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November 28, 2008

乞食の蓑をもらふしのゝめ

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 音波舎提供のCommon Café Live

いよいよ本番前日となってしまった。
とかく公演の準備などというものは演ずること以外に為すべきことが多すぎて、毎度のことながら近づくにつれ役者をするこの身が煩わしい雑事に追われる羽目となる。企画も制作も仕込の手配から印刷物まで、なにもかも自分でやるしかないのだからどうしようもなくそうなる。

昨夜はその息抜きにというわけではないのだが、Decalco Marieが出演するというLiveを観に小雨降るなかを出かけてみた。中崎町のCommon Caféなる日替り店主で運営されるという愉しそうな話題に惹かれた所為もある。木曜日の常の店主は「音波舎」を営むというまだ40歳前とみえる男性だった。
演奏者が大竹徹氏と、今度の山頭火で初めてお付合い願う田中康之さんであったのも重なってのことだ。

LiveはDecalco Marieたち以外にもう一組、NIMAさんなるDancerとTenor Saxの川崎知さん、こちらが先に演じたのだが、Saxの演奏は息の量がそうとうなもので迫力満点、演奏者の烈しい生理そのものがダイレクトなほどに音の世界を生み出していた。さまざまなJazzmenたちとLive競演をしている由のNIMA女史のDanceは、この生理そのものといってもいい音の洪水に対し、私からみればどうもSituationに逃げすぎているのではないかと感じられ、些か消化不良気味の鑑賞となった。

体育会系を自称してやまぬDecalco Marieは、すでに50歳半ばを過ぎた肉体をその体力の限界に挑むかのごとく過酷なまでに使い切っていくが、その筋力の頑健さが私の眼には怖くてたまらない。剛直なるはかならずしも勁いとはかきらぬ。この屈強を誇る肉体もしのびよる老いとともにやがてはポキリと折れつきてしまう。かりに70歳を過ぎても踊っていたいなら、すみやかに剛から柔へと肉体の改造を、しなやかなる身体へと転身を図るが賢明かと思われる。

終わって雑談の折、「気功でも太極拳でもいい、今からでも遅くないから、本気で取り組んだらどうか」といったようなことを彼に具申してみたが、はたして応答はどうでるか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-20
骨を見て坐に泪ぐみうちかへり  

   乞食の蓑をもらふしのゝめ  荷兮

次男曰く、荷兮の面目躍如とした警策である。陰の極の趣向だが、「平家物語」も「太平記」も、先の叙述に続けて北の方の落飾と、従者をして高野山に納骨させたことをしるしている。

小道具のあしらいを蓑と考えたのは、前句の人の、ひいては句はこびの露けさを防ぐための手立で、無常の門出にあたって着る蓑はどうせならいっそのこと乞食から貰おう、と云っている。巧い。とりわけ、前句に「うちかへり」とあるから付句もひっくり返すさまに仕立てたい、と思案したところにそれが生れたらしいのが並ではない。

現代でもこの程度の感覚の飛躍はないではなかろうが、状況を陰の極へ追いつめているうちに何となく乞食から蓑を貰おうというふうな表現がひらめいたにというにとどまる。「うちかへり」という言葉一つの見定めが逆転の発想を生むということはまずないのだ。

荷兮句の逆転の発想は窮鼠かえって猫を噛む式で、これは連句の醍醐味である。でたらめに思付いたわけではない。そのあとは深く沈めたものを浮上させる呼吸工夫があればよく、「しのゝめ」は、誰が探してもそう据えることになりそうな投込の四文字である。

「乞食」じつは有徳の人かもしれぬ、というところまでは読は延びる。芭蕉には後年、「こもをきてたれ人ゐます花のはる」-元禄3年膳所での越年-という吟がある。「五百年来昔、西行の選集抄に多くの乞食をあげられ候。愚眼故、能き人見付ざる悲しさに二たび西上人をおもひかへしたる迄に御座候。京の者共はこもかぶりを引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候」という自釈も遺されており、「なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは」-栖去之弁、元禄5年-という彼自身の無住願望につながるものだ。その原形が「冬の日」の荷兮句にあった、ということは軽々に見逃せぬ、と。

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November 26, 2008

骨を見て坐に泪ぐみうちかへり

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -6-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・萩原朔太郎と「月に吠える」
朔太郎の詩は、近代詩と現代詩の分かれ目に位置する。朔太郎によって現代詩の道は開かれたと言っていい。その最初の詩集「月に吠える」の特色は、生理的な心理主義と言うべきものだが、その特徴は次の詩集「青猫」においてはすでに一部分でしかない。その後はむしろきわめて倫理的な詩となっていく。

朔太郎の詩は、二、三行で一つのモティーフを切れて、すぐ次の行から別のモティーフが始まるという書き方になっている。そういう書き方をしても詩の連続性が失われていないと思えるようになったのは、「月に吠える」が最初だった。朔太郎が始めたこの叙法は、近代詩から現代詩への転換を画する特徴的なものであった。

・岡本かの子と「花は勁し」
49歳で急死した岡本かの子が小説を書いたのは晩年のわずか3年間だった。質量ともに驚くべき速さと勢いで作品を書いたかの子自身、生命力旺盛で捉えどころのない大きさをもつ女性だった。

彼女の生命力、その拠ってくるところは仏教にあり、かの子自身法華経の信者で、宗教家としても第一級の人物だったと言っていい。彼女は法華経の中でも特に二十五番目の観世音菩薩普門品-観音経-を中心に据えていた。

かの子の恋愛小説の世界で、性は生命力のぶつかり合いや和合として仏教的に理解される。男女が惹かれあうのは互いの生命力の大きさにより、男女のもつ生命力が同じだったら恋愛的な関係は成就したり深まったりするという独特な考え方になっている。人間の性格や生活のありようについても、仏教でいう五輪、地水火風空で考えているところがある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-19

   籠輿ゆるす木瓜の山あい  

骨を見て坐に泪ぐみうちかへり  芭蕉

坐-そぞろ-に

次男曰く、野水が駕籠をわざわざ「籠輿」と作り、併せて草木瓜を取合せとしたのは、軍記の読方を改めてさぐってほしい、と次句に需めているのだろう。

草木瓜の実は、盆供の中でも特別に大切なものとして古くから知られ、これを庭に植えることを嫌う風習は今に残っている。吾句の「木瓜」に実を生らせて新盆の供物としてほしい、とは誰が承けても読取れる筈の含みである。

「太平記」巻2、「俊基誅を被る事並に助光が事」には斬の結末を次のようにしるす。
「-従者助光は-泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頸に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿-右少弁俊基-の行末を聞ん事の喜しさに、人目を憚ず、簾より外に出迎ひ、如何にや弁殿は、何比に御上り有可との御返事ぞ、と問給へば、助光はらはらと泪をこぼして、はや斬れさせ給て候、是こそ今はの際の御返事にて候へ、とて鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見え給ふ。」

