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April 30, 2009

もう明けさうな窓あけて青葉

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山頭火の一句-昭和8年初夏の頃か

―四方のたより― 赤と緑と水と風と

澄み切った空の青さと
映えわたる山脈の新緑とが
満面と水をたたえた八条池の、風そよぐ風景のなかで
群れなすキリシマツツジの深紅が、みごとな対照をなす
此処、長岡天満宮は、二、三日前からの涼しさがつづいて絶好の行楽日和
今年、桜の花見はとうとう享受ならなかっただが、その代わりとてやっと得た休日に繰り出した、初お目もじの躑躅の名所
赤と緑と水と風のなかに、呼吸することしばし
忙中閑あり、まことひさかたぶりの、至福のひととき
これまさに、気の養生

―今月の購入本―
・白川静「字統」-新訂普及版-平凡社
ご存じ文字学-漢字-の泰斗白川静の三部作の内、本書「字統」と「字訓」の普及版が’07年に出版された。中古書。

・岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中公新書
ティグリス・ユーフラテス流域に栄えた最古の都市文明シュメル。粘土板に刻まれた楔形文字群が伝える神話の数々、ギルガメシュ叙事詩や大洪水伝説など‥。旧約聖書やギリシア神話に連なる祖型としての神々が詳述される。

・山森亮「ベーシック・インカム入門」光文社新書
基本所得を無条件給付とするベーシック・インカムについて近現代200年を概観することを通して、労働・ジェンダー・グローバリーゼーション・所有といった問題のパラダイム転換を試みる。

・原田信男「江戸の食生活」岩波現代文庫
江戸期の食文化を、列島の空間的ひろがりのなかで大きく網羅的に捉えた著作。武士から町人・農民まで、何が食卓にのぼり、タブーは何だったか、医食同源思想や飢饉時の対応、アイヌ・琉球の多様な食まで。

・松井今朝子「吉原手引草」幻冬舎
著種曰く「いい意味でも悪い意味でも、今も日本社会には金銭を介在した男女関係が、ある種の文化として存在する。それを代表するのが吉原で、一度書いておきたかった。当時の習俗を忠実に再現することによって現代を逆照射するものがあると思う」と。中古書

・松井今朝子「仲蔵狂乱」講談社文庫
存分に舞い狂うてみせてやる‥、江戸は安永・天明の頃、下積みの苦労を重ね、実力で歌舞伎界の頂点へ駆けのぼった中村仲蔵。浪人の子としかわからぬ身で、梨園に引きとられ、芸や恋に悩み、舞の美を究めていく。

他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」4月号

―図書館からの借本―
・内村剛介「見るほどのことは見つ」恵雅堂出版
「シベリア獄中11年、あれは今にして思えばわたしの人生のもっとも充実した時間帯だったようです。大げさに言えば、平知盛ではありませんが、わたしもまた 若く稚くして「見るべきほどのことは見つ」ということになったようです。その見るべきものとはわたしたちの20世紀の文明—なんといおうとそれはコムニズ ム文明であるほかなかった—そのわたしたちの文明の行きつくさきです。その向う側を見てしまったという思いがするのです」-本書より-

・「ファーブルにまなぶ」ファーブルにまなぶ展実行委員会
「昆虫記」刊行100に因んで、一昨年から昨年にかけ、日仏共同企画として全国を巡回した「ファーブルにまなぶ」展に際し上梓された解説誌。

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April 29, 2009

木曽の酢茎に春もくれつゝ

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-18

  花とちる身は西念が衣着て  

   木曽の酢茎に春もくれつゝ  凡兆

次男曰く、初折の末、懐紙式で花の綴目と呼ばれる巡りである。前句は西行を慕う道心者のうえには違いないが、作者が芭蕉とあれば、継ぐ人の与奪の興は自ずと一つに究まる。

「野ざらし」の俳諧師が伊勢に、吉野に、西行の足跡を尋めたのは貞享元年秋のことだが、翌2年晩春大津から帰東の途に就き、熱田・鳴海で旬余を過したのち、中山道に入って江戸へ帰った。4月-初夏-のことである。むろん木曽路を通った。興味ある留別の吟が遺っている。

 「思ひ出す木曽や四月の桜狩 -芭蕉-」

「熱田三歌仙」-安永4年暁台編-にも「木曽を経て武の深川へ下るとて」と詞書して採録している。木曽路で遅桜を見る頃には既に春ではなく初夏だろう、と惜春に掛けて惜別の情を告げているが、芭蕉が木曽路に杖を曳いて「四月の桜狩」に興じたのはこのときが初めてではなかったらしい、と知らせてくれる点でも心にとまる句だ。

この句を凡兆が聞知っていたどうかはわからぬが、「野ざらし」帰途の芭蕉が木曽路を通ったことを知らなくてこういう付を披露するわけがない。事態は、花の座の師の句ぶりに発して、野水の口から懐旧談が出たのだと、と思う。「四月の桜狩」の句は去来にも初耳だったかもしれぬ。

「春もくれつゝ」は暮春のこと、春の夕暮ではない。花の綴目に相応しい取出しである。「木曽の酢茎-すぐき-」は「野ざらし」の俳諧師に寄せた挨拶の云回しだ。当時、上方や江戸で木曽の漬菜がもてはやされた、と云うような話を聞かぬ。酢茎と云えば京の名物である。「猿蓑」興行の連衆がわざわざ「加茂の酢茎」を避けて「木曽の」と取出したところに、羨望めかした含みがあるだろう。俳言である。

猶、茎漬は元禄頃からの歳時記に兼三冬の季語として見かけ、酢茎も準じて考えてよいと思うが、こちらはとくに挙げたものを見ない、と。

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April 28, 2009

さみだるる大きな仏さま

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山頭火の一句-大正15年初夏か

同年4月14日、山頭火は木村緑平に宛て、
「あはただしい春、それよりもあはただしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします」
とハガキに書いた。

彼は曹洞宗本山の永平寺で本式の修行を欲していたようだが、この折、越前行は果たされなかった。

―表象の森― 唐十郎雑感

一昨日、旧知の女友だちからMailを貰って知ったのだが、25.26日と唐十郎率いる唐組の芝居が難波の精華小劇場-元精華小学校内-に掛かっていたらしい。

その彼女のMail、短い感想が書かれていたのだが、
「唐において嘗ての錬金術力が落ちたのではないか」、「批評性がなくなったようで」、舞台上の唐の存在が「なんだかアイドルみたいだ」と。
それこそ十数年ぶりであったろう、久しぶりに期待を込めて観に行った彼女の印象がそうなるのは当然と云えば当然、無理はなかろうと思われた。

