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October 31, 2008

ひきずるうしの塩こほれつゝ

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 取り出し

‘07年度から全国の小中校で完全実施されたという特別支援教育。
ADHD –注意欠陥多動性障害-やLD-学習障害-など、比較的軽い発達障害を含め、障害のある子どもを手厚くサポートする制度ということだが、先生の指示に従えなかったり、人の話に集中できなかったりする子に対して、突然、学校に呼び出された父母が、「お子さんを病院で診てもらうように」と指示され、狼狽えてしまうといった騒ぎが起こっているらしい。

診断を求められた子どもたちは、特別支援学級へ移したほうがよいと、担任教師らに判断されているというわけだが、この児童や生徒を特別支援学級に移すことを「取り出し」と、教育界では呼んでいるそうな。

まさに、円滑な授業の妨げとなる異物を排除する、取り除くといった意味なのだろうが、まったく不快きわまる言葉である。教師たちのこういった視線が教室を覆うなかで成立する授業とは、いったいいかなるものか、思うだに悲しくなってくるというものだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-04

  樫檜山家の体を木の葉降   

   ひきずるうしの塩こぼれつゝ  杜国

次男曰く、冬三句のあと、次に最初の月の座をひかえて、雑の句。其の場のあしらい付の趣向だが、「樫檜」の位を曳けども動かぬ牛に移し、「木の葉降」の位をその俵からこぼれる塩に移して、さながら宋元文人画にでもありそうな一幅の景にまとめあげている。

牛飼は垣の外を通っていてもよし、門構えの内の情景であってもよい。坂道とはかぎらぬ。たまたま牛が動こうとせぬ理由など穿つまでもないが、杜国は、前を清廉の隠士と見定めているらしく、「塩」と云い「こぼれつゝ」と工夫したのは、木の葉の降らせ様、庭の調え様にまで主の行届いた人柄を偲ばせる手立でもあるだろう。

「塩」と思いついても「こぼしつゝ」とすれば、乱雑な印象だけがのこる。このあたりの目配りは、前句が山家の「体」と設けた抑制とよく響き合っている。一句明晰、とかく安易になりやすい四句目にしては、はたらきのある作りだ、と。

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October 29, 2008

樫檜山家の体を木の葉降

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -3-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・江戸川乱歩と「陰獣」
「陰獣」は乱歩の他の作品と同じく、仮面を巧妙に生かした小説だ。この作品のきわだった特徴は、大正から昭和初期の時代性を感じさせることである。

大正デモクラシーや大正ナショナリズム、吉野作造や大山郁夫の民本主義にしても、美濃部達吉の天皇機関説にしても、仮面と同様、作り物といった感が拭いきれぬ。天皇というものに「機関」という仮面を被らせたのが、天皇機関説だと言えそうだ。乱歩の小説で、登場人物が仮面を被った途端に人格が変わるのと、絶対的に神聖な天皇が、機関という仮面を被ると全く別なものになるのと、よく似通っているように思える。

・横光利一と「機械」
彼の小説は「機械」を境に前期と後期に分けられる。前期の小説からは溢れるほどの才気が感じられ、モダニズムの一方の旗頭的存在であった。意識的に粘っこい文体で描かれた理知だけの人間の絡み合いの描写は、機械の歯車の狂いを比喩させている。フランスの心理主義文学を移入していた当時の影響下で、彼の才能と資質の兆候を微妙な釣り合いで総合した作品だった。

「機械」以後は、意識して人工的に作った知的部分が消えていく、いわゆる小説らしい小説に、その頂点と言えるのが「紋章」である。彼の「四人称小説」といい「純文学にして通俗文学」といった「純粋小説」の主張から生まれ出た結晶と言っていい。

・川端康成と「雪国」
初期のモダニズム的な作品から日本の古典主義的な美意識に連なる作品へと転換していく最初の優れた小説として位置づけられるのが「雪国」である。

彼の小説における男女の関係のあり方、あるいは自然への対処の仕方、物への接し方など、対象に対する「浸透力」が特徴だと言える。中性という概念を幅広くとると、登場する男も女も、その中に囲い込まれてしまうと思える。性の物語を描いても、性欲の葛藤が物語になるのではない。男女が互いに浸透しあう姿が、作品の主眼になる。

川端康成の「浸透力」を、岡本かの子の「生命力」と比較してみるのも面白い。かの子も性を性欲の葛藤としては描かない。生命力の問題として捉える。彼女は仏教に造詣の深い作家なので、その思想が背景にあるのだろう。

「雪国」にはドラマティックな起伏や葛藤はあまり存在しない。そこには駒子と島村の淡い交情が描かれているだけなのだが、文体の間から、浸透力がさまざまに表現されているのを感受すると、見事な作品に思われてくる。なまめかしくてつややかな文体の底に、細かい網の目を通っていくように、対象の肌から内蔵にまで達するような浸透力の動きが描かれている。決して粘っこくはないが、霧のようにひろがり、それが対象の奥にまで浸透して、島村と駒子の淡い交渉が一つの世界にまで昇華されて感じられる。

人間はすべて男か女かだというのは川端康成の文学の基本的な認識だが、この男と女は性欲的な存在ではないというのも、川端文学の重要な人間認識でもある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-03

   冬の朝日のあはれなりけり  

  樫檜山家の体を木の葉降   重五

訓は「かしひのきさんかのていをこのはふる」

次男曰く、木の葉とか木の葉降るといえば、連・俳では冬の季題とされている。落葉の状態よりもむしろ散る現象のことを云う詞であるから、残り葉に覚える興もそのなかには含まれ、併せて遣う。むろん落葉樹のことで、樫や檜、松や杉などのように初夏にその葉をふるうものは、木の葉とは云わない。

「万葉」「古今」さらに「後撰」「拾遺」あたりまでは、これをまだ秋に扱っているが、俊成の「千載集」には、取合せる景物によって、秋冬双方に部類している。概ね、冬のものと考えるようになったのは、「新古今」以後のことである。これは隠遁思想流行と関係があるだろうが、やがて山居の実態が形骸化してくると、常緑樹に構えの基本を示し、配するに効果的な落葉樹をもってするという、山家らしき「体」が洛中の数寄として確立されてくる。在俗遁世の心を現すごく普通なかたちである。

重五の作りは、散るに任せた辺り一面の木の葉と考えると趣向がわからなくなる。諸評は「樫檜」と「木の葉降」との関係について、常磐木に亭主の志を見せる庭構えであるからこそ木の葉の降らせ様も活きる、という作意を見落としてしまっている。

「田家眺望」は平凡な農家の眺めなどではない、と見立てたこの第三の起情はよい着想だ、と。

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October 27, 2008

冬の朝日のあはれなりけり

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 窮鳥懐に入らずんば

昨日は稽古場で、ARISAの幼い頃からの舞踊歴というか研究所歴といったものを、あらまし本人から聞いた。

今日は弁天オーク200の喫茶店で、ARISAのお母さんから現在通っている所の状況などを聞き、今後の考え方などについて話をした。

聞けば聞くほど、話せば話すほど、狭い世界、悪しき業界癖とでも云うべきバレエ界の慣習や窮屈さが立ちはだかるように、ARISAの将来への見取図を描くのにfree handではいられなくなる。

門外漢の私などには、どうにも困った世界だ、というのがまずは本音のところだ。
バレエ・テクニックのことなど皆目知りもしない私だが、表現者としてなら、彼女に足らぬもの、何を身につけるべきか、心するべきか、語るべきことは相応にあろう。

だがバレエ界という長年にわたってつくられてきた特殊世界で、目先のことならいざ知らず、どのように身を立てていくかと考えることなど、外からさまざま類推しながらあれこれ思量したところで当を得たものになろう筈もない。

彼女にとってこの1年、長く見積もってこの2年、その培ってきた技量とまだ幼さを残す心の成熟度というアンバランスが、それだからこそおもしろいし限りない可能性を秘めているともいえるのだが、どれほど動的に縒り合わされていって、将来において見事な華を咲かせるか否かの決め手となる日月であろうことだけは、私の眼にはっきりと映るのだが、はてさて‥。

とはいうものの、斯様な悩み煩いは、よほど愉しくもあり心の贅沢でもある。窮鳥懐に入らずんば、と古い喩えもある。大いに愉しみつつ思い煩ってみようかと思うこの頃だ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-02

  霜月や鸛の彳々ならびゐて  

   冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉

次男曰く、時節と時分の見究めを以てした打添の付である。

「て」留の発句に「なりけり」の治めは自然の成行で、「発句をうけて一首のごとく仕なしたる処、俳諧なり」-三冊子-とでも云うしかないが、和歌仕立すべて佳い脇になるわけではない。発句が景のなかに情の現れるさまに作られているから、「あはれなりけり」も俳を生む。凡にして非凡というべきか、去来は終生この句を脇作りの手本にしたという。

露伴は「元来あはれという語は日に縁のある語と云はんよりは、日の美しく照るところより起りたる語とされ居れば、芭蕉もここにおもしろしと用ゐたるなるを、哀れなどとのみ取りては、それにても七八分は済めども十分には済めず」と説く、と。

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October 26, 2008

霜月や鸛の彳々ならびゐて

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― イタリアでも

市民記者が綴るNews SiteにJanJanニュースというのがある。
イタリア在住で翻訳に携わるという日本人女性の伝えるところによると、近年この国でも日本同様、貧困格差問題が深刻な状態を呈しているらしい。

プレカリアートと呼ばれる非正規雇用の労働者や、ネーロという外国人の日雇い不法就労が激増、建設業などこれらの人々が働く現場では、就労中の不慮の事故や災害による死亡が多発しているというのだ。今年の上半期だけでも555人がそういった労働災害で死亡し、444,755名がなんらかの傷害に遭っているというから凄まじいの一語に尽きる。

もう少し詳しく知りたければ「此処」を見られるといい。

イタリアのみならず、EU加盟の先進諸国は大なり小なり、軒並み似たような状況を呈しているのではないかと推量される。
米国発のファンド・バブルが世界を席巻した挙句に残されたものは、世界経済の破綻という危機とともに、先進諸国にあまねく深刻な貧困格差をもたらしただけではなく、発展途上国の飢餓と難民をさらなる窮状に追い込むばかりか、きっとそのスケールを爆発的にひろげていくことになるのだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-01

  霜月や鸛の彳々ならびゐて  荷兮

詞書に「田家眺望」とある。
鸛-コウ-こうのとり、彳々-つくつく

次男曰く、「霜月の巻」は、尾張五歌仙の「冬の日」-荷兮編、貞享2年春板-に収める「炭俵の巻」に続く第五の巻である。

霜月は陰暦11月。まず、貞享元年10月下浣にはじまった尾張五歌仙の興行は、月内には成就しなかったらしいとわかる作りだが、霜月は鍬納め、一陽来復の月である。興行納めの巻という含みをこめて初五としたものだろう。

鸛は、音はカン、コウノトリである。コウヅルともいう。形態・大きさともに丹頂鶴に似て見間違われやすいが、頭上に赤く露出した部分や頬から喉にかけての黒毛はなく、またツルとは目・科も違う。留鳥として周年棲息し、往時は日本各地で繁殖していたらしい。そのせいか季語にも立っていないが、ツルは湿原に、コウノトリは森や林の喬木に営巣する。

