« August 2008 | Main | October 2008 »

September 30, 2008

僧ものいはず款冬を呑

080209017

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― かしこくも御名御璽‥

昨日の麻生首相、その所信表明の演説を、夕刊で読んだ時は、冒頭から吃驚、ブッ魂消て、「なんだ、これは!」と一瞬新聞を放り出してしまった。

ずいぶんと物議をかもしている「かしこくも、御名御璽をいただき」と時代錯誤の言表が挿入されていたことだ。

「わたくし麻生太郎」にはじまり、その前後の文体がまあ通常範囲のものであるだけに、きわだって異和を放つ一句が無理にも挿入されたとしか思えぬ、時代錯誤のとんでもない言語感覚、思想などとはほど遠い、ただのイカレポンチの宰相だ。

もう一つ、とんでもねえ野郎だと思ったのは、明るい日本を掲げて論陣をはった件り、
「幕末、我が国を訪れた外国人が、驚嘆とともに書きつけた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、けっして豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、ほほ笑む国民だったこと」云々である。

これはどうみても渡辺京二の名著「逝きし世の面影」に描かれた数々のエピソードを背景にしていること間違いなかろうが、こんな御仁の論理に歪曲引用されたのでは、渡辺京二も迷惑千万で、さぞ聞くに耐えられないだろうと、いたく同情する。

政治家の節操のなさ、恥も外聞もない豹変ぶりなど、枚挙に暇もないほど見てきているが、安倍、福田と続いた突然の総理辞任に、危急存亡の自民党にあって、圧倒的多数で総裁を託されたこの御仁、奮い立ち舞い上がるあまりに、これはもう狂人の世界にあと一歩、としか思われぬ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-18

  はなに泣桜の黴とすてにける  

   僧ものいはず款冬を呑  羽笠

次男曰く、款冬は、冬を款-叩-く。款凍・款東ともしるし、厳寒氷雪を凌いで生ずる意とされる。転じて蕗のとうのこと、款冬花という。

ところが日本では、公任が「和漢朗詠集」春の部に、山吹の歌二首とともに、款冬の詩を選入したあたりから、款冬を山吹とする奇妙な風習が生まれた。下って連・俳でも欵冬を山吹に当てているものが多い。

貞德の「御傘」には、「薬の名に款冬と云は蕗のとうの事也。‥、款冬の字をやまぶきと読は日本のあやまちなり。され共、上代よりの義なれば、今更あらためずしておく也」と云い、季吟の「増山の井」は「山吹、款冬。貞德、欵冬は蕗のとうをいふといへど、和名抄に順-源順-の山吹といひ、朗詠にも公任卿の山吹に用給へば、我朝にては只やまぶきの事なり」と云う。

そのフキノトウの方の款冬を、風邪咳・喘息の良薬として用いたことは、人見必大の「本朝食鑑」や貝原益軒の「大和本草」にも録している。

以上のようなあらましを知って羽笠の句を読めば、いろいろな興が見えてくる。まず、款冬-冬を叩く-という語の思付は、野水句の「冬まつナツトウを叩く」春季に奪った、軽妙な工夫らしい。

款冬の読はカントウでもよいが、花屑を「桜の黴」と云うなら、蕗の薹をヤマブキと云ってこそ面白みになる。季は前に合せて晩春、つまり薹は薹でも、茎が伸び花もほうけた蕗の姑の季節である。フキノトウと承知していてヤマブキという伝統の言葉を呑む、と作るしかなさそうである。

句にはなお若干の趣向がある。「三体詩」に、「僧坊ニ逢着ス款冬花」ではじまる七絶があり、また「古今集」には「山吹の花色ごろも主やたれ問へど答へずくちなしにして」-素性法師-というこれまた知られた俳諧歌がある。

「僧ものいはず」とは、それやこれやにも思いをめぐらした転合な仕立らしい。陽春の候、賈島ならぬ喘息もちの僧を訪ねてみたら、花にそむいて黙々と款冬を呑みながら黴ばかり気にしていた、という滑稽の付である。用辞と云い前句への見込と云い、凝りに凝った句だがやはりうまい、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 29, 2008

はなに泣桜の黴とすてにける

Santouka08110809

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― 昨日、今日、明日

秋とは名ばかりで真夏日が執拗に続いた残暑も彼岸が過ぎて、このところぐんと気温が下がり本格的な秋の到来だが、この季節の変わり目は小児喘息とアレルギー疾患を併症するKAORUKOにとっては鬼門の時季となる。

一昨々日から喘息の発作症状が少し表れていたようだったが、Dance Café本番の昨日は、朝からいよいよひどくなってきた。
だがこの日ばかりは出かけないわけにはいかない。彼女の様子では、午後2時集合の会場へ地下鉄を乗り継いで行くなど、到底無理だろうというので、タクシーを拾ったが、車の中でも咳は止まらず息苦しくなってきたもようで、急遽、母親と共に西九条の休日急病診療所へとそのまま駈け込ませた。

吸入などの応急手当で少しは効があったようで、終演の7時まではなんとか平静を保ったものの、帰宅して後、就寝の頃になってまたぞろ発作がひどくなった。この日二度目、またしても休日急病診療所へ駈け込む仕儀となったのだが、こんどは夜間診療の中央急病診療所で場所は西長堀近く。

吸入、点滴、そしてまた吸入と、症状を悪化させたぶん応急の手当も時間がかかって、やっと親子3人帰宅したのは午前2時頃になっていた。
急病診療所では、薬剤投与を一日分しかしない。だから今朝もまた、かかりつけの小児科へと受診にいって、KAORUKOはもちろん連合い殿も今日一日休暇となって、親子でゆるりと過ごしていらっしゃる。

さて、ひさしぶりのDance Caféについても書きとめなければならない。
ありさというBallet少女を得て、おまけにDecalco Marieの出演もあって、さらに演奏陣は、常連の杉谷君に加えて、violaの大竹徹氏、percussionの田中康之氏、Voiceの松波敦子嬢と、踊り手4人に演奏者4人の豪華さ?なのだから、メンバーの豊かさと充実は内容に反映しない筈がない。

やはり地の利の問題か、客席は思ったほど入らなかったのがいかにも口惜しいが、出来のほうは予想内の上の部といったところでほぼ納得のいくものであった。

だが、会場中央にでんと佇立する白木の太い4本柱の存在感は如何ともしがたいものがある。踊り手の形象する空間のフォルム、その造型力を阻んであまりある存在感なのだから、これら4本の木柱をよく取り込んだ表象世界を志向していく以外にないのだが、これがたんにドラマティックなだけのありきたりの手法では、これまた既視感に満ちたありきたりの世界しか生みださない。やはりどんな場合も課題は残るものである。

話は変わるが、このところずっと、新聞は読めても、本を読み進むことはできない日々が続いていた。読書にはやはり相応の気力が要る。著者の思考をそれなりに追い肉薄するには、自身の心に集中と持続が把持されねばならない。9日の不幸事出来から、心の動揺と拘束からとても自由になどなれる筈もなかったから、それも自然の理で無理はないかとうち過ごしてきたが、昨夜を経て今日は、ほんの一時間余りだが、打棄ってきた読みかけの書の残りをやっと読み通すことができた。どうやら心の内が少しばかり軽くなっているようである。

そして最後に「たより」らしい本題、
Mulasiaを利用しての次の企画を、昨年は神戸学院グリーンフェスティバルでの機会を得たものの、大阪では4年ぶりとなる山頭火を上演することにした。私自身生まれ育った九条界隈である、その地縁をよすがに一度はやってみたくもなるのは、これまた自然の理であろう。

はじめは10月中にもと思ったのだが、些か忙しないとも思い直し、会場との調整で11月29日、30日の両日とした。
詳細は斯くの如し、である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-17

   冬まつ納豆たたくなるべし 

  はなに泣桜の黴とすてにける  芭蕉

次男曰く、花の塵、花屑と云えば落花の傍題である。それを「桜の黴-かび-」と云い替えたところが工夫だ。

むろん、花と桜は違う。花に黴は生えないが、桜なら生えておかしくない、と躱して花の座の凌ぎとしたわけだが、作意は不易と流行は一であって同じではないいうところまで及ぶ。納豆の黴を見咎めて、したたかに応じている。

冬から秋への季移りに続けて花の句を求められ、しかも「ふゆまつ」などと後ろ髪を引く体に挑まれれば、誰しも投げ出したくなるが、芭蕉は、困ったと云いながらじつはたいして困った様子でもない。連衆の転合には泣かされるが、「はなに泣」のは風月賞翫の揺るぎない伝統、というところへつなぎ替えている。泣の一字栽入が千鈞の重みだろう。談林と正風の微妙な接点を臨かせる句作りだ。

「ふゆまつ」を見逃した評家は、いろいろこじつけてこの句を解釈する。「秘注」は「老人などを思ひやりテ、よの人の観想也。花も桜も黴たる衣類の如しと也」と、無茶なことを云う。漁潜の「冬の日附合考」や「七部集大鏡」-何丸著、文政年間成-は、「黴」を懲-こり-の誤記とする。ことほどさように解釈に手を焼いている、ということだ。

升六もまた「月に花に執する心は是即ち五欲六塵の境をまぬがれざるものから、さらに業障の媒-なかだち-なるべしと悟りて、其有為の塵欲を捨て,無為の道に入んとの意にやあらん」、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 28, 2008

冬まつ納豆たたくなるべし

Dancecafe080928l

Information<四方館 Dance Cafe>

「KASANE 2008 –襲Vol.Ⅲ-」
  愈々本日夕、Free Space MULASIA, Kujyo

 匂ふより春は暮れゆく山吹の
   花こそ花のなかにつらけれ  定家

  春ならば、桜萌黄や山吹か
      藤や桜や牡丹花

  秋や秋、月に桔梗や女郎花
      紅葉、白菊、萩重

  夏は、卯の花、葵とや
      百合や撫子、花菖蒲

  冬は、枯野に松重
      椿氷るや雪の下

―世間虚仮― Soulful days -10-

昨日-9/27-、RYOUKOの二七日。

AM11時前に波除の家に行く。生前の寝室だった部屋に祭壇が設えられ、遺骨が置かれている。
まだ誰も居ないその部屋で、そっと骨壺を開けてみた。これでもかというほどに詰め込まれた骨片の上に頭骨が乗っていた。その頭を指で触れてみる‥、カラカラに乾いた感触以外、なにもない。
蝋燭を灯し、線香を立てて、ベッドに凭れるように座っていると、まもなく麻生和尚がやってきた。

