« April 2009 | Main | June 2009 »

May 31, 2009

焼き捨てて日記の灰のこれだけか

Ichiokaob090530

山頭火の一句-昭和5年9月

私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった。愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だった、浮き草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、――
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写さう。
私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなってゐるのである。ただ捨てても捨てても捨てきれないものに涙が流れるのである。私もやうやく「行乞記」を書きだすことが出来るやうになった。――

ほぼ3ヶ月のこの九州行乞、第1日目の足跡は9月9日の八代町にはじまる。そして人吉・都城・宮崎・志布志・高鍋・延岡・竹田・由布院・中津・八幡・糸田・門司・下関・後藤寺・福岡・大牟田と廻って、12月15日に熊本へと戻った。

―四方のたより― 市岡OB美術展

とうとう第10回を迎えたOB美術展、昨夕はその千秋楽、打上げの会。

高校時代より畏兄と仰いだ辻正宏が逝って、その一周忌に彼を偲ぶ会が「いまふたたびの’98市岡文化祭」と名づけられ故人有縁の輩が集ったのを機縁に、’00年の1月だったか第1回が開催されたのが、回を重ね、いつしか歳月はめぐってはや10回目を数えるに至った訳だが、こうして年に一度の逢瀬をたび重ねてきた来し方をふりかえれば、去来することさまざま輻輳してなんとも言葉にしがたいものがある。

ただ明瞭に云えることは、流れた歳月だけおのおの年老いてきたという動かしがたい事実が、お互い五十路、六十路を歩いてきた輩だけに、強い感触をもって迫ってくるのだ。

写真は第10回を迎えた記念誌としての作品集、表紙・裏表紙に配されているのは3年前に逝かれた中原喜郎兄の作品。

―表象の森―「群島-世界論」-07-

2005年10月下旬、ガラパゴス群島最大のイサベラ島でシエラネグラ火山が噴火したというニュースは、記憶のなかに眠っていた火山群島の鮮烈なイメージをあらたに喚びだすきっかけを私に与えた。溶岩がゆっくりと島の野生をなぎ倒して流れ進み、水蒸気雲が上空20キロまで立ち上るその映像のなかに、私はあらためて<島>というものの誕生にかかわる

神話的な光景を透視した。「群島」を想像する人間の脳裡にとりわけ深く刻まれているもっとも始原的で原型-model-的な火山群島として、ガラパゴス群島を挙げることに異論を持つ人は少ないだろう。

南米、エクアドルの西方沖約1000キロの大洋上、赤道直下に点在する大小19の島といくつもの岩礁からなるガラパゴス群島は、その立地、景観、生物相、そして太平洋探検史における特別の経緯も相俟って、すでにある意味で「始原の島」としての神話的原型をさまざまな大衆的・文化的創造力に提供しつづけてきた。とりわけこの群島は「種」-species-という生物学的概念を進化論の射程のもとに確立したダーウィンの理論の啓示的「発見」をもたらした特権的な場所としてなによりも知られている。

 -今福龍太「群島-世界論」/7.種の起源、<私>の起源/より

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (5) | TrackBack (0)

May 30, 2009

春は三月曙のそら

Db07050910093

―表象の森― 神の出遊

遊とは、この隠れたる神の出遊をいうのが原義である。それは彷徨する神を意味した。
遊、その字形は、旗をもつ人の形にしるされているが、旗は氏族の標識であり、氏族の霊の宿るもの。
旗を掲げて行動するは、その氏族神とともに行動することであり、あるいは氏族神そのものの出行とも考えられる。それが遊であり、遊とは神の出行である。

旗棹上部に、吹き流しとして添えられているものを、偃遊-えんゆう-という。わが国の「ひれ」というものに近いと思われるが、神の宿るところはこの吹き流しの部分にあったようだ。中国では旒-リュウ-という。この垂れ衣に、日月交竜、熊虎鳥隼亀蛇などの画文を加えた。

ひれは領巾、肩衣としるすように、肩や襟元に着ける長いきれである。もとより呪符として用いるもので、松浦佐用姫の領巾麾-ひれふり-の伝説-佐用姫が、朝命を奉じて海を越えて使する佐提比古-サデヒコ-との別れを惜しんで山に登り、離れゆく船を望んで、領巾を脱ぎこれを麾-まね-いた-も呪布としての信仰にその運命を托したことを示している。

 松浦懸佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつをらむ -万葉集868
 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 -万葉集874

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-36

  糸桜腹いつぱいに咲にけり  

   春は三月曙のそら  野水

次男曰く、挙句。段々と白んでくる空の景色に目を付けたところ、枝垂れ桜の花の色にも、裾拡がりの風情にもよく映る。

匂の花から起す春は二句続でよい。巡では去来に当るが、花の座を譲り、入替って野水がつとめている、と。

「灰汁桶の巻」全句

灰汁桶の雫やみけりきりぎりす   凡兆 -秋  初折-一ノ折-表
 あぶらかすりて宵寝する秋     芭蕉 -秋
新畳敷ならしたる月かげに      野水 -秋・月
 ならべて嬉し十のさかづき     去来 -雑
千代経べき物を様々子日して    芭蕉 -春
 鶯の音にたびら雪降る       凡兆 -春
乗出して肱に余る春の駒       去来 -春  初折-一ノ折-裏
 摩耶が高根に雲のかゝれる    野水 -雑
ゆふめしにかますご喰へば風薫る 凡兆 -夏
 蛭の口処をかきて気味よき     芭蕉 -夏
ものおもひけふは忘れて休む日に  野水 -雑
 迎せはしき殿よりのふみ      去来 -雑
金鍔と人によばるゝ身のやすさ   芭蕉 -雑
 あつ風呂ずきの宵々の月     凡兆 -秋・月
町内の秋も更行明やしき      去来 -秋
 何を見るにも露ばかり也      野水 -秋
花とちる身は西念が衣着て     芭蕉 -春・花
 木曽の酢茎に春もくれつゝ     凡兆 -春
かへるやら山陰伝ふ四十から    野水 -雑・春 名残折-二ノ折-表
 柴さす家のむねをからげる     去来 -雑
冬空のあれに成たる北颪       凡兆 -冬
 旅の馳走に有明しをく        芭蕉 -雑
すさまじき女の智慧もはかなくて   去来 -雑・秋
 何おもひ草狼のなく          野水 -秋
夕月夜岡の萱ねの御廟守る     芭蕉 -秋・月
 人もわすれしあかそぶの水     凡兆 -雑
うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  野水 -雑
 又も大事の鮓を取出す        去来 -夏
堤より田の青やぎていさぎよき    凡兆 -夏
 加茂のやしろは能き社なり     芭蕉 -雑
物うりの尻声高く名乗すて      去来 -雑  名残折-二ノ折-裏
 雨のやどりの無常迅速       野水 -雑
昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ   芭蕉 -雑
 しよろしよろ水に藺のそよぐらん  凡兆 -雑
糸桜腹いつぱいに咲にけり      去来 -春・花
 春は三月曙のそら          野水 -春

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 29, 2009

しづけさは死ぬるばかりの水が流れて

Dc090315017

山頭火の一句-昭和5年9月

山頭火の行乞記「あの山越えて」は、熊本での「三八九-さんばく-」居の時期を挟んで二つの旅、前半は昭和5年9月から12月までのほぼ3ヶ月、後半は昭和6年の暮から翌年の4月まで約5ヶ月の旅となっている。
 このみちや
 いくたりゆきし
 われはけふゆく
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ、と旅のはじまりの一日を書きおこしている。

―表象の森―「群島-世界論」-06-

アルジェで「孤島」-Les Iles-という本をはじめて手にとったとき、アルベール・カミュは二十歳だった。小説を書きたいという欲動が体内からあふれ出さんばかりにみなぎる、痛いほどに幸福な、誰もが記憶するあの若き王国での出来事である。その本は啓示そのものだった。傾倒、そして熱狂的な従順がそのあとにつづいた。太陽、夜、海-そうした自然の与えてくれるむせかえるような美と陶酔の氾濫だけを、ただ享楽として受け入れるだけだった若者の傲慢さに向けて、その本は火山の震動のような衝撃を与え、氷の雨をはげしく降らせた。「自然」の神々を崇拝するだけの野蛮な悦楽の日々にたいし、それは聖なる痛み、不可避の死、愛の不可能といった懐疑と憂鬱の像をつきつけ、カミュにはじめて人間の内部に翳のように巣くう「文化」なるものの存在を発見させた。はじめて覚える「消えやすさ」の感触が、「消え去ることのない」味わいとして、若い感性の襞のなかに深く浸透し永遠にとどまった‥。