この最後のところは、そのまま「骨を見て」の句仕立てだが、芭蕉は読取をより一層正確に一座に伝えんがため、「そゞろ」「漫」いずれでもなく、わざわざ「坐」と字を遣っている。これは「虚栗」風の名残には違いないが、坐という字は土の上に二人が対座する形である。状況にふさわしく、字そのものも人めいてさえ見えてくるだろう。

むろん祖型となる描写は「平家物語」にある。
「北方大納言佐殿、首をこそ刎られたりとも質身-むくろ-をばとりよせて孝養せんとて、輿を迎へにつかはす。げにもむくろをば捨て置きたりければ、取つて腰に入れ、日野へ舁いてぞかへりける。これをまちうけ見給ひける北方の心のうち、推しはかられて哀なり」-巻11、重衡被斬-。

「太平記」の祖型には違いないが、芭蕉句の「泪ぐみうちかへり」に相当する描写はない。「うちかへり」という語法は、「枕草子」にも「あさましきもの‥車のうちかへりたる」-97段-と見え、ひっくり返ること、転じて卒倒することである。先の「俊基誅を被る事並に助光が事」の描写に照しても、そう考えてよいだろう。

しかし、「うちかへり」は打越の「打払」と差合う。芭蕉の技量を以てしても避けられなかったか、それとも、亡人に寄せる執着の断ちがたさを眼目とした作りで、用辞も「坐」と、対して動かぬさまに遣っているから、わざと輪廻の何がしかを句姿にもとどめて興としたか。禍を転じて福となす式の工夫は詩として充分ありうることだ、と。

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November 23, 2008

籠輿ゆるす木瓜の山あい

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 転一歩たるか

どうやら今度の山頭火上演-29、30日-は、私の役者人生、といっても一方で舞踊家であり、また劇活動においても概ね指導的立場に居たものだから実際の役者経験はずいぶんと乏しいのだが、そのきわめて限られた役者人生のなかで、生涯の事件ともなる予兆を孕んでいるのだ、ということを実感している。

実は、昨日の土曜の昼下がり、自宅の居間で、めずらしく山頭火の台本を片手にじっくりと本読み、もちろん本番並みに声を出して、をしていたのだが、この語り台本の山場となるその台詞のところで、いったい何にとり憑かれたのか、突如として感情の激発が起きてしまったのである。けっして泣こうとして泣いたのではない、その言葉を発しようとした途端、我知らずいっきに涙があふれだし、ただただ嗚咽しながらの台詞となってしまったのだ。これまで何百回もおなじ台詞を声にしてきた筈だが、一度たりとてこんなことは起こった例しはなく、まったく初めてのこと、自分の陥った状態に自身驚愕しつつ、しばし言葉を継いでいったのだった。

すべて通しきったあとで、何故そんな仕儀に至ったのかと振り返ってみれば、ひょっとすると前日届いた河東けいさんからの便りに、短く書かれていた言葉が伏線となったのかもしれない、などと思われたのだった。
おけいさんはもう80才を優に越えており、膝の不自由も抱えておられるというのに、12月中旬に控えた関西芸術座の公演で、久しぶりの演出にいま奮闘中とのことである。
私の出した山頭火案内の書面に対し、以下のように添書きをしてくれている。

「昨日お手紙拝受、ただただ暗澹たる思い、最愛の方の突然の別れが、どんなに深い思いか‥、鉄さんが山頭火になるだろうと――。
長いお手紙で山頭火を思いつつ、の後の、詩に心ゆさぶられました。慰めの言葉なんてありません。共に泣くのみです。
そんな思いなのに、29-30日に、参加できるかどうか、‥云えない状況なのです。男7人、揃うことなく、毎日イライラして、クタクタが、恐らく本番までいくでしょう。
ごめんなさいね。行けたら嬉しいです。」

もともと私はこの夏ごろより、山頭火上演を今回会場とするMULASIAで10月か11月にやろうと企図していた。
まだその日程をはっきりとは決めあぐねていた折に、RYOUKOの事故死という災厄が降り来たったのである。

だから、今度の公演と我が身に起こった悲劇とがけっして初めから結びついていたものでもなく、第三者たちに真っ向からそう受けとめられても困るわけだが、かといって時を同じくしてののっぴきならない出来事が、実際に演ずる身にとって意識下になんらかの影響を与えないはずもない。私自身気のせいか、心理面はおろか生理的な感覚においてさえなにやら微妙な変化が生まれているような、そんな日々でもあり、これはもしや私なりのちょっとした身心脱落なのではないか、と思われもするのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-18

  たび衣笛に落花を打払ひ  

   籠輿ゆるす木瓜の山あい  野水

輿-こし-、木瓜-ぼけ-

次男曰く、月花を続きとした杜国・羽笠の付合に、俤の一つもさぐれば忠盛のエピソードは自ずとうかんでくるが、たねが「平家物語」なら「たび衣笛に落花を打払ひ」は誰が考えても無常仕立に奪つてはこぶ。「太平記」というもう一つの軍記と、重ね合わせてみる興も自ずとそこに湧く筈だ。

「落花の雪に踏迷ふ、片野の春の桜狩、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶-ものう-きに、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出給ふ、心の中ぞ哀なる」

「太平記」巻2にしるす「俊基朝臣再び関東下向の事」は春ではないが、これに続けてその護送のさまを「平家物語」巻10、本三位中将重衡の鎌倉送りとだぶらせて描いている。

野水の目付はそこだろう。馴れぬ道中大罪人に籠輿を許すこともあったであろう、ひとまず読んでもよいが、代々の歌人才子で聞こえた-重衡も琵琶の上手-平家の公達と違って、「太平記」の殿上人は馬の乗方もろくに知らなかった。籠輿という詞も「太平記」の別の箇所で出てくるが、にわか作りの粗末な輿だろう。

持出した狙いは「笛に落花」の取合せが「平家」の世界なら、「籠輿に草木瓜」はまさしく「太平記」の世界だと伝えんがために相違なく、いずれこの詞-籠輿-は一座の話題になった筈だ。

「木瓜」は山野に自生するクサボケのことで、今の歳時記では、観賞用に栽培するいわゆる唐木瓜と区別して「樝子-しどみ-」の名で立てているもの。匍状性の小低木で、草とからみ、棘がある。

諸注、二句の詩味が心にくい相対となっていることに気付かず単なる一意と読んでいるから「ゆるす」について面倒な解釈に走る。どうして籠輿そのものを「ゆるす」という考えが浮かばなかったものか。「ゆるす」とは草木瓜の山あいにさしかかってふと萌した、何故ともない優情の表現であって、誰かが誰かを「ゆるす」というようなことではないだろう、と。

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November 21, 2008

たび衣笛に落花を打払ひ

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― Dance Boxの行方

大谷燠率いるDance Boxの活動が、大阪から神戸へと、その比重を移しつつある。
震災復興の新しいまちづくりとして、文化創造の拠点づくりにも力を入れる新長田地区に、来春4月「ArtTheater dB神戸」をオープンする予定だという。