その麻生さんが帰りがけに階下で言い残していった謂い「脇見運転だって、新聞に出ていたって?」に、ひととき一座は騒いだ。新聞に出ていたのならその記事、どうでも探さなくちゃ、記者の予断としても西署から漏れ出た情報がある筈。何人かに尋ね合わせてみたが、記事を知る人はいなかった。
はたして記事はあったのか、或いはなにかの勘違いか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-16

  霧下りて本郷の鐘七つきく  

   冬まつ納豆たたくなるべし  野水

次男曰く、秋三句目、霧は兼三秋の季だが、晩秋と見定めれば「鐘七つきく」に夜の明けるのを待兼ねる姿がある。それを「冬まつ」と、合せたか。

「冬まつ」は冬近しである。一句、姿良く、初冬に入る生活の情がよく現れる。七点鐘を力ぐさに、納豆叩きの小刻みな音を面白く絡ませている。

尤も、納豆といえば寺、僧家の連想がある。「本郷」を寺町と見ているのだろう。但し、この句の作りについていえば、町家の未明の営みと読んで趣が深い。

叩き納豆は、江戸初め頃商売にすることも江戸初め頃既に商売にすることも珍しくなかったらしいが、納豆を季語とするのは下って江戸中期以降で、「納豆造る」を晩夏に分類する季寄せが多い。

次に花の座を控えて「冬まつ」とは転合なことをする。「捨られて」以下「門守の」まで冬の三句続きは、夏冬の平句は一句で捨ててもよいとする者から見れば異例だが、はこびはさらに雑の句を挟まずいきなり秋へ戻し、その三句目でわざわざ「冬まつ」と念押しに作っている。

「冬まつ」は晩秋の季であって冬ではないとはいえ、これは明らかに連句の約束に背く。敢えてそう作ったのは、次句の花の座-春-に難題を吹っかけているとしか読みようがあるまい。手詰りが生んだ窮余の策だったかもしれぬが、面白くなってきた。意外なところに警策がある、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 27, 2008

霧下りて本郷の鐘七つきく

Db070509rehea079

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― 岡田昭三の憤死 Soulful days -9-

岡田昭三君の急死を私が知ったのは8月31日の日曜日だった。通夜がその前の木曜日-8/28-、本葬がその翌日執り行われたというその死は8月26日であった。昭和26年生れの享年57歳、若すぎる死である。惜しまれる死である。思いもよらぬその報に愕然とし胸鬱がれた。

岡田昭三、彼は、私が港へと転身してからの、いわば第二の人生で知己を得た多くの人々のなかで、その直観力や包容力、人としての器量において、私の心に印象深く刻まれた者の一人であった。大いにSympathyを感じうる知友であった。知り合って3年も経った頃か、市従港湾支部の書記長から本部執行委員へと転身、市庁地下1階の市従本部に詰めるようになって、お互いの接点が希薄となりなかなか会える機会もなくなったのには、ときに些かもの侘しいような思いが吹き抜けたものである。

たしか広島出身と聞いた記憶がある。精神の早熟が波乱の立身を求めたか、高校を出てまもなく大阪へ来たらしく、28歳で港湾局の現業職に就くまでのほぼ10年、いろいろな職に就き、昼も夜も働いてきたという。接客業のバーテンなども経てきていると聞いたから、身一つの苦労をよく知っている人とみえた。

浄光寺の麻生さんも、彼の二児がアソカ学園に通っていたことから知り合い、よく気脈の通じる人と感じていたようで、彼と膝を交えると岡田君の噂がたびたび出てきたものであった。その麻生さんは、彼の急死を私が話題にするまで耳に入っておらず、彼もまた驚き歎じ入っていた。

岡田昭三の死は、憤死であろう、あるいは爆死ともいえよう。

彼は2005年の夏から、大阪市従業員労働組合のトップ、執行委員長になっていた。それ以前、99年からの3期を書記長として奔走してきたから、大阪市の財政破綻を機に、ヤミ専・ヤミ給与やらのさまざまな職員厚遇問題が、逆風の嵐となって組合攻撃に集中してくるほぼこの10年を、労組中枢のトップとして辛酸を舐め尽くすような闘いの渦中に居つづけたことになる。

その陰で、もうずっと、数年も前から彼は激しい腰痛に悩まされていたと聞く。松葉杖に頼り、車椅子での移動生活が常態であったという。何年前だったか、私もまた彼の松葉杖姿に二度三度と出会したことがあった。腰痛とガンの転移、とくに骨髄ガンとの相関はよく知られるところだが、彼の身体内部でガンの転移が進行し、もはや自分の命は時間の問題、末期ガンであることを、彼も内心はよく承知していた筈だ。

彼の急死を聞いてから何日か経った夜、私はネットの大阪市従労組サイトを開いて、飽かず眺めてみた。どうやらこのサイト、彼の委員長就任から新しくレイアウトされたようで、彼の肝煎りで作られているというのが、いくつかの頁からよく伝わってきた。ブログもあったので、月に二度か三度ばかり言挙げしている3年前からの記事を追って読んでいくと、なんとほとんどのものが委員長自身、彼みずからの書き込みであった。

これには驚かされた。激務と闘病の日々のなかで、彼自身なにを考えどう動いてきたか、具体的には書けないことが多かろう筈の組合業務のなかで、彼の思いの強さ、誠実さと直向きさが匂い立ってくる感があった。

ブログの記述は3月4日が最後となったままである。8月26日の急死にいたるまでの5ヶ月あまり、死に直面しつつ彼はどう生きたのだったか。

そのブログの最後に、今夜、といってもすでに27日未明に近く、ほんの恣意にすぎない門外漢の弁だが、コメントを付せさせていただいた。

岡田昭三君、ほんとうにごくろうさんだったネ。
港湾支部から本部執行委員へと転じてのち、
書記長から委員長のほぼ10年、冬の嵐が猛り狂うなかを、
自身、病魔に襲われ苦しみぬきながら、さらにいえば、いつ襲いかかるともしれぬ、死の恐怖と向き合いながら、
よく闘いぬいてきたものと、
棲む世界をたがえる者ながら、感じ入っています。

どうやら、ほとんどが君自身の手で書き継いできたとみられるこのブログ、夜を徹して初めから走り読みさせて貰いました。
君の、最後の2年間の日々を、此処からさまざま追想させていただきました。

いつか、もっと年がいってから、闘いの職務から解放されて、ひとりの自由人となった君と、さまざま接点をもてるものと、心に期すものがあったのだけれど‥。
残念だ、無念だ。

それにしても、組合員1万を率いるという大阪市従労組委員長の死を、新聞各紙は報道しないものなんだネ。
社会においてその影響は大なるものがあろう労組幹部という存在は、日蔭に咲く花か、この世間というやつはそんな扱いをしているんだということに、いまさら気づかされて驚かされたようなしだいだ。

心より哀悼の意を捧げます。合掌。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-15

   血刀かくす月の暗きに  

  霧下りて本郷の鐘七つきく  杜国

次男曰く、月を冬から秋に奪い、場と刻を設けた付である。

本郷は一郷の中心地、あるいは生れ故郷の意だが、なぜ「本郷」などという詞をここに持ち出したかわからない。とすると、これは江戸本郷のことか。

「越人注」「秘注」をはじめ、多くはそう解している。それでも納得できるわけではないが、「鐘七つきく」は申の刻-午後4時頃-ではなく、寅の刻-午前4時頃-だろう。折からの七点鐘をたよりに有明空の方をうかがうと、霧につつまれて本郷の杜があったという句作りで、こういう視点は新吉原からの帰り道なら相応しかろうか、というようなことを何となく想像させる。

「血刀かくす」を刃傷沙汰とでも読取り、世話物の趣向の一つもそこに嵌めれば、筋書きはたやすく思い浮ぶ。杜国の狙いは、できるだけ通俗の仕立てによって、陰々滅々の鐘の音を聞かせるつもりだったか。そうとでも読まなければ、こんな句は解釈の仕様もない。二句、恐怖のだましをたのしむ即興のやりとりであろうと思う。深く考えるには及ぶまい、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 25, 2008

血刀かくす月の暗きに

Alti200625

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -8-

交通事故というもの、どんな場合も偶然に満ちたものであり、僅かなスキ、ほんの些細なミスから起こるもので、運転手双方に故意はまったくないものだから、事故当初から、その甲乙いずれに対しても責めたり恨んだりの気持はもつまいと思ってきた。

それぞれほんの小さな過失で、第三者-この場合搭乗者-に瀕死の重傷を負わせたり、死に至らしめたりすれば、常人なら良心の呵責はとても大きく深いものがある筈で、その負い目は生涯にも及ぶものになろう。それが人としての自然な心だろうし、またその呵責は当事者にしか計り知れぬものでもあろう。
そう考えれば、家族として責めることも恨むこともあるまい、自身の痛みや悲しみを他のものに転化してしまっては、自分自身をも見失ってしまうことになるのだ、と。

ところが、事故の相手方の運転手は、まだ29歳の若者だが、14日の夜、西警察署からRYOUKOの死を伝えられるまで、病院に来ることもなく、連絡もしてこなかったのである。

私の推測では、保険屋などがいうところの「交差点での事故は、右折車7割、直進車3割の過失割合」の常識から、自分にはほとんど過失がなく、自分もまたむしろ被害者なのだというすりかえの論理で、RYOUKOの悲劇を直視せず、おのが眼と心を閉ざしてきたものと思われる。

近頃の若者に特有のジコチュー論理とでもいうか、僅かなミスであれ、それが惹き起こした悲惨な現実から眼を背ける、とんでもない甘えの構造だが、これをそのまま黙って見逃すわけにはいかない。
そこでひとまずは、彼に対し、次のような一文を書面で送り付けた。

君はいったい、なにを考えているのか。
君はどうして、RYOUKOが死ぬまで、西署からその報を聞くまで、なんら動こうとしなかったのか。

事故当初の夜、私は、君と、君の身元引受人と覚しき伯父ご夫婦とから、挨拶を受けた。
その時点では、私もRYOUKOの容態についてなにも知らず、なにも判らないのだから、「今日のところはお引き取りください。判ったらお知らせします。」と言って、帰ってもらった。
翌日、その容態について、医師から聞かされたことを、あらまし君に電話で伝えた。
その肝心なキーワード「硬膜下血腫」を言い忘れたから、再度電話をして伝えおいた。
この語を調べさえすれば、ほぼ容態について、また今後の推移について、およそ見当がつくものと思われたからだ。

