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August 31, 2008

鶯よう啼いてくれるひとり

Shisyanosyo

Information<四方館 Dance Cafe>

―山頭火の一句―

ほぼ1ヶ月ぶりの山頭火の一句。句は大正15年の春と目されるが、この4月山頭火は「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と句集「鉢の子」に書き添えているから、その途上の一句であろうか。

その前年-大正14年-の2月、熊本市内にある報恩寺の住職望月義庵の許で得度出家した。法名は耕畝-こうほ-である。時に山頭火44歳。

さらに義庵和尚は、もはや高年の寄る辺なき新発意者に、当時報恩寺の管理下にあった熊本の郊外、現在の鹿本郡植木町にある味取観音堂の堂守へと計らってくれた。
山林独住、自家撞着の矛盾のうちに我執と迷妄の淵を彷徨いつづけた果てにやっとたどりえた安寧の日々であった。

山頭火は若い頃から「わしゃ禅坊主になるのじゃから、嫁は貰わん」などと口癖のようにしていたから、その伝でいけば、このたびは晴れて念願の出家を果したということになるが、はたしてそうか。近代精神に目覚め、文学に立身を求めようとした富裕育ちの少年にありがちな、ある種ポースといった一面もあったろう。44歳になるこれまで心の底から出家の道を探ったというような形跡はどこにもない。その彼が突然のように出家をした、その一大転機はどのようにして訪れたか。

さかのぼれば、山頭火が関東大震災の受難に遭い、這々の体で東京から熊本へと逃げ帰ってきたのは大正12年の9月も末であった。一文無しの身は足取りも重く、すでに離婚し合わせる顔もないはずのサキノが居る「雅楽多」の店先に立っていた。
この時、妻子を打ち棄て4年のあいだ音沙汰もないまま、尾羽うち枯らした姿で立ちつくす山頭火に、さすがにサキノはその身勝手を許さなかった。

その夜、山頭火は泊まるところとてなく、熊本の街をとぼとぼとただ歩くしかなかった。翌朝、結婚のため帰省していた茂森を頼って彼の家を訪ねた。ひとまず茂森の世話で川の畔にある海産物問屋の藏の二階に間借りがかない、ひとまず小康を得た。

だが、妻を迎えた茂森は月も変わった10月半ばには再び東京へと帰っていったのである。この熊本に惟一人頼れる友が去って、山頭火はただ淋しかった、しばらくは額縁の行商をしていたようだが託すべき希望の灯など見出せる筈もなかった。その後、彼は告げる者もなくひっそりともう一度上京している。瓦礫の東京になにがしかの託せるものがあったとも思えぬが、さりとて都会に流離うほかに何処にも行き場がなかったのだろう。

荒廃した東京は、やはりこの流浪者を受けつけてはくれなかったようである。それから後の一年のあいだ、再び熊本に舞い戻って、ふらりと「雅楽多」の店先に現れるまで、山頭火の消息はまったく不明のままである。

―今月の購入本―
いつもなら月の20日頃までには書きとめてきた購入本と借本、ちょうど月半ば過ぎに小旅行に出向いたことも響いてか、とうとう晦日にまでなってしまった。

・折口信夫「死者の書・身毒丸」中公文庫
昔、大津皇子を題材に舞台を作るとき、すばりお世話になった「死者の書」、久方ぶりに接して見ねばなるまいと思ったが、手許にはない。標題のとおり「身毒丸」、加えて「山越の阿弥陀像の画因」を併収

・寺山修司「寺山修司幻想劇集」平凡社ライブラリー
嘗て寺山自身、「演劇が文学から独立した時点、から活動を開始した」と謳った天井桟敷における代表的戯曲のアンソロジー。レミング/身毒丸/地球空洞説/盲人書簡/疫病流行記/阿保船/奴婢訓を所収

・H.カルディコット「狂気の核武装大国アメリカ」集英社新書
田中優子に「本書の特徴は、ぞっとするような具体性」と言わしめた、ブッシュ政権下の軍産複合体の現況を厖大なデータ収集に基づきものした書。著者は小児科医であったが、スリーマイル島原発事故を契機に医師を辞め、核兵器開発を停止させる運動の先頭を切るようになったという。

・広河隆一編「DAYS JAPAN -アイヌ-2008/08」ディズジャパン
・ 〃 「DAYS JAPAN -結婚させられる少女たち-2008/09」〃

・江守賢治・編「筆順・字体字典」三省堂 中古書
・高塚竹堂・書「書道三体字典」野ばら社 中古書
小一の娘が書の教室に通うようになって、時には遊び気分で筆を運んだりするのも一興、上記のような二書もあるにこしたことはないと。

―図書館からの借本―
・矢内原伊作「ジャコメッティ」みすず書房
ジャコメッティのモデルをつとめるため5度の夏をパリで過ごしたという著者自身が、制作過程でJと交わした対話の記録あるいは書簡など。

・P.ナヴィル/家根谷泰史訳「超現実の時代」みすず書房
シュールレアリスムの草創期からその運動に同衾してきた著者自身の壮大な回想録。

・丸山健二「日と月と刀」上・下巻/文芸春秋
「元来、小説は読まぬ」という畏友谷田君の薦める小説。独特な言葉の喚起力をもった丸山健二世界は「千日の瑠璃」と「争いの樹の下で」を読んだことがある。

・丸山健二「荒野の庭」求龍堂
その異端作家が長年丹精込めた庭づくりと花そだてのはてに生みだした写真集、添えられた言葉が激烈。

・三交社刊「吉本隆明が語る戦後55年」シリーズの
「5-開戦・戦中・敗戦直後」「6-政治と文学/心的現象・歴史・民族」「7-初期歌謡から源氏物語/親鸞」「12-批評とは何か/丸山真男」

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屏風の陰にみゆるくわし盆

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Information<四方館 Dance Cafe>

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-36

  隣へも知らせず嫁をつれて来て 

   屏風の陰にみゆるくわし盆  芭蕉

次男曰く、「陰にみゆる」と作ったところ、内祝言にふさわしい小道具のあしらい様で、婚礼屏風の端から臨くこの菓子盆はいずれ輪花に象った塗盆であろう、と想像を誘う作りである。

本祝言-撰集の成就-が待遠しい、と芭蕉は云っている。そこに一巻三つ目の花が匂うが、歌仙は二花三月の遊だと承知していてこういう期待の情をあからさまに示されると、読者は、「炭俵」も亦三度目の新風だったとおのずから思出す。この透し花の暗示的効果は、芭蕉の計算にあったに違ない。他に例を見ない工夫だ。まったく、味なことをやる俳諧師である、と。

「梅が香の巻」全句-芭蕉七部集「炭俵」所収

むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉 -春  初折-一ノ折-表
 処々に雉子の啼きたつ       野坡 -春
家普請を春のてすきにとり付て    野坡 -春
 上のたよりにあがる米の直     芭蕉 -雑
宵の内はらはらとせし月の雲     芭蕉 -月・秋
 藪越はなすあきのさびしき     野坡 -秋
御頭へ菊もらはるゝめいわくさ    野坡 -秋  初折-一ノ折-裏
 娘を堅う人にあはせぬ       芭蕉 -雑
奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡 -雑
 ことしは雨のふらぬ六月      芭蕉 -夏
預けたるみそとりにやる向河岸    野坡 -雑
 ひたといひ出すお袋の事      芭蕉 -雑
終宵尼の持病を押へける       野坡 -雑
 こんにやくばかりのこる名月    芭蕉 -月・秋
はつ雁に乗懸下地敷てみる      野坡 -秋
 露を相手に居合ひとぬき      芭蕉 -秋
町衆のつらりと酔て花の陰      野坡 -花・春
 門で押さるる壬生の念仏      芭蕉 -春
東風かぜに糞のいきれを吹まはし   芭蕉 -春  名残折-二ノ折-表
 たゞ居るまゝに肱わづらふ     野坡 -雑
江戸の左右むかひの亭主登られて   芭蕉 -雑
 こちにもいれどから臼をかす    野坡 -雑
方々に十夜の内のかねの音      芭蕉 -冬
 桐の木高く月さゆる也       野坡 -月・冬
門しめてだまつてねたる面白さ    芭蕉 -雑
 ひらふた金で表がへする      野坡 -雑
はつ午に女房のおやこ振舞て     芭蕉 -春
 又このはるも済ぬ牢人       野坡 -春
法印の湯治を送る花ざかり      芭蕉 -花・春
 なは手を下りて青麦の出来     野坡 -夏
どの家も東の方に窓をあけ      野坡 -雑  名残折-二ノ折-裏
 魚を喰あくはまの雑水       芭蕉 -雑
千どり啼一夜々々に寒うなり     野坡 -冬
 未進の高のはてぬ算用       芭蕉 -雑
隣へも知らせず嫁をつれて来て    野坡 -雑
 屏風の陰にみゆるくわし盆     芭蕉 -雑

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August 29, 2008

隣へも知らせず嫁をつれて来て

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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― ベン・ジョンソンからウサイン・ボルトへ

いまや旧聞に属する北京五輪の話題。
ウサイン・ボルトを筆頭に、強烈な印象を残したジャマイカ選手らの疾走ぶり。
陸上の短距離といえばこれまではアメリカの独壇場だった筈だが、これで完全に様変わりしたようである。

ジャマイカと云えばレゲェくらいしか念頭に及ばなかった私だが、彼らの圧倒的な五輪の活躍で、カリブ海に浮かぶこの島国に新たに強烈な印象が加えられた。
面積はほぼ11,000㎢、日本の秋田県ひとつにも及ばぬ広さだというその島に270万人が住むというこの国の人々が、どうしてこれほど図抜けた身体能力を発揮しうるのか。

国民の90%はアフリカ系黒人というジャマイカは、コロンブスの新大陸発見以来、スペイン支配となり、その後1670年のマドリード条約でイギリス領となって、1962年の連邦内独立を果たすまでその支配下にあった。

連邦内独立とは、名目上の国家元首はいまなおイギリス国王であり、実権とその職務は総督が代行するもので、この総督職は、行政府の長たる首相の推薦に基づきイギリス国王が任命する、ということらしい。

スペイン支配時代から、プランテーションの労働力としてもっぱら西アフリカから黒人奴隷として大挙渡ってきたその子孫たちが彼ら国民の大半であってみれば、今回の五輪で発揮された身体能力の高さも肯けるものがあるが‥。

現代のディアスポラともいえるジャマイカ離散という話題もまだ耳新しい。過去数十年に100万人近い人々が、イギリスやアメリカ、カナダに移住してきた。ソウル五輪だったか、ドーピング事件で金メダルを剥奪されたあのベン・ジョンソンもジャマイカ生れだし、陸上で世界的に活躍した短距離ランナーにジャマイカからの移住組は多かったらしい。

ところが、近年は観光以外の産業も発展しGNIも伸びてきて比較的国力は安定、人材の海外流出はずいぶんと抑制されてきている。
スポーツではサッカーも盛んだが、とりわけ「スプリント工場」といわれるように、義務教育からの徹底した訓練でボルトのようなスプリンターを輩出、短距離界では無類の強さを誇るようになっていたのが、こんどの北京五輪で劇的なまでに世界中に知れわたったというわけだ。

嘗ての貧困は、ベン・ジョンソンに象徴されるように特異な才能も海外流出してしまい他国のヒーローとなって成功譚を紡いだものだが、相対的な貧困からの脱出は、国内にあって才能の開花を促し育み、世界に冠たる自国のヒーローたちを誕生せしめ、すべての国民に活力を与え夢を紡がせる。

北京五輪は、中国の金メダル獲得が世界を圧倒したが、これはあまりにもカネにあかした大国主義、覇権への意志が見え透いてシラケきってしまうけれど、小さな島の人口わずか270万の小国のスプリンターたちが、大国アメリカの強者を尻目に颯爽と駆け抜ける姿には、こちらもついつい誘われて快哉の声をあげたくなったものだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-35

   未進の高のはてぬ算用  

  隣へも知らせず嫁をつれて来て  野坡

次男曰く、挙句前、名残の花の定座である。

一巻月花の座のうちとりわけ安定した所と目され、うごかすことはあまりない。ましてや、裏から表に移し替えた例など希にしか見かけぬが、この巻の趣向については名残ノ表十一句目でも既に説いた。亭主-野坡-の映の座を敢えてとりあげた客-芭蕉-の狙いは、この両吟興行の性格にふさわしい真-まこと-の花、亭主自らの跡目の工夫を見たい、聞きたいということに違いない。

