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September 30, 2009

寝酒したしくおいてありました

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Information – 松浦ゆみのDinner Show

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月15日の稿に
11月15日、晴、行程7里、中津、昧々居

いよいよ深耶馬溪を下る日である、もちろん行乞なんかはしない、悠然として山を観るのである、お天気もよい、気分もよい、7時半出立、草鞋の工合もよい、巻煙草をふかしながら、ゆつたりした歩調で歩む、岩扇山を右に見てツイキの洞門まで1里、ここから道は下りとなつて深耶馬の風景が歩々に展開されるのである、-深耶馬はさすがらよかつた、といふよりも渓谷が狭くて人家や田園のないのが私の好尚にかなつたのであらう、とにかく失望しなかつた、気持ちがさつさうとした、-略-

3里下つて、柿坂へついたのが1時半、次の耶馬溪駅へ汽車に乗る、一路昧々居へ、一年ぶりの対面、いつもかはらない温情、よく飲んでよく話した、極楽気分で寝てしまつた。‥‥

※表題句の外、12句を記す

―今月の購入本―
・坂本龍一・吉本隆明「音楽機械論」ちくま学芸文庫
四半世紀前の1984年、坂本の創作現場に吉本が立ち会い、当時先端の電子機器を用いた作曲手法を坂本が解説、音楽が作品として屹立していくさまが具に描かれ、モードが変わりつつある文化の時勢、未来を予測する先見的な対話が紡がれた。

・A・セゼール「帰郷ノート/植民地主義論」平凡社ライブラリー
1930年代、フランス植民地主義の同化政策を批判し、黒人存在の文化的・政治的尊厳回復を訴える「ネグリチュード-黒人性-」の思想を生み出し、その意識発展のドラマ「帰郷ノート」は、ブルトンらシュルレアリストたちに絶賛された。

・山田風太郎「戦中派不戦日記」講談社文庫
まえがきに、私の見た「昭和二十年」の記録である。満23歳の医学生で、戦争にさえ参加しなかった。「戦中派不戦日記」と題したのはそのためだ、と記す、歴史と死に淡々と向き合い対峙した克明な記録。初版1973年、文庫版は1985年。

・山田風太郎「人間臨終図鑑 -1-」徳間文庫
神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す-著者-、15歳で火刑に死んだ八百屋お七にはじまり、脂の乗りきった55歳、ガンで逝った大川橋蔵までを網羅した、さまざま臨終の絵模様。初犯1986年。

・夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子 -上」ハヤカワ文庫
あらゆるものを螺旋として捉え、仏教の宇宙観をもとに進化と宇宙の謎に、螺旋思考で肉迫する幻想SF。初版1989年。

・武田一度「かしげ傘 -武田一度戯曲集」カモミール社
劇団犯罪友の会を主宰する、畏友武田一度の戯曲集第2弾、大正末の恋物語を描いた表題作、明治中期の大阪南部の古い宿場を舞台にした「にほやかな櫛」、右翼のクーデター未遂事件を題材にした「手の紙」など4本を収録。解題に劇評家渡辺保が一文を寄せている。

・平林敏彦「水辺の光 一九八七冬」火の鳥社
戦後の「廃墟」1951、「種子と破片」1956以後、30余年の長い沈黙を破って、再び書き始めた平林敏彦再生の、その契機となった詩集。この発刊にただならぬ尽力した太田充弘より受贈。太田充弘は岸本康弘とともに「火の鳥」誌同人だ。

その他に、芥川賞の「終の住処」を掲載した「文藝春秋」9月号、広河隆一編集「DAYS JAPAN」9月号

―図書館からの借本―
・斎藤環「関係の化学としての文学」新潮社
関係が関係に関係する-関係性の四象限。関係の化学の作動を支えているのは、シニフィアンの運動である。もしそうであるなら、言語を直接の素材とする小説が、もっとも化学反応を呼び起こしやすいのも当然だ。どれほど衰退が叫ばれようと、小説が読まれ続けるのは、ひとつにはこうした「関係の化学」の享楽ゆえである。他ジャンルの追随を許さない関係性のリアリティゆえに‥。

・R.M.ネシー・G.C.ウィリアムズ「病気はなぜ、あるのか」新曜社
はたして人間にとって病気は憎むべき存在なのか? 進化生物学で得られた知見を医学に応用すると‥、ダーウィニアン医学から病気やケガ、老化などを読み解くとどうなるか。遺伝性の病気や感染症ばかりではなく、アレルギー、精神障害、さらには嫉妬や妊娠といった性の問題にまで踏み込んでいる。

・宇沢美子「ハシムラ東郷」東京大学出版会
日系人ハシムラ東郷は、20世紀初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。ところが、実は白人作家ウォラス・アーウィンによって生みだされた「偽装-イエローフェイス-」の日本人だった。

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September 28, 2009

鉄鉢、散りくる葉をうけた

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Information – 四方館のWork Shop

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月14日の稿に
11月14日、霧、霜、曇、-山国の特徴を発揮してゐる、日田屋

前の小川で顔を洗ふ、寒いので9時近くなつて冷たい草鞋を穿く、河一つ隔てて森町、しかしこの河一つが何といふ相違だらう、玖珠町では殆どすべての家が御免で、森町では殆どすべての家がいさぎよく報謝して下さる、2時過ぎまで行乞、街はづれの宿へ帰つてまた街へ出かけて、造り酒屋が3軒あるので一杯づつ飲んでまはる、そしてすっかりいい気持になる、30銭の幸福だ、しかしそれはバベルの塔の幸福よりも確実だ。-略-

浜口首相狙撃さる-さふいふ新聞通信を見た時、私は終証義を読みつつ行乞してゐた、-無情忽ちに到るときは国王大王親眤従僕助くるなし、ただ独り黄泉に赴くのみなり、己れに随ひゆくは善悪業等のみなり。-略-

明日の事-耶馬溪の渓谷美や、昧々さんとの再会や何や彼や-を考へて興奮したからだらう、2時頃まで寝られなかつた、かういふ身心では困るけれど、どうにもしようがない。-略-

※表題句の外、10句を記す

―四方のたより― Info-Work Shop

四方館の身体表現 -Shihohkan’s Improvisation Dance-
そのKeywordは、場面の創出。

場面の創出とは
そこへとより来たったさまざまな表象群と
そこよりさき起こり来る表象群と、を
その瞬間一挙に
まったく新たなる相貌のもとに統轄しうる
そのような磁場を生み出すことである。

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September 26, 2009

あふるる朝湯のしづけさにひたる

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CASOにおけるデカルコマニィ的展開青空展-10/27~11/1-

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月13日の稿に
11月13日、曇、汽車で4里、徒歩で3里、玖珠町、丸屋

早く起きて湯にひたる、ありがたい、此地方はすべて朝がおそいから、大急ぎで御飯をしまうて駅へ急ぐ、8時の汽車で中村へ、9時着、2時間あまり行乞、ぼつぼつ歩いて2時玖珠町着、また2時間あまり行乞、しぐれてさむいので、ここへ泊る、予定の森町はすぐそこだが。

山国はやつぱり寒い、もうどの家にも炬燵が開いてある、駅にはストーブが焚いてある、自分の姿の寒げなのが自分にも解る。-略-

吊り下げられた鉤にひつかかる魚、投げ与へられた団子を追うて走る犬、さういふ魚や犬となつてはならない、さうならないための修行である、今日も自ら省みて自ら恥ぢ自ら鞭つた。

寒い、気分が重い、ぼんやりして道を横ぎらうとして、あはや自動車に轢かれんとした、危ないことだつた、もつとそのまま死んでしまへば却つてよかつたのだが、半死半生では全く以て困り入る。-略-

※表題句の外、5句を記す

―四方のたより― 上弦月彷徨篇はまずまず

それぞれのScene-Danceにお題をふった所為もあったのかもしれぬが、いまどきにしてはちょっと重い、些か重厚に過ぎたかという全体の印象はあろうが、面白い箇所もふんだんにとはいかないがそこそこに、手前味噌ながらかなり見応えのある一時間あまりとなった、本日の会であった。

土曜の昼下がり、前回に比べて客足はよくなかったものの、ずいぶん懐かしい顔がわざわざ運んでくれたのもうれしかった。

扨、昨年からレギュラーで出演しくれているデカルコ・マリィを中心にさまざまなジャンルのアーティストたちが寄り集って、大阪港は海岸通りのギャラリーCASOで、「デカルコマニィ的展開/青空展」が10月27日から一週間行われる。昨年7月につづく第2弾だが、前回に増してにぎやかな顔ぶれが揃い、パワフルで愉快な祝祭週間となろう。

まだ日時のほどを確定させていないが、四方館もどこかで顔を出すことにしているので、決まればまたお知らせしたい。

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September 25, 2009

また逢うた支那のおぢさんのこんにちは

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月12日の稿に
11月12日、晴、曇、初雪、由布院湯坪、筑後屋

9時近くなつて草鞋をはく、ちょつと冷たい、もう冬だなと感じる、感じるどころぢやない、途中ちらちら小雪が降つた、南由布院、この湯の坪までは4里、あまり行乞するやうなところはなかつた、それでも金14銭、米7合いただいた。-略-

