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July 31, 2008

預けたるみそとりにやる向河岸

Sansuisisou

―表象の森― 雪舟から等伯へ

<A thinking reed> 松岡正剛「山水思想」-「負」の想像力より

・禅の日本化-大日能忍の達磨宗-当時としては少々妖しげな新興宗教であり、同時代の明恵などは眉をしかめた/日本に於ては、禅は禅よりも広くなった、能禅一如や茶禅一味などの謂のように/大徳寺の一休文化圏は、珠光の茶や池坊の花を生んだ

・松竹梅がなぜ禅の教えとなるか-厳寒に耐えて松は緑を保ち、竹は雪を払い、梅は蕾をふくらませる、からである

・14世紀後半、北山文化の頃は、禅と連歌と過差と風流と婆娑羅が猛烈なスピードで広まっていった/4代将軍義持に愛された如拙の「瓢鮎図」/水墨画を縦長の詩画軸型へと変容させた-古今の「様」に意を注ぎ、「様」を表意する役を担った「同朋衆」たち/この祖型を成したのは夢窓疎石だったろう/禅僧のみでなく時宗-時衆-とも関係は深かった、能阿弥、芸阿弥、相阿弥

・旅逸の画家、雪舟-1420~1506-の和光同塵-和漢習合--雪舟の後継を自称する、雪村周継/16世紀初めに生れ、85.6歳まで生きた、狂逸にして奇思あり、奔放疎野なり、「風濤図」「呂洞賓図」

・狩野元信-1476~1559-による唐絵と倭絵の融合/真行草三体の使い分け/狩野派の画工集団化

・日本文の特質、「囲い」「囲う」/茶の世界で「囲い」とは茶室そのものを指す/抑も「幕府」というものも「囲い」の発想からのものであり、幕を張りめぐらせた仮設の府である。なぜこれが武家の棟梁としての政府の名称となったかといえば、朝廷を憚ったからであり、あくまでも天皇の在す朝廷こそ正式なものと立てるためである。

・法華宗と京都の有力町衆-後藤、茶屋、野本、本阿弥など町衆の有力文化人はなべて法華門徒

・信長の南蛮異風文化への関心と受容/イエズス会の波はザビエルからヴィレラへ、ヴィレラからフロイスへと継がれ、信長とぶつかった/桃山文化は外来の南蛮文化にかぶれた時期であり、さまざまな意匠の冒険に拍車をかけた、-小袖と襦袢の流行、男の月代・女の唐輪髷の流行など、南蛮文化への好奇的な共振感覚に因っている/日本文化はコードを輸入してモードを自前につくりなおすことに長けており、そういう「様」を有している

・界を限る-demarcation-/ルネサンスの空気遠近法は、境界をなだらかな連続としてとらえ、その稜線を明らかにさせないようにした/モナリザの肩の稜線は分厚いニスによってなだらかに消え、遠景の風景と近景の人物との区切りを表す線はない/以後、マニエリスムとバロックを経て、レンブラントやフェルメールの時代になると、コントラストの強い光の投与を駆使した明暗遠近法が確立する-それが印象派の技法にもつながっている

・等伯の「松林図」-現れようとするものと消えようとするもの、顕現することと寂滅することとが一体となっており、出現と消去が同時的-crossing-なのだ/松林そのものが「影向」であり「消息」なのだ、そのものとして「一切去来」なのだ/「界を限って、奥を限らない」-「余白」と「湿潤」


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-11

   ことしは雨のふらぬ六月  

  預けたるみそとりにやる向河岸  野坡

次男曰く、心の秘を見抜かれたからには、秘伝の味噌の味でゆこう、と笑わせている。昔はめいめいの家で味噌を作った。文字どおりこれは手前味噌の付だ。

句に云う情景は、低地の家が万一の出水に備えて、例年、川向うの高台に味噌を預けると読んでおけばよいが、野坡は芭蕉のいましめが解っているらしい。秘めた恋の代りをさぐって、秘伝に思い至ったところがミソである。しかし、秘めたものが片や恋心、片や味噌の味というだけでは芸のない置換に過ぎまい。

「ことしは雨のふらぬ六月」を中にはさんで前後差し合う。初五を、はたと思い出した体-「預けたる」-に作り、さらに「とりにやる」と人手を借りる趣向に仕立てたのは、三句の渡りを輪廻とせぬための工夫である。

両吟という形式の興は掛合の面白さにあることを忘れてはなるまい、と。

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July 30, 2008

ことしは雨のふらぬ六月

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―世間虚仮― 度肝を抜く‥図

朝刊の何面だったか、眼に飛びこんできた一枚の写真に、唖然としつつも思わず見入ってしまった。

「身動きできない‥猛暑の四川」と、写真の大きさに比べれば控え目に小さな見出しがついていた。

猛暑になった中国・四川省遂寧で27日、大勢の市民が一斉に地元のプールに詰めかけ、人波で水面が見えないほどの盛況ぶりとなった-写真はロイター-。この日の最高気温は37度、と記事は伝えていた。

「中国の死海」とも呼ばれる室内の大プールだそうだが、写真を見ればわかるとおり、1万余の人の群れが溢れ、泳ぐどころか身動きもとれないほどなのに、だれもが浮き輪をもって、これが混雑ぶりに拍車をかけているのが、なんとも可笑しく笑ってしまうが、やがて哀しくもなろうかといった図である。

北京五輪もまぢか、五輪開催とは遠く隔たった地域の中国事情にもなにかと注目が集まるなか、この舞台が成都から東へ150キロほど離れた地とはいえ、あの大地震の悪夢も醒めやらずなおまだ余震の続く四川省の一都市であることが、さぞ世界中の皮肉屋たちの視線を惹きつけたものと思われる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-10

  奈良がよひおなじつらなる細基手 

   ことしは雨のふらぬ六月   芭蕉

次男曰く、陰暦六月は、水無月の別名もあるとおり、雨少なく水涸れる酷暑の月だ。それにわざわざ「ことしは」と冠したのは、昨年は雨が降ったということだろう。

これは恋-濡れ事-のこととして読めば、昨年は娘の顔も拝めたということだが、一方、晒布にしろ墨にしろ塗物にしろ団扇にしろ、奈良の特産物はいずれも雨期を嫌う、というところが付の卓抜な目のつけどころらしい。芭蕉は「奈良がよひ」の表裏を見究めて、ことばの表は雨を嫌い、裏では雨をよろこぶ人情を取出して付けている。

「ことしは雨のふらぬ六月」は、今年はさいわい雨が降らなかったという意味の裏に、娘の顔を拝めなくて残念だ、気の毒だという意味を含ませなければ成り立たぬように作られていて、言わんとするは生業と恋はとかくままならぬということである。この酷暑では雨湿りの一つも欲しかろうが、暑熱がとくに身に堪えるのは奈良通いの本義を忘れるからだ、下心も程々にせぬと元も子も失う、と芭蕉はからかっている。

句は一句では恋のかけらも見えないが、前句と結べば心憎い恋離れになっている。恋の呼出しも離れも、共に野坡ではなく芭蕉だという点に注意したい。そういうはこびを評釈というものはじつに味気なく読む、と。

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July 29, 2008

奈良がよひおなじつらなる細基手

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-09

   娘を堅う人にあはせぬ  

  奈良がよひおなじつらなる細基手  野坡

細基手-ほそもとで-

次男曰く、会わせぬと云うならよけい会いたい、見せたがらぬものなら見たい、とつけこんでいる。

細基手とはかぼそい元手、小商人のことだ。それが奈良へ通ってくるのは晒布・墨・塗物・団扇など奈良名産の買付をするためだが、「かよひ」という詞は古来、恋の詞でもある。

通ってくるのはじつは娘見たさだ、という含に滑稽の作意があり、併せて「あなじつらなる」の「つら」にも二重の意味をうまく利かせている。

「源氏物語」には「わが女御子たちとおなじつらに思ひきこえむ」-桐壺-、「はらからのつらに思ひきこえ給へれば」-竹河-などの遣方が見え、「須磨」の巻には「初雁は恋しき人のつらなれや旅のそらとぶ声のかなしき」という、古来しばしば本歌にも取られた光源氏の歌がある。

この「つら」は列の意味だが、野坡は物語の面影をかすめて、文字通り顔つきのことだと翻しているらしい。当世風俗語への執成も俳になる。業平の河内通いならぬ、奈良という仏臭い古都に通ってくる小商人は、どれもこれも-同列-、毎年、おなじ面つきをしている、と云えば話の興をつくるだろう。小商人の胸に秘めた恋は光源氏の歌のようにはゆかなくて、下世話なところに哀も歓もうまれる、尤もなことだ、とおのずからこちらは読み取らされてしまう。

拒絶の頑固さに押掛通いの辛抱強さを向かわせたうまい付だが、これはいどんで二句恋とした作りである。前一句のみで恋と読んでいる注釈があるけれど、そうではない。「娘を堅う人にあはせぬ」は次座に対する誘、恋の呼出しだ、と。

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July 28, 2008

あかり消すやこゝろにひたと雨の音

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―山頭火の一句―

句は大正11年の秋。

大正8年の秋からほぼ4年の東京暮しに終止符を打たざるをえなくなったのは、同12年9月1日、あの関東大震災の受難である。

震度7.9の大地震が起こったのは、ちょうど昼時を迎える午前11時58分。東京では地震発生とほぼ時を同じくして134ヶ所から出火したという。この日風もまた強かったというから、次々に延焼、火災はひろがり、三日間燃え続け、東京の大半は焦土と化した。

むろん山頭火も、湯島の下宿先を焼け出され、行き場をなくしてしまったが、その彼の心を完膚無きまでに打ちのめしたのは、誤認とはいえ憲兵隊による逮捕並びに巣鴨刑務所留置事件であった。

嫌疑は社会主義者に連なる者であったが、まもなくその嫌疑も晴れて数日後には釈放されている。上京の際頼みとした茂森唯士の実弟広次が内務省に勤めており、これが地獄に仏と幸い、彼のはからいゆえの釈放だった。

山頭火は、その9月も半ばすぎになって、大杉栄らが獄中の拷問で虐殺されたことを知った。
この事件は、さらに追い討ちをかけるように彼の心を打ちのめしてしまったようである。

東京という都会はなんと理不尽なものであるか、とても怖ろしい、一刻も早く逃げ出したい、そう思う人々はむろん彼だけでなく、東京脱出に駆け込む群集は何万何十万に膨れあがっていた。
東海道線は不通だったから、彼は中央線で塩尻を経て、名古屋、京都へと逃れた。震災下、国鉄運賃はすべて無料だったのである。

山頭火には京大出身のずっと若い一人の連れがあった。憲兵に逮捕される折からずっと行動を共にしていた若者で芥川某という。その若い友が、車中で突然の発熱に苦しみだし、京都で途中下車、急遽入院をさせたところ、原因は腸チフスで、彼はあっけなく死んでしまうのである。

若い友の母親が郷里から駆けつけてくるまで、山頭火はその亡骸とともに過ごし、その時を待った。
無常の親子の対面は、見るも無残、哀れなものであった、という。

山頭火の神経はもうこれ以上なにも耐えられなかったろう。
ひとり、彼は熊本へと、帰っていった。


―世間虚仮― 異常はつづく‥?

北陸地方を襲い局地的な豪雨をもたらした前線が南下、午後からは近畿のあちこちで猛威を奮い、水難事故など被害をもたらしている。

昨日の福井での突風による死傷事故もこの前線の影響なのだろうが、「ガスフロント」現象とかあるいは「ダウンバースト」とか、耳慣れぬ言葉が飛び交っている。

気象庁によれば、8月、9月もフィリピン付近の海面水温の上昇により、太平洋高気圧が発達しやすく、猛暑が続くという。一過性とはいえこういった豪雨や突風の発生は、なおさまざまありうるということらしい。

夏の積乱雲がもたらす夕立は涼味を呼ぶ恵みにて天の配剤といえようが、まこと過ぎたるは及ばざるが如し、過剰なる異常気象となれば人の世に災厄をもたらすばかり。お蔭で年々歳々、未知の気象用語を習うこととなる。

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July 27, 2008

娘を堅う人にあはせぬ

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―表象の森― 「夢の中での日常」と「パラ・イメージ論」-承前-

「言葉全体が夢とか入眠とかとおなじ状態のところで使われている、まれな超現実的な作品」として昭和23年2月に発表された短編「夢の中での日常」は、文庫にして僅か30頁という掌篇だが、「フロイト的にいえば、検閲と歪曲をとおしてあらわれた夢の場面の流れのように」、時制も空間も日常的な現実感覚からは隔たった7つの短いsceneから成っている。

「まず意味論的な流れがあると、次にそれと対応している像論的な流れがくる。そしてその流れをつなげる意味と像の溶接部位があるかとおもうと、流れを切断するようなパラ・イメージの切断があって、そこから異質の場面へ移っていったりする。ふつうの文学作品ではそれぞれの言葉の内部でおこなわれるはずのものが、文脈の流れの領域と領域のあいだでおこなわれている。」

「レプラ-癩病-の旧友が突然現れたことが、罪障感や不安、おののきだとすれば、レプラの旧友からあんたもやっぱりそうだったのかという呪詛をあびながら追っかけられて、たまたま受付の少女が取っ捕まった隙に逃げ出した行為は、罪障感、不安、おののきが永続的であることを証拠立てるものだ。作者は無意識の扉を意図的に半開きにしてみせて、この永続性の相を下の方から仰高するパラ位置の像に転化している。」

「ここでひとつの場面とちがう場面の接合ということ、あるいは溶接の仕方について触れてみたい。作品のなかでは起こってくる事象は言葉の実在であって、言葉が実在の事象なのではない。どんな事象が起こるか起こらないかは、言葉の概念と像の位置がきめるので、極端にいえば作者がきめるのではない。場面と場面の接合はしぼってゆけば意味論的な場面と像的な場面との溶接にゆきついてしまう。場面と場面が繋ぎ合わされるにはどこかで概念と像との繋ぎ合わせの部分がつりあっていなくてはならないはずだ。」