然るに、君はなんの行動も起こさなかった。
いや、厳密に言うなら、その日の午後、一度だけ私の携帯に電話を寄越している。
だが、私は電話に出なかった。というのも、その時、携帯を持ち忘れたまま、病院に行っていたからだ。
着歴を見て、君から電話があったのを知ったが、とくに留守電に伝言が入っているわけでもない。私に用があるならあらためて掛けてくるはずだから、私から応答する必要はない。これが9月10日の午後のことだ。

それから、4日のあいだ、RYOUKOが死んだのは9月14日の午後7時14分、それまでのあいだ、事の重大さを知りながら、見舞にすら来ず、家族への一言の挨拶もなく、ただ打棄ってきた。
こんなことは常人のなすことだろうか。
事故は、当該運転手の僅かなミス、些細な不注意で起こるものだ。だれも故意に起こそうとして起きるものではない。その意味では、偶然性に満ちている。だがその小さな過失が、多大な、とんでもない不幸を招く。一人の無辜の人間をこの世から抹殺してしまうこともある。

小さな過失が招いた取り返しのつかない事態を、君は直視せず、4日の間ずっと自分の眼を閉ざし、なにも動かなかった。
事故を引き起こした当事者でありながら、君にはいっさい過失がないとでも、のうのうと言うつもりなのか、そんなことは法においてさえありえないというのに。

その挙句、西署から死の報を受けて、ただちに駆けつけるでもなく、電話で「通夜、葬儀の日時を」とはなんたる挨拶、なんたる言い草か。
そんな君に、「どうぞ焼香のひとつもあげてやってください」と、遺族が応えてくれるとでも思っていたのか。
君は、人として為すべきこと、すべてを打棄ってきた。

どう思っているのか、いったいなにを考えてきたのか。
君には、良心の呵責というものがないのか。
法は法、人倫は人倫、
君が、倫に外れた、このままであるかぎり、私たち遺族は、君を許すことはできない、ありえない。
  2008/09/23  RYOUKO父記す。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-14

  門守の翁に帋子かりて寝る  

   血刀かくす月の暗きに  荷兮

次男曰く、一度の宿りを請うた男の素性はただの旅人ではなかった、と外して付けている。

添付に違いないが、月の座につけこんで、このすさまじさの演出ぶりはいかにも荷兮らしい。月は四季通用ということを利用したとはいえ、いきなり冬-秋の季戻りに仕立たのも力業である。

「一句明らかに解を要せず。前句とのかかりも亦おのづから明らかなり。家中の若者なんどか、徒士若党の類なるべし、と旧註の云へるはよろし。例の演劇ぶりの着想なり」-露伴-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 24, 2008

門守の翁に帋子かりて寝る

080209007

Information<四方館 Dance Cafe>

―四方のたより― 稽古も酣

昨日-23日-は、21日の日曜につづいて稽古。
21日が、谷田順子さんの気功ワークの2回目で、前回同様3時間ほどを要したから、「襲Ⅲ」へと向けた本格的な稽古は、今日かぎり、Dancerたちそれぞれ、どんな見通しを立てられるかは、この日が生命線だ。

忙しいはずの清水-デカルコマリィ-君も時間をやりくりして12時半頃駆けつけてくれた。おかげで全体の構成、その概容は見わたせた。

短い1分ほどのBalletを5箇所挿入することで構成づけたのだが、その役を担うありさは、自分なりに懸命に考えて細かく振りを使い分けているが、もう身も心いっぱいというのだろう、今朝はダウンしたとかで、これまた12時過ぎに推参、彼女のペースに気を配りつつ、稽古に加えていく。

午後4時過ぎ、会場となる九条のMULASIAへと、みんなで下検分に。
4本の白木柱の間隔が思ったよりずっと狭いのに驚いた。以前に見ていた筈の私の記憶もずいぶんと好い加減なものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-13

   火おかぬ火燵なき人を見む  

  門守の翁に帋子かりて寝る  重五

門守-かどもり-、帋子-かみこ-紙子、紙衣のこと

次男曰く、初裏も七句目、前句の作りには話の一つも誘う体があると見て、無常迅速の趣向を持ち出している。主人亡き家に偶々一夜の宿りを請うた旅人の観相、とでも読んでおけばよい。

炬燵に灯も入れぬぐらいなら着て寝る紙子もなかろう、というのは陳腐な思付に過ぎまいが、「かりて寝る」と治めたところが工夫だ。つれて、貸す人の位の釣合は「門守の翁」だと作っている。

故人は生前何らかの縁につながる人ではないらしい。それだけにいっそう、回向の情が「かりて寝る」に沁み渡る。仮の世にふさわしいのは借着だ、と含ませた作りで、「火おかぬ火燵」も掘炬燵ではなく置炬燵と見ているのだろう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 22, 2008

火おかぬ火燵なき人を見む

Chagall_p01

Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― シャガール展

久しぶりに霽れた秋空にそぞろ誘われたわけではなく、また気鬱ばらしというわけでもないのだが、偶さか連合いも月休とあって、シャガール展を観に兵庫県立美術館に行ってきた。

昔、京都で観た「シャガール展」は、はていつのことだったか、記憶は遙か彼方にあっていっかなはっきりしないが、おそらく40年以上もの時を隔てているのだろう。

初期作品から詳しく解説を読みながら観た所為で、後半期の大作や著名作品が並ぶ展示室に入った頃は、少々草臥れてきていた。すべて見終わって、とどのつまりは2300円也の図録冊子を買い求めるくらいなら、要所々々でたっぷり時間をかけて鑑賞すればよかったとちょっぴり後悔。

最後尾の展示、大画面のタペストリー「平和」などを見ると、中原喜郎氏の「我等何処より来たりて」シリーズの大作が想起され、なにやら懐かしいような感懐に浸らせてくれた。

今日観たなかでのお気に入りは、大作ではないが「ソロモンの雅歌」シリーズ。ところがこの作品、ⅠからⅤまで5枚あるはずだが、Ⅱが展示されていない。いずれもニース国立シャガール美術館に所蔵されている筈だから、何故揃わなかったのか判らない。

版画集の「ラ・フォンテーヌの寓話」や「死せる魂」シリーズもよく見ていくとずいぶん愉しめる。ところが1930年当時のフランスは、ユダヤ人への排他的な風潮が支配的で、国民文学ともいうべきフォンテーヌの古典に、なぜ異邦人のシャガールを起用するのかと批判が噴出、フランス議会にまで採り上げられ問題とされた、というから時代的状況の暗部を照らしておもしろい。

―今月の購入本―
・梁石日「闇の子供たち」幻冬舎文庫
貧困が人ひとりの命を限りなく軽くする。アジアの最底辺で今、何が起こっているのか。幼児売春、臓器売買、モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と人間の飽くなき欲望の恐怖を描く。

・吉本隆明「日本近代文学の名作」新潮文庫
毎日新聞の文化面で週1回連載した「吉本隆明が読む 近代日本の名作」-2000年4月~2001年3月-をまとめた一冊。昭和の太宰治から明治の夏目漱石にさかのぼる24人。

・上野千鶴子・編「「女縁」を生きた女たち」岩波現代文庫
20年前の、著者と電通ネットワーク研究会による「「女縁」が世の中を変える」を母体にⅡ部・Ⅲ部を書き下ろし付加した新版。

・草森紳一「不許可写真」文春新書
第2次上海事変から日中全面戦争へと突き進んだ時代、陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲をかいくぐり残された、毎日新聞社秘蔵の不許可写真を収録、解説する。

・多田富雄「生命へのまなざし-多田富雄対談集」青土社
今年の小林秀雄賞「寡黙なる巨人」の免疫学者多田富雄が、多くの文化人らと、免疫、自己、老化、脳死と臓器移植、ウイルス、エイズなど、生命科学と文化の接点を語り合った対談集。

・「シャガール展-色彩の詩人-」西日本新聞社
・広河隆一編集「DAYS JAPAN -この地球の子どもたち-2008/10」ディズジャパン

―図書館からの借本―
・李禹煥「時の震え」みすず書房
「今日という地平では、一つの塊のような対象、一つの出来上がったメッセージと向き合うことは堪えがたい。物も人も、在って無きがごとくの在りようが好ましい。むしろ向き合うことなしに、間を意識すること、ひいては見えないがより大きな辺りの時空間をこそ感知し、そこにおのれを解放したいのである」 2004年刊。

・別冊環「「オリエント」とは何か」藤原書店
西洋史でも東洋史でも捉えられない、世界史の中心としての「オリエント」。世界が大きく変動する今日、オリエントの重要性を問う特集。2004年刊。

・別冊環「子守唄よ、甦れ」藤原書店
人々の暮しや生活の中から生まれた心の唄であり魂の伝承でもあった子守唄が、なぜ喪失してしまったのか。子どもたちの未来に向けて、今こそ、人間にとって子守唄とは何か、そして子守唄をどうやって甦らせるのか。2005年刊。

この2週間ほどは読書どころではない日々が続いた。よって借本もいつもより少なく、それもほとんど手つかずのありさまで、先月から借りていた丸山健二の新作「日と月と刀」下巻をそのまま借り越して、昨夜やっと読み終えたばかり。

この小説、短い一節々々を2行ほどの文を小見出しよろしく冒頭に掲げ、そのまま描写を進めて、延々と読点で数珠繋ぎに繰り延べ、一節の終りまで句点をまったく打たないという型破りの文体で、それが却って流し読みを許さない。声こそ出さねどブツブツと音読するが如くで、上下巻読了にまあ時間の要したこと夥しいが、それだけにずいぶん愉しめたともいえる。

読み終えてから、小説の動機となった作者不詳の「日月山水図屏風」が、女人高野とも謂われた河内長野の天野山金剛寺に伝えられてきたのを知った。この絵、寺では毎年5月5日と11月3日の二日のみ特別拝観しているという。近く是非まのあたりにしてみたい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-12