もくもくともりあがつた由布岳-所謂、豊後富士-である、高原らしい空気がただようてゐる、由布岳はいい山だ、おごそかさとしたしさとを持つてゐる。-略-

此地方は驚くほど湯が湧いてゐる、至るところ湯だ、湯で水車のまはつてゐるところもあるさうな。-略- 

山色夕陽時といふ、私は今日幸にして、落日をまともに浴びた由布岳を観たことは、ほんたうにうれしい。-略-

同宿3人、みんな同行だ、みんな好人物らしい、といふよりも好人物にならなくてはならなかつた人々らしい、みんな一本のむ、私も一本のむ、それでほろほろとろとろ天下泰平、国家安康、家内安全、万人安楽だ-と、しておく、としておかなければ生きてゐられない-。

※表題句の外に、6句を記す

―表象の森― 死にざまとは生きざま

山田風太郎の「人間臨終図鑑-1」-徳間文庫、初版単行本は1986年9月徳間書店刊-を読む。

第1巻は、15歳で刑場の露となった八百屋お七にはじまり、長年テレビ時代劇の銭形平次を演じつづけた所為で結腸癌を肝臓に転移させて55歳で急死した大川橋蔵まで、延べ324名を網羅し、ごくコンパクトにそれぞれの死にざまを活写するが、まさに、死にざまとは生きざまそのもの、であることよとつくづく感じ入る。

天誅組首領として19歳で殺された白面の貴公子中山忠光、その姉の子が後の明治天皇となった。スペイン風邪から結核性肺炎を罹病した村山槐多は23歳だったが、その実自殺同然の死であったと。
安政の大獄で殺された橋本左内は25歳。大正12年、摂政宮-後の昭和天皇-を狙撃して絞首刑に処された難波大助も同じく25歳。明治維新まもなく反逆罪に問われ梟首された若き熱血詩人雲井竜雄は26歳。北村透谷も石川啄木も26歳で逝った。
日本映画創世記の若き天才監督山中貞雄は日中戦争で召集され29歳で戦地に死す。「嵐が丘」を書いた早世のエミリー・ブロンテは30歳。大逆事件に連座して絞首刑となった菅野すがも同じ30歳。共産党の非合法下、築地署の留置場で特高らによって拷問死に至った小林多喜二も30歳だった。
存命中はまったく認められず貧窮の内に31歳で病死したシューベルト。丸山定夫率いる移動劇団「桜隊」の一員として広島で被爆した宝塚出春の新劇女優園井恵子も31歳、原爆投下の2週間後に死んでいる。因みに桜隊は丸山以下全員が原爆の犠牲となって死んだ。
敗戦後の日本人を悲しくも爆笑させた怪異珍顔の落語家三遊亭歌笑は、銀座松坂屋の前で進駐軍のジープに撥ね飛ばされ即死したが、これも31歳の若さであった。等々、拾い出せばキリがない。

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September 24, 2009

ずんぶり浸る一日のをはり

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月11日の稿に
11月11日、晴、時雨、-初霰、滞在、宿は同前

山峡は早く暮れて遅く明ける、9時から11時まで行乞、かなり大きな旅館があるが、ここは夏さかりの冬がれで、どこにもあまりお客さんはないらしい。

午後は休養、流れに入つて洗濯する、そしてそれを河原に干す、それまではよかつたが、日和癖でざつとしぐれてきた、私は読書してゐて何も知らなかつたが-谿声がさうさうと響くので-宿の娘さんが、そこまで走つて行つて持つて帰つて下さつたのは、じつさいありがたかつた。

ここの湯は胃腸病に効験いちじるしいさうだが、それを浴びるよりも飲むのださうだ、田舎からの入湯客は一日に5升も6升も飲むさうな、土着の人々も茶の代用としてがぶがぶ飲むらしい、私もよく飲んだが、もしこれが酒だつたら! と思ふのも上戸の卑しさからだらう。-略-

暮れてから、どしや降りとなつた、初霰が降つたさうな、もう雪が降るだらう、好雪片々別処に落ちず。-略-

※表題句の外、9句を記す

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September 23, 2009

いちにち雨ふり一隅を守つてゐた

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月10日の稿に
11月10日、雨、晴、曇、行程3里、湯ノ平温泉、大分屋

夜が長い、そして年寄は眼が覚めやすい、暗いうちに起きる、そして「旅人芭蕉」-荻原井泉水著「旅人芭蕉抄」か-を読む、井師の見識に感じ苦味生さんの温情に感じる、ありがたい本だ-これで三度読む、6年前、2年前、そして今日-。-略

ここ湯ノ平といふところは気に入つた、いかにも山の湯の町らしい、石だたみ、宿屋、万屋、湯坪、料理屋、等々々、おもしろいね。-略-

人生の幸福は健康であるが、健康はよき食慾とよき睡眠との賜物である、私はよき-むしろ、よすぎるほどの食慾をめぐまれてゐるが、どうも睡眠はよくない、いつも不眠或は不安な睡眠に悩んでゐる、睡られないなどとはまことに横着だと思ふのだが。-略-

※表題句の外、5句を記す

―四方のたより― こんどはお題を

次のDance Cafeも3日後に迫ってきた。
このたびはいつもと趣向を変えて、それぞれのSceneに小見出しを、お題を付けてみようと思い立った。
踊る方にも、また観る側にも、ひとつの手がかりにはなるだろう。もちろん、充てられた言葉が、却って阻害のタネとなる懼れもある。あるが、ものは試し、である。
以下は、その構成的メモ

A-「日蝕-にっしょく-」
46年ぶりの皆既日食だった7月22日、多くの人々が訪れたトカラ列島の悪石島では、時ならぬ荒れ模様の天候で観測不能、嘆きと恨みの6分25秒となった。
天岩戸神話は皆既日蝕の物語化であると唱えたのは荻生徂徠にはじまるという、また、邪馬台国の卑弥呼が死んだとされる248年、日蝕が起こっていたとする説もある。
日蝕の残してゆきぬ蟇-ひきがえる- -石母田星人

B-「月暈-つきかさ-」
月暈も沼の光も白き夜はみそかに開く睡蓮の花 -横瀬虎壽
母逝くと電報うちて立もどる霜夜の月のつきがさくらし -岡麓
梅が香のたちのぼりてや月の暈 -一茶

C-「地震-なゐ・ぢなり-」
なゐ-古名-、古来<な>は地を、<ゐ>は場所を表し、地震が起こることを<なゐふる>-大地震える-と云った。
国一つたたきつぶして寒のなゐ -安東次男

D-「人外-にんがい-」
古語としては、人以外のもの、動物や妖怪を指す、転じて、道を外れた人、人でなし。
昨今のSubcultureでは人外何某と夥しくも盛んなこと。

E-「水鏡-みずかがみ-」
水鏡乱れし髪に手をやりて想い捨て去る夏待てぬ蝶 -menesia
田に水が入り千枚の水鏡とは -鈴木石男
水鏡してあぢさゐのけふの色 -上田五千石

F-「火車-かしゃ-」
悪事を犯した亡者をのせて地獄に運ぶ、火の燃えさかっている車をいう仏語。
烏山石燕-江戸中期の画人-が描く「図画百鬼夜行」などには妖怪としても登場する。

G-「風神雷神-ふうじんらいじん-」
中国古来には、雷公・雷鼓・風伯あり、密教では、波羅門の神を取り込んだ風天・帝釈天がある。
奈良生駒の竜田社の風祭に代表される風神祭は全国津々浦々にひろがって今にのこる。雷神は水神・火神の二面を備えた最高神格ともみられ、古来天神として畏敬信仰されてきた。悲運のうちに太宰府で死んだ菅公が天神さんへと化したように、御霊の猛威が雷神に象徴されることも多かった。

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September 21, 2009

枯草、みんな言葉かけて通る

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月9日の稿に
11月9日、晴、曇、雨、后晴、天神山、阿南屋

暗いうちに眼が覚めてすぐ湯へゆく、ぽかぽか温かい身心で7時出発、昨日の道もよかつたが、今日の道はもつとよかつた、ただ山のうつくしさ、水のうつくしさと書いておく、5里ばかり歩いて1時前に小野屋についたが。ざつと降つて来た、或る農家で雨宿りさせて貰ふ、お茶をいただく、2時間ばかり腰かけてゐるうちに、霽れてきた、小野屋といふ感じのわるくない村町を1時間ばかり行乞して、それから半里歩いて此宿へついた。-略-

歩いてゐて、ふと左手を見ると、高い山がなかば霧に隠れてゐる、疑いもなく久住山だ、大船山高岳と重なつてゐる、そこのお爺さんに山の事を尋ねてゐると-彼は聾だつたから何が何だか解らなかつた-そのうちにもう霧がそこら一面を包んでしまつた。-略-

山々樹々の紅葉黄葉、深浅とりどり、段々畠の色彩もうつくしい、自然の恩恵、人間の力。-略-

山はいいなあといふ話の一つ二つ-三国峠では祖母山をまともに一服やつたが、下津留では久住山と差向ひでお弁当を開いた、とても贅沢なランチだ、例のごとく飯ばかりの飯で水を飲んだだけではあつたが。
今日の感想も二三、-草鞋は割箸とおなじやうに、穿き捨ててゆくところが、東洋的よりも日本的でうれしい、旅人らしい感情は草鞋によつて快くそそられる。
法眼の所謂「歩々到着」だ、前歩を忘れ後歩を思はない一歩々々だ、一歩々々には古今なく東西なく、一歩即一切だ、ここまで来て徒歩禅の意義が解る。
山に入つては死なない人生、街へ出ては死ねない人生、いづれにしても死にそこないの人生。-略-

