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May 31, 2010

酒やめておだやかな雨

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―表象の森―「究極の田んぼ」

耕さず肥料も農薬も使わぬ-不耕起移植栽培と冬期湛水農法

不耕起とは文字通り、田んぼの土を耕さずに、苗を植えること-イネを刈り取った後のイネ株をそのまま残し、そのイネ株とイネ株の間に今年の新しい苗を植える。移植とは、あらかじめ苗を育てておいて、田植期にそれを移植すること。田んぼに直接種籾をまく直播き法ではなく、一般的に行われているように、苗を別に育てておいて、田植えの時に移植する方法で、苗の育て方が一般と違い、稚苗ではなく、成苗にしてから移植する。

冬期湛水法とは、冬に田んぼに水を張っておく農法-一般的には、秋にイネ刈りをした後、田んぼをそのままにしておき、春の田植えの前に田起しをしてから水を張って苗を植えるが、冬期湛水は、冬にも田んぼに水を張っておき、田んぼの中の光合成を促し、植物プランクトンやそれを餌にする動物プランクトンの発生を助け、イネの生長に必要な栄養分が供給されることを狙うもので、結果として無肥料栽培になる。また、雑草の発生も抑えられるので、無農薬栽培にもなる、という。

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―今月の購入本―
・岩澤信夫「究極の田んぼ」日本経済新聞出版社
千葉の変人-奇跡の農法! 田んぼを耕さず、農薬も肥料も使わずに多収穫のイネを作ることに成功した男が、不耕起移植栽培の普及と環境再生農業の提唱、市民と農家が共に楽しめる、地球と人と生きものに本当に優しい市民農園・村おこし構想を提言する。

・兵藤裕己「琵琶法師-異界を語る人々」岩波新書
モノ語りとは“異界”のざわめきに声を与え、伝えること。最後の琵琶法師・山鹿良之を直接取材すること10年余-聖と俗、貴と賎、あの世とこの世の“あいだ”に立つ盲目の語り手、琵琶法師-古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮彫にする。

・兵藤裕己「太平記<よみ>の可能性」講談社学術文庫
太平記よみの語りは、中世・近世を通じて人びとの意識に浸透し、天皇をめぐる二つの物語を形成する。その語りのなかで、楠正成は忠臣と異形の者という異なる相貌を見せ、いつしか既存のモラル、イデオロギーを掘り崩してゆく。天皇をいただく源平武臣の交代史、宋学に影響された名文論が、幕末に国体思想にヨミ替えられ、正成流バサラ再現としての薩長閥の尊皇攘夷へと続いてゆく。講談社刊の初版は95年。

・西村亮「源氏物語とその作者たち」文春新書
著者は、長年折口信夫に師事し、古代学の継承と王朝の和歌・物語の研究に努めた人。原稿用紙にして2500枚にも及ぶ長大な源氏物語を、紫式部が一人で書いたのか。―文体や登場人物の扱いなどに着目し、錯綜する展開を解きほぐすこと で見えてきたのは、「宇治十帖」のみならず多くの部分が、読者によって自由に加筆や修正が行われ「成長」していった事実だった。

―図書館からの借本―
・石川九楊「書の宇宙 -24-書の近代の可能性・明治前後」二玄社

・別冊太陽「泉鏡花-美と幻影の魔術師」平凡社
鏡花の曰く「僕は明かに二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強ひて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。」

―山頭火の一句― 行乞記再び -72-
3月10日、雨となつた、行程2里、小城町、常磐屋

降りだしたので合羽をきてあるく、宿銭もないので雨中行乞だ、少し憂鬱になる、やつぱりアルコールのせゐだらう、当分酒をやめようと思ふ。

早くどこかに落ちつきたい、嬉野か、立願寺か、しづかに余生を送りたい。-略-

夜は文芸春秋を詠む、私にはやつぱり読書が第一だ。
ほろりと歯がぬけた、さみしかつた。

追記-川上といふところは川を挟んだ部落だが、水が滑らかで、土も美しい、山もよい、神社仏閣が多い、中国の三次に似てゐる、いはば遊覧地で、夏の楽園らしい、佐賀市からは、そのために、電車が通うてゐる、もう一度来てゆつくり遊びたいと思うた。-略-

春日墓所-閑叟公の墓所-は水のよいところ、水の音も水の味もうれしかつた。

※表題句の外、句作なし

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Photo/川上峡の十可苑は、嘗て鍋島侯の別荘地であった

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Photo/紅葉盛んな十可苑

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Photo/小城市小城町にある須賀神社

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Photo/神社境内の阿吽の狛犬

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May 29, 2010

樹彫雲影猫の死骸が流れてきた

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―世間虚仮― 無煙タバコ騒ぎ

今月、JTがさしあたり東京都内限定で売り出したという「ゼロスタイル・ミント」なる無煙タバコの扱いをめぐってなにかと喧しく取り沙汰されているそうだ。

ニコチン含有量は0.05mgと従来の軽めのタバコと比較して1/20、タールの含有はゼロ。とはいえタバコには違いなく、完全無害とはいえない。
曰く「<無害>という表示は健康に及ぼす悪影響が他製品と比べて小さいことを意味するものではありません」とパツケージに警告表示しているそうな。

他方、禁煙団体などは「使用者の呼気からニコチンなどの物質が吐き出され、周囲の人は予期せぬ危険にさらされるかもしれない」と懸念表明。これには「非情に微量で問題ない」と応答するJT。
日航は機内で認めるといい、全日空では認めないと、対応が別れているのも問題だが、いまのところ自治体では禁煙ゾーンで吸ってもOKとしているのが多いらしいが、これだって自治体によっては所変われば‥になること必至。
奇妙なものを作り出して波乱をまねくJTの本音は、いったい何処にあるのかネ。


―山頭火の一句― 行乞記再び -71-
3月9日、曇、なかなか冷たい、滞在供養。

例の画家に酒と飯とを供養する、私が供養するのぢやない、私の友人の供養するのだから友人から-送つてくれたゲルトだから-お礼がいひたかつたら、友人に言つてくださいといつたりして大笑ひしたことだつた。

今日一日で旅のつかれがすつかりなくなつた。

※表題句は3月5日付の句、句作なし

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Photo/川上峡付近の春日墓所には鍋島直正の墓がある
幕末期の鍋島藩主直正は、明治維新の廃藩置県に真っ先に賛同したとされる

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Photo/川上峡上流の風景

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Photo/夏の風物詩、灯籠流し

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Photo/名園の誉れ高い一可苑の庭

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May 28, 2010

土手草萌えて風も行つたり来たりする

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―世間虚仮― シニア世代の演劇ブーム

シニア演劇がずいぶんと活況を呈しているという。一説には全国に60以上の劇団があるとも。50代からはじめる人たちでつくるアマチユア演劇のことだが、ほとんどの構成メンバーの中心は60代以上であり、80代の元気老人たちもけっこういるようだ。「シニア演劇web」というHPもあり、このsiteの主は朝日恵子というFree Lighterのようだが、北海道から九州まで30余りのシニア劇団が紹介されている。

ただ、このsiteに掲載されている劇団情報で気がかりな点が一つ、それは中高年ミユージカル劇団「発起塾」なるものが、大阪・和歌山・京都・神戸・広島・岡山・東京・名古屋と、関西を中心に全国的な展開をしつつあること。この例などは、90年代以降、TVなどマスコミ向けのタレント養成所がこぞって、シニア世代をターゲットに展開してきた流れがあるが、いわばそれが少々焦点をずらしたかたちで、マーケット化しているだけではないかともいえそうで、あまり歓迎できることとは思えぬ。

考えてみれば、Karaokeにはじまり一億総タレント化へとEntertainment志向?、嗜好というべきか、の流行現象からすでに30年余りが経つのだから、ときならぬシニア劇団のブームなど驚くほどのこともない、といえそうだ。

―世間虚仮― 行乞記再び -70-
3月8日、晴曇、行程3里、川上、藤見屋

神崎町行乞、うれしい事もあり、いやな事もあつた、私はあまり境に即しすぎてゐる。-略-
川上といふところは佐賀市から3里、電車もかかつてゐる、川を挟んだ遊覧地である、水も清く土も美しい、好きな場所である、春から秋へかけてはいいだらうと思ふ。

同宿4人、その一人は旅絵師で川合集声といふ老人、居士ともいふべき人物で、私が旅で逢つた人の中で最も話せる人の一人だつた。話が面白かつた。

執行-シュギョウ-といふ姓、尼寺-ニイジ-といふ地名を覚えてゐる。

句が出来なくなつた、出来てもすぐ忘れてしまふ。

※表題句は3月6日付の句、句作なし

昭和5年から12年の7年間、佐賀市内の神野から佐賀郡川上村-現・佐賀市大和町川上-の間を佐賀電気軌道という路面電車が走っていた。嘉瀬川の上流は川上川と呼ばれ、景勝地の川上峡がある。

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Photo/毎年5月には鯉のぼりが乱舞する川上峡

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Photo/鍋島初代藩主所縁の与止日女神社

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Photo/此方も鍋島家代々の藩主が崇敬したという河上山実相院の山門

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Photo/その山門-仁王門-の仁王像-木造-

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May 27, 2010

水鳥の一羽となつて去る

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―世間虚仮―正義の女神

左手に天秤、右手に剣を持ち、目隠しをした正義の女神テミス像は、司法・裁判の公正さを表わす。天秤は正邪を測る正義を、剣は力を象徴し、目隠しは万人に平等の法理念を表わしているというが、被害者家族参加制度に則って、構に満ちた物語をただリピートする場でしかないと断ずるほかない。

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Photo/ルカ・ジョルダーノ-Luca Giordano-の「Justizia-正義の女神-」

―山頭火の一句― 行乞記再び -69-
3月7日、降つたり霽れたり、行程4里、仁井山、麩屋

朝早く出立、歩き出してほつとした、ほんたうにうるさい宿だつた、ゆうゆうと歩く、いいなあ!
今日の行乞相はよかつた、心正しければ相正し、物みな正し。

今日は妙な日だつた、天候も妙だつたが人事も妙だつた、先づ、佐賀を立つて1里ばかり、畔草をしいて一服やつてゐると、刑事らしい背広姿の中年男が自転車から下りて来て、何かと訊ねる、素つ気なく問答してゐたら-振向きもしないで-おとなしくいつてしまつた、それからまた1里、神崎橋を渡つて行乞しはじめたら、前の飲食店から老酔漢が飛びだして、行乞即時停止を命じた、妙な男があるものだわいと感心してゐるうちにドシヤ降りになつた、行乞は否応なしに中止、合羽を着て仁井山観音参拝、晴間々々を2時間ばかり行乞、或る家で、奥様が断つて旦那はお茶をあがれといふ、ずゐぶん妙だ、それからまた歩いていると呼びとめられる、おかみさんが善根宿をあげませうといふ、此場合、頂戴するのがホントウだけれど、ウソをいつて体よく断る。…

久しぶりに山村情調を味はつた、仁井山-第20番札所地蔵院-はよいところ、といふよりも好きなところだった、山が山にすりよつて水がさうさうと流れてくる、山にも水にも何の奇もなくて、しかもひきつけるものがある、かういふところではおちつける、地蔵院の坊主さんがつつましくお茶を呼んで下さつた、しづかでいいところですね、と挨拶したら、しづかすぎまして、と微笑した。-略-

「聖人に夢なし」「聖人には悔がないから」
自分が与へられるに値しないことを自覚することによつて行乞がほんたうになります。
ルンペンのよいところは自由! 主観的にも客観的にも。…
失職コツクと枯草に寝ころんで語つた!

