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January 31, 2009

月待て仮の内裏の司召

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-表象の森- ちょっぴり回復軌道に‥

師走から新年へと、心の内に澱のごときものが巣くって止まずといった、そんな日々が続いた。とてもBlogを綴るような気にもなれず、この1月は早くも晦日というのに、ようやく8回目の言挙げである。また読む作業もなかなか進まなかった。

やっと月半ばを過ぎた頃より、まずは読むほうがなんとか回復基調になってきてはいる。

心理的にきつい状態にあるのはあまり代わり映えがしないのだが、それも慣れることによって少しずつ身を擡げていかずばなるまい、と思えるようになったということか。

―今月の購入本―
・M.アーヴィング編「死ぬまでに見たい世界の名建築」エクスナレッジ
古代から、日本を含む現代建築まで、世界中の名建築を総ざらい。アイデアとインスピレーションを与えてくれる多様な建築1001件を、簡潔な説明と写真で紹介、とのコピーに惹かれたものの、一部に写真の掲載がないものがあるのは、少々お高い本なのだから、そりゃないだろうぜ、と愚痴の一つも云いたくなる。

・吉本隆明「詩の力」新潮文庫
毎日新聞連載の、本社記者聞き書きによる、現代詩を主軸に俳句・短歌から流行りの歌詞にまでひろがる、骨太でありながら誰にも分かり易い、吉本隆明流「現代日本の詩歌」論。

・いしいしんじ「ぶらんこ乗り」新潮文庫
ぶらんこが上手で、指を鳴らすのが得意な男の子。声を失い、でも動物と話ができる、作り話の天才。もういない、わたしの弟‥。ミレニアム2000に誕生した物語作家の、奇跡的に愛おしい長編メルヘン。

・辻惟雄「奇想の江戸挿絵」集英社新書
今日のマンガ・劇画、アニメ大国ニッポンの源流は此処にあり、と得心させるがごとき幽霊・妖怪らが跋扈する江戸戯作黄表紙世界。残虐とグロテスクに満ちた「奇想」のエネルギーが横溢したその意匠の数々は、斬新な技法と表現のあくなき実験が繰り返されてきたものだった。

・中務敦行「曽爾の四季」光村推古書院
Photo Album、中務敦行氏-市岡13期-個展にて。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」’09/1月号

―図書館からの借本―
・E.ガレアーノ「火の記憶-1-誕生」みすず書房
数かぎりない掠奪と虐殺と富の移動と権力闘争‥、忘れ去られた歴史のなかに埋没した記憶の、膨大なる断章の数々。「アメリカ全土の、とりわけ、蔑まれた最愛の地ラテンアメリカの、かどわかされた記憶を救い出すために、力を尽くしたい」と希求するウルグアイ出身の著者、3部作の第1巻。

・V.グリーグ「インサイド・バレエテクニック」
副題に「separating anatomical fact from fiction in the ballet class -バレエ教室での虚構から解剖学的事実を切り離すための-とあり、バレエの動きや姿勢を、筋肉・骨・関節という解剖学的な観点から丁寧に説明。一定の熟達者には身体技法の具体的確認作業に適していよう。

・池上高志「動きが生命をつくる」青土社
副題に「生命と意識の構成論的アブローチ」と。カオス、進化可能性、アフォーダンス、etc‥。生命や意識といった、容易に解明することのできない難問に、複雑系の科学-力学系を中心とした数理論的アプローチ-で迫る。

・鈴木博之他「奇想遺産-世界のふしぎ建築物語」新潮社
書名のとおり奇観・奇景を呈する世界の不思議建築の数々を訪ね歩いたフォト・ルポルタージュ。朝日新聞日曜版「be on Sunday」連載の「奇想遺産」シリーズから77箇所を選び所収している。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-05

   はきも習はぬ太刀のヒキハタ

  月待て仮の内裏の司召   珍碩

司召-つかさめし-

次男曰く、月の定座である、併せて秋第一句。
連句の基本形である三吟をabcの繰返しで運べば、歌仙では二花三月のすべてがbつまり亭主の座に当る。これは偶然とも云えぬ構成の妙だが-亭主の振舞ぶりを見ることができる-、この場合月花を誰が詠んだかは興行の狙いを知る大切な見所になる。