どんな表現も大なり小なりその時代の刻印を帯びるのものだが、とりわけ演劇というものはその時代との共振生が強い。唐十郎率いる赤テントの状況劇場は’60年代に生まれたものだし、その時代状況抜きにはあり得なかった。彼に限らず寺山修司の天井桟敷も、鈴木忠志の早稲田小劇場も、佐藤信の黒テントも、それぞれの表現形式や手法は独自の個性もあったが、それとともに時代との共時性があり、同質ともみえるスタイルが通底していたとも云えるものだった。

そのスタイルや手法が、時代への射程力を充分に持ち得ていたのは、実際のところは’70年代いっぱいではなかったか。’80年代に移ると状況はどんどん変質していったし、そのなかでそれらの相貌はしだいに輝きを失っていった。

彼ら4者のなかでも唐十郎は、自身で台本も書き演出もするばかりか、役者として舞台にも立つ。それだけに時代状況の変質のなかで、今の若い役者たちと同衾したところで、もはや初期にあったような濃密な共犯関係は成立しようもないことは想像に難くない。唐自身が敢えて自分の立ち位置を劇作と演出に限って仕事をするなら、今の時代と共振したもっと別な展開もあるのではないかと思われるが、彼はそうするよりも、なぜか初期からの拘り、どこまでもその姿勢を貫こうと、捨てきれないままにあるようだが、それがどれほどの意味があるか。

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April 27, 2009

花とちる身は西念が衣着て

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-17

   何を見るにも露ばかり也  

  花とちる身は西念が衣着て  芭蕉

西念=ありふれた凡僧を呼ぶ通名。西念坊

次男曰く、裏十一句目は初折の花の定座。四季に執成せる「露」を見込んで、雑の句を挟まず秋から春への季移り-花の露-に作っているが、「何を見るにも」をとがめて「-ちる」と無常に治めた二句一章である。

下敷は「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃 -西行-」、「西念」は西行のもじり、と誰にでもすぐに気付かせる点、芭蕉にしては浅きに過ぎる作りと云えば云えるが、じつはその浅さ、平明さが次座の興の取出しを自由にしたのだ、ということが凡兆の次句を読めばよくわかる。奪うよりも奪われ上手の俳諧師だとあらためて感心させられる、と。

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April 25, 2009

何を見るにも露ばかり也

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―表象の森― 利休にたずねよ

昨年下半期の直木賞作、「筋立て、構造、読者をある一点に導いていく筆の力を顕賞すべき。日本の文化を根底からデザインした利休の秘密を上から下から照明を当てながら抉り出した」と評された山本兼一の「利休にたずねよ」を、どんな利休像を描いたものかとの関心から読んでみたが、久しぶりに物語を読む醍醐味を味わえた気がする。

なるほど評のように、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた利休の最期の日を、第1章「死を賜る」として冒頭に描き、以後章ごとに時間を遡行させていく手法といい、その各章を利休に関わったさまざまな人物、秀吉はじめ、禅僧古渓宗陳、細川忠興、古田織部、家康や三成などの視点から多面的に照射していく描写が、「侘び」と言いながらそのじつ奔放、超然としていて容易には一つの像を結びえない利休という存在へと、その形象を立体化し深めていったように思われた。

だが、物語-虚構-の中心軸となっている緑釉の小壺に秘められた若き日の利休-青年与四郎-と高麗の麗人との恋と死の顛末については、その描写に具象性が過ぎたか、却って興味が殺がれた感がどうしても残り些か不満。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-16

  町内の秋も更行明やしき  

   何を見るにも露ばかり也  野水

次男曰く、秋三句目で、次は花の定座である。「露」を取出したのは、季移りの必要上、次座への持成だと容易にわかるが-露は三季に執成せる-、「いづこを見ても」となぜ上七文字を作らなかったのだろう、と思う。

理由は三句が時分と場に縛られた一つの眺めになり、そうすれば、前二句の人情仕立てを読取ってこそ現れるせっかくの興を消してしまうからだ。「何を見るにも」は無常含み、虚の作りである。したがって「露」は空家の景のうつりではなく、情のうつりだ。「いづこを見ても」「何を見るにも」、どちらでもよい作りのようだがプロにはプロの目がある、と。

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April 22, 2009

町内の秋も更行明やしき

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―世間虚仮― 定額給付金

大阪市でも定額給付金の事務手続きが始まったようで、本日我が家にも給付案内及申請用紙同封の封書が届けられたが、その書面を見てまず感じさせられたのは、やはり法案成立段階で取り沙汰されていた事務煩瑣の問題だ。

その申請用紙たるや、全国の市町村なべて一律の書式かどうかは知らぬが、まあご大層なものである。受取を金融機関の振込とする場合には、口座名口座番号等を記入しなければならないのは無論のことだが、ご丁寧にもこの欄には個人情報保護のため貼付ける保護シールも添付されている。ところが裏面には本人確認のために運転免許証やパスポートなどのコピーを貼付けろとなっているし、おまけに金融機関口座確認書類として通帳またはキャッシュカードのコピーまで貼付けねばならないのだが、これらの欄には保護シールなぞ用意されていない。これでは頭隠して尻隠さず、まるで意味をなさない噴飯もので思わず笑ってしまったが、たしかこの事務経費に825億円の補正予算が計上されていた筈、そんな巨額を投じる大盤振舞の神経には、こんなくだらぬ無駄も些末なことでしかないのだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-15

   あつ風呂ずきの宵々の月  

  町内の秋も更行明やしき  去来

次男曰く、前句を病膏肓に入った人の体と見て、「秋も更行-ふけゆく-」-深くなる-と作っている。

垢掻を「吹く」と遣うようになった俗語の生れは、汗まじりの湯気を吹寄せて垢を掻くからか、それとも蒸されてふうふうのぼせるからかはっきりしないが、いずれにしろここでの付の思付の発端は「吹く」-他動詞-と「更く」-自動詞-の語呂合せに違いない。

但し、同じ入揚げるにしても、片や熱風呂通い、片や空家覗き、というのぼせとさましの対照的目移りが妙である。前句に色模様-湯女-を絡ませて読めば、「更行」秋のわびしさの情がいっそう利くだろう。秋と飽きの掛は和歌の常套だが、俳諧で遣えば秋が空-明き-になった、と去来は笑わせたいらしい、と。

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April 20, 2009

あつ風呂ずきの宵々の月

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―表象の森― 島之内小劇場生みの親、西原牧師の訃報

昨日の朝刊に西原明牧師-享年80歳-の訃報記事があった。彼が大阪の島之内教会から東京へと転出し、在阪時代と同様に自身牧師として奉職したシロアム教会で、自殺防止センターいわゆる「いのちの電話」の活動をひろげていった経緯などについては、昨年暮れの毎日新聞連載の特集記事「がんを生きる~寄り添いびと」で懐かしくも詳しく知るところとなったが、私の知る西原牧師は、その島之内教会時代、大阪で「いのちの電話」をはじめ、ずっとその中心にあって活動していた彼であり、とくに’70年代~’80年代、関西小劇場演劇の拠点として先駆的役割を担ってきた島之内小劇場のオーナー的存在としての彼だ。