※表題句は3月5日付記載の句、句作なし

<仁井山>は<仁比山>の誤記か、第20番札所地蔵院は、現佐賀県神埼市神崎町的の仁比山護国寺地蔵院のこと。

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Photo/第20番札所仁比山護国寺地蔵院

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Photo/その地蔵院と隣り合わせるようにしてある「九年庵」は
幕末蘭方医にて近代医学の祖とされる伊東玄朴の旧宅

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May 25, 2010

飾窓の牛肉とシクラメンと

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―日々余話― 被害者参加人の意見陳述

面白いことにというか、或は奇妙なことにというか、現行の刑事訴訟法では、被害者参加人等の意見陳述に関わる定めの条項は、平成12年の改正によって導入された被害者等の意見陳述制度-292条の2-と、平成19年の改正で成立した被害者参加人等による意見陳述に関する条項-316条の38-の二者が併存していることになるという。

前者の意見陳述制度では、その陳述の内容を量刑判断の資料とすることが出来たのに対し、後者の意見陳述では検察官の論告・求刑が証拠にならないのと同様に、論告・求刑が出来るものの、証拠にはならないから、量刑判断の資料にはされない、ということらしい。

容易には理解しにくい、この二様の、被害者等の意見陳述の併存だが、昨日の私の意見陳述については、事前に検事に聞かされたところによれば、刑訴法292条の2の適用であったらしい。ならば、量刑判断の資料とされることになるのだから、これは予期せぬありがたい裁判官の判断であるといえよう。

検察の論告・求刑は、禁固1年であった。
判決言い渡しの日は6月7日とされた。

私の意見陳述が刑訴法292条の2の適用であったのなら、量刑判断も求刑よりはかなり軽減され、もちろん執行猶予も付くことが期待されるが‥。

―山頭火の一句― 行乞記再び -68-
3月6日、曇后晴、あとは昨日の通り。

行乞して、たまたま出征兵士を乗せた汽車が通過するのに行き合せた、私も日本人の一人として、人々と共に真実こめて見送つた、旗がうごく、万歳々々々々の声-私は覚えず涙にむせんだ、私にもまだまだ涙があるのだ!

同宿の猿まはし君は愉快な男だ、老いた方は酒好きの、剽軽な苦労人だ、若い方は短気で几帳面で、唄好だ、長州人の、そして水平社的な性質の持主である、後者は昨夜も隣室の夫婦を怒鳴りつけてゐた、おぢいさんがおばあさんの蒲団をあげたのがいけないといふのだ、そして今夜はたまたま同宿の若いルンペンをいろいろ世話して、髭を剃つてやつたり、或る世間師に紹介したりしてやつてゐる。-略-

同宿のルンペン青年はまづ典型的なものだらうが、彼は「酒ものまない、煙草もすはない、女もひつぱらない、バクチもうたない、喧嘩もしない、ただ働きたくない」怠惰といふことは、極端にいへば、生活意力がないといふことは、たしかに、ルンペンの一要素、-致命的条件だ。

  座右銘として
おこるな しやべるな むさぼるな
  ゆつくりあるけ しつかりあるけ

※表題句は3月5日付記載の句、句作なし

佐賀城跡の一帯には120株あまりのクスが生えており、とりわけ濠端には樹齢300年を越えると思われる大楠が並び立つ。

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Photo/佐賀城跡、濠端の大楠三態

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May 24, 2010

畳古きにも旅情うごく

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―日々余話― Soulful Days-38- 述べられなかった意見陳述草稿

事実のみに照らして人が人を裁くはずの法廷の場もまた虚構に満ちたものであり、法廷のなかの真実とはまったくもって蜃気楼のごとき泡沫のものにすぎない。
本日午後、被告M.Mを自動車運転致死傷に問う公判があり、私は、被害者参加制度に則り、弁護人や検察官の質問のあと、被告人質問と意見陳述を行った。以下の文書は、本来なら私の意見陳述はこうあるべしという草稿であるが、検事との事前協議のなかで、刑事訴訟法の被害者又は被害者家族による意見陳述の項に基づき、クレームが付けられ、日の目をみること叶わなかったものである。よって今日の法廷で陳述したものは、検事の意見に沿いつつ書き改めた短い別稿であるが、此処ではお蔵入りを余儀なくされた原草稿を、ずいぶんと長文だが、謂わば事故より1年と8ヶ月を経てきた私自身の総括文書として、掲載しておきたい。

 だれも事故を起こそうと思って起こす者がいる筈はない。
AとBの間に交通事故が起きる。そのこと自体は99.9%以上偶然の産物でしょう。ましてそのどちらかに第三者のCが乗り合わせ、しかもその結果、生命を落とすことになるなど、さらに偶然が重なったものであることに思いをいたすなら、この悲劇はひたすら不運、運命の悪戯かと、降りかかった不幸な災禍をただ嘆くしかないと、事故当初よりそう受けとめてきたつもりです。
ただ、わずか0.1%の必然のなかに、AとB、相互の過失が含まれている。お互いのその過失さえなければ事故が起きなかったというのも、また厳然たる事実です。
きわめて偶然的な出来事にせよ、事故を起こしたA.B双方にとっては、たとえ小さなミス、わずかな過失であろうとも、それがなければ、それさえなければ、自らも負傷したり、第三者Cを巻き込むこともなかったのに、あろうことかそのCの生命さえ奪い取ってしまうという、そんな取り返しのつかない、不条理というしかないような出来事を招来したとすれば、A.B双方ともに、自分自身を責め苛む、良心の呵責というものは堪えがたいものがある筈だ、私なら否応もなくそうなってしまうに違いない、と思うのです。
取り返しがつかないというのは、これはもう救いがないというのに等しいことですから、ただひたすらその事実の前にひれ伏すしかない。死んでしまった被害者の家族の哀しみ、傷みや苦しみ、心の傷とはけっして交わりえない処でですが、余人には到底想像できないような心の傷を、トラウマを負ってこの先を生きていかざるをえない。そうであろうことを思えば、事故を起こした当事者に対し、恨んだり憎んだりと、そんなことはするまい、そうすることは自分の哀しみや傷み、遣り場のないどうしようもなさの代償行為にしかすぎないと、そうも考え自分の行動を律してきたつもりです。
ところが現実の進行、結果として娘・RYOUKOの生命を奪ってしまった事故の、当事者M.MとT.K、この二者における事故への対処全般、事故原因の警察での捜査や取り調べ、さらには検察での取り調べ、また被害者及びその家族への対応あるいは謝罪等の行為など、それぞれ自分自身の過失責任という厳然たる事実を前に、M.MとT.K、この二者のとってきた姿勢及び行動は、私の眼にはまるで異なり対照的なものにさえ映ってしまっているというのが、一昨年の9月9日の夜、事故発生から今日までの1年と8ヶ月をとおしての印象であり、所感というべきものです。

 こういった事態になぜ到ったかについて触れるまえに、まず被害者も含めた事故の当事者たち、三者三様の、事故後における、まるで異なる現実についてから記さなければなりません。
事故から1年8ヶ月を経た現在、Mは事故時の負傷からくる後遺症に今もなお苦しみ、治療に通っています。頸椎の異常から中枢神経への圧迫があり、右手の指の麻痺がまだ残っているからです。完治にはまだ日時を要するものと思われます。また事故後の半年余りは、脳神経への影響もあったのでしょう、精神的な鬱症状にも悩まされたと聞いています。
Tの事故直後の診断は全治7日間の軽傷とあり、その予後がどうであったか知りませんが、家族の内の私ひとりが、事故から1ヶ月半ほど過ぎた頃に、父親に伴われてきた彼と会った際にも、とくに怪我の話題など出なかったし、その折の様子からしてきっと数日のあいだに完治していたものと思われます。ウェイクボードのプロだという彼は、事故当時シーズンオフでもなかったでしょうから、直後より全国各地で行われる競技などに出場しては、活躍していたことと思われます。ようするに彼の日常は、事故前と後と、ほとんどまったく変わりがなかったであろうということです。
事故の衝撃から硬膜下血腫や脳浮腫を起こした娘・RYOUKOは、その直後から意識不明の重体にあり、そのまま5日目の夜に息を引き取りました。いえ、より正確に言えば、彼女は事故直後より生ける屍同然だった、生命維持装置によってただ生かされていたばかりで、3日目の夜、残された家族は、いつこの装置を外すかと、担当の医師より決断を迫られたのでした。私たち自身の意志で彼女の命を絶たねばならぬという、家族にとってこれほど苛酷なことはなく、その挙句の、5日目の死であったのです。なにも知らぬまま彼女は逝き、そして焼かれ、今は小さな墓の下に‥。

 事故の直接の関係者、この三人の事故の結果は、現在にいたるそれぞれの姿は、なぜこんなにも異なるのか、その圧倒的な違いはいったいどこからくるのかを考えるとき、私には、この事故の、法以前の、交通法規以前の、事の本質というものに出会すような気がするのです。
交差点内の直進と右折とか、信号は青だったとか、スピードがどうだったとか、だからどちらがより悪いとか、そういった交通法規に則った解釈や事実以前に、直進行為とはいえ横合いから猛烈な勢いでぶつかっていった者と、ゆっくりと進行していたにもかかわらず不意を襲うようにぶつけられた者、という構図がもっとも明快な、基本的な事実ではないか、とそう思うのです。
ぶつかっていった者は、まさにそのぶつかる瞬間の、ほんの少し前とはいえぶつかるということを察知しているのです、だがもう逃れようもない、咄嗟のブレーキも間に合わない、アーッと無意識に声を上げながら、それでもしっかりと身構えて、その瞬間に突入していくといった図です。
片やぶつけられた者、その運転手は、横合いから勢いよく迫り来る者を、眼に入らなかったのだから、その実態はなにやら解らない、解らないけれどなんだか咄嗟に気配のごときものを感じたのでしょう、だからこそブレーキ動作をした。そこへドカーンとやってきた。彼にとってはなにやら得体は知れないけれど、一瞬、恐怖に襲われるがごとく身の危険だけは察知しえたでしょう、だから次の瞬間、なんらかの身構えは出来たでしょう、けれども横合いからの70km/hというとても激しい衝撃ですから、その一瞬の身構えがどれほど役に立ったといえるのかは解りません。
ぶつけられた者のもう一人、後部左座席に乗っていた被害者にとっては、直前の予測もなにもない、ただ突然激しい衝撃に見舞われただけ、それも後部座席に向かってもろともぶつかってきたのだからたまりません。一瞬、彼女はアッと声をあげたのでしょうか、痛い!と感じたのでしょうか、薄れゆく意識という謂がありますが、もし彼女にほんの1.2秒そんな時間があったとすれば、どんな像が脳裏に浮かんだことでしょうか、あれこれと想像してみたところでなにも確かめられる筈もなく、彼女はそのまま逝ってしまったのです。彼女の愛しい人たちにサヨナラと告げることもなく、突然、逝ってしまったのです。

 かように、この事故においては、激しい勢いでぶつかってきたTだけが、次の瞬間に起こる事態を予見できており、それがゆえにほんの軽い怪我ですみ、次に、一瞬恐怖が走り身の危険をかろうじて察知しえたであろうMは、頸椎を損傷して今もなお後遺症に苦しみ、そして、まったく不意を襲われてしまった娘・RYOUKOの場合は、意識不明となってそのまま死に到る、というのが三者に起こったまったく異なる現実であり、明快な構図なのです。天国と地獄ほどにかけはなれた三者三様の事態を招いたこの構図が、この事故の、法以前、交通法規以前の、事の本質なのだと、私はそう考えざるをえません。
こういった衝撃的な事態とは、法だとか交通法規だとかの理非云々以前に、自身の存在自体を揺るがす戦慄が走るような出来事であること、そしてその恐怖の瞬間をもっとも直かに感じ、だれよりもリアルに受けとめざるをえなかったのは、ものすごい勢いでぶつかっていったT自身の筈です。そしてさらには相手方の搭乗者だったRYOUKOの死という悲劇がのしかかってくる。こういったとんでもない事態の前で、交通法規上の過失の多少などなんの関わりがありましょう、たとえ自分の過失が僅かなものであるとしても、ひとりの人間の生命を奪ってしまったという事実の前には、なんの慰めに、なんの救いになりましょうか、被害者の前にただひたすらひれ伏すしかない、私ならそうするし、だれでもそうせざるをえないでしょう。
しかし、Tはそうはしなかった、このとんでもない事態に直かに向き合い、その責めをまっとうしようとは、いっさいしなかった。自分可愛さのためひたすら保身に走り、人としての尊厳を振り捨て、一片の良心をも振り捨て、冷たい仮面を被ってしまった。この悪夢のような現実からいかに自分自身を救い出すか、逃れきるのか、そのためにあの一瞬の戦慄すべき恐怖の記憶を意識下へと抑圧し、自分に関わりないこととして消し去ろうとした。さらには、交通法規上、自分の過失をいかに小さくするか、いかにお咎めなしを勝ち取るか、そればかりに集中、専念していったのだ、と私は受けとめています。

