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June 30, 2008

痩骨のまだ起直る力なき

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―四方のたより― 水平的集合の祝祭空間、その楽日は?

この24日から昨日-29-までの1週間行われた、CASOにおける「デカルコマニィ的展開/青空」展とはいったいなんであったか?
初めと終りの日だけにしか立ち会っていない私に、それを語る資格があるやなしやという問題もあろうが、敢えていうならば、その特質は「水平的集合の祝祭空間」といったものになろう。

多くのMusicianたちやDancerたち、加えて造形や絵画、映画、写真などのArtistたちが寄り集い、それぞれの表現行為を並列せしめる。その集合を可能ならしめているのはDancerとしての大道芸人デカルコ・マリィの存在にはちがいないが、彼自身の立ち位置、他の参加者たちへのスタンスが、横へ横へとひろがりいく水平的な交わりを大事にしようとの拘りゆえだろう。

だからこの集合-体を付すべきではない-によるMovementは、全体として親和性に満ちており、臨場する人々に快を与えるものとなりうるし、観る者を巻き込んだ祝祭空間ともなりえているのだろう。この点においては特筆に値するEventといってもいい。

とはいえまったく注文がないわけではない。
祝祭の1週間、楽日の大団円となったLIVE・音舞楽劇「青空」で演じられたものが、その水平的集合の祝祭に相応しいものになりえていないことで、これではまるで画竜点睛を欠いたものと云うしかない。

このLive-音と舞による楽劇-、時間にして正味30分程。音の演奏者たちは各々楽器が異なる。さまざまな音が連なり、重畳し、共振していく音世界‥。

ならば舞のほうはどうであったか。ほぼ前半はデカルコ・マリィのSolo世界、後半になって他の競演者たち10名ばかりか、まずは思い思いのactionなりimageをもって登場してくるが、やがて一団となって動きはunison化する。Imageの捉えやすい単純な動きが繰り返され、energyが増幅され、最後にはてんでに蒼穹の彼方へと舞っていったか‥、といった展開だが、いかにも段取りに終始してしまっている。

大勢でやるのだから一定の段取りは必要だろう、それは認めるとして、段取りのままに終ってしまってなんとする。その段取りの内に、破調を、波乱を、そのタネを仕掛け置かずになんとする。ひとしなみにDancerといっているが、その構成は、役者ありモダンありで、さまざまな個性をもった多彩な顔ぶれである。仕掛けひとつで意想外の世界を現出せしめること、それほど難しい業でもあるまい。

このユニークな水平的集合なればこそ自ずと生まれ出る表現のひろがりを期待してみたのだが、この祝祭の大団円たる時間を凭れ合いや馴れ合いで費消されてしまっては、いかにも悔いが残ろうというものだ。

親鸞に「横超-おうちょう-・竪超-じゅちょう-」の語がある。「横」は他力、「堅」は自力を表す。「超」はすみやかに迷いを離れることを意味するが、この水平的集合に親鸞の「横超」を垣間見た気がしたのだったが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-23

   ほとゝぎす皆鳴仕舞たり  

  痩骨のまだ起直る力なき  史邦

痩-やせ-骨の、起-おき-直る

次男曰く、季語はないが、晩夏・初秋の候にいたり、署をもちこたえた病人のさまだと判る。「まだ」と云い、「力なき」と云い、期待と努力は何度も-何年も-繰返されたのだ、と覚らせながらうまく前二句がつくった歴史の俤を絶っている。

冥途の鳥と異名をとった鳥の声を聞かなくなったということは、死はそこに来ているとも、ようやく危機を脱したとも受取れて、史邦が後者を択んだのは俳諧のはこびとしてごく自然な智慧だが、黒川玄逸の「日次-ひなみ-記事」-貞享2年-に、「俗に云ふ、床に臥して-杜鵑の-初音を聞けば、すなはちその年病あり。もし然らば、すなわち忽-すみやかに-起してこれを祝せ」とある。「起直る」は、この種の縁起かつぎから思付いたのかもしれない、と。

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June 29, 2008

ほとゝぎす皆鳴仕舞たり

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-22

  火ともしに暮れば登る峯の寺 

   ほとゝぎす皆鳴仕舞たり  芭蕉

皆-みな-鳴-なき-仕舞-しまひ-たり

次男曰く、「たれぞの面影」を誘う狙いについて、当座、去来の口から出なかった筈はないと思うが、それはまず後鳥羽・順徳両院の遠流を措いては他にあるまい。
承久3(1221)年7月隠岐と佐渡にされざれ遷御、後鳥羽院は在島18年60歳で、順徳院は在島21年46歳で崩じている。切なる還京の願はついに聞入れられなかった。