大阪での活動も継続させるべく大阪事務所を並立存続させるというが、その新事務所たる移転先はまだ決まつていない。

昨夏、大阪市の第三セクター破綻処理問題でフエステイバルゲートを追われたDance Boxは、当座の代替施設としてあてがわれた元東淀川勤労者センターにあって、その過酷な環境下、創造拠点たる劇場の再開を模索し続けてきた訳だが、府市ともに財政再建団体転落の危機に瀕する大阪にあっては、あまりにも困難がつきまとったようである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-17

   我月出よ身はおぼろなる  

  たび衣笛に落花を打払ひ  羽笠

次男曰く、初折、花の定座。「我月出よ」の願を、ゆえあって旅をする人の感懐に読替えている。

訴訟などの公事か、受領か、軍旅か、それとも流謫か、いずれにせよ晴姿と云ってのけるわけにはゆかぬ二句一章だが、いろいろと差し合いが気になる。

「たび衣」と「薄衣」が四句隔、「落花」と「椿の花落る」が七句隔、花と桜は違うとはいえ「落花」と「さくら見ん」が三句隔、加えて同裏折に二度まで旅体の句が出る。それを承知で、月花続きの大切なはこびに、尋常だけが取り柄の遣句を以てするとは、理解に苦しむ。話を誘う面白い俤の一つも含ませてあると読取らせなければ治らぬ句で、手がかりは「笛」以外にはない。

「件の笛は祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによつて、もたれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける」、「平家物語」巻9「敦盛最後」の結びだが、その「平家物語」は、山陽・南海二道の海賊を討伐し、鳥羽院のために得長寿院を創建した功によって、武家棟梁で初めて内昇殿を許された平忠盛-清盛の父-のエピソードから始まる。

その一つに妻問の話がある。女は仙洞御所に仕える女房で、後にかの忠度の母となった熊野びとである。或時、忠盛が扇を忘れて帰ったところ、その扇の端に月の出が描かれていたので、さっそく傍輩の女房たちが「いづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし」とからかった。かの女房の答、
「雲井よりただ洩りきたる-忠盛来る-月なればおぼろけにては言はじとぞ思ふ」

伊勢平氏-瓶子-は眇め-酢瓶-なりけりと日ごろ公家たちの囃だねにされていた男は、彼女の臆せず晴れやかな気性と、即妙の機才に愈惚れこんだ。「似るを友とかやの風情に、忠盛も好いりければ、かの女房も優なりけり」と「平家」-巻1、鱸-は書いている。因みに、忠盛も殿上の心ばえとその歌才を鳥羽院の御感に与った器量人である。

その忠度母の歌を内助の功として含ませればも「我月出よ」の志はなかなか面白く読める。「たび衣」はさしづめ、山陽・南海二道の海賊追捕に出立つ男の俤とでも読んでおけばよい、と。

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November 19, 2008

我月出よ身はおぼろなる

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― うれしい便り -2-

「山頭火」公演案内にともない、ちょっぴりうれしい便りがつづく。

「うしろすがたの山頭火」-今回はどういう訳か、すぐに観てみたいと思いました。
かつての演劇仲間にも声をかけました。30日に行かせてもらいます。
林田さんの文章はいつも読みごたえがありますね。9月、悲しい事に出会われたこと、どのように言ってよいのか、お察し致します。「Soulful days」すばらしい詞ですね。
あなたの”才能”をよく分かりもせず、いつぞやは電話で言いたい放題、失礼致しました。
お身体大切に、これからもご活躍下さいませ。
11月の撮影会は23~24日とN邸で一泊です!!  -K.K

-K.Kは高校同期の女性、退職後はもっぱら風景写真に凝り、良いショットを求めてはあちこち出かけてゆく日々、独り身の余生を謳歌している。

お久しぶりです。冬が近づいて来ましたね。
当方、この10月31日が還暦で東洋紡を退職しました。
辞めたい、辞めたいと思いながらついに定年まで勤めましたがこれですっきりしました。
精神的自由を感じています。
しかし、自由からの逃走という言葉もあるように、人間は自由であることにも耐えられない存在かもしれませんね。そのことは、大学を自主留年したとき実感しましたが、まだ2週間たらずではそれはなく、うれしい感じです。
生活のお金もまだ当分必要ですし・・・。
30日の公演に行かせて頂く予定をしています。 -K.M

-K.Mは昔々の劇仲間。九州の福岡だったか佐賀だったかの出身で実家は寺、僧になるのを嫌ってか大手商社マンに。この10月末めでたく退職を迎えたという。

ご無沙汰です。今回はご案内ありがとうございます。
円熟の山頭火、ぜひ観に参ります。 -T君

-T君のこの短文は携帯メールから。なにかと多忙な人ゆえこれまで観る機会を得なかった。

以前から、ずっと拝見したいと思っていました。
うまいぐらいに、そのころなら都合がつきそうです。
HPから予約メールを入れさせていただこうかと思いましたが、何分、突然あらぬ方向に引っ張られることもある身。かえって予約をしてはご迷惑かと当日の客ということでよろしくお願いいたします。
2名で伺います(だれと行くかは未定です)。 -Sさん

-SさんはPCメールからの便り。市岡高校の同窓会メール「芋づる」メンバーである。

林田先輩の公演、
自転車で行けるし、興味あるし、見に行こうかな。
29日は現場仕事で、17時帰宅は難しいから、行くとしても30日。
でも、29日に現場仕事が終らなければ、30日に食い込むし、ごてる可能性あるから、さんの先輩と同じで、当日の客と言うことでよろしく~! -I君

-I君も、Sさん同様「芋づる」メンバーでPCメール。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-16

  江を近く独楽庵と世を捨て  

   我月出よ身はおぼろなる  杜国

次男曰く、初裏の月は八句目に扱っている例が多く、一往定座とみなす-この巻では芭蕉に当る-。

二句こぼして春の月に作り、花の定座の前としている。「麻かり」の句案に月など持込む隙はなさそうだから成行上そうなったとも考えられるが、月花を並べて趣向とする狙もあるだろう。

貞徳の俳諧式目「御傘-ごさん-」-慶安4年刊-に、「おぼろげ、と云詞春にあらず、月を結ては春たるべし」とあり、其後江戸中期になつて初朧・朧影などを朧月の傍題とする作法書は現れるが、朧とだけでは雑の詞と考える解釈の伝統は江戸時代を通じて変らなかつたようだ。尤も句例は元禄頃から散見する。その多くは、取合せて春季とするか、全体の仕立が朧夜を感じとらせる底の句である。現代の歳時記は「朧」を春の季とする。

月の座の「独楽」とは「我月出よ」だという見定めはあたりまえのようだが、これは月から季節の属性を抜いて心月とするうまい工夫だ。さらに、身の「おぼろ」ゆえだと告げられると、「我月出よ」を「独楽」の見合とした狙はもしや西行にあやかりたい離俗の工夫ではないか、と気付く。