「花見の巻」について云えば初折の三つ-月2、花1-は珍碩だが、二ノ折のむ二つ-月1、花1-は曲水が詠んでいる。分配の趣向は芭蕉の捌きに相違なく、「ひさご」撰集の性格はこの一事によっても読取れる。

「司召」とは宮中の諸官を任命する除目-じもく-で、古くは春、平安中期頃から秋冬に変え、一夜を以て終えるのを例とした。室町時代に廃止。

「月待て」は名月の頃を待ってとも、月の出を待ってとも読めるが、明月を待ってと解しておく。「仮の内裏」という以上行宮を指すのだろうが、さしづめ後醍醐天皇が延元元年-1336-12月吉野山蔵王堂の西に営んだ仮宮が俤として容易に思い浮かぶ。後村上天皇の正平3年-1348-正月高師直の軍に焼かれるまでの11年間だが、このあと同郡賀名生-あのう-に宮居を移した間も含めると、南朝の吉野行宮はじつに18年以上にわたる。

前句の人物に「太平記」の俤を添わせた付と見ておくが、「仮の」が次句に誘いかける作である、と。

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January 28, 2009

はきも習はぬ太刀のヒキハタ

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―四方のたより― はて、どうしたものか‥

昨年のいつ頃であったか、我が家からごく近く、徒歩で4.5分、300mほど先か、いつオープンしたのか、新しいバレエ教室が誕生していたのに気がついて、その主はどういう御仁かネットで探ってみたら、佐藤由子バレエスタジオなるHPに行き当たった。

そのprofileによれば、2000年関西学院社会学部卒とあるから30歳を過ぎたばかりと推定されるが、大屋政子バレエ研究所で6歳より始めたとあるから、その教室が自宅かどうかは分からぬが、いずれにせよ出身は住吉か住之江、この近辺なのだろう。

大屋政子のところから江川バレエスクールへと転じたというそのバレエの経歴は、なかなか輝かしいもので、92年のフランス・ウルガット国際バレエコンクールで2位銀賞にはじまり、97年の神戸全国洋舞コンクールやアジアパシフィック国際バレエコンクールでいずれもシニア部1位など、国内外のさまざまなコンクールで上位入賞を経て、00年よりドイツ・ドレスデンザクセン国立歌劇場と契約、プロとして活躍してきたという。

さて我が幼な児KAORUKOはすでに満7歳にて、いささか遅きに失するかともいえそうだが、昨夏より日毎稽古場で接するようになったARISAの姿にも照らしつつ、彼女の成長期、大人の身体に成ってくるまでの年月を、バレエでの身体作りに預けてみるのもいいかもしれぬと勧めてみたところ、「やってみる」と応じたので、ひとまずは見学とばかり連合い殿にこのバレエ教室へ連絡をとらせたのだった。

その体験Lessonの日-19日-、スタジオの戸口で迎える態になった先生の佐藤女史、KAORUKOに付添った母親のほうはともかく、その二人の背後に立ついい年をした男の姿に少々驚いたか、怪訝な表情を投げかけてきた。咄嗟に連合い殿、その不審を解くべく「父親です」と返したものの、なにしろそう応じた彼女と親子ほどの年の差だもの、ほんとにKAORUKOの父親と見たか、あるいは祖父と受け取ったかどうかはわからぬが、幼い子どもと若い母親ばかりの女たちの園に、場違いにもすでに六十路も半ばの爺も付添の見学者として、あまり居心地のよいものではなかったが、スタジオの隅に座を占めたのだった。

Lessonを受ける子どもたちは12.3名、4歳くらいからKAORUKOと同じ小1の子も混じっているようであった。この日の体験Lessonは彼女ひとりだけと見えたのだが、他の子どもたちに殆どの母親が付き添って最後まで見学しているのに驚かされつつも、ああこういう世界なのだ、と思い至らされたものだった。

教室のクラス編成は、児童科、初等科A・B、中等科A・Bと分かれているから、この児童科クラス、本来なら就学前の子どもらが対象なのだろうが、まだまもない初心の小学生もしばらくはこのクラスで慣らしていこうということか。

