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July 16, 2012

捨てきれない荷物の重さまへうしろ

Santouka081130027

島原半島をぐるりと往く山頭火行乞記

昭和7年2月7日に長崎市内を発った山頭火は、8日に諫早南部の有喜町に泊り、翌9日から23日迄の15日間をかけ、兪々島原半島を西から東へぐるりと廻る行乞行となるが、この行程で眼を惹くのは、心身不調ゆえか理由は一向に解らないが、島原の城下町、坂本屋という宿で7日間の長逗留をしていること、さらに解せないのは、この二週間余に、13日付の「解らない言葉の中を通る」という凡庸な句以外、まったく句を詠んだ形跡がないということである。
たえず雲仙岳の雄姿を横に眺めながら海岸線を歩きつづける彼にとって、句案の機より大自然の雄大さが唯々堪能すべき格好の馳走であったのだろうか…。

行乞記再び -47-
2月8日、雨、曇、また雨、どうやら本降らしくなつた。
ひきとめられるのをふりきつて出立した、私はたしかに長崎では遊びすぎた、あんまり優遇されて、かへつて何も出来なかつた、酒、酒、酒、Gさんの父君が内職的に酒を売ってをり、酒好きの私が酒樽の傍に寝かされたとは、何といふ皮肉な因縁だつたらう!
-略- このあたりには雲仙のおとしごといひたいやうな、小さい円い山が4つも5つも盛りあがつてゐる、その間を道は上つたり下つたり、右へそれたり左へ曲つたり、うねうねぐるぐると伸びてゆくのである、だらけたからだにはつらかつたが、悪くはなかつた、しかしずいぶん労れた、江ノ浦にも泊らないで、此浦まで歩いて来た、
有喜の湊屋。
有喜近い早見といふ高台からの遠望はよかつた、美しさと気高さとを兼ね持つてゐた、千々岩灘を隔てて雲仙をまともに見遙かすのである。‥
-略- このあたりは陰暦の正月3日、お正月気分が随処に随見せられる、晴着をきて遊ぶ男、女、おばあさん、こども。
長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見隧道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚といふのがある。-略-

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Photo/俳人去来の芒塚、向井去来は長崎出身

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Photo/諫早市早見あたりから千々岩灘をとおして望む雲仙

行乞記再び -48-
2月9日、風雨、とても動けないから休養、宿は同前。
お天気がドマグレたから人間もドマグレた、朝からひつかけて与太話に時間をつぶした。

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Photo/現在の諫早市有喜漁港全景

行乞記再び -49-
2月10日、まだ風雨がつづいてゐるけれど出立する、途中千々岩で泊るつもりだつたが、宿いふ宿で断られつづけたので、一杯元気でここまで来た、行程5里、小浜町、永喜屋。
千々岩は橘中佐の出生地、海を見遙かす景勝台に銅像が建立されてゐる。
或る店頭で、井上前蔵相が暗殺された新聞記事を読んだ、日本人は激し易くて困る。‥
此宿は評判がよくない、朝も晩も塩辛い豆腐汁を食べさせる、しかし夜具は割合に清潔だし-敷布も枕掛も洗濯したばかりのをくれた-、それに、温泉に行けて相客がないのがよい、たつた一人で湯に入つて来て、のんきに読んでゐられる。
ここの湯は熱くて量も多い、浴びて心地よく、飲んでもうまい、すべて本田家の個人所有である。
海も山も家も、すべてが温泉中心である、雲仙を背景としてゐる、海の青さ、湯烟の白さ。
凍豆腐ばかり見せつけられる、さすがに雲仙名物だ、外に湯せんべい。

※橘中佐こと橘周太-1865~1904-は日露戦争の遼陽の会戦で戦死、以後軍神と崇められた。現在の長崎県雲仙市千々岩町に生れた。橘家は奈良時代の橘諸兄の子孫とされ、楠木正成と同族と伝えられる。

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Photo/橘中佐の銅像

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Photo/長崎県の千々岩海岸

行乞記再び -50-
2月11日、快晴、小浜町行乞、宿は同前。
日本晴、朝湯、行乞4時間、竹輪で三杯。
水の豊富なのはうれしい、そしてうまい、栓をひねつたままにしていつも溢れて流れてゐる、そこにもここにも。
よい一日よい一夜だつた。

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Photo/長崎県雲仙市小浜温泉の全景

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Photo/国道57号線沿に、湧出温度100°の湯煙が空高く涌き立つ姿が見られる

行乞記再び -51-
2月12日、けふも日本晴、まるで春、行程5里、海ぞひのうつくしい道だつた、加津佐町、太田屋
此町は予想しない場所だつた、町としても風景としてもよい、海岸一帯、岩戸山、等、等。
途中、折々榕樹を見出した、また唐茄子の赤い実が眼についた。
水月山円通寺跡、大智禅師墓碑、そしてキリシタン墓碑、コレジョ-キリシタン学校-跡もある。