島之内小劇場の誕生は’68年6月だそうだ。西原本人の回想談によれば、61年に教会活動の研修渡米した折、ニューヨークのワシントンスクエアにあるジャドソン記念教会で、当時としてはよく知られた詩人劇場、芝居やモダンダンス、ジャズ音楽などを上演していたのに出会ったのが動機になっている、という。のち’67年に島之内教会に赴任してきた彼にとって幸いしたのが、当時この教会一階部分を稽古場として借用していた劇団プロメテ-代表・岡村嘉隆-との出会いだった。教会の礼拝堂をそのまま利用した劇場空間というのも異色で、以後在阪の劇団のみならず東京などからのノリ打ち公演もよく掛かっていたものだ。また、この劇場を利用した島之内寄席もほぼ同時期に始まっているが、この発案も彼に拠るものであったらしい。

私はといえば、’72年7月に「身ぶり学入門-コトバのあとさき-」を、この教会の礼拝空間をそのままに利用して上演しているのが、自身の転回点となった舞台として、なんといっても印象深く記憶に残る。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-14

  金鍔と人によばるゝ身のやすさ  

   あつ風呂ずきの宵々の月  凡兆

次男曰く、初裏八句目、月の定座。句末に投込の躰に作っている。
其人の会釈-金鍔-を以て付け、更に又会釈-熱風呂好-を重ねて付ける、というような鈍なはこびはない。二句の人物は別人、というより観相の対付である。ならば片や金鍔の身分になるまで、片や熱風呂好になるまでには、それなりの努力、人知れぬ苦労があるということだろう。そう読めば取合せの妙になる。

三浦浄心の「慶長見聞集」に面白い話がある。「見しは昔。江戸繁昌のはじめ、天正十九年卯年夏の頃とかよ。伊勢與市と云し者、銭瓶橋の辺りに銭湯風呂を一つ立る。風炉銭は永楽一銭なり。皆人珍しきものかなとて入給ひぬ。されども其頃は風呂不鍛錬の人あまた有りて、あら熱の湯の雫や、息がつまりて物も云われず、煙にて目もあかれぬ、などと云ひて小風呂の口に立ふさがり、ぬる風呂を好みしが、今は町毎に風呂有、びた拾五文、廿銭づつにて入也。湯女と云ひてなまめける女ども廿人、三拾人ならび居て、あかを掻き、髪をそそぐ。扨又、其外に容色類なく、心様優にやさしき女房共、湯よ茶よと云ひて持来り戯れ、浮世語りをなす。頭をめぐらし一度笑めば、百の媚をなして男の心を迷はす。云々‥」-ゆなぶろ繁昌の事-。

云うところは、上がり湯用の小風呂を別に設けた蒸風呂のことと知られるが、石榴口と呼ぶ低いくぐりから這入る仕掛になった共同浴室だ。密室の湯気に馴れるまでには、それだけでもけっこう忍耐と工夫が要る。況や、毎夜の熱蒸好となれば、並の鍛錬ではない。浄心の記事は、色模様も絡ませてそっくりそのまま、凡兆句のたねになる。尤も凡兆がこれを読んでいたという証拠はない。慶長も元禄もこの種の風俗は同じだった、と考えるべきかもしれぬ、と。

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April 18, 2009

金鍔と人によばるゝ身のやすさ

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―四方のたより― ちょっぴり成長

青空ひろがる陽光のもと自転車を走らせればすぐにも汗ばんでくるほどで、夏日に達しようかというバカ陽気だ。
今日はKAORUKO手習いのピアノの発表会だが、会場の阿倍野区民センターへは自転車で行くのが通例のようになって、ちょいとしたサイクリングというわけである。

習い始めて3年目で、発表会への出演も3度目、晴れの舞台に緊張で強張ってしまいがちだった子も、ようやく少しは馴れてきたと見えて、子どもたちみんなと一緒に舞台に並んで撮る記念写真にも今回初めて無事おさまった。石の上にも三年、まさに三度目の正直といったところか。

演奏の出来はといえば、外の子どもたちと比較できるほど聴いてはいないからよくは分からぬが、遅々として牛歩の如くとはいえ、マイペースでそれなりに上達しているとはいえそうだ。もともと勧めてみた母親のほうだって、別段ゆくゆくはなんて押しつけがましい期待をかけているわけではないのだから、このさき何年続こうと続くまいとさして拘らぬし、子ども時代の彩りのひとつにでもなればと、まあそんなところでいいのだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-13

   迎せはしき殿よりのふみ  

  金鍔と人によばるゝ身のやすさ  芭蕉

次男曰く、「殿よりのふみ」を受取る人を女から男に見替え、恋離れとしたはこびだが、おなじ休息でも束の間のそれ-打越と前-女-と「金鍔-きんつば-」のそれとは違うというのが、もう一つの大切な狙いだろう。

男女の気苦労の違いに眼をつけて句長を磨き上げるとは、うまい奪い方をする。当然、「人によばるゝ身のやすさ」とは、噂の仕立で我身の感想ではない。自・他のはこびから見ても、裏三句目凡兆の「風薫る」以下、自・自・時宜と続けて再び自の句を継ぐことなどありえない。「迎せはしき殿よりのふみ」は他の句である。付けて芭蕉の句も、金鍔を其の人の会釈とした他の作りだ。とかく評釈家が自他の見定めを避けたがるはこびだが、理に適った話作りをすればそう読むしかない。

その点に気付くと、噂の人物の俤のひとつも探りたくなる。思いがけぬこの兆しは連句の面白さである。さしづめ、相応しいのは幕藩体制の中に用人政治の優位を認識させた、かの柳沢吉保だろう。吉保は館林藩主徳川綱吉の稚児小姓として出仕、綱吉が5代将軍となるや、小納戸役に進み、次第に重んじられて、元禄元年側用人に任じ併せて諸侯に列せられた。31歳の時である。これより先、貞享元年には、大老堀田正俊が若年寄稲葉正休-綱吉のもと側衆-によって、江戸城本丸の御用部屋で刺殺されるという事件が起きている。幕閣の職制はすでに崩れつつあった。吉保が名実共にその権勢を恣にするのは元禄10年頃からだが、羽振りのよさは既に世間の評判になっていた筈だ。