「孤島」の著者ジャン・グルニエ、1930年、パリから新任哲学教授として赴任してきた彼をアルジェ高等学校で迎えたカミュは、この師とのあいだにすでに張られていた見えざる共感の糸を直観し、師の人と作品を通じて、その硬質の糸を自らの内部で豊かに紡いでいったのだった。
 -今福龍太「群島-世界論」/6.メランコリーの孤島/より-

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 28, 2009

糸桜腹いつぱいに咲にけり

Dancecafe080928205

―世間虚仮― 寒冷渦

夜は雨、二日続きの荒れ模様。この時期にしてめずらしいことだが、その原因は四国沖の寒冷渦とか。気象衛星の図を見れば、列島に大きな渦模様がかかっている。上空の偏西風から切り離された低気圧が動かず停滞したままなそうな。別名「切離低気圧」、英語ではCutoff Lowだと、まるで表記のそのままじゃないか。この寒冷渦、どうやら発達のピークは過ぎたようだが、30日までは四国沖でノロノロ、31日にようやく東へ動き出すだろうと。
週末の外出は傘が要るようだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-35

   しよろしよろ水に藺のそよぐらん  

  糸桜腹いつぱいに咲にけり  去来

次男曰く、名残の花-匂の花-である。
連・俳で「花」とは、文字どおり賞翫の惣名である。桜の花は代表的なものだが、その名で呼んでは「花」にならない。梅の花、桃の花、菊の花なども、「花の兄」「三日の花」「花の弟」と遣えば花になる。

元禄5年12月末、江戸での六吟歌仙の発句として詠んだ「打よりて花入探れんめつばき」を、芭蕉は「花」の句としている。一座を「花入」に見立てた趣向で-興行そのものが花だ-、早梅や冬椿が代役になるわけではない。

句は、芭蕉連句のなかで、「桜」を「花」代わりに遣った唯一の例で。事の次第は「去来抄」に記している。「予、花を桜に替えんと乞。先師曰、故はいかに。去来曰、凡そ、花はさくらにあらずといへる。一通りはする事にして、花聟・茶の出花なども花やかなるによる。花やかなりといふも、よる所あり。必竟、花は咲節をのがるまじとおもひ侍る也。先師曰、‥ともかくも作すべし。されど尋常の桜にて替たるは詮なからんと也。予、糸桜はら一ぱいに咲にけり、と吟じければ、句我儘也、と笑ひ給ひけり」。

糸桜に固執した訳も、「我儘」な句を認めた訳もこれではよくわからぬが、去来の句作りは、たぶん前二句の景の見立に、西行らしい遁世者の姿をからませたものだろう。しょろしょろと流れる小水に藺草がそよぎ、かたわらに青鷺が一羽、佇立して眠っていると云えば、藺田や江汀でなければ山寺か草庵の池泉のさまだ。初折、花の座の作り-「花とちる身は西念が衣着て-芭蕉-に合せて、去来は謡曲「西行桜」の一節を借りたらしい。

「花の名たかきは、まづ初花をいそぐなる、近衛殿の糸ざくら。見わたせば柳・桜をこきまぜて、都は春の錦散乱たり」

葉らしい葉もなく、茶緑の小花もおよそ見映のせぬ、ひょろりと直立した藺草の風情は、柳とは似ても似つかぬ貧相なものだ。洛中の春が「柳・桜をこきまぜて」錦を飾るなら、草庵の春の贅沢は藺草のそよぎに満開の枝垂れ桜だ、と去来は云いたいらしい。

しだれは長寿を祝う縁起物である。矮小な藺草は柳糸に較べるべくもない。ならば、せめて糸桜に「腹いっぱい」しだれてもらおう、と読めばこの句は、俳も祝言もよくわかってくる。そういう興について、俳諧師当人は何一つ語ろうとはせぬものだ、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 27, 2009

迷うた道でそのまま泊る

080209098

山頭火の一句-昭和4年の早春か

これより先、昭和2.3年にかけてのいつ頃か、山頭火ははじめての四国遍歴をしている。その四国遍路のあと小豆島へと渡り、念願の放哉墓参を果たしている。暑い夏の盛りであったという。

昭和4年の正月は広島で迎えたようだが、この宿先から彼は、福岡の木村緑平宛に金策無心のハガキを出している。「新年早々不吉な事を申し上げてすみませんが、ゲルト五円貸して戴けますまいか、宿銭がたまつて立つに立たれないで困つてゐるのです」と。

この無心に緑平はすぐにも応じたのだろう、まもなく山頭火は田川郡糸田村-現・糸田町-の緑平宅を訪ね、何泊かしたかと見える。緑平宅を辞してから飯塚へ向かったのは、日鉄二瀬炭鉱に勤めていた息子の健-当時19歳-に会うためだったようだ。その飯塚から緑平に宛てた礼状のハガキに、この句が添えられていた。

―今月の購入本―
5月は、今福龍太の「群島-世界論」と白川静の世界に、ふと迷い込んだかのように茫漠と過ごしてきた感がある。
ひとまずは「群島-」を読み終えたところで、一日、気分転換とばかり、積み晒しのままにしていた多田富雄の「生命の意味論」を手にしたが、これが一服の清涼剤のごとくはたらいたか、茫とした脳も少しはすっきり。
とりわけ第1章「あいまいな私の成り立ち」で、免疫系あるいは脳神経系の詳説から、超システム-Super System-としての生命体を論じたすえ、「この超システム-Super System-に目的はあるかというと、ないのではないかと私は考えている」と記しているの出会し、一瞬この身が洗われるような爽快感が走ったものである。

・白川静「字訓」-新訂普及版-平凡社
先月に続き白川静の字書三部作の一、’07年に出版された普及版の中古書。

・白川静「文字逍遥」平凡社ライブラリー
漢字は線によって構成される、とはじまる書中「漢字の諸問題」の小題「線の思想」に、「すなわち横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味を持つ。これに対して縦画は、異次元の世界をも貫通するものである。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である」と。

・松岡正剛「白川静 -漢字の世界観-」平凡社新書
広大無比、鬱蒼と樹海のようにひろがる白川静の世界、その生涯を尋ねつつ、学問・思想の全体像を描いてみせる

・今福龍太「クレオール主義」ちくま学芸文庫
クレオール主義とは、なによりもまず、言語・民族・国家に対する自明の帰属関係を解除し、自分という主体のなかに四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とを等しく呼び込むこと-。混血の理念を実践し、複数の言葉を選択し、意志的な移民となることによって立ち現れる冒険的Vision‥。

・山田芳裕「へうげもの 1-4巻」講談社
千利休の連想から古田織部をモデルにした変わった面白い劇画があると聞きつけ珍しくも手を出してみた
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」5月号、シルヴィ・ギエムのDVD「エヴィダンシア」

―図書館からの借本―
・今福龍太「群島-世界論」岩波書店
群島とは、大陸的なるもの-近代国家や国語-の対極にある思考の一つの原理であり、制度的支配秩序の外部または裏面としての、時間・政治・言語の混淆した多様性を意味する。著者は、大陸的なるものに根ざすのではなく、海の潮流に身を委ねるように、群島的想像力により世界のVisionを反転させてみせる、独創的な文学論であり、J.ジョイスや島尾敏雄、D.ウォルコット、或いはカリブ海のクレオール詩人やゲール語で書くアイルランドの詩人たち、それらの文芸作品、遠く隔たった地で語られ書かれた言葉同士が、縦横に結ばれ共振する。

・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅱ 神話編」美術出版社
・諸川春樹「西洋絵画の主題物語 Ⅰ 聖書編」美術出版社

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (3)

May 26, 2009

しよろしよろ水に藺のそよぐらん

Db07050910033

―四方のたより― 育ちゆくもの、老いゆくもの

インフル休校の、週半ばの2.3日は、喘息症状に悩まされたKAORUKOも、明けて学校が始まるや、此方の心配をよそに本人はいたって元気な様子、学校から戻るや、その表情は見違えるようで、心身ともに溌剌としていつもの明るさを取り戻していた。
この時期の子どもにとって、学校生活というものが精神性-心理面においてどれほど大きい座を占めていることか、つくづく思い至らされた学校再開である。

近頃思うこと-7月が来れば否応もなく満65歳になる私だが、この年にもなってくると、まだまだ緩やかなものとはいえ、やはり老いゆく身というものを感じないわけにはいかない。やがて身体の不自由さをかこつことにもなりゆくのだろうが、そんな日々には、白川静の世界などを友連れ、慰みにするのもいいかもしれないな。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-34

  昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ  

   しよろしよろ水に藺のそよぐらん  凡兆

次男曰く、只管打坐して一景を悟った、読んでもよし、はこびに即して云えば、景に執成して座を安くした、読んでもよい。

因みに「らん」は、先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらんの「らん」と同じ。先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」の「らん」と同じ、とぼけの云回しである。凡兆は、自分の句-人もわすれしアカソブの水-を虚に執成した野水の工夫に倣った、と告げているのだろう。明らかに呼応させた作りである。