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  

   火おかぬ火燵なき人を見む  芭蕉

火燵-こたつ-

次男曰く、「捨られてくねる」を、オシドリなら死別だろうと見定めて、火のない炬燵に寄って亡き人を偲ぶ情に移した句だが、いきなり話を拵えているわけではない。

「鴛の離れ」から「火おかぬ火燵」まず思い付いたところがみそである。火がなければ火燵も無用を嘆く、と考えれば俳になる。

こういう句を、怨みかこつ前句の姿から思慕の情に転じたなどと読んでは、屋上屋を架す式の付伸しにすぎないことは容易にわかる筈だが、諸注殆どそう読んでいる。

「是は夫に離れたる女などの、夫を慕ふ心也」-越人注-、「火置ぬ炬燵といふに鴛のしば啼寒さを見せたり。‥故人を算へ居る老の身の侘しさ、其余情句外にあふるるものならし」-升六-。

また、「前句捨てられてとあるを、死にあらずんば離れざる禽故、ここには無常と取りて、亡き人を見んとは作れり。‥今は其人既に亡せて其物猶存し、旧物眼に入るにつれて深感の胸に添はるところを云へるなり」-露伴-、などと。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

September 20, 2008

捨られてくねるか鴛の離れ鳥

Db070509t094

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -7-

「3人の兄と、ひとりの妹へ」

電話にてお知らせしようと思いましたが、書面FAXにて連絡するほうが、事態の流れをより正確に遺漏なく伝えられるかと思い直し、文章にしています。

RYOUKOのことです。
9月13日未明現在、RYOUKOは、法円坂にある独立行政法人国立病院機構「大阪医療センター」-以前の国立大阪病院-の集中治療室にあります。

9月9日午後8時30分過ぎ頃-推定-、そのRYOUKOを乗せたタクシー-車種エステマ-が、波除の家を出た矢先の辰巳橋南交差点を右折する際、九条方面より直進してきた自動車-車種ハイエース-と衝突するという事故が発生。
近頃のRYOUKOは、費用も安くつくとかで夜の出勤のためにMKタクシーに家まで来て貰って乗って出かけるのを常としていたとのことです。
右折し徐行しながら直進しかかっているタクシーに、対面方向からの直進車がかなりのスピードで走ってきて衝突したわけで、ちょうどRYOUKOの坐っていたタクシー後部を直撃したことになります。
ただちに救急車が呼ばれ、大阪医療センターに搬送されたのですが、RYOUKOは事故直後から意識不明だったそうです。

私が、母親-元妻-のIKUYOから連絡を受けたのが午後9時過ぎ頃、彼女が救急員から連絡を受けて病院へ駆けつけるタクシーの中からでした。
IKUYOも、そして私も、仕事で泊りだった為少し遅れて駆けつけた弟のDAISUKEも、救急治療室で治療を受けるRYOUKOの姿を垣間見ることも叶わず、容態もなにもわからず、ただ室外で待つばかりで3時間くらいの時が経ちました。

突然、担架に乗せられ、身体中にいろいろな器具を取り付けられたRYOUKOが、医師や看護師らに運び出され、眼の前を通り過ぎていきました。一言聞きえたのは、救急治療は一応終えてこれから別室でいろいろな検査をする、といったようなことでした。
我々3人もその後を追ってその病室の前で、まったく容態の分からぬまま、またもただ待つばかりの3時間あまりを過ごしました。

午前4時を過ぎる頃、今度は3階にある集中治療室に運ばれました。そしてやっと面会が許され、続いて別室で医師から症状の説明を受けました。
病院に運び込まれた時点からずっと意識不明であること、瞳孔反応もないこと、事故の衝撃で脳内に急性硬膜下血腫を起していること、脳の腫れ-脳浮腫-も併発していること。助かる見込は?と問えば、可能性はかなり低いこと‥、といったことがその概略でしたが、そもそも硬膜下血腫がどれほど危険なものか、脳浮腫との因果関係は? 我々に分かる筈もなければ、医師がもう助からないのだと断定しているわけではない、ということに望みを託すしかありません。
医師はすでに集中治療室において低体温療法の治療体制をとっており、この処方を、3日間を目処に行っていくという。その結果、たとえどんなに脳の高次機能障害が遺ることになろうとも、RYOUKOが生きる、生きられるのであれば‥、このまま死にゆくなんて、受け容れられる筈がありません。

それから昨夜までの3日間、許される面会は午後3時から8時までのあいだの30分間、原則として家族のみ、感染等のリスクがあるので中学生以下は不可。
その短い時間を、IKUYO、DAISUKE、私の三人が、それぞれ一緒にあるいは個別にと、生きているか死んでいるか分からぬ、じっと不動のままひたすら眠りつづける、実際のところは現代医療の技術と機器で辛うじて生かされているにすぎないRYOUKOに会い、ただ見つめてきました。

昨夜-9/12-7時半、救急治療をしてくれた医師がそのまま主治医を担当してくれていたのですが、その医師から家族に今後につき話をしたいとのことで、この日も二度目の面会に行きました。
IKUYOも、DAISUKEも、それに私にしても、まだなんらかの治療の試み、それが脳の切開手術なのか別の手立てなのかは分からない、絶望的だけれどまだなにか、それはRYOUKOにも私らにもとても苛酷なことだろうけれど、そういうことを聞かされるものと思って行ったのでしたが‥、
意に反して、もう助かることはない、という冷厳な事態にまともに向き合うしかないというものでした。
すでに脳は死んでいること、ずっと瞳孔反応がまったくないということですから、脳幹も死んでいる、全脳死だということ。
ひるがえって、事故直後、救急で運び込まれ、治療にあたっていたその時点から、すでに脳死状態にあったということ。
いまはただ延命治療をしているにすぎないという事実を、家族みんなが真正面から受けとめ、いつまで続けるのか、いつ打ち切るのか、あのRYOUKOの呼吸を止める、その時、その決定を、三人の家族に委ねられたのだ、というものでした。

13日未明現在、IKUYOも、DAISUKEも、私も、今日ただちに「もう結構です、どうぞ機器を外してやってください」とはとても言えそうもありません。
かたわらRYOUKOには苛酷なことを強いてしまっていることなのだけれど、なお一両日のあいだ、断を下せそうもない、下さない、と考えています。

RYOUKOのこと、事ここにいたるまで、お知らせできなかったこと、お知らせしなかったこと、水臭い奴あるいはそれでも兄弟かとの誹りを受けるかもしれませんが、どうかお許し願います。
IKUYOからも、DAISUKEからも、洩れ知らせることがなかったようで、この未明それを確かめたうえ、こんな形をとることにしました。ほんとうに申し訳ありません。 2008.09.13 早朝記す

以後、13日と14日の午後は、急を聞いた兄弟親族らと、DAISUKEを起点に連絡のいったRYOUKOの友人たちがつぎつぎと見舞に訪れ、集中治療室前の控えのコーナーは思わぬ賑わいをみせていた。
その足もほぼ途絶えた14日夕刻、我々三人は最後通告たる覚悟を確認しあったうえで、当直医に面談を申し入れ、その意志を伝えた。「これ以上の延命治療は、もう結構です」と。
それから1時間も経っただろうか、血圧維持の薬剤投与交換の時に血圧が急降下した。これまでならその際に大量の薬剤投与をしたり、機器を使って無理にも血圧を上げていたのだが、早速これを止めたのだから血圧は20~25あたりを推移するのみで、いまにも呼吸停止の危機がやってきたらしい。
外にいた我々はすぐに呼ばれ、驚き慌てて駈け込む。RYOUKOはすでに虫の息同然だった。ベッドの傍らで見守ること数分、RYOUKOは静かに息を引き取った。当直医が、瞳孔を診、脈をとり、死を告げた。

平成20年9月14日午後7時14分、RYOUKO死す。
昭和44-1969-年5月15日生れの、39年と4ヶ月の生涯は、ここに呆気なくも幕を閉じた。

翌夕、午後7時より通夜、告別式は16日午後1時30分より、会場は港区夕凪の浄光寺。日頃稽古場としてお世話になっているアソカ学園の麻生さんにお願いし、導師をも務めていただいたわけである。
通夜も本葬も、RYOUKOの友人らがたくさん駆けつけてくれた。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-11

   うきははたちを越る三平  

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  羽笠

鴛-おし-鴛鴦(おしどり)の鴛は雄、鴦は雌

次男曰く、縁遠い女の心の内をはたから覗く狂言回しふうの仕立、と読めば二句は面白く、ついそう読みたくなるが、これはことばの罠である。解釈はせいぜい、女が離れ鳥に寄せてものを思うというあたりまでで、それ以上「捨られてくねるか」に思い入れて読むと、景を取り出して合せた意味がなくなる。

句の興はむしろ、「二満」あっての「鴛の離れ」という着眼の気転で、それを「くねる」と崩して見せた。一羽のオシドリが番から離れて水面を曲るという写景的状況から、縁遠い女が文字通り見捨てられてひがむあるいは怨みかこつという述懐まで、幅を持っている。

いるが、この後の解釈にさっそくとびついて観想にとらわれると、三句絡みになってはこびは停滞してしまう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

September 19, 2008

うきははたちを越る三平

Alti200611

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -6-

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
おまえは、まだ宙吊りのままに、空のなかほどにあって
焼き尽くされ、小さな器に盛られた
おのが骨片を、見ているのだろうか

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
あの一瞬の出来事、あれはいったいなんだったのか
おまえにわかるはずはなく、呑み込めるはずもなく
ただただ、怪訝な面付きで、おのが骸を眺めやるしかないおまえ

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
あの瞬間、思いもよらぬ衝撃に、うすれゆく意識のなかで
おまえの網膜に映じたのは、どんな像であったのか
ベッドの上でひたすら眠りつづける姿を見たときから
詮なくもただそればかりを想い、考えるしかないオレなのだ

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
すでに此方と彼方に分かたれ、けっして交えぬ場処にあれば
応えられるはずもないおまえに、投げつけることばの数々は
虚しく空-クウ-にひびき、この身に還っては、ただ墜ちくるばかり

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
おまえは成仏なぞするな、浄土へなぞ往かずともいい
これからはずっと、オレの傍にいろ
これからはずっと、このオレにべったり、貼り付いていればいい


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-10

  おもふこと布搗哥にわらはれて  

   うきははたちを越る三平  杜国

越る=越ゆる、三平-マルガホ-と読む

次男曰く、「布搗哥にわらはれ」る人を、男-隠居-から女-嫁入口のない-に奪った付。はこびの常道だが「おもふこと」の憂さを「はたちを越る三平」と作ったところは、やはり巧い。