その一時間の体験Lessonの途中、突然KAORUKOは泣き出してしまったのである。それはbarに捉まって3番positionで何度か連続ジャンプをしながら左右の脚を踏み換えるといった動きだった。それまで自分なりにガンバってガンバってみんなの動きに見よう見まねで付いていったのだけれど、この動きはかなり速いし、とても付いていけるものじゃなかった。人一倍負けん気の彼女は、とうとう緊張の糸が切れて見事討ち死に、母親の元へと走りしばらくは泣きじゃくっていた。

それでも件の佐藤先生、そんなKAORUKOを一瞥するも、かまわずLessonの教程をすすめていく。習うより慣れろとばかり、満足に出来ない子のひとりひとりに手をとって丁寧に教えていくといった方法は採らない。子どもと一緒に通ってきてLessonを見守っている母親たちの、稽古場ばかりではなく日々のフォローやサポートが、子どもたちの向上や成長にとって必要不可欠のものなのだ、ということなのだろう。まだ初心のあいだは、とにもかくにも親子ぐるみでなければとても保たない、そういう世界なのだ。

ひとしきり泣きじゃくっていたKAORUKOは、母親のフォローもあってか、また気を取り直して子どもたちの輪へ戻り、あとの動きにはなんとか付いていったものの、体験Lessonを終えて帰宅するや、母親の「どうする、やってみる?」との問いかけには、すかさず「るっこ、やらない!」とえらくハッキリと宣言したもうたのであった。

この日の出来事からすれば、まあ無理もない応えである。無理もないが、さて、これで終わらせてよいか、軌道修正を図るか否か、それからすでに十日を経ようとしているが、ちょっぴり悩ましくもあり、はて、どうしたものか‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-04

  旅人の虱かき行春暮て  

   はきも習はぬ太刀のヒキハタ

次男曰く、鞘袋をかぶせた太刀-打刀ではない-をあしらって、「旅人」の身分の見定めとしている。

「ヒキハタ」は蟇肌、ヒキガエルの背を連想させるところからつけられた呼名で、皺革の一種である。

旅は公事か受領か、それとも戦乱か、いずれにしても「佩-ハ-きも習わぬ」と云う以上、公家育ちである。

太田水穂は、虱掻き行く人の卑しさと「ヒキハタ」をひびきであるといい、中村俊定は「虱かき行」と「はきも習はぬ」が不格好な姿の釣合であると説く。そういう見方も成り立つが、ここはむしろ身分の見定めにとどめて次句に俤-話-の一つも趣向させよう、というのが作の狙いだろう。これらは曲水のせっかくの第三-起情-を、只の下衆人と読んだことにそもそもの狂いがある。

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January 24, 2009

旅人の虱かき行春暮て

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―世間虚仮― 100兆ドル紙幣!?

折に触れ写真報道誌のDaysJ APANなどを見ていると、世界の片隅でさまざま起こっている悲惨で不条理このうえない事実の群れに戦慄させられるが、これはもうただ吃驚仰天するばかり。

マスコミ報道ばかりか世界中の視線がオバマ大統領就任へと集中していたなかで、経済破綻というよりすでにchaos-混沌-と化してしまったスーパーインフレ国家ジンバブエに100兆ドル紙幣が登場した、という小さなニュースを見出して「なんだ、これは?」と釘付けになってしまったのだ。

勿論ドルはドルでもジンバブエドル、通貨記号では$ではなくZ$ということだが、因みに16日付で発行されたというこの100兆Z$札、発行時点の外貨取引の闇レートでは約300$-27000円程-だとされている。付け加えれば、政府中央銀行はほんの一ヶ月ほど前の12月19日に100億ドル紙幣を、さらに直近の数日前には500億ドル紙幣を発行したばかりだというのだから、なんともはや魂消てしまう。

それにしてもたった一枚の紙切れが100兆ドルなどと、こうまで極大な単位にまでならざるを得ない已むに已まれぬ背景とはいったいなんだというのか。

16~17世紀、ポルトガルの侵入に苦しんだもののこれを撃退、以後長らく地方首長国の分立状態が続いた。第一次大戦後にイギリスの植民地化、英国領ローデシアとなり、国土のほとんどは白人農場主の私有地となった。その白人支配の遺産は、中・南部アフリカで60年代隆盛となった黒人の民族自立、独立運動がこの国においても展開されたものの、これを阻み、65年白人中心のローデシア共和国を成立させ、ローデシア紛争へと火種を残した。