「花嫁」は雑の正花に執成せるが、「嫁」とだけでは花にならぬ。だが花の定座に扱えば嫁は花嫁を匂わせる含になる。つまり仮祝言だというのが思付のうまさである。

「未進」に「知らせず」と詞の釣合を取り、人みな忙しい歳末の最中に婚礼沙汰でもないから披露は年も改ってから行う、と読取せるように作っている。尤も、「隣へも知らせず」とあれば、春隣の含はそれとして利かせながら、花嫁姿-「炭俵」の出来-を見てもらう時期についてはまだ確言はしかねる、と慎重に構えた物腰である、と。

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August 28, 2008

未進の高のはてぬ算用

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Information<四方館 Dance Cafe>

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-34

  千どり啼一夜々々に寒うなり  

   未進の高のはてぬ算用   芭蕉

未進-みしん-の高-たか-

次男曰く、「一夜々々に寒うなり」とは、寒さはこれから本番になるということだ。移して、年の暮の繁忙も同じと付けている。

旅帰りと補って読めば滞りものの情はいっそうよく現れるが、必ずしも前の話の続と考える必要もない。掛合の相手が両替商越後屋の手代だという当座に即せば、暮の忙しさは格別であるから、算盤片手の俳諧三昧はさぞ朋輩にも気兼ねだろう-埋合せに残業するか-、という同情の滑稽がむしろ作意の本筋だ。

句は一応、未済上納金の計算に野坡らしき人物が頭を抱えている図と眺めてよいが、「未進の高」はそれだけではない。この両吟興行の性格にも、芭蕉個人の情にもある。

元禄7年4月、孤屋・芭蕉・岱水・利牛の四吟「空豆の巻」は、名残七・八句目を「今のまに雪の厚さを指-さし-てみる-孤屋」「年貢すんだとほめられにけり-芭蕉」とはこんでいる。「千どり啼一夜々々に寒うなり」「未進の高のはてぬ算用」の付合は、後の方を「年貢すんだとほめられにけり」と差替えてもそれなりの面白さになる。なるが、「梅が香の巻」はそれより3ヶ月前、主撰者を相手取った差-さし-の興行である。まかり間違っても俳諧師は、「年貢済んだ」などと世辞を言わなかった。「未進」と遣ったいましめの意味がよくわかるだろう。「空豆の巻」は、芭蕉が指導した三歌仙のうち、孤屋を正客-発句-とした終興行の趣向で、芭蕉の出立は5月11日である。

一方、4年冬、2年と7ヶ月ぶりに江戸に戻った俳諧師は、さっそく「栖去の弁」を書いている。

「ここかしこうかれありきて、橘町といふところに冬ごもりして睦月・きさらぎになりぬ。風雅もよしや是までにして、口をとぢむとすれば風情胸中をさそひて、物のちらめくや風雅の魔心なるべし。なほ放下して栖を去、腰にただ百銭をたくはへてしゅ杖一鉢に命を結ぶ。なし得たり、風情終-つひ-に菰をかぶらんとは」-元禄5年2月-。

そういう男が越後屋手代の算盤を借りて、胸中はてしない己の表白の思を指頭にはじけば、そこにも亦「未進」の持つもう一つの貌が現れてくる。蓋し、一巻中白眉の付である、と。

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August 27, 2008

千どり啼一夜々々に寒うなり

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-四方のたより- 装いも新たに、Dance Cafe

ひさしぶりにDance Caféをしよう。

丸2年のあいだ拠点としてきたFestival GateのCOCOROOMが強制的移転の憂き目に遭って、そのまま休眠してきたDance Caféを新しい場所でようやく再開することになった。

地の利はとても良いとはいえなのだけれど、嘗て鉄工所の街として活況を呈していた九条界隈、私自身幼い頃からずっと育ってきた街でもあるが、この九条のとある一軒の鉄工所、外装は町工場の姿そのままに、内に入れば白木造りの社殿かと見紛うばかりの異空間がある。

その名は、Free Space MULASIA –自由空間ミューラシア-、
中心となるHallは真中四方に4本の太い丸木柱が立つ5間四方の広い室内、木の香匂う静かな佇まいは心落ち着く和の空間。

ひとまずはこの空間にて、再び立ち上げてみようと思い立った次第にて、
以下、Renai Produce としての、<四方館 Dance Café>のお知らせ。

このたびは、デカルコ・マリィ君にご足労を願い、Soundも従来からの杉谷昌彦君に加え、violaの大竹徹氏、民族楽器の田中康之氏、さらにvoiceの松波敦子さんも参加し、顔ぶれはにぎやかに、されど中身のほどは津々として蕩々と‥。

-Information-

四方館 Dance Café in Free Space MULASIA, Kujyo

「KASANE 2008 –襲 Vol.Ⅲ-」

   9/28. SUN start:PM5:00
     \1,000.- ONE Drink

匂ふより春は暮れゆく山吹の
   花こそ花のなかにつらけれ  定家

 春ならば、桜萌黄や山吹
 秋ならば、桔梗や女郎花
  襲-かさね-の色は森羅万象
   四季とりどりに匂い立つ

Dance:小嶺由貴/末永純子/岡林綾/ありさ
  に加えてGuest:デカルコ・マリィ

Sound:大竹徹-viola/杉谷昌彦-Sax/田中康之-percussion/松波敦子-voice

企画の詳細、会場map等については此方<Dance Café-Information>を参照されたし。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-33

   魚を喰あくはまの雑水  

  千どり啼一夜々々に寒うなり  野坡

次男曰く、雑炊は、ふさわしい食べものとして今では冬の季語だが、江戸時代にはまだ有季に扱われていない。

野坡の付は時節を見込んで二句冬らしく人情を深めた作りで、遣句だが、友千鳥が鳴くのは近江だけではない、隅田川にも鳴くと思い出させて、帰心を誘うように打添うている。いうなれば、仕掛けた「東」の中身を覚らせる作りだ。

飽きが兆せば腰を上げたくなる。そこにつけいって、人恋しさを煽るさまに興じた句で、何ということのない「一夜々々に」重ねがうまく利く、と。

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August 26, 2008

魚を喰あくはまの雑水

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―四方のたより― WFの灯

9年前に鬼籍の人となった中島陸郎氏が専属プロデューサーとして‘93年3月の柿落し以来15年余、関西の小劇場演劇を支えつづけてきたWF-ウィングフィールド-、その小屋を閉館という港に向けます、と公言し、「ウィングフィールドをやめる訳」と題して経営者の福本年雄氏自身が直々に話をする、という呼びかけで開かれた昨夜-8/25-の異・同分野交流サロン「月曜倶楽部」、馴染みの4間×7間ほどの黒壁の空間は、駆けつけた演劇関係者や小劇場ファンら150~60人で超満員を呈した。

桟敷席に身体を寄せ合うように詰め合った聴衆を前に、福本氏の語ったところは、「やめる訳」から一転して「120%やめたくない、やめないためにどうあらねばならないか」へと変じていた。

閉館の公言以来この日まで、意想外に多くの激励と支援の声が届けられていたのだろう。それらの強い声に背中を押されるように、重い現実の前に一旦は挫けそうになった心をもう一度奮い立たせ、彼は閉館の意志を翻したにちがいない。

席上、支援の声を挙げる熱い思いは大きな束となって、福本氏が列挙したギリギリの採算分岐点となる条件は、その期限において未知数だとしても、当分の間クリアしうるものとなるのではないかと覗えた。

だが、陥穽は他にもありうる。危機は別なところからも突然起こり得るということが、この日の福本氏が語った、あまりにも正直な、あまりにも私的なカネの話-財政事情-から否応もなく浮かびあがってくるのだ。

WFはその名も「周防町ウィングス」というテナントビルの6階にある。WFの運営は有限会社として法人格、代表権は福本氏にある。WFの大家にあたるビルもまた福本氏の個人所有である。要するに、大家のビル経営は個人事業、店子のWFは法人と一応別の事業だが、ともに代表権は福本氏にあることから<親>と<子>に等しく、一蓮托生の構図から免れないわけだ。

この日集まった諸氏を軸に運動的な展開で支援の輪をひろげつつWF-<子>-の財政的な再生を実現させたとしても、ビル経営-<親>-の財政規模からすれば一部の健全化にすぎないということであり、<親>サイドから危機的状況は生まれえないのかどうかが問題なのだが、彼のあまりに正直な、あまりに私的なカネの話は、肝心の<親>の財政事情もまた自転車操業同然であることを表白してしまっていた。

福本氏の語ること、彼のスタンスというものに、あまり脱中心化されていない人なのだな、といったことを私は先ず感じていた。自分自身を省みずにいうなら、あまり素直で正直なというのは自己中心に傾いており、50歳を過ぎて世間をわたる事業家としては危ういにすぎよう。

おそらく本音のところ彼は、<子>の事業、小劇場としてのWFの運動的連帯に自分のすべてを賭していきたいと念じているのだろう。とどのつまりは<子>のために<親>はどうなってもいいとさえ思っているのではないか。だがこの場合、<親>が健全であることをつねに担保されていなければ、<子>の育成を保証しつづけることは不可能なのだから、彼の<子>への思い入れが強まれば強まるほど、破綻の危機は大きく孕みゆく構図となろう。その構図から逃れでる策をこそ考えださなければならない筈だが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-32

  どの家も東の方に窓をあけ 

   魚を喰あくはまの雑水  芭蕉

次男曰く、「なは手を下りて青麦の出来」は次をどのようにでも起情できる作りだが、避けて野坡が「どの家も東の方に窓をあけ」と、大切な裏入の初にもかかわらず穏やかに景を付け伸したのは、ただ単に情の取出しを次に譲ったのではない。家々の佇まいが印象づける採光の含を読取ってほしい、と需-もと-めているのだ。

当然、ふさわしい場所の見定めが必要になる。需められて芭蕉は、「浜」と答えている。「浜」とは細道後の俳諧師にとって琵琶湖南以外にはない、という点がこの作りのみそである。

雑水は雑炊と通用されるが、正しくは増水と表記し、雑水・雑炊共に当字である。いくら気に入った土地とはいえ近江にも少々飽きた、と句は釈-と-いてよかろう。だから江戸に帰ってきたとも、「ひさび」「猿蓑」のあと、上方俳諧は鳴かず飛ばずだとも読める作りで、いずれ双方の気分が掛っている。

この句には下敷となった興があるようだ。
翁の堅田に閑居を聞て、「雑水の名どころならば冬ごもり」-其角
の句が「猿蓑」に入っている。芭蕉はもとより、其角から手ほどきを受けた野坡もこの句を知らなかった筈はないが、俳諧師に「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の嘆を生ませた例の堅田行は、元禄3年9月13日以降、義仲寺帰帆は25日夜である。消息が江戸にもたらされたときは既に冬だった。「冬ごもり」の句は、或物懐かしさを呼び覚されて、さっそく京の去来宛にでも書き遣ったものらしい。

じつは、其角の父東順は堅田の出で、もと膳所藩の儒医である。元禄元年冬、其角は堅田を訪ねている。二度目の西上の折、偶々叔母宗隆尼の死を知らされたことがきっかけだったか、「いつを昔」-其角編、元禄3年刊-に「千那に供して父の古郷堅田の寺へとぶらひけるとて」と、家集「五元集」には「宗隆尼みまかり給ふ年、千那にぐして堅田へ行とて」と前書をつけて、「婆に逢にかゝる命や勢田の霜」なる悼句を収めている。

「翁の堅田に閑居を聞て」と前書した其角の句には、先生も千那-本福寺住職-を頼ってゆかれたか、という共感の愉快がある。「雑水の名どころ」は冬籠りに取合せた其角流の洒落だろうが、堅田は中世以来、琵琶湖の漁業権をにぎっていた近江の主要港である。雑炊自慢をしてもおかしくない土地柄だ。

「東の方に窓をあけ」るのは堅田浜の家構えだと芭蕉は云っている訳ではないが、魚雑炊の句を付けて、二人の話が「猿蓑」入集の其角の句や、3年9月の堅田病臥のうえに及ばなかった筈はない。