金鍔はもと、刀身具に華美を競った桃山・江戸初期の一流行だが、寛永末頃から金の産出量が激減するにつれてその実用性を失った。元禄前後には、遊里通いなどの差料の見栄として僅かに名残をとどめ、語意も伊達者や権臣などを指す痛言へと転化したようだ。曰くありげに遣われたことばである。西鶴の「好色五人女」-貞享3年刊-には、「其年のほど十五か六か七まではゆかじ。水色の袷帷子に紫の中幅帯、金鍔の一つ脇差、髪は茶筅に取乱、そのゆたけさ女のごとし」と、当世若衆姿を描いている、と。

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April 15, 2009

迎せはしき殿よりのふみ

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―四方のたより― 携帯MailをPCへ

携帯のE-Mailを多用するようになってもう10ヶ月近く。そのやりとりのなかにはかなり大事なものもあって、記録として残しておいたほうがよいと思われるものが相当ある。ずいぶんと貯まってきたので保存すべく、まずはMicroSD-Memoryを携帯に取り付け、ここへ移動させた。

その上でPCに転送してみるも、VMGなる拡張子ではPCのMailerでは読めない。Freeの変換SoftをDownloadして拡張子はemlとなったが、Mailerに保存するには、面倒なことに一つ一つ開いては、あらためてフォルダに保存しなければならない。受信Mailと送信Mailで合せて800ほどだからコリャ大変だ。よほど暇な時を見つけてやるしかないか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-12

  ものおもひけふは忘れて休む日に  

   迎せはしき殿よりのふみ  去来

次男曰く、「前句恋とも恋ならずとも片付がたき句ある時は、必ず恋の句を付て、前句ともに恋になすべし」。「三冊子」が伝える師説だが、蕉風に限らず当然有るべき心がけである。

「迎-むかへ-せはしき殿よりの使者」と作れば「ものおもひ」を恋に奪ったとは決めかねるが、「ふみ」と抱合せれば「ものおもひ」が恋になるのではないか、と言葉の微妙な伝統に解釈のさぐりを入れたところがみそだ。「ふみ」と作っても、単独の句では恋とは云えぬ。去来らしい武骨なユーモアで、この伺いは一座の笑いを引出すに足りたろうが、その恋の中味を、休みたい-休ませぬ、と掛合に仕立てたコミックな情の煽りがよく利いている。

つまり、普通に考えればこれは、寵愛ひとかたならぬ側室とか御女中の宿下りだろうが、嫁の里帰りの寓喩でもよい-「殿」は亭主どの-、とくだけて読取せるところに俳がある。

二句はむろん女の上だが、「ふみ」の受取人を男に見替えて次座は恋離れとさせる用意は、先の「蛭の口処」-芭蕉-・「ものおもひ」-野水-に続いて、去来の内にある。三者同じ手口で、手早く軽快にはこんでいる。

   摩耶が高根に雲のかかれる
  ものおもひけふは忘れて休む日に
   蛭の口処をかきて気味よき
  ゆふめしにかますご喰へば風薫る
   迎せはしき殿よりのふみ

と仮に長句を入替えると、そうはゆかぬだろう。これでもはこびに障りはなく、話もそれなりに拵えられるが、活語がたちまち死に体になるのがよくわかる。これでは銘々、独り合点な連想ゲームだ、と。

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April 13, 2009

ものおもひけふは忘れて休む日に

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―四方のたより― 心の際-こころのきわ-

六甲の植物園に紫陽花を見に行ったのはもう何年前だったか、秋にK女が生まれたその年の初夏だったとすれば’01年か。

11日の土曜、ひさしぶりにその六甲山へ、このたびはK女と二人でドライブ行。このところ仕事に追われる連れ合いは一向に休日も取れないから、子守代わりにフィールドアスレチックででも遊ばせてやるかと出かけてみたのだが、この年になると身体にきついこと夥しい。帰りの運転など、気怠さからか襲いくる睡魔に抗いようもなく、とうとう43号線の西宮辺りで30分程停車して仮眠をとる始末で、哀しいかなおのが体力の衰えを実感させられる。

さて、昨日はいつもの稽古だが、この日は、負の意味において、記憶に留めねばならぬ日となった。

昨年の10月末よりすでに5ヶ月余を経て、とうとうこの日を迎えてしまったについては思うこといろいろあれど、いまはなんとも言葉に尽くしがたい。
偶さかこの三日ほど、竹内整一の「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」-ちくま新書-を、他書と併せ読んだりしており、今朝ほど読了したのだが、
この「さよなら」が、「さようであるならば」か、はたまた「そうならなければならないならば」のいずれに偏るものか、その判別も下しかねるが、ただおのれ一身の「心の際」-器量-のこととして受けとめずばなるまい。

いまはただ、本書の中で採られていた、浄土真宗の僧であった金子大栄-1881~1976-が「色即是空、空即是色」を意訳したもの、とされる詞を書き留めておく。
「花びらは散る
 花は散らない」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-11

   蛭の口処をかきて気味よき  

  ものおもひけふは忘れて休む日に  野水

次男曰く、「蛭の口処」を雑の詞に執成した、時宜の付だが、「ものおもひ」を恋の呼出しと察知させる「-に」留めがうまい。

「休む日に」は逆-前句-にも順-次句-にもはたらく。前句と合せれば「ものおもひ」は農民のその日暮しの思案で、恋の詞というわけではない。だからこそ恋に奪いたくなるたのしみもあるのだが、仮にこれを「休みけり」と留めれば、「ものおもひ」はとたんに、無表情、無内容なことばと化してしまう。打越以下三句の見渡しも、同一人物の徒な付伸しにとどまって、連句にならぬ。

はこびは軍記に寄せた興のあとを承けて、恋句のひとつもほしいところだ。蛭に二用があれば物思いにも二用がある、と閃いた思付が「に」留めを生んだゆえんで、寄継ぎの手本のような句である、と。

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April 10, 2009

蛭の口処をかきて気味よき

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―世間虚仮― Soulful Days-22- やっと動いた!