嘗て「アフリカの穀物庫」と呼ばれ、外貨の過半を農産品の輸出で獲ていたというこの国の安定した経済は、白人地主による効率の良い大規模農業の賜であり、圧倒的多数の黒人は低賃金の過酷な労役にずっと苦しみあえいできた。

80年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立、現大統領R.ムガベが初代首相となった。当初ムガベらは黒人と白人の融和政策を採り国際的にも歓迎されてきたが、00年8月、白人所有大農場の強制収用を政策化、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始され、この結果、白人の持っていた農業技術が失われ、食糧危機の恒常化とともに経済は崩壊、第二次世界大戦後世界最悪とも言われるハイパーインフレが発生、以後ムガベの独裁専横とともにハイパーインフレは急加速していく。

AFPBBNewsが伝えるところによると、ジンバブエの公式インフレ率は、最新のデータである前年7月の時点で年2億3100万%だったが、米国シンクタンクのケイトー研究所による試算では、年897垓-がい-%に上るといわれる。因みに垓は10の20乗、数字に直すと897の後ろに0が20個つくというもはや天文学的数字だ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-03

   西日のどかによき天気なり  

  旅人の虱かき行春暮て  曲水

次男曰く、里村紹巴の「連歌至宝抄」に、「第三の事、前の寄所は大方に候とも、一句の柄を長-タケ-高く大様に遊ばされ候べく候。第三は、大略、て留りにて候」とあり、同「連歌教訓」にも「脇の句に能く付候よりも、長高きを本とせり」とある。この考え方は俳諧の連歌でも変りはないが、花どきに虱は付物とはいえ、第三の起情に虱を以て作分と為すなど連歌時代にはやはり考えられぬ。

「旅人」を持出した曲水の目付は、西行の「木のもとに旅寝をすれば吉野山花の衾を着するはるかぜ」だろう。これを下に敷いて、「花の衾」を「虱」に取替えれば、旅体-乞食かもしれぬ-も虱も長高く見える、というところが俳諧らしいミソである。

西行の歌は発句披露にあたって話に出たに違いない。ひょっとして、珍碩の「西日のどかに」の思付も右の歌をかすめて含ませているのかもしれぬ、と。

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January 17, 2009

西日のどかによき天気なり

080209013

―温故一葉― 逢縁機縁

年詞に代えて一筆啓上
昨年はデカルコマリィこと清水立夫君はじめMusician各位には大変お世話をかけました。

お蔭さまにて、9月と12月、二度のDanceCaféもたいした破綻もなく無事終えられ、これも各位のご協力あってのことと、四方館一同、心より感謝致しております。
清水君とは古くそれこそもう20年余の付き合いだし、杉谷さんとは小野朝美さんの紹介から始まり、以来DanceCafé他殆どの公演にお世話になってきたし、大竹さんの存在については浜口慶子の舞台を通してずっと以前から承知してきたし、松波さんは純子の学生時代からの親しい演劇仲間として私的に交わってきたし、ひとり田中さんのみ昨夏以来の付き合いながら、「山頭火」に無理を承知でお頼みしたところ、きわめて限られた稽古のなかで、よく考えたSoundを作っていただき、すでに十年来の知己のごとく親しく感じられるほどだし‥。

年初のひととき、それぞれの合縁奇縁にさまざま想いを馳せつつ、この年になっての貴重な邂逅に、なにやら心弾むような愉しい気分にさせて貰いおります。

扨、弁天町でのDance CaféのVideoを同封させていただきました。
リハの時間もなく、照明のチェックもないままの本番突入で、ずいぶんと暗いsceneの連続となっておりますが、その点は何卒ご容赦。参考までにご覧願えれば幸いにて。

また近く企画を立ち上げますほどに、その節は愉しくお付き合いのこと旁々宜しくお願いいたします。
  09.己丑 睦月 ―四方館亭主、林田鉄拝

「合縁奇縁」とは、人が出会い、気心が合って親しく交わることができるのも、理屈を超えた不思議な縁によるものだ、といった意だが、別の表記として「相縁奇縁」や「愛縁奇縁」、或いは「逢縁機縁」などといった当て字まである。それぞれの表記に、なんとなくそう当てたくなる心ばえのほどが偲ばれるようだ。