猶、芭蕉には「雑水に琵琶きく軒の霰哉」、元禄6年と推定される吟もある-在深川-。この「琵琶きく」は、琵琶湖に掛けた空想の戯れかもしれぬ。いや、そうだろう。4年冬に帰江した俳諧師は、「琵琶きく」を擬して俳となし、湖南の冬を恋しがっている、と読める句である。

「魚を喰-くひ-あくはまの雑水」は短句ながら、一所不住の境涯を孕んだなかなかの佳句のようだ、と。

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August 25, 2008

どの家も東の方に窓をあけ

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-表象の森- 身体-内-知覚へDigする

昨日の稽古、中国の健身気功をよくする谷田順子さんに、Work Shopよろしく実習講座をしてもらった。

気功を通して、それぞれのレベルにおいて身体-内-知覚をより高めるため、あるいは気功や太極拳でいうところの「気の流れ」なるものへ、それぞれなりの道筋がつけばといったところを狙いとしてのことだ。

午後1時前からはじめて4持まで3時間のWorkはなかなか充実したものであったと、少なくとも私の眼にはそう映った。
順子さんの指導ぶりは、4年ほど前だったか、彼女らの所属する健身気功協会による演武を観る機会があったが、その折の水準とは見違えるほどの習熟、練達を示しているのが歴然としていた。

さて受講側の3人、舞踊の身体表現における熟練度がそれぞれに異なる者たちにとって、このWorkの効用のほどはどうであったろうか。

如実に表れていたのは、まだ初心者にすぎないAyaの場合である。彼女には丹田への知覚の操法が効を奏したのであろう、従来見られなかった腰の座りと上体の軸が決まり、静止した立ち姿において大きな変化が覗えた。この習得が、静止から動きへ、動きから静止へと移っていくとき、破綻のない流れを保持しうるのかどうか、そのあたりにどれほど自覚的になれるのかが、これからの課題となるだろう。

Junkoの場合、かなり極端なほどの腰の歪みについては自身自覚しているのだが、それをどうしても矯正せねばなるまいという強い意志は未だ持たない。彼女の身体-内-知覚は、その肉体の柔軟さとともにごく素直なレベルで、いいかえれば無意識的にかなりの程度習熟しているといえる。だからというその理由だけではないだろうが、脳-意識と身体-感覚とが分裂あるいははなはだ乖離しているように私などには見える。両者をつなぐ、媒介する心的なはたらき-精神作用-を強めることが年来の課題であるはずなのだが、そこへ心が強く向かうには、身体の軸と気の流れとの相関によく気づくことではないかと思われる。

もっとも年季の入ったKomineは、Junkoとは対照的なほどに、強い精神作用が自身の身体をコントロール下に置くことができる。そうであるぶんその表象は良くも悪くも一定の硬質さをともなってしまうから、身体-内-知覚を通して自身の肉体を弛緩の方向へとどれほどDig-掘り下げる-していけるかが課題となり、その作業が呼吸を深めることへも通じ、彼女の表象の振幅をひろげよりDynamicなものとしていくはずだ。

私は四方館を創める頃より、気功や太極拳あるいはヨーガなど伝統的な東洋体育の身体技法は、自身の身体-内-知覚を深めかつ強めるものとしてよりBasicな技法であると捉えてきた。その考えから自身で太極拳の習得に励んだ時期もある。

私がそうしてきたように、BalletやDanceあるいはSportといった欧米の身体技法においても、これら東洋的な身体技法が接ぎ木され、さまざま変容してきた実際がひろく見受けられる。暗黒舞踏がButohとして世界中に受け容れられひろまりえたのも、ベースにこのSynchronism-同時性-があったゆえだろう。

いまあらためて回帰するかにみえるこの作業のめざされるべきは、表象を体現する彼女ら自身の身体-内-知覚へのはてしないDigであり、問題はその自覚の深度なのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-31

   なは手を下りて青麦の出来 

  どの家も東の方に窓をあけ  野坡

次男曰く、名残ノ折の裏入。続いて野坡の句で、雑の作りを以てしている。

一読、無難な景の伸しのように見えるが、両句案は同時に、不可分の付合として出来たに相違ない。

東という字は四時では春に、五色では青に配する。東の方に窓を開けて青麦の出来を眺めた、と後付に読めば、「青麦」が季移り-初夏-だということもごく自然に解釈がつく。つくが、それだけでは連句与奪の面白みは生れぬ。何を以て次句の起情を促すつもりだろう。これは巡が裏入にあたる大事なところだけに、尚更気になるが、どうやら野坡の狙いは「東」を江戸だと覚らせることにあるらしい。

「虚栗」-其角編、天和3年刊-から数えて11年目。まず尾張に旗を揚げ、京に上った俳諧師が、深川の本拠で初めて指導する新風の撰集だった。「冬の日」「猿蓑」に続く、世に云う蕉風三変である。野坡の句は、映の江戸撰者になる、という喜びと責任がことばの端々に臨く作りだろう。

ここまでくると「東の方に窓をあけ」が、翻って、名残ノ折立「東風かぜに糞のいきれを吹まはし-芭蕉-」と絶妙な軽口の応酬になっていることに気がつく。むろん野坡もそのつもりで作っている筈だ。鼻つまみの元凶-東風かぜ-は自分だと先刻合点していなければ、取回してはこんできてこんなケリはつけられない、と。

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August 24, 2008

なは手を下りて青麦の出来

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―四方のたより― 返り咲き、お見事!

今日-8/24-、箕面市では市長選と市議選の投票日だった。

午後10時を過ぎたいま、Netでも開票速報が流されるとあって、箕面市選管のホームページを開きながら、これを綴っている。

午後8時で締め切られた投票の、地域別投票率はすでに明らかとなっており、前回49.92%に比べ、50.73%と僅かながら上がっている。そのぶん市長選への関心が高かったのではないかと推測される。

この選挙、告示が先週の日曜日-17日-だったが、実は、その前日の土曜の午後、私は市議選に立った内海辰郷君の選対会議に出席するべく急遽箕面に出向いた。格別の依頼があった訳でもなく、また友情応援といったところで役に立つなにほどのこともないのだが、昨春の谷口豊子選挙-大阪市議選-以来の経緯もあれば、知らぬ顔の半兵衛では居られなかったのだ。

選対会議には、その谷口夫妻も顔を出していた。すでに彼らの場合は、ウグイスや演説会弁士など、可能なかぎりの日程でボランティア戦士を務めることを約していた。いわば昨春とは主客を替えての選挙という訳だ。

私はといえば、そこまでやれる時間も余裕もないので、あくまでも陣中見舞といった体で、Observerとして参考までになにがしか意見を述べてみるにすぎない立場に置いた。

小さな旅から帰って翌日の20日、21日と、最終の23日、両三度選挙事務所を見舞ったものの滞在時間はそれぞれ2~3時間ほど、内海選挙の現況を一応見届けるといったほどのことで、どこまでも戦力外の付合いに終始した。

箕面市議を5期20年、議長をも務めたことのある内海辰郷は、4年前市長選に転じて一敗地に塗れ、在野に下っていた。このたびの選挙はその後の4年の空白を経て、市議返り咲きの闘いである。

数ヶ月前から彼はひたすら歩きつづけた、数千軒の家々をひとつひとつ訪ね歩いてきた、という。

「停滞する市政に活! 5期20年、いまふたたび立つ! ウツミタツクニ」
「生まれ変わって、立つ!  ウツミタツクニ、ウツミタツクニ」
「雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも負けない、ウツミ、ウツミタツクニ」
「賢治の心で、ウツミタツクニ、我が街、みのおの立て直し、ウツミ、ウツミタツクニ」
「あなたの思い、あなたの願い、市民の目線に立つ! ウツミタツクニ」
「地域の思い、地域の願い、地域の目線に立つ! ウツミタツクニ」

選管による開票速報では、先に開票されている市長選の最終得票が午後10時47分付確定。現職の藤沢市長が敗れ、中央官僚出身の倉田哲郎が当選、34歳は全国最年少首長の誕生となる。

ついいましがた、私の携帯が鳴った。谷口夫君からの一報だ。最終得票はまだだが、11時30分現在、内海候補の得票は2000、当確である。
25議席に32人の立候補、事前予想では1200票前後が当落ラインと云われた選挙戦である。

このぶんなら上位当選まちがいなし、よかった、よかった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-30

  法印の湯治を送る花ざかり 

   なは手を下りて青麦の出来  野坡

次男曰く、二句一意の人情に景の付である。

一読、湯治を見送りがてらの其人の所感と読みたくなるが、それでは三句同一人物、はこびが輪廻になる。「なは手を下-ヲ-りて」は縄手-畷-の下はと軽く読んでおけばよい。誰某がわざわざ畦道から下りて見るわけではない。とは云っても、「下りて」が読みを躓かせることは免れがたく、その決着を野坡は季移りに求めているらしい。

青麦は今では兼三春の季だが、古くは「毛吹草」「増山の弁」「糸屑」-元禄7年成-など、初夏に扱っている。評釈はいずれも春四句続と読んでいるが、そうではないのだろう。

「-花-盛」とあれば「-畷を-下りて」と承けて晩春・初夏の季節の移りを匂わせ、法印が湯治から戻ってくる頃には「青麦の出来」も穂に出る、と云っているように読める。ならば含は衣替の候までには撰集の目処もつける、ということだ、と。

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August 23, 2008

法印の湯治を送る花ざかり

080819756

―温故一葉― カナディアンファームのみなさまへ

前略
昨日、当方の忘れ物、宅配便にて受け取りましてございます。
大変お手数をかけ、また早々にお手配いただき、誠に恐縮の至りにて、心よりお礼申し上げます。

それにしても、手作りの壮大な木の家の数々、大自然に調和した偉容ともいいうる風景には感嘆しきり、驚きと溜め息とがとめどなく、心洗われ胸躍る、またと味わえぬ滞在の三時間弱、まことに貴重な時間を過ごさせていただきました。

ふとTVの番組で見かけ、ネットのサイトを訪ねれば、さまざま想像の羽はひろがり、折しも穂高や上高地方面へ小旅行の計画を立てていたところ、これ幸い、是非にも立ち寄るべしと、足を伸ばして復路をとったのでしたが、其方カナディアンファームは、幼な児にとっても、親たち大人にとっても、まこと快き別天地、心の解放区でありました。

すでに四半世紀の歳月をかけて今日の偉容を呈するに至ったこの解放区が、人々の輪の、ますますのひろがりとともに、多くの人々の心のふるさととして、ホットな火を灯しつづけられることを、遠く大阪の市街地、殺伐としたコンクリートジャングルより、心込め祈念しております。

どうもありがとうございました。
 2008. 08. 21 / 林田 鉄・純子拝

旅の3日目、多分はせやん王国カナディアンファームのレストランでだったろう、幼な児が小さなポシェットを置き忘れた。車が高速に入ったところで気がついたから、いまさら引き返すわけにも行かず、高価なものでなくごくありきたりのキャラクターものなのだが、向こう様も処分に困るだろうと、電話を掛けてご足労ながら着払いで自宅宛送付を依頼した。

翌日には早々に宅配便で届いた、とそんな次第で上記の如く一枚の礼状となった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-29

   又このはるも済ぬ牢人 

  法印の湯治を送る花ざかり  芭蕉

次男曰く、春三句続。名残ノ折の表十一句目、本来は月の定座だが花の座としている-定座は裏五句目-。

ここまでくると、この両吟興行の狙いがようやくみえる。野坡が表替と居直ったのも、芭蕉が、女房の親子を振舞えと助け船を出したのも、どうやら合意のうえのようだ。

「又このはるも済ぬ牢人」、じつは野坡自身の詫言だと考えればよい。先生から撰集の役目を仰せつかりながらいまだに新風工夫の目処が立たぬ、と嘆いている。それに対する芭蕉の答は、法印の花見湯治の留守居でもしていればよい-留守居には留守居の花見がある-、だ。焦ることはない、と慰めている。

これは、花の座に「花の下」-連・俳宗匠の名誉号-をうまくひっかけて、そのうちきみにも「花ざかり」がくるということを含にした、鼓舞激励のことばらしい。下五を「花時分」と作るわけにはゆかぬだろう。

とはいえ無着、無住の俳諧師が、仮にも己を「法印」になぞらえて笑いのたねにしたとも思えない。句には誰ぞの俤がありそうだが、とするとこの「牢人」は、さしづめ修行時代の宗因か。