三平二満は黄山谷の「四休居士詩序」に見える。額・鼻・頤は平らで両頬のふくれた顔を云う。「三平二満」は本来ほどほどの満足を表す譬えで、不美人というわけではない。

「越人注」に「三平-マルガホ-」を「見悪き顔也」と云い、そう解している注釈が多いが、不器量では句が死ぬ。マルガホは良い訓みだ。

露伴も「容貌の不美をいへること論無し。ただ三平は平顔と訓まむかた当るべく、又円顔は必ずしも不美ならざれど、当時の俗、瓜枝顔を尚みて円顔を好しとせざりしより、円顔とは訓みしなるべく、相伝の訓とおぼしければ今の意を以て古来の訓を改むべからず」と云う。

マルガホが相伝の訓かどうかはよくわからぬ。自分では嫌な顔だと思い、他から見ればかわいい顔、という気味合が「三平」にはあるだろう。この食い違いを捉えて朋輩たちが可笑しがる。そんなに気にすることないわ、「二満」省略を含として利かせた作りと解しておく、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 17, 2008

おもふこと布搗哥にわらはれて

080209023

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -5-

「脳低体温療法」
脳低体温療法は、脳内毛細血管内圧低下による脳浮腫と頭蓋内圧亢進の抑制、脳内熱貯留の防止、脳内興奮性神経伝達物質放出抑制などの効果が期待されている方法である。

しかし、この脳低体温療法は心拍出量の減少免疫能の低下による呼吸器感染症、低カリウム血症、血小板減少症、敗血症やエンドトキシンショックなどの合併症は低体温の程度と密接に関係しており35℃程度では、その発生はわずかであるが、32℃前後になると高率に発生するとされている。

脳低体温療法は、脳にとっては良くても、生体には大きな侵襲を及ぼす二面性を持っている。そのため、単に体を冷やせば良いというものではなく、各温度の変化に伴う生体の反応を十分に認識することが重要である。

97-H09-年という些か古い情報-文藝春秋4月号-だが、脳外科医だった柳田邦男氏が取材したという、こんな事例もあった。

「対光反射なし・瞳孔散大・意識レベル300・CT-急性硬膜下血腫・脳挫傷による脳全体の偏位-」

これだけの悪条件をみると、経験豊かな脳外科医であれば、やはり「まず99%は助かりません」とご家族にお話しすることが多いと思います。但し実際CTを見ていないため、急性硬膜下血腫・脳挫傷による脳全体の偏位の程度がわからないため、ほんとうに低体温療法をしなければ助からなかった症例であるのかどうかは不明であります。また仮にCTを見ていても、細かな予測は困難であるというのが本音であります。しかしいずれにせよ、かなり重篤な病状であることは事実です。

林教授は、手術しても脳全体が浮腫を起こしてしまっては手術の意味がなくなると判断し、低体温療法をまず選択し、時期をみて手術する治療方針を決断した。
発症2日目、瞳孔は縮小した=よくなったが、3日目再び散大し、CTで血腫が拡大していた。手術が決行された。

発症7~9日目に二日がかりで体温はゆっくりと戻された。しかし戻した同夜、脳圧が急激に上昇し再び危険な状態となり低体温が再度行われた。三週間後、脳の皺は戻り、奇跡は起きた、と。


RYOUKOの蘇生は
この「低体温療法の奇跡」に
一縷の望みを託すしか、ほかに術はなかった‥‥。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-09

   いはくらの聟なつかしのころ  

  おもふこと布搗哥にわらはれて  野水

布搗哥-ぬのつきうた-

次男曰く、娘聟をなつかしがる其人の付である。たくましい聟を隠居がうらやむと老妻が冷やかす、というだけのことをうまく云回している。

句の手柄はむろん布搗歌などという民俗唱歌に思い及んだところだが、前句は懐かしがる側の人にもあった若き日のことを自ずと回想させ、句を男同士の共感と見れば、次を継ぐのは女であって自然であるから、その女は「年甲斐もない」と男を冷かしながら、同様に回想を誘われる。

「布搗哥」とい素材はそこに発見される。「なつかしのころ」の余情にはちがいないが、ただ漫然と気分で継いでいるわけではない。男の胸の内を見抜いて笑うのは嫁・下女・妾・近所の女たちや遊女などであってもよいだろうが、老妻がいちばん相応しいというところに落ち着く。苦楽を共にした歳月もそこにうかぶだろう。そして娘を嫁がせた親の気持ちもである。

なお、からかうのは女たちではなく、歌の文句に笑われると読むこともできるが、そう読んでも人物の設定にさして変りはあるまい。

岩と布の材質の対比は、とりもなおさず男と女の対比だ、というところに気がつけば岩倉に掛けて布を搗く面白さ現れ、とくに解など須いない句だが、それからそれへと余情が縷のごとく生れるところ、巧みに人情風俗を持たせた佳句である、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 15, 2008

いはくらの聟なつかしのころ

Db070510069

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -4-

脳死とは何-参照:「救急医学から見た脳死」島崎修次

<人工呼吸器と脳死>
脳-中枢神経系-には、大脳、小脳、中脳、橋、延髄、脊髄という部分がある。このうち、中脳、橋、延髄を脳幹という。脳幹は、呼吸、循環などの生命に直結する機能の中枢をなしている。脳幹の機能が失われると、生命維持に欠かせない呼吸が止まって、もはや生きていけないということになる。

ところが、数十年前に人工呼吸器-Respirator-が発明されたことで、脳幹機能が廃絶して呼吸中枢機能停止によって自発呼吸が停止した人に、人工的に呼吸させることができるようになった。心臓はその自動性によって動くので、人工呼吸器で呼吸を維持すれば、脳幹機能が廃絶していても、呼吸と循環は一定期間維持していけるという事態が生まれた。これが脳死である。

<脳死の概念>
脳の死という概念には次のものがある。1.全中枢神経死:大脳、小脳、脳幹、脊髄まで、あらゆる中枢神経系の不可逆的な機能停止、2.全脳死:大脳、小脳、脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能停止、3.脳幹死:脳幹だけの不可逆的な機能を停止、の三つである。現在、日本では、脳死を「脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能消失」とする。つまり全脳死の考えをとっている。イギリスなどヨーロッパの一部の国では、脳幹死の概念を受け入れているが、多くの国では、大脳も含めた全脳死の立場をとっている。

全脳死、脳幹死、いずれの場合も、人工呼吸器がなければ呼吸による血液の酸素化ができないので、心臓は動き続けることはできない。呼吸ができないと心臓は数分で停止する。全脳死、脳幹死とも、人工呼吸器がなければ、心臓を動かして体の循環を維持することはできないのである。

<植物状態との違い>
植物状態とは、大脳が機能廃絶、あるいは機能廃絶に近い状態になっているが、自発呼吸をつかさどる呼吸中枢のある脳幹部は完全に生きている状態である。したがって、植物状態と全脳死、あるいは脳幹死とは完全に一線が画される。

植物状態では、人間が生きるために基本的に必要な呼吸機能、あるいは循環系のコントロールは、正常、あるいは正常に近い状態で働いている。しかし、脳幹死、あるいは全脳死の状態ではこの機能が失われている。

植物状態では、自発呼吸が弱いものから、ほぼ正常な程度の呼吸まで幅があるが、人工呼吸器はほとんど使わずに、栄養さえ与えれば生きていける。意識のレベルは低く昏睡状態であるが、呼吸、循環といった機能は残っている。脳死(脳幹死や全脳死)と、大脳が機能を失った植物状態とは、まったく異なっているわけである。
全脳死に陥った後、心臓が停止するまでの経過時間は、患者の個別ケースによってかなりの振幅を示している。約半数の脳死者は2~3日で心停止に至る。この調査では最も長い人で83日であるが、今までに報告された最も長いものでは約100日である。脳死者の心臓は数日で止まるものもあれば、100日で止まる場合もある。積極的にカテコラミンや抗利尿ホルモンなどを投与すると、心停止に至る期間をながびかせることもできるが、通常は1週間でほぼ70~80%が心停止に至る。

しかし、脳死が死であるという意味は、一定期間後に心臓が止まるからではない。脳幹を含む全脳の血流が不可逆的に途絶し、脳が融解壊死に陥るからである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-08

  賀茂川や胡麿千代祭り徽近ミ  

   いはくらの聟なつかしのころ  重五

次男曰く、岩倉祭というまつりがある。京都の左京岩倉にある山住神社-石座(いわくら)神社-の祭礼で、明治初め頃まで行われていた。

社殿はなく自然の巨石を以て神体とし、言伝えられる京都四石座のうち北にあたる。古代の自然崇拝の面影がまだここには残っている。

祭は陰暦9月15日と伝えられ、其諺の「滑稽雑談」には「北岩倉祭‥俗に岩倉の尻たたき祭と云。神事夜に入て神供を献ずるに、一村の内にして新婚の女を撰びて婚礼の表衣を著して、神供を器に入て頭に載て神前に進む。一村の老若、ちひさき枝木をもて件の嫁どもの尻を打つ也」云々と注している。

句は、前との差障りから名を隠して、趣向のめずらしさは受取ったと付けている。
「胡麿千代祭り」が実の祭と分かれば、京都の秋の奇祭にはこういうのもあると一座に知らせる対付ふうの発想だが、後の月も過ぎた晩秋ともなれば、娘を嫁がせた岩倉の聟どののことが懐かしく思い出される、とずらして仕立てたところが人情句の妙である。連衆が嫁の尻叩きのことを知っていなければ、こういう句は出せまい。

また、「胡麿千代祭り」が架空の謎かけとすれば、貴布彌・鞍馬など古くから伝わる奇祭の形態をあれこれ案じながら岩倉に見究めた付ということになる。そう解釈しても面白いが、前のように読んでおく。

前二句が古縁起を心得て付合としている点を看て取って、相応の行事から、男女の仲のくすぐりを含とした人情を取出したうまい句作りである。当然、次句を挑発する、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

September 13, 2008

賀茂川や胡麿千代祭り徽近ミ

Alti200601014

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -3-

脳浮腫と、二次性脳損傷としての脳ヘルニア

頭部外傷は脳組織や脳内あるいは脳の周囲の血管を傷つけたり引き裂いて、脳内出血、浮腫を引き起こす。最もよく見られる脳損傷は脳細胞のびまん性の広範囲にわたる損傷である。びまん性の損傷が脳細胞を膨張させ、頭蓋内圧を増す。結果として、力や感覚を失い、眠くなったり意識不明になる。これらの症状は、永久的損傷とリハビリテーションの必要性の高い重症の脳損傷を示唆する。浮腫が悪化すると圧が増加し、損傷を受けていない組織まで頭蓋に押しつけられて、永久的損傷や死に至る。危険な結果を伴う浮腫は通常外傷後48~72時間内に生じる。