その文字どおり合縁奇縁ともいうべき人々、昨年のDance Café再開から付合ってくれているデカルコマリィこと清水君と、Musicianの大竹徹、杉谷昌彦、田中康之、松波敦子の諸氏に、会の模様を伝えるVideoを編集したのを、遅ればせながら年詞代わりに送らせていただいたのだが、そこに添えた一文である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-02

  木のもとに汁も膾も桜かな  

   西日のどかによき天気なり  珍碩

次男曰く、西日は、傾く日差がとくに堪えがたくなる候に着目して、今では晩夏の季語とされているが、昭和9年刊の虚子編「新歳時記」にはまだ載っていない。同「改訂版」-昭和15年刊-に、「清滝の向うの宿の西日かな-吉右衛門」を句例として、追補したのが最初だろう。

「長閑、のどけし」は「はなひ草」以下、古くから兼三春の季語として扱っている。「古今集」春歌の部に「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」-在原業平、伊勢物語にも見える-。もともと和-のど-、静かで穏やかなさまで、これも季語には関係はないが、古歌の用例に鑑みて春としたものか。

季にこだわれば「西日のどか」という云方はまず支-つか-えるが、「源氏」の「常夏」の巻にも「風はいとよく吹けども日のどかに、曇りなき空の、西日に成るほど蝉の声などもいとくるしげに聞ゆれば」というような件がある。印象のいずれをいずれに寄せるべきか、作者式部にさしたる違和感はないようだ。

珍碩の脇は時候・時分を以て素直に打添うた付と見てよく、手本は「冬の日」第五の巻の、「霜月や鸛の彳々ならびゐて-荷兮」に付けた芭蕉の脇だろう。「冬の朝日のあはれなりけり」。如何せん、兮・蕉の二句のように一首の体を成すわけにはゆかぬから、「よき天気なり」がいかにも間延してきこえる。

どうして韻字留-脇作の通例である-の工夫ぐらいしなかったものか。西日のどかによき空の色、-よき鳥の声、もしくは、-いささかの冷え、いくらであるだろう。無造作をよしとしたか、それとも相伴の曲水に作を請わんがための無策か、と。

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January 15, 2009

木のもとに汁も膾も桜かな

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―表象の森― 「花見の巻」解題

安東次男「風狂始末」を読みすすめながらあらましを筆録するというこの「連句宇宙」もとうとう7歌仙を終えて、残すはあと3つの歌仙。

師走から新年へと、このところ言挙げのペースも乱れ勝ちだったが、心機一転、このあたりで取り戻したいと思う。

「冬の日-尾張五歌仙」「春の日」「阿羅野」-いずれも名古屋の荷兮編-に続く、所謂「七部集」の第四「ひさご」-珍碩編、元禄3年仲秋刊-の最初に収める。「細道」後の新風を探るべく、路通を連れて郷里伊賀を出た芭蕉が、「猿蓑」撰に先駆けて膳所で指導した唯一の現存連句である。

「ひさご」は当「花見の巻」以下五つの歌仙のみを以て編み-四季発句の部はない-小冊子ながら「貞享冬の日」を継ぐ志を顕した集で、序も「阿羅野」の逸材越人に請うている。

連衆は膳所衆のほかに荷兮・越人・路通、それに大津からは只一人乙訓が加わり、近江蕉門の古参尚白と千那は加わっていない。新旧勢力の交替時の常とはいえ、これは蕉門が経験した初の躓きとなった。

「花見の巻」連衆
・芭蕉翁-路通が敦賀へ出迎えに立ったのは膳所からで、主従の大垣入は元禄2年8月下旬、9月6日木因の支度船で伊勢に向い、伊賀上野に帰ったのは同月下旬。五十韻や歌仙数席を重ね、11月末路通を伴って奈良へ出、春日若宮祭見物の後、膳所に赴き、草庵-義仲寺宿坊か-に入った。その間京に出て上京の去来宅-もしくは落柿舎-で鉢叩を聞き、膳所に戻って越年。正月3日ひとまず伊賀へ帰り、3月半ば頃まで「山里」の春を惜しみ、藤堂家中に招かれて俳席を重ねる。
あらためて出郷した俳諧師は、「花見の巻」に一座の後、4月6日国分山の幻住庵に入った。「猿蓑」撰のはじまりである。翁ときに47歳。