西山宗因が京に上り主家再興のために尽力しながら、かたわら公儀「花の下」里村家に出入して連歌師となる修行を積んだのは、寛永10年から正保初年にかけての約十年間である。

「先師常に曰く、上に宗因なくむば、我々が徘徊、今以て貞徳が涎をねぶるべし」という去来抄のことばも思合せて、そう考える、と。

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August 22, 2008

又このはるも済ぬ牢人

080818699

-四方のたより- 記憶に残る小さな旅

17日未明の出立から19日夜の帰宅まで2泊3日、ささやかながら久しぶりにいい旅だった。
家族に加えて道連れをひとり得たのが旅の全体を賑やかなものにしてくれた。お蔭で子どもはずいぶんHighな状態で3日間を過ごしたようだった。

初日、早立ちの所為で生じたゆとりの時間を仮眠にあてるか行程を増やすか、伊吹SAで一休みしながら相談、少しキツイことになるが、道連れのアッちゃんがまだ一度も訪れたことがないという白川郷へ足を伸ばすことになった。

白川郷着はまだ7時半頃だった。世界遺産となった所為だろう、以前来た時の印象とはちがってずいぶん整備されており、人もまばらな早朝の郷を一時間余り散策。

東海北陸道をとってかえして郡上の美並町へ。眠気に襲われ、この走行が一番きつかった。美並ふるさと館の円空仏たちは、概ね初期の作品群とされ50数体を数えるが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる「康申」像の実物はやはり一見に値する。

つづく円空行脚は、高山市国府町の清峯寺。着いてから電話をすると堂守さんが駆けつけてくれ、施錠された堂を開けてくれる。十一面千手観世音菩薩を中央に、向かって左に聖観世音菩薩、右に竜頭観世音菩薩の三体のみだが、なるほど円空晩年の作は完成度も高く、意外に等身大近くもあり、その大きさに驚かされた。

行脚の仕上げは丹生町の千光寺。真言宗袈裟山千光寺は山腹のほど高きところにあり、飛弾八景と数えられ、正面に御嶽山を眺望する絶景ポイントがある。円空仏寺宝館には60余体の大小木仏が並ぶ。生憎と「両面宿儺」像は東京国立博物館にお出かけあって対面かなわずだったが、左右一対の門柱の如く大木を剥き出しのままに荒々しく鉈で削っただけの二体は迫力満点だ。

平湯トンネルを抜ければ奥飛騨温泉郷、その最奥部、新穂高温泉にある宿泊地のペンション着は午後5時を過ぎていた。このたびはこのペンションに連泊。

二日目は、上高地でゆったりと終日を過ごす。先ずは車で新平湯へ行き、駐車場に置いて、上高地行の直行バスへと乗換える。自然保護のため乗鞍高原スカイラインや上高地はマイカー乗入れ禁止となっており、この手段をとるしかない。

大正池の入口で降りて歩き出した上高地散策はまずまずの天候に恵まれ、前方に聳え立つ穂高連峰がくっきりと際立つ。標高1500mの涼風はさすがに心地よく、梓川の流れに沿って河童橋を経て明神池まで歩き、今度は対岸側を戻ってくる。10㎞足らずのコースだが、立ち止まっては景に見とれ、休み休みののんびりウォーキングだから4時間近くもかかったか。

それにしても夏の上高地は人出もまた凄い。若者もかなり見かけるが、なんといっても中高年層が主力。なかには80歳を越えようかと見うけられる年配の人もちらほら、その老人らが私などよりよほどしっかりとした足取りで歩いているのだ。こちらは前日の長い運転とこの日のウォーキングで、腰は張るわ足は痛むわ、宿へ帰ると連合い殿のなかなか巧い指圧の厄介になるというなんとも情けない始末だった。

三日目、このまま素直に復路をとるのは能がないとばかり、松本へ出てさらに東進、諏訪湖岸を走り、八ヶ岳山麓の此処は蓼科高源の外れあたりか、ハセヤン王国とも呼ばれるカナディアンファームへと立ち寄る。

ほとんど廃材ばかりでなる手作りの木の家々が、森の木立の中あちらこちら、とりどりの個性を見せる異空間。
此処はまるで異形なる非日常の世界、建物であれ遊具であれ、ものみな常識破りの歪曲された線と面で構成され、懐かしさと温もりの香があたり一面匂いたつかのごとく満ちている。大人も子どももこの世界に足を踏み入れるや否や、世俗の塵芥はものみな遠のき、意識下の抑圧された心は解き放たれ、それぞれ想い想いのお伽の国の物語を紡ぎ出していく、そんな別天地だ。

昼食をかねたほぼ3時間の短い滞在に、積りに積った心の垢取りはどれほどであったうか。自身測りようもないが、小さな旅も終りに近づけば、帰路に立たねばならぬ。諏訪インターから中央道を走りはじめた頃、夕立ならぬゲリラ雨に襲われたが、一刻早ければ森の中の別天地でズブ濡れの憂き目に会ったろう、すでに車の中で幸い、これも天の配剤か。

全走行距離は1,176㎞。ただひとつ、昨今のガソリン高騰がなんとも腹立たしい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-28

  はつ午に女房のおやこ振舞て 

   又このはるも済ぬ牢人  野坡

済-すま-ぬ

次男曰く、開運祈願の甲斐もない牢人暮しを付けて二句一意とした作りだが、打越-ひろうた金で表がへする-以下三句を同一人物と読むとはこびは滞る。其人の身分を見替えた付である。句体は芸のない遣句のようにみえるが、次句の才覚に助を求める含に作意がある。

「又このはるも済ぬ」は、次を花の座と見定めているからこそ云えることだ。今年はせめて他人の花見を喜びにしよう、という思付には笑いが生れる。振舞うたのは日頃苦労をかける女房への償いには違いないが、振舞=表替も縁起かつぎである、と。

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August 21, 2008

はつ午に女房のおやこ振舞て

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―四方のたより― 風の便り?

毎日文化センターの講座紹介一覧に「絵沢萠子・楠年明の芝居教室」なる懐かしい名を見出し、いや驚いた。

絵沢萠子とは豊満な年増女性を演じて日活ロマンポルノ全盛期を支えた脇役女優だが、私のよく知るのは松田友絵-此方は実名だろう-時代の彼女である。楠年明も「部長刑事」で永年活躍していた関西新劇の一時期を支えた役者さんだが、この二人、たしか関西芸術座演劇研究所の1期生同士で、どちらも十年近い先輩筋である。

神澤の縁で私と知り合った昭和40年当時、二人はすでに一緒に暮らしていたのだが、思わぬことから事件めいた因縁噺-いずれ書く機会もあろう-で繋がれた私であってみれば、いわば人生の遊行期にいたってともに睦まじく数年前から芝居教室をしているという風の便りならぬこの遭遇は、人さまざまなれど、雀百まで‥あるいは河原乞食云々の喩えそのままに、微笑ましく受けとめつ想いさまざま去来して止まぬ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-27

   ひらふた金で表がへする  

  はつ午に女房のおやこ振舞て  芭蕉

次男曰く、「福は無為に生ず」-淮南子-、諺に云う「果報は寝て待て」。「ひろうた金」を福に執成し、表替のついでに妻方の親兄弟を馳走しようという付だが、二ノ折の表九句目の作りに春の季を持たせている。

「はつ午」を持出したのは、初午詣は一名「福詣」ともいうからだ。陰暦二月の最初の午の日で、稲荷信仰との習合が古くから見られる。江戸時代にはとくに盛んになり、屋敷神として稲荷祠を祀る家も少なくなかった。一方、女房は亭主の裏方だから、その身内を「振舞」えば裏を表に出すことになる。

元禄2年9月、細道からの帰途伊勢の遷宮を拝んだ俳諧師は、これと同じ興の句を既に詠んでいる。
 「月さびよ明智が妻の咄しせん」

月は兼三秋に遣える季語だが、「月さびよ」といえば深秋、その「月さびよ」に夫ならぬ妻を取合せれば、名月に二夜-九月十三夜-の興を生む、というところに非凡な句眼がある。

「伊勢の国又玄が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心やすくし侍りぬ。彼日向守の妻、髪を切て席をまうけられし心ばせ、今更申出て」と、前書をつけて「勧進牒」-路通編、元禄4年刊-に収め、詞を「将軍明知が貧の昔、連歌会営みかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪を切りて会の料に備ふ。明知いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに興にものせんといひて、やがて云ひけむやうになりぬとぞ」とし、句後に「又玄子妻にまゐらす」と書添えた自筆懐紙も遺っている。

島崎又玄は伊勢山田の人、俳諧のたしなみがあり、芭蕉とは既に昨年-貞享5年2月-の参宮の折、一座興行の経験もあった。元禄2年の時は滞在中の宿を供し、後年、木曽塚にも芭蕉を訪ねている。

細道の旅を終った俳諧師が、曾良と路通を伴って大垣から木因の仕度船に乗ったのは9月6日、伊勢に着いたのは11日である。内宮の遷座は前夜の内に終っていた。その気になれば10日に充分間に合った筈なのに、わざわざ外して13日夜の外宮遷座だけを拝んでいる。同じ式行事を二度見るのが煩わしかったか-内宮には13日昼閒参詣している-。兼て、今度の旅の仕上とも云うべき、仲秋の名月を取りこぼした俳諧師らしい思付でもあったと思う。八月十五夜の敦賀は生憎の雨だった。一方、九月十三夜は「月の気色莞爾たり」と、曾良の日記に書いている。宿に戻ったのは真夜中過ぎで、名残の月も入に近かった。

句は其夜のものに違いない。旅も後、月も後、遷宮も後、おまけに祭神が豊受姫、天照大御神の裏方-御食津神-とくれば、亭主思いで、その上なにくれとよく気のつく妻女に迎えられて、句興の一つも湧かぬほうがおかしい。望月には成れぬもう一つの月の有様に芭蕉はいたく感動したのだろう。「その妻、男の心にひとしく」と俳諧師は書いている。まったく憎いことを云うものだ。

それにしてもどうしてまた、伊勢女でもない光秀の妻を、わざわざ持ち出したのだろう。ガラシャの母は、細川家記によれば、美濃土岐の地侍妻木氏の一族とある。読者のこの問が挨拶句の第二の見所である。

山崎で敗れた惟任日向守が、小栗栖で土民の手にかかったのは天正10年6月、おなじ十三夜の夜である。このとき光秀は坂本城へ急ぐ途中だったから、凶変がなければ妻子の待つ城で、彼がこよなく愛した琵琶湖の望月にも一度会えた訳である。-数奇の限りを尽した名城は、15日夜、弥平次秀満の放った火の中に滅んだ-。

敦賀で雨に祟られた男が思い出したのは、まさにこのことだったに違いない。浪人時代の光秀に風雅の志を遂げさせたという妻の献身ぶりも、右の滅亡秘話を下に敷けば納得がゆくし、伊勢と多少の関わりのあった光秀の連歌好みのことなど、当座又玄との会話にのぼったに違いない。

「はつ午に女房のおやこ振舞て」とはそういう気配りを俳にする男の作だが、この付句にははこびの、大切な狙いがある。

「梅が香の巻」が素春起しだとは先にも述べたとおりだが、知っていて春季に移すからには、当座のこと名残の花も亦表替えすることを計算の内に入れていなければ出来ない。その座は、芭蕉自身の巡に当る表十一句目-春三句目-、つまり、繰上げて空き家となった月の定座以外にはない筈だ。そこまで先を読んだうえでの作の工夫である。いきおい、映えのよろこびを取上げられた-譲ったと云うべきか-野坡が、挙句前の花の定座ではたしてどんな埋合せを見せてくれるか、いずれの楽しみも生れるだろう。破天荒な-後にも先にも全く例を見ない-この趣向の意義についてはあらためて更に説く、と。

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August 20, 2008

ひらふた金で表がへする

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―世間虚仮― 映画「鳥の巣」

小さな旅から帰ってきて、留守中の新聞を読んでいると、北京五輪のメインスタジアム「鳥の巣」ができるまでを描いたというドキュメンタリー映画に関して、坂村健氏が評している一文-「時代の風」-に出会ったが、この話題、紙面一杯に躍る五輪ニュースよりずっと興味湧くものであった。

