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April 30, 2010

波止場、狂人もゐる

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-日々余話- 今月もまた‥

見てのごとく、今月も石川九楊の書史論ばかりが並ぶ。
「日本書史」は2001年9月刊、翌年の毎日出版文化賞。
彼はその序章の小論で「途中乗車し、途中下車した」日本の書史と、ユニーク且つ些かセンセーショナルな言い方をしている。
曰く「日本の書史は、中国を厚みと高さと広がりとする書史に楷行草の時代から途中乗車し、やがて日本は東アジア諸国ではいち早く近代化を達成することによって、また、書史からもいち早く途中下車したのである」と。

-今月の購入本-
石川九楊「日本書史」名古屋大学出版会

-図書館からの借本-
石川九楊編「書の宇宙 -19-変相の様式・流儀書道」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -20-近大への序曲・儒者.僧侶.俳人」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -22-古代への憧憬・清代諸家②」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -23-一寸四方のひろがり・明清篆刻」二玄社
石川九楊編「書の宇宙 -24-書の近代の可能性・明治前後」二玄社

―山頭火の一句 行乞記再び -45-
陰暦元旦、春が近いといふよりも春が来たやうなお天気である。

今日も食べるに心配はなくて、かへつて飲める喜びがある、無関心を通り越して呆心気分でぶらぶら歩きまはる、9時すぎから3時まへまで-十返花さんは出勤-。

諏訪公園-図書館でたまたま九州新聞を読んで望郷の念に駆られたり、鳩を観て羨ましがつたり、悲しんだり、水筒-正確にいへば酒筒だ-に舌鼓をうったり‥-。

波止場-出船の音、波音、人声、老弱男女-。
浜ノ町-買ひたいものもないが、買ふ銭もない、ただ観てあるく-。
ノンキの底からサミシサが湧いてくる、いや滲み出てくる。
上から下までみんな借物だ、着物もトンビも下駄も、しかし利休帽は俊和尚のもの、眼鏡だけは私のもの。-略-

長崎の銀座、いちばん賑やかな場所はどこですか、どうゆきますか、と行人に訊ねたら、浜ノ町でしようね、ここから下つて上つてそして行きなさいと教へられた、石をしきつめた街を上つて下つて、そして下つて上つて、そしてまた上つて下つて、-そこに長崎情調がある、山につきあたっても、或は海べりへ出ても。-略-

灯火のうつくしさ、灯火の海-東洋では香港につぐ港の美景であるといはれてゐる-。

※表題句の外、句作なし

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Photo/諏訪神社全景

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Photo/諏訪公園は長崎公演とも呼ばれる

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Photo/明治中頃の浜ノ町

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Photo/長崎の夜景

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April 29, 2010

すつかり剥げて布袋は笑ひつヾけてゐる

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-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-6
石川九楊編「書の宇宙-22」より

最後の書家-趙之謙

書の歴史をずっとながめていくと、明らかに、清代の書の中でも鄧石如から書は一変し、その雰囲気を維持しつつ、趙之謙で書は終ったという感を深めないではいられない。「逆入平出」という書法をいわば自動的、機械的な装置に変えた時、書は終ったのである。少なくとも伝統的な意味での書の美質の歴史は終焉した。

金農や鄭燮の書は小刻みに微動し、その力をたえず、対象との関係によって不断に再生し、補っていかざるをえない筆蝕の微分-微粒子的律動-の上に成り立つ。この書法は、三折法、九折法を裏側に貼りつけており、それは、三折法-接触と抵抗と摩擦と抉別-との相剋として出現し、筆蝕の微分をやめれば、いつでも三折法が顔を出す。これに対して、逆入平出においては、この装置そのものが、不可避に筆蝕の微分をオートマティックに発生させる。したがって、そこに表われる微分筆蝕は行き過ぎた機械化であり、歴史的累乗としての三折法との相剋を欠いた筆法ゆえに、安定し、乱れが少なく、それゆえいつでも一定の画一的な結果をもたらすが、それはいわば小細工にすぎず、袋小路へと迷い込むことになる。

・趙之謙-Chyoshiken-「楷書五言聯」

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/駭獣逸我右。/飢鷹興人前。


―山頭火の一句― 行乞記再び -44-
2月5日、晴、少しばかり寒くなつた。

朝酒をひつかけて出かける、今日は二人で山へ登らうといふのである、ノンキな事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は水筒二つを-一つは酒、一つは茶-、私は握飯の包を提げてゐる、甑-コシキ-岩へ、そして帰途は敦之、朝雄の両君をも誘ひ合うて金比羅山を越えて浦上の天主堂を参観した、気障な言葉でいへば、まつたく恵まれた一日だつた、ありがたし、ありがたし。

昨日の記、今日の記は後から書く、とりあへず、今日の句として、-
  寒い雲がいそぐ -下山-

※他に句作なし、表題句は2月4日記載の句

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Photo/長崎七高山の一、金比羅山から眺めた長崎港

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Photo/原爆で廃墟と化した浦上天主堂

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Photo/復興成った現在の浦上天主堂

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April 28, 2010

冬雨の石階をのぼるサンタマリヤ

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-表象の森- 和訓=文字の成立
山城むつみ「文学のプログラム」-講談社文芸文庫-より-2

「和訓の発明とは、はつきりと一字で一語を表はす漢字が、形として視覚に訴へて来る著しい性質を、素早く捕へて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だつた。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変へて了つた。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先づ、語の実質を成してゐる体言と用言の語幹との上に行はれ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音生の利用で補ふ、さういふ道を行く事になる。」 -小林秀雄「本居宣長」

ここには訓読について明晰かつ判明に書かれていることが三つある。
一つは、和訓の発明がいかに離れ業であったかについてである。文字というものを初めて経験した上代の日本人は、その「著しい性質を、素早く捕へて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する」ことによって、外来の文字がもつ「著しい性質」を和らげ隠蔽した。それはいわば、外傷を被りながら同時にこれを消去する放れ業である。

二つめは、和訓の発明によって漢字はその「形は保存しながら、実質的には、日本文字と化した」と言うことである。和訓の発明は漢字漢文の読み方である以前に、それ自体が「日本文字」の発明であった。訓読は読むための考案ではなく、書くための考案だったのである。

三つめは、漢字の形をそのまま保存しながら実質的にはこれを「日本文字」に転ずるという放れ業において訓読というプログラムがいかに作動していたか、またそのプログラムがいかに和「文」のシステムを形成していったか、その経緯についてである。小林によれば、放れ業は、まず体言と用言の語幹と上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補うという経緯をたどって、今日、書き下し文として知られるものに似た原型的な和「文」を形成していったのである。

―山頭火の一句― 行乞記再び -43-
2月4日、曇、雨、長崎見物、今夜も十返花居で。‥

夜は句会、敦之、朝雄二氏来会、ほんたうに親しみのある句会だつた、散会は12時近くなり、それからまだ話したり書いたりして、ぐつすり眠つた、よい一日よい一夜だつた。

友へのたよりに、-長崎よいとこ、まことによいところであります、ことにおなじ道をゆくもののありがたさ、あたたかい友に案内されて、長崎のよいところばかりを味はせていただいております、今日は唐寺を巡拝して、そしてまた天主堂に礼拝しました、あすは山へ海へ、等々、私には過ぎたモテナシであります、プルプロを越えた生活とでもいひませうか。-

※表題句の外、5句を記す

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Photo/唐寺の多い長崎、四大唐寺と称されるなかの最古の興福寺

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Photo/大浦天主堂

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Photo/ステンドグラスに映える天主堂内部

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April 27, 2010

けふもあたたかい長崎の水

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-表象の森- 日本語の構造
・山城むつみ「文学のプログラム」-講談社文芸文庫-より-1

「本当に語る人間のためには、<音読み>は<訓読み>を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているベンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
 どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも-もっと強調すべき点ですが-、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉-パロール-への距離を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。」 -J.ラカン「エクリ」

<音読み>が<訓読み>を注釈するのに十分であるというのはどういうことか。
「よむ」という言葉が話されるとき、読や詠、あるいは数・節・誦・訓という漢字を適宜、注釈しているということである。この注釈のため「読む」と「詠む」は、読という字と詠という字が異なるのと同じくらい異なる二つの言葉として了解される。日本語においては、文字-音読み-が話し言葉-訓読み-の直下で機能しこれを注釈しているのである。もちろん、話し手はそれを意識していない。その意味で、この注釈の機能は無意識のうちに成されていると言ってよい。

次に、「どこの国にしても、‥」以下の一文から読取らねばならないのは、すなわち、日本語が中国語という未知の国語から文字を借用し、日本語固有の音声と外来の文字とを圧着したということは、<音読みによる訓読みの注釈>を可能にしているのみならず、「無意識から言葉-パロール-への距離を蝕知可能に」もしているということである。外国から文字を借用したからこそ、日本語は音声言語の直下において文字言語を注釈的に機能させうるのだが、この機能により日本語においては無意識から話し言葉への距離が蝕知可能となるのである。

ここでラカンは、あえていえば、<日本語の構造そのものが、すでに精神分析的なのだ>と言っているにひとしいのだ。


―山頭火の一句― 行乞記再び -42-
2月3日、勿体ないお天気、歩けば汗ばむほどのあたたかさ。

だいぶ気分が軽くなつて行乞しながら諫早へ3里、また行乞、何だか嫌になつて-声も出ないし、足も痛いので-汽車で電車で十返花さんのところまで飛んで来た、来てよかつた、心からの歓待にのびのびとした。

よく飲んでよく話した、留置の郵便物はうれしかつた、殊に俊和尚の贈物はありがたかつた-利休帽、褌、財布、どれも俊和尚の温情そのものだつた-。

長崎はよい、おちついた色彩がある、汽笛の響にまでも古典的な、同時に近代的なものがひそんでいるやうに感じる。

このあたり-大浦といふところにも長崎的特性が漂うてゐる、眺望に於て、家並に於て、-石段にも、駄菓子屋にも。

思案橋といふのはおもしろい、実は電車の札で見たのだが、例の丸山に近い場所にあるさうだ、思切橋といふのもあつたが道路改修で埋没したさうだ。

飲みすぎたのか、話しすぎたのか、何や彼やらか、3時がうつても寝られない、あはれむべきかな、白髪のセンチメンタリスト!

※表題句の外、1句を記す

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Photo/現在の長崎市

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Photo/今は欄干のみを残す思案橋

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Photo/思切橋跡の碑

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April 26, 2010

寒空の鶏をたゝかはせてゐる

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※表題句は、2月1日記載の句

-世間虚仮- アメリカの貧困化

堤未果の「貧困大国アメリカⅡ」-岩波新書-を読む。

米国の構造的な貧困化問題を現場から丁寧に取材したルポではあろう。
全体を4章に分かつ。1にビジネス化した学資ローン問題、2は崩壊する年金等社会保障制度、3は医療保険問題と巨大化する医産複合体の実情、4に労働市場化していく民間刑務所の実態。

1と4が明快でストレートに分かり易いのは、構造的にあまり輻湊しないからだ。2と3は、問題の具体性はあるが、構造的問題を射程深く捉えきるには、紙数不足だろう。

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-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-5
石川九楊編「書の宇宙-22」より

・楊峴-Yohken-1819-1896

「隷書七言聯」
楊峴の書を象徴する隷書体。力のこもった伸びやかな傑作。
小刻みに震える無限微動筆蝕によって、字画が一次元的な線ではなく二次元的な面に広がり、また三次元的に奥行をもって立体的に広がり、さらにはうねりをもって紙-対象-に堀りこむようなリアルな速度を髣髴させる。<且>の最終横画、<就>の最終画、<同>の第一画、<盡>の最終画、<我>の旁部の右ハライと左ハライ、<此>の最終画など、長く長く伸びるのが楊峴のスタイルである。<同>の潤-滲み-に対する<游>の渇-かすれ-の対比も鮮明化している。

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/且就同游盡佳客。
/我知此公無棄材。

・虚谷-Kyokoku-1821-1896

「行書五言聯」
この隷書風の書では、一つの字画を往復運動で切り削るようなリズム法が仮構されている。
<石>の第一画を逆筆で起筆し、いっきに送筆・収筆まで掻き削り、それだけに終らず、隷書の波磔や右ハライのように、いったん左に戻り、ややベクトルを変えて再度ひきはらう。いわば往復書法とでもいうべきものだが、このリズム書法は、日本の戦後の書家青山杉雨らの書に継承された。

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/奇石貴一品。/好華香四時。

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街はづれは墓地となる波音

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-日々余話- Soulful Days-35- 子の罪、親の罪

つ-じ-blogとタイトルしたブログがある。プロフイール欄には、先ず氏名-これは間違いなく本名だ-を載せ、つづけて「大阪生まれのぐうたらなウエイクボーダーです。今年でプロ3年目です。ぼちぼちがんばってます。」とある。

更新ペースはいたって気まぐれでのんびりしたものだが、このブログの主、誰あろう、RYOUKOを死なしめた事故の相手、T.Kその人である。

ブログの存在を知ったのは偶然ではない。彼の父親と初めて面談-この折もちろん彼自身を伴ってのことだったが、彼は殆ど言葉らしい言葉を発していない-した時だったが、学生時代からウエイクボードなんてスポーツに嵌って、一年ほど前にプロ資格を取った、とそんなことを父親から聞かされたものだから、どんなスポーツかも知らなかったし、ネツトをググってみたら、当のブログに出会した訳である。
少しばかり拾い読みするだけで、まあ彼というその人となりはおよそ察しがつくし、生活習慣なども見えてくる、それ以上に何か情報を得ることもないから、以後は滅多にこのブログを覗くことはなかったのだが‥。

2.3日前に、ふとそんな気になって久しぶりに覗いてみたら、-イヤ、驚いた、魂消てしまった!