・珍碩-浜田氏、近江膳所の人。後、高宮氏を称す。号珍夕、洒落堂、略して酒堂とも。生歿・経歴詳かでなく、元文2-1737-年頃、70歳ぐらいで歿か。芭蕉との初会は元禄2年冬、曲水を介してであったと思われ、二十歳そこそこの青年で、すでに膳所衆のホープと目されていた。
芭蕉はこの無名の新人に、「山は静にして性を養ひ、水はうごいて情を慰す。静動二の間にしてすみかを得る者有。浜田氏珍夕といへり」云々と、異例の讃を書与えている。

・曲水-曲翠とも。菅沼氏、名は定常、通称外記。膳所藩老職、五百石。句の初見は其角編の「続虚栗」。貞享4年江戸詰の時、其角を介して直門に入ったらしく、したがって湖南蕉門の派生には尚白系と曲水系の二つがあった。「ひさご」には「花見の巻」のほかに曲水の名を見ないが、これは同年夏から江戸詰になったからか。興行当時31歳。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-01

  木のもとに汁も膾も桜かな  翁

次男曰く、板本の巻首に「花見」と、句から離してしるしている。これはこの興行の趣向、もしくは懐紙袖書と見倣すべきものだろう。発句の作意ではない。巷間、「芭蕉発句集」は誤ってこれを句の詞書としているようだ。

連・俳の「花」とは文字どおり賞翫の惣名で、桜は代表的なものだが其名で詠んでは「花」にならぬ。この巻の初折の「花」は定座の裏11句目でつとめている-「千部読花盛の一身田」珍碩-。

初句「木のもと」が下に敷いたのは、公任が「和漢朗詠」に選んだ花山院の「木のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」-詞葉・雑-あたりか。当日の句会が花びらの舞込む洒落堂での即事とすれば、汁も膾もサクラに見える-なる-という挨拶は俳になる。芭蕉であってみれば、自ずから人口に膾炙した西行の歌も思い浮かぶ。
「木のもとに旅寝をすれば吉野山花の衾-フスマ-を着するはるかぜ」

旅人ならぬ汁と膾に花の衾を着せるのが「花見」だ、という諧謔はわるくない。懐石の膳組で汁と膾は不可分でありながら互いに窮屈な仲だが-「羮に懲りて膾を吹く」という-、膳から下せば自由-無礼講-になる、花吹雪のおかげで汁と膾の見分けもつかなくなる、という発見は花見におかしみとくつろぎを生むだろう。

去来の「三冊子」に、「此句の時、師の曰く、花見の句のかゝりを少し心得て軽みをしたり、と也」と伝えるのは彼此いずれのことか、と。

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January 08, 2009

山茶花匂ふ笠のこがらし

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―四方のたより― 五十歩百歩、されど‥

歳を重ねるごとに涙腺が弛む、なにかにつけて涙もろくなるというのは、どうやら当を得たことのようだ。

新しい年が明けたというに、新聞を見てもTVのNewsを見ても、どうにも暗い話題ばかりが眼につく昨今のご時世だが、それらの記事や報道ひとつに、はからずもつい涙してしまうことが、この頃ずいぶんと多くなった自分に、いまさら気づいては少なからず驚いたりしている。

はて、どうしてこんなにも涙もろくなってしまったのか、自分はこんなんじゃなかった筈なのに、伝えられる事件などの背後に潜む、その人の定めというか軛というか、そんなものが記事や報道から垣間見られたりすると、もう堪え性もなく涙してしまうのだ。

どう考えても若い頃はこんなじゃなかった。自分というものを、兄弟であれ友人であれ先輩であれ後輩であれ、あるいは本のなかの虚構の人物であれ実在の人物であれ、他者とのあいだに共通項を見出すことなどそう容易にはありえなかったし、むしろ他者と区別すること、他者との異なりにおいて自分を見出そうとしてきたし、そうやって自分の像を作ってきたのではなかったか。