「文学作品の内部では言葉の限界が世界の限界をきめている。この世界を拡大するには言葉がまず輪郭を崩壊させ、像を深刻化してゆく状態は、はじめに考えられていいことだ。文学の当為は文学作品の内部にはまったく存在しない。言葉の概念にも像にも当為が棲みつく場所はどこにもないからだ。文学いう制度を保守したい批評家だけが文学作品のなかに擣衣を密輸入しようとするにすぎない。文学の世界観は言葉の世界観だ。言葉の世界観は像の世界観だ。そもそも三次元の現実世界などというものがあると錯覚して生きていられる頭脳は、古典近代まででおしまいなのだ。」

・手を休めると、きのこのようにかさが生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に猛烈な腹痛が起った。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい腹の中のものをえぐり出そうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。‥

「この<裏返った身体>の状態は、ふつうの言葉に対してパラ位置にあるふつうの鮮明な映像ではなくて、オルト位置の言葉の像-夢または入眠状態の言葉-に対してパラの位置にあるオルト-パラ位置の言葉の像を実現したことにあたっている。<裏返った身体>あるいは<表面のない身体>がどんな実在の身体をさすのでもないように、あるいはオルト-パラの言葉もまたどんな実在の像をさすのでもない。むしろ意味の流れを視覚像-映像-とはちがった-たぶん死の向う側から投影されるという比喩で語られるような-像によってまったく置き換えてしまった言葉の位置を意味している。それは視覚器官を媒介せずにつくられた像、あるいはすでに概念がまったく減衰された状態ではじめて可能な言葉の像だといってよい。」


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-08

  御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 

   娘を堅う人にあはせぬ   芭蕉

次男曰く、丹精して育てるのは草花ばかりではあるまい、という冷かしに笑いの筋がある。

「御頭に」ではなく「-へ」と人間くさく遣った点を見咎め、「菊」を女名前に執成して軽口のたねとした作りで、事のついでに娘まで貰われてはかなわぬ、と云っている。

但し、前句の余意・余情と考えると、打越以下三句同一人物の感想となりはこびが瞭かに滞る。したがって、別人の付と解するしかないところだ。他に鑑みて用心する体である。人物は立話の相手方でもよい。

双方いずれ似たような性質の経験があって、「藪越」に警戒しながら話を聞いて肝に銘じるらしく読ませるところが面白い。「めいわくさ」に「堅う人にあはせぬ」は詞映りの取出しだ。

古註以下いずれも同一人物の付と見ているが、そうではない、と。

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July 26, 2008

御頭へ菊もらはるゝめいわくさ

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―表象の森― 「夢の中での日常」と「パラ・イメージ論」

島尾敏雄の短編「夢の中での日常」、この超現実的としかいいえないような作品世界を、吉本隆明は「ハイ・イメージ論Ⅱ」のなかで「パラ・イメージ論」なる一章を設けて、図形論的に解読してみせている。

それを一言で云うならば、言語における概念と、その言語が喚起しうる可変的な像との関係を、有機化学における、一般に基同士の反応する位置関係を表す、オルト-o-・メタ-m-・パラ-p-を導入し、図形化しようというものであるらしいが、高校化学の知識すらすでに遠い彼方の霧の中状態の私などには、取り付く島もないような言葉の叛乱で、まるでお手挙げなのだ。

先ずは、オルト-o-とはなんぞや、メタ-m-は? さらに、パラ-p-とは? さしあたりこれら有機化学の基本的keywordらしいものをごく大雑把に理解するのに、あれこれとネットをググってみたりして、数時間を要してしまったような始末である。
いろいろ見ていくと、オルト-パラ転化=o-p変換の反応では一般に自己発熱が生ずる、ということもわかってきた。

まるで泥濘のなかの落とし物を手探りで掻き分けしているような悪戦の果て、やっと本論を再読にかかる。なるほど少しは見通しよくなってきた。

「文学作品がどんな自意識の手でつくられても、いつも無意識の達成をふくんでいる。‥書き手の主観的な思い入れは、いつもいくぶんかは意図と実現の食い違いにさらされる運命にあるといっていい。これが文学ということの意味なのだ。」

「あるひとつの文学作品のなかで、言葉が像をよびおこすときその像をどう位置づけたらいいのか。‥この像は印象からいえば言葉として意味の流れを減衰させているようにみえる。その減衰をいわば代償としておぼろげな像を獲得しているといえそうなのだ。‥言葉の概念と像のあいだに内から連関があり、しかも概念の強度が減衰するのと言葉の像が出現するのとが逆立するようにかかわっていることを前提にしてみる。すると入眠状態あるいは夢の状態がいちばんこれにちかいことがわかる。この入眠または夢の状態は、ひとつの極限として、ちょうど無意識の独り言が音声をともなわないで呟かれている状態になぞらえられる。‥これとまったく逆の極限をかんがえれば、像が場面ごとに不連続で、意味の流れなどとうていたどれなかったり、前後がアト・ランダムで流れなかったり、まったく荒唐無稽になってしまう場合がありうる。でもどの場合も、像が連続している状態を、無意識に実現している。」

「文学作品の言葉がある場面で像をよびおこしているとき、言葉はこのふたつの極限を境界にして、その内側にある帯のどこかに位置づけられると思える。その位置は言葉の概念が意味の流れとしてさしだすものを減衰させはするが、それの代償としてかすかな像をあらわしている状態だ。この位置は、いってみればオルト-ortho-の位置なのだと思う。オルト位置では言葉は意味の流れをつくりあげる機能をいくぶんか減衰させ、それにともなって、微かな像を手に入れている。」

「なぜオルト位置とみなすべきか。メタ-meta-の位置では言葉の意味の流れはいっそう弱まってしまう。そしてそのかわりに像化の強度はいっそう加わっていく。このメタ位置ではすでにふつうの言葉の概念の群を統轄する像とか、像と像とを概念が統轄している状態を想定したほうがいいことになる。またパラ-para-位置では像の強度としては視覚の映像とひとしい鮮明さを想定しなくてはならず、言葉の像としては不可能にちかくなる。そこでふつうの言葉の像と概念を、もうひとつ垂直の次元から-いいかえれば巨視的な世界視線と対応して微視的に-鳥瞰的に統轄する像の意味をもつことになるため、とうてい言葉の第一次的な像化にふりあてられない。」


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-07

   藪越はなすあきのさびしき 

  御頭へ菊もらはるゝめいわくさ  野坡

次男曰く、秋三句目、初裏の折立である。

前句を組屋敷などの庭垣と見て、組頭を第三者とした立話の内容を付けたか、あるいは立話の当事者の一人が組頭で、組下の口には出さぬ心の内を付けたか、どちらにも解せるが「さびし」の及ぶところ「めいわく」にまて゜なる、という考え方が面白い。

秋が終ればあとはいよいよ冬籠りだけ、と季節の移りも含ませて読めば心に蓋をした表現が更によく判る。

「もらはるゝ」とは云い得て妙で、手放す辛さ・困惑をおもてに出せないでいる組下と、貰ってやることを報奨の美徳とでも思っているらしい御頭との、ちぐはぐな心理を軽妙に言いあらわしている。。「御頭に」ではなく「御頭へ」と作るから、たかが菊一株と雖も別離の情は人間くさく尾を引く。そこに俳があるだろう。

「めいわくさ」はじつは情けなさでもあるのだが、仮にここを「なさけなさ」と据えれば情の露骨が句を粘らせる。「めいわくさ」は、心の本当のところは口に出さず、突き放した表現だ。そこに「藪越はなす」の閒の取り様もうまく映る、と。

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July 25, 2008

炎天せまるわれとわが影を踏み

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-山頭火の一句-

句は大正7年「層雲」所収の「汗」11句の一。

一ツ橋図書館に勤務するようになってやっと小康を得た山頭火の暮し向きであったが、大正11年夏頃から彼は原因不明の不調に陥っている。頭が重く、ときに頭痛、不眠が続いた。

医者の診断によれば強度の神経衰弱。
「頭重頭痛不眠眩暈食欲不振等ヲ訴ヘ思考力減弱セルモノノ如ク精神時ニ朦朧トシテ稍健忘症ヲ呈ス健度時ニ亢進シ一般ニ頗ル重態ヲ呈ス」との診断書を添え、彼は、当時の東京市長子爵後藤新平宛、退職願を大正11年12月20日付で出している。

遡れば、明治37年2月、疾病の為、早稲田大学を中退したのも、この神経衰弱ゆえであった。当時、防府の実家では、二度にわたって屋敷を切り売り、仕送りは滞っていた。経済不安が心神耗弱のきっかけではあったろうが、彼の無意識に巣くう不安や強迫の念はもっと根深いところにあるものと推量されよう。

―四方のたより― 琵琶のアナクロリズム

夜は琵琶五人の会、会場もお馴染み文楽劇場の3F、小ホール。

今回は幕末物あるいは明治維新物というか、そんな趣向の演目がずらりと並んだ。
「新撰組」「坂本龍馬」「井伊大老」「白虎隊」「西郷隆盛」

おそらくはこれらの演目が成ってきたのは、明治も後期から末期、富国強兵と殖産興業の掛け声高く、海外雄飛へと意気盛んであった時代だったのであろう。詞が聞くに堪えないほどに月次で、忠君愛国の志を謳い上げる。

近代化の洗礼をきわめて特殊な時代思潮のもとに浴びてしまった琵琶曲の、もっともつまらぬ部分ばかりが際立つ演目の並びは、微かな古層さえ匂わぬ世界としかいいようもなく、この硬直したアナクロリズムにはどうにも辟易させられた。

琵琶界の中堅からすでにベテランの境に達しつつある人たちが、このあたりの問題にさしたる自覚もないのだろうか、この点が不思議でならぬ。

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July 24, 2008

藪越はなすあきのさびしき

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―世間虚仮― 暑中お見舞

本ブログお訪ねの皆様へ

暑中お見舞い申し上げます。
大暑の候なれば、何にもましてご自愛のほどを。

年を経るごとに、都会の夏がいよいよ身に堪えるようになってきました。
かといって家族挙げて何処かへ遁走するわけにもゆかず、またその甲斐性もなく、
ひたすら猛暑の過ぎゆくを、動かず騒がず、じっと待つのみ。

今日明日と大阪は、名にし負う天神祭、
私の住む地域でも、末社の天満宮が繰り出す神輿でしょうか、
ときおり祭り囃子が耳に届いてくるのですが、此方の御腰?は挙がる気配なし。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-06

  宵の内はらはらとせし月の雲 

   藪越はなすあきのさびしき  野坡

藪越-やぶごし-は

次男曰く、隔てるものを「雲」から「藪」に取替えて、景を人情に奪い返している。

見易い付だが、打越に「上のたよりにあがる」とあれば、間接とした思付が輪廻気味に読めて気になる。なるが、打越の芭蕉句は噂の作り、こちら野坡は実の作り、とすれば、この奪い方はむしろ差合を避ける工夫と賞めるべきだ。つれて、「月の雲」という詞はもともと虚実を兼ねた遣方だ、と読取らされるから連句は面白い。

和歌はもとより連歌にも表れてこなかった表現の趣向であることがよくわかるが、先蹤は貞享元年「冬の日」の「月とり落すの巻」に、

烹る事をゆるしてはぜを放ける 杜国
  声よき念仏藪をへだつる   荷兮

とある。烹-に-るのを赦したことを藪越しに聴く念仏唱名のゆるやかさに移した付もうまいが、不安不定を離れる工夫に、さびしいから藪越しに話す、と作った人なつかしさの考え方も劣らずよい。

一読、雲隠れ月のもどかしさに着目して、藪越しの話をもどかしがる体に作ったようにも読めるが、そうではない。藪は、相手の顔が向こうに見えるほどの薄い藪垣だろう。前句の人を付けたと解するにはあたらない。この実人情の取り出し様は、秋深まる、とてあらためて認識した句ぶりである、と。

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July 23, 2008

宵の内はらはらとせし月の雲

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-05

   上のたよりにあがる米の直 

  宵の内はらはらとせし月の雲  芭蕉

次男曰く、初折ノ表五句目、最初の月の定座である。
月は兼三秋の季語だが、無月-八月十五夜の曇り月-という季語がある以上、「月の雲」は仲秋名月の傍題と考えるべきだ。

くもれる十五夜を、
「月見れば影なく雲につつまれて今宵ならずば闇に見えまし」–山家集-
という西行の歌がある。

作物の出来は天候に左右される。相場の不定・変動に着眼して「月の雲」を取り出し、さらに「宵の内はらはらとせし」と被せたのは、手練にとってはたいして苦労もない思付だったろうが、やはりうまい。二句、人情と景を一望に収め、それぞれの明暗の情を見事に釣り合わせている。

「はらはら」は、文字通り「はらはら」か、「ばらばら」かそれとも「ぱらぱら」か、いずれでもよいというわけにはゆかぬが、同じことは元禄7年9月19日、難波の其柳邸夜会での挨拶吟、
「秋もはやはらつく雨に月の形-なり-」、にもいえる。

どちらも不安心理という点では「はらはら」雨、「はらつく」雨がよいと思うが、かたや死の直前の発句、かたや「炭俵」という擬態-声-語に一興をもとめた撰集の句であるから、同じに解するわけにゆかぬかもしれない。前句に「米」とあれば「ぱらぱら」かもしれぬ。「のつと」「雉子-のつとり-」と同じ式の連想である、と。

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July 22, 2008

上のたよりにあがる米の直

Db070509t036

―世間虚仮― 厄日‥?