彼の刑事処分が略式とはいえ起訴と決したのは3月19日、簡易裁判所において30万円の罰金と略式命令があったのは3月23日だ。おまけに医師国家試験の合否発表は3月29日であった。
かような大事が連続している渦中に、彼は、このヤツガレは、なんと海外に、アメリカのフロリダで、のんびりと海に遊び呆けていたのである。それも3月16日に日本を発って、まる1ヶ月のあいだ遊びに遊んで、ようやくこの17日ご帰還になった、らしいのだ。

彼は12月に誕生日を迎えてすでに御年29歳だ、もうガキじゃない。それどころか新築高層マンションの46階でペットの犬1匹と優雅な独り住まい、むろん親名義の物件らしいが、4年前に竣工なったばかりのクロスタワー大阪ベイだ。おそらくこのマンション、7.8000万はしたろう代物だ。どこまでも脛かじりのトンデモ坊やだが、この件は先刻承知だったからこの際措くとして、この時期の1ヶ月のフロリダ・バカンスには、もう開いた口が塞がらない、子どもが子どもなら、親も親、どこまでも我が子を世間様の風雨に曝せないこの親の罪は深く、あまりあるというものだろう。

やはりどうしても、この子と親には鉄槌を降さねばならない、-けっして憎悪からではなく。

―山頭火の一句― 行乞記再び -41-
2月2日、雨、曇、晴、4里歩いて、大村町、山口屋

どうも気分がすぐれない、右足の具合もよろしくない、濡れて歩く、処々行乞する、嫌な事が多い、午後は大村町を辛抱強く行乞した。

大村-西大村といふところは松が多い、桜が多い、人も多い。
軍人のために、在郷人のために、酒屋料理屋も多い。
昨日も今日も飛行機の爆音に閉口する、すまないけれど、早く逃げださなければならない。
此宿はよい、しづかで、しんせつで、-湯屋へいつたがよい湯だつた、今日の疲労を洗ひ流す。
何だか物哀しくなる、酒も魅力を失つたのか!

-略- 大村湾はうつくしい、海に沿うていちにち歩いたが、どこもうつくしかった、海もわるくないと思ふ、しかし、私としては山を好いてゐる-海は倦いてくるが山は倦かない-。
歩いてゐるうちに、ふと、梅の香が鼻をうった、そしてそれがまた私をさびしい追憶に誘ふた。--略-

※表題句の外、1句を記す

大村町-現在は大村市だが、その海岸から2km先に浮かぶ簑島には長崎空港とともに海上自衛隊の大村航空基地がある。その前身は大正12-1923-年の大村海軍航空隊の開設に始まり、日中戦争における海軍航空部隊の重要な出撃基地であった。降って昭和20-1945-年には特攻隊の出撃基地ともなっており、島尾敏雄が奄美群島の加計呂麻島に赴任する前に志願し入隊したところでもある。

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Photo/当時の大村海軍航空基地

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Photo/大村市から望む大村湾夕景

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Photo/海の見える大村市松原の棚田風景

市内西本町の国道43号線沿、古くから町民に親しまれた、その名も「山口屋」という老舗の中華料理屋があるが、はたして山頭火が泊ったという旅籠と関わりがあるのかどうか‥。

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Photo/国道沿の中華店山口屋

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April 25, 2010

黒髪の長さを汐風にまかし

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-四方のたより- 小さな拍手

2週間ぶりの稽古、AYAがイギリスに発って、JUNKOだけの独りっぼっちの稽古が、この先2ヶ月ばかり続くことになる。

だが案ずるよりも産むが易し-、10分と12分半ほどの即興をやらせてみたが、やはりJUNKOの場合は、解放度の問題だということをつくづく思い知らされた時間だった。

理-ことわり-を意識下に沈ませ、ただ心身の感覚にゆだねるがごとく動くのが、彼女の場合ベストだ。そうして動きを綴っていったとしても一定の長さや質量に及んでくれば、おそらく場面の意識なり構成への志向なりが自ずと生れてこよう、そのときはそこへと心身-意識を投じていく‥。

2度目の即興をやり了えたとき、小さく拍手を贈ってやった。


-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-4
石川九楊編「書の宇宙-22」より

・何紹基-Kasyouki-1799-1873
「山谷題跋語四屏」
黄庭堅の「題跋」の語を書いたこの四屏は、何紹基の代表傑作。行書体だが、明代までの王羲之を典型とする行書体の姿とは、相当に異なっている。初唐代の楷書と較べて、<雨>や<軒>の横画の起伏が逆入し、かつ送筆が長く、そのため字形が方形に収斂する。行書を書いているにもかかわらず、隷書の書法が入り込んでいるからだ。隷書体を基盤とする筆蝕を、行草書体のように連続しつつ書字するところに生れた書である。

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/荊洲沙市舟中。久雨初霽。/開北軒。以受涼、王子飛兄
/弟來週。適有田氏嘉醞。/問二客。皆不能酒。而予自
/贊曰。能因濯古銅瓢。満/酌飲之曰。飲此即為子書
/匹帋。子予一挙覆瓢。因/為落筆不倦。 何紹基

・何紹基「西狭頌五瑞図題記」
隷書体で書かれているにもかかわらず、画一的で窮屈な感じはしない。「山谷題跋語」が隷書体の筆蝕を基調にして行書体を書いているのに対して、本書は隷書体に行草書体的連続性の筆脈を注いで書いているからだ。自然な筆脈による強弱の抑揚を見せる<治>、<龍>の偏部、<圖>などは見所。隷書体を書こうが、行書体を書こうが、碑学に硬直せず、逆入平出法など特殊な筆法至上主義に陥っていないところに、何紹基の独創的な位置がある。

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/君昔在黽池。脩治崤嶔
/之道。徳治精通。致黄龍
/白鹿之瑞。故圖畫其像。

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April 24, 2010

水音の梅は満開

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-日々余話- 寡黙なる巨人の訃報

  おれは新しい言語で
  新しい土地のことを語ろう
  むかし赦せなかったことを
  百万遍でも赦そう
  老いて病を得たものには
  その意味がわかるだろう
  未来は過去の映った鏡だ
  過去とは未来の記憶に過ぎない
  そしてこの宇宙とは
  おれが引き当てた運命なのだ

   -「新しい赦しの国」-詩集「歌占」より-

多田富雄の訃報を知ったのは22日の朝刊だった。それは全国版の社会面だったが、その記事の、意外に小さなことに、少しばかり驚かされた。
'01年に脳梗塞で倒れ、重い右半身麻痺と言語障害の後遺症を抱えた闘病生活のなかで、エッセイなど多くの著書を世に出した。

「免疫の意味論」と「生命の意味論」は、免疫学者として優れた業績を残した彼の生命理論だが、共に好著。

他に、私自身の読書録を振返れば、「生命へのまなざし-多田富雄対談集」、中村雄二郎と共編の「生命-その始まりの様式」、柳澤桂子との往復書簡「露の身ながら」、それに少年時代から小鼓を嗜み、晩年は数本の新作能をものした彼の能関連のエッセイ「能の見える風景」や「脳の中の能舞台」などがある。


―山頭火の一句― 行乞記再び -40-
2月1日、雨、曇、行程4里、千綿-長崎県-、江川屋

朝風呂はいいなあと思ふ、殊に温泉だ、しかし私は去らなければならない。

武雄ではあまり滞留したくなかつたけれど、ずるずると滞留した、ここでは滞留したいけれど、滞留することが出来ない、ほんにこの世の中はままにならない。

彼杵-ソノギ、むつかしい読みだ-まで3時間、行乞3時間、また1里歩いてここまできたら、降りだしたので泊る、海を見晴らしの静かな宿だ。

今日の道はよかつた、山も海も-久しぶりに海を見た-、何だか気が滅入つて仕方がない、焼酎一杯ひつかけて誤魔化さうとするのがなかなか誤魔化しきれない、さみしくてかなしくて仕方がなかつた。-略-
私はだんだん生活力が消耗してゆくのを感じないではゐられない、老のためか、酒のためか、孤独のためか、行乞のためか-とにかく自分自身の寝床が欲しい、ゆつくり休養したい。

新しい鰯を買つて来て、料理して貰つて飲んだ、うまかつた、うますぎだった。
前後不覚、過現未を越えて寝た。

※表題句の外、2句を記す

長崎県の大村湾東岸に沿って大村線が走る。路線距離47.6㎞、駅数は13、開業は明治31-1898-年だ。

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Photo/大村線の松原~千綿間の風景

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Photo/彼杵~千綿間を走る汽車

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Photo/彼杵の本陣跡、今は彼杵神社

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April 23, 2010

城あと茨の実が赤い

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※表題句は1月24日記載の句

-日々余話- Soulful Days-34- 若い検事と弁護士と

一昨日は、大阪地検へ参上して若い気鋭の検事と面談、午前10時から1時間半に及ぶ。
二日おいて今日も午前10時から、これまた若い国選弁護人と面談、此方は被告のMとともにだったからさらに時間を要してほぼ2時間。

被告Mの自動車運転過失致死傷事件の刑事裁判は、すでに第1回公判期日を5月7日に行うと決まっている。
まず検事と面談したのは、公判への被害者参加制度に則り、被害者遺族として裁判に臨むことを意思表示していたからだ。電話の声で察していたようにW検事は、審理段階の検事とはうってかわって、とても若い。少壮の青年検事という雰囲気だけに正義感に燃える理想家肌、原理原則を尊ぶといった気概が、言葉を交わすあいだに充分感じられた。

私がこの裁判に積極的に参加しようというのは、被害者遺族の立場から被告Mを強く告発したいからではなく、その真逆、彼を弁護し、なんとしても量刑の軽減を計らねばならぬ、むしろ被告席に立つべきはもうひとりの相手Tでなければならぬと、そう確信しているからだ。

地検の審理段階で、Mには減刑の嘆願書を出し、事故の重大な過失はTの無灯火と脇見にあると主張し、Drive Recorderを証拠資料として詳細に分析せよと、Tを告訴したにもかかわらず、結果は、事故当初から西署によって作成された調書がなんら見直されることもなく、この告訴によって動いたことといえば、検察当局としては審理の初期において、Tを不起訴に、Mには略式起訴で罰金刑に、と予断されていたにもかかわらず、Tを略式起訴に、Mには公判請求を、と相対的に量刑が嵩上げされるという、われわれ遺族が望みもしない結果を招来してしまったのだった。この結果については忸怩たる思いに囚われるのみで、一旦出来上がってしまった捜査当局の調書に改変を迫ることなど願うべくもなく、やはり捜査の壁、検察の厚い壁を前に、こちらの無力感ばかりがつのってはやり場のない思いに立ち往生といった躰だった。

そんなところへ届いたのが5月7日の公判期日の知らせ、ならば私に残された為すべきことといえば、なんとしてもMに下される刑を軽微なものにしなければならぬ、これに全力を注がねばならぬと思い定めての、一昨日と今日、検事と弁護人、相反する二者との面談だった。

今日会った若い国選弁護人、彼は、私のこうした振る舞い自体、本来ならMを訴追する検事側に立って、厳罰をと望むはずの被害者遺族が、まったく逆の立場で執拗に発言を繰り返すのに、戸惑いを隠せぬといった様子だった。考えてみればそれも無理はない。検事のほうは、審理段階から私が何を言い、どういう立場を採ってきたか、検察内部での申し送りもあれば、私が出した書面などの資料もあるから、予め予備知識がある。かたや現在のところ弁護人が知り得る材料は、検察より裁判所へ提出された訴追資料しかないのだから、面喰らうばかりというのも肯けることではある。ではあるが、事前にMを通して私も同席するからと伝えてあったのだから、もう少し想像力を働かせてしっかり腹を据えておけ、と言ってみたくもなるほどに、彼の応接はテキパキともせずまだ理解がついてこぬといった感に終始した2時間だった。