「ひとり住む庵に月のさしこずば何か山辺の友にならまし」-山家集-
「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」-千載集、百人一首-
「雲はれて身にうれへなき人のみぞさやかに月のかげは見るべき」-山家集-

余人ならいざ知らずこれはそのまま杜国の心でもあつたろう。「野ざらし紀行」には、わざわざ「杜国におくる」とことわって、「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」の一句を収める。貞享2年4月初ごろには既に罪状の取調べが始まつていたらしいとわかる詠みぶりだが、「冬の日」の興行当時、悲運の予感、身の潔白を証したい願はあったのではないか、と。

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November 18, 2008

江を近く独楽庵と世を捨て

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― アレルギー性喘息に朗報か

アレルギー性喘息など気道過敏症の原因となる細胞を、理化学研究所がマウス実験で突き止めた、という。

肺に多く分布するNKT細胞-ナチュラルキラーT細胞-にだけ出現するIL-インターロイキン--17RBというタンパク質を持ったヤツが、この悪玉細胞だということらしい。

これまで、発作的な喘息や、咳を起こす直接の原因物質は分かっていたが、これらがどの細胞で、どう作られるのか不明だつたから、全国に300万人といわれる慢性患者に対症療法でしか処置できなかったものが、近い将来、慢性化する前に予防できるように実用化が期待される、というわけだ。

このところ多田富雄の免疫理論などを読んできたおかげか、こういう話題にも少しは理解がともないついていけるようになった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-15

   麻かりといふ哥の集あむ  

  江を近く独楽庵と世を捨て  重五

江-え-を、独楽庵-どくらくあん-

次男曰く、逆付ふうの二句一章で、其人の付。

恋の気分を抜いて世捨人としたところに思案がある。その世捨人が、山ならぬ江上に庵を卜し、葦刈ならぬ麻刈という名の歌集を編む、という目付が面白い。

「刈りはやす麻の立ち枝にしるきかな夏の末葉-うらば-になれるけしきは」-正治百首、1200、源通親-というような歌が無いではないが、麻刈は俳諧が季題とした習俗である。

「独楽庵」は長嘨子の庵室「独笑」の捩-もじ-りだろう。以て江上の隠者の住まいに当てたのは、芭蕉への讃である、と。

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November 17, 2008

麻かりといふ哥の集あむ

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより―  うれしい便り

先週は「山頭火」公演の案内送付と、会場のMULASIA近く、西区や港区に在住する知人らを訪ね歩くのをもっぱらとしたため、他のことはほとんど手につかずといった体だったし、かなり疲れを溜め込んでしまったようである。

昨日は終日、イキイキを休んだKAORUKOを連れての知人宅詣でで、さすがに疲れたか、遅い食事を摂った後、我知らず早々と眠ってしまうという始末で、明け方近くにはずいぶんと夢を見ていたのだろう、朝の目覚めもいつになく重かったのだが、そんな疲れを吹き飛ばしてくれるような嬉しい便りが一通、戦後の関西演劇界にあって、最近までずっと、つねに下支えに徹して働いてこられたご老体、三好康夫さんからだ。

あくまで私信なのだが、心のひろい方ゆえ、此処に掲載させてもらってもけっしてご気分を損なわれることなどあるまい。

「お便りと『うしろすがたの‥山頭火』へのお招きありがとうございました。
久しぶりの山頭火、観たいですね、今も心の中に”うしろすがた”が残っていますが、観たいです。
もっとも小生、二、三日前から体調を崩して足も覚束無い状態ですが(齢の所為かときどきこんな風になります)、なんとか上演日までに体力を恢復して”うしろすがた”を見たいとねがっています。
私にとって林田さんと『うしろすがたの‥山頭火』とは一体、自分でもよくわかりませんがそんな感じです。強く印象付けられています。
お会いできるのを楽しみにしています。
ありがとうございました。」 三好康夫、拝

こんな便りを戴くと、疲労も気鬱も吹き飛ばされ、ぐっとかろやかな気分になる。ありがたいことだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-14

なつふかき山橘にさくら見ん  

   麻かりといふ哥の集あむ  芭蕉

次男曰く、「夏深き」というから「麻刈-浅カリ-」と応じている。また、麻は雌雄異株で、雄木は桜の花に似た五弁の小花をつけ桜麻と呼ばれる。ならば、麻刈は桜狩だ。

思付はまずこのあたりだろうが、合せるに兼好の
「思ひ立つ木曽の麻衣浅くのみ染めてやむべき袖の色かは」-風雅・雑-を以てしたのではないか。恋の露顕で都を逃出したときの詠と伝えられ、よく知られた歌である。

「麻かりといふ哥の集あむ」は、目立たぬ風情の山橘の花も、やがて実を結び色に出ると読めばわかる。麻刈-麻引-は末夏の季、但し「麻かりといふ哥の集」は季ではない、と。

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November 15, 2008

なつふかき山橘にさくら見ん

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・折口信夫と「日琉語族論」
西欧的な言語年代学によると、7000年前頃まで遡れば日本-本土-語と琉球語は同じ所に行きつく-服部四郎説-。折口は本書において、言語の構造を比較しながら、両者はどこまで遡れば同じかを内在的に考察している。
一つに、古代以前の日本語には「逆語序」の時代があった、ということ。
もう一つは、「逆語序」の考えをひろげたとも言えるが、日本語と琉球語では空間的な捉え方が違っている、ということ。日本語は、東京都→千代田区→一ツ橋と大から小空間へ、琉球語ではこれと反対に小から大へ。折口は、古代以前まで遡れば、日本語も琉球語と同じ、小から大へ、だったと指摘した。

例えば、琉球語で「太郎金」というように人の名前に「金」という尊称を付けるが、それは本土語で「金之助」や「金太郎」というのと同じ尊称の接尾-頭-語であるが、かように「逆語序」は普遍的にさまざまなことについて言える。
これを枕詞に敷衍すれば、「春日-はるひ-の春日-かすが-」のように地名が同じ地名の枕詞になっていたりする初期の形は、「逆語序」と「正語序」が合致した「同語序」の時代を示すもの、と私は考えた。-「初期歌謡論」

・中原中也と「在りし日の歌」
中也の本質的な仕事は、虚無感と叙情性が融合し、「呪われた詩人」の素顔を覗かせた時に生まれている。
詩の往還、中也の詩は「還り道の詩」と言える。難解な言葉でひたすらに新しい表現や実験をめざす「往路の詩」ではなく、徹底して突き進んだ地点から読者の意識の方へ、生活の現場の方へと戻ってくる「還り道の詩」だと。

「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ/ヌックと出た、/骨の尖
‥‥‥‥
故郷の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立って、/見てゐるのは、/―――僕?/恰度立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがってゐる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-13

