ」と「うめ」

 ぐっと冷え込むかと思えば、今日は気温も14℃まであがり、蕾も一気にほころぶほどの春の陽気だ。今日と明日で各地の梅だよりもぐんと加速するだろう。天満宮の梅は和歌山の南部梅林と同じく七分咲きとか。
ところで、歳時記などによれば、平安期以降、梅の表記は「うめ」と「むめ」が併用されていたようで、かの蕪村をして「あら、むつかしの仮名遣そやな」と歎かせたとある。「梅」一字では「mume-むめ」が本来のようで、「烏梅」とか「青梅」とか熟語となると、u-ウ音が際立ったらしい。
山本健吉によれば、承和年間(834-848)に、御所紫宸殿の前庭に橘と並んで植えられていた梅が枯れて、桜に変えられたという故事があるが、これは花に対する好尚が唐風から国風へと変化する一指標、とある。また、他説では、貴族社会はともかく、低層庶民は古来から桜を愛でていたともいわれるから、ようやくこの頃になって、唐風に倣うばかりの趣味志向から貴族たちも脱皮しはじめたにすぎないともいえそうだ。

  灰捨てて白梅うるむ垣根かな   凡兆
  二もとの梅に遅速を愛すかな   蕪村
  梅も一枝死者の仰臥の正しさよ   波郷

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-15>
 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも  大伴家持

万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌二首。
邦雄曰く、万葉巻十九中軸の、抒情歌の最高作として聞こえた三首の第一首。涙の膜を隔てて透かし視る春景色と言おうか。燻し銀の微粒子が、鶯の声にも纏わるような清廉な調べは、いつの日も心ある人を詩歌の故郷へ誘うことだろう。この折三十代前半の家持、夕霞の鶯は、彼の心象風景のなかで、現実以上に鮮やかな陰翳をもって生き、ひたに囀りつづけている、と。

 梅の花にほひをうつす袖のうへに軒洩る月の影ぞあらそふ
                                    藤原定家

新古今集、春上、百首歌奉りし時。
邦雄曰く、光と香が「あらそふ」とは、さすが定家の冴えわたった発想だ。天からは月光が軒の隙間を洩れて届く。樹からは梅花の芳香、それも薫香さながら衣に包を移す。伊勢物語「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」の本歌取り、と。

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February 24, 2006

ものおもへば心の春も知らぬ身に‥‥

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Infomation<奥村旭翠とびわの会>

-今日の独言- 筑前琵琶はいかが

 例年春の訪れを告げるように「奥村旭翠とびわの会」の演奏会が催される。
今年は明後日(2/26)の日曜日、会場はいつものごとく日本橋の国立文楽劇場小ホール。
筑前琵琶の奥村旭翠一門会といったところで、新参から中堅・ベテランまで十数名が順々に日頃の研鑽のほどをお披露目する。
旭翠さんは弟子の育成には頗る熱心であるばかりでなく指導も適切で弟子たちの上達も早い。琵琶は弾き語りだから演奏と詠唱の双方を同時にひとりでこなす訳だが、どちらかに偏らずきっちりと押さえていく。だから奏・唱バランスのとれた将来有望な人たちが育つ。
浄瑠璃の語り芸は70歳あたりから芸格も定まり一代の芸として追随を許さぬ本物の芸となると思われるが、琵琶の世界も同様だろう。
旭翠さんはまだ60歳前だが、彼女が教えることに極めて熱心なのはきちんと伝える作業の内に自身の修業があるとはっきり自覚しているからだ。そういう芸への姿勢をのみ私は信ずる。
 連れ合いは入門してから4年、まだまだ新参者の部類だ。それでも石の上にも三年というから、ようやく己が行く道の遥かにのびる果てが霧のなかにも茫と見えてきた頃であろうか。謂わば無我夢中の初歩段階から、やっと些かなりと自覚を有した初期段階へと入りつつあるのだと思う。
彼女がこの会で語るのは「湖水渡」。馬の名手と伝えられた戦国武将明智左馬之助が、秀吉軍の追手を逃れ、琵琶湖東岸粟津野の打出の浜から馬もろともに対岸の唐崎へとうち渡り、坂本城へと落ちのびたという講談にもある一節。唐崎にはこの伝に因んだ碑もあるが、もちろん史実ではなく語り物として伝えられてきた虚構の世界。
 当日の演奏会は17の演目が並び、11:30から16:30頃までたっぷり5時間。手習いおさらいの会だから入場は無料。時に聴き入り、時に心地よく居眠りを繰り返し、時間を過すのも年に一度なればまた一興。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-14>
 ものおもへば心の春も知らぬ身になに鶯の告げに来つらむ
                               建礼門院右京大夫

玉葉集、雑一、思ふこと侍りける頃、鶯の鳴くを聞きて。
生没年不詳。父藤原伊行(これゆき)は藤原の北家、伊尹流に属し、書は世尊寺の流れをひいた。「和漢朗詠集」の見事な写本がある。母は夕霧尼といい箏の名手。建礼門院(中宮徳子・清盛の娘に仕え、やがて重盛の二男資盛との悲運の恋に生きた。「建礼門院右京大夫集」は晩年、定家に選歌のため請われ提出したもの。
邦雄曰く、彼女にとって心の春とは、資盛に愛された二十代前半、平家全盛の日々であった。建礼門院右京大夫集では、この鶯は上巻の半ば、甘美な、そのくせ不安でほろ苦い恋の一齣として現れる。「春も知らぬ」とはむしろ反語に近かろう、と。

 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
                                   凡河内躬恒

古今集、春上、春の夜、梅の花を詠める。
生没年不詳。貫之とともに古今集時代の代表的歌人。古今集選者の一人。三十六歌仙。古今集以下に196首。
邦雄曰く、梅の花の芳香は闇といえども包み隠せるものならず、散文にすれば単なることわりに聞こえるが、歌の調べはうららかに、照り出るようや一首に変える。躬恒の天性の詩才でもあろう、と。

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February 23, 2006

思ふどちそことも知らず行き暮れぬ‥‥

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Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- ナンダヨ、コレ?

 国会議員の国庫負担率2/3というお手盛りの特権的な議員共済年金の廃止論が、昨年から巷間では喧しいほど議論の俎上に上ってきたが、その一方で、平成11年3月末で3232あった市町村が本年3月末時点で1822にまで減ずる平成大合併の結果、地方の市町村議員数も約6万人から3万8千人へと激減し、市町村議員たちの共済年金も平成20年度には積立金0となり完全に破綻するとされ、この救済のために特例として公費負担を増額する法的措置が、今国会で議決されようとしているそうな。既に自民党総務部会には了承されているその内容では、特例措置は15年間とし、その間の上乗せ国庫負担は計887億円に上るという。
 おいおい、ナンダヨ、コレ? さっさと国会議員のお手盛り議員年金を廃止するなり、せめて一般公務員並みにするなどして、地方議員の此方も右へ倣えとすればいいだけのことじゃないか。特例措置期間15年とし、この措置でさしあたり20年間は安泰というが、なんで20年先まで保証しなくちゃならないのか、どうにも納得いかないネェ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-13>
 思ふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯  藤原家隆

新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、野遊の心を。
歌意は、気の合った者同士がどことも定めず遊び歩いているうちに行き暮れてしまった。今宵はお前の花の宿を貸してくれ、野べの鶯よ。
邦雄曰く、古今集の素性法師「思ふどち春の山べにうち群れてそことも言わぬ旅寝してしが」の本歌取り。鶯への語りかけが、現代人には童話風で愉しい。素性は「野遊」を心に思い描いて終り、家隆はそれを実現して、更にまた、花の宿を求める、と。

 きさらぎや野べの梅が枝をりはへて袖にうつろふ春の淡雪  順徳院

紫禁和歌草、建保元年三月当座、野梅。
邦雄曰く、春たけなわの二月に季節はずれの雪。枝を長く延ばして咲き匂う梅に、人の袖に、ふりかかり、かつたちまち消え失せる。二月-衣更着の語感が鮮やかに伝わってくる。総歌数1300首近く秀作名唱を数多含む紫禁和歌草は建暦元年(1211)で、即位翌年の14歳。この梅花詠も翌々年頃の作で、驚くべき早熟の天才、と。

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February 22, 2006

谷に残るこぞの雪げの‥‥

051023-002-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- H.ホルン振付「ラーケンハル」を観て

 ドイツ・ダンスの新しい世代という触れ込みで、アルティ・ブヨウ・フェスの特別公演があった。ご招待いただけるというので折角の機会と観に出かけた。出演のフォルクヴァンク・ダンススタジオというカンパニーは何度も来日しているあのビナ・バウシェも’99年から芸術監督を務めるというチーム。
作品「ラーケンハル」とは織物倉庫の意味だそうな。ベルギーのフランドル地方といえば、ネロとパトラッシュの物語でお馴染みのフランダースの犬の舞台となったところだが、中世ヨーロッパでは織物業を中心に栄えた商業的先進地域であった。フランドル楽派と呼ばれるルネッサンス音楽を輩出するという時代を劃した伝統ある文化圏でもあったが、17世紀以降、近代国家化していく時代の波に翻弄され、ヨーロッパ各国の紛争のなかで支配と弾圧の蹂躙を受けつづけてきた。作品の主題とするところは、いわばフランドル地方のこういった歴史であり、この地域に生きつづけてきた人々のアイデンティティというべきか。

 上演時間は60分余り、巧みな構成は長過ぎるとも重過ぎるとも感じさせはしなかった。印象を一言でいえば、1920年代、30年代のドイツ表現主義、その良質な世界を鑑賞したという感覚。もちろんダンス・テクニックは現代の先端的な意匠が随処に散りばめられているのだが、シーンの割付や展開とその演出意図、その構成主義的ありようは、L.ラバンやM.ヴィグマンを輩出したドイツ表現主義とよく響きあっているのではないかと思われるのだ。私がダンスシーンに要請したい、各場面のなかで動きそのものの造形力がどんどん増幅し膨張していくという、そんな表現世界の創出には遠かったとしかいえない。私の勝手な造語で恐縮だが「レーゼドラマ・スケッチ」としての各場面がA.B.Cと連ねられていくだけだ。むろんそこにはドラマトゥルギィはあるのだが、劇的世界は舞踊の論理とはまた別次のことであり、その観点からの評価は舞踊の批評として対象の埒外にあるべき、というのが私のスタンスだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-12>
 谷に残る去年(こぞ)の雪げの古巣出て声よりかすむ春のうぐいす
                                    後鳥羽院

後鳥羽院御集、正治二年第二度御百首、鶯。
邦雄曰く、百首ことごとく青春二十歳の華。第四句「声よりかすむ」の水際立った秀句表現にも、怖いものなしの気負いが窺える。「梅が枝の梢をこむる霞よりこぼれて匂ふ鶯のこゑ」がこの歌に続き、同じく第四句が見せ所だ。言葉の華咲き競う13世紀劈頭の、爛漫の春を予告する帝王の、爽やかな歌、と。

 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛(ほ)しき児もがも
                                    大伴家持

万葉集、巻十八、宴席に雪月梅花を詠む歌一首。
邦雄曰く、酒席の趣向に即して創り上げた歌だから、雪月花に愛しい子まで添え、至れり尽くせりの結構づくめだ。祝儀を含めた挨拶の歌としてはまことにめでたい。花が梅ゆえに三者純白で統一され、さらに清麗な眺めとなった。古今集の物名歌と共通する一種の言語遊戯ながら、作者の詩魂を反映して格調は高い、と。

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February 21, 2006

春の夜のかぎりなるべしあひにあひて‥‥

051129-109-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 私の作業仮説

 これを書きつつあるいま、私の横では連れ合いが筑前琵琶の弾き語りを一心にしている。近く一門の年に一度のおさらい会ともいうべき公演が迫っているからだ。手は五弦を弾きつつ、その節にのせて語りの世界を表出する伝承芸能の琵琶は、その手も声も師匠の口移し口真似に終始してその芸は伝えられてゆく。

 芸術や芸能における方法論や技法を継承するということは、一般的には、その内懐に深く入り込んで、その内包するものすべてを洩らさず写し取るようにして為されるべきだろう。師資相承とか相伝とかいうものはそういう世界といえる。
だが、もう一つの道があるようにも思う。その懐から脱け出して、対抗論理を得て、その作業仮設のもとに為しうる場合もあるのではないか、ということだ。
このような営為は、ある意味では弁証法的な方法論に通じるのかもしれない。

 私が主宰する四方館では身体表現を基軸としており、それはもっぱらImprovisation-即興-をベースにしていることは先刻ご承知の向きもあろうかと思うが、その作業仮説について簡単に触れておきたい。
一言でいうならば、私がめざす即興表現の地平は蕉風俳諧の「連句」の如きありようにある。
この動機となる根拠を与えてくれたのは、もうずいぶん昔のことだが、安東次男氏の「芭蕉七部集評釈」という著書に偶々めぐりあったことから発している。
連句による「歌仙」を巻くには「連衆」という同好仲間が一堂に会して「座」を組む。その場合、たった二人の場合もあれば、五人、六人となる場合もある。実際、「猿蓑」などに代表される芭蕉七部集では二人から六人で座を組み歌仙が巻かれている。
さしあたり連衆の人数はどうあれ、発句の五七五に始まり、七七と脇句が打ち添えられ、第三句の五七五は相伴の位とされ、転調・変化をはかる、というように打ち連ね、初の折を表六句と裏十二句の十八句、名残りの折ともいわれる二の折は表十二句と裏六句の十八句、計三十六句で成り立つのが「歌仙」の形式で、四つの折からなる百韻連歌・連句の略式ということになる。
約束事はいくつかある。月の句は名残の裏を除く各折の表・裏に一つずつ計三句とされ、花の句は各折の裏に一つずつ計二句とされる。さらには春や秋の句は各々三句以上続け五句までとし、それに対して夏や冬の句は三句を限りとする、などである。
ざっとこのようにして、座に集った連衆が発句に始まり、丁々発止と即吟にて句を付け合い連ねて歌仙を巻くのだが、我々のImprovisation-即興による身体表象が表現世界として成り立つとすれば、この連句作法にも似た営為のうちにあるのではないか、連歌や連句の歌仙を成り立たしめる技法は我々の即興世界の方法論として換骨奪胎しうるのではないか、というのが私の作業仮説の出発点だったということである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-11>
 春の夜のかぎりなるべしあひにあひて月もおぼろに梅もかをれる
                                   木下長嘯子

挙白集、春、月前梅。
あひにあひて-合ひの強調用法、ぴったり合うこと、嵌まること。
邦雄曰く、春夜は梅に月、これを極限の美と見る宣言する。安土桃山末期に現れた突然変異的歌人長嘯子は若狭小浜の領主で、秀吉の北政所の甥にあたる武人であった。30歳頃世を捨てて京の東山あたりに隠棲、文に生きる。京極為兼や正徹に私淑した歌風は新鮮奔放、と。

 有明の月は涙にくもれども見し世に似たる梅が香ぞする
                                 後鳥羽院下野

新勅撰集、雑一、題知らず。
見し世に似たる-嘗ての在りし世、最愛の人と過したあの時にも似て、ほどの意か。
邦雄曰く、人生のとある春の日を回想して、消え残る月は涙にうるむ。「見し世」とは簡潔で底知れぬ深みを覗かせる歌語だ。後鳥羽院側近の筆頭、源家長の妻である下野は、歌才夫を凌ぎ、院遠島の後も歌合に詠草を奉った。「梅が香」は彼女の最良の歌の一つであろう、と。

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February 20, 2006

難波潟まだうら若き葦の葉を‥‥

051129-147-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 承前「市岡OB美術展」-梶野さんあれこれ

昨日はいつもの稽古のあと、夕刻近くになってから現代画廊へ行って、一日遅れの出品設営をした。会場には梶野さんはじめ、世話役の板井君(19期)他、馴染みの数名のOB諸君が居た。
そういえば過日、復活成った新創美展が京都市立美術館で開かれると案内を貰っていたのに、とうとう行けずじまいだったが、梶野さんの談によれば、会員も多勢集まりかなりの盛況だったらしい。
美術教師だった梶野さんは、昭和32年(1957)から58年(1983)まで市岡に在職していたというから、10期生から34期生あたりまでが、市岡の同じ空気のうちに同衾?していたことになる。
梶野さんの初担任が私のクラスで、しかもこちらは新入生だったから、私の市岡時代は彼流の放任主義が良くも悪くも大きく影を落とすことになる。ご念のいったことで2年まで梶野担任となったから、お蔭でずいぶん自由に振る舞わせていただいたし、懐かしい思い出はこの二年間に濃密に凝縮している。
梶野さんの父君が京都大学の著名な美学教授だったことを知ったのは、神澤さんに連れられて京都の下町にひつそりと佇むその父君宅へお邪魔したときだった。同じく京大教授だった井島勉の「美学」という小冊子を読みかじっていた頃だったろうか。遅まきながら近頃になって、梶野家が中世期より京の都で代々つづいた絵師だったか芸能の職能家系だったことを私に教えてくれたのは、博覧強記の谷田君(17期)だ。
私の手許にいまも残る、昭和37年(1967)2月の、神沢和夫第1回創作舞踊リサイタルの公演パンフは、梶野さんのデザインだ。彼曰く「あれは名作だ」と今でも自賛する自信作だが、たしかに当時の観念的抽象世界だった神沢作品によく沿いえた、と私にも思えるレイアウトだ。
神澤さんと梶野さん、市岡教員時代の先輩後輩だった二人のあいだには、当時、兄弟にも似た奇妙な友情が交錯し、惹き合うがゆえにまた反撥もし合う、そんな出来事がいろいろあっただろうし、二人のあいだの糸は、神沢さんと私のあいだに結ばれた糸とも縒れ合って、縺れた糸のつくるその模様は迷宮化つつもいつまでも風化することのない心象風景だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-10>
 難波潟まだうら若き葦の葉をいつかは舟の分けわびなし  藤原良経

秋篠月清集、十題百首、草部十首。
難波潟-摂津の国の歌枕、淀川河口をさす。
邦雄曰く、今はまだ幼い白緑の葦、初夏ともなれば茂りに茂り、人の丈を越え、淀川の舟も視界を遮られて、分け入り分け出るのに難渋するだろう、と未来の光景を幻に視る。「いつかは」には、春の三ヶ月、その歳月の彼方を思う溜息が籠る、と。

 君がため山田の沢に恵具採むと雪消の水に裳の裾濡れぬ
                                    作者不詳

万葉集、巻十、春の雑歌、雪を詠む。
恵具採(えぐつ)む-恵具はクワイのことでクログワイとされる。 雪消(ゆきげ)の水-雪解けの水。
邦雄曰く、黒慈姑(クロクワイ)を採りに、裾をからげて、氷雪をさりさりと踏んで沢に下りる人の、熱い息吹が伝わってくる。平安期の宮中行事となった若菜摘みより、万葉の鄙びた心尽しが新鮮で、生き生きと訴えてくる、と。

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February 19, 2006

雪のうちに春は来にけり‥‥

IchiokaOB2006

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun~2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー

-今日の独言- 市岡のOB美術展

 ‘98年、辻正宏一周忌の追悼企画からはじまった市岡高校OB美術展も、回を重ねて今年は8回目となるのだろうか。
とっくに人生の折り返しを過ぎたこの身には、年月は坂道を転がるごとく過ぎ去ってゆく。
彼の面影がちらりと脳裡をかすめば、途端に40年余りをスリップして、市岡時代のあれやこれやが甦ってくる。私の市岡とは、なによりも彼と出会った市岡であり、彼の存在がなければ、私の市岡は文字どおり高校時代の三年間を、卒業と同時に一冊のアルバムとして思い出の扉の内にあるがままだったろう。
彼の存在ゆえに私の市岡は、その扉も開け放たれたままに、折りにつけては40年余を一気に駆け戻り、踵を返してまた立ち戻る。思えばこの一年だって、そんな往還を何度したことか。
辻よ、君への追悼の集まりからはじまったこのOB展も、今はもうその俤もほとんどないにひとしい。この会はすでに何年も前から新しい歩みをはじめているが、それはそれでいいのだろうと思う。
けれど、だれかれと私が繋がっている部分、其処はやはり私の市岡そのままに、君はなお生きつづけている。
辻よ、私も去年につづいて、Video-Libraryを出すよ。なんでもありの市岡流だ。まあ、むろん梶野さん流でもある。でもこの参加の仕方も二度までだな。三度目はキツイだろうな、そう思うよ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-9>
 春風に下ゆく波のかず見えて残るともなき薄氷かな  藤原家隆

六百番歌合、春、春氷。
歌意は、春風が吹く頃ともなれば、氷の張った下を流れてゆく水にさざ波が立つ――その数が透けて見えるほどに、もうほとんど残っているともない薄氷よ。先例類歌に藤原俊成の「石ばしる水のしらたまかず見えて清滝川にすめる月かな」千載集所収がある。
邦雄曰く、玻璃状の氷、その一重下を奔る水流の透観。12世紀末、新古今成立前夜の、冴えわたった技巧の一典型、と。

 雪のうちに春は来にけり鶯の凍れる涙いまや溶くらむ  藤原高子

古今集、春上、二条の后の春のはじめの御歌。
承和9年(842)-延喜10年(910)、藤原冬嗣二男権中納言長良の息女、摂政良房の姪にあたる。9歳下の清和天皇の女御となり、貞明親王(後の陽成天皇)以下三人の子をなす。晩年、東光寺座主善祐との密通を理由に皇太后を廃されるという事件が伝えられる。また、「伊勢物語」によって流布された業平との恋物語もよく知られる。
邦雄曰く、「鶯の凍れる涙」とは、作者高子の運命を暗示する。業平との恋を隔てられて清和帝の後宮に入り、悲劇の帝陽成院を生み、盛りを過ぎてから東光寺僧との密通の廉で后位剥奪、宮中を追われる、というこの悲運の主人公の作と思えば、一首の鋭い響きは、肺腑を刺す。「いまや溶くらむ」と歌ったが、彼女の魂は生涯氷のままであったか、と。

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February 18, 2006

薄き濃き野べのみどりの若草に‥‥

051127-098-1

-今日の独言-  芭蕉と一茶

 和歌には本歌取りがあるが、俳句の場合も本歌取りに似て、先達の句の俤に発想を得て、寄り添いつつも転じるというか、趣向を変えてその人なりの新味を出している。
一茶について加藤楸邨の「一茶秀句」を読んでいると、芭蕉の句を本歌取りしている場合によく出くわして、その換骨奪胎ともいうべきか、芭蕉と一茶の対照がおもしろい。
眼につくままにその書よりいくつか挙げてみる。

  この道を人声帰る秋の暮  芭蕉
  また一人かけぬかれけり秋の暮  一茶

  夏衣いまだ虱をとりつくさず  芭蕉
  蓮の花虱を捨つるばかりなり  一茶

  まづたのむ椎の木もあり夏木立  芭蕉
  門の木もまづつつがなし夕涼み  一茶

  雲の峯いくつ崩れて月の山  芭蕉
  雲の峯見越し見越して安蘇煙  一茶

  藻にすだく白魚や取らば消えぬべき  芭蕉
  白魚の白きが中に青藻かな  一茶

  しほらしき名や小松吹く萩すすき  芭蕉
  手のとどく松に入り日や花すすき  一茶

  鞍壷に小坊主乗るや大根引き  芭蕉
  鞍壷にくくしつけたる雛(ひひな)かな  一茶

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-8>
 薄き濃き野べのみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え  宮内卿

新古今集、春上、千五百番歌合に、春歌。
邦雄曰く、増鏡の「おどろの下」には、千五百番歌合にこの歌を引っ提げて登場する天才少女と、彼女の発見者後鳥羽院の感動的な挿話が見える。薄墨と雪白と白緑の、六曲二双一架の大屏風絵の如く。微妙で大胆な着目と修辞は「若草の宮内卿」の呼称さえ生む、と。

 天の原あかねさし出づる光にはいづれの沼か冴え残るべき
                                    菅原道真

新古今集、雑下、日。
邦雄曰く、春到り、凍て返っていた沼がやがて解け初め緑の浮草を漂わす。あまねき陽光の下、氷を張りつめたままである筈があろうかと強い反語で問いかけるのは、太宰府へ左遷されて、なお宇多法皇の寵を頼む道真。氷はついに解けず、配所で失意のまま病死する。時に延喜3年(903)春2月。新古今集の雑歌下は、巻頭から続いて12首、道真の哀訴の歌で占められる、と。

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February 16, 2006

握りしめる手に手のあかぎれ

051129-113-1
Shihohkan HPへLink

ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評-3>

-第3夜- 2/12 Sun 
◇The Wheel of Life -small tales,inspired by “ZEN”
                 -25分    -Oginos&CORE-兵庫
  構成・演出・振付・音楽・照明Plan:荻野祐史
  出演:鈴木桂 東良沙恵 上川未友 窪田郁音 平屋江梨 
      亀坂祐美子 西香澄
Message “The Wheel of Life” 2006公演予定
      2月 DancePartDigest版 at 兵庫県立芸術文化センター
      2月 shortVersion初演 at 京都府立府民ホール
      8月 Full Length, World Premiere in UK
      12月 Video Installation in Germany

<寸評> 作品のタイトルを「輪廻転生」と解すればよいのかどうかは作者に確認したわけではないので判らない。専門は数学だという作者の、バレエのポジョショニングを基礎に、モダンテクニックで身体の分節化を為し、ラバン・コノテーションを架橋するという、自身の観念上に描かれた方法論が、現実の舞台から見えた印象をできうる限り深読みするにしても、舞踊における可能態としてありうるかどうかは今のところ不明としかいいようがない。
 中学二年生(14歳か)を最年長とする少女たちのユニセックスな身体が、一定の抑制を働かせつつ現前される動きに、ある種の観念の欠片のごときものを感じうるとしても、その体内に深く潜む生命の炎は、鋼鉄の器のなかの燠火のように、固く閉ざされたままだ。’60年前後の多場面形式の報告劇を想い出させるような、短い場面が一節ごとにピリオドを打たれ、点々と繋がれていく構成は、観念の数珠繋ぎにも似ていようか。
 カンパニー結成から10年を経るというに、踊り手たちが未だ少女のままだというのも解せないけれど、やがて彼女たちが否応もなく大人の女としての性的身体を具えてきた時に、彼女らの体内に潜む燠火は、この観念上の方法論を喰い破ってまで、見事な灰神楽を巻き起こすのだろうか。それとも一人ひとりただ静かにその場を立ち去ってゆくのだろうか。

◇ここはわたしの家
                    -18分    -河合美智子-兵庫
  振付:河合美智子
  出演:宮澤由紀子 長井久恵 井上朝美 林かつら 佐野和子
      藤原慶子 河合美智子
Message 緑の草原を、赤に塗ったのは誰
     広い大地を、悲しみに塗ったのは誰
     強い風が、恐れと怒りを運んで
     そして明日を奪っていった

<寸評> この振付者は、動きのcompositionにおいては達者な人と見受ける。多要素を孕みつつ群の動きが2分30秒ほどだが、増幅させつつ展開されていたのは、収穫としたい。
 動きそのもので物が考えられることは、昨今の舞踊現象においては貴重なことだと思う。ところが、振付者自身にはどうやらその自覚はあまりないらしく、観念でイメージを喚起し、盛り沢山にイメージのコラージュを創っていこうとしている。上演18分のうちに12、3、或はそれ以上のシークエンスがあったのではないか。したがって此方は、観念のではなく、動きのイメージの数珠繋ぎとなる。
 達者な、動きのcompositionが、その造形力というか形成力というか、それらにおいてcontinuity-連続性-を獲得し、自身にとって未知の表現領域に歩み出されんことを、期待したい。

◇Sound of Sand    
           -23分   -a-core-dance arts-ニューヨーク
  構成・演出:Ayako Kurakake Yoko Heitami
  振付:Ayako Kurakake Iratxe Ansa Santesteban
  出演:Nohomi Barriuso Iratxe Ansa Santesteban 
      安東真理子 渡辺由美
Message  a-core-dance artsはニューヨークを拠点とするコラボレーション・ダンス・カンパニー。今回のコラボレーションはIratxe Ansa Santesteban、リオン・オペラ・バレエ、ナチョ・デュアート・カンパニーなどで、ダンサーとしてヨーロッパを中心に活躍中。この時代にこそ見つめなおしたミドルイーストの女性を共通テーマとした、彼女との共演となる。ダンサーは彼女のソロ作品も含め、ニューヨークよりNohomi Barriuso、東京より安東真理子・渡辺由美を招いている。

<寸評> ニューヨークからという遠来の、男性舞踊手も女性舞踊手も、よく鍛えこまれた肉体の魅力をいかんなく発揮していたし、それを讃美する客席の拍手も他を圧していた。
 構成は、東京からという女性二人のcontemporary・Danceをあいだに挟んで、男性のsoloと女性のsoloの三景。そのあいだの場面はいささか冗漫に流れた。異心同体か同心異体かは知らぬが、観念的イメージ先行のperformanceで既視感に満ちたものだ。
 さて私は、鍛えこまれた肉体の魅力、と書いた。鍛えこまれた肉体による動きの魅力とは、また少し異なるのではないかというのが、私の問題意識だ。彼らのPerformanceを肉体のダィナミズムと賞することはできても、動きのダィナミズムと賞するべきか、この点において疑問を呈しておきたい。肉体のダイナミズムと動きのそれと、その位相のズレは一見微妙な問題のようだが、彼我の隔たりは意外に大きく深いものだと、私などには思えるのだが‥‥。

◇PLANTATION
               -25分   -浜口慶子舞踊研究所-大阪
  構成・演出・振付:浜口慶子 衣装:伊東義輝
  出演:井下秀子 平山佳子 高島明子 森本裕子 石井与志子 
      中島友紀子 伊東卓家 デカルコ・マリー 中西朔
Message ~異界ざわめく
     道祖の神 わざや いかに~

<寸評> プロローグ冒頭の数十秒間は、即ち妖怪変化か魑魅魍魎か、彼ら一群の物の怪たちが姿をあらわす登場シーンは、奇抜な衣裳の効果もあってなかなかに魅力的だった。ところが群の動きが展開していくに及んで、その新鮮な驚きは掻き消されていく。
 昔からよく知るこの人の振付は、元来、あまりリズミカルなものではない。長所と欠点は裏腹なもので、かなり難しいことではあるが、群によるノン・リズミカルな動きの連鎖が、時に功を奏して、スケールの大きい表現を生み出すことがある。嘗て、そういえる作品をモノしたこともある作家だが、一昨年と今回、どちらもその地点からは遠く隔たっているのは寂しい。
 昨秋、一心寺シアターで演じられた作品を、時間制限のなかでコンパクトにまとめ変えたものというが、そのあたり整理の仕方も荒っぽいというか、大布を使った物の怪たちの大親分(文字通り大きかった)?の登場もアイデア倒れだろう。一群の物の怪たちの動きもまた精彩を欠いたものとしか映らなかったのは、再演に際して、新しく表象への課題を見出せないままに本番を迎えた所為かなどと思われるが、だとすればベテランの踊り手たちを多勢擁するチームらしくない後退ぶりだ。

◇フェルメール「眠る女」より-夢の中-
             25分?-佐々木敏恵テアトル・ド・バレエ-京都
  作・演出:前原和比古 振付:佐々木敏恵 
    バレエマスター:永井康孝 美術:大谷みどり
  出演:三浦美佐 水野英俊 永井康孝 浅田千穂 西村まり
Message 画家フェルメールの「眠る女」は興味深い。中央でうたた寝をしている女の有様は言うまでもなく、テーブルのワイングラスや布、奥の間に続く扉や光の情景など、見て楽しむには有り余る情報量だ。中でも、壁に掛かっている絵に描かれている(目を凝らしてみなければならないが)仮面の存在は非常に示唆的であり、作者の創作意図を空想するには格好の材料だ。今回のバレエ「夢の中」は、この偽りの寓意とされている仮面をヒントにして女の眠りの中に入り込んでみた。はたして聖女の見ている夢とは‥‥。

<寸評> Messageにあるように創作バレエの小品。画家と肖像画モデルの貴婦人、そして大きな絵の額縁の中に夏の夜の夢の妖精パックのごとき仮面をつけた男性と女性二人を配し、この道化たちが絡ん繰りなす男と女のコミカルな夢の中の物語。
 プロローグというより冒頭、一瞬だけ照らし出された、出演者紹介的なワンショットは洒落た演出。すべては貴婦人の夢の中の出来事か、はたまた画家もまた同時に見る夢の交錯か、単純なストーリィにみえて作者の仕掛けは意外にアイロニーたっぷりで複雑な心理劇ともみえる。
 その作者の仕掛けのなか、貴婦人と画家の動きも含めた表情性の、あまり豊かとはいえないこと、とりわけ画家役の踊り手からは、あまりうだつのあがらぬ朴訥を絵に描いたようなキャラクターしか見えてこず、演出が徹底されず曖昧なままに推移する。妖精パックよろしき仮面の男性の狂言廻しぶりだけが際立ち、客席の笑いを誘う。
 画家役の白いシャツとベージュのズボンというまことに地味な衣裳も、作・演出の深謀遠慮あってのことと思われるが、どうやらその狙いは空振りに終ったようで、客席まで届かない。後半繰り返しにも見えて長く感じてしまったのは、貴婦人と画家、この踊り手たちの芸質に、演出の狙いを咀嚼し表象しうる土壌の乏しきが所為だろう。

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February 15, 2006

石ばしる垂水の上のさ蕨の‥‥

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-今日の独言- 脳内汚染

 丁度1ヶ月前、大いに惹かれる書評を読んだ。毎日新聞1/15付「今週の本棚」、鹿島茂氏評の「脳内汚染」。
著者岡田尊司は精神科医だが、医療少年院勤務というから、多発する少年犯罪の苛酷な実態をまさに丸ごと受け止めている存在といえようか。
評者は本書について「日本が直面している社会現象、すなわち、キレやすい子供、不登校、学級崩壊、引きこもり、家庭内暴力、突発的殺人、動物虐待、大人の幼児化、ロリコンなど反社会的変態性欲者の増大、オタク、ニートなどあらゆるネガティヴな現象を作りだした犯人が誰であるかをかなりの精度で突き止めたと信じる」と説いている。
ではその犯人探しの元凶はといえば、コンピューター・ゲームとインターネット、とりわけネット・ゲームとなる。
これらのゲームは「脳内汚染」を進行させる元凶そのもの、というのが本書の結論だ。
ゲームをしていると脳内にドーパミンが大量に放出されて快感が引き起こされ、麻薬と同じような効果がもたらされる。つまりは、やめたくてもやめられなくなる。
本書によれば「毎日長時間にわたってゲームをすることは、麻薬や覚醒剤などへの依存、ギャンブル依存と変わらない依存を生む」のであり、ゲームはLSDやマリファナと同じような、それ以上に危険かもしれない麻薬的な作用を持つ「映像ドラッグ」だという訳である。
さらに戦慄すべきことは、「ゲーム漬けになった脳は薬物中毒の脳と同じように破壊され、元には戻らなくなる」というから、この警鐘の書が広く読まれなければならないと評者は熱くなるほどに記しているのも大いに肯ける話だ。

今月の購入本
 岡田尊司「脳内汚染」文藝春秋
 鴨下信一「誰も「戦後」を覚えていない」文春新書
 A・マアルーフ「アラブが見た十字軍」ちくま学芸文庫
 堀口大学「月下の一群」講談社文芸文庫
 塚本邦雄「世紀末の花伝書」文藝春秋

図書館から借本
 鹿嶋敬「雇用破壊-非正社員という生き方」岩波書店

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-7>
 石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になるにけるかも
                                  志貴皇子

万葉集、巻八、春の雑歌、よろこびの御歌一首。
生年未詳~霊亀2年(716)、天武天皇第7皇子、子に白壁王(光仁天皇)、湯原王など。名は芝基・施基・志紀とも表記されるが、万葉集では志貴に統一されている。万葉集に6首のみだが、いずれも秀歌として評され、万葉を代表する歌人の一人。
石(いは)ばしる垂水-岩にほとばしる滝、流れ落ちる水。
邦雄曰く、春の雑歌の巻頭第一首として聞こえる。草木の萌え出る嬉しさに、人生の春のときめくさえ感じられるのは、しぶきを上げる滝水の光と蕨の淡緑の、柔毛(にこげ)に包まれた芽がありありと浮かんでくるゆえであろう。作者代表歌の一つ。簡潔で意を盡した作風、と。

 粟津野の末黒の薄つのぐめば冬たちなづむ駒ぞいばゆる  静圓

後拾遺集、春上、春駒を詠める。
生没年未詳、11世紀の人、権僧正静圓、伝詳らかならず。
邦雄曰く、近江の粟津野も野火のあとにススキが芽吹く。春野の駒は季節の到来を告げていななく。この春駒の歌を詠んだ時、素性法師が幻に立ち現れ、「いみじくも好もしく感心に堪へず」と賞したという伝説がある、と。

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February 14, 2006

御飯のうまさほろほろこぼれ

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ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評-2>

-第2夜- 2/11 Sat 
◇片むすび-幽色の気配-      -23分
                     Idumi Dance Company-大阪
   作・構成・振付:山田いづみ 演出:西村文晴 音楽:梅木陽子
   出演:山田いづみ 梅木陽子
Message
 片むすびはグッバイの結びです。片方の紐を引くだけですぐ解ける。人の縁の結びも片方だけでおさらば出来れば、この世の中の半分の悩みは消えて無くなる。片むすびは小気味いい結びです。
 幽は心の底に誰しもが持っている気配の事です。人の心の絡み合いで疲れ果てた人の心に、ふと湧き上がる気配です。色という字は男と女の絡み合う姿を象形化した文字らしく、艶っぽいものです。-以下略-

<寸評> この舞い手と演奏者のコンビによるセッションはもう幾たび為されてきたのだろう。お互いに刺戟しあえる良い関係が続いてきたであろうことを窺がわせる舞台であったことは善しとしたい。
 屏風を9張使って舞台に配置、空間を限定した。無論、舞台機構を利用した段差の変化もあるが、それらによって動きはほとんど平行移動することとなった。
冒頭、下手寄りに配した演奏者の背後から、ゆっくり身を起こして現れる趣向は、演出として成功したが、見るべきはその前後4、5分のあたりまで、演奏者をもう一人の演者の位置にまで高めてしまった演出は、そのこと自体否定されるものではないが、男声と女声を畳みかけるように使い分けた、なかなか見事なVoice-Controlの表現力に、舞い手としての演者は脇方へと化してしまった。
 今日のこの演出を経て、舞い手・山田いづみは、自らをあらためてシテ方へと返り咲かせるべき方途を探り出さなければならない。

◇タバコ-TOBACCO     -25分
              Lee Hwa-Seok DANCE PROJECT-韓国
   構成・振付:Lee Hwa-Seok (大邱芸術大学教授) 
   演出:Mun Chi-Bin
   出演:Seo Seung-Hyo 他13名
Message 振付中心のダンスだけではなく、Balletを基本としてJazz、演劇的で、マイム的な要素も盛り込みながら21世紀に先立つDANCE COMPANYを目指す。今回の作品は現代に生きる人々の葛藤、そして現代社会の不条理を「Tobacco Story」に通して表現し、観客と共に考えたい。

<寸評> 大きいソファを使って群像を配する演出は80年代のダンスシーンでよく用いられた。Tobacco-喫煙行為-を象徴化し、現代文明の頽廃や病巣を浮かび上がらせようという演出の狙いは一応成功しているだろう。赤いヒールはブランドや高級品志向に走らされる大衆の、憧れのモノそのものの象徴だ。
 客席の反応は総じて良く成功した舞台といえるが、私などにはいずれの演出にも既視感がつきまとう。寺山修辞的世界の断片を垣間見るような場面もあったし、やはり80年代ダンスシーンのコラージュ的作品という印象から抜け切れない。

◇見えないつながり        -17分
                    木方今日子ダンスアート空間-岐阜
   構成・演出・振付:木方今日子
   出演:福田晴美 岩田純子 近藤千鶴 横山小百里 木方要
Message 希薄になってしまった人の心
      いつの間にか誰もいなくなってしまった

<寸評> 一言でいえば、かなり未成熟なダンス・コンポジションといった作品。
 舞台にはトラック競技のように白線が平行に何本か走っている。格差社会化が進む日本、その競争レースを勝ち抜こうと、挫折しかかったりなどギクシャクしながらも懸命に走りぬく、悲惨ともいうべき群像を描こうという狙いか。終幕、コース分けされた白線は、演者たちが白のガムテープで走るように床に貼り付けて、倍加される。いくら懸命に走っても、彼らの努力や精進には関係なく、さらに競争は激化したという訳だ。
 女子5名による構成だが、その動きは総じて音との相性もよくない。先述のような設定だから、動きはどこまでも、上手から下手への平行移動が主体となる。一度はそれを崩して波乱を招くような演出が必要だろうがそれもない。
 みんな共通に、衣裳の背中に貼り付けられた大きな×印は、お前たちは落ちこぼれだと社会から断を下されたサインらしいが、この演出もまったくいただけない。

◇砂時計                 -18分
                             うまさきせつこ-兵庫
   構成・演出・振付:うまさきせつこ 映像制作:界外純一
   出演:安藤あい 木村佳江 うまさきせつこ
Message
 砂のように時は流れ、風のように過ぎ去ってゆく。人の魂は時の集合体である。
 流れ過ぎ行く時にまつわる様々な想いを吸収し、魂は肉体を変えて生き続け膨らんでゆく。
 私は一粒の砂に過ぎず、時の流れに溶け込んで行くが、与ええ合い、影響しあう魂として小さな時をつくる。

<寸評> プロローグは舞台天井から糸のように果てしなく落下する砂が一条の光に照らし出されて幻想的な効果。砂時計に託された「時間の呪縛のうちにしか生きえぬ人としての存在」を表象する。
後半の中ほど、起承転結の転とみられる場面は映像を駆使。まず実際の砂時計が映し出され、ボール遊びをするまだ幼い女の子の黒いシルエットと重なり、やがては踊り手本人の現在の踊る姿へと変わり、映像のなかの動きと、同じ動きが踊り手によってなされ同時進行する。これもまた印象度は強く、作者の狙い通りの意味形成を為している。
 指摘しておかなければならない課題は、演出的に成功したプロローグから転の場面に至るまでの、ダンスシーンの形成力がまだかなり弱いという点だ。ダンスとは異なる表象でプロローグや転に値する場面づくりが印象度を強まれば強まるほど、それに拮抗しうるダンスシーンをもって対抗できなければならない、それがダンスを表現主体とすることを選び取った者の本来果たすべき仕事だと覚悟するべきだ。
本来あるべき研鑽を期待したい。

◇Ruby ~Memorial       -21分
                  舞うDance~Heidi S.Durning-京都
   構成・演出・振付:Heidi S.Durning
   音楽作曲:Jean-Francois Laporte
   出演:Heidi S.Durning
Message 大地と母への思い
       自然と命へささげる舞

<寸評> スイス人の父と日本人の母の間に生まれたという彼女は日本で育ったらしく、藤間流日舞の名取でもあり、現在京都精華大の教員を務める国際的に活躍するダンサーでもあるようだ。
作品は阪神大震災の犠牲者たちに捧げられたのレクイエム、それは母への祈りでもあるという。
白い打掛を羽織りその下には赤い襦袢が覗く。動きはどこまでも静、それとコントラストをなすように機械音と旋律がミキシングされた音世界は重く激しい。それは自然を破壊してやまない傲慢なまでの現代文明を表象してでもいるかのようだ。その音の支配下のなかで、舞い手はひたすら祈りを捧げているかのごとくどこまでも静かに動く。何かが起こるわけでもない、祈りの儀式にも似た世界。
 ひとつ大きな異和を感じぜざるを得なかったのは、冒頭近く、羽織っていた打掛を静かに床にひろげ、佇立しつつそれをしばし見つめたあと、あくまでそっとだがその打掛のうえに足を運び、両足で立ったことだ。それからは静かに安らぐかのように仰向けに寝たのだが、この打掛に足を乗せて立つという行為は、祈りの舞であればこそ、いくら虚構の表象世界としても許される所作ではないだろう。もし許容できうるとすれば、唯一、舞い手自身が神の御手に委ね捧げられた生贄としての身体、即ち生の否定としてある場合のみではないか。その視点からこの舞を観るとき、舞い手のありようはどこかギリシア的女神にも似ておおらかに過ぎ、神と人との境界を曖昧なままに揺れ動いているように見えるのだ。

◇Sou-Mon <相聞-Ⅲ>        -23分
                        四方館 Shihohkan-大阪
   構成:林田鉄 演奏:杉谷昌彦 衣裳:法月紀江
   出演:小嶺由貴 末永純子
Message
 われわれにとっての主題とは、身体的表象が<舞踊>へと転移しうる
 その発生の根拠をひたすら尋ねゆく螺旋様の道行きにすぎない。
 -定家恋歌三首-
    散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れてののちの花の形見に
    かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ
    年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ

<後口上> 自分たちが出品した作品を自ら評する訳にもいかないから、前口上ならぬ後口上として若干記しておくことにする。
 After-Talkでも触れたが、私は20年この方、Improvisation-即興-をもって作品として提出するを旨としてきた。その拠って立つ作業仮設は、一言でいえば、蕉風俳諧の「連句的手法」にある。私はこのことを安東次男氏の著書「芭蕉七部集」で学んだ。といっても私は詩人でもなく句作人でもない。ただ一介の動きでものを考える者にすぎないから、連歌や連句にあるように、座における蓮衆が丁々発止と即吟し一巻を成すありようを、身体の表象をもって為す表現世界へと換骨奪胎したいだけだ。
 私の師・神澤和夫は、邦正美に啓示を受け、M.ヴィグマン、L.ラバンへと深く回帰し、余人を許さぬ舞踊の世界を現出せしめた。少なくとも私はそう確信している。いわば私にとって神澤和夫が示しえた世界は「正風」なのである。その正風世界を私なりに継承したいと考えたとき、どんなに遠かろうと彼の採った方法論を内懐から反芻していくのが弟子たる者の王道であろうが、彼と私は師弟でありつつも同時代を呼吸する者として、現実にはよくあることだが、哀しいかな反撥しあう力学も強く働いてきたのも事実である。私は、彼の正風を真に継承するには、むしろ独自の対抗手段をもって為すべしと思い至ったところから、この作業仮設に邁進するしかない長い旅路へと歩みはじめたのだった。
 いま、この時点で、ささやかなりとも幾許かの確信をもって、この宣を記すことのできる僥倖を、多としたいと思う。