「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」-後鳥羽院-
「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島守」-々-

「増鏡」が世に知らせた、隠岐での後鳥羽院の歌は全部で16首、多くはないが、「新古今集」改撰-隠岐本-に日夜ひとり心をくだかれた、御人の憂悶の情は窺うことができる。

「たれぞの面影」は、後鳥羽院と見定めてよいだろう。句は、かくてこの夏もむなしく過ぎてしまった、帰京の願は今年も叶えられなかった、と読める。

承久の乱のはじまりは3年5月15日、嘉時追悼の院宣、終結は6月15日、僅かひと月で脆くも事は潰え去った。続いて7月13日、隠岐へ向けて離京。後鳥羽院蜀魂の暦は逝く夏の思い出から始まった、という事実は句作りにとっていっそうの好都合だったに違いないが、工夫の趣向はそれだけではない。

「火ともし」は一家無事・海上安全の祈願から護国の法灯まである、と読ませる去来の句ぶりは、四季それぞれと結んで風情になる。冬を夏に奪うことなどいと容易い句渡りだが、雪が冬の代表的景物ならほととぎすは夏のそれ、片や始動-雪け-なら片や終息-鳴仕舞たり-、と呼応させた奪い方の手並はさすが。

「ほとゝぎす待つ心のみ尽させて声をば潜む五月なりけり」-西行・山家集-
「至宝抄」に曰く「時鳥はかしましき程鳴き候へども、希にきゝ、珍しく鳴、待かぬるように詠みならはし候」とあるように、ほととぎすは鶯と共に初音を待たれる鳥だ、ということもむろんこの句の結構には利かされている、と。

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June 28, 2008

壁書さらに「默」の字をませり松の内

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―山頭火の一句―

明治45-1912-年、30歳になる年の句だが、この頃の種田正一はまだ「山頭火」ではない。詳しく云えばすでに山頭火をペンネームにはしていたが、俳号は「田螺公」と称し、他の文芸活動、たとえばツルゲーネフの翻訳などに山頭火を使っていたらしい。むろん句ぶりはまだ山頭火らしさもなく、新風自由律の開眼からは遠い。

防府を中心に前年-M44-から発足した俳句結社「椋鳥会」に参じ投稿していたが、45年の句作はこの一句のみ。

結婚を子どもも設けたにも拘わらず、文芸への志は閉塞の内にあり、彼の心は焦躁にかられ荒んでいたようである。

「もう社会もない、家庭もない‥自分自身さへもなくなろうとする」
「自覚は求めざるをえない賜である。探さざるをえない至宝である。同時に避くべからざる苦痛である。殊に私のやうな弱者に於て」

などと記すこの弱者の自覚は、彼の神経をさらに衰弱へと追い込んでいったか‥。

―表象の森― Performing Artsの30人

狂言と現代劇を繋ぐトータルシアターに挑む野村萬斎
ブレヒトと歌舞伎を股にかける演出家/串田和美
千年の時空を超える仏教音楽「声明」の新井弘順
現代演劇界のニューオピニオンリーダー/平田オリザ
知的障害者との舞台づくりを集大成/内藤裕敬
わだかまりを抱えた人々が通り過ぎる「場」を描く青木豪
日本の若い観客に響くギリシャ悲劇翻訳家/山形治江
マンガと歌舞伎と伝奇ロマン活劇のアクション劇作家/中島かずき
舞踊とコンテンポラリーの越境のアーティスト/伊藤キム
独自の美意識に彩られた大島早紀子のコレオグラフィー
マンションの一室をつくり込む舞台美術家/田中敏恵
点と線を繋ぐ独創的な箏演奏家/八木美知依
日常から湧き出す妄想の劇作家/佃典彦
欲望のドラマツルギー/三浦大輔の軌跡
歌舞伎を支える振付師/8世藤間勘十郎
コンテンポラリーダンス界の異才/井手茂太の発想
社会派コメディの第一人者/永井愛の作劇術
能の音楽から現代へ羽ばたく革新者/一噌幸弘
前衛野外劇のカリスマ「維新派」の松本雄吉
だらだら、ノイジーな身体を操る岡田利規の冒険
身体の極限を問う黒田育世の世界
蜷川幸雄の新たなる挑戦「歌舞伎版・NINAGAWA十二夜」
和太鼓と西洋音楽の融合をプロデュースするヒダノ修一
アングラ第一世代/麿赤児が語る舞踏の今
学ラン印の超人気ダンスグループ「コンドルズ」の近藤良平
現代演劇のニュージェネレーション/長塚圭史
栗田芳宏が仕掛けた能楽堂のシェークスピア
密室演劇の旗手/坂手洋二の世界
ロック時代の津軽三味線奏者/上妻宏光
金森穰が語る公立ダンスカンパニーの未来