 一方、Mの場合はどうであったか、被害者家族の私が言うのもなんですが、これはもうほんとうに傷ましいものでした。いま瀕死の状態にあるのが自分の乗客であるというこの事態は、彼にとっては逃れがたいジレンマであり針の筵そのもの、良心の呵責にとても堪えきれないものがあったのでしょう。彼は、事故のあった9日の夜から死に到る14日の夜まで、毎日病院に来ては、待合室の廊下の隅でただ独りじっと身をすくめるように立ちつくしていました。この救急病院では面会の時間が、午後と夜の一時に限られていたので、家族としてもその時間に合わせて行くしかなかったのですが、私たちがいつ行っても必ず彼は先に来ており、私たちが病院を立ち去るまで、少し放れた場所から頭を下げそっと見送るように立っているのでした。
私は、そんな彼の姿を見ながら強く胸を衝かれたものです。いまこの事態をまえに、家族の心の傷ましさがだれにもはかりえないのは当然としても、彼のようにまるで針の筵の中で自分自身を責め苛まなければならぬ、その傷ましさというものは私たち家族とはまた別次の、はかりしれないほどの凄まじいものがあるのだ、と気づかされたのでした。

 ところで、本来、法というものは、一定の所与のなかで合理的なるもの、ある枠組みのなかで理-ことわり-に適ったものなのだ、と私は受けとめています。したがって、人として生きること、人としてのトータルな存在は、法を超えてあるものです。だからこそ、法以前の、倫理とか道徳とか、あるいは善と悪とか、きれい・汚いといった美醜の別、そういった価値観が人間社会にはあるべきなのです。ならば、法以前の事の本質、その観点からこの二人を評するなら、必定、Mは善き人、清き人となり、Tは悪き人、欠けたる人となるでしょうし、さらに結論づければ、許されざるはTのほうでこそある、と言わざるをえません。
とはいうものの、人として悪人、欠けた心であってさえも、けっして許されないということはなく、救いの道が閉ざされているわけでもありません。かの親鸞の悪人正機に倣えば、自らの弱さや脆さゆえに逃げ込んでしまった嘘や偽りの鎧を、きっぱりと脱ぎ捨ててしまいさえすれば、そうして裸形のおのれ自身を見出しさえすれば、おのずと救いの手もさしのべられようし、おのずと許しもやってこよう筈なのですから。

 さて、ここまで、いわば法以前の、直接は法に関わりないことどもを、縷々綿々と綴ってきたのも、この事故が、Mの過失致死傷事件として、いまこの法廷において裁かれようとするに到った、その全経過のなかに表われた、事故の全容なるものあるいは事実関係なるものに対し、私の知るかぎりにおいて、些かなりとも反照となりうるような、そんな背景を映し出したかったからにほかありません。

 次に具体的な問題点として、本法廷の公訴事実、そのもっとも重要と思われる事実関係について疑問を呈したいと思います。
この記述によれば、被告のMは、「T車を左方約20.5メートルの地点に発見し、急制動の措置を講じたが及ばず」、衝突事故となったとありますが、これが事実だとすれば信じがたいような矛盾があるのではないでしょうか。この事実認定には、まったくリアリティーというものが欠如している、としか私には思えません。
事故直前のT車は70km/hのスピードであったと聞いておりますが、これをMが約20.5m手前で視認したとするなら、衝突時の約1.7秒前となります。もしこの事実が正しいのなら、この時、Mは急制動などせず、そのまま右折直進行為を遂行しさえすれば、この事故は避けられたということになります。それなのにMはいったい何を勘違いしたのか、愚かにも急制動などをして却って事故を招来してしまったと、そんなバカなことがありましょうか、仮にもMは職業運転手です、その彼が咄嗟にこんなバカげた運転行為をしたとするなら、その瞬間、彼は異常なパニックにでも陥り、心神喪失したか、刹那的な発作にでも襲われたというのでしょうか。この事実認定には、そんなありそうもない絵空事でも挿入しないかぎり説明がつかない、これはきわめて合理性に欠けた事実認識と言わざるを得ません。
たしかにMの供述調書には、直進対抗してくるT車の前照灯を認めた、という内容の記述があるようですが、後に彼はこの事実を否定しています。Mが直かに私に語ったところによれば、近づいてくるT車の姿も、前照灯さえも見てはいない、なぜ急制動したか、それは気配とでも言うしかない、そんなものを感じて咄嗟に反応した、とそう言っています。

 はたしてMは、T車を見たのか、それとも見なかったのか、これは事故の事実関係の根幹にかかわる問題ですが、本当の事実は、真実はどちらなのか。
私は、MKタクシーからドライブレコーダーの記録データを貰い受けて、その動画資料をつぶさに何度も何度も、それこそ何十遍となく見てきました。そうして得た私なりの結論は、MはT車を現認していない、ただ猛スピードで近づいてくる車の気配に、咄嗟に急制動の反応をしたのだ、というものです。そう考えさえすれば、事故の記録画像においても、またそのタイムテーブルにおいても整合性があり、事実関係はリアリティーもあり合理的なものになるのです。
然らば、T車は、記録画像からも充分に覗えることですが、前照灯を点灯していなかった、無灯火であり、なおかつ70km/h以上の、危険きわまる無謀運転に等しいものであった、ということになりましょうし、さらにつけ加えるならば、Mの「T車を見た」という供述の背後には、彼に対する西署の予断に満ちた取り調べ、といった一抹の疑念までも浮かび上がってくるのです。
事故の起こった衝突時より約1.7秒前、それは70km/h以上のスピードで20m近くにまで迫ってきた直進対抗車、T車の、それは路面から伝わってくる微振動音などの所為だったかも知れませんが、とにかく正体の知れぬ何者かが迫り来るような気配を感じて、Mは咄嗟に急制動をした。対抗直進車のTが前方のM車の急制動に気づいたとて、この時はすでに遅すぎる、彼もまた咄嗟に急制動をしようとした筈だが、ブレーキ痕を残すこともなく、激突したと、これが事故原因の根幹にかかわる事実関係なのだと、ドライブレコーダーの記録画像を自分なりに検証した時点から、私はそう確信してきました。

 翻ってみれば、被害者家族として、西署における初動捜査に、まず大いに疑問を感じずにはいられません。夜間の事故であるにもかかわらず、なぜ、事故直後の簡単な現場検証と、あらためて二者の車の実況見分だけで了としたのか。実況見分の際に、ドライブレコーダーを見る機会を得たものの、この静止画から数葉の写真を撮影しただけで、この全体を証拠資料として充分に活用せず、また日中の明るい時間帯に詳細な現場検証をしなかったのはどうしてなのか、理解に苦しまずにいられません。
さらに、検察の取り調べ段階のなかで、私たち遺族は、ドライブレコーダーを証拠資料として挙げ、本件事故の原因となった過失は、むしろT.Kにこそ重くあるのではないかと主張、T.Kに対する告訴状をもって、事実関係の真の解明をお願いしてきましたが、ほぼ1年をかけたその検証の結果は、私たちの期待も虚しく、検察へと送致された西署の調書事実を追認、補強する躰に終始したようにしか覗えないことは、まことに残念、痛恨の極みと言うしかありません。

 現在、本法廷が開かれる仕儀に到ったのは、検察の取り調べの結果、その採られた措置が、M.MとT.Kの二者に対し、Mには公判請求、Tには起訴とはいえ略式起訴であったからですが、もう一つ別の視点からも、首肯できない問題点を感じています。それは刑における相対主義とでもいうべきものでしょうか。
当初、本件の取り調べを担当した前検事は、初めて私たち遺族が大阪地検に伺い、面談をした際、Mを略式起訴に、Tを不起訴処分にと、そういう判断を示したのですが、この判断に抗って私たちがTへの告訴をするという展開になりました。その後、担当検事が代わり、再捜査というか、ドライブレコーダーを含めた取り調べがようやく始まった訳ですが、その挙句の果てが、Mは略式起訴から公判請求の起訴へ、Tは不起訴から略式起訴へと、謂わば単純にそれぞれの刑の要請を嵩上げした、相対的に重くしただけである、ということ。
いわゆる民事における損害賠償などの問題対処においては、損保会社などのいう、やれ5:5、やれ7:3などの過失割合といった数比に収斂していかざるを得ないのは一応理解できるとして、刑の科料という問題場面においては、事実関係の解明度、透明度は、それこそケースバイケースで千差万別であるにもかかわらず、同じように相対主義が貫かれようとするのは、結果として隠れてある事実関係というものを却って歪曲することにもなりかねない、そんな危惧を抱かざるを得ないのです。
仮に、事実関係の再捜査、再検証の結果、T車の無灯火や無謀な危険運転について疑わしいと言わざるを得ない、疑わしいには違いないが断定するに到らない、おまけに今更彼の供述を覆させることも困難至極、あり得そうもないとすれば、疑わしきは罰せずとするしかない。そうであるなら、当然のごとく、Mの過失も初動捜査における調書のごとくである筈もない。本件事故の事実関係におけるもっとも重要な部分が、さまざま可能態は想定出来ようとも全容解明には到らず、不透明なまま残されざるを得ない。事件の本質に迫りえぬ以上、事実関係の解明が100%できぬ以上、その解明できた部分においてしか、刑の要請もできない、とするべきではないでしょうか。

 事故から1年8ヶ月を経て、こうして本法廷に臨むこととなった今、私の胸に去来する哀しみや苦しみは、たんに娘・RYOUKOの死を傷むことからくるばかりではありません。いわゆる巷間伝えられるところの、交通事故遺族の受ける二次被害なるもの、事故原因の追求、事実関係解明の全過程、警察における捜査や取り調べを経て、さらに検察における取り調べ、そして審判といったすべてのプロセスを通して、事故被害者の家族として私たちもまた、娘・RYOUKOの突然の死とは、別の苦しみや哀しみ、傷みというものを、この間ずっと、感じ、抱きつづけてきたのだということを、どうかご理解戴きたいと思います。

 最後に、以上綴ってまいりました次第をもって、何卒、被告M.Mの過失認定において多大の減殺あるべきものとご判断戴き、同じく科料につきましては軽微なるをもってご裁決戴きますよう、被害者家族を代表し、切にお願い申し上げます。
  平成22年(わ)第××××号 自動車運転過失致死傷被告事件 担当裁判官 殿


―山頭火の一句― 行乞記再び -67-
3月5日、すべて昨日のそれらとおなじ。

大隈公園というのがあつた、そこは侯の生誕地だつた、気持のよい石碑が建てられてあつた、小松の植込もよかつた、とごからともなく花のかをり-丁字花らしいにほひがただようてゐた、30年前早稲田在学中、侯の庭園で、侯等といつしよに記念写真をとつたことなど想ひ出されてしょうぜんとした。-略-

子供といふものもおもしろい、オコトワリオコトワリといつてついてくる子供もゐるし、可愛い掌に米をチヨツポリ握つてくれる子供もゐる、彼等に対して、私も時々は腹を立てたり、嬉しがつたりするのだから、私もやつぱり子供だ!

佐賀市はたしかに、食べ物飲み物は安い、酒は8銭、1合5勺買へば十分2合くれる、大バカモリうどんが5銭、カレーライス10銭、小鉢物5銭、それでも食へる。

緑平老の厚意で、昨日今日は余裕があるので、方々へたよりを書く、5枚10枚20枚、何枚買いても書き足らない、もつと、もつと書こう。

※表題句の外、4句を記す

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Photo/佐賀城付近にある大隈重信生誕の家

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Photo/大隈重信記念館を左に見ての大隈公園

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Photo/丁字花の花

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May 23, 2010

このさみしさや遠山の雪

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―表象の森― 剣岳-点の記

昨年、評判の高かった映画「剣岳-点の記」をWOWWOWで観た。
原作は「八甲田山死の彷徨」-1971年発表-の新田次郎だが、こちらは1977年と6年後の発表。

苛酷きわまる大自然を見事に切りとった映像は美しく、登山者や山岳愛好家にとっては願ってもない作品だったろう。
おまけにBGMの音楽が抑制気味でありながら、バッハの幻想曲とフーガト短調やヘンデルのサラバンド、またヴィヴァルディの四季など、仙台フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されたというクラッシックの名曲が、よく映像とマッチ、心に響くものとなっていた。

とはいえ「剣岳-点の記」は、良質の作品でありつつも、その感動は私的な刻印の内にどこまでも滞留するものであろうと思われる。嘗ての映画「八甲田山」のように、その物語の厚みにおいて観る者を圧倒するような類のものではないことも事実として印象深く、彼我の差には根深い今日的な問題が横たわってる。

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「八甲田山」が1977年、それから早くも33年も経っている。此方は監督が森谷司郎、黒沢組で育ってきたとはいえ、当時はまだ中堅どころだった森谷監督に対し、脚本はベテランの橋本忍、製作には同じ橋本忍の外に、野村芳太郎や田中友幸が名を連ね、バックアップしている。時代もなおポスト・モダンへの移行期、さればこそなお大きな物語への傾斜があり、映像とドラマとが相乗して重厚なる世界を表象しえたのではなかったか。

時代は降って2009年、「剣岳-点の記」の監督木村大作は、森谷監督の「八甲田山」で撮影を担当したように、撮影一筋の技術畑を歩いてきたカメラマンであり、その彼自身が脚本のチーフを兼ねたようである。80年代、大きな物語の終焉が喧伝されるようになってからすでに久しく、同じ原作者の、しかも明治も後期以後の同じ頃の、類似の素材と言えなくもない世界を扱って、この表象の差異は、時代の落差ばかりに収斂しえない、監督としての資質の違いも与ってあるのだろうが‥。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -66-
3月4日、晴、市中行乞、滞在、宿は同前

9時半から2時半まで第一流街を行乞した、行乞相は悪くなかつた、所得も悪くなかつた。
何となく疲労を感じる、緑平老の供養で一杯やつてから活動へ出かける、妻吉物語はよかつた、爆弾三銃士には涙が出た、頭が痛くなつた、帰つて床に就いてからも気分が悪かつた。

戦争-死-自然、私は戦争の原因よりも先づその悲惨にうたれる、私は私自身をかへりみて、私の生存を喜ぶよりも悲しむ念に堪へない。

此宿は便利のよい点では第一等だ、前は魚屋、隣は煙草屋、そして酒屋はついそこだ、しかも安くて良い酒だ、地獄と極楽のチヤンポンだ。
一年中の好季節となつた、落ちついて働きたい!