酒はたしかに私を世間的には蹉跌せしめたが、人間的には疑ひもなく生かしてくれた、私は今やうやく酒の緊縛から解脱しつつある、私の最後の本格が出現しつつあるのである、呪ふべき酒であつたが、同時に祝すべき酒でもあつたのだ、生死の外に涅槃なく、煩悩の外に菩提はない。-略-

今夜も水音がたえない、アルコールのおかげで辛うじて眠る、いろんな夢を見た、よい夢、わるい夢、懺悔の夢、故郷の夢、青春の夢、少年の夢、家庭の夢、僧院の夢、ずゐぶんいろんな夢を見るものだ。
味ふ-物そのものを味ふ-貧しい人は貧しさに徹する、愚かなものは愚かさに徹する-与へられた、といふよりも持つて生まれた性情を尽す-そこに人生、いや、人生の意味があるのぢやあるまいか。

※表題句の外に、25句を記す、
その中に、「ホイトウとよばれる村のしぐれかな」もみえる
それにしても、この日の行乞記はやたら長い、文庫にしてちょうど8頁、話題は思うがままさまざまにとぶ。

―四方のたより― ながいまわり道

昨日の稽古に、山田いづみが参入。
ずいぶん古い話だが、’81年か2年頃であったろう、たった一度きりだが、彼女は晴美台の私の稽古場に来たことがあった。当時、神澤師に師事するようになって2年余りか、埋めきれぬものを抱いて心はすでに別なる世界を激しく求めていたのだろう。若さゆえでもあるその激しさは、神澤師とは似て非なるとはいえ私の許とてまた同類同縁に映るのもやむを得ず、別なる新天地を求める選択をこそ必要としたのではなかったか。

次に彼女と再会したのは、’87年の春、少女歌舞劇シリーズの「ディソーダー」をもって参加した枚方演劇祭での、劇団犯罪友の会-現・劇団HANTOMO-の打上の宴だった。彼女は座長武田一度君の細君として宴の中に居た。後に私は、武田君とも縁が出来て交わるようになり、今日まで折々それぞれ個別の付合いをしてきたことになる。

場合によっては長時間にわたるのも覚悟していた稽古のお手合せは、いざとなればごくゆるやかに、互いにご挨拶程度のもので了とした。用意しておいた構成的メモ、これに基づいて少なくとも段取りめいたものがほぼ共有できたとみえたからだ。彼女とていわば百戦の踊り手、自分なりにイメージが成ったとすれば、その時孰を本人に任せたほうがよい。

終わって一緒に飯を喰った、やはり話が弾む。お蔭で私のなかに大きな課題が生まれた。いや正確には、以前より心の底に秘めた宿願の如きもの、これに灯が点いた、現実に向き合うべき時期が到来しつつある、というべきか。

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September 19, 2009

一寝入してまた旅のたより書く

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月8日の稿に
11月8日、雨、行程5里、湯ノ原、米屋

やつぱり降つてはゐるけれど小降りになつた、滞在は経済と気分が許さない、すつかり雨支度をして出立する、しようことなしに草鞋でなしに地下足袋-草鞋が破れ易いのとハネがあがるために-、何だか私にはそぐはない。
9時から1時間ばかり竹田町行乞、そしてどしどし歩く、村の少年と道づれになる-一昨々日、毛布売の青年と連れだつたやうに-、明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかつた、雑木山と水声と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であつた、3時近くなつて湯ノ原着、また1時間ばかり行乞、宿に荷をおろしてから洗濯、入浴、理髪、喫飯-飲酒は書くまでもない-、-いやはや忙しいことだ。

ここは片田舎だけれど、さすがに温泉場だけのことはある-小国には及ばないが-、殊に浴場はきたないけれど、解放的で大衆的なのがよい、着いてすぐ一浴、床屋からもどつてまた一浴、寝しなにも起きがけにもまたまた一浴のつもりだ! -略-

夜もすがら瀬音がたえない、それは私には子守唄だつた、湯と酒と水とが私をぐつすり寝させてくれた。

※表題句の外、8句を記す
そのなかに、「雨だれの音も年とつた」の句がみえる

-日々余話- Soulful Days-29- 9.17という日

17日の朝、大阪地方検察庁に向かって車を走らせていたその途中、携帯が鳴ったので車を停めた。電話の主は息子DAISUKE、彼にとっては祖母、私には嘗ての義母乃ちIKUYOの母親の死を伝えてきたものだった。
その日の朝、8時43分頃、享年92歳だった、と。

もう10年近くになるか、弁護士だった夫に先立たれてからの其の人は、徐々に痴呆症状を呈してきていたと聞く。しばらくは東京に居たのだが、IKUYOが波除に住むようになると同時に引き取って同居するようになった。IKUYOとRYOUKOとの3人暮しがはじまったわけだが、朝早くから勤めに出るIKUYOと夜になってから出かけるRYOUKOという対照的な暮し向きのなかで、近所の施設からのディサービスなどをうけながら老人の介護がとられてきたのだった。

昨年、RYOUKOの事故死が起こったその少し以前から、痴呆も重篤さを増してきていた其の人は、ショートスティを繰り返すかたちで施設暮しがはじまっていた。IKUYOは其の人にRYOUKOの不幸をけっして伝えなかった、いや伝えられなかったのだろう。其の人はRYOUKOの死を知らぬままにこの世を去ったのである。互いの命日が9月14日と17日、一年をおいてなぜかほぼ重なるようにして。

私が大阪検察庁に着いたのは、ちょうど10時、約束の時間どおりだった。2度ばかり電話で話したことのある事件を引き継いだ検察官は、先のN副検事とはまるで陰と陽、好対照の印象だった。此方の話を気さくに聞いてもくれたし、私の出した書面のその細部についてもいろいろと尋ねてきた。ただ審理については、府警の科学捜査研究所の分析結果が上がってこないかぎり、一向進まないわけで、検察はただ手を拱いて待つばかりなのだ。どうやら此方としては、干渉の矛先を府警に向けなければ埒があかないらしい。

午後1時からは、近くの喫茶店で、相手方運転手Tの父親と、昨年暮れ以来の対面。
この動かぬ局面。検察の審理はDrive Recorderの一件以来、ひたすら待つしかない。民事訴訟はゆるゆる動いたとしても、問題の本質=事故原因を審理するのは本筋でなく、これを俎上に乗せようとすれば、これまた相当の工夫と根気がいるし、はたして叶うかどうかも疑問だ。

一周忌を迎えるにあたって、私はどうにも動かぬこの局面を打破したい、と身内から衝き動かされてきたらしい。それが在日の疑惑を抱いて以来拒絶してきたTの父親との、一対一、ほぼ3時間に及んだ、直接の対話だった。

これまではいずれも事故当事者である息子Tを横に置いてのことで、その重荷から解放されての私との対面は、より率直に、より素直に、彼自身まるごと顕わにされていたようであった。もちろん私はこれまでも、Tと父親を前にして、いま彼がそうであるように、私自身をまるごとぶつけてもきたつもりである。

単刀直入、Drive Recorderの私なりの分析や所見について具にあからさまに伝えたし、この半年のあいだ私を苦しめてきた彼の在日疑惑についても問うた。彼の経歴からしてもそう考えざるを得なかったし、これを否定する彼に、経歴の一つひとつ、その経緯を質し、なお得心しかねてはまたも問うを繰り返した。在日になにがしかの偏見があったわけではない、しかし、在日なれば、いまだこの日本の現実で、あってはならぬことだが、超法規的な行為もやれぬことはない。私の頭のなかではこの半年ずっと、在日-捜査への圧力という図式が強固に成り立っていたものだから、この疑惑を打ち消すには繰り返し問い質さざるを得なかったし、またこれを氷解させるのには時間を要した。

結果、彼は在日ではなかった。これを打ち消す応答振りを、私としては注意深く観察もしたつもりだが、彼の言葉に一片の嘘も感じられなかった。最後はお互い笑顔で別れた。
いま私は、ある種の虚脱感に襲われながら、心のなかに膨張しつづけてきたこの疑惑を否定し、抹消しつつある。

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September 17, 2009

筧あふるゝ水に住む人なし

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月7日の稿に
11月7日、曇、夕方から雨、竹田町行乞、宿は同前

雨かと思つてゐたのに案外のお天気である、しかし雨が近いことは疑はなかつた、果して曇が寒い雨となつた。
9時から4時まで行乞、昨年と大差はないが、少しは少ないが、米が安いのは的確にこたえる、やうやく地下足袋を買ふことができた、白足袋に草鞋が好きだけれど、雨天には破れ易くてハネがあがつて困るから、感じのよいわるいをいつてはゐられない。-略-

今夜も夜もすがら水声がたへない、階下は何だか人声がうるさい、雨声はトタン屋根をうつてもわるくない、-人間に対すれば増愛がおこる、自然に向へばゆうゆうかんかんおだやかに生きてをれる。

月! 芋明月も豆明月も過ぎてしまつた、お天気がよくないので、しばらく清明の月を仰がない、月! 月! 月は東洋的日本的乃至仏教的禅宗的である。

寝ては覚め、覚めては寝る、夢を見ては起き、起きてはまた夢を見る-いろいろさまざまの夢を見た、聖人に夢なしといふが、夢は凡夫の一杯酒だ、それはエチールでなくてメチールだけれど。

※表題句は、11月6日記載の中から

―日々余話― なんで!?