「パフォーミングアーツにみる日本人の文化力」、国際交流基金が運営する「Performing Arts Network Japan」というsiteがあるが、2004年から07年に掲載されたアーティストたち30人へのインタビュー集だ。

60年代から活躍してきたベテランから新世紀になって登場してきたような若手にいたるまで、ずらり並んだ顔ぶれを整理してみれば、劇作・演出系が14人、ダンス・舞踏系が7人、邦楽系が声明も含め5人、さらに狂言、邦舞、翻訳、舞台美術の分野からそれぞれ1人といった構成で、なるほど、この国におけるPerforming Arts-上演芸術-の現在というものを一応眺めわたせるものになっているのだろう。

ただ私にとって興味を惹かれたものは、私自身に近いもの-演劇や舞踊-より、むしろやや遠い世界-演奏や美術-の語り手たちだった。たとえば声明がどのように西洋の現代音楽と出会い、Performing Artsとしての現在を獲得してきたか、あるいは、伝統的邦楽の琴がどんな技術的変容を加えながら西洋楽器とコラボレーションしているか、などの話題であった。

このとりどりの30人の語り手たちの集積によって、なにか新たな地平が切りひらかれつつあるのか、なにがしかの展望が見えるのか、と問うなら、実はなにも見えてこない、なにもないのだ。ひとことで云えば、表現行為なるものは多様性を標榜しつつ、ただたんに消費されるものへとひたすら突き進んできた、そんな現実が横たわっているだけだ。

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June 27, 2008

火ともしに暮れば登る峯の寺

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-21

   雪けにさむき嶋の北風  

  火ともしに暮れば登る峯の寺  去来

暮-くる-れば

次男曰く、二句一意に作った島の暮しである。
「雪けにさむき」とあれば、「火ともしに」と起す初五文字の遣い方がまず巧い。「夕べにはともしに登る峰の寺」と云っても意味は同じだが、これでは寒暖の呼応は現れない。連句にならぬのだ。

「火ともしに」と初を取出せば、「暮れば登る」は自然の成行と見えようが、これも「宵から登る」では興にならぬ。「暮れば-登る」情は、「雪けにさむき-火ともしに」と不可分の興の工夫とわかる。

そういうことが、ごく日常的なことを語ったに過ぎぬ一行に、ドラマを孕ませる。言葉とは微妙なものだ。

作者去来は後年-元禄7年-この句について、浪化-ロウカ-宛のなかで、「誰ぞの面影に立申候句にて御ざ候」と告げているが、「雪けにさむき島の北風-夕べにはともしに登る峰の寺」や、「-火ともしに宵から登る峰の寺」などでは、俤の立たせ様もないだろう、と。

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June 26, 2008

雪けにさむき嶋の北風

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写真は「Check Stone」-作品集「四季のいろ」より-

―表象の森― 2年ぶりの「四季のいろ」

午後から日本風景写真協会の第3回選抜展を観に、本町の富士フイルムフォトサロンに出かけた。大阪展は今日が最終日、来週は札幌展だそうである。

「四季のいろ」と題されたこの展覧会は2年に一度の開催だが、前回梅田のマルビルへ出掛けて初めて観てからもう2年が経つかと、この年齢ともなれば「月日は百代の過客にして」の謂がことさら身に沁みる感がする。

どうやら富士フイルムフォトサロンは昨年に梅田のマルビルから本町へと移転していたらしいが、前回に比べ会場が少し狭くなったか、名誉・指導会員の11点と会員選抜の90点、計101点を数える展示の壁面構成は些か窮屈に過ぎようかと思われた。とはいえそこはスポンサー企業、なにしろ会場は無料提供なのだから、選択の余地はなく、なかなか悩ましい問題ではあろう。