厚い検察の壁が、やっと動いた。
先ほど-AM11:30頃-、N検察官から突然の電話。
曰く、事故当時の記録画像につき、MKタクシー側から直接取り寄せたうえで、T側の過失に関しあらためて検証のうえ審理するから、そちらの提出しようというcopy画像に関しては一応保留願いたい、との事。
急転直下、壁はやっと穿たれたのだ。

但し、官僚というものつねに保身一途、まことに狡猾なもので、いかにも交換条件と言わんばかりに、「ついては、」と切り出してきたのが、此方の出した告訴状、これには肝心な点で事実誤認-事故直前のM車の停止時間を2~3秒としていた-の主張もあったりするので、この際、取り下げては戴けぬか、とのご託宣だ。

これには思わず苦笑させられたが、今後の審理にはなお相当の日数もかかりましょうから、その推移を見守りつつ、あらためて訂正をするのか或いはすべて取り下げるのか、検討させてください、と返したら、いや急がずとも結構ですから、との仰せだ。審理手続き上、告訴状の存在はひとつの汚点にもなろう。きちんとやるから、出来れば消しおきたい、ということか。まったく笑わせる。
やっと、振り出しに戻って、賽が振られるのだ。ようやくここまで辿りついた。

ふと壁際のRYOUKOの写真に眼をやる
突然、腹腔が横隔膜を押し上げ
ドッと涙が溢れでた

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-10

  ゆふめしにかますご喰へば風薫る  

   蛭の口処をかきて気味よき  芭蕉

次男曰く、田仕事からあがった人のくつろぎを以てした与奪の付だが、「蛭-ひる-の口処-くちと=くい跡-」と云い、「かきて気味よき」と云い、凡兆の機才に対する誉めことばだ、というところにまが作がある。摩耶合戦を持出した野水の誘いを、「かますご喰へば風薫る」と風俗の工夫でかわした、涼しげな治めぶりが小気味よい、と芭蕉は眺めているらしい。因みに、六波羅攻め三手の内、足利は関東の名族、千種は名門廷臣、赤松氏だけが播磨の微々たる一士豪だった。「蛭の口処」とは云い得て妙である。

蛭-水蛭-は仲兼三夏の季だが、「蛭の口処」と遣えば雑の詞にもとりなせる。竹筒などにヒルを入れ、瀉血に用いた歴史は古い。むろんこの用も、次座への持成しとしてあらかじめ俳諧師の思案の内にあった筈だ。其人の情を付伸した唯の遣り句のように見せながら、前後に含みを利かせて取出した素材は、さすがである。

この句も、くちと、かきて、きみよき、とカ行音のかさねで快感を盛上げている。三句にわたって、ややうるさい気がせぬでもないが、それほど新弟子凡兆の出来に芭蕉は満足したということか。おのずからの軽口だろう、と。

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April 09, 2009

ゆふめしにかますご喰へば風薫る

Dancecafe081226034

―世間虚仮― Soulful Days-21- 壁は穿てるか‥

事故相手方Tに対する告訴状を大阪地検の担当検事に提出したのは2月10日だったから、かれこれ2ヶ月を経ようとしている昨日、これで三度目となる大阪地検へ。

十日ほど前か、わざわざM運転手がDrive Recorderのcopyを届けてくれ、あらためて事故時の記録画像を詳細に素人の眼なりに検証をしてきたわけだが、この間、Mとも直に会ってやらMailのやりとりやらを繰り返してきた結果、被害者側としてすでにTへの告訴状を出している私方から証拠資料として提出するのが検察への効力としてより有効であろう、との判断から前夜是に付すべき以下の如き書面を書き上げたうえで持参することになったのだった。

「告訴状に付し証拠資料提出の事」
大阪地方検察庁交通部 N検察官殿
  平成21年4月8日  告訴人連署

 先の平成21年2月10日付にて、大阪市西区境川1丁目6番29号先路上(中央通り辰巳橋南交差点)における平成20年9月9日午後8時15分頃発生した交通事故により死に至ったH.Rの遺族として、一方の事故当事者たるT.Kに対し、すでに告訴状を提出しておりますが、この度、事故当時の記録画像を入手しましたので、証拠資料として添付致したく、本書とともに之を提出申し上げます。

<提出するもの>
・M運転のタクシー車載のドライブレコーダーに残る事故当時の記録画像一式
  (但し、記録媒体USBフラッシュメモリ 1個)
・別紙添付資料-1 「ファィルの見方」
・   々  -2 「ドライブレコーダー分析表」

<提出者付記>
上記の記録画像を具に見るところ、T.K運転の車は前照灯を点けていた形跡が見られない、すなわち無灯火走行であること、明白ではないか。

さらに、T.Kは「M運転の右折車が前方にて突然停止し、咄嗟のブレーキも間に合わなかった」旨、主張していると聞き及ぶ。確かに記録画像においても衝突の直前、詳しくいえばM車は0.4~0.5秒前に急停止しているが、この制動動作に入ったのは常識的に見てその0.5秒前、すなわち衝突時点からいえば0.9~1.0秒前と考えられる。この時の状況についてMは、「何か気配としか言いようがない、そんなものを感じて咄嗟にブレーキを踏んだ」と後述しているが、然もあろうかと思われる談である。なぜなら、事故時、T.K運転の車は70km/hで走行していたと聞いており、これを事実と踏まえれば、Mが何かの気配を感じ咄嗟に制動動作に入った時、すでに無灯火走行のT車はわずか19m以内手前にまで肉薄しているのである。これでは重大な事故を避けられる筈もない。もしかりにT.Kが前方を直視しながら運転していたとあくまで主張するなら、こんな危険運転、無謀運転はないということになろうし、つまるところ彼の主張とは裏腹に、事故直前のわずかな数秒、脇見をしていたという蓋然性は非常に高いと言わざるを得ないのではないか。

ところが件のN副検事殿、書面は受領するが肝心の証拠資料たる記録画像は受け取れない、と仰る。

何故かと問えば、外付け記録媒体であるUSBなどは、ウィルス感染など危惧されるため、検察庁内規として受領できないのだ、と。それに加えて、捜査の資料としてはそのVideoに基づく静止画像が何葉かすでにあり、あえて動画を必要とするとも思われない、と曰う厚顔ぶりには暗澹とさせられるばかり。

司法であれ行政であれこの国の権力機構、慣例という名の壁にわずかな穴を穿つのも困難極まりないことはよくよく承知だから、これを受け取らせるのは難しいだろうとは、実は予測もしていた。いたが、いかにも冷静沈着、平静を装った語り口の、その粘着質たっぷりな声音が、こちらの神経をいやがうえにも刺激した。だが、声を詰まらせ泣きながら激しく抗議したのは、一緒に連れ立ってきた元細君のほうだった。女性の嗚咽にはさすがに検事殿も一瞬怯んだと見え、困惑顔で弁解じみた理屈を並べる。

これ以上堪えられぬと元細君は先に席を立ってしまったが、私はその場に居座った。もう言葉を尽くそうとは思わない、こうなったら肚の勝負、無言であろうともこちらの覚悟のほどを見せつけてやろうと対座し続けること小一時間か。この間言葉を交わしたのは二言、三言、たいした話じゃない。とにかく、今日のところは受け取れぬが、なお検討した上あらためて連絡すると仰るから、とても甘い期待はできないが、何日待てば回答を貰えるかと問う。一週間乃至十日ほど、と確かめやっと重い腰をあげ不快きわまる空間から退散した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-09