それにしても、交通事故における甲乙二者の過失に対する相対主義というあり方、それ自体が私には解らぬ、どうしてそうでなければならないのか。

これがたんに民事における損害賠償問題を解決しなければならない場合、過失割合を云々し、それに応じた賠償責任を互いに負担し合わなければならぬから、相対主義にならざるをえないだろうが、刑事責任を問おうとする場合、もちろん双方に過失が存在するであろうことはまちがいのない事実ではあろうけれど、警察の捜査や検察の審理が100%の事実関係を洗い出せるはずもないのに、帳尻を合わせるかのごとく合理性を求めて相対主義になぜ固執するのか。だからこそ、その結果、却って関係者各様に堪えきれぬような不条理な結末を負わせることになるのではないか、そう思えてならぬ。

ことここにいたって、私の思うところはこうだ。
Tの無灯火や脇見は、たしかに非常に疑わしい、疑わしいにちがいないが、これを完全に立証することは、これまた非常に困難でもあろう、さらにいまさら彼の供述を覆させることもまた難しい、したがってTに対しては、疑わしきは罰せずと落着させるしかない。彼が事実とは異なる軽微な罪で済んだとしても仕方がない、彼には別の反省の機会を求めようと思う。

さてMは、無灯火も脇見も疑わしいとはいえ立証ならず、Tが軽微な罪で落着したのだから、やはりMの過失は重く、その罪も過失相当に重くならなければならぬと、事態はこう運んでいるわけだが、そんなバカなことはない、相手には無灯火や脇見の疑いがどうしても残るのだ、ただ罰せないだけなのだ、当然に彼の問われるべき罪は軽微なものにならなければ、それこそ冤罪にも等しいことになるではないか、こんな不条理はとんでもないというものだ。


-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-3
石川九楊編「書の宇宙-22」より

<逆入平出法>
無限折法=無限微動筆蝕は、<逆入平出>というひとつの定法を獲得することになった。
<逆入平出法>とは、字画を書くときに、起筆部は逆筆にし、字画の前半部は「押し-筆尖先行、筆管後行の力と筆蝕の態様をいう-」、後半部は「引く-筆管先行、筆尖後行の力と筆蝕の態様をいう-ところの、一般的な書字法とは逆の書字運筆法である。
この書法を用いて、粘着質の強靱な筆蝕からなる、いわば脂っこい重々しい書が生れてくる。趙之謙の「楷書五言聯」などはその代表例である。

この逆入平出法によって筆尖と紙との間に生じる筆蝕の微細な劇を生き生きと想像するためには、セルロイドの下敷を手にして、机にひとつの字画を描くことを想像するとよい。「引く」ことに主律される「前半引き・後半押す」の一般的な順法においては、下敷は机を撫でるように進み、押し込むように終る。これに対して、「押す」ことに主律される「前半押し・後半引き」逆法においては、下敷は強くたわみ、「押す」ことによってガタガタガタと常法では生じない振動を始め、引き抜くように終る。いわば、この逆入平出法なるものは、筆尖を細かに振動させる無限折法=無限微動筆蝕を作りあげるための、一種の自動装置である。この書法に従えば、自動的に苦もなくきめ細かく微動する無限折法=無限微動筆蝕に近い筆蝕が得られるのだ。

・陣鴻寿-Chinkouju-1768-1822
「隷書五言聯」
水平や斜めに直線的に大胆に伸びる筆蝕が快い、魅惑的な隷書の作。
書の構成は、金農-伊秉綬-陣鴻寿のつながりで考える事ができる。それでも痩せた書線、水平に長く伸びた構成は、固有の表現。逆入蔵鋒などの小うるさい書法に拘泥せず、伸び伸びと書かれている。<蘊>などの艸部の軽やかな筆蝕、
糸部の愛くるしい図形的構成。<真>の第2画の収筆から第3画の起筆へ連続する滑らかな筆蝕、同第8画や<遇>の最終画のさっとペンキを刷毛塗りしたような伸びやかな筆蝕が見所。

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/蘊真陿所遇/振藻若有神

「蘇軾詩」
1960年代、日本の書壇で陣鴻寿風の書が流行したことがあるが、この書などいかにも現在の書展で条幅作品としてお眼にかかるような世界。構成は王羲之を拡張した宋代の黄庭堅らの構成を基盤にしながら、これをさらに拡張させている。たとえば<繁枝>に見られるように、潤渇-とりわけ極限に近い渇筆-の意識的構成に、現代書に通じる企図的表現が覗える。

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/湖面初驚片〃飛。尊前吹折
/最繁枝。何人會得春風意。
/怕見梅黄雨細時。

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April 22, 2010

枯山越えてまた枯山

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-世間虚仮- 4月穀雨の雪

郡山で雪が降る、とニユース映像が流れる。
強い寒気と低気圧などの影響で、福島県内は郡山市や白河市などで朝から雪が降っている。気温も上がらず午前11時々点、郡山市で0°4、白河市で0°6など真冬並みの寒さ、白河では11時現在3㎝の積雪を観測したらしい。東北山間部でも各地で雪だという。

昨今の異常気象つづきに、さして驚きもしなくなった自分自身に、ニュースを聞きながら、ふと思いが走った。

―山頭火の一句― 行乞記再び -39-
1月31日、曇、歩行4里、嬉野温泉、朝日屋

一気にここまで来た、行乞3時間。
宿は新湯の傍、なかなかよい、よいだけ客が多いのでうるさい。
飲んだ、たらふく飲んだ、造酒屋が2軒ある、どちらの酒もよろしい、酒銘「一人娘」「虎の児」。
湧出量が豊富だ-武雄には自宅温泉はないのにここには方々にある-温度も高い、安くて明るい、普通湯は2銭だが、宿から湯札を貰へば1銭だ。
茶の生産地だけあつて、茶畑が多い、茶の花のさみしいこと。

嬉野はうれしいの-神功皇后のお言葉-。
休みすぎた、だらけた、一句も生れない。
ぐつすり寝た、アルコールと入浴とのおかげで、しかし、もつと、もつと、しつかりしなければならない。

※表題句は、1月26日記載の句

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Photo/嬉野温泉、シーボルトの足湯
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Photo/井手酒造-2軒あったという造酒屋は1軒残るのみ

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Photo/その店の軒先にある山頭火の記念碑

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しんじつ玄海の舟が浮いてゐる

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※表題句は1月25日記載の句

-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬-2
石川九楊編「書の宇宙-22」より

伊秉綬-イヘイジュ-は、鄧石如ほど秦漢の文字の再現に満ち足りることはなく、むしろ、金農の後継者でもあるがごとくに、篆書とも隷書とも楷書ともつかぬ独創的な、これまた表現上のスケールの大きな書を残している。それだけにとどまらず、その篆書や隷書の書法は、伊秉綬の行書体や草書体の書の中にも環流し、これまたきわめて特異な行草書を残している。

・伊秉綬「魏舒伝節録」
文字の造型の奇抜さは隷書文語ほどではないが、文字を歴史的な規範に従って書くだけではなく、直線と曲線、○や△や□や×という図形的な視点から捉え返し、描き出す試みが生じている。<飮><酒><山><事>の一部に角を削いだ曲線的表現が見られ、<爲>や<漁>の点に○が、<飮><酒>の一部に△が、<酒>や<石>や<漁>に□を意識したと思われる表現。文字を幾何学的な図形のようなものとして見る視点の獲得によって、従来の書と異なった奇抜な造型が生じている。

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/飮酒石餘。著/韋衣。入山澤。/爲漁獵事。

・伊秉綬「行書戒語」
横画を水平にした、素朴なとぼけた味わい。<其芳><積金><積徳>作為的な筆画の連続も不思議な味を生む。伊秉綬のこの構成法は、長く東アジアに君臨してきた王羲之の集字聖教序の規範から脱している。この書は篆書や隷書の復興にとどまらず、行草書までもが王羲之の範を脱したことを宣言する、革命的な行草書である。もはや蛇行線の図形のごとき<遂>の辶部、篆書体を草書体のごとき筆蝕で書いた<與>など、見所である。

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/水之源遠。其流不竭。木之根/遂。其芳不歇。積金與子孫。不/如積徳。

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April 21, 2010

ぐるりとまはって枯山

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―山頭火の一句― 行乞記再び -38-
1月30日、晴、暖、滞在、宿は同前、等々々。

お天気はよし、温泉はあるし、お布施はたつぷり-解秋和尚から、そして緑平老からも-、どまぐれざるをえない。

一浴して一杯、二浴して二杯、そしてまた三浴して三杯だ、百浴百杯、千浴千杯、万浴万杯、八万四千浴八万四千杯の元気なし。

けふいちにちなまけるつもりだつたが、おもひかへして、午後2時間ばかり行乞。

よき食慾とよき睡眠、そしてよき性欲とよき浪費、それより外に何物もない!

とにかくルンペンのひとり旅はさみしいね。

※表題句は、1月26日記載の句

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Photo/武雄温泉楼門

武雄温泉のシンボルである上棟の楼門は、東京駅を設計した佐賀出身の辰野金吾によって、新館とともに大正4-1914-年に建てられたもので、新館は1973-S48-年までは共同浴場であった。両者とも新たに平成15年に復原され、ともに重要文化財に指定されている。

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Photo/武雄温泉新館

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April 20, 2010

ひかせてうたってゐる

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-世間虚仮- 水了軒の倒産

夕刊に、駅弁の水了軒-破産申し立て、の小さな記事。

明治21-1888-年創業というから、120年余の老舗企業だが、長期不況に加え、直近の1000円高速料の影響下で、とうとう倒産の仕儀にいたったという。ピーク時の'92年には売上高46億円を記録するも、バブル崩壊から下降線となり、'02年以降ずっと赤字が続いていたらしいが、負債総額3億3000万と意外に少額なのは、どうやら昨年のうちに不動産管理部門を別会社に譲渡していたからか、この時点ですでに倒産も秒読みになっていたと思われる。従業員90人、その家族を含めればけっして少なくない人々が路頭にまようことになるのだ。

帝国データバンクによれば、3月の企業倒産は1148件で7ヵ月連続の前年同月比減少というが、前年3月は1216件で同月比5.6%減とほんの微減に過ぎない。まだまだつづく深刻な不況、微かな明かりさえ見えない。

-表象の森- 清代諸家-古代への憧憬
石川九楊編「書の宇宙-22」より

・無限微動筆蝕と篆隷筆文字の発明
金農の時代に確立した新書法-無限折法=無限微動筆蝕-、それはどの瞬間でも小刻みに微動しており、小刻みに微動しているがゆえにいつでも停止しているともいえる運動で、いついかなる時でも、いかなる力-速度と深度と角度-で、いかなる方向へ進むことが可能になった書法であり、俄然書を面白くすることになった。それまでの三折法や多折法という折法によって必然的に限定づけられた構成と字形を解体し、一気に構成の幅を広げ、従来にない字形をもたらしたのである。

さらには、この無限微分折法=無限微動筆蝕によって、元来石や金属に彫ったり鋳込んだりするための書体として完成した隷書や篆書や金文を、毛筆によって再現的に書くことも可能になった。
たとえば鄧石如の「行書五言聯」に見られるスケールの大きな無限折法・無限微動筆蝕は秦漢代の篆書や隷書の姿を借りて出現し、篆書や隷書を、従来のような形だけの篆書や隷書ではなく、雄渾な確たる筆蝕を伴った筆書きの書体へとつくり変えた。換言すれば、鄧石如は毛筆書きの篆書体や隷書体を、いわば発明したのである。

・鄧石如「朱韓山座右銘」-1799年
書線が細く、きわめて厳密、厳格、整然、端正に篆書体が書かれている。その緊張感には凄みまで感じられるのは、筆蝕の露出が極限まで抑制されているからだ。

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/萬緑陰中。小亭避暑。/八闥洞開。几簞皆緑。
/雨過蝉聲。風來華氣。/令人自醉。

・鄧石如「行書五言聯」
筆蝕の無限微動を、波状のうねりの筆蝕として直截に露出させた書。一度眼にすると、忘れられない強烈な印象を残す書である。
波状にうねる筆蝕が紙面一杯に動きまわり塗り潰す。書かれた文字-文-よりも、表現された筆蝕-書-が第一義的であることは、紙幅に従って大きく、長く、もはや文字というよりも何かの図を描き出したような<龍>や<鶴>から明らか。

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/海爲龍世界。/天是鶴家郷。

―山頭火の一句― 行乞記再び -37-
1月29日、曇后晴、行程3里、武雄、油屋

朝から飲んで、その勢で山越えする、呼吸がはずんで一しほ山気を感じた。
千枚漬けはおいしかつた-この町のうどんやで柚味噌がおいしかつたやうに-。
解秋和尚から眼薬をさしてもらった-此寺へは随分変り種がやつてくるさうな、私もその一人だらうか、私としては、また寺としても、ふさはしいだらう-。

この寺は和泉式部の出生地、古びた一幅を見せてもらつた-蛾山和尚の達磨の一幅はよかつた-。
故郷に帰る衣の色くちて
    錦のうらやきしまなるらん
500年忌供養の五輪石塔が庭内にある。
井特の幽霊の絵も見せてもらつた、それは憎い怨めしい幽霊ではなくて、おお可愛の幽霊-母性愛を表徴したものださうな。

ここの湯-二銭湯-はきたなくて嫌だつたが、西方に峙えてある城山-それは今にも倒れさうな低い、繁つた山だ-はわるくない。

うどん、さけ、しやみせん、おしろい、等々、さすがに湯町らしい気分がないでもないが、とにかく不景気。

※表題句の外、句作なし

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Photo/飯盛山福泉寺への石畳

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Photo/福泉寺山門

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Photo/山頭火の記念碑

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Photo/現存する武雄の旅館油屋

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April 19, 2010

父によう似た声が出てくる旅はかなしい

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-世間虚仮- 8.82%!