展示作品中、もっとも私の眼を捉えたのは「Check Stone」と題された大分県は由布川渓谷での撮影作品。巌の造化の妙が深遠なる景を現出せしめ、こういう景の発見は撮影者にとってもさぞかし無上の喜びであろうと思われた。

一応、全作品を見終わってから、一休みよろしく椅子に腰を降ろしてみれば、手許近くに今回の作品集が置かれていたので手に取ったのだが、その表紙を飾っている写真が「Check Stone」であったのにまず驚かされた。

頁を繰りながら、いましがた観てきた写真の数々の残像を追ったり、実際に観較べてみたりするのだが、壁面に掛けられ、透明なアクリル板を通して観る印画紙に焼き付けられた画面と、アート紙に印刷された画面では、その写真-風景-にもよるが、ずいぶんと印象に隔たりがあるもので、しはらく驚きつつ見入っていた。

「黒部の谷は秋と夏」であったか、これなどは印刷の画面を見てさりげない構図の良さにはじめて気付かされたようなことである。
「怒涛の海」は構図を超えた波濤のDynamismが画面に溢れていた。「水面凍える」はさりげない自然現象に見出した撮影者の造化感覚が良い。「遊泳」の水面のたゆたいを透して見える木の葉の群れ模様もおもしろい。

あと印象に残る作品たち、「峠の桜」「夜明けの静寂」「雨雲覆う」「メルヘンの丘」「暮色」「秋雨の境内」「孤高」など。

近頃の私はなぜだか、夕景であれ落葉であれ、赤茶色の風景に心惹かれてしまう傾向が強いのだが、好みは好み、鑑賞は鑑賞と、なるべく作品に即して観ようとは心懸けたつもりである。

中務さんの「渇き」については、ご自身から「干上がった汚泥」だと聞かされるまで、実景のなんたるかまるで判らなかった。いや聞いてもなお、実景を想像することができないくらいで、実景を切り取り写し取っているはずの世界なのに想像の埒外にあるというこの不思議には、少々面喰らってしまった。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-20

  いちどきに二日の物も喰て置 

   雪けにさむき嶋の北風   史邦

次男曰く、二日分一度に食べられたらこれに優る手間の省き様はないが、よもやそんな現実はあるまい、凡兆に惚けられて、いやいやそれがあるんだ、と史邦は応じている。

「二日の物」の内一日分は余り物だ、という見究めがみそである。島も本土の余り物だろう。この気転の連想は俳になる。それも、いまにも雪になりそうな北海の冬なら、申し分ない。食えるときにたらふく食っておこう、という生活の智慧も現実味を帯びてくるから、この有季-冬-の景を以てした虚-実の奪い方は巧い。

凡兆句の手間の省き様を、仮に、「いちどきに夕餉の物も食べておき」「いちどきに三度の物も食うておき」あるいは「貰ひ湯のついでに乳を貰はれて」などと、前句の実の会釈らしく作れば、「雪けにさむき-嶋」に格別の興は顕れぬ。越の北風でも、志賀の北風でもよいだろう。

史邦の句は一見、食いだめから任意な想像を繰り広げて詠んでいるように見えるが、そうではないのだ。「嶋」は軽海かつしたたかな俳言である。「二日の物」がなければ出てこない。

「いちどきに二日の物を喰て置」が、折替りを面白くするために、敢えて虚の作りを以てした謎掛体の工夫だと気付かぬと、解釈はあらぬところへと霧散する、と。

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June 25, 2008

いちどきに二日の物も喰て置

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-19

   ひとり直し今朝の腹だち  

  いちどきに二日の物も喰て置  凡兆

喰-くう-て置-おき-

次男曰く、二ノ折-名残ノ折-入。手間が省ける、ということを付合のたねにしている。但し、前はいつ、誰にでも有ること-実-だが、後は有りそうもないこと-虚-だ、というところに対の趣向がある。

これは折立にあたってはこびの変化を求める狙いとも不可分の工夫で、こういう奇癖・奇習は有りそうもないが、ひょっとして有るかもしれぬから考えてみてくれ、というのがじつは云いたいことである。つまり、折を跨いで人情の二句続に作るなら-情景の句を付ければ打越以下三句がらみとなる-、実-実の会釈-あしらい-では立句が立句にならぬ、と凡兆は見定めているのだ。