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春の色を飛火の野守たづぬれど‥‥

051127-029-1

-今日の独言- 寒心

 どの局だったか朝のワイドショーで、バレンタインデーは煩わしく迷惑派が圧倒的に多いというアンケートを紹介していた。ホワイトデーのお返し習慣も同様に煩わしいと考えているのが大多数、と。
それでも巷ではここぞとばかり、美装されたチョコは氾濫、飛び交っている。迷惑顔をしながら溜息まじりに、幾つもの義理チョコを買い求める図を想うと、深刻な格差社会が進んでいるというのに、ファッション化されてしまった風俗習慣はまことに根強いと、妙に感心させられる。イヤ、寒心というべきか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-6>
 春の色を飛火の野守たづぬれどふたばの若葉雪も消えあへず
                                    藤原定家

拾遺愚草、上、院初度百首。
飛火の-飛火野、大和の歌枕、古く春日野は現在よりかなり広い範囲を指し、飛火野はその一角で狭義の春日野、現在の奈良公園一帯か。野守-禁猟の野を守る番人のこと。
「春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日(いくか)ありて若菜摘みてし」古今集・詠み人知らずの本歌取り。
邦雄曰く、後鳥羽院に初めてその抜群の歌才を認められた38歳秋の院初度百首中の早春歌。本歌に対し、雪を描いて若菜の芽のさ緑を際立たせ、「飛火」には朱を連想させて「春の色」とした。字余りの初句・結句、野守のもどかしい心を反映させていると考えれば、更に面白かろう、と。

 水籠りに蘆のわかばや萌えぬらむ玉江の沼をあさる春駒
                                    藤原清輔

千載集、春上、崇徳院に百首の歌奉りける時、春駒の歌とて詠める。
長治元年(1104)-安元3年(1177)。顕輔の次男、重家・顕昭の兄。正四位下、太皇太后宮大進。藤原俊成と並び称され、二条院の勅を受けて続詞花集を選んだが、院崩御のため勅撰集にならず。奥義抄・袋草紙など多くの歌学書。千載集以下に94首。
水籠(みごも)りに-水中に隠れて、の意。玉江-本来は美しい入江の意味だが、越前の国や摂津の国の歌枕。この場合は「三島江の玉江」のように摂津の国とされる。
邦雄曰く、早春歌であり牧も近いから、淀の玉江がふさわしい。さ緑の蘆の芽を食む若駒、蹄にかかる浅瀬の濁り、絵になる一首、と。

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February 13, 2006

ほのぼのと春こそ空に来にけらし‥‥

051127-021-1
Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第3夜

 昨夕の京都は少し冷え込んでいた。車を京都御所の駐車場へ入れて、外に出たら冷気に包まれ、一瞬ブルッときた。
初日は5作品、二日目は6作品、そしてこの夜は5作品。前回の一昨年もそうだったが、玉石混交の三夜。観る者を魅了してやまぬ作品があったかといえば、それほどのものは皆無。この世にそんなものは滅多と出会えるものではない。
私自身への成果はといえば、ひとつの整理がつきそうだということだが、今後に照らしてこのことは大きい節目となるのかもしれない。いや、そう願いたいものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-5>
 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たみびく  後鳥羽院

新古今集、春上、春のはじめの歌。         邦雄曰く、新古今集独選の英帝。文武両道に秀で、殊に和歌は20歳の百首詠から抜群の天才振り。人麿「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」の本歌取り。はるばるとした第二句と、潔い三句切れによって、一首は王侯の風格を具え、立春歌としても二十一代集中屈指の作であろう、と。

 春風の吹くにもまさる涙かなわが水上に氷解くらし  藤原伊尹

新古今集、恋一、正月、雨降り風吹きける日、女に遣はしける。
延長2年(924)-天禄3年(972)。右大臣帥輔の長男、貞信公忠平の孫。28歳で和歌所別当となり後撰集選進を指揮。後に摂政、太政大臣。家集を一条摂政御集という。後撰集以下に37首。
邦雄曰く、正月の恋歌。悲しい恋の涙であろうが、春風につれて溢れまさり、それは心中の源の解氷ゆえと聞けば、むしろ浮き立つような趣きもある、と。

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風のなか米もらひに行く

051127-053-1
Shihohkan HPへLink

 アルティ・ブヨウ・フェスティバルの公募公演シリーズの三日間が昨夜無事終了した。
前回2004年開催と同様に、全演目を客席から観るという苦行にも似た喜悦?を自分に課した。決して私だけではないと思うが、よほどのことがないかぎり他人の舞台には接しないものだ。
例年5日間30団体の公募選抜公演に比して、今回3日間17団体(内、韓国古典舞踊は結果的に参加できず16団体)に絞り込まれた分、全体にどうだったのかといえば、作品世界の多様性という意味では些か寂しかった感は否めないが、かといって低調に終始したわけでもない。
今回の私の寸評はやや抽象的になってしまったきらいがあるので、直接作品に接しなかった人々にとっては、なにを意味しているのか解りにくい面があるだろうが、お許し願いたい。

ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評-1>

-第1夜- 2/10 Fri 

◇二つの岸辺~カルテット・ヴァージョン~
                    -セレノグラフィカ-京都
 構成・演出・振付:隅地茉歩 衣裳:高橋あきこ
 出演:阿比留修一 指村崇 二軒谷宏美 隅地茉歩
Message
 没頭できる話題の後は、しばらく黙ることもある。
 あいづちを打ちつつ、すき間を探す。
 誰かこの次、口火を切るか。

<寸評>
 作者はコンテンポラリーであれなんであれ既視感に満ちた表象世界からいかに遠ざかりうるかを試みたいらしい。いわばコンテンポラリーの破壊、ダンスの解体作業を行なっているかのごとき世界なのだが、破壊即ち創造とはいかない。破壊は創造への必要条件ではあろうが且つ十分条件ではないことを瞑すべしか。
作者言うところの、ダンスとは無縁な日常の「動作」というフィルターをかけたところから探し出され、紡がれる「身体操作」なるものは、そのフィルターゆえに日常性のなかにあふれるノイズをそのままにそこ-表象-に持ち込むことになる。ノイズを持ち込むなというのではない、ノイズに満ちた身体操作-動き-がありうるとすれば、それをしも日常的私語レベルから非日常的私語へと宙吊りにしなければなるまい。そのように止揚しうる仕掛けは構成や演出にあるのではない。動き-身体表象-そのものに仕掛けられなければならないのだ、と私は断定しておく。

◇Cnntacts ~ひととひととの間で起こること~
                    -MOVE ON-大阪
  構成・演出・振付:竹林典子
  出演:竹林典子 小平奈美子 大野由喜 竹中智子 池田愛 北野万里子 湊智恵美
Message
 Ⅰ.あふれる涙 Ⅱ.楽しいことも悲しいこともあるけれど‥やっぱり
 Ⅲ.you+one  Ⅳ.VOICE&VOICE
 Contacts 誰かに何かを伝え自らの生を実感する。
 ひととひととの間の空間で互いに感じあい存在していることを表現する。
 一人、二人、三人、複数の場合、どのように感じ、生を実感するであろうか。

<寸評>
 バレエテクニックを基礎においてよく訓練されているらしい個々の身体技法は、伸び伸びと素直で快いものであった。構成・演出も女性らしい発想のもとでよく整理されている。自転車とハシゴを使ったSCENE(Ⅱ)も、ステンレスコップとスプーンで音をかき鳴らしたSCENE(Ⅳ)も破綻なく巧みに処理されていた。
いわゆるソフィスティケートされたコンテンポラリー・ダンスとはいえようが、裏返せばお行儀のよい毒にも薬にもならない表現世界ということだ。これはもう作者自身の問題意識、人生観の深まり以外になす術はない。

◇蜜 -Bouche de miel, coeur de fiel-
                    -ビィ・ボディ・モダン-北海道
  構成・演出:坂見和子 振付:宮沢菜々子 伊勢谷朋子
  出演:宮沢菜々子 伊勢谷朋子
Message
 宮沢:どこが変なのかわからないと言われつつ、変な人だと言われつつ、変な人なんだと悩みつつ、どこが変なのか探しつつ、変な人を楽しみつつ、変な人が幻像するサプリメント
 伊勢谷:短大卒業後ジャズダンスと出会い、バレエ・HIP HOP・コンテンポラリー等、様々 なジャンルのダンスを学ぶ。踊ることに魅せられ続けて18年。現在、五感を駆使し身体表現する自己の可能性を模索中。

<寸評>
 副題の仏語の意味するところは「外面菩薩、内面夜叉」ほどのことらしいが、それを聞けばなおさらにこの作品の欠陥は構成・演出の責めに帰するところ大である。
象徴的な小道具として用いられた赤いトゥシューズへのA・B二人の拘りや争い、そして各々の自身内部の相克などが展開されるが、彼女らの身体表象にはバレエ・テクニックが微塵も見受けられず、モダンそのもの、それも心理的表象を前面に出した身体表現だから、小道具の象徴性には異和がつきまとい、ただの観念的裏付けに堕してしまうのだ。
甚だ辛辣ながら、幼児がごっこ遊びのなかでシンボリックなものの存在を無意識に了解していく過程があるが、その象徴遊びを大人がなぞったようなもので、それがなぞりであるだけに救いがたいというものだ。

◇道成寺~桜の中の清姫
                    -古澤侑峯-神奈川
  構成・演出・振付:古澤侑峯 美術:小松沙鬼 演奏:福本卓道 ヤススキー
  出演:古澤侑峯
Message
 「花の他には松ばかり 暮れそめて 鐘や響くらん」
見目良き僧を恋したうら若い清姫は、逃げてゆく僧を必死に追いかけました。行く手を阻む日高川を蛇体になって泳ぎきり、ついに道成寺の鐘を見つけ、蛇体を鐘に巻きつけて、中に隠れる僧もろとも炎を吐いて焼き尽くしてしまいました。やがて清姫は血に涙を流して去ってゆきました。後には桜が舞い散っておりました。幻想的な昔物語を、地唄舞と尺八に、アフリカンハープ、ギター、カリンバという取り合せで表現していきます。

<寸評>
 舞い手は地唄舞の人だという。構成を二部に分けた。前ジテと後ジテよろしく、前段は春や春幼な恋、恋する乙女清姫の心象風景、後段は衣裳も代えて、蛇身となって恋する男を追いかけ追いつめ、鐘巻き焼き尽くす。
尺八の演奏はなかなかのものと見えた。民俗楽器の奏者は中央奥と上下前の三台のSPで音場を動かしてゆくのだが、この工夫が煩く過剰。和洋の音のセッションとしてはかなり面白く聞けるが、此方を面白がっていると舞のほうが沈み込んでしまって際立つことがない。日舞特有の残心の技も重ねれど、音場に吸収されていくから、印象形成がない。展開する時間のなかで形成力がもがれるということはただひたすら間延びする羽目に陥ることだ。
形成力を削いだもう一つの原因は、舞い手が与えられた広い舞台空間をその広いままに埋めようとしたことだ。和洋に限らずsoloの舞踊たるもの、与えられた空間が広ければ広いほど、求心力を強め、上下方向の超越性へと向かわざるをえないのだが、その視点を欠いていたのではないか。

◇春の詩
              -Lee Jung-Ⅱ Ballet Company-韓国
  構成・演出・振付:Lee Jung-Ⅱ(啓明大学教授)
  出演:Lee Tae~Hyun 他9名
Message
 春の風は愛を運ぶ、心地よい風に包まれて愛の花が咲く
 春の風は愛を運ぶ、私の心も鮮やかな花の色に染めてゆく
 暖かい春の色に染めてゆく

<寸評>
 大邱の啓明大学で舞踊を学んだOBたちで構成されたカンパニーと聞く。作者はオーストラリアでバレエを学んだと。
4つの場面構成、音楽にJazz曲を使用していたのがシーンによって功罪半ばした。前半の1、2曲目ではプラス効果だが、後半の3、4曲目は曲調がハードで重く、振付と違和が大きく残りマイナス効果夥しい。振付はいかにも定番というしかないバレエである。音楽を目新しいものにしたからといって、振付に相応の工夫がなければ装いが新たになる道理もない。プリマドンナはじめ身体技術は一応の水準と見えるが、振付や技法は国際的レベルから遠く古色蒼然といったところか。

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February 12, 2006

夕月夜おぼつかなきを雲間より‥‥

051129-074-1
Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第2夜

 少し寒気が緩んだか、夕暮れ時の京都も底冷えの感はない。
Alti Buyoh Fes.第2夜のプログラムは6作品各々形式に特徴もありバラエティに富んだ内容で結果オーライ。
トリとなった我が演目にはカーテンコールの幕が上がると「ブラボー」と一声飛んだ。外人客が何人か居たから、そのなかの一人だろう。たった一人といえど大向こうから声が掛かったのはこの時だけだからよしとしよう。
市岡美術部OB連が若干名、同期の友人が2名、古い付き合いの顔ぶれだ。14期の中原氏夫妻は帰り際に「他のとまるでレベルが違うよ」と言って握手。晩年の神澤作品をよく知る二人だけにこの言葉はありがたい。
埼玉からわざわざ出向いてくれた友人と、近くで食事をして宿舎まで送って別れたら、もう日が変りかけていた。舞台を務めた母親に一日中付き合わされた幼な児は、よほどストレスが溜まっていたとみえて、車中で激しく愚図っていたが、ほどなくぐったりと沈没。
ふたりは顔を見合わせて、おつかれさん。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-20>
 夕月夜おぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか
                                    源実朝

金塊和歌集、恋、恋歌の中に。
邦雄曰く、源氏物語「花宴」の朧月夜内侍以来、あるいはそれ以前から、夕月に一目見た人への思慕は幾度繰り返されたか。実朝はその人のことに毫も触れず、「それかあらぬか」と問うて口を閉ざす。その訥弁の美しさゆえにこの歌は輝く、と。

 今来むと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月  源通具

新古今集、恋四、千五百番歌合に。
承安元年(1171)-安貞元年(1227)。村上源氏、内大臣源通親の二男、正二位大納言、藤原俊成女を妻としたが、後に幼帝土御門の乳母按察局を迎え、まもなく俊成女とは別居したとされる。後鳥羽院に新古今集撰者に任ぜられた。新古今集初出、17首。
邦雄曰く、約束では今すぐ行こうとのことであった。それも夢の中のこと、うつつにはもはや暁近く、月が残っているのみ、だがその月影は、あなたを見た夜そっくり。女人転身詠、幾分かは土御門家への挨拶も含んでいる、と。

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February 11, 2006

わが背子を大和へやるとさ夜ふけて‥‥

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-今日の独言- Alti Buyoh Fes. 第1夜

 夕刻近く単身京都へ。アルティ・ブヨウ・フェスの第1夜を観る。客席の淋しいのが明日は我が身かといささか気にかかる。
傾向も異なる5つのグループの作品を観るのは、いつものことながら芯が疲れる。アフタートークには新田博衛・上念省三と新参加の菘(すずな)あつこの三氏。相変わらず新田さんの舌鋒が冴えるが、全体的には話題も低調気味。
なんとか日が変らないうちに帰宅。遅い食事のあと講評書き作業。三夜まとめ他日あらためて掲載する。
今夜は我々も出演するが計6作品である。しかも出番はトリになつているから、客席の長時間にわたる心理的疲れが問題だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-19>
 わが背子を大和へやるとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし
                                    大伯皇女

万葉集、巻二、相聞。
斉明7年(661)-大宝元年(701)、大来皇女とも、天武天皇の皇女、大津皇子同母弟、13歳で伊勢斎宮。大津皇子謀反の疑いで賜死した朱鳥元年(686)11月、斎宮を辞して帰京。万葉集に残る6首の歌はすべて大津を思い偲んだ歌。
邦雄曰く、伊勢へと秘かに訪ねて来た弟大津に、継母持統の張る陰謀の網を、二人はひしひしと見に感じていたであろう。帰したくない、これが生き別れとなる予感に、恋人にも等しい姉は暗然と声を呑んで立ち盡す。「わが立ち濡れし」、この終ろうとして終らぬ結句にも、作者の心緒が濃く滲んでいる、と。

 暁の涙ばかりを形見にて別るる袖にしたふ月影  土御門院

続後撰集、恋三、後朝恋の心を。
建久6年(1195)-寛喜3年(1231)。後鳥羽院第一皇子、4歳で即位、16歳で皇太弟順徳院に譲位、承久の乱に関与することはなかったが、後鳥羽院が隠岐、順徳院が佐渡へ配流に及び、自ら配流を望んで土佐に遷幸、後に阿波に移り、37歳で崩御。続後撰集初出、勅撰入集154首。
邦雄曰く、後朝の悲しみを実に婉曲に、曲線的な詞の駆使で表現しおおせたところ、殊に「別るる袖にしたふ月影」あたりは見事な技倆である。弟順徳院の歌才の蔭に隠れた形だが、勅選入集は157首。承久の乱では父帝に従わなかった気骨、進んで流された阿波での崩御が痛ましい、と。

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February 10, 2006

暮れにけり天飛ぶ雲の往き来にも‥‥

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-今日の独言- 嗅覚と記憶

 嗅覚を刺激すれば記憶が鮮明に蘇らせることができるという。
人はだれでも、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚の五感を介し、なんらかの刺激をきっかけに、ふと遠い過去の記憶をまざまざと蘇らせているのだが、なかでも嗅覚による記憶の想起力は、他の感覚よりすぐれて強いらしいのだ。これを専門用語で「プルースト効果」と呼んでいるそうな。あの「失われた時を求めて」の作家プルーストに因んだ命名らしく、その作品中、マドレーヌを紅茶に浸し、その香りによって記憶が蘇ったという一節があるため、こう名付けられたそうである。
ある学者によれば、嗅覚によって想起される記憶はより情動的であり、また他の感覚によって想起される記憶よりも正確であるとも。この説、嗅覚の鋭敏さに人それぞれ個人差はあろうが、自身の経験に照らしても肯けそうな説ではある。
かほどに嗅覚による刺激が我々の脳にもたらす影響は大きく、癒し効果や睡眠導入、或は逆の覚醒効果にと、日常を香りによって演出するさまざまな商品開発が注目を集めているようだが、なかでも「アロマジュール」という商品は、PCとUSBで繋いで、いろんな香りをブレンドして楽しめるという装置とかで、NTTコミュニケーションズなどですでに販売されているというので、些か驚きもしたのだが、その商品の高価格設定にはさらに驚かされた次第である。

 ――参照:http://hotwired.goo.ne.jp/p-monkey/003/01/index.html
 http://www.coden-mall.ntt.com/shopping/shop/coden/category/category.aspx?category=53

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-18>
 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを
                                    石川郎女

万葉集、巻二、相聞。伝不詳。
邦雄曰く、天武帝に愛された大津皇子は、雄弁であり文武に秀でた堂々たる美丈夫として聞こえていた。才媛石川郎女はその愛人。彼の贈った恋歌「あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」に対する返歌であるが、鸚鵡返しに似つつ、緊張した美しい調べをもっておのが愛をも告白した、と。

 暮れにけり天飛ぶ雲の往き来にも今宵いかにと伝へしがな
                                    永福門院

風雅集、恋二、恋の歌とて。
邦雄曰く、初句切れ「暮れにけり」の太刀で斜にそいだような、きっぱりした調べが、まづ待恋の、常套的な湿潤性を拒んでいて快い。天を仰いで、雲の去来をうち眺め、今夜お越しになりますかと伝言して欲しい、とむしろその朗らかな口調は、他の歌群とは類を絶する。風雅集入集71首、そのうち恋は半数近い38首を占め、なかでもこの一首は抜群、と。

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February 09, 2006

宵の間にほのかに人を三日月の‥‥

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-今日の独言- 景気回復と雇用破壊

 少し古くなるが、毎日新聞1月15日付今週の本棚に、鹿嶋敬著「雇用破壊-非正社員という生き方」を紹介した中村達也氏の書評に、ずいぶん肯かせてくれるものが多かったので書き留めておきたい。
昨年の秋ごろから、政府も財界も景気の先行きに明るい兆しが見えてきたとし、現に株価の推移も上昇気運、加えて大手企業らは大幅増収益、今年の経済はほぼ順調に景気回復の軌道に乗るだろうとされているが、この景気回復の下支えには「雇用破壊」の蔓延的な進行があるというのが実相だ。
パートやアルバイト、さらに派遣社員や請負社員、これら非正社員の数は、この十年ほどの間に状況が激変、今や雇用者全体のほぼ1/3にまで膨らんでいるという。非正社員は正社員に比べてかなりの程度賃金が安いのは常識だが、男性正社員の時間当たり賃金に比べて、男性パートのそれはほぼ4割ほどであり、非正社員の比率が1%高まれば、企業の利益率が何%高まるかという興味深い統計が、本書で紹介されているそうな。
 雇用破壊をどこまでも進行させつつ景気回復を図っていくという日本経済の構造下、努力が報われることのない仕組みのなかで増えつづける若年フリーターが、どのような希望を見出すことができるのか。非正社員が、職業能力を蓄積することなしに漂流する先にある経済とは、果たしてどのようなものなのか。著者が投げかけるこの問いが、胸に突き刺さる、と評者は結んでいる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-17>
 夜半の月見ざらましかば絶えはてしその面影もまたはあらじを
                                    亀山院

亀山院御集、詠十首和歌、月驚絶恋。
邦雄曰く、なまじ深夜の月を見たばかりに、忘れていた嘗ての愛人をまた思い出してしまった。月さえ見なければ、あの面影も決して蘇りはしなかったろうにと悔いる。同集「月顧忍恋」には「曇りなくて忍び果つべき契りかはそらおそろしき月の光に」と歌い、作者の技巧は後嵯峨院譲りの奔放華麗な一面もある、と。

 宵の間にほのかに人を三日月のあかで入りにし影ぞ恋しき
                                    藤原為忠

金葉集、恋上、寄三日月恋を詠める。
生年不詳-保延二年(1136)。藤原知信の子。丹後守朝臣、想空と号す。大原三寂と謳われた寂超(為経)・寂念(為業)の・寂然(頼業)の父。常盤の里(現京都市右京区)に住み、藤原俊成や源頼政は歌仲間として親しく、家集に「為忠朝臣集」がある。
邦雄曰く、今一目見たい、暫くは隠れずに居てくれと願ったのに、その人はたちまち姿を消した。あたかも新月が宵のひとときだけしか見られないように。人を見、三日月を見たのか、その逆か。三日月はたんなる縁語であろう、と。

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February 08, 2006

雪もまだたえだえまよふ‥‥

060207-07
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-今日の独言- Rehearsal

 昨日(2/7)は、11日に迫ったアルティ・ブヨウ・フェス出演のリハーサル。阪神高速・名神を乗り継いで午後3時半、烏丸通に面した御所西横の京都府民ホールに着。
二年前とは違って楽屋は地下一階だった。リハの時間まで、出演者は衣装合せやメイクなどに専念すれど、私はすることもなく手持ち無沙汰。一時間ほどロビーの喫茶サロンにて読書。
6時10分、リハ開始。簡単に場当たりをしたあと、一気に踊り通す。所要時間23分弱でほぼ目算どおりだが、舞台全面をフラットにしているため下手ピアノ位置と舞踊空間の近接感がどうにも気にかかる。劇場スタッフには気の毒だが予定変更して、段差を付けることにする。間口8m×奥行7mの舞踊空間のみ周囲より25cmの浮き。僅かな段差のようだがこれで印象はずいぶんと異なるものなのだ。
今日のリハは照明のプランニングのためでもある。時間もあることだし、ならば一度ならず再度見せておいたほうがプランナーに対しても親切というもの。と云う訳で、再び通し稽古。二度目の所要時間は1分ほど短かった。あらましは想定しているし何度も合せ稽古をしてきているものの、演奏も即興なら踊り手も即興のことゆえ、どうしても一、二分は相前後するのは致し方ない。
踊り手については前半の10分ほどはほぼ及第点だが、後半は構想もイメージもなお掴みきれておらず不満が残る。必ずしも序破急という訳でもないのだが、三つのシーン設定のそれぞれの特徴あるいは質的な落差がいまだきわだってこない。アクセルを踏むにせよブレーキをかけるにせよ、よほど意識的にコントロールしなければならないのだが、頭ではわかっているつもりでも肉体を限界にまで酷使すればこそ、そのぎりぎりの弾みはついつい心象を裏切り単純化してしまうものなのだ。まったくどこまでも課題は尽きない‥‥。
タイムアウトは7時30分。楽屋へ戻って帰り支度をして8時にはホールにサヨナラ。帰路は1号線をひた走り。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-4>
 雪もまだたえだえまよふ草の上に霰みだれてかすむ春風  肖柏

春夢草、中、春上、早春。
邦雄曰く、雪・霰・霞・風が、若萌えの草生の上で、眼に見えぬ渦を巻く。言葉のみが創り出す早春の心象風景。「たえだえまよふ」に連歌師ならではの工夫を見る。牡丹を熱愛して庭に集め、またの名、牡丹花肖柏。家集春夢草二千余首には、師・宗祇を超えて新しく、照り翳りきわやかな作が残る、と。

 朝まだき霞やおもき松の葉は濡るるばかりの春の淡雪  心敬

十体和歌、有心体、春雪。
邦雄曰く、松の葉に積もる間もない春雪。黒緑の針葉からしたたる冷たい雫が眼に見えるようだ。目立たぬ二句切れ以外は各句あやうく繋がり、あたかも、松の葉の水滴の連なりと、そのかすかな響きを思わす。他に「残雪」題で、「山深み苔の雫の声ぞ添ふ梢の雪や春になるらむ」もある。第三句が見どころ、と。

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February 07, 2006

とけのこる石間の春の朝氷‥‥

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-今日の独言- 合縁奇縁なりや

 昨夕は、石田博個展のOpeningPartyにと出かける。
ひさしぶりに覗いたマサゴ画廊は、アレ、こんなに細長く狭い空間だったかと、感を狂わせられた。それほどに、壁面には絵画、テーブルには陶器が、ところ狭しと居並んでいた。
富山県久利須のスミヤキスト美谷君の幼馴染みのU君と一瞥以来の再会。神戸・原田の森ギャラリーでのパフォーマンス以来だったからちょうど二年ぶりか。あらためて石田君から引き合わせて貰わなければお互い気がつかなかった。席上、そのU君から紹介された建築士のI氏なる御仁、維新派の昔話が出るに及んで話題は空中戦のごとく飛び交う。勢いあまって、U君とI氏と三人で氷雨そぼ降る梅田界隈へと繰り出して呑み会となってしまった。
これも合縁奇縁というものか。それにしても人というものは我知らず見えない糸でつながっているものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-3>
 さやかなる日影も消たず春冴えてこまかに薄き庭の淡雪  正徹

草根集、二、永享二年正月二日の朝。
淡雪の積りようを「こまかに薄き」とねんごろに表現したのが見どころ。水墨の密画を見るような冷え侘びた景色だ。正徹は15世紀前半の傑出した歌人だが、二十一代集最後の新続古今集には、嫌われて一首も採られていない。だが、家集「草根集」には定家を憧憬してやまない詩魂と歌才が、ただならふ光を放っている、と。

 とけのこる石間の春の朝氷かげ見し水の月かあらぬか  貞常親王

後大通院殿御詠、春冰。
応永32年(1425)-文明6年(1474)、後崇光院の二男、後花園院の同母弟、後大通院は号、和歌を堯孝・飛鳥井雅世・雅親に学ぶ。
邦雄曰く、幻覚の朝氷。春まだ寒い寝覚めに見るあの鋭い光は、あるいは昨夜水に映っていた月ではないのか。「かげ見し水の月」で記憶を一瞬に照らし出す技量は見事。飛鳥井雅世に学んで出藍の誉れ高く、御詠は700余首残る、と。

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February 05, 2006

春も見る氷室のわたり気を寒み‥‥

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-今日の独言- 強制退去と国際バラ会議・緑化フェア

 大阪市が靱公園と大阪城公園のホームレスたちに強制退去を実施したのは先週の月曜日(1/30)だった。行政代執行法に基づいてのことだから、無論合法的処置ではある。また、昨年10月から12月にかけて、都合6回にわたり退去勧告と自立支援センター等への入所を勧めてきた経緯もあるから、市側にすれば已むに已まれぬ最終手段という訳だろう。
だが、それでもなお私などには割り切れない不快感が残る。いずれの公園も、5月の国際バラ会議、3月の緑化フェアと国際・国内イベントを控え、整備工事の日程が差し迫っての挙行という行政事情にもすんなりとは肯きがたいものを感じてしまう。
報道によれば、靭公園が17人分計16物件と大阪城公園が4人分計12物件とあった。それがどれほどの量感をなすかおよそ見当はつくつもりだが、あくまでも粘り強く勧告と説得を繰り返しつつ、その一方で粛々と整備工事を進めればよいではないか、と思うのは私ひとりだろうか。
だいいち、ホームレスたちのテントはこの二公園だけでなくあちらこちらになお山とあるのが現状だろう。かりに、大阪市の意志が、開催イベントのため外聞の悪い一切の恥部を排除したいというところにあるならば、そんな欺瞞に満ちた取り繕いはやめておけ、というのが私の意見だ。国際イベントであれなんであれ、たとえテント生活者の彼らの姿が、遠来の来園者たちの視界に曝されることになろうとも、それがこの街の現実の姿ならば致し方ないと腹を括ったほうが、よほど潔いというものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-2>
 なほ冴ゆる嵐は雪を吹きまぜて夕暮さむき春雨の空  永福門院

玉葉集、春上、春の御歌の中に。
邦雄曰く、こまやかに潤んだ丈高い調べは、名勅撰集の聞こえ高い玉葉を代表する歌風。朝からの雨が夕暮には雪混じりになり、春とはいえ身も心も震えるひととき、余寒への恨みが屈折した美を生み出す。14世紀に到って、古歌の不可思議が、このようないぶし銀の世界を見せる。

 春も見る氷室のわたり気を寒みこや栗栖野の雪のむら消え  源経信

大納言経信集、野外春雪。
氷室-冬に切り出した天然氷を夏まで貯えておくための穴倉。栗栖野-くるすの、山城の国の歌枕、京都市北区西賀茂の南辺りの野、栗野とも。
邦雄曰く、詩歌・管弦・有職に長じていた貴公子経信の技巧を尽した早春歌。氷室をまだまことの雪の残る早春に見る、総毛立つような冷やかさが第三句に簡潔に尽された珍しい春雪の歌、と。

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February 04, 2006

冬の夢のおどろきはつる曙に‥‥

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-今日の独言- 石田博、絵と陶器の個展

 陶芸家であり画家でもありつづける石田博が「大自然を臨書する」と銘打った個展をする。
来週の月曜(2/6)から11日(祝)まで、大阪は西天満、裁判所西横のマサゴ画廊にて。
 彼と私は同年だが、育ちも経歴も異なり、直接言葉を交し合うようになったのは40歳も過ぎてからである。ところが初めて会った時から、彼は私のことを子どもの頃からの愛称である「テッチャン」と呼んでいた。私がまだ二十歳前後の頃の舞台をいくつか観ていたというし、私は私で、親しいスタッフとして付き合ってきた仲間内のような友人に彼は深くつながっていたのである。お互い直接見知りあうことはなかったが、まったく同時期に京都で学生をしていたし、60年代という同じ時代を同じ環境で生きており、そこから派生する共有域は意外に深く濃密なものであり、お互い自分たちの背後に遠くひろがる共通の過去を蘇らせつつ、話を弾ませものだ。
 彼は長らく寝屋川高校の美術教員をしながら、地域の文化活動において仕掛け人の一人としてリーダー的存在であった。府の教員を辞して、陶芸家として専念するようになったのは十年余り前だろうか。彼は自分の作品を焼く釜にサン・イシドロ窯という耳慣れない名を冠せているが、その名の由来は、どうやら彼が昔、半年ほど滞在したというスペインに発するらしい。サン・イシドロとは自然や農耕の恵みに関して多くの奇跡をもたらしたという伝説の農業守護神であるという。また、スペインといえば闘牛だが、一番の権威ある著名なものがマドリッドのサン・イシドロ祭とのことで、成程、彼らしい名づけだと頷かされる。
 個展の案内ハガキに刷られていた写真の絵は唐古遺跡と但書きされている。
今なお陶芸と絵画の二河両道をゆく、驚くほどの繊細さと大胆さを併せもつ奇異なるアーティストである。
陶器と絵画の作品たちによるコラボレーションが、訪れる者たちにきっと後出「おどろきはつる曙」の効を発することだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
 春立ちぬ、またも強い寒波到来だが暦のうえではすでに春である。この頁も今日からは春の歌を採ってゆくことにしよう。

<春-1>
 冬の夢のおどろきはつる曙に春のうつつのまづ見ゆるかな
                                    藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、西洞隠士百首、春二十首。
西洞隠士とは摂政良経の雅号、他に、南海漁夫、式部史生秋篠月清、の号あり。おどろきはつる-眼を覚ますの意を有する。
邦雄曰く、新古今集仮名序作者、摂政良経20代の作。冬・春・夢・うつつの照応鮮やかに、迎春のときめきをうたった。だがこの春は必ずしも爛漫の時を暗示していないところに、作者の特徴あり、と。

 うつりにほふ雪の梢の朝日影いまこそ花の春はおぼゆれ  光厳院

光厳院御集、冬、朝雪。
邦雄曰く、「朝雪」、陽に照り映える雪景色に一瞬花盛りの頃の眺めを幻覚する。三句切れから「花」にかかるあたり、一首が淡紅を刷いたように匂い立つ。品位と陰翳を併せもつ歌風は出色、と。

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February 03, 2006

月もいかに須磨の関守ながむらむ‥‥

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-今日の独言- 禰舞多-ねぶた

 東北を旅したのはもう何年も前のこと。都合3回行ったがいずれも夏の旅。
下北半島の恐山から津軽の青森へと移動して、棟方志功の美術館を観て、ねぶた会館へも立ち寄った。ねぶた祭りは残念ながら青森では見られず、代わって秋田のねぶたを見ることができた。
その郷土のねぶたをいくつも板画に描いた棟方志功の一文がある。ねぶたの世界を伝えてあまりある彼ならではの表現だ。

 男も女もない。老いも若いもない。幼も稚もない。
そんなものは禰舞多(ねぶた)の世界にはネッからハッから無いにきまっているのだ。
――前にかぶさり、カブサリ、左面はなびき、ナビキ、右はしなだり、シナダリ、後ろはかなしい、カナシイ――。なんとも言えない。
禰舞多は春-右面、夏-正面、秋-左面、冬-後面の宗教だ。禰舞多はそういう宗教になってしまった。
 そういう四季を連れづれにして運行連々されている。
春めき、夏めき、秋めき、冬になってこそ、禰舞多の魂ざらいがあるのだ。
 かぶさって重なるかぶさる正面があり、ほのぼのの左面があり、愁いの秋に深み、愛しい遠のいて行く冬裏があってこそ、禰舞多の身上なのだ。禰舞多の風流なのだ。
 何十挺の笛が、何台の太鼓が、出動全部の跳人の腰の鉦が、みんな鳴る。
吹く、打つ、叩くではなく、諸調子に鳴るのだ。
そういう、なんとも語り切れない本当の有様が遠ざかって行くのだ。
それを見送るというのか、見送らなくてはならない不思議なシーンとした、真空がなくてはならない。
地から、しのんで来るモノがこころにも身にも、沁み沁みして来るのだ。
淋しい、哀しいやり切れないいわゆる愛しい時、時だ。
真暗闇になったこの具戴天、足下からひろげられた倶跳地、その中間のただならない暗闇に、
あの禰舞多のうなりの様なオドロオドロが伝わって来る。
     ――棟方志功「ヨロコビノウタ」より

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-28>
 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ  柿本人麿

万葉集、巻三、雑歌。持統・文武朝の宮廷歌人。大和に生まれ石見国(島根県)に死んだといわれるが、詳らかにしない。万葉集に長歌18首、短歌約70首。人丸集があるが真偽の疑わしい歌も少なくない。
邦雄曰く、現代人がはっと眼を瞠るような新鮮さを感じるのは「夕波千鳥」なる一種の造語風歌詞であろう。簡潔でしかも溢れる情趣は言い尽くし難い味わい。「古-いにしえ」一語にも、天智帝大津宮の面影をこめている、と。

 月もいかに須磨の関守ながむらむ夢は千鳥の声にまかせて
                                    藤原家隆

壬二集、堀河院題百首、雑二十首、関。
邦雄曰く、須磨の関と千鳥も、源氏物語・須磨の「友千鳥もろ声に鳴く暁はひとり寝覚の床も頼もし」から、さまざまに詠われてきたが、家隆の新古今的技法を盡した一首は、すべての先蹤を捻じ伏せるかに妖艶である。初句6音の構えも、結句の断念に似た儚さも、ほとほと感に堪えぬ、と。

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February 02, 2006

名にし負はばいざ言問はむ‥‥

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-今日の独言- オドロイテモ

 ひさしぶりに棟方志功の言葉を引く。

アイシテモ、あいしきれない
オドロイテモ、おどろききれない
ヨロコンデモ、よろこびきれない
カナシンデモ、かなしみきれない
それが板画です
            ――棟方志功

愛、歓、悲、とともに、驚を用いるのがいかにも棟方らしい世界だ。
「オドロイテモ、おどろききれない」
この一行によって生命の躍動感は一気に強まり、
森羅万象ことごとく始原の交響楽を奏でる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-27>
 名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
                                    在原業平

古今集、羇旅。天長2年(825)-元慶4年(880)。阿保親王の第五子。行平の異母弟。母は桓武天皇の女伊登内親王。右近衞中将にいたる。伊勢物語の主人公に擬せられ、古今集以下に87首。六歌仙・三十六歌仙。
いわずと知れた伊勢物語第9段、隅田川渡しの場面。隅田川にはこの歌に因んだ言問橋が架かっている。都鳥はユリカモメ。
邦雄曰く、旅の順路をたどれば季節は夏になるが、都鳥は冬季のみの鳥、と。

 風ふけばよそになるみのかた思ひ思はぬ波に鳴く千鳥かな
                                    藤原秀能

新古今集、冬、詞書に、最勝四天王院の障子に、鳴海の浦かきたるところ。
鳴海の浦は尾張の国の歌枕、現在の名古屋市緑区鳴海町あたり。鳴海潟、鳴海の海などとも。
邦雄曰く、鳴海潟と「なる身の片思ひ」の懸詞は先蹤に乏しくはないが、畳みかけるように「思はぬ波に鳴く千鳥」を配したところ、その切迫した調べとともに、雌雄の千鳥が風に吹き分けられて、思いもかけぬ波間で、互いに恋い、鳴海潟を偲んで鳴き交わすという、絵には描けぬあはれが感じられる、と。

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February 01, 2006

山里はやもめ烏の鳴く声に‥‥

051129-195-1
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-今日の独言- ある印象批評

 Netの友、ある若い女性の書いた小説の原稿が送られてきた。作品は100枚ほどの短編。
批評というにはほど遠く、まあ読後の感想めいたものを書いてお返しとした。以下はその要旨。

 ずいぶん昔、中村真一郎だったか、小説作法についての本を読んだことがあるのを思い出した。
所謂、小説の構想の仕方、シノプシスをどう作るかなどを本人の実践に基づいて書いてあったと記憶する。
 掌編といったほうが相応しいような「T」と題されたこの短編にも、小説の骨格、シノプシスが明瞭にある、否、読後の第一感としてはむしろ構成の骨組みそのもの、プロットの組み立てばかりが印象に残る。
 読む前は作者個有の文体とはどういうものなのかな、とあてどもない予想をなにがしか抱きながら向かったのだが、冒頭20行ほどでそのアプローチはこの場合不適切なようだと思わされた。この作品は人物の設定や、プロットの展開などがどれほど破綻なく紡がれているか、その面から読み解いていかなければならないのだと気づかされたのだ。
 もうひとつの読後感としては、なにか一篇の劇画を読んだ感覚に近いということ。
なぜその印象が残るのかと考えれば、各プロット、各シーンにおけるディテールは、どれもそれぞれ、たしかにありそうなことではあるが、かといってリアリティはそれほど感じられない。ディテールとその現実感のあいだには、なにか皮膜のようなものが介在して、ある種もどかしいような痛痒感がつきまとうという感じ。とくにYという女の子にまつわる昔の事件などエピソードの挿入が何箇所もあるけれど、これらの存在は作者のご都合主義というより他になく、必然性からはかなり遠い。

 要素A- いつも変名を使ってゆきずりの男とセックスを重ねるヒロインY、その情事やいくつかの事件ともいうべき危うい出来事。
 要素B- オカマのTクンとヒロインYとの奇妙な友情関係。
 要素C- 潔癖な理想家肌のサラリーマン詩人とヒロインYの出逢いと別れ。

A.B.Cの三つの要素が入り組み絡まりあってプロットを緻密に形成しているのは咎められるべきことではないが、短いなかで一篇の小説としての完結性を求めすぎたのではないかと思われる。
100枚程度の短編なら、要素を絞り込んで、それ自体を濃密に膨らませることを課題にしたほうが、よほど可能性のある仕事になるのではないか。その分、書くことの呻吟、産みの苦闘は数倍増すだろうけれど‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-26>
 狩りごろも雪はうち散る夕暮の鳥立ちの原を思ひすてめや  肖柏

春夢集、上、詠百首和歌、冬十五首。
嘉吉3年(1443)-大永7年(1527)。村上源氏源通親の末裔、若くして建仁寺に入り出家。宗祇より古今伝授を受ける。
鳥立ちの原-トダちのハラ、狩場に鳥の集るように設えた沼や沢の草地。
邦雄曰く、冬の鷹狩は折から雪の降ってくる頃。狩装束に粉雪の吹き散るさまを、上句で絵画風に描き、忘れがたい眺めとして、下句では情を盡した、と。

 山里はやもめ烏の鳴く声に霜夜の月の影を知るかな  心敬

十体和歌、写古体、山家冬月。
応永13年(1406)-文明7年(1475)。紀伊の国に生まれ、3歳にして上洛し、出家。権大僧都に至る。和歌を正徹に学び、門弟に宗祇・兼戴らを輩出。将軍足利義教の時代、和歌・連歌界に活躍。家集に「十体和歌」、歌論に「ささめごと」。
近世和歌の俳諧味といおうか、題材に「やもめ烏」とは、俗に通じた、一歩過てば滑稽に堕する危うい趣向は、そのかみ山家集に散見する面白さ、新しさであった。下句はさすがに至極尋常、それゆえに夜烏にも凄みが加わり、一首は立ち直っている、と。

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January 31, 2006

月影は森の梢にかたぶきて‥‥

051127-019-1
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-今日の独言- 縄文像を新しく

 一昨年2月にガンで死去した網野善彦らを軸に編まれた講談社「日本の歴史」は00巻から25巻まで全26巻の監修だが、網野善彦自らが著した「日本とは何か」00巻はこの類いの出版では10万部を優に超えるという異例のベストセラーとなっていたという。ちなみに私もこの巻だけは発刊直後に購入し読んでいる。
ところで、このシリーズが刊行されたのは’99年から’02年にかけてだが、折りしも’00年(H12)11月に発覚した神の手事件すなわち藤村新一による長年にわたる一連の石器捏造騒動が、考古学者や歴史家ばかりかマスコミや世間をも震撼させ、考古学上の知見を根底から洗い直さざるえない危機に見舞われた時期に重なった所為で、既に発刊されていた01巻「縄文の生活誌」はこの捏造事件のあおりで全面的に書き換えざるを得なくなり、初版差し替えとしてその改訂版が発刊されるのは’02年11月に至っているという。
読み進んでいくにつけ、この20~30年の遺跡発掘調査による知の集積で、原始の日本列島、縄文期の時代像もこんなに変容してきたのかと驚嘆しきり。
そういえば’80年頃だったか、当時の高校向けの世界史と日本史の教科書をわざわざ取り寄せて読んでみたことがある。その時も私自身の高校時代との20年ほどの時差のなかで、その内容の変化にずいぶん驚かされもし、古い知識の棚卸しをさせられるようなものだったが、今回の場合は棚卸しや煤払いどころか、埃だらけの古い縄文像をまったく新しく作り替えねばならないようである。

図書館からの借本
・岡村道雄・他「縄文の生活誌 日本の歴史-01」講談社
・寺沢薫・他「王権誕生 日本の歴史-02」講談社
・中川千春「詩人臨終大全」未知谷
・加藤楸邨「一茶秀句」春秋社 -昨年10月につづいて再び。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-25>
 月影は森の梢にかたぶきて薄雪白しありあけの庭  永福門院

玉葉集、冬、冬の御歌の中に。
邦雄曰く、こまやかな遠近法で、彼方の森の漆黒の樹影から、眼前の庭の砂と植込みをうっすらと覆う雪まで、黒白を駆使したところ、作者の技量の見せどころだろう。薄雪の微光を放つ趣きは玉葉集歌風の一典型、と。

 吹く風に散りかひくもる冬の夜の月の桂の花の白雪  後二条天皇

後二条院御集、冬、月前雪。
弘安8年(1285)-徳治3年(1308)、後宇多院第一皇子で後醍醐天皇の異母兄。正安3年(1301)、両統迭立により践祚・即位、時に17歳。徳治3年(1308)、病により崩御、24歳。新後撰集初出。勅撰入集100首。
邦雄曰く、上句は伊勢物語第97段の「桜花散りかひ曇れ」を写したのであろう。下句は「雪月花」を14音に集約した感あり、桜が月下の桂の花になっただけ、さらに神韻縹渺の趣きが加わる、と。