イヤ驚いた、補選とはいえ、投票率が8.82%とは聞いたことがない、前代未聞の低率だろう。

昨日18日に投票された東広島市議補選での出来事だそうだが、有権者数は138,341人で、投票者数は12,204人だったと。この補選、当初は市長選挙と同日選の予定だったのだが、市長選が対立候補があらわれず無投票となってしまい、市民の関心が余計に削がれ、こんな結果になったと思われる。総務省では、全国各市町村の投票率まですべて把握しているわけではないらしく、歴代比較など判らないそうだが、きっと史上初の低率、新記録だろう

-山頭火の一句- 行乞記再び -36-
1月28日、朝焼、そして朝月がある、霜がまっしろだ。

今日一日のあたたかさうららかさは間違ない、早く出立するつもりだつたが、何やかや手間取つて8時過ぎになつた、1里歩いて多久、1時間ばかり行乞、さらに1里歩いて北方、また1時間ばかり行乞、そして錦江へいそぐ、今日は解秋和尚に初相見を約束した日である、まだ遭つた事もなし、寺の名も知らない、それでも、そこらの人々に訊ね、檀家を探して、道筋を教へられ、山寺の広間に落ちついたのは、もう5時近かつた、行程5里、94間の自然石段に一喝され、古びた仁王像-千数百年前の作ださうな-に二渇された、土間の大柱-楓ともタブともいふ-に三渇された、そして和尚のあたたかい歓待にすつかり抱きこまれた。

一見旧知の如し、逢うて直ぐヨタのいひあひこが出来るのだから、他は推して知るべしである。いかにも禅刹らしい-緑平老はきつと喜ぶだらう-、そしていかにも臨済坊主らしい-それだから臭くないこともない-。

遠慮なしに飲んだ、そして鼾をかいて寝た。-略-

をんな山、女らしくない、いい山容だつた。馬神隧道といふのを通り抜けた、そして山口中学時代、鯖山洞道を抜けて帰省した当時を想ひ出して涙にむせんだ、もうあの頃の人々はみんな死んでしまつた、祖母も父も、叔父も伯母も、‥生き残つてゐるのは、アル中の私だけだ、私はあらゆる意味に於て残骸だ!

此地方は2月1日のお正月だ、お正月が三度来る、新のお正月、旧のお正月、-お正月らしくないお正月が三度も。

共同餅搗は共同風呂と共に村の平和を思はせる。
勝鴉-神功皇后が三韓から持つて帰つたといふ-が啼いて飛ぶのを見た、鵲の一種だらう。
歩く、歩く、死場所を探して、‥首くくる枝のよいのをたづねて!

 飯盛山福泉寺-解秋和尚主董、鍋島家旧別邸-

山をそのままの庭、茅葺の本堂書院庫裏、かすかな水の音、梅の1.2本、海まで見える。
猫もゐる、犬もゐる、鶏も飼つてゐる、お嬢さん二人、もろもろの声-音といふにはあまりしづかだ-。
すこし筧の匂ひする水の冷たさ、しんしんとしみいる山の冷え-薄茶の点前は断はつた-、とにかく、ありがたい一夜だつた。

※表題句の外、句作なし

Photo/今は閉ざされたままの、山頭火が歩いた馬神隧道

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佐賀県の西部、多久市と北方町が接する標高200m前後の峰には,わずか1km四方の断面間に5本ものトンネルが抜けている。長崎自動車道の上下2本のトンネル,県道24号・武雄多久線の馬神トンネルに,旧県道の馬神隧道がそれらであるが、昭和3年に竣工したといわれる2代目の馬神隧道は、全面が鉄板で塞がれ中央には小さな鉄扉、3代目となる馬神トンネルが開通した1997-H9-年まで使われていた。

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Photo/和泉式部出生の伝説がある飯盛山福泉寺

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April 18, 2010

山路きて独りごというてゐた

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-日々余話- Antinomy

どうしたことか土、日と休日なのになんだか疲労を溜め込むような二日間だった。

9時過ぎに家を出て、KAORUKOとJUNKOを阿倍野区民センターへ送り込む。年に一度のピアノ教室の発表会だ。
その足で母校同の窓会館へ車を走らせる。遅刻するかと思ったが会議の始まる10時にギリギリ間に合った。
11時半を少し過ぎたあたりで勝手ながら退席させてもらって再び発表会の会場へ、なんとかKAORUKOの出演前に駆けつけることはできた。

夜は次兄と甥・姪たちの宴会、6時を15分ほどまわった頃に堂島の会場に着いたのだが、すでにみな揃っていて、今まさに乾杯が始まろうとしていた。
宴席に顔を出した途端、一足早くやってきたらしい息子のDAISUKEが一番手前に座っていた所為で、眼と眼が合ったが、声をかけるいとまもなくズイーと奥の次兄の座る横へと通された。
ちょうど次兄の二男KEIJI君が対面に座っていたので、飲み食いのさなか短いながらも問うべきは問い、少しは彼の本音の部分に触れ得たので、一応所期の目的は果たせた。
それにしても長い宴、此処でほぼ3時間を費やし、なお二次会で2時間、此方はスナツクの狭い部屋でカラオケばかり、もうこんなのとんと縁がないものだから心が疲れる。

どうにか午前様にはならずに家にたどり着いて、本を読むほどの気力もなく、横になるとすぐに寝入ってしまったが、なぜだか3時間ばかりで眼が覚めた。覚めたといっても茫としている、テレビを点ける、とろとろする、眼があく、本を手に取ってみる、またとろとろする、そんな繰り返しでいつのまにか空は明け出していた。

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Photo/KAORUKOのピアノ発表会

日曜の朝は、いつもなら揃って稽古に出かけるところだが、ずっと仕事に追われて溜まりに溜まったストレスで、アイスランドの火山爆発ではないが、もう暴発寸前とみえるJUNKOのたっての希望で、今日は休みとした。

そう決めていたから、私は事前に、事故問題の刑事裁判や民事訴訟の報告やら相談やらでIKUYOやDAISUKEと会うことを約していた。
9時半に家を出て、途中でDAISUKEを拾って波除のIKUYO宅へ。
この二人との会話は、事故直後から半年ほどを経た頃から、互いに齟齬も殆どなくなり、本音を露わに出せるようになってきている。それは歓迎すべきことにはちがいないが、私が別に家族を有している以上、IKUYOが独り暮しをしていることがどうしても心の負担ともなってくる。RYOUKOの事故のことで私が動けば動くほど、仕方のないこととはいえ、その問題とも直面せざるを得なくなっている。
オレは、お人好しなのか、それとも人がワルイのか‥。

―山頭火の一句― 行乞記再び -35-
1月27日、雨、曇、晴、行程3里、莇原-アザミバル-、若松屋

同宿の老人が早いので、私も6時前に起きた、9時まで読書、沿道を行乞しながら東へ向ふ、雨はやんだが風がでた、笠を吹きとばすほどである、ヨリ大声でお経をあげながら流して歩く、相当の所得があつたので安心する。

此地方はどこも炭坑街で何となく騒々しくてうるさい、しかし山また山の姿はうれしい、海を離れて山にはいったという感じはよい。

相地の街に、千里眼人事百般鑑定といふ看板がかけてあった。
ある商家の前でグラグラした、近来めづらしい腹立たしさであつた。
けふのおひるは饅頭一つだつた、昨日のそれは飴豆二つだつた-いづれもおせつたい-。
厳木-キウラギと読む-は山間の小駅だが、街の両側を小川がさうさうと流れてゐた、古風な淋しいなつかしいところだった。

宿のおかみさんが、ひとりで弾いて唱つて浮かれてゐる、一風変つた女だ、何だか楔が一本足らないやうにも思はれるが。
同宿3人、誰もが儲からない儲からないといふ。
ぐうたら坊主、どまぐれ坊主、どちらもよい名前だ。

※表題句の外、句作なし

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Photo/相知の見帰りの滝、日本の滝百選の一

嘗て相知町は炭坑町であった。三菱による相知炭坑が明治後期から開発され、隣町の厳木町岩屋などに炭住街が形成され、さらには付近一帯に新田開発の農業振興策も計られ、明治末~大正、昭和初期にいたるまで棚田の拡大期となったようである。

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Photo/日本の棚田百選の一、相知の棚田風景

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April 17, 2010

ふりかへる領巾振山はしぐれてゐる

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―日々余話― 古稀の人

次兄の誕生日は、たしか4月3日だった、満70歳、めでたく古稀を迎えたわけだ。

その細君は、私と同い年-今年66歳-だが、10数年前の交通事故が遠因となっていると目されるのだが、7.8年前から高次脳機能障害がみられるようになり、症状は歳月とともにどんどん進行し、すでに要介護度5の重症となって3年ほどになろうとしている。

家にはまだ次男と長女が同居しており、今なお小さな鉄工所を自営している次兄の留守のあいだ、彼らがディサービスに通う母親の世話をしているといった暮らしぶりなのだが、そうはいかなくなるのももう時間の問題で、その近づく跫音はどんどん大きくなってきているにちがいない。

そんな重荷を抱えてはいるのだが、生来楽天家気質なのか、いやそれも少しはあろうけれど、きっと次男ゆえの分を弁えるという親父からのかなり徹底した教育の影響が大きいのだろう、愚痴らしい愚痴もこぼさず穏やかなマイペースぶりで日々を過ごしているように、周囲には映る。

分を弁えるとは即ちすぐれて気配りの人、ということだ。
もうずっと彼は、年に1度か2度、甥・姪たちを一堂に集めては呑み会を主催し、かれこれ15.6年は続けている。主催というからにはもちろん万事彼の振舞いなのだが、ご相伴の相手、甥・姪といってもその筆頭は御年50歳になるという面々であるから、これはもう奇特というしかない。だが、振舞うほうの彼を奇特の人としても、振舞いを受ける甥・姪たち、こんなにいい年になってまでそんな功徳を受けるに値するかと自問自答もせぬのか、と傍目には思われるのだが‥。

そんな会も、実はずっと昔にその原形があった。身寄りといえば祖母一人という、そんな淋しい境遇で育った親父の、なればこそまるでその反動のように、遠い縁戚までも取り込むがごとき大家族主義で生涯をおくった、そんな生きざまのなかに、ひとつのモデルがあり、それを引きずっているといえばいえそうなのだ。

さて、そんな呑み会に、今夜、初めて私は顔を出すことにした。
そう決めて、なんだか、このところずっと書史論にばかり耽ってきた自分だが、これは一つの機会かもしれぬ、じかに書いてみよう、白い半紙にぶつけてみようと思い立った。
書の孰に通ったのは、小6から中1の、ほぼ1年間、いい先生だと思っていたが、他に関心がひろがりすぎて続かなかった。たった二文字の課題、「洗心」と書いたのだけがずっと心に残っている。

手本もない、書歴もない、ズブの素人の勝手流だが、気力だけは相応に費やした。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -34-
1月26日、曇、雨、晴、行程6里、相地、幡夫屋

折々しぐれるけれど、早く立つて唐津へ急ぐ、うれしいのだ、留置郵便を受けとるのだから、―しかも受け取ると、気が沈んでくる、―その憂鬱を抑へて行乞する、最初は殆ど所得がなかつたが、だんだんよくなつた。

徳須恵といふ地名は意味がありさうだ、ここの相地-Ohchi-もおもしろい。

麦が伸びて雲雀が歌つてゐる、もう春だ。

大きな鰯が50尾60尾で、たつた10銭とは!