いま一つ、花の綴目に綻を以てした、折端の趣向を見咎めて、折立を虚としたのかもしれぬ。目配りの利いた俳諧師なら併せて思付きそうなことだ、と。

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馬も召されておぢいさんおばあさん

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―山頭火の一句―

句集「銃後」所収、昭和12年の句だが、時季のほどは判らない。

11月1日の日記には短く、「自己否定か。自己破壊か。自己忘却か」と。
山頭火はやっぱり落ち着けない。湯田温泉へ出かけて、またしても自分を見失ってしまった。

2日から3、4、5と、「飲んだ、むちゃくちゃに飲んだ、T屋で、O旅館で、Mで、K屋で。‥たうたう留置場にぶちこまれた、ああ!」

彼は留置場に4泊5日留め置かれた。検事局で、飲食の支払を14日迄に、と期限をきって誓約、とりあえず釈放された。

―四方のたより―

奇想のイベント「デカルコマニィ的展開/青空」展の初日、
予定の番外ながら、いわば勝手連的にだが、わが四方館も一景を添えさせてもらった。
急遽、若干の人々に案内をしていたので、わざわざお運びいただけた方たちもあり、おかげでかなり面白いものとなった。

デカルコマリィ、イシダトウショウ、川本三吉の三者が、踊ると云うよりは些か劇的に在りつづけようとする空間にあって、その位相とは別次に、ひとりひとりを、あるいはDuoを、また3人をと配し、踊りを成り立たしめてみること、課題はそんなところにあったのだが、観た者も演奏者も、さらには演者たちも、どう感じとったか確かめてもいないが、私の眼には予見を大きくは違わず、試みてみただけのことはあったと云えそうだ。

会場に大きく座を占めていた太い丸太が、赤く塗られた鎹で繋ぎ合わせられ、長い円弧になって、これが客席へと変身したのだが、どうやらこの太い丸太、曰く付きの伝説的造型作品だとかで、中が刳り抜かれた長大なカヌーで、75年、琵琶湖に浮かべようと企画、制作されたものだという。

写真は、その制作者でもある三喜徹雄氏の作品「流木RYUBOKU2007/7」
「青森県下北半島六カ所村海岸に流れついた1本の流木をつなぎ合せる。三喜徹雄」と添書がある。

ここ数年来、彼は放浪の人となり、トラックに日用具一切を乗せ全国の海浜を廻っては、見つけた大きな流木をチェンソーで裁断し、組み上げては立体造形をしているという。もちろん、海辺で生まれた作品は、人の眼に触れることもなく、またどこかに運び込まれるわけでもない。ただ一枚の写真となって彼の造型行為はそこで完結、ということであるらしい。

ばかき様の裏に記された作業日記のごとき彼の短い一文が、この営みに賭ける彼の拘りよう、ひいては生きざまを伝えてとてもいい。

「青森県下北半島に漂着した一本の流木をチェンソーで台形に切断してゆき渦巻状に組み立てる。7/23 今回はハイエースに自転車です。下北まで約20日ちかくかかってやっとこの一本の流木にめぐりあうことが出来ました。7/24 流木半分砂に埋っているので堀出作業に一日かかってしまった。7/25 いよいよチェンソー切断です。なかなか刃を入れる角度が決まらず苦労する。7/26 流木のある地点から波打際まで約300m。小さな砂丘を越えて切断したパーツを1つずつころがしてゆく。広大な砂丘の中でひとり黙々と作業する。7/27 前日と同じ作業。7/28 波打際での組立て。カスガイを打って完成。それにしてもここは涼しい。」

とあり、携帯のメールアドレスのあとに、「住所は只今ホームレスのためありません」と記す。

偶々同席した陶芸の石田博君によれば、京都教育大の同期生仲間とか、ならば私とも同年となるが、この潔さと徹しようは、此方まで心洗われるようであり且つズシリと肚に響く。

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June 24, 2008

ひとり直し今朝の腹だち

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-18

  苔ながら花に竝ぶる手水鉢  

   ひとり直し今朝の腹だち  去来

直-なおり-し

次男曰く、「秘注」は「小庭ノ手入ニ打紛テ、世事ヲ忘レタル体ヲ附タリ。句ノ機嫌ヲ整タル附ナリ」と云い、露伴も「小庭の手入れに打紛れて今朝の不機嫌のなほりしといへる旧解よろし」と云う。

「猿みのさがし」は、庭せせりする人の起情を風流化するところに付意があるとして、「理なきを理とするとは爰の事にして、前に縁なき句にして、何所となく前の人の行状を思ひやらるる所に縁ありて連続する也、と味ふべし。親しからず疎からず附よといふも、是等の附意にて考ふべし」と説く。