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Photo/花房の棚田から加津佐町を望む

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Photo/加津佐町の岩戸山

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Photo/コレジョ跡

行乞記再び -52-
2月13日
朝の2時間行乞、それから、あちらでたづね、こちらでたづねて、水月山円通寺跡の丘に登りついた、麦畑、桑畑、そこに600年のタイムが流れたのだ、やうやくにして大智禅師の墓所を尋ねあてる、石を積みあげて瓦をしいて、堂か、小屋か、ただ楠の一本がゆうぜんと立つてゐる、円通寺再興といふ岩戸山厳吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー。‥
歩いてゐるうちにもう口ノ津だ、口ノ津は昔風の港町らしく、ちんまりとまとまつてゐる、ちょんびり行乞、朝日屋、同宿は、鮮人の櫛売二人、若い方には好感が持てた。
よくのんでねた。
<追記>-玉峰寺で話す、-禅寺に禅なし、心細いではありませんか。
 自戒、焼酎は一杯でやめるべし
    酒は三杯をかさねるべからず
歩いてゐるうちに、だんだん言葉が解らなくなつた、ふるさと遠し、-柄にもなく少々センチになる。
今日は5里歩いた、何としても歩くことはメシヤだよ、老へんろさんと妥協して片側づつ歩いたが、やつぱりよかつた、よい山、よい海、よい人、十分々々。
原城跡を見て歩けなかつたのは残念だつた。

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Photo/岩戸山の麓にある厳吼寺

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Photo/厳吼寺境内の庭

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Photo/玉峰寺は、嘗て切支丹の教会があり、また島原の乱では切支丹らの刑場ともなった地に建てられた曹洞宗の禅寺である

行乞記再び -53-
2月14日、曇、晴、行程5里、有家町、幸福屋
昨夜はラヂオ、今夜はチクオンキ、明日はコト、-が聴けますか。
大きな榕樹-アコオ-がそここヽにあった、島原らしいと思ふ、たしかに島原らしい。
<追記>-幸福屋といふ屋号はおもしろい。
同宿は坊主と山伏、前者は少々誇大妄想狂らしい、後者のヨタ話も痛快だつた-剣山の話、山中生活の自由、山葵、岩魚、焼塩、鉄汁。‥

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Photo/有明海に囲まれ難攻不落の天然の要塞だった原城跡、南島原市南有馬町

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Photo/西有家の吉利支丹墓碑、碑文はポルトガル式綴字法のローマ字。有家町には現在53基のキリシタン墓碑が確認されている。

行乞記再び -54-
2月15日、少し歩いて雨、布津、宝徳屋
気が滅入つてしまうので、ぐんぐん飲んだ、酔つぱらつて前後不覚、カルチモンよりアルコール、天国よりも地獄の方が気楽だ!
同宿は要領を得ない若者、しかし好人物だつた、適切にいへば、小心な無頼漢か。
此宿はよい、しづかでしんせつだ、滞在したいけれど。-

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Photo/布津町から見た島原半島

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Photo/布津町から雲仙普賢岳を望む

行乞記再び -55-
2月16日、行程3里、島原町、坂本屋
さつそく緑平老からの来信をうけとる、その温情が身心にしみわたる、彼の心がそのまま私の心にぶつかつたやうに
感動する。

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Photo/島原城の西側、鉄砲町に残る武家屋敷街の跡

行乞記再び -56-
2月17日~22日、島原で休養。
近来どうも身心の衰弱を感じないではゐられない、酒があれば飲み、なければ寝る、-それでどうなるのだ!
俊和尚からの来信に泣かされた、善良なる人は苦しむ、私は私の不良をまざまざと見せつけられた。
同宿の新聞記者、八目鰻売、勅語額売、どの人もそれぞれ興味を与へてくれた、人間が人間には最も面白い。
※句作なし、表題句は2月2日の句

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Photo/島原城の天守復元は昭和39年

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Photo/平成4年、200年ぶりの雲仙普賢岳噴火での土石流被災を伝える保存家屋

行乞記再び -57-
2月23日、いよいよ出立、行程6里、守山、岩水屋
久しぶりに歩いた、行乞した、山や海はやつぱり美しい、いちにち風に吹かれた。
此宿はよい、同宿の牛肉売、皮油売、豆売老人、酒一杯で寝る外なかつた。
現在、島原・雲仙の地域で守山という名を残すものは、雲仙市吾妻町古城名にある守山城址公園や守山馬場くらいしかない。

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Photo/城址公園となっている守山城本丸跡

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Photo/雲仙市吾妻町と諫早市高來町を結ぶ諫早湾干拓堤防道路が'07年12月開通した。

行乞記再び -58-
2月24日、25日、行程5里、諫早町、藤山屋
吹雪に吹きまくられて行乞、辛かつたけれど、それはみんな自業自得だ、罪障は償はなければならない、否、償はずにはゐられない。
また冬が来たやうな寒さ、-寒があんまりあたたかだった-。
五厘銭まで払つてしまつた、それでも一銭のマイナスだつた。

※諫早湾は干拓の歴史である。湾沿岸地域は、阿蘇九重山系の火山灰質の土砂などが筑後川などの河口に流され、それが有明海を反時計回りの潮流より諫早湾奥部へと供給され続け、堤防の前面などに年間で約5㎝程度のガタ土の堆積が進み、干潟が発達することになる。このため、背後地よりも堤防の前面の干潟が高くなってしまい、慢性的な排水不良となる。この干潟を堤防で囲むことにより、記録によれば、約1330年南北朝の頃)から干拓が行われてきた。

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Photo/諫早湾の干拓地全景

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