今日から大暑、その名に恥じず、暑い、暑い、とにかく暑い。

子どもにとってはなにもかも初めて尽しの夏休み。
今日から始まる朝のラジオ体操に出かけてみたが、広いグランドにパラパラと5.60名程度か。
朝のこの時間帯はさすがにまだ過ごしやすいし、ちょっとした運動になるから、朝の食事にもいいのだが、
子どもにとっては、同じ一年生などの顔見知りとて見かけなかったようで、これでは日課にするのも少しばかり心許ないかと思われた。

うだるような暑さの昼日中をやり過ごしたと思ったら、災厄はその矢先にやってきた。
いつも火曜日の午後は、子どもをピアノ教室に送り届けるのだが、自転車で行けばよいものを、このところの暑さで車通いになっていたのだ。
いつもなら、レッスンの終るのを、半分ほどは路駐の車の中で、あとの半分ほどを教室内で待つたりするのだが、暑さ呆けの所為か今日はずっと教室内で過ごしたのである。

レッスンを終えて、二人して外へ出てみれば、なんと停めていた車がない!
レッカー車で御用と相成っていたのだ、‥たく、もう‥コトバもない‥嗚呼、嗚呼。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-04

  家普請を春のてすきにとり付て 

   上のたよりにあがる米の直  芭蕉

上-かみ-、米の直-ね-値段

次男曰く、花月の規範は春秋にあるから、歌仙式では二花三月のほかに一巻中一度だけ素春を許しているが、春興行の場合、発句以下三句を素春に作る事例が多く、この巻もそれである。実は、常套と見えるこの発端が、後に意外な工夫・趣向を生むことになるが、改めて説く。

句は、前を威勢の良い棟上げとみて、「上-方-のたよりにあがる」と付けている。「米」は棟上餅の縁である。重ねて遣った「上、あがる」が少々煩い気がしないでもないが、祝餅は紅白だと考えればそれも亦よし、前句の含をめでたごとあっての普請と読取った付と考えてもよい。

場を山家から町家に引移して、第三の句の転意の成就としている。大坂の蔵元淀屋の米市-堂島米相場の前身-あたりのことだが、こういう素材を持出したのは、相手が両替屋越後屋の手代だということと無関係ではない。

因みに、越後屋が江戸の本両替仲間に加入したのは元禄2年、大坂高麗端にも店を開設したのは翌3年8月から4年2月にかけてのことで、もともと公金為替制度を幕府に献策したのは三井高利である。

諸注「上とは都がたなり。米の直の昂るは農家のよろこび也」-露伴-、「農家に取っては嬉しく喜ばしい世相に転じたものであって、二句一連の間からは、活気に満ちた喜悦の情趣が十分に酌み取られる」-能勢朝次-などと云うが、
幕藩体制下、米価が上ってもただちに農家が潤ったわけではない。また、大坂堂島で帳合米の取引が公許されたのは享保15(1730)年、米会所が開設されたのは更に下って明和8(1771)年のことである、と。

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July 21, 2008

家普請を春のてすきにとり付て

Db070510015

―世間虚仮― 世界に冠たるクマゼミ

大阪のクマゼミは、世界で一番煩い、のだそうな。
最盛期には長居公園で93.8dbを記録したというその音量のほどは、騒々しい工場内を上回るほどといわれるから凄まじい。

「大阪のクマゼミの発生-予測と実況-」というsiteがあり、今年の予測と日々の実況を記録してくれている。

これによれば、今年の初鳴日は7月9日だったとかで、18日にはすでに騒音期-10分間平均で70db以上-に入っているそうな。
さらに喧噪期-同じく80db以上-に突入し、そして超喧噪期-同90db以上-を迎え、そのピークへと達し、やがて喧噪期へと下り、クマゼミの夏を閉じるということになる。
siteの記録によれば、18日に736db、19日に73.5dbと推移し、20日には79.0dbとなっているから、喧噪期目前というわけだ。

私が住む処で、朝の寝起きに蝉の鳴き声を聞いたのは、たしか12日だったから、3日遅いことになる。場所が異なるので一概にいえまいが、この伝でいけば今朝にも騒音期に入ったかということになる。いずれにせよ日毎その音量が増し増してきているのは、この耳が知っている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-03

   処々に雉子の啼きたつ   

  家普請を春のてすきにとり付て  野坡

次男曰く、梅は桜と違って中国からの渡来で、本邦自生ではない。したがって薬用にせよ観賞にせよ日本の梅は古来栽培種で、山路のあちこちに随意に見かける花木ではない。

「山路」は山里だと見定めて、「-啼-たつ」を「家普請」-立つ、建つ-に奪っている。「手透き」も「処々」からの映りの工夫だ。

農家の手透きは小正月も済んだあと、陰暦1月末から2月初にかけて。句は景の春色を人事のそれに転じ、雉子の鳴声の勇ましさも家普請の音にひびかせている。嫁迎えか、隠居か、別家か、前句のめでたさをも移した普請であることは言外に現れる、と。

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July 20, 2008

処々に雉子の啼きたつ

Db070510017

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-02

  むめがゝにのつと日の出る山路かな 

   処々に雉子の啼きたつ      野坡

処々-ところどころ-に

次男曰く、景気を付添えた脇である。景気は景曲とも云い、広義にはいわゆる景色のことだが、鎌倉時代の二条家歌論書「愚秘抄」に、

「見様体-平淡にして見たままの体-と面白体と多分同様なるべし。さればおもては見様を先として、底に面白体を兼たらん歌を景曲とは申すべきにこそ」とある。

芭蕉も、「発句に云残したる景気を言添たるをよろしとす」-初懐紙評注も貞享3年-と云っている。

雉子は、古俳書では初もしくは仲春に扱っている。野坡の付句は、当季当月を継いだとも、やや先へずらして陽気を強めたとも、いずれに解してもよいが、羽音高く、声勇ましく、日の出を得てあらためて匂い立つ観ののある景曲をよく言添へている。

句に誘われて眼を遣れば開花はまだ枝の「処々」、さればこそ梅が香だと嗅覚をまず視覚に移してから、あらためて山路の景物に気付いたふうに作っている。

「雉子の啼きたつ」は「のつと日の出る」のひびきだが、野つ鳥とは雉子のことである。
「万葉集」巻16の長歌に「‥春さりて 野べをめぐれば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 来鳴きかけらふ‥」、転じて「のつとり」は雉子の枕詞として用いられ、
同巻13には「こもりくの 泊瀬の国に さよばひに わが来れば たな曇り 雪はふり来 のつとり 雉はとよむ 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ」という問答歌がある。

野坡の脇が「のつと」を巧みに「のつとり」に奪って工夫したことは間違いないが、芭蕉の側にも、そう読取らせる期待が無かったとは云えぬ。いかにも「炭俵」風に相応しい思付である。「ぬつと」を「のつと」に取替えた狙いは、客-芭蕉-の手土産の趣向だと見ることができる。開けてみたら造語だった、というところが甚だ洗練されている、と。

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July 19, 2008

電車終点ほつかりとした月ありし

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―山頭火の一句―
句は先と同じ「層雲」大正9(1920)年1月号所収

皮肉なめぐりあわせというか、サキノとの離婚が戸籍上成立してしまった-大正9年11月11日-同じ月の一週間後、山頭火は砂ふるいの肉体労働から解放され、東京市役所臨時雇員に昇格、一ツ橋図書館への勤めに変わっている。
さらに翌年6月にはアルバイトから本採用となり、月給42円の職員となっている。

山頭火は2年と少し、この一ツ橋図書館の勤めを全うした。職務のかたわら大いに読書にもいそしんでいる。一箇所に落ち着けない習性の彼にとって、長いといえば長い、比較的安定した時期であった筈だが、本来いそしむべき句作には戻り得ていない。

熊本に置き去りにされたサキノも、実家の干渉から無理矢理離婚させられたとはい
え、ひとり息子の健を育てながら、山頭火のはじめた「雅楽多」の店を守り続けており、彼らの間に格別の事情の変化はなかったようである。

山頭火の友人らをして、「美しい非のうちどころのない人」と言わしめた妻であってみれば、山頭火の内に潜む欠落感は、この良妻賢母型のサキノを前にしては、却って不安を募らせ苛立たせるほうへ、退行的な行為へと駆り立ててしまう結果を招いたのかも知れない。

―表象の森― 世紀の子

「レオナルド・ダ・ヴィンチが人体の陥凹を探り、屍を腑分けしたように、わたしは魂を腑分けする」

1944年1月23日、ムンクは誰にも何も告げず静かに死んだ。息を引き取ったこの日の午後も、彼はドストエフスキーの「悪霊」を読んでいた。

死の床に就いたときにみつめたもの、それは彼自身が描いた一枚のヌード画だった。ムンクはこの絵の女性を、ドストエフスキーの小説「やさしい女」の自殺したヒロインに因んでクロポトカヤと呼んでいた。

「‥ わたしは生まれたときにすでに死を経験している。ほんとうに生まれるのは、ひとはこれを死と呼ぶが、まだ先のこと。わたしたちが去るのではない、世界がわたしたちから去ってゆくのである‥‥わたしの屍は腐り、そこから花が育つだろう、わたしはそうした花のなかに生きつづける‥‥死は人生の始まり、新たな結晶化の始まりである」

この「世紀の子」が死を迎えたオスロは、このころナチス・ドイツの占領下にあった。
ナチスは一芸術家のこの静謐なる死に、麗々しく飾り立てた大祭を執り行い、彼の葬儀を徹頭徹尾国策宣伝の具と化し、蹂躙した。

若き日のムンクが最愛の母と交わした、いずれの日にかふたたび結ばれ、二度と別れることのないように、との約束を守ることまでが妨げられ、父母らの眠る墓にともに葬られることは許されなかった。

―今月の購入本―

・松岡正剛「山水思想-「負」の想像力」ちくま学芸文庫
水を用いずに水の流れを想像させる枯山水の手法を「負の山水」と名づけ、その手法が展開される水墨山水画に日本文化独自の方法を見出す。雪舟「四季山水図巻」や等伯「松林図」などの作品を取り上げ、それら画人について解説。

・日高敏隆「ネコはどうしてわがままか」新潮文庫
第一部は「四季のいきもの博物誌」、不思議に満ちているように見える生き物たちの行動にはそれぞれ理由がある。クジャクの男選び/カタツムリの奇妙な生活/滑空するムササビ/ネコはどうしてわがままか/など、その秘密を解くプロセスも興味深い。第二部は「いきもの」もしょせんは人間じゃないの!?。すねる/きどる/落ちこむ/迷う/待つ/など、人間のちょっとした行動を動物行動学から見たら。

・島尾敏雄「出発は遂に訪れず」新潮文庫
表題作の他、島の果て/単独旅行者/夢の中での日常/兆/帰巣者の憂鬱/廃址/帰魂譚/マヤと一緒に、を収録

・スピノザ「エチカ-倫理学 -上-」「々 -下-」岩波文庫
典型的な汎神論と決定論のうえに立って万象を永遠の相のもとに眺め、人間の行動と感情を嘆かず笑わず嘲らず、ただひたすら理解しようと努めた。ドイツ観念論体系成立の、また唯物論的世界観の先駆的思想。中古書

・島尾敏雄「幼年期 - 島尾敏雄初期作品集」弓立社
70部の私家版「幼年期」が作られ、贈本として当時の知友たちに配られたのは、昭和18年9月末に九州大学を繰上げ卒業して海軍予備学生に志願する、その年の春である。これを原形にいくつか増補され徳間書店版「幼年期」が成ったのが昭和42年、本書は巻末の大平ミオとの「戦中往復書簡」ほか諸々の小篇がさらに付され昭和48年に出版された。中古書

・広河隆一編「DAYS JAPAN -災害と生命-2008/07」

―図書館からの借本―

・石井達朗「身体の臨界点」青弓社
シャーマニズム儀礼、ヨーロッパの道化芸、バリ島の民俗舞踊、日本が生んだ舞踏、そして内外のコンテンポラリーダンスなど、領域を横断して多元文化的な位相をもつ身体表現を多様な文脈とリンクさせ「発話する身体」を問う論考。

・S.プリドー「ムンク伝」みすず書房
わたしの絵は告白である。絵を通じて、わたしは世界との関わりを明らかにしようと試みる。19世紀末、虚無と頽廃の空気に覆われた時代、最愛の母の死、強い絆で結ばれた姉の喪失、妹にとりついた精神の病、貧困、宗教の束縛‥家族を襲い、人生を導く不気味な力に、ムンクは終生怯えていた。

・I.プリゴジン「確実性の終焉 -時間と量子論,二つのパラドクスの解決-」みすず書房
プリゴジンの「存在から発展へ」「混沌からの秩序」を継ぐ本書が指し示すのは、非平衡過程の物理学と不安定系の動力学に基づき、揺らぎやカオスを導入することによって、自然法則の新しい定式化が果たされるということである。そこでは自然の基本的レベルにおいて、時間の流れが導入され、確実性ではなく可能性が、進化発展しつつある宇宙が記述されるに至る。

・川島博之「世界の食料生産とバイオマスエネルギー-2050年の展望-」東京大学出版会
世界の食料生産、供給、貿易などの現状を、FAOや世界銀行のデータに基づいて網羅的に分析。食との競合が危惧されているバイオマスエネルギーや、食料生産が環境に与える影響についても言及しつ、2050年の食料と環境を展望。

・日高敏隆「動物と人間の世界認識-イリュージョンなしに世界は見えない-」筑摩書房
昆虫たちは彼らの見ている世界を真実と思っているだろう。われわれ人間はわれわれの見ている世界を真実だと思っている。これは昆虫と人間が、それぞれのイリュージョンによって認知しているということだ。われわれに客観的というものは存在しないし、われわれの認知する世界のどれが真実であるか、と問うことは意味がない。ではいったいわれわれは何をしているのだと問われたら、それは何かを探り考えて、新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいる、ということに尽きる。

・「吉本隆明が語る戦後55年-1-60年安保闘争と「試行」創刊前後」三交社
以下、「-2-戦後文学と言語表現論」「-3-共同幻想・民俗・前古代」「-4-フーコーの考え方」「-8-マス・イメージと大衆文化/ハイ・イメージと超資本主義」「-9-天皇制と日本人」「-10-わが少年時代と少年期」「-11-詩的創造の世界」「-別巻-高度資本主義国家-国家を超える場所」