※句作なし、表題句は2月26日付記載の句

佐賀の七賢人という称があるそうな、幕末から明治維新にかけて活躍した佐賀藩出身の人々、江藤新平、大木喬任、大隈重信、佐野常民、島義勇、副島種臣、鍋島直正の7人をいう。

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Photo/佐嘉神社境内にある佐賀七賢人の碑

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Photo/鍋島家の菩提寺高伝寺には副島種臣の墓もある

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Photo/高伝寺境内の古木、八太郎マキ

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May 22, 2010

雪に祝出征旗押したてた

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-12-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・河東碧梧桐「自詠句」二首
河東碧梧桐の自詠句二首を書いた二曲半双屏風。あるいは多くの人は、この作を変な寺、変わった作品の一言で済ませるかもしれない。だが、碧梧桐の書の姿と書体は、有季定型-無季自由律-短詩と表現を激しく変革しつづけた自らの俳句の句体と連動していた。俳句が変わらねばならぬように、書も変わらねばならなかったのだ。
規範として我々の目の前に登場してくる文字、その規範のひとつひとつを解体、再構成して、新たな文字への転生を試みている。和歌や俳句は深部で散らし書きと共鳴してるものとみえて、行頭・行末の高さを逐一変えた散らし書きの姿で出現している。

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/雪散る青空の又た/此頃の空

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/君を待したよ/櫻散る/中をあるく


―山頭火の一句― 行乞記再び -65-
3月3日、晴、春だ、行程わづかに1里、佐賀市、多久屋

もう野でも山でも、どこでも草をしいて一服するによいシーズンとなつた、そしてさういふ私の姿もまた風景の一点描としてふさはしいものになつた。

今日はあまり行乞しなかつた、留置の来信を受取つたら、もう何もしたくなくなつた、それほど私の心は友情によつてあたためられ、よわめられたのである。

或る友に、-どうやら本物の春が来たやうですね、お互にたつしやでうれしい事です、私は先日来ひきつづいての雪中行乞で一皮脱ぐことが出来ましたので、歩いても行乞しても気分がだいぶラクになれました、云々。

緑平老の手紙は私を泣かせた、涙なしには読みきれない温情があふれてゐる、私は友として緑平老其他の人々を持つてゐることを不思議とも有難すぎるとも思ふ。-略-

佐賀へは初めて来たが、市としては賑ふ方ぢやない、しかし第一印象は悪くなかつた。-略-

※句作なし、表題句は2月28日付記載の句

鍋島藩の居城であつた佐賀城は、明治7-1874-年、江藤新平らの佐賀の乱で大半を焼失した。

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Photo/平成16年に復元成った本丸御殿

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Photo/近頃では、毎年秋に市内を流れる嘉瀬川沿岸で開催される佐賀インターナショナルバルーンフェスタが、100万人規模の観客を動員するイベントになっている

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Photo/バルーンフェスタの夜の係留風景

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May 21, 2010

枯草につゝましくけふのおべんたう

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―日々余話― KAVCで歌謡ショー‥?

昨日、まことに久しぶりに新開地のKAVCホールへ行ってきた。
かといって芝居や映画があった訳ではない、「KOBE流行歌ライブ」なる歌謡ショーだ。
タネを明かせば、松浦ゆみのお付合い。
このところ彼女にPromoterが付いて、キャンペーン活動に積極的に乗り出した。
苦節10年の彼女に陽が差すのかどうか、それはなんともわからぬが、その種播きは自らの手でやり出すしかない、という訳だろう。

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それにしても、KAVCとはKobe Art Village Centerの略、若手の芸術創造の拠点施設として’97年に誕生し、さまざま場を提供してきたはずの公共施設なんぞで、この手の催しがなされるとは驚き。’80年代以降の小劇場ブームもとっくに衰退期に入り、近頃は委託管理制度が定着してくるなかで、利用者の対象もずいぶんと様変りしてきたということか。


―山頭火の一句― 行乞記再び -64-
3月2日、晴、曇、どうやら春ですね、行程2里、行乞6時間、久保田、まるいちや

行乞相が日にましよくなるやうだ、主観的には然りといひきる、第三者に対しては知らない。
此地方で-どこでも-多いのは焼芋屋、そして鍼灸治療院。
いはゆる勝烏-天然保護物-が啼き飛ぶ、そこで一句。-
 頭上に啼きさわぐ鳥は勝烏 -削除の印あり-

今日は妙な事があつた、-或る家の前に立つと、奥から老妻君が出て来て、鉄鉢の中へ五十銭銅貨を二つ入れて、そしてまた奥へ去つてしまつた、極めて無造作に、-私は、行乞坊主としての私はハツとした、何か特殊な事情があると察したので懇ろに回向したが、後で考へて見ると、或は一銭銅貨と間違へたのではないかとも思ふ、若しさうであつたならば実に済まない事だつた、といつて今更引き返して事実を確かめるのも変だ-行乞中、五十銭玉一つを頂戴することは時々ある、しかしそれが一つである場合には、間違ではないかと訊ねてからでなければ頂戴しない、実際さういふ間違も時々ある、だが、今日の場合は二つである、そして忙しい時でもなく暗い時でもない、すべてがハツキリしてゐる、私が疑はないで、特殊な事情のためだと直覚したことは、あながち無理ではあるまい、が、念のために一応訊ねておいて方がよかつたとも考へられる、-とにかく、今となつては、稀有な喜捨として有難く受納する外はない、その1円を最も有効に利用するのが私の責務であらう。

 焼き棄てて日記の灰のこれだけか
   菩薩清涼月、畢竟遊於空
 うららかにして風
 勿忘草より
 わすれぐさ
 ちよいと一服やりましよか
 カルチモンより
 アルコール
 ちよいと一杯やりましよか

※表題句の外、句作なし、「焼き棄てて」の句は「焼き捨てゝ」で昭和5年の初出。

旧の長崎街道にほぼ沿って走る長崎本線は、肥前山口から牛津、久保田を経て、鍋島、佐賀と、佐賀市の中心部に入る。佐賀県南部に位置する久保田町は、2007年、佐賀市に編入された。

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Photo/牛津駅前の広場には、往時の牛津宿を描いた陶板画が架かっている。

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Photo/久保田宿付近の祇園社

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Photo/同じく久保田宿付近にある香椎神社

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May 20, 2010

寒い寒い千人むすびをむすぶ

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-11-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・中村不折「龍眠帖」
中村不折-1866~1943-の龍眠帖。明治41年、河東碧梧桐が発行人として出版した、蘇軾の弟・蘇轍の詩を書いた手本。発売と同時に、その斬新さは大評判となり、版を重ねた作であるが、同時に激しい批判にもさらされた。
中村不折は、北魏以前の六朝期の中岳霊廟碑などをモデルに、この作品を作り上げた。日下部鳴鶴や巌谷一六からすれば稚拙としか思えないこれらの書に目にとめたのは、彼が西洋近代的な絵画的構成に対する眼を備えていたからである。中国古代の書の模倣的再現ではなく、書の近代的再生を試みたものであった。

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/李公麟山荘園九首蘇轍
/龍眠淥浄中。/微吟作雲雨。/幽人建徳居。

・ 々 「李白贈鄭溧陽詩」
中国から舶載される、従来見たこともない書の姿。美に敏感な中林梧竹や河東碧梧桐は、それらに感動し、ただちに自らの書の表現に取り入れる。
中村不折は大まかに言って、東晋の爨宝子碑と北魏初期の中岳霊廟碑を学んだ時代と、前秦の広武将軍碑を学んだ時代に分けられる。本作は、隷書的表現を多分に残す広武将軍碑を学んだ時期以降の作である。
隷書と楷書の入り交じった、何とも楽しく、それでいて見事なまとまりをもった佳作。字画の肥痩が筆蝕上の強弱にとどまらず絵画的・構成的な肥痩と化して、不思議な味わいを醸している。

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/陶令日〃酔。不知五柳春、/素琴本無絃。漉酒用葛巾。
/清風北窗下。自謂羲皇人。/何時到栗里。一見平生親。
/李太白贈鄭溧陽詩。不折書。

―山頭火の一句― 行乞記再び -63-
3月1日

三月更正、新しい第一歩を踏みだした。
午前は冬、午後は春、シケもどうやらおさまつたらしい、行程2里、高町、秀津、山口、等、等とよく
行乞した、おかげで理髪して三杯いただいた。

同宿6人、同室は猿まはし、おもしろいね。
此宿は山口屋、25、中、可もなし、不可もなし。

物にこだはるなかれ、無所得、無所有、飲まないで酔ふやうになれ。

※表題句の外、句作なし

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Photo/長崎本線から佐世保線が分岐する交通の要衝である肥前山口駅の風景

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Photo/肥前山口駅近くの小高い山裾にある龍澤寺

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May 18, 2010

焼跡のしづかにも雪のふりつもる

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-10-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・富岡鉄斎「祝寿聯」
南画家富岡鉄斎-1836~1924-の書。縦画よりも横画を太く、しかも字形の形を縦長に構成した隷書体風の文字は、清代の金農の書を典拠とする。無限微動という新しい筆蝕法とともに誕生した金農の特異な文字形象を、形象優位に学んでいる。
小刻みに正確に微動し、端正に文字を作り上げていく金農とは異なり、富岡鉄斎の微動は強弱の震動をもっている。おそらくそれが、苛烈に政治的な中国の文人と、ほとんど政治と関わりのない日本の文人との違いであろう。強弱を伴った<壽>の字姿が、この書を象徴する。

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/身是西方無量佛/壽如南極老人星

・ 々 「八言二句」
前作とは打って変わった、いかにも富岡鉄斎らしい、きめ細かで、かつ強引無法な、筆蝕優先の行書体の書の佳作。幕末維新期の臭うような書の系譜上の作であるが、また一味異なる。
たとえば<我><一>などの起筆は、いかにも無造作、その無造作な起筆に始まり、横画は「覆」、縦画は「直」。それ以上に、筆尖を開いた筆毫は紙面上を大きく大胆に動きまわる。それは文字を書いているというよりも、画筆が紙面を動きまわっているという趣。富岡が文字を描き出していることは、<安>の揺れ動く冠部や、起・送・収筆の区別の定かでない<榮>が象徴し、この作の気宇の大きさは<歸>の最終画の縦画およびハネの豪快な書きぷりに見られる。

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/我一心歸命盡/十方。無碍光尊/即安楽土。

―山頭火の一句― 行乞記再び -62-
2月29日、けふも雪と風だ、行程1里、廻里、橋口屋

朝、裕徳院稲荷神社へ参拝、九州では宮地神社に次ぐ流行神だらう、鹿島から1里、自動車が間断なく通うてゐる、山を抱いて程よくまとまつた堂宇、石段、商売的雰囲気に包まれてゐるのはやむをえないが、猿を飼うたり、諸鳥を檻に閉ぢこめてゐるのは感心しない、但し放ち飼の鶏は悪くない、11時から4時まで鹿島町行乞、自他共にいけないと感じたことも二、三あった。

興教大師御誕生地御誕生院、また黄檗宗支所並明寺などがあつた。
この宿はほんたうによい、何よりもしんせつで、ていねいなのがうれしい、賄もよい、部屋もよい、夜具もよい、-しかも一室一灯一鉢一人だ。