   庭に木曾作るこひの薄衣  

なつふかき山橘にさくら見ん  荷兮

次男曰く、山橘はヤブコウジ-マンリョウ属-の古名である。自生の常緑小低木で、江戸時代初ころから園芸品にもなった。末夏に白色五裂の小花をつけ、球形の実を結び、冬になると核果は鮮紅色を呈する。

「万葉集」には5首見えるが、勅撰では「古今集」に1首あるのみで、橘-花橘-のもてはやされ様とは較ぶべくもない地味な存在で、歳時記・博物誌の類にも「和漢三才図会」を除いて、江戸末に至るまで挙げたものを見かけない。現代は「藪柑子」として掲げ、その実を冬の季に扱い正月の縁起物にする。

「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」-万葉・巻四相聞、春日王-

「わがこひをしのびかねてはあしひきの山橘の色にいでぬべし」-古今・恋、紀友則-

赤く熟れる実を恋の序詞として詠んでいる。荷兮は「こひの薄衣」にふさわしいのは花橘ではなく、山橘の花だと云いたいのだろう。

「羅-うすもの-」を季語として採上げるようになったのは江戸中期からで、「冬の日」当時はまた約束としての認識はなかつた。況んや「こひの薄衣」をただちに軽羅と見做すわけにはいかないが、「続後拾遺集」-16代-の夏部に、
「形見にと深く染めてし花の色を薄き衣に脱ぎや更ふらむ」-源重之女-ょ収める。

荷兮が「こひの薄衣」から夏の季を引出したのはあるいはこの歌を知っていて証としたのかもしれない。

諸注は「山橘」に迷っている。あるいは花橘と同義と云い、橘類の惣名と云い、牡丹の異名と云い、藪柑子の青い実と云う。「なつふかき山、橘に‥」と読む者もある、と。

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November 13, 2008

庭に木曾作るこひの薄衣

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・太宰治と「斜陽」
太宰治の作品が現在でもよく読まれ続けているのは、やさしい言葉で書かれているように見えて、本当は少しも啓蒙家になったりしない力量にあると考えられる。太宰の言葉で言えば「おいしい料理」、彼自身は落語から学んだと言っているが、それだけ文体がぴたりと決まって凝縮されている。

漱石もそうだが、優れた作家の作品には、人物の微妙な心の動きなど、読む者に「これは自分にしか分からないはずだ」と思わせるものがある。しかも、多数にそう思わせるのだが、それが名作や古典のもつ普遍性というものだ。

太宰治の作品まではもう既に古典の条件を備えていると確言できるが、それ以後の作家の作品が、古典と呼べるほどの名作かどうかをはっきりと言うことはできない。それはつまり、私自身と地続きな感じがどこかに残っているからだ。

・柳田國男と「海上の道」
国家の起源、日本人の起源について柳田が注目したのは、中国の殷の時代から宝貝が通貨として使われていたことだった。宝貝の分布調査からすると、中国大陸の海岸から内陸の住人が琉球の宮古島などへ宝貝を取るため船でやって来たと考えた。それらの人々が琉球諸島に定着し、さらには南九州に到達し、次第に東へ移動していき、日本列島に分布するようになった、と。

「海上の道」でもう一つ主要な点は、島々の各地にある久米と呼ばれるものはコメを表し、稲作がもたらされた痕跡なのだということである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-12

  雉追ひに烏帽子の女五三十  

   庭に木曾作るこひの薄衣  羽笠

次男曰く、茶摘女を、白拍子姿に見立て、雉追遊びと戯れる風狂の御仁が園主なら、その庭作りはさぞかし木曽路を模した桟-かけはし-の一つも取入れてあるだろう、と付けている。

「木曾のかけはし」は「能因歌枕」に既に見えるが、「女のもとに遣はしける、中々にいひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなぞ」-拾遺・恋、源賴光-など、女の移り気を恨む男の歌だとというところに特徴がある。

「庭に木曾」を作れば懸橋-恋の心-の一つも工夫せぬわけにはゆくまいが、「女五三十」では選取り見取り、恨み言どころではないでしょうなあという諧謔がみそである。「こひ」-恋=濃-を移して「薄衣」と治めたゆえんだ。懸橋をめぐって男女の位相を翻している、と。

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November 11, 2008

雉追ひに烏帽子の女五三十

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 阿呆か、定額給付金をめぐる迷走劇

このところ私自身は、山頭火公演の案内書きに昼も夜もないありさまなのだが、
世界金融の崩壊の渦中にあって、この国の政府首脳たちは、就任早々の麻生総理が人気取りにぶち上げた国民全世帯に定額給付金をとのご託宣に、振り回されるばかりの始末で、なんと悠長な御仁たちであることよ。

事務的な煩瑣ばかりではなく、市町村では配当所得など掴めぬものも多々あり、厳密には所得制限など出来る筈もないのに、1500万円以下の世帯になどと宣ってみたり、これはとても出来ぬ相談だと思いいたれば、今度はなんと高額所得者の方々には「自発的辞退」を促すのがよろしいときた。

このオッサン、ホンマに阿呆や!

内閣成立直後の衆院解散が当初お決まりコースであった筈なのに、自民党総裁選なるバカ騒ぎ終わって総理に就いた途端ヤメタとばかり棚上げしては、その時期をめぐって二転三転迷走を繰り返し、選挙目当て見え見えの愚策においてもこんな迷走劇を演じる始末では、はやくも政権は末期症状か、と永田町界隈でそんな観測が出てくるのもやむなかろうというものだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-11

   茶に糸遊をそむる風の香  

  雉追ひに烏帽子の女五三十  野水

次男曰く、「糸遊」を虚から実に執成し、眼前、茶摘みの景気としたところが見所だ。陽炎の立つ茶畠の其所此所から雉が飛び立つ、と読めばよい。「烏帽子」は茶摘女の姉さん被りを見立てた俳言である。三四十、四五十という表現はあるが、「五三十」とは耳慣れぬ。しかし利休の手紙などにも数日を「五三日」と遣った例がある。「五三十」は大勢ということを収まりよく云回した風流だろう。

はこびは三句春だが、花の座を持たぬ所謂素春で、一歌仙一所にかぎり許される、と。

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November 09, 2008

茶に糸遊をそむる風の香

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 同い年対談 in いたみ

ネパールの岸本学校を支える「きしもと学舎の会」に新しい支援の輪が生まれようとしている。

昨日の午後、車イスの岸本康弘を車に乗せてJR伊丹駅前のAI・HALL横の喫茶室に行った。
会ったのは、岩永清滋氏と岩国正次氏と、それに牧口一二氏。

牧口氏は、NHK教育TV「きらっといきる」のレギュラー司会を、番組が始まって以来10年近く務めており、講演でも全国をめぐる多忙の人。この日も番組の収録を終えて駆けつけたということで、遅れて参加。
岸本と同じく、岩永氏も牧口氏も障害者で、集った5人の内3人が車イスという一座がテーブルを囲んで、学舎支援のあり方について、しばしの談論は終始和やかに進んだ。