句は、用意された題詠で当座嘱目とは到底考えられぬが、それにしても、鶴の名声に隠れ、和歌にも俳諧にも採り上げられなかった鳥の名を、どうしてわざわざ持ち出したのだろうと思う。

「霜の鶴」という伝統的歌語-凍鶴の傍題-がある以上、「霜月や鶴の彳々ならびゐて」では句のさまにならぬ。「詩経」の「豳風-ひんぷう-」に、「我、東より来れば、零雨それ濛たり。鸛は垤-てつ-に鳴き。婦は室に嘆ず」。けぶる雨のなか、鸛は蟻塔を見付けてよろこび鳴いているが、故国では妻がさぞ恨んでいよう。東征の帰途を長雨に阻まれた兵士の歌で、鸛・鸛鳴を俗に雨降らしというのはここから出たものだ。

句の目付はそこにあるか。霜月ともなれば鸛も鳴くに術なく、彳歩する、と読めば俳になる。霜は雨を嫌う。

彳は少歩のさま、転じて佇む意にもなる。つくつくは「詩」にからうた、「燕」にさかもり、「時」によりより、「虚谷」にこだま、「夷衣」にひなごろも、「背」にきたのねや、「吟」にさまよふ、「長」におとなし、と振る類で、「虚栗」馴染みの用字である、と。

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October 25, 2008

枕もちて月のよい寺に泊りに来る

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―山頭火の一句―

「大正14-1925-年2月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂堂守となったが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいとおもへばさびしい生活であった。
  松はみな枝垂れて南無観世音
」と、山頭火は第一句集「鉢の子」の冒頭に記している。

味取観音堂は、義庵和尚の座す法恩寺の管理下にあった末寺である。
現在の熊本県植木町、味取のバス停の傍に、観音堂への登り口があり、「味取観世音、瑞泉寺登口西国三十三箇所霊場アリ」の石碑が立つ。それより急な石段を登り切ったところ、ひっそりと観音堂が佇んでいる。

当時、この寺の檀家は51軒だったから、その布施による収入はたかだかしれたもので、暮しのしのぎはおおかた近在への托鉢によるものであったろう。彼に課された仕事といえば朝晩に鐘を撞くことくらいで、ずいぶん気ままな生活だったようである。雨の日は落ち着いて読書もできたろう。夜などは、近在の青年を集めて、読み書きを教えたり、当時の社会情勢なども説いて聞かせたという。

日々の暮しのなかで困ったのは水である。檀家の51軒が順繰りに、毎日手桶二杯の水を運んでくれたらしいのだが、それでは充分とはいえず、水の不自由は悩みの種だったようである。
そんな苦労からであったか。後の個人誌「三八九」に「水」と題された随筆がある。

「禅門-洞家には「永平半杓の水」といふ遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかへして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。-略- 使った水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる。-水を使へるだけ使ふ、いひかへれば、水を活かせるだけ活かすといふのが禅門の心づかひである」と。

―世間虚仮― 映画館は怖い!

朝から揃って「崖の上のポニョ」を観るべく出かけた。
映画館での鑑賞は、暗がりの中で大音量だから、KAORUKOは怖がってとてもそれどころではあるまいと、これまで一度も行ったことがなく、今日が初見参なのだ。

案の定、暗い館内に入って椅子に座るや、もう落ち着かない様子。前から3列目という至近距離で大きな映像とともに音が鳴り出して数分で、やっぱり音を上げた。私の腕に喰らいつくように、「出よう、出よう」と訴えかけてくる。

ポニョと宗助の明るい場面では、画面に惹き込まれているようだが、魚群が動き、海が荒れたりするともう駄目で、私の腕にしがみつく。そんなことを何度も何度も繰り返して、ようやくendmarkまでこぎつけた。予期していたとはいえ、大変な初体験であったことよ。

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October 24, 2008

ねられぬ夢を責るむら雨

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 台風とドル破綻の嵐と…

10月も最終週に入ろうとして、列島を掠っていったものはあったものの、今年、台風は一度も本土上陸をしていない。このままいくと、統計を始めた1951-S26-年以来、4度目の上陸ゼロということになるそうだが、58年間に4度というのを稀有と受けとめて、気象変化に凶兆をみるかみないか、そのあたり微妙といえばいえそうだ。

「DAYS JAPAN」の11月号を見ていると、「マネーゲームの果てに」と題した、サブプライム・ローンに端を発した世界金融危機に関して、短いプロテストの文があった。
これによると、この新しいローン制度のお蔭で、98年から06年までに建てられたマイホームは総数144万戸だったが、金融破綻からすでに差し押さえを受けた物件は、なんと237万戸に達しているというのである。なんのことはない、サブプライムなる新制度登場のずっと以前から、小市民の夢ともいえる住宅を喰いものにしたマネーゲームのバブルは始まっていたのだ。

そのドル破綻の嵐に、福田辞任から麻生新総理誕生で、そのまま解散必至の筈だった政局は、経済の立て直しこそ緊急課題とばかり、麻生政権は解散を先送り。かってない規模の住宅ローン減税を声高に叫ぶが、どうも矛先がトンチンカンなのではないかと思えてしかたがない。そんなことではどのみち世界恐慌にもひとしいこの危機はとても乗り越えられまいにと素人目にも映り、タナボタよろしく舞い込んできた権力への執着ばかりが透けてみえて、どうにもいただけない宰相殿であることよ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-36

  北のかたなくなく簾おしやりて  

   ねられぬ夢を責るむら雨  杜国

次男曰く、北の方の慕情、興奮にこと寄せて、せっかくの興の盛上りをこのまま終らせるのはまことに心残りだ、と云っている。挙句の常とは一味違う、と。

「炭俵の巻」全句

炭売のをのがつまこそ黒からめ   重五 -冬   初折-一ノ折-表
 ひとの粧ひを鏡磨寒       荷兮 -冬
花荊棘馬骨の霜に咲かへり     杜国 -冬
 鶴見るまどの月かすかなり    野水 -秋・月
かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日    芭蕉 -秋
 荻織るかさを市に振する     羽笠 -秋
賀茂川や胡麿千代祭り徽近ミ    荷兮 -雑   初折-一ノ折-裏
 いはくらの聟なつかしのころ   重五 -雑
おもふこと布搗哥にわらはれて   野水 -雑
 うきははたちを越る三平     杜国 -雑
捨られてくねるか鴛の離れ鳥    羽笠 -冬
 火おかぬ火燵なき人を見む    芭蕉 -冬
門守の翁に帋子かりて寝る     重五 -冬
 血刀かくす月の暗きに      荷兮 -秋・月
霧下りて本郷の鐘七つきく     杜国 -秋
 冬まつ納豆たたくなるべし    野水 -秋
はなに泣桜の黴とすてにける    芭蕉 -春・花
 僧ものいはず款冬を呑      羽笠 -春
白燕濁らぬ水に羽を洗ひ      荷兮 -春   名残折-二ノ折-表
 宣旨かしこく釵を鋳る      重五 -雑
八十年を三つ見る童母もちて    野水 -雑
 なかだちそむる七夕のつま    杜国 -秋
西南に桂のはなのつぼむとき    羽笠 -秋・月
 蘭のあぶらに〆木うつ音     芭蕉 -秋
賤の家に賢なる女見てかへる    重五 -雑
 釣瓶に粟をあらふ日のくれ    荷兮 -雑
はやり来て撫子かざる正月に    杜国 -夏
 つゞみ手向る弁慶の宮      野水 -雑
寅の日の旦を鍛治の急起て     芭蕉 -雑
 雲かうばしき南京の地      羽笠 -雑
いがきして誰ともしらぬ人の像   荷兮 -雑   名残折-二ノ折-裏
 泥にこゝろのきよき芹の根    重五 -春
粥すゝるあかつき花にかしこまり  野水 -春・花
 狩衣の下に鎧ふ春風       芭蕉 -春
北のかたなくなく簾おしやりて   羽笠 -雑
 ねられぬ夢を責るむら雨     杜国 -雑

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October 23, 2008

北のかたなくなく簾おしやりて

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 場違いなアトピー

「アトピー」という語は、「ア・トポス」からきたそうな。
人間に特有な遺伝性過敏性症候群なるアトピーが、トポス-場所-と関係のある語だとは、いかにも意外である。
「リズム」に対して「ア・リズム」、「シンメトリィ」に対する「ア・シンメトリィ」というように「a」は「not」と同じような語だから、「アトピー」の原義はさしずめ「場違いなもの」とでもいえようか。

「アレルギー」という語も元はといえば、変わるという意味の「アロス」と、力の意味の「エルゴン」の合成語だという。エルゴンというのは反応力という意味だそうだから、「アレルギー」の語に元来、負のイメージはない筈だが、いつのまにか変わり果ててしまった訳だ。

多田富雄の免疫理論がおもしろい。
いま、対談集の「生命へのまなざし」-95年初版-を読んでいるが、興味尽きない生命科学の話題が平易な語り口で披瀝されている。

―今月の購入本―

・高橋悠治「音の静寂 静寂の音」平凡社
「複雑性の科学は 複雑性を単純なパターンに回収しようとしているのではないか。カオスもフラクタルも単純なものほど美しいと感じる論理の経済から出られな いようだ。哲学はと言えば、科学よりさらに後を歩いている。計量化されない、一般化されたり抽象化されない、音の流れを分析してアルゴリズムを作ることは できても、アルゴリズムから作られた音は貧しい。美学からアートを創ることはできない。色や音を通してさわる、一回だけのこの世界との出会いは、数学や哲学のはるかさきを歩んでいる。」-「反システム音楽論断片ふたたび」より

・折口信夫「日本芸能史六講」講談社学術文庫
「人の住む近くにはものやたま-スピリットやデーモン-がひそむ。家や土地につくそれら悪いものを鎮めるために主は客神-まれびと-の力を借りる。客神至れば宴が設えられ、主が謡えば神が舞う。藝能の始まり。」
「歌舞伎でも能でも田楽でも、何れも何でもかでも取りいれた一つの藝能の大寄せみたいなものなのです。だから吾々の藝能に対する考へは、まだ自由に動いてゐる時代だといふことが出来ると思ひます。」

・折口信夫「かぶき講」中公文庫
「なまめける歌舞伎人すら ころされていよゝ敗れし悔いぞ 身に沁む」と折口信夫が詠んだのは昭和21年。彼は戦中から戦後、歌舞伎について度々論ずるようになる。防空壕の中で死んだ中村魁車、上方歌舞伎の美の結晶実川延若、さらには六代目尾上菊五郎。

・島尾敏雄「魚雷艇学生」新潮文庫
1986年に島尾敏雄が亡くなった時、文芸各誌はこぞって島尾敏雄追悼の特集をしている。そのなかで生前の島尾を知る作家や批評家が追悼文を書き、もっとも評価する島尾作品を挙げていたのがあったが、「死の棘」-6票、「魚雷艇学生」-7票、「夢の中での日常」-2票、といったものであった。概ね批評家たちは「死の棘」を挙げ、作家たちは「魚雷艇学生」を選んでいた。
巻末で解説の奧野健男は、「晩年の、もっとも充実した60代後半に書かれたこの作品は、戦争の非人間性の象徴ともいえる日本の特攻隊が内面から実に深く文学作品としてとらえられ、後世に遺されたのである。それはひとつの奇蹟と言ってもよい」と。