   摩耶が高根に雲のかゝれる  

  ゆふめしにかますご喰へば風薫る  凡兆

次男曰く、赤松則村・千種忠顕・足利高氏の三方攻めにあって京の六波羅府が南・北共に滅んだのは元弘3年5月だった。そのことが凡兆の念頭にはあるらしい、と覚らせる季の取出し様だ。只漫然と雑の句を夏に移したわけではない。

夏の季節風-南風-には、五官に訴える印象によってつけられた呼称がある。青葉を吹き渡るやや強い風を青嵐、耳目に訴えるよりもまず青葉の匂いをもたらす、涼やかな微風を薫風-風の香-と云う。現代人には仲夏の風と考えられやすい名だが、連・俳ではどちらも大旨晩夏として扱っている。

「かますご」は「和漢三才図会」に「玉筋魚-いかなご・かますご-」として挙げられるが、そのカマスゴは播磨・摂津あたりでの呼名だ、ということがどうやら凡兆の目付らしい。江戸でコウナゴ、九州でカナギ、京都ではイカナゴと呼んだ。なぜ「いかなご喰へば」と凡兆は作らなかったのだろう、と気にかかる。前句からの移りで兵庫の浜風を思ったというような単純なことではあるまい。播磨から京へ攻め入った男の話がたねなら「かますご」だ、と読めば気転の俳が生れる。句は、景に鄙びた人情を添え、「-たかねにくものかかれる」「-かますごくへばかぜかおる」とカ行音を均して利かせ、読者のそぞろごころをそそる浜風の仕立だが、この包丁捌きはそうあくまない。

イカナゴをカマスゴに言替えてよろず無事-風薫る-に納まればお安い御用、と読めば京都人らしい暮しの知恵もそこに覗くだろう。世々兵乱の巻添えを食った町の歴史が教える。凡兆自身の生活実感らしいところが、作の見どころだ、と。

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April 07, 2009

摩耶が高根に雲のかゝれる

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―世間虚仮― 父と子の春休み

我が家の幼な児KAORUKO、小一の春休みももう終わりだが、連れ合い殿に4月1日付転勤の辞令が下って彼女は引継ぎやらなにやら大忙し、このところ毎日夜も遅いから、此方は子守り同然の日々が続いていたのだった。

その短いようで長い春休みをどう過ごさせたものかと思案したが、偶々算数や国語の勉強を見てやった折、その理解の進捗度も気にかかったものだから、些か強引だけれどこの期に一年間の総復習とばかり比較的易しいものから難しいものまで3冊ほど問題集を買いこんでやらせてみることにしたのである。

算数でいえば計算より文章題の問題理解が、まあこの頃ならそれも無理はないのだけれど、荷厄介だろうと思っていたが、なんのことはない、計算自体も反復練習が乏しいのか少々覚束ない面があることが判ってきた。そこでこの数日は、ネットで百マス計算などをダウンロードできるサイトを見つけて、一桁の足し算引き算、二桁と一桁の足し算引き算、あるいはその虫食い算と、次から次へとプリントして反復させることも併用してみたところ、リズムに乗ったか俄然調子が出てきてヤル気満々の体。昨夕など「勉強、好きか?」と問えば、「うん、大好き!」とまで応じる始末で、これには此方もビックリだ。

子どもは勉強するのを「たのしい!」と言わせなきゃダメなのだ。
今日も朝から、新しいプリントをと自分から言い出すほどである。漢字練習帳を持ち出してきては、2年生になって習う漢字表から上段にお手本を書いてくれ、と言ってきては余白のマス目にびっしりと書き写していったりもする。

難しいほうの問題集を休み中に踏破するのはもう間に合わず、ゆっくり構えるしかないけれど、この分ならどうやら新学期が始まっての向こう一年を、かなりきちんと追っていけるだけの根気と底力がついてきているのではないかなどと、ぐんと暖かくなったバカ陽気もあってか、自画自賛の浮かれ親バカ‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-08

  乗出して肱に余る春の駒  

   摩耶が高根に雲のかゝれる  野水

次男曰く、摩耶山は神戸市の東北、六甲山の西南に位置し海抜700m、頂上に摩耶夫人を祀る仏母山刀利天上寺がある。本尊は馬頭観音ではないが-十一面観音-、馬屋との同音によって古くから馬の守護山として賑い、摩耶詣は其諺-きげん-の「滑稽雑談」-正徳3年成-以下に、陰暦二月初午の日の季語としても挙げている。

句は、春三句続を雑に移した、裏入介添のはこびだが、眺望おのずから季の見定めがあるだろう。コマとマヤの尻取、加えて詞も亦寄合だという好都合が付に一役買っているには違いないが、「乗出して」東せんか西せんか決めかねる去来の馬首を、野水が-春の雲のかかる-摩耶山へ向けさせたのは、どうやら軍記好みの興らしい、と読めてくる。

「太平記」は元弘3-1333-年六波羅府壊滅の端緒となった記念すべき合戦の模様を、華々しく伝えている。大塔宮護良親王の令旨を受けた播磨守護赤松円心則村が、摩耶山に拠って幕府方の大軍を悩まし、これを打破ったのは同年閏2月、3月のことである。これは、話も心も前句からのうってつけの移りになる。

去来句を挟んで凡兆と野水の句は一見もつれる叙景と見えながら、「鶯の音にたびら雪降る-乗出して肱に余る春の駒」と「乗出して肱に余る春の駒-摩耶が高根に雲のかゝれる」とは、まったく別の世界を演出している。初折裏入にあたって軍記仕立に奪ったこの叙景の添はうまい。歌仙のはこびに、まず華を添えるものだ。

さらに「乗出して」、京から出る遠駆の楽しみならまず近江路だと考えれば、右の仕立の趣向に、もうひとつうまみが生れるだろう。

「近江路や真野の浜辺に駒とめて比良の高根の花を見るかな –従三位源頼政」-新続古今集・春-
「合坂山をうちこえて、瀬田の唐橋駒もとどろに踏み鳴らし、ひばりあがれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹の嵩も近づきぬ」-平家物語・巻十、平重衡の鎌倉送り-。

共に巷間よく知られたもので、貞享5-元禄元-年9月、越人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」にも既に借用が見える。初裏11、2句目、「月と花比良の高ねを北にして –芭蕉」「雲雀さえづるころの肌ぬぎ –越人」。むろん野水はこれも覚えていた筈で、「乗出」すなら東あっての西、軍記なら「平家」あっての「太平記」と、ごく常識の分別があれば、右の付合を掠め「摩耶が高根に雲のかゝれる」と作るくらい造作もないことだ、と。