岸本の場合、1歳の頃、腸チフスから激しい高熱に苦しんだあげく脳性マヒとなり、四肢が不自由の身となったのだが、牧口氏の場合も、同じ1歳の頃に脊髄性小児マヒ-ポリオ-にかかり、不自由な身となっており、しかも二人は1937年生まれの同年だ。その誼もあってか以前から交友はあったらしい。

その二人の対談をメインに、きしもと学舎支援を広く呼びかけるべくイベントを行うこととなった。

11月23日(日)の午後2時から、場所は昆陽池公園傍のスワンホール3階の多目的ホール。

岩永氏が代表理事を務めるNPO法人サプライズも共催のかたちで支援体制を図るという。
岸本自身の健康問題という先行き不安の火種を抱える学舎の会にとってこんな力強い朗報はないだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-10

  寂として椿の花の落る音  

   茶に糸遊をそむる風の香  重五

次男曰く、茶はもともと僧院の学事修行に欠かせぬ覚醒剤で、晩唐以後、在俗のまま僧居を装い好んで残心を茶烟-湯気、匂-にに託する風は、文人間の一流行となる。芭蕉の、
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」 -野ざらし紀行-
もそれを抜きにしては語ることはできない。「茶に糸遊をそむる」は陽炎-春-の立ちそめる春分の候、茶を煎じると解してもよいが茶烟そのものを、陽炎と踏み込んで見遣った執成に気転の妙があり、「糸」に掛けた「そむる風の香」も巧い治め方だ。見る聞くの次は嗅ぐと見定めた韻字-香-は、むろん計算の内である、と。

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November 07, 2008

寂として椿の花の落る音

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

秋も深まりゆくころ
大阪にてはひさかたぶりの
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」
公演ご案内とともに ―――

「もりもりもりあがる雲へあゆむ」と最期の一句を遺し
行乞放浪の俳人山頭火が、伊予松山の一草庵にて人知れずひっそりところり往生を遂げたのは、昭和15年の秋、10月11日の未明のこと
享年59歳とされているが、当時は数え年、彼の誕生は明治15年12月3日だから、今様に満年齢でいえば57歳ということになる
時代の様相もずいぶんと異なり、単純な比較などたいした意味を持とう筈もないのだが、今年64歳になってしまった私などは、彼の生死に比しすでに6年も余って生き、世間に恥を曝しているかと思えば、おのが生きざまを省みては汗顔のかぎり
身の縮まる思いに襲われもするが、そこは三つ児の魂ゆえか、はたまた河原者の類か、演らずにおれぬ妄執が性懲りもなくこの身に擡げてきては、このたびの企てとなる

孤高の俳人と賞され、旅に生き放浪の果てに生涯をまっとうしたとみられる山頭火も、その実相はといえば我欲の人、妄執の人であったともいえる一面がある
少年の頃から文芸の道を志すも挫折を繰り返し、自身が書き遺したように破滅型の半生をおくった挙げ句、満42歳にしての出家ではあったが、なお苦悩は深く、自暴自棄の果てに服毒自殺を図ったりもしている
山頭火の内奥にひそむ欠落感、欠けた心の、その因るところは‥
といえば、なによりもまず挙げられるべきは、満9歳の春とまだ幼き頃の、母フサの投身自殺であったろう
非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪流離いの生涯に、母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす

だが、身内の非業の死といえば、あまり知られていないが、山頭火にはもう一人、弟二郎の自殺がある
山頭火より5歳下の二郎は、就学前の6歳になったばかりの春、どういう家内事情であったかしれぬが、他家へと養子に出され、さらに長じてのちは、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田最後の砦であった種田酒造の破産によって、養子先を追われるという災厄に見舞われる
依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せるが、山頭火もまた身過ぎ世過ぎの零落の身であれば、弟の寄生を受け容れられる筈もなかった

二郎は、大正7年6月、人知れず郷里近くの愛宕山中-現岩国市-で縊死した
その遺書に
「内容に愚かなる不倖児は玖珂郡愛宕村の山中に於て自殺す
天は最早吾を助けず人亦吾輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならむ。喜ばしき現世の楽むべき世を心残れ共致し方なし。生んとして生能はざる身は只自滅する外道なきを。」と認め
「かきのこす筆の荒びの此跡も苦しき胸の雫こそ知れ」、外一首を遺す
遺体発見は約一ヶ月後の7月15日、遺書の末尾に記されていた住所先の山頭火に知らされ、彼は直ちに遺体の引取に発っている
「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」 山頭火
二郎はこのとき満31歳、山頭火は満35歳
大種田没落の有為転変のうちに翻弄されるがまま、悲劇の人生をおくった薄幸の人であった

山頭火身内の、二つの自死
幼き頃の母の自死は、追懐、追慕の対象となり得ても、弟二郎のそれは、山頭火にとって慚愧の念に苛まれるばかりのもの、ひたすら意識下に潜ませ閉じ込めおくべきものではなかったか
弟の自死について、山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない
この頃は、彼もまた死の誘惑に囚われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりであったことが、日記や散文の処々に覗えるのだ

そして一年後の大正8年秋、山頭火は突然、熊本に妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行
以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を掉尾とする、単身のままの、大都会にただ埋没し彷徨しつづけるといった、東京漂流の数年間を過ごしている
おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのであろうか
などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのかも、仄見えてくるような気がするのである

生者必滅の倣い、老少不定
いったいなんの宿縁か、9月、この我が身に思いもよらぬ凶事が降り来たった
不慮の事故、逆縁の、死
RYOUKO、39歳、いまだ独り身だった‥‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-09

   漸くはれて富士みゆる寺  

  寂として椿の花の落る音  杜国

次男曰く、「寂」はジャクか、それともセキか。仮にジャクと読んでおく。

諸注、雑の句に季-春-を持たせ、庭前の景をあしらった遣句と読み過しているが、花木の栽培には時代の流行があり、椿は桜にもまして当時最ももてはやされた花木だということに作分がある。とくに寺庭に椿はつきものである。
「音」の韻字は、前句に「みゆる」とあれば当然の工夫だ。

万葉のころからよく知られた椿が園芸品種として注目されたのは大凡桃山頃からで、とくに後水尾天皇の元和年間に改良・栽培が盛んになり、徳川秀忠は諸国の品種百椿を江戸城内に集め植えさせたという。図譜の類もこの頃から出版された。