・多田富雄「免疫の意味論」青土社
自己と非自己を識別するのは、脳ではなく免疫系である。「非自己」から「自己」を区別して、個体のアイデンティティを決定する免疫。臓器移植、アレルギー、エイズなどの社会的問題との関わりのなかで、「自己」の成立、崩壊のあとをたどり、個体の生命を問う。

・多田富雄「生命の意味論」新潮社
私はどうして私の形をしているのか。遺伝子が全てを決定しているというのは本当か。男と女の区別は自明なのか―。「自己」とは何かを考察して大きな反響を呼んだ「免疫の意味論」を発展させ、「超システム」の概念を言語や社会、都市、官僚機構などにも及ぼしつつ、生命の全体にアプローチする。1997年初刊、中古書。

・広河隆一編集「DAYS JAPAN -格差の底辺から-2008/11」

・他に、CD2点、高橋悠治「サティピアノ作品集③」と、
タルティーニ、バッハ、ヴィヴァルディ等の作曲による「名器の響き ヴァイオリンの歴史的名器」

―図書館からの借本―

・ジョセフ・メイザー「数学と論理をめぐる不思議な冒険」日経BP社
ユークリッドからカントール、ゲーデルまで、数理論理学に関わった数学者を中心に、幾何学、解析学、代数学、確率などの幅広い分野に題材を取り、数学のさまざまな分野の魅力を知らしめる啓蒙の書。

図書館からの借本がこの一冊のみとなったのは、ひとえに突然降りかかった災厄に呑み込まれた、このひと月余りの心身もろともの揺動に因るもので、先月借りた3冊を読了するのに、大幅な期限延長をもたらす結果となってしまった所為である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-35

   狩衣の下に鎧ふ春風  

  北のかたなくなく簾おしやりて  羽笠

次男曰く、前を出陣と見て、男女の別れの場景に仕立てているが、「かつすすぐ沢の小芹の根を白み漬げに物をおもはずもがな」という西行歌が恋の歌だった、と改めて思い出させるように響かせた余韻が、ここにきて利く。因みにここは花の定座の空である。

作りは、「狩衣の下に鎧ふ」-狩衣で鎧を隠す-と云えば「簾おしやりて」-簾の陰に身を隠さぬ-と応じ、「鎧ふ春風」と云えば、「北の方泣く泣く」と応じ、襷掛けの手法を以てしたなかなか手の込んだ人情の相対付である。掉尾の見せ場にふさわしいだろう。芭蕉と羽笠による付合6つの内、芭蕉の短句に羽笠が長句で付けた唯一の箇所でもある、と。

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October 22, 2008

狩衣の下に鎧ふ春風

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -2-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

森鴎外と「高瀬舟」
文学者としての鴎外は、生涯素人であるかのように、自分で抑制してなるべくprofessionalとして振る舞わないようにした。小説も翻訳も当時の第一級、作品としては優れた出来映えだが、自分では素人の文学に固執する。つまり余技でやっているという形を崩さない。

鴎外の代表的作品は「雁」だと思う。これは鴎外が玄人として振る舞っている作品で、しかも歴史小説と同様に丁寧に書いて、優れた作品だ。
鴎外の歴史小説では、自分は小説家ではなく考古的な記録係だというふりをしている。「高瀬舟」もそうだが、武家社会の義理や倫理に対する関心であり、武家の持っている独特の倫理への関心が強くあった、と。

芥川龍之介と「玄鶴山房」
初期の芥川は歴史小説のなかに近代の心理主義を導入したといえよう。いわば近代心理を持った平安朝人たち。女性心理の奥にひそむ奇怪さにたいする好奇心が歴史小説家としての芥川を支えた。

芥川は娑婆苦の人であった。中産下層の出自と知的世界にいることの乖離が彼を終生脅かし続けた。

晩年の作「玄鶴山房」は、若く才気走った頃の芥川が、非難してやまなかった田山花袋の作品に似ているといえよう。彼は出自と現状の乖離から生まれるニヒリズムを深化させ、エゴイズムが渦巻く世界を描き出した。人間が抱える闇の描写は圧巻、文学的な成熟を充分に見せている、と。

宮沢賢治と「銀河鉄道の夜」
賢治の宗教と文学、作品全体から現れ出てくるものが宗教的な雰囲気を含んでいるということが、賢治の童話の最大の特徴だ。異常なほどのスピードで、最も真剣に白熱したところで書かれているから、文学と宗教が渾然一体となって、童話作品だが宗教的にもよめるものになっている。

彼の童話世界が翻訳され読まれるのは、宗教的な情操は仏教的であり、作品の倫理も自然観も仏教的だと言えるのに、熟した作品の全体性はエキゾチズムの要素を特徴にしているのではなく、一つの宇宙性が国際的に通用するものになっており、西欧の文学と全く等質なものとして受け容れられるのだと思う、と。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-34

  粥すゝるあかつき花にかしこまり  

   狩衣の下に鎧ふ春風  芭蕉

次男曰く、「狩衣の下に鎧ふ、春風」とも、「狩衣の下に鎧ふ春風」とも読める。
前者なら「春風」は連句特有の投込みの季のあしらいで、狩衣の下に具足を着けていても春風が心地よく感じられる、という句、後者なら、花に「かしこまる」という表現の可笑しみを咎めて、春風を「鎧ふ」と、いかめしく、滑稽に遣ったか。

公達などの出陣もしくは陣中と考えれば、前のように読んで二句見易い作りだが、芸がない。せっかく引き上げた「花」も生きぬ。名残のはこびも末とはいえ、芭蕉とも有ろう者がと考えたくなる。

こういう作りは、両義に渉って頭をひねらせる狙いが味噌に違いない。鎧うのは具足ならぬ春風だ、と告げたいのだ。さては、慣れぬ戦か、それとも初陣か、緊張してるな、と読者にさぐらせることは面白くなくはないが、芭蕉が云いたいのはそれだけではないらしい。

「弓馬の事は在俗の当初なまじひに家風を伝ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の、嫡家相伝の兵法は焼失す。罪業の因たるに依って、其事会を以て心底に残し留めず。皆忘却し了んぬ。詠歌は、花月に対して動感の折節、僅に三十一字を作す許りなり、全く奥旨を知らず」-吾妻鏡-、文治2年8月、陸奥へ赴く途中の老西行が鶴ヶ岡宮で頼朝の問に答えたことばである。

重五・野水の付合に西行の俤があれば、「狩衣の下に鎧ふ春風」はこのパロディと読むことができる。蕉句の大切な見どころかもしれぬ。因みに、この興行の巡りは先に述べたとおりだが、以下三句efcに変更、つまり杜国が芭蕉に「花にかしこまる」人物の見定めを譲っている、気配りの見える点だ、と。

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October 21, 2008

粥すゝるあかつき花にかしこまり

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品

一昨夜、昨夜と、よほど疲れていたのか、貪るほどに眠った。
9月9日の夜、RYOUKOがその生死を以て私の胸中深く飛び込んできて以来、すでに40数日‥。

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。
本書は2000年4月から2001年3月まで週一回、毎日新聞文化面に連載された「吉本隆明が読む近代日本の名作」の文庫化という。

夏目漱石と「こころ」

「こころ」の主人公の自殺は、乃木希典夫妻の殉死がきっかけとなっていた。明治天皇の後追自殺をした乃木夫妻の事件は漱石にも鴎外にもショックだった。

漱石の倫理観には、江戸時代からそう変わっていない儒教的な部分と、西欧に留学して得た近代的なものと両方があった。漱石は乃木夫妻の明治近代になってからの殉死に、自分のなかのこの二つの倫理性を揺さぶられ、「こころ」の主人公自殺に託したのではないだろうか、と。

高村光太郎と「道程」

 「勝てば官軍」ほれたが因果
 馬鹿で阿呆で人様の
 お顔に泥をばぬりました   -「泥七宝」より

欧米留学から帰った頃の高村光太郎のデカダンス生活の自嘲と自虐をこめた述懐になっている。

優れた仏像彫刻の大家であった父光雲は、‥、西欧近代の彫刻が芸術として追求したモティーフの垂直性、いいかえれば素材の本質から出ながら素材を超えた抽象の宇宙に到達する方向をもたない。作品は円く閉じるが、無際限な拡がりをもたない。光太郎が折角学んできたものは、父光雲やその弟子たちの世界ではけっして解放されない。

「どんな眼かくしをされても磁極は天を指すのだ」という自覚に、光太郎が達したのは、智恵子と結婚同棲の生活に入ってからだった。

昭和20年4月、空襲でアトリエを全焼した光太郎は、「自己流謫」と彼自身が呼んでいるように戦争責任を引き受け、山林の独居自炊の生活に服する。

 彫刻家山に飢える。
 くらふもの山に余りあれど、
 山に人体の饗宴なく
 山に女体の美味が無い。
 精神の蛋白飢餓。
 造型の餓鬼。
 また雪だ。
 ‥‥
 この彫刻家の運命が
 何の運命につながるかを人は知らない。
 この彫刻家の手から時間が逃がす
 その負数-モワン-の意味を世界は知らない。
 彫刻家はひとり静かに眼をこらして
 今がチンクチェントでない歴史の当然を
 心すなほに認識する。    -「人体飢餓」より

西欧近代の芸術を腹中に容れた東洋の意味が、負数であるのか正数であるのかは、まだ本格的に問われるほど、この詩人・彫刻家は読み切られていない、と。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-33

   泥にこゝろのきよき芹の根  

  粥すゝるあかつき花にかしこまり  野水

次男曰く、春二句目、挙句前の「句の花」を、二句上げたのは羽笠の野水に対する挨拶である。

名古屋衆の興行にたまたま相伴として加わることのできた謝意には違いないが、花の定座を間近にひかえ、春季のはこびに西行らしき俤の作りを示されて、「花」を以て継がぬ法はない。月と花は西行にとって修行の枝折りである。

作りは、白粥一椀の清浄を暁の花に取合せ、二句、僧尼の勤行とでも見ておくべきか。次句に改めて人躰の見定めをもとめる軽い遣句である、と。

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October 18, 2008

泥にこゝろのきよき芹の根

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火

―世間虚仮― Soulful Days-15- ある朝突然に

今朝、すでに返本期限が過ぎてしまっていた李禹煥の「時の震え」-みすず書房刊-、60年代末から現代美術における「もの派」を理論的に主導してきた著者が折節に書きとめたごく短いエッセイ群の集成本なのだが、これを走り読みしていると思わず眼を釘付けにされる箇所に出会した。

「ある朝突然に」と題された一章は、16歳になった高校生の娘が自転車で通学途上、自動車に撥ねられる事故に遭うという、まさにタイトルどおりの不幸事、その顛末について綴っている。

あらましはこうだ。

朝7時、近所のおばさんから「お宅のお嬢さんが倒れています」という電話を受け、彼と妻がすぐさま現場へと駆けつければ、娘は地面に叩きつけられた蛙のように投げ出されている。強く頭を打ったようで、髪の毛は血塗れ、耳からも口からも赤い液体が溢れていて、すでに意識はなかった。