今日という日は
こんなにいっぱい詰まって
なんという日なのか
いったい、ぜんたい、どうしたって!?

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September 16, 2009

腰かける岩を覚えてゐる

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月6日の稿に
11月6日、晴后曇、行程6里、竹田町、朝日屋

急に寒くなつた、吐く息が白く見える、8時近くなつてから出発する、牧口、緒方といふ町を行乞する、牧口といふところは人間はあまりよくないが、土地はなかなかよい、丘の上にあつて四方の遠山を見遙かす眺望は気に入つた、緒方では或る家に呼び入れられて回向した、おかみさんがソフトクフ-曹洞宗の意味!-といつて、たいへん喜んで下さつたが、皮肉を言へば、その喜びとお布施とは反比例してゐた、また造り酒屋で一杯ひつかけた、安くて多かつたのはうれしかつた、そこからここまでの2里の山路はよかつた、丘から丘へ、上るかと思へば下り、下るかと思へば上る、そして水の音、雑木紅葉-私の最も好きな風景である、ずゐぶん急いだけれど、去年馴染の此宿に着いたのは、もう電灯がついてからだつた、すぐ入浴、そして一杯、往生安楽国!

竹田は蓮根町といはれてゐるだけあつてトンネルの多いのには驚く、ここへ来るまでに8つの洞門くぐつたのである。-略-

坊主枕はよかつたこんな些事でもうれしくて旅情を紛らすことがてぎる、汽車の響はよくない、それを見るのは尚はいけない、ここからK市へは近いから、1円50銭の3時間で帰れば帰られる、感情が多少動揺しても無理はなからうじやないか。-略-

同宿の老人はたしかに変人奇人に違ひない、金持ださうなが、見すぼらしい風采で、いつも酒を飲み本を読んでゐる。

※表題句の外、
すこしさみしうてこのはがきかく -元寛氏、時雨亭氏に
あなたの足袋でここまで三十里 -闘牛児氏に
など13句を記す

―四方のたより― 学舎の会だより

「きしもと学舎の会だより」第11号-09.09.10発行-の会員への発送もほぼ了えたようである。
巻頭に置かれた岸本康弘自身の手紙形式の一文も、今回は体制転換の事もあって、ずいぶんと長くなっているが、以下全文を掲載しておきたい。

「新たな支援体制をめざして!」
ご無沙汰しておりますが、その後も益々ご清栄のことと思います。ぼくは年齢のせいで手足がしびれて痛み、体は殆ど動きません。先般いちおう帰国しました。

ぼくがネパール・ポカラで小学校を始めてから十三年になります。庶民無視の王政が倒れて三年になり、民主政治が施行されています。しかし権力争いが絶えず、いまだに選挙も行われていません。ケータイ電話が急速に普及して貧富の差が大きくなっています。資本主義社会は進展していきますが、多くの人は定職に就けず、家族それぞれの助け合いの中で生きているのが現状です。ただ、余裕のある家庭の子弟たちは外国に進出する機会を狙っており、各国大使館ではビザ発給の申請に来る人たちでいっぱいです。日本大使館も同様です。

人はそんなに富まなくても、学校である程度の知識を学び、それぞれが生み出した知恵を発揮して家族や友だちと仲良く、つつがなく暮らして行けたら、幸せにちがいありません。

その、誰もが持てるはずの幸せが、ぼくがネパールに来た当時は不足していました。絶対王制下で学校も足りなかったのです。それが三年前に国王が追い出され民主的な政治体制になり、ぼくが暮らすポカラ周辺にも公立学校や私立学校もずいぶん増えてきました。

ぼくは、こうした変化を直に肌で感じながら、現地で体調を崩して入院した日々のベッドの中で、年齢とともにますます弱りゆくぼく自身に残された寿命と向き合いつつ、今後の処し方や学舎の運営などを見直していこう、と思い始めたのでした。

たとえば、この学舎に通う子どもたちを、徐々に他の公立校へと移し、その子どもたちひとりひとりへの通学支援、無償の奨学金支給をしていく形へと移行させるのはどうか、と。これなら子どもたちも安心だし、ぼくに万一ある時-それはぼく自身の死以外のなにものでもないわけですが-も支援を継続できるかと思われます。

これからは、学舎の運営から、通学支援の形態へと移行をはかるとともに、支援体制の継続保証にも、万全を期していきたいのです。それには皆様のご支援こそ大きな励みであり、頼みともなります。
岸本学舎の発端は、ぼくが昔、足が不自由なために小学校を就学免除になり通学できなかった悔しさによるものです。九歳で父が亡くなり貧困に耐えながら、独りで必死に勉強したのです。だから、幼い子どもたちに、ぼくの経験したあの苦しみを味わせたくないし、非常に酷だと思うのです。その想いが、岸本学舎に繋がっています。

岸本学舎が誕生して丸十二年になりますが、時折、ポカラの路上で、学舎を終えてすでに結婚した女子に出会うことがあります。嬉しいこともさることながら、時の流れの速さに驚いてしまいます。

いろいろと書いてきましたが、皆様には、よく事態をご理解いただき、変わらぬご支援を、切にお願い申し上げます。ぼくも命のつづくかぎり努力してまいります。どうか、くれぐれもよろしく。
     2009年9月/岸本康弘

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September 15, 2009

日が落ちかかるその山は祖母山

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月5日の稿に
11月5日、曇、三番町行乞、宿は同前

昨夜は蒲団長く長くだつた、これからは何よりもカンタン-蒲団の隠語-がよい宿でなければかなはない、此宿は主婦が酌婦上りらしいので多少、いやらしいところがないわけでもないが、悪い方ではない。
山の町の朝はおくれる、9時から2時まで行乞、去年の行乞よりもお賽銭は少なかったが、それでも食べて飲んで寝るだけは十分に戴いた、袈裟の功徳、人心の信愛をありがたく感じる。-略-

豪家らしい家で、御免と慳貧にいふ、或はちよんびり米を下さる-与へる方よりも受ける方が恥づかしいほど-、そして貧しい裏長屋でわざわざよびとめて、分不相応の物資を下さる、-何といふ矛盾だらう、今日もある大店で嫌々与へられた一銭は受けなかつたが、通りがかりにわざわざさしだされた茶碗一杯の米はほんたうにありがたく頂戴した。

入浴3銭、酒20銭、-これで私は極楽の人となつた。
今日は一句もない、句の出来ないのは気持の最もいい時か或は反対に気持の最もよくない時かである。-略-

いつ頃からか、また小さい蜘蛛が網代笠に巣喰うてゐる、何と可愛い生き物だらう、行乞の時、ぶらさがつたりまひあがっつりする、何かおいしいものをやりたいが、さて何をやつたものだらう。

※表題句は、11月4日付の句から

祖母山というその山の名に、山頭火は、「業やれ業やれ」といつも口癖のように呟いていた老祖母ツルが憶い出され、大種田落魄から流転の日々の追憶を重ねては、ひとしきり涙にくれたのではなかったろうか。

-日々余話- Soulful Days-28- 再.Drive Recorder解析

「ドライブレコーダーにみる事故状況及び原因に関する所見」

一、乙-T車の無灯火運転について

資料-1のドライブレコーダー分析表<19>時点の映像には、事故直後、対向車線上で信号待ちする車両が映っている。この車両の前照灯はロービーム状態にあると見られるが、その灯りが交差点路面を照射している状態が画面上においても充分に視認できる。
また、分析表<9>から<13>における、対向車線から交差点を西へ直進している軽自動車においても、その前照灯が路面を照射している状態が画面から視認できる。

しかるに、衝突事故直前の2秒間程、即ち分析表<14>から衝突の瞬間である<18>までの間、画面上において、甲-M車の前照灯が照射している灯り以外に、路面の変化は見られない。この時、乙-T車は時速70km/hで対向車線を走行してきた、と科捜班による現場検証において推定されているのだから、2秒前なら衝突地点の約39m手前にあり、前照灯が灯火されていたなら、画面上に逐次的に灯りの変化が見られる筈であるが、その変化はまったく覗えない。
よって、乙-T車は無灯火運転であったと推定される。

二、乙-T車の脇見運転について

T.Kの主張によれば、乙-T車の進路上において、右折しようとしている甲-M車が、突然急停止したため、急遽制動動作に入るも間に合わず衝突した、とのことである。

また、甲-M車が右折行為からほぼ直進状態になったのは、分析表<15>あたりと推定されるが、この時の時速は16.9km/h、さらに分析表<16>において僅かにアクセルを踏んで時速21.1km/hを表示しているが、この間、0.510秒と0.490秒、合わせて1.000秒であり、その移動距離は2.394mと2.872m、合わせて5.266mであるから、この間に、対向車線の右側端右折車線を通過し、ほぼ第一走行車線上で停止したと見られる。但しブレーキが踏まれたとはいえ速度は5.6km/hを表示しており、完全な停止ではない。分析表<17>から衝突時点の<18>までの0.510秒の間に0.794mと僅かに移動している。