このシリーズの中心となるのは、95-98年にかけて、山本哲士らが「週刊読書人」にておこなったインタビュー。標題のごとく吉本隆明が戦後50年を契機に、自らの思想の営みと戦後史を照合しながら総括するとなれば興味深い企画ではあろうが、「吉本隆明研究会」を標榜する山本哲士らは、そのインタビュー素材を水増し、僅か150頁足らずの並製で1冊2000円もの嗜好品を12冊も拵え上げてしまっている。

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July 18, 2008

むめがゝにのつと日の出る山路かな

Db070510016

―表象の森― 歌仙「炭俵」

「炭俵」は野坡-やば-が主撰者となり、弧屋-こおく-と利牛-りぎゅう-が扶助。三人とも呉服・両替商越後屋-三越・三井の前身-江戸店-日本橋駿河町-の手代である。
元禄6(1693)年にはじまり、7年6月28日奥付板。諸家四季発句256句、歌仙7、百韻1を収め、内芭蕉指導による歌仙3つを含む。京の井筒屋・江戸の本屋藤助から上梓され、芭蕉晩年の軽みを代表する撰集として上方ではいちはやく評判をとっている。

「夷-えびす-講の巻」-芭蕉「振売の雁あはれ也ゑびす講」・野坡・弧屋・利牛、元禄6年10月20日。

「梅が香の巻」-芭蕉・野坡の両吟歌仙、7年初春。

「空豆の巻」-弧屋「空豆の花さきにけり麦の縁」・芭蕉・岱水-たいすい-・利牛、7年初夏。
いずれも深川芭蕉庵で興行。

「梅が香の巻」連衆

・芭蕉 「猿蓑」撰集を果たした俳諧師は、元禄4年9月28日膳所の無名庵を出て、桃隣を伴い東下の途についた。10月29日江戸着、細道の旅立から2年7ヶ月ぶりである。翌5年5月、再興成った芭蕉庵に入る。8月許六入門、9月膳所から酒堂が下ってきて食客となる-6年1月迄-。6年3月猶子桃印病没-33歳-。7月盆過ぎから1ヶ月間客を謝し閉関した。能役者の宝生暢栄-俳号沾圃(せんぽ)-、越後屋手代、深川茶人衆-杉風一派-と三者三様の新風を模索させるべく芭蕉が動き出したのは、そのあと、6年秋冬の交からである。
7年5月11日、西に上った。10月12日大坂で歿、51歳。

・野坡 竹田氏。寛文2(1662)年福井に生れ、幼時、父に伴われ江戸に出、越後屋に奉公した。初号野馬、句の初見は其角編「続虚栗」-貞享4(1687)年刊-入集の10句・1歌仙-弧屋・野馬・其角-で、既に芭蕉の縁辺に在ったと思われるが、足繁く深川へ通い、親しく教えを受けるようになったのは元禄6年の秋以降、弧屋・利牛も同伴だったろう。「炭俵」が成ったとき33歳。
その後の野坡は、越後屋を退き、宝栄元(1704)年には大坂へ移って門戸を構えたが、40歳以降の大半は九州の肥・筑・豊を股にかけ遊説し、西国に強大な勢力を築いた。門人一千人と云い、元文5(1740)年79歳、大坂で歿。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-01

  むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉

次男曰く、歳時記には「梅が香」を「梅」の傍題として初春に置く。句は早春山路の景を詠んで、一読自明のようだが、「梅が香」という季語は微妙な季語である。

「香を探る梅に藏見る軒端哉」
貞享4年12月、「笈の小文」の旅で名古屋に立ち寄り、当地の防川邸に招かれたときの挨拶の吟。
梅花や花橘の香を「尋ぬ、尋-と-む」という遣方は古歌に例を見るが、尋梅はいずれも春の部類。「探る」と云替えて冬季に移し、初句切れに扱った大胆さは芭蕉の季語工夫の好例で、「探梅」を冬の季題として句に詠み込んだのは芭蕉が最初だろう。

その俳諧師が遣った「むめがゝ」は、「梅」の傍題として云捨てて済ますわけにもゆかぬ。同じ頃「むめが香に追もどさるゝ寒さかな」とも詠んでいる。こちらは余寒-初春の季、立春語の寒さ-の一工夫である。興の晴陰共に無ければこういう句は作らない。

ふと匂うのである。その匂いをたぐってゆけば、思いがけず、「のつと」出てきたまぶしい朝日に逢った、あるいは寒さが急に立ちかえった、と言っているのである。片や、まだ冬だと思っていたがやはり春だと言い、片や、春だと思ったのにまだ冬だった、と言っているところに面白さがある。

形状を感覚的に捉えた俚言や流行語を多用する風潮は、「炭俵」の頃からとりわけ目につく。「どんど」「ひよつ」「ちよつ」「うつすり」「はんなり」など、多くは狂言・浄瑠璃・歌舞伎などから流行った言葉らしいが、拾い出せばきりがない。俳諧が当座の挨拶である以上、自然の成行とも見なせる。しかし即興の言葉はもともと、本来の表現が珍しさを失ったから生まれてくるものだ。遣方によっては重くれるだけで、詰らせたり畳んだりの工夫をしたところでいずれは頽る。だからこそ遣ってみたくもなるのだが、「軽み」をめざした俳諧師が俗談平話のこの罠に気付かなかったはずはない。

このあたりの事情について、去来の「旅寝論」には、「其角一日語て曰、今同門の輩先師の変風をしたふものを見れば、梅が香にのつと日の出る山路哉と吟じ給へば、或はすつと、きつと、などいへり。師ののつとは誠ののつとにて、一句の主也。門人のきつと、すつとは、きつともすつともせず。尤見ぐるし。晋子是を学ぶ事なし」と伝えている。其角にはよほど風潮が苦々しく映っていたらしいが、それに対して去来は、「用ゐるまでもなく、同じくは遠慮すべき言葉也」と言いながらも、「雅兄のいへる所は先師の流行をしるものにあらず」、「初学のものは句を似せ言によるも又よし」と弁護している。

日ごろ俳諧も旅の一躰と考え文台引下せば句は反古だと割り切った男の興は、まねて真似られるものではないから、角と来の問答はそれぞれに言い分がある。芭蕉の山路の吟は、詠み古された梅が香の景気をあらためて探っていたら、言葉の行詰りに思いがけずそれを見つけたと言いたげである。

因みに、「のつと」は「ぬつと」と云っても意味はやや同じだが、芭蕉の造語のようだ、と。

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July 17, 2008

悲しみ澄みて煙まつすぐに昇る

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―山頭火の一句―

先句と同様「層雲」大正9年1月号所収。

山頭火は疲れていた、肉体ばかりではなく神経もまた‥。

大正9年のいつ頃か、妻サキノの実家から、彼の下宿に一通の手紙が届いた。
サキノの実兄からのもので、内容は、彼の不行跡を厳しく咎める文面。さらに離婚届の用紙が同封されていた。

後年、離婚の一件について妻サキノは、
「里の兄が早うから、種田はぐうたらで、らちがあかぬ。あんな奴と一緒にいると、ろくなことはない。縁を切って戻れ戻れとやかましく云うていました。熊本へ来て4年ばかり経ったとき、山頭火は東京から兄の書いた離婚届を郵便で送ってきました。見ると印を捺しちょるでしょう。そうすると山頭火も兄と同じ考えだなと思って、私は印を捺して実家の佐藤へ返しました。あとで山頭火が戻ってきたときにきいてみました。やっぱり縁を切る気だったのですかと。なあに兄さんがやかましく捺せ捺せというてくるので、わしは捺しちょいたが、お前さえ捺さねば、届にならぬからのんたというではありませんか。私は、どきっとしましてね」と、ことの経緯を語る。

届出の日付は、大正9年11月11日であった。

―四方のたより― ちょっと二日酔い

めずらしく昨夜は些か飲みすぎたか、目醒めもすっきりせず、気怠く重い。

思考停止状態でぼうっとしていたら、仕事に出ている連合い殿からEメール。朝っぱらから何だよと開けてみれば、「Happy Birthday」だと。
そういえば今日は7月17日だったっけ、己もはや御年64歳になりたもうた訳だ。

昨夜は、デカルコマリィのStreet-Performanceを観るべく、夕刻から幼い娘を連れて京橋へと出かけた。
連合い殿は仕事帰りの足で現地へ直行。此方が先に着くつもりで出たのだが、どっこい子連れの足は遅い、彼女のほうが先着していた。

月の第1水曜と第3水曜の夜、もう何年も続けているというPerformanceはすでに始まっていた。演奏のMemberも居るのかと思えば、音無しの構え、そうでなくとも街頭にはさまざま音が溢れている、それが伴奏というわけだ。

今宵はCASOでの「青空展」打上げの宴をというふれこみだったからか、演技は15分ほどで早々と手仕舞い、集った連中は飲み会の酒場へと移動する。

8時頃から延々3時間ほども続いたか、いつのまにか宴席は20名ほどにもなり、てんでバラバラ勝手トークに花咲いて、ビールばかりだがけっこう飲んだとみえる。

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July 16, 2008

赤きポストに都会の埃風吹けり

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―山頭火の一句―

句は「層雲」大正9年1月号に発表、句作は8年の秋か初冬だろう。

山頭火は、大正8年10月、妻子を熊本に残したまま、何を求めてか、突然の上京をしている。
早稲田に近い下宿屋の2階に住む、13歳も年少の句友茂森惟士を頼りに、その隣の四畳半に住みついた。

その後まもなく、熊本の知友で早大生となっていた工藤好美が探してくれた、東京市水道局のアルバイトに従事するようになる。仕事は水道局管轄のセメント試験場での肉体労働、木枠の篩を使っての砂ふるい作業がもっぱらだった。

俳誌「層雲」への投稿も途絶えている。大正8年は皆無、々9年1月号の「紅塵」14首を最後に、「層雲」からも脱落していった。

―世間虚仮― 生と死と‥

・「日本語で書くことには、泳げないけれども泳いでみる、頑張った、浮くようになったと感じる楽しみがあるのです」
「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した中国人作家楊逸-1964年生れ、44歳-の弁、実感のこもったいい言葉だ。

在日韓国・朝鮮人作家の受賞は李恢成や玄侑宗久ら4人を数えるが、日本国内で育った彼らとは違い、23歳で来日した彼女の場合、言葉の壁はすこぶる厚い。それがかえって新鮮な文体を生み出しているのだろう、「越境者の文学」としての評価を獲たようだ。

・毎日新聞の誌面「悼む」の馬清-5月28日死去、60歳-さんの稿を読んで、カンボジア復興に捧げた草の根の熱き生きざまに、いたく心撃たれた。

詳細は此方にくわしいから紹介は端折るが、「体調不良で診察を受けたのが死の前日、翌朝、容体が急変、医師に電話し、受話器を握り締めたまま息絶えた」というから、まさに征き征きての片道切符、見事なほどに潔い死だ。


・「20万隻一斉休漁」の見出しが躍った15日、
敗戦後の混乱の世ならいざ知らず、高度成長期以来、燃料費の高騰に怒りを込めて日本中の漁船がこぞって休漁した、こんなことが嘗てあったろうか。

13億の民のたった0.02%の富裕層に冨が集中する中国では「仇冨」なる怨嗟の言葉が躍っているというが、この国においては、農も漁も、二次三次産業における派遣やパートも、また消費者にとっても、何処へ向かって拳を挙げるべきか、真の仇-カタキ-を見出すのは難しい。この国の経済も政治も、バブル以来、世界のグローバリズムに翻弄されっぱなしだからだ。

もはや、庶民における等身大の生活感覚という、その「等身大」をどんどん縮小していかざるを得ない、と覚悟するべきなのか‥。

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July 15, 2008

枇杷の古葉に木芽もえたつ

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-36

  一構鞦つくる窓のはな  

   枇杷の古葉に木芽もえたつ  史邦

古葉-ふるは-、木芽-このめ-

次男曰く、「花」ともなれば末にも賞翫の趣向がある、と凡兆が作れば、不易も流行してこそ不易になる、と史邦が合せて挙げている。物の末とは新芽のことだという俳の目付が大いによい。

挙句は打添えて和やかに付けるものだが、其場其人の伸しときまったわけではなく、興行の性格によっては予め用意しておくこともある。この句も、「鞦」から「古葉」を思付いたなどと気分で読むと筋を誤る。大方の評家が陥りがちな点だ。
史邦は、「猿蓑」が成れば天下の句風も、勢力分布図も、いよいよ一変すると云っている。期待を含ませた、新人らしい意気軒昂たる祝言だろう、と。


「鳶の羽の巻」

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ       去来 -冬  初折-一ノ折-表
 一ふき風の木の葉しづまる     芭蕉 -冬
股引の朝からぬるゝ川こえて     凡兆 -雑
 たぬきをおどす篠張の弓      史邦 -雑
まひら戸に蔦這かゝる宵の月     芭蕉 -秋・月
 人にもくれず名物の梨       去来 -秋
かきなぐる墨絵をかしく秋暮て    史邦 -秋  初折-一ノ折-裏
 はきごゝろよきめりやすの足袋   凡兆 -雑
何事も無言の内はしづかなり     去来 -雑
 里見え初て午の貝ふく       芭蕉 -雑
ほつれたる去年のねござのしたゝるく 凡兆 -雑
 芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦 -夏
吸物は先出来されしすいぜんじ    芭蕉 -雑
 三里あまりの道かゝへける     去来 -雑
この春も盧同が男居なりにて     史邦 -春
 さし木つきたる月の朧夜      凡兆 -春・月
苔ながら花に竝ぶる手水鉢      芭蕉 -春・花
 ひとり直し今朝の腹だち      去来 -雑
いちどきに二日の物も喰て置     凡兆 -雑  名残折-二ノ折-表
 雪けにさむき嶋の北風       史邦 -冬
火ともしに暮れば登る峯の寺     去来 -雑
 ほとゝぎす皆鳴仕舞たり      芭蕉 -夏
痩骨のまだ起直る力なき       史邦 -雑
 隣をかりて車引こむ        凡兆 -雑
うき人を枳殻垣よりくゞらせん    芭蕉 -雑
 いまや別の刀さし出す       去来 -雑
せはしげに櫛でかしらをかきちらし  凡兆 -雑
 おもひ切たる死ぐるひ見よ     史邦 -雑
青天に有明月の朝ぼらけ       去来 -秋・月
 湖水の秋の比良のはつ霜      芭蕉 -秋
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦 -秋  名残折-二ノ折-裏
 ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ      凡兆 -冬
押合て寝ては又立つかりまくら    芭蕉 -雑
 たゝらの雲のまだ赤き空      去来 -雑
一構鞦つくる窓のはな        凡兆 -春・花
 枇杷の古葉に木芽もえたつ     史邦 -春

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July 14, 2008

一構鞦つくる窓のはな

Nyuugakuh20

―世間虚仮― ハマスイ、まだムリ?