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January 29, 2006

月やそれほの見し人の面影を‥‥

041219-038-1
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-今日の独言- 出版100周年

 藤村の「破戒」と漱石の「坊っちゃん」はともに今年で出版100周年を迎えているそうな。
「破戒」は1906年3月に自費出版、「坊っちゃん」は同年4月、前年の「我輩は猫である」に同じくホトトギス誌上で発表されている。
その描く世界はまるで異なる対照的ともいえる作品だが、広く支持され100年の風雪を越えて読み継がれきた不滅のベストセラーという意味では双璧といえる。ちなみに新潮文庫版では「破戒」が368万部、「坊っちゃん」が382万部を数えるという。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-16>
 ふりさけてみかづき見ればひとめ見し人の眉引き思ほゆるかも
                                    大伴家持

万葉集、巻六、雑歌、初月の歌一首。
霊亀2年(716)?-延暦4年(785)。旅人の子。聖武から桓武に至る6代に仕え、従三位中納言に至る。天平の代表的歌人、万葉集編纂に携わり、万葉集中最多、短歌約430首、長歌46首、旋頭歌1首。三十六歌仙。
邦雄曰く、新月の優しい曲線に、かりそめに逢い見た人の黛の眉引きを連想する。冴えた美意識の生んだ抜群の秀歌の一つ。この前に叔母坂上郎女の「月立ちてただ三日月の眉根かき日長く恋ひし君に逢へるかも」が置かれて、ひとしおの眺めである、と。

 月やそれほの見し人の面影をしのびかへせば有明の空  藤原良経

六百番歌合、恋、晩恋。
邦雄曰く、軽やかな初句切れ、また歯切れよく畳みかけるような下句、あたかも今様の一節を聞く思いする愉しい恋歌。月に愛する人の面影を見る類歌数多のなかで、この一首はその嫌いなく、むしろはっとするような新味を感じさせること、千二百首中の白眉、と。

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曇れかし眺むるからに悲しきは‥‥

051127-082-1
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-今日の独言- 歌枕見てまいれ

 平安中期の10世紀、清少納言とも恋の噂もあったとされ、三十六歌仙に名を連ねた左近衞中将藤原実方朝臣は、小倉百人一首にも「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」の歌が採られているが、みちのくに縁深くユニークな逸話を諸書に残して名高い。
鎌倉初期、源顕兼が編纂した「古事談」という説話集には、書を能くし三蹟と謳われた藤原行成と実方の間に、殿中にて口論の末、勢い余った実方は行成の冠を投げ捨てるという無礼をはたらいてしまった。
これを聞きつけた一条天皇から「歌枕見てまいれ」といわれ、陸奥守に任ぜられたという。要するに実方はこの事件でみちのくへと左遷された訳だが、歌枕見てまいれとの言がそのまま辺境の地への左遷を意味しているあたりがおもしろい。
陸奥に赴任した実方は数年後の長徳4年に不慮の死を遂げたらしく、現在の宮城県名取市の山里にその墓を残すのだが、この地が「おくの細道」の芭蕉も訪ね歩いたものの「五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過るに」と書かれることになる「笠嶋」である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-15>
 しきたへの枕ながるる床の上にせきとめがたく人ぞ恋しき  藤原定家

拾遺愚草、恋、寄床恋。
しきたへの-敷妙の。床、枕、手枕に掛かる枕詞。
来ぬ人を待ちわびる夜の涙は川をなし、枕さへ流れるばかり。その流れを堰き止める術もないほど、人への思いはつのる。
邦雄曰く、常套的な誇大表現ながら、定家特有の抑揚きわやかな構成が、古びれた発想を鮮明に見せる、と。

 曇れかし眺むるからに悲しきは月におぼゆる人の面影  八条院高倉

新古今集、恋、題知らず。
生没年未詳。生年は安元2年(1176)以前? 藤原南家、信西入道(藤原通憲))の孫。八条院暲子内親王(鳥羽院皇女)に仕えた女官。この歌を後鳥羽院に認められ、院歌壇に召されるようになったとされる女流歌人。新古今集初出。
曇れかし-「かし」は命令を強める助詞。
邦雄曰く、月に恋しい人の面影を見る歌は先蹤数多あるが、この作の特徴は一に「曇れかし」と、声を励ますかに希求する初句切れの悲しさにある。もちろん反語に近い用法で、まことはそれでもなお面影を慕うのであるが、と。

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January 27, 2006

ただ頼めたとへば人のいつはりを‥‥

051127-058-1
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-今日の独言- Buyo Fes の打合せのあとに‥‥

 昨日は、たった3分で事がすむような舞台打合せに、夕刻、京都は御所に隣接する府民ホール・アルティまで車を走らせた。おまけに渋滞を見越して余裕をもって出たら、約束の刻限に一時間ほど早めに着いてしまった。陽が落ちて冷え込むばかりの京都を散策するほどの意気地もないから、ホールロビーの喫煙コーナーに独り座して、読みかけの文庫本を開く。
 20分もしないうちに、舞台スタッフのほうで気を遣ってくれたのか、始めましょうと声がかかったので、舞台のほうへ移動。すでに下手にはグランドピアノが据えられ、ホリゾントには大黒幕が降りている。このあたりは事前の書面打合せどおり。さて舞踊空間をどうするかだが、此方は間口3間×奥行4間のフラットな空間さえあればよいという、いたって単純素朴な要請。このホールは舞台が迫り(昇降装置)を備えており、段差を利用したいくらかのヴァリエーションが可能なのだが、此方の望みどおりのスペースでは昇降不能。ならば全面フラットとせざるを得ないかと断。
「こうなったらアカリのエリアを絞り込んでもらうしかないねエ。」などと照明のF氏と二つ三つ会話を交わしたら本題たる打合せは完了。この間、3分もかかったろうか。予定時間をたっぷりと一時間余り取って、おまけに舞監、大道具、照明、音響とスタッフ4人揃っての打合せだというのに、こんなので好いのかしらんと、みなさん拍子抜けの態で、休憩時間の延長みたいなリラックスモード。残る時間をF氏といくらか四方山話に花を咲かせ、ほどよいところでご帰還と相成ったのだが、その話のなかで泉克芳氏の死を知らされ些か驚いた。年明けてすぐのことだったらしいとのこと。

 舞踊家泉克芳はまだ60代半ばではなかったか。日本のモダンダンスの草分け石井漠の系譜に連なる異才であった。80年代になって東京から関西へと活動の場を移してきたのだったか、同門の角正之が一時期師事した所為もあって、彼の舞台を二度ばかり拝見したことがある。彼がこの関西にどれほどの種を蒔きえたか、その実りのほどを見ぬままに逝かれたかと思えば、ただ行き行きてあるのみの、この道に賭す者の宿業めいたものを感じざるを得ない。惜しまれる死である。合掌。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-14>
 恋ひ侘ぶる君にあふてふ言の葉はいつはりさへぞ嬉しかりける
                                    中原章経

金葉集、恋。詞書に、いかでかと思ふ人の、さもあらぬ先に、さぞなど人の申しければ詠める。
生没年不詳。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、恋に我を忘れた男の、一見愚かな、しかも嘘を交えぬ言葉が、第三者の胸をすら打つ一例であろうか。技巧縦横、千紫万紅の恋歌群のなかを掻き分けている時は、このような無味単純極まる歌も、一服の清涼剤となりうる、と。

 ただ頼めたとへば人のいつはりを重ねてこそはまたも恨みめ  慈円

新古今集、恋、摂政太政大臣家百首歌合に、契恋の心を。
久寿2年(1155)-嘉禄元年(1225)。関白忠通の子、関白兼実の弟。摂政良経の叔父。11歳にて叡山入り。後鳥羽院の信任厚く護持僧に、また建久3年(1192)権僧正天台座主、後に大僧正。吉水和尚とも呼ばれる。家集は拾玉集、愚管抄を著す。千載集以下に約270首。
邦雄曰く、たった一度の嘘を恨むものではない。もう一度犯した時に恨むことだ。それよりもひたすらに自分の男を信じ頼みにしていよと、教え諭すかの恋の口説。大僧正慈円だけあって、睦言も説教めいて、とぼけた味、と。

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January 26, 2006

今は世に言問ふ人も不知哉川‥‥

051129-064-1
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-今日の独言- 歌枕「あねはの松」

 「あねはの松」という歌枕がある。「あねは」は姉歯と表記。あの耐震偽造設計の姉歯一級建築士と同じである。陸奥国の歌枕だが、現在地は宮城県栗原市金成町姉歯あたりに代々残るとされる松。姉歯建築士の出身古川市とは隣接しているものの30kmほど北東にあたるようだ。
在原業平の伊勢物語には陸奥の国のくだりで
 栗原やあねはの松の人ならば都のつとにいざと言はましを
と詠まれている。歌意は、あねはの松が仮に人であったなら、都への土産にと、一緒に行こうよと誘うのだが‥‥と。要するに、男と懇ろになった土地の女が一緒に連れて行ってと取り縋るのを、松に見立てて体よく袖にしたという訳だが、見事な枝振りの松に喩え誉めそやされては、男の不実を知りつつも強くは責められなかったろう女心にあはれをもよおす。
 「姉歯の松」の由来譚は、さらに古く6世紀末の用命天皇の頃か、都に女官として仕えることになった郡司の娘が悲運にもその徒次にこの地で病死してしまうという逸話が背景となっているらしい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-13>
 今は世に言問ふ人も不知哉川住み荒らしたる床の山風  豊原純秋

松下抄、恋、寄床恋。生没年未詳、室町時代後期の人。雅楽の笙相伝の家系に生まれ、後柏原天皇[在位:明応9年(1500)-大永6年(1526)]に秘曲を伝授したと伝えられる。
不知哉川(いさやがは)-近江国の歌枕、滋賀県犬上郡の霊仙山に発し、彦根市で琵琶湖に注ぐ大堀川のこと。
邦雄曰く、この世には、夜々訪れてくる人もない。愛する人を迎えるあてもなく床は荒れ果て、閨には山からの烈風が吹き込む有様。万葉集・巻十一の寄物陳思歌に「犬上の鳥籠の山にある不知哉川いさとを聞こせわが名告(の)らすな」とあり、これを巧みに換骨奪胎した、と。

 音するをいかにと問へば空車われや行かむもさ夜ふけにけり
                                    大内政弘

拾塵和歌集、恋、深更返車恋。文安3年(1446)-明応4年(1495)、周防・長門・豊前・筑前の守護大名大内氏29代当主。応仁の乱では細川氏と対立、西軍の山名宗全に加勢。和歌・連歌を好み、一条兼良・宗祇ら当代の歌人・連歌師と深く交わる。空車-読みは、むなぐるま。
邦雄曰く、或は恋しい人が来たかと、車の音にそわそわと立ち上がり、聞けば残念ながら空の車だったという。その車に乗って自分のほうから出かけようかとも思うが、時すでに遅し、人を訪ねてよい時刻ではない。まことに散文的な、事柄だけを述べた三十一音だが、無類の素朴さが心を和ませる、と。

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January 25, 2006

いふ言のかしこき国そくれないの‥‥

051129-051-1
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-今日の独言- ライブドア騒動のなかで

 23日の夜、ライブドアの堀江社長以下4名が逮捕され、ライブドア騒動も大きな分岐点を迎えたようだが、それにしてもマスコミの喧騒ぶりは度を越しているように思われる。開会されたばかりの衆議院本会議は、ホリエモンを参議院選挙に担ぎ出した小泉流の責任追及に荒れ模様だし、事件の推移によっては政局もどう動くか、新たな火種に波乱含みだ。
 山根治さんという元公認会計士が書いている「ホリエモンの錬金術」というサイト記事を読んだ。計20回と書き継がれた長文の大作。著者自身、大きな脱税事件で逮捕起訴され、冤罪事件として十年の法廷闘争の末、無罪を勝ち取った経験をもつ人だけに、「公表された財務書類等から、ライブドア堀江貴文氏のいわば錬金術師としての実像を明らかにし、マネーゲームの実態を浮き彫りにする。」との触れ込みどおり、細にして洩らさず、徹底した分析をしてみせてくれる労作だ。虚像の虚像たる所以が、カネと株式操作の流れを数字という事実に即してのみ詳細に明かされている。実相はおそらく彼の描いてみせてくれるホリエモン像にほぼ近いものだろう。「ホリエモンと小泉純一郎」と題した3回連載の小論もなかなかに辛味の効いた読み物だった。

――参考サイト-山根治「ホリエモンの錬金術」
http://blog.goo.ne.jp/yamane_osamu/e/42c2c0ee4afb62e55737eaacc2d08b17

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-12>
 いふ言のかしこき国そくれないの色にな出でそ思ひ死ぬとも
                                  大伴坂上郎女

万葉集、巻四、相聞。生没年未詳、大伴安麻呂と石川内命婦の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。万葉集に長短歌84首。女性歌人としては最も多く、家持・人麻呂に次ぐ。かしこきは恐き。
邦雄曰く、作者の歌七首一聯は、すべて人目に立つのを戒め、取り沙汰されることを怖れる忍恋の歌。無責任な世間の噂の恐ろしいこの国、鮮やかな紅の色のように、色に出してはならぬ、死ぬほど恋しくともと、歌意は悲痛な諫言に似る、と。

 恋しとは便りにつけて言ひやりき年は還りぬ人は帰らず  藤原良経

六百番歌合、恋、遠恋。
邦雄曰く、便りはついに片便り、愛する人は帰って来なかった。廻るのは年、立ち還る春が何になろう。年と人との苦みのある対比、万感をこめてしかも簡潔無比、と。

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January 23, 2006

黒髪もさやけかりきや‥‥

051127-007-1
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-今日の独言- K女を偲んでのオフ会

 昨夏、忽然と不帰の人となったK女を偲びつつ、墓参を兼ねたオフ会にエコ友のtosikiさんにお誘いいただき、一昨日の21日、京都へと足を運んだ。宗祖親鸞の墓所でもある五条坂の大谷本廟へ参るのは初めて。総門を入ると正面に大きな仏殿、その右手の読経所との間を通り抜けると、東山を背にして明著堂と呼ばれる納骨所がある。さらに右側には、第一無量寿堂、第二無量寿堂と呼ばれるモダンな舎利殿を髣髴させる個別用の納骨所が、縦に長く並んで総門のあたりまで延びているというなかなかの偉容。K女と彼女の後を追った寄る辺なき子息の遺骨は明著堂に納められたと聞いた。堂前にて数呼吸の間手を合せ冥福を祈る。
 京都らしく冷え込んできた夕刻の鴨川べりを歩いて、四条木屋町の今夜の食事処へ。初めは4人だったが三々五々寄り集って9人と膨らんだオフ会はいつのまにか賑やかな酒宴の場と化していた。五条通りに面した宿に無事帰参した時は、内3名が完全にダウンし爆睡状態。勧められるままに盃を重ねて私もいささか酩酊していたが、しばらくは酔いを醒ましつつ歓談したうえで、明朝稽古のある身とて、お名残惜しいが宿泊される皆さんとお別れして帰路に着いた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-11>
 黒髪もさやけかりきや綰く櫛の火影に見えし夜半の乙女子  正徹

草根集、雑、冬櫛。永徳元年(1381)-長禄3年(1459)、備中国小田郡小田庄、神戸山城主小松康清の子と伝えられる。若い頃は冷泉家の歌学に影響を受け、後藤原定家の風骨を学び、夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓く。一条兼良の信任厚く、京洛歌壇の一時期を築いた。弟子に正広、心敬、細川勝元など。歌論「正徹物語」、紀行文に「なぐさめ草」。綰く(タク)-髪などをかき上げる、束ねる。
邦雄曰く、まさ眼に見たのは影絵めいた姿か、仄かな燈影のさだかならぬ面影であったろう。第二句「さやけかりきや」が、見えなかった髪の、黒さ豊かさ清けさを、より強調することとなる。技巧派の、趣向を凝らした修辞は抜群であり、四季歌の中に入れておくには、眺めが妖艶に過ぎよう。いずれにせよ珍重に値する絵画的な異色の作、と。

 夜とともに玉散る床の菅枕見せばや人に夜半のけしきを  源俊頼

金葉集、恋、国実卿家の歌合に夜半の恋の心を詠める。天喜3年(1055)-大治4年(1129)。源経信の三男。従四位上木工頭。堀河百首の中心となり、金葉集を選進。清鮮自由な詠み口を以て新風を興し、旧派の藤原基俊と対立。歌論書に俊頼髄脳、家集に散木奇歌集。金葉集に約210首。
邦雄曰く、涙の玉は散り、かつ魂散り失せて死ぬばかりの歎きに、菅の枕もあはれを盡し、つれない人に見せばやとの激しい調べも、また嘆きの強さを増す、と。

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January 21, 2006

吹きはらふ嵐はよわる下折れに‥‥

051129-025-1
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-今日の独言- 北極振動

 大寒の入り、今日も厳しい寒気が列島を覆う。それにしても昨年来、今冬の大雪と寒さは近来稀にみるもの。原因は北極振動によるとされ、北極周辺の寒気が南下している所為で、ちょうどエルニーニョ現象の逆の状態だという。12月からの大雪・豪雪による被害は記録的なものになりつつある。18日段階で死者102名を数え、戦後4番目という多数の犠牲者。東北・北陸各地の市町村では除雪費が記録的に増大、急遽、政府は緊急予算措置を講じるという。例年ならばこれから本格的な降雪期を迎える1月半ばにしてこの事態なのだから、恐るべし北極振動。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-24>
 唐崎やこほる汀(みぎは)のほど見えて波の跡よりつもる白雪
                                    慈道親王

慈道親王集、冬、湖雪。弘安5年(1282)-暦王4年(1341)。亀山院の皇子、出家して後に天台座主となり、後醍醐天皇の護持僧を務める。新後撰集以下に24首。
邦雄曰く、渚を洗う波がさっと沖へ引き、水際の砂が黒々と現れると、折から降りしきる雪がたちまちうっすらと積る。琵琶湖は鈍色に雪にけぶる。唐崎の松も見え分かぬ。刻々の景を下句14音に盡した、と。

 吹きはらふ嵐はよわる下折れに雪に声ある窓の呉竹  鷹司伊平

玉葉集、冬、竹雪。正治元年(1199)-没年未詳。摂関家五家の鷹司頼平の子、正二位権大納言となるも30歳にて出家。新勅撰玉葉集に2首。
邦雄曰く、下折れの竹が音をたてるのに四句「雪に声ある」と、殊更に強調した手際の鮮やかさ、その秀句をそれとなくではなくて、これみよがしに誇示しているところが、この時代の一つの風潮でもある、と。

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January 20, 2006

むばたまの夜のみ降れる白雪は‥‥

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-今日の独言- 長崎知事選に小久保女史

 債務がすでに1兆円を超えるという長崎県の知事選挙が昨日19日告示されたが、ゆびとまの創立者小久保徳子女史が市民派候補として挑戦している。立候補者は三選を目指す金子原二郎氏と共産新人の山下満昭氏と、彼女。現職金子候補は自・公・社が推薦。民主党はどうやら西岡武夫参議院議員の擁立派と小久保擁立派と割れていたらしく、一本化できないまま自由投票となったようだ。市民型選挙をめざす女史は勝手連的集団の「虹の県民連合」が主な支援母体となっている。
 昨年、㈱ゆびとまの社長職を若手に譲り、名誉顧問に退いていた女史には国政参画の意志が巣食っていたらしい。それが郷里長崎の知事選出馬となった背景には、同県選出の犬塚直史参議院議員が出馬打診をしてきたことが動機の発端となっている模様だが、どの党であれ国政を担う一兵卒となるより地方の首長獲りを狙うほうが、選択としては時宜に適っていると思われる。いずれにせよ女史が三選をめざす現職知事を脅かす台風の眼になっていることは間違いないが、どこまで肉薄できるか、あわよくば逆転の芽もまったくない訳ではないだろう。大阪からは遠い出来事だが選挙の行方を静観したい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-23>
 明くる夜の雲に麓はうづもれて空にぞつもる嶺の白雪  堯孝

慕風愚吟集、応永二十八年十一月、前管領にて、遠山朝雪。明徳2年(1391)-享徳4年(1455)。藤原南家の末裔、頓阿(二階堂貞宗)の曾孫。二条派歌人として活躍、飛鳥井家の雅世と親しく、冷泉派の正徹らと対立、歌壇を二分した。
邦雄曰く、遠山白雪の景を、第四句「空にぞつもる」で冴え冴えと一筆に描ききった。15世紀の和歌には、こういう一句に懸けたような手法が顕著に見える。彼の秀句表現も曽祖父頓阿譲りか。さらに技巧を駆使すると、「訪ひやせむ待ちてや見むのあらましにさぞな世にふる今朝の白雪」のように、歌謡・語り物にも似た趣きとなる、と。

 むばたまの夜のみ降れる白雪は照る月影のつもるなりけり
                                  詠み人知らず

後撰集、冬、題知らず。後撰集は古今集の後の第2勅撰集で10世紀の成立。むばたまの-夜や黒、髪に掛かる枕詞、「ぬばたまの」に同じ。
邦雄曰く、天から降ってくる純白の冷やかなもの、あれは月光の結晶なのだ、名づけて雪と呼ばれているが、だからこそ、いつも夜の間に霏々と降り積もり、さて暁に見渡すと一面の銀世界が出現している。後撰集の冬には、題知らず・詠み人知らず歌が、巻末に25首連なっており、どの歌も透明で、心ゆかしくあはれな秀作揃いで、勅撰集中の偉観、と。

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January 19, 2006

をしへおく形見を深くしのばなむ‥‥

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-今日の独言- 若草山の山焼き

 「春日野はけふはな焼きそ若草の妻も籠れり吾も籠れり」 
                                詠み人知らず
古今集の春上の歌である。ところで、些か時期を失した話題となるが、この若草山の山焼き、今年は8日に行なわれたとか。13万人もの人々が詰めかけ古都の夜空を焦がす炎の舞に酔いしれたといわれ、初春を彩るイベントとして年々盛んになっているようだ。この山焼きの由来、東大寺と興福寺の寺領争いを解決するため繁茂する樹木を伐採して境界を明らかにしたとされるが、この説では宝暦10年(1760)ということになるから信憑性は低かろう。冒頭掲げた歌と照らしても起源はさらにずっと遡らねばなるまい。若草山は古来より狼煙の場として使われ、樹木を植えなかったという説もある。例年いつ行なうかの時期はともかくとしても、ずっと昔から山焼きの習いはあったのだろう。そして山焼きとは森羅万象、死と再生の呪術的な儀式でもあってみれば、人々はみな新生の恙無きを祈りつつ忌み籠るべき日であったのかもしれぬ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-10>
 をしへおく形見を深くしのばなむ身は青海の波にながれぬ
                                    藤原師長

千載集、離別。保延4年(1138)-建久3年(1192)。左大臣藤原頼長の子。後白河院に近臣として仕え、保元の乱後、咎めを受けて土佐に流された。箏の名手で知られた。千載集にこの1首のみ。
邦雄曰く、形見の秘曲は「青海波」、盤渉調。土佐配流の際、愛弟子の源惟盛は津の国川尻まで名残りを惜しんで見送るが、この折り秘伝の奏法を伝授。第三句は「偲んでほしい」の意。師弟の情愛に満ちた交わりが胸に沁みわたるようだ、と。

 草枕むすびさだめむ方知らずならはぬ野べの夢の通ひ路
                                   飛鳥井雅経

新古今集、恋、水無瀬の恋十五首歌合に。飛鳥井雅経は藤原雅経。嘉応2年(1170)-承久3年(1221)。刑部卿頼経の二男。参議従三位右兵衛督。俊成の門。後鳥羽院の再度百首、千五百番歌合にて頭角をあらわし、和歌所寄人、新古今集選者となる。飛鳥井家の祖。新古今集以下に134首。
邦雄曰く、思う人の夢を見るには、草枕を結ぶ方角をいずれにするのやら。馴れぬこととてそれさえ覚束ない旅。さて夢の通う道もどうなるのか。恋の趣きよりも、初旅を思わせるような怯みとたゆたいが、この一首を新鮮にしている、と。

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January 18, 2006

箱根路をわが越えくれば‥‥

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-今日の独言- 祈りの日になぜ?

 1.17、阪神大震災から11年というこの日に、なぜこうも重苦しく騒擾とした報道が溢れているのか。
耐震偽造マンション事件のヒューザー小嶋社長の国会証人喚問は、殆どの質問に対し証言拒否を貫くというとんだ茶番劇で被害関係者はおろか関心を寄せるすべての者を暗澹たる思いに陥れた。前夜、東京地検は証券取引法違反の疑惑でライブドアに強制捜査に入り、17日の日経平均株価は大暴落、このところ景気回復を反映し堅調に推移していた株式市場の混乱はしばらく続くだろう。同じ日、最高裁第3小法廷は、17年前の連続幼女殺害事件の宮崎勤被告に対し、上告を棄却し死刑を確定させた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-9>
 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
                                    源実朝

続後撰集、羇旅、箱根に詣づとて。
邦雄曰く、実朝の代表歌とされてきたこの歌、新勅撰集には採られず、次代の為家になってやっと陽の目を見た。三句「伊豆の海や」の一音余りが、この大景をぐっと支える役割を果たし、悠々として壮大な叙景歌となった。実朝詠は古来その万葉調を嘉されてきたが、必ずしも万葉写しのみで生れる歌ではない。天来の調べ、と。

 たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
                                    間人老

万葉集、巻一、雑歌、天皇、宇智の野に御狩したまふ時。間人老(はしひとのおゆ)-伝不詳、この折の長歌と当該の反歌以外伝わっていない。
天皇は舒明。たまきはる-うちに掛かる枕詞。宇智の野-現在の奈良県五條市の北、金剛山裾野にひろがる丘陵地帯。
邦雄曰く、結句「その深草野」の短く太やかな響きも、思わず洩らした吐息のようで心に柔らかに響く、美しい調べ、と。

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January 16, 2006

こひこひて稀にうけひく‥‥

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-今日の独言- 読みきらぬままに

 A.ネグリとM.ハートの前著「帝国」をまだ読みきらぬままなのだが新刊「マルチチュード」を購入。亀山郁夫の「ドストエフスキー」とともにNHKブックスとなったのは偶々のこと。中也は以前から持っているのは選集なのでこの際すでに持っている下巻に加えて全詩集で揃える。塚本邦雄全集の14巻は先月に引き続き再度の借入。「藤原俊成・藤原良経」をなんとか読んでおきたい。

今月の購入本
 A.ネグリ・M.ハート「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 上」NHKブックス
 A.ネグリ・M.ハート「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 下」NHKブックス
 亀山郁夫「ドストエフスキー 父殺しの文学 上」NHKブックス
 亀山郁夫「ドストエフスキー 父殺しの文学 下」NHKブックス
 荒俣宏「『歌枕』謎ときの旅 歌われた幻想の地へ」NHKブックス
 「中原中也全詩歌集 上」講談社・文芸文庫
図書館からの借本
 塚本邦雄「塚本邦雄全集第14巻 評論Ⅶ」ゆまに書房

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-10>
 振分けの髪をみじかみ青草を髪に綰くらむ妹をしそ思ふ  作者未詳
万葉集、巻十一、正(ただ)に心緒(おもい)を述ぶ。
綰く-読みはタク、(髪などを)かきあげる、たばねること。
邦雄曰く、平安朝なら「幼恋」題であろう。短く足りぬ髪を萱草の葉でも裂いて掻き上げるのか、野趣満々、東歌の夏の風俗でも見ているような気がする。まだ振分け髪の少女を描いたのは数少ない。ほほえましくあはれな一首ではある、と。

 こひこひて稀にうけひく玉章を置き失ひてまた歎くかな  源頼政
従三位頼政卿御集、恋、失返事恋。
玉章-読みはタマズサ、玉梓とも、使い・使者、転じて文章や手紙。うけひく-承くで、承知すること。
邦雄曰く、たまに貰った返書を、不注意にも紛失して、慌てふためく男の、武骨な姿とべそをかいた顔が浮かぶ破格の恋歌。初句「こひこひて」は乞ひ乞ひて-恋ひ恋ひてと裏表をなすだろう。首尾よい返事には逢うべき時も所も記してあったろうに、失ったなどと知ったらすべて水の泡だ。恋歌には稀有の諧謔が有り難い、と。

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January 15, 2006

むらむらに氷れる雲は空冴えて‥‥

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-今日の独言- 松の内

 15日は望粥(もちがゆ)の日とか。元旦に対して今日14日から16日を小正月とも言ったが、はて松の内とはいつまでのことだったかと辞書を引いたら、7日と15日の両説があって判然としない。ものはついでと歳時記などを引っ張り出して見ると、門松や注連縄を取り払う松納めをするのが、東京では7日、京阪では15日とあり、やはり江戸風と上方風の習わしの差だったか、と。上方風ならばなおまだ松の内、新しい年の挨拶ごとを述べ立ててもおかしくはないのだとばかり、今頃になんだと思われそうなのを承知で、年詞のお返しをメールでいくつか挨拶をした。件の歳時記には、昔の松の内は女性の身辺が忙しいので、15日を年礼の始めとして女正月とも言うとある。そういえば、正月の薮入りは16日、無事松の内も明けて奉公人たちは宿下がりして晴れて家に帰れた訳だ。盆の薮入りは正月のほうより後に習いとなったようだが、どんなご時世になっても盆と正月が大きく節目の習いとなるのは、この国では変らないのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-22>
 むらむらに氷れる雲は空冴えて月影みがく木々の白雪  花園院

新千載集、冬、百首の歌詠ませ給うける時。永仁5年(1297)-正平3年(1348)。伏見院の第三皇子、12歳で践祚したが、十年後には、鎌倉幕府の干渉で後醍醐天皇に譲位。建武親政成った後に出家。学問を好み、道心厚く、禅宗に傾倒。画才にも恵まれ、所縁の妙心寺には自筆の肖像画が伝わる。和歌は京極為兼・永福門院の薫陶を受け、風雅集を監修、仮名真名の序文を執筆した。
邦雄曰く、月光が、梢の雪を磨くのではない、その逆で月光が、梢の雪に磨かれるのだ。空の雲も宵の雪も、既にひりひりと氷っており、しんしんと冴えかえる夜のひととき、皓々たる白一色の世界は不気味に静まり、異変の前触れを予感させるがごとく。詠風は華やかに寂しい、と。

 雲凍る空は雪げに冴えくれて嵐にたかき入相の声  日野俊光

権大納言俊光集、冬、冬夕。文応元年(1260)-嘉暦元年(1326)。藤原北家一門に生まれ、文章博士や蔵人頭を歴任、伏見院の近臣として、時は建武中興の前夜、皇位継承をめぐり北条政権との折衝の任を帯び、勅使として京都・鎌倉をしばしば往復したが、任半ば鎌倉で没した。
「入相」-日没時、夕暮れのこと。古来、入相または入相の鐘を詠んだ歌は多い。和泉式部詠に「暮れぬなり幾日を斯くて過ぎぬらむ入相の鐘のつくづくとして」がある。
邦雄曰く、家集の冬歌には雪を詠んだもの夥しい。雪の降りしまくなかに、入相の鐘を響かせたところが、この歌の面白さと思われる、と。

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January 13, 2006

寂しさを訪ひこぬ人の‥‥

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-今日の独言- 光が射した!?

 ADSLから光にやっと変ったが、なかなかに手間取るものだ。以前、ADSL同士だったけれどプロバイダーを乗り換えただけでもトラブルやらセットアップやらでずいぶん手を焼いて、所詮はメカ音痴の不甲斐なさばかり身に沁みたものだったが、此の度は、機器の取付からセットアップまで向こう様からわざわざ出張ってくれるのだから安心と、高を括っていたら豈に図らんや。本来なら暮の27日だったかにセットアップして、正月はご来迎でもあるまいがめでたく光スタートとなる筈だったのに、取付に来た若い派遣技師が付け焼刃のアルバイト学生だったのだろう。マニュアルどおりの事しかご存知ないようで二時間ほどもすったもんだした挙句、すごすごと退散する始末に此方もなかば呆れつつも激昂。カスタマーセンターとやらに電話で長々と猛抗議。ADSLのほうは12月末で解約手続を済ませているのだから、我ながら怒り心頭も無理はないだろう。
 昨日、やってきた技師はさすがにそれらしき人だったが、彼曰くは、電話回線の不良チェックのみが仕事の領分で、機器の取付やセットアップに関しては別業者の者があらためて派遣されるだろうというので、またも面食らってしまった。その彼が良心的に光回線でネット接続のチェックもしてみせてくれたから、あらためて頼りないアルバイト技師を待つまでもないと、彼の帰ったあと、門前の小僧よろしく自分で取り付けることにした。ずいぶんと老け込んだ小僧だけに時間のかかること夥しいが、どうにかセットアップ完了。
 年を跨いでまことに人騒がせな始末だが、やっと我が家にも光が射した!?

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-21>
 寂しさを訪ひこぬ人の心まであらはれそむる雪のあけぼの
                                    宮内卿

新続古今集、冬、正治二年、百首の歌に。生没年未詳。後鳥羽院宮内卿とも。13世紀初頭、後鳥羽院に歌才を見出され出仕、院主催の歌会・歌合に活躍した、早世の女流歌人。
訪ひ-とひ。雪深い山里にひとり侘住居の寂しさに、決して訪れてはくれぬ男の心なさのように、明け方、一面の真っ白な雪景色があらわれはじめた。
邦雄曰く、心あるなら雪を踏み分けても訪ねてくれるはず。まこと女流らしく婉曲に、憾みを訴えているように見えるが、盛られた心情は辛辣で、意外に手厳しい。十三世紀初頭の宮廷にその名をとどめた天才少女の、いささか巧妙に過ぎる雪に寄せる心理詠である、と。

 ふりつもる末葉の雪や重るらむ片なびきなり真野の萱原
                                  覚性法親王

出観集、冬、雪埋寒草。大治4年(1129)-嘉応元年(1169)。鳥羽天皇の第五皇子、母は待賢門院璋子、崇徳院・後白河院の同母弟。若くして出家、仁和寺主となる。千載集初出。勅撰入集22首。重る-おもる。真野の萱原-陸奥の国の歌枕、現在の福島県鹿島町あたり。遠く恋や季節の面影を見ることに用いられる。
邦雄曰く、古典における細やかな写実作品ともいうべきか。茅萱の細葉にうっすらと雪が積もり、薄雪ながら重みが加わる。少しずつ雪をこぼしつつ「片なびき」すると歌う。今一歩で説明調となるところを、抒情性を失わず温雅な調べを保った、と。

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January 11, 2006

を初瀬の鐘のひびきぞ‥‥

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-今日の独言- 神とパースペクティヴと

 人間に不可能な認識がある。それはパースペクティヴをもたない認識、すなわち無観点の認識である。神に不可能な認識がある。それはパースペクティヴによる認識、すなわち観点による認識である。身体をもたない純粋精神としての神は、われわれが認識するような遠近法的な世界を知ることは決してないであろう。
 ここは私の現存する場所である。神にとってここはなく(もしあるとすれば神は有限である)、神はここにあると同時にあそこにもある、つまりいたるところに偏在するか、あるいはここあそこを超越しているかのいずれかでなければならない。奥行きとか遠近は、ここからあそこへのへだたりであるから、神にとって奥行きや遠近は存在しない。
 いまは私が現存する時である。神にとっていまはなく(もしあるとすれば神は有限である)、神はいまにあると同時に、まだない未来にも、もはやない過去にも遍在するか、あるいはそれらを超越しているかのいずれかでなければならない。時間的なパースペクティヴは、いまから未来への、またいまから過去へのへだたりを前提するから、神にとって時間的なパースペクティヴは存在しない。パースペクティヴは有限者に固有の秩序である。
 ここに現存する有限者の視点に応じて、分節化された世界があらわれる。別の仕方で分節化された世界はありうるけれども、パースペクティヴによって分節化されない世界はありえない。それは仮説的な理念(神の眼)ではあっても、現実的な実在ではない。パースペクティヴは、実在を構成する一要素であって、恣意的な主観的解釈ではない。
    ――市川浩著「現代芸術の地平」より

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-8>
 を初瀬の鐘のひびきぞきこゆなる伏見の夢のさむる枕に  宗良親王

李花集、雑、歌詠み侍りしついでに、暁鐘といへる心を詠み侍りける。応長元年(1311)-没年未詳(1389以前?)。後醍醐天皇の皇子、母は二条為世の女為子、兄に護良親王・尊良親王ら。政争に翻弄される生涯ながら、幼少より二条家歌壇に親しみ、二条為定との親交厚く、北畠親房らも歌友。南朝方歌人の作を撰集して「新葉和歌集」を撰す。自歌集「李花集」
「初瀬」は大和国の歌枕で「果つ」を懸けて、ほのかに迷妄の夜の終りを暗示。この「鐘」とは長谷寺の鐘かと察せられる。「伏見」は現京都伏見ではなく、奈良菅原の伏見の里であろう。
邦雄曰く、私歌集の名には美しくゆかしいものが数多あるが、「李花」はその中でも殊に優雅、作者の美学を象徴するか。「伏見の夢」のなごり、後朝の趣もほのかに、暁鐘の冷え冷えとした味わいは十分に感じられる、と。

 逢ふ人に問へど変らぬ同じ名の幾日になりぬ武蔵野の原
                                  後鳥羽院下野

続古今集、羇旅、名所の歌詠み侍りけるに。幾日-いくか。生没年未詳、13世紀の人。日吉社祢宜の家系に生れ、後鳥羽院に仕え、院近臣の源家長に嫁す。新古今集初出。
邦雄曰く、行けども行けども果てを知らぬ曠野、もう抜け出たかと思い尋ねるのだが返事はまだ「武蔵野」。題詠で実感以上に鮮やかに描いた誇張表現が嬉しくほほえましい。女房名の「下野」も併せて味わうべきか、と。

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January 08, 2006

年も経ぬいのるちぎりは‥‥

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<Alti Buyou Festival 2006-相聞Ⅲ-のためのmemo>

「定家五首」- 塚本邦雄全集第14巻・第15巻より

一、 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れてののちの花の形見に

     卯月は空木に死者の影
     皐月の盃にしたたる毒
     水無月に漲るわざわい
     夏の間闇に潜んでいた
       私の心も
       秋は炎え上る
       風なときのま
       花はたまゆら
        散れ
        白露
        靡け
        秋草
       散りつくして
       後にきらめく
       人の掌の窪の
       一しづくの涙
     文月の文殻の照り翳り
     葉月わづかに髪の白霜
     長月は餘波の扇の韓紅
     皆わすれがたみの形見

二、 まどろむと思ひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声

     ながすぎる秋の夜は一夜
     眠ろうとすれば眼が冴え
     起き明そうと思えば眠い
     夢みようと瞑れば人の声
     見たくもない夢に移り香
     秋はことごとく私に逆う
     この忌わしい季節の中で
     ただ一つ心にかなうのは
        初雁の
        贐ける
        死の夢
     常世というのは空の涯に
     ななめにかかる虹の国か
     露霜のみなもとの湖には
     鈍色の霧が終日たちこめ
     人はそこでさいなまれる
     逆夢をさかさにつるして
     闇の世界によみがえれと
     つるされる一つは私の夢

三、 かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ

     漆黒の髪は千すじの水脈をひいて私の膝に流れていた
     爪さし入れてその水脈を掻き立てながら
     愛の水底に沈み 
     私は恍惚と溺死した
     それはいつの記憶
     水はわすれ水
     見ず逢わず時は流れる
     この夜の闇に眼をつむれば
     あの黒髪の髪は
     ささと音たてて私の心の底を流れ
     その一すじ一すじがにおやかに肉にまつわり
     溺死のおそれとよろこびに乱れる

四、 今はとて鴫も立つなり秋の夜の思ひの底に露は残りて

     露が零る
     心の底に
     心の底の砂に
     白塩の混る砂
     踏みあらされた砂
     そこから鳥が立つ
     秋の夕暮のにがい空気
     いつまで耐えられるか
     うつろな心に残る足跡幾つ
     私も私から立たねばならぬ
     -夕暮に鴫こそ二つ西へ行く-
     田歌の鴫は鋭い声を交して
     中空に契りを遂げたという
     西方をめざしながらの
     名残の愛であったろう
     それも私には無縁
     心の底の砂原には
     まだ露が残る
     死に切れぬ露
     露の世の
     未練の露

五、 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ

     祈り続けたただ一つの愛は
     ついに終りを告げ
     夕空に鐘は鳴りわたる
     私の心の外に
     無縁の人の上に
     初瀬山!
     なにをいま祈ることがあろう
     観世音!
     祈りより
     呪いを

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都鳥なに言問はむ‥‥

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-今日の独言- 人と人のあいだ-親和力

 昨年2月に急逝したという旧友N.T君のお宅にお悔みに行った。賀状のお返しに夫人からわざわざ電話を戴いて遅まきながら訃報を知ったのは三日前だった。幼馴染みというか、近所だったし、家業も同様の鉄工関係で親同士の関わりもあった。幼・小・中ずっと一緒だったが、彼は中3の二学期から他校区の中学へ転校していった。引越しの所為ではなく高校進学のためだった。12、3年前から小学校時代の同窓会が再開されるようになって、三年毎に3回催されその都度顔を合わせてきたし、何年か前の「山頭火」には夫人と末の愛娘も連れ立ってわざわざ観に来てくれていた。心臓発作による殆ど急死に近いものだったと夫人から聞かされた。バブルが弾けて以降の十数年、不況業種の最たる家業の維持も大変だったろう。心優しいはにかみやの彼は意外に神経が繊細に過ぎたのかもしれない。仏壇の脇に置かれた遺影を前に、夫人と娘さんと三人で向き合ってしばらく想い出話に花を咲かせていたが、そこには生前の彼がそのまま居るかのような空気が伝わってくる。そういえばお互い笑い声にはずいぶんと特徴があったけれど、遺影のいくぶんか澄まし気味の笑顔から、その特徴ある彼の笑い声が聞こえてくるかと錯覚するほどに、懐かしい空気のような感触に、ほんのひとときだが包まれていた。
 情感あふれる懐かしさというもの、その源泉は、家族であれ、旧い友であれ、言葉になど言い尽くせないお互いのあいだに成り立ちえている親和力のようなものだと、あらためて再認させられた出来事ではあった。
N.T君よ、こんどは山頭火がいつも唱えていたという観音経を手向けよう。―― 合掌。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-7>
 都出でて今日みかの原いづみ川かはかぜ寒し衣かせ山
                                 詠み人知らず

古今集、羇旅、題知らず。
みかの原-瓶の原、いづみ川-泉川、かせ山-鹿背山、いずれも山城の国(京都府木津町界隈)の歌枕。
邦雄曰く、山城の歌枕を歌い連ねて、巧みに掛詞を綴った。機知というより頓智、むしろ遊びに傾いた歌ともみえるが、一説には田部副丸なる人物が作った首途の歌ともいう。やや俗な面白みの生れるのは結句のせいであろう、と。

 都鳥なに言問はむ思ふ人ありやなしやは心こそ知れ  後嵯峨院

続古今集、羇旅、都鳥を。承久2年(1220)-文永9年(1272)。土御門天皇の第一皇子、子には宗尊親王、後深草天皇、亀山天皇ら。2歳の時承久の乱が起こり父土御門院は土佐に配流となり、叔父や祖母の元で育つも、仁治3年(1242)、四条天皇崩御の後、鎌倉幕府の要請のもと即位。4年後に譲位、後深草・亀山二代にわたり院政を布く。承久の乱後沈滞していた内裏歌壇を復活させ、藤原為家らに「続後撰集」・「続古今集」を選進させた。続後撰集以下に209首。
邦雄曰く、伊勢物語、東下りの第九段の終り「名にし負はばいざ言問はむ都鳥」を本歌とするというより、むしろ逆手にとって「なに言問はむ」と開き直ったあたり意表を衝かれる。「ありやなしやは心こそ知れ」とはまさに言の通り、希望的観測や甘えを許さぬ語気は、清冽で、鷹揚で、快い、と。

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January 07, 2006

えびすこそもののあはれは知ると聞け‥‥

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-今日の独言- 「百句燦燦」

 家に幼い子どもがいる所為もあるのだろうが、読書がなかなか思うように運ばない。図書館からの借本、講談社版の「日本の歴史」二巻を走り読みして、期限いっぱいの今日返却した。「古代天皇制を考える-08巻」のほうはまだしも通読したものの、「日本はどこへ行くのか-25巻」は走り読みというより飛ばし読みというのが相応しいか。
 そしてやっと塚本邦雄全集第15巻-評論Ⅷの扉を開いたのだが、のっけから襟を正して向き合わざるを得ない気分にさせられた。
 本書の構成は「百句燦燦」「雪月花」「珠玉百歌仙」の三部立て。戦後現代俳句に綺羅星の名句を百選して評する曰く「現代俳諧頌」。新古今の代表三歌人、藤原良経・藤原家隆・藤原定家の歌各百首を選び、そのうち各五十首に翻案詩歌を付しつつ評釈する「雪月花」。斉明天皇より森鴎外まで1300年の広大な歌の森から選びぬいた112名300余首を鑑賞する詞華アンソロジー「珠玉百歌仙」。
 「百句燦燦」の冒頭に掲げられた句は
   金雀枝(エニシダ)や基督(キリスト)に抱かると思へ  石田波郷
 抱かれるのが厩の嬰児イエスであれ十字架下ピエタのイエスであれ、抱く者はつねに聖母マリアであった。この作品の不可解な魅力はまず抱かれる者の位相の倒錯と抱く者の遁走消滅に由縁する。とこの言葉の錬金術師は紡いでゆく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-6> 
 みちのくの金をば恋ひてほる間なく妹がなまりの忘られぬかな
                                     源頼政