「しよろしよろ水」か「死よろしよろ、水」判然しない句だが、凡兆の遺墨に「ひめゆりやちよろちよろ川の岸に咲く」というのがある。「しよろしよろ水」だろう。

藺-イ-草は古俳書に花を初乃至仲夏とし藺草を晩夏とする。藺とだけでは雑の詞である、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (1)

May 25, 2009

昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ

Dc090315087

―表象の森― 白川静の遊字論

白川静の「文字逍遥」-平凡社ライブラリ-の冒頭には「遊字論」が置かれ、「神の顕現」と小題された一文にはじまる。松岡正剛によれば、この「遊字論」の初出は、彼が嘗て編集していた雑誌「遊」での連載ということだ。

-神の顕現-
 遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。

 遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。神隠るというように、神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。「左」は左手に工の形をした呪具をもち、「右」は右手に祝詞を収める器の形である口-サイ-をもつ。左右とは神に対する行為であり、左右颯々-さつさつ-の舞とは、神のありどを求め、神を楽しませる舞楽である。左右の字をたてに重ねると、尋となる。神を尋ね求める行為として、舞楽が必要であったそれで神事が、舞楽の起源をなしている。祭式の諸形式は、この神を尋ね求める舞楽に発しているのである。

 以下、隠れたる神の「隠」の字、左偏の部首阝は山をたてざまにした形とされ、神が天上に昇り降りする神梯-しんてい-であったこと。神は、その神梯を陟降-ちょくこう-して、地上に降り立っては「み身を隠したまうて」人々の住む近くに住みもするが、その神梯の前に神を祭ることを「際」という、などとつづく。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-33

   雨のやどりの無常迅速  

  昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ  芭蕉

次男曰く、其人を佇立瞑目する雨中の青鷺に執成して、手持無沙汰ということはあるまい、と応じている。雨宿りも、只管打坐だと思えば無為の嘆きから解放される、という目付に気転のある付だが、以て茶禅一味の男のプロフィルと座に覚らせるように作ったところが妙である。

 わが庵は鷺にやどかすあたりにて  野水
  髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉

貞享元年「冬の日」の、初巻7.8句目の付合だ。鷺の宿の亭主-野水-のもてなしに、客-芭蕉-は、尼鷺に身を借りて還俗のよろこびを噛みしめている。記念すべき出会いだった。

あれから6年、野水も既に33歳、芭蕉は47歳である。無常迅速の感はそれぞれにあったろう。尾張の珍客を「青鷺」に擬え、称えたのには、訳がある。眼前其人の頼もしさもさることながら、往時を顧みて、芭蕉は感謝しているのだ。

句は雑躰。戻って去来の「鮓」の句は夏、雑の句を挟んでふたたび同季というはこびはありえない。青鷺に夏の季感を見出したのは「滑稽雑談」「和漢三才図会」-共に正徳年間-あたりからで、当時、蕃殖期のアオサギの肉をとくべつに賞味する流行が生れたからである。佇立するその姿に涼を覚えて詠んだのは、更に下って蕪村の「夕風や水青鷺の脛-ハギ-をうつ」、これが初見のようだ、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (6) | TrackBack (0)

May 23, 2009

雨のやどりの無常迅速

Dancecafe081226165

―世間虚仮― 波乱の白熱二番

昨夜来の寝不足が祟っていたのだろう、気怠さに身体中が支配されて、ただ茫としたままに、なんということもなしに結び近くの数番を眺めていたら、波乱の結び二番、白鵬・朝青龍の両横綱を破った琴欧州と日馬富士の、気力満点の白熱相撲に思わず刮目、中継画面に惹き込まれてしまった。

相撲ファンなどである筈もなく、偶さか見る夜遅くのダイジェスト版ならともかく、まず滅多に見ることなどない相撲中継なのだが、千秋楽前のこの日、先場所から33連勝と全勝街道を走る白鴎と大関昇進以来あまりパッとしない大器琴欧州、1敗同士の朝青龍と大関昇進3場所にしてようやく本領発揮の日馬富士、どちらもがっぷり組んだ力相撲で、決まり手はそれぞれ上手投げと外掛けだが、ともに見事に決まった力相撲で、結びの二番続けてこんなに醍醐味あふれた大一番というのは、なかなかお目にかかれないのではないか。

この4者がともに外国人力士などというのはどうでもよいこと。だいたい相撲が国技なんていうのは、相撲協会が勝手に名告っているに過ぎないじゃないかと思っている私であれば、日本人力士の退潮振りも、横綱の品格がどうのといった騒ぎも、問題の本質からは遠いものじゃないかと思われ、空騒ぎばかりが目立つ昨今の相撲界だが、偶さかこういう一番を眼にすると、さすが相撲というのは格闘技としてよくで出来た、かなり秀逸なものだ、とつくづく感じ入る。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-32

  物うりの尻声高く名乗すて  

   雨のやどりの無常迅速  野水

次男曰く、前句の伸しである。場所は賀茂とはかぎらぬ。俄雨に遭って慌てて駆込むのは軒下がふさわしかろうが、茶屋の床几と考えてもよし、木の下でもかまわぬ。「尻声高く名乗すて」の気分から「無常迅速」を取出したように見える作りだが、雨やどりが即無常迅速に結びつくわけではない。

晴れるあてが有るでもなく無いでもないからこそ、いつの間にか無為の時を過してしまうのが、雨やどりである。あたら光陰を無にする。雨やどりを口惜しいと思うのは野水ばかりではない。

句は、「尻声高く名乗すて」て駆込んだだけに、いっそう、雨やどりの儚さが身に沁みる、と言っている。笑があるだろう。諸注は相宿りと決込んでいるが、そうでなくてもかまわぬ句だ、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 22, 2009

物うりの尻声高く名乗すて

080209096

―表象の森―「群島-世界論」-05-

シマ、という、深い意味の消息を抱え込んだ日本語の音について考えはじめると、私の思考は底なしの淵に導かれるようにして、豊饒な意味連関の濁り水のなかを嬉々として泳ぎ巡る。シマ、と発声すれば、何よりもまず「島」が現れる。群島をめざす、私たちの意識の最深部にある、炸裂と沈潜の、生者と死者の繋がりの、それは豊かな源泉である。だが同時に、奄美・沖縄の島々では、シマは集落のことでもある。シマン人-チュ、シマ口-グチ-、シマ唄-ウタ-、といった用法はみな、本来は浦々に拓かれたそれぞれの村に住む人、そこで話されている土地ことば、そして村々が伝承するうた-民謡-の固有性を意味する表現であった。そしてそれは「ある囲われた地域」「区切られた場」を意味する音として、なわばりを意味する「シマ」という音へと転じてゆく。流刑地に流されることを「シマ流し」といったが、これも、かならずしも島である必要はなく、区切られ、孤絶した場所=シマ、という意味における用法であったろう。とすればシマは-隅-と語根を同じくする。半島や岬という地形もまた、そうした周囲を海で区切られた孤絶した場所の一つであり、シマ-志摩-やスマ-須磨-やスミ-隅-という音が多くの半島域や海岸域にいまで数多く残っていることがその証である。

私の想像力がさらに昂揚するのは、シマという音に「縞」をさぐりあてるときである。人間がなにをもって最初に縞模様を意識したのかは謎というべきだろうが、たとえば、素朴な織物の柄にはかならず微細な縞模様が縦糸と横糸の交差によって織り込まれる。くっきりと画された二種類の色や風合いの差を視覚によって認識することで、人間は無限の空間にむけて原初の「領域」を画すことを学んだ。そのはじめに画された認識の領土が、シマ=縞なのであろう。

折口信夫の雨にけぶる島の井川。異邦人としての違和に立ち尽くす島尾敏雄の暗川。そして干刈あがたの二世の夢が沐浴のまどろみで見せる不可能な帰郷‥。井筒を抜けた対蹠点にそのような群像の声を響かせながら、カリブ海の島々に寄せる浪は、くっきりとした異質性のなかで並びあう感情の群島へと、はるかに私たちを導いてゆく。
 -今福龍太「群島-世界論」/5.二世の井/より-

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-31

   加茂のやしろは能き社なり  

  物うりの尻声高く名乗すて  去来

次男曰く、愈、名残の裏入である。

後の元禄6年、膳所の酒堂が業俳として立つべく大坂に移り住んだとき、その門出に贈った去来の句がある、「門売も声自由なり夏ざかな」。「物うりの」句は、いかにも去来好みの起情だろう。作りは雑躰だが、夏気分が横溢している。

下賀茂社の祭神は玉依姫命、上社別雷命の母神である。それを踏まえて、賀茂の物売は「尻声高く名乗すて」ると云えば、明けっぴろげのくすぐりも利いて、なかなかの俳言になる。これは京の暮しに通じた識者ならではの気転だ、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (1)