-略- この地は幡随院長兵衛の誕生地だ、新しく分骨も祀つて、堂々たる記念碑が建ててある、後裔塚本家は酒造業を営んでゐる、酒銘も長兵衛とか権兵衛とかいふ‥-略-

第28番の札所常安寺は予期を裏切つて詰らない禅寺だつた-お寺の旁々は深切だつたけれど-、門前まで納屋がせり込んでゐて、炭坑寺といはうか。

どこを歩いても人間が多い、子供が多過ぎる。朝早いのは鶏と子供だ。

※表題句の外、3句を記す

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Photo/昭和5年に建立された幡随院長兵衛の記念碑

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Photo/その下流は松浦川に合流する徳須恵川

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April 15, 2010

港は朝月のある風景

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―世間虚仮― 麻薬と毒品

今朝の新聞「木語」欄によれば、日本で麻薬と総称されている覚醒剤やヘロイン、これが中国では毒品というそうな。

中国の刑法-第357条-は、毒品の売買を禁じており、毒品とはアヘン、ヘロイン、覚醒剤、モルヒネなどであると例示しているという。

嘗て阿片戦争で欧米列強による植民地化の危機に瀕した苦い教訓をもつ中国であってみれば、麻<薬>ならぬ<毒>品に対し、日本などとは比較にならないほど厳しく処する必然があるのだろう。

このところ話題となった、覚醒剤密輸の日本人4人がつづけて死刑執行されたのも、そういった背景を視野に入れないと理解を超えた所業となるが、それにしても隣国ながら彼我の落差は大きく隔たっている。

同様の毒品事件で中国当局に拘束・収監されている日本人がなお30人居るそうだ。今後も続々と死刑判決が出され、この問題まだまだ尾を引くことになる。


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Photo/海と山に囲まれた佐志界隈

―山頭火の一句― 行乞記再び -33-
1月25日、晴、行程3里、佐志、浜屋

一天雲なし、その天をいただいて、湊まで、1時間半ばかり行乞、近来にない不所得である、またぶらぶら歩いて唐房まで、2時間行乞、近来にない所得だつた、プラスマイナス、世の中はよく出来てゐます。

-略- ―2.3年前までは、15.6軒も行乞すれば鉄鉢が一杯になつたが-米で7合入-今日では30軒も歩かなければ満たされない。-略-

松浦潟―そのよさが今日初めて解つた、七ツ釜、立神岩などの奇勝もあるさうだが、そんな事はどうでもよい。山路では段々畠がよかつた、海岸は波がよかつた。

相賀松原もよかつた、そこには病院があつて下宿が多かつた。

今日の行乞相は、島ではあまりよくなかつたが、唐房、佐志ではわるくなかった、―たとへば、受けてはならない3銭を返し、受けなければならない5銭をいただいた。

鰯、鰯、鰯、見るも鰯、嗅ぐも鰯、食べるも、もちろん鰯である。-略-

呼子とはいい地名だ、そこには船へまで出かける娘子軍がゐるさうな。-略-

ゆつくり飲んだ、おかみさんが昨日捕れた黥肉を一皿喜捨してくれた-昨夜は鰯の刺身を一皿貰つたが-、酒はよくなかつたが、気分がよかつた。-略-

宿の娘―おばあさんの孫娘がお客の鮮人、人参売といつしよになつて家出したといふ、彼女は顔はうつくしいけれど跛足であつた、年頃になつても嫁にゆけない、家にゐるのも心苦しい、そこへその鮮人が泊り合せて、誘ふ水に誘はれたのだ、おばあさんがしみじみと話す、あなたは方々をおまはりになるから、きつとどこかでおあひになりませう、おあひになつたら、よく辛棒するやうに、そしてあまり心配しないがよい、着物などは送つてやる、と伝へてくれといふ、私はこころよく受け合つた、そして心から彼女に幸あれと祈つた。-略-

※表題句の外、1句を記す

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Photo/相賀の松原

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Photo/唐房の漁港

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April 14, 2010

朝凪の島を二つおく

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―日々余話― 一分の良心ありやなしや

論語に曰く「女子と小人とは養い難し、之を近づくれば則ち不遜、之を遠ざくれば則ち怨む」、都合が悪くなると手のひら返すも平気の平座、自分勝手で厚顔無恥な御仁にも、僅かに良心の欠片があるやもしれぬと、微かな期待を込めて文すれば、やたらだらだらと連綿綴り、以下の如く相成り候―

Hiromaiさん、先日はたいへんお疲れさまでした。
本番を迎えるまでの準備やら気苦労やらもなまなかのことではありませんが、いざ本番の日ともなると毎々のことですが、こういった催しは、スポットを浴びる出演者も大変なのはもちろんですが、裏方・下支え役にとってもほんとうに気苦労がたえませんネ。
それにしても、大勢の世話係を動員され、受付など表まわりの事務や配置は周到なもので、集団としてのチーム力や統率力、想像はしていましたが、相当なものですネ、些か驚かされました。

ただ、とにもかくにも、終演までの時間、これは予想をはるかに越えてかかってしまいましたネ。
このプログラムならば、きっと9時半まではかかるだろうと予測はしていましたが、10時を過ぎるとは思いもよりませんでした。
最初のプログラム、新曲披露がはじまったのが6時50分でしたが、その後のゲストの紹介、Harunosuke師匠やH.Keizoさんの挨拶で長引いたか、しめて25分ほど。
Yumiちゃんのオンステージがはじまったのは、すでに7時20分近くになっていましたが、これが60分弱でしたから、終ったのは8時20分頃。
そして5分ほどあとに、K.Hiroshiさんの登場。はじめに各テーブルのお客さんと握手をしてまわりましたが、これは彼のプロとしてのポリシイでもありましょう、ほぼ全員のお客さんと握手していきましたから、やっと舞台に上がって歌い始めたのは8時45分近くにもなっていたでしょう。それでやむなく予定曲をカットせざるを得なくなったのか、とにかく最後の「叩き三味線」を終えたのが、9時35分から40分頃だったのではないかと思います。
次にオールディーズが10分かかって、ふたたび新曲を唱うアンコールがはじまったのは、もう9時50分になっていたでしょう。そして終ってみれば10時をすでに10分ほどを過ぎ、始まりからゆうに4時間を越えたものとなってしまったのでした。

これほどの長丁場を、嗜好の異なった二様のお客、要するにK.HiroshiのファンとYumiのファンが、いわば同床異夢のように過ごしたわけですが、KさんのファンはYumiちゃんをそれほど期待もせずとくに観たいとは思っていなかったでしょう、いわば添え物お飾りのようなものです。もちろん同じように逆のことがYumiちゃんファンにも言えるでしょう。お互いのファンはみなさん終演までお付合いするのに、それはもう心身共に疲れ果てたであろうと、容易に想像されます。
とくにプログラム上、後ろに回ったK.Hiroshiのファン、この人たちはHiromaiさんと旧知の方が多いでしょうから、それはもうストレートに遠慮会釈なしにその不満をぶつける、歯に衣着せぬはげしい攻撃の言葉がさまざま、Hiromaiさんに飛んできたのではないでしょうか。
また、集客の数も思ったほどには伸びず、準備万端整ってきた直近には、かなりの赤字が出ることも明らかになってきていたことでしょう。
具体的なことはまったく存じ上げませんが、私自身のわずかな経験に照らしても、結果として50万近いほどのマイナスになるのではないかと、余計なこととはいえそんな心配が脳裏をかすめています。

ふりかえれば、10月のYumiちゃんのディナーショーの直後から企画され、準備が始まって、半年近くかけあれこれと苦労を重ねてこられたわけですが、やっと幕を降ろしてその重荷から解放される筈の今、Hiromaiさんはそんな解放感に浸れるどころか、その逆、四面楚歌の心境で、出演の両者にはもちろんのこと、関係者にも、お客さんにも、とにかくみなさんに喜んで貰おうと一所懸命にやってきたのに、結果はご自分に批難や攻撃が集中している、そんなバカなことにどうしてなるんだと、悔しいやら哀しいやら、やり場のない割りきれない想いが渦巻いているのではないでしょうか‥‥。

ただ、少し冷静になって思い返してみると、「翔く二人」と名付けたこの企画、K.HiroshiとYumiを、対等に並べたように見えること自体に、そもそも問題があったのでしょうネ。とりわけKさんの関係者やファンの方々には、その時点で反感を買う火種となっていたのではないかと思われます。
そのうえ、私も出席した、プログラムについての打合せの際、T社長の主張、KさんとYumiちゃんの共演シーンを作らないこと、お互いの歌の場面を交互に挟みながら進行させないで、各々個別にオンステージを行うこと、そしてその場合、大先輩としてのプライドもあるでしょうが、当然にYumiちゃんが先、Kさんが後に回るという順になること、そういう骨子にならざるを得なかった時点で、Kさんサイドやファンの方々にとってはマイナスにしかはたらかない、いい結果にはならないと予測できたのではないでしょうか、そんな気がします。

私とすれば、この打合せの席で感じたことは、これはもう大変だなあ、こういうプログラムで行うかぎり、わざわざ観に来られるお客さんにとっては、心理的にとても負荷のかかる会になってしまうなあ、とはいえ私自身の立場は、そうなるとしても少なくともYumiちゃんファンの方々に少しでも納得してもらえること、その工夫に全力を傾注することが課題となるわけで、全体の構成や問題に口を挟むのはそれこそ越権行為、出過ぎた余計なお世話となるでしょうから、その点においては見ざる言わざる聞かざるになるほかはなかったのですネ。
そんな口の重い私の姿勢や態度なりが、KさんサイドやHiromaiさんに、いろいろと不快感を与えたのではないかと推量もされ、些か心苦しく申し訳ないとは思いながらも、立場上やむをえない仕儀だったかとも思っております。

最後になりましたが、今、Hiromaiさんがどのような考えや心情にあられるか、ちょっと想像はつきませんが、これに懲りず、持ち前の旺盛な気力で、また新たな企画に邁進されることを祈りおります。
いずれまたお会いする機会があれば、其の折はよろしく、お手柔らかに願います。
末尾になりましたが、ご主人にもどうかよろしくお伝えください。太鼓や三味線の椅子など、転換の出し入れに協力願いましてありがとうございました。
猶、印刷費の領収証を同封致しましたので、どうかご査収ください。
 ―4月11日深夜記す

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Photo/名護屋城趾風景と名護屋城復元模型

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―山頭火の一句― 行乞記再び -32-
1月24日、小春、発動汽船であちこち行乞、宿は同前

早く起きる、何となく楽しい日だ、8時ポッポ船で名護屋へ渡る、すぐ名護屋城趾へ登る、よかつた。-遊覧地じみてゐないのがよい、石垣ばかり枯草ばかり松ばかり、外に何も残つてゐないのがよい、ただ見る丘陵の起伏だ、そして一石一瓦ことごとく太閤秀吉を思はせる、さすがに規模は太閤らしい、茶店-太閤茶屋-ただ一軒の-老人がいろいろと説明してくれる、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、大手搦手、等々々、外濠は海、内濠は埋つている、本丸の記念碑-それは自然石で東郷元帥の筆-がふさはしい、天主台は15間、その上に立って、玄海を見遥かして、秀吉の心は波打つただらう、その傍らにシヤンがつつましく控えていたかも知れない。

後方の山々には日本諸国の諸大名がそれぞれ陣取って発露としただらう。
私は玄海のかがやきの中にを豊太閤の姿を見た。-略-

2時間ばかり漁村行乞、ありがたいこともあり、ありがたくないこともあつた。
12時近くなつてまた発動汽船で片島へ渡る、1時間ほど行乞、蘭竹の海岸づたひに田島神社へ参拝する、ここに松浦佐用姫の望夫石がある、祠堂を作つて、お初穂をあげなければ見せないと宮司がいふ、それだけの余裕もないし、またその石に回向して、石が姫に立ちかへつても困るので堂の前で心経読誦、そのまま渡し場へ急いだ、ここでも水を飲むことは忘れなかつた。

呼子へ渡されたのは2時、あまり早かつたので、そして今日は出費が多かつたので-渡船3回で30銭、外に久し振りにバツト7銭、判をいただいてお賽銭5銭など-1時間行乞、宿に帰つて、また洗濯、また一杯、宿のおかみさんが好意を持つてくれて鰯の刺身一皿喜捨してくれた、私も子どもに1銭2銭3銭喜捨してやつた。-略-

呼子町の対岸には遊女屋が10余軒、片島にも4.5軒あった、しかし佐用姫の情熱を持つたやうな遊女は見当らなかつた!
石になるより銭になる、石になれ、銭になれ、なりきれ。-略-

同宿のテキヤさん、トギヤさん、なかなかの話上手だ、いろいろ話してゐるうちに、猥談やら政治談やら、なかなか面白かつた、殊にオツトセイのエロ話はおかしかつた。-略-

※表題句の外、4句を記す

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Photo/三女神-多紀理毘賣尊・市杵島比賣尊・多岐津比賣尊-を祀る呼子の田島神社とその遠景

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April 13, 2010

蘭竹もかれがれに住んでゐる

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-日々余話- Soulful Days-33- 一矢報いるか?