映画のタイトルは「鳥の巣-北京のヘルツォーク&ド・ムーロン」、ヘルツォーク&ド・ムーロンは、二人の建築家からなるスイスのユニットで、200人以上の所員を抱える世界的な建築設計会社らしく、映画製作はT&C Film、共同製作にスイス・テレヴィジョンが名を連ねており、世界中から大きな注目を集めて成った大プロジェクトたる「鳥の巣」建築の裏舞台から見えてくる「世界の中の中国」という怪奇な物語といえそうだ。

すでに東京と岡山で8月2日から公開されており、逐次全国各地に伝播していく模様で、関西ではこの23日から京都みなみ会館と神戸アートビレッジセンターにて、大阪は遅れて9月27日から第七芸術劇場で、とか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-26

  門しめてだまつてねたる面白さ 

   ひらふた金で表がへする  野坡

次男曰く、閉めて、黙って、寝る、とまで云われては取付く島もない。仕様がないから「表がへ」でもするか、とこれまた開き直って付けている。

人情を物に移して照応を探ったところは運びの常套だが、畳表は新しいのと取替える前に裏返しが利く、つまり二度表替えが出来るわけだ。云うところは、この裏返しの方である。倹約第一をモットーとした越後屋手代ならではの付だ、というところがまず面白いが、無用の大用は裏の活かし方だという考は哲学になる。

釣合う倹約ぶりに「ひろうた金」を持ち出したところも辻褄が合っている。これが「他人の金」「もらつた金」では、義理が絡んで、自由になれまい。
芭蕉が新風の相手に野坡たちを択んだ狙いもわかる気がする、と。

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August 17, 2008

門しめてだまつてねたる面白さ

Kamikouchi

―四方のたより― 3プラス1で‥

今日から3日間-17~19-、ちょいと小旅行に出かける、よって言挙げはお休み。
いつもなら家族3人だけなのだが、このたびはアッちゃんこと連合い殿の学生時代の演劇仲間を連れ立っての4人旅。

アッちゃんは私もよく知るところの人、まだ独り身である。ながらく「銀幕遊学レプリカント」に属してVoiceやVocalを担当してきた。もう10年近く前になるが、わが四方館の公演にもゲスト出演して貰ったことがある。

いわば家族同様の気のおけない道連れを得て、この小さな旅もまたひと味違ったものになろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-25

   桐の木高く月さゆる也 

  門しめてだまつてねたる面白さ  芭蕉

次男曰く、外に聳つ冬木があれば、内に侘寝の男があり、景と情との呼応を高低に見究め、「門しめて」と猶念入りに仕切っている。

前年の閉関-元禄6年盆過ぎから8月中旬にかけての約1ヶ月の間-によって会得した閑情の面白さのように思うが、前句の「月」が秋の月ならこうは云えぬ。たくわえて、新風の工夫としたか。

三句の興の移し方は、伏-人情、芭蕉--起-景色、野坡--伏-人情、芭蕉-で、下手をすると輪廻になりかねない。人情を打越の有から無に奪い、しかも「しめて」「だまつて」「ねたる」と三ッ襲にして無用の大用を見せたところ、さすが夏炉冬扇を口にした俳諧師だ。みごとなひらき直りである。

「三冊子」は、「先師の曰く、すみ俵は門しめての一句に腹をすゑたり」と伝えている、と。

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August 16, 2008

桐の木高く月さゆる也

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―表象の森― 食糧危機は‥?

川島博之「世界の食糧生産とバイオマスエネルギー-2050年の展望」を通読。

本書は,レスター・ブラウンの「誰が中国を養うのか」など、世界の食料危機を強調して急な風潮に対し,農作物から畜産物、水産物にいたるまで、世界各国や各地域の食料生産、供給、貿易などの現状を、FAOや世界銀行のデータなど、一次資料に基づいて網羅的かつ詳細に分析し、2050年に至る食料生産と近頃話題のバイオマスエネルギーの展望を提示するもので、性急な誤解や偏向を解いてくれる啓蒙書といえようか。

なるほど、世界の食糧生産事情に関して、これほどご丁寧に個別に客観的数値を網羅してくれれば、たしかに此方の蒙昧は少なからず霽れようし、お勉強にもなる。その意味ではタメになるし、一読に値しよう。

だが、国別あるいは世界地域別の客観事情は、あまりに不均衡、あまりに偏向しているのも、また列挙された数値が示すとおりであり、傍らそれらの事実に暗澹とさせられもする。

どうやら、問題の本質は、本書のいうように、世界の食料事情を俯瞰しつつ、各国がそれぞれ合理的に判断すれば、食糧危機は回避できる、起こり得ないというわけではなく、危機は、おそらく食糧問題とは別次のところからやってくる、ということだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-24

  方々に十夜の内のかねの音  

   桐の木高く月さゆる也  野坡

次男曰く、「八月九月正に長き夜、千声万声了む時無し」、「夜、砧を聞く」と題する白楽天の有名な詩句である。

十月なら、砧ならぬ、「方々に」聞こえるのは引声念仏だという見定めがまず面白く、砧も鉦も伏せて叩くところが思付のみそである。付けて、「高く」は当然だろう。

また、これを月の座に取合せれば「月さゆる」-冬-になる。砧は秋月の付物、「冴ゆる」は連・俳共に兼三冬の季に扱う。至極自然なと云えば云える連想のはたらきだが、それは「月さゆる」と遣われてみて気のつくことで、誰でもが簡単に思いつくことではない。芭蕉も野坡の手柄を認めたろう。名残の月を定座-十一句目-からわざわざ五句も引上げ、一歌仙中、短歌を以てする月の座二ヶ所という異例を許している。

十夜行事も、宵月を過ぎて今や酣。「方々に」-「高く」と、横を縦にする体に継いだのも見合だが、この二句一意の作りの面白さは白楽天の詩句を前提にしてのことで、うまい季の深め方をするものだ、と。

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August 15, 2008

方々に十夜の内のかねの音

Alti200601024

―世間虚仮― 駆引き上手?

十三夜の月が近くのマンションの屋上から顔を覗かせ、やがてその全容をあらわした頃、TVでは女子柔道78㎏超級の決勝が始まっていた。

塚田真希対中国のトウブン、試合を終始リードし最後まで積極果敢に攻めた塚田は、終了まぎわ、トウブンの背負投を喰らって逆転、一本負けとなったけれど、彼女の勝負魂は相手を圧倒して迸り、見ていて清々しくも胸撃たれるものがあった。
いわば勝負に勝って試合に負けた感。

とかく中国や韓国の選手は、よくいえば試合巧者、ルールすれすれの駆引きが目立つ。
一昨日だったか、バドミントン女子ダブルス、世界ランクトップの中国ペアを破った末綱・前田コンビが臨んだ準決勝戦、韓国の李孝貞・李敬元は、執拗なまでに審判にクレームをつけては試合を中断させ、相手のリズムを攪乱させる戦法を取っていたかに見えた。

塚田の相手トウブンは、故意に帯を緩めに締めているものとみえ、待てがかかるとそのたびにおもむろに帯を締め直す。これで自身の息を調えつつ、試合運びのリズムを仕切り直しているのだが、時間のかかること夥しく、さすがに正審も業を煮やしていたかに見えるほどだった。
そしてもう一息という最後の十数秒、前へ前へと攻める塚田に一瞬背を屈めたトウブンの背負投が決まった。それ自体は見事な逆転劇ではあるが、ここに至るトウブンの試合運びには不快を禁じ得ず、あまり後味のいいものではない。

力と力、技と技とのぶつかり合い、そこに駆引きのあるは必定なれど、見るに忍びない顰蹙ものの駆引きは、やはりあるべきではないだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-23

   こちにもいれどから臼をかす  

  方々に十夜の内のかねの音  芭蕉

次男曰く、十夜は陰暦十月五日夜から同十五日朝まで-今は十一月十五日まで三日三夜としているところが多い-、浄土宗の各寺で執り行う十日十夜の引声-インゼイ-念仏である。新穀祭を兼ねた行事で、寺では夜参の人に白粥をふるまい、在家でも炊いて食べる風習がある。

十夜法会は、足利義教の執権平貞経の子貞国が京都の真如堂に参籠して興したと云われ、もともと宗派行事ではなかったが、のち観誉上人が勅許を得て鎌倉光明寺で行ってからは、広く浄土宗の寺行事となった。

京都には浄土宗の寺が多い。「方々に」とはそれを云うが、十夜は十月亥の日の祝-亥の子-のころともかさなり、唐臼を借りに来る人もこの時季多かったはずだ。付の筋はそこだろう

「東風かぜに―」「たゞ居るまゝに-」以下のはこびからすれば、季を持たせるならここは夏のほうがむしろ自然だが、初裏四句目-夏-との釣合を考えたか、冬季としている。「かね」は敲き鉦で-伏鉦-である、梵鐘ではない、と。

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August 14, 2008

こちにもいれどから臼をかす

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―世間虚仮― 盆の風

お盆である。
私は私で、連合い殿もまた子どもを引き連れて、おのおの実家へとお参りだ。
私のほうは朝からだから、早々と昼過ぎにはご帰還。彼女たちは午後から出かけたから帰りは夜の食事をお招ばれしてからだろう。
さすがに、この頃ともなると、暑さは相変わらずとしても、ベランダからの風が吹き抜けてくれて、いくぶんかしのぎやすい。
そろそろ、暑気呆けから脱したいものだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-22

  江戸の左右むかひの亭主登られて 

   こちにもいれどから臼をかす  野坡

次男曰く、「亭主」から情を起して、妻女同士のやりとりに執成したところがうまい。この執成の作りにはたぶん芭蕉も加担しているだろう。

しばらくぶりに亭主が帰ってきたとあって、向い家の妻女が唐臼を借りにくる。こちらでも要るが先にお使いなさい、という女の口裏には当然のこと男を肴にした互のさぐりあい、噂が覗く。二句一意に読むと、向の亭主の江戸行は単なる商用ばかりでもなかったらしい、というところまで想像は伸びる。

唐臼は臼の本体を埋込にし、杵の端を踏んで搗く仕掛だが、読解の鍵はこの据付臼を持出した含にある。ちょっと貸してやったと思いなさい。結局あなたの許へ戻ってくるんだから、というくすぐりの付である。江戸と京に男が二人妻をもっていると考えれば、あなた-京女-のほうが正妻だから気にするな、ということになる。この場合、逆に、事実は京都妻のほうが妾であれば、「-本妻-から臼をかす」つもりでいろというくすぐりはいっそう面白く利く。

呉服商から身を起した越後屋の西の拠点はむろん京都で、貞享3年以後は本拠を京に移している。両替店手代の江戸-上方の往復は頻繁だった。句は唐臼を備えた旧家らしい家と、その向の小家とを対照的に取出し、仮住居の風情もみえる。かりにそれを野坡の京宿とみればそこの女あるじとの関係も想像できよう。芭蕉は実状を知っていて、野坡をからかっているのかもしれぬ。

因みに、この興行の「亭主」役は野坡で、「から臼をかす」作りも亦野坡だ、という付合もはこびの理に適っている、と。

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August 13, 2008

江戸の左右むかひの亭主登られて

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―表象の森― マルクスの疎外論 -承前-

<A thinking reed> 吉本隆明「カール・マルクス」光文社文庫より

・マルクスの全体系を辿ろうとする者は、たれも、彼の思想から三つの旅程を見つけることができるはずである。
ひとつは、宗教から法、国家へと流れくだる道であり、
もうひとつは、当時の市民社会の構造を解明するカギとしての経済学であり、
さらに、第三には、彼みずからの形成した<自然>哲学の道である。

マルクスが、青年期につくりあげた三つの道は、やがてそのなかの一つの道を太くさせ、そのほかを間道に転化させる。これを彼自身の体験が強いたものとみるかぎり、たれも、それに文句をつけることはできない。-略- 現在、みることができる資料によるかぎりは、「ヘーゲル法哲学批判」以後に、宗教、法、国家、いいかえれば、相対的には幻想性にたいする考察はマルクスからあとを絶っている。また、彼の<自然>哲学は、ただ経済学的なカテゴリーのなかでだけ、「資本論」にいたるまでの道をたもっているにすぎない。

・政治的国家というものは、<家族>という人間の自然的な基礎と、<市民社会>という人工的な基礎が、自己自身を<国家>にまで疎外するものであるにもかかわらず、ヘーゲルは、逆に、現実的理念によって国家が作られたように考えているというのが、マルクスの根本的ヘーゲル批判であった。