May 21, 2009

加茂のやしろは能き社なり

0509rehea0040

―世間虚仮― 騒ぎの陰で‥

一週間のインフル休校だけでも留守居役にはかなりの心身負担で災厄このうえないが、このたびはどうしたことか、小2になってもなお小児性アレルギーや小児喘息から脱皮-?-できないでいる我が娘KAORUKO、このところたしかに呼吸器に危険な徴候が見えていたので、かかりつけの医院にも通い、もちろん投薬もしていたのだが、とうとう昨日などは深夜におよんでから救急診療所に駆けつける仕儀となってしまった。

ところが診察の順を待つあいだに、出かける少し前に飲んでいた薬が効いてきたか、咳込みも小康状態を示すようになっていたから、吸入だけの軽い処置でよかろうと、わざわざ出かけたものの、泰山鳴動云々の如き、少々拍子抜けのご帰還となった。

これで快復に向かうかと思えばなんのことはない、今朝も起き出してからイヤな咳をしてござるし不調を訴えてやまぬ。昨日も行ったかかりつけ医にまたも推参すれば、こんどは吸入ばかりかとうとう点滴まで施される始末で、帰宅した午後からはようやく落ち着いてきているが、まだ時折は咳をしているといったところ。

一般に、アレルギー性小児喘息などはストレスもまた増悪要因となる、といわれる。もちろん気象の変化や大気汚染も関わろうし、さまざまの複合的要因で発症し、悪化もするのだろう。

このKAORUKOのように、それほど重いとも思えぬ子どもですら、外遊びを禁じられた一週間のインフル休校がもたらすであろうストレスは、大人の私などには計りがたいが、かなりのものなのかもしれぬ。

休校になってからの4日間、我が娘の体調変化を見てきて思うのは、彼女なんかよりずっと重症の同じ病をもつ子どもらとその親たちは、けっしてひとしなみにというのではなくcase-by-caseであろうが、いったいどんな辛い目に遭っていることか。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-30

  堤より田の青やぎていさぎよき  

   加茂のやしろは能き社なり  芭蕉

次男曰く、堤とくらべて田の青やぎがふさわしく、かつ潔く見えるのは、とりわけ賀茂神社あたりの眺めだと応じている。賀茂神社は上下二つを合せて呼ぶが、上社の祭神賀茂別雷命は水を司る稲の神である。「加茂のやしろ」は上賀茂社と見てよい。

眺めだけではなく句振りもまた潔く、踏込んで付けている。一意、和家風の仕立で、季が前にあればむろんここは雑躰に作る。当時は葵祭-陰暦4月の中の酉-が応仁以来久しく中絶のままだったから-元禄8年再興-、芭蕉には、いっそう賀茂神社の佇まいが気になった、ということがあったかもしれぬ。

「御手洗詣での道を付たり。かもの社はいつ詣つてもよき社なりとは、西加茂上野辺の人の糾詣ですとて、物陰なきかも堤行かむよりもと左へ取つて、上加茂通り下るとて青田に目を養ひ下加茂に詣づればはや深林の涼風にみそぎする心地し、未だ河合の社-下賀茂社-へ至らざるに水無月の暑さを爰に忘るる様也」-婆心録。この曲斎の考は一解である、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (1)

May 20, 2009

堤より田の青やぎていさぎよき

Dc090315120

―表象の森―「群島-世界論」-04-

群島は、生者と死者の隠された繋がりをひきだす特権的な場である。そして、群島の特異な時相の翳のなかでひきだされる繋がりの環は、歴史的な想像力が媒介するよりはるかに、地理的なイマジネーションが導く発見としてある。「海は歴史である」というカリブ海の黒人詩人デレク・ウォルコットの詩句が鋭く暗示するように、群島のヴィジョンへと導かれるためには、なによりもまず、私たちの思考を海という流体を媒介にして空間的に拓いてゆく想像力が不可欠となる。近代の知の慣性的な認識作用のなかで、強く時間化されてしまった私たちの歴史意識を、新たに珊瑚の海へと突き落とし、大洋と汀にはたらく水の攪拌と浸透の力によって空間化すること。意味の発生を、過去と現在を結ぶ通時的因果関係と合理的説明体系に求めるのではなく、空間的な可塑性をもった具体的な広がりのなかでのものごとの偶発的な出会いの詩学的な強度に求めること。このようにして私たちの目の前にあらわれる群島地図は、近代の時間性のなかで成形された歴史と記録への抑圧を、豊かな記憶と声がおりたたまれた場所への想像力へと解き放ってゆくだろう。

アナクロニスム-時間錯誤-の自覚的実践は、歴史を空間に向かって拓くときに得られるアナロキスム-空間錯誤-を同時に要請する。近代ナショナリズムの表象としての従来の属領的な「世界地図」は、このあらたな地図的感性によって解体され、失効することになるであろう。群島とはまた、そのような非属領的な地図を発生させる、一つの新しいイマジネーションの膂力に与えられた名前でもあることになる。
 -今福龍太「群島-世界論」/4.南の糸、あるいは歴史の飛翔力/より-


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-29

   又も大事の鮓を取出す  

  堤より田の青やぎていさぎよき  凡兆

次男曰く、堤の青草よりも、青田の色のほうが目に沁みる季節になった、と云っている。青田は仲乃至晩夏の季、人情に同季で景を添え、併せて目を内から外へ向けた付である。

草萌ゆる-早春-・若草-初乃至仲春-という季語がある。若草の眺めはつい昨日のことだった、と振り返る人の興に気付かぬと、いよいよ夏が来た、というその心の躍動も見過ごしてまう。季語の移りに目をつけ、青堤は回想-虚-、青田は現前-実-と読ませる作意で、人情の虚実を以てした野水・去来のはこびに合せた景の工夫である。鮮やかな手際だ。凡兆という男、やはりなかなかの目利きである。

「いさぎよき」は句の走り、次句への持成と考えてよい、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 18, 2009

又も大事の鮓を取出す

Dancecafe080928159

―世間虚仮― インフル休校

水際作戦も功を奏さず、メキシコ発の新型インフルエンザはとうとう国内での感染が蔓延しはじめたか、大阪府と兵庫県は学校封鎖に踏み切った。
大阪府は府下の中高全校を今週いっぱい休校の措置、大阪市では中高ばかりか小学校も幼稚園も。

降って湧いたような緊急措置で、帰ってきた子を迎える羽目になったこちらは、突然一週間の子守を押し付けられた格好で些か狼狽気味で、はてさて困った、毎日どうやって過ごしたものか思案投げ首である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-28

  うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  

   又も大事の鮓を取出す  去来

次男曰く、句意ならびに前句とのつながりは説くまでもないが、虚には相応の実が要る、と読ませる合せ技に俳がある。

話を聞く側の伸ばしと見てもよし、ほらふきの向付と読んでもよい人情二句だが、とっておきの嘘を聞かせる-聞いてやる-ためにとっておきの実をふるまう、と笑わせる「又も大事の」のがうまい。「鮓」は熟-なれ-鮓で三夏の季、前句の「自慢」を移して秘蔵としたあしらいである。

芭蕉の「夕月夜岡の萱ねの御廟守る」は、天晴れな恋離れだが、凄々たる趣は蔽うべくもない。続くはこびも詞の縁を持回って、自ずと凝りを生じた。これは、もとをただせば、去来が仕掛けて野水が扶けた思い種の転合が過ぎたからだ。「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」「又も大事の鮓を取出す」は、はこびの凝りをほぐし、流れを変えるための自賠の苦心だ、というところがみそである。

まず野水がほら話にすりかえ気塞ぎを崩せば、去来がくつろぐ体の作りで実情を取り戻している。身から出た、この錆落しも俳になる。ここまで読むと、「うそつき」の取り出しは鉄気水の渋抜きの工夫だった、ということにも気がつく、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 17, 2009

うそつきに自慢いはせて遊ぶらん

080209069_2

―世間虚仮―「ゆびとま」消滅か

今月の2日、360万余の会員登録からなるという同窓会サイト「ゆびとま」がまったく繋がらなくなって、以後なんの徴候もないいままにすでに半月が過ぎ、いまだ音無し。
無論、私が04年9月から営々と続けてきたブログの「Echoo」も同じ境遇にあり、この日以後断ち切られたままだ。

アクセスすると、「重要なお知らせ」と題した数行の挨拶文が掲載されただけの画面が、却って、今度ばかりは事の深刻さを推し量らせ、虚しさをつのらせる。

その短いお断りの冒頭は「甚大なトラブルが発生したことにより、しばらくサービスを停止させて頂きます。」というのだが、この「甚大なトラブル」とは、どうやら機械的・技術的レベルのトラブル・故障といったものではなく、おそらく経営の根幹に関わるトラブル・事件なのだろう。