頭蓋内圧亢進の最終段階である。頭蓋内病変によって、脳組織が圧迫されると圧力が低い方に偏位する。一部の組織はさらに障壁を越えて、他のスペースに嵌入していく。脳幹の圧迫症状が出現し瀕死の状態となる。
頭部外傷によって、頭蓋骨よりも内側-頭蓋内-に血腫や脳のむくみ-脳浮腫-が生じると、脳は硬い頭蓋骨で囲まれて余分なスペースがないため、頭蓋内の圧が高まり-頭蓋内圧亢進-、軟らかい脳はすきまに向かって押し出されていく。この脳内組織が押し出されることを脳ヘルニアという。押し出された脳は深部にある生命維持中枢-脳幹-を圧迫し、呼吸や心臓の機能を損ないうことになる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-07

   荻織るかさを市に振する  

  賀茂川や胡麿千代祭り徽近ミ  荷兮

胡麿-胡麻-、徽-やや-近ミ

次男曰く、初折裏入。「荻織るかさ」を見咎めて「振する」を神輿振に移した付だろう。神事にでも遣うかと思わせる物珍しい笠を、市に売るのは秋祭も近いからだと作っている。

「振」の本義は、揺り動かしてものの命を呼び起すタマフリである。神を社に鎮座させる意味にも遣えば、神輿を担ぐことにも遣う。振売ということばの生れも別ではない。荷兮句の仕立はその「振」の本末に思いをめぐらせているらしく、「賀茂川や」と据えたのもオギと水辺の縁だけではなさそうだ。

上賀茂社の上方には神山があり、貴船社もあるから、前句にふさわしい祭の起源を水神信仰と結びつけて、荻笠売は川上からやって来た、と眺めて納得がゆく。
諸注は、笠の振売を祭の用に見替えた付と読んで済せているが、それだけのことなら初五を「賀茂川や」と据える必要もなし、「胡麿千代祭り」などという耳馴れぬ、曰くありげな祭の名を持出すこともない。

前句が、有りそうでじつは無いもの-荻笠-の趣向を立てれば、応ずるに同じ趣向を以てするよりは、無さそうでじつは有るのだと、虚実向い合せに作るほうが面白い。「胡麿千代祭り」とは、その、無さそうでじつは有る祭のことらしい。
雪中庵二世桜井吏登-嵐雪の後継者-が門人の問に答えたものを、同三世大島蓼太が板行した「芭蕉翁七部捜」に、この付合について次のような記述が見える。

問、胡麿千代祭いづくの事にや。
答、此祭は上加茂の川上に稲荷の祠あり。此神の好せたまふとて、其あたりことごとく胡麻を植るに、一本も枯るる事なし。そこで此祭を胡麻千代祭と云ならはし、又千歳の社とも云也。

川上という地名は、現在でも西賀茂の霊源寺東にのこっている。川を隔てて神山の西南、上賀茂社の西北にあたるところだが、昔から胡麻がよく育つと云伝え、いまでも作っている。

現代の注釈は、吏登の説は根拠が怪しいとして、祭の名は荷兮の作意と解する。胡麻千代祭は実在した祭だと私は思うが、かりに架空のものだとしても、京都の秋には古い起源をもつ奇祭は多い。そのことを諷した一名の工夫と読んでもそれなりの面白さは見える、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 12, 2008

荻織るかさを市に振する

080209015

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days

「急性硬膜下血腫」2-Neuroinfo Japan-脳神経外科症患情報ページ-参照

診断の確定は通常CT で行われる。CT上、急性硬膜下血腫は脳表を被う三日月型の高吸収域として描出される。出血は硬膜下腔に拡がるため短時間で血腫は形成され、通常片側の大脳半球全体を覆うようになる。まれに大脳縦裂-大脳鎌と後頭・頭頂葉内側面との間-や後頭蓋窩に血腫が形成されることがある。

頭部CTなどで急性硬膜下血腫の診断がついた場合、緊急手術に備え準備を行う。CT上に脳の圧排所見があれば緊急手術を意図するのが普通である。意識清明かあるいは、意識障害が軽度でかつCT上の脳圧排所見もないような場合には、その後の状態悪化や手術適応となる可能性を十分認識したうえで、厳重な経過観察と保存的加療を行うこともある。また、稀には手術を意図しての準備中、あるいは待機中に意識障害が改善に向かう症例があり、このような症例では血腫が自然消退していくものもみられるが、例外的な症例と考えられる。多くの症例では意識障害は進行し、かつ急激な悪化をみることが多く、緊急手術によっても救命さえ困難な場合も多くある。

血腫を完全に除去し、出血源を確認して止血するためには、全身麻酔下に開頭して血腫除去を行うのが確実である。しかしそれでは間に合いそうにない場合や、非常に重篤で全身麻酔下の開頭手術に耐えられそうにない場合など、穿頭や小開頭で血腫除去を試みることもある。状況によっては救急処置室などで穿頭や小開頭である程度血腫を除去し、その後状態をみて全身麻酔下の開頭手術に移行することもある。また全身麻酔下の開頭手術に際し、術後の脳圧排を軽減するために、あえて開頭した骨片をもとの部位に戻さずに、皮下組織と皮膚のみで閉頭し-外減圧術-、1~2ヶ月後に状態が落ち着いた時点で、保存しておいた骨片を戻して整復するという方法がとられることもある。

頭部外傷、特に重症脳損傷例では頭蓋内に多発性に損傷を受けていることも多いため、術後に新たな頭蓋内血腫が出現したり、増大したりすることがある。CTなどによる厳重な観察が必要である。また一旦生じた脳損傷は、脳の腫れ-脳浮腫-や出血などさらに次の脳損傷-二次性脳損傷-へととぎれることなく進展していく。この二次性脳損傷を制御できなければ、結局は脳の腫れや圧排を改善させることはできず、最終的には脳死へと至ってしまう。また、たとえ救命できても後遺症としての脳機能障害が残ってしまうのが殆どである。

転帰は極めて不良。JNTDB-日本の重症頭部外傷Data Bank-の結果では、急性硬膜下血腫手術例の死亡率はじつに65%、日常生活や社会生活に復帰できた症例はわずか18%のみである。またたとえ日常生活や社会生活へ復帰した症例でも、ほとんどの症例が高次脳機能障害のために、家族も含め、満足な生活は送れていない。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-06

  かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日  

   荻織るかさを市に振する  羽笠

次男曰く、「瓶に酒なき」に振る動作を看て取って、振売-ふりうり-を思付いたか。

振売とは、身振-振舞-を伴うからか、触れの転訛か、成語の謂れはよくわからないが、物の名を呼びながら行商する風習である。

羽笠は、買うために売り歩くということをはこびの趣向として、野水・芭蕉句の人物を動かしている。売る品物を笠と見定めたのは、振り下げる動作を捉えて上下の釣合とした滑稽だ。俳諧師ならごく自然な思付で、とくに苦心があるわけではない。

後年、「振売の雁あはれ也ゑびす構 –芭蕉-」ではじまる「炭俵」の四吟-元禄6年10月20日興行-にも、

   吹きとられたる笠とりに行  利牛
  川越の帯しの水をあぶながり  野坡

という続きがある。頭部の不安を、たかだか腰辺りまでしか水のない浅川渡りの不安に引移した軽妙な連想付で、後のまつりと取越苦労を対にした作りである。こういう釣合の感覚が一句の仕立のなかで働けば、「かさを振する」という程度の表現は容易に生れる。

工夫はその先だ。前句にわざわざ「かぜ吹ぬ秋の日」とあれば、秋風の吹くさまを改めて思うことになるが、頭の被りものを案じながらおのずと荻の葉風に及んだらしい。

「荻の上風」は、単に「上風」と遣っても荻を連想させるほど、熟した伝統的歌語である。

それならば、「かぜ吹ぬ秋の日」の振売に見合う虚のかぶりものは、笠は笠でも菅笠や花笠-紅葉笠-ではなくて「荻織る笠」だ、というところまでことばを引回している。むろんオギの広葉で笠など編めるものではないが、風狂の振売ならひょっとしてそういう故事などもあるやもしれぬ、ひとつ考えてみてくれと誘っている。
荻の葉は「招-を-ぐ」との通いで古来神事に用いられたから、この謎掛も警策である。己の号-羽笠-の因みも思い合せているのかもしれぬ。

諸注、「荻」を「萩」の誤記とするものが多い、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 11, 2008

かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日

Db070509rehea172

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days

「急性硬膜下血腫」-Neuroinfo Japan-脳神経外科症患情報ページ-参照

硬膜とは頭蓋骨のすぐ内側にあり、頭蓋内で脳を覆っている結合識性の強い膜のこと。この硬膜内部で脳の表面に出血が起こると、出血した血液が硬膜の直下で脳と硬膜の間に溜り、短時間のうちにゼリー状に固まって、脳を圧迫することとなる。これが急性硬膜下血腫。殆どの症例が大脳の表面に発生するが、ごく稀に左右の大脳半球の間や小脳表面-後頭蓋窩-に発生することもある。

急性硬膜下血腫発生の原因の殆どは頭部外傷によるもの。その典型的な発生のしかたは、頭部外傷により脳表が損傷され、その部の血管が破綻して出血し、短時間で硬膜下に溜まるというものである。その他、脳自体の損傷はあまり強くなく、外力により脳表の静脈や動脈が破綻して出血するものもある。

受傷機転は転落、交通外傷、殴打等であり、あらゆる年齢層にみられるが、とくに高齢者に多くみられ、小児では稀だが、虐待による頭部外傷等では比較的多くみられることが知られる。また、若年者ではスポーツ中の頭部外傷の際にみられることもある。我が国の重症頭部外傷Data Bank-JNTDB-の結果-1998年~2001年-では急性硬膜下血腫手術例は重症頭部外傷例中の31%、頭蓋内血腫手術例中の74%でした。重症頭部外傷例とは、呼びかけや痛み刺激などで覚醒反応-目を開けたり、受け答えをしたり、指示に従ったりすること-がみられない症例のこと。