今春、新一年生となった幼な児の夏休みもこの週末からはじまる。

入学まもなくの頃、喘息とアトピーを併発させてなにかと心配やら厄介をかけてくれたものの、近頃は学校生活にも慣れ、体調も比較的安定しているのだが、さて長い夏休みをどう過ごさせたものかといささか頭を悩ませる。

アトピーはともかく小児喘息を克服するにはなにより体力をつけるのが一番かと、思いきってハマスイに通わせてみようかなどと考えてみたりもした。
ハマスイ、昔は浜寺の海で子どもたちに泳ぎを教えていた、100年の歴史を誇る浜寺水練学校のことだが、ここなら月から金まで毎日2時間、5週間にわたっての本格派だから、かりにここで一夏過ごせれば体力増強に効果てきめんはちがいない。問題はまだ電車通いもできまいから、送り迎えの負担が此方にのしかかってくるのだが‥。

そんなことで現地視察を決行、親子三人で出かけてみたものの、結論は時期尚早と、とりあえずは断念。
浜水で使われる大小3面のプールはもちろん野外だし、炎天下の強い陽射しを避けるものとてなにもない。講師陣は若いOBたちが大勢いるようだから、万一の事故などについては一応安心できようが、この環境下で毎日2時間の水泳は、彼女の現在の体力ではとても覚束ないだろう、もう1.2年待つのが賢明との判断を下さざるを得なかった。

仕方がない、一夏で一気に体力増強のstoryは儚くも潰えたが、されば学校のイキイキ通いと、時々のプール通い、こんなところで、一年生の夏は、ぼつぼつと、だが着実に、たくましく育ってくれ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-35

   たゝらの雲のまだ赤き空  

  一構鞦つくる窓のはな   凡兆

人構-ひとがまへ-、鞦-しりがい-

次男曰く、鞦は、牛馬の尾の付け根から鞍につなぐ革具である。面懸-おもがい-や胸懸-むながい-に対して末端のものだが、それを作る一構えだと付けている。

はこびに照らせば、これは、京と九州の関係を、鞍-中心部-と鞦との関係に執成した、気転の思付だろう。こういう寓意には拠所がある。

「牛の鞦の香の、なほあやしう、嗅ぎ知らぬものなれど、わかしきこそもの狂ほしけれ」-枕草子224段-、下敷はこれだ。そのまま、九州自慢を聞いている男の姿になるではないか。嗅ぎ知らぬのは、未見の土地であるからばかりではない。多々良懐古をたよりに去来が案内したがっている地-長崎-が、異臭の地、つまり南蛮紅毛との接点であるからだ。

芭蕉や去来と違って旅好きでもなかったらしい凡兆の、釣られて珍しく心躍らせる様がそこに読取れる。これまた先に、「かきなぐる墨絵をかしく秋暮て-史邦」に「はきごゝろよきめりやすの足袋-凡兆」と付けた-初裏1.2句目-残心の結構な始末だろう。

「窓のはな」もうまい。末の花の座をつとめるなら、作る物は鞦、眺める物は窓先の桜、という見究めは筋が通っている。「一構」もいずれ町外れか村外れにあるのだろうと自ずと想像させる作りで、諸注のように宿場・城下町あたりの眺めをただひろっただけと読んでもはじまらぬ、と。

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July 13, 2008

たゝらの雲のまだ赤き空

Db070509t116

-表象の森- みにくいアヒルの子

「ありさ」という女の子、中学1年生になったばかりだから、まだ13歳か。

母親の勧めるままに3歳からクラシックバレエを始めたが、物心ついた頃にはすでに踊ることに夢中になっていた。

いつのまにか、バレエ教室の先生からは、金の卵だといわれ、特別扱いをされるようになった。
だが、注目と期待が集まれば集まるほど、同じ教室の仲間からは浮き上がり、独りぼっちになっていく。

金の卵は、イジメの対象となって、みにくいアヒルの子になってしまった。

なぜだか、その白鳥が、ひょんな成り行きで、わが稽古場に通うようになった。
といっても、今日の稽古で2回目、この先どうなっていくか、まだまだなにも見えない。

この子が、ホンモノの金の卵なら、心をしっかりと強くしてやって、できるだけすみやかに、白鳥の住むべき世界に返してやることが、bestなのだろう、と思う。

うちの稽古は、それはそれは気の長い、まるでLifeそのもののような、遠い道を往くものだから、まるで真逆のことを、してやらなければならないのかもしれない。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-34

  押合て寝ては又立つかりまくら 

   たゝらの雲のまだ赤き空  去来

次男曰く、去来の答は、多多良浜だった。筑前国粕屋郡の西南部、博多湾に面し、多々良川を挟んで西は箱崎東は香椎に到る一帯の浜-現在福岡市東区内-を云い、多々羅・鞴とも書く。

元寇文永の役の古戦場で、延元(1336)元年には、再挙を期して西走した足利尊氏が、寡勢を以て菊池・阿蘇の連合軍を破った歴史がある。また、永禄12(1569)年にも毛利と大友の合戦場になったことがあるが、多多良浜・箱崎ノ津は、九州統一を果した秀吉が記念すべき陣所を構えた処でもある。

「たゝら」案内の興はこれだったろう。尾張に身を起し-貞享元年「冬の日」五歌仙-、奥羽・北陸路を巡り、近江に新風を立て-元禄3年「ひさご」五歌仙-、京に入って正風を天下に宣言した俳諧師なら、その後の足取りはかの天下取のそれに倣う、と去来は言いたいらしい。

博多は、秀吉の思惑通りにゆけば、日本国を象徴する一大商港として復活した筈だが、事実はそうはならなかった。文禄・慶長の役の兵站基地としての役割を最後に、過去の栄光を偲ぶ、北九州の平凡な商人町の分に甘んじることになる。関ヶ原後、小早川秀秋に替って筑前を領した黒田長政が名島城を廃して、那珂川をへだてた博多の西、福崎の地に築城したことが、いっそうこれに拍車をかけた。新しい町の名を黒田氏の出身-備前国福岡-に因んだ、52万石の城下の誕生である。

かくして博多は福岡藩の一小港となり、糸割符の仲間にも洩れたが、これには、大内氏の滅亡頃から、貿易による繁栄は既に長崎・平戸に奪われつつあった、という一噌根本的な事情を見逃せない。長崎に生れ福岡に暮したことのある去来の眼は、そこにも向けられているかもしれない。いや、いるだろうと思う。句に云う「まだ赤き空」とは夕焼-打越句と差合う-でも朝焼でもない、まさに歴史の残照を偲ぶ浪人の眼である、と。

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July 12, 2008

押合て寝ては又立つかりまくら

Db070509t015

―世間虚仮― 13回忌の法要に

今朝、このあたりでは蝉が鳴きはじめた。
梅雨明けも近い、愈々本格的な夏の到来、七十二候なら蓮始華。
宇治の御三室戸寺は、ツツジやあじさい寺として名高いが、蓮の寺でもよく知られ、もう次々と花を咲かせているそうな。

今日は叔母の13回忌の法事とて九条へと出向いた。
叔父・叔母の一家も九条の実家のほんの近くに住んでいたのだ。いまは二人とも鬼籍となって従弟の代となっており、ご無沙汰ばかりで、その子、孫となると、まるで今浦島のごとく、誰が誰だかほとんど判らない。それでも内々の法要ということらしく、叔父・叔母の直系にプラス我が兄弟群というのが本日の顔ぶれで、総勢24.5名か。

この叔母とは、私の母の弟、すなわち叔父に嫁いだ妻だから、いわゆる血族ではなく姻族となる。叔父が胃癌で急逝したのがもう22.3年前だったか、たしか65歳前後だったと記憶するから、私の父親ともほぼ同じの寿命だったことになる。

その叔父が死んでからまもなく叔母に精神の変調がきたしはじめた。まだ60歳を越したばかりの若さで痴呆がはじまったのには、とても驚かされたものだったが、その一方、彼女の気質に癇症の強い人だなあとの印象を、幼い頃から抱いてきた私には、叔父の死を前に彼女の心はきっと、よほど強い衝撃を受けたにちがいない、どう考えても彼女の変調は、叔父の死が引き金となっている、そのことが主要因なのだろうと思ったりしたものだった。

まだ60代にさしかかったばかりの健康な肉体に、精神の変調をきたしはじめたのだから、なにしろ体力はあり、どんな行動に出るか予測がつくはずもなく、周囲の者にとってこれは大変である。叔母はほぼ10年近くの歳月を生き、徐々に体力を弱め、やがて自ら動こうとしなくなり、旅立っていった。

その10年間の闘病に、同居の親族たちの苦も並大抵のものではなかったろうが、苦を苦とそのまま受けとめていては病者に見え透いてしまい、さらに心を傷つけてしまう。病者を機嫌良く安穏におくには周囲が道化のごとく仮面を被ってやらずばなるまい。彼らにとってはそんな10年だったのではないかと、読経の声を聞きながら、そんなことに思いをめぐらせていた。

そういえば「月刊みすず」7月号に中井久夫が「認知症におずおず接近する」と題した小論で、
「認知症が析出するきっかけの一つに、自分の力を超えた絶望的な事態への直面があると思います。この絶望は無力感であり自己尊厳の崩壊と表裏一体でしょう」と云っていた。彼自身の父親も「母に手遅れの胃癌を発見された当日に崩壊が起こりました」と書いていた。

「認知症の人も暗黒星雲のようなものを掻き分けて何とか考えとおそうとしている時があるように」見える時があり、これは「自尊心を何とか取り戻そうとしていること」なのだとも。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-33

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ  

  押合て寝ては又立つかりまくら  芭蕉

押合-おしあう-て

次男曰く、着ぶくれが草庵冬籠りのたのしみなら、旅のたのしみは雑魚寝をすることだ、と付けている。

旅上手の体験的句作りで、「ぬのこ着習ふ」「押合て寝る」は言葉のうつりのうまい取出しだが、「風」の縁語「立つ」をつかって脱俗-旅立-の工夫のみならず、時分-朝立-の含まで読取らせる。

凡兆の作りでは「夕ぐれ」は表現上の気分に過ぎないが、芭蕉はそれすら只捨てるのは勿体ないと言いたげだ。まったくしたたかな連句師である。ならば「かりまくら」も只の仮枕-仮寝-ではあるまい。

「今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊屋一張に上下五人挙り伏たれば、夜も寝ねがたうて夜半過よりおのおの起出て、昼の菓子、盃などを取出て暁ちかきまではなし明す。二畳の蚊屋に四国の人伏たり。おもふ事四つにして夢もまた四種と書捨てたる事共など、云出して笑ひぬ。明れば羽紅、凡兆京に帰る。去来猶とどまる」

「猿蓑」撰もようやく大詰を迎えた元禄4年4月20日のこと、「嵯峨日記」に記す一節である。「四国の人」のあと一人は丈草のことか。凡兆の妻羽紅は何処の人とも知れない。肥前長崎・加賀金沢・尾張犬山・伊賀上野四ヶ国の出が京に上り、日夜風狂の吟席を重ねている因縁の面白さを言っていて、その会者定離の心を、俳諧師はふと「おもふ事四つにして夢もまた四種」と戯れたくなったらしい。

それから一年、いまだに物好きはやまぬ、と「日記」は記している。帰る者あり留る者あり、これは懐かしい文章だ。「かりまくら」の句は、旅寝の体験的事実はもちろんのこと、その辺の寄合の情とも微妙にからんだ作りのようだ。

旅の句は恋句と並んで一巻の曲だが、この歌仙はその双方共、芭蕉自らこれに当っている。相槌は、かたや凡兆の「隣をかりて車引こむ」-前句-、かたや去来の「たゝらの雲のまだ赤き空」-次句-、どちらも短句で、恋は相伴に仕掛けさせ、正客には道案内の興を促している。興行の性格に照せば、理に適った趣向である。十二分に計算された段取だったろう。

先に「吸物は先出来されしすいぜんじ-芭蕉」、「三里あまりの道かゝへける-去来」-初裏七、八句目-とあれば、むろん目差す先は九州を措いて、ない。名残ノ折も余すところ四句、二句後に一巻祝言の花の座を控えて、長征の機はいよいよ熟した、と芭蕉は言い切っている、と。

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July 11, 2008

ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ

Db070510054

―世間虚仮― 一科学者の死とノーベル賞

ニュートリノ振動-素粒子のニュートリノに質量があることを立証-の発見をしたことで知られる物理学者戸塚洋二氏死去の報に、ノーベル賞の有力候補と目され期待が集まっていただけに、その死を惜しむ声は大きく、各紙とも突然の訃報を悼む声をさまざま伝えている。

戸塚洋二氏は1942年生れの66歳、素粒子物理学・宇宙線物理学の小柴昌俊氏-02年ノーベル賞受賞-の愛弟子の一人で、90年代半ばから宇宙線観測施設の「スーパーカミオカンデ」の責任者として国内外の研究者100人余を率い、ニュートリノの精密観測を続け、98年、ニュートリノ振動を観測、20世紀物理学を大きく覆す発見となった。

彼は00年に大腸癌の手術を受けるも、肺などに転移し入退院を繰り返してきた。末期ガンとの8年にわたる長い闘病生活を、肺から全身に転移していった過程や、手術や抗がん剤による治療を冷静に記録してきた、という。