創立者の手を離れた’05年から、少なくとも経営者は再度の変転を見ているし、その間、機械的トラブルはたびたびあったから、いずれネットの舞台から消え去りゆくのは必至、とも見えていた。

今後、ここに集まった360万余の個人情報が否応なく地下の闇ネットにあまねく行き渡っていく。いや実際のところは、’07年2月、別件の事件からこの経営がすでに暴力団に渡っていたことが明るみになったりしているのだから、とっくに闇組織に流れていると見るのが、むしろ常識というべきだ。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-27

   人もわすれしあかそぶの水  

  うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  野水

次男曰く、
むかし、をとこ、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を忍ぶ草とやいふとて、いださせ給へりければ、たまはりて、
 忘れ草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまむ

「伊勢物語」の、よく知られた話-100段-である。「うそつき」の拠り所はこれだろう。芭蕉の「夕月夜」の句に打ち添うた凡兆の句振りを眺めて、まるで例の話を地でいくような踏替えだと野水ははやしている。尤も、この話は凡兆も知らなかった筈はないから、もともと「人もわすれしあかそぶの水」の下敷きだったと考えれば、野水句は、君の作意は見届けたと凡兆に告げている句になる。どちらでもよい。恋の上ならともかく、忘れ草を忍ぶ-偲ぶ-草と云いくるめる詭弁は、そうたやすく何にでも応用できる技ではない。

「自慢いはせて」には、まず、凡兆の嘘上手を認める感心があるだろうが、句はこびの上では、「御廟守る」人に、別の里人が水の在処や由緒をまことしやかに教えた、と解しておけばよい。

「らん」は、「なり」を婉曲下した云回しで、推量の助動詞ではない。とぼけに俳を持たせている、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 16, 2009

生死の中の雪ふりしきる

0509rehea0016

山頭火の一句昭和6年の作か?

句集「鉢の子」では前書に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり-修証義-」を置く。
時期は些か外れるが、義庵和尚の許で出家して耕畝と改めた山頭火が、大正14年の早春から味取観音堂の堂守となり、翌年4月いよいよ行乞放浪へと旅立つにいたる一年余の山林独住のなかで、なにを想いなにを念じたか‥‥。

紀野一義は、この句を引きつつ
さびしい観音堂の中で山頭火はなにを考えていたろうか。それは、生と死とを無限に繰り返す輪廻転生の世界のこと、悩みや苦しみに満ちた凡夫の人生のことである。‥生死の世界の中に雪が降りしきるのではない。雪もまた、「生死の中の雪」である。生死の迷いを清める雪ではなくて、いよいよ深く降り積もる迷いの雪である、と。

―表象の森― Nocturne花盛り

数日前、今年のローザンヌ国際バレエの模様をVideoで見た。
ファィナルに残った20名の内訳は、男子9名、女子11名。その女子11名が踊ったコンテは、なんと7名が、昨年高田茜が踊ったNocturneに集中するという人気振りで、Nocturne満開の舞台に、些か食傷気味の鑑賞となった。
同じ作品も、踊り手が変われば、それぞれ解釈も異なり、細部で各々その表現も微妙な違いを見せるが、その微妙な差がもたらす印象の落差は、意外なほどに大きいものだとということを、七態のNocturneを眺めわたしながら、今更に感じ入ったものである。

パーティー会場で1人になりたくて庭に出るが、心は慕う男性への想いに揺れ動くなど、さまざまに感情に支配される女性といった、繊細な心理表現が要求される作品だが、総じて、振付のマイムなどで感情移入の過ぎるのが目立ち、その細部への凝りが流れを損ない、優雅な気品で全体を満たすというところに到らない。昨年の高田茜のほうが完成度は高いと云わざるを得ないだろう。

時に、ディテールの凝りや過剰さが、ダイナミックな全体を生み出す、ということはあり得ないわけではないが、言うは易きで、ことはそんな容易いものではない。
以て瞑すべし。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (1) | TrackBack (0)

May 14, 2009

人もわすれしあかそぶの水

Dc090315007

―世間虚仮― 30代の自殺

世界でも有数の自殺が多い国として知られる日本だが、バブル崩壊以降、若年層における自殺者の増加ぶりは著しく、とりわけ30代では、08年度4850人と、91-92年頃に比べてほぼ倍増しており、自殺原因としての伸びはうつ病が前年比21%増と圧倒的、という些かショッキングな報告記事。

これも貧困化社会のあらわれか、出口のない長い就職氷河期が若年世代にさまざま影を落としている。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-26

  夕月夜岡の萱ねの御廟守る  

   人もわすれしあかそぶの水  凡兆

次男曰く、萱と萱草-ヤブカンゾウ-は全く別のものだが、同字の連想から、忘れ草-萱草の別名-にまず思い付いたか。

萱草は「倭名類聚鈔-和名抄-」に「一名忘憂、漢語抄云、和須礼久佐」とあり、「万葉集」も表記「萱草」、諸訓はワスレグサである。この草を植え、または身につけると、憂を忘れるという中国古来の伝承に拠る。

歳時記では「忘れ草の花」を仲乃至晩夏に扱い-忘れ草とだけでは雑の詞-、したがって思ひ草・忍ぶ草とは季を別にするが、三つは床しさ一連の歌語である。

二句一章、「わすれし」とは、前句の作りに、偲び忍ぶ情を見込んで取出した寄合に相違ないが、「後拾遺集」の恋の部「我宿の軒のしのぶにことよせてやがても茂るわすれぐさかな」を下に敷いた恋抜きの工夫、とでも読めば猶合点がゆく。

「あかそぶ」-原表記は「あかそふ」-は赤渋の転訛のようだが、そういうなまりが当時行われていたのか、それとも凡兆の造語か、わからない。ここは、閼伽-アカ-を添ふを掛けて云い回しとした、鉄気-カナケ-水だろう。

句は雑躰である。戻って、「すさまじき女の智慧もはかなくて」が季・雑いずれかに治定するのは、凡兆の巡りに任された作分による-秋の句を以て替えれば、「すさまじき」は秋の季語と見なさなくてもよい-。先に「かへるやら山陰伝う四十から」を、春に許容したのと同じ伝だ。

「雑秋-春-」という分類は勅撰集にもある。春・秋の季続は各三句以上という約束にそれを取り込んで、見合いとしたこの巻の趣向は大胆にしてかつ新鮮、歌仙中段のはこびに彩を添える。凡兆の句は、其の場を見定め、里人の情を汲んで打ち添うたまでで、軽いあしらいぶりだが、季の効果を心得た抑制の作りである、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (1) | TrackBack (0)

May 13, 2009

夕月夜岡の萱ねの御廟守る

Dancecafe081226110

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-25

   何おもひ草狼のなく  

  夕月夜岡の萱ねの御廟守る  芭蕉

次男曰く、
秋の日既に斜になれば、名ある所々見残して、先、後醍醐帝御廟を拝む、
  御廟年経て忍は何をしのぶ草
「野ざらし紀行」、吉野山曳杖のくだりである。
誘いの意図が野水にあったかどうかはわからぬが、右の句文を芭蕉が思い出さなかった筈はない。忍ぶ草は連・俳で三秋の季に扱い、一往ノキシノブの古名とされている。

「万葉集」に「しのふくさ祓ひてましを」と遣う草の実体は不詳だが、中古以降「しのふ-偲、慕-の語尾の濁音化に伴い、その活用-ハ行四段-が「忍ぶ」-バ行上二段-と混同して多義的歌語となったもので、もともと思い草・忍ぶ草は意相通うことばである。

「しのぶぐさ」をノキシノブに掛けて遣うようになったのは11世紀初頃らしく、「源氏物語」須磨の巻に「荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな」、「和泉式部集」に「涙のみふるやの軒のしのぶぐさ今日のあやめは知られやはする」などと、いずれも「軒のしのぶ」である。

云回しが窮屈なせいか、「軒端のしのぶ」と遣った用例は少ないが、定家に一工夫した作がある。「世の中を思ひ軒端のしのぶぐさ幾世の宿と荒れか果てなむ」、文治3-1187-年冬「閑居百首」の内-雑-、齢まだ26歳だが、晩年「百人一首」を選ぶにあたって、例の後鳥羽・順徳両院の若き日の述懐を以て番えの留とした其人の、心の根を見せるような歌である。たぶん芭蕉は心に留めていたと思う。

「思ひの際、思ひの牙」両義を含めて、「思ひ軒端」に掛け繋いだと考えれば、いかにも定家らしい一癖の現れてくる詠み口で、そう解したくなるが、あるいは「思ひの牙」を見出したのは芭蕉かもしれぬ。オモイの牙から軒端のシノデへ、うまい恋離れのたねになるからだ。