救急車で運ばれ救急治療が施されたのだが、CT検査では、頭蓋骨が大きくひび割れし、潰れた脳は腫れと酷い内出血で何処が何だか判別がつかない。医師は「最善は尽しますが72時間持つかな」と言った、という。

その夕刻、娘は少しの間だけ意識が還ったらしく、辛そうに呻きだした。妻が大声で名を呼び「しっかり、頑張るのよ、パパとママが傍に付いてるから大丈夫よ」と叫んだら、なんとかすかな声で「二人そこにいても何も出来ないじゃないか、‥誰にも出来ない‥」と。彼と妻は思わず呆然と立ち尽くすばかり。
娘はそれきり再び昏睡状態に陥った。二人はまる4日の間、眠りつづける娘のベッドの傍を離れなかった。

そして5日目の朝を迎えたが、若い生命力なのか、それとも医学の威力なのか、いくらか眼を開けるようになり、さらに7日目からは、確実に回復の兆しが見えはじめた。誰よりも医師が喜んで、自分の腕自慢と若い生命の再生力の凄さを称えながら、「光が見えてきましたよ」と、初めて明るい顔をした。

これが奇蹟というものだろうか。

意識が還って娘が真っ先に口にした言葉が、「わたしの御守り持ってきて」の一言だった。カトリックの学校だから、つねに身に着けているべきマリアのメダイユのことだとすぐ判り、「いますぐ取ってきてあげる」と、妻は羽が生えたように病室を飛び出していった。

日頃はませた文学少女のちょっぴり懐疑派だったはずの彼女、神とか宗教には強い抵抗感を抱いていた女の子が、机の引き出し奥深くにしまってあるらしいマリアを探すとは‥。

「神なんか信じていなかったんじゃないのか?」と、娘につい口を滑らせると、「じゃ、パパがわたしを助けたとでもいうの?」と,きっぱりとした口調で返されてしまった。

この瞬間、父と娘は、本来の他人同士、隔たりのある別なる存在に、還り得たのだった。

今日はRYOUKOの五七日、午後からは満中陰の法要を行った。それも概ね無事終わった、たったひとつどうにも不快事が起こってしまったけれど、これもまた我が身の不徳ゆえ避けがたき事‥。

その日の早朝、かような一文が我が眼に飛び込んでくるとはなんたる廻り合わせ。文中に見るかぎり、彼女の場合は幸いにして脳機能の後遺障害もなかったのではないか。察するに20年余り以前の事であろうが、結果において彼我の違いはあれど、奇蹟の降り来たった彼女の僥倖を慶びつつも、ひととき泣き濡れた私だった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-32

  いがきして誰ともしらぬ人の像  

   泥にこゝろのきよき芹の根  重五

芹-せり-

次男曰く、打越に「地-つち-」とありまた「泥」と云ったところが気にかかるが、浄域に小流れを作り季を春-芹-と持たせた、あしらいの付である。

「何事のおはしますをば」を自ずと思ったか、「かつすすぐ沢の小芹の根を白み漬げに物をおもはずもがな」-山家集・恋-を下に敷いた作りのようだ、と。

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October 17, 2008

いがきして誰ともしらぬ人の像

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 蟹工船ブームで‥

文化後援会-大阪文化日本共産党後援会-という名称で私宛に時折送られてくる書面に、このたびは何故だか連合い殿と連署になっていたのが目に付き、少しばかり怪訝な気持にさせられながら開封してみたものの、なんのことはない、いつものように共産党の宣伝パンフ類。

その小さな冊子の裏表紙に「蟹工船ブームで1万人新規入党」と、毎日新聞などが採り上げた記事が紹介されていた。どうも眼にとまった記憶がないのでその記事を追ってみると、9月1日付に同じ見出しのものがある。昨年9月以降からの10ヶ月間で約1万人が入党、あるいは、京都府トラック協会が京都1区の穀田衆議院議員の来訪を初めて迎え入れたことや、地方の保守系首長や議員との接触も新たに生まれていること、などが報じられている。

また産経新聞の伝えるところでは、蟹工船ブームの火付け役となったのは、1月9日付の毎日新聞に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛の格差社会をめぐる対談記事で、雨宮が「蟹工船を読んで、今のフリーターと状況が似ている」と思ったと言い、これに高橋が「僕が教えている大学のゼミでも最近読んでみたところ、意外なことに学生の感想はよく分かる」と応じたものだった。

既成政党のどの党よりも高齢化が目立ち、組織内部の世代交代が積年の課題でもある日本共産党、その古い党人たちは時ならぬブームに懐疑的だというが、蟹工船を介した若い世代からの共鳴が幾許かの実を結ぶことを、他人事ながら願ってやまないものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-31

   雲かうばしき南京の地  

  いがきして誰ともしらぬ人の像  荷兮

次男曰く、「いがき」は斎籬、忌籬、瑞籬と云っても同じ。本来は神域の垣だが必ずしもそれに限らず、ここもただちに神垣と考えぬほうが面白い。

前句の注文どおり「南京」を奈良と読替え有りそうな嘱目を付けただけで、祭祀とは名のみの、廃寺業祠であってよし、祀ってある人もわからぬ、それ以上解を須いない句である。

あるいは、句案の背後に伝西行の「何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」があったかと思うが、俤付というわけではない。歌は延宝2年の板本「西行法師家集」に「太神宮御祭日よめるとあり」と詞をつけて収め、伊勢参宮の記や案内にも載せるものだ。

はこびの凝りをうまくほぐした、素直な佳句である。この巻の芭蕉と羽笠の付合は6ヶ所-蕉・笠が4、笠・蕉が2-、これは客二人をefに配した興行の趣向によるもので、、偶然とはいえない。蕉・笠のからみもめでたく赤壁の攻防に終った。あとは帰心の工夫のみ、と荷兮は云いたいのだろう。

はこびはいよいよ名残裏入である、と。

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October 16, 2008

雲かうばしき南京の地

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 宇目の唄げんか

大分県の豊後大野と宮崎県の延岡を結ぶ国道326号線沿の県境近く、宇目町-現・佐伯市宇目町-の北川ダムに架けられたずいぶんモダンなPC斜張橋を「唄げんか大橋」というそうだ。昔、この奥宇目のあたり、木浦鉱山での採掘が最盛期であった江戸初期の頃より唄い継がれてきたとされる子守唄「宇目の唄げんか」に因んでの名付けらしい。

この子守唄、唄げんかというからに、悪たれをつきあいながら二者掛合いの唄になって延々と続けられ、なんと22番まで採録されているが、続くほどにまこと、おもしろうてやがて哀しき、喧嘩唄である。

一、あん子面みよ目は猿まなこ ヨイヨイ
 口はわに口えんま顔 アヨーイヨーイヨー、
返 おまえ面みよぼたもち顔じゃ -以下囃し同-
   きな粉つけたら尚良かろ 
二、いらん世話やく他人の外道 
   やいちよければ親がやく 
返 いらん世話でも時々ゃやかにゃ
   親のやけない世話もある
三、わしがこうしち旅から来ちょりゃ
   旅の者じゃとにくまるる
返 憎みゃしません大事にします
   伽じゃ伽じゃと遊びます
四、寝んね寝んねと寝る子は可愛い
   起きち泣くこの面憎さ
返 起きち泣くこは田んぼにけこめ
   あがるそばからまたけこめ
五、旅んもんじゃと可愛がっちおくれ
   可愛がるりゃ親と見る
返 可愛がられてまた憎まるりゃ
   可愛がられた甲斐が無い
六、おまいどっから来たお色が黒い
   白い黒いは生まれつき
返 おまいさんのようにごきりょが良けりゃ
   五尺袖にゃ文ゃ絶えめえ

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-30

  寅の日の旦を鍛治の急起て  

   雲かうばしき南京の地  羽笠

かうばしき-香ばしき-、南京-なんきょう-の地-つち-

次男曰く、二句続いたもっともらしい嘘のあとに「寅の日」と継がれれば、「三人言えば虎を成す」諺を思い出さぬほうがおかしい。鍛冶屋が寅日に早起する風習などあろう筈がない、と容易に気づく。

杜国や野水の思付の嘘はともかく、私の嘘にはそれなりの根拠がある、ひとつ信じて探してみないか、という誘いは俳諧地の虚を実に奪ううまい工夫で、芭蕉は謎を掛けながら、答は自分でも用意していたにちがいない。それは。「戦国策」の諺にはじまり「三国志」の英雄たちに及ぶといったかたちで、一座の話題を作り上げていったのだと思う。

後漢の建安13-208-年、江南を望んだ魏の曹操はも80万の大軍を南下させて赤壁に陣を布いた。この時彼がわずか3万の兵に敗れたのは、孫権の武将たちの計に嵌められたからである。まず、黄蓋が苦肉の計を用いて内通を装い、次はその詐りの投降状を闞沢が曹操の許に届ける。そして最後に龐統が、連環の計なるものを進言する。つまり三人掛かりで曹操を騙しにかかったわけである。これを信じた曹操は、早速軍中の鍛冶屋を集めて夜を日に継いで鎖を打たせ、自らの兵船を悉く繋いでしまった。水軍に不慣れな華北の人間の弱みを衝かれたわけだが、この策略はまんまと図に当り、魏80万の大軍は呉側の火攻の前にもろくも潰え去った。時に建安13年12月、いわゆる赤壁の戦である。

その呉の首都建業が、のちに南京になった。南京という名は、明の3代永楽帝が国都をここから北京に遷したときに与えられたもので、ここには江南諸国が歴代の都を置いた伝統がある。

羽笠が、芭蕉の謎掛を赤壁の戦の舞台ごしらえと読取って、その始末を付けているらしい事は、ここまで考えるとよくわかるが、芭蕉が、赤壁の故事を持出した本当の狙いは、曹操ならぬ私が仕掛けた鎖から自由になる工夫を見せて欲しいというところにあるらしい。これは芭蕉の口から必ずや出たと思う。羽笠の句が大振りになったのは、そのことに関係がある。

「斗牛を貫く」という諺がある。岳飛の詩「青泥寺ノ壁ニ題ス」より出て、北斗・牽牛を貫くほどに雄気の漲るさまをいうが、蕉・笠の二句は、北東-寅-に起こる気があれば、、南東にも呼応する英気がある、と読むことができる。と読むことができる。「南京」と遣ったのは、曹操の南征は読み取ったと一座に伝えながら、故事から逃れるため、読みもナンキンなどと示さず、南京は京都に対する奈良の呼び名でもあるから、「雲かうばしき南京の地」と仕立てたか。

句は二ノ折の表の最後、羽笠の仕立には、興行の締めくくり方をも睨んで、俳諧地を中国の故事から日本の旧都に引いてくる狙いがあるから、刀工の姿は自ずとそこに浮かんでくるが、それはあくまで英気のうつり-焼刃の匂-としてであっても句はこびの糸目は芭蕉が仕掛けた連環の計から入り、それを脱する工夫に求めるしかあるまい、と。

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October 15, 2008

寅の日の旦を鍛治の急起て

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― この母と、この子

藤原書店の別冊「環」シリーズ「子守唄よ,甦れ」-05年5月刊-を読む。

「暗きより暗きに移るこの身をばこのまま救う松かげの月」

松永伍一の「日本の子守唄」-1964年初刊-が、角川文庫版となって初版されたのは84-S59-年だったようである。とすると私が読んだのもそれ以降のこととなるが、そのずっと前に読んだ彼の「底辺の美学」の記憶とごっちゃになってか、もっと昔のことだと思っていた。