腹立ちが直れば、心も顔も綻ぶ。ひとりでに直れば猶のことだが、「綻ぶ」はとりわけ「花」の伝統的縁語であるから、景の句から人情を引出して二ノ折の起情を図れば、これは適切かつ機敏な目付だろう。

評価の云う後講釈は、話の伸しと見るにせよ、付合における親疎の匙加減にせよ、その点を見落せばまったくの空語になる。

この句はひょっとして、「源氏物語」梅が枝の巻の、「霞だに月と花とをへだてずはねぐらの鳥もほころびなまし」を掠めて春三句と祝言の余情としているのではないかと思うが、「梅が枝」は人口に膾炙した巻でもない。当座、去来の口からこの歌が出たとしたら、の話である。

歌仙は横折懐紙の折目を下にしてその表裏に句をしるし、二枚を綴じて一巻とする。初折の句の終り-折端-と二ノ折の句の初-折立-とが綴目で合うが、先は花の定座の次に当るから、「花の綴目」とも呼んでいる。去来の句ぶりはその名にふさわしく、「花」を莟-つぼみ-と見ている、と。

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ひつそりとして八つ手花咲く

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―山頭火の一句―

詞書に「戦死者の家」と添えられ、句集「銃後」所収、昭和12年の晩秋あるいは初冬の頃か。

昭和12年と云えば、7月7日、満州で盧溝橋事件が勃発、北支事変へと戦線拡大の火ぶたが切って落とされた。

山頭火は7月14日の日記に、
「北支の形勢はいよいよ切迫した、それは日本として大陸進出の一動向である、日本の必然だ、それに対して抵抗邀撃するのは支那の必然だ、ここに必然と必然との闘争が展開される。勝っても負けてもまた必然当然であれ」などと記している。

戦線は拡大の一途をたどり、日本軍は華北・華中へと大軍を送り、11月には杭州湾にも新たな大兵団を上陸させた。
あの南京大虐殺が起こるのは翌12月のことだが、銃後の国民には知らされる筈もない。新聞は連日、日本軍の活躍や美談の類が報道されるばかりだった。

この頃、「戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも読んでいるうちに涙ぐましくなり遣りきれなくなる」とか「戦争記事は私を憂鬱にする、しかも読まずにはいられない」と記している。

―世間虚仮― 和田中式公教育再生論

毎日新聞夕刊に月1回ペースで掲載される「中島岳志的アジア対談」に、昨夕、藤原和博氏が登場していたが、この内容なかなか読ませるもので感じ入った。

補習授業の「ドテラ」-土曜寺子屋-や塾講師等による学内塾「夜スベ」-夜スペシャル-などで耳目を集めた東京杉並の和田中、あの民間出身の校長先生だ。

私とすればこの連載、インタビュアー中島岳志の切り込みようも、登場させる人選についても、疑問が付されることしばしばなのだが、この対談に関しては藤原氏の独壇場、彼自身の優れた現場感覚から生み出されてきた教育実践とその論理が凝縮的に陳べられており、まさに今日的な公教育再生の手法として高評価されねばならぬと痛感させる。

その理念的柱は、学校の地域社会における「本部化」ということ。学校をこそ軸に地域社会の新たなる編成をすることである。

それゆえにこそ学校が一つの典型的モデルとして地域社会化すること、地域社会の諸要素を積極的に取り込んでゆくことも大いに必要とされ-彼の実践でいえば「よのなか科」がこれに該当する訳だが-、表裏一体の活動として取り組まれねばならないことになる。

この対談記事、いまのところネットの「毎日JP」で掲載されており、その全文が読めるから、関心ある向きには是非お奨めする。

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June 23, 2008

苔ながら花に竝ぶる手水鉢

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-17

   さし木つきたる月の朧夜 

  苔ながら花に竝ぶる手水鉢  芭蕉

竝-なら-ぶる

次男曰く、「猿蓑」の三つの歌仙興行で、芭蕉は異例の脇をつとめている。これは、王城の地で正風を起すなら京連衆を撰者に立て、かれらを客とし自らは亭主として振舞おうという趣向だが、そういう男が最初の花の座に当れば、作分は当然のこと祝言の工夫になる。