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April 06, 2009

乗出して肱に余る春の駒

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―四方のたより― 成田屋騒動

一昨日の土曜日-4/4-は、朝から雨模様。地下鉄御堂筋線「動物園前」駅の2番出口を上がり山王の交差点、その東南角にある駄菓子とおでんの一風変わった店「成田屋」。この店の軒先では折々街頭Performanceが繰り広げられるらしいが、このたびは奇友デカルコ・マリィとviolaの大竹徹、percussionの田中康之の二人が組んだ「とりおとるお」が「成田屋騒動」なるEventをするというので、雨中をついて子連れで出かけてみた。

Performanceは衣装替してのデカルコ・マリィ二態で、共演者にDancer石井与志子という組合せ。このDancer、動きはマリィに寄添うばかりで見るべきほどのものとてないけれど、雨に濡れそぼる両腕の、よく鍛え込まれたかと見える筋肉がちょっぴり魅力的ではあった。

踊り始めてまもなく、50過ぎかとみえる通りがかりの中年男性が驚き顔で足を止め見入っていたが、D.マリィが雨降る路上へと踏み出していくと、件のおじさん、演者が濡れては可哀相だとばかり、やおら自分の傘をDにさしかけては、動きに合わせて共に傘も動く。その構図が街頭ならではの点景としてなかなか秀逸なものだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-07

   鶯の音にたびら雪降る  

  乗出して肱に余る春の駒  去来

次男曰く、初折裏入である。

「うぐひすの谿-たに-より出づるこゑ無くば春来ることを誰か知らまし –大江千里」-古今集・春-。
以来、「谿より出づる」は初鶯の寄合の詞だが、ウグイスは「ホー、ホケキョ」と二節に鳴く鳥だということが、とりわけ利いているらしい。両々相俟って、「乗出して」の興をうごかしている。初鶯の、身も声も乗出すさまを騎乗の人に執成した、即妙な気転である。

作りには、余勢を駆って、「肱-かひな-に余る春の駒」にも名誉の下敷がある。
「引寄せば唯には寄らで春駒の綱引するぞ名は立つと聞く –平定文」-拾遺集・雑賀-

作者は「平中日記」の主人公として知られた人物。去来は大坪流馬術の上手だったから、句材はまず自らの経験に即した思付だったかも知れぬが、いずれから作るにせよ思案は一途に合う、と。

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April 03, 2009

鶯の音にたびら雪降る

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―表象の森― 内村剛介のロシア

内村剛介-本年1月30日死去、享年88歳-については、名のみぞ知るばかりでその著に触れることもなくきてしまったが、このほど陶山幾朗編「内村剛介ロングインタビュー:生き急ぐ、かんじせく-私の二十世紀」を読むほどに、11年に及ぶシベリア抑留をはじめとするその波乱に満ちた生と、骨太にして剛胆ともいうべき生来の気質から成ったであろうかと思われる彼のロシア観には、少なからぬ衝撃とともに感銘を禁じ得なかった。
一言でいうなら、これぞ「戦中派」なのだ、と思い至る。
読み終えてまもない今、それ以上になにほどのことも語り得ぬ身ゆえ、吉本隆明による本書まえがきをそのまま引いておく。

深い共感が導き出した稀有な記録 -吉本隆明

 この本は陶山幾朗がインタービュアとしてロシア文学者内村剛介に真正面から問いを発して、それにふさわしい真剣な答えを引き出すことに成功している稀有な書だ。周到な準備と確かなロシア学の知識・内村剛介への深い共感とが、おのずから彼の少年期からの自伝とロシア学者としての知識と見識の深い蓄積を導き出していて、わたしなどのような戦中に青少年期を過した者には完璧なものと思えた。わたしのような戦中派の青少年にとって日本国のロシア文学者といえば二葉亭四迷から内村剛介までで象徴するのが常であった。そして実際のロシアに対する知識としてあるのはトルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いと、太平洋戦争の敗北と同時にロシアと満洲国の国境線を突破してきた、ロシア軍の処行のうわさだった。中間にノモンハン事件と呼ばれるロシア軍と日本軍の衝突があったが、敗戦時のロシア軍の処行については、戦後になって木山捷平の作品『大陸の細道』が信ずるに足りるすぐれた実録を芸術化したものと思えた。あとは当時の新聞記事のほか何も伝えられなかったに等しい。

 太平洋戦争の敗戦とともにロシアの強制収容所について文学者が体験を語っているものは、内村剛介が時として記す文章から推量するほかなかった。わたしはおなじ詩のグループに属していた詩人石原吉郎の重苦しい詩篇をよんでそんなに苦しいのならロシアの強制収容所の実体をはっきり書いてうっぷんをはらせばいいではないかと批判して、その後詩の集りに同席したことがあるが、お互いに一言も口をきかずに会を終えたことがあった。彼にはわたしの批判が浅薄に思えたのだろう。わたしは彼の晩年の二つの詩「北条」「足利」をよんだとき、はじめて石原の胸の内が少しく理解できるかもしれないと感じた。

 陶山幾朗という無類の、いわば呼吸の出しいれまで合わせてくれるようなインタービュアを得て、この本は出来上っている。少し誇張ととられるかも知れないが、わたしには親鸞と晩年の優れた弟子唯円の共著といっていい記録『歎異抄』を思い浮べた。わたしなどには内村剛介が十一年のロシア強制収容所生活中だけでなく、帰国のあと現在にいたるまでロシア学についての専門的な研鑽を怠っていないことがわかって、たくさんの啓蒙をうけた。どうか健康であってもらいたいものだ。

 わたしがこの本につけ加えることは何もないに等しいが、この本がふれていないことと言えば、後藤新平満鉄総裁のもとで副総裁であった中村是公は夏目漱石の大学時代の心を許した悪童仲間で、是公から新聞を発行して助けてくれないかといって訪れている。漱石は胃病が思わしくないと断っている。それならただ見て歩くだけでいいから遊びにこいといわれて『満韓ところどころ』の気ままな旅を是公のおぜん立てでたのしんだ。公的な集りには一切かかわらなかったが、南満各地に散らばった悪童仲間に会い、二葉亭の故地も訪れていることがわかる。漱石のこの旅は『趣味の遺伝』に尾をひき、強いて言えば小説『こころ』につながっている。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-06

  千代経べき物を様々子日して  

   鶯の音にたびら雪降る  凡兆

次男曰く、初子は初音に通い、鶯と子日は和歌以来のありふれた付合である。「物を様々子日して」をさぐれと唆されて、面影の一つも考えぬ筈はないが、さいわい「源氏物語-初音の巻-」には相応しい一趣向がある。