心の友に、-我昔所造諸惑業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之生、一切我今皆懺悔、ここにまた私は懺悔文を書きつけます、雪が-雪のつめたさよりもそのあたたかさが私を眼醒ましてくれました、私は今、身心を新たにして自他を省察してをります。‥

不眠と感傷、その間には密接な関係がある、私は今夜もまた不眠で感傷に陥つた。

※句作なし、表題句は2月28日付記載の句

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Photo/裕徳院稲荷神社の楼門

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Photo/ライトアツプに映える裕徳院稲荷の本殿

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Photo/12月8日秋季大祭行事のおひたき神事風景

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May 17, 2010

雪の法衣の重うなる

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-9-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・日下部鳴鶴「大久保公神道碑」
書道界でいう明治の三筆の一人、日下部鳴鶴-1838~1922-の代表作。難死した大久保利通を祭る碑文。二本の近代以降の一般の書字のモデルとなった作である。
一点一画、否、起筆から収筆まで毫も揺るぎなく書かれ、張り詰めた緊張感をみなぎらせている。<奉>の横画に見られるように、起筆が強い三角形で描き出されているにもかかわらず、収筆部がこれに対応した三角形で書かれることがないのは、「トン・スー」の二折法で書かれた文字を刻した六朝時代の石刻文字をモデルにしているから。横画が長く書かれ、かつ相互の間隔が詰まり、字形も菱形よりも田形寄りに描かれているのも、同じ理由からだ。

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/詔曰。忠純許/國。策鴻圖於/復古。公誠奉/君。賛不績於/(維新。‥‥)

・ 々 「八十寿筵詩」
同じく日下部鳴鶴が書いた隷書体の佳作。大正6年、88歳の時の力作。先の作のような、みなぎりあふれる緊張感はないが、整然としたたたずまいで端正に書かれている。
点画が小刻みに波打つような姿をしているが、これは近代的な無限微分筆蝕に従って書かれているから。
表現者・副島種臣や、近代的芸術家・中村梧竹とは異なり、近代日本の書法基準を作り上げた書道家の書である。

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/青山一角避紅塵。不汎家湖把/釣綸。頤性半仙期大耋。開筵立/夏卜佳辰。榴華多子如爲壽。竹/祖添孫自作鄰。曰薫風清景/好稱觴欣笑共同人


―山頭火の一句― 行乞記再び -61-
2月28日、晴、曇、雪、風、行程5里、鹿島町、まるや

毎日シケる、けふも雪中行乞、つらいことはつらいけれど張合があつて、かへつてよろしい。
浜町行乞、悪道日本一といつてはいひすぎるだらうが、めづらしいぬかるみである、店舗の戸は泥だらけ、通行人も泥だらけになる、地下足袋のゴムがだんぶり泥の中へはまりこむのだからやりきれない。
同時に、此地方は造酒屋の多いことも多い、したがつて酒は安い、我党の土地だ。-略-

生きるとは味ふことだ、酒は酒を味ふことによって酒も生き人も生きる、しみじみ飯を味ふことが飯をたべることだ、彼女を抱きしめて女が解るといふものだ。

※表題句には「雪中行乞」と註あり、外3句を記す

やはり大地自然にあって、その厳しさや、また逆の穏やかな安らぎが、佳句を生む。
人の親切に束の間感激しては、酒に溺れ退嬰ぶりを示していた数日前とは打って変わったかのような昨日今日の姿、とみえる。

山頭火が触れているように、現在の鹿島市においても酒造業が多く、長崎鉄道の肥前浜駅界隈の、鎌倉・室町の中世から港町・宿場町として栄えた肥前浜宿には、酒蔵通りなど歴史的街並みが残っている。

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Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-1

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Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-2

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Photo/肥前浜宿の酒蔵通り-3、左側2軒目の木造家屋は昭和初めの頃からの郵便局

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May 16, 2010

こゝに住みたい水をのむ

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-8-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・副島種臣「積翠堂」
驚くべし、恐るべし、副島種臣。
これは夏目漱石の伊豆修善寺の大患の舞台として知られる旅館菊屋のために揮毫した、明治17年の作。
篆刻は書の一種だが、方形の文字の字間をびっしりと詰めたこの作は、巨大な篆刻と言ってもさしつかえない。紙面を縦に5等分すると。<積><翠><種臣>がそれぞれ5分の1ずつ、残りの5分の2のスペースを<堂>の一字が占める。そこには、篆書体、隷書体、行書体の表現が入り交じり、書に関する副島のすべての力量が結集されている。

驚くほど巨大な企みと表現をもつ書だが、それでもまだ文字の規範に従うだけでは盛りきれないエネルギーは、左回転の大回りの起筆や、瘤状の字画や、強い摩擦の筆蝕として出現している。二本の筆を手にして書いたのも、太い筆が身近になかったというよりも、一本では足りない表現の質量がそれを促したのであろう。

構成、とりわけ余白の白を強調する<堂>の上部は卓抜。一部欠画しているにもかかわらず、あたかも書かれているかのごとくに見えるという、策計に満ちた作でもある。

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/積翠堂。種臣

・ 々 「蘭」-ジンラン-
おびただしい滲みが筆画の周囲に漏れ出し、筆蝕の跡さえ辿ることの難しい作だが、墨を大量に含んだ筆をゆったりと動かして、滲んで滲んで、滲み抜いた書を意図的に書いている-その滲みは何を象徴するのか。

薩長藩閥官僚たちによって理想から遠ざかり、泥土のごとく踏みにじられ消えてゆく革命の精神をか、あるいは、それらに対する副島種臣の涸れることなき涙をか。<蘭>の門部の第2画は、世界を睨みつける目玉のようでもある。

書の手法を駆使して、時代の姿と時代への想いを描きえたところに、書家・副島種臣の書の巨大さがある。

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/蘭。副島種臣


―山頭火の一句― 行乞記再び -60-
2月27日、風雪、行程7里、多良-佐賀県-、布袋屋

キチガイ日和だつた、照つたり降つたり、雪、雨、風。‥
第22番の竹崎観音-平井坊-へ参拝。

郷はお天気が悪くて道は悪かつたけれど、風景はよかつた、山も海も、そして人も。
此宿はよい、まぐれあたりのよさだつた。

※表題句のみ

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Photo/長崎と佐賀の県境、多良山系の中央に位置する多良岳-996m-や経ヶ岳-1076m-は、古くから山岳霊場の地として知られる。

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Photo/その多良岳の登山道に見られる奇岩

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Photo/多良の駅-現在の太良町-付近から眺めた有明の海

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Photo/竹崎観音-竹崎山観世音寺-の修正会鬼祭は奇祭としても名高い

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Photo/竹崎の漁港から竹崎城を望む

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May 14, 2010

さみしい風が歩かせる

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-日々余話- Soulful Days-37- もうなにも‥

午前10時40分頃、またも大阪地検に出かける。
刑事訴訟法において保証された被害者家族の意見陳述なるものは、検察の意に沿うものでなければ著しく制約を受けるものだということが、嫌という程よく解った。これでは雁字搦め、お手上げである。憤懣遣る方ないが、被告人質問はもちろんのこと、意見陳述もまた、被告宥恕のみを専らとするしかない。

この刑事裁判が決ってからでも、何度も足を運んだ検察庁だが、もう来たくない、これほど不毛なことはないからだ。ひと一人の命が失われたとて、交通事故の事案なんぞ、警察にとっても、検察にとっても、膨大な処理件数のたった一つの塵芥の類にしかすぎないし、被害者の立場から捜査の欠陥を衝いたとて、法廷記録にはそのシミひとつも残すことすら出来はしないのだ。

地検庁舎を出て駐車場に戻ったものの、ここは一息気分転換、なにしろ大阪市立科学館と国立国際美術館が隣接しているのだから、気晴らしにルノワールでも鑑賞してみるかと、美術館へ。
ところが当日券はなんと1500円也だ、おまけに65歳の恩典もない、いまさらルノワールにそんな出費をする気にもなれず、無料で入れる「荒川修作初期作品展」を観る。全国各地に散らばっていたという写真のごとき同じシリーズの作品が20点並んだ光景はなかなかの見応え。他に60~70年代の概念芸術の旗手たちの収蔵作品も観られたが、こちらはなんだか焦点の定まらない展示で詰らなかった。残念ながら、気分が晴れるほどの寄り道にはならず、車に乗り込んで帰る。

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Photo/荒川修作初期作品「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン」

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Photo/荒川修作初期作品「もうひとつの墓場より№4」

夕刻、4時前になって電話が鳴る、相手は司法協会とか、公判資料のコピーが出来たので裁判所地下一階まで取りに来いとのご託宣だが、オイオイ、明日からは週末、今すぐ走らないと来週になっちまうじゃないか、連絡してくるならもう少し早く出来ないのかネ、と忌々しく思いながらも、また車で出かける始末。
5530円也というこの厚手の公判資料を、それも申請の際には取扱いにあれほど注意を受けたのに、剥き出しの裸のまま手渡されたのには、これまた面喰らってしまった。

その捜査資料や供述調書等を、読めば読むほどに、ただ呆れかえるばかり、ナ、ナンダ、コリャ、二の句が継げないとはこんな場合だろう。これで事故原因が明々白々とは、まことに畏れ入る、はっきりと矛盾するような写真もあるのに、堂々と載せられている。この歳にしてこの類のものを初めて拝見した訳だが、金太郎飴じゃあるまいに、マニュアルどおりの捜査シナリオが、こうして量産されていくといった図がよく解るだけのこと。

午前と夕刻の、このダブルパンチに、いわゆる世事における事故始末なる世界から、この1年8ヶ月の、私自身のなかの出来事は、途方もないほどの距離へと遠離ってしまっているのだということに、やっと気づかされたような感じがする。個の内側からみられた事の本質、事件のリアリティーと、法の下におけるこのたんなる形式主義によって完結されようとしている始末記の、この途方もない乖離は、これこそまさに救いがないというものであり、切り結びを求めること自体、端から虚像の、彼方に浮かんだあの蜃気楼でしかなかったのだ。

救いとは、絶望の背中にピタリと貼り付いてあり、悟達とは、まさにこれ、いっさいに対する諦めから発するのだ。


―山頭火の一句― 行乞記再び -59-
2月26日、晴曇定めなくして雪ふる、湯江、桜屋

だいぶ歩いたが竹崎までは歩けなかつた、一杯飲んだら空、空、空!

九州西国第23番の札所和銅寺に拝登、小さい、平凡な寺だけれど何となし親しいものがあつた、ただ若い奥さんがだらしなくて赤子を泣かせてゐたのは嫌だつた。

酢牡蠣で一杯、しんじつうまい酒だつた!
夢の中でさへ私はコセコセしてゐる、ほんたうにコセコセしたくないものだ。

※表題句の外、4句を記す

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Photo/九州西国第23番札所法川山和銅寺

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Photo/和銅寺の本尊とされる行基作伝の十一面観世音木立像

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May 13, 2010

風ふいて一文もない

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-日々余話- ゆみの初キャンペーン

歌手のキヤンペーンなるものに初めて付合った。歌手とはむろん松浦ゆみ。
所は十三本町の商店街筋にある恵比須堂。狭い店内に小さな仮設ステージ、その前に十数脚並べられた丸椅子に腰掛ける人や立ち見の人で満杯、道行く人もかなりの数が立ち止まって聞き入る。
僅か30分の短いステージが一回こっきり、それでも新曲のCDは30枚以上売れたらしい。

彼女にとってもこの種のキャンペーンは初めてだったそうだが、そのなかで唱った「テネシーワルツ」は、慥か私が聴くのは2度目だが、これは巧い、痺れるほどによかった。聴衆たちの反応もどよめきたつほどだった。

この種の業界でずっと生きてきた60歳過ぎのある御仁が、是比プロモートしたいと本人に直談判、そんな成行きで始まったことだが、これは大化けする最後のチャンスなのかもしれない。

―山頭火の一句― 行乞記再び -58-
2月24日、25日、行程5里、諫早町、藤山屋

吹雪に吹きまくられて行乞、辛かつたけれど、それはみんな自業自得だ、罪障は償はなければならない、否、償はずにはゐられない。

また冬が来たやうな寒さ、-寒があんまりあたたかだった-。
五厘銭まで払つてしまつた、それでも一銭のマイナスだつた。

※表題句のみ

諫早湾は干拓の歴史である。湾沿岸地域は、阿蘇九重山系の火山灰質の土砂などが筑後川などの河口に流され、それが有明海を反時計回りの潮流より諫早湾奥部へと供給され続け、堤防の前面などに年間で約5㎝程度のガタ土の堆積が進み、干潟が発達することになる。このため、背後地よりも堤防の前面の干潟が高くなってしまい、慢性的な排水不良となる。この干潟を堤防で囲むことにより、記録によれば、約1330年南北朝の頃)から干拓が行われてきた。