たとえば、古代の国家では、政治的な国家がすべてであり、人間の現実的な社会は、すみずみまで政治的な国家の手足のように存在している。しかし、近代的な国家では、政治的な国家と非政治多岐な国家とが<法>によって調節されて二重に存在している。政治的国家は、非政治的な国家の具体性である市民社会を内容としながら、それから疎外された形式上の共同性として存在する。

だから国家と、家族や市民社会とはヘーゲルのいうような矛盾のない存在ではありえない。国家は、家族や市民社会自体の生活過程が表象されたものではなく、家族や市民社会が、自己から区別し分離する-<疎外>する-理念の生活過程である。
・人間と自然との相互規定としての<疎外>が、マルクスの自然哲学の根源としてあり、それが現実の市民社会に<表象>されるとき、<疎外された労働>から派生する現実的<疎外>の種々相があらわれる。

市民社会の<自己意識>-いいかえれば共同意識-は、あたかも、共同性の意識の<表象>として現実的国家を<疎外>する。ところで、市民社会の<自己意識>は、あたかも宗教として神という至上物を<疎外>するように、市民社会の至上の<自己意識>として政治的国家制度、政治的国家、法を<疎外>するのである。これを宗教、法、国家という歴史的な現存性への接近としてかんがえるとき、政治-哲-学の問題があらわれる。

・プロレタリアートという概念は、市民社会の経済的なカテゴリーとしての人間の基底として登場する。マルクスのプロレタリアートという概念が、現実のプロレタリアートそのものでないのは、経済的カテゴリーとしての人間が、全人間的存在でないのと同じであり、同じ度合においてである。

・<疎外>という概念は、マルクスによって、ある場合には、非幻想的なものから幻想性が抽出され、そのことによって非幻想的なものが反作用をうけるという意味で、またある場合には、人間の自然規定としてぬきさしならぬ不変の概念であり、したがって人間の自己自身にたいするまた他の人間にたいする不変の概念として、またある場合には、<労働>により対象物と<労働者>とのあいだに、したがってその対象物を私有する者とのあいだに、具体的におこる私的な階級の概念として使われているが、もちろん彼の思想にとって重要なのは、それがどのように使われていても、累層と連環によって他の概念におおわれているという点にあった。そこにマルクス思想の総体性が存在している。

彼の思想が、宗教・法・国家・市民社会・自然をつなぐ総体性として完結したとき、まだ、ほんとうの意味で社会の歴史的現存性のおそろしさを知らぬ青年であった。

なぜ、愚劣な社会が国家として現存し、たれにでもわかる愚劣な人物たちが牛耳っているこの社会は滅びないのか? なぜ、一見すると脆弱そうにみえるこの不合理な社会はこれほど強固なのか? マルクスが、こういう自問自答をほんとうの意味で強いられたのは、西欧のデモクラートの蜂起が挫折し、そのあおりをくらって解体した<共産主義者同盟>が内紛のうちに彼を締め出し、彼が貧困のさなかに公然と孤立したときである。ここで、マルクスの現実的な体験が、転向としてその思想に関与する。その意味は、マルクス自身がかんがえたよりも、おそらく重要であった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-21

   たゞ居るまゝに肱わづらふ  

  江戸の左右むかひの亭主登られて  芭蕉

次男曰く、登ると云えば東国から上方へ、とくに江戸から京へ上ることだ。左右は消息、とかくの様子である。

其の人が江戸の土産話に興味を持つのか、「肱わづらふ」は向の亭主の旅疲れか、それとも、前句は「江戸の左右」を伝える口付か、一読しただけではわからない。
上五の作りにいささか無理があるようだが、普通に読めばこれは第一の場合だろう。「登られて」は「たゞ居るまゝに‥わづらふ」にいどんだ突っ掛けの興である。それなら「左右」も平穏息災と読める、と。

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August 12, 2008

たゞ居るまゝに肱わづらふ

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―世間虚仮― 北京五輪の陰で‥

「田中宇の国債ニュース解説」によれば、
北京五輪開催の日のその朝、新しく建て替えられたアメリカの大使館開設式が、訪中したブッシュ大統領出席のもとに盛大に行われた、という。

北京のこの新しい米大使館の規模は、復興中のイラク、バグダッドにある米大使館-此処ではなんと5000人の職員を数えるという-を除けば、職員の数を従来の500人から1000人へと倍増し、世界各国の米大使館のなかで最大のものとなるらしい。

これに先立ち、今年の7月、中国側がワシントンDCに新しい大使館を建設、開設しているが、これまた、ワシントンに在る世界各国の大使館のなかで最も大きい規模のもの、というのだ。

米大統領としては、他国のオリンピック開会式に出席するなどと、まったく初めての異例事で祝意を表したことを考え合わせても、いわば、北京五輪を機に世界の覇権は米中二軸時代に突入した、のだという両国の自覚とも意思表示ともみえる出来事かと思われる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-20

  東風かぜに糞のいきれを吹まはし 

   たゞ居るまゝに肱わづらふ   野坡

肱-かいな-

次男曰く、前句が「吹まはし」と云ったから、「たゞ居るまゝに」と、逆らわぬ体に承けている。

息を詰めてみても、じっとしていも、痛みは治らぬというところが笑いだ。花仕舞い頃の気候不順に着目して人情を取出した付で、「肱わづらふ」は神経痛、リュウマチなどに悩むさまである。

「農家の春は用の暇多きを言なり」-秘注-、「閑多き者は病多き世のならひ、春の農間にそら手又は四十手など患負ふるなり。東風の吹く日は特に痛むものなり」-露伴-、などと云うが、農とは限らない、と。

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August 11, 2008

東風かぜに糞のいきれを吹まはし

Yuunaginomachi

-四方のたより-「朗読×演劇」としての「夕凪の街 桜の国」

一昨日、土曜日の午後は、連合い殿同伴で、谷町劇場-劇団大阪-にて観劇、「大阪女優の会」の朗読劇「夕凪の街、桜の国」である。

数日前に送られてきた河東けいさんからの封書には、彼女自身書面に記していたようにほんにどっさりと、この夏から秋にかけての、彼女が関わる公演の案内が入っていた。

その第一弾が「夕凪の-」だったのだが、これに食指が動かされたのは、こうの史代原作の漫画世界を舞台にという珍しさと、演出に遊劇体のキタモトマサヤという取合せが、なにがしか新鮮な期待を抱かせてくれたからだ。

むろん、こうの史代の原作漫画を知る由もないのだが、偶々、木曜日-8/7-の深夜0時から、07年に映画化された「夕凪の-」の放映があったので、これ幸いと観たのだが、成程、かなしくもうつくしく、やさしさにあふれた佳品と賞され、世界各国でも翻訳出版されているという原作の世界は、映画からもじゅうぶん偲ばれた。

さて、朗読劇とした舞台のほう、キタモト演出は、鏡花世界に対した時とおなじく、原作漫画の語り口を、おそらくいっさいの改変もせずそのままに、舞台へと転生を試みていたようである。原則としてそのスタイルやよしではあるが、如何せん、私には18名という多彩な出演者の顔ぶれ、これは質量ともにいささか嵩張りすぎたかと思われ、演出の自在さを大きく制限したのではなかったか。

場面の展開のなかで、コロスとしての個性なき群れであろうと、キャラクターを担うべき場合であろうと、おそらく演出者が掲げたとみられる、「朗読×演劇」たる形象の可能性を思えば、全体としては総勢12.3名あたりの出演者でじゅうぶんであったろう、いやむしろそのあたりがベストであったろう。それを許さないお家の事情-制作上の-との苦心の格闘は、さぞ演出泣かせではなかったかと推察される舞台だった。

終演後、出演していた条あけみとひさしぶりに言葉を交わしあえたのは収穫、もちろん、河東けいさんにも労いの握手を交わしてから、その場を辞した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-19

   門で押さるる壬生の念仏  

  東風かぜに糞のいきれを吹まはし  芭蕉

糞-こえ-

次男曰く、春三句目、二ノ折入だが跨りは芭蕉の二句続だという点に注意したい。

壬生なら、吹き回すのは念仏ばかりではあるまい、というところに笑いがある。「門で押さるる」と云い「糞のいきれ」と云えば、汗ばむ暖気も、湿気をもつあたりの空気も伝って、花じまいどき、風も東から南に変わる時季の肌触りをあらためて感じとらせる。「吹まはし」はその風向きの変化をも含にした、上手の云回しだろう。

春の農事が一通りすむと農家は小閑期になるから、寺詣で=遊山が行われるが、壬生の念仏法会はちょうどその仕舞の時期にあたっている。晩春の京には欠かせぬ行事だ。これが終れば人皆再び暮しで忙しくなる、と云いたげな作りだが、それにしても「糞のいきれ」とは。和歌・連歌ではとうてい考えられなかった興の取出しである、と。

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August 09, 2008

門で押さるる壬生の念仏

080209014

―世間虚仮― 8.8.8がはじまって‥

このところ新聞を開いても、どうもあまり詳しくは読む気がしない。

例年のことだが、この時期はどうしても高校野球の報道が紙面を割く。今年はそれに加えて北京五輪がとうとう始まったから、それらスポーツ記事や関連ものばかりが他記事を圧倒して、ふだんの紙面構成を一変させてしまっている。

新聞を読むにも、それぞれ個有のリズムというものがあろう。それが狂わされてしまっている感じがするのだ。

もちろん、五輪だって、高校野球にだって、まったく関心がないというわけではない。けっして無関心じゃないのだけれど、この状態がなお2週間以上つづくかと思えば、少々うんざり気味の私なのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-18

  町衆のつらりと酔て花の陰 

   門で押さるる壬生の念仏  芭蕉

次男曰く、壬生念仏は、京都壬生寺で陰暦3月14日から24日まで-現在は4月21日から1週間-行われる花鎮めの大念仏法会である。正安2年-1300年-、同寺再興の祖円覚が営んだのに始まると伝えられる。期間中、境内の大念仏堂では壬生狂言が催される。鰐口・締太鼓・横笛の囃子で舞い、物真似を演じる黙劇二十番である。

句はその壬生寺の境内の押しつ押されつしている善男善女の群を付けている。
「門」は、モンと読む注釈が多いがそうではあるまい。カド、門前の庭である。出入口と解すれば狭いと理由をつけるしかなく、下手な意味付になる。境内なら、「花の陰」を見咎めて鎮めと即応した付と読める。どちらの解が面白いか、較べるまでもあるまい。

鎮花法会は疫病駆除のために修するものだが、もともとは、桜の花を五穀の花に見立てて花の散るのを抑える意味を込めた民俗風習である。

群衆で落花を受止める、とは洒落たことを思付く。花の散り込む余地もない人群を以て抑えと見たか、いずれとも解釈できるが花見が剣気の映りなら、抑えるのも只の群衆ではなく善男善女の群である。

鎮花に境内を埋め尽す念仏を使って、二句続の陰気をまことに手際よく離れている。陽気な句だ。寺は寺でも、壬生狂言の寺とした所以だろう、と。

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August 07, 2008

町衆のつらりと酔て花の陰

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―表象の森― マルクスの疎外論

<A thinking reed> 吉本隆明「カール・マルクス」光文社文庫より

フォイエルバッハの宗教についての考察-「キリスト教の本質」-と、ヘーゲルの「法哲学」
 → マルクスの「経済学と哲学にかんする手稿」

・若きマルクスにとって、ドイツでは、宗教についてはフォイエルバッハの考察が、いわば群鶏中の一鶴として彼の眼前にあった。法・国家哲学についてはヘーゲルの法哲学がそびえていた。

・個人としての人間が、生誕しそして死ぬというかたちでしか繰返されないのに、人間の類-人類-という概念がなぜ成り立つのかを、ギリシア自然哲学から、とくに青春前期に執着したエピクロスから学んだマルクスの「経済学と哲学にかんする手稿」から辿りなおすならば、
<疎外>あるいは<自己疎外>という彼の概念は、その<自然>哲学のカテゴリーから発生したもので、じかに市民社会の構造としての経済的なカテゴリーから生まれたものではないことに注意すべきである。

全自然を、自分の<非有機的肉体>-自然の人間化-となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互の絡み合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>と考えたのである。
これを、市民社会の経済的なカテゴリーに表象させて労働する者とその生産物のあいだ、生産行為と労働-働きかけること-とのあいだ、人間と人間の自己自身の存在のあいだ、について拡張したり、微分化していても、その根源には、彼の<自然>哲学がひそんでおり、現実社会での<疎外>概念がこの<自然>哲学から発生していることは疑うべくもない。

・マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、<自然>は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。それは<非有機的身体>と<有機的自然>として相互に滲潤しあい、また相互に対立しあう<疎外>関係であった。私の考えでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動と考えたとすれば、マルクスはそれを粒子という側面で考えてみたのである。それはマルクスがギリシア<自然>哲学の原子説を生かしきったことを意味している。フォイエルバッハの<共通の基底>を、<疎外>にまで展開させた大きな力は、紙一重の契機であった。

フォイエルバッハのいう人間と自然との<基底の共通性>から考えるなら、人間がまだ自然人であったときには、神もまた自然神であり、人間が建物に住んでいるときには、神もまた神殿に住んでいる。神殿というのは、人間が家屋を美しくしたいと考え、もっとも美しい家屋と認めるものが作られているにほかならないので、べつに神が住んでいる家屋ではない。なぜなら、神は、人間が自己意識を無限であり、至上であると考える意識の対象化されたもので、もともと人間の自己意識のなかにしか住んでいないからである。

人間が<宗教>の意識の内でやることは、自分の本質を対象化し、この対象化した本質を、ふたたび自分の対象にするという過程である。いいかえれば人間は<宗教>において自分の本質を自分の外へ投げ出し、その投げ出した本質を自分の中に採り入れる。

<芸術>の意識もまた、人間が自分の本質を自分の外に対象化し、ふたたび自分の対象にすることではないのか? これについては、フォイエルバッハは、<宗教>と<芸術>の意識の違いとして説明している。

宗教-ことにキリスト教のような一神教では、人間の本質を無限のものと考え、至上のものとするという自己意識は、ひとたび無限者としての神-キリスト-として外化され、それがふたたび自己意識の中にかえってくる。だから、神は無限者であるとともに人間であるという両義性としてあらわれる。しかし<芸術>の意識は、人間の現実的な本質を、至上のものであり、無限のものであるとする自己意識が、<作品>となって外化され、それがふたたび自己意識にかえってくる。<作品>にはその意味で人間の意識にとっての両義性は存在しない。

べつの言葉でいえば、<宗教>は神を至上物として外化するから、自己意識にとってあたかも神が第一義のものであり、それを外化した人間は第二義のものとなる。しかし<芸術>では、人間の現実的な本質を至上物として考える意識が外化され、それが自己意識にかえってくるから、あくまでも自己を至上のものとする意識の幻想性として一義性である。

フォイエルバッハによれば、キリスト教がすぐれた宗教的芸術を生みだしえないのは、その一神教的な性格が、芸術そのものと同質でありながら、こういった神を至上のものとする意識と人間を至上のものとする意識とが矛盾をつくりだすからである。<芸術>や<学問>の源泉でありうるのは、多神教あるいは偶像崇拝あるいは、汎自然の意識だけであり、一神教はそれ自体で芸術と矛盾する。

・マルクスの<自然>哲学の本質にある<疎外>または<自己疎外>の概念は、レーニンもスターリンも、毛沢東も知らなかった。

・私は、個人がたれでも誤謬を持つものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとする者をみると、憎悪を感じる。なぜならば、それは人間の弱さを普遍性として提出しようとしているからであり、弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-17

   露を相手に居合ひとぬき  

  町衆のつらりと酔て花の陰  野坡

次男曰く、初裏十一句目、花の定座。

「露」を「花の露」-花の傍題-に執成し、季移り-秋-春-としてはこんでいる。
この季移りは野坡の判断というよりも、芭蕉の計算の内に先刻あったものだが、二句続の虚の作りを実に取り戻すために町役総見の花下遊楽としたところが思付である。

居合の太刀捌きはまず横に払うものだ。相手が露なら、一閃そこに連珠が出来るだろう。それを露が酔うたと見て、「つらりと酔て」に移している。ならば「つらり」は、意味はずらりと並ぶことだが、濁って読むわけにはゆかぬ。因みに「つらり」は、狂言あたりから生れた当世言葉である。諸注が「づらり」と表記しているのは居合抜を知らぬからだ。

「花の陰」がうまい。季移りにあたって、「露を相手に」から工夫した詞映りに違いないが、ただ酔う酔と居合を観て発する酔とでは、花見酒も陽と陰の差がある。「つらりと酔て花の陰」は、酔客の眼の据り様までも言い得た表現だろう、と。

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August 06, 2008

露を相手に居合ひとぬき

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―表象の森― マルクスの挫折と転回

何と、何を? われはあやまたずつきさす
血に染む剣を汝のたましひにつきさす、
 神は芸術を知らず、神は芸術を尚ばず、
 芸術は地獄の塵の中より頭に上り、

遂に頭脳は狂ひ、心は乱れる、
われはそれを悪魔より授けられた。
 悪魔はわがために拍子をとり、譜をしるした、
 われは物苦しく死の進行曲を奏でねばならせぬ、

われは暗く、われは明るく奏でねばならぬ、
遂に心が糸と弓とをもて破るまで。
      -マルクス初期詩篇「楽人」

じつは、2.3日前に吉本隆明の「カール・マルクス」-光文社文庫-を読んでいたのだが、これまでついぞ知らなかったマルクス自身の私的な傷ましい事件に出会し、少なからぬ衝撃とともに暗澹とさせられていたのだ。
マルクスの伝記を知る人なら、だれでも先刻承知の事実なのだろうが‥。

1849年、ドイツ民衆の最後の蜂起は、時のプロイセン政府によって鎮圧され、マルクスには追放令が下された。彼はこの年の夏、パリを経てロンドンに向かい、ロンドン郊外に永住の居をさだめた。夫人と幼い三人の子はあとからやってきて合流、すぐにもう一人の子が生まれている。この年マルクス32歳。

亡命者マルクスの一家は貧窮をきわめていた。52年には、度重なる家賃の滞納で郊外の貸間は追い出され、ロンドンの最貧民地区の小さな二部屋に住むことを余儀なくされた。

折も折、疫病の流行は猖獗をきわめ、不衛生このうえないロンドンのスラム街は死者であふれかえった。あのナイチンゲールが「To Be a Deliverer-救助者になれ!-」とキリストによる二度目の啓示を受けた、というのもこの頃である。
マルクスの家族も、伝染病でつぎつぎと3人の子が死んでしまうという凄惨な事態に陥った。

本書で吉本隆明は、「経済学と哲学にかんする手稿」などの初期マルクスから、「資本論」にいたる後期マルクスへの転回について、

「経済学は市民社会内部の構造を解明するというモティーフから、経済的な範疇こそが、社会を資本制市民社会にいたるまで発展させてきた歴史の第一次的な要素であるというように転化される。この微妙なマルクスの点の打ち方の移動は、1848年以後のヨーロッパの蜂起とその挫折、それにともなうマルクスの政治的公生活からの疎外、積り重なる家庭生活の貧困といったような全情況の集約された表現であった」とする。

あるいはまた、「ひとはたれでも青年期に表現を完了するという言葉が真実であるという意味では、すでに1843年から44年にかけて、かれの思想はすべて完結されている。そのあとにはなにがくるのか? 現実と時代がかれに強いたものが、ひとつの思想の転回としてやってくるのだ。このような意味で、いまやマルクスに生産的社会の歴史的な考察と、生産的社会の歴史的な考察と、生産的社会そのものの内部構造の究明という課題がやってくる」と。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-16

  はつ雁に乗懸下地敷てみる  

   露を相手に居合ひとぬき  芭蕉

次男曰く、「下地敷てみる」を「露を相手に」と移した、遣句である。
下地と云い、試みるとあれば、「露の中なる」と、ことばを実の作りで承けるわけにはゆかぬ。釣合の工夫で、どちらも本番ではないというところがみそである。
秋三句とはいえ名月、初雁、露と常套的な寄合語の続きすぎる点が気になるが、旅立の実を避けた前句の作りを見咎めたのはさすがだ。
旅の実際と旅情とは別ものという手ごわい虚実の認識が働いていなければ、「露を相手に」の戯れには思付かない。二句続の虚の体によって旅情はいっそう深められるだろう。
仮にこれを、郎等付添の女仇討の旅などと想像すれば、道中の無聊や望郷の情もそろそろ極に達する気配の見える句作りで、秋意も一時に深まる。
旅体の句を誘われながら、芭蕉ほどの旅好きがその誘いを躱し、遣句を以て只旅情のみを深めているところが妙である。
「ひとぬき」にも意味がある。上を「露を相手に」と虚に作っても、つづけて「居合収むる」とすれば実の句になってしまう。打越-こんにやくばかりのこる-と差合うだろう。尤も「居合収めて」と逆付ふう-前句と一意-に作れば、はこびにならぬこともない。微妙なものだ、と。

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August 05, 2008

はつ雁に乗懸下地敷てみる

Alti20060152

―世間虚仮― 暑熱の中で

天気予報では今日一日は猛暑も少しやわらぐと言っていたかと思うが、いやなんのその、暑い、暑い。

そんななかを小一のムスメ殿は、学童保育ならぬ校内保育のイキイキ活動の遠足とかで、朝からウキウキルンルンとお出かけあそばした。

この炎暑の中を何処へ行くものやらとプリントを見れば、「下水道科学館」と「なにわの海の時空間」見学とある。成程、行政施設ならば子どもは無料、おまけに施設内は空調も効いてさぞ快適だろう。こんな行程なら熱中症の心配もなく、参加費400円と超安上がりの企画で、おそらくは市の補助費もあるのだろう。

此方はと云えば、茹だってばかりも居られず、ひさしぶりに理容へと出向いた。頭がさっぱりして、ちょっぴり気分も爽やか、暑さ呆けの脳内のほうもなんとなくクリスタルになったか‥?

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-15

   こんにやくばかりのこる名月  

  はつ雁に乗懸下地敷てみる  野坡

乗懸-のりかけ-

次男曰く、初雁は連歌以来仲秋の季とされ、とりわけ八月十五夜に渡り始めるとする言い伝えがある。

時季を見込んでまず名月から初雁を引き出したとも読めるが、俳は「こんにやくばかりのこる」を見咎めて「乗懸下地敷て見る」と作ったところだ。しこりのほぐれを確かめる手振りを、下地の敷具合を試す手段に移した。もうこれで大丈夫という付である。「―敷て見ん」「-敷にけり」では、この満足感の醍醐味を伝える笑いは生まれぬ。

乗懸は、振分にして荷駄20貫を積み、人ひとりを乗せて運ぶ駅馬で、下地は鞍代りの敷物である。旅愁を誘う句ぶりは、「三五夜中新月色、二千里外故人心」-白氏文集、和漢朗詠集-の銀興なしとせぬ作りだろう。癪もようやく収まった尼を旅中の人とみて、介抱の男が早暁なにくれと宿立ちの仕度を調えてやっていると読んでもよいが、必ずしも実景と解する必要はなく、「乗懸下地敷てみる」そのものが旅心の表現だ、と。

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August 03, 2008

こんにやくばかりのこる名月

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―表象の森― 「関係論」-<うつ>という<関係>へ

<A thinking reed> 吉本隆明「心的現象論-5」/「吉本隆明が語る戦後55年-11-」所収

あらゆる枝葉を排除したあとで、人間の現存性を支えている根拠は<わたしは-身体として-いま-ここにある>という心的な把握である。この把握は感性的であっても知覚的であっても、悟性的な識知であってもさしつかえない。

このばあい<わたし>は、さまざまな度合の自己識知であり、それが<身体>に関連づけられている。この自己識知に、<身体>がことさら介入されてこないばあいでも、自己識知の根源としての<身体>は、無意識の前提になっている。<いま>は現在性の時間的な云いまわしであり、<ここに>は空間的な云いまわしである。

このばあいもっとも問題なのは<ある>という概念である。この<ある>という概念は、ふたつの否定的な態様をとりうるだろう。ひとつは、実在性の次元で身体が、客観的に<ある>にもかかわらず<ある>と感じられない-識知されない-ことがありうるということである。もうひとつは、<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性に決定的に支配されることがありうることである。例3の「身体に精神が入っていないという漠然とした感じ」とか、例10の「自分が自分のような気がしません」というのが前者の否定性にあたっている。また<うつ>病の不安や罪責感や自殺念慮は、後者の否定的な志向性に決定づけられているようにおもわれる。