それなのに、もういつ頃からだろう、60歳を境にした頃からはとくに目立ってそうなってきたような気がするのだ。

考えてみれば、これはやはり、自分自身の人生観、その転変と大きく関わりがあるのだろう、と思える。そんな気がする。

自身の向後の人生が、これ以上のことはなにほどのこともなくほぼ定まっているかに見えてしまうようになった時、人は我知らずある諦観に達してしまうのだろう。その諦観から、それまで自分とは大いに異なっていた筈の他者の人生が、そんなに違いを言いつのるほどのことじゃない、まあ五十歩百歩なんじゃないか、とそう受け止められるようになってくるのだろう。そうなれば、無縁の他者に対してすらも同化しやすくなる、縁もゆかりもない他者の出来事にもかかわらず、その定めや軛に思わず感情移入してしまい、ついつい涙することも多くなる、ということか。

ある種の諦観や達観を境にして、
たいした違いじゃない、五十歩百歩なのさ、というのも一方の真理なのだろう。
さりとはいえ、小さくとも違いは違い、その小異が大きな意味を持つ、というのもまた真理なのだろう。

願わくば、その両方に跨って大きく振れながら、残された命を生きたい、と思う。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-36

  水干を秀句の聖わかやかに  

   山茶花匂ふ笠のこがらし  羽笠

次男曰く、挙句。冬季。前と一味に作って、客を送り出す趣向である。初巻の「たそやとばしるかさの山茶花」を踏えていることは云うまでもない。

このあと芭蕉は、12月19日には熱田に立戻り、例の「海くれて鴨の声ほのかに白し」-以下、桐葉・東藤・工山の熱田衆と四吟歌仙あり-を得たあと、美濃路を経て再び伊賀に帰った。貞享元年12月25日のことである。帰江は翌2年4月も末になってからだが、「野ざらし」の旅は、「冬の日」興業で事実上終ったと考えてよい、と。

「霜月の巻」全句

霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮 -冬    初折-一ノ折-表
 冬の朝日のあはれなりけり    芭蕉 -冬
樫檜山家の体を木の葉降      重五 -冬
 ひきずるうしの塩こぼれつゝ   杜国 -雑
音もなき具足に月のうすうすと   羽笠 -秋・月
 酌とる童蘭切にいで       野水 -秋    初折-一ノ折-裏
秋のころ旅の御連歌いとかりに   芭蕉 -秋
 漸くはれて富士みゆる寺     荷兮 -雑
寂として椿の花の落る音      杜国 -春
 茶に糸遊をそむる風の香     重五 -春
雉追ひに烏帽子の女五三十     野水 -春
 庭に木曾作るこひの薄衣     羽笠 -雑
なつふかき山橘にさくら見ん    荷兮 -夏
 麻かりといふ哥の集あむ     芭蕉 -雑
江を近く独楽庵と世を捨て     重五 -雑
 我月出よ身はおぼろなる     杜国 -雑・春・月
たび衣笛に落花を打払ひ      羽笠 -春・花
 籠輿ゆるす木瓜の山あい     野水 -春    名残折-二ノ折-表
骨を見て坐に泪ぐみうちかへり   芭蕉 -雑
 乞食の蓑をもらふしのゝめ    荷兮 -雑
泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て   杜国 -雑
 御幸に進む水のみくすり     重五 -雑
ことにてる年の小角豆の花もろし  野水 -夏
 萱屋まばらに炭団つく臼     羽笠 -夏・雑
芥子あまの小坊交りに打むれて   荷兮 -雑
 をるゝはすのみたてる蓮の実   芭蕉 -秋
しづかさに飯台のぞく月の前    重五 -秋・月
 露おくきつね風やかなしき    杜国 -秋
釣柿に屋根ふかれたる片庇     羽笠 -秋
 豆腐つくりて母の喪に入     野水 -雑    名残折-二ノ折-裏
元政の草の袂も破ぬべし      芭蕉 -雑
 伏見木幡の鐘はなをうつ     荷兮 -春・花
いろふかき男猫ひとつを捨かねて  杜国 -春
 春のしらすの雪はきをよぶ    重五 -春
水干を秀句の聖わかやかに     野水 -雑
 山茶花匂ふ笠のこがらし     羽笠 -冬

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January 07, 2009

水干を秀句の聖わかやかに

Alti200601027

―表彰の森― 書の森に紛れ込んで

特別陳列に版画家の「棟方志功の書」を掲げた毎日現代書・関西代表作家展を観るべく近鉄阿倍野店に出かけた。会場は9階のアート館だが、此処に足を運ぶのはいったい何年ぶりだろうか、何だったか芝居を観に来たのではなかったかと、遠い記憶をたどるがどうにもはっきりしない。