従三位頼政卿集、恋、恋遠所人、法住寺殿の会にて。
邦雄曰く、奇想抜群、天外とまでいかないが、鄙びて新鮮で、俗にわたる寸前を詩歌に変えているところ、頼政の野生的風貌横溢。妹が訛りと鉛を懸け、黄金と対比させ、しかもその訛りが奥州に置いてきた愛人のものであることを暗示し、「ほる=欲る=掘る」の懸かり具合もほほえましい。平泉が産出する金で輝きわたっていた時代であることも背景のなか、と。

 えびすこそもののあはれは知ると聞けいざみちのくの奥へ行かなむ
                                    慈円

拾玉集、述懐百首。
邦雄曰く、初句は京童を含む同胞一般への愛想尽かしの意を隠しており、ずいぶん皮肉で大胆な「出日本記」前奏と考えてよかろう。この述懐百首、若書きであるが、出家までの私的世界をも踏まえた、鬱屈と憤怒の底籠る独特の調べが見られる。「仕へつる神はいかにか思ふべきよその人目はさもあらばあれ」など、苦み辛みもしたたかに秘めた作が夥しい、と。

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January 06, 2006

いづくにか船泊てすらむ‥‥

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-今日の独言- 戌年のお犬様事情

 日本の少子化はさらに加速している。昨年の出生数は106万7000人で、死亡数は107万7000人と、いわゆる自然減1万人となったことを新聞は伝えているが、それにひきかえ、昨夜の報道番組WBSでの戌年にちなんだ昨今のお犬様事情によれば、犬の増加は昨年で150万にのぼるそうな。犬の年齢は人間の約1/7、15歳ならば人間の105歳に相当するといわれるが、7歳以上を高齢と見做され、高齢犬?にあたるのが50%以上を占め、すでに我々などよりずっと超高齢社会に突入しているというのである。我々人間よりペットであるお犬様こそ介護社会のさらなる充実を急務としている訳だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-5>
 丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね
                                   長皇子

万葉集、巻二、相聞、皇弟(いろと)に与ふる御歌一首。生年不詳-和銅8年(715)。天武帝第七皇子、弓削皇子の同母兄。
丹生の河瀬-大和の国(現、奈良県吉野郡下市町)の丹生川かといわれ、その川瀬。歌はその「恋痛きわが背」である同母弟弓削皇子に寄せたもの。
邦雄曰く、川の瀬を渡りきらぬように、足踏み状態で悲恋にやつれている弟に、私のところへ憂さ晴らしに来いと慰める趣き、と。

 いづくにか船泊(は)てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟
                                    高市黒人

万葉集、巻一、雑歌、大宝二年壬寅、太上天皇の三河国にいでましし時の歌。生没年、伝不詳。持統・文武朝期の歌人。高市氏は大和国高市(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)の県主とされ、その一族か。万葉集に採られている18首はすべて短歌で、行幸に従駕して詠んだ旅先での歌か。
安礼(あれ)の崎-所在不詳。愛知県東部の海岸の何処か、また浜名湖沿岸説も。棚無し小舟-船棚(舷側板)の無い舟のことで、簡素な丸木舟。漕ぎたみ=漕ぎ廻み。
邦雄曰く、遠望を伝えてふと言葉を呑むこの二句切れ。「安礼の崎」以下は、あたかも船影が水上を滑るように歌い終る。なかなかの技巧であり、寂寥感はこの固有名詞の活用によって際立ち、結句の「小舟」によってさらに浮かび上がる。儚く悲しい、稀なる叙景歌である、と。

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January 05, 2006

滝つ瀬に根ざしとどめぬ萍の‥‥

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-今日の独言- まことに芸事とは‥‥

 このところ例年のことだが、筑前琵琶奥村旭翠一門の新年会に親子三人で出かける。私自身は単なるお邪魔虫に過ぎないが、連れ合いが師事してもう四年になるか、いわば牛に引かれて善光寺参りのようなもの。嘗て近鉄球団のホームスタジアムだった藤井寺球場のすぐ近く、千成家という小さな旅館が旭翠さんの自宅であり、無論稽古場を兼ねている。午後2時頃にはほぼ顔も出揃って、お屠蘇で乾杯したあと、ひとりひとりが新年の抱負を含めた短い挨拶を交し合う。新年のこの席での定番はその年の干支にあたる者が日頃の成果をと一曲お披露目することになっているのだが、今年は連れ合い一人がその対象とあって、此方も些か冷や汗ものの気分にさせられつつ、久し振りに彼女の弾き語りを聞いた。演目は現在手習い中の「湖水渡り」。明智光秀の娘婿明智左馬之助にまつわる武者講談噺の世界だが、明治の日清・日露の頃から現在のようなレパートリーに整理されてきたと見られる筑前琵琶には、この手の講談調の演目が数多くある。
 さて肝心の弾き語りだが、成程、旭翠師曰く、一年ほど前から声の出方も良くなったと言われるとおり、語りのノリは幾分か出てきているといえようし、難しい弾きの技(て)もそれなりにこなすようになっている。しかし残念ながら語りと弾きの両者に一体感が生れない、各々まるで別次の世界のようにしか聞こえないのだ。語りと弾きがそれぞれの課題を追うに精一杯で、そのバランスのありように或は両者のその呼応ぶりに意識の集中がはかられていないというべきか。昨日引用したヴァレリーの「形式と内容」問題でいえば、その形式に内容のほうは十分に充填されておらず些か厳しい表現をすれば空疎でさえあるということになろう。この限りではいくら難曲に挑んでいようとも他人様に聴かせる体をなさない訳で、彼女の場合なお二、三年の修練を経ねばなるまいと確認させられる機会となった。さすが伝統芸と称される世界のこと、その形式の奥深さはなまなかのものではないこと、以て瞑すべし。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-9>
 月草に摺れる衣の朝露に帰る今朝さへ恋しきやなぞ  藤原基俊

宰相中将国信歌合、後朝。康平3年(1060)?-康治元年(1142)。右大臣俊家を父とする名門にも拘わらず従五位上左衛門佐で終る。歌学の造詣深く、多くの歌合の判者をつとめ、保守派の代表的歌人だが、俊頼らの新風に屈した。金葉集以下に105首。
邦雄曰く、国信歌合は康和2年(1100)、基俊40歳の四月。彼の後朝は格段あはれ深い。新千載・恋三に第三句を「露とおきて」として採られたが、原作が些か優る、と。

 滝つ瀬に根ざしとどめぬ萍の浮きたる恋もわれはするかな
                                    壬生忠岑

古今集、恋、題知らず。生没年不詳。微官ながら歌人として知られ、古今集選者となる。家集のほか、歌論書に忠岑十体。古今集以下に82首。萍(うきくさ)-浮草
邦雄曰く、沼や池の浮草ではなく滝水に揺られるそれゆえに、一瞬々々に漂い、さまよい出ねばならぬ定め、行方も知れず来し方もおぼろ、そのような儚い、実りのない恋もするという。古今集・恋一巻首には同じ作者の「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」があるが、更に侘しくより運命的なところに、浮草の恋の灰色のあはれは潜んでいる、と。

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January 04, 2006

白菊に人の心ぞ知られける‥‥

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-今日の独言- ライオンは同化された羊から‥‥。

 再び(前回12/18付)、P.ヴァレリーの文章からの引用、
出典は平凡社ライブラリー「ヴァレリー・セレクション 上」より。
 文学。――他のだれかにとって<形式>であるものは、わたしにとって<内容>である。もっとも美しい作品とは、その形式が産み出す娘たちであって、形式のほうが彼女たちより先に生れている。人間がつくる作品の価値は、作品そのものにあるのではなく、その作品が後になってほかの作品や状況をどう進展させたかということにあるのだ。ある種の作品はその読者によってつくられる。別種の作品は自分の読者をつくりだす。前者は平均的な感受性の要求に応える。後者は自分の手で要求をつくりだし、同時にそれを満たす。ほかの作品を養分にすること以上に、独創的で、自分自身であることはない。ただそれらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-8>
 白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあべず
                                    後鳥羽院

後鳥羽院御集、正治二年八月御百首、恋十首。治承4年(11080)-延応元年(1239)。4歳で践祚、在位15年で譲位後、院政。幕府打倒の企てに破れ、承久3年(1221)出家、ついで隠岐に配流。在島19年で崩じた。歌人としては西行・俊成の風に私淑し、千五百番歌合など多くの歌合を催し、新古今集の選進を自ら指揮。家集に後鳥羽院御集、歌論に後鳥羽院御口伝。新古今集以下に約250首。
邦雄曰く、院20歳の詠だが、この凄まじい恋歌に青春詠の面影はない。しかも新古今歌人の誰の模倣でもない。三句切れ・四句切れ・否定形の結句と破格の構成を試みた。この歌には恋の常套は影も止めず、背信弾劾の激しい語気が耳を打つ。菊帝が白菊をもって卜(ボク)したかと見えるところも怖ろしい、と。

 人ぞ憂きたのめぬ月はめぐりきて昔忘れぬ蓬生の宿
                                    藤原秀能

新古今、恋、題知らず。元暦元年(1184)-仁治元年(1240)。16歳で後鳥羽院の北面の武士となり、後に出羽守に至る。承久の乱に敗れ、熊野にて出家、如願と号す。歌人としても優れ、後鳥羽院の殊遇を受け、飛鳥井雅経・藤原家隆らと親交厚かった。新古今集初出、以下勅撰集に79首。
蓬生(よもぎふ)の宿-人に忘れられて雑草が伸び放題の家の意、歌の語り手たる女自身の暗喩ともなっている。
邦雄曰く、男の訪れ来ぬ家、蓬のみ茂るこのあばら家に、月のみは皮肉にも昔どおり照ってはくれるがと、女人転身詠の恋歌。「人ぞ憂き」の初句切れ、言外に匂わすべき恨みを、殊更にことわって強い響きを創り上げたのも思いきった技巧のひとつ。第四句「昔忘れぬ」は照る月であると同時に、契りを守ろうとする女の身の上、と。

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January 02, 2006

はかなくて今宵明けなば行く年の‥‥

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-今日の独言- 幼稚園を義務教育化?

 昼過ぎ住吉大社へ出かける。お馴染みの太鼓橋を渡りかけると意外に人出が少ない気がする。そういえば昨年は1日のこの時間帯に来たのだったか。二日目ともなると混みようもかほどに異なるのだ。本殿のほうは第四本宮まで縦に並んでいるが、一番前の第一本宮こそ人だかりでいっぱいなものの、後ろの第二、第三となるとすぐ前の方にまで進める。お御籤を引いたが第十五番の凶。昨年は二人揃って一番籤の大吉だったのにこの落差、お遊びごととはいえ住吉の祭神殿も人が悪いのか悪戯が過ぎるのか、と勝手に決め込む。
 ところで気になるニュースひとつ。ネットで見かけた読売新聞のニュースだが、政府与党は義務教育の低年齢化へと拡大方針の意向を示しているとか。要するに「幼稚園の義務教育化」という訳だ。外国の一つの例として、英国では2000年より5歳から11年間を義務教育化しているそうな。フランスではもうずいぶん前から公立幼稚園の無料化をしている、と。少子化対策でもあり、学力低下問題への対応策でもあろうが、教育の多様化現象がどんどん進んでいる傾向のなかで、幼稚園を義務教育化するという一様なあり方で改善されるものかどうか、判断はかなり難しいように思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-20>
 はかなくて今宵明けなば行く年の思ひ出もなき春にや逢はなむ
                                    源実朝

金塊和歌集、冬、歳暮。
邦雄曰く、二十代初めの鎌倉将軍が「思ひ出もなき春」とは。人生にというよりはこの世のすべてに愛想をつかしたかの、この乾いた絶望感はかえって「抒情的」でさえある。あまり屈折したために直情を錯覚させるのだろう。同じ歳暮歌の「乳房吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな」もまた新古今風亜流歌に混じるゆえに、なお一種異様な詠となる、と。

 津の国の難波の春は夢なれや葦の枯れ葉に風渡るなり
                                    西行

新古今集、冬、題知らず。元永元年(1118)-建久元年(1190)。俗名佐藤義清(のりきよ)、後鳥羽院の北面の武士だったが23歳で出家、鞍馬・嶬峨などに庵を結び、全国各地の歌枕を旅した。以後、高野山へ入山、また伊勢二見浦山中にも庵居。最後は河内弘川寺の草庵にて入寂。歌集「山家集」。
邦雄曰く、単純率直、なんの曲もない歌ながら言いがたい情趣をこめて、能因の本歌「心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を」を遥かに超える。俊成は「幽玄の体なり」と評するが、むしろ幽玄へは今一歩の直線的な快速調こそ、顕著な西行調であり、人を魅するゆえんだ、と。

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January 01, 2006

ほんにあたたかく人も旅もお正月

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<歩々到着>-6 ―山頭火の正月句―

 行乞放浪の山頭火には新しい年の晴れやかさは似合わないのか、彼の詠んだ正月句には感銘できるものが少ないように思う。
私のお気に入りを強いて挙げれば、昭和8年の句
  お正月の鴉かあかあ
この前年の9月、山頭火は俳友たちの骨折りのお蔭で念願の庵を故郷近くの小郡に結び、身も心も安寧を得て新年を迎えている。庵の名はよく知られるとおり「其中庵」である。この年の正月句には他に
  お地蔵さまもお正月のお花
  茶の花やお正月の雨がしみじみ
  お正月の鉄鉢を鳴らす
などがある。その前年、昭和7年の正月は放浪の途上、福岡県長尾の木賃宿で迎えて
  水音の、新年が来た
と簡潔明瞭、きっぱりとした句を詠んでいるが、翌二日には親友でありなにかと無心先でもあった緑平居を訪ねているから、このあたりの事情による心の弾みようが句に表れているのかもしれない。
其中庵に落ち着いた山頭火は、昭和8年11月には井泉水師を招いて其中庵句会を催し、多勢の俳友たちの参加を得ている。さらに12月には第二句集「草木塔」も刊行し、充実した草庵暮しのなか意気軒昂と昭和9年、其中庵二度目の新年を迎えている
  月のわらやのしづくする新年がきた
  明けて歩いてもう昭和の九年
  壷に水仙、私の春は十分
  ほゝけすゝきにみぞれして新年
この年、関西、関東、信州を経めぐったが、翌10年も其中庵にて新年を迎えた
  雑草霽れてきた今日はお正月
  草へ元旦の馬を放していつた
  元日の藪椿ぽつちり赤く
  噛みしめる五十四年の餅である
湯田温泉に遊んで
  お正月のあつい湯があふれます
2月には、第三句集「山行水行」を刊行し、夏近くまでは庵住の日々が多かったようだが、またぞろ神経が荒んできたか、8月6日、カルチモンを多量に服用、自殺未遂騒ぎを起こしている。12月、心機一転、あらためて東上の旅に出るが、それは自身の救いを求め、死に場所を求めての必死の旅でもあった。
昭和11年、岡山にて新年を迎え、良寛ゆかりの円通寺を訪れる
  また一枚ぬぎすてる旅から旅へ
と、やはり山頭火は旅中の吟がよろしい。このときの年頭所感に
「芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところではじまらない。
「私は私である。山頭火は山頭火である。私は山頭火になりきればよろしいのである。自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。
「歩く、飲む、作る、――これが山頭火の三つ物である。
「山の中を歩く、――そこから身心の平静を与へられる。
「酒を飲むよりも水を飲む、酒を飲まずにはゐられない私の現在ではあるが、酒を飲むやうに水を飲む、いや、水を飲むやうに酒を飲む、――かういふ境地でありたい。
「作るとは無論、俳句を作るのである、そして随筆も書きたいのである。
などと書き留めている。以後は正月句らしきものは、昭和14年9月に四国へ渡り、松山の道後温泉近く、御幸山の麓、御幸寺境内の一隅に臨終の地「一草庵」を得て、翌15年の新年を迎えるまで見あたらない
  一りん咲けばまた一りんのお正月
  ひとり焼く餅ひとりでにふくれたる
このあかつき-元旦、護国神社に参拝して-と詞書して
  とうとうこのあかつきの大空澄みとほる
また、道後公園にて
  ほんにあたたかく人も旅もお正月
などと詠んでいる。すでに死期が忍び寄りつつあるその自覚があるとも解せようし、或は身体の衰えそのものが我知らず自然のままに達観を呼んでいるとも受け取れようか。

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December 31, 2005

面影の花をや誘ふ雲の色は‥‥

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-今日の独言- 晦日の餅つき

 2005年もとうとう年の夜、大晦日である。昨夜はふと子どもの頃からの餅つきの光景を思い出していた。私が育った家では、まだ明けやらぬ暗がりのなかで、威勢のいいかけ声とともに杵を打つ音がこだましたものだった。毎年必ず30日の早朝に執り行う年越しの年中行事は、早朝から昼前頃まで続き、多い時で3斗、少ない時でも2斗余り、石臼は二升ものだったから、12~15臼ほど撞いていたことになる。身内の者が出揃って賑やかに繰りひろげられたこの年越し恒例の餅つきも途絶えてしまってもう二十年余りになるか、街なかでも滅多にお目にかかれない光景となり、いつしか記憶の中だけの、彼方の出来事になりつつあるのはやはり寂しいものだ。

  暮れ暮れて餅を木霊のわび寝かな  芭蕉

  わが門に来そうにしたり配り餅   一茶

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-19>
 面影の花をや誘ふ雲の色は枝も匂はぬ木々の朝風  三条西實枝

三光院詠、冬、雪散風。永正8年1511)-天正7年(1579)、戦国時代の歌人・古典学者。三条西三代は實隆・公条・實枝と連なり、歌・書とともに香道にて一家をなした。實枝は細川幽斎に「初学一葉」を与え、古今伝授を行なった。
邦雄曰く、雪あたかも花のごとく、今、冬のさなかに桜の華やかな光景が心に浮かぶ。風に散る雪は花吹雪、第二句「花をや誘ふ」は疑問ならぬ強勢、技巧は抑揚に富み。複雑な調べを生んでいる、と。

 星きよき梢のあらし雲晴れて軒のみ白き薄雪の夜半  光厳院

光厳院御集、冬、冬夜。
邦雄曰く、完璧に描き上げられた墨絵調の冬景色。しかも民家が取り入れてあるのが珍しい。立木の裸樹が夜空に枝を張り、点々と咲く星の花、なお風は荒れているがうっすらと積った雪は凍ろうとしている。あらゆる雪夜の要素をぎっしりと歌い入れて、さまで騒がしからぬのは作者の天性によるもの、と。

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December 29, 2005

わたつみとあれにし牀を‥‥

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Information-Aliti Buyoh Festival 2006-

-今日の独言- 2005年、不帰となった人々

 今年、不帰の人となった著名人一覧を見る。記憶に新しいところでは、11月6日、歌手の本田美奈子38歳の骨髄性白血病によるその若すぎる悲運の死は多くの人に惜しまれた。また12月15日、オリックス監督だった仰木彬70歳、癌の進行を耐えながら決して表に出さず野球人生をまっとうした見事な死に世間は多いに感動しつつ悼んだ。9月19日、晩節は苦渋に満ちたものだったろうが一代の成功者、ダイエー創業の中内功83歳と、政界のご意見番的長老後藤田正晴91歳が同じ日に旅立っている。花田兄弟骨肉の争いがマスコミに格好の餌食となった元大関貴乃花55歳の死も晩節の孤独を思えば悲しくも侘しい。別な意味で記憶に残るのが薬害エイズ事件の被告安倍英88歳、認知症のため高裁公判が停止されたまま心原性ショックで4月15日不帰の人となったのは本人にとってはむしろ幸いであったろう。映画関係では先ず小森のオバチャマで一世を風靡した小森和子95歳、岡本喜八81歳と野村芳太郎85歳の両監督に加えて石井輝男81歳。作家丹羽文雄は100歳と天寿を全うの大往生。同じく作家の倉橋由美子69歳はまだまだ彼女独特のワールドが期待できた惜しむべき死。あの「あぶさん」が懐かしい漫画家永島慎二67歳の死もまた惜しまれる。建築家の丹下健三91歳、清家清86歳と大御所が相次いでいる。あと上方の芸能界では吉本の岡八郎67歳、講談の旭堂南陵88歳。海外では天安門事件で失脚の憂目をみた中国共産党総書記だった趙紫陽85歳と、アメリカの第二次大戦後を代表する社会派劇作家アーサー・ミラー89歳の死が眼を惹く。
 最後に、個人的に強い感慨をもって悼むべきを挙げれば、6月9日歌人塚本邦雄84歳と、8月2日劇作・演出家秋浜悟史70歳、ご両所の死である。―― ただ黙して合掌するのみ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-7>
 むばたまの妹が黒髪今宵もやわがなき牀(とこ)に靡きいでぬらむ
                                  詠み人知らず

拾遺集、恋、題知らず。
むばたまの=ぬばたまの(鳥羽玉の)-黒や夜に掛かる枕詞。ヒオウギ(檜扇)という植物の黒色球状の種子とされる。平安期にはむばたまの、うばたまのと用いられた。
邦雄曰く、男の訪れの途絶えたのを恨む歌は数知れないが、男のほうが疎遠になった女を思いやる作品は珍しい。自分の居ない閨に、愛人の髪が「靡きいでぬらむ」とは、いかにも官能的でなまなましい。誰か他の男の通うことを案じるのが通例だろうが、この初々しさはそのまま若さでもあろう、と。

 わたつみとあれにし牀をいまさらに払はば袖や泡と浮きなむ  伊勢

古今集、恋、題知らず。生没年不詳。伊勢守藤原継蔭の女。宇多天皇の中宮温子(基経女)に仕え、温子の兄仲平と恋愛し、天皇の寵を受け皇子を生み、また、皇子敦慶親王との間にも中務を生んだ恋多き女。
邦雄曰く、男が夜離(よが)れして久しく、閨も夜床も、あたかも荒海さながらに凄まじくなり果てた。今更、訪れを期待して払ったら、袖は溢れる涙のために、かつ海の潮に揉まれて、泡のように漂うだろうとの、いささか比較を絶した譬喩が、むしろ慄然たる味を生む。「わたつみ」にさほどの重い意味はないが、泡との照応もまたかりそめのものではない、と。

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雪へ雪ふるしづけさにをる

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<四方の風だより>

<Alti Buyoh Festival 2006>

 近年はビエンナーレ方式(=隔年開催)で行なわれているAlti Buyoh Festival-アルティ・ブヨウ・フェスティバル’06のプログラム全容が決まり、チラシが送られてきた。
2月10日(金)、11日(祝)、12日(日)の三日間、会場は京都府民ホール・アルティ、主催は京都府と財団法人京都文化財団である。
参加は計17団体。従来は延べ五日間にわたって開催されほぼ30団体の参加で行われてきたことを思えばずいぶんと絞り込まれた形だ。今回の特色は韓国からモダン・クラシック・韓国古典舞踊と異なるジャンルの団体が三夜にひとつずつ各々出演する。加えてニューヨークのソリストも参加しており、国際色も加味されてきた。とはいっても京都3・大阪4・兵庫3とやはり地元勢が主力だが、北海道、神奈川、岐阜からの参加もあるから、三夜それぞれのプログラムも従来に比してメリハリの利いたものとなる期待を抱かせる。

 わが四方館の出演は11日のトリと決まった。
詳細についてはホームページに掲載したのでそちらをご覧いただければ、と取り敢えずのお知らせ。

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December 27, 2005

かきやりしその黒髪の筋ごとに‥‥

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-今日の独言- そごう劇場

 今月初めからか心斎橋そごうが新装なってオープンているが、14階の最上階には小さなホールとギャラリーを併設している。ホールのほうはその名もそごう劇場。昨夜は奥村旭翠とびわの会による「琵琶で語る幽玄の世界」が催されていたので久し振りに小屋へと足を運んできた。定席270席ほどの小ぶりで手頃なものだが、ロビーの居場所のなさには些か閉口。舞台環境も奥行きに乏しく、照明は前明りばかりで、これではとても当世の演劇向け小屋にはほど遠かろう。映画の上映会や小講演、和事のおさらい会や、ちょっとしたレビューもどきならなんとかこなせるだろうが、それ以上のことは望めそうもない。当夜の演目では、劇場付とおぼしき音響スタッフの未熟さが目立った。琵琶の語りと演奏をマイクで拾うのいいが、耳障りなほどのヴォリュームにあげていた。影マイクのナレーションにしてもやはりそうだったから、これは設備の問題以前だろう。語り物や和事の演奏ものは、この程度の小屋ならナマのままでも十分よく聴こえる空間だが、それでも音響機器を通す場合はあくまで音場のバランスをとるのが主要な役割であって、極力ナマの感覚を再現することに腐心すべきところを、いかにも音響空間化させてしまっているのは、スタッフの初歩的な舞台常識のなさ、見識のなさの露呈にすぎない。だが、こういった一見瑣末にみえることにも、どうやらまともな劇場プロデューサーの不在が表れている、と私には思われた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-6>
 かれねただ思ひ入野の草の名よいつしか袖の色に出るとも
                                    足利義尚

常徳院詠、文明16年10月、打聞のところにて、寄草恋。
寛正6年(1465)-長享3年(1489)。常徳院は号。足利8代将軍義政の子、母は日野富子。将軍後継をめぐる争いから細川・山名の有力守護大名の勢力争いを巻き込み、応仁の乱の引き金となった不幸な存在である。一条兼良に歌道を学び、文武両道に優れたといわれるも、24歳で早世。
入野(いるの)-歌枕だが山城の国や近江の国のほか諸説ある。
邦雄曰く、草は「枯れね」人は「離(か)れね」、袖の色はすなわち袖の気色、涙に色変るばかりの袖であろう。今は諦めるほかはない。入野は諸国にあるが、流人の地、それも尊良親王ゆかりの土佐の入野を想定すれば、悲しみは翳りを加えよう、と。

 かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ
                                    藤原定家

新古今集、恋、題知らず。
後拾遺集の和泉式部詠「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の本歌取りとされる。
邦雄曰く、定家の作は「かきやりし」男の、女への官能的な記憶だ。「うち臥す」のは彼自身で、逢わぬ夜の孤独な床での、こみあげる欲望の巧みな表現といえようか。「その黒髪の筋ごとに」とは、よくぞ視たと、拍手でも送りたいくらい見事な修辞である、と。

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December 26, 2005

春の花秋の月にも残りける‥‥

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-今日の独言- 今年の三冊、私の場合-3

 三冊目は心理・精神分析関係から新宮一成・立川康介編の「フロイト=ラカン」を挙げよう。講談社選書メチエの知の教科書シリーズだから、19世紀人フロイトの独創をことごとく徹底して読み替えていったラカン、いわばフロイト-ラカンの知の系をまことにコンパクトにまとめてくれている入門書と称するが、内容は広くてかつ深い。
本書冒頭のなかの一節に「神の不在から、フロイトによって発見された「無意識」を認めて、不完全な自らの思考と言語で生に耐えること、これがラカン言うところの「フロイト以来の理性」となった」とあるように、治療法としてはじまった精神分析が、いまでは、思考の営みの、あるいは生の営みの一つのスタイル、しかも非常に有効で重きをなすものとしてあり、人々の生きるスタイルとして、精神分析的な思考というものがあまねく存在している現代であれば、このフロイト-ラカンの知の系にしっかりと触れておくべきかと思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-15>
 もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
                                    源実朝

金塊和歌集、冬、霰。 那須の篠原-将軍源頼朝が大規模な巻狩りを行なったとされる那須野ケ原の原野、現在の栃木県北東部の那珂川・箒川流域あたり。
邦雄曰く、律動的で鮮明で、活人画を見るような小気味よさ、実朝の作としては、必ずしも本領とは言えぬ一面であるが、古来代表作の一つに数えられている。この歌熟読すれば、意外に創りあげられた静かな姿を感じさせる、と。

 春の花秋の月にも残りける心の果ては雪の夕暮  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、天象十首。
邦雄曰く、美は雪・月・花を三位一体とするとは、古来の考え方であるが、良経はこの三者同格並列を解放し、花から月へ、かつその極みに「雪」を別格として据えた。それも必ずしも美の極限としてのみならず、あはれを知る人の心が行き着く果ての、幽玄境を「雪の夕暮」と観じた。歌そのものが彼の美学であり、ここではついに芸術論と化している、と。

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December 25, 2005

身に積る罪やいかなる罪ならむ‥‥

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-今日の独言- 今年の三冊、私の場合-2

 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート 正・続」大和書房刊の初版は1975年。私が初めて読んだのはおそらく80年頃だったろう。今年7月、図書館から借り受けてあらためてじっくりと読み直してみて、これまでわが舞踊においては場面のリズムなどとごく大掴みな把握しかしてこなかったのを省みて、菅谷のリズム論を媒介にもっと具体的に或はもっと根本的に捉えなおしてみたいという思いに至った。さらにこれを契機に、和歌や俳諧、古来より累々と築かれてきた短詩型文学の遥かに連なる峰々へ登攀する旅へと、すでに六十路の覚束ない足取りながら踏み出したばかりである。幸いにして短歌においては先述の塚本邦雄、俳諧においては「芭蕉七部集評釈」の安東次男というこのうえない先達が居る。この巨星ともいうべき二人の背をただひたすら後追いするを旨として歩めばよいのだ。そして時々に菅谷理論へ立ち返ること。「詩的リズム」は出発点だ。出発の地点とはゆきゆきてやがて往還して最終ゴールの地点でもあるだろう。

 本書の内容についてはかなりの部分をすでに本ブログ上の<身体-表象>で採り上げているから、関心ある向きはそれを参照していただきたい。
 <身体表象-8> 8/24 
 <身体表象-9> 8/25 
 <身体表象-10> 9/6
 <身体表象-11> 9/9


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-14>
 嵐吹く空に乱るる雪の夜に氷ぞむすぶ夢はむすばず
                                    藤原良経

千五百番歌合、冬。
邦雄曰く、肯定形の四句切れはこともあろうに結氷、否定形の結句は、せめて結べと頼みかつ願う夢。みかけるような切迫した冬の叙景のあとの、破格の下句は肺腑に徹る思いもあり、名手の目を瞠らせるような技巧、と。

 身に積る罪やいかなる罪ならむ今日降る雪とともに消(け)ななむ
                                    源実朝

金塊和歌集、冬、仏名の心を詠める。
邦雄曰く、観普賢菩薩行法経の「衆罪霜露の如く慧日能く消除す」、梁塵秘抄の「大品般若は春の水、罪障氷の解けぬれば」あたりを心においての詠であろうか。前例の皆無ではないが、若くしてあたかも世捨人か入道した老人の呟きに似た述懐を試みるのが、奇特でもあり、悲愴とも考えられる。上・下句ともに推量形切れで、「らむ」のルフランを聞かせる、と。

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December 24, 2005

忍び妻帰らむあともしるからし‥‥

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-今日の独言- 今年の三冊、私の場合-1

 昨日触れたのはあくまで今年発刊された書から書評氏が挙げたものだが、今日は私が今年読んだ書からこれという三冊を挙げてみる。
先ずは、塚本邦雄「定家百首-良夜爛漫」-ゆまに書房刊「塚本邦雄全集第14巻」集中。
これについては先日12月8日付にてもほんの少し言及したが、本書中で定家の恋歌について塚本は「見ぬ恋、会わぬ恋、遂げぬ恋を、しかも逆転の位置で歎くという屈折を極めた発想こそ、彼の恋歌、絵空事の愛欲の神髄であった。恋即怨、愛即歎の因果律を彼ほど執拗に、しかも迫真性をもって歌い得た歌人は他にはいない。虚構の恋に身を灼く以前に、日常の情事に耽溺していた多くの貴族には、この渇望と嫌悪の底籠る異様な作が成しえるはずはない。彼の虚の愛のすさまじさは、西行の実めかした恋の述懐調の臭味を睥睨する」と述べ、より美しい虚、より真実である虚構の存在に賭ける定家を見つめている。短歌は幻想する形式であるとして「定型幻視論」もこのような見解を基盤に見出しうるかと思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-14>
 忍び妻帰らむあともしるからし降らばなほ降れ東雲の雪  源頼政

源三位頼政集、冬、暁雪。長治元年(1104)-治承4年(1180)。摂津国渡辺(大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。以仁王(後白河院第二皇子)の令旨により平氏打倒の兵を挙げるも、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍との宇治川の合戦に敗れ平等院に切腹して果てた。享年77歳。「平家物語」に鵺((ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記され、能楽に「鵺」、「頼政」の曲がある。
この歌、忍びつまを夫と見、後朝の別れに女の立場で詠んだと解すのが常道かと思われるが、邦雄氏は忍び妻を採る。東雲の-東の空まだ明けやらぬ頃の。
邦雄曰く、密会の跡の歴然たる足跡は、降りしきる雪が消してくれればよい。隠し妻のかわいい履物の印とはいえ、残ればあらわれて、人の口はうるさかろう。豪快な武者歌人の、やや優雅さに欠けた歌にも見えながら、歌の心には含羞が匂いたつ。命令形四句切れの破格な響きは、作者の人となりさえも一瞬匂ってくるようだ、と。

 竹の葉に霰降るなりさらさらにひとりは寝べき心地こそせね
                                    和泉式部

詞花集、恋。詞書に、頼めたる男を今や今やと待ちけるに、前なる竹の葉に霰の降りかかりけるを聞きて詠める、と。
霰-あられ。さらさらに-竹の葉の擬音語であるとともに、決しての意を兼ねた掛詞。
邦雄曰く、霙-みぞれでは湿りがちになり、雪では情趣が深すぎて、霰以外は考えられぬ味であろう。待恋のまま夜が明けても、寂しく笑って済ませるのが霰の持つ雰囲気か、と。

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December 23, 2005

冬の夜は天霧る雪に空冴えて‥‥

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-今日の独言- 今年の三冊

 18日付、毎日新聞の書評欄-今週の本棚では、総勢32名の書評者各々が勧める今年の「この三冊」を掲載していた。書評者たちの専門は広く各界を網羅しているから、挙げられた書も多岐にわたって重なることはかなり少ないが、複数人によって重ねて挙げられている書を列記してみると、
 大江健三郎「さようなら、私の本よ」-大岡玲、中村桂子、沼野充義の三氏。
 三浦雅士「出生の秘密」-大岡玲、村上陽一郎、湯川豊の三氏。
 筒井清忠「西條八十」-川本三郎、山崎正和、養老孟司の三氏。
 リービ英雄「千千にくだけて」沼野充義、堀江敏幸の二氏。
と4書のみだが、残念ながら私はいずれも読んではいない。
因みに、32名によって挙げられた書の総計は89冊になるが、この内、私が読んだのは2冊のみ、高橋哲哉「靖国問題」と佐野眞一「阿片王-満州の夜と霧」だけで、些か時流に外れた読書人と言わざるをえないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-13>
 雪のうちにささめの衣うちはらひ野原篠原分けゆくや誰
                                  守覚法親王

北院御室御集、冬、雪。久安6年(1150)-建仁2年(1202)。後白河院の第二子、姉に式子内親王、弟に以仁王。幼少より出家、歌道・学才にすぐれ、御子左家歌人の俊成・定家・寂蓮や六条藤家歌人顕昭・季経・有家らともよく交わる。
ささめ-莎草、茅・萱・菅の類、狩り干して蓑の材料にする。
ささめの蓑を着て、降り積もる雪を打ち払い打ち払い、ひたすらに野を急ぐ旅人を遠望する景。
邦雄曰く、第四句「野原篠原」の重なりも、「誰」と問いかけて切れる結句も、心細さをさらにそそりたてる。新古今歌風からやや逸れたところで、清新素朴な詞華を咲かせている、と。

 冬の夜は天霧る雪に空冴えて雲の波路にこほる月影
                                  宜秋門院丹後

新勅撰集、冬、千五百番歌合に。生没年未詳、平安末期-鎌倉初期。源頼行の女、伯父に源頼政。はじめ摂政九条兼実に仕え摂政家丹後と呼ばれ、後に兼実の息女で後鳥羽院中宮任子(宜秋門院)に仕えた。歌人として後鳥羽院に「やさしき歌あまた詠めりき」と評価が高い。
天霧る-あまぎる、空一面を曇らせる。雲の波路-雲の重畳、たなびくさまを波に比喩。
邦雄曰く、水上に空を見、天に海原を幻覚する手法は、古今集の貫之にも優れた先蹤を見るが、第四句「雲の波路」なども、実に自然に錯視現象を生かしている。丹後の歌には気品が漂う、と。

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December 22, 2005

袖にしも月かかれとは契りおかず‥‥

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-今日の独言- 全国的に雪

  太郎を眠らせ太郎の家に雪降り積む
  次郎を眠らせ次郎に家に雪降り積む

 12月にはめずらしい強い寒波がつづく。
22日午前4時47分、鹿児島の市内でも雪が舞っている。
先日、記録破りの雪だった広島もまた大雪となりそうな気配。
アメダスの画像によれば、九州全域に雪雲、中国地方北部と南部一部にも。
そして四国の南部海洋沖、東北地方では北部日本海側とこれまた南部沖上空にも。
列島の海域はほぼすべて荒れ模様、風と浪と雪に見舞われている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-4>
 わたつみのかざしにさせる白妙の波もて結へる淡路島山
                                  詠み人知らず

古今集、雑、題知らず。わたつみの-海神、「わた」は海のこと。かざし-挿頭。淡路島山-歌枕、瀬戸内の淡路島。
邦雄曰く、海神の挿頭は瀬戸内の白い波の花、それを島のめぐりにぐるりと、淡路島は結いめぐらしている。華やかに、おごそかに、雄大な眺めの歌の随一、と。

 袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇津の山越え
                                   鴨長明

新古今集、羇旅、詞書に、詩を歌に合せ侍りしに、山路秋行といへることを。久寿2年(1155)?-建保4年(1216)。下鴨神社の禰宜、長継の二男。後鳥羽院中心の御所歌壇に地位を占めるも、後に出家して和歌所を去る。「方丈記」の他、歌論書「無名抄」、また仏教説話を集めた「発心集」も彼の作に擬せられている。宇津の山-駿河の国の歌枕、静岡県志太郡と静岡市宇津ノ谷の境にある宇津谷峠。
邦雄曰く、涙は袖に玉をちりばめ、その袖の涙に月が映るようにとは約してもいなかったが、涙はそれを承知かと、屈折を極めた修辞は、いわゆる新古今調とはまた一風変った鮮明な旅の歌である。必ずしも秀作に恵まれない長明にとって、この歌は最高作の一つであろう、と。

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December 21, 2005

あしひきの山川の瀬の響るなべに‥‥

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-今日の独言- <身>のつく語

 常用字解によれば、<身>は象形文字にて、妊娠して腹の大きな人を横から見た形。身ごもる(妊娠する)ことをいう。「みごもる」の意味から、のち「からだ、みずから」の意味に用いる、とある。
 <身>はパースペクティヴの原点である。我が身を置く世界の空間構造そのものが、質的に特異な方向性をもったものとして、<身-分け>され、価値づけられる。<身-分け>とは意味の発生の根拠なのだ。<身-分け>を基層にして<言-分け>の世界もまた成り立つ。
 <身>のつく語は数多いが、どれくらいあるものか、ちなみに手許の辞書(明鏡国語辞典)で引いてみた。これが広辞苑ならさらに多きを数えるのだろうが。

身内、身を起こす、身構え、身が軽い、身に余る、身分、身の多い、身から出た錆、身に沁みる、身につく、身につまされる、身二つになる、身も蓋もない、身も世もない、身を誤る、身を入れる、身を固める、身を砕く、身を粉にする、身を立てる、身を投ずる、身を持ち崩す、身を以って、身をやつす、身請け-身受け、身売り、身重、身勝手、身柄、身軽、身代わり-身替わり、身綺麗-身奇麗、身包み、身拵え、身ごなし、身籠る、身頃、身支度-身仕度、身仕舞い、身知らず、身動き、身すがら、身過ぎ世過ぎ、身銭、身空、身丈、身嗜み、身近、身繕い、身共、身投げ、身形-身なり、身の上、身の皮、身の毛、身代金、身の丈、身の程、身の回り、身幅、身贔屓、身振り、身震い、身分、身寄り、
身口意、身魂、身上、心身-身心、人身、身体、身代、身長、身辺、親身

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-3>
 落ちたぎつ岩瀬を越ゆる三河の枕を洗ふあかつきの夢
                                   藤原為家

大納言為家集、雑、三河、建長5年8月。建久9年(1198)-建治元年(1275)。藤原定家の二男、御子左家を継承し、阿仏尼を妻とした。
三河(みつかわ)-琵琶湖畔の坂本を流れる現在の四ツ谷川(御津川)で、三途の川を暗示しているという万葉時代の歌枕。
邦雄曰く、急流の泡立ち流れるさまを「枕を洗ふ」と表現する第四句、暁の夢の景色だけに鮮烈で特色がある。為家55歳の仲秋の作。律調の強さは作者独特のものだろう、と。

 あしひきの山川の瀬の響(な)るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る
                                    柿本人麿

万葉集、巻七、雑歌、雲を詠む。
あしひきの-山に掛かる枕詞。弓月が嶽-大和の国の歌枕、奈良県桜井市穴師の纏向山の一峰かと。
この歌、島木赤彦が「詩句声調相待って活動窮まりなきの慨がある」と、さらに「山川の湍(せ)が鳴って、弓月が嶽に雲の立ちわたる光景を「な経に」の一語で連ねて風神霊動の慨があり、一首の風韻自ら天地悠久の心に合するを覚えしめる」と激賞している。
邦雄曰く、たぎつ瀬々の音、泡立つ瀧の響き、嵐気漲る彼方に山はそばだち、白雲はたなびく。第四句「弓月が嶽」はこの歌の核心であり、この美しい山名はさながら弦月のように、蒼く煌めきつつ心の空にかかる。堂々として健やかに、かつ神秘を湛えた人麿歌の典型、と。

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December 19, 2005

泣きながす涙に堪へで絶えぬれば‥‥

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-今日の独言- エロスを求めて

 以下はP.ヴァレリーの文章からの引用、
出典は平凡社ライブラリー「ヴァレリー・セレクション 上」より。

 恋愛感情は所有すると弱まり、喪失したり剥奪されると発展する。
所有するとは、もうそのことは考えないこと。
反対に、喪失するとは、心のなかで無限に所有することである。

 他人をあるがままの姿で愛することのできる人はいない。
人は変わることを要求する、なぜなら人は幻影しか絶対に愛さないから。
現実にあるものを望むことはできない。それが現実のものだからだ。
おそらく相思相愛のきわみは、互いに変貌しあい互いに美化しあう熱狂のなかにあり、芸術家の創造行為にも較べるべき行為のなかに、
――ひとりひとりの無限の源泉を刺激するような行為のなかにある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-5>
 泣きながす涙に堪へで絶えぬれば縹(はなだ)の帯の心地こそすれ
                                    和泉式部

後拾遺集、恋。生没年不詳。10世紀後半の代表的女流歌人。越前守大江雅致の女。和泉守橘道貞と結婚し小式部を生んだ後、為尊親王・敦道親王と恋愛、その後中宮彰子に仕えたが、晩年は丹後守藤原保昌に嫁したとされる。敦道親王との恋物語を和泉式部日記として残す。
詞書に、男に忘れられて、装束など包みて送り侍りけるに、革の帯に結びつけ侍りける、と。縹(はなだ)-うすい藍色。
邦雄曰く、流す涙に帯も朽ちたと強調しつつ、催馬楽「石川」の、絶たれた縹の帯をもって、そのさだめの儚さを訴えている。作者の、情熱に調べを任せたかの趣きがここには見えず、心細げに吐息をつくように歌ひ終っているのも珍しい。詞書もあわれである、と。

 常よりも涙かきくらす折しもあれ草木を見るも雨の夕暮
                                    永福門院

玉葉集、恋、寄雨恋を。かきくらす-掻き暗す、本来は、空模様などが暗くなることだが、転じて心情表現となり、悲しみにくれて惑乱している状態を表す。中世以降、「かきくらす涙」はよく用いられる秀句表現。
邦雄曰く、恋の趣きは歌の表に現れていない。ただ「涙」が忍ぶ恋を含むあらゆる悲恋を象徴する。草木を見ても、それもまた涙雨の種、さめざめと泣き濡れる。この雨は実景ではなく心象風景としてのそれであろう、と。

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December 18, 2005

立ちて思ひ居てもそ思ふ‥‥

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-今日の独言- かぞいろは

 上古(古代)では、父母のことを「かぞいろは」または「かそいろ」「かぞいろ」とも言ったそうな。「かぞ(=そ)」は父、「いろは」は母の意と。日本書紀では神代上において、「其の父母(かぞいろは)の二の神、素戔鳴尊に勅(ことよさ)したまはく」という件りがある。広辞苑によれば、やはり「かぞ」は古くは「かそ」で父のこと。「いろは」の「いろ」は「同母」の意味を表す接頭語で、「いろは」とは継母や義母でなく、生みの母、とある。なるほど「いろ=同母」のつく語には「いろね=同母兄・同母姉」「いろと=同母弟・同母妹」がある。ここからは類推なのだが、同母を表す接頭語「いろ」はおそらく「色」との類縁で成ったのではないかと考えられる。では「は」は何かといえば、「歯」と同根なのではないだろうか。「かそ」の「か」もおそらくは接頭語的な語であろうから「か=彼」かと思われる。「そ」は再び広辞苑によれば背中の「背」が「せ」ではなく古くは「そ」だったとあるので、思うに「背」と同根なのだろう。父母を表す語が、身体の部位を表す語と同源であるならば納得のいくところなのだが、あくまで素人のコトバ談義、戯れごとではある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-4>
 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾(あかもすそ)引きいにし姿を
                                    作者未詳