この短歌、松永伍一の母が85歳で亡くなったその辞世の歌だという。
字句どおり素直に読めば、自ずと歌の意は通ずる。「暗いところから暗いところへ移っていく、この私のような極悪非道な人間こそ、如来の慈悲に救われるでしょう‥。親鸞の悪人正機を理論的に解明したりとか、分析したりするようなことではなくて、自分の生きてきた悪をこのままの状態で如来様は見て下さるという意味でしょうか。」と、松永自身、誌上の対談で言及もしている。

ただそれだけのことなら、とりわけ強い印象も残らずにやり過ごしてしまったところだが、ここで彼は一つの具象的な像を差し出すことで、歌の内実に迫り、この私は震え、込み上げてくるものを禁じ得なかった。このところ読みながら感きわまって突如涙する、といったことが多くなったおのが姿につくづく老いを感じる始末だ。

彼はこの辞世の歌に「間引きの背景が見えてくる」と語る。

「私は戸籍上8番目の子でも、上のほうが途中で死んでましたから、生き残っているのは私が5人目なんですけれども、8番目のわが子を間引きしそこねて、それで私が生まれたんです。母は44歳でした。間引きというのは、話は聞いてましたけれど、子守唄の調査をしているうちに、意外と間引きの歌に出会うわけです。育てられなくて間引きしたり、この子は育つ力を本来もたない子だとわかるから間引きしたり、‥ その時は『日本の子守唄』によそ事のように書いていましたら、今度は母が亡くなった時に、一番上の姉から、『あんたはほんとは生まれてくるはずじゃなかったのよ。お母さんが間引きしようとして、水風呂に入ったり、木槌でおなかを叩いていたりしてた』というのを聞いた時、ああ、子守唄を書いていてよかったなと思いました。そのことを先に聞いて本を書いたんじゃなくて、子守唄の本を書いてから、その母の悲しみにふれる結果になって、‥」

「母が亡くなる少し前に、故郷にちょっと見舞を兼ねて帰りました時に、二人の姉と兄と私と計4人生き残っておりましたから、その4人で座敷の真ん中に寝てた母親を布団のまま縁側に連れ出して、母親の体から生まれ出た4人で、生きてるうちに体を全部きれいに拭いてあげたんです。その時、ものすごくエロチックな感動を覚えましたね。母親のここから生まれてきたんだなという。これは特別な感動でした。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-29

   つゞみ手向る弁慶の宮  

  寅の日の旦を鍛治の急起て  芭蕉

旦-あした-、急-とく-起-おき-て

次男曰く、虚に虚を以てした相対の付に、更に重ねて絵空事を付ける訳にはいかない。促されて取出した実情のある作りには違いないが、さて「寅の日」がわからない。

評釈は、弁慶の宮の縁日だとか、鍛治の吉日だとか、あるいは猛虎を弁慶に思い寄せた付などと解している。中で筋らしいものがあるのは弁慶に虎の連想ぐらいのものだが、そんなくだらぬ連想に頼ったとしたら、芭蕉も相当なへぼだったということになる。

月院社何丸の「七部集大鏡」は、「寅は猛獣にして風を司る故に、寅の日を祝ふは刀工の常なるべし。寅年寅月寅の日に打たる刀を三寅と号して、伊豆権現に納めしとなり」と説く。尤もらしい俗説で、刀工の吉日はむしろ庚申だ。第一、句は刀鍛冶ときまっているわけではない。野鍛治であってもよい。

その程度のことを云うなら、前句の余情として静御前から寅御前を連想したとか、あるいは前句を東北-寅-の方位に見定めたとか考えてもよさそうなものだが、それすら思い付いている注はないようだ。

結局、無難にやり過ごせば、「寅は泰の卦に当り、陽気盛んにして、武に相応しき故に、かりそめに取用ゐられるしならむか。‥寅の日を尚ぶこと当時の俗習なりしならむ」と見る露伴の説に与することになる。つまり、はこびの虚を実に執成すためのおとなしい遣句と見るわけだ。

柳田国男の「木綿以前の事」にも、三句について、「さういふ日-はやり正月-に撫子を飾りにすることも空想なれば、次の句の弁慶の宮とても実在ではない。もしもそんな宮があったら鼓を打って手向けるだろう位な所で、此一聯の句は出来たのであった。それをぢみちの方へ引戻さうとして、寅の日の一句は附けられたものと思ふが、尚興味はそゞろいて次の南京の地といふ句になったのである」と云っている。これも「寅の日」を気分による思付以上のものではないと眺めている。

どうも釈然としない。付けた人が芭蕉であるからとりわけこだわりたくなる。
「三人言エバ虎ヲ成ス」-戦国策-というよく知られた諺がある。起りは、魏の龐葱-ホウソウ-が趙都邯鄲に人質として送られた時、二人まではともかく三人が噂をすれば、市中にいるはずもない虎でも現実にいると思いこむようになると弁疏して、彼に対する。讒言の事実無根であることを魏王恵に訴えた故事にもとづく。

「寅の日」の思付は、どうやらこのあたりらしい。芭蕉は、前が二人までも見えすいた嘘をつくから、三人目は信じてもらえる嘘をつこう、と云っているのである。取合せるに鍛冶屋を以てしたのは、前句の鼓打つのひびきを利かせ、弁慶に打たせるなら鼓よりも鉄がふさわしい、という軽口の応酬だ。刀工などと物々しく考えると解釈はへぼ筋にはまる。

有り様は鍛治の早起き、つまりごく平凡な勤労の讃美である。この力強い槌音には民俗の実情がある筈だから、よく耳を澄ませてごらん、と句は云いたげだ。「寅の日」と絶妙に起して、転合はいいかげんにして俳諧の本筋に戻れ、とは景情兼ね備えた捌きぶりで、即興の機心もここまでくれば冴えている、と。

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October 13, 2008

つゞみ手向る弁慶の宮

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― ポカラ・きしもと学舎だより

先月中旬の発行の筈だった「きしもと学舎の会だより」-Vol.10-を1ヶ月遅れでやっと仕上げ、どうにか発送にこぎつけた。これも突然降りかかった悲劇の所為だが、ひとまずはやれやれである。

岸本康弘は5月末、例によってほぼ半年ぶりにネパールから帰国して以来、いまなお宝塚の自宅に不自由な身をかこちながら暮らしている。ここ数年はそのパターンを繰り返すばかりだが、さすがに身体の方は衰えが目立つ。

会報の挨拶のなかで、「この正月に肺に穴が空いて咳が止まらず、ポカラで一週間ほど入院」したと、岸本自身も書いているように、またいつ倒れるやもしれぬといった危機を抱えながらの、学舎の維持運営である。

長年にわたったマオイストらによるネパールの民主化騒動もやっと平和的解決をみて、「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」へとなったが、長く続いた内乱状態にひとしい治安の悪化は、主要産業たる農業と観光を疲弊させ、国家経済に深刻な影響を与えたまま、とくに観光産業の復興はいまだ険し、といった感がある。

「ポカラきしもと学舎」とともに、車椅子の詩人岸本康弘の苦闘はなおもつづく。

詩「苦痛の竿先」

ぼくの左手はいつも
針の筵のような
しびれの激痛に包まれている
一〇〇キロの鉛を提げているようだ
それに
しびれて立てないのだ
これさえなければどんな辛抱でも、とよく思う
そうだろうか
別の苦痛が襲ったら
やはり
なんとかしたいと喘ぐだろう
甘受できるほど心は大きくないにしても
ひたすら辛抱しつづけていると
苦痛の竿先に
いのちの免罪符が見えることがある
そのとき
執着を昇華させてくれる佳人に会った気がする

   ―岸本康弘詩集「つぶやくロマン」所収―

「きしもと学舎の会だより」-Vol.10-は此方からご覧になれる。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-28

  はやり来て撫子かざる正月に  

   つゞみ手向る弁慶の宮  野水

次男曰く、俄とはいえ正月にナデシコを飾るといえば、有ると思えば有り無いと思えば無い風俗だと誰でも考える。むろん、撫子の風情にも目がとまる。

野水句は、「弁慶の宮」「つゞみ手向る」と剛柔の取合せを以てした奇抜な対付の趣向で、「つゞみ手向る」は「撫子かざる」の移りだとは容易にわかるが、これも有りそうで聞いたことのない話だ。柳田国男の「生活の俳諧」中、「山伏と島流し」にも、二句共まったくの空想の所産だと説いている。

尤も、「撫子かざる」だの「つゞみ手向る」だのは、実際の行事としてどうであれ、祓を支える人情としては有ってよい。そう思わせる詩味が、先の胡麻千代祭などよりは謎掛を複雑にする。

所の名よりも情の見究めを促さんがために、二句対の虚事に作って実へ執成す興を盛り上げた、と考えればわかる。因みに次句は客人芭蕉である。もてなしになるだろう。

弁慶の宮については錦江の「七部通旨」に考証がある。「奥州平泉不動院に弁慶の宮あり、荒人神といふ。近村隣郷信仰甚しく、此絵像を安産の守とす。霊験著しといふ。按ずるに其場の付にて撫子に安産の守の寄せもあるべきか。東海道藤沢の駅にも弁慶の宮あり、金子の宮と称す。其ほか諸国に猶あるべし」。

尤も、「つゞみ手向る」風習については何も云っていない、と。

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October 12, 2008

はやり来て撫子かざる正月に

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― タイ政府与党解党か?