「今日は子の日なりけり。げに千歳の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。ひめ君-明石上の娘、紫上の養女-の御方に-源氏が-わたり給へれば、わらは・下仕へなど、お前の山-庭の築山-の小松ひき遊ぶ。わかき人々の心地ども、おきどころなく見ゆ。北のおとど-明石上-より、わざとがましくし集めたる鬚籠-ひげこ-ども、破子-わりこ-など、たてまつれ給へり。えならぬ五葉の枝にいれる鶯も、思ふ心あらむかし。」とあり、続けて
「とし月をまつにひかれてふる人に今日うぐひすの初音きかせよ」-明石上-
「ひき別れ年はふれどもうぐひすの巣立ちしまつのねを忘れめや」-姫君-、の贈答がある。文にいうところの五葉の松も、枝に移る鶯も本物ではないとわかる。作り物である。

前句の「様々」をさくって、凡兆が取出した下敷はどうやらこれらしい。作り物を野に放ちやり本物のウグイスの音と化して聞く、と考えれば昔物語を俤にした付は、なかなかよく出来た俳諧になるだろう。掛けられた謎を見逃して、芭蕉句の作りを野外の遊宴などと読んでかかると-古注以下大方はそう読んでいる-、凡兆の句は二句一意、まったくつまらぬ伸句-のびく-になってしまう。

「たびら雪」は原板では「たひら雪」、平らなさまに降る雪か、それとも薪ごしらえなどに使う山裾の小平に降る雪か、いずれにしろ「平ら雪」だろう。ならば、無理に濁って訓まなくてもよい。通説では「たびら雪」は「だんびら雪」もしくは「かたびら雪」と同義とするが、「平ら」と段平や帷子とでは、つまるところ淡雪・牡丹雪のこととしても転訛の成り立ちがまったく違う。況や、山平らに降ると考えれば、雪の形状は句作りの従-含-にすぎない。言葉の多義性を気にかけた評家はいないが、私説、山平らに降るぼたん雪と解しておく。

因みに、山城・近江あたりでは、新年の初山入を子日行事にする風習が今に伝わっている。合せれば、王朝絵巻の一齣を奪って近世農民の暮しとした気転は、いっそう利くだろう。「たびら雪」はやはり段平雪や帷子雪の約ではあるまい、と。

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April 01, 2009

千代経べき物を様々子日して

Dancecafe081226101

―四方のたより― ある訃報に‥

俳優金田龍之介の訃報記事に接して、古い知人のY君のことが思い出された。若い頃の遠い面影を脳裏に浮かべながら、彼はこの訃報をどんな感慨をもって受け止めているのだろうか、などととりとめもない想いがあれこれめぐる。

Y君とは関芸の研究所で一緒だったひとりだ。私にとってはたった1年の、それも入所の4月からその年の暮までの僅か8ケ月という、あっというまの研究所時代に親しく交わった何人かのうちのひとりだが、その彼があるときぽつり、二人きりで対座していた私に、自身の出生の秘密を打ち明けたことがあったが、あれはどんな場面であったか、その経緯はまるで霧の中だ‥。

金田龍之介-東京の本所松坂町で生まれた彼が、なぜ幼くして大阪へと移ってきたか、5歳にして天満八千代座で初舞台という経歴が示すのはなにか、一向見当もつかないが、旧制の都島工業卒とある最終学歴とが奇妙な不釣合を感じさせる。戦前にあった天満八千代座は歌舞伎の常打小屋だったというから、歌舞伎役者の家系に連なる出生だったのか、それとも親が歌舞伎愛好の旦那衆でもあったか‥、おそらく後者でなかったか。

彼の芸歴によれば、’49-S24-年から辻正雄さんがはじめた「青猫座」に所属し、’55-S30-年には道井直次さんのいた「五月座」や「矢車座」に所属したようである。そして翌年-’56-には上京、新派に入団し伊志井寛に師事と、以後舞台に映画にと活躍するようになるから、大阪では幼少期から始まって青春期の大半を過ごしたことになるか。

自戒にあらず自嘲を込めてのことだが、所詮、役者稼業になど自らすすんで歩みゆくなど放蕩人生のなにものでもないが、彼もまた放蕩の人であったのだろう。その大阪時代、青春の果敢な彷徨の影にY君の出生が絡んでいることになろうが、それにしても彼はたしか私より2.3歳下の筈だからすでに61か2歳、ならば当時金田龍之介はいまだ「青猫座」に所属してもおらず、いかなる彷徨の淵にさすらっていたか‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-05

   ならべて嬉し十のさかづき  

  千代経べき物を様々子日して  芭蕉

子日-ねのひ-は初子、根延びに掛けて縁起物の小松を引くなどして、千代を祝う正月行事

次男曰く、雑一句をはさんで秋を春に移したはこびだが、そのうつし様がうまい。野水の作りが口切の準備の趣向だと去来が読取ったかどうかは判らぬが、春への移りを芭蕉が、打越-野水句-以下三句の祝気分のもつれにもかかわらず、敢えて新春行事と作ったのは、訳がある。君-野水-に初冬の正月があるなら、私には春正月がある、月の座を君に譲ったお蔭で思いがけぬ正月気分を味わせてもらう、と読んでもよい。

じつは二度正月の興は、はこびの趣向は違うが「冬の日」の歌仙にも見られる。
  はやり来て撫子かざる正月に  杜国
   つゞみ手向る弁慶の宮    野水
  寅の日の旦-あした-を鍛冶の急-とく-起て  芭蕉

「炭売の巻」名残ノ裏九句以下のはこびである。天災地変や悪疫の流行に見舞われると、正月を二度重ねて厄払をする風習は古くから各地にのこる。流行り正月と云い、季語ではないがことの性質上、夏-陰暦6月朔日-などに行った例が多い。句はその「はやり」と「正月」を上下に裁ち分けて、季を撫子-常夏-に持たせている。むろん、夏正月にナデシコを飾るなどという風習はどこにもあるまい。調子に乗った杜国の出任せだが、付けて野水はそれなら私もひとつ、と作り話で合せている。全くのでたらめにしろ、民俗としてはいかにも有りそうだいう人情仕立が、笑いのみそで、続く芭蕉の「鍛冶」の早起は、両人合作の心根を汲んで、三度目の正直噺を以て虚を実に奪う工夫としている。タネは「三人言へば虎を成す」-戦国策-、及び赤壁の戦に破れた曹操の故事-三国志演義-だ。このはこびは軽捷にしてかつ重厚、「炭売の巻」の座興の一クライマックスを成す。

芭蕉は、はからずも野水の茶人正月の句を得て、6年前の吟会を思い出した、と懐かしく告げているのだろう。そう読める。
「様々」は「ならべて」のうつりだが、執成して次座の好奇心を促すところにうまみがある、と。

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