万葉集、巻十一。詞書に、正に心緒を述ぶ。
歌意は明瞭、立っても居ても、赤い裳の裾を引いて帰っていったその人の姿が面影に顕れてしまうのだ。
邦雄曰く、たたらを踏むように畳みかけて歌い出す第二句まで、そして第三句からは甘美な夢を反芻するかに陶然と、まさに心がそのまま調べになった美しい歌。赤い衣裳に寄せる恋歌は少なくないが、この紅の赤裳は印象的である、と。

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                                    額田王

万葉集、巻一、雑。詞書に、天皇、蒲生野に遊狩したまふ時。生没年未詳。7世紀、斉明朝から持等朝の代表的万葉歌人。鏡王の女、大海人皇子(天武天皇)の妃となり十市皇女を生んだが、後に天智天皇の妃となる。
天智七年(668)五月五日、蒲生野(近江国、今の安土町・八日市に広がる野)へ遊狩が催された。帝、弟の大海人皇子その他宮廷の貴顕、官女らも随った。
大海人皇子のこれに答える歌「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも」
邦雄曰く、女性特有の逡巡・拒絶を装った誘惑・煽情に他ならぬ。鮮麗な枕詞および律動的な調べが、ろうたけた匂いを与えてこの一首を不朽のものとした。禁野における禁断の恋であることも、この歌の陰翳となる、と。

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December 16, 2005

われのみぞ悲しとは思ふ‥‥

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-今日の独言- 歌枕の多きこと

 図書館から借り受けてきた「歌ことば歌枕大辞典」を走り読みしている。まあ正確に言えば見出し語ばかりを読み飛ばしているようなものだ。それにしても歌枕となった語=地名の多いことに半ば呆れつつ感嘆。「赤城の社」「明石」と始まって「青墓」「青葉の山」まで、「あ」の項だけで60語。このぶんだと1000に届かずとも500は優に越えるだろう。平安期の能因や西行、江戸期俳諧の芭蕉や蕪村らは旅を友とし歌枕の地を訪ね歩いているが、殆どの歌人は現にその地を踏むこともなく脳裡に描いた想像上の地図のなかで詠み込んできたわけだから、これほどの多きを数えるのも別して驚くにあたらないのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-12>
 花と散り玉と見えつつあざむけば雪降る里ぞ夢に見えける
                                    菅原道真

新古今集、雑、雪。大宰府詠。承和12年(845)-延喜3年(903)。参議是善の子。宇多・醍醐天皇の信任厚く、右大臣に昇ったが、藤原時平の讒言にあい延喜元年(901)、太宰権帥に左遷され、配所で没。菅家文章・菅家後集に詩文、類聚国史・三代実録の編著。新選万葉集の編者。
歌意は、この筑紫でもやはり雪は花のように舞い散り、庭に敷いた玉石のように見える。そうして私の目をあざむくので、雪の降る郷里の里を夢にまで見たことよ、と望郷の想いが強く滲む。
邦雄曰く、道真集に見える大宰府詠は、自らの冤罪を訴え、君寵を頼む述懐歌が多いが、この歌は例外的に、筑紫に降る牡丹雪を眺め、その美しさに都の雪景色を夢見たという、むしろ歓喜の調べである、と。

 われのみぞ悲しとは思ふ波の寄る山の額に雪の降れれば  源実朝

金塊和歌集、冬、雪。建久3年(1192)-建保7年(1219)。鎌倉三代将軍。頼朝の二男。正二位右大臣。鶴岡八幡に正月拝賀の夜、甥の公暁に殺された。和歌を定家に学び、家集に金塊和歌集。
実朝には、「社頭雪」という題詠の「年積もる越の白山知らずとも頭の雪をあはれとも見よ」に代表される、白髪の老人ならぬ若き青年が、老いの身にやつして詠んだ老人転身詠があり、この詠も同種の趣向とみえるが、若くして諦観に満ちた運命の予感を潜ませているのだろうか。
邦雄曰く、崎鼻の雪、波の打ち寄せる小高い山にしきりに降る積もる雪を遠望して、何を「悲しとは思ふ」のか。しかも初句「われのみぞ」と限定するのか。無限定、無条件の述志感懐は、ただ黙して受け取る以外にない、と。

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December 15, 2005

小笹原拾はば袖にはかなさも‥‥

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-今日の独言- 懐具合も些か

 外出すると吹きすさぶ寒風に身を震わせるばかりの情けなさだが、懐具合もまた些かお寒い我が身である。今月の購入本は「日本歌語辞典」一書のみとした。大修館版94年刊、本体18000円也だが、古書にて7700円也。懐具合を思えば他に手を出すことなど自粛せざるを得ない。それかあらぬか図書館頼みが多くなった。塚本邦雄全集の第14巻は、期間満了で一旦返却してあらためて借り出す。もうひと月ばかり手許に居て貰って耽溺すべし。
ほか、図書館からの借本
大津透・他「古代天皇制を考える-日本の歴史-08」講談社版
姜尚中・他「日本はどこへ行くのか-日本の歴史-25」講談社版
斉藤憐「昭和名せりふ伝」小学館
塚本邦雄「塚本邦雄全集第15巻 評論Ⅷ」ゆまに書房
長谷章久「和歌のふるさと-歌枕をたずねて」大修館書店
久保田淳・他「歌ことば歌枕大辞典」角川書店

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-11>
 降る雪は消えでもしばし止まらなむ花も紅葉も枝になき頃
                                 詠み人知らず

後撰集、題知らず。定家の二見浦百首「花も紅葉もなかりけり」や後鳥羽院の「このごろは花も紅葉も枝になししばしな消えそ松の白雪」などの本歌。
邦雄曰く、見るものすべて消え失せた真冬には、雪こそ唯一の飾り、枝にしばらくは止まって、一日の栄えとなれと願う。第二・三句、悠長ではあるが、これも一つの味わいか、と。

 小笹原(おざさはら)拾はば袖にはかなさも忘るばかりの玉あられかな
                                 宗祇

宗祇集、冬、霰。応永28年(1421)-文亀2年(1502)、出自不詳。父は猿楽師との伝。中世を代表する連歌師。心敬らに師事。東常縁より宗祇へと伝えられた歌の奥義が古今伝授の初例とされる。「新撰菟玖波集」を選、有心連歌を大成。
邦雄曰く、源氏物語「帚木」に「拾はば消えなむと見ゆる玉笹の上の霰」、人口に膾炙した名文句で盛んに引用されている。第三・四句の移りが呼吸を心得た巧さで、さすが連歌師と思わせる、と。

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December 14, 2005

夢かよふ道さへ絶えぬ呉竹の‥‥

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-今日の独言- 記録破りの大雪と証人喚問と東アジアサミットと

 このところ近年にない厳しい冷え込みがつづく。近畿でも日本海側では大雪が降りつづき、明日にかけて記録破りになりそうな。今日はお馴染み赤穂浪士の吉良邸討入りの日だが、歌舞伎でも映画でも討入りに大雪は切っても切れない定番の付け合せだ。
ところで、国会ではマンションなどの耐震強度偽装問題で証人喚問が行なわれている。問題の姉歯一級建築士、木村建設の木村と篠塚氏、総建の内河氏が順次登場する。
一方、マレーシアのクアラルンプールではASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3(日中韓)首脳会談につづいて、今日は第1回東アジアサミットが開かれ、小泉首相も12日からお出ましだ。
いま国内で最大の注目を集めている偽装問題の証人喚問を、東アジアサミットの日程にぶつけるあたり、対中・韓の小泉外交がクローズアップされるのを避ける深謀遠慮が働いているのではないか、とどうしても勘繰りたくなるのだが‥‥。
 記録破りの大雪と証人喚問と東アジアサミットと、2005(平成17)年の歳末の一日、この三件の取り合わせは、なお明日の見えない冬の時代に逼塞している我が国の状況をよく象徴しているのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-9>
 閨(ねや)のうへは積れる雪に音もせでよこぎる霰窓たたくなり
                                   京極為兼

玉葉集、冬の歌の中に。建長6年(1254)-元弘2年(1332)。藤原定家の曾孫、京極為教の庶子。祖父為家・阿仏尼に歌道を学ぶ。御子左家京極派和歌の創始者にして主導者。同じ御子左家二条為世とは激しい論戦を展開したライバル。伏見院の信任を得て、玉葉集単独の選者となる。
邦雄曰く、窓にあたってさっと降り過ぎてゆく霰、下句はその一瞬を見事に言い得ている。一方屋の上は積った雪が受け音はまったく聞こえない。音がしたとて、微かな儚い響きではあろうが。二条派歌人は「よこぎる」とは言わずとも「たたく」で十分と難じたが、言語感覚の差であろう、と。

 夢かよふ道さへ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪の下折れ  藤原有家

新古今集、摂政太政大臣家にて、所の名を取りて、冬歌。久寿2年(1155)-建保4年(1216)。六条藤原重家の子。定家と同時代人にて、後鳥羽院歌壇の主要歌人の一人。和歌所寄人となり定家・家隆らととみに新古今集の選者。
第三句「呉竹の」は竹の節に懸けた「伏見」の枕詞。
邦雄曰く、伏見の里の雪景色が絵のように展開される一方、心の世界では愛し合う二人の、男の切ない夢は、その呉竹即ち淡竹の、雪の重みに耐えきれず折れる鋭い響きに破られ、せめてもの夢路の逢瀬すらも中断される。紗幕ごしに聴く弦楽曲にも似た、微妙細緻な調べ、言葉の綾は、有家一代の傑作、と。

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December 13, 2005

冴ゆる夜の雪げの空の群雲を‥‥

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-今日の独言- 堪ヘ難キヲ堪エ

 劇作家で演出家でもある斉藤憐の著「昭和名せりふ伝」を読む。
昭和の初めから終りまで、流行り言葉から昭和を読むというモティーフで、演劇雑誌「せりふの時代」に連載したものを大幅に加筆して2003年4月に小学館から出版されたもの。
60年代以降の小劇場運動を先端的に開いてきた実践者らしい批判精神が、庶民の視点から昭和史を読み解く作業となって、読み物としてはかなり面白い。
「堪ヘ難キヲ堪エ忍ヒ難キヲ忍ヒ」はいわずと知れた終戦の詔勅、この玉音放送をその時、人々はどのように聞き、受け止めたかの章がある。
外地で放送を聴いた堀田善衛は「放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ。お前のいうことはそれっきりか、これで事が済むと思っているのか、という怒りとも悲しみともつかぬものに身がふるえた」と著書「橋上幻想」に記しているのを引き、しかし、堀田のように感じた日本人は少なかったとし、軍部指導者たち、当時の著名文人たち、或は庶民層に及ぶまでその輻輳したリアクションを活写しながら、玉音放送の果たした意味そのものに肉薄する。
章末、著者によれば、終戦の年の暮れ即ち昭和20年12月の世論調査では、天皇制支持が軒並み90%を超えていたそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-9>
 月清み瀬々の網代による氷魚(ひお)は玉藻に冴ゆる氷りなりけり
                                    源経信

金葉集、冬、月照網代といへることを詠める。長和5年(1016)-承徳元年(1097)。桂大納言とも。民部卿道方の子。大納言正二位。博識多芸で公任と並び称された。太宰権帥として赴き、任地で歿した。
邦雄曰く、無色透明、軟らかい硝子か硬い葛水の感ある鮎の稚魚を、美しい水藻に絡む氷の粒に見立てたところが、類歌を圧して鮮烈である。感覚の冴えに加えて、「氷のごとし」などと直喩を用いなかったところも面白い、と。

 冴ゆる夜の雪げの空の群雲(むらくも)を凍りて伝ふありあけの月
                                  二条為世

新拾遺集、冬、冬暁月。建長2年(1250)-延元3年(1338)。定家の曾孫、為家の孫、二条家藤原為氏の長子。大覚寺統の後宇多、持明院統の伏見天皇に仕え、正二位権大納言。新後選集、続千載集の選者。
邦雄曰く、第四句「凍りて伝ふ」に一首の核心を秘めて、類歌を見下すかに立ち尽くす体。雪装いの薄墨色の雲の縁を、白銀に煌めく寒月が、付かず離れず移っていく夜空の景を、克明に、しかみ凝った修辞で歌い進める技量。但し、あまりにも素材を選び調えすぎた感は免れず、ややくどい、と。

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December 12, 2005

月宿す露のよすがに秋暮れて‥‥

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-今日の独言- 縺れる表象

 11月29日のDanceCafe以来の稽古。
次なる射程は年明けて2月10.11.12日の三日間開催される京都のアルティ・ブヨウ・フェスティバル。
このところ私が塚本邦雄の評釈などを通して和歌世界に耽溺しているのには期すべき狙いがあってのことだ。三十一音という短かく限られた枠内に、枕詞、本歌取り、比喩、縁語、懸詞、係結びなど、あらゆる技法を駆使して詠まれ歌われた日本の短詩型文学は、無駄を省きコトバを極限にまで削りつつも、却ってその表象は二重三重に絡み縺れあい、繊細にして華麗、ポリフォニックな言葉の織物とでもいうべき世界を創り出しているかと思う。だがこの見事な織物は言葉によって紡ぎ編まれたものとはいえ、あくまで歌として詠まれたものであること、言語表象でありつつむしろ語り歌われるべき音声としての表象性こそが本領であろう。ならばこの言葉の錬金術の如き表現技法に関する理解の深まりは、身体による表象世界においても多いに手がかりとなって然るべきではないかというのが、さしあたり私の作業仮設なのだけれど、はたして実効があがるか否かはまだまだ深い霧のなかでしかない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-8>
 月宿す露のよすがに秋暮れてたのみし庭は枯野なりけり
                                   藤原良経

秋篠月清集、百種愚草、南海漁夫百首、冬十首。嘉応元年(1169)-建永元年(1206)。忠通の孫、兼実の二男。正治元年(1199)左大臣、建仁2年(1202)摂政、元久元年(1206)従一位太政大臣。若くして詩才発揮、俊成・定家の新風をよく身につけ、六百番歌合を主催し、俊成ら御子左家の台頭を決定的に。新古今集の仮名序を著し巻頭作者に。
邦雄曰く、草葉の露には秋の夜々月が宿っていた。それのみを頼りにしていた庭も、来てみれば今は跡形もなく、ただ一面の枯れ草。第二・三句の鮮やかな斡旋で叙景がそのまま抒情に転ずるところ、さすがと頷くほかはあるまい、と。

 しるべせよ田上(たなかみ)川の網代守り日を経てわが身よるかたもなし
                                  兼好

兼好法師集、網代。生没年未詳。「徒然草」の著者。生年は弘安6年(1283)の伝、没年は観応年間(1350-1352)や貞治元年(1362)頃の諸説。藤原氏の氏社である吉田神社の祠官を代々務めた卜部氏の出身。
氷魚と網代の名物は歌枕の田上川。瀬田川の支流で、水源は信楽の谷、別名大戸川。
邦雄曰く、網代の番人に道案内を頼まねば寄る辺もない身になったとの述懐を、冬歌に託した技法。第四句「日を経て」に氷魚を懸けて、氷魚が網代に寄るがごとく、わが身の寄る方か、と。

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December 10, 2005

かつ惜しむながめもうつる庭の色よ‥‥

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-今日の独言- 喪中につき

 昨日に続き、死に関しての記述で、これを読まれる方には誠に申し訳ないのだが‥‥。
年の瀬のこの頃ともなると、「喪中につき」と年始ご挨拶お断りのハガキが寄せられてくる。此方自身が年経たせいか、そのハガキも近年増えてきたように思うのは気のせいばかりではあるまい。此の人の父上或は彼の人の母上と、なかに、ついに一度もおめもじしないままに打ち過ぎてしまった古い友人の細君から、夫何某喪中につき、とのハガキを丁重にも戴いた場合は、このうえなく胸に応え、しばらくは亡きともがらの追憶などに浸ってしまいがちになる。
「不合理ゆえに吾信ず」と言いきったのは埴谷雄高だったが、自分自身もうとっくに、死に向かって生きているのさ、と思い定めてはいるものの、そう言いきるほどにとても貫けはしない私ではある。不慮の病に襲われていかほどに非情への恨みと諦めを行きつ戻りつしたろうかと、此方からは計りようもないはずの無念の心底を慮ってみる愚を、それと知りつつ避けられないのはどうしたことか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-7>
 吹きにけりむべも嵐と夕霜もあへず乱るる野辺の浅茅生
                                  尭孝

暮風愚吟集、応永28年11月、前管領にて、嵐吹寒草。明徳2年(1391)-享徳4年(1455)。二条派頓阿の曾孫、経賢の孫。将軍足利義教の信任を得て、富士見や伊勢詣でにも随行し、新続古今集選集に和歌所官吏となる。
邦雄曰く、吹きなびき絡みあう枯れ草の姿をそのまま調べに写した感あり。初句切れで嵐の到来を告げ、「むべ山風を嵐といふらむ」を踏まえつつ懸詞で霜を見せ、あえなく乱れ伏す草々の姿を描く。巧者に過ぎるくらいの技量ではある、と。

 かつ惜しむながめもうつる庭の色よなにを梢の冬に残さむ
                                  藤原定家

六百番歌合、冬、落葉。
邦雄曰く、残すべき葉も、すでに一片だに梢にはない。刻々に荒れ、末枯れていく庭の眺めに、暗然と立ちつくす姿。第三句字余りのたゆたいは、心盡くし歴然、と。

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December 09, 2005

霜置きてなほ頼みつる昆陽の葦を‥‥

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-今日の独言- ある悲報

 突然の訃報が届いた。バイクによる交通事故死だという。
K.T君、たしか38歳位だと思う。15年ほど前か、彼がまだ関学の学生劇団・爆☆劇団をやっていた頃に知り合った。キッカケはひょんなことからだ。記憶違いでなければ、当時の音響スタッフだった通称、秘魔神を介してだった。神戸の看護専門学校から戴帽式の演出を頼まれた際、照明を手伝ってくれたのじゃなかったか。彼との機縁がなければ、幼な児の母親つまりは現在の連れ合いとの縁も生れなかったことを思いやれば、間遠な関わりではあったが縁は深いともいえる。
彼はここ数年、鬱を病んでいた。最近は「白堊(はくあく)演劇人日誌」という自分のブログに、日々の想いや鬱ゆえの繰り言を綴っていた。時折覗いてみては、近況を知るといった態で、日々をやり過ごしてきたのだが、睡眠剤常用の身でありながら外出はバイクに頼っていた暮らしだったろうから、死と隣り合わせの危険は絶えずつきまとっていたといえるのかもしれない。
通夜は今宵、明日の葬儀という。
合掌。

以下は、彼のブログ日誌より「メランコリー」と題された詩篇のごとき一節。逝ってしまった彼に引用の断りようもないが許してもくれよう。

「メランコリー」

憂鬱の中に飛翔する一枚の葉あり
密かに潜行するグロテスクな牙あり
地上を歩行する頼りなげな人の影
今にも消えてなくなりそうな魂
どこにも行けない子供の性器
今にも狂わんとすなされるべき行為
動かないで
息を潜めて
この饗宴の中で身を隠し
この洪水の様な音の中で耳を傾け
気もそぞろにせわしなく歩き回る
私は気が狂ったのか
それとも世界が姿を変えたのか
充実した果実の熟れ具合を確かめながら
あなたは問う
この世の終わりを探す
いたたまれない姿
行動しない獣達
ぐるりとまわる存在しない地球
世界
時間
場所
濡れそぼったそこ
生きると言う事

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-6>
 霜置きてなほ頼みつる昆陽の葦を雪こそ今朝は刈り果ててけれ
                                  式子内親王

菅斉院御集、冬。生年不詳-正治3年(1201)歿。後白河の皇女。母は大納言藤原秀成の女成子で、守覚法親王・以仁王らは同腹。平治元年(1169)賀茂斉院となり、後に退下して出家。新古今時代の女流代表歌人。
枯れ枯れの伊丹昆陽の里、それでもなお人の訪れは心頼みにしていたが、今はもうその望みも絶えた。葦群はすっかり雪に埋もれ、通ってくる道さえもない。
邦雄曰く、下句の強勢表現は凄まじく、呼吸の切迫したような、言い捨ての調べは、彼女の全作品中でも異色を誇ろう。この力作、二十一代集のいずれにも採られなかった、と。

 花紅葉散るあと遠き木の間より月は冬こそ盛りなりけれ
                                  細川幽斎

衆妙集、冬。天文3年(1534)-慶長15年(1610)。本名藤孝、熊本細川藩の祖。一説に実父は将軍足利義晴と。母は清原宣賢の娘、忠興の父。剣術・茶道ほか武芸百般に精通、歌は三条西実枝に古今伝授を受け、二条派を継承したと。
邦雄曰く、冬の月冴えに冴え、心を凍らすばかりの眺めを愛でる。上句は花も紅葉もすでに季ならぬことをいいながら、「あと遠き」によってその存在をさらに鮮烈に顕わなものとする効果。下句はその心境を述べたにすぎないようだが、一種祝儀の口上に似た張りと豊かさがある、と。

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December 08, 2005

思へども人の心の浅茅生に‥‥

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-今日の独言- 定家百首

 塚本邦雄の「定家百首-良夜爛漫」は見事な書だ。
「拾遺愚草」3564首を含む藤原定家全作品四千数百首の中から選びぬいた秀歌百首に、歌人塚本邦雄が渾身の解釈を試みる。
邦雄氏の本領が夙に発揮されるのは、一首々々に添えられた詩的断章だ。
一首とそれに添えられた詩章とのコレスポンデンス=照応は、凡百の解釈などよりよほど鑑賞を深めてくれる。
たとえば、百首中の第1首ではこうなる。

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ

 上巻「二見浦百首」の中、「秋二十首」より。新古今入選。

   はなやかなものはことごとく消え失せた
   この季節のたそがれ
   彼方に 漁夫の草屋は傾き
   心は非在の境にいざなはれる
   美とは 虚無のまたの名であったろうか

以下、成立背景なり、古来からの評釈なりに、時に応じ言及しつつも、あくまで一首の表象世界にこだわりぬいた歌人塚本邦雄ならではのコトバのタペストリー=織物が眼も綾に綴られていく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-5>
 思へども人の心の浅茅生に置きまよふ霜のあへず消(け)ぬべし
                                  藤原家隆

千五百番歌合、恋。保元3年(1158)-嘉禎3年(1237)。藤原光隆の子。従二位宮内卿。定家と並び称される俊成門の才。和歌所寄人、新古今集の選者。後鳥羽院の信任厚く、隠岐配流後の院にも音信絶たず。
邦雄曰く、定家・千五百番歌「身をこがらしの」と双璧をなす秀作。忍ぶ恋の儚さ虚しさを、結ぼうとしても結びきれぬ霜の結晶に譬えて、無情な思われ人の心を浅茅生とした。下句「置きあへず消ぬべし」の初めを断ち「まよふ霜の」と挿入したあたり、凄まじい気魄がみえる、と。

 さびしさは色も光もふけはてて枯野の霜にありあけの月
                                  亀山院

新続古今集、冬、野冬月といふことを。建長元年(1249)-嘉元3年(1305)。後嶬峨院の皇子、兄後深草天皇の譲位を受けて践祚。大覚寺統の初めとなった。
邦雄曰く、単純な初句が冬景色の侘しさを写して「色も光も」の畳みかけが生きている。錆銀色に輝く月を「ふけはてて」と強調し、老巧な冬歌となった、と。

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December 07, 2005

消え侘びぬうつろふ人の‥‥

051023-151-1

-今日の独言- 寒さにゃ弱いのだ

 ここ数日、冬本番の寒波襲来。
外出すると冷たい風が身体を刺す。どうも夏場生れのせいか寒さには滅法弱い我が身は、寒風にさらされると途端に意気地がなくなるようだ。私の朝の日課は、4歳の幼な児を保育園に送りとどけることなのだが、つい先日までは、幼な児がそれを望むせいもあって、自転車に乗せて10分足らずの道のりを走らせていた。しかし、ここ二、三日の寒風に情けなくもギブアップ、あくまで自転車で行きたいという幼な児を宥めすかすようにして、クルマでの送りに切り替えさせてもらっている始末。
一茶の句に
  日短かやかせぐに追ひつく貧乏神
というのがあるが、寒さに震えてばかりの身には貧乏神まで寄りついてきそうな年の瀬だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-5>
 消え侘びぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露
                                  藤原定家

新古今集、恋、千五百番歌合に。
邦雄曰く、定家得意の女性転身の詠。愛人の心変わりに、身を揉み、心を焦がし、泣き暮らすその辛さ、悔しさを、木枯しの風と吹き荒れる森の景色に托して、二重写しの、複雑な心理描写を、これでもかというほどに徹底させた秀作中の秀作、と。

 置く霜は忍ぶの妻にあらねども朝(あした)わびしく消え返るらむ
                               祐子内親王家紀伊

祐子内親王家紀伊集、左京権太夫の百首の内、霜。平安後期、生没年不詳。民部大輔平経方の女というが、異説もある。後朱雀院中宮嫄子とその第一皇女祐子内親王とに仕え、中宮紀伊・一宮紀伊と呼ばれた。
邦雄曰く、隠し女は一夜を共に過ごしても、後朝の名残りを惜しむ暇さえなく姿を隠さねばならぬ。四季歌にもかかわらず、濃厚に恋の趣きでまとめたところが珍しい、と。

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December 05, 2005

一葉だにいまは残らぬ木枯しの‥‥

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-今日の独言- タイム・スリップ

 先週の金曜日(2日)、高校時代の同窓会幹事連中の忘年会に出かけた。充分間に合うように家を出たのだが、地下鉄を降りて久し振りに歩く都心の夜の町並みに感を狂わせたのか、どうやらあらぬ方向にどんどん歩いてしまっていたらしく、地下鉄一駅分ほど行って気がつく始末。軌道修正して足を速めたものの目的の会場に着いたのは10分ほどの遅刻。総勢28名は男性17名に女性11名の内訳。そのなかにひとり、40年ぶりに会うKT君がいた。彼は高校時代の面影をそのままに残していた。同じ演劇部のロッカー部員のような存在で、三年間というものほぼ毎日顔を会わせていた相手だから、彼の容貌は鮮明に覚えている。その記憶の像そのままに、まったくといっていいほど老け込みもせずにいるKT君の姿形を、私は些か驚ろきつつ見入ってしまったものだ。宴のなかば私の隣に座り込んで長くはない時間だが話しこんだその会話も、声といい話しぶりといい、高校時代の彼そのままだった。おそらく私のほうも高校時代に戻った語り口になっていたろう。いま我々二人は40年余り昔の会話そのままに話し合っている。ちょっとしたタイム・スリップ、そんな感覚に襲われた些か不思議な時間だった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-4>
 一葉だにいまは残らぬ木枯しの枝にはげしき夕暮の声
                                  飛鳥井雅親

亜槐集、冬。詞書に、寛正4年11月、内裏御続歌の中に、夕木枯。応永23年(1416)-延徳2年(1490)。新古今集撰者雅経を祖とする蹴鞠・和歌で名高い飛鳥井家の正統を雅世の長男として承継。
邦雄曰く、木枯しの声が夕暮につのり高まる意ではあるが、結句「夕暮の声」は、それ以上の効果を生む。平穏な上句に対して、下句のしたたかな技巧は陰鬱な迫力あり、冬の歌として、殊に15世紀後半には瞠目の価値があろう、と。

 一葉より誘ふ柳の影浅みさびしさなびく冬の河風  上冷泉為和

今川為和集、四。詞書に、享禄4年於駿州十月、冬植物。安土桃山期の人。藤原北家嫡流の系譜に連なる上冷泉為広の嫡子。
邦雄曰く、歌には珍しい、川端柳の蕭条たる冬景色、鞭の揺れるような枝垂れ柳の一葉も残さぬ姿。第四句「さびしさなびく」の、いささか捻った修辞も、頷かせるものがある。この人の家集には、柳の歌が頻々と現れ、この木へ寄せる愛着が窺われる、と。

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December 04, 2005

寝覚めしてたれか聞くらむ‥‥

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-今日の独言- TVの事件報道

 テレビにおける事件報道の過剰は、類似犯行の連鎖を助長しているように思えて仕方がないのは私だけではないだろう。広島の小1女児殺害の犯人が逮捕され、動機など事件解明の報道がされるなか、またしても栃木で小1女児が下校時に連れ去られ殺されるという悲惨きわまる類似の事件が起こったが、これはどう考えても先行した広島の事件報道が導火線の役割をしたという側面を見逃しえないのではないか。
 事件に取材した報道が朝・昼・夜とまるで金太郎飴のごとく洪水のように繰り返し流されるのは、到底、犯罪の抑止力になるとは思えない。それどころか意識下にマグマのように滾っている鬱屈した心性にいかにも偶然的にせよ出口を与え、類似の犯行へと現実に至らしめるという結果を招いているのではないかという惧れを抱かざるをえないのだ。誰しも斉しくとはいわないが、自らの想念の内に犯罪者としての自身の似姿を描いたりする場合はままあるものだろう、と私は思う。だが現実にはその殆どの犯罪的心理は自己の内部に抑圧され、具体的な事件となって顕在化することはないし、そこにはなかなかに越えがたい閾値が存在しているものだが、こうもマンネリ化した事件報道の洪水はその越えがたい閾値を、結果として低くしてしまい、ある特定の者にとっては本来ならば充分抑圧しえていた犯行への衝動が抑止できず現実の行動へと短絡させてしまうことは起こりうるのではないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-4>
 散り散らず木の葉夢とふ槙の屋に時雨をかたる軒の玉水
                                  木下長嘯子

挙白集、冬、時雨。永禄12年(1569)-慶安2年(1649)。安土桃山から江戸初期。秀吉夫人北政所の甥、小早川秀秋の兄。歌は細川幽斎に学び、同門に松永貞徳など。
邦雄曰く、凡そ秀句表現の綴れ織りのような歌であるが、冬歌の侘しい風景は俄かに輝きを帯びて珍しい趣を呈する。「木の葉夢訪ふ」といい「時雨をかたる」といい、選びに選んだ詞華の鋭い香りと光を伝える、と。

 寝覚めしてたれか聞くらむこの頃の木の葉にかかる夜半の時雨を
                                  馬内侍

千載集、冬、題知らず。生没年未詳、平安中期の女流歌人。斎宮女御徽子や一条院中宮定子に仕え、伊尹、道隆、通兼など権門の貴公子らとの恋多き才女。歌意は「ふと寝覚めれば、微かに耳に入るのは、庭に散り乱れたの落葉に降りかかる冷え冷えとした時雨の音、冬のこの夜半に、どこかで誰か、同じように耳を澄ましているだろうか。」
邦雄曰く、微かに歌の底に、待恋のあはれが漂っている。倒置法ゆえに、下句はあやうく揺れ味わいを深める、と。

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December 03, 2005

逢坂の関の嵐の烈しきに‥‥

C051024-162-1

-今日の独言-
かはたれどき

 黄昏時-たそがれどき-とは、「誰ぞ彼れ時」から生れ、夕刻、薄暗くなってきて、あそこに居る彼は誰ぞと問いかける頃、という意味だというのは概ねご承知かと思われるが、これと対語のように「かはたれどき」というのもあったとは寡聞にして知らなかった。「彼は誰れ時」と書き、意味は同様だが、「たそがれ」が夕刻に限り用いられ、こちらは逆に、まだ薄暗き明け方に用いられた言葉。広辞苑には「かわたれ」の見出しで載っているが、明鏡国語辞典には無く、すでに死語扱いと化している。
そういえば、ある辞書では、昨年の新版が出た際、新語が1500加わり、逆に114語が辞書から消えていた、と具に調べたご奇特な御仁が小エッセイに書いていた。
不易流行とはいうが、コトバというもの、まことに不易と流行のはざまにあって、ダィナミックに生成消滅してゆくものだし、いつの時代でもコトバは乱れている、乱れざるをえないのが実相で、それがコトバの本質なのだろう。佳きコトバの賞玩はどこまでもおのれ自身の内なる問題として、消えゆくコトバにしたり顔に慨歎してみせるようなことは避けるのが賢明なのだと自戒してみる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-3>
 逢坂の関の嵐の烈しきにしひてぞゐたる世を過ぎむとて
                                  蝉丸

続古今集、雑、題知らず。生没年・伝ともに不詳。今昔物語に、宇多天皇第八皇子敦美親王に仕えた雑色というが、確かな根拠はない。平安朝後撰集時代の隠者で、盲目の琵琶の名手という伝。
邦雄曰く、百人一首「知るも知らぬも逢坂の関」の詞書「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに」を背景に、この伝説中の人物をさまざまに推量すれば、ゆかしくかつあはれは深い。第四句まで一気に歌い下して口をつぐみ、おもむろに結句を置いた感。また、第三句の「に」に込めた苦みも独得の味、と。

 むら時雨晴れつるあとの山風に露よりもろき峯のもみぢ葉
                                  二条為冬

新千載集、冬。詞書に、元亨3年、亀山殿にて、雨後落葉といふことを。乾元3年(1303)?-建武2年(1335)。鎌倉末期の歌人。俊成・定家の御子左家系譜の権大納言二条為世の末子。南朝尊良親王を奉じ、尊氏追討の戦にて討死。
邦雄曰く、冬紅葉の、霜と時雨にさらされて、触れればそのまま消え失せるような儚さを、第四句「露よりもろき」で言いおおせた。やや微視的なこの強勢と、一首の大景とのアンバランスも面白い、と。

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December 02, 2005

むらむらに小松まじれる冬枯れの‥‥

041219-026-1

-今日の独言-
社会鍋

 とうとう今年も最後の月、師走となった。
ところで12月は月間を通じて歳末たすけあい運動の月とされているが、このルーツを辿ると明治の終り頃に始まったキリスト教の救世軍による「社会鍋」運動に端を発するということになるらしい。社会鍋という用語にいかにも時代臭を感じさせられるが、街頭で鍋を吊るして生活困窮者のための募金活動を行なったのだから、言い得て妙とも。救世軍とはプロテスタントのメソジスト派伝道師ウィリアム・ブースがロンドンで興し、組織を軍隊形式に倣って、救霊=伝道と社会福祉事業に活動の中心をおいた。1865年のことである。日本では30年を経た1895年に生まれ、戦前は廃娼運動と深く結びついたようだ。昭和初期の恐慌下で、社会鍋運動は全国各地にひろがる「歳末同情募金」へと一般化され、戦後も市町村社会福祉協議会などを主体とした「歳末たすけあい運動」へ継承される。昭和34年(1959)、政府は社会福祉事業法を制定、共同募金運動の一環の内に位置づけられ、その奨励策のなかで年々盛んになってきた訳だ。
昭和34年といえば私は中三の年なのだが、当時の古い記憶を手繰り寄せれば、ひとりひとりの善意の発露からの募金行為が、なにやらお仕着せがましい、政府御用達のものと変質していったような、そんな感触からか抵抗感を抱くようになったのは、自身の思春期における変容とも重なって、懐かしくも奇妙なリアリティのある出来事だったのだ、と思い返される。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-2>
 夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲の影
                                  光厳院

風雅集、冬、時雨を。正和2年(1313)-貞治3年(1364)、持明院統・後伏見の第一皇子。南北朝期が始まる北朝の天皇。後醍醐、尊氏、義貞らの抗争に翻弄された。祖母永福門院の薫陶を受けて和歌にすぐれ、自ら風雅集の選にあたる。
邦雄曰く、落日の光が一時とどまる落葉に、時雨が雨脚を見せて通り過ぎるという、この上句にはいささかの曲もない。だが下句「庭にみだるる浮雲の影」は浮雲の影が庭に乱れるとしたところに、深く頷きたいような配慮がある。第三句の字余りも、結果的には作者の心を写した、と。

 むらむらに小松まじれる冬枯れの野べすさまじき夕暮の雨
                                  永福門院

風雅集、冬、題知らず。文永8年(1271)-康永元年(1342)、西園寺実兼の女、伏見天皇に嫁し中宮となる。京極為兼・伏見院とともに京極派を代表する歌人。
邦雄曰く、速力のある旋律が一気に、黒の濃淡で、見はるかすような大景を描き上げている。しかも上句はアレグロ・モデラート、下句はプレスト、殊に第四句「野べにすさまじき」で一瞬息を呑む。平々凡々の枯野詠となるところを急所々々を高め強めることによって、忘れがたい調べを創りあげた。思えば第二句の「小松」も点睛の語、と。

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November 30, 2005

夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く‥‥

041219-019-1

-今日の独言-
猿も環境で鳴き声が変わる

 今朝は冬本番もまぢかと思わせる冷え込み。ベランダのガラス戸を開けると冷たい風が吹き込んで思わずブルッと身を震わせた。
昨日の報道だったか、京大霊長類研究所による長年の実験調査で「猿にも方言、住環境で鳴き声の音程変化」という記事が紹介されていた。屋久島の野生ニホンザルを愛知県大平山に集団移住させて、両者の生態を十年かけて調査したところ、鳴き声の高低に著しいほどの変化が見られたとのこと。鳴き声の変化が遺伝よりも学習において身につくことの証明となり、ヒトの言語のルーツを解く手がかりにもなるとされている。その階梯にひろがる距離はまだまだ遠いだろうが、肯ける説ではある。
それはそれとして、大平山のサルたちは屋久島のサルたちに比べてずいぶん鳴き声が低く変化しているらしいが、ぐっと冷え込んだ今朝の寒空に、どんな悲鳴をあげたろうか。きっと低音化した鳴き声もその時にかぎっては一段と高くなったにちがいない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-1>
 たれぞこの昔を恋ふるわが宿に時雨降らする空の旅人  藤原道長

御堂関白集。康保3年(966)-万寿4年(1027)。平安朝、摂関政治全盛期に君臨し、我が世の春を謳歌。
「嵯峨野へ人々と連れ立って行った折、風情も面白く時雨が降り出したので、雨宿りかたがた水を飲みに、とある家に入って、土器(かわらけ)にこの歌を書いた」との長い詞書がある。
邦雄曰く、朗々として丈高い調べ、殊に初句の呼びかけ、結句の七音、美丈夫の立ち姿を遠望するかの趣きは、歌の位というべきか、と。

 夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く嵐のうちに時雨をぞ聞く  伏見院

玉葉集、冬、詞書に、五十番の歌合せに時雨を詠ませ給うける。
文永2年(1265)-文保元年(1317)。持明院統・後深草天皇の第二皇子、大覚寺統・後宇多天皇の皇太子となり、23歳で践祚。和歌を好み玉葉集勅選を命ず。和歌三千余首を自ら編集した自筆の御集が分散され「広沢切」と呼ばれ今に伝わる。
邦雄曰く、簡潔を生命とする短詩形に、無用とも思われるほどの描写用語、殊に動詞を連ねて、その錯綜から生れるただならぬ響きを以て、歌の心を如実に表現しようとする、これも玉葉歌風の一典型。「飛び・乱れ・荒れ・吹く・聞く」が生きているかどうか。「雲・嵐・時雨」と慌しく推し移る自然現象が、心の深みまで映しているか否かは疑問、と。

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November 29, 2005

言ひ渡るわが年波を初瀬川‥‥

041219-002-1-1

今宵は四方館Dance-Cafeにて

即興によるDance-PerformanceFree-Talkの一夜


四方館 Dance Cafe
  in COCOROOM Osaka-Festivalgate 4F

    Date 11.29 (Tue) 19:00 Start
    1coin(500) & 1drink(500)

-Improvisation-
  Transegression  ‐わたしのむこうへ‐

     フロイトの無意識を
     「他者の語らい」と読み換えたラカンによれば
     私の欲望は他者の欲望であり
     無意識とは、厳密にいえば、他者の欲望の場
     他者による止むことなき語らいの場、となる


        Dancer Yuki Komine , Junko Suenaga
        Pianist Masahiko Sugitani
        Host Tetsu Hayashida


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雜-2>
 明けぬなり賀茂の河瀬に千鳥鳴く今日もはかなく暮れむとすらむ
                                   圓昭

後拾遺集、雑。平安中期、十世紀の人。勅撰集にこの1首のみ。詞書に、中関白(藤原道隆)の忌に法興院に籠りて明け方に千鳥の鳴き侍りければ。
邦雄曰く、朝の歌に「今日もはかなく暮れむ」とは、哀傷の意も含んでいるが、初句切れ、三句切れの淡々とした侘しい調べも、特殊な余情を漂わせ、上・下句の脈絡も無類の味わい、と。

 言ひ渡るわが年波を初瀬川映れる影もみつわさしつつ
                                   顕昭

六百番歌合、老恋。生没年不詳、平安末期の人。藤原顕輔の猶子。歌論を能くし、新古今風形成期にあたり、俊成・定家らと激しく対立した存在。初瀬川は泊瀬川に同じ、三輪山の麓を流れ大和川へと合流する。「みつわさす」は「三輪さす」で、老いて腰が曲り三段に屈折した状態をいい、転じて耄碌(もうろく)したこと。
邦雄曰く、年甲斐もなく意中の人に言い寄ったものの、自らの頽齢隠れもなく、祈願の果ての初瀬川に映る影もひどく老けてしまって見る影もあらばこそ、と。

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November 28, 2005

空のふかさは落葉しづんでゐる水

ichibun98-1127-091-2
Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと(承前)

 ともかくも翌年(‘87:S62)の4月、出足の遅れた候補者であったにも拘わらず、本番の選挙戦に突入した後半の追い込みであれよあれよという間に知名度を上げ、初挑戦で当選してしまったのだ。得票は9000票を越えて、港区内の議席三名の2位当選。時に38歳、若きパフォーマーの見事な勝利であった。選挙戦のなかで、実は私も選対本部から依頼を受け、あるイベントの演出をしている。さらには街頭宣伝のウグイス嬢に劇団の女性を送り込むという協力もした。しかし、全電通の組織内候補であり、選挙の実態はといえばどこまでも組合の動員による組織型の選挙であった。表層は候補者の新鮮な魅力でブームを呼び、裏へ廻れば全電通の出身支部が動員力にものをいわせてガッチリと支えていたのである。

 そしてさらに一年を経て、88(S63)年の5月、私は市会議員となった彼の事務所である港市民相談センターに身を置くようになる。高校を出て大学へも進んだものの、演劇や舞踊などという、古めかしい謂いなら河原者と蔑まれ身すぎ世すぎもままならぬ道を歩き、我が身を世間からずらしつづけてきたばかりの四半世紀を、あらためてというより正確には初めて世間という坩堝のなかへ投じたのであった。当時の私にとってみれば、そのような180度の転身をするに充分な理由なり背景はあったのである。以来、2000(H12)年8月に身を退くまでの丸12年を、私は港市民相談センター事務局長という形で、日々来訪する相談者への応対や、議員の後援会づくりや、或は情宣のための会報づくりなど、煩瑣なほどのさまざまな人々と雑務のなかにどっぷりと浸りつづけ、4年に一度必ずめぐってくる選挙戦を三度まで陣営を率いる立場で経験する仕儀となったのである。だが永年の馴染みとはいえ、議員となった彼と私の二人三脚に、この12年はあまりに長すぎたように思われる。私自身にとっては初めての、彼にとっては二期目の選挙を勝ち抜くまでの三年間がもっとも充実した期間であり、その間に私の立場から可能なかぎりの手立てというかプレゼンスは出尽くしたといっていい。いわば設計図と実践の見取り図はほぼ出来上がり、あとはこれを踏襲していくことのみが課題となって日々が費やされてゆく。彼が市会議員にとどまるかぎり、日々を支える私にはだんだんと退屈で鮮度のない味気ないものになってゆく。ゆっくりとだが私は自分の身の退き時を本気で考えるようになる。こうして長い年月を経た紆余曲折の出逢いと別れの一幕に終止符を打つべき時が準備されてゆく。

 この稿をひとまず閉じるに際し、もう15年も遡る古いものだが、
1990(H2)年1月、後援会向けカレンダーに12の句を配し「おくの正美12月」として掲載したものを書き留めておく。
いわゆるイメージ戦略としての市会議員奥野正美像づくりのため作したものである。

 1月 四方の空澄みわたりたれ’90大阪
     -21世紀へつらなる’90年代の幕開け、清新の気を漲らせて大阪の未来へ

 2月 氷る夜やみなとみらいに熱き心
     -支援者との心を結ぶ会報「みなとみらい」を今年も必ずお届けします

 3月 重き税民の痛みに春告げむ
     -確定申告の月です、消費税の痛みが重なって庶民は泣いています

 4月 花を愛で花に集いて平らか成らむ
     -花博がいよいよ開催されます、平和のシンボルイベントになるように

 5月 五月晴れ港めぐりてひろがる出会い
     -広報船「水都」を利用した港めぐりが地道に出会いをひろげていきます

 6月 夕映えの弁天新しき活気満つ
     -弁天駅前に登場するナウい遊空間、港のターミナルが大きく変貌する

 7月 満天の星の輝きのごと我が仲間
     -いろんな輝きを持ったたくさんの仲間、支援のみなさんが仲間です

 8月 海に遊び魚に学ぶ生命かな
     -天保山に誕生する大規模な水族館は「海遊館」と名づけられました

 9月 天を突けサンセットパーティに響く歌声
     -4回目を迎えるサンセット、後援会最大のイベントに育てましょう

 10月 きりぎりす身は三歳の市政のおさな児
     -機織女の機打つ音のように一心に鳴きつづける虫に我が身を映して

 11月 行く秋やふれあう温みの旅の友
     -露天風呂にひたりながら行く秋を惜しむ、和気藹々の旅行会です

 12月 木枯らしの街を走って呼ばむや春を
     -来春は統一地方選挙、二期目クリアーへ懸命に港の街を走りつづけます

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November 27, 2005

結ぶとも解くともなくて‥‥

Nakahara050918-022-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
青い栞

    蛙等は月を見ない
    恐らく月の存在を知らない

 紅葉の見頃は今日あたりが最後の休日となるのだろうが、稽古のためそうもいかない。今年もまた出かける機会を失してしまったのはいかにも残念だが、明後日にDance-Cafeを控えているのだから致し方ない。
 午後2時半頃、帰宅してすぐに市長選挙の投票に行く。そういえばさすがに今回の期日前及不在者投票が6万7797人と前回(5万5762人)を上回っている由だが、財政再建という難題を抱えた出直し選挙という名分には選挙線自体ほど遠い低調さだったから、投票に行く前から結果に対する期待感はほとんどないにひとしい。考えてみれば奇妙な話だ。その行為に対してすでに意味を喪失してしまっているのにそれを為すというのは。この白々しさは愚劣きわまるものではないかとさえ思う。投票を済ませて青い薄っぺらな栞を手にしたとき、一瞬、虚しさが身体を突き抜けた。