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Photo/諫早湾の干拓地全景

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May 12, 2010

ならんで歩くに石だゝみすべるほどの雨

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-日々余話- 梯子外されて‥

朝から裁判所へと出かける、10時きっかり、庁舎に入った。

被害者家族には閲覧や複写が可能になった訴追資料や捜査記録等などの複写を得るためだ。
申請手続きは遅滞なくできたが、後日、業者から送られてくることになるそうで、1週間はかかるだろうとという。

なんだよ、それならそうと、昨日、電話した際に言っといてくれよ。此方は、その場で閲覧しながらコピーできるのかと思っていたから、相応の心準備をしてきたのに、気負い込んでいたのがプッツン、どっ身体から力が脱けていく‥。

お蔭で、家に帰ってからも、気怠い、思考の焦点が定まらないなど‥、終日、身心低調。

―山頭火の一句― 行乞記再び -57-
2月23日、いよいよ出立、行程6里、守山、岩水屋

久しぶりに歩いた、行乞した、山や海はやつぱり美しい、いちにち風に吹かれた。

此宿はよい、同宿の牛肉売、皮油売、豆売老人、酒一杯で寝る外なかつた。

※句作なし、表題句は2月4日の句

現在、島原・雲仙の地域で守山という名を残すものは、雲仙市吾妻町古城名にある守山城址公園や守山馬場くらいしかない。

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Photo/城址公園となっている守山城本丸跡

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Photo/雲仙市吾妻町と諫早市高來町を結ぶ諫早湾干拓堤防道路が'07年12月開通した

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May 11, 2010

あたたかくて旅のあはれが身にしみすぎる

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-日々余話- 紙面の写真のひと

公人でもなく、自分の知る人が、新聞の紙面を飾るのに出会すなどというのは滅多にあることではないが、本日の毎日新聞の夕刊を読みながら、掲載記事の中のひとりの女性の写真に眼が釘付けとなり、思わず記憶の糸を手繰り寄せていた。

奈良美智や村上隆など現代アーティストたちの収集作品1000点を、「個人宅で作品を守るのは難しく、美術館への寄贈が一番。寂しいけれど地震や火災におびえなくていいので安心」と、20年余りにわたって買い集め、愛蔵してきたのをすべて気前よくポンと、和歌山県立美術館に寄贈したという御仁、大阪教育大名誉教授田中恒子さんとあるが、彼女の旧姓は水島、昔をよく知る人というばかりか、私の育った家の隣人であったから、イヤ驚いた。

たしか、水島一家はそれまで安治川の源兵衛渡し付近に住んでいたのを、私が中一の頃だったと思うが、隣に越してきたのだった。彼女の弟は私と同年、中学・高校と一緒だったし、とりわけ中学時代はよく行動をともにした間柄だったし、姉の恒子さんは4歳年上で、次兄と中学の同期となるし、かなり家族ぐるみの交わりもあったから、よく憶えている。

新聞に映っているのは全身の写真で、あまり大きくはないから、記事を読みつつ、はてこの人、ちょっと待てよ、とよくよく眺めては気がついたのだった。
ひとしきり懐かしさに耽ったものだが、偶さかこんなこともあるものだ。

-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-7-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・副島種臣「七言二句」
これまた雄大・雄壮な作。詩中の<蓮岳>は富士山、<墨江>は隅田川を指すのだろうか。とすれば日本を強く意識した作である。
<天><千>は、左ハライを右ハライにと左右を入替えた裏字。<古>の第2画は、縦画であるべきところを横画で書いた副島式異体字。<色>は乙鉤部以降を極端に細めた特異な書法。<流>においてはすべての字画の間をぎゅうぎゅうに詰め、余白を無理に少なく描いている。
全体に雄渾に書かれている中にあって、<蓮>の車部が伸びやかに、<墨>が小さく書かれているところに、構成の非凡さがある。
種臣という落款の位置は、自恃の気概の高さを象徴する。

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/白日青天蓮岳色。/千秋萬古墨江流。/種臣。

・副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」
これまたあっと驚くような、気品を漂わせた作。
ひとつの字画を可能な限り三角形の変奏で書き表わさんとした、明治18年の実験作で、基調は篆書体。
<桃>は<挺>に見え、よく見れば<兆>に書かれている、<細>は<紳>に見え、<時>は<昨>に見えかねない。
落款部で<酉>の懐部分が右に45度倒し、<島>は<副・種臣>の5倍ほども大きく書かれている。
書の表現の可能性を精査している姿であり、それはもはや政治家副島の姿ではなく、書家-表現者-のものである。

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/桃花細遂楊花落。/黄鳥時兼白鳥飛。/乙酉。副島種臣。

―山頭火の一句― 行乞記再び -56-
2月17日~22日、島原で休養。

近来どうも身心の衰弱を感じないではゐられない、酒があれば飲み、なければ寝る、-それでどうなるのだ!

俊和尚からの来信に泣かされた、善良なる人は苦しむ、私は私の不良をまざまざと見せつけられた。
同宿の新聞記者、八目鰻売、勅語額売、どの人もそれぞれ興味を与へてくれた、人間が人間には最も面白い。

※句作なし、表題句は2月2日の句

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Photo/島原城の天守復元は昭和39年

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Photo/平成4年、200年ぶりの雲仙普賢岳噴火での土石流被災を伝える保存家屋

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May 10, 2010

旅は道づれの不景気話が尽きない

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-6-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・副島種臣「弘文天皇御製」
筆尖を刀の切先-鋒-のように尖らし、静かにしかし鋭く斬り込み、本文中では強く深く、しかしゆったりと削るように書き綴っていき、落款部で切先で鋭く切り削っていく。その書きぶり-筆蝕-に緊張感と気品が漂う。
流麗さも併せ持つ作である。<地>のゆったり、たっぷりとした最終画の書きぶり、<弘文天皇御製>の御身の厳しく目まぐるしい筆蝕展開が、見所である。

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/皇明輝日月。帝徳戴/天地。三才並泰昌。萬國/表臣儀。
/右弘文天皇御製。/臣副島種臣謹書

・副島種臣「五言古詩」
楷書の作。字体的には楷書から崩れているが、書きぶりから言えば、一画々々を微塵の揺るぎもなく積み上げていく楷書体。もしも楷書を、一画々々を組合わせて揺るぎない文字を構築した書体と定義づけるなら、副島種臣は日本書史上で唯一、楷書を書き得た人物である。
字体的には<爲>など草書体も混じるが、書体的には六朝期の龍門造像記などの石刻楷書のごとき石を砕く趣をもち、紙に書いているというよりも、むしろ右に刻っていると感じさせる書である。
冒頭の<輜車駕白馬>、いずれも転折部で筆が改められるが、これは筆毫の無法な展開を阻むためと、北魏などの六朝石刻文字に学んだ書法でもある。

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/輜車駕白馬。從御爲裵徊。銘旌老/叔書。當察臨筆哀。甚惜雄毅姿。去/趨長夜臺。古人謂命也。不止哭顔回。儻/見天主者。試願磊落才。彼奪生前/福。而樂身後災。是亦□賊耳。窮/詰勿屈哉。 /滄海老人副島種臣草。

―山頭火の一句― 行乞記再び -55-
2月16日、行程3里、島原町、坂本屋

さつそく緑平老からの来信をうけとる、その温情が身心にしみわたる、彼の心がそのまま私の心にぶつかつたやうに感動する。

※句作なし、表題句は2月3日の句

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Photo/島原城の西側、鉄砲町に残る武家屋敷街の跡

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May 09, 2010

けさはおわかれの卵をすゝる

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-日々余話- 芝桜の絨緞と白毫寺の九尺藤

ライトアツプされた白毫寺九尺藤の写真が、今日の朝刊の一面に載っていたのに眼を奪われて、不意に見に行きたくなった。
このところ裁判絡みの意見陳述書の作成やらなにやらで、心身ともに疲労困憊気味だったので、なにやら気分転換を欲していたのかも知れない。

午後2時半頃から出かけた。三田西PAから地道を走り、千丈寺湖を通り抜けていく。このあたりすでに里山らしい風景が続いて心地よい。三田の奥、篠山に近い山路の、花菖蒲や牡丹園名高い花の寺第11番永澤寺に着いたのは4時頃。永澤は<ヨウタク>と読むのが正しいが、これがなかなかちゃんと読んで貰えないためか、道すがらの案内表示などには<エイタク>と振仮名されている。芝桜の花のじゅうたんが今は盛り。大人600円也、子ども300円也の入園料はちと高いのではないか、商売気に走りすぎと思われたが、ひとまずのんびりと一時間ほど過ごした。

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Photo/永澤寺の芝桜の絨緞二様

永澤寺を発てばすぐ篠山市に入る。これを斜め縦断するようにして丹波路は市島町の白毫寺をめざす。標高569mの五大山の山裾にある白毫寺は、ちょっと鄙びたいい寺だ。着いたのはちょうど6時頃で、ライトアップには少し早かったが、九尺藤の長い藤棚がある所はちょっとした広場になっているから、KAORUKOも退屈せずに遊びに興じていた。さすがに7時半近くにもなってくると照明に映えてちょっとした幽玄郷の雰囲気。
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Photo/白毫寺の九尺藤二様

もっと冥くなってからの光景も見たかったが、それでは帰りが遅くなりすぎる。些か心残りながら已むなく帰路へ。夕刻からの12kmという渋滞も、我々が走る頃にはすでになく、1時間半もかからず、9時前に無事帰着。

―山頭火の一句― 行乞記再び -54-
2月15日、少し歩いて雨、布津、宝徳屋

気が滅入つてしまうので、ぐんぐん飲んだ、酔つぱらつて前後不覚、カルチモンよりアルコール、天国よりも地獄の方が気楽だ!

同宿は要領を得ない若者、しかし好人物だつた、適切にいへば、小心な無頼漢か。
此宿はよい、しづかでしんせつだ、滞在したいけれど。-

※句作なし、表題句は2月8日の句

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Photo/布津町から見た島原半島

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Photo/布津町から雲仙普賢岳を望む

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May 08, 2010

大海を汲みあげては洗ふ

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-5-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

明治近代化の書の中で、もっとも注目すべきは、一連の幕末維新期の唐様+日本型墨蹟型の系譜に出発しながらも、二度にわたる渡清によって六朝書の影響を受け、たんにそれらを新しい書体と受けとめるだけではなく、自らの思想や政治行動と連動して、時代と自己のスタイル表現として見事に開花させた副島種臣の書である。

・副島種臣「願正寺上人追弔詩.二首」

幕末に佐賀藩の志士たちが屡々会合した願正寺の裁松上人の死を弔った二輻。天地340㎝、幅140㎝、全紙を横にして5枚つないだほどの超大作。書風凄絶なる副島種臣初期の作。

ほとんど構成に意を払わないかのごとく無法に書き綴りながら、有無を言わさぬ作品に仕上げてしまう力量には舌を巻く。

たとえば<佐>のイ部から旁につながる細い連綿はタブーであり、また旁の<左>部で筆尖が乱れ割れたままで紙に接する書法もタブーである。いたるところでタブーを犯しながら、その破戒・破法性最大の見所となるという逆説の劇の上に、この作は成立している。

全体の律動が右上から左下へ向かい、また左上から右下に向かう<×>動きに主律されていることは見逃せない。

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/我識上人有幾年。勤王大
/義早昭然。一朝事遂君瞑
/目。獨是眼遠京洛烟。
/裁松上人三年法會追弔。副島種臣拝。

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/佐賀城上雪紛ゝ。願正寺邊
/鐘響分。命海願正寺
/不見。爲注歌氏斯文。
/願正寺弔裁松上人。副島種臣拝。

―山頭火の一句― 行乞記再び -53-
2月14日、曇、晴、行程5里、有家町、幸福屋

昨夜はラヂオ、今夜はチクオンキ、明日はコト、-が聴けますか。
大きな榕樹-アコオ-がそここヽにあった、島原らしいと思ふ、たしかに島原らしい。

<追記>-幸福屋といふ屋号はおもしろい。

同宿は坊主と山伏、前者は少々誇大妄想狂らしい、後者のヨタ話も痛快だつた-剣山の話、山中生活の自由、山葵、岩魚、焼塩、鉄汁。‥

※句作なし、表題句は2月7日の句

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Photo/有明海に囲まれ難攻不落の天然の要塞だった原城跡、南島原市南有馬町