いずれにせよ、仮に定家の一首がそこになくても、縁語の成立ちと掛詞の手順を疎かにしなければ、これは見えてくる興である。「御廟守る」と云っても、守丁が特別に置かれているわけではあるまい。また、被葬者の俤など探る必要もない句姿だが、崇徳院の白峰陵や順徳院の佐渡真野陵がおのずと思い出される。

先には野水が仕掛けて去来が成就した陽性の恋-初裏5.6句目-、今度は去来が仕掛けて野水が成就した陰性の恋の場に、世相人心の機微を計って、片や人も羨む金鍔の身、片や忘れ去られた草深い御陵と、こもごも見事な離れの趣向を見せる。やはり芭蕉は恋上手だ。

「夕月夜」は夕月に同じ、仲-兼三秋-の二日月から七、八日ごろまでの宵月を云う。「萱ね」は萱-ススキ・チガヤ・スゲなど、屋根を葺く草の総称-に同じで、「ね-根-」は接尾語だが、「尾花が下の思草」を匂わせて「萱根の御廟」と遣えば、「ね」はまんざら無意味とも云えぬ、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 12, 2009

この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

080209091

山頭火の一句-句集「鉢の子」所収だが、いつ詠まれたものか定かではない

ただその前書に「昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ」として、
 踏みわける萩よすすきよ
 この旅、果てもないつくつくぼうし
の2句が添えられている。

―表象の森―「群島-世界論」-03-

ウラ、という神秘的な音に、このところ私の耳はとり憑かれている。そして音を媒介にして音と意味の連鎖を文字テクストのなかに探り出す衝動、という意味においては、私の「耳の眼」もまた、ウラという音を持った文字にとり憑かれている、とつけ加えるべきだろうか。ウラという音は、おそらく日本語におけるもっとも深く豊かな意味の強度と地平の広がりを抱えた、始原的な音の一つであるにちがいない。

たとえば、心と書いてウラと読む。この万葉以来の用法からすぐに気づくことは多い。心悲しい、心淋しい、心思い、というときのウラは、意識の内奥、すなわち表に見えない心中の微妙な機微にかかわる音=ことばである。「心安」とは、心中安らかな、という意味で万葉集のそこここで見える用法であるが、地名ではこれを「浦安」と書いたりする。ウラという音をなかだちに、心が浦に通じていることはあきらかだ。

 -今福龍太「群島-世界論」/3.浦巡りの奇蹟/より-

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 11, 2009

何おもひ草狼のなく

Dancecafe08092868

―世間虚仮― 小沢辞任

民主党小沢代表がとうとう辞任へ、と政局が動いた。
13日に党首討論という舞台を控えたタイミングはベストの選択か否か、些か首を傾げたくなるが、小沢の心中如何?

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-24

  すさまじき女の智慧もはかなくて  

   何おもひ草狼のなく  野水

次男曰く、「万葉集」巻十の秋相聞に、「章に寄する」と題して
「道の辺の尾花が下の思ひ草いまさらになに物か念はむ」
とあり、この歌は「古今和歌六帖」の雑思や「続後拾遺集」-勅撰第十六集-の恋歌の部にも採られている。

思ひ草を詠込んだ歌は、勅撰だけでも「金葉集」以外に12例、その内9首までが恋の部に見える-のこりは秋2、冬1首-。

「おもひ草」は恋の詞と見なしてよかろうが、さて「尾花が下の」と云う秋草を何に同定するかは、古来、説がある。多くはリンドウと考え、ほかにチガヤ、ツユクサ、ナデシコなどの名を挙げる。近時は、ナンバンギセルと考える説が有力となった。ススキ・ミョウガ・サトウキビなどの根に限って寄生する小草で、茎も葉も退化し、代わりに直接花柄を抽いて、初秋のころその先に紫紅色・筒形の単一花を、横向きにつける。

その恋にちなんだ草の名を連・俳共、実体はひとまず措き三秋の季としている。野水も前を奪って二句恋に仕立てるために名を取り出したまでで-何おもふ-おもひ種-思ひ草-、草の実際など考えてもいまい。其人を付けたと受取れば、どんな思いの種あって狼のように泣くぞ、と読める。狼なら何を思いの種として泣くだろうか、とずらして読んでもよい。これまた、前句に合せて両義をかける仕掛である。

万葉集の「いまさらになに物か念はむ」純情を翻して、「狼のなく」と、怨嗟の凄みを利かせたところ、俳と云えば俳だが、、作りは思案に窮した咄嗟の軽口だろう、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 10, 2009

すさまじき女の智慧もはかなくて

080209057

―表象の森―「群島-世界論」-02-

デルタと群島を結んで颱風のような螺旋運動を繰りかえす複数の歴史。その歴史とは、死者の痕跡-トラース-のことである。現在の痕跡は、死者によって残されたものであり、それを読みとるのは生者ばかりではない。というより、生者がその痕跡を読みとるためには、死者を呼びだし、自らの裡にある死者を蘇らせなければならない。ちょうど河や水路の水嵩が増減し、水底に蓄えられた泥が浮沈を繰りかえすように、私たちの内部の生者と死者は、浮上と沈潜を繰りかえしている。そして私たちが歴史という痕跡に気づくのは、私たちの死者が浮上した瞬間である。そのようにして、私たちの意識の水は、太古から、万物の浮沈の力を精緻に支配している。

群島は死者の絆である。群島を繋ぎ、群島の想像力を喚起するのは生者ではなくてむしろ死者のほうである。現世において死者を追悼し、死者に祈り、死者を祀ろうとするいかなる行為も、純粋に生者の領土での行為、生者の精神運動にほかならない。死者が語り出す畏怖に満ちた声を封鎖し、死者の現前を未然に防ごうとする生者の意識の機制こそが、死者の追悼と顕彰と呼ばれる行為の内実なのである。だがそうした生者による抑圧の網目をかいくぐって、死者たちはいまという時間にたえざる顕現を繰りかえしている。

生者のただ中で、死者は語りだす。とすれば、まさにこれら死者の語り出しの瞬間を繊細にとらえ、そこに固有の時と場を与え、国家や民族の空間に封鎖された死者の位置や意味を、海と河を繋ぐようなヴィジョンのもとに世界大に結び合わせる新しい群島の想像力を、私たちは必要としている。
 -今福龍太「群島-世界論」/2.時の疾走/より-

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-23

   旅の馳走に有明しをく  

  すさまじき女の智慧もはかなくて  去来

次男曰く、「すさまじ」は連・俳共に仲乃至晩秋の季、「すさまじき女の智慧」と遣えば雑の詞である。

「すさまじき、女の智慧もはかなくて」と初句切に読んで読めなくはない作りには、両義の掛がいずれあるに違いないと誰しも考えるが、それを覚らせるのは以下のはこびにおける捌き方の工夫である。とりあえずは雑二句、と見ておくのが妥当だ。

旅人を泊めたのは心尽しと見せかけて、じつはその場の言繕いで、待人は旅人とは別にいた-待てども来ず-、という読み方もできる。いずれにしろ、解いてゆけば自ずと恋の含みにゆきあたるが、ただちに恋句というわけではない。

「徒然草」に、「ふかくたばかりかざれる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、そのことあとよりあらはるるを知らず、すなほならずしてつたなきものは女なり。‥もし賢女あらばそれも物うとく、すさまじかりなん」

また「枕草子」には、「待つ人ある所に、夜すこし更けて忍びやかに門をたたけば、胸すこしつぶれて、人いだして問はするに、あらぬよしなき者の名のりしてきたるこそ、すさまじといふ中にも、かへすがへすすさまじけれ」と。

古くから、これらを踏まえた句作りと説く注解があるが、そんな面倒な下敷など必要とせぬ付句だろう、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 09, 2009

分け入つても分け入つても青い山

Db07050910031

山頭火の一句-句集「鉢の子」では「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と詞書する、よく知られた代表句

放哉の「入庵雑記」を読んで彼への思慕を募らせた山頭火だったが、同じ頃、放哉は放哉で、未だ互いにまみえぬながら俳誌「層雲」を通じて以前より知る山頭火の消息を尋ねる文を、双方共通の俳友木村緑平宛の手紙の中で認めている。

「-略- 扨、「句」の事をサキに書いてしまったらなんだか、御挨拶の言葉に、何を書いてよいやら、一寸、わから無くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶は何を書いてよいやら、一寸、わから無くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶はぬきにして、山頭火氏ハ耕畝と改名したのですか、観音堂に居られるのですネ、‥「山頭火」ときく方が私には、なつかしい気がする、色々御事情がおありの事らしい、私ハよく知りませんが、自分の今日に引キ比べて見て、御察しせざるを得ませんですよ、全く、人間という「奴」はイロイロ云ふに云はれん、コンガラガツタ、事情がくつ付いて来ましてネ、‥イヤダイヤダ呵々。御面会の時ハ、よろしく申して下さい、手紙差し上げてもよいと思ひますけれ共思ふに氏ハ「音信不通」の下ニ生活されているのではないかと云ふ懸念がありますから、ソレデハかへつて困る事勿論故、ヤメて御きます」 -村上護「放哉評伝」春陽堂-