    月は彼等を知らない
    恐らく彼等の存在を想ってみたこともない 
                     -中原中也「未刊詩篇」より-

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-3>
 妹等がりわがゆく道の細竹(しの)すすきわれし通はばなびけ細竹原
                                  作者未詳

万葉集、巻七、雑歌、草を詠む。「妹等(いもら)がり」は「妹許(いもがり)」と同義、愛しい人の許への意。細竹は篠。我れに靡けとばかり、肩で風切るようにして、腰の辺りまで伸びた青い篠原を、ただ愛する人に逢いたさに、駆けるばかりに急ぐ若者の姿が眼に浮かぶような一首。
邦雄曰く、結句「なびけ」の命令形も殊のほか爽やか。「われ」と「しの」の重複も弾みを与えて効果的。読後に、篠原が撓り、男の通った跡が水脈(みお)を引くかに、白々と光る光景も見えようか、と。

 結ぶとも解くともなくて中絶ゆる縹(はなだ)の帯の恋はいかがする
                                   大江匡衡

匡衡集。平安中期、10世紀後半から11世紀初期の人。小倉百人一首の「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を詠んだ赤染衛門を妻とし、碩学の誉れ高い大江匡房の曽祖父にあたる。
「縹」は薄い藍色、醒めやすい色なので色変わり、心変わりの意味を持つ。望んでも結ばれず、願わずとも繋がれることもあり、まこと人の心は思うにまかせぬもの。なんら手立ても施さずままに、いつのまにか心変わりして疎遠になってしまったこの仲はどうしたものか。
邦雄曰く、結句「恋はいかがする」と字余りの余勢で、にじり寄るかの重みを感じさせる。出典は催馬楽の「石川」に「いかなる帯ぞ、縹の帯の、中は絶えたる」云々と歌われる、と。

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November 26, 2005

やつと郵便が来てそれから熟柿のおちるだけ

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Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと

 前市長関淳一の突然の辞任で出直し選挙となった大阪市長選も盛り上がりを欠いたまま明日(27日)の投票日を迎えるのみとなったが、この選挙戦を奥野正美がどういう思いで見つめてきたのか、些か複雑なものがあろうとは想像できるものの、ずいぶんと遠ざかってしまった今となっては私のよく知るところではない。彼は現在、港区選出の大阪市会議員である。会派は民主党市民連合に属し、既に5期目のベテラン議員であり、本年は会派の幹事長を務めているから、このところの関市長辞任劇による市長再選挙騒動でTVの報道番組にもちらちらと顔を出していた。私の4歳下だから昭和23年生れの57歳。いわゆる団塊の世代の真っ只中、もっとも人口過密の生れ年である。

 彼が私の眼の前に登場したのは、ほぼ40年前、彼がまだ高校三年だったと記憶する。私が劇団9人劇場を立ち上げたのはいまからちょうど40年前(65:S40)の9月だった。創立メンバーが偶々9人だったせいもあるが、9という数字は無限に通じるという意味合いもあって、師の神沢が薦めてくれたものだった。そのメンバーのなかにたったひとり、中尾哲雄というまだ現役の高校生が居た。彼は私の出身高校と同じで演劇部の4年後輩でもあった。その彼の幼馴染みであり中学時代の親しい仲間のひとりが奥野正美で、たしか劇団が二年目に入った頃のある日、中尾に連れられて稽古場にやってきたのが初対面だった。奥野もやはり高校で演劇をしているということだったが、とにかく気散じな愛嬌たっぷりの少年というのが印象に残った。

 翌年(67:S42)、彼は高校を卆えるとすぐさま9人劇場に参加した。折もおり、大阪市大の劇団「つのぶえ」から宮本研の「明治の柩」に取り組むから、助けてくれないかと演出の平塚匡君から出演依頼がきた。平塚君とは嘗ての仲間でもあったし、私が神沢主宰のActual-Art同僚時代に京都で「サロメ」(64:S39)を演った時に助っ人をして貰ったこともある。私を含め4人で出演することにしたのだが、そのうちの二人は中尾と奥野のコンビだった。二人ともフレッシュな演技ぶりで溌剌と爽やかな舞台姿であったと印象に残る。この上演は5月だったが、それで勢いづいたのだろう、それから夏にかけて、このコンビの幼馴染みというか同窓仲間というか、同年の者たちをそれこそ芋づるのように誘い合って、劇団はいちどきに賑やかになった。さて若い者たちで活気づくのはまことに結構だけれど、経験もない素人ばかりが増えたのだから、どんどん勉強させ経験を積ませなければならない。秋には早速、勉強会と称しアトリエ公演に取り組んでみたが、まあ結果は推して知るべし、散々だったとは言わぬまでも、小額とはいえ金を払ってわざわざ観に来てくれた人たちに、あまり顔を上げられる出来栄えではなかったろう。そんなことから翌年(68:S43)、私は些か思いきった手を打つことにした。9人劇場の芝居小屋と称して、毎月ペースの稽古場での試演会である。といっても上演形式をとるには金もかけられないし、素舞台での素面のままの会とし、観客にも無料とした。これを2月から始めて暮の12月まで、客席は時に数人というようなお寒いかぎりの日もあったが、とにかくやりきって計13回をこなした。この芝居小屋シリーズをとおして、集まり来たった若い仲間たちも自然に篩いにかけられたことに、結果としてなる。仲良しグループくらいの感覚ではとても続かないのは当然で、上昇意欲をもって本格的に続けていこうとする者と、青春のほんのひとときを飾った思い出の一頁として自ら幕を降ろしてゆく者とに別れゆく。もちろん中尾と奥野は主力として残り、’75(S50)年頃まではつねに主軸として活躍してくれた。彼らとの舞台で強く記憶に残るのは、私の仕事としても20代のエポックともなった’72(S47)年の「身ぶり学入門-コトバのあとさき」に尽きる。それまでの実験的な試行錯誤にとにかくもひとつの終止符を打てたものだったと今振り返ってもそう思えるものだが、その成果も彼ら二人なくしてはあり得ぬ舞台だった。

 以後は間遠になったとはいえ、それでも’83(S58)年「鎮魂と飛翔-大津皇子」の舞台では久しぶりにご登場願ったこともあった。ところがそれから三年後(‘86:S61)の秋だったが、突然我が家に訪ねてきて、市会候補として港区から立つことになったとの報告に驚かされる。この藪から棒のような展開には遡っての解説が必要だ。奥野は高校卒業の翌年、68(S43)年春に日本電信電話公社(現NTT)に入社している。この就職については私も些か関与したのである。当時、喰えもしない演劇を続けていくに身すぎ世すぎをどう立てていくかは問題だった。どんな仕事に就くか、その勤務条件のなかで活動の幅もずいぶんと左右されるものだ。そこで私は当時、高校同期のT君が電電公社(現NTT)に勤務し、全電通労組末端の分会長をしていたので、彼が宿直で局に泊りの夜に訪ねて行って、勤務内容や採用基準などいろいろと聞き合わせた上で、その年の秋の採用試験を受けてみるように奥野に勧めてみたのだ。後に民営化されNTTとなってからは、大卒エリートの難関就職先としてつねにトップクラスに君臨するのだが、昭和42.3年当時は高卒で普通よりやや上位の学力程度であれば採用されるチャンスは充分あったのである。公社に入ってからもこの気散じな愛嬌たっぷりの若者は軽快なフットワークを発揮して組合活動でもかなりの活躍をしたようだ。組合関係の青年部は20代で構成されるが、そのなかではいつのまにか頭角をあらわしやがてリーダー的存在となり、仕上げは大阪総評青年部議長にまでなっていたそうである。ところが30代になって青年部を退き、組合支部に戻ってみれば、このまだ青年臭を残したパフォーマンスの得意な若きリーダーには、それに相応しいようなポストはなかったらしく、いわば組合内部で本流から外れ冷や飯を食うような存在となっていく。以後数年間、彼自身も長い停滞期と感じる日々ではなかったか。そこへ降って湧いたような市会候補としてのご指名による打診が組織上部からあったのである。86(S62)年当時、労働組合関係は総評・同盟が連合へと再編していこうとする転換期であり、全電通(現NTT労組)を中心にした情報労連委員長山岸章がやがて連合会長へと転身してゆく前夜である。政府与党は売上税導入を画策準備しており、自民党離れの現象も起こり国政は波乱含みであった。そんななかで山岸章らは国会議員だけではなく全国自治体に地方議員を拡大していくべしという作戦に出たのだが、そこで人受けのよい愛嬌者で大阪総評の青年議長という勲章をもつ奥野はその任に相応しいとされ、白羽の矢が立てられたというのが真相であったように思われる。 (この稿つづく)

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行き帰る果てはわが身の‥‥

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-今日の独言-
引きつづき「逢ふ」談義

 白川静の字解によれば、「逢」や「峰」は形声文字だが、音符をなすのは「夆(ホウ)」である。「夆」は「夂(チ)」と「丰(ホウ)」を組み合わせた形で、夂は下向きの足あとの形で、くだるの意味がある。丰は上に伸びた木の枝の形で、その枝は神が憑(よ)りつくところであるから、神が降り、憑りつく木が夆である、という。したがって「峰」は、夆すなわち神が降臨し憑りつく木のある山、ということになるが、では「逢」はといえば、「辶」は元は「辵(チャク)」で、行くの意味があり、また中国の「説文」に、逢は「遇うなり」とあることから、「神異なもの、不思議なものにあうこと」をいう、と解している。
一方、明鏡国語辞典によると、「逢う」は会うの美的な表現で、親しい人との対面や貴重なものとの出会いの意で用いられる、とある。ところで、現在慣用的に人とあうことには「会」の字が用いられているが、またまた白川の字解によれば、「会」の旧字体「會」はごった煮を作る方法を示す字であり、むしろ元は象形文字の口の上に蓋をしている形である「合」のほうが、向き合うことであり、対座することであるから、人が会うことの意味に相応しいといえる。
これらのことを勘案するに、王朝人たちが「逢ふ」に込めた意味、しきりと歌に詠んだ意味は、今に残る「逢引」や「逢瀬」のように、特定の男女がかわす情交の意が込められた「逢ひ合ふ」ことなのだと得心がゆく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-42>
 貴船川玉散る瀬々の岩波に冰(こほり)をくだく秋の夜の月
                                  藤原俊成

千載集、神祇、詞書に、賀茂の社の後番の歌合せの時、月の歌とて詠める。
邦雄曰く、第四句「冰をくだく」の表現も鮮やかに、二句「玉散る」と結句「月」がきららかに響きあい、神祇・釈教歌中では稀有の秀麗な歌になっている。歌の核心は「月」、月光の、氷を思わせる硬質の、冷え冷えとした感じが、殆ど極限に近いまで見事に表現されつくした、と。

 行き帰る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず
                                  藤原定家

拾遺愚草、員外、三十一字冠歌。定家三十四歳の秋の夜、藤原良経の命によって「あきはなほゆふまぐれこそただならぬはぎのうわかぜはぎのしもかぜ」の三十一文字による頭韻歌を制作したうちの、これは最後の歌と伝える。
邦雄曰く、三十一首、一連の末尾の作としての、涙を振り払うような潔さと、切羽つまった悲愴感が漲り人を魅してやまぬ。第四句「涙も秋も」の異質並列の離れ業は、この時期の定家の技法を象徴する、と。

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November 25, 2005

荒れわたる庭は千草に‥‥

051023-122-1
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-今日の独言-
王朝の頃の「逢ふ」・「見る」

 これもまた丸谷才一「新々百人一首」からの伝だが、
王朝和歌の時代、「逢ふ」ことは単なる対面、出会うという意味にとどまるものではなく、契りを結ぶ、性交するという意味になることが多かった、とされる。
「竹取物語」にある、
「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす」
というのもそう受け取らないとまるで意味不明。
もっと古くは万葉集の大伴家持の歌で、
「夢の逢ひは苦しくありけり驚きてかきさぐれども手にも触れなば」
とあるのも、夢で契るのは苦しく辛い、との意味で、ともに男女の情交のことであろう。
さらには、「見る」においても同じ用法が含まれてくる。成人の女がじかに男に見られることは特殊な意味をもって、御簾とか几帳を仲立ちとしなければ対さなくなる。
小倉百人一首の
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」
では、この「逢ふ」と「見る」が合成され、「逢ひ見る」と複合動詞になるが、無論これも、契りを結んだあとの複雑な悩ましさを詠んだもの。
そういえば、年配の人なら大概ご存知の、大正の頃の俗謡「籠の鳥」の
「逢いたさ見たさに怖さも忘れ 暗い夜道をただひとり」
も、恋人と寝たいがために暗い夜道をゆく、ととるのが歌の真意なのだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-41>
 荒れわたる庭は千草に虫のこゑ垣穂は蔦のふるさとの秋
                                  藤原為子

玉葉集、秋、秋里といふことを。生没年未詳、二条(藤原)為世の子、後醍醐天皇の側室となり、尊良親王・宗良親王を生むも、まもなく早世した。
邦雄曰く、余情妖艶、これを写して屏風絵を描かせたいと思うほど、凝った趣向の豊かな晩秋の眺め。殊に「蔦」が生きており、上・下句共にきっぱりした体言止めであることも意表をついた文体。初句は荒廃よりも、むしろ枯れすすむことへの嘆きであろう、と。

 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜寒に衣うつ声
                                  後醍醐天皇

新葉和歌集、秋、月前涛衣といふことを。新葉集は後醍醐帝の皇子宗良親王の選。結句「衣うつ声」は、砧の上で槌などによって衣を叩く音。晩秋の張りつめた大気を震わせて届く響きは、冬籠りの季節が間近いことを告げる声でもあろう。
邦雄曰く、初句切れ、秋の後二月の名の連呼と「ながき」の押韻、下句の声を呑んだような体言止めが効果的で、太々とした潔い調べを伝える、と。

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November 24, 2005

おぼつかな何に来つらむ‥‥

051023-110-1
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-今日の独言-
米国による「年次改革要望書」

 文芸春秋の12月号に「奪われる日本」と題された関岡英之氏の小論が掲載されている。筆者は昨年文春新書「拒否できない日本」で、日米で毎年交わされてきた「年次改革要望書」に透けてみえる米国側の日本蹂躙ともいえる改造計画にスポットをあて警鐘を鳴らした人。先の郵政解散で圧勝した小泉政権は直ちにそのシナリオどおり郵政民営化法案を成立させ、今後米国の提唱するグローバルスタンダードに簡保120兆円市場を解き放っていくわけだが、次なる標的は医療保険制度であり、国民皆保険として世界に冠たる日本の健康保険制度だと警告している。小論末尾、過去11回を重ねてきた「年次改革要望書」と、その受け皿である経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が命脈を保つ限り、米国による日本改造は未来永劫進行する、と筆者は結ぶ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-40>
 おぼつかな何に来つらむ紅葉見に霧の隠さる山のふもとに  小大君

小大君集、詞書に、十月に女院の御八講ありて、菊合せさは来ければ。生没年未詳、別称を三条院女蔵人左近とされ、三条天皇(在位1011-1016)の皇太子のとき仕えた。
邦雄曰く、われながら不審なことだと、口を尖らせて自嘲するような口吻が、いかにも作者らしい。しかもなお、霧に隠されて見えない紅葉を、わざわざ見に来たのだ意地を張って、逆ねじを喰らわすような示威ぶりが小気味よい。小大君集に目白押しに並ぶ辛辣な歌のなかでも、この紅葉狩りは屈指の一首、と。

 秋の月光さやけみもみぢ葉の落つる影さへ見えわたるかな  紀貫之

後撰集、秋、詞書に、延喜の御時、秋の歌召しありければ奉りける。「光さやけみ」は、光が鮮明なので、ほどの意味。
邦雄曰く、冷え冷えと降り注ぐ晩秋の月光のなかに、漆黒の影をくっきりと見せて、一葉々々が地に消えてゆく。葉脈まで透いて見えるような、この微視的な描写に古今時代の第一人者の才が証明されよう。結句「見えわたる」の叙法も、説明に似つつ、一つの調べを創るための重要な技巧だった。冴えわたった理智の眸で秋夜絢爛の景を、くっきりと見据えたような一首、と。

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November 23, 2005

夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の‥‥

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-今日の独言-
蜻蛉池公園に遊ぶ

 大阪府下には府営の公園が18ヶ所ある。著名なところでは箕面公園や浜寺公園などだろうが、子どもたちの遊具も充実し、休日ともなると家族連れでにぎわっているのが、岸和田市の丘陵地帯にある蜻蛉池公園だ。その名称はトンボを象った大きな池があるせいで名づけられたそうな。今日は幼な児のために一家で春先以来の訪問。池には冬越えに飛来しているらしい鴨の大群が水面に泳いでいた。肌寒いかと心配されたが、予想に反してポカポカするほどの小春日和の陽気。滞在二時間半ほど、4歳になったばかりの幼な児にはたっぷりというほどではないにしても適度な遊び時間だったろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-39>
 夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の雲より雲に跡ぞ消えゆく
                                 藤原道家

玉葉集、秋。詞書に、建保5年9月、家に秋三首歌詠み侍りけるに、雲間雁を。鎌倉前期の人、祖父は九条兼実、摂政藤原良経の長子、後堀河天皇の関白となる。歌意は「夕暮、ねぐらへ戻るのか、雁の列が遠ざかって行く。たなびく雲から雲へ移るごとに、その姿はいっそう霞み、やがて跡を消してしまう。」邦雄曰く、縹渺(ひょうびょう)たる視野の限りに、霞み潤んで雁の姿は見えなくなる。第四句「雲より雲に」は、その遥けさを見事に言いおせた、と。

 たれか聞く飛ぶ火がくれに妻こめて草踏みちらすさ牡鹿の声
                                 葉室光俊

閑放集、秋。鎌倉前期の人、法名は真観。父は藤原(葉室)光親、定家の弟子となり直接指導を受ける。邦雄曰く、およそ絵に描いた景色を出ない、息を殺して死んだような歌が多い中世和歌のなかに、この作の律動的な調べ、鹿の生態を活写した修辞は珍重に値する。第二句「飛ぶ火がくれに」、第四句「草踏みちらす」の新味は抜群、と。

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November 21, 2005

白露の消えにし人の秋待つと‥‥

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Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
出口探しのむずかしさ

 29日のDanceCafeに向けて先週の日曜から続けて杉谷君のピアノ演奏と共に即興をしているのだが、その昨日の稽古場に、養護学校に勤める友人が自閉症の女子生徒を伴なってやって来た。聞けば、この少女はピアノの演奏が好きで以前はよく上手に弾いていたのだが、なぜか最近はさっぱり弾かなくなっているので、我々の稽古での杉谷君の演奏が、彼女にとってなにか刺激にならないかと思ってのことだったらしい。さらには彼女が興にのってその場で演奏でもはじめれば、その演奏技量や才能のほどを杉谷君に診断してもらえれば、との思惑もあったらしいのだが、ことは自閉症の少女であるから見事にその淡い期待は外れてしまった。彼女にピアノの前に座らせ、いつもよく弾いていたという教本を杉谷君に弾いてもらい、彼女にその気を誘い出そうと試みるのだが、いくら試みても空しくその硬い殻は閉ざされたままに終わった。まこと出口探しはそんなに容易なことではないのだ。
 自閉症者で音楽に特別の才能を発揮する人の例は、大江健三郎の子息光氏の場合を引くまでもなく、意外に多いらしいという事実は私も知ってはいるが、では実際にその彼や彼女たちに、どういう場面を与えれば自由に振舞い、その隠れた才を引き出せていけるかは、おそらく個性に応じてあまりにも微妙かつ千差万別で、周囲の人間がその壁を充分に判別すること事態が非常に難しい。彼や彼女自身よりもその家族や周囲が果たさなければならないサポートは想像がつかぬほどに煩瑣なものがあるだろう。彼らの内部に埋もれ眠ったまま発揮されることのない才は夥しいほどにあるにちがいないが、それはなにも自閉症者に限られたことではなく、ヒトの無意識に潜む無辺のひろがりを視野に入れるとすれば、均しく我々のだれにも当て嵌まることであろうけれど‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-37>
 来む年も頼めぬうわの空にだに秋風吹けば雁は来にけり
                                 源実朝

金塊和歌集、雑。詞書に、遠き国へ帰れりし人、八月ばかりには帰り参るべき由を申して、九月まで見えざりしかば、彼の人の許に遣わし侍りし。邦雄曰く、実朝には、その時既に満27歳正月の鶴岡八幡宮における悲劇が、はっきりと見えていた。あはれ、「来ぬ年も頼めぬ」とは、彼自らの翌年の命にすら、確信が持てなかったのだろう、と。

 白露の消えにし人の秋待つと常世の雁も鳴きて飛びけり
                                 斎宮女御徽子

斎宮集、誰にいへとか。父・重明親王の喪が明けて後の作とされ、格調高く亡父を偲んだ歌と解される。邦雄曰く、雁は人の知り得ず行き得ぬ常世の国に生まれ、そこから渡っては訪れ、また春になれば還る。唐・天竺の他は別世界、別次元であった、と。

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November 17, 2005

夜もすがらひとり深山の‥‥

N-040828-017-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

歌枕、知るや知らんや
 またも丸谷才一の「新々百人一首」を引いての話題。室町期の歌人正徹はその歌論書に「吉野山はいづれの国ぞ」と問われれば「ただ花にはよしの、もみじには竜田と読むことと思ひ付きて、読み侍るばかりにて、伊勢の国やらん、日向の国やらん知らず」と応ずるのがいい、と云っているそうな。要するに王朝歌人たちにとって、歌枕として詠まれる各地の名所旧跡の風景は、彼らの心の内にある幻視の空間で、未だ見ぬも委細構わず現実の地図の上にはないも同然なのである。
本書で丸谷は、藤原為家の詠んだ「くちなしの一しほ染のうす紅葉いはでの山はさぞしぐるらん」の解説で、この歌では「いわでの山」が歌枕だが、それが陸奥にあるとも攝津にあるとも説があり、いずれとも明らかでないとし、その考証に深入りするよりも、「いはで」の語が「言わずして」の意に通うせいで、歌の心としては「忍ぶ恋」を詠むのに王朝歌人たちに好まれ用いられたのだ、と教えてくれる。そういえば、初句「くちなしの」は四句・結句と響きあって、一首の見立てが忍ぶ恋に泣き濡れているさまにあることが判然としてくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-35>

 夜もすがらひとり深山の槙の葉に曇るも澄める有明の月  鴨長明

新古今集、雑、詞書に、和歌所歌合に、深山暁月といふことを。槙の樹々に遮られてはっきりとは見えなかった秋の月が、やがて暁の頃ともなれば処を得て、冴え々々と映え輝く。邦雄曰く、第四句「曇るも澄める」の秀句は時として、作者の真意を曇らす嫌いもあろうか。長明特有の、ねんごろな思い入れを味わうか否かで、評価も分かれる。時間の推移によって「澄める」とは、直ちには考えにくい、と。

 影ひたす波も干潟となる潮に引きのこさるる半天の月  岡江雪

江雪詠草、浦月。戦国期16世紀末、北条家家臣、後に徳川家康に旗本として仕える。邦雄曰く、干潮時の海面に映る中空の月が、次第に干潟に変る潮の上に「引きのこさるる」とは、さすがに嘱目が人の意表をつき、細を穿っているか。表現の細やかさも、いま一歩で煩くなる寸前に止まる。結句「半天の月」がきわだって佳い、と。

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November 16, 2005

都にて月をあはれと思ひしは‥‥

051023-063-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

ドサクサ紛れのブッシュ来日
 昨夜から、ブッシュ米大統領が来日して小泉首相と相変わらずの日米蜜月ぶりを世界にアピールしている。そもそも此の度の邦日の日程そのものに大いに胡散臭さを感じている人も多かろう。昨日は紀宮の結婚でマスコミの報道もお目出度いニュースにシフトしているし、大半の国民がその祝賀ムードを享受しているなか、いわばドサクサ紛れに「世界のなかの日米同盟」などと高らかに謳い上げられては、露骨な作為を感じない訳にはいかない。イラク派遣延長も、牛肉輸入再開も、この来日でゴーサインとなる。イラク駐在の自衛隊のみならず、首都東京をはじめ日本の大都市もテロの標的となる可能性を本気で心配しなければならなくなってきたのではないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-34>
 都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬ遊(すさ)びなりけり
                                  西行

新古今集、羇旅、題知らず。邦雄曰く、理の当然を叙しているにも拘わらず、意表を衝かれたの思いに立ちすくむ。都における暖衣飽食平穏無事な日々の花鳥風月と、旅から旅への酷薄な環境で見る月は「あはれ」の域を遥かに超える。宮廷歌人たちはこのような「告白」に胸を搏たれ、不世出の、まことの歌人として、西行を認めたのでもあろう、と。

 忘れずも袖訪(と)ふ影か十年(ととせ)あまりよそに忍びし雲の上の月
                                 後土御門天皇

後土御門院御詠草、袖上月。室町末期、在位中に応仁の乱あり戦国の世へと。邦雄曰く、恋歌に数えても、述懐に加えてもよい思いの深さを湛えている。結句の「月」は単なる月ならず、そこには特定の人の面影が添う。文明8(1476)年、帝34歳の八月十五夜、時は応仁の乱も終りの時期であったことを考え合わせると、感慨はひとかたならぬものと察せられる、と。

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November 15, 2005

暮れもあへず今さしのぼる‥‥

041219-036-1
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-今日の独言-

勅撰集編纂の背景
 今様を好んで「遊びをせんとや生れけむ」で知られる「梁塵秘抄」を集大成した後白河院は、平安末期から鎌倉期へと転換する源平の動乱期に、時の院政者として君臨、源平のあいだや或は頼朝と義経のあいだにあって老獪な駆引きに暗躍したが、丸谷才一の「新々百人一首」によれば、自身は和歌を嫌い殆ど嗜まなかったにも拘らず、戦乱のただなかに勅撰集の院宣を出し、そうして成ったのが「千載集」とのことである。この背景には当時の都の荒れようや疫病の流行などがあり、それも20年程前に讃岐に流されそのまま配所で恨みを残しながら死んだ崇徳院の怨霊による祟りと解され、和歌を能くした崇徳院鎮魂のため、生前所縁の深い藤原俊成を選者の筆頭にして編纂させたという経緯が事細かに活写されていて、とても面白かった。日本書紀の国史編纂にしろ、代々の勅撰和歌の編纂にしろ、その裏にはどんな生臭いことどもが隠されていることか、なかなかに興味の尽きないものがある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-33>
 暮れもあへず今さしのぼる山の端の月のこなたの松の一本(ひともと)
                                 花園院

風雅集、秋。南北朝動乱期の13世紀前期、後二条天皇崩御のあと12歳で践祚。すっかり暮れ切ることもないまま今さしのぼった山の端の月、眼を転ずれば、その光を受けて佇立する一本の松の大樹。邦雄曰く、月明りの松一本に焦点を合せて、まさに「直線的」に、すっくと立ち、詠いおろした珍しい調べ。「今」の一語で臨場感、生き生きとした現実感をさへ添えたあたり、この時代の美しい曖昧調のなかで、ひときわ目立つ、と。

 秋も秋今宵もこよひ月も月ところもところ見る君も君
                                 詠み人知らず

後拾遺集、秋、題知らず。一説に八月十五日夜、宇治関白藤原頼通の高陽院で、叡山の僧光源法師が下命によって詠んだ歌との後註が添えられている。邦雄曰く、同語反覆によって抑揚の強い響きを生み出し、稀なる効果を見せた。結句の「君」は勿論関白を指すが、「これぞ最高無二のもの」と述べるのを省いて、挨拶歌としてより以上の強調を果たしえている、と。

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November 14, 2005

夕まぐれ木茂き庭を‥‥

041219-016-1
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-今日の独言-

蝦夷や入鹿の邸宅跡か
 古代のクーデターともいえる大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足に殺された蘇我入鹿やその父蝦夷の邸宅跡の一部と推定される遺跡が、日本書紀の記述どおり、明日香村の甘樫丘東麓遺跡で発見されたと大きく報じられている。正史に登場する蝦夷や入鹿はとかく逆臣・逆賊のイメージが強いが、今後の詳細な発掘調査で彼らの像は別の角度から照射されてくる可能性もあるだろう。明後16日には現地見学会が催されるという。そういえば、先日久し振りにお会いした小学校の恩師は、古代遺跡などにも関心深く、こういった報道記事をずいぶん几帳面にファイルされていたし、現地見学会にもよく足を運ばれていると聞いたが、ひょっとすると明後日は現地見学会に行かれるかもしれないな、とふと脳裡をかすめる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-32>

 夕まぐれ木茂き庭をながめつつ木の葉とともに落つる涙か
                                 藤原義孝

詞花集、雑。詞書に、一条摂政身まかりにける頃詠める。平安期中葉十世紀後半の人。父の一条摂政藤原伊尹(これただ)は天禄三(972)年48歳で薨去、時に義孝18歳。邦雄曰く、初冬、もはや木の葉も落ち盡くす頃、結句の「涙か」には、微かな憤りを交えた悲哀が感じられる。彼自身も後を追うようにこの二年後夭折、王朝屈指の早世の歌人、と。小倉百人一首の「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」も彼の歌。

 天離(あまざか)る鄙(ひな)にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける
                                 作者不詳

万葉集、巻十五。対馬の浅茅の浦にあって順風を待ち、五日停泊した時の歌として三首あり、時雨の歌、都の紅葉を偲ぶ歌の間に、この月明りの相聞は置かれている。邦雄曰く、心余って足りぬ言葉が、月並みな表現に止まらせているが、それがかえって歌の原型、初心の素朴さを味あわせてくれる、と。

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November 13, 2005

秋風ものちにこそ聞け‥‥

N-040828-083-1
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-今日の独言-

しばらくは塚本邦雄三昧
 図書館から塚本邦雄全集の13巻と14巻の二書を借りてきた。全15巻と別巻からなるこの全集、発行部数もきわめて少ないからだろうが、各巻9975円也ととにかくお高く、私などには容易に手を出せるものではない。そこで図書館の鎮座まします書棚から我が家へお運び願うことにしたのである。全集の13巻は「詞歌美術館」「幻想紀行」「半島-成り剰れるものの悲劇」「花名散策」を、14巻は「定家百首」「新選・小倉百人一首」「藤原俊成・藤原良経」をそれぞれ所収している。そろそろ年の瀬も近づいて慌しさを増してくる世間だが、半ば隠居渡世の我が身は、いましばらく塚本邦雄の世界に浸ることになりそうな気配。

今月の購入本
 内村直之「われら以外の人類-類人からネアンデルタール人まで」朝日選書
 J.タービーシャー「素数に憑かれた人たち-リーマン予想への挑戦」日経BP社
 村上春樹「アンダーグラウンド」講談社文庫
 塩野七生「サロメの乳母の話」新潮文庫
 塚本邦雄「珠玉百花選」毎日新聞社
 安東次男「百首通見」ちくま学芸文庫

図書館からの借本
 丸谷才一「新々百人一首」新潮社
 塚本邦雄「塚本邦雄全集第13巻 評論Ⅵ」ゆまに書房
 塚本邦雄「塚本邦雄全集第14巻 評論Ⅶ」ゆまに書房

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-31>

 秋風ものちにこそ聞け下萩の穂波うちこす夜半の枕は
                                 正徹

草根集、秋、萩声近枕。邦雄曰く、秋風の、今をのみ聞くのなら通例に過ぎぬ。吹き過ぎて後の、遥か彼方の萩の群れに到る頃、さらには彼岸に及ぶ、その行く末まで、耳を澄まして聞くのが詩人の魂であろう。正徹の歌はその辺りまで詠っているような気がする。「夜半の枕は」の不安定で、そのくせ激しい助詞切れの結句は、白い秋吹く風の、幻の風脚まで夜目にまざまざと顕われ、消える、と。

 漁り火の影にも満ちて見ゆめれば波のなかにや秋を過ぐさむ
                                 清原元輔

元輔集、津の国に罷りて、漁りするを見たまうて。平安前期の十世紀、清少納言の父。
邦雄曰く、目前の漁火をよすがに、豪華な蓮火幻想を生んだ。点々と夜の海に映る漁船の火、海の底にまでとどくような遠い華やぎ。「波のなかにや秋を過ぐさむ」は悠々として遥けく、深沈にして華麗である、と。

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November 12, 2005

夕暮はいかなる色の‥‥

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-今日の独言-

 懐かしい記憶、幼い子どもの頃の、あるいは少年期、思春期の頃の。
その懐かしい記憶を、想い起こす時、人は、いつも、
あの時へ、あの情景のなかへ、その時の、そのままの、自分の姿へ、
戻ってみたい、と望んでいるものだ。
懐かしい記憶の、そこにはかならず、懐かしい人があり、懐かしい出来事がある。
生き生きと、あざやかに、その振る舞う姿が、まざまざと、脳裡によみがえる。

 今日の未明、というよりは、深夜というべきか、
懐かしい記憶のなかの、懐かしい人が、ひとり、
すでに五年前に、鬼籍の人となっていたことを知った。
たとえ、40年、50年という長い歳月を、それぞれ別世界に生きてきたとしても、
いつか、時機を得て、ふたたびまみえること、そんなはからいというものもあろうかと、
その記憶に触れるたび、思ってきたのだったが‥‥

 人は、未来に向かって生きるというが、はたしてほんとうだろうか。
私には、過去に向かってこそ、生きるということが、いかにも相応しいものに思える。
もう、ずっと、20年以上も昔から、私は、過去に向かって生きている、という気がする。
だって、そうではないか、人間、未来に向かって、いったい、どれほど、問えるというのか。
過去にならば、いくらでも、問える、汲めども尽せず、問える。
過去へと遡ることは、有限だが、問えることにおいては、無尽蔵だ。
未来へ志向することは、無限にみえるが、問えることにおいては、きわめて限られている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-30>

 夕暮はいかなる色の変ればかむなしき空に秋の見ゆらむ
                                 藤原教家

続古今集、秋、題知らず。鎌倉前期、藤原良経の二男、書を能くし、「平治物語絵巻」に名を残す。
邦雄曰く、虚空に「秋」が見えるという、類のない発想である。「色」はこの場合、趣き・様子・佇まい、黄昏の夕空に、なにか魔法にでもかかったように、「秋」そのものが立ち顕れてくる、その不可思議を、作者は何気なく透視、把握したのか。

 
 うなゐ児が野飼(のがい)の牛に吹く笛のこころすごきは夕暮の空
                                 西園寺実兼

実兼公集、笛。鎌倉後期、太政大臣を経て後に出家、西園寺入道相国となる。永福門院の父。
西行の「うなゐ児がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼臥(ひるぶし)」を本歌取りしたものとされる。邦雄曰く、昼寝の夢を覚ます素朴な光景ではなく、野趣溢れる一幅の風景画に仕立てた。「すごき」は淋しさの強調だが、墨色に遠ざかっていく後姿が浮かぶ、と。

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November 11, 2005

おしなべて思ひしことのかずかずに‥‥

051023-112-1
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-今日の独言-

屏風歌詠みの紀貫之
 丸谷才一の「新々百人一首」を読んでいると、採り上げた歌の解説に、よく屏風歌であると指摘する箇所が出てくる。屏風歌とは、一言でいえば、屏風絵に画讃として色紙型に書き込まれた歌のことだ。屏風絵-屏風歌の多くは、四季あるいは十二ヶ月の情景をあらわしている。四季折々の情景が、季節の順に画面右方から左方へと散りばめられ、各情景は、添えられた屏風歌とともに鑑賞される。描かれた情景を見、歌を読み、その情景のなかに入り込んでいくとき、画中人物には血が通い、生きる時間が流れはじめ、風景は瑞々しく生動してくるだろう。また、屏風絵全体を大きく眺めわたせば、その四季共存の光景は、彼岸ではなく此岸としての理想郷にほかなるまい。
この屏風絵-屏風歌が盛んになるのは、唐風の絵画から脱して、国風文化としての大和絵が成立してくる9世紀以降、古今集成立前夜頃であろうとされる。考えてみれば、その古今集もまた、屏風絵-屏風歌の構造と同型のものではないか。四季折々の歌が配され、自然を愛で人生を観じ、或は恋に悩み恋に生きる姿が謳歌される。丸谷才一によれば、古今集編者紀貫之の「貫之家集」888首の約6割は屏風歌であるとされ、屏風絵の画讃の歌詠みとして貫之は当世流行の職業的歌人でもあったろう、としている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-29>

 おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮
                                 藤原良経

新古今集、秋。詞書に、百首歌奉りし時。平安末期から鎌倉初期。関白九条兼実の二男にして、若くして関白、摂政に任ぜられるも37歳にして急死している。邦雄曰く、達観というには若い31歳ながら、すでに壮年の黄昏に、独り瞑目端座して過去の、四方の、永く広く深い「時」の命を思いかつ憶う。嘗ての憂いも悲しみも、この秋の存在はなおひとしお身に沁む、曰く言い難い思考であり、感嘆でもあろう。第五句重く緩やかに連綿して類いのない調べ、と。

 身をしをる嵐よ露よ世の憂きに思ひ消ちても秋の夕暮
                                 肖柏

春夢草、秋夕。秋の嵐に、草木も萎れ澆(しお)れるように、人の身もまた斯様な思いであろう。しをるには責(しお)るの意も微かに通わせているか。第二句「嵐よ露よ」と、並べ称えべくもないものを連ねているのも耳をそばだて、強い印象を与える。邦雄曰く、第四句の余韻に無量の思いを湛え、しかも敢えて切り棄てて「秋の夕暮」と結んだところに、深沈たる余韻が生れた。この一首、連歌風の妙趣をも感じる、と。

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November 09, 2005

見渡せば花も紅葉もなかりけり‥‥

Nakahara050918-035-1
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-今日の独言-

やはり複雑怪奇、大阪市長選挙
 13日告示、27日投票予定の大阪市長選挙に、やっと第三の候補者が登場した。出馬表明したのは民主党前衆議院議員の辻恵氏。東京弁護士会に属する弁護士で、03年11月の衆議院選挙で大阪3区から民主党公認で立候補し、惜敗率高位により比例区で復活当選した人。9月の郵政解散による総選挙で雪崩をうって惨敗落選した民主党議員の一人だ。当然、独自候補擁立を模索していた民主党の推薦候補かと思いきや、民主党大阪は一枚岩にまとまらず、公認も推薦もないとのことで、本人は離党してあくまで無所属で立つ。民主党大阪の国会議員たちは辻支援に廻るというが、民主党市議団は自主投票を決め込んで、その多くは市職労組との癒着批判を避け推薦依頼を忌避している関前市長を支援する模様だというから、市政内部の錯綜混沌ぶりは深刻で、この選挙、市民の眼には相変わらず争点もはっきりしてこない。市民レベルで候補者擁立を模索してきた市民団体「見張り番」らが主導の「大阪24区市民連絡会」は、辻恵氏の出馬意志を歓迎し、急遽、推薦することにしたが、さて、これから選挙本番に向けて、冷え切った市民の関心をどこまで喚起できるか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-28>

 問へかしな浅茅吹きこす秋風にひとり砕くる露の枕を
                                 俊成女

新勅撰集、恋。詞書に、恋の歌あまた詠み侍りけるに。新古今の華、定家の姪である。
邦雄曰く、この歌、家集中の「衛門督の殿への百首」即ち、自分を棄てた夫、源通具への綿々たる思いを綴った連作のクライマックスをなす一首。閨怨の情趣が濃厚である、と。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
                                 藤原定家

新古今集、秋上。詞書に、西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに。定家満24歳の二見浦百首の秋。邦雄曰く、西行の「鴫立つ沢」、寂蓮の「槙立つ山」と共に「三夕」の一つであるが、他とはまったく趣を異にする凄まじい否定の美学をもって聳え立つ一首。春秋の美の粋もないと、舌打ちするかに詠い払った三句切れは、逆に花と紅葉を鮮やかに幻に描き出してたちまち消える。源氏物語「明石」の面影を写している、と。

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先づ座敷を見て、吉凶をかねて知る事

051023-050-1
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風姿花伝にまねぶ-<18>

問答条々-1
 問ふ。抑、申楽を初むるに、当日に臨んで、先づ座敷を見て、吉凶をかねて知る事は、いかなる事ぞや。
 答ふ。此事、一大事也。その道に得たらん人ならでは、心得べからず。

能舞台には、嵐窓と称する連子窓があり、見物席の様子を鏡の間から覗くことができるようになっている。会場の雰囲気を窺って、その日の舞台が成功しやすいか否かを見定め、いかに対応するかを思案するのは、一座の長の重い役目でもあろう。まずは、見物席が静まること、見物の心が一つになって、今や遅しと心待ちとなる頃合を捉えて、幕を上げ、シテの登場となれば、「万人の心、為手の振舞に和合して、しみじみとなれば、何とするも、その日の申楽は、早やよし」ということになる。
かように<場>を心得る、ということについて、世阿弥は「夜の申楽」と「昼の申楽」を陰陽の論理を用いて演じ分けるべし、と説く。夜の申楽ではとかくしめりやすいから、初めが大切。初めに侘しくしめりこんでしまえば、いかにも立ち直りがたい。陰の気の支配しがちな場には、営為ある陽の活力を、陽の気の支配しがちな場には、物静かな心を満たした陰の気を配し、陰陽の和に心配ることが成功の秘訣だ、という。

――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

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November 08, 2005

染めやらぬ梢の日影‥‥

Nakahara050918-082-1

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-今日の独言-

小学校時代の恩師を訪ねる
 今日の午後は、小学校の恩師宅へ初めての訪問。藪から棒の如く昨日電話を入れてのことだが、さぞかし驚かれたことであろう。逢うのは二年半ぶり、というのも一昨年の春の同窓会以来という次第。その折、次回の幹事役を押しつけられる羽目になったので、三年後あたりに開くとすれば、喜寿のお祝いを兼ねてのことにしましょうか、などと話し合っていた。来年の春にせよ、秋にせよ、喜寿を祝うなどと構えるとなれば、些か仕掛けも必要かと思い、せめて恩師の個人史的なプロフィールぐらいは紹介できる形が望ましかろうと、その取材のため突然のお邪魔をと思い立ったのである。
先生は昭和5年生れの満75歳。20年ほど前に胃潰瘍で2/3の摘出手術をしたというが、術後はなんの問題もなくいたって健康そのもの。夫人にも初めての御目文字だったが、まことに気安い方で昔談義に興じると話題も尽きず口跡滑らか。およそ三時間、話題はあれこれと飛び交いつつ、たっぷりとお聞かせいただいて、はや釣瓶落としの夕刻ともなったので、名残りを惜しみつつ辞去してきた。
宿題ひとつ、そう慌てることもないけれど、年明け頃にはモノにしておきたいと思っている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-27>

 浅茅原はかなく置きし草のうへの露を形見と思ひかけきや
                                 周防内侍

新古今集、哀傷。平安中葉、白河・堀河期。白河帝中宮賢子は応徳元年九月薨去。その御殿は荒れ草ばかり茂っていたが、七月七日は梶の葉に歌を書く慣わしあり、童子が硯に、草の葉の夜露を取り集めているのを見て、という意味の長い詞書が添えられている一首。その露が27歳ばかりで早逝した中宮賢子の形見だったとは思い及ばなかった、と詠っている。邦雄曰く、並々の贈答歌とは異なる、澄み透ったあはれがにじむ、と。

 染めやらぬ梢の日影うつりさめてやや枯れわたる山の下草
                                 永福門院内侍

風雅集、秋下。室町中葉、伏見院の女御永福門院に仕えた。第三句「うつりさめて」の字余りのたゆたい、四句「やや枯れわたる」の微かな限定。邦雄曰く、自然観照の細やかさ、一首の微妙な時刻の移ろい、山野の眺めの照り翳りは特筆に価しよう。草紅葉することもなく、枯れ草となっていく、秋の終りの山ふところの八重葎の原の幻が、墨絵のように浮かぶ、と。

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November 07, 2005

荒れわたる秋の庭こそ‥‥

051023-025-1

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-今日の独言-

市町村合併に伴なう地名破壊
 平成の大合併が進み、それに伴なって地名破壊も日本中に拡がっている。
合併特例法の大号令で、1999年3月末に3232だった全国の市町村数は、来年3月末には1821に減る見込みだそうだ。総務省は、合併の功罪を検証し、今後の課題や合併推進策を探る研究会を発足させる、という。ここ両三年の合併履歴はコチラのサイトで見られる。栃木県に「さくら市」という名の市が誕生して、物議を呼んでいる。あまりにも地域の特定性がない、という訳だ。合併に伴う新地名選定には、昔から連綿と継がれてきた歴史的地名があまりにも軽んじられていると歎き、消されゆく地名の大洪水に、これはある種の文化的大破壊だ、と怒りの声をあげる批判の書も出版されている。だが、残念ながらこういうことは今に始まったことではなく、明治維新の近代化以来、国の号令のもと何回かの大合併が取り組まれてきたし、また戦後60年を見ても、市町村合併とは別に、各地方自治体では、利便性を求めた町づくりのために、区画整理事業をかさねて、たえず由緒ある旧地名は抹消されてきたのである。歴史的事象といえどもつねに文明の濾過器にふるいにかけられ、歴史は再創造されてゆく、或は、捏造されてゆくのだ。歴史と文明という座標の変容のなかに棲みつづける人間社会というものは、所詮はそんなものではないのかというのが、私の思うところだが‥‥。
 ―― 平成の大合併履歴サイト 
 ―― 合併で進む地名破壊サイト