米国初の金融危機から世界同時株安の震撼と日本人のノーベル賞連続受賞などで沸き返る一週間だったが、11日-土曜-の記事で、タイの最高検が最大与党「国民の力党」に解党処分を憲法裁判所に申し立てた、というのにははひときわ驚かされた。

18行4段抜の記事本文はさしたる量ではないが、与野党入り乱れ政党ぐるみの選挙違反が常態化したタイの政治事情が端的に伝えられており、先月観た映画「闇の子供たち」とも重なって、長年にわたるタイ王国の政府や軍部トップから国民大衆の底辺に至るまで滲透しきった構造的腐敗の根深さを思い知らされたものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-27

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ  

  はやり来て撫子かざる正月に  杜国

次男曰く、流行り正月と云って、天災地変や悪疫の流行などがあると正月を二度重ねて厄払いをする風習が、古くから各地にある。俄正月・触正月とも云うが、季詞ではない。ないが、ことの性質上、夏-陰暦6月朔日など-に行った例が多いようだ。

句はその流行ると正月を上下に裁分けて作ったものだと思うが、あるいは「疾病-はやり-来て」かもしれぬ。いずれにしろ、季を雑から夏へ転ずる趣向に流行り正月を使っている。

但し、季語は「撫子」。ナデシコは秋の七草の一つだが常夏という異名もあるとおり、「万葉」以来秋にも夏にも詠まれてきた花だ。連・俳でも夏に扱う。「はなひ草」以下陰暦6月とするものが多く、「年浪草」その他に5月としているものもある。現代の歳時記が多くこれを初秋に部類しているのは、山上憶良の「秋の野の花を詠む」と題した有名な歌があるからだ。どちらでもよいようなものだが、古名の伝統は七草よりやや重い。

夏正月にナデシコを飾るなどという風習はどこにもあるまいが、云われてみればいかにも有りそうに思わせる。二句一意、農村日常の暮しには流行り正月をからませて、趣向を面白くしたと読んでおけばよい。夏正月なら餅も粟餅がふさわしい、という興だ、と。

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October 10, 2008

釣瓶に粟をあらふ日のくれ

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― Soulful Days-14- ヒロイズムと‥

事故の起きた9月9日の夜から、ひと月と1日が経った。
明日はもう四七日。

RYOUKOの母親、つまり嘗ての細君という人は、激しいほどにheroismの人、女性だからheroine主義というべきか、であった。そうさせたのは、私の知るかぎりにおいて、彼女の数奇な生い立ちゆえとしか考えられないのだが、いまはそのことに触れない。

ヒロイズムとは、裏返せば、おのが逆境を生きるバネとする、あるいは供犠の精神に富む、受苦-passion-の人であるが、往々にしてそのpassionは他者-概ね周囲の者-への刃となって奔出する。

突然の、RYOUKOの事故死、その逆縁に、家族のそれぞれが言い表しようもない痛みと哀しみを抱え込んでいるが、同じ家族だからといって、その痛みや哀しみは三者三様のものであって、そう容易くは共有できるものではない。そんなことは家族といえども別人格なのだから自明のことだ。

ましてや母親である彼女と父である私とは、もう20年も前に他人となるべく道を違えてしまったのだから、何を況んやであろう。その後も家族としての幻想のうちに生きてきた母と弟は、たがいの心の支え合いのなかで、いくらかの共有感をもちうるだろうが、それもたがいに相手をいたわり慮ってのことだ。

そう、慮ってやることができるだけだ、他者に対しては。

いまにして思えば、RYOUKOは、とても健気な娘だったのだ。
父と母の、まるで陰と陽の激しい相剋の影にありながら、あかるく素直に、心やさしく育っていった女の子は、どんなに躓いても、善なる心で人を愛し、だからこそ父も母も、だれよりも愛おしむことができ、ほんとうはいっぱい淋しかったのに、健気に、健気に、生きてきたのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-26

  賤の家に賢なる女見てかへる  

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ  荷兮

次男曰く、前句を日暮帰家と見込んだ、同一人物-「見てかへる」人-の付。

「釣瓶に粟をあらふ」とは、賤家で賢女を見かけたうれしさの移りである。家に戻ってきたが最前の興はいまだ消えず、何かをしないではいられない。その何かを、米ならぬ粟を、桶ならぬ釣瓶に入れて洗う興で現している。洗う人は男だろうと覚らせるところにも、思いがけぬ興の誘いが仕組まれている。

見て戻るまでの時間の経過があり、その間の心の弾みをどういう形で表現しようかと考えている人のさまも見え、洗う物を「粟」、容れ物を井戸から水を汲んだままの「釣瓶」と定めるまでには、けっこうあれこれ趣向のたのしみがある。これは侘茶の心の遣い様に通う。尾張衆らしい句作りでもある。

「釣瓶に粟」は即興に違いないが、この即興は単なる思付ではないらしい、と仕度の裏の工夫を読み取らせるところがこういう句の面白みだ。

前句に「賤の家」とあるから「粟」を付けた、というような読み方をすると全く味気ないものになってしまう。況や、貧しくて洗桶もない、などというのは話のほかだろう。故事の一つも探らせるように仕向ける句-前句-に付けて、そのてに乗らずはこびを日常平凡な場に取戻したところもよい。佳句である、と。

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October 09, 2008

賤の家に賢なる女見てかへる

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 近しさという保障

昨日の昼、ちょうど12時頃だったろう、ベランダの外から不意に「お父さぁーん」と声がした。

KAORUKOの声に似ているが、学校に居るのだから違うんじゃないかとは思いつつベランダに出てみると、校舎の4階の窓から顔を出し、此方に向かって嬉しそうに手を振っている彼女の姿が眼に飛びこんできて、ちょっと面喰らってしまった。彼女の傍には同じ組の男児が居て、ホラ、お父さん出てきたよ、てな調子で得意気にしているのが、声は聞こえずとも此方に伝わってくる。

1年生の教室は1階だから、なぜ5年生や6年生の教室がある4階に上がってきているのか、まるで見当もつかないけれど、対向車線だけのさして広くもない道路を挟んだ5階と4階だから、ほどよく間近に向き合った態になる。彼女にすれば偶々4階に上がってきて、ふとそのことに気づいて、なんとなく愉しくなって喚んでみたのかな、と。

だが、通常の親子なら、父親がのほほんと家に居ることはまずない。隠居同然の身なればこそ、こんな芸当も成り立つのである。

考えてみれば、これほどの近しさにある環境というものはそうあるものではなく、ずいぶんと特殊なものである。昼日中ほとんど家に居る父親の存在を、この出来事のように文字どおり近しく感じながら、彼女は6年間の学校生活を送っていくわけである。このことには思いがけぬほどの大きな意味があると云えそうだ、親和力という保障性において。

KAORUKOの生来の気質はと云えば、人一倍臆病であり、人見知りも強く、まさに慎重居士である。だからであろうか、その反面、彼女は他者への関心は非常に高いものがあり、直接の接触はなくともよく観察しているらしく、上級生であろうと顔や名前を驚くほどに覚えていたりする、そんな変わった子である。

この「変わった子」というのは、気をつけてやらないと、とかく周りからは逸れ-ハグレ-者にされやすい。
明るく素直に、一定の節度を保ちつつも自分自身を露わにできなければ、人との交わりはひろがらないし、深まりもしないものである。

どんな時でも、どんな場面でも、彼女自身おおらかに開放的になるには、超えるべき閾値はかなり高いものがあり、人であれ場であれ、馴れ親しむため多くの時間を要する、そんな彼女であってみれば、集団の中で自己形成を遂げていかねばならない学校生活で、まさに眼と鼻の、これほどの近しさのなかにいつも頼りとなる身内-私-が居ること、その安心が、この閾値をぐんと下げさせていく力へと働かせることも可能な筈なのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-25

   蘭のあぶらに〆木うつ音  

  賤の家に賢なる女見てかへる  重五

次男曰く、燃灯油のなかから染み出てくる蘭の芳香のように、賤家に思いがけぬ賢女が見つかった、と云っている。

蘭は四君子の一、油は卑近の用。そこに見込を立て、おのずから現れる美質二つを寄せて付けた。「見てかへる」と、粘らず、そして見届けの態に作ったところに、いささかの工夫がある。

情景は、音が聞こえてくるのは賤の家の中からと考えてよいが、〆木打つ人ただちに其の女と云っている訳ではない。

「見てかへる」という云回しは、都に帰って太守に報告しようとか、いずれあらためて訪ねてこようとか、その程度には物語の含を覗かせているだろうが、具体的に何かの俤と云うわけではない。貞女伝だの烈女伝だのの人物をこの付句から探ることは全く無用である。却って句をつまらなくする。

かといって、蘭の油は賢女に似合とか、油搾りは貧家のわざとか、気分によって読まれてもこれまた困るが、諸注は「蘭のあぶら」を女の髪油と見込んだせいもあって、それやこれや解釈を思い入れでこじつけている。「見てかへる」の働きを見失ったからだろう、と。

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October 08, 2008

蘭のあぶらに〆木うつ音

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― ご免なさい、おケイさん

アーア、またも失敗である。
こんどこそ是非この機会にと思っていた、河東けいさんのひとり芝居「母」を、またも見逃してしまった。

ワーキングプアの社会問題化からにわかに注目を集めた戦前のプロレタリア作家小林多喜二の母を描いたもので、原作は三浦綾子、脚色と演出をふじたあさやが担当、もう十数年前から全国を廻って演じられてきたものだ。

たしか10月の公演だったが、はていつだったかと気になりだして、午後になって原稿作りも一段落したところで、ここ3ヶ月ばかりの間に、机の上に溜りに溜った書面や資料などの整理を始めたのだが、件のチラシを見た途端、顔色を失ってしまった。公演は10月4日、先週の土曜だったのだ。これからも近場で観る機会などそう多くはないだろうに、まったくドジな野郎だ、「おケイさん、ご免なさい」と、心のなかで手を合わせる始末である。嗚呼!

もう一つ、高山明美の舞踊公演「水の環流」も同じ日にあった。こちらは夜の6時開演だから、仮におケイさんの芝居を茨木で午後3時から観て、その帰りに立ち寄ることも可能だった訳である。とはいってもこちらのほうはそう食指が動いたものでもなかったから、彼女には悪いが忘れてしまっていても後悔するほどのことはない。

もう一人、気にかかる御仁のことも書いておこう。遠藤久仁子さん、昔、中島陸郎さんとともに月光会に拠った役者の浜崎満氏と二人ではじめた、京都の二人だけの劇場「セザンヌ」の主宰者だが、この劇団の活動も今年でもう26年になるという。映画監督高林陽一のデジタルVシネマ三部作にも主要キャストで出演している彼女だが、いつも案内を戴いては眼を通すばかりで、いまだ見参の機会を得ていない。もういい加減に一度は足を運んでみないといけないな、と思っている今日この頃である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-24

  西南に桂のはなのつぼむとき  

   蘭のあぶらに〆木うつ音  芭蕉

次男曰く、「蘭のあぶら」とは蘭膏か。蘭-蘭草、フジバカマ-の花を以て香を練り、それを入れた灯油のことだ。

「楚辞」の「招魂」に「蘭膏ノ明濁、華容備ル」とある。それとも、蘭花を添加して搾った髪油のことか。諸注、多くは髪油と解している。

「楚辞」は蘭と桂を好んで対として用いる。蕉句は「楚辞」に想を寄せて付けたのではないかと思う。いずれにしても、蘭から搾油するというようなことは考えられない。一読錯覚を誘う作りだが、「蘭」の香を裁入れて「〆木うつ音」などと云えば、かくありたい夜長の興を一挙に現前させる。うまい。

露伴は、「一句は日の短きに夜をかけて油作りの槌の音をさすところを言ひたるまでにて、蘭桂の対を取りて静かなる夕暮に物の響を聞出したるが前句へのかかりなり」と云う。的確な詩味の読取である。

しかし句作りの実際に即して云えば、搾油の趣向は「つぼむ」に二義-苔む、窄む-を含ませ、奪って応じたからで、「〆木うつ音」が最も効く状況はそこにある。

似た例は、のちの「猿蓑」歌仙-夏の月の巻-に-、
  草村に蛙こはがる夕まぐれ   凡兆
   蕗の芽とりに行燈ゆりけす  芭蕉
  道心のおこりは花のつぼむ時  去来

この「芽」と遣い「ゆりけす」と遣ったところに見込を立て、「花のつぼむ-苔-時」と作ったのはうまい。

句にはもう一つ見どころがある。前句は兼月花の上乗の作とも読める。
芭蕉が、素材のもつれを承知のうえで、「はな」から「蘭を」を取出し、油ならぬ香を搾る体に作ったのは、虎穴に入って虎子を獲る、あるいは毒を以て毒を制するたぐいの手立で、前句が臨かせる。正花の心を絶つ工夫だろう。