「私のがんは、もう最終段階に来ています。でも研究者という職業柄、自分の病状を観察せずにはいられない」
との言葉は、発売されたばかりの文芸春秋8月号-7/10付-に掲載の立花隆との対談のなかでのものである。

彼の為人-ひととなり-を知るには、対談の相手でもある立花隆の東大ゼミの記録サイトというべき「見聞伝」のなかに「科学入門」の題で講義記録が掲載されており、その語り口は真摯さと滋味あふれるもので一読に値するだろう。

ご承知のとおり、ノーベル賞というのは、生存中の授与が原則、死者には与えられないことになっている。これまで唯一の例外が第2代国連事務総長のD.ハマーショルドの平和賞受賞だったとか。

師の小柴昌俊氏に続いて、日本人による史上初めての師弟受賞かと期待されてきたというだけに、関係各処の悲歎と落胆はずいぶんと大きいものがあるようだが、ガンとの闘病のなかで静謐に生命を見つめつつ研鑽にたゆまぬ姿勢を保持しえた一科学者の矜持と、ノーベル賞の期待に些か騒擾に過ぎようかと思われる周辺世間とのこの対照、彼の講義録などを読むにつけ、どうにも此方の心には異和がつきまとってやまない。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-32

  柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ   凡兆

次男曰く、新蕎麦は仲・晩秋、蕎麦刈は初冬の季とするが、蕎麦という季語はない。雑の詞である。

史邦の句は、春秋の季続は三句以上-五句まで-という式性を利用して「蕎麦ぬすまれて」を晩秋と読ませたもので-秋の霜は晩秋の季-、順の季移りに作った凡兆の着眼には理由がある。布子-綿入れ-は初兼三冬の季だ。

句は人情の二句続で、其人の付である。

「はやぬの子着習ふ程になりたりとは、老人のさまもありて、人よりははやく着たる模様也」-猿みのさがし-、「前二句間より仮現せる悲涼の気を奪ひて下せし感あり」-樋口功-、「一句も付意も解を待たで明らかなり。冬季の句なり。前句を暮秋としたり」-露伴-、と。

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July 10, 2008

柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ

Db070510027

―表象の森- 無償の秩序

<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

2.生命の起源 
-単純な確率論からいえば生命の誕生はありえなかった-

生命の理論‥‥。
・細菌の生じた原因は空気それ自身にある-ルイ・パストゥール

・原子スープ-大気中の単純な有機分子が、他のより複雑な分子とともに、新たに形成された大海の中にゆっくりと溶け原子スープが作られた。

・自己複製する分子の出現
DNAの二重螺旋構造は、分子がどのように複製されるのかを教えてくれる
だが、タンパク質である酵素の複雑な集団が仲介しなければ、DNAだけでは自己複製はしない。
RNA-リボ核酸-の発見-RNA分子が自分たち自身の酵素として働き、反応を触媒できるという働き-RNA酵素-リボザイム-

・どんな生物も閾値以上の複雑さをもって生じたようにみえる
自由にふるまうことのできる生物のもっとも単純なものとみられるプロナイモでさえ、細胞膜、遺伝子、RNA、タンパク質合成機構、そしてタンパク質、といった標準的な要素をすべてもっている。

すべての生き物は最小限の複雑さを兼ね備えていて、それを下回ると生きていけないようにみえる。
プロナイモよりはるかに単純なウィルスは、自由生活を営んでいない。これに寄生者であって、宿主の細胞を侵略し、自己複製を達成するために細胞の物質代謝機能を利用した上で、その細胞から抜け出し、他の細胞を侵略する。

閾値は、ランダムな突然変異と自然淘汰に由来する偶然の賜物ではない。おそらく、それは生命に固有なものであろうと考えられる。

生命の結晶化‥‥。
・無償の秩序
生命の起源について、「われわれは生じそうもなかったもの」から「われわれは生じるべくして生じたもの」へと書き換えられるとすれば、そこには「複雑系における自己組織化」のもつ深遠な力を見出さないわけにはいかない。

複雑系における自己組織化-そこでは時間こそが英雄であり、20億年あるいは40億年といった、とほうもない時間こそが奇跡を成し遂げる。

化学物質の集合が十分な種類の分子を含んでいるときには、そのスープから物質代謝が必ず現れる。
この物質代謝のネットワークは、一つの要素ごとに別々に組み立てる必要などはなく、原子スープの中から、十分に成長した形で自己組織的に生じることができたのである。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-31

   湖水の秋の比良のはつ霜 

  柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ  史邦

次男曰く、秋三句目を以て名残の裏入りとしているが、蕎麦は茎弱く、霜を嫌う。
李時珍の「本草綱目」に曰く、「立秋の前後に種を下し、八九月収刈す、性最も霜を畏る」と。晩秋・初冬にこれを刈るのは、そのあとに麦を蒔くという必要からばかりではない。

初霜を見て、そろそろ刈り入れようと思っていた矢先に盗まれた、というのは俳になる。

「歌をよむ」は、前句を和歌らしい姿と眺めた成行上の思付のように見えるが、じつは芭蕉の去来讃に唱和する工夫である。「蕎麦ぬすまれて歌をよむ」風狂人は、一夜にして落ち尽した柿の嘆きを句-柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山-に詠んだ男と等類である。

この巻は、初折裏入の巡も史邦で、前は去来の「人にもくれず名物の梨」だった。偶々今度も名残裏入に当って、其人の千両役者ぶりに、芭蕉と二句一意で喝采を送ると考えれば、「柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ」の諷喩は適切かつおもしろく読める。いくぶん尻軽と見れば見れぬこともない史邦らしい取持の工夫が、よく出た句作りである、と。

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July 09, 2008

山の青さをまともにみんな黙りたり

Kuidaoretaro

―山頭火の一句―

大正7年、夏の句であろう。
この年の6月、弟二郎が自殺した、縊死である。

その遺書に
「内容に愚かなる不倖児は玖珂郡愛宕村-現岩国市-の山中に於て自殺す。
天は最早吾を助けず人亦吾輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならむ。喜ばしき現世の楽むべき世を心残れ共致し方なし。生んとして生能はざる身は只自滅する外道なきを。」としたため、

「最後に臨みて」と詞書し、
「かきのこす筆の荒びの此跡も苦しき胸の雫こそ知れ」、外一首を遺す。

遺体発見は約一ヶ月後の7月15日、遺書の末尾に記されていた住所先の山頭火に知らされ、直ちに遺体引取に発っている。二郎はこの年31歳、山頭火は37歳である。

「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」 山頭火

防府大道での種田酒造破産の後、弟の二郎は養子先を離縁されている。行き場を失った彼は、一時、熊本の山頭火の許に身を寄せたらしい。だがその同居も長くは続かなかった。

二郎は幼くして他家へと養子に出され、さらに実家の破産でその家も追われた薄幸の弟である。山頭火とて心痛まぬ筈はない。だが彼の暮し向きではどうしてやることも出来なかったのだろう。悔いはあまりてある。

突然の弟の自殺は、またしても山頭火を不安のどん底に突き落としたようである。胸の奥に仕舞い込んできた筈の、幼い日の母の自殺を思い出させもした。

「私もつまりは自殺するでせうよ。母が未だ若くして父の不行跡に対して、家の井戸に身を投げて抵抗し、たった一人の弟がこれまた人生苦に堪へ切れず、山で人知れぬ自殺を遂げてゐるから‥」

彼もまた死の誘惑に捕われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりだった。


―世間虚仮― 時事ネタ三題

・世界を圧する中国の養殖事情
イヤ、驚いた、魚介・海藻を合せた中国の養殖生産量は、世界総生産の7割近くも占めているという寡占集中ぶりだそうだ。

世界における漁獲と養殖の総生産量-06年-は、合せて160,106千屯、漁獲が93,359千屯、養殖が66,747千屯という内訳だが、そのうち漁獲17,416千屯、養殖45,297千屯を中国が生産、総量においても62,713千屯とほぼ4割に達する寡占ぶりで、この圧倒的数字には愕然とさせられる。

ちなみに日本では、漁獲4,511千屯、養殖1,224千屯、総量で5,735千屯となっており、2位のペルー以下、インドネシア、インドに次ぐ漁業国ということだが、これら4国を合せても、中国一国を遙かに下回り、43%ほどにすぎないのだから驚き。

・環境ホルモン-ビスフェノールA
内分泌攪乱物質と懸念されてきたビスフェノールA、これを原料としたプラスチック製品の哺乳瓶や缶詰が、ごく微量でも胎児や乳幼児に神経異常など深刻な症状を招くおそれがあるとして、ようやく厚労省が使用を控えるようにと言い出した。

04年にフォム・サールらによる「低容量仮説」が提唱されて以来、大議論を巻き起こしてきたが、このほど-08.5.14付-、国立医薬品食品衛生研究所が「性周期の異常は、ビスフェノールAが中枢神経に影響を与えたためと考えられる。大人は影響を打消すが、発達段階にある胎児や子供には微量でも中枢神経や免疫系などに影響が残り、後になって異常が表れる可能性がある」としたのを受けてのことのようだ。

・くいだおれ太郎のモデル
8日夜、とうとう道頓堀の「くいだおれ」が閉店、くいだおれ太郎狂想曲も大詰めを迎えたようだが、その太郎のモデルは、コメディアン杉狂児だった、と。そう云われてみれば、成程、くいだおれ太郎、彼の面影を髣髴とさせるものがある。

浅草オペラからはじまったという彼の役者人生は、大正12年に映画界へデビュー、戦前はずいぶん活躍したらしいが、その英姿を昭和19年生れの私が知るはずもない。

だが、昭和11(1936)年「うちの女房にゃ鬚がある」という美ち奴とのコンビで歌ったコミックソングが大ヒット、一世を風靡しているが、これは映画の主題歌だった筈。

この曲、周りの大人たちがよく口遊んでいたか、ディック・ミネと星令子のコンビが歌った「二人は若い」-昭和10年-とセットになって、戦後20年代の幼い頃の記憶に、なぜだかいまもあざやかに残っている。

おそらく大正末期から昭和初期の「モボ・モガ」時代を、役者として歌手として華やかに活躍してきたであろう杉狂児も、戦後の50年・60年代は、時代劇隆盛の映画界にあって、コメディアンとしてもっぱら脇役をこなしていたが、お定まりの八つぁん熊さん住む貧乏長屋の大家の役などいかにもハマリ役といった感があったものだ。

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July 08, 2008

湖水の秋の比良のはつ霜

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-30

  青天に有明月の朝ぼらけ 

   湖水の秋の比良のはつ霜  芭蕉

次男曰く、時分に景の付である。

比良山と云えば、古来、寄合の詞は雪・月・花それに山風と相場が決まっている。比良の初霜を詠んだ歌はあるまい。

去来の人柄には、月と雪よりも月と霜-秋霜-の取合せがよく似合う、と云いたげな作りで、翻転の下敷は例の「百人一首」の歌、「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」-古今集、坂上是則- だろう。

この歌が李白の「牀前月光ヲ看ル、疑フラクハ是レ地上ノ霜カト。頭ヲ挙ゲテ山月ヲ望ミ、頭ヲ垂レテ故郷ヲ思フ」-静夜思-を踏えていると確かに思われるだけに-芭蕉の念頭にもあったのではないか-、「比良のはつ霜」はいっそう面白く読める。初霜とだけでは冬の季だが、秋の詞を添えて霜は秋にも遣う。

貞享5(元禄元)年9月、越人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」には、初裏十句目「物いそくさき舟路なりれり-越人」に付て、「月と花比良の高ねを北にして-芭蕉」と作っている。この時の俤は、「平家物語」巻十、本三位中将重衡の海堂送りだった。俳諧師は思出しながら、興を春秋に作り分けたに違いない、と。

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July 07, 2008

青天に有明月の朝ぼらけ

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―世間虚仮― 池田久美子と小沢一郎

洞爺湖サミットで喧しい世間-マスコミ-だが、そんなの関係ねぇ話題を新聞紙面から二つ。

・今年はずっと不調をかこっていた走り幅跳びの池田久美子が、最後の機会になる南部記念でようやく五輪切付を手にした。助走や踏切の改良にずいぶん悩み苦しんできた末の「原点返り」だったという。そう、それでいいんだと思う。たえず肉体の限界に挑みつづけてきた一流の運動選手が、フォームであれ、助走や踏切であれ、改良の名のもとこれを弄ることは、とても難しいことだ。

残された最後の機会、いわば土壇場に開き直っての原点返り、「1歩ごとに、スローな感覚」に集中、助走したという。結果は昨年5月以来の6m70、「わけがわからなかった」との本人の弁、さもあろう。

彼女の祖父彌-わたる、故人-氏は戦争中開催中止となった東京五輪-1940年-の代表候補だったという。父実氏も五輪代表をめざした走り幅跳び一家、三代にわたる悲願がやっと実った、と。

・民主党の小沢代表が、なぜだか秋山ジョウジの漫画「浮浪雲」のファンだと、小学館から「選・小沢一郎/あちきの浮浪雲」なる本まで出したと、なんだコレ?