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-26>

 荒れわたる秋の庭こそあはれなれまして消えなむ露の夕暮
                                 藤原俊成

新古今集、雑、千五百番歌合に。
邦雄曰く、上三句に「あ」の頭韻を押し、冷え侘びた調べに明るみを添えたあたり絶妙。時に作者、87歳、三年後の死を思わせつつ澄み渡った心境、と。

 風吹かばなびく浅茅はわれなれや人の心の秋を知らする
                                 斎宮女御徽子

後拾遺集、雑、題知らず。平安初期、醍醐天皇第4皇子重明親王の娘。
邦雄曰く、冷やかにしかも渺茫とした心のなかの眺め、「われなれや人の心の秋」の神韻ともいうべき調べは格別、と。

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November 06, 2005

いづかたにしをれまさると‥‥

Nakahara050918-085-1

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-今日の独言-

35歳の初志貫徹
 私は将棋や麻雀など勝負事はからきしダメなのだが、35歳のアマチュア棋士がプロ資格への挑戦をして、晴れて四段棋士となったニュースには他人事ながら快哉の声を上げたい。一旦は26歳で立ち塞がるプロ資格の壁の前に挫折して、苦節十年、その熱意と辛苦は、資格規定の定法を破ってまでの異例の挑戦となり、執念のプロ入りを果たした快挙は、近頃滅多に出会えぬ、人として生き抜くことの範に値する。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-25>

 いづかたにしをれまさると有明に袖の別れの露を問はばや
                                 後崇光院

沙玉和歌集、別恋、詞書に、永享四年二月八幡社参じて心経一巻書写してその奥に。室町後期。後朝(きぬぎぬ)の名残りを惜しむ涙を「袖の別れの露」とした。冷え冷えとした暁の薄明りのなかに別れてゆく二人の姿が浮かぶ。邦雄曰く、技巧を凝らした構成の、殊に結句の吐息に似た響きが佳い。身は皇族に繋がりながら終生不遇であった人の、詞に懸けた凄まじさを、と。

 思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末やこがらしの風
                                 藤原家隆

新古今集、恋、水無瀬恋十五首歌合に。恋に深く心を沈めた我が身は、深草に宿る秋の露か。頼みとしえたはすでに過去のこと、果ては木枯しの風に吹き散らされる儚き定めか。邦雄曰く、上・下句共に体言止めの、ひたと対峙して響き合う文体、しかも惻々と心に沁む趣き、と。

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November 05, 2005

はかなさをわが身の上に‥‥

Nakahara050918-020-1
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-今日の独言-

<納音=なっちん>
 山頭火の俳号は納音(なっちん)から採られたことはご承知の向きも多いだろう。その種田山頭火が自由律俳句へと参じ、彼より年少ながら師匠格となったのが「層雲」を主宰した萩原井泉水だが、その俳号も同様に納音である。ご存知だろうが、本来、納音とは運命判断の一種で、十干十二支(=六十干支)に五行(=木火土金水)を配し、これに種々の名称をつけ、生年や月日にあてて運命判断をするものである。萩原井泉水の場合は1884年生れで、納音が井泉水にあたるので、これを俳号としたのだが、山頭火の生れは1882年で、納音は白鑞金にあたり矛盾する。どうやら山頭火は語彙・語感からのみこれを好んで採ったようである。もし仮に生年の納音どおり白鑞金と号していたら、遺された句の世界も些か異なっていたのかもしれない。
山頭火とは、山頂にて燃えさかる火。非常に目立った存在で、優れた知性を持ち、人を魅了する。
白鑞金とは、錫(すず)のこと。金属でありながら柔軟であり、臨機応変に姿を変えることができる。
 因みに私の生まれ年の納音は井泉水で、生年月日の納音は揚流木にあたるらしい。
井泉水とは、地下から湧き出る井水。日照りでも枯れることの無い豊かさと穏やかさを持つ。
揚流木とは、柳の木のこと。向上心は旺盛だが、流れに逆らわず、従順で素直な面を持つ。
 ―― 納音の解説はコチラのサイトを参照
    http://www.freedom.ne.jp/inukai/cgi-bin/setumei.html

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-24>

 はかなさをわが身の上によそふれば袂にかかる秋の夕露
                                 待賢門院堀河

千載集、秋。詞書に、崇徳院に百首の歌奉りける時詠める。平安後期の院政期を代表する女流歌人。
露のはかなさは、たとへば我が身、我が命の儚さそのまま。そう思えば夕暮の冷やかな露、否、悲しみの涙は袂を濡らす。
邦雄曰く、初句にあるはずの露を消して、余韻を生んだ。歌のなかから光り出るものがあるかの如く、と。

 もれそめし露の行くへをいかにとも袖にこたへば月や恨みむ
                                 足利義尚

常徳院詠、寄月顕恋。8代将軍足利義政と日野富子の子、9代将軍となるも24歳で早世。
邦雄曰く、題も「月に寄せて顕わるる恋」などと趣向倒れ一歩手前。恋も歌の表から可能な限り隠して「露の行くえ」「月や恨みむ」に托し、間接話法の粋をみせる技巧は、弱冠18歳と思えぬ老成振り。上句と下句のかそけきほどの脈絡も見事な技巧、と。

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November 04, 2005

ともにこそあやしと聞きし‥‥

051023-157-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

子どもたちの甲高い声が鳴り響いている。
今は四時限も終わって給食の時間なのだ。
ベランダの洗濯物には秋の陽射し。
遠い雲は白々と霞み、先刻までの微風もはたと止んで、
子どもたちの声が遠ざかる。
きっと給食を終えて、みんな運動場へ飛び出していったのだろう。
二車線の、さして広くもない道路を挟んで、対座している
加賀屋東小学校の校舎と高層マンション五階の我が家。
クルマが一台、かなりのエンジン音をたてて、西から東へと通りすぎていった。
あれは、きっと、
このあたり便も少なくなった、市バスにちがいない。
子どもたちの声は、やはり、遠くなったままに、
時折、みじかい歓声の尻尾だけが、耳に届く。

と、時報が鳴った。
さて、いまから、なにをしようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-23>

 ともにこそあやしと聞きし夕べなれはかなやひとり露も忘れぬ
                                 三条西實隆

雪玉集、秋恋。
邦雄曰く、初句「ともに」と第四句「ひとり」の間に、二人の愛は流れ、移ろった。記憶は消えず、秋がまわれば涙を誘われるのだ。溢れる思いと言葉を削り、つづめにつづめて、最後に残った三十一音。優に一篇の、あはれ深いロマンを創りうるような、豊かな背景を思わせる、と。

 おほかたの露には何のなるならむ袂に置くは涙なりけり
                                 西行

千載集、秋、題知らず。
草木に置かれた朝露夕露は大空の涙か、わが袂に降るのは人の世に生きるゆえの悲しみの露か。
邦雄曰く、秋思の涙と解するのが通説だが、もっと広く深く、無常に通ずる思いであり、それも秋なればと考えよう、と。

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November 03, 2005

東雲におきて別れし人よりは‥‥

N-040828-027-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

ヴェネチアで生まれた文庫本
 塩野七生の「ローマ人の物語」が三年前から文庫化されはじめてすでに23冊まで発刊されているが、その第1冊目「ローマは一日にしてならず」の前書に、こういった文庫形式の書は今から500年も遡るルネサンス期のヴェネチアで生まれ出版されるようになった、と紹介されている。印刷技術を発明したグーテンブルグはドイツ人だったが、この発明がもっともよく活かされ広く普及したのは、ルネサンス発祥の地イタリアであり、とりわけ当時の経済大国であったヴェネチア共和国で企業化され、文字のイタリック体の考案なども経て、持ち運びに苦もない書物の小型本化も進んだという。17世紀初めには現在のようなポケット版が生まれ、またたくまにヨーロッパ各地に広まったというから、我ら東方世界との落差にあらためて驚かされる一事。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-22>

 やどり来し野原の小萩露置きてうつろひゆかむ花の心よ   肖柏

春夢草、秋、野萩。15世紀後半~16世紀初期の人。宗祇に師事し、和歌・連歌を学ぶ。旅の途次、野原に仮庵を結んで幾日かを過ごしたが、そのあいだ親しんだ小萩の花は、秋の深まりとともにやがて色褪せてしまうかと思い遣る趣向か。邦雄曰く、初句「やどり来し」を、第四句「うつろひゆかむ」が発止と受け、「小萩露置きて」には結句「花の心よ」が響き合う。この呼吸、連歌で緩急を心得た技か、と。

 東雲におきて別れし人よりは久しくとまる竹の葉の露   和泉式部

玉葉集、恋。陰暦八月の頃訪れて来た人が、露置く竹の葉を描いた扇を忘れていったので、暫くしてから、この歌を添えて返してやった、という意の長い詞書があるそうな。邦雄曰く、まことに穿った、巧みな贈歌であり、忘れ扇が故意ならば見事な返歌と言うべきか、と。

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November 02, 2005

散らば散れ露分けゆかむ‥‥

Nakahara050918-016-1
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-今日の独言-

JulyとAugust
 ユリウス・カエサル(Juliuss Caesar)が暦のJulyにその名を止めたのはつとに知られたことだが、そのカエサルが制定した太陽暦としてのユリウス暦は、ローマで紀元前45年から採用され、以後、より誤差の少ないグレゴリオ暦が制定される16世紀までの長い期間、ヨーロッパ世界に普及していたことになるから、彼の誕生月にその名を残しているのも肯けようというもの。もう一人、カエサルの後継者でローマ帝国の初代皇帝となったオクタヴィアヌス(アウグストゥス=Augustus Caesar,)もAugust=8月にその名を止めるが、そこに面白いエピソードが一つ挿入されていた。それまで8月は小の月で30日だったのを、7月と同じ大の月として31日に変えさせたのだという。理由は勿論、カエサルの7月より自分の月が一日少ないのを嫌ったからで、他の月を一日削って調整したらしい。カエサルの場合は決して自分から望んで名を残したのではなく、彼の死後、贈られたものだが、後塵を拝する権力者というものはその偉大さを競うあまり在世のうちにそれを欲したがる。同じような歴史的事象にも表と裏ほどに実相は異なることに気づかされるのは愉しいことだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-21>
 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れての後の花の形見に
                                 藤原定家

拾遺愚草、上、秋。定家27歳の詠。狩衣の袖をひるがえして颯爽と、花盛りの、露もしとどな萩原を分けて歩む若き公達の姿は、無論自身の投影だが、邦雄曰く、若書きの烈しい息遣いが命令形の初句切れにはじまる快速の調べにも、顕わなくらいだ、と。

 頼まずようつろふ色の秋風にいま本荒の萩の上の露
                                 藤原家隆

壬二集、恋、恋歌あまた詠み侍りし時。藤原俊成を師とし、俊成の子定家と並び称された。「本荒-もとあら-の」は、根元もまばらなの意。そんな萩の露のようにひと思いに散るなら散ってもよい。秋風と共に移ろう人の心などもうあてにはせぬ、とやや捨て鉢に愛想づかしをする。邦雄曰く、技巧的でしかも激情をひしひしと伝えるところ、家隆の特色か、と。

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November 01, 2005

なげくかな秋にはあへず‥‥

051023-008-1

Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

ガリア戦記のカエサル
 さすがに、ガリア戦記のカエサルはおおいに読ませてくれる。塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズ「ユリウス・カエサル」(文庫本)はルビコン以前、ルビコン以後を各々上・中・下に分け6冊になっているが、現在4冊目を読み進んでいる。
著者自身、本書に記すように、西ヨーロッパの都市の多くがガリア戦記に描かれたローマ軍の基地を起源としていることがよくわかる。後年、カエサルは、退役する部下たちを、現役当時の軍団のままで植民させるやり方をとったから、彼らが軍務で身につけた土木・建設の技術力に加え、共同体内部での指揮系統まで整った形で都市建設をはじめることになり、彼らのまちづくりが、二千年後でも現存することになった、という。
古代ローマを中心にしたヨーロッパの形成が絵巻物世界のごとく綴られてゆくのを享受する醍醐味はなかなかのものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-21>

 葛はうらみ尾花は招く夕暮をこころつよくも過ぐる秋かな
                                 夢窓国師

正覚国師御詠、暮秋を。秋風に靡いて葉裏を見せる葛と、人を誘うように揺れて手招く薄の、いずれも無視しがたい強さで迫ってくる情意を、潔く、きっぱりと振り切って秋は通り過ぎてゆく。邦雄曰く、葛・尾花・秋三者の擬人化は微笑ましいくらい整っており、秋を男に見立てているのであろう、と。

 なげくかな秋にはあへず色かはる萩の下葉を身のたぐひとて
                                 宗尊親王

竹風和歌抄、萩。13世紀中葉、後嵯峨天皇の皇子。続古今集には最多入集。邦雄曰く、結句にあるべき言葉をわざわざ初句に置き換えたような、訥々とした調べがめずらしい。我が身もまた凋落の秋に遭い、免れがたく移ろっていく歎き。口篭るように「とて」で終る、むしろ余韻を残さぬのも一つの味であろう、と。

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October 30, 2005

秋萩の露のよすがの盛りはも‥‥

Nakahara050918-012-1
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-今日の独言-

四方館稽古条々-「ポテンシャルを強めるべし」

 二週間前(10/16)の稽古で、ラカンを引いて「無意識とは、他者の欲望である」とするなら、即興において自分自身が繰り出してくる動きや所作自体が、すでに無意識裡に無数の他者たちによって棲まわれていることになる、といったような話をしたら、俄然、動きが自在となり豊かになった、と此処に書き留めた。そこで今日は、先とは逆療法的なアプローチだが、従来に比して「もっとポテンシャルを強めること。筋肉的な或いは見かけ上の強弱などではなく、心-身の内圧というか気の力というか、そういったものを強く保持せよ。」と伝えて稽古に入った。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-20>

 萩の花暮々までもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
                                 源実朝

金塊和歌集、秋、詞書に「庭の萩二十日に残れるを月さし出でて後見るに、散りらたるにや花の見えざりしかば」と。邦雄曰く、月明りが白萩を無と錯視させたのか、否、実朝は心中に、跡形もない萩の「空位-ヴァカンス」を見た。数年後の死に向かって後ろ向きに歩む、源家の御曹司たる一青年の、これは声にもならぬ絶叫である、と。

 秋萩の露のよすがの盛りはも風吹き立つる色ぞ身にしむ
                                 九條家良

衣笠前内大臣家良公集、秋、萩花。鎌倉前期、実朝と同年。
二句「露のよすがの盛り」や三句「風吹き立つる色」など新古今などにはない詞の用法といわれる。邦雄曰く、耳に逆らいつつ、しかも快い修辞は作者の特色のひとつ。しかも風に揉まれて露まみれ、乱れる萩一叢が、ありありと眼前に顕れるところ、非凡というべきか、と。

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October 29, 2005

道のべのこなたかなたに‥‥

051023-153-1

Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

内閣府の学校教育に関するアンケート結果
 内閣府による学校制度に関する調査アンケートの結果が公表されている。回収サンプルは1270人。
保護者の学校教育に対する満足度は、不満乃至非常に不満が43.2%、どちらともいえないが43.9%。
教育内容の難易度について、易しすぎる乃至どちらかといえば易しいが61.0%を占める。
ゆとり教育の是非については、見直し派が61.6%で、継続派の5.0%を圧倒している。
教員に対する満足度について、満足派27.3%、不満派28.4%で拮抗し、どちらともいえないは44.3%。
などの調査結果とともに併せて、小・中の学校選択制度についても尋ねているが、賛成派が64.2%を占め、反対派は10.1%と少ない。
この調査結果が、即、文科省の教育改革に反映するとも思えぬが、学校選択制度の調査などが導入されているあたり、アンケートの結果も含めて、大いに気がかりな点だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-19>

 道のべのこなたかなたに乱るらし置きそふ露の玉の緒薄
                                 貞常親王

後大通院殿御詠、行路薄。15世紀中葉、後花園院の異母弟。邦雄曰く、露の玉・玉の緒・尾花・花薄と、懸詞風に要約して、さらりと結句に納めたところ見事。上句のややたゆたいをもつ調べと、下句の小刻みな畳みかける調べも、快い対照を生んでいる、と。

 置きまよふ野原の露にみだれあひて尾花が袖も萩が花摺
                                 足利義政

慈照院殿義政公御集、尾花。15世紀後半、足利8代将軍。「尾花が袖」、尾花は穂の出た薄。風に揺れるさまを袖を振って招いているようだ、と擬人化。初句から三句まで、しとどに露を含む尾花が如実に浮かぶ。邦雄曰く、伊勢集に先蹤のある「尾花が袖」を、技巧を凝らして詠いこんだ。その尾花が袖を架空の萩の摺衣へと転移させ、幽玄の景色へと誘う、と。

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October 28, 2005

誰が秋にあらぬものゆゑ‥‥

Nakahara050918-038-1

Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

まだまだコップのなかの嵐。
 突然の関市長辞任劇から、大阪市長選挙は告示を前にいよいよ混迷の度を深めてきている。
自民市議4期目の元吉本タレントの船場太郎が出馬表明をしたが、どうやら自民党市議団も一枚岩ではないようだ。自民はあくまで自・公推薦の統一候補を望ましいとし、船場では公明の理解が得られそうもない。辞任から再出馬へと騒動の仕掛人関淳一は民主も加えた自・公・民推薦を期待しているが、民主の背後には市職労組の影が濃いとして、自・公が同調する気配はない。
もともと今度の市長辞任劇は、政治的読みの弱い行政あがりの関自身、与党会派の各党がどう動くかを読み切った上でのことではなく、進退極まった感で大鉈を振るったにすぎないところがある。些か辛辣な謂いをすれば、窮鼠猫を噛むに近い。彼自身、新たな出発を唱え、財政改革にヤル気を見せてはいるが、選挙の洗礼で矢つき倒れ付すもよしとしている節があるのではないか。自らまな板の上にのる鯉を演じきるには、開き直ったような覚悟だけではなく、周到な読みがなにより肝要だが、端からそれが感じられないのが、選挙騒動を混迷させている大きな因だろう。
それにしても、この騒ぎ、まだまだ市庁・議会のコップのなかの嵐でしかないというのが致命的で、このままでは市民を広く巻き込んだ嵐となる気配に乏しく、市民のなかに深く潜むマグマに誰も火を付けられそうにない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-18>

 誰が秋にあらぬものゆゑ女郎花なぞ色に出でてまだきうつろふ
                                 紀貫之

古今集、秋上、朱雀院の女郎花合せに詠みて奉りける。
初句、二句の「誰が秋にあらぬものゆゑ」は後世によく採られている。邦雄曰く、他人の秋ならずわが秋、飽きもせぬものを、の意が透けて見えるように隠された、四季歌に恋の趣を添えている、と。「まだき」は、早くも。

 ほのかにも風は吹かなむ花薄むすぼほれつつ露に濡るとも
                                 斎宮女御徽子

新古今集、秋上、題知らず。
心ない風に吹き結ばれた花薄(すすき)が、心ある風に吹き解いて欲しい、と望み訴えているのが歌の意。邦雄曰く、縺れてぬれている花薄はすなわち作者の心、微風を待ち望む「吹かなむ」は、天来の便りを待つ趣。喪中にあって、村上帝の音信を仰ぐべくものした一首とも伝える、と。

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October 27, 2005

萩が咲いてなるほどそこにかまきりがをる

051023-135-1

<四方館ダンスカフェのお知らせ>

ダンス・カフェ第三弾の日程が決まったので以下ご案内する。

Dance-PerformanceとFree-Talkの一夜

「Transegression-わたしのむこうへ」

日時-11月29日(火) 午後7時open
場所-フェスティバルゲート4階COCOROOM

参加費-1000円(フリードリンク込)

詳細は<コチラ>をご覧ください

ここにあらゆる表現行為に通じる一考察、否、人が生きるなかでのすべての行為を表象の位相で捉えなおすならば、およそ人のなすあらゆる行為にも通じる考察というべき掌編を紹介したい。
市川浩がその著「現代芸術の地平」岩波書店刊の冒頭に掲げた短い一文だが、煩瑣を省みず全文を引用掲載する。

<線についての考察>

 空白にひかれた一本の線ほどおどろくべきものがあろうか? それはどのような出来事にもまして根源的な出来事であり、世界の誕生を――ものとしるしとの誕生を告げている。

 それはものである。一本の線はわれわれの視線を吸収し、もろもろの存在を背景へと押しやり、動かしがたいそれ自体の存在を主張する。それは何ものをも、自己以外の何ものをも指示しないのである。

 それはまたしるしでもある。一本の線は空白を分割し、みずから背景へとしりぞくことによって、空間を生みだす。あたかも永遠に逃げてゆく地平線のように、それはもっぱら天と地を、世界の区画を、彼方と此方とを指示するのである。そして幾何学上の線のように、自らはものとしての存在を失おうとする。

 しかし一本の線は、単にそれ自体で存在するのでもなければ、もっぱら空間を分割するのでもない。それは同時に空間を結合し、天と地を、彼方と此方とを、分かちえないものとして溶融しているのである。一歩の線はあちらとこちらとを分画した瞬間に、あちらでもあればこちらでもあることによって、自らを失う。

 それは<永遠の今>にあって凝固しているようにみえるが、この不動性はみせかけにすぎない。線は<生ける現在>によって支えられ、自ら延長し、線となる。ここから予測しがたい線の散策がはじまる。

 かぎりなく延長する線があり、足踏みする線がある。炸裂し、溶融する線、そして旋回する線がある。線に内在するこの運動によって、線の決定論はその一義性を失う。<生ける現在>は休みなく自らを更新し、あるときは季節の移りのように緩慢に、あるときは日の変わりのように、またあるときは火箭のようにすみやかに、すべての線を活性化する。

 こうして上昇する線と下降する線、現れる線と消えゆく線、直行する線と彎曲する線の対位法が生ずる。もっとも単純な一本の線のうちにも、追いつ追われつするフーガのように、線化のヒステレンス=履歴現象ともいうべき内面的構造がひそんでいる。

 すでに引かれた線は、線化の進行に応じて再編されつつ、遅れた効力を発生し、線化の先端へと飛躍する無数の力線を生み出す。一歩の線は変容をかさねながら、終りのない運動をもつ魔術的な幻惑をくりひろげ、世界の生成を通じて世界の<彼方>へと、時のきらめきを通じて<永遠>へとわれわれをいざなうのである。

 キャンヴァスにだまされてはならない。キャンヴァス上の収斂する線は、その不動のみせかけによってわれわれをキャンヴァスの上にとどめるが、それはキャンヴァスの手前へと、あるいはキャンヴァスの彼方へと空間をくりひろげるためにほかならない。われわれはキャンヴァスのこちら側に居合わせると同時に、キャンヴァスの彼方に立ち合っているのである。これは<眼だまし>であるが、絵画は<眼だまし>であることによって、われわれをめざめさせ、われわれに<見ること>の本質を開示する。

 線はこうして出現するやいなや、自らを超越する。たとえ<眼だまし>であろうと、一本の線は絶対的なはじまりである。それは自己を確定することによって、もろもろの可能な線を浮かび上らせ、再び自らを仮設的な存在へと、一つの出来事へと送りかえす。

 ここにわれわれの世界の創造の秘密、その両義性、絶対の弁証法ともいうべき転換が存在する。一本の線の出現は<サンス=意味>の誕生である。しかしそのサンス=意味は、空白の<ノン・サンス=無意味>の海のなかでしか<サンス=意味>でないことを認めなければならない。<サンス=意味>としての一本の線の出現は、ただちに空白を<サンス=意味>としての空間にかえる。一本の線は新たな<サンス=意味>を誕生させる<シニフィカシオン=意味作用>となるのである。そしてこの新たなサンス=意味の誕生は、引かれた線がみずから<ノン・サンス=無意味>へと後退することによってあがなわれなければならない。

 存在は<サンス=意味>と<ノン・サンス=無意味>とのたえまない転換のうちにある。われわれは、両者が交錯するこのような存在に名づけるべき適切な言葉をもたない。ただそれを現示し、その客観的相関物を創造することができるだけである。

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October 26, 2005

月草の心の花に寝る蝶の‥‥

Nakahara050918-023-1

Information<四方館 Dance Cafe>

-今日の独言-

紅葉だよりもあちこちと。
 秋の日は釣瓶落とし、まことに暮れ方は駆けるごとく陽が沈む。
秋晴れもめっきりと涼しくなって、紅葉のたよりも本格化している。
眼に鮮やかな楓の紅葉はたしかに見事な自然の造型そのものだが、山の傾斜一面に雑木のとりどりに彩色された黄葉ぶりを眺めると、なにやら心がしっとりと和む。
そんな時は、笈の小文に引かれた芭蕉の「造化にしたがひ造化にかへれ」を思い出すのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-17>

 月草の心の花に寝る蝶の露の間たのむ夢ぞうつろふ  正徹

草根集、寄蝶恋。初句「月草」の色褪せやすさは詠い古されているとみて、「心の花に」と飛躍を試み、蝶こそは相応しく移ろいやすきものと暗示のうえ、縁語の「うつろふ」で一首を閉じている。
邦雄曰く、巧緻な修辞で創りあげた、手工芸品の感ある恋歌。ただ、この詠風に反感を覚え、採らないのも一見識か、と。

 朝顔をはかなきものと言ひおきてそれに先だつ人や何なる  慈円

拾玉集、無常十首。平安末期~鎌倉初期。頼朝の支持で摂政となった九条兼実の弟。
邦雄曰く、人の世と朝顔の照応、いづれ儚きの歎きを詠った作は夥しいが、なかでも抜きん出たものは、藤原道信の「朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」と、慈円若書きのこの一首だ、と。

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October 25, 2005

おぼつかなそれかあらぬか‥‥

Nakahara050918-002-1

-今日の独言-

国際問題化するグーグル・アース
 衛星画像で世界中のポイントが詳細に見られる話題の「グーグル・アース」が、安全保障上の懸念など世界各国からクレームが続出し国際問題化してきている。衛星画像の解像度は国や地域によって異なるらしいが、インドでは防衛施設の画像まで見られるというし、韓国大統領官邸の青瓦台や、北朝鮮の寧辺の核施設も閲覧可能とのこと。HOTWIIRED JAPANによれば、グーグル・アースの神髄は、ユーザーがどんな地点にも標識を設け、注釈を書き、ソフトのユーザー同士で情報を共有できる-スクリーンショット-点にあるというのだが、ネット情報における利便性の急激な加速は、国であれ個人であれ保護情報を絶えず脅かしつづけ、予想だにしなかったような新しい危険に逢着する。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-16>

 夜もすがら重ねし袖は白露のよそにぞうつる月草の花
                                 藤原家隆

壬二集、逢不遇恋。月草は露草の別名。万葉歌にあるように「月草の花」で染めるのは色褪せて変わりやすいといわれている。また「着き草」の意味でもあり、花の汁を直接衣に摺りつけて染めたによる。邦雄曰く、「よそにぞうつる」の妖艶なニュアンス、第二句の間接的な表現、まことに心にくい、と。

 おぼつかなそれかあらぬか明暗の空おぼれする朝顔の花
                                 紫式部

続拾遺集、恋。詞書に「方違へにまうで来たりける人の覚束なきさまにて帰りにける朝に、朝顔を折りて遣わしける」とあり。第三句の「明暗-あけぐれ」はまだ明け初めぬ暗いうちのこと。第四句「空おぼれ」の空は、あけぐれの空と、空おぼれの掛詞、おぼれは、おぼほれの略で、とぼけているさま。
好い加減な理由を拵えて他処で一夜を明かしてきた男への、皮肉をこめた一首。邦雄曰く、物語歌としての美しさ充溢。

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October 24, 2005

くりやまで月かげの一人で

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<怨霊譚-維新でも怖れられた崇徳院>

 小倉百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌をのこす崇徳院が古来より怨霊神として怖れられてきたのはつとに知られている。「崇徳院御託宣」という書が今もなお宮内庁に残っているらしい。これによれば崇徳院の怨霊は九万八千五百七十二の神とその眷属である九億四万三千四百九十二の鬼類の頂点に立っているというからもの凄い。
 平安後期、崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子として生まれたが、その実は、鳥羽天皇の祖父白河法皇の胤であった。鳥羽天皇はこの出生の秘密を知っていたが時の権力者である法皇に逆らえず第一皇子として受け容れた。崇徳院は5歳のとき即位して天皇となるが、数年後、白河法皇が死に、権力は鳥羽上皇へと移り、やがて崇徳院の母とは別の女とのあいだに新しい皇子を得た鳥羽は、崇徳院に退位させ、わずか2歳の皇子を即位させ近衞天皇とした。15年後、この幼少の天皇は17歳で早世するが、その死の背景に呪詛事件が絡む。次の即位をめぐり鳥羽上皇と崇徳院のあいだで暗闘があるが、ここでも鳥羽上皇の意志で後白河天皇の即位となった。ところが翌年、鳥羽上皇が病死したので、これを機に後白河天皇と崇徳院、これに摂関家や台頭する武家勢力を巻き込んだ保元の乱(1156年)が起こるのである。勝負はあっけなく崇徳院側の敗北。崇徳院は隠岐に流され、後に讃岐に移され、配流のまま非業の死を遂げ、讃岐国白峰山に火葬された。
 現世に烈しい怨恨を残したまま逝った崇徳院は、以後、怨霊・祟り神として伝説化してゆく。都に変事や疫病があれば、崇徳院の祟りとされ、また当時の天狗信仰とも結びつけられ、虚構は虚構をうみ肥大化する。やがて崇徳院の怨霊は天狗の統領とされ、太平記にはこれを筆頭に「天狗評定」の件が登場する。江戸期の上田秋成は「雨月物語」の冒頭に崇徳院の怨霊譚を「白峰」と題して虚構化している。諸国を旅する西行が讃岐の白峰の陵を訪れた際、崇徳院の亡霊が現れ、怨みの数々を切々と語るという怪異譚で、能仕立ての構成だ。
 時に明治維新、王政復古の到来に、孝明、明治の両天皇は崇徳院の怨霊が祟ることを怖れ、彼の霊を招魂し祀ったのが、京都堀川今出川にひっそりと佇む白峰神宮である。維新後の神風連や各地の叛乱、西郷隆盛の西南の役など、或いは日清・日露の戦争勃発までも、明治天皇は心中秘かに、崇徳院の怨霊や祟りが影を落としていると思ったかもしれない。

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October 23, 2005

秋深み黄昏どきのふぢばかま‥‥

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<Shihohkan Improvisation>

-今日の独言-

波乱の幕あけ、濃霧でコールド
 昨夜、日本シリーズの第一戦をTVで観ていたが、なんと濃霧でコールドとはとんでもない幕開けになったものだ。試合は中盤以降、ロッテが圧倒、終盤での阪神の明日につながる反撃が期待されるのみとなったが、6回頃から球場全体に濃霧が立ち込めだし、テレビの映像がほのかに白く膜がかかったようにぼやけてきたかと思えば、7回にはもうすっかりと濃霧に包みこまれた状態。海辺に近い球場とて、浜風が特有の舞い方をする球場だと話題になっていたけれど、突然発生した濃霧で試合中断のすえコールドゲームとは思いもかけない珍事。今年のシリーズはかなり愉しめるものとなりそうだと期待はしていたが、球場の立地条件で自然の異変まで絡んだ演出になるとはだれが予想しえたろうか。パリーグのプレーオフでロッテは意外性に富んだとてもいいチームだとの印象をもったが、マリンスタジアム自体までこれほど意外性に満ちていたとはネ。勝敗の行方を超えてさらに面白くなりそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-15>

 秋深み黄昏どきのふぢばかま匂ふは名のる心地こそすれ
                                 崇徳院

千載集、秋、暮尋草花といへる心を。日暮れ時を表す「黄昏」は「誰そ彼」よりきたる。
秋深いその黄昏どき、草原のなかでひときわゆかしく匂う藤袴の花のその芳しさは、誰そ彼との問いかけに名告りをあげているようだ、の意で、「名のる」は「黄昏」の縁語となっている。
邦雄曰く、切々としてしかも藹々たる味わい、帝王の歌というに相応しい調べ、と。

 月草に衣は摺らむ朝露にぬれて後には移ろひぬとも
                                 作者未詳

万葉集、巻七、譬喩歌、草に寄す。「月草」は露草の古称。
歌意は、月草に衣を摺り染めよう、たとえ朝露に濡れて色褪せてしまおうとも。
邦雄曰く、ほのかに恋の趣をも秘めていて、それも表れぬほどに抑え暈しているのが、素朴なあはれを漂わせて忘れがたい、と。

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October 22, 2005

晴れずのみものぞ悲しき‥‥

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-今日の独言-

ふりかえってみれば‥‥。
 図書館で借りてきた今は亡き市川浩の「現代芸術の地平」をざっと読了。
彼特有の現象学的身体論でもって60年代、70年代に活躍した建築・美術・演劇・舞踊などの作家たちの仕事を読み解いた論集。演劇でいえば、夭逝した観世寿夫、同じく寺山修司、そして鈴木忠志。とくに「他者による顕身」と題した鈴木忠志論は稿も多く詳しい。利賀山房だけでなく常連のようにその舞台によく親しんだのだろう。
私自身、市川の「精神としての身体」や「身体の現象学」は、メルロ・ポンティの「知覚の現象学」や「眼と精神」とともに教科書的存在として蒙を啓いてもらってきたし、同時代を呼吸してきた身としても、彼らの仕事に対する市川の読み解きはずしりと重さをもって得心させられる。
ふりかえってみれば、戦後60年のなかで、中村雄二郎ら哲学者たち或いは文芸評論家の蒼々たる顔ぶれが、芸術の実作者たちと真正面から向き合い、互いに共振・共鳴しあった、特筆に価する時代が60年代、70年代だった、といえるだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-14>

 晴れずのみものぞ悲しき秋霧は心のうちに立つにやあるらむ
                                 和泉式部

後拾遺集、秋、題知らず。古今集、詠み人知らずに
「雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ」の一首ありとか。
邦雄曰く「序詞としての第二句までを、一首の中に眺めとして再現し、模糊たる心象風景に昇華した。二句切れの間は、一瞬であるがあやうく心の中を覗かせようとする。結句は言わずもがなにみえつつ、重い調べを創り出すに、無用の用を務めた、と。

 玉鉾の道行きちがふ狩人の跡見えぬまでくらき朝霧
                                  恵慶法師

恵慶法師集、霧を。平安中期(十世紀)、和泉式部らと同時期の人。出自・経歴など不明。
邦雄曰く「濃霧の朝の眺めか。いかめしい枕詞の初句「玉鉾の」も、結句の重さと快く照応する。実景か否かは問題ではないが、題詠ではこれだけの実感は漂うまい。「行きちがふ」にその呼吸がうかがえる、と。

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October 21, 2005

秋の田の穂の上に霧らふ‥‥

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-今日の独言-

米兵、タリバン兵士の遺体を焼く
 アフガニスタン南部で旧タリバン政権の兵士らと交戦した米兵駐留部隊が、死亡したタリバン兵士2名の遺体を焼却した上で、「仲間の遺体を取り返すこともできないのか」と挑発している映像がオーストラリアのTVで放映されるということがあったらしい。
火葬習慣のないイスラム教に対し、メッカの方角に遺体を向けて焼いた、意図的な冒涜的行為。ジュネーブ条約に抵触する違法行為として問題視されている。
戦渦に在ることは狂気のうちにあるに等しいものだ。平時のうちに安穏として日々をおくるこの身には思い及ばぬ異様なことが、ごくありふれた当然の行為として繰り返されているにちがいない。
    
          -参照記事サイト-

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-13>

 秋の色よ明石の波はよるよるの月ともいはじ朝霧の空
                                 三條西實隆

雪玉集、秋、明石浦。室町後期の人、宗祇より古今伝授を継承したと伝えられる。
邦雄曰く、第三句「寄る-夜」懸詞から「月」に移るあたりのはからいが、連歌時代にはひとつの機知として愉しまれたのだろう。初句六音の重みは結句の叙景と微妙に照応し、大家の風格と。

 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ
                                 磐姫皇后

万葉集巻二、相聞、天皇を思ひたてまつる御作歌四首の一。仁徳天皇皇后の高名な相聞。
邦雄曰く、朝霧の晴れやらぬように、その胸も結ぼれるとの心であろう。かすかに悲痛な響きが、一首を内側から支え、殊に三句切れが印象的、と。

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October 20, 2005

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて‥‥

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-今日の独言-

撤退つづく海外メディア
 「報道写真家から」というブログがある。中司達也さんというフリーの報道カメラマンが、海外ルポから国際政治、旅行記など思うにまかせて書き継いでいる。時々読ませていただくのだがテーマ性も明確で問題への肉薄もしっかりしていて読み応え充分。
19日付は「日本から撤退する海外メディアと神船6号」と題した一文。
ここ数年で、かなりの海外メディアが日本から撤退しているらしい。要するに日本が発信しうるニュース価値が「失われた十年」以後著しく低下している訳だ。所詮、ニュース価値などは地球世界のなかで相対的なものとしてその時代々々を反映しつつたえず流動してゆく。日本から海外メディアがどんどん撤退しているということは、より高いニュース価値を求めて他の国々へと移動している訳だ。その他の国々とは、現在の場合、中国を措いて他にはあるまい。この変化の相の下で、靖国参拝が著しく外交問題の傷を深くしているという構図に、小泉首相はいまだ考えが及ばないのか、或は側近や外務官僚から指摘されながらも知らぬ半兵衛を決め込んでいるのか、いずれにしてもファナティックで迷惑千万なナルシストだ。新人議員たちを前に「政治は洞察力だ」と宣うたという当の本人にこそ、そっくりその言葉を返したいもの。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-12>
 いつまでのはかなき人の言の葉かこころの秋の風を待つらむ
                                 詠み人しらず

後撰集、戀。想いの人は心あるやあらずや、疑えばきりもなく惑うばかりの我が身に耐えがたくも、なお真心の便り-返書をひたすら待つのみ、か。四句「こころの秋を」に新鮮な響きがあり、邦雄曰く「下句の縷々とした悲しみは、類歌数多の恋の部に紛れない」と。

 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
                                  藤原定家

新古今集、秋。藤原良恒邸で催された花月百首中の歌。宇治川にかかる宇治橋には諸説の橋姫伝説があり、古来、橋姫に寄せて詠まれた歌は数多ある。
四句「月をかたしく-片敷く」は、衣片敷くが定型的な表現だが、あえて新奇を狙い転換させたもの。邦雄曰く「三句「風ふけて」は、鴨長明が無名抄の中で厳しく咎めている奇抜な修辞の一つだが、「月をかたしく」と共に、いわゆる達磨歌の面白み躍如」と。

              ――「達磨歌」についての参照記事

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日が山に、山から月が、柿の実たわわ

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<芸能考-或は-芸談>-04

<達磨-だるま-歌>

 塚本邦雄の「清唱千首」を参照していると「達磨歌」なる初めて眼にする呼称に何度か出くわしては悩まされていた。「達磨-だるま-歌」、いかにも揶揄したような滑稽味あふれた呼称だが、此方こそ意味不明、手も足も出ずダルマさん状態であった。
どうやら単純にいえば、奇を衒った手法を駆使して訳が分らぬ、解釈しようにも手も足も出ないような歌に対して「達磨歌」と揶揄蔑称したもの、ということらしい。
ところがよく調べていくと、この呼称問題の奥はけっこう深いようだ。
 平安末期から鎌倉初期、終末観漂い暗い世相のなか新しい風が求められたひとつの時代の転換期である。宗教においても文芸においても新旧の交錯拮抗する時代でもあったのだ。
慈円や藤原良経、定家らがつどう九条家サロンの歌人たちは、先達古今集の歌風を刷新すべく新風を吹き込もうとした。具体的な技法の工夫としては、句切れの多用、語句の倒置や圧縮と飛躍、体言句の羅列など、従来からすれば新奇・奇矯な修辞法を駆使し、いわば事理に基づいた短歌的抒情、論理的な意味的結合の流れを断ち切って、体言句のもつ象徴的な喩・像の連合を一首の軸として歌の世界を構築しようとした。これら新しい歌風に対し、古今の伝統世界を是とする旧派歌人たちは、先述したように「達磨歌」と呼び嘲笑し蔑んだ。新風に対する否定的・批判的な論を展開した一方の雄に「方丈記」鴨長明がいる。長明は自著「無名抄」において「露さびて、風ふけて、心のおく、あはれのそこ、月のありあけ、風の夕暮、春の古里など、初めめづらしく詠める時こそあれ、ふたたびともなれば念もなき事、-略- 斯様のつらの歌は幽玄の境にはあらず、げに達磨とも是をぞいふべき」と記している。新風の「達磨歌」が、長明の言うように単なる言語の遊戯にしかすぎないなら、まさしく初めはめずらしく詠めても二度目となれば悪い意味でのマニエリスム以外のなにものでもないだろうが、彼の批判も些か一面的に過ぎたようである。
 九条家サロンの歌人たちと意外に近しい位置に居た曹洞宗の開祖道元は自著「正法眼蔵」の山水経の段において「水は強弱にあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。-略- 人天の水をみるときのみの参学にあらず、水の水をみる参学あり、水の水を修証するゆへに。水の水を道著する参究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己の他己を参徹する活路を進退すべし、跳出すべし。」と説く。万物諸相の多様のうちに、それぞれ相通じ逢着する道があり、それらを実際に徹底して行き来したうえに、そこから跳び出すことこそ本来の参学だ、ということかと思えるが、最後の言葉「跳出すべし」とは、論理的な意味的結合の流れを断ち切って、その外部へと跳び出すこと即ち新しい世界像を獲得することであり、新風歌人たちの美学と大きく響きあっている。この仏法世界と歌の世界との共鳴は、世界と人との新しい関係の自覚であり、時代の変化に潜む要請でもあったのだろう。
 この当時、「達磨」とは新しい時代の、新しい思想潮流のキーワードであったのだ。定家らの新風が同時代の人々に「達磨歌」と一方で揶揄されるように呼ばれ、他方で定家ら自身、これを逆手にとって新風の呼称として止揚し、自ら積極的に自己規定していくのも、時代の転換期の背景のうちに必然性として潜んでいたのである。

   ――参照サイト「院政期社会の言語構造を探る-達磨歌」

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October 19, 2005

契りとて結ぶか露のたまゆらも‥‥

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-今日の独言-

異彩を放つ本歌取り「続 明暗」
 漱石の「明暗」を読んでもいないくせに水村美苗の「続 明暗」を読んでみた。いわば本歌取りを鑑賞して未知の本歌を偲ぶという、本末転倒と謗りを受けても仕方のないような野暮なのだろうが、それなりにおもしろく楽しめた。
本書冒頭は、漱石の死によって未完のまま閉じられた「明暗」末尾の百八十八回の原文そのままに置かれ、津田と延子の夫婦と津田のかつての恋人清子との三角関係を書き継いでいく、という意表をついた手法が採られている。
換骨奪胎という言葉があるが、過去の作品世界を引用、原典を擬し異化し、そこに自己流の世界を構築するという手法は、古くは「本歌取り」などめずらしくもなく、今日では文芸に限らずあらゆる表現分野に遍くひろまっているとしても、本書の成り立ち方はとりわけ異彩を放つだろう。
著者は文庫版あとがきで「漱石の小説を続ける私は漱石ではない。漱石ではないどころか何者でもない。「続明暗」を手にした読者は皆それを知っている。興味と不信感と反発のなかで「続明暗」を読み始めるその読者を、作者が漱石であろうとなかろうとどうでもよくなるところまでもっていくには、よほど面白くなければならない。私は「続明暗」が「明暗」に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである」という。
小説細部は晦渋に満ちた漱石味はかなり薄らいでいるとみえるも、なお漱石的世界として運ばれゆくが、延子の夫津田への不信と絶望に苛まれ死の淵を彷徨った末に、新しき自己の覚醒にめざめゆく終章クライマックスにおいては、もはや漱石的世界から完全に解き放たれて作者自身の固有の世界となった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-11>

 契りとて結ぶか露のたまゆらも知らぬ夕べの袖の秋風
                                 飛鳥井雅経

明日香井集、秋風増戀。平安末~鎌倉初期。飛鳥井流蹴鞠の祖。源実朝と親交あり、定家と実朝の仲を取り持ったとされる。
邦雄曰く、情緒連綿、潤みを帯びた言葉をアラベスク状に連ね、人を陶酔に導くかの調べ。第四句の「知らぬ夕べの」で、ひらりと身をかわし、一首に言いがたい哀愁を漂わせ、それを受けつつ「袖の秋風」と、倒置法を思わす結句のかすかな抵抗感で、歌を引き締めるところ心憎いばかり、と。

 高円の尾上の萩の摺りごろも乱れてくだる雲の秋風
                                 正徹

草根集。室町中期。定家の風骨に学び、夢幻的・象徴的な独自の歌風。歌論書に「正徹物語」。
邦雄曰く、歌の背景には伊勢物語の「若紫の摺衣しのぶの乱れ」を匂わせ、第四句「乱れてくだる」が一首を際立たせる。山の頂から麓まで、萩の花群を乱しつつ吹き下る秋風。絢爛としてしかも寂びさびとした光景、速力ある調べは正徹の本領を遺憾なく伝える、と。