さて、甲-M車が、ゆっくりとだが右折直進行為に入りながら、なぜ急に停止しようとしたかであるが、M.K自身、事故当時を振り返りながら、何か気配のようなものを感じて、咄嗟に制動したというしかない、と語っている。
この時のM.Kの、咄嗟の制動動作に仮に0.6秒要したとすれば、分析表<17>と<18>のごとく、甲-M車停止から衝突の瞬間まで0.510秒だから、計1.11.秒となるが、この時点、乙-T車は、時速70km/hで、手前21.583mにまで迫っていることになる。瞬時のこととはいえ、真横からかなりのスピードで迫り来るものに、気配のようなものを感じて、というのは然もあらんと思われる。
もし、乙-T車が前照灯を灯火していたなら、直進してくる車両を、もっと手前で、しかもはっきりと視認できたろうが、一で推定されたように無灯火であったゆえ視認しえず、甲-M車においては事故を避け得なかったものと推量できる。

さらに、乙-T車だが、運転するT.Kは、前照灯を投下し、ゆっくりと右折しようとしている甲-M車の存在には、信号手前はるか後方から一旦は視認し、気づいていたと見られる。そしてその折の判断は、速度を落とすことなくこのまま直進走行しても、甲-M車は、右折直進を完了するものと予断したとも見られる。それから1~2秒の間、甲-M車から注意を逸らし、何か別事に気を取られたまま走行を続けた後、前方を注視した時には甲-M車が停止しているのを認め、瞬時に制動動作に入るも、まったく間に合わず衝突した。即ち脇見運転であった。

事故状況をこのように推量せぬかぎり、この項の初めに記したような主張はなし得ぬ、というものであり、またこの推量はドライブレコーダーに即して合理的なものである。

一と二を総合するに、当該事故の原因は、乙-T車にこそ無灯火にして脇見という重大な過失が存し、甲-M車においては細心の注意をはらいながら右折行為をしていたたにもかかわらず遭遇した、いわば不可抗力にも近く、その過失は乙-T車に比しきわめて小なるものであった、と推定するのが合理的である。

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September 14, 2009

暮れてなほ耕す人の影の濃く

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月4日の稿に
11月4日、晴、行程10里と8里、三重町、梅木屋

早く起きる、茶を飲んでゐるところへ朝日が射し込む、十分に秋の気分である、8時の汽車で重岡まで10里、そこから小野まで3里、1時間ばかり行乞、そして三重町まで8里の山路を急ぐ、三国峠は此地方では峠らしい峠で、また山路らしい山路だつた、久振に汗が出た、急いだので暮れきらぬうちに宿へ着くことが出来た。-略-

どちらを見ても山ばかり、紅葉にはまだ早いけれど、どこからともなく聞こえてくる水の音、小鳥の声、木の葉のそよぎ、路傍の雑草、無縁墓、吹く風も快かつた。-略-

行乞してゐると、人間の一言一行が、どんなに人間の心を動かすものであるかを痛感する、うれしい事でも、おもしろくない事でも。-略-

さすがに山村だ、だいぶ冷える、だらけた身心がひきしまるやうである、山のうつくしさ水のうまさはこれからである。
「空に遊ぶ」といふことを考へる、私は東洋的な仏教的な空の世界におちつく外はない。
台湾毒婦の自殺記事は私の腸を抉つた、何といふ強さだ。

※表題句の外、16句を記す

―日々余話― Soulful Days-27- 一年を経て‥

一周忌法要は無事恙なく終えた。無事恙なくとわざわざ記さねばならないのは、昨年の満中陰法要の席でのなんとも言い難い苦い出来事がいまだ脳裡から離れないでいるためだ。

あれは長兄の発言からはじまった。
RYOUKOが事故で逝って、いずれは慰謝料等損害賠償金の問題が起こる。暮し向きは母親と同居していたにもかかわらず、とうとう結婚する機縁を得ず、独り身のまま逝ってしまった彼女は、私の戸籍のうちにあるままだったのが問題をこじらせた。遺族としての相続権は私と妻双方に互角にあることになってしまう。一言でいうなら、自身の道楽な生きざまで身勝手に妻や子を捨て去った男、彼らにしてみれば、そんな像で括られるのが私だったろう。そんな輩が苦労してきた母親と同様に遺族として対等の権利を有するのは不合理きわまるではないか。そんな想いが満中陰に寄った多くの親族の心に痼りのようにさまざま張り付いていたのだろう。

いや、ほんとうのところを有り体に云えば、この不合理に対する心の痼りは妻の方にすでに起こっていた。突然降って湧いたようなこの相続権を、私がどう考え、どうしようとしているか、私への妻の疑心暗鬼が、すでに親族たちに漏らされ、伝播していたのだった。

離れた席で口火を切った長兄に、私は大声を張り上げて怒鳴り返した。法要の会席は一気に変じてどんでもない醜態を曝した無惨な宴となってしまった。
身から出た錆とはまさにこのことだが‥、それにしても救い難く情けない一席であった。

ほぼ一年を経たこのたびの席は、さざ波さえ立つこともなく終始した。麻生和尚は私が持ち込んだ非母観音の掛軸を快く祭壇の横に掛けて、滞りなく仏事を進行してくれたし、おまけに私の想いの一片をまるで代弁するかのように座興に講じてもくれていた。

肝胆相照らすとは、互いに畏敬の念の裏付けがあってこそ成り立ちうるものだろうが、麻生和尚もまた有難く得難い友である。

一夜明けて午後、MKの社長とK氏を波除の仏前に迎えた。私は昨夜あらためて仔細に書き直した「ドライブレコーダーにみる事故状況及び原因に関する所見」を差し出して、私なりの事故原因の解釈を示した。現在、民事で係争中の名目上の当事者ではあるが、係争相手の実体はむしろ損保会社なのだから、彼らに私どもの考えを明瞭に伝え置くことは決してマイナスには働くまいと思ったからだ。

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September 13, 2009

ふる郷の言葉なつかしう話しつづける

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月3日の稿に
11月3日、晴、梢寒、延岡町行乞、宿は同前

だいぶ寒くなつた、朝は曇つていたが、だんだん晴れわたつた、8時半から3時半まで行乞する、近来の励精である。

今日の行乞相はたしかに及第だ、乞食坊主としてのすなほさとほこりとを持ちつづけることが出来た、勿論、さういふものが残つてゐるほど第二義的であることは免れないけれど。

うるかを買はうと思つたがいいのがなかつた、松茸を食べたいと思ふが、もう季節も過ぎたし、だいたい此地方では見あたらない、此秋は松茸食べなかつただけぢやない、てんで見ることも出来なかつた、それにしても故郷の香り高い味はひを思ひ出さずにはゐられない。

新米のお客さん4人、みんな同行だ、話題は相変らず、宿の事、修行の事、そしてヨタ話。

※表題句の外、1句を記す

―四方のたより― Goodbye Arisa

アソカ学園は宗教法人浄光寺の経営する保育園である。今日は11:00から2階の本堂でRYOUKOの一周忌法要、そして12:00から3階の講堂兼運動室では稽古と、ダブルでお世話になる。

法要のあとの会席も終えて稽古場へと私が移動したのは、もう午後2時を過ぎていたか。まず、ありさの姿が眼に入った。かれこれ2ケ月ぶりに見る彼女だが、この日でお別れ、来週からは東京に移り住んで、SBA-Sofia Ballet Academy-に通うことになる。

稽古を終えた頃、ゆりママも、ヤングパパも、一緒に、お別れにやってきた。いつものように、いつもの店で。なにしろ二度の上京暮しで、やっとありさが踏み出すべき道を見出したのだから、話題はふんだん、容易に尽きそうにはない。

東京の向こうに見えるのは、サンクトペテルブルクのVaganova Ballet Academyか、それともモスクワのBolshoi Ballet Schoolか。2年後、3年後のありさは、どんな成長を見せてくれるのだろうか、正直なところ一抹の不安が脳裡をかすめないわけではないが、ここはポンと背中を押してやるべきところだと思う。

汝自身を知れ
おのが器は大器たりや、その器にいかに水を盛るか
それは一大難事にはちがいないが
悠然と羽ばたいて欲しい。

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September 12, 2009

跣足の子供らがお辞儀してくれた

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊-上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月2日の稿に
11月2日、曇、后晴、延岡町行乞、宿は同前

9時から1時まで辛うじて行乞、昨夜殆ど寝つかれなかつたので焼酎をひつかける、それで辛うじて寝ついた-アルコールかカルチモンか、どちらにしても弱者の武器、いやな保護剤だ。
同宿の同郷の遍路さんとしみじみ語つた、彼は善良なだけそれだけ不幸な人間だつた、彼に幸あれ。

※表題句は、10月31日の稿に記載の句

―日々余話― 難行易行

毎日新聞朝刊の中折2面を使ったカラー版「農and食」の特集記事、先ず中央に配された、彼岸花の咲きほこる明日香村神奈備の里の大きな写真が、読者の眼を惹きつける。

記事は大小4つ、京田辺市で、農薬なし肥料もなし、玉露や煎茶の画期的な無施肥無農薬栽培を確立し、普及にも努めているのが小野さんという女性。この辺り、近くを流れる木津川の川霧が味を良くしてくれるという茶の名産地で知られる土地柄だが、それにしても、天然灌水、土と太陽光だけでの栽培は、全国的にも存在しないそうな。その普及活動を実践しているのが会員200名ほどを擁するNPO無施肥無農薬栽培研究会で、ご当人の小野さんも理事として活動を牽引している。