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Photo/西有家の吉利支丹墓碑、碑文はポルトガル式綴字法のローマ字。有家町には現在53基のキリシタン墓碑が確認されている。

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Photo/道路端や石垣、畑の中などに散在していた17基の桜馬場墓碑群を集めた有家切支丹公園/font>

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May 07, 2010

解らない言葉の中を通る

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-日々余話- 法廷という虚構

平成22年(わ)第××××号
被告人 M.M
事件名 自動車運転過失致死傷

第1回公判が、大阪地裁、×××号法廷にて、本日午前10時より開廷された。

法廷という籠の中では
脚色された事実だけが
事実として活きる
所詮
ソ、レ、ダ、ケ、ノ、コ、ト、カ

すでに50歳半ばをすぎた
被告Mの
物言いや態度は
私の知るいつもの
あの素直なMとは
まるで違って
なにかの外圧から
意に染まぬことを
無理強いされた
大きな子どものように
ただ、ふてくされた
ものにしか映らなかった
此処も、また
主戦場には
到底
なりえない、か

―山頭火の一句― 行乞記再び -52-
2月13日

朝の2時間行乞、それから、あちらでたづね、こちらでたづねて、水月山円通寺跡の丘に登りついた、麦畑、桑畑、そこに600年のタイムが流れたのだ、やうやくにして大智禅師の墓所を尋ねあてる、石を積みあげて瓦をしいて、堂か、小屋か、ただ楠の一本がゆうぜんと立つてゐる、円通寺再興といふ岩戸山厳吼庵に詣でる、ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー。‥

歩いてゐるうちにもう口ノ津だ、口ノ津は昔風の港町らしく、ちんまりとまとまつてゐる、ちょんびり行乞、朝日屋、同宿は、鮮人の櫛売二人、若い方には好感が持てた。
よくのんでねた。

<追記>-玉峰寺で話す、-禅寺に禅なし、心細いではありませんか。
 自戒、焼酎は一杯でやめるべし
    酒は三杯をかさねるべからず

歩いてゐるうちに、だんだん言葉が解らなくなつた、ふるさと遠し、-柄にもなく少々センチになる。
今日は5里歩いた、何としても歩くことはメシヤだよ、老へんろさんと妥協して片側づつ歩いたが、やつぱりよかつた、よい山、よい海、よい人、十分々々。
原城跡を見て歩けなかつたのは残念だつた。

※表題句の外、句作なし

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Photo/岩戸山の麓にある厳吼寺

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Photo/厳吼寺境内の庭

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Photo/玉峰寺は、嘗て切支丹の教会があり、また島原の乱では切支丹らの刑場ともなった地に建てられた曹洞宗の禅寺である

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May 06, 2010

寺から寺へ葛かづら

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-日々余話- 交通検察と副検事

副検事という職掌も、てっきり司法試験合格によってなるものだと思いこんでいたところ、ごく最近、そうではないと知って、なんだか腑に落ちたような気分になっている。

検察庁法で定められた「副検事選考試験」なるものがあり、その受験資格が検察庁法施行令第2条に細かく列記されているが、要するに関係各庁からの内部昇格試験のようなもので、実際の受験者は殆どが検察事務官、次いで裁判所書記官だという。

現在、といっても'06年の数値だそうだが、検事が全国に1365名、副検事が同じく826名、他に副検事から昇格する仕組みの特任検事-検事2級-と呼ばれるものがあり、これはたった44名。ちなみにテレビの「赤かぶ検事」はこの特任検事だった。
これに対し、弁護士の場合、今年の4月現在、全国に28,828名、うち女性4,671名とあり、なんと検察官の13倍弱も居ることになる。ただ、弁護士の大都市圏集中が近年問題になってきたように、東京の登録者が13,823名、大阪で3,584名となっており、両者で60%を超えるという偏在ぶりを示している。

「加害者天国ニッポン」というサイトがある。主宰の松本誠は交通事故被害者の支援活動を熱心に取り組んできた弁護士だが、'07年6月、JR列車事故で急逝している。遺書はないが所轄の尼崎北署では自殺と判断されており、動機など真相は藪の中のまま、不審死というのがなんだか気にかかる。

それはともかく、彼の解説によると、交通検察のあり方は1986-S61-年を境に大きく変化したという。検察の制度改革で、それまで交通部だけでなく刑事部にも配属されていた副検事が、交通部に集中配備されるようになり、交通事犯の起訴率が急カーブで減少していったらしい。以前は、一般犯罪と同じ73%だったのが今や12%にまで減少している、とこう書かれたのが、すでに5年前の平成17年だから、おそらく現在では10%を切っていることだろう。
検察へ送検された交通事故事案の9割が不起訴となり、起訴とはいえその9割が略式起訴、公判請求され刑事裁判となるのは全事案の1%に過ぎない。

こういう実態となれば、検察の取り調べというのも、単なる書面主義なのは当然で、副検事という職務は法曹なんぞではなく、ただの事務屋に過ぎないと言えようか。
この1年余り、私が接してきたあのお二人さんも、なんのことはないただの事務屋さんだった訳だ。

―山頭火の一句― 行乞記再び -51-
2月12日、けふも日本晴、まるで春、行程5里、海ぞひのうつくしい道だつた、加津佐町、太田屋

此町は予想しない場所だつた、町としても風景としてもよい、海岸一帯、岩戸山、等、等。
途中、折々榕樹を見出した、また唐茄子の赤い実が眼についた。

水月山円通寺跡、大智禅師墓碑、そしてキリシタン墓碑、コレジョ-キリシタン学校-跡もある。

※句作なし、表題句は2月4日の句

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Photo/花房の棚田から加津佐町を望む

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Photo/加津佐町の岩戸山

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Photo/コレジョ跡

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May 05, 2010

まへにうしろに海見える草で寝そべる

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-4-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・中林梧竹「寒山詩」
70歳代後半から80歳代前半に中村梧竹の書は姿を変えるが、その時期を代表する作。

王羲之十七帖の臨書は、構成は草書体であるにもかかわらず、筆蝕は楷書的・行書的に書かれていた。その構成と筆蝕の落差に、凛と張りつめた表現世界が成立していたが、このころになると草書体の速度と流れに従う度合いを強める。このため求心力をもったつややかな筆蝕は犠牲にされたが、代って構成は自由奔放さを高めた。

中林梧竹の書に対する斎藤茂吉の評「天馬空を行く勢い」とは、この書のような姿をさすのであろう。軽みを伴った<寒山><微風><吹幽><聲><斑白><老十年>のなどの表現の登場が、この時期の達成である

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/欲得安心處。寒山可/長保。微風吹幽松。近聽
/聲愈好。門有斑白人。/喃〃讀黄老。十年歸
/不得。忘却來時道。   /八十叟。梧竹。


―山頭火の一句―
行乞記再び -50-
2月11日、快晴、小浜町行乞、宿は同前。

日本晴、朝湯、行乞4時間、竹輪で三杯。
水の豊富なのはうれしい、そしてうまい、栓をひねつたままにしていつも溢れて流れてゐる、そこにもここにも。

よい一日よい一夜だつた。

※句作なし、表題句は2月7日付所収の句

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Photo/長崎県雲仙市小浜温泉の全景

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Photo/国道57号線沿に、湧出温度100°の湯煙が空高く涌き立つ姿が見られる

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May 04, 2010

トンネルをぬけるより塚があつた

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-日々余話- 丹後半島ひとめぐり

昨日と今日、夕日ケ浦の民宿に1泊しての丹後半島めぐり。
早朝に発てば日帰りだってできる丹後半島へは過去にも幾たびか来ている。日本三景の天橋立は素通りしてひとまず舟屋の町こと伊根町へ、

此処には懐かしい想い出がある。20歳の夏だから大学の2回生、高校の演劇部の合宿が此処で行われたのだが、たしかその前半だけOBとして参加した。現役の女性部員の田舎がこの舟屋の町だというので、その縁を頼ってのものだった。往きは宮津から船でこの舟屋の町に渡ったのだが、舟屋の群が建ち並ぶ桟橋に着いた時の光景は今でも記憶に残る。

その懐かしい光景をまざまざと蘇らせたくなって、舟屋めぐりの遊覧船に乗ってみた。所要時間は30分位だったが、ぐっと舟屋の近くまで寄せてくれるのかと期待したのにみごとに当てが外れて、ちょっぴり落胆。
このあたりを車を走らせていて気がついたのだが、舟屋の集落一帯が平田と称されているのには驚かされた、というのも件の女子部員が平田姓だったからだ。

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Photo/伊根町の舟屋

経ヶ岬付近の展望台で車を停め、海や岬を見ながら暫時休憩。
次に立ち寄ったのが間人の港、港を一望できるブルータンゴという喫茶店で軽い昼食タイム。

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Photo/間人の港

鳴き砂の琴引浜は、以前にも立ち寄ったことがあるので今回はパス。さらに西へと車を走らせて五色浜へ-、岩場の磯が日本海の荒波に浸食され生まれた自然の造型。子どもにはこういう所がいい、結構時間持ちがした。

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Photo/五色浜

そして、まだ時間が早いが、夕日ケ浦の宿へ。此処で泊るのは初めてだが、来てみて気がついたのは、嘗ては浜詰海岸と呼ばれていたのが、80年代、新しい温泉の発掘を機にこれを夕日ケ浦温泉と名づけて、夕陽の美しい温泉場としてブームとなってその呼称のほうが全国に知られるようになった、ということ。

その日本海に沈む夕陽は、ちょうど食事時と重なって見ることは叶わなかったが、とっぷりと暮れてから、浜辺を散策した。夜は早く寝た、ひさしぶりにたっぷりと寝たので、早朝の散歩が清々しかった。
宿を出たのは9時半頃か、久美浜の内海を反時計廻りにぐるりと走って、海辺のレストランでのんびりとモーニング珈琲。

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Photo/小天橋を望む久見浜湾

そして関西花の寺7番札所とかの如意寺に-、名の知れたミツバツツジはもう見られなかったが、レンゲツツジや九輪草が綺麗だった。

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Photo/如意寺境内の片隅にある石塔

出石へと向かう途中で、豊岡のコウノトリの郷に立ち寄った。公開ケージでは14.5羽のコウノトリの姿が見られた。文化館では写真や資料が豊富に展示されており、子どもが楽しめるコーナーもあり、意外と時間を過ごせる。

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Photo/ケージのなかのコウノトリたち

兵庫県の竹野町や丹後半島へ来た時の、帰路の昼食処は出石が定番となったのはいつの頃からか、もうかれこれ7.8回にはなるだろう。相変わらず休日の人では凄い、次から次へと訪れては客待ちの列が並ぶが、回転も速いもので15分位で席に着けた。呼込みの小父さんに聞いたが、界隈には大小45軒の店が建ち並んで過当競争もいいとこ、休日はどの店も繁盛で結構だが、平日はさっぱりで大変なんだとか。どの店に寄ろうと850円也均一の定価なのがいい、5杯の皿そばを平らげて仕上げにそば湯を飲むとちょうど頃合いの満腹感だ。おかげで車を走らせて30分もすると必ずといっていいほど眠気に襲われる。

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Photo/出石のシンボル辰鼓楼

帰りの中国道は、宝塚西のトンネル付近から12キロの渋滞だったが、これを脱けるのに1時間を要しなかったのは幸い。阪高の池田線はすいすいと流れて、4時半過ぎには無事ご帰還。

―山頭火の一句― 行乞記再び -49-
2月10日、まだ風雨がつづいてゐるけれど出立する、途中千々岩で泊るつもりだつたが、宿いふ宿で断られつづけたので、一杯元気でここまで来た、行程5里、小浜町、永喜屋。

千々岩は橘中佐の出生地、海を見遙かす景勝台に銅像が建立されてゐる。
或る店頭で、井上前蔵相が暗殺された新聞記事を読んだ、日本人は激し易くて困る。‥

此宿は評判がよくない、朝も晩も塩辛い豆腐汁を食べさせる、しかし夜具は割合に清潔だし-敷布も枕掛も洗濯したばかりのをくれた-、それに、温泉に行けて相客がないのがよい、たつた一人で湯に入つて来て、のんきに読んでゐられる。

ここの湯は熱くて量も多い、浴びて心地よく、飲んでもうまい、すべて本田家の個人所有である。
海も山も家も、すべてが温泉中心である、雲仙を背景としてゐる、海の青さ、湯烟の白さ。
凍豆腐ばかり見せつけられる、さすがに雲仙名物だ、外に湯せんべい。