手練れ俳諧師の本領を発揮した句と云うべく、ようやく興行も佳境に入る気配がある、と。

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October 07, 2008

西南に桂のはなのつぼむとき

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 雨に流れた運動会

一昨日の日曜日の、生憎の雨で流れた運動会が、代休の昨日を挟んで、今日行われた。

平日開催にもかかわらず、客席に父母たちが多いのは意外だったし、7時半の開門前、場所取りにもかなりの人数が詰めかけていたのにも驚かされた。

保育園時代の狭い園庭で行われてきたものとは、スケールもなにもかも大違いで、小一のKAORUKOにとって初めての本格的な運動会に、連合い殿も気合いが入っていて、日曜の朝、中止となった途端、仕事先の上司にこの日の休暇を申し出ていた。
なにしろ居住マンションのベランダと学校の正門が道路を挟んで対面しているという至近距離なのだから、私も出向かないわけにはいかないので、重い腰を上げてはみる。

だが、広いグランドに大勢のチビッ子らが群がりあるいは並びしているその中から、我が子を見出すため立ち上がったりやら所を変えたりと、周りの者らが躍起になるほど、此方は興醒めしシラケてしまって動こうともしないものだから、競技や演技のさなかもKAORUKOの姿を見出せぬまま終ってしまう。

たった4人で駆けっこしたのさえ、いつ走ったのか見逃してしまう始末だから、親父失格もいいところである。

流行りの「羞恥心」や「ポニョ」の音にノって踊るのに、毎夜のように興じては、盛り上がりを見せてきたKAORUKO、自分の子ども時代を想い出しつつ、それと重ね合わせるように、わざわざ仕事も休んでほぼ一部始終を観戦なされた連合い殿、そして、娘の出番あたりを見計らっては、そのたびに出向きはしたものの、ついぞその姿を見出し得なかった親父の私と、濃密さのずいぶんとかけ離れた運動会だが、ともかくも終幕を迎えたのだった。

あしで聞いた話だが、この学校の運動会、3年続きの平日開催、雨に流れてばかりだ、と。また別の話では、晴天下の日曜開催などもう何年も前のことで、ずっと雨に祟られ放しだ、とも。
昔から運動会といえばこの時季が定番だけれど、どうしてこんなに雨の多い頃に習慣化したのやら‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-23

   なかだちそむる七夕のつま  

  西南に桂のはなのつぼむとき  羽笠

次男曰く、名残の月の定座-二ノ折表十一句目-には少々早すぎるが、前句が七夕を以て秋を起していれば、ここしか月のつとめ様はない。月の字は出さず、桂の花が「つぼむ」-莟む-と作っている。

前句の「そむる」に匂いで応じた工夫らしい。月花一所と見ても相応しい作りだが、花は、定法どおり名残の裏で別に出している。

七日頃の月は上弦宵の月で、方角も西よりやや南寄りに眺められる。地上にまだ物の影は生まず、新月のそれとわかる太り加減を、「つぼむ」とは云い得て妙だ。

句には「和漢朗詠集」七夕の部、菅原輔昭の詩句が踏まえられているかもしれぬ。「詞ハ微波ニ託シテ且遣ルト雖モ、心ハ片月ヲ期シテ媒ト為サント欲ス」。前句の読取りに相応しいだろう。樋口功の注釈はこれに触れている、と。

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October 06, 2008

なかだちそむる七夕のつま

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 心機一転

観客といっても30名弱ばかり、そんなささやかな会といえど会は会、
先週のDanceCafeも一つの上演機会とあれば、その経験は人それぞれに見逃せない効をもつ筈である。
ましてや今回はまだ13歳になったばかりのARISAが初めてのことだったから、その効を如何ように引き出すかは、一週間ぶりに集った稽古の要になると思ってはいた。

そこでworkshopはSoloの即興に拘ることにした。4人それぞれに3分から~5分程、3度廻って要した時間が1時間半余り。
無論、その度にちょっとしたcommentやadviceをするのだが、2度目、3度目と、ARISAの気力は見ちがえるばかりに充実し、変身していった。
なにしろ3歳から叩き込まれてきたBallet Technicはすでに一定のレベルに達している身体である。その佳麗な動きに、気を充填させていくこと、自らの表現としての意識を通していくこと、そのとば口に、この日の彼女は完全に立ったと見えた。われわれの即興の世界に、この四方館の方法論に、13歳の少女ARISAは明らかな意志をもって参入してきたのである。
いささか大仰に聞こえようが、私の40年にあまるキャリアは、Classic Balletの世界とはどこまでも無縁であったから、それを思えば、この出来事はとんでもないような記憶に残るべき事件といってもいいだろう。

AYAもまた徐々にだがたしかな成長を見せてきている。
AYAの場合はとにかく感性がいい。柔軟な骨格や体型に恵まれてはいないのだが、俗に健全な肉体に健全な精神が宿るとはいうものの、柔軟な身体と柔軟な心とが必ずしも比例している訳ではないらしく、彼女の心や感性はその身体に比してすこぶる柔軟性に富んでいる一面がある。また他方でAYA独特の拘りようもあるようで、そのBalanceが独自の世界を生み出しうる根拠となるような気がするのである。

この日、ARISAの変身ぶりにもっともvividに反応し、変化をみせたのがJUNKOであった。この現象にも大いに驚かされたものだが、省みれば頷ける一面もありそうだとも思えた。
JUNKOはいささか分裂気質というか、感性と論理のあいだに壁または断絶があるようにもみえ、自身の感覚-意識-論理といった階梯がなかなかうまく繋がらない。いわゆる統覚性というか、そういったものが脆弱と覗えるところがある。いまのところいかにも抽象的にしかいえないが、どうやらこの日のARISAの出現が、彼女の統覚感覚を意識下においてかなり強く刺戟したのではないか、と受けとめている。

その統覚力があり、構成力において一応の達成レベルにあるYUKIにおいて、残された今後の課題を自覚し設定することはなかなか難しいことではあるが、私の作業仮説では呼吸の深化において他にあるまいと思っている。
ただひとくちに呼吸の深化といっても、ことはそれほど単純ではない。彼女の表象を、文芸でいうところの「萎-しおり-」や「細身-ほそみ-」といった世界へと架橋していくには、なまなかのことではないだろうが、強勢ばかりが先立ってくるYUKIの動きと構成に、いかに弱音の世界を共存、対照させていけるかということが、当面の課題なのではないだろうか。

なにはともあれこの日の稽古-workshop-は画期を為すといってもいいものであった。
これを綴りつつ、懐かしくも想い出されたのは、まだ私が四方館と名付けて立つその前夜、十数人の若い人たちとともに稽古をしながら、明らかに即興を方法の核とすることを自覚した、遠い昔の一夜のことだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-22

  八十年を三つ見る童母もちて  

   なかだちそむる七夕のつま  杜国

次男曰く、「なかだち」の濁点は原板本に付されたもので、珍しいことである。古註以下、これを敢えて仲絶もしくは仲隔と解しているものがあるが、媒の意味に受け取るしかあるまい。

句の写景的状況は、初秋天の川が立ち初めるころというだけのことだろうが、何が二星の仲立をするのか、それとも二星が結ばれるというそのことを云うつもりか、よくわからない。ひいては「七夕のつま」が男女いずれを指すのかもわからない。
いきおい、こういう句は解もいろいろに乱れ、一濁点さえも咎めることになるが、結局、前句の持つ含を改めて探ってみるしかなくなる。

たとえば「八十年を三つ見る」を73歳と読めば、老莱子の面影が思い合されるだろう。春秋時代の楚の賢人老莱子が、年70にして戯嬰児を装い老父母を楽しませた話は、「蒙求」の「老莱斑衣」に見え、二十四孝の一としてよく知られている。

野水が「八十年を三つ見る」と作ったのは、単なる語調ではなく、連想をそこに誘う工夫ではないかと考えたくなる。とすると、杜国の句も亦二十四孝の一人董永の故事を持ち出して、対付ふうに仕立てたように読めないか。

董永は後漢の人、老父の葬にも事欠くほど貧しかったが、天帝その孝心をあわれみ織女を遣してひと月彼の妻とした、という話は同じく「蒙求」の「董永自売」にのせる。

杜国の句が、二十四孝に思いを寄せ、老莱子と董永の故事をそこから取り出しているらしい、といってこの句が直ちに俤付かといえばそうも云えない。読む者の連想が自然にそこに誘われる、というまでである。

付筋は、一生独身で母に孝養を尽した男にせめて七夕妻を添わせたい、というところにあるのではないか。この哀歓の尽し様に目を留めれば、「三つ見る」と「なかだちそむる」との用辞の匂いにも気がつき、共に老いた母と子が銀河立ち初める空を見遣る情の深切も現れてくる、と。

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October 04, 2008

八十年を三つ見る童母もちて

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火

―世間虚仮― Soulful days -13- 

「倶会一処」という言葉がある。

今日はRYOUKOの三七日だったが、七日のお参りにきてくれている麻生さんから先週の二七日の折に紹介されたものである。

真宗では、念仏の信仰に生きる人は、此の世の命が終るとただちに浄土に生まれるとされ、そこで墓碑にこの語を刻むというのである。

庶民にまだ名字を名告る習慣-というより制度というべきか-がなかった頃、いまどきのように「○○家代々の墓」などと刻めぬから、大概の墓はみなひとしく「倶会一処」と刻まれていたらしい。

その出典はといえば、阿弥陀経に「舎利弗、衆生聞者、応当発願、願生彼国、所以者何、得与如是、諸上善人、倶会一処、舎利弗、不可以少善根、福徳因縁、得生彼国」という件りがあり、

これを書き下せば 「舎利弗、衆生聞かん者、まさに発願して彼の国に生ぜんと願ふべし。所以は如何。斯くの如きの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁を以て彼の国に生ずることを得べからず」となる。

此の世を離れ、彼の世へと生まれ出たならば、浄土の仏や菩薩たちと倶-とも-に一つ処で出会うことができるということだが、それは世間などという狭い世界ではなく、広大無辺の世界にあって自在に飛翔する「いのち」として出会うのだ、というようなことらしい。

私ならばこう言いたい、
此の世も彼の世もない、また有も無も別なく、無辺際の一なる世界があるのみなのだ、と。
それが「いのち」というものの場なのだ、と。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-21

   宣旨かしこく釵を鋳る  

  八十年を三つ見る童母もちて  野水

八十年-やそとせ-、童-わらわ-

次男曰く、「八十年を三つ見る」とは80歳を三倍した長寿だの、80歳の三つ児だの、単なる表現のあやだの、古来いろいろ説があるが、夏目成美の「随斎諧話」に、「東国の語に七十三になれば八十年を三ツ見るとはいふ也」と注している。

「見る」を読むとか経験するの意に遣う語法は、古来珍しいことではない。「八十年を三つ見る」は、夏目成美の言を俟つまでもなく、八十路にかかる歳を三つだけ取ったとごく自然に読める。

句は「かしこく」を見込んで前句の人の孝心厚い人柄を付けているらしく、最前から虚に傾いているはこびを実へ取り戻す付である、と。

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October 03, 2008

宣旨かしこく釵を鋳る

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― Soulful days -12- 

事故当夜からRYOUKOの死に至るまで、そして現在に至るも、我々家族と直々に顔を合わすことのなかった相手方運転手に怒りの書面を送り付けたのは、葬儀も終えて1週間が経った9月23日であった。