そのアート館の空間を回廊のように仕切って、出品者ざっと200人の一作々々がところ狭しと並んでいるのだから、壮観といえばそうもいえようが、全体の印象とすれば些か煩い感じがつきまとう。おまけにひとかどの書家200人の作が一堂に会したとあれば、彼らに連なる人々が押しかけるは必定、会場は引きも切らずの賑わいで、じっくりと鑑賞どころではないのだが、それでも十数点の作品には眼を惹かれ、束の間足を止めては鑑賞させていただいた。

もちろん棟方志功の書もそれなりにおもしろく見応えもあるが、それらの作品世界と関西を代表するという書家諸氏の現代書群が、なにか特別な響き合いを奏でているかといえば、とりたててそんなことは感じられない。なにゆえの特別陳列か、冥途の棟方志功画伯、どうしても客寄せパンダに使われたような気がしてならないのだ。

それにしても、この国において書の裾野はまことに広いものと、あらためて痛感させられる展覧会ではある。

話は変わるが、思い出しついでに書き留めておく。
現在、書道芸術院の理事長を務める恩地春洋氏の門下に、嘗て高嶋春蘭という女性の書家が居た。その彼女に教えを請うていたのが私の妹で、そんな縁もあって私が泉北晴美台に居た頃は、30坪のその稽古場に、展覧会などの出品前にはきまって春蘭門下の面々が集っては、条幅や大きな作品をものするのに汗を流していたものだった。今は懐かし、もう20数年昔のことだ。

その後、春蘭女史は、やむを得ぬ事情もあってだろう、春洋門下を離れ、彼女の弟子たちも雲散した。それからの彼女は、昨今流行りの、絵手紙の表象世界へと転身したようである。妹はといえば、趣味の域を出ないレベルでだろうが、数人ばかりのささやかな私塾も今なおつづけている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-35

   春のしらすの雪はきをよぶ  

  水干を秀句の聖わかやかに  野水

水干-狩衣の一種、平安時代には庶民の服装だったが、後に公家の私服や元服前の少年の晴着に用いられ、鎌倉時代以降は武士の正装となった。

次男曰く、名残の花の上座だが、三句引上げて荷兮に譲ったことは先に説いた。雑の句。春四句としてはこべば挙句も同季、五句続の春となるから避けている。

其人の風情を男に執成したのは、以て芭蕉に対する謝辞、賞賛としたかったからだ。因みに、芭蕉逗留の店請は野水である。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」に呼応して、客人に衣服を改めてもらうという含みもあるだろう、と。

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January 04, 2009

春のしらすの雪はきをよぶ

Santouka08113009601

―四方のたより― 年詞献上
 遅まきながら、年頭所感として

予期されたこととはいえ
 世界同時不況で景気は視界ゼロにもひとしき様相
海の向こうでは
 Changeとばかり、New Leaderのかけ声
 いささかなりと雄々しく響けど
此の国の政に君臨する者たちには
 先見もなければ、不退転の覚悟もなく、ただ政争に明け暮れるばかり
平成の代もすでに二十歳あまり
 平らかに成らむ、と願われた名の由来も、色褪せに褪せはて
 どうにも耳障りなこと夥しい
いまだ幼き吾子は、2001年生れなれど
 平成の何年生れか知らず、また数えず。

「また一枚ぬぎすてる旅から旅へ」 -山頭火、昭和11年初頭の句

昨年は、「山頭火」の語り芝居に、初演から15年を経て
やっと自身些かなりとも納得のいく境を獲た。
この舞台に参じていただいた方々には、あらためて心より謝辞を言上したい。
  2009.己牛元旦   四方館亭主 林田鉄拝

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-34

  いろふかき男猫ひとつを捨かねて  

   春のしらすの雪はきをよぶ  重五

次男曰く、前句を深窓それとも局ずまいの佳人春愁とでも見立てたか。

挙句二句前・春三句目というはこびを考えれば、白州と云い雪掃きと云い呼ぶと云い、うまいことば択びだろう。

恋猫の執念も一区切、捨不捨の迷も一区切、気分の転換がよく捉えられている、と。

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