昔は私も喫茶店などでよく手にした「ビッグコミックオリジナル」は、今も健在で隔週刊らしいが、35年も前から連載の始まった「浮浪雲」も820回を数え、単行本なら計86巻、こいつをご自宅に全巻取り揃えていると云うから、イヤまいったね。

だけど小沢氏、「浮浪雲」に取り憑かれるようにご愛読がはじまったのは、自民党幹事長となる89年頃からだとかで、ずいぶんスロースタート。まあ、権力の頂上が見えてきた途端、とかく人生訓を求め、悟りめいたものを欲しくもなる政治家の習性か。それが江戸の問屋場などという俗にまみれた世間にあって超俗のはぐれどりに共感してしまう、というのも判らぬではない。
ならばさらに「浮浪雲」愛読三昧に精進なされ、彼の哲学を血肉とされたし。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-29

   おもひ切たる死ぐるひ見よ  

  青天に有明月の朝ぼらけ  去来

次男曰く、季は秋、名残の月の定座である。

去来がこれを務める意義は、初裏八句目-月の定座-「三里あまりの道かゝへける」のところで既に説いた。

句は佳句と思う人もあろうし、見てくれだけの修辞のとりまわしと読む人もあろうが、問題はそういうところにあるのではない。

これは、一巻中随一の晴-名誉-の句である。付方は前句の人情に寄せた時分だが、自ずと、「死ぐるひ」は男、さらに剛勇の士らしい、と覚らせる作りになっている。「青天」「有明月」「朝ぼらけ」、口当りのよい三つの素材を身に引纏うのに、去来は殆ど苦労らしい苦労をしていないだろう。史邦の介添「おもひ切たる死ぐるひ見よ」の手柄である。

「付意の精妙なる、句品の高雅なる、猿蓑風の佳処を代表するものの一なり。前句の切ぱつまれる死に身の執念の心を一転して、仇も怨みも恚りも悩みも一朝に坐断せるの意ある光風霽月の景象を描き出せり。不即不離の妙境言語に絶す」-樋口功-
この判じ方を押進めると「もう乱戦が果てて天地無声のひっそりとした光景である。そこには死物狂ひの果てに倒れた屍がある。血に染みた額には無念の怨みを刻みながら、然かも思ひきった働きをして、覚悟の討死をしたその心もちは、さながら青天のあさぼらけのすがすがしさであったろう」-太田水穂-、というところまでゆく。

連句興行を祭りに喩えれば、この句の去来はさしずめ行列の花形武者だ。「死ぐるひ」に相応しい扮装-いでたち-なり景なり時分なりをさぐれ、という連衆の要求に応えるのは正客たるの者の務めで、これは合点の上の趣向である。合戦の情緒的始末などどうでもよいことだ。諸家の評語は思入れの過ぎた、たわいもない作文に過ぎぬ、と。

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July 06, 2008

おもひ切たる死ぐるひ見よ

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―四方のたより― 船阪義一氏の急死に‥

船阪義一氏急死の報をひょんなことから知ったのはちょうど1週間前。驚き、騒ぎ立つ心を抑えつけ、たしかな情報を待つも、杳として掴めぬままに日が過ぎてきたが‥、
ようやくにして判ってきたことは、心臓動脈瘤破裂で緊急入院したのが6月25日、その4日後の29日、儚くもそのまま帰らぬ人となってしまった、という。
なんということ! 人はこうも呆気なく此の世から去りゆくものか、といまはただ月次な言いようしか思い浮かべえない私なのだが‥。

強いて自身を離れてみれば、畢竟、舞台の照明を本業とした彼は、どこまでも影の存在としてその生涯を、音楽に演劇に舞踊にと、さまざまな舞台芸術を文字通り裏から支える業にひたすら身を賭してきたばかりでなく、
91年から始まったアルティ・ブヨウ・フェスティバルにおいては事実上のプロデューサー的存在であったように、その手腕は数多の企画を実現させる影の仕掛け人としても大いに発揮されてきたことに照らせば、
彼の存在を頼みともする知己の人々、舞台人らそのひろがりは、狭い一路をただ歩んできた私などの想像をはるかに超えるものであるにちがいない。

彼の死という報が、その衝撃が、どれほど多くの人々の心を駆けめぐり、どれほど多くの動揺と傷痕を遺していくことになるのかは考えるだに難しく、その領野を俯瞰することなどきっと生半のことではない。
その激震の強さとひろがりは、いまのところ眼には見えず表れ出ていないにせよ、否むしろ何処からも公言もされずひたすら静かに潜航し伝播しつづけていればこそ、私などには到底量り知れないものがある筈なのだ。

おそらくは、魂鎮めと魂振り、これらはまさに相補的であり、且つその量においてほぼ等しくあるものなのだ。
船阪義一、1944年生まれ、はからずも私と同年であった。

「夢の破片を胸に抱き
 鬼の児よ。けふからまた、君の
 三界流浪がはじまるのか。
 ――鬼の児の鏡みる夜のさむさかな。」
        金子光晴-「鬼の児の唄」から-抜粋


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-28

  せはしげに櫛でかしらをかきちらし  

   おもひ切たる死ぐるひ見よ  史邦

次男曰く、「うき人を枳殻垣よりくゞらせん」以下、二句恋-芭蕉-、恋離れ-去来-、其会釈-凡兆-と継いできて、当句も亦其人-女-の科白とすることはできぬ。輪廻になる。

といって、合戦場などでの男の大見得と読替えれば、唐突な「櫛」が納得ゆかぬ。女の形見と考えても、打物執って死狂いする男が投櫛で未練げに、「かしらをかきちらし」たりなどしては、様になるまい。折角のはこびの流れを毀してしまう。

結局この句は、前二句の狂乱の体を見込んで、「死ぐるひ」と、一段摺上げた作りには違いないが、女と男の向付としたか、それとも第三者の掛声・間-あい-の手を以て演劇的地合とし、観想の作りとしたか、いずれかだ。

後者を採る。結んで前後句いずれにも執成せる作りは連句の常道で、この句について云えば、「死ぐるひ」の読取りを男の所作に奪えるからだ。

加えてもう一つ、重要な訳がある。先に、初折二つ目の月を零した去来の振舞に立会い、自ら進んで走使の役割を買って出た史邦には、今度こそ何を措いても去来をもてなす謂れがあった。次は名残の月の定座で、巡は去来である。

「おもひ切たる死ぐるひ見よ」という傍白の本当の狙いは、「おもひ切たる-勇士の-死ぐるひ」を見せて欲しいということだ。「見よ」は観衆の期待を担った、煽りの云回しである、と。

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July 05, 2008

せはしげに櫛でかしらをかきちらし

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―表象の森― 鉄工所のなかの木造りの館-MULASIA

大阪市の西区、九条界隈は、嘗て小さな鉄工所が集積、軒先を並べる街であったが、いまはもうその数、往時の半分いや1/3にも減少したであろうか。

現在、阪神西九条駅と近鉄難波を結ぶ阪神電車西大阪線の延伸工事が来春-09年-の開通をめざして急ピッチで進められており、安治川を高架で越えてくる鉄路が地下へと急降下していくその入口あたり数百㍍にわたって、セミシェルター型という大仰な防音壁で囲われた偉容とも異様ともつかぬ現場の姿を、何日か前偶々まのあたりにし、この延伸による小さな街区の分断がもたらすであろう近い将来の変貌に想いを馳せては、些か憂鬱な気分に誘われたものである。

その突貫工事の進む近くに、外観は二階建ての鉄工所の姿そのままに、一旦内へ入ると寺の本堂かあるいは神殿かとも見紛う丸太造りの空間が静かな佇まいを見せ、突然異空間へ迷い込んだかと思わせるような場所、Free Space Mulasia-自由空間ミューラシア-がある。

此処のownerをよく知るという谷口君を煩って案内を請うたのだが、Event Spaceとしては01年からopenしたというのに、聞けば教室程度の用にしか供されていないという実情で、owner曰く近隣周辺に配慮し、夜の活動は午後7時を限りに自粛しているという。

自身民俗楽器などのPercussionistでもあるownerとしては、建設当初はイベントなど文化の発信基地として構想もし、musicianとしての自身の夢も紡ぎゆこうと、大いにこの場所に仮託されていたろうに、いまださして使い込まれもせず、いかにも町場の鉄工所然とした外壁の中に、隠れるようにしてひっそりとある白木の匂いを立ち籠める瀟洒な、人知れずこの埋もれゆく空間に、なんと侘しくも勿体ないことをと唖然としつつ慨嘆することしきり。

どうやら、あらためてこのSpaceを活かしていくには、なによりもowner自身の意識改革が必要かと思われるのだが、はて‥、どうしたものか。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-27

   いまや別の刀さし出す  

  せはしげに櫛でかしらをかきちらし  凡兆

次男曰く、二句一意、前句の人-女-の付だが、別れに寄合の語は刀よりむしろ「櫛」だろう、と見咎めたところに俳がある。

むろん、前句が「刀さし出す」と作った意味-恋離れ-を承知した上でのことで、ならば重ねて「櫛」を差し出す-投げ捨てる-訳にもゆかぬから、「せはしげに」「かしらをかきちらし」てみよう、と思付いたのが俳諧師の俳諧師たる転合ぶりだ。前句が「いまや別の」と仄めかした男への未練を、具体的な物と動作で受けた表現でもある。

櫛は古来呪術的性質を持ったものとして扱われ、投櫛は別れの凶兆として嫌われた。また平安・鎌倉時代には、伊勢斎宮の出立に際して天皇自ら斎宮の髪に櫛を挿し与える、「別れの御櫛」の慣しがあった。これは凶を転じて、神霊の加護を頼む呪いとしたものだろうが、「賢木の巻」にもむろん出てくる。

「‥帝、御心動きて、別れの御櫛たてまつり給ふ、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ」

凡兆の句作りの思付と無縁ではない、と。

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July 04, 2008

いまや別の刀さし出す

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―四方のたより― 山崎旭萃三回忌追善の琵琶の会

琵琶界で唯一の人間国宝だった山崎旭萃嫗が逝かれたのが06年の6月5日、1906(M39)年の生れだったからちょうど100歳の大往生であった。

その三回忌追善と銘打って「筑前琵琶橘会全国演奏大会」が、明後日-7/6-の日曜日、ご当地日本橋の国立文楽劇場で行われる。なにしろ全国大会とあるだけに、演目は二部に別れ全27曲、総勢140名におよぶ出演者が全国各地から寄り集う。

開演は午前11時からで、終演は午後5時頃になるもよう。
入場は無料だし、初見のお客も歓迎とか、長時間にわたるゆえ、始めから終わりまで日長一日客席に座すのはきつかろうけれど、ちょっと摘み食いよろしくお出かけあるも結構かと。

末永旭濤ことわが連合い殿が師事する奥村旭翠の一門は、開催地にあたり事務局も兼ねるとあって、幕開きと大詰めのトリをつとめるが、連合い殿は初めの演目「那須与一」を門下の11名とともに合奏することになっている。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-26

  うき人を枳殻垣よりくゞらせん  

   いまや別の刀さし出す   去来

別-わかれ-

次男曰く、「隣をかりて車引こむ」と同じく、「いまや別の刀さし出す」も単独では恋とは読めぬ作りである。打越以下三句、芭蕉が凡兆と結んで二句恋とした作りを、去来はほどいて恋離れとした点に工夫がある。

「刀」切-縁切-を匂わせたところがみそで、武士らしき男と女とのこの後朝は、単なるきぬぎぬではない、恋じまいだと読取らせる。

俤の付をここまで伸して考える必要はないが、六条御息所と源氏の間にも別れがある。そう思い出させるように話が運ばれているから、「別の刀さしだす」というひねりが、俳言として面白く利くだろう。源氏物語のほうはむろん歌の贈答だ。

「振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや –源氏-」
「鈴鹿川八十瀬の浪にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせん –御息所-」

「賢木の巻」には、六条御息所が斎宮-御息所の娘-の随いて伊勢へ下る顛末が、詳しく描かれている。上の贈答は、例によって焼棒杭に火のつきかける男女の仲のことがくどくどと語られたあとで、「-源氏-行く方をながめもやらんこの秋は逢坂山を霧なへだてそ 西の対-紫の上の対屋-にも渡り給はず、人やりならず物さびしげに、ながめ暮らし給ふ。まして旅の空は、いかに御心づくしなる事多かりけん」と結んでいる。

当歌仙では、相手を送り出したあと物思いに耽るのは男ではなく女のほうである、と。

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July 03, 2008

暑さきはまる土に喰ひいるわが影ぞ

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―山頭火の一句―

大正6(1917)年夏の作か。この頃、当時五高の学生であった工藤好美-英文学者-と知り合い、歌誌「極光」の短歌会に誘われ出るようになっている。

この短歌会には木村緑平の従弟にあたる古賀某もおり、彼は偶々大牟田から訪ねてきた緑平を山頭火に引き合せた。この後の生涯を通じ、困った時の神ならぬ緑平頼み、ともなる山頭火にとってはかけがえのない友であり理解者との邂逅であった。

―表象の森― 島尾敏雄とミホ夫人

先に彫刻の栄利秋さんからOAP彫刻の小径2008展の案内を戴いた折、一枚の新聞記事の切抜きが添えられていた。
紙面は南海日日新聞の3月27日付、「思い出の地で安らかに」の見出しに「呑之浦で島尾さん墓碑除幕」と副見出し。

故島尾敏雄の妻ミホが逝ったのは昨年の3月25日、その一周忌を迎えての墓碑建設であり除幕式であった。敏雄とミホの出会いの場所でもある奄美諸島の加計呂麻島呑之浦、すでに島尾敏雄文学碑の建つ記念公園の小高くなったところ。この墓碑の製作を担当したのが栄さんで、彼は加計呂麻島のさらに南の請島出身、むろん先の文学碑も彼の製作で、同郷を頼りに依嘱されたとのこと。

島尾敏雄は海軍予備学生として魚雷艇の訓練を受け、のちに特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引きつれ、奄美諸島加計呂麻島に渡り呑之浦に基地を設営、終戦まで出撃-死-を待つ日々を送った。島民たちから「隊長さま」と慕われ親しまれていたが、やがて、翌20年の春頃からか、島の娘大平ミホと恋に落ちた。ミホは島長-シマオサ-で祭祀を司るノロの家系に生まれ、巫女の後継者たるべき娘だった。

弓立社刊の「幼年期-島尾敏雄初期作品集」の巻末には、「戦中往復書簡」と題した、敏雄とミホとの間に交された書簡が掲載されている。時に敏雄28歳、ミホ25歳。

「七月二日」
心を込めて御贈り申し上げます。今はもう何にも申し上げることはございませぬ様に存せられます。
此のしろきぬの征き征くところ、海原の果、天雲の果、ただ黙ってミホも永遠のお供申し上げまいります。
どうぞお供をおゆるし遊されて下さいませ
        ――ミホ