もう一つ、秋田県八郎潟の干拓地は米どころとして全国に知られるが、自由化の煽りで下がりつづける米価が、この大潟村の農家を軒並み襲っている。コメ価格の将来不安は、水稲単作から野菜栽培などの複合経営へと走らせる。そんななかで馴れないトマトのハウス栽培に将来を託して悪戦苦闘を続ける農家だが、ここでもこだわりは無農薬。虫に喰われ、形が揃わず、市場から出荷停止の苦い経験を味わいながら、失敗の蓄積が技術の蓄積へと変わっていく。販売店も独自に開拓をしてきた。サンプルを抱えて百貨店やスーパーへ営業を重ね、こつこつと販路もひろげてきた、と。

こういった話題に触れると、農-自然を相手に文字どおり耕すこと-のたゆまぬ工夫の積み重ね、その奥深さに、心衝かれ自ずと頭の垂れる想いにとらわれる。自身に振り返れば、大地相手の農の真似ごとなど思いもよらぬ不可能事だが、おのが日常とする、人事の内での耕の類など、なにほどもない易行の道なのだとも思えて、反省することしきりだ。

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September 11, 2009

光あまねく御飯しろく

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月1日の稿に
11月1日、曇、少雨、延岡町行乞、宿は同前

また雨らしい、嫌々で9時から2時まで延岡銀座通を行乞、とうとう降り出した、大したことはないが。-略-
隣室の老遍路さんは同郷の人だった、故郷の言葉を聞くと、故郷がひとしほ懐かしくなつて困る。‥
女房に逃げられて睾丸を切り捨てた男-その男が自身の事を喋りつづけていた、多分、彼はその女房の事で逆上してゐるのだらう、何にしても特種たるを失はなかつた。
Gさんに、-我々は時々「空」になる必要がありますね、句は空なり、句不異空といつてはどうです、お互にあまり考へないで、もつと、愚になる、といふよりも本来の愚にかへる必要がありますね。-略-
※表題句の外に、1句を記す

―四方のたより― ’09. DANCE CAFE 第3弾

もう2週間ほどに迫ってしまったが、DANCE CAFEのお知らせ
このたびは土曜の昼下がり、この日は上弦の月にあたる
暦のページによれば、月の出が13:09、正中は18:00頃で、月没は22:53だと

昨年の夏から仲間になって、DANCE CAFEでも馴染みになったありさは、バレエ修業のため、いよいよ上京することになった。稽古場は少し寂しくなるが、まあ元々、彼女の精神的平衡を得るために通っていたようなものだから、機が熟して、飛び立つべき時が来れば、とりあえずお別れになるのは、お互い織り込み済みのこと、みんなで笑って送り出してやろう。

こんどのDANCE CAFEでは、山田いづみさんをGuestにお誘いした。
彼女は若い頃の数年を神澤師にも教えを請うていた。だから’80年頃からの知り合いだし、同門の後輩ともなるが、縁はそればかりではない、HANTOMO-劇団犯罪友の会-の主宰者武田一度君の細君でもあるし、デカルコ・マリィこと清水君とも仲間内のようなものだし、交友の図は二重三重に重なり合っている。
‘83年から自立、BRICKS DANCE COMPANYを主宰してきた舞踊の実績は申し分ない。国内だけじゃなくパリ公演など海外でもいくたびか重ねてきている。

さて、どんな競演模様が描かれることになるか、そいつは見てのおたのしみ
願わくは、お誘い合わせてお出でましを。

四方館 DANCE CAFE -’09 vol.3-
出 遊 -上弦月彷徨篇-
あそびいづらむ-じやうげんのつきさすらひへん

Date :9/26 –Sat- PM2:00
Space : 弁天町市民学習センター
Admission Fee : ¥1,500

白川静の曰く…
 南に喬木あり 休ふべからず
 漢に遊女あり 求むべからず –詩経・漢広-

喬木ありとは、女神出現の暗示である
遊女とは、出行する女神である
隠れたる神々の、出遊-
幽顕の世界に自在に往来することが、遊であり、逍遥である
それはまた、真と仮とのあいだ、である

Dance : 末永純子
      岡林 綾
      薫瑠子
     デカルコ・マリィ
     山田いづみ
Sound-viola : 大竹 徹
 percussion : 田中康之
 Coordinate : 林田 鉄

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September 10, 2009

ゆきゆきて倒れるまでの道の草

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月31日の稿に
10月31日、曇后晴、行程4里、延岡町、山蔭屋

風で晴れた、8時近くなつて出発、途中土々呂を行乞して3時過ぎには延岡着、郵便局へ駆けつけて留置郵便を受取る、20通ばかりの手紙と端書、とりどりにうれしいものばかりである-彼女からの小包も受取つた、さつそく袷に着換へる、人の心のあたたかさが身にしみこむ-。-略-

此地方の子供はみんな跣足で学校へゆく-此地方に限らず、田舎はどこでもさうだが-、学校にはチヤンと足洗ひ場がある、ハイカラな服を着てハイカラな靴を穿いた子供よりもなんぼう親しみがあるか知れない。-略-
三日振に湯に入つて髯を剃つて一杯ひつかけた、今夜はきつといい夢をみることだらう!

※表題句の外、5句を記す

―日々余話― 保冷ボトルの旅

今朝、ピンポーンと玄関のチャイム、東京からの宅急便、中身は保冷ボトル。
じつは、日曜日の神澤師七回忌イベントから帰る際、うっかり忘れたのが件の保冷ボトル、娘のKAORUKOのだ。
帰路について、車を30分ほども走らせたところで、KAORUKOが大きな声を上げた。
「水筒、ない! 忘れた?」
あわててUターン、取って返したが、宴の後もすでに閑散として、人影はまばら。
どうやら、もう一組居た親子連れの忘れ物と勘違いされたらしく、その親子の知人が「渡してあげる」と、ご丁寧に持ち帰ったらしい。
親子連れも、その知人も、東京方面からの、遠来の客人だった。
というわけで、この保冷ボトル、東京まで三泊四日もの長旅をして、今朝、主人KAORUKOの許へと、無事ご帰還なさったのだった。

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September 09, 2009

尿するそこのみそはぎ花ざかり

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月30日の稿に
10月30日、雨、滞在、休養、同前宿

また雨だ、世間師泣かせの雨である、詮方なしに休養する、一日寝てゐた、一刻も早く延岡で留置郵便物を受取りたい心を抑へつけて、-しかし読んだり書いたりすることが出来たので悪くなかつた、頭が何となく重い、胃腸もよろしくない、昨夜久しぶりに過した焼酎のたたりだらう、いや、それにきまつてゐる、自分といふものについて考へさせられる。

  今日一日、腹を立てない事
  今日一日、嘘をいはない事
  今日一日、物を無駄にしない事

これが私の三誓願である、腹を立てない事は或る程度まで実践してゐるが、嘘をいはない事はなかなか出来ない、口で嘘をいはないばかりでなく、心でも嘘をいはないやうにならなければならない、体でも嘘をいはないやうにならなければならない、行持が水の流れるやうに、また風の吹くやうにならなければならないのである。

行乞しつつ腹を立てるやうなことがあつては所詮救はれない、断られた時は、或は黙過された時は自分自身を省みよ、自分は大体供養を受ける資格を持つてゐないではないか、応供は羅漢果を得てゐるものにして初めてその資格を与へられるのである、私は近年しみじみ物貰ひとも托鉢とも何とも要領を得ない現在の境涯を恥ぢ且つ悲しんでゐる。

そして物を無駄にしない事は一通りはやれないことはない、しかししんじつ物を無駄にしない事、いひかへれば物を活かして使ふことは難中の難だ、酒を飲むのも好きでやめられないなら仕方ないが、さて飲んだ酒がどれだけの功徳-その人にとつては-を発揮するか、酒に飲まれて酒の奴隷となるのでは助からない。‥‥

今日は菊の節句である、家を持たない私には節句も正月もないが、雨のおかげでゆつくり休んだ。
降る雨は、人間が祈らうが祈るまいが、降るだけは降る、その事はよく知つてゐて、しかし、空を見上げて霽れてくれるやうにと祈り望むのが人間の心だ、心といふよりも性だ、ここに人間味といつたやうなものがある。-略-

一日降りつづけて風さへ加はつた、明日の天候も覚束ない、ままよどうなるものか、降るだけ降れ、吹くだけ吹け。

※表題句の外、7句を記す

―日々余話― Soulful Days-26- 悲母観音に‥

空も、風も、ようやく秋の色
9月9日、昨年の今日、それは午後8時15分頃だった、とされている
夜とはいえ、見通しのよい広い交差点内で起こった、右折車と直進車の衝突事故
直後より脳死状態となっていたRYOUKOは、5日後、その命を絶たれた
甲乙、二人の運転手の刑事責任について、いまだ、検察庁の取り調べは、膠着状態のままだ
1年、365日、8,760時間、525,600分、31,536,000秒
その一瞬、その1秒さえなければ、あの人なつこい笑顔に、いつでも会えたものを
偶然の悪戯とは、これほど酷いものか‥