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October 18, 2005

葛の葉のうらみにかへる‥‥

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-今日の独言-

四面楚歌か? 市長辞任、出直し選挙。
 関市長が辞任を表明した。
職員厚遇問題で昨年から叩かれつづけている大阪市は深刻な財政破綻を抱えてもはや重篤状態だが、旗を振る関市長の再建策は、足並み揃わぬ与党会派の理解を得ながらの調整作業や推薦団体の市職労組の根強い抵抗などの所為か、なかなか大鉈をふるえず遅々として進まない。
地方行政の首長には議会の解散権がない。ならば残された手法は自ら辞任し、出直し選挙で市民に信を問う形しかないという訳だろうが、さてこの非常手段が果たして血路を開くことになるのか、愈々混迷の淵に落ち込んで抜き差しならぬことになるのか、まったく不透明で予断が許さない。
関市長に請われて民間登用された大西光代も足並みを揃えて助役を辞任するが、出直し選挙で仮に関市長が再選されても、再び助役に就く意志はないといっているのもよく判らない。小泉首相の解散騒ぎで候補者にと請われたり、他分野から寄せられる期待も大きかろうが、この時点でのコンビ解消は混迷に拍車をかけるのは必至、との認識は彼女にはないのかな‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-10>

 白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
                                    藤原定家

新古今集、戀五、水無瀬戀十五首歌合に。後朝(きぬぎぬ)- 一夜を共寝して迎えた朝、その別れ-を、「袖の別れ」と表したとき、一首の冴えは決したとみえる。和泉式部の「秋吹くはいかなる色の風なれば」を意識して作られたかと。

 葛の葉のうらみにかへる夢の世を忘れがたみの野べの秋風
                                    俊成女

新古今集、雑上、寄風懐旧といふことを。葛の葉の「うらみ」は裏見-恨みの懸詞は使い古されたものだが、「夢の世」はここでは過去を思わせ、「忘れがたみ」に響かせて情を盡くすあたり、当代屈指の感しきりとか。

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October 15, 2005

吹きしをる四方の草木の裏葉見えて‥‥

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-今日の独言-

塩野七生の「ローマ人の物語」
 一昨日、昨日と、気分転換に塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズを久し振りに読んでいた。文庫版では現在すでに23巻まで刊行されているというのに、私が手にしたのは6巻と7巻。まだカエサルの登場以前である。まてよ、久し振りにというけれど、このシリーズは三年前から文庫版化されはじめたのだから、1巻~5巻までを読んだのはたしか一年半ばかりまえではないか。いやもっと以前かもしれない
紀元前二世紀半ば、第三次のポエニ戦役で強大国カルタゴを完全に滅亡させたその後から、BC63年、ポンペイウスのオリエント制圧によって地中海に面した全域がローマの覇権下となるまでを描く。グラックス兄弟、マリウスとスッラ、そしてポンペイウスと連なる約百年間、共和制下ローマの覇権拡大の道のりは決して平坦なものではない。軍事指導者と元老院たちとの対立相克が絶えずつきまとい、制度的な矛盾を露呈しつつ、ときに血の粛清が繰り返されもする。属領、属国の拡大は奴隷層の民をも飛躍的に増大させる。BC73~2年にはスパルタクスの叛乱も起こった。
著者はこれにつづくカエサルの時代をルビコン以前と以後に分け、8~13まで6巻をあてている。はて、これらを読むのはいつのことになるやら。きっとしばらくはツンドク状態に置かれたままだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-8>
 さりともとつれなき人を松風の心砕くる秋の白露
                                 藤原良平

千五百番歌合、戀。九条(藤原)兼実の子。良経の弟。さりげなくも意外とみえる初句の発想。「砕くる-露」の新鮮ともみえる巧みな縁語。作風は地味だが詩心の味わいは深い。

 吹きしをる四方の草木の裏葉見えて風に白める秋のあけぼの
                                 永福門院内侍

玉葉集、秋の歌とて。作者はこの一首をもって「裏葉の内侍」と称されたと伝えられる。自然への緻密な観照に加えて、第三句の字余りがゆったりとした調べをもたらし、独特な風雅を生んで印象的。

今月の購入本
 鷲田清一「現代思想の冒険者たち-メルロ・ポンティ」講談社
 水村美苗「続 明暗」新潮文庫
 塩野七生「ローマ人の物語-8~13」新潮文庫
 L.ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン・コレクション」平凡社ライブラリー
図書館からの借本
 岡井隆「短詩形文学論集成」思潮社
 市川浩「現代芸術の地平」岩波書店

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October 14, 2005

入る月のなごりの影は‥‥

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-今日の独言-

ブロンボス洞窟の巻貝
 南アフリカのブロンボス洞窟で発見された巻貝の貝殻は、7万5000年前近く前に人類がビーズ飾りを作るために孔をあけられ、最古の装身具だったと推測されている。孔のあいた貝殻ビーズのほかに、骨器で文様を掘られたオーカー(赤鉄鉱)など、お洒落の道具や贈答品として使った可能性のある道具が多く出土したという。これらの出土は既にこの頃より人類は象徴的思考能力を有していた証拠となるとノルウェーの考古学者ヘンシルウッドはみている。
 考古学上は2003年、エチオピアで発見された化石から,現生人類はすでに16万年前に出現していたことが明らかになっていた。さらに今年2月には、エチオピアの別の遺跡で出土した化石の年代測定結果によって、は19万5000年前へと遡る可能性が出てきた。しかし,人類がいつ頃から現代人と同じような精神や高度な道具を持つようになったかについては、従来は約4万年前のことだろうと考えられてきたのだが、ブロンボス洞窟の出土類はこの時期を大きく遡らせることになる。
 参照サイト-
日経サイエンス「人類文化の夜明け」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-7>
 すみなれし人は梢に絶えはてて琴の音にのみ通ふ松風
                                 藤原有家

六百番歌合せ、寄琴恋。平安末期、家隆、定家と同時代人。第二句の「梢」に「来ず」を懸けて、待つ恋の哀れを通わせ、下句「琴の音にのみ‥‥」と結ぶ味わいに「細み」の美を感じさせる。歌合せの右歌は慈円の「聞かじただつれなき人の琴の音にいとはず通ふ松の風をば」

 入る月のなごりの影は嶺に見えて松風くらき秋の山もと
                                 藤原定成

玉葉集、秋下。鎌倉時代、藤原北家世尊寺流、行成の末裔。玉葉集や風雅集の特色は、一首の核心を第四句に表して、風情の面目を一新する、という。この歌も第四句「松風くらき」が、月明りのすでに傾いた頃の闇深く、影絵となった山麓の松林という実景が心象風景ともなって幻視のごとく浮かびあがる。

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こほろぎに鳴かれてばかり

<古今東西-書畫往還>

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<人の欲望は他者の欲望である>

 人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人間を捉える。
だがこのことはけっして人間の主体的決定の余地を奪うものではない。人間の主体的決定は、まさに、この他者からやってくる欲望をいかに自分のものにするかということのうちに存するのだ。フロイトの発見した「無意識」とは、そのような主体的決定の過程において、いいかえれば、他者から受け取った欲望を自分のものに作り替えていく過程において、形成されるものにほかならない。
 人が成長してゆくなかで、他者の欲望との出会いは繰り返される。人が幼少時から重ねてきたさまざまな決断や選択は、どれほどそれを自分自身で行ったと思っていても、実はもともと親や教師や友人といった他者から与えられたもの、あるいは伝達されたものにすぎない。だが、人はいつしかそれらの出会いを忘れてゆく。出会われた欲望がやがて忘れられてゆくのは、それが他のものに取り換えられるからである。一つのシニファン――というのも、他者の欲望は常に一つのシニファンのもとに出会われるだろうから――を他のもう一つのシニファンに取り換えること。ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニファンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直すのである。他者からやってきた欲望を抑圧することで、人はその上に自分の欲望を築いてゆくのであり、抑圧された他者の欲望は「無意識」を構成し、無意識において存続する。
 このように、精神分析における「無意識」とは厳密には他者の欲望の場である。それは他者の止むことなき「語らいの場」である。先述のように、欲望はシニファンの連鎖によって運ばれるが、その連鎖が形作るものを名指すのに「語らい」ほど適した言葉はない。それゆえラカンは、「無意識は他者の語らいである」と繰り返す。主体が生まれる前から常にそこにおいて語らっていた「大文字の他者」は、この語らいが運んでいる欲望が主体のうちで抑圧され、無意識を構成するようになった後も、けっして語らうことをやめない。私たちに毎夜夢を紡がせるのは、まさにこの「他者の語らい」にほかならないのである。

  ――新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社 P43-45

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October 13, 2005

ありし夜の袖の移り香消え果てて‥‥

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-今日の独言-

進まぬパキスタン被災者救出。
 パキスタン地震の被災者救出が遅々として困難を極めている。地震発生が8日午前8時50分、学校では授業がすでに始まっていた時間帯。さらには断食月に入った直後だけに家屋内に居た人々が多かった。丸4日経っても被災者の救出は一向に進まない。死者は4万にも達するかと予想されてもいる。また250万もの人々が野外に取り残されたままの避難生活が続いているという。
昨年末のスマトラ沖地震による津波災害においても大量の犠牲者とともに甚大な被害をもたらした。後進性と人口過密を抱えたアジア各地でひとたび大きな自然災害が起きると、これほどに犠牲者もひろがり救出・救援活動もお手上げのような状態となる。
現在のところ、救援活動として日本からパキスタンに派遣されたのは、国際緊急援助隊による救助チーム49名と医療チーム21名の計70名規模。
12日になって、防衛庁は陸上自衛隊120名の派遣命令を出し、早ければ13日にも出発させるという。これに先立ち現地調査のため先遣隊20名は12日成田を出発したらしい。
一方、イラクへの第8次自衛隊派遣部隊600名に対し、11日夕、防衛庁長官により派遣命令が出された。10月下旬にも現在駐留している第7次隊と交代のため出発する予定とか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-2>
 ありし夜の袖の移り香消え果ててまた逢ふまでの形見だになし
                                 藤原良経

六百番歌合せ、稀戀。一夜を共に過ごした相手の微かな袖の移り香だけが、唯一の愛の形見、追憶のよすがであったものを。読み下すままに簡潔にして溢れる情感が、結句「形見だになし」の激しい断念の辞と見事に照応する。

 夏衣うすくや人のなりぬらむ空蝉の音に濡るる袖かな
                                 俊成女

続後拾遺集、戀四、千五百番歌合せに。夏衣は「うすく」の縁語。思う人の情の薄く変わり果てたさまは、「空蝉」の語にも響きあう。晩夏、蝉の声を聞くにつけても侘しさに涙し、袖は濡れる。

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October 12, 2005

影うつりあふ夜の星の‥‥

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-今日の独言-

 高村薫の「レディ・ジョーカー」を読む。
二段組で上下巻850頁余の長篇はさすがに一気呵成という訳にはいかない。
前半は輻輳した運びに些か冗漫さがついてまわりなかなか読み進まなかったが、上巻の終盤あたり「事件」以後は太い縒糸のごとく緊密な運びとなって読むのも急ピッチに加速した。
著者は「グリコ・森永事件」に着想を得たというが、直接には現実の事件とは関わりなく、その構想力と構成の確かさはバブル経済下の政・官・財の癒着構造によく肉薄しえている。人物たちの設定や配置も巧みだし描写もしっかりし、些か観念的ではあるにしても、それらの関係の中であぶり出しの絵の如く現代社会の病巣を浮かび上がらせている。
読み終えてから今更ながら昨年に映画化されていることを知ったのだが、その勇気ある野心には敬意を表するけれど、映像化にとても成功するとは思えないのであまり食指は動かない。同じ著者の「晴子情歌」の抒情世界ならぜひ映像で見てみたいと思うものの、これはこれとてさらに難題だろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-6>
 影うつりあふ夜の星の泉河天の河より湧きていづらむ
                                 十市遠忠

遠忠詠草。室町後期の武将で歌人。大和国十市城主(奈良県橿原市)。集中に七夕を詠じた「天・地・草・木・蟲・鳥・衣」の七題の歌があるそうでこれは「七夕の地」にあたる。泉を天の河に見立てた趣向。上句と下句の対照は連歌の付合いを想起させ、室町後期というこの時代を思わせるか。

 露くだる星合の空をながめつついかで今年の秋を暮らさむ
                                 藤原義孝

藤原義孝集、秋の夕暮。平安中期、一条摂政伊尹(これまさ)の子で、後少将或は夕少将と称されたが20歳未満の若さで夭折した。「星合の空」とは彦星・織女が出会う七夕の空の意。上句の「露」は涙を暗示し、四句の「いかで」の語に暗澹とした思いがにじむ悲歌。

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October 11, 2005

狩りくらし七夕つ女に宿借らむ‥‥

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-今日の独言-
「キューポラのある街」の早船ちよさんの訃報。
映画「キューポラのある街」の原作者で知られた児童文学者、早船ちよさんの訃報が9日報じられた。享年91歳、老衰によるとあるから、天寿をまっとうした静かな往生であったろう。
原作の小説は1959年、雑誌「母と子」に連載されたという。日活で映画化されたのは’62年、主演は吉永小百合、共演に浜田光夫。浦山桐郎の初めての監督作品だった。以後、日活は主軸のアクション路線に加えて、吉永小百合を中心とした青春純愛路線の映画を量産していく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-5>
 狩りくらし七夕つ女に宿借らむ天の河原にわれは来にけり
                                 在原業平

古今集・秋上、伊勢物語第八十二段。惟喬親王の桜狩に従い交野の渚院でものした歌とあり。「交野を狩りて、天の河のほとりに至るを題にて、歌よみてさかづきはさせ」との仰せによる。当意即妙の応酬を超えて、華やかで悠々たる詩情。枕草子に「七夕つめに宿借らむと業平がよみたるもをかし」との件ありと。

 ながむれば衣手すずしひさかたの天の河原の秋のゆふぐれ
                                 式子内親王

新古今集・秋上。七夕といえば織女と彦星の儚い逢瀬に寄せた調べの多いなか、式子は「ながむれば衣手すずし」と爽やかな季節感だけを表立てていかにもおおらかに直線的に詠み放った。それも星のきらめく夜ではなく夕暮れを歌うという間接的な手法など、新古今の七夕歌のなかで際立っている。

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October 09, 2005

契らねど一夜は過ぎぬ‥‥

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-今日の独言-

紀宮の皇族退職金? 1億5250万円。
 皇室経済法という法律があるそうだ。紀宮が結婚によって近く皇族から離れることになるが、その折に一時金として支払われる金額が1億5250万円と決まったことが報道されている。いわば皇族退職金のようなものだ。この額がわれわれの生活感覚からして理に適った妥当なものか、その判断は各々意見も分かれよう。
この額を決定する根拠となるのが皇室経済法なのだが、この法の規定に基づく最高限度額がこの数字になるらしい。件の法律がどんなものなのかNetで読んでみたが、平成9年以降の改正事項は有料となっていたので、さらに追うのはやめにした。
女性問題や年金未納のスキャンダルで相変わらず話題をふりまいてくれる小泉チルドレン杉村太蔵クンに、歳費と通信費等で年間3600万円支給されるのに比べれば、ごくつましいものと感じられもするから、この日本という国、なかなか奇妙な国ではある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雜-1>

 東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
                                 柿本人麿

万葉集巻一、詞書に軽皇子の安騎の野に宿りましし時。あまりにも人口に膾炙した人麿の代表的秀句。
「炎-かぎろひ」とはきらきらする光。野の果てから昇りはじめる陽光の兆し、曙光である。
一望千里というか遥々とした眺めの雄大さは格調高い。結句は万葉集原文では「月西渡」と表記されのだが、まだ西空に月の残る景が<時間>を感じさせるか。

 契らねど一夜は過ぎぬ清見潟波に別るるあかつきの雲
                                 藤原家隆

新古今集、羈旅の歌。偶々縁あって駿河の国は清見の港に一泊、寄せては返す波と別れてゆくかのように、遥かにみえる暁の雲。その雲に漂白の身が重ねられているのだろうか。三句と結句の体言止めが結構を強めている。

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October 08, 2005

ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる

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<身体・表象> -14

<右-左と超越>

 子どもが右と左を区別するようになるのは、上-下や、前-後に比べてはるかに遅く、ほぼ6歳前後といわれる。これは右利き、左利きの利き手が安定する時期ともほぼ重なっている。利き手は文化による強制力もあるが、一般に右利き優位であり、それにともなって空間的にも右側に高い価値を与えられる傾向がある。ところが空間としての右-左は、向きを変えれば容易に逆転され、その非等質性は消されてしまう。したがって右-左は差異化されつつも、非可逆的な上-下と異なり、可逆性に富むということだ。
 多くの場合、右はプラスの価値とされ、左よりも高く評価される。「右に立つ」というのは上位・上席に立つことを意味することが多い。「右腕になる」「右に出る」「右にならえ」なども右優位の文化を背景にしている。それに対し、「左遷」「左前になる」など左はマイナス価値を帯び、劣ることや不吉なことを意味するようになる。
 世界中で右を重んじる民族や文化が多く、右は光、聖、男性、正しさ(right)を意味し、左は闇、曲、女性、穢れを意味することが多いのだが、古代の日本では左大臣が右大臣より上位とされ、左は神秘的な方向として右よりも重んじられる傾向があった。「ヒダリ」の語源は南面したときの東の方向になので「ヒ(日)ダ(出)リ(方向)」の意かと岩波古語辞典はいう。これは太陽神崇拝と関係して左が価値化したとも考えられる。そして中国文化の渡来とともに右優位の思想が入り重層化していったのだろう。

 ユングによれば、ラマ教徒の礼拝でストゥーバの周囲を廻るときは右回りに歩かねばならず、左は無意識を意味するから、左回りは無意識の方向へと動くことにひとしいからだ、としている。これに関連して湯浅泰雄は、仏教の卍は左回りであり真理のシンボルであるが、ナチスのハーケン・クロイツは逆マンジで黒魔術のシンボルだが、右回りが心の暗黒領域から出ていくイメージと結びついているからだろう、としている。ここには無意識-暗黒の根源へと降りゆき、それを自覚する超越と、暗黒-無意識の力の流出に身をまかせてゆく超越との違いがある。
 密教には向上門と向下門の対照がある。金剛界曼荼羅図は縦3×横3の九会に分けられているが、修業の過程をあらわす人間から仏にいたる向上門は、右下の降三世三昧耶会から左回りで暗黒領域に足を踏み入れてゆき中央の羯磨会=成身会にいたる。これに対し仏が人間をみちびくとされる向下門は、中央の羯磨会から右回りに向上門とまったく逆のコースを辿って降三世三昧耶会にいたる。すなわち向上門は自力の道をあらわし、正しい悟りにいたる修業の道は自力の修業のみで達するわけではなく、暗黒-無意識の魂の底からあらわれてくる仏の導きたる向下門-他力の道にすがらなければならないことを、この曼荼羅図はあらわしている。
入我我入-仏が我に入り、我が仏に入る-という相関-相入の関係において、左回りと右回りが価値において対立せず互いに相俟って、超越への道が開かれているのだ、と考えられている。

      参照-市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫

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秋といへど木の葉も知らぬ‥‥

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-今日の独言-

 漢字の歴史を塗り替える?  -参照記事-
そんな可能性もあるという中国最古の絵文字群が、寧夏回族自治区で発見されたと報じられている。
図案化された太陽や月など、約1500点もの絵文字が壁画のなかに見出され、最古のものは旧石器後期の1万8000年から1万年前のものとみられるというから、従来、漢字の起源とされてきた殷王朝の甲骨文字をはるかに遡る。
発見された絵文字は象形スタイルで甲骨文字にも類似しているそうだが、いまのところ解読されたのは
1500点のうちごく一部だけとのことで、解読作業の進捗が待たれる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-4>

 秋といへど木の葉も知らぬ初風にわれのみもろき袖の白玉
                                   藤原定家

拾遺愚草・下。定家33歳の作歌。「木の葉も知らぬ」、「われのみもろき」の修辞には冴えわたった味わいがあり、その対照も妙。体言止めの結句も簡潔にて意は盡くされているか。

 夕星(ゆうつづ)も通ふ天道(あまぢ)を何時までか
         仰ぎて待たむ月人壯子(つきひとをとこ)   柿本人麿

万葉集巻十、秋の雜歌。七夕の題詠。宵の明星が歩む天の道を、いつまで眺めて待てばよいのかと、織女が歎きながら夜の天空を司るという月読みの青年に訴えている、という趣向。「ゆうつづ」は古代の読みで、その後「ゆうづつ」と変化。「月人壯子」の擬人化が新鮮に映って楽しい。

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October 06, 2005

暮れゆかば空のけしきもいかならむ‥‥

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-今日の独言-

 ひらかたパークの菊人形   -参照-
明治43(1910)年、京阪電車の開通記念として始まり、96年もの歴史をもつという、ひらかたパークの菊人形が12月4日の最終日をもって幕が閉じられる。
敗戦時の昭和19(‘44)、20(’45)年の二回のみ欠かしただけで、毎年秋に必ず開催されてきた菊人形展は、その規模といい華麗さといい我が国屈指のものだったろう。
私の幼い頃は、このシーズン、田舎からの来客などがあれば必ずといっていいほど、家族連れ立って観に行ったものだが、それももう遠い昔、セピア色になってしまった今となっては懐かしいだけの光景だ。
今年で打ち切りの話を聞いた枚方市が「菊人形製作技術伝承会」を設け、菊人形作りの継承を模索しているようだが、是非ひとつの伝承工芸文化として守り育てていくことを望みたいものだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-3>

 たのめこし君はつれなし秋風は今日より吹きぬわが身かなしも
                                 詠み人知らず

後撰集、秋の歌に編まれているが、身細るばかりの哀切な悲恋を詠んでいる。秋は飽きの縁語ともなっている。待つ恋の女歌か。「今日より吹きぬ」が効果あって、現実の風の冷やかさが感じられ、苦しい恋に嘆く女の溜息が聞こえるほどの調べとなっている。

 暮れゆかば空のけしきもいかならむ今朝だにかなし秋の初風
                                 藤原家隆

新勅撰集、秋上。歌の中心は三句と四句。述懐の心、思いの深さが、「いかならむ」、「今朝だにかなし」によく籠もり、結句の体言止めが効果をあげて、確かな技巧と映る。

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October 05, 2005

珠衣のさゐさゐしづみ‥‥

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-今日の独言-

 有終の美、岡田阪神のリーグ最終戦。
今夜の試合が阪神の今季最終戦だったが、またも見事な試合で観客を魅了してくれた。
横浜を相手に、最多勝のかかった下柳が延長10回を投げ切って、鳥谷のサヨナラホームランで勝負を決めた。
すでにリーグ優勝して消化試合だというのに、4万7000人の観客を呑み込んだ雨の中の甲子園は沸きかえっていた。
岡田采配はほぼ完全に選手たちを掌握しきっているとみえる試合だ。
下柳に最多勝を取らせるべく、お定まりのJFK登板もせずに、勝利を呼び込むまでひたすら彼に投げさせ、チーム一丸の野球を見せた。
最後は劇的なサヨナラホームラン。これ以上の筋書きはないという最終戦。
解説の吉田義男氏が、阪神70年の歴史のなかで、こんなに見事な最終戦はなかったんじゃないか、と言っていた。
さもありなん、Vを決めた瞬間とはまた違った、胸に熱いものがこみあげてくる、見事な有終の美だった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-1>

 珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも
                             柿本人麿

万葉集巻四、相聞歌としてある。歌の心は下の句にいい尽くしてあまりあるか。上の句の「珠衣-たまぎぬ-のさゐさゐしづみ」はその心の形容だが、語感が美しく、妻に対する想いがたぎるように表出されている。と同時に、妻なるその人の容姿や服装までがほうふつと浮かんでくるような趣がある。

 春日野のわかむらさきの摺衣しのぶの乱れかぎり知られず
                              在原業平

新古今集・戀一。「女に遣しける」の詞書。「伊勢物語」の冒頭、男が春日の里へ狩に出かけ、姉妹を見初める件で贈った歌。この姉妹は、山城の新都に移っていった親にとりのこされてこの春日に留まっていたとの設定。源融の「みちのくのしのぶもぢずり‥‥」の本歌取りとされるが、調べも美しく情趣も深いか。

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またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく

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'68年の公演チラシ、右側が当時23歳の私

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<堺市長選挙と長川堂郁子>

 本年2月、美原町との合併で人口83万人となり、15番目の政令指定都市をめざしている堺市の市長選挙が先の日曜日(10/2)実施された。結果は前市長木原敬介氏が再選され、来年4月にも誕生するとされる新政令都市堺の初代市長として二期目の市政に取り組むことになった。
投票率は32.39%。 確定得票数は以下の通りとされている。
   当89741 木原 敬介 =無現<2>自・民・公・社
    59146長川堂いく子 =無新 共
    55028 森山 浩行 =無新
     8280 山口 道義

 この結果から、共産党推薦を受けた無所属新人長川堂いく子の得票が、善戦したと評価できるのかどうかは、以前の選挙結果などを分析してみないことにはなんともいえないし、私は堺市住民でもないから実感をともなう材料とてないので不問としよう。

 本名、長川堂郁子、舞踊家、旧姓は毛利。私からいえば5歳年少で、現在56歳のはずだが、その旧知の彼女が堺市長選に候補者として名乗りを上げたニュースに接して大いに驚かされた。肩書きは舞踊家とされていた、そう、その昔は同門の徒であった。
 彼女を語るには40年近く時計の針を戻さなければならない。5年という年月の差を隔て私と同じ高校を卒えて、ということは当時まだ師のK氏が現職の教諭だった、その薫陶とともに感化を受けて、K師主宰の研究所へ入門してきたのは’68(S43)の春だった。彼女と同期の者たちは何人か居た。いま思い出すだけでも、HK女、HH女の顔が浮かぶ、輝くばかりに生気をみなぎらせた18歳の少女たちの姿が。
 この頃の記憶がかなり鮮明なのは、その年の6月、以前にも書いたことのある、K師夫人の茂子さんと天津善昭そして私の三人が、むろんK師の勧めもあってのことだが、ジョイントのリサイタルで、些か大袈裟な謂いになるが作家デビューしたからである。劇場は大阪厚生文化会館、現在の森之宮青少年会館の大ホールだから、当時としては晴れの舞台ではある。三人三様でお互いが三つの作品を創りあげるのに悪戦苦闘した数ヶ月だった。先輩にあたる茂子・天津の二人はこれまでにも若干の制作経験があったからよかったろうものの、私にとってはまったく未体験の未知なる世界だった。作品構成を「吼えろ吼えろふくろう党」-これは10人ばかりの群舞、「蝕」-踊り手に茂子・天津にご登場願い、私とあわせてのトリオ、「灰の水曜日」-8人4組の男女によるものとしたが、たしか彼女たちには「蝕」以外の二つに踊ってもらったはずだ。いまはもうない浜寺青少年の家で三日間ほどだったか呻吟に喘ぐばかりの制作合宿をしたのも懐かしい。どんな題が冠せられたものだったか失念してしまっているが、天津作品のなかにデュエット構成の作品があり、これを踊ったのが私と彼女であった。記憶をたどれば、はじめ私の相手役を務めていたのは高校時代からすでに研究生として経験を積んでいたHKだったのだが、如何せんHKは身長170㎝の偉丈夫?、私が165㎝だったからどうにも釣合が取れず制作イメージが遠ざかる。という次第で技術より雰囲気とばかり、まだ少女然とした彼女に白羽の矢となったわけである。
 この抜擢がその後の彼女にとって幸いしたか否かは微妙なところだったろう。おそらく彼女は有頂天になるほどに舞い上がっていたにちがいないが、彼女持ち前の芯の強さや勝気な気質とあいまって、周囲の先輩や同僚たちには生意気な子と映ることもあったのではないか。私の知るかぎりにおいて、その後の長い道のり、彼女の研究所での位置は決して温かい場所に恵まれたものではなかったように思われる。だが、彼女はその長い年月をよく持ち応えてはきた。あくまで自分は自分、他人の評価を意に介せず、マイペースを貫いて、自分なりの舞踊家としての矜持を保ちつづけてきたのだろう。
 初めの出逢いから何年経ってか、彼女は結婚して長らく豊中に住んでいた。そういえばいつだったか偶々会った時に、「新婦人の会の人たちとダンス教室を開いて教えている」と、そんな話を聞いたことがあったっけ。彼女の主宰するグループ駄々はそんなところから出発している筈だ。自分なりの舞踊世界の構築とともに、新婦人の会を中心に市民運動的な活動にも執心し取り組んできたのだろうが、その点に関しては私はよく知らないままに年を重ねてしまったが、彼女もまた敢えてあからさまに報告する気になれなかったともいえそうだ。’89(H1)年の中国公演にだって一緒に行ったりしたのだし、多くはないとしてもそんな機会は何度かはあったはずだから。彼女が堺市へと転居したのはいつだったのか、手紙などのやりとりでわかってはいたが、それがまたいつのことやらはっきりとしない。岸和田の住民で、作曲活動をしているT氏から、「オペラの振付を彼女にして貰ったことがありますよ」と聞かされたのは、今年の「グランド・ゼロ」合同公演の稽古場でのことだ。
 そんな彼女、長川堂郁子が堺市長選挙に候補者として立ったというのは、意外や意外、驚き入ったニュースだった。私の知るところではなかったが、数年前から新婦人の会の堺支部事務局長を務めていたらしいし、政令都市をめざしてひたすら走る堺市政に反旗をひるがえす住民運動もいろいろとあったろうから、新鮮な女性候補として彼女が浮上してくるのも、成程ありえないことではないのだが、少女の頃から知る我が身には思いもよらぬ仰天の出来事だったのである。

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October 04, 2005

吹く風は涼しくもあるか‥‥

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

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-今日の独言-

 アタリ、ハズレ、どっち?
昨日(10/3)、プロ野球の高校生を対象としたドラフト会議で、籤引きの勘違いから二件ものドンデン返しとなる騒動が起こったという。ハズレ籤をアタリと勘違いして発表され、ご丁寧にも本人たちに伝えられ、喜びの記者会見もした後に訂正され、再度の記者会見を行なうというドタバタ。
ドラフト制度には悲喜こもごものドラマはつきものだろうが、このドタバタ悲喜劇、当事者の高校生二人にとっては、笑ってすませるものではあるまい。事実、一人は訂正の結果が意中の球団とあって喜びもひとしおだが、もう一人は逆に意中の球団指名に喜びの絶頂から急転直下、気の毒にも涙の再会見となった。心乱れてなんともいいようのないこの哀れな少年に、マスコミも学校周辺もあらためて感想を強いるという構図もまた些かいかがわしいものだと感じさせられた。

<秋-2>

 幾年のなみだの露にしをれきぬ衣ふきよせ秋の初風
                                ―― 藤原秀能

承久の乱で後鳥羽院は隠岐に流謫の身となった。その隠岐には作者の猶子能茂が随行していたという。流謫の後鳥羽院を想い日々涙したのであろう。
三句切れ、さらに命令形で四句切れ、そして体言止めによる終句。この重層によって哀感はより強められる。

 吹く風は涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来ぬけり
                                ―― 源実朝

金塊集中、秋の部にある。破調二句切れの万葉に学ぶ心。まだ二十歳をいくらも出ていないだろう実朝の諦観、内に潜む悲哀が、些か肩肘を張ったかにみえる歌の姿に、かえって痛々しく一首を貫いている感がある。

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October 03, 2005

秋来ぬと目にはさやかに‥‥

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

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-今日の独言-

 10月1日、インドネシアのバリ島テロで、死者22名、負傷者107名にのぼると報道されている。
不幸にも犠牲となった死者のうち日本人1名(青森県)が含まれていた。新婚の旅先での不慮の災厄。誠にお気の毒である。謹んで御冥福を祈る。
東南アジアのイスラム過激派「ジェマー・イスラミア」による可能性が高いとされているが、現在のところ犯行声明は確認されていないようだ。


<秋-1>

 この寝ぬる朝けの風の少女子が袖振る山に秋や来ぬらむ
                            ――  後鳥羽院

初句から第四句半ばまで、「山に秋や来ぬらむ」へとかかる序詞の働きとともに、
第三句「少女子-をとめご」が生き生きと鮮やかに浮かび上がる。

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
                            ――  藤原敏行

古今集秋歌巻頭におかれ人口に膾炙した著名な一首。
子規は理の勝った凡作とみたが、上句における視覚と、下句における聴覚の、対照は際立ち、爽快に理を述べたてたその姿と調べは、そのありようこそ古今集の特色ともいうべき世界かと。
「さやか」は「さだか」とほぼ同じ意。

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October 02, 2005

萩が咲いてなるほどそこにかまきりがをる

<身体・表象> -13

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<方向性と超越 -1>

 上-下、右-左、前-後という空間的・方向的な対概念から成る超越の座標について。
この座標系は、デカルト-ニュートン的な均質空間のそれではなく、
あるパースペクティヴに基づいて、方向性をもった非均質的な空間を構成する質的座標系である。
その原点にあるのは、身体性をもった私という存在-身体であり、心であり、私である<身>そのものである。

[上-下への超越]
 上-下は、他の方向性に比べても特に非対称性、非可逆性が強いのが特徴だが、この非対称性が、象徴的にも大きな意味をもつことになる。
その理由として第一に、右-左や前-後は、身体の向きを変えれば容易に逆転されるが、上-下の逆転はそう容易なことではないこと。
第二に、上-下は重力の方向という強い方向性をもち、通常はこれを逆転できない。高い塔や高層建築の魅力は重力に抗う印象ゆえにともいえるだろう。また噴水の不思議な魅力も、自然の重力に抵抗する非日常性にあるだろう。
第三に、ヒトは直立歩行によって、頭化の方向=上と、行動の方向=前が分裂したことである。したがって前は実用的、行動的価値の方向であるが、上は非実用的なものとなり、精神的価値のみが強調される方向となる。
一般的にはこのように、上-空間は精神的にプラスの価値を帯び、下-空間はマイナスの価値を帯びる。<上>は神秘的なものの支配する空間、ミュトスの空間となり、神々や上帝、高天原、天国に比せられ聖化される。それにたいして<下>は地獄、黄泉の国、根の国に比せられ穢れた空間、マイナス価値の空間とされる。
しかし、仏教においては些か異なる。浄土は十方億土にあるとされる十方とは、上下二方のほか、東西南北とその中間の八方をいう。
また、農耕民族の地母神信仰や大地信仰のように、<下>である大地は産みの根源としてのプラス価値となるが、この場合、天は父なるものに、大地は母なるものに比せられる。概ね、多神教世界では<上-下>ともにプラス価値であり、天なる神=太陽神と地なる神=地母神のダイナミックな価値体系のなかで、地母神は生殖と死の象徴として両義的聖性を帯びることとなる。
ふつう、神への信仰は<上>への超越と考えられる。キリスト教的な信仰はそうだ。

 キルケゴールの実存哲学において「本来の自己すなわち実存は、神への超越、決断による飛躍を通じてのみ得られる」というのは<上>への超越がめざされている。
これにたいして、人間的生命の根底に向かって自己自身を取り戻そうとする、生の哲学は<下>への超越といえようか。。自己の根柢へ向かうとは、現象的自己を超え出て、自己が根づいている根拠へ遡ることであり、そのかぎり<下>への超越となろう。
<下>への超越を、より自覚的に徹底したのは、西田幾多郎である。
「我々の自己の底には何処までも自己を超えたものがある。しかもそれは単に自己に他なるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に我々は自己の在処に迷う。しかも我々の自己が何処までも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見出すところに、宗教的信仰というものが成立するのである。」(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」)という。この自己の底にある自己を超えたものは、いわゆる神のような超越者的な存在ではない。また単に自己に他なるものではなく、自己の内に潜む多数の或は無数の他者、いわばユングのいう人類に共通な普遍的無意識或は集合的無意識に通呈する世界といいうるのではないか。
キルケゴールにおいて、本来的な自己、真の自己は<上>への超越においてあらわれる自己であり、西田においては、自己を自己の底に超える<下>への超越において、真の自己はあらわれる。かように、自己を超え出ることによって、真の自己があらわれるという構造は同じだが、超越の方向は逆であり、対照的であるのは、たんに拠り所たるキリスト教と禅という発想の違いに還元しきれるのかどうか。

    参照-市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫

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October 01, 2005

落ちかかる月を観てゐるに一人

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<世間虚仮>

<知らぬ顔の半兵衛?-靖国参拝大阪高裁違憲判断>

 9月30日、大阪高裁では、首相の靖国参拝を違憲とする判断が示された。
高裁レベルでは初めての違憲判断である。
この違憲判断の理由とされたもので見過ごしならない重要な点は、
小泉首相の靖国参拝は、首相就任前の公約があり、その実行としてなされていること。
そのうえで、小泉首相は参拝について現に、私的であると明言もせず、また公的立場での参拝を否定していない、との指摘である。-参照-
この二点について、虚心坦懐且つ真摯に受け止めれば、厚顔にも「分かりませんね、なんで違憲なのか」と憮然たる態度に終始することはできない筈なのだが、不満そうにそう応えつつどうやら年内の参拝機会を探っているようだ。-参照-

 ただ、その前日、29日の東京高裁では、私的参拝と判断し、憲法判断としては、公的参拝ならば違憲の疑いありと、としているようだ。
また、これまでの地裁レベルでは計7回の判決のうち、
公的参拝か私的参拝かについては、公的と判断したものが3回、私的と判断したものが1回、判断せずが3回。
違憲か否かについては、違憲が1回、その他は判断そのものに踏み込んでいない。-参照-
したがって、全体を眺めれば、公的か私的かについては、公的と判断しているのが多数派であり、
憲法判断には、慎重を期してか判断そのものを回避しているのが多数で、唯一判断に踏み込んだ場合は違憲とされており、
総体的にみるなら、公的参拝であり、違憲である、とするのが客観的合理的であるように見受けられる。

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September 30, 2005

歩きつづける彼岸花咲きつづける

<風聞往来>


moonbaseさんの「阪神優勝と楽天の黒字に見る野球経営」にトラックバックしています。


<岡田阪神優勝-黄金期の幕開け。‥‥デモ、ネ?>

 成程、甲子園球場での優勝は格別なものだった。
一昨年の優勝も甲子園での胴上げだったが、
ディゲームのあと、夜までファンが待ち焦がれての瞬間だった。
この一戦で必ずもぎ取る、
選手もスタンドのファンも、確信に満ちているその雰囲気が
テレビの画面からも伝わってくるほどだった。
9回表の守備についた選手たちのひとりひとり、
刻一刻と近づくその瞬間にどうしようもなく込み上げてくるそれぞれの思いが、
画面に映るアップの表情から、手に取るように感じられた。
野球という一年をかけたお祭り騒ぎのクライマックスに相応しい瞬間。

星野監督による奇蹟のぶっちぎり優勝から、岡田阪神の実力でもぎ取った優勝へ。
これで阪神はほぼ完全にイメチェンを果たしたといえそうだ。
この誉れで岡田監督は名宰相の名乗りをあげえた。
チーム作りにトータルイメージがしっかりと持てるのだろう。
来季より三年から五年は、連覇はともかくとしても、阪神の黄金時代がつづくだろう。
プロ野球が往時の活況を取り戻すとすれば、しばらくは阪神を軸にしてのことになる。

感極まるその頂点を過ぎれば、祭りのあとの浮かれ騒ぎ。
日本中のここかしこで繰りひろげられるバカ騒ぎが、TV各局で夜通し映し出されていた。
それにしても、優勝を決める一戦の、それも阪神-巨人の最終戦が、
地元関西で、ローカル局SUNTVとNHK-BS2のみの試合中継なのは、なぜ?
中継のなかったTV各局が、優勝に酔いしれるビールかけやらなにやら、
あとの祭りの特番オンパレードに血道をあげているのは、なぜ?
試合中継そのものに、金をかけ、撮影技術を駆使し、
演出を工夫するのが、本来の使命だろうに。
彼らはどうやら、あとの祭りの、国民的バカ騒ぎや浮かれぶりを演出したかった?

TV各局の、この付和雷同ぶりは、先程の総選挙結果とそのあとの騒ぎぶり、
とりわけ新人議員たちを追う過熱報道と、なにやらつながってはいないか。

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September 27, 2005

ぶらさがつている烏瓜は二つ

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<古今東西-書畫往還> 

<愛は生物学的な事実-
     D.モリス「ふれあい-愛のコミュニケーション」

 昔、動物行動学者デズモンド・モリスの「裸のサル」を読んだのはいつのことだったか。おそらく30年くらいは遡るのだろう。このほど些か気まぐれを起こして同じ著者の「ふれあい-愛のコミュニケーション」と「ボディウォッチング」を気楽に走り読みしてみたのだが、結構たのしく気晴らしにはなった。
白川静氏の常用字解によれば、誕生の「誕」という字の本来の意味は「あざむく、いつわる」だそうである。されば、母親の胎内に守られ、至福とよぶに相応しい子宮内から生れ出ることは、赤ん坊にとってはもっとも苛酷な受苦であり、外傷的体験であることに符合するかのごとく、生物としての出産・誕生とは、胎児の側にとってみれば「あざむかれ、いつわられる」ことに他ならないということになろうか。

 「愛は生物学的な事実」とする著者は、動物行動学者としてのアプローチから、親密であるということ、ヒトとしての母と子のあいだや大人としての男と女のあいだに交わされるさまざまなふれあいのうちに、それぞれのシグナルを読み解き、何が起こっているのか、いわゆるボディタッチの本質を解き明かしてくれる。
章立ては、1-「親密性の根底にあるもの」、2-「性的親密性への誘い」、3-「性的親密性」、4-「特殊な親密性」、5-「親密性の代替物」、6-「物への親密性」、7-「自己親密性」、8-「親密性への回帰」と8章に構成されるが、その2章において著者は、「人間の自然な寿命はおそらく40歳から50歳の間であって、それ以上ではない」という。霊長類としての人間の体重やその他ライフサイクルにおけるさまざまな特徴から、動物行動学者としての著者はそう断じている訳だが、ならばわれわれ人間社会は、現代医学の奇蹟によって、その寿命を生物学的にはきわめて不自然なまでに伸ばしてしまっていることになる。40代で自然な死を迎えられるのなら、自分の子を育てそして消え去っていくのにまさしく手頃な時間なのだが、高度な現代文明にどっぷりと浸ってしまっているわれわれの社会ではすでにそこからずいぶんと遠ざかってしまっているうことになる。親の責務を卒業した男女-夫婦がさらに半世紀近くもの時間を生き延びなければならない現代の姿は、まことに深刻な問題を孕んでいる、という訳だ。

 3章において著者は「複雑化したヒトの性行為の起源は何か」を問う。男と女における恋愛期間のやさしい躊躇いがちなタッチや握手をはじめ、もろもろの前戯の情熱的かつ刺激的行為は、どこに由来しているのかということに対し、それらの行為はほとんんどすべて、母と子の関係における親密性に跡づけることができるというのが、その答えである。ヒトとしてのわれわれの「愛し合うことは幼児期への回帰にきわめて類似している」ということ。「ヒト科の動物にとっての結合は、成熟した霊長類の交合行為プラス幼児期に立ち返った抱擁行為で成り立っている」というその二重性にあること。そしてむしろその後者=幼児期への回帰が、「初めの求愛の段階から最後の瞬間にいたる性のすべてのプロセスに深く浸透している」のだと導いている。

 とかく現代における人間関係が互いに疎外的であればあるほど、肉体的な結びつきの必要をよけいに感じるのも自然な成り行きではあろう。また、ヒトとして同じ人格のなかに冷酷無比の残忍性と愛情深い感情が並列的に存在していることも厳然たる事実ならば、というのも残忍性の起源は誕生時の苛酷な外傷体験であり、そして愛情の深さは母親の胎内におけるあの親和力がその起源なのだが、われわれはその残忍性と愛情深さという矛盾しあう二相を自身の内部に折り合いをつけ共存させなければならないことになる。そうしながらわれわれは常に人間の本性を再確認していかねば、絶えず自身の破滅、破壊的行為に突き進む危機にさらされつづけることになるだろう。
 「人間は肉体を所有しているのではない。肉体そのものなのだ。」と終章を結ぶ著者は、「人間関係の結びつきで、とかく性的な要素が過大に評価されがちなのが現代の通弊である。ボディ・コンタクトと親密性への希求が現代社会の内部にどんなに激しい炎となって燃えさかっているか。」と警鐘を鳴らす。ここでわれわれが再確認すべきは、親と子のあいだの親密性に性的な意味がまったく含まれていないように、或は母性愛-父性愛や、子の親に対する愛情が性的な愛とは異質なものであるように、さまざまな人間関係、男性同士であれ、女性同士であれ、ときに男と女であれ、そのいずれの関係も、とくに性-セックスと結びつける必要はなく、親しさや愛情はあくまでそれそのものであり、お互いを分かちがたく結びつける精神的な絆であること。そこに性への衝動が含まれているかどうかは、あくまでも二次的な問題にすぎないのだということ、を徹底して自覚することだ。

 つけくわえれば、コトバもまたボディ・コンタクトの延長であり、象徴性豊かなふれあいなのだ、ということを忘れてはなるまい。ましてや肉声による会話、声の交し合いはお互いの想像力を駆使したボディ・コンタクトそのものであり、親密さにあふれた空間であることをしかと銘すべきだろう。

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September 26, 2005

水に雲かげもおちつかせないものがある

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<日々余話>

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<Viva! Campオフin 岡山-二次報告>

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 先の19日、岡山県「たけべの森」キャンプ場で催された、
エコー仲間の西風さん流のアウトドア世界に愉しく遊ばせていただいたことについては20日付で紹介したが、
その折の写真を同じく参加していたNaoさんからお送りいただいたので、
遅ればせながらここに掲載紹介させていただく。
なお、Naoさんのホームページでは、愉しく大いに盛り上がったキャンプでの模様を伝えてくれているので、
よろしければこちらをご覧下されたし。

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September 24, 2005

松風すずしく人も食べ馬も食べ

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<芸能考-或は-芸談>-03

<盆踊りと口説-くどき>

 儀式化、行事化した念仏踊りは中世・近世を経て大規模となり、祖霊供養や精霊送りの「大念仏」と呼ばれるようになるが