並の初花の場合とは違う。「すべて千うた・はたまき-千首・二十巻-、名付けて古今和歌集といふ。かく、このたび集め撰ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積りぬれば、今は明日香川の瀬になる恨みも聞えず、細れ石の巌となる喜びのみぞあるべき」という「仮名序」を自ずと思い出す。むろん、例の賀歌の方もである。

「わがきみは千代に八千代に細れ石の巌となりて苔の生すまで」-古今集・よみ人しらず-
この歌は、たぶん同じ作者の手に成る別案と覚しき形が、「古今和歌六帖」に「巌」題で入っている
「苔ながら生ふる巌は久しくてきみに比ぶる心あるかな」-紀貫之-
西行の「独尋山花、誰かまた花をたづねて吉野やま苔踏み分くる岩つたふらん」-山家集-というような諷詠の考え方は、右の伝統があって生れてくるが、「六帖」の貫之の歌も芭蕉は知っていたのではないか。

「巌」を「手水鉢」に取替れば俳諧になる。手水鉢の起りは明らかではないが、平安末在銘のものも伝存し、鎌倉時代以降、とりわけ禅院で重んじられた。多くは石造である。漱清の礼はそのまま茶の湯に取入れられ、利休の伝書「南方録」にも先ず、「易-利休-の曰く、露地にて亭主の初の所作に手水を使ふ、これ露地・草庵の大本也。此露地に問ひ問はるる人、たがひに世塵のけがれをすすぐ為の手水鉢也。寒中には其寒をいとはず汲はこび、暑気には清涼を催し、ともに皆奔走の一つ也」とある。芭蕉はこれを読んでいたわけではないが、為来-しきたり-や作法は自ずと心得ていた筈だ。

「苔ながら」の句は、挿し木がつけば次に初花が咲くと前を見究めて、新-凡兆・史邦-と旧-芭蕉・去来-を合せる作りである。凡兆の不安を打消して、つまり「月の朧夜」の安堵を以て俳諧としているが、これは「不易流行」の宣言でもあると気付くだろう。ちなみに、この興行の挙句は、「枇杷の古葉に木芽もえたつ」-史邦-である、と。

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June 22, 2008

さし木つきたる月の朧夜

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-16

  この春も盧同が男居なりにて 

   さし木つきたる月の朧夜  凡兆

次男曰く、年季奉公が根を生やすのは挿木しがつくようなものだ、と人情を景に執成している。むろん、言いたいことは、きみが出替りを思いとどまってくれたお蔭で、挿し木-若木-もどうやら花を持ちそうな気配になってきた、ということだ。

「月の朧夜」はただちに朧月夜ではない。まだ花木になると決まっていない、という不安をこめた微妙な云回しである。

接ぎ木を知って挿し木を知らぬということはありえぬが、前者は「はなひ草」以下に仲春の季とし、後者はとくに採り上げていない。蕪村時代あたりから春に扱った発句が散見する。したがってここは、「月の朧夜」を季と見るべきか。秋以外の月の句は、一歌仙に一つ許される。

「其下男ノサシタル木トミテ、居ナリト言ニ、ツキタルトハヒゞキ也。朧夜トハ当季ノアシラヒナガラ、サシ木ノツキタルヲ未ダ心許ナガル、と言心ニテ朧夜トハ言リ」-秘注-

「前句の男のさしたる木の活着したるなり。‥セン枝の成不成を月の朧夜に見定むるところ、挿し木を念頭に置けるものの情も真に有り、景も真に有りて、下七文字たゞに季節を合せたるにあらず、おもしろし」-露伴-、と。

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June 21, 2008

この春も盧同が男居なりにて

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-14

   三里あまりの道かゝへける  

  この春も盧同が男居なりにて  史邦

盧同-ロドウ-、正しくは盧仝

次男曰く、客其人の帰路と解すれば三句が同一人物となるから、客の僕に執成して、主人の使いにやってきたように会釈っている。

たかが三里余の道を「かゝへける」と大儀に云うなら、その下男も「居なり」だろう、と見たところが滑稽のみそである。出替りと呼んで、奉公人は春秋の二度入れ替るのが通例だが-出替は仲春の季語になっている-、居成-いなり-は、年季が明けてもそのまま続いて住み込むことだ。

それにしてもなぜ「盧同が男」なのか、と首を傾げさせるところに作の工夫がある。盧仝-同-は中唐の隠士、玉川子と号し、達識かつ詩に巧み、警句をもって知られ、茶の品別に長く。その盧仝の人品を称えた韓愈の長詩があるが、その結びに曰く