昨日、知友でもある衆議院議員熊田あつし君宛と、厚生労働省医政局医事課試験免許室宛に、以下の書面を簡易書留にて送付した。

<医師免許交付に係る、請願書>
 厚生労働大臣 長妻昭 殿
第104回医師国家試験受験者、T.K儀
  昭和×年×月×日生
  住民登録上の住所:奈良県生駒市萩の台×丁目×番×号
  現住所:大阪府大阪市港区弁天×丁目×番×号 
 この者は、平成20年9月9日、午後8時15分ころ、大阪府大阪市西区境川1丁目6番29号先路上において、MKタクシー乗務員M.Kの運転する車と衝突事故を起こし、同車後部座席の乗客H.Rを死傷(9月14日死亡)せしめた者です。
 この者の、さらに不届きなことは、過失致死傷という重大事故当事者でありながら、事故直後より意識不明、急性硬膜下血腫及び脳浮腫を起こし、瀕死の床にあった被害者を一顧だにすることなく、ひたすら自らの保身のみを図り、また自身の過失をいっさい認めようとせず、事故管轄署の事情聴取に対して専念先行し、自身に有利な事故調書となるよう事実と異なる供述をなし、事故原因の真相を闇から闇へと隠蔽せしめた疑いがきわめて高いことであります。
 よって、この者の医師国家試験における合否のほどは知る由もありませんが、医師免許交付の差止め等、適切なるご処置を執られますよう、以下列記の関係資料を添えて、旁々お願い申し上げます。
 添付関係資料
  一、処分通知書の写し、1通
  二、通知書(略式命令決定)の写し、1通
  三、交通事故証明書の写し、1通
  四、告訴状(大阪地方検察庁宛)の写し、1通
 平成22年4月12日   署名押印

今夕、熊田あつし議員から電話、私からの書面を読んで、すぐさま動いてくれたらしい。曰く、国会の常任委員会である厚生労働委員会の理事を務める民主党議員に書面を託した、とのこと。託されたほうの議員は、請願の趣旨は尤もなこと、関係法に照らしてあるべき措置を取るように善処する、と言ってくれたらしい。いずれにせよ、あらためて回答がある由。

さかのぼって、Tが今年の医師免許国家試験を受験することになったと聞かされたのは、Tの父親からで、2月12日のことだった。その週の火曜日-2/9-だったか、昨秋以来、彼から連絡があり、会いたいとの申し入れでこの日の対面になったのだった。この席で、Tが検察から出頭の呼出しがあり、翌週の火曜日-2/16-に出向くことになっていると報告を受け、そんな話にも及んだのだったが、試験日がいつのことなのか尋ねもせず、知らぬままに別れた。

夜になって、はてその試験はいつのことかと調べてみて、またまた愕然とさせられた。なんと、21年度の試験実施は2月13.14.15の3日間とあり、翌日からではないか。おまけに試験を終えた翌る日に検察へ出頭だと、試験の前日に会おうなどと、こんなタイミングでよくもまあヌケヌケと、さすがにカッと頭に血が上って、すぐさま父親に電話した。有無を言わさず、明日、もう一度出てこい、と。

合否判定の発表は3月29日となっていた。
大阪地検が起訴処分を決定したのが3月19日、簡易裁判所が罰金30万円の略式命令を下したのが3月23日である。
医師法によれば、罰金刑を含む前科ある場合は、医師免許受験資格の欠格事由となることが明記されている。されてはいるが、その刑罰の軽微なる場合、担当教授などの嘆願書などが添えられ、且つ合格点に達していれば、免許交付において一定期間の保留処分とされるにすぎない。

医学部6年の学業を終えたにもかかわらず、学生時代の遊び暮しが嵩じてか医師免許の試験も受けず、ウェイクボードのプロになって3年、4年と気ままに放蕩してきた輩が、人ひとり死なしめる大事故を起こした挙句、将来を憂慮する父親たちの説得の前に、さすがに自身も将来不安を感じてか、医学博士の資格を取りにかかったということだが、それがこのタイミングか、あまりにも出来過ぎていて、此方はただただ開いた口が塞がらないというしかない。

合否判定の結果は、固有名など判るはずもないが、統計的な数値のみ公表されている。
受験者数8,447名、合格者数7,538名、合格率は89.2%と高率だ。
この内、新卒の受験者7,701名、同合格者7,147名で、合格率は92.8%となっている。
ならば、746名の新卒以外の者が受験し、内合格者は391名となるから、合格率は52.4%とぐんと下がる。いかに現役有利であるか一目瞭然だが、さりとて5割を越える合格率ならば、受験勉強などロクにしている筈もない遊び人の奴とてはずみで受からぬこともない。おめおめとただ座視しているわけにはいかぬと、厚生労働省への直訴と相成ったのだが、この請願を必ずや担当部局に採り上げさせるには実力行使に及ぶしかないと、前回の選挙でめでたく議席を得た知友を頼った次第である。

―山頭火の一句― 行乞記再び -31-
1月23日、雨后晴、泥中行乞、呼子町、松浦屋

波の音と雨の音と、そして同宿のキ印老人の声で眼覚める、昨夜はアル注入のおかげで、ぐつすり寝たので、心身共に爽やかだ。

とうとう雨になつたが、休養するだけの余裕はないので、合羽を着て8時過ぎ出立する、呼子町まで2里半、11時に着いて2時半まで行乞、行乞相もよかつたが、所得もよかつた。

呼子は松浦十勝の随一だらう、人も景もいい感じを与へる、そしてこの宿もいい、明日も滞在するつもりで、少しばかり洗濯をする。

晴れて温かくなつた、大寒だといふのに、このうららかさだ、麦が伸びて豌豆の花が咲く陽気だ。
私でも-私の行乞でも何かに役立つことを知つた、たとへば、私の姿を見、私の声を聞くと、泣く児が泣くことをやめる!

中流以上の仕舞うた屋で、主婦もご隠居もゐるのに、娘さん-モダン令嬢が横柄にはじいた、そこで、私もわざと観音経読誦、悠然として憐笑してやつた。-略-

今日は郵便局で五厘問答をやつた、五厘銅貨をとるとらないの問答である、理に於ては勝つたけれど情に於て敗けた、私はやつぱり弱い、お人好しだ。-略-

※この日句作なし、表題句は1月6日記載の句

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Photo/現在の呼子湾全景と、平成元年に開通したという呼子大橋

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April 11, 2010

松風のよい家ではじかれた

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-表象の森- SatieもPaganiniも

いつもの稽古だが、いつもとは違う、今日の稽古でAyaは2ヶ月あまり遠離ることになるのだから、入念にとはいかないまでも、しっとりした気分で、いい時間が送れればいい。

Ayaはちょつぴり昨日の疲れを残し、Junkoにいたってはとくに3月はじめからずっと残業ばかりの仕事の疲れを貯めに貯め込んで鉛のように重くなった身心といった気配が否応なく伝わってくる。

こんな状態では稽古になる筈もない、のだけれど、どっこいそんなことはない。
Satieもいい、Paganiniも、これまたとてもいい。

Satie、即興とはいえ、動きを工夫していくことにかけては、その契機となりうるあらゆる音の刺激が、それはもう次から次へと繰り出されてくる。だからボロ布のような状態の身心においても、音が鳴り出すとちゃんと点火のスイッチがONになる。

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Paganiniの難曲と云われる「24Capricci」、これは神尾真由子の演奏のものを使っているが、このヒステリックなまでの超絶技巧のViolin曲は、いま凝っている石川九楊の書史論に重ねれば、あらゆる多折法を含み込んだ無限微動筆蝕の世界に擬えようか。とにかく凄い、過激なまでに想像力を羽搏かせ、即興世界を未到のものへと誘い出してくれるような、そんな力がある。

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今日も SatieとPaganiniのお蔭で、ちょっといい稽古になった。


―山頭火の一句― 行乞記再び -29-
1月22日、晴、あたたかい、行程1里、佐志、浜屋

誰もが予想した雨が青空となつた、とにかくお天気ならば世間師は助かる、同宿のお誓願寺さんと別れて南無観世音菩薩。‥

ここで泊る、唐津市外、松浦潟の一部である、このつぎは唐房-此地名は意味深い-それから、湊へ、呼子町へ、加部町へ、名護屋へ。

唐津行乞のついでに、浄泰寺の安田作兵衛を弔ふ、感じはよろしくない、坊主の堕落だ。
唐津局で留置の郵便物をうけとる、緑平老、酒壺洞君の厚情に感激する、私は-旅の山頭火は-友情によつて、友情のみによつて生きてゐる。

-略- 松浦潟の一角で泊つた、そして見て歩いた、悪くはないが、何だかうるさい。-略-

緑平老の肝入、井師の深切、俳友諸君の厚情によつて、山頭火第一句集が出来上るらしい、それによって山頭火も立願寺あたりに草庵を結ぶことが出来るだらう、そして行乞によつて米代を、三八九によつて酒代を与へられるだらう、山頭火よ、お前は句に生きるより外はない男だ、句を離れてお前は存在しないのだ! -略-

※句作なし、表題句は1月19日記載の句

ここに触れられている、安田作兵衛とは何者かと探ってみれば、宝蔵院流の槍の使い手で、明智光秀の家臣斉藤利三の配下として、本能寺の変で織田信長に一番槍をつけ、森蘭丸を討った武将らしく、此の時弱冠21歳。ところがこの男、その後の有為転変がなかなかに揮っており、エピソード満載の御仁のようだ。その最後は旧知の間柄だった唐津藩主8万石藩主沢広高の元に身を寄せていたが、頬に酷い腫物を患ってしまい、これを琴の糸で縛って3度抜き取ろうとしたがうまくいかない、はるばる草津の湯にまで湯治に出かけたもののこれまた治らず、挙句の果て怒って自害した、という。なんとその命日が6月2日、奇しくも本能寺の変が起こった日、これが因果応報とばかり信長や蘭丸を殺した酬いだと後世の語り草となったようだ。以下のサイトに詳しい。
http://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/jiten/yasudasakubei.htm

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Photo/浄土宗知恩院派、清涼山浄泰寺

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April 10, 2010

けふのおひるは水ばかり

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-四方のたより- 警官出動

「咲RUN成田屋」、このたびはデカルコ・マリィ、なぜだか十八番を踊った。そのためであろう、午後4時半と7時半の本番2回のみとなったので、KAORUKOを連れて4時過ぎから滞在したこの身には、長丁場の休憩タイムをやり過ごすのにひと苦労。

プロットが出来上がっている出し物だけに、Ayaにとっても出番が限られ、フリーハンドもあまり利かないとあっては、些か消化不良に終ったことだろう。

おまけに夜の部では、Performanceもたけなわといったあたりで、まあご苦労なことに、警官殿が3人もご出動あそばした。近隣から苦情が出たか、そんな通報があれば、とにかく駆けつけない訳にはいかない、成田屋の亭主らとひと悶着しているのを尻目に続けられはしたが、後半は端折ったものとなってしまった。共演者たちは汗を掻くほどもなく、さぞ燃焼不足であったろう。

Violaの大竹徹君の馴染みの客、50半ばほどかとみえるその女性が、なんと昔をよく知る田村正仁君の妹だと聞いて驚き。だがそう聞けば、なるほど面立ちがよく似ており、まこと血は争えぬといたく感心。しばし昔話に花を咲かせた。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -28-
1月21日、曇、いよいよ雨が近いことを思はせる

貯へを持たないルンペンだから、ぢつとしてはゐられない、9時半から3時半まで行乞。

近松寺に参拝した、巣林子に由緒あることはいふまでもない、その墓域がある、記念堂の計画もある、小笠原家の菩提所でもある、また曾呂利新左衛門が築造したといふ舞鶴園がある、こぢんまりとして気持ちのよい庭だつた。

今日は市議選挙の日、そして第60議会解散の日、市街至るところ号外の鈴が響く。
唐津といふ街は狭くて長い街だ。

この宿はしづかできれいであかるくていい、おそくまで読書した、久しぶりにおちついて読んだ訳である。

毎日、彼等から幾度か不快を与へられる、恐らくは私も同時に彼等に不快をあたへるのだらう-それは何故か-彼等の生活に矛盾があるやうに、私の生活に矛盾があるからだ、私としては、当面の私としては、供養を受ける資格なくして供養を受ける、-これが第一の矛盾だ!-酒は涙か溜息か、-たしかに溜息だよ。

※句作なし、表題句は前日記載の句

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Photo/巣林子こと近松門左衛門由縁の近松寺門前と墓所

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April 09, 2010

山へ空へ摩訶般若波羅蜜多心経

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-四方のたより- 推参!「咲RUN成田屋」

この月半ばから、Ayaがイギリスへと旅立つ。行先は西部のウェールズ地方とか、2ヶ月余り滞在してくるといっている。

ならば、送別会代わりに何かないかと考えて、ちょうど頃合いもよしとばかり、デカルコ・マリィたちの成田屋路上Performanceに押しかけて踊ることにしよう、ということになった。踊りのあとは、しばし別れの飲み会となって、またとない餞別となろう。

と、そんな次第で、明日の「咲RUN成田屋」にはAyaも推参、いつもの面々に加えての飛入り出演となる。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -27-
1月20日、曇、唐津市街行乞、宿は同前

9時過ぎから3時頃まで行乞、今日の行乞はは気分も所得もよかつた、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。

ここの名物の一つとして松露饅頭といふのがある、名物にうまいものなしといふが、うまさうに見える-食べないから-、そしてその本家とか元祖とかいふのが方々にある。

小鰯を買つて一杯やつた、文字通り一杯だけ、昨夜の今夜だから。

晩食後、同宿の鍋屋さんに誘はれて、唐津座へ行く、最初の市議選挙演説会である、私が政談演説といふものを聴いたのは、これが最初だといつてもよかろう、何しろ物好きには違ひない、5銭の下足料を払つて11時過ぎまで謹聴したのだから。