急性硬膜下血腫は強い外傷で起こることが多いために脳の損傷も強く、通常受傷直後から意識障害を呈する。ただ、前述したように、なかにはあまり脳自体の損傷はなく血管の損傷が主体のこともある。そのような場合には、血腫の増大に伴って徐々に脳が圧排され、受傷当初にははっきりしなかった意識障害が徐々に出現してくることもある。高齢者の日常生活内での転倒による受傷や、若年者ではスポーツ外傷などで時にみられる。いずれにしても、意識障害は次第に悪化し多くは昏睡レベルに達する。受傷当初は意識障害がない例でも、一旦意識障害が発現するとその後は急激に悪化することが多く、予後はきわめて不良である。ただ、ごく稀ながら、早期に急性硬膜下血腫が自然消失あるいは縮小することがあり、そのような場合には血腫縮小に伴い意識障害が改善することもある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-05

   鶴見るまどの月かすかなり  

  かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日  芭蕉

瓶-かめ-に

次男曰く、「まど」を円窓と見定めた付だが、月の座を譲って空きとした趣向の釣合は「瓶に酒なき日」だという気転が作りのみそだ。

月見と酒は付物である。さらに、誰の眼にも林和靖らしく映る人物の姿をもいちどなぞっても詩はないから、芭蕉は、透かし見て掌中の珠といつくしむものとは瓶中の酒だろう、想を移している。

この「まど」を透かした寂寥の訴えはうまい。「月かすかなり」を承けて、空になった筈の酒の雫に、まだ未練のあるらしいさまもよく現れている。

句尾と釣合わせて「かぜ吹ぬ」と冠したところも、肌理こまかな工夫である。初五文字は一首の目鼻ゆえ歌は上から詠み下すものとのみ思うな、とは和歌初学のいましめだ。そうした伝統が身についていて、句もこういう句が生まれる。おかげで前句の白々とした気配にもよく適って、白帝の晒された光の状態を捉えきった句になった。

野水の句は杜国の句に合せると霜鶴の寂寥のなかに景を断つが、芭蕉句に奪われると李白のごとき詩仙の一人物を現前させる。さすがにうまい奪い方をする、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 09, 2008

鶴見るまどの月かすかなり

Yami1280_2

Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― 映画「闇の子供たち」

先週の金曜だったか、劇団「犯罪友の会」の武田一度君から久しぶりの電話でずいぶんと話し込んだ際に、彼からお薦めのあった映画「闇の子供たち」を、朝からミナミに出て観てきた。

近頃の映画上映は、よく調べて出かけないと痛い目に遭う。実は上映は12日まで」というのをsiteで確認して、土曜日の午後から「件の映画を観るべく出かけたのだが、着いてみるとどうしたことか上映している風はない。館の人間に問えば、上映は午前の1回のみで、あとは他の映画を順に廻しているとのことだった。

そういえば、siteで上映時間表も見て、曜日によって10:00~とか10:20~とか記されていたが、それ以後の時間帯は-、-と時間の表記はなかった。その意味が、いまどきの映画館はその日その日、猫の目のように時間帯によって変えているなんて思いもしない今浦島状態の私などに分かるはずがない。そんな次第でとんだ無駄足の挙句、あらためて本日の外出となったのである。

「闇の子供たち」は梁石日原作の同名小説を映画化、タイ北部の都市チェンマイを舞台に巣くう子どもの人身売買、幼児売買春の実態を背景に、経糸を貫くプロットが、日本人家族の絡む臓器移植で、生きながらの子どもの命を臓器提供させる闇の実態に迫るという、残酷なまでの裏社会を描く、重く強烈なプロテストとなるものだが、カジュマルの大樹に縋りつく傷ましくも哀れな子どもヤイルーンの映像が残酷だが美しい。

映画館には上映15分前には着いた。シルバー扱いだから金1000円也、右と左に分かれたScreen1とScreen2の1のほうだという言葉に促され席についてしばらく待つ。ところが時間がきても始まらない、と職員が舞台横に現れて、映写機器のトラブルにつき、上映をScreen2に変更するので移ってください、と宣ったのには魂消てしまった。

場所を変えて、仕切り直しの上映が無事始まったのだが、耳障りなほどの音量の激しさにまず辟易させられた。流行りのCGを駆使したアクションものじゃあるまいし、描かれた映像の世界とは無関係に圧倒するほどのヴォリウムで劇場を埋め尽くしてなんとする。映像と音とは不即不離、映像に合った音量というものがあるだろうに、そんな微調整もしてくれないなんて、まともな映写技師は居ないのか知らんと思うばかり。

この重い映画を心おきなく鑑賞するには、視覚と聴覚の否応ない分離は甚だ辛かったが、これは監督以下制作者側の責任ではあるまい、あくまで上映する映画館側のsenseの悪さに帰する問題だ。だが映画のほうにも難点がないではない。ほぼ2時間半の長編、一言でいうならその展開は些か冗漫に過ぎたのではないか。プロットの交錯ぶりに比して、主要な人物像たちの内面描写はやや表層的に流れたようで、子どもたちの悲惨な実態に肉迫する映像世界に拮抗し得ていないのは、ノン・フィクション的でありつつもあくまでフィクションへと架橋しようとした姿勢を考えれば、非常に貴重な問題作ではあるが、完成度の高い作品とはいえまいと思われた。

とはいうものの一見の価値ある映画、一日に一回の上映ではあまりにお寒い、もっとひろく多くの人に観られるべき作品である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-04

  花荊棘馬骨の霜に咲かへり  

   鶴見るまどの月かすかなり  野水

次男曰く、初折の四句目は平句のはじまり。「三冊子」の師説にも第三は「転じて長高く」、四句目は「おもきは四句目の体にあらず、脇にひとし、句中に作をせず」とある。

その四句目-むろん短句である-わざわざ五句目定座の月を引上げることは少ない。芭蕉が譲って持成としたことは瞭かである。これまでの三巻興行に、野水のつとめた月の座が皆無、と看て取ったうえでの心配りだろう。

野水は、承けて「霜」から「鶴」を起して季移りの月、と工夫している。月は四季に執り成せる。前句と結べば冬の月、この句だけでは秋の季起しになるが、「霜の鶴」「霜夜の月」は和歌の伝統的詠醍で、月も鶴も霜の寄合の詞である。霜鶴-白鶴-月の取合せはわるくない。「咲かへり」の気配に「かすかなり」と打添うた留めも、さらにうつりを増幅する。付き過ぎの感がなくもないが、「窓-円窓-」の取出しは何と云ってもこの句の点睛だ。

句の人の姿は容易に宋代の隠士林和靖を連想させる。俤としているわけでもないが、次句にそれらしき隠士の工夫を求めている、とは読ませる句作りだ、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 07, 2008

花荊棘馬骨の霜に咲かへり

Alti200641

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― ねんきん特別便届く

つい二、三日前だが、とうとうというか、やっと、この私にも「ねんきん特別便」なるものが届いた。送り主はもちろん畏れおおくも社会保険庁殿。

恥ずかしながら以前から自身の年金手帳をどこへやったものか見あたらず、出先の社会保険事務所へ出向いて再交付申請をせねばなるまいと思っていたのだが、とそんなところへ一日千秋(?)の特別便。

もう十年以上前か、なにせ異動の多かった半生ゆえ手帳片手に保険所窓口で一度詳細を調べたこともあるが、受給資格にはなお5年近くの期間不足があったかと、そんな記憶もあるのだけれど、この便によれば32の月数不足となっているのが判明。

ならばと、社会保険庁の年金siteを尋ね歩けば、昭和40年4月1日以前に生れた者は70歳になるまで、受給資格を満たすまで特例的に任意加入できるとあり、その窓口はと云えば当該市町村の年金係である、と。

なんのことはない、区役所へ出向いて任意加入の手続きを済ませればよいわけだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-03

   ひとの粧ひを鏡磨寒  

  花荊棘馬骨の霜に咲かへり  杜国

荊棘-うばら-、馬骨-ばこつ-

次男曰く、鏡は研ぎ直せばふたたび映る、そこを見咎めて「咲かへり」と作っている句だが、見合う花に刺あり芳香ありかつ白色の野花を以てはたところが案外苦心のあるところで、前句に「粧ひ」だの「鏡」だのとあったからだろうが、それでも「花荊棘」とは咄嗟には閃かない。まず感心する。そしておもむろに「寒」の韻字止を案じて、「馬骨の霜」と作っている。発句・脇と二句でよいところを、敢えて三句まで冬の季続を伸ばした興のゆえんだろう。

そう読んでくれば、この「馬骨の霜」が一句の警策であって、霜柱の枯痩の状態を晒されて山野に散らばる骨にでも見立てたか、ということは容易にわかる。

当時もてはやされた作詩指南書に宋代の「詩人玉屑」があるが、これに「片言を立ちて以て要にするは、乃ち一篇の警策なり」と説かれる。このあたりに会得した用辞の工夫であったと思う。杜国のこの句に限って云うのではない。「虚栗」「冬の日」時代の語法のすべてにわたって、云えることだ、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

September 05, 2008

ひとの粧ひを鏡磨寒

080209006

Information<四方館 Dance Cafe>

―四方のたより― 東京での一日、遅まきながら‥

トンボ返りだった東京の一日、時間潰しには美術館があつまる上野公園界隈がおのぼりさんには最適とみえる。私もまた午前中をかけてゆっくりと、六波羅蜜寺の仏像展をしていた国立博物館と、東京芸大美術館の狩野芳崖展を観て過ごした。折しも東京都美術館で開催中の、日本初公開5点を含む過去最多の7点を集めたというフェルメール展はつねに時間待ちの表示が出る人気ぶりだったが、こちらは雑踏を避けて願い下げにした。

午後には下北沢へ移動、スズナリをはじめ本多劇場系の小劇場をいくつか見分してみたかったのだが、生憎といずれもレハや仕込の最中とて、これは叶わず徒労に終わった。

高層マンションの1.2階部分をあてた両国のシアターΧは、劇場としては天井高さも充分で舞台も広くとって申し分ない空間。客席は300と、もはや小劇場の範疇ではない。

劇団らせん館の「出島」は、以前にビジネスパークのMIDシアターで観た「サンチョ・パンサ」に比して、ずいぶんと判りやすい世界になっていた。今にして思えば、MID上演の時は、近畿大学の碓井節子が率いる舞踊研究室の学生たちによるDance SceneとCollaborationの試みをしていたからだろう、場面の展開に緊張感を欠き、嶋田演出の狙いが散漫になっていたものとみえる。