※句作なし、表題句は2月8日付所収の句、去来芒塚と註あり

橘中佐こと橘周太-1865~1904-は日露戦争の遼陽の会戦で戦死、以後軍神と崇められた。現在の長崎県雲仙市千々岩町に生れた。橘家は奈良時代の橘諸兄の子孫とされ、楠木正成と同族と伝えられる。

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Photo/橘中佐の銅像

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Photo/長崎県の千々岩海岸

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Photo/今年の2月オープンしたという日本一長い小浜町の足湯

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May 03, 2010

もう転ぶまい道のたんぽゝ

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-日々余話- Soulful Days-36- スタートラインに立てたか

訴追側の検事、国選の弁護士、おそらくどちらも一年生の若い法曹人。それぞれに二度ずつ会ってきたが、これまで及び腰だった弁護人は、歯噛みするような二度目の面談の時とはうってかわって、ようやく闘う姿勢に転じてくれたようである。
昨日の午後から会うというMに、まだ仕上り半ばの陳述意見書の素案を持たせ、行って貰ったのだが、やっと此方の本意がほぼ通じたらしい。

休み明けの7日はいよいよ初公判だ。法廷の場で、こんどこそ事故の事実関係を洗い直すことが出来る、少なくともある程度は。そう、全容解明なんて、そんなこと期待しちゃならぬ、相手方Tにも相当の過失があったのではないかと、どう考えても疑いが残る、まあそんなところで落着するしかないだろう。

それにしても、西署の初動捜査は、事故当夜の現場検証、そして双方の車の実況見分ということのみで、あとは当人らの供述のみに頼った捜査で了としたのだろう。一応ドライブレコーダーを見る機会があったのに、この記録に基づき、再度の現場検証を何故しなかったのか、大いに疑問が残る。
事故の数年前に自己破産を経験しているM、だからこそタクシー運転手への転職であったろうが、そのMの経歴を素因として、偏向的な捜査が行われたのではないか、そんな勘ぐりまで起こしたくなるようなずさんな西署の捜査‥。

それにしても、検察は、折角ドライブレコーダーを詳細に分析しながら、西署の調書をただ追認するような結論しか出せなかったのか。捜査上の欠陥を認めることが容易ではないことはわかるが、さりとてこのまま法廷に持ち込まれた場合、却ってより大きな汚点となることもあり得るではないか。残念なことではあるが、彼らもまたたんなる手続き上の不手際、形式上のミスというものを、なによりも畏れなければならぬただの官僚にすぎないのか‥。

-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-3-
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・近代の書

言うまでもなく、西欧の文化・文明を取り入れることによって、日本の近代化は達成された。しかし、その西欧の文化や文明は、植民地のように直かに入り込んだのではなく、いったん漢語に翻訳されることによって、主体的に日本に、また日本経由で東アジアに根づいていったものである。この事実から言えば、近代化は一面では西欧化であるが、その根幹は中国化にあった。漢語・漢字化、つまり中国化を強めることによって近代化は可能になった。旧来の日本史は、近代化を表面的に西欧化の側面だけで見すぎ、その根幹における「漢化」を見落としてきた。実際には、近代化は卓抜した造語力をもつ東アジア漢字語-漢語-を駆使することによって、「和魂洋才」+「和魂漢才」、つまり「和心・漢魂・洋才」として進展したものである。

明治13年、清国の地理学者・楊守敬が1万3千点の碑版法帖を持って来日、これら中国の書を通して、或いは副島種臣などの政治家や、文人・書家らが渡清し、中国で多くの書や書史に触れることによって、近代書史は江戸時代末期までの書とは一変することになった。

中国の書へのリアルな視線は、「唐様」の改革-「六朝化」をもたらす。
六朝時代の石刻楷書、さらに秦漢代の石刻の篆書体や隷書体などを、石刻の鋭さと刻りの深さをもった強靱な書体として認識すること-、それは日本書史上はじめて書の根拠たる石刻の書を受けとめた一大事件であり、近代の進取の精神に対応したものであった。

・中林梧竹「七言絶句」
幕末維新期の書をすっきりと脱けた、中林梧竹-1827~1913-の輪郭明瞭な書。清朝碑学の書を基盤としながらも、此を完全に消化・吸収し、新しくつくり変えている。つややかでしなやかで強靱な筆蝕を基調にし、構成は近代的で大胆。現在なお色褪せない、彼70歳頃の鮮やかな行書体の作品。

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/浅深春色幾枝含。翠影
/紅香半欲酣。簾外輕屋人
/未赴。賣花聲裡夢江南。

・  々 「七十七自寿詩」
梧竹77歳、喜寿を自ら祝う作。筆画は太さを増し、粘着力をいっそう増している。
行間は、許友ら一部の明末連綿草のように詰まる。隙があれば攻め入り、入り込む余地がなければこれを避けながら書き進め、文字はびっしり紙面を埋め尽くす。草書体でありながら、たんに書速に従うだけでなく、隅から隅まで大胆且つ細心に構成する。筆画と構成との間に忍び込む落差、その人工性に、梧竹の書の抜群の近代性がある。

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/文政丁亥。惟我生爲。今歳癸卯。七十七/年。一攀華泰。再入古燕。雖恥玉砕。猶喜
/瓦全。游心物外。棲神象先。抱朴守一。/精固氣専。無墨之筆。無佛
/之禅。吟嘯風月。笑倣雲烟。乗彼大化。/榮彼自然。自壽梧竹。

―山頭火の一句― 行乞記再び -48-
2月9日、風雨、とても動けないから休養、宿は同前。

お天気がドマグレたから人間もドマグレた、朝からひつかけて与太話に時間をつぶした。

※句作なし、表題句は2月8日付所収の句

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Photo/諫早市松里町にある有喜UKIビーチ

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May 02, 2010

君が手もまじるなるべし花薄

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-2
石川九楊編「書の宇宙-24」より

・西郷隆盛「示子弟詩」
幕末維新の書の典型、臭うような精気を放つ、西郷隆盛-1827~77-の書。
筆尖は紙に対して垂直に立ち、紙面上をうねうねぐねぐねと、のたうちまわる。連綿草書体で書かれているが、中国明末の連綿草と較べると、一点一画の書法、また筆の返しなどの正確さに乏しい。その意味では、禅僧墨蹟系の無法の書に属する。

小さく、しかし太く<世>を書いておいて、<俗>のイ部に向けて勢いよく長く引き出し、そのあとはヘアピンカーブを描いて旁に連続し、谷部の第1筆に移り、第2筆を書き終えた後、また垂直気味に第3筆の左ハライを書き、残りの筆画はうねうね蛇行させながら書き進める。和様の骨格をもちながら和様のように浮沈-痩肥-させないで、筆圧は一貫して高い。

必ずしも爽やかなものではない筆圧を伴った蛇行こそが本作の特徴であり、明治維新をもたらした力源である。

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/世俗相反處。英雄却好
/親。逢難無肯退。見利勿全循。
/齋過沽之已。同功賣是人。
/平生偏勉力。終始可行身。

・大久保利通「下淀川詩」
この大久保利通-1830~78-の作もまた、幕末維新の志士特有の書。うねうねぐねぐねと蛇行し、回転する筆蝕は西郷隆盛と同様。

しかし西郷が、どちらかと言えば横の水平動にアクセントを置くことよって、字形はやや縦長に構成される。また、西郷があまり強弱・抑揚を見せないのに対して、大久保のこの作では、第1行を強い筆圧の<爲>で始め<客京城感慨>と筆圧を弱め、第2行の<此夕意如何>では筆圧を強め大きく書いている。

第2行の強の<意如何>と第3行の弱の<鷗眠>、さらに第4行の強の<戴夢過>のコントラストは構築性に富んでいる。

<何>の擦れの縞模様は畳の理-め-の跡。筆は力の表現であるからこの、この畳理は筆圧と筆勢の強さを強調する効果をあげている。

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/爲客京城感慨多。孤舟
/此夕意如何。水關
/不鎖鷗眠穏。十里長江
/戴夢過。

―山頭火の一句― 行乞記再び -47-
2月8日、雨、曇、また雨、どうやら本降らしくなつた。

ひきとめられるのをふりきつて出立した、私はたしかに長崎では遊びすぎた、あんまり優遇されて、かへつて何も出来なかつた、酒、酒、酒、Gさんの父君が内職的に酒を売ってをり、酒好きの私が酒樽の傍に寝かされたとは、何といふ皮肉な因縁だつたらう!

-略- このあたりには雲仙のおとしごといひたいやうな、小さい円い山が4つも5つも盛りあがつてゐる、その間を道は上つたり下つたり、右へそれたり左へ曲つたり、うねうねぐるぐると伸びてゆくのである、だらけたからだにはつらかつたが、悪くはなかつた、しかしずいぶん労れた、江ノ浦にも泊らないで、此浦まで歩いて来た、

有喜の湊屋。
有喜近い早見といふ高台からの遠望はよかつた、美しさと気高さとを兼ね持つてゐた、千々岩灘を隔てて雲仙をまともに見遙かすのである。‥
-略- このあたりは陰暦の正月3日、お正月気分が随処に随見せられる、晴着をきて遊ぶ男、女、おばあさん、こども。

長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見隧道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚といふのがある。-略-

※表題句の外、3句を記す

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Photo/俳人去来の芒塚、向井去来は長崎出身

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Photo/諫早市早見あたりから千々岩灘をとおして望む雲仙

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Photo/現在の諫早市有喜漁港全景

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May 01, 2010

明けてくる山の灯の消えてゆく

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-表象の森- 書の近代の可能性・明治前後-1
石川九楊編「書の宇宙-24」より

近代革命の書-西郷隆盛、大久保利通、副島種臣ら幕末の志士たちは、<唐様>に日本型<墨蹟>の表現を注ぎ込み、太い字画からなるエネルギッシュな一群の特異な書を生んだ。これらの書は唐様+墨蹟という構造を持つことによって、江戸時代の儒者たちの書と同時に禅僧たちの書を乗り超え、相対化する構造を有していた。

・山岡鉄舟「粛疎遠岫雲林画」
明治維新期の志士たちの書の中でも禅僧墨蹟的表現性の強い、山岡鉄舟-1836~88-の書。とりわけ<遠>の後半部、そこから左回転で描き出される<山>部と右回転主体で描き出される<由>部からなる<岫>の、接触感と速度感のめざましい書きぶりは、この書を象徴する。筆圧は強いながらも伸びやかに展開する<粛疎>、擦れながら、やや軽めの筆圧で大回転を見せる<遠岫>、再び墨をつけて<雲林>に展開し、強い筆圧で捩じ込むように回転する<畫>-という具合に、ダイナミックな起承転結を見せる。効果的な筆の荒れを見せる<畫>も含めて見事な書だが、それが定型化した書法に堕しているところが、物足りない。

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/粛疎遠岫雲林畫

・高橋泥舟「五言二句」
渋滞・遅滞感を伴った泥舟-1835~1903-の書。枯れ枝のような筆画からなる痩身の<風>が、この書を象徴する。筆蝕-筆の進み方-が、平面に展開する以上に、槍を突き刺すかのごとく紙-対象-の奥に向かう。そのため<風>の第1画に見られるように、ひとつの字画が点の集合体のような姿で描き出される。しかも、本来は速い速度で書かれるところに生れる連綿草書体を、その遅い筆速で構成するため、筆蝕と速度にずれが生じ、そのずれが不思議な世界を生んでいる。さらに、その筆蝕が<葉>の草書体の第1.2画に見られるように直線的に-紙を離れた筆尖が高く上がらずに-進むため、運筆が抱きこむ平面的・立体的空間の小さな-懐の狭い-構成をもたらし、渋滞・遅滞感を見せている。

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/月明春葉露。雲
/逐度渓風。

 々  「戒語」
先の特異な草書の他に、虞世南の孔子廟堂碑風の、端正で穏やかな楷書も残している。草書と楷書の両者の落差に、一筋縄では捉えられない作者の姿が浮かび上がる。

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/蚯蚓内無筋骨之強。外無爪牙之利。
/然下飲黄泉。上墾乾土何。用心一也。
/人能一志事無不成。

―山頭火の一句― 行乞記再び -46-
2月7日、晴、肥ノ岬-脇岬-へ、発動船、徒歩。‥

第26番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、今日の記は別に書く、今日の句としては、-

※表題句の外、3句を記す

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Photo/肥ノ岬-脇岬-風景

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Photo/第26番札所円通山観音寺

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