※表題句の外、1句を記す

文中、山頭火が「政談演説を聴くのは最初だ」というのに些か怪訝な思いがした。というのも近在きっての大地主であった防府時代の種田家の当主であった山頭火の父竹治郎は、明治後半から大正期、当時の資産家地主らにありがちだったのは、地方政治家などのパトロンとなって放蕩や贅沢を繰り返し家産を傾ける者が多く、彼には女道楽もあるにはあったが、いわば政治家のタニマチ筋としてずいぶん活躍したらしく、大種田没落の主因はこちらのほうであった筈だからだ。

だが、山頭火が上京して早稲田に通うようになった頃は、すでに学資の送金も滞りがちであったとされるから、竹治郎もかようなパトロンどころではなく、そんなタニマチ世界からはもう遠離っていたのだろう。山頭火の少年期の記憶のうちにそんな父親像が残っていたとすると、初めてという演説会に接しながら、ふと父親のことが脳裏に浮かんでは、複雑な想いが去来したのではなかったか‥。

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Photo/現在の唐津市街を遠望する

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Photo/唐津名代の松露饅頭

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April 08, 2010

松に腰かけて松を観る

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-日々余話- 澪標、一枚の原稿

毎年2月の第1土曜日を開催日と定め、今年は3度目となった新年会。2月6日の夕刻、所は梅田界隈のがんこ阪急東通店、集った期友36名、総会に比べるととけっして多くはないが、一年振りの語らいの宴に和気藹々と思い思いの談笑に花を咲かせた。

私たち高校15期生の同窓会は「市岡15期会」と略称している。十五の春の高校入学から数えればすでに半世紀を経た―なんと今春の新入生は65期生となるのだ―が、今から7年前、卒業40年紀となった総会開催を機に、幹事会も拡大充実、同窓会の活動がずいぶんと活発化している。

総会は3年毎開催を一応の目安にしているが、年毎に例会あるいは冒頭に紹介のごとく新年会を催し、さらには期友同好の集いも生まれ、春秋開催のゴルフの会や、近郊の山野旧跡を訪ね歩く会が隔月ペースで催されるなど、横の繋がりは歳経るほどにひろがり、また密なものにもなってきている。むろんクラス別においても同窓会を催す例はさまざまあり、幹事会席上その報告に接することもしばしばである。

こうして期友と接することの重なるにつれ、65歳のそれぞれの来し方、とりどりの半生が固有の色を帯び、くっきりと像を結んでは縒り合わされ、やがて一枚の布へと織りあげられてゆく。それは絢爛豪華などという形容からはまるで遠いものだが、青春の残照に映えて美しくまた哀しく、愉しくおもしろくまた時に苦くもあり、歳古ればこその滋味あふれた図柄を顕す、唯一無二、それぞれのたった一枚の画となり胸深く刻み込まれていくのだ。

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Photo/新年の宴模様-09年-

―山頭火の一句― 行乞記再び -26-
1月19日、曇、行乞2里、唐津市、梅屋

午前中は浜崎町行乞、午後は虹の松原を散歩した、領巾振山は見ただけで沢山らしかつた、情熱の彼女を思ふ。

唐津といふところは、今年、飯塚と共に市政をしいたのだが、より多く落ちつきを持つてゐるのは城下町だからだらう。

松原の茶店はいいね、薬罐からは湯気がふいてゐる、娘さんは裁縫してゐる、松風、波音。‥
受けとつてはならない一銭をいただいたやうに、受けとらなければならない一銭をいただかなかつた。
行雲流水、雲のゆく如く水の流れるやうであれ。-略-

虹の松原はさすがにうつくしいと思つた、私は笠をぬいで、鉄鉢をしまつて、あちらこちら歩きまはつた、そして松-松は梅が孤立的に味ははれるのに対して群団的に観るべきものだらう-を満喫した。

げにもアルコール大明神の霊験はいやちこだった、ぐつすり寝て、先日来の不眠をとりかへした。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/領巾振山から見た虹の松原

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Photo/領巾振山こと鏡山

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Photo/佐用姫岩から望む鏡山

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April 07, 2010

波音の県界を跨ぐ

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-表象の森- 無限微動筆蝕

石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」より

リズム法の解体による筆蝕の無限微動化は、筆蝕の強靱化、多様化のみならず、字形の多様化をもたらした。

鄭燮-テイショウ-の「懐素自叙帖」に至っては、隷書、楷書、行書をモザイク状に敷き詰めたような、信じがたい不思議な作が生まれている。明末の傅山-フザン-に、行書、連綿行書、金文、草書体風の金文をこきまぜた七帖十二屏の作品があるが、この場合には一幅が一体で書かれている。なぜなら、いまだ折法が完全に相対化されず、筆蝕も無限微動化が実現していなかったがために、書字の上での「はずみ」-運筆上自然に生まれてしまう字画の長さや形状-が避けられず、一幅の内に複数の書体を交ぜて書くことは不可能であったからである。

ところが、新たに誕生した無限微動段階の筆蝕は、いついかなる時でも、いかなる方向へでも、いかなる力でも進むことを可能にした-それは筆蝕が進みながら止まっており、止まりながら進んでいることを意味する-。このため極痩の草書体と極太の隷書体や楷書体とが違和感なく一つの紙面に併存し一つの世界を構成する、鄭燮の「懐素自叙帖」も生まれたのである。

・鄭燮-テイショウ-「懐素自叙帖」部分-1764年-

一見したところ、玩具箱をひっくりかえしたような、懐素の自叙帖を書いた作品。折法が相対化され、書法が相対化された清朝でなければ表現されえない書。清朝初期を代表する書であり、無限微動筆蝕が複雑多岐にわたる表現を可能にしたことを証す書である。ここには、日本の戦後前衛書も含めた、現代的表現の芽生えがある。極痩の草書体部は筆尖を垂直に突き立てた直筆で書かれ、石を切り落とすような左右のハライ部では、筆尖が角度筆で書かれている。書はついに、現代の我々を無条件でわくわくさせるまでの表現法を手に入れたのである。

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/‥其不羈。引以遊處。兼好事‥/
/‥草稿之作。起於漢代‥/
/‥壇其美。義獻茲降。虞‥/
/‥長吏雖姿性顛逸。超絶巓/

Teisyo03

Teisyo04


―山頭火の一句― 行乞記再び -25-
1月18日、晴、行程4里、佐賀県浜崎町、栄屋

霜、あたたかい日だつた、9時から11時まで深江行乞、それから、ところどころ行乞しつつ、ぶらぶら歩く、やうやく肥前に入つた、宿についたのは5時前。

福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変りはないが、人心には思ひめぐらすものがある。

筑前の海岸は松原つづきだ、今日も松原のうつくしさを味はった、文字通りの白砂青松だ。
左は山、右は海、その一筋道を旅人は行く、動き易い心を恥ぢる。

松の切株に腰をかけて一服やつてゐると、女のボテフリがきて「お魚はいりませんか」深切か皮肉か、とにかく旅中の一興だ。-略-

いつぞや途上で話し合つた若い大黒さんと同宿になつた、世の中は広いやうでも狭い、またどこかで出くわすことだらう、彼には愛すべきものが残つてゐる、彼は浪花節屋なのだ、同宿者の勧めに応じて一席どなつた、芸題はジゴマのお清!

一年ぶりに頭を剃つてさつぱりした、坊主にはやはり坊主頭がよい、床屋のおかみさんが、ほんたうに久しぶりに頭を剃りました、あなたの頭は剃りよいといってくれた。

落つればおなじ谷川の水、水の流れるままに流れたまへ、かしこ。

※表題句の外、記載なし

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Photo/道中の、鳴き砂で名高い姉子浜-現糸島市二丈鹿家-

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April 06, 2010

沿うて下る枯葦の濁り江となり

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-日々余話- 無惨!翔く二人

共演シーンのない二人の競演は、各々がOnstageを行うという形で、最低限の演りたいだけをやったから、結果、観客は正味二人分のshowに付き合わされることに‥。

午後6時からDinnerが、6時50分からshowがはじまり、9時半までかかるだろうと覚悟はしていたが、終演はなんと10時5分過ぎ、演者にとっても観者にとっても、徒労感ばかりが残る、こんなバカげた企画は、まずおめにかかることはない。

これも偏に企画主催者側にまったくコントロール機能がなかった所為である。舞台で自ら紹介していたが、加納ひろしが歌手生活33年にもなるというのにも、ヘーそうなんだとただ驚かされるばかりだったが、この男性歌手一人を抱えて芸能プロでございますと、(有)スペースクラフトなどと紛らわしい呼称-東京には同名の大手プロダクションがある-のT.Kなる女社長のごく身勝手なだけの要求に、言いなりになるしかない主催者であるなら、端からこの共演企画、立ち上げるべきでなかったというのは、この日の関係者と観客のすべてが抱いた、疲れ果てた末の慨嘆であったろう。

10人ベースのテーブルが22、Yumiが手売りで140人ほど集めたというから、主催のひろ舞企画及び加納ひろし側で集客し得たのは80人ほどにしかすぎないが、これまた端からゆみの客筋を大いに当て込んだうえの企画であったのは一目瞭然、それなのに己が批判の集中砲火を浴びた途端に、手のひら返してゆみへと責めの転嫁をしてもの申されるときては、開いた口もふさがらぬオバサマだ。

この手の世界に連座する人々は、なぜこうも破廉恥きわまるエゴの亡者ばかりなのか、媚びと諂い、そして己れの面子‥。
そのなかで、Yumiの客たちは、共演者の顔も立てつつ、この長丁場をよく耐えたものだと思う。おそらく殆どの客たちが、Yumiの生死を分けた手術後の、初のステージだということをよく承知していたのではないか、みんなYumiの身体の心配のほうが先に立ち、ハラハラしながら見守っていたというのが事実に近いのだろう。

結局は、エゴ剥き出しの輩ほど、それに応じて負の傷口をひろげ、これに耐えながら真摯な姿勢を貫いたほうが、それなりの果実をものすることになるのだが、今後のことを思えば、どうしてもこの際、企画主催のひろ舞サイドには、なにがしかの気づきを起こしめねばならない、かなり難しいことだけれど‥。

―山頭火の一句― 行乞記再び -24-
1月17日、また雨、行程2里、深江、久保屋

世間師は晩飯を極楽飯、朝飯を地獄飯といふ、私も朝飯を食べた以上、安閑としてゐることは出来ない、合羽を着て笠を傾けて雨の中へ飛び出す、加布里-カムリ-、片山といふような部落を行乞して宿に着いたのは3時過ぎだつた。深江といふ浦町はさびしいけれど気に入つたところである、傾いた家並も、しんみりとしてゐる松原もよかつた、酒1合、燗をしてくれて9銭、大根漬の一片も添へてくれた。-略-

私たちは「一日不作一日不食」でなくて「食べたら働かなければならない」である、今日の雨中行乞などは、まさにそれだ-働かなければ食へないのはホントウだ、働いても食へないのはウソだ-。よく降る雨だ、世間師泣かせの雨だ、しかし雨の音はわるくない、ぢつと雨を聴いてゐると、しぜんに落ちついてくる、自他の長短が解りすぎるほど解る。

此宿はほんたうによい、部屋もよく夜具もよく賄もよい、これだけの待遇して25銭とは、ほんたうによすぎる。

途中、浜窪という遊覧地を通つた、海と山とが程よく調和して、別荘や料理屋を建てさせてゐる、規模が小さいだけ、ちんまりと纏まつている。
一坊寺といふ姓があつた、加布里といふ地名と共に珍しいものである。

また不眠症にかかつた、一時が鳴つても寝つかれない、しようことなしに、まとまらないで忘れかけてゐた句をまとめてゐる。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/浜窪の海岸と神島神社-現糸島市二丈浜窪

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April 04, 2010

いつまで旅する爪をきる

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-表象の森- 無限微分折法

石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家①」より

明末連綿草を経て、折法-リズム-は相対化され、揚州八怪の時代に至ると、ついに折法から自由になった。

秦の始皇帝時代に、いわば一折法-字画の成立。字画-線という単位が成立し、字画を積み上げ積み重ねることによって文字が成立するという構造-として誕生した文字は、王羲之に象徴される草書の時代に「トン・スー」や「スー・グー」の二折法としてリズムを成立させ、次いで初唐代の楷書において二折法書法が三折法刻法を吸収して「トン・スー・トン」の三折法=立体書法を確立し、宋代に至ると「トン・ツ・ツ・ツー・トン・ツ・ツ・ツ-・トン」とでも表現される多折法へとせり上がった。折法は、さらに明代に、その多折法の上に多折法を積み上げることによってこれを無限に微分し、ついに相対化されるに至った。文字を書く書法が折法から自由になったとき、どのような文字の表現も可能になった。むろん、可能になったことは、必ずしもただちに実現することを意味しない。