日々2通の手紙を書いたというほどの筆まめの放哉だが、もし仮に、山頭火の所在を俳友たちに尋ね合わせて、直に手紙の往復をしていたら山頭火のその後もどうなっていたか、とあれこれ想像の羽をひろげるのもまた愉しい。

―表象の森― Sylvie Guillem

ずっと舞踊に関わる身なれどBalletについてはまったくの門外漢、Sylvie Guillem-シルヴィ・ギエム-の名も知らなかったのだが、偶々YouTubeで彼女のVideoに出喰し、昨日からいろいろと鑑賞させてもらった。

百年に一人現れるかと謳われたBallet界の逸材は、12歳でフランスのオリンピック国内予選を突破するほどの体操選手であったらしい。その年にも、パリ・オペラ座のバレエ学校にスカウトされ転身、19歳で早くも花形プリンシパルの座に着いている。だがパリ・オペラ座時代は意外に短く4年に満たず、’88年にイギリスへと移り、ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとして迎えられている。以後はフリーとしての活動が多く、Contemporary Danceもずいぶんと手がけている。

強靱で柔軟、鍛え抜かれた肉体は、女性なればこそ却ってその研ぎ澄まされたような筋肉が、日本刀の見事な刀身のように煌めき立つ。これが男性ならばいくら鍛え込まれていてもそうはいかない。彼女の肉体が、それまでの女性Ballet Dancerの概念を変えてしまったというのも肯ける。

大の日本贔屓ですでに来日二十数回に及ぶというのに、今日までその存在を知らずとは、この舞踊家-私自身のことだ-、門外漢どころか舞踊家そのものをそろそろ返上すべきか。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (24) | TrackBack (0)

May 08, 2009

旅の馳走に有明しをく

Dancecafe081226047

―表象の森―「群島-世界論」-01-

にごり、澱みながら、緩やかにたゆたい流れる水の氾濫のイメージが天地をことごとく覆い尽くしている。
光も、闇も、事物の輪郭も、人の影ですらも、そこでは水の乱反射する輝きと機敏な運動性によって、すみずみまで統率されているように感じられる。水面に微かな波紋を立てながらゆっくりと動く視線のやわらかな水平運動は、この水の邦の唯一の乗り物である小舟-ピログ-がもたらす軽快なリズムによるものだ。水の偏在としての「世界」。あまねく大地に染み渡って拡がる水の普遍的存在こそが、ミシシッピ・デルタの豊饒を約束するすべての源であることが直感的に了解される。この、あまねき水の白昼夢のようなたゆたいを、少年の操る小舟の緩やかな滑走の視点から長々と描写し続ける印象的な冒頭を持った映像作品が、ロバート・フラハティ監督の「ルイジアナ物語」-1948-である。
  -今福龍太「群島-世界論」/1.デルタの死者たち/より-

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「灰汁桶の巻」-22

  冬空のあれに成たる北颪  

   旅の馳走に有明しをく  芭蕉

次男曰く、諸注、芭蕉の「花とちる」の句に釣られて、「木曽の酢茎に春もくれつゝ」以下をだらだらと不用意に旅体の続と読んでいるが、そうではない。旅を思うことと旅の実際とは違う。当歌仙に旅体の句が初めて現れるのは、芭蕉のこの付においてだ。諸注のようにはこびを読めば「旅の」はまったくの駄目押しの死語になる。

名残ノ折も四句目、そろそろ話の一つも仕掛けてみようか、という作りである。「有明-ありあか-し」は、「ありあかす」の名詞形で常夜灯のこと、大黒柱とか水揚などに掛吊すのを常とした。「馳走に」にとあるから、普段は灯さぬ倹約の暮しと分かる、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 07, 2009

鴉啼いてわたしも一人

Ekin090504

山頭火の一句-大正15年の句、「放哉居士の作に和して」と詞書

山林独住の味取観音堂での堂守暮しは、気ままな托鉢とともに、時に久しく遠ざかっていた近在の俳友たちを訪ね歩くといったもので、その友人たちから俳誌「層雲」を借りて読むようになっていた山頭火は、自ずと忘れかけていた句作も復活させている。

尾崎放哉の「入庵雑記」が載った大正15年の「層雲」新年号は、木村緑平から借りて読んだらしい。島に来るまで・海・念仏・鉦たたき・石・風・灯と7章からなる放哉の随筆は、この年の5月号まで5回に分けて連載されている。
山頭火はこれらを読み継いでは感涙に暮れたか、と思われる。

放哉の、須磨での吟といわれる「こんなによい月を一人で見て寝る」を思いつつ生まれたのが、この放哉思慕の句である。

―世間虚仮― 1000円高速みやげ

4日の朝、少しく絵金世界に触れたあと、こんどは子どもサービスにと絵金蔵からほど近い龍河洞へと移動する。
薄暗い鍾乳洞の中は観光客で前も後ろも鈴なりの状態、ただひたすら狭い昇り降りを繰りかえすばかりだが、幼い彼女にとってはちょっぴり怖い冒険ごっこよろしく印象づけられたとものと思われる。

そこで昼食をとってから今宵の宿泊先へと向かうのだが、なにしろ高知県の東部から西南端の足摺岬まで、およそ180㎞の道のりだから大変、道すがらのんびりとちょいと寄り道なんてことはとてもできない。出立の2.3日前にようやく押さえられたのが足摺岬を回り込んだ辺りの民宿で、その折はそんなに距離があろうとは思わず、詳しく調べなかったのがしくじりのまきだが今更どうにもしかたがない。

南国から須崎東まで高知道、56号線はときおり信号付近で渋滞に出くわしながら、四万十の下流に架かる橋を通り過ぎて321号線へ、半島の背骨のような山間を抜けようとするあたり、足摺テルメなる温泉に着いたのがちょうど5時頃、ここまでくればあと少しのこととてゆったり湯に浸かっていこうと、疲れを癒すこと小一時間、宿への到着は6時15分過ぎだった。

四国の民宿は、たいがいふだんは遍路客をあてこんでいるからだろう、どこでも宿泊は格安の相場ときている。そのぶん他者と差別化する工夫の必要に迫られることがないか、食事もサービスもごく月次であっけらかんとしたものだ。ただ困ったのは、室内すべて禁煙、喫うならベランダでと言われたこと、仕方なく夜長5.6回ちょいと涼しすぎるベランダに出ては一服した。

明朝は、以前にも歩いたことはあるが、このたびは子ども連れとて、ひとまず足摺岬を散策。38番札所の金剛福寺はまだあまり時を経ていないとみえる豪壮な石組みの庭が眼を惹く。立派な大師堂もまだ新しいものだろう。前の37番岩本寺からおよそ100㎞と最長のコースというから、遍路は健脚でも二日がかり、到底此方は縁なき衆生だ。

さてそれからの帰路が長かった。ようやく須崎東ICに入ったのが午後2時前か、JUNKOが一時間余り運転を代わってくれたから一息ついたものの、往路と変えて明石・鳴門コースを取ったのが運の尽きだったか、1000円高速の大渋滞、受難のはじまりだった。不覚にも高松道はほぼ一車線というのを知らず、この高速の各処ですでに渋滞つづき、業を煮やして白鳥大内ICで高速を捨て11号線へ、長い鳴門の海岸沿いは快適に走ったが、鳴門大橋へ上がるともうえんえんと渋滞ははじまっていた。

長い運転からやっと解放されたのは午後11時、このところお気に入りの拉麺屋に立ち寄って遅い食事、無事ご帰還したものの、いまにもひょいとはずみで腰痛が起こりそうでどうもいけない。
危ない危ない、しばらくは気をつけるべし。

・写真は絵金の芝居絵「蝶花形名歌島台-小阪部館」

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 06, 2009

冬空のあれに成たる北颪

Ekinkamakurasandaiki

―表象の森― 絵金を覗く

1000円渋滞の心配もよそに、土佐の絵金蔵を訪ねてみようと思い立ち、4.5の両日、高知に旅してきた。
往きはまだ明けやらぬ早朝のうちに出立したから、中国道池田から上がって山陽道をとり、瀬戸大橋から四国高知へ、なんの障りもなくすんなりと運び、開館早々の午前9時過ぎには赤岡町の絵金蔵門前に立っていた。

江戸末期から明治初期に生きた土佐の絵師金蔵が描いたとされる二曲一双屏風仕立の芝居絵23枚が今に遺されているのだが、その保存を第一義とした絵金蔵を訪ねたとて、残念ながらそれらを実際に見ることは叶わない。わずかに節穴から覗き見するごとく小さな壁穴の拡大レンズを通して、時期に応じて交換される作品2点と接せられるのみで、あとは一目でそれと分かる作品の模写群やら絵師金蔵の生い立ちやらで解説展示された、いわば疑似絵金空間を追認する仕掛けの、小さな小屋掛け風アート館だ。