ただ、彼らの言葉への手触り-Imageを大胆に突出させようとする発語としての手法-のあり方は、ドイツ語や英語の場合のほうが、きっとずんと面白いのではないか。強弱accentでもなく、母音も子音も同じ長さの等時拍たる日本語ではいささか疑問がのこる。どうしても私にはいま少し異和がつきまとうのだ。このあたり、まだまだ工夫をして貰いたいという思いがする。

たしかに「出島」にせよ「サンチョ・パンサ」にせよ、脚本の多和田葉子と嶋田三朗君たち「らせん館」がMotifとする異文化との出会い、衝突のなかに描き込んでいこうとする人と人との齟齬や捻れや、はたまたSympathyといった諸々の出来事は、まさに現代的な劇宇宙でありうるだろう。その意味で彼らの実験的作業と手法は存在価値があると云える。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-02

  炭売のをのがつまこそ黒からめ  

   ひとの粧ひを鏡磨寒  荷兮

次男曰く、「粧ひ」はケワイかヨソイか、ヨソイと読んでおく。「磨寒」は、板本に「トキサム-トギサム-」と振仮名が施してある。

「つり合専-もっぱら-にうち添て付るよし」とは「三冊子」が伝える芭蕉の言葉で、脇句つまり亭主たる心得の基本であるが、ほかに対付、違付、比留-ころどまり、頃字を以てする時節の付-をも「むかしよりいゝ置所」として挙げている。

この脇は、その対付の一体だろう。但し工夫は惟並べただけでなく、発句に問答を誘う態があると見て応じた滑稽で、発句を鏡磨-とぎ-の、そして脇句を炭売のことばに当てて読めばよくわかる。

重五の句作りについて云えば、「おのが」は「炭売」に切字のはたらきを利かせ、併せて十七音を整えるための挿入の云回しに過ぎないが、荷兮は目ざとくその三文字を見咎めて問答体に奪っている。掛合によって滑稽の骨を研ぎ出す式の作りになっている。転合といえば転合だが、打添うことを知らぬわけではない。わざと外している。談林調の名残といえばそこが名残だろうが、このブラック・ユーモアは現代人の眼には反って新鮮に映る。

磨鏡は古くはカタバミやザクロを用いた。元禄頃から水銀に砥粉を混ぜ、梅酢をこれに加えて研いだらしく、とくに寒磨がよいとされた。片や他人の暖のために、片や他人の粧のために、そのどちらもが玄冬の稼ぎであるというところが味噌だが、憎まれ口をたたき合う下からは寄合心理も覗いているから、見て見ぬふりをした妻恋の情がいつのまにか立ち戻ってきて、活かされている。しかも、句姿はあくまでも寒酸、芸のある相対付だろう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 03, 2008

炭売のをのがつまこそ黒からめ

Db070510059

Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― 月の句と花の句

月の句は、名残の裏を除く各折の表・裏に一つずつ-歌仙では計三つ-とされる。初表五句目、初裏八句目、二の折表十一句目を定座とするが、うごかしても差し支えはない。月の季は秋に扱うが、一歌仙一度にかぎり他季に取合せたり、心の月-雑-としてもよいとされる。

花の句は、各折の裏に一つずつ-歌仙では計二つ-とされる。初裏十一句目、二の折裏五句目を定座とし、これもうごかしても差し支えないが、後者は挙句前に当り祝言の花の座であるから、定座を守ることが多い。花の季は春に扱うが、他季や雑にも、帰り花-冬-や花嫁-雑-など、正花-賞美の花-と見做される詞はある。但しこれは一度にかぎる。

「炭売りの巻」と連衆

「炭売り」は「冬の日-尾張五哥仙」の第四の巻にあたる。連衆は野水・杜国・重五・荷兮の尾張連衆と芭蕉、この五人に羽立-うりゅう-が新たに加わっている。連衆解説は芭蕉以下五人はすでに紹介済なので略す。

羽立-尾張熱田の人、荷兮系の俳人とみられ、五歌仙のうちこの第四と第五の巻に来たり一座した。当時は30代半ばか。「猿蓑」入集は1句のみ。享保11-1726-年歿。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-01

  炭売のをのがつまこそ黒からめ  重五

前書に「なに波津にあし火焼家はすゝけたれど」とあり。

次男曰く、「万葉集」巻十一に「寄物陳思」として収める歌群に
「難波びと葦火たく屋のすすたれど己が妻こそとこめづらしき」
という歌があり、第二句までは「すす-煤-たれど」を導く序詞である。

重五の句は、古女房も難波津の葦火たく屋の煤けだと云えば和歌になるが、炭売稼業の煤けと云えば俳諧になる、と作っている。「こそ黒からめ」と誇張した滑稽で以て妻に対するいとしさを深める、というのが仕立の狙いだろう。

一工夫ある詞書の遣い方だが、そこに気付かぬと「黒からめ」が駄目押のように読めるから、一種の反語-「やは」の省略、黒いだろうかいや黒くはあるまい-などと、理を排した読み方をもちいることになる。「秘注」や升六の「冬の日注解」、近くは樋口功や天野雨山などそう説いている。そうでなければ、さぞ黒かろうが己が妻と思えばやはりいとしいという解釈が多い。いずれも煤けた妻を見るのは不本意だという点に捉われているらしく、感覚なり表現なりの誇張のなかに見えてくる滑稽のあたらしさ、そこに湧いてくる思いがけぬ情のたのしみは気付いてはいない。

重五の句は、黒いけれどではなく、黒さもここまで黒ければ、かえっていとしさが増すと云っているのだ。理外の理に興じた「冬の日」興行なら猶のことそう読めるが、その辺を見外すと、既にこの巻の面白さは見えなくなる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 01, 2008

けふも托鉢ここもかしこも花ざかり

Alti200630

―山頭火の一句―

句は大正14年の春。

サキノは、すでに戸籍のうえでは他人となった山頭火を、一度は邪険に追い返したものの、以後行方知れずとなった彼が心配であった。大正13年ももう秋なかばであったろうか、雅楽多の店先に魂の抜けたように立つ彼の姿を見たときは、咎める気持はすっかり失せていたか、一人息子の健との二人きりの暮しに、このたびは彼をも受け容れたのだった。

大正8年秋の東京出奔以来、まる6年ぶりの家庭の味、ぬくもりであった。しばらくは山頭火もただ休息の日々であったか、他人の口の端にのぼるような愚行はなかったとみえる。

だが、その平穏もほんのふた月か三月、束の間だった。大正13年の師走も押し迫ったある夜、山頭火は、禍転じて幸、結果的には出家へと道をひらいてくれた、生涯の転機となる事件を起こしたのだった。

どのような経緯であったか、この夜、山頭火は泥酔するほどに酒を飲み、正体を失ってしまったのだ。挙句の果てに彼は、熊本市内を走る路面電車の前に立ちはだかり、急停車させてしまったのだった。

以下、山頭火語りの私の台本から引けば、こんな調子である。

「酒に酔っぱらったわしは、熊本の公会堂の前を走る電車に仁王立ちとなって遮ってしまった。急ブレーキで危うく大事に至らなかったが、車内の乗客はみなひっくり返ったらしい‥。
近くの交番から巡査が飛び出してくる、押しかけた人だかりに囲まれる。大騒ぎになるところを熊本日々新聞の木庭という顔見知りの記者が、わしを無理矢理引っ張って、報恩寺という寺へ連れて行ってくれた。俗に千体仏と呼ばれる曹洞宗の禅寺だった。
住職の義庵和尚はなにも云わず、この業深き酒乱の徒を受け入れてくれた。過去はいっさい問わず、ただ黙って「無門関」一冊をわしの前に差しだしてくれた‥。 
長い間無明の闇にさすらいつづけていたわしは一条の光を求め、座禅を組み修行に打ち込むようになった。」

山頭火とこの木庭なる記者がどんな顔見知りであったかわかる由もないが、ただの行状不良、酔っぱらいではない、文芸の人でもあり、悩める人でもあろうかといった寛容な受けとめがあったのだろう、そんな思いが咄嗟の機転をはたらかせ、緊急避難とばかり報恩寺へと引っ張り、義庵和尚との出会いを演出してくれたか。でなければ留置場送りは必定の事件、結果は雲泥の差である。この電車事件、山頭火にとってはまこと瓢箪から駒、天恵ともなった事件であった。

いよいよ出家するにあたってさすがの山頭火も、サキノら妻子の行く末を案じ、また幾許かの心残りもあったようで、彼女に形見として一冊の聖書を託している。彼の真意がいずれにあったか、サキノはこの聖書を機縁に、市内のメソジスト教会に通うようになり、後に洗礼を受けた、という。

掲げた句は、出家の後、味取観音堂に安住し托鉢に精出す日々であったことを髣髴させる。文芸の志を抱いて防府から上京、早稲田に入学してよりすでに25年、有為転変の彷徨い歩いた長い長い回り道。山頭火こと種田正一たる俗を離れ、法名耕畝を得て、いまはただ心やすらかに、再生の日々を送っているかのようである。

Information<四方館 Dance Cafe>

―四方のたより― ちょいと東京へ

今夜からちょいと東京へ行ってくる。

劇団らせん館の、例によってドイツと日本を往還する多和田葉子もの「出島」が、東京公演で両国のシアターΧ-カイ-にかかるという。この舞台、大阪や京都でも8月にあったのだが、けっして見逃したわけじゃなく、どうせならシアターΧなる劇場もことのついでに見ておきたいと思ったのである。

そんな次第で、往きも復りも近年ずいぶんお安くなったという夜行バスのお世話に相成り、今夜発って明後日の朝には戻ってくるというトンボ返りだ。

はて、東京行など何年ぶりか、「走れメロス」に取り組んでいた頃、脚色の広渡常敏さんにご挨拶するべくご自宅を訪ねたり、東京演劇アンサンブルのブレヒト劇を観たりしたことがあるが、それなら78年か、なんと30年ぶりではないか。その広渡常敏さんも2年前の9月24日、すでに鬼籍の人となってしまっている。享年79歳だったとか。

往復夜行という強行軍が、この年になってどれほど身体に堪えるかわからぬが、早朝に着いて夜の公演まで日なが一日を、さてどこをほっつき歩いてみるかとあれこれ思案してみるのも、まったく他愛もないけれどちょっぴり愉しいものだ。

それにしても、このところ記してきた山頭火の、止むに止まれぬ東京出奔とは天地の隔たり、こんな自分につい苦笑い、といったところである。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« August 2008 | Main | October 2008 »