この1日、その書面に対する返書が当人及び父母の連署で届いた。日付は9月29日となっている。直ちに応ずるのは難しかったか、書面では父親が出張中だったため遅れた由。伯父甥の会社とみたのは事故当夜の身元引受人が伯父夫婦と聞かされた所為だが、なんと親子の会社であった。

書面から類推すればその父親殿、いかにも俗的な紳士然とした真面目な人であろう。だが生死を分かつ事故という関係者にとってはいわば非常事態のなかで、紳士然と鷹揚に良心ある真面目な姿勢を謳ってくれても、それは偽善に過ぎようもの。真心とか誠意とかは綺麗ごとじゃない、ディレンマに引き裂かれた感情の迸りだ。当事者ともあればなりふり構わぬ自身の曝け出しようが、人の心を撃つのだ、ということがお判りにならぬ。

以下は、私からの返書。

前略
事故当事者である息子K氏に代わり父A氏が書かれていると思われる書面、昨日受領、読ませていただきましたが、その内容は、これが被害者遺族宛の書面かと奇異に感じるばかりで、いかにも面妖なといった思いに包まれております。

私は先の書面において、当夜の事故発生状況についてなんら予断めいたことは申しておりませんが、貴方はこの短い書面でなぜ二度にわたっても、「MKタクシーの運転手が進路上で突然、停車した」と、K氏の主張と推測される一方的な予断的事実に触れておられるのでしょう。これがなにより先ず奇異に感じられてなりません。

事故の発生状況については、数日後、府警科学捜査班の手で詳細に現場検証をしたとも聞き及び、いずれ相応の客観的事実関係が明らかになってまいりましょうから、「甲-MKタクシーの車-が右折途中、突然停車した」のか、また「乙-K氏の車-が急ブレーキをかけたのか、あるいは、かけ得なかったのか」などの事実関係の判断は、あくまでこれを待つのみです。

さらに、私の書面で初めて住所を知り得、この書面を送っていただいたようでありますが、貴方がたはいまだ当該事故の被害者であった娘RYOUKOの現住所について、まったくご存じでなかったらしいという事実、この無関心さはいったいどうしたことでしょうか。

ここで敢えて申し上げておきますが、私と娘は同居いたしておりません。娘は母親と二人で暮らしておりました。さらに付けくわえれば、当夜の事故現場は、その自宅を出て直近の場所であります。

もうひとつ、事実関係の誤認錯綜について、「翌日、容態についてお電話でお聞きし、その際に『明日は3~4時には病院に行く』と」ありますが、「明日」ではなく、その日-9/10-のことです。
また、MKタクシーの運転手には怪我がなかったとのご認識のようですが、これも事実とは異なりますから確認をされたほうがよろしいかと思います。

この日、たしかに私は予定より遅れ、病院に着いたのは午後4時頃でしたが、ずっと先に母親は来ておりました。またMKタクシーの関係者も2名、午後3時頃からずっと居られたようでしたから、未だ面識のない母親はともかく、MKの関係者は前夜の病院でちらりと会っておられる筈、なぜ接触を図られなかったのか、午後4時頃に病院を出られたのなら、接触の機会はいくらもあった筈で、そうすれば母親とも会うことができたやもしれません。

要するに言いたいことは、娘RYOUKOが生死の境にあって集中治療室にある以上、なによりも先ずその家族と接触を図り、それが貴方がたにとってどんなに不条理で耐え難いことであるにせよ、直々に謝意を伝え、相手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとなさるのが喫緊のことと思われますが、この日その機を逸したまま、以後貴方がたは、私にさえ連絡をしてこようとはなさらなかったのです。この事実は私の思慮を越えたもので、貴方がたの心意は図りがたく、どうしても誠意あるものと思われません。

書面では、貴方がたにおいて、娘RYOUKOの回復祈願あるいは供養をなさってこられた、と縷々書かれておりますが、それらの行為はいったい誰が為の祈願であり供養でありましょうか。なによりも貴方がた自身の為の、貴方がた自身の心の呵責を癒すための行為ではありませんか。そのかぎりにおいて、われわれ家族の、われわれ遺族の、痛みや哀しみとはけっして交じりあえぬ、貴方がたの自慰行為にひとしいものに過ぎないこと、と私に映るのは致し方ありますまい。

事故当夜以来、これらの経緯において、私の脳裏からどうしても消え去らぬ疑念は、和之氏並びにご両親にあっては、事故発生の当事者及びその家族でありながら、自身の呵責からいささかなりと逃れるため、その原因は一方的に相手方にあり、自らはどうしても避けえぬ、過失なき不可抗力であったと信じ、自身らもまた被害者であると思い込もうとするあまり、第三者たる双方の被害者である娘・僚子とその家族の存在を、こうして軽んじてこられたのではないか、ということです。

私が、あえて怒りを込めた激しい調子で先の書面を綴った、その真意の矛先が、いったい貴方がたのなにを衝こうとしていたのか、それがこのままお判りにならないようでは、遺族として仏へのお参りもとても許容できるようにはなりますまい。

この書面に対し、貴方がたが如何様に応じられるのかは慮外のかぎりですが、けっして交じりえぬものならば、それもまた止むを得ず、ひたすら平行線のまま歩むしかないものか、との思いをあらためて強くしております。
  2008.10.02 /林田鉄、記

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-20

  白燕濁らぬ水に羽を洗ひ  

   宣旨かしこく釵を鋳る  重五

釵-かんざし-を鋳-い-る
次男曰く、「本草綱目」の釈名を承け、瑞祥どおりの美姫をどこぞに索-もと-め得た、と作っている。あるいは皇女誕生の、日を経て世にも稀な麗質を現してきたことを喜んでいるとも読める。

句の作りは、玉燕釵の故事なども踏まえているのだろう。「神女、玉釵ヲ留メテ以テ漢ノ武帝ニ贈ル。帝、趙倢伃ニ賜フ。昭帝ノ時、匣ヲ発ケバ、白燕有リテ、飛ビテ天ニ昇ル。後宮ノ人、学ンデ釵ヲ作リ、因ツテ玉燕釵ト名ヅク」-洞冥記-。

露伴は、鋳型のまま水に入れ型を破り、水洗いして釵の仕上がりを検視する工人の手つきに目をつけ、「白燕濁らぬ水に羽を洗ひの句を、その景色に取做して、宣旨かしこく釵を鋳るとしたる、重五が此の一転甚だ驚くべく」と賞める。云われてみれば詩もあり、露伴の面目躍如とした一解ではある、と。

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October 02, 2008

白燕濁らぬ水に羽を洗ひ

Alti200601001

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― Soulful days -11- 不慮の死と、山頭火

台風一過の所為か、昨日も今日も、どこまでも蒼穹の空、まさに秋天といった趣で、この澄みきった空の如、心も晴れわたれば言うことなしなのだが、身内の不慮の死という出来事に遭ってまだまもないとあれば、未だ憂悶の情に駆られ、由無しごとに囚はれては我に返る、といったありさまなのも致し方ないか。

そういえば、井上靖がかの成吉思汗の生涯を描いた「蒼き狼」の「蒼」とは、本来、黄色にちかい色、天の神の色なのだと、近頃読んだ書のなかにあったが、さすれば、古来中国における如、東西南北に青竜・白虎・朱雀・玄武を配し、それぞれ青・白・赤・黒で表し、その中心は黄色とされるということや、東南アジアにみられる南伝の仏教僧の衣が黄色っぽいものであるのも、同根の想かと思われ、天どこまでも高く澄みきった蒼穹の彼方に、人間の眼では到底正視しえぬ色、否、色にはあらず、光の束をこそ感受しなければなるまい、と思われるのだが‥。

身内の不慮の死といえば、山頭火こと種田正一においても、その生涯に大きく影を落としたであろうと思われる二つの死がある。

一つは巷間よく知られるところの、母フサの自宅裏庭の井戸への投身自殺であり、この事件は数え年11歳の時で、12月生まれの彼は今でいうならまだ幼き9歳の春であった。未だ幼い少年時に非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪さすらいの生涯に母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす。

もう一つの死は、弟二郎の自殺、縊死である。
正一には、1歳上に姉フク、3歳下に妹シズ、5歳下に弟二郎、6歳下に弟信一がいたのだが、末弟の信一は5歳になるやならずで病死している。その前年の春、どういう家内事情であったかしれぬが、二郎は他家へと養子にやられている。まだ学校にあがる前の6歳であった。その後、この二郎と正一のあいだに、なんらかの交渉があったか、皆目なかったのかは、山頭火自身の著作はもとより彼に関わる文献からも、ほとんどなにも伝わってこないようである。

二郎もまた、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田破綻によって翻弄されるがまま、悲劇の人生を送った薄幸の人であった。大種田最後の砦であった種田酒造の破産は、養子先を追われるという災厄となって二郎までも見舞ったのである。依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄正一を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せていたらしいが、それと知れるのも、以前にも紹介したが、郷里近くの愛宕山中で人知れず縊死した際、山頭火へと宛てた遺書に2首の短歌が付され、詠み人として「肥後国熊本市下通町1丁目117の佳人」と記されていたからである。この住所は妻サキノとともに雅楽多の店を営んでいた山頭火自身のものであったのだ。

悲惨このうえない二郎の自殺は、大正7年の6月半ば、この時、山頭火は数え年の37歳、二郎は32歳という若さであった。弟の自死について山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない。この頃は、彼もまた死の誘惑に捕われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりの暮しであったことが随処に覗えるのである。

そして1年後の大正8年秋、山頭火は突然、妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行、以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を終尾とする、単身のまま大都会にただ埋没し彷徨しつづける東京漂流の4年間を過ごすのである。

おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのか、などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのか、仄見えてくるような気がするのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-19

   僧ものいはず欵冬を呑  

  白燕濁らぬ水に羽を洗ひ  荷兮

次男曰く、前句に悟道の老僧の面影が現れるのは、荷兮のこの付だ。

見究め肝要。仕立の見所は、霊験ありげな薬餌に瑞祥を以て付けたか、ヤマブキを呑む虚に白燕の虚を合せたか、いずれに解しても道は同じところに出る。

白燕のことは中国の文献にも見えるが、「日本書紀」や「続日本紀」にもしばしば出てくる。ほかに白雉・白鳳・白烏・白雀・白巫鳥・白茅鴟-ふくろう-など、白字を冠した瑞鳥は珍しくない。

荷兮の句の「白燕」はとくに故事を踏えたというのではないかもしれぬ。
また、「濁らぬ水に羽を洗ひ」と作ったあたり、羽衣伝説が念頭にあるのかもしれぬ。李時珍の「本草綱目」の燕の釈名に云う、「人、白燕を見れば主に貴女を生む、故に燕は天女の名あり」。

「欵冬を呑」を、病僧の躰から天運を占う行法に見替えて、瑞祥を付けたと解すれば、これなど恰好の作意になる。因みに、次句-重五-の作りは瞭かに時珍釈名を踏まえているだろう。

いずれにさぐるにせよ、折立にふさわしい起情・転調の見られる句である、と。

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