「雲凝り霧重うして椿の落ちたる、此花の風情、此境の光景、まことに宜しき寺の静けさ庭のさまなり」-露伴-、これは解釈ではない、と。

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November 06, 2008

漸くはれて富士みゆる寺

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・谷崎潤一郎と「細雪」
大阪船場の旧家に生まれた四人姉妹を描いたこの小説の構想は、谷崎自身現代語訳をしている「源氏物語」から借景したものだろう。晩年の光源氏が六条院の庭を春夏秋冬の四つに区切り、妻妾たちの性格に応じてそれぞれの庭に面して住まわせるところを思い浮かべるだけで、「細雪」に与えた影響のほどはわかるのではないか。
来日したときのサルトルが、日本の現代文学で何がいいかとの質問に、「細雪」と答えていたのが記憶に残る。彼はことき、日本の女性たちがどんなふうに日常生活をしていて、どう生きているのかがよく描かれた小説だ、と評していた。

・小林秀雄と「無常といふ事」
「無常といふ事」はすべて短章から成っている。小林秀雄は文章をよく推敲して書く人だ。古典を生き生きと蘇らせる批評家としての手腕は類例がない。ただ、古典の思想を思想として取り出すのは不得手で、あくまで文学、文芸として論じてしまう。それが弱点と言えば言えよう。
たとえば「一言芳談」の中から一つの挿話を引いて論じている短章がある。「一言芳談」における「疾く死なばや」という倒錯した思想は、日本の思想としては最もラジカルなものだが、彼はそんなことには一言も触れない。文芸的にはともかく思想的には一番詰まらないと思える箇所を取り上げて、文芸的な解釈を示しただけに終ってしまう。

・坂口安吾と「白痴」
「白痴」は戦争中を舞台に、主人公の男の奇妙な日常を描いている。自分の家に転がり込んできた知的に障害のある女性と一緒に暮らし、空襲があるとうろうろ逃げ回る、といったものだ。戦争もウソ、戦後の平和もウソということを暗に示している、そんな作品が書けた安吾は、「無頼派」と称してどんなに戯作者風を装っても、つねに大知識人しか持ちえぬ全面性を引きずっていた感がある。
安吾の「教祖の文学」は戦後に初めて小林秀雄を批判したものだが、悪ふざけを交えながら芯が通っていて、小林の弱点をよくついていた。小林秀雄や保田與重郞も第一級ではあるが、ともに思想がナショナルなところへと収斂してしまう。比べて無頼派の文学者たち、太宰や安吾は、「身と魂をゲヘナ-地獄-にて亡ぼし得る」-聖書-人たちとして本気だった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-08

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  

   漸くはれて富士みゆる寺   荷兮

次男曰く、荷兮の答は宗祇だろう。
明応9-1500-年九たび招かれて越後に下向した80歳の宗祇は、翌文亀元年9月頃から発病、2年2月末宗長・宗碩扶けられ越後を出て草津・伊香保に赴き、7月ひとまず江戸に着いた。その後は駿河を経て美濃へ向かう予定だったようだが、7月30日箱根湯本で歿した。

宗長の「終焉記」によれば、それより前24日から26日まで、病躯を押して「鎌倉近き所」で千句興行に臨み、これが最後の連歌になった。その「終焉記」に、越後を去るに臨んでの宗祇のことばを書き留めている、「都に帰り上らんも物憂し。美濃国にしるべありて、残る齢のかげ隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし、富士をも今ひとたび見侍らん‥」。

句仕立の拠所はこれだろう。「終焉記」をたよりに、宗祇最後の興行場所は藤沢の富士見寺-時宗総本山遊行寺-だったのではないか、と私なら考える。

露伴は、前句を「場処事情をば転じたるのみ、別に深意あるにはあらず」と読み、次いで連歌興行が表も済んで何句か進んだころ、漸く雲霧切れて霊峰の見えてくるのを悦び合うさまだ、と解している。「連歌の中に、名山の坐に入らざるを託ちて、仙姿の我が眉を圧せんことを祈り求むる意の句なども有りしやとおもしろし」と云う、と。

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November 05, 2008

秋のころ旅の御連歌いとかりに

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

昨夜遅くから、このたびの山頭火上演のための、挨拶文づくりに着手、苦吟したが、漸く昼時前に成った。この一週間ほど早くせねばと些か焦り気味だったから、とりあえずやれやれだ。

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -4-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・保田與重郞と「日本の橋」
彼は、プロレタリア文学が興隆した若い頃には左翼的な素養を身につけていたし、時代とともに歩んで、次第に民族主義的な思想に移っていった。例えば「エルテルは何故死んだか」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」について不倫の末の主人公の自殺を論じた優れた評論だが、左翼的と言ってもいい雰囲気をもっている。
「日本の橋」では、橋を主題に西欧との比較文化論を非常に説得力ある形で展開した。西欧の橋が頑丈な石造りなのは、征服者が大勢の軍隊とともに移動するための便宜であるのに対し、日本では木の橋や吊り橋で、弱くて哀れな造り、平和的なものであり、橋というものの目的意識からしてまるで異なっている。
彼の思想的特色は「本当の強さとは弱いことにある」というものだった。弱いことが日本の美の本当の特色であると終始一貫言い続けた。

・吉川英治と「宮本武蔵」
横光利一は純文学でありながら大衆小説の魅力も持っているものが本格的なのだといい、その本格小説をめざして限界まで行った。吉川英治は対象小説から出発し、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」のような教養小説を書き、「宮本武蔵」で一種の本格小説の域に迫った。
大衆小説としての吉川文学は、物語性のその仮構力にある。ベストセラーとなる作品の条件や共通点を挙げるなら、一つは大衆の好奇心と作家の好奇心が重なること。もう一つは決して縦に掘らないで、横に世界を広げてみせるということである。

・中野重治と「歌のわかれ」
お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
と抒情を排し、プロレタリア文学理論を主体としてめざした中野重治が、本物の文学者、芸術家だと言えるのは、左翼文学の論争の中で「文学に政治的価値なんてない」とはっきり言っていたことだ。「芸術的価値の内容の中に社会性があることはあり得るが、それと別に政治的価値があって、だから主題が積極的でなければならないというようなことは全くない」と終始主張したのは彼だけだった。この人は何か強力な倫理に自分の個性をぶつけて鍛えられてしまったという印象がどこかにある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-07

   酌とる童蘭切にいで   

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  芭蕉

次男曰く、陣中の宴の即興を、連歌会の席の設えに執成した付である。

かりそめの会とはいえ、飾り花の一つも要る。会は宴から引続いての興と読んでもよいが-戦国武将には連歌はつきものである-いくさを離れて、場も人も読替えたと考える方が次句に工夫を促す含を生む。わざわざ「旅の御連歌」と遣ったのもそのためで、たとえ征旅でも陣中の興を「旅の御連歌」とは云うまい。

野水句から本能寺のことは当座の話題にのぼったに違いない。連歌という素材の思付はそのあたりからかもしれぬ。光秀の連歌好とりわけ大事決行を前にしての行祐、紹巴らとの百韻興行-発句は「ときは今あめが下知るさつき哉」-はよく知られている。それを踏えて、夏ならぬ「秋のころ」-秋三句目である-旅中「甚仮-いとかり-」に催された連歌を思出さないか、芭蕉は問掛けているらしい、と。