実際の絵金作品の諸々に対面するには、年に一度の須留田-するた-八幡宮夏祭の宵宮か、その直後の7月第3週の土日に開かれる絵金祭りしか、その機会はない。

わが国の伝統的な絵巻物の世界には、西洋近代絵画の遠近法とは異なる、逆遠近法ともいわれる「異時同図」遠近法があるが、絵金の芝居絵にはこの手法がふんだんに駆使されている。
写真は「鎌倉三代記-三浦別れ」、非業の死を遂げた源頼家と北条時政の確執を材に作られた近松半二らの手になるこの浄瑠璃は、大阪夏の陣の記憶もまだ新しく、家康を時政に、秀頼を頼家に擬えてもいる。

画面中央は深傷を負った頼家の家臣三浦之介-木村長門守重成-と時政の娘時姫-千姫-の二人、物語のクライマックスとなる愁嘆場。左奥の井戸から姿を現しているのは佐々木高綱-真田幸村-で別の場面を挿入し、さらに右奥の嘆き悲しむとみえる女の影は三浦之介の母の姿だ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-21

   柴さす家のむねをからげる  

  冬空のあれに成たる北颪  凡兆

北颪-きたおろし-

次男曰く、季の句に人情を合せ、雑の句から季を取出すのは連句作りの楽しみである。前句雑は打越と結ぶと春の農閑期の屋根替、当句と結ぶと冬構えの屋根替だ。

「冬空のあれ-荒-に成りたる」とは、挿柴、棟絡げを思い立たせるに到った気象の変化を叙しており、逆付気味の二句一章である。

猶、屋根替は現代では仲春の季語とするが、古くは雑の詞である。「やねふきの海をふりむく時雨哉 -丈草」-有磯海・元禄8年-は初冬に取合わせている。この海は琵琶湖のことだろう、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 04, 2009

日ざかりの水鳥は流れる

080209094

山頭火の一句-大正15年8月の頃か

この年の6月、山頭火は味取観音堂の安穏とした堂守暮しを捨てて行乞の旅に出た。


―表象の森― 三つの弓なりの花かざり

「大地と大洋がもつ意識、それが無人島であり、世界の再開に備えている」
 -ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」1953-

「長いあいだ背中を向けていた海の方をふり向いてみると、日本の島々が大陸から少しばかりはがれた部分であることもまちがいはないが、他の反面は広大な太平洋の南のあたりにちらばった島々の群れつどいの中にあきらかに含まれていて、その中で一つの際立ったかたちを形づくっていることも否定できない。ひとつの試みは地図帳の中の日本の位置をそれらの島々を主題にして調節してみることだ。おそらくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシアのすがたがはっきりあらわれてくるだろう。そのイメージは私を鼓舞する、奄美はヤポネシア解明のひとつの重要な手がかりを持っていそうだ。
 -島尾敏雄「ヤポネシアの根っこ」1961-

ここでいう、三つの弓なりの花かざりとは、日本列島の弧状の姿であり、それぞれ千島弧・本州弧・琉球弧を指す島尾敏雄の特異ともいえる図像的詩学であり、日本列島を太平洋島嶼圏のミクロネシアやポリネシアにならって「ヤポネシア」という群島状の連なりとして捉え直すことで、ヤマトとしての国家空間の閉鎖性を相対化しようとしたヴィジョンであった。
 -今福龍太「群島-世界論」2008-

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 03, 2009

柴さす家のむねをからげる

0509rehea0032

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-20

  かへるやら山陰伝ふ四十から  

   柴さす家のむねをからげる  去来

次男曰く、雑の句。二句一幅の、山家の景とみてよくわかる。
「帰る」と「替へる」を通いにした気転がみそで、思付はただの語呂合せだったかもしれぬが、屋根替はとりも直さず家の古巣帰りである、というところまで連想は延びるから、この移しは絶妙な俳を生む。観相の名手と云ってよい。

「かへるやら」は、当然、屋根替をするのだろうか、と読める。一捻り加えれば、あれでも屋根替のつもりか、とも読める。茅葺か、藁葺か、いずれにしろ当座の間に合せに、挿し柴をして破れを繕った家のようだ。

「むねをからげる」は、これも同音で胸を棟に移している。「かへる」の相応とした滑稽で、シジュウカラは周知のとおりネクタイ状の黒い羽根が目立ち、胸絡げとでも異名をつけたくなる小鳥だ。
言葉の取出しが重くれず、軽躁に過ぎず、「うつり」の範とすべき作りだろう、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 02, 2009

十何年過ぎ去つた風の音

Dancecafe08092860

山頭火の一句-「地橙孫即興」と詞書あり

山頭火は昭和4年2月、北九州を行乞しているが、この折下関の地橙孫を訪ね「半日清談」をしたとあり、この時の句であろう。

地橙孫-兼崎理蔵-は河東碧梧桐に師事。熊本五校から京大独法に進んだ彼は弁護士でもあった。この日は山頭火にとって大正5年に別れて以来の再会であった。


―世間虚仮― 靖国競馬

昨日の毎日新聞夕刊、我が国で初めて西洋式の競馬が催されたのが、例年のように政治家たちの参拝で物議をかもすあの靖国神社の境内であった、というのには驚かされた。

靖国神社の桜並木はよく知られ例年花見客で賑わうらしいが、この桜が靖国の競馬と由縁が深いのだという。
時は明治3-1870-年、靖国神社の前身である東京招魂社が戊辰戦争の朝廷側戦死者を慰霊するため創建されたのはその前年の明治2年だが、ちょうどその一年後の9月23日、時の兵部省主催により例大祭の奉納競馬が催された。これが日本人自らの手で初めて行われた洋式競馬で、競馬場となったのは第一鳥居と第二鳥居の境内で一周900メートルの細長いコースだが、これを機に木戸孝允がソメイヨシノを数十本植えたのが今の桜並木につながっている、と。

記事には空撮による参道からの靖国神社の全景が添えられており、往時の情景を髣髴させてくれるが、日清戦争終結3年後の明治31年まで執り行われたというこの靖国競馬、ずいぶんと江戸っ子の人気を博したらしい。
いわば当時の鹿鳴館同様の欧化政策、その象徴的存在としての舞台装置となった靖国神社だが、後に現在のごとく英霊を祀る宗教施設として国家的な存在にまで成りゆくその前史に、「靖国競馬」なるこんな一齣があったというのは記憶に留めておいてよいだろう。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 01, 2009

かへるやら山陰伝ふ四十から

080209079

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-19

   木曽の酢茎に春もくれつゝ  

  かへるやら山陰伝ふ四十から  野水

次男曰く、折を跨って-折立-、春三句目の作りである。そうではあるが、何を以て季としたのだろう、と見咎めさせるところに綾がありそうだ。

「鳥帰る」という連俳の季語があり、暮春とする。秋冬の候日本へ渡ってきた鳥は、春には繁殖のため北に帰る。その生態による季語だが、詩歌におけるこの詞の情は、厳密に渡り鳥とは限らぬようだ。帰鳥とはもともと塒-ねぐら-に帰る鳥を意味する言葉だし、「千載集」に俊成が選んだ崇徳院の詠「花は根に鳥は古巣にかへるなり春の泊を知る人ぞなき」にしても、鳥が渡りかどうかなど問うだけ愚である。

「かへるやら山陰伝ふ小鳥たち」とでもあれば納得がゆくものを、何故わざわざ「四十から」と作ったのだろう、ということが気にかかる。シジュウカラの季は、今の歳時記は繁殖期を取上げて夏とするが、古俳書では色鳥-色々の小鳥-の一つとしていずれも秋-陰暦八月-に部類する鳥である。稀に漂行するものもいるが、ごくありふれた留鳥だ。

「鳥は古巣にかへるなり」という崇徳院の歌もあることだし、春三句続の約束に甘えて四十雀も帰る鳥の仲間に入れて貰えまいか、と野水は云いたいらしい。

野水がシジュウカラも古巣に帰る躰に作ったのは、四十路からとも、始終空-留守-とも通う旅暮しの面白さを名に含ませて、師の二度の木曽路曳杖に思いを寄せたからに違いない。野水は凡兆の「木曽の酢茎に春もくれつゝ」に和して、記念すべき月見行の思い出を「花とちる身は西念が衣着て」と願う其の人-芭蕉-への讃としている。亭主、正客、次客の息の合った、花も実もある応酬ぶりだ。

かさねて言うが、句は春三句以上続の約束があっての持成の工夫で、作者が他ならぬ野水だということが、もっとも見どころとなる、と。

人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« April 2009 | Main | June 2009 »