折法から剥がれた無限微分折法は-無限リズム法、無限拍リズム法、リズムの喪失-は、筆蝕に反射して無限に微分され、無限に微動する微粒子的な律動そのものである筆蝕を生むことになった。

この無限の微粒子的律動に支えられ無限折法の成立は、いわば荒野に素手で立ちつくす時代、すなわち自己組織化、自己運動の不可避の時代に至ったことを意味する。
いわゆる戦後前衛書に見られるような、筆蝕が劇作法-演劇的な展開の必然性-を欠いて、いたずらに書が筆蝕の遊戯化へと無限に退嬰する可能性は、この清朝の金農の無限折法・無限微動筆蝕に、同時に宿ったのである。

無限微動筆蝕の姿は、金農の「題昔邪之廬壁上」の横画のすべてが、幾重にも紙面に対して小刻みに震えるように上下・深浅運動を繰り返しつつ-それゆえ字画とりわけ字画の下部が波状に結果する-左から右へと書き進められる表現に明らかである。

金農「題昔邪之廬壁上」-1762年-

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隷書/三折/波偃。/墨竹/一枝/風斜。/童子

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入市/易米。/姓名/又落/諸家。

無謀にも剃刀で石の表面を削ぎ落とすかのごとき、恐るべき切り削りの書。金農にとっては、紙-対象世界-は一度も柔らかな対象であったことはなく、絶えず、鉱物のごとき硬さをもつものにほかならなかった。

無限の自由を獲得することによって、書は自己組織し、自己運動する段階-stage-、つまり自立の近代に突入した。書そのものがリズム-折法-であり、言葉であり、政治であり、国家であり、神であるという転倒が生まれた。書が初めて芸術表現として独立することが可能になったのである。また、このとき、言葉を書きつけるところに自動的、付随的に書が誕生するという自明生は解体された。毛筆で詩文を書きつけることが必ずしも書の誕生を意味せず、逆に、筆蝕の表現力が詩文の表現力に匹敵する、あるいは上回るまでに至ったのである。

微動する筆蝕-筆尖と紙<対象>との関係に生じるふるえ-にすぎないものが、自らを組織し、折法を仮想し、字画を擬態し-文字を構成し、文字の一部であるところの字画のごとき仮の姿をすること-、文字を擬態する-文字のごとき仮の姿をすること-ことによって、ひとつの世界として聳立する以外になくなったのである。


―山頭火の一句― 行乞記再び -23-
1月16日、雨后晴、寒風、宿は同前

雨だ、風だ、といつてぢつとしてゐるほどの余裕はない。10時頃から前原町まで出かけて3時頃まで行乞する、一風呂浴びて一杯ひっかける。

句稿を整理して井師へ送る、一年振の俳句ともいへる、送句ともいへる、とにかく井師の言のやうに、私は旅に出てゐなければ句は出来ないのかも知れない。

朝も夜も、面白い話ばかりだ、-女になつて子を産んだ夢の話、をとこ女の話、今は昔、米が4銭で酒が8銭の話。‥

※日記末尾に、表題句を記す

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Photo雷山千如寺

この頃、木村緑平を頼りに句集出版を果たすべく心労は絶えないようである。句稿は相応に貯まってはきているが、出版の目途はなお埒があかない状態が続いていたのだろう。

山頭火の第一句集「鉢の子」が刊行される運びとなるのは、この年の6月20日。
この日の「いつまで旅する爪をきる」は、
「いつまで旅することの爪をきる」と改め、採られている。

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April 03, 2010

山寺の山柿のうれたまま

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-表象の森- 松浦ゆみ讃

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる、
晝のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

晝のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

松浦ゆみの、幼い頃から心の底深く育ててきた歌への憧れ、その熱い想い、つねに歌と共にあり、歌に生きること、それは夢や幻ではない、見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ、と唱う童謡詩人金子みすゞの眼差しの、果てしないひろがりと遠さにも似た、そんな慥かさと勁さがあるのでは、とそう思えてならないのです。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -22-
1月15日、曇、上り下り7里、赤坂。末松屋。

雷山千如寺拝登、九州西国29番の霊場。

今日は近頃になく労れた、お山でお通夜を阻まれ、前原で宿を断はられ、とうとうここまで重い足を曳きずって来た、来た甲斐はあつた、よい宿だつた、同宿者も好人物だつた、たとへ桶風呂でも湯もあつたし、賄も悪くなかつた、火鉢を囲んで雑談がはづんだ、モンキの話-猿-長虫の話-蛇-等、等の縁起話は面白かつた。

雷山の水もよかったが、油山には及ばなかつた、この宿の水はよい、岩の中から湧いてくるのださうな。

先日来、御馳走責で腹具合が悪かつたが、アルコールをつつしみ水を飲み、歩いたので、殆どよくなつた、健康-肉体の丈夫なのが私には第一だ、まことに「からだ一つ」である、その一つを時々持て余すが。

※句記載は表題句のみ

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雷山千如寺は紅葉で名高い、とくに大悲王院の楓と称される大樹は樹齢400年とされ見事な枝振り。

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April 02, 2010

朝から泣く児に霰がふつてきた

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-表象の森- ゆみのための、Narration Profile
-以下は、昨夜、書き上げた原稿。

・浪速の都大阪の北、関西随一を誇る梅田を中心とした繁華街を、東に少し外れると、学問の神様・天神さんで名高い、菅原道真公を祀る天満宮がある。
近頃は、その鳥居を挟んだ門前に、4年前にオープンした上方落語の殿堂・天満天神繁昌亭が、その名のとおり大繁盛、連日賑わいを見せているのは、みなさんよくご存じのことでしょう。
この天満宮を皮きりに、日本一長いと言われる天神橋商店街が、まっすぐ南北へと伸びているが、天神さんからちようど500㍍ばかり北へ行った、その東側の界隈には、昔、大江戸の町は南と北に、浪速大阪では東と西にと、泰平の治安を担った町奉行を配したが、その所縁-ゆかり-を今に伝えて、与力町-よりきまち-と呼ばれる一角がある。
その与力町で、ゆみは生まれ、育った。

・松浦ゆみ、その幼かりし子ども時代は、天神祭りの小気味よく鳴り響く鐘や太鼓に包まれて、明るくおおらかに成長していく。
暑い暑い夏の盛りがやってくると、天神さんのお祭だ。大阪じゅうの善男善女が、東から西から北から南から、どっと繰り出しては溢れかえる。
天神さん近くの与力町で育ったゆみは、その界隈の抜け道裏道を知り尽くしていた。母さんに振袖の浴衣を着せてもらったゆみが、弾けるような笑顔で元気いっぱい駆け出していく。
天満宮の境内には、見世物小屋や屋台がこれでもかとばかり立ち並んでいる。食いしん坊のゆみは、必ずといっていいほど林檎アメとイカ焼きを頬ばっていたな。怖いもの見たさに覗きからくりを背伸びしながら覗いていたこともあったっけ‥。
そうそう、覚えているか、ゆみ? お前がだんじりや神輿を夢中になって追っかけ、とうとう父さんや母さんたちとはぐれてしまって、(笑)、ずいぶん泣きべそをかいていたっけな‥。
ゆみ、あれは、お前が幾つの時だったか‥‥?

・ゆみ、お前は幼い頃から唄が好きだった。覚えているか、ゆみ?
まだ小学校へ上がる前から、近所の小母さんたちに上手い上手いと囃されて、得意の歌を唄っては、ご褒美だとよくお小遣いを貰ったりしていたな‥‥、そんな時のお前は、嬉しくてたまらないって顔してた。
父さん、今でも覚えているぞ。貰った十円玉を握り締めては、得意満面で駆けてく、嬉しくてはちきれんばかりの、ゆみの、あの笑顔――。

・負けん気だったけど、いつも愛嬌たっぷりだった、ゆみ。
そんなお前が、大きくなって、歌がいっぱい唄えるバスガイドさんになった時は、父さんちっとも驚かなかったが、いつのまにか、仕事のかたわら、ギンギンに激しいロックバンドをバックに歌うようになったのには、もうビックリ、父さん魂消てしまったよ。もちろん母さんだって、きっとそうだったろうよ。

・あの頃から、もう、どれほどの年月が経ったのだろう?
あれからまもなく、父さんも母さんも、天国なんて処に来てしまったから、もう年も取らないし、歳月なんてものも分かりゃしない。こっちには時間なんてない、ずうっと今みたいなものなんだから‥。
だけど、ほら、ゆみがとうとうほんとの歌い手さんになった時、メジャーデビューって言うんだって、あの時の晴れやかなショー、お客さんをいっぱいにした舞台、ゆみ、とても輝いていたよ、父さん眩しかった。ゆみ、とても綺麗だった、父さん嬉しかった。母さんも喜んでたぞ、声あげて嬉し泣きしてた‥。

そしていま、今夜のゆみも綺麗だよ、とても輝いている。
だってほら、こんなに沢山の、みなさんが喜んでくださるから、こんなに大勢の、みなさんが可愛がってくださるから、そう、だから、ゆみは、これからも、ずっと--。

―山頭火の一句― 行乞記再び -21-
1月14日、風が寒い、2里歩く、今宿、油屋

もう財布には一銭銅貨が二つしか残つてゐない-もつとも外に五厘銅貨10銭ばかりないこともないが-今日からは嫌でも応でも本気で一生懸命に行乞しなければならないのである。

午前は姪ノ浜行乞-此地名も珍しい-、午後は生の松原、青木松原を歩いて今宿まで、そして3時過ぎまで行乞する、このあたりには元寇防塁の趾跡がある、白波が押し寄せて松風が吹くばかり。

途中、長垂寺といふ景勝の立て札があつたけれど、拝登しなかつた、山からの酒造用水を飲ませて貰つたがうまかつた、ただしちつとも酔はなかつた!

俳友に別れ、歓待から去つて、何となく淋しいので、少々焼酎を飲み過ぎたやうだ、酒は3合、焼酎ならば1合以下の掟を守るべきである。

-略-、長崎では、家屋敷よりも墓の方が入質価値があるといふ、墓を流したものはないさうな、それだけ長崎人の信心を現はしてゐる。

※表題句は、1月12日記載の句。

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Photo/生の松原-現.福岡県西区今津

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Photo/元寇防塁

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April 01, 2010

けふは霰にたたかれて

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-日々余話- 火事騒ぎ!

エイプリル・フールの話じゃない。
夕刻、6時を過ぎた頃だ、階下の中一の子どもが大慌てで、「火事です! すぐ出てください」と玄関で叫ぶ。よく判らぬが、どうやら真下の部屋の台所で火が出たらしい。

怖がるKAORUKOの手を引っ張るようにして階段の踊り場へ出たら、煙がもうもうと玄関先に立ちこめる中、何人かの子どもらが咳き込みながら右往左往、周りでは同じ階の人たちが何人も様子を見ている。その中の携帯を持った一人と眼が合ったので、すかさず「119番は?」と仕草で合図を送ったら、「もうすぐ来るよ」とこれまた仕草で応答。その数秒後には、消防のサイレンが聞こえてきた。

消防車が1台、2台、署員たちがドヤドヤと次々に階段を駆け上がる。近隣の人々も騒ぎに気がついて、あちこちに人だかり‥。
結果は、ボヤ騒ぎで事なきを得たものの、この時、出火元には子どもたちしか居なかった。中一の友だち同士が、4.5人か、集まって遊んでいたようで、腹を空かしたか、台所で何かを作ろうとして、この騒ぎとなったのではないか。

悪戯盛りの年頃だし、家に同年の子どもたちしか居ないという、そんな事態ではいったい何が起こるか、やはり恐い。
夫婦共稼ぎに4人の子沢山、中一の子が末っ子だが、この騒ぎを教訓に、家族のありようをよく考えなければなるまいが、同じマンションに住む我々にとってもまた、斉しく教訓として受けとめねばならない。

―山頭火の一句― 行乞記再び -20-
1月13日、曇つて寒かつた、霰、姪ノ浜、熊本屋。

東油山観世音寺-九州西国第三十番-拝登。

今日は行乞はほとんど出来なかつた、近道を教へられて、それがために却つて遠道をしたりして一層疲れた。

お山の水はほんたうにおいしかつた、岩の上から、そして樋をあふれる水、それにそのまま口づけて腹いつぱいに二度も三度も頂戴した。

野芥-ノケと読む-といふ部落があつた、珍しい地名。

同宿は女の油売、老いた研屋、共に熊本県人、そして宿は屋号が示すやうに熊本県人だ、お互に熊本の事を話し合つて興じた。

※表題句の外、句作なし

この寺は臨済宗東福寺派の正覚寺、通称油山観音と呼ばれる。由緒は天平年間というから古い。

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山頭火が腹一杯呑んだ岩を流れる水は、現在も勢いよく溢れている。

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表題句とともに、この日の日記本文と山頭火の写真とを掲げた、まだ真新しい碑が山門の横にある。

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