先日、「悲母観音」が、ようやく届いた
東京芸術大学所蔵の、狩野芳崖の悲母観音
美術書などではともかく、その実物を、この眼で観たのは、事故の一週間前、9月2日であった
額装の、その原寸は1808mm×867mm
小学館が復刻出版した軸装は、外寸こそ1840mm×580mmだが
作品本体のほうは、990mm×440mm、原画の51%大と、些か小振りなのは、致し方あるまい
一周忌の法要を、この日曜日、浄光寺で営むことになっているが
席上、この悲母観音を掲げ、仏となるべきRYOUKOを、荘厳してやりたい、と考えてきた
それが、仏法の儀礼に、適うか否か知るはずもないが、そんなことはお構いなし‥

RYOUKOよ、おまえは、悲母観音になるのだ

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September 08, 2009

からりと晴れた朝の草鞋もしつくり

0803

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月29日の稿に
10月29日、晴、行程2里、富高、門川行乞、坂本屋

降つて降つて降つたあとの秋晴だ、午前中富高町行乞、それから門川まで2里弱、行乞1時間。
けふの行乞相もよかつた、しかし、一二点はよくなかつた、それは私が悪いといふよりも人間そのものの悪さだらう! 4時近くなったので此宿に泊る、ここにはお新婆さん宿といつて名代の宿があるのだが、わざと此宿に泊つたのである、思つたよりもよい宿だ、いわしの刺身はうまかつた。

なかなかよい宿だが、なかなか忙しい宿だ、稲扱も忙しいし、客賄も忙しい、牛がなく猫がなく子供がなく鶏がなく、いやはや賑やかなことだ、そして同宿の同行は喘息持ちで耄碌してゐる、悲喜劇の一齣だ。

※表題句の外、1句を記す

-日々余話- きしもと学舎の行く末

一昨夜と昨夜、きしもと学舎だよりのレイアウト作業に没頭。残すはプリントアウトに持込むのみとなった。

岸本康弘は、7月上旬に帰国しており、以後何回か会って会報作りについても話し合ってきのだが、年齢とともに体力の衰えばかりか、障害からどんどん動きづらくなっているようで、ポカラの学校運営もいよいよその在り方を考えなければならなくなってきている。

学舎の転換を図らねばならぬ。万一ある時に備えて、ソフトランディング出来る態にしておかねばならぬ。
学校運営から通学支援へ、転換していくしかないということ。
そんな話し合いの中で、今回は私も原稿を書かねばならぬ羽目となった。以下はその転載である。

民主化の流れ、公教育の充実と拡大のなか、なお学校に行けない子どもらのために
-学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へ-転換をめざす

松葉杖を唯一の友として、日本中をさすらい、世界中をさすらった、その果てに
なお燃え尽きない、生命の火の、その末期の住処として
世界の最高峰ヒマラヤの山々に抱かれた、ネパールの町ポカラに
貧困の子らの未来を紡ぐ、学校を建てよう、と

車椅子の詩人・岸本康弘の、この稀有な発心から、ポカラきしもと学舎の事業が始まったのは’97年
民主化の流れで、立憲君主制から共和制へと、激動するネパール情勢に翻弄されつつも
‘01年には、現地NPO法人HDSSを設立、政府認可の学校として、ネパール岸本スクールへと変身
ポカラとの往来暮しも、今年はすでに13年目を迎えました

岸本康弘は、この間ずっと、自身の障害からくる体力の衰えと、病魔の浸蝕に抗いつつ
この限られた余命のなかで
きしもと学舎の会のみなさまの、温かい支援、溢れる善意に支えられつつも
いわば徒手空拳で取り組んできた、生命の火の事業、ポカラでの学校運営を
いかに守りぬくべきか、またどのようなゴールをめざすべきか、考えぬいてきました

いま、ネパールは、民主化はなったとはいえ、不安定な連立政権の下
なお流動的な情勢にあって、さまざま波乱含みであることは、よくご承知のことと思います
とはいえ、この十数年で、国民の識字率は、若年層において格段の上昇を示しており
全土的な公教育の充実、拡大のなかで、初等教育における就学率も、また格段に上昇しています

それでもなお、貧困ゆえに学校に行けない、最下層の、ひとにぎりの子どもたちがいます
ネパール政府は、そういった子どもたちに、その親たちに向けて、就学を奨励喧伝すれども
経済的な援助施策を採るなど、まだまだ到底望むべくもありません

貧しく虐げられたこの子らのために、限られた余命のなか、自身に課すべきはいったいなにか?
いったいどのようなかたちが、望ましいものであるか?
それは、富める者も貧しき者も区別なく、また残存するカーストなどによる差別もなく
どんな子どもたちもみな等しく、同じ学び舎に通い、育つことでありましょうか

ささやかなりとも、この12年の歳月、灯しつづけたその一燈を
岸本康弘は、きしもと学舎の会は
この先、一両年をかけて
学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へと
その使命を、転換していきたい、と考えています

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September 07, 2009

波の音しぐれて暗し

Kamizawa01

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月28日の稿に
10月28日、曇、雨、行程3里、富高町、成美屋

おぼつかない空模様である、そしてだいぶ冷える、もう単衣ではやりきれなくなつた、君がなさけの袷を着ましよ!
行乞には早すぎるので-四国ではなんぼ早くてもかまはない、早くなければいただけない、同行が多いから-、紅足馬さんから貰つてきた名家俳句集を読む、惟然坊句集も面白くないことはないけれど、隠者型にはまつているのが鼻につく、やつぱり良寛和尚の方がより楽しめる。-略-

ずいぶん降つた、どしや降りだ、雷鳴さへ加はつて電灯も消えてしまつた、幸にして同宿の老遍路さんが好人物だつたので、いろいろの事を話しつづけた、同行の話といふものは-或る意味に於て-、面白い。-略-

※表題句の外、10句を記す

―表象の森- 師七回忌に何を幕引く

  あの山の名が知りたい
  不意にそう思った
  名を知れば
  山と一つになれる
  草の名を
  知りたかったように

この短い詩は、神澤和夫師が逝かれた、その年の、年詞に綴られていたものだ。
師の七回忌にあたり、所縁の者たちで「アンティゴネー」の上演会を行い、偲ぶ集いとしようと計画があるということについては、すでに先に触れている。

昨日、まさに師の命日にあたる日、学園前の住宅街のはずれ、竹林にかこまれた小高い山中、師の自宅兼稽古場に集ったのは100名近くに及んだであろうか。

長男和明氏による訳・構成の舞踊劇とされた「アンティゴネー」は、意外にも演劇性の勝った世界であった。客席の中央に座して上演を見守っていた河東けいさん、さらにヒロインのアンティゴネーやクレオンを演じた俳優が関西芸術座所属であったことを符号するに、和明-照明の新田三郎ラインから河東けいさんの協力に与ったものと覗えた。

他に、劇団いかるがから2名、シアター生駒から1名。昨今、地域における劇団づくりがかなり盛んだが、これらも和明氏関わりのサークルかと思われるが、如何せん、その演技はまだまだ未熟といわざるを得ず、関芸の二人もまた、ギリシア悲劇を演じるには、コトバの立つ力に乏しく迫力不足、アンサンブルにおいても未だしの感で、総体に付焼刃の準備不足か。

踊る人たちの構成もまたキャリアの不均衡が目立つのは些か悩ましく、もっと陣容を整えられようものを、どんな基準で声をかけていったものか、その選択に疑問は残る。

神澤師の遺産、その有意の人脈を相応に活かしたなら、この程度で収まろう筈はあるまいに、全体の印象を一口でいうならば、当事者たる和明氏と茂子夫人、両者のこの取組が恣意性に流れてしまった結果ではなかったか、と思われる。

それにしても、客として立ち会った人々、ここでも私の知る人はずいぶんと少なかった。伊藤茂、升田光信、藤井章、千葉綾子、渡辺ルネ、奥田房子、金子康子、それに中原喜郎夫人の絹代さん、昔懐かしい松田春子さんと松田友絵さんの両松田、めぼしいところでそんなところ。裏方として支えていたのが、矢野賢三、山城武、西野秀樹。なにしろ踊った人々13人の内、私の知るのは、指村崇と高木雅子、それに高山明美と浜口慶子と神原栄子-旧姓・梯-のたった5人だ。

客席においてもまた、主催側の恣意的な選別がおおいに働いてしまっているわけだが、古くから研究所に拠り来り、神澤の舞踊を支えてきた多くの戦士たちがこの場に臨み得ぬことの、悲しい寂寥感に襲われては、胸中侘びしい風が吹き抜ける。

今日この日、ここにおいて、神澤師が生き、茂子夫人が生き、そしてわれわれ、おそらくは数百に及ぶ無名の仲間たちが生きてきた神澤研究所、稽古場の灯は、この現実の世界に潰えて、はっきりと幕を閉じたのだ。

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September 06, 2009

ひとりきりの湯で思ふこともない

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月27日の稿に
10月27日、晴、行程3里、美々津町、いけべや

けさはまづ水の音に眼がさめた、その水で顔を洗つた、流るる水はよいものだ、何もかも流れる、流れることそのものは何といつてもよろしい。-略-

途上、愕然として我にかへる-母を憶ひ弟を憶ひ、更に父を憶ひ祖母を憶ひ姉を憶ひ、更にまた伯父を憶ひ伯母を憶ひ-何のための出家ぞ、何のための行脚ぞ、法衣に対して恥づかしくないか、袈裟に対して恐れ多くはないか、江湖万人の布施に対して何を酬ゐるか-自己革命のなさざるべからずを考へざるを得なかつた-この事実については、もつと、もつと、書き残しておかなければならない-。-略-

今日も此宿で、修行遍路ではやつてゆけない実例と同宿した、こんなに不景気で、そしてこんなに米価安では誰だつて困る、私があまり困らないですむのは、袈裟の功徳と、そして若し附けくわへることを許されるならば、行乞の技巧とのためである。
入浴、そして一杯ひつかける、-これで今日の命の終り!