「七月七日」
山の上を通ったら 海も静か山も静か
満点に星がいっぱい うそのやう
これが戦のさなか大いなる日のしまかげ
ぼくはただひとり峠道を歩いて
大空の星に向って 力のかぎり一つのよびなをよんだ
mi-ho
涙がわいた
杖をふり廻して峠を下りて来た
mi-ho ,mi-ho, mi-ho,
いろいろのうつそみかなしみは
考へません
ただ任務と mi-ho
ただ二つ
mi-hoのかなしみを 沢山知ってゐます
ぼくは弱虫ですが
任務とmi-hoがあるから
強い
        ――トシオ

「七月」 -日付不詳-
‥‥
どうぞお元気をお出しになって下さい。
あなたがお淋しそうになさると、ミホかなしくなります。でもあなたがお淋しくなった時、ミホもいっしょにさみしがってはいけませんわね、ミホ元気を出します。
島尾隊長の歌をうたって元気を出します。
 あれみよ島尾隊長は
 人情深くて豪傑で
 僕等の優しいお兄さま
  あなたの為なら喜んで
  みんなの生命捧げます
 (村うちでは一ツの児も知ってゐます)
‥‥
あなたと御一緒に生のいのちを生き度い。
死ぬ時は、どうしても御一緒に。
悲しみに顫えながら、戦争に怯えながら生きてきましたミホ。
何時もあらゆるものと立ち向ひ乍らミホをお護り下さった「あなた」
この悲しい迄に切ない私達のせめて最後のたまゆらなりと、二人一緒に昇天する事を、神さまがおゆるし下されたらと切ない程に願はずには居られません。
「武人」の道にはそれは許されない事でございませうか。
とても、とてもミホ悲しみます。
‥‥
        ――ミホ

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July 02, 2008

うき人を枳殻垣よりくゞらせん

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―世間虚仮― イラク油田外資参入と豪鉄鉱石96.5%値上げ

・72年にサダム・フセインが国有化して以来、排除されてきた外資メジャーによる油田開発がとうとう規制解除されるという。イラク戦争からすでに5年、国内の産油量は戦争前の日量250万バレルにまでほぼ回復しているが、外資参入で長期的には倍増レベルにまで増産をめざすもの。

アメリカのイラク侵攻は石油利権獲得のために違いないと受けとめている人々が世の中には意外と多くいる筈だが、そういった視点からみれば「ヤッパリネ」といった感を抱くにちがいない報道記事。

・新日鐵など国内鉄鋼大手が豪州産鉄鉱石の輸入価格を07年比96.5%値上げで合意したという。
原材料としての鉄鉱石には塊状のものと粉状のものとがあり、塊状鉱石が96.5%、粉状鉱石が79.8%の値上げだというのである。
これより先、ブラジル産鉄鉱石の粉状鉱石を前年比65%値上げでこの2月合意されており、豪州産の大幅値上げへの波及は必至と見られていたというが、それにしても驚きの数値。豪州産は国内輸入の6割を占めるというし、この5.6年このような大幅値上げが続いているというから、国内基幹産業に与える打撃は計り知れないものがあろう。
さらに逼迫すること必至なのは基幹産業に連なる末端の中小零細企業だ。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-25

   隣をかりて車引こむ  

  うき人を枳殻垣よりくゞらせん  芭蕉

枳殻-きこく-

次男曰く、「隣をかりて車引こむ」という作りは、それ自体は恋ではない。含に付入って恋句-二句恋-に変えたのは、芭蕉の作りである。

もっとも、凡兆に起情の意図があったことは去来文にも明らかだから、老女の病気見舞にかこつけた男の好心から一見なよなよとしたさまの女の生活の智慧まで、イメージの幅を生む作りのどこからどこまでが凡兆の計算で、どの部分が芭蕉-次句-の解釈か、ということは当人たちにでも聞いてみなければ判らない。

たぶん「車引こむ」のは源氏を俤にした男の行為だというところまでが、凡兆の一応の守備範囲だったろうと思う。それを女の智慧に読替えて、夕顔の恋を当世風に成就させたのは、芭蕉の工夫ではあるまいか。

前句が男の好心で挑めば、迎えてただちに相手の女の手管を付けてもよさそうに思われるところを、それは駄目押になると見抜いて、もう一人の女-六条御息所-の妬心を持出してきて向かわせたのは理由のあることだ。連想のぎりぎりまで、前句の解釈を拡げたからである。

「うき人を枳殻垣よりくゞらせん」には、そう易々とあの女の垣根を-むろん自分の垣根もである-くぐらせてなるものか、と云うもう一人の女の怨念が十二分に現れている。つれて、片方のなよなよとした姿はいやが上にも焙り出される仕組だ。

因みに、先の話のあと源氏は何食わぬ顔をして六条に通う。春隣というものは、すぐそこにありながら、なかなか思うようには手に入れられぬ、という三者三様の呟きが聞こえてきそうな作りである。

ここまで読んでくると、「枳殻垣」取出しは、京連衆-京文化-に寄せる芭蕉の深甚なるもてなしだったと云うことがよくわかる。六条枳殻邸は、東本願寺法主の別邸として知られた京名所。平安時代に源融の河原院があり、その旧址を寛永16(1639)年家光が東本願寺に与え、承応2(1653)年に宣如上人が石川丈山に造園させたという。丈山に心を寄せた芭蕉が、それを知らなかった筈はない。

その六条がたまたま、物語ゆかりの土地であることがどうやら句興の下地になったらしい。そう思って読むと「枳穀垣」の句は、作そのものもうまいが凡兆の前句を奪って女二人の凄まじい絡みとしたところがとりわけ精彩を放つ。

むろん二句は、そのつもりになれば王朝草子の俤など捨てても当世滑稽咄としても読めるだろう。そう読ませる狙いは作者たちに先刻あった筈で、これは連歌にはなかった俳諧連句の面白さである。夕顔はじつはしたたかな女だった、というところまで芭蕉は話のおまけをつけているのかもしれぬ。いや、つけていない筈はない。そういう夕顔像は俳諧師ででもなければ思いつかぬ解釈である、と。

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July 01, 2008

隣をかりて車引こむ

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-24

  痩骨のまだ起直る力なき  

   隣をかりて車引こむ  凡兆

次男曰く、自力で駄目ならせ人手を借りるしかない。背抱えに扶け起される病人の恰好は、荷車の後押を得て轅-ながえ-を抱え込む姿勢と同じだろう。「車引こむ」とはうまい執成だが「人出をかりて」ではいけないのか、と見咎めさせるところにまず興の誘いがある。

歳時記には春・夏・秋・冬それぞれに、-近し、-を待つ、の意味で「-隣」という季語を載せる。このうち春隣だけは「古今集」以来の伝統的遣方だ。
「あす春立たんとしける日、隣の家のかたより風の雪を吹きこしけるを見て、その隣へと詠みてつかはしける、

冬ながら春の隣の近ければ中垣よりぞ花は散りける –古今集・俳諧歌、清原深養父-」
年内立春ということのあった昔の暦では、春隣は特別だった。

凡兆の句は、病状の本復-春-も間近と見込んだ付に違いないが、この介添を必要とする作りには、話が前と合せて二句一意と読める以上、とりなして別途に興を求める仕掛がなければ連句にならぬ。

先の浪化宛去来文は、この句の趣向について、「隣をかりては夕顔、待人いれしは常陸宮-末摘花の異称-を存じよりて仕候。すべて此二句にかぎらず猿蓑集には古き草紙物語などの事存じ寄せ候句ども、処々に御ざ候」と俤のたねをあかしており、しかも該当句の作者は去来ではなく凡兆であるから、「隣-夕顔の宿」の連想について一座の合意があったこともわかる。

源氏が六条御息所の許へ忍んで通う途中、五条の尼君-乳母-の病気見舞に立寄るくだりである。急のこととて、むさくるしい大路にしばらく車を立てさせて開門を待つが、その間にも男の好心はさっそく兆す。その相手が隣家の女つまり夕顔である。先だって雨夜の品定めの折に頭中将から聞かされ、心に懸かっていたとこなつの女。そうこうする裡に到頭、尼君訪問を口実に源氏は情を通じてしまうのだが、男のお目当てが病気の乳母などではなく、初めから隣家の女の方だと判っていれば、「隣をかりて」にも「車引こむ」にも、次々と人物・状況の着せ替ができる。俳諧の俳諧たる所以だ。

源氏が網代車を入れさせたのは尼君の門だが、これは夕顔の宿から云えば隣家、尼君とその子惟光は隣人である。そればかりではない、「隣を借りて車を引込」んだのは源氏よりもむしろ夕顔の方だ、というところまで読取の興はひろげられよう。
病人が恋の取持をすると云うはこびの考え方も面白いが、
夕顔は
「山の端-源氏-の心も知らで行く月はうはの空にてかげや絶えなん」
と詠むような「いとあはれげなる」風情の女である。そういう女が男を引入れるときは、恋の手引から車寄せまですべて隣に頼る、という世相・人情の諷刺がいっそう面白く利く。俳諧師なら、ユウガオの蔓は中垣を越えて隣へ伸びたがる、と気付かぬ筈がない。深養父の俳諧歌が、そのまま「夕顔の巻」の垣覗きの好心にも当嵌る、と。

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枯草ふかう一すぢの水涌きあがる

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―山頭火の一句―

大正6(1917)年の句、「人来り人去る 十一句」と前書あり。

前年の春、破産出郷、山頭火は妻子を連れて熊本へと落ちた。
「寂しき春」前書した「燕とびかふ空しみじみと家出かな」は出郷の折の句。

熊本ではまず古書店を営むもうまくゆかず、やがて「雅楽多」の屋号で額縁屋の店を開いた。額縁や複製絵画、肖像やブロマイド、絵はがきなどを扱う。

明治天皇の肖像を額に入れて、小学校などを廻って売り歩いたりもするようになって、店番は妻サキノに任せきりにして、彼はもっぱら額縁売りの、道ゆく行商人となった。


―温故一葉― 遊劇体の鏡花世界「山吹」を観て

前略、昨夜は「山吹」拝見、お招きの程どうも有難う御座いました。
泉鏡花の世界にどういう造型や形象をするのかと、一度は観てみたいと思っていた遊劇体の舞台を、これまた未だ足を踏み入れていない、廃校となった難波の精華小学校を劇場化、2004(H16)年からopenしている精華小劇場での公演、という取合せに思わず食指が動かされたようで、日頃の重い腰もなんの、気もそぞろに出かけていった次第。

まずは演出氏の-「夢幻能」として-の謂、よくよく腑に落ちるものあり。
舞台に妖しげに咲く花弁を象った9つの方形の台座は、金剛界曼荼羅図をも想起させ、「南無遍照金剛」と唱和する声明とともに、この劇宇宙の地平を明瞭に象る形象としてお見事でありました。

その9つの台座に、時-話-の移りに応じ演者もまた移れば、白山吹が蓮の花にも見紛うか、まるで蓮の台座に鎮座する仏や菩薩の如くにも映り、座の移りは輪廻転生を孕んで、極限にまで「事」の劇性を強めましょう。

舞台空間を曼荼羅と化した9つの台座とその周辺、いわば明瞭に図と地に分け隔て特権化したこと、言い換えれば空間に大きな負荷をかけたことは、人物それぞれの形象の仕方にも自ずと方法的自覚を強いるものとなります。

シテ「縫子」、ツレ「傀儡師」、ワキ「画家」という登場人物の三様にあって、「縫子」を「声」と「振り」に分離し、「振り」を人形振にしたのも、ツレが「傀儡師」であってみれば物語の必然ともみえ、またその様式の徹底をめざせば自ずと生まれ出るものだったとも云えるでしょう。この場合、演出氏の方法的模索が実際には逆の過程であったかとも思われますが、そんなことはどうでもよいこと。

いずれにせよ、台座の上の「振り」としての「縫子」に負わせた人形振の加圧が、エロティシズムの止揚に大いに寄与したものとみえ、ひとかどの方法や技術では手に負えそうもないこの戯曲を、本歌取りの体よろしく換骨奪胎、ここまで舞台化しえた演出の冴えに感じ入りました。

声と振りの分離は、「縫子」の声をさらにまた分離させうるものとなり、「外面如菩薩内面如夜叉」の如き陰陽対照の二者ともなり、さらにはコロスとへ化し、ジェンダーそのものにまで拡げえることとなります。

コロスと化し、ジェンダーそのものにまで普遍化された「声」、その朗誦の術は、これまたきわめて方法的自覚に裏付けられねばなりませんが、条あけみと大熊ねこの朗誦はその自覚によく練り込まれたものであり、その対照はなかなか見事なものでした。惜しむらくは、要となる箇所において「声」をも発した「振り」におけるこやまあいの、二人-条・大熊-の声を吸収しつつ止揚せねばならぬその「身」振りにはまだまだ遠く未熟さが露呈していたことです。しかし、これは至難の技というもの、体現しうる女優を見出すのもかなり至難なこといわざるをえないでしょう。

この舞台、抑制された様式性をよく貫徹された演出であった、と思います。
私とすれば、滅多にないよきものを観た、との思いを抱いております。

取り敢えずお礼に代えて。 2008.07.01 -四方館/林田鉄


「遊劇体」のキタモトマサヤ君と逢ったのは、もう十年近くも前になろう、「犯友」-正式には「犯罪友の会」-の武田君ら関野連の祝祭の一夜であったろうか。
おそらくどちらも人見知りの強い性格なのだろう、とくに話し込んだという記憶もない。

しかし、その以前から「遊劇体」の公演案内はそのたびに送られてきていたように思う。時に食指を動かされる案内もいくつかあったのだが、ずっと機会を逸したまま今日にいたってしまっていた。

とりわけ、彼らが泉鏡花を舞台化するようになって、女優の条あけみも常連となって出演しているのも重なり、これは一度は観ない訳には、と思っていたところ、精華小劇場での案内を貰って、この機会は逃すまいと思ったのである。
と、そんな次第で、とうとう昨夜、キタモトマサヤ君の「山吹」とご対面となった。

いい舞台だった。
方法的意識に貫かれた彼の演出は、その抑制された様式性に結晶している。
演者たちも、よく演出に応え、アンサンブルがとれていた。

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