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November 04, 2008

酌とる童蘭切にいで

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 日月山水図を観る

天野山金剛寺に伝わる作者不詳の名品「日月山水屏風図」

5月5日と昨日-11月3日-の二日のみ特別公開されるというこの名画を拝すべく、昼前からKAORUKOを連れて出かけた。途上、泉北に住んでいたころはよく通った河内長野へと抜けるコースに入ると懐かしい記憶がさまざま甦ってくるが、バイパスが出来ていたりで様変わりしているのには驚かされもした。

行基が開基し、空海が修行したと伝える古刹だが、天野山西北の山裾に位置し、川とは名ばかりの細い流れの天野川に沿って寺域は南北に伸びる。休日とはいえ訪れる人はまばらでひっそり閑としていた。
受付の納経所から本坊に入れば、枯山水の庭を眺めながら行宮所であったという奥の間へとつづく。六曲一双の屏風の前には、四十前後かとみえる男女の二人連れが靜かに座して見入っていた。横には床几に腰をかけた作務衣姿の女性がじっと黙しているばかり。

「日月山水屏風図」は室町時代の作とも、また下って桃山時代の作とも云われ、作者も詳らかではない。春夏秋冬を描いた四季山水の図柄だが、型破りなダィナミズムが画面に満ちあふれているなんとも奇妙、不思議な絵である。

江戸時代の「河内名所図会」に、金剛寺に残る屏風について「雪村筆一双、元信筆一双、土佐光信女筆一双」とあり、この三者のいずれかが作者であろうとする説もあるが、どうやら決め手に欠けるようで事実は藪の中。

丸山健二の新作「日と月と刀」に想を与えたであろうと思われるこの「日月山水図」、作者不詳なればこそ奇想天外な幻想世界をかくも現出せしめたか。丸山自身が文藝春秋「本の話」で自作について語っている件りがおもしろい。

てっきりこの小説の所為で拝観に来る者も多かろうと思っていたのだが、豈図らんや、滞在のあいだ後から来た者とて一組の初老男女のみ。床几に座る作務衣姿の女性に、丸山の新作云々の話をしたら彼女は知らず、慌ててメモを取っていた。

夕刻からは、そのまま車で移動して、山頭火の初稽古。
台本片手に半立ちといった体の稽古を、KAORUKOが時に笑い時に小難しそうな表情を浮かべながら、さして退屈した様子もなく見続けていたのには驚かされたものである。いつのまにかこの幼な児も私の観客になりうるほどに成長してしまっているというのは、望外の果報なのかもしれぬとつくづく思い至る。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-06

  音もなき具足に月のうすうすと  

   酌とる童蘭切にいで   野水

訓は「しゃくとるわっぱらんきりにいで」

次男曰く、陣中の人情を取り出した作りだが、静・動を以てした向付が、二句一体かによって、場景は違ってくる。

前者なら、夜討に構えるさまで、さしずめ本能寺の変の面影をかすめた付と読める。森蘭丸の一字を裁入れて信長の心を匂わせれば、こういう句になるだろう。後者なら、蘭と乱を通いにした、出陣前の縁起かつぎか、それとも殺伐とした滞陣・籠城などでふと兆した優情でもあるか。

句は秋二句目、したがって云うところの「蘭」とは、これに見合うものを求めれば建蘭のことで、なかでも雄蘭または駿河蘭の名で呼ばれている品種だろう。一茎多花、花期は7月~9月頃、中国原産の栽培種である。日本にはホクリとかジジババなどの名で呼ばれている古来自生の春蘭があるが、歳時記は「蘭」を秋のものとし、ホクリは「春蘭」として別に春の部に立てている。中国の呼称にならってフジバカマのことを古くは蘭と云ったからか、それとも四君子のうちで蘭を菊と併称する慣わしがあるからか、そのあたりから起こった部類だと思うがよくわからない。
古来四君子の一つとしてもてはやされたことばの香りを取り出しているだけなのだろう、と。

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November 03, 2008

音もなき具足に月のうすうすと

080209033

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― とうとう御陀仏か、ゆびとま?

一昨日-10/31-の夕刻から、突然アクセスできなくなった「ゆびとま」と「Echo!」
Siteには「臨時メンテナンス中です。2008/10/31~未定。進捗に変化があり次第お知らせいたしますので、何卒よろしくお願いいたします。」と白々しい文字が並ぶのみ。

同じ日の午後にあった定番のメール配信には、メンテナンスのことなど一言も触れられていないのだから、余程の不測事態、むしろ事故というべきか、が出来したにちがいない。

その出自は、小久保徳子らを中心に立ち上げ、全国ネットに広がった同窓会サイト「この指とまれ」も、その小久保自身が06年2月、長崎県知事選に無所属で立候補してむなしく大差で敗れ去ったその選挙戦と同時に、経営の実権は完全に暴力団関係の乗っ取り屋らに移ってしまうという事件のあった会社だが、このことが広く世間に明るみとなってしまうのは、翌07年の2月、(株)アドデックスをめぐる民事再生法違反事件で同じ関係者らが逮捕されたことからだ。

そんなきな臭い怪しい感は、遡って05年の春頃からなにかとブログのEcho内で話題にもなり、会員らのなかでずいぶん騒ぎにはなっていた。
また、昨年8月には「(株)ゆびとま」から新会社の「(株)この指とまれ」へと売却移転しており、この経営陣の正体もよくはわからない。

ざっとそんなこんなで、今更なにが起ころうと驚くほどのこともないのだが、10月28日現在、公称登録者総数3,719,983人を誇る「この指とまれ」も、いよいよ風前の灯、命数尽きなんとしているかと思われる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-05

   ひきずるうしの塩こぼれつゝ  

  音もなき具足に月のうすうすと  羽笠

次男曰く、月の定座。奪って軍陣の趣向とした。

「塩こぼれつゝ」とあれば無月はわるし、といって名月というわけにもゆくまい。「月のうすうすと」とは誰が試みても殆ど動かしようのない設定だが、初五があいまいだろう。具足-大鎧ではなく小具足-の音を立てるなという抑制の合図は、とりも直さず初折表のはこびの心構えの含でもあるか。脱ぎ置かれた具足という解釈はよろしくない。移動する軍か、それとね籠城攻めのさまか、後者なら軍陣もやや手詰りとなった兵たちの無聊も出る。

発句・脇を和歌風、脇・第三を漢画風、第三・四を軍記風にはこんだ手際は、貞享蕉風の知的に面白さだろう。
露伴は「前句を籠城防戦の準備に嶮坂山路を塩を搬ぶと看て、此句あるか、或は適地を通り抜けて味方に力を添ふると看て、此句あるか。いづれにせよ戦場軍旅の風情なり。音も無き具足をただ飾り置くのみとするは非なり。‥一句もよろしく、前句とのかかりもよろしく、樹蔭過ぎ行く籠手の上に月の光の薄々と射したる、人情夜景、共に妙なり」、と。

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