※表題句の外、1句を記す

―日々余話― 遠きと近きと

垣根を越えた同期会といえば、たしかにそう言えなくもない。

私の出身中学は、今の大阪ドーム横にある西中学校だ。卒業が昭和35年だからちょうど50年前、新制11期生にあたるが、これまで50年、同窓会など一度たりとも聞いたことがなかった。前後する先輩後輩の期においてもそんな話を漏れ聞いたこともない。かすかに記憶に残るのは、出身生だったのか二代目の桂春蝶を招んで、卒業生全体に呼びかけた同窓会の如き催しが、いつだったかなされたように思うが、勿論これに出席していない。

西中校下には、九条東小、九条北小、九条南小の3校がある。私らの南小では、20代の頃に2度ばかりと、それからぐんと年月を経て、50代に入る頃から再開され、以後3年間隔ほどのペースで行われてきた。
東小では、卒業生に九条新道の商店主などが多い所為もあり、彼らを中心にあまり途切れることなく行われてきたようだが、人口密集地を背景に最も児童が多かった北小では、うまく音頭取りが出なかったか、ずっと行われてこなかったらしい。

昨夜の同期会企画は、地域興しとして長年「九条下町ツアー」を催してきた谷口靖弘君周辺から起きてきたものだ。卒業して50年となれば、今年みな65歳となり、いわゆる高齢者の仲間入りというわけだが、そんなことが動機となったか、彼らは東小に限らず、この際いっそ南・北へもひろげて、西中同期会へとシフトさせようとしたものだった。
急な話だったけれど、在学時、歴史の先生で、当時から新進の考古学者として発掘調査などに活躍していた藤井直正さんも出席されるというので、協働するのもよいのではないかと思った。

集ったのは計38名、言いだしべえの東小卒が過半を占め20名、北小卒が9名、南小卒が8名、中学のみ在籍が1名という内訳。まさに50年ぶりに出会す顔ぶれが大勢いるものだから、名札を付けていてくれても、顔と名前が結ばれ、遠い記憶が蘇ってくることにもかぎりがある。まず3割は初見の未知の人同然、4割ほどはなんとかその人と形-なり-が思い起こせる人々、残る3割が記憶も鮮やかにこもごも会話の弾む者たち、といったところ。わずか40名ほどの集いで、この遠さと近さのずいぶんな懸隔には、些か戸惑いがはしる。一座は谷口君らの周到な準備と工夫で、まあ賑やかに進行されたが、未知にも等しい遠さは回復させようもないのだから、新たな出会いとしてこのたびこの座から関係を出発させるしかない。

懐かしくも、遠きと近きとが混在して、ちょっと変わった味わいの一夜だった。

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September 04, 2009

よいお天気の草鞋がかろい

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月26日の稿に
10月26日、晴、行程4里、都濃町、さつま屋

ほんとうに秋空一碧だ、万物のうつくしさはどうだ、秋、秋、秋のよさが身心に徹する。

8時から11時まで高鍋町本通り行乞、そして行乞しながら歩く、今日の道は松並木つづき、見遙かす山なみもよかつた、4時過ぎて都濃町の此宿に草鞋をぬぐ、教へられた屋号は「かごしまや」だつたが、招牌には「さつまや」とあつた、隣は湯屋、前は酒屋、その湯にはいつて、その酒屋へ寄つて新聞を読ませて貰つた。-略-

米の安さ、野菜の安さはどうだ、米一升18銭では敷島一個ぢやないか、見事な大根一本が5厘にも値しない、菜葉一把が1厘か2厘だ、私なども困るが-修業者はとてもやつてゆけまい-農村のみじめさは見てゐられない。-略-

早く寝たが、蚤がなかなか寝せない、虱はまだゐないらしい、寝られないままに、同宿の人々の話を聞く、競馬の話だ、賭博本能が飲酒本能と同様に人生そのものに根ざしてゐることを知る-勿論、色、食の二本能以外に-。

※表題句の外、「まつたく雲がない笠をぬぎ」など9句を記す

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September 03, 2009

山風澄みわたる笠をぬぐ

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―山頭火の一句―昭和5年の行乞記、10月25日の稿に
10月25日、晴曇、行程3里、高鍋町、川崎屋

晴れたり曇ったり、かはりやすい秋空だつた、7時過ぎ出発する、二日二夜を共にした7人に再会と幸福を祈りつつ、別れ別れになつてゆく。

私はひとり北へ、途中行乞しつつ高鍋まで、1時過ぎに着く、2時間ばかり行乞、此宿をたづねて厄介になる、聞いた通りに、気安い、気持よい宿である。

今日は酒を慎んだ、酒は飲むだけ不幸で、飲まないだけ幸福だ、一合の幸福は兎角一升の不幸となりがちだ。
今夜は相客がたつた一人、それもおとなしい爺さんで、隣室へひつこんでしまつたので、一室一人、一灯を分けあつて読む、そして宿のおばあさんがとても人柄で、坊主枕の安らかさもうれしかつた。

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September 02, 2009

笠に巣喰うてゐる小蜘蛛なれば

Bangai

―表象の森― 嗚呼、シラフジアカネ

いやぁ、ビックリした。
4日前の8/29、土曜の夜のことだが、生駒山脈の北、飯盛山の麓は四条畷神社の近く、黄昏時のえにし庵ではじまった麿赤児VS梅津和時のLive Sessionに、突如、放り出されるように半裸姿で這い出てきたのは、誰あろうシラフジアカネ-白藤茜-だった。

そういえば、始まる前の会場を、車椅子に乗せられたぽっちゃりと小太りの男が、すでに酒に酔っているのか、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとしているのを眼にしていたが、そうか、あの酔っぱらいが白藤茜だったのか‥。

それにしても、この懐かしいような既視感に満ちた光景は、どうしたことか。おそらく30年の時空を隔てたある一コマが、ここに再現されようとしているにちがいないのだが、それを在らしめんとする執着、それは妄執にも近いものだとしても、それを孕みうる白藤茜自身と、これを受容しうるばかりか、むしろ喝采をあげて享楽のタネにもしてしまおうという祝祭の場とは‥。これをしもEventの仕掛人石田博の胸の内にあったとすれば、彼の企図に脱帽しなければなるまい。

8/9の項でも記したが、麿赤児率いる大駱駝艦が、京都曼珠院横に設えられた盤船伽藍なる野外劇場で「海印の馬」を上演したのは、80年の秋であった。この時のポスター・チラシが掲げた写真だが、これをデザインしたのが石田博であり、ゲスト出演として白藤茜が名を連ねてもいる。

この特異な盤船伽藍なる野外劇場の建設も、60年代末より、元京都府学連委員長だった高瀬泰司らを中心に、西部講堂に拠った活動家たちの運動からひろがっていったネットワークの数多の者らが、手弁当の労働で大いに与ったものだった筈だ。それは87年の「鬼市場」の仕掛や設営にしても然りだったろう。

後に、幾たびかの海外公演や国内各所での再演で、大駱駝艦の代表作ともされる「海印の馬」という公演タイトル自体、この時に初めて使われているところを見れば、この名付けが、必ずしも麿赤児自身からではなく、この企画を発案し支えた者たちのなかから創案されたものではなかったか、とさえ思われる。

そういったことを背景にしてみれば、異形白塗りの麿赤児を前にして、左半身の麻痺が老いゆくとともに進行し、もはや自ら立つこともならず、また容易に這うこともならない不自由な五体を、ただ曝すばかりの白藤茜との対照、その競演は、夜の帷が降りゆき、雲隠れしては顔を出す半月の下、篝火と二つ三つのスポットに照らされて、夏の名残の夜の夢幻のひとときか、胸中去来するもの曰くなんとも言い難し‥。

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月23日の稿に
10月24日、雨、滞在、休養、宿は同前-富田屋-

雨、風まで吹く、同宿者7人、みんな文なしだから空を仰いで嘆息してゐる、しかし元来ののんき人種だから、火もない火鉢を囲んで四方八方の話に笑ひ興じる。-略-

長い退屈な一日だつた、無駄話は面白いけれど、それを続けると倦いてくる、-略-
晩酌には、同病相憐れむといつた風で、尺八老に一杯おせつたいした、彼の笑顔は焼酎一合のお礼としては勿体ないほどよかつた。

明日は晴れる、晴れてくれ、晴れなければ困るといふ気分で、みんな早くから寝た、私だつて明日も降つたら、宿銭はオンリヨウだ、-オンリョウとはマイナスの隠語である。オンリヨウ-とはマイナスの隠語である。

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