「身体に精神が入っていないという漠然とした感じ」や「自分が自分のような気がしません」という訴えは、すべての妄想知覚や類似の症候に共通なもので<うつ>病に固有なものといいがたいだろう。そこで、後者の<ある>にもかかわらず<ない>という否定的な志向性が萌している不可避的な状態が問題となる。

ビンスワーガーのいうように<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の根源にたいして、<ない>という否定的な志向性が、時間の構成の仕方の失敗あるいは障害によって解きうるものとすれば、この否定は、<わたしは-身体として-いま-ここに-ない>という表現によって表象されるだろう。

しかし<いま-ここに-ない>ものが、<いま-ここに-ある>ということを否定的に志向したりすることは、矛盾としか云いようがない。そこでこの否定的な志向は<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>-<ない>という時間的-空間的な<自己了解づけ>と<自己関係づけ>の総体にたいする否定的な志向となるほかないだろう。

これは自然過程の否定として「自然現象」に属するだろうか? わたしには、そうおもえない。

<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性の識知は、その次元を自己の<身体>にたいする自己の<自己了解づけ>と<自己関係づけ>の位相においている。これは、「自然現象」でもなく「観念現象」でもなく、いわば、自然-観念現象に基づいている。自然-観念現象の次元に、人間の人間的存在の次元があらわれる。

そこでは人間は生物だけでもなければ、観念だけの幽霊でもない。この自然-観念現象の次元で<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>という現存性にたいする否定的な志向性は、現存性の<自己了解づけ>、いいかえれば時間的な志向性の否定と、<自己関連づけ>、いいかえれば現存性の空間的な志向性の否定とを包括せざるをえない。<わたしは-身体として-いま-ここに-ない>ではなく、<わたしは-身体として-いま-ここに-ある>-<ない>とあらわされるような、総体にかかる<ない>の志向である。

これは、もっともふさわしい形では、<自己了解づけ>の正常な逆立と、<自己関連づけ>の縮小や消滅によって記述的に表象される状態のようにみなされる。そして<自己了解づけ>の正常な逆立は、<過去>へ逆行しながら<原過去>へではなく、<過去>へ逆行しながら<現-現存性>へという時間的な構成によって、もっともよく表象されるようにおもわれる。これとともに<自己関連づけ>の縮小や消滅は、<自己を自己として受け入れる>ことの縮小や消滅であるために、現存性の占める空間的な意識は縮小または消滅する。

なぜそうなるのか? それを問うことは、あらためて、べつの次元からなされなければならない。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-14

  終宵尼の持病を押へける  

   こんにやくばかりのこる名月  芭蕉

次男曰く、初裏八句目は月の定座だが、前に「終宵」とあれば仲秋の名月である。
「終宵」は、「ひたといひ出す」の移りを、併せて次句に対する持成ともした詞だ。月見の宴も夜の白みかかるころともなれば、一人消え二人帰り、のこったものはこんにやゃくばかりと読んでよく通じる。

但し、それだけでは前句とのつながりにならない。観月の興の最中の突発事とみれば、一座した尼の癪押えを買って出たばかりにせっかくの酒肴から外れてしまった男の滑稽になる。

しかし、それにしても句の表面のことで、「こんにやきばかりのこる」は揉みほぐされて癪のしこりの跡形もなく消え失せたことを、軽妙に含ませた云回しに違いない。これでもう大丈夫と安堵させながらも、何となくまだ老尼の介抱から手を抜けないでいる男の、宴と尼と双方に引かれる心理がじつに面白く描かれている。

陰暦八月十五夜の月は、名月は名月でも月面平滑な月ではない。古来、名月に玉兎を見るゆえんである。とりわけ明け方知覚ともなれば月面の光は薄れ、凹凸がくまなく見える。

句は、どうやらそこを言っているらしく、癪も一段落したあと、放心して眺める月も亦「こんにやくばかりのこる」風情である。その月を仰ぎ、食べ散らされた宴のあとを横目で見遣り、指先ではしこりの消え具合を確かめている男の、諦めとも満足とも恨めしさともつかぬ滑稽を的確に捉えて、これはなかなか哀感の深い句作りだが、芭蕉が言いたいことは、「禍を転じて福となす」だろう。癪押えを買って出たお蔭で、しみじみと母の面影を偲びながら老尼と二人、本当の月見が出来たと言っている。「軽み」狙いの面目躍如たる作りで、こんな名月の句は他に例を見ない、と。

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August 02, 2008

終宵尼の持病を押へける

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―四方のたより― イシダトウショウのベケットを観た

地下鉄花園町の最寄り、昼閒はカフェの小さなイベント空間があると、デカルコ・マリィから聴いていた。

そこで偶々、CASOのイベントでお近づきになったイシダトウショウ君がS.ベケットの芝居をするというので、これを機にスペースの見聞も兼ねて観に出かけた。

会場のカフェ+ギャラリー「can tutku」は駅から26号線を南へ300㍍ほど歩いた西側で、国道に面しているし、迷うこともなく行き着いた。舞台としての使用可能スペースは3間四方ほど、客席と合せて奥に長い空間は、多少観にくいきらいはあろうが、ちょっとしたイベントにはわるくない空間。本番の始まる頃には30名ほど入って、ほぼ満席状態。

トウショウ君曰くS.ベケットの「オハイオ即興劇」と「追放者」をジョイントさせているという芝居は、モノローグにはじまりモノローグにおわる。他の二人の出演者は、無言のままに初めから終りまで舞台に在りつづける魔瑠と、後半部で舞う人として登場するデカルコ・マリィ、いずれも言葉を発することはない。音は民俗楽器のパーカッションを中心にした田中康之。

モノローグとして紡がれる言葉は、同語反復の如く行きつ戻りつ、まるで果てしなく螺旋階段を昇りゆくように繰り返され、その先端は言い淀み、無言の空白が生まれる。意味論的にはなにほどのこともない恣意的な綴られようだが、言い淀んだ先の沈黙には、無意識の穿たれた穴の如きものがぽっかりと姿をあらわす。その断絶ともいうべき穴がめぐりくるたび、どんどん底知れぬほどに大きくなっていく、といった感がある。無言の空白、そこに否応なく浮かびあがってくる得体の知れぬ大きな深い穴‥、これは心象風景などといった類のものなんかではない、「語るべきことはほとんど残されていない」といったベケットの、世界の捉まえ方の帰着するところだ。そのあたり役者の解釈の、また想いの深さゆえだろう。

そういったモノローグの世界に、音が音として入り込んでいくことは非常に難しい。音を奏でる人は、どうしてもその音の連なりで、空間と時間を満たしていきたいと思いがちなもので、たとえ逆に時空を切断しようと、意識的にその誘惑に抗おうとしてもなかなか抗いきれるものではない。そこでモノローグと音の世界は離反し、二つして協働の表象世界は加法ではなく減縮の方向へと雲散してゆくのだ。惜しい‥。

芝居を一緒に観た連合い殿の学生時代の演劇仲間であった友M.A嬢と、帰りの道すがら居酒屋に立ち寄りしばし歓談。そう、彼女はまだ嬢と付けなければならないのである。昨年の一年間は、月平均300時間働いたという、そんな苛酷な勤務状態の職場に、卒業以来すでに16年か、ずっと居つづけている。

何年ぶりだったか、ずいぶん久しぶりに逢ったので、この際、大いに叱りつけておいた。たった一つの自分自身の人生、そんなことで棒にふる気か、という訳だ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-13

   ひたといひ出すお袋の事 

  終宵尼の持病を押へける  野坡

終宵-よもすがら-

次男曰く、挿話の一つも工夫して場面の転換をはかるなら、虚実掛合の呼吸が極限にまできた、こういう箇所である。押せ押せではこんだ果ての趣向だ、ということがたぶん句案の根にあるだろう。

前句の人を、乗合船か相宿か、居合せた老尼の癪を押えてやる男、と見定めて付けている。

句眼は、「ひたといひ出す」を承けて「終宵」と取出したところだ。癪押えを男が買って出たのは、母親の同病を押え慣れた経験からのことで、その段階ではまだ男に孝養心が萌しているわけではない。尼を押えているうちに、次第に母親への慕情が募ってくるさまに作っている。

「終宵」とは、それを余情に見せた、親不孝者の悔恨の表現と受取れる。相手が偶々尼であったことも、男にとっては母親の引合せと思われてきて、上手自慢もいつしか消えてしまい、柄にない仏心も誘われているらしい、と詠み込んでもよい。心理の変化が面白くなる。とすれば母親は、亡母と考えたがるのが普通だが、もしや音信不通の親子か。後の方が面白いかもしれぬ、と。

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August 01, 2008

ひたといひ出すお袋の事

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―表象の森― 中国の山水、日本の山水

<A thinking reed> 松岡正剛「山水思想」-「負」の想像力より:承前

・山水タオイズム-逸民としての/道先仏後の思想-2世紀後半、後漢の桓帝時代、西域からの仏教伝来が動因となり、道が先で仏は後と、老子を釈迦に対抗させた/太平道の出現-黄巾の乱/逸民-官僚社会からの隠遁者たち-の山水臥遊-魏晋南北朝の時代、黄河流域に安住してきた漢民族が大挙して長江を渡り、江南の地に移動していった/王羲之の蘭亭の会、流觴曲水の宴-5世紀初頭の陶淵明と宗炳

・北の三遠、南の辺角-全景と分景/李成に勃興する華北山水画と、顧愷之を嚆矢とする江南山水画-また李思訓にはじまる北宗画と、王維にはじまる南宋画-王維の「皴法」-濃淡肥痩の線描、後に18の法に分化する/「水暈墨章」/「破墨」と「溌墨」の用法-破墨とは、「淡墨で淡墨を破る」と「濃墨によって淡墨を破る」の両あり、溌墨は、墨を注いで一気に仕上げる法/鉤勒体-コウロクタイ-と没骨体-モッコツタイ-へと受け継がれる

/北の三遠-全景山水-高遠、平遠、深遠の三遠近法を必要に応じ同一画面に採用/南の辺角-全景から点景へ、余白の重視-「馬夏の辺角」-馬遠の一角と夏珪の半辺

・而今の山水、山水一如/道元「正法愿蔵」第二十九「山水経」に曰く、「而今の山水は、古仏の道、現成なり。空劫巳前の消息なるがゆへに、而今の活計なり」-世界の中に山水があるのではない、山水の中に世界があるのだ。山と水は古今を超えて現成し、そこに時間を超えた存在を暗示する

・枯山水の発見-昔より王朝の襲の色目に「枯野」があったように、枯れる・涸れる・離れるなどの負の相に「余情」や「幽玄」の美意識を育ててきた感性が、涸れることによって水を得る「負の庭」を創出せしめた/雪舟から等伯への、日本の水墨山水の道程は、この枯山水を媒介にしてみたとき明らかとなる

・無常と山水/中村元「日本人の思惟方法」に「無常観。それは一途であって、すこぶる多様なものだったと、まずはおもうべきである」と/「山川草木悉皆成仏」、天台本覚思想が無常の肯定を陰に陽にもたらした/源信の「往生要集」、良源の「草木発心修行成仏」/常ならずとは常あることの否定ではない、否定ではなくむしろ非定の相にあろう、そのような消息をどう動かして表出するかということが探し求められたのではないか-世阿弥の「せぬ隙」、「想像の負」とてもいうべき世界を


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-12

  預けたるみそとりにやる向河岸 

   ひたといひ出すお袋の事  芭蕉

次男曰く、「みそ」と「お袋」を気分の寄合とした其人の付だが、自分もまた母親から味噌とりにやらされたものだと、旧事をとつぜん思い出したふうに作っている。

打越句が「ことしは」と謎を掛ければ、前句は「預けたる」と思い出し、三句目が「ひたと」と口に出す。「ひたと」は出し抜けに、かつ一途に、である。追憶をたねにしてうまく実情を引出している。当人が自分で味噌を取りに行ってはこうは運べない。「とりにやる」が起情を促すための持成になっている、とよくわかるだろう。

諸注、亡母年忌の用に味噌とりに行った、という見立解釈が多い。味噌とお袋は寄合だから連想はおのずとその辺に落着こうが、それは余情であって、この押せ押せの掛合に説話などとくに必要とはしない。連句解釈に見立を濫用したがるのは詞の興を見失うからだ、と。

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