「‥羊ヲ買ヒ酒ヲ枯ッテ、不敏ヲ謝ス。偶、明月ノ桃李ニ耀クニ逢フ。先生、降臨ヲ許スニ意有ラバ、更ニ長鬚ヲ遣シテ双鯉-手紙-ヲ致サシメヨ」-盧仝に寄す-、と。

韓愈が洛陽河南県の県令となった折、県令たる心得を盧仝に諭されるということがあった。これに対し、一献を差し上げて謝意を表したいが、時節もちょうど「明月ノ桃李ニ耀クニ逢フ」頃であるから、かの長鬚-盧仝の僕-をもう一度寄越して、色よいご返事を賜れまいか、と云っている。

史邦が盧仝の名を持出した含はこれだろう。春秋の句は三句以上-五句まで-続という約束があれば、三句後に花の定座をひかえて去来が月を零した段階で、この巻の初裏の月は春で殆ど決まりとなる。

去来先生が春月の興を見せろと云われるが、ぼくは今日の座の走使にすぎない。さいわいきみ-凡兆-が盧仝になってくれるなら、われらが韓愈殿の許へは、さっそくぼくから朗報をもたらそう、と。

去来の譲りはあからさまに凡兆を名指ししているわけではないから、この取持ちの気転はまったく巧いと云うほかないが、そこまで考えると「居なり」にも意味が現れる。大切な役目をひかえて出替るわけにもゆかぬ、ということだ。「かゝへける」との釣合だけで思付いたことばでもなさそうである。史邦という男、芭蕉が凡兆の連に択んだだけのことはある、と。

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June 20, 2008

風の明暗をたどる

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―山頭火の一句―

昭和10年師走の6日、
「旅に出た、どこへ、ゆきたい方へ、ゆけるところまで
旅人山頭火、死場所をさがしつつ私は行く! 逃避行の外の何物でもない」
こう日記に書きつけて、彼は其中庵をあとに飄然と旅立った。

遡って、その年の8月に自殺未遂をしている。おそらくカルチモンでだったろう。
その後、小康を得て、「身心脱落」の境などと愉快を装うも、10月になるとまたしても心身不調を歎いている。
「ぼうぼうたり、ばくばくたり」などと書きつけ、暮し向きにも行き詰まったかの言葉を記すばかり。
12月に入ると、その神経は一刻も堪えられぬほどの様相を呈していた。
「死、それとも旅‥‥all or nothing」、
ただこれだけを記した翌る朝、彼は旅立っていった。

―四方のたより― デカルコマニィ的展開なる‥

来週の24日(火)から29日(日)の一週間、デカルコ・マリィの一党が奇想のPerformanceを展開する。
所は、大阪港築港芸術家村計画の赤レンガ倉庫東横のギャラリーCASO。
名づけて、CASOにおける「デカルコマニィ的展開/青空」展、と。

赤レンガ倉庫の芸術家村計画は十年程前から大阪市などがアドバルーンを挙げども、なにせ財政逼迫の折から耐震基準に満たぬ赤レンガ倉庫群の再生は一向具体化の道遠く、横浜のみなとみらい21赤レンガ倉庫群の再開発における国際色豊かな文化発信基地としての成功ぶりとは水を開けられっ放しで、明暗見事な対照をなす。

そんな悲惨な状況下で唯一気を吐いてきたのが、赤レンガ倉庫群の裏に位置する白い建物-旧住友倉庫-に2000(H12))年オープンしたギャラリーCASOである。

Dance BoxやCOCOROOMにわざわざ立ち退いてもらってまでして、二束三文で売却先を求めた新世界のフェスゲ-Festival Gate-さへ、落札先の韓国関連企業とは訴訟沙汰で暗礁に乗り上げたまま、解決の見通しは一向立たない始末で、「新市長よ、なんとかせえ」と思わず野次の一つもかけたくなるほどにお粗末な大阪市である。

現在、反対が都民の過半を占めるというのに、都知事の石原慎太郎が音頭をとって東京オリンピックへと誘致に血道をあげているが、その結果がどうあれ此方は知ったことではないが、何年前だったか、そもそも大阪市がオリンピック誘致へなどと名告りを挙げたのは大失態であった。バブル崩壊のさなか、財政はすでに尻に火がついていたというのに、窮余の一策とばかり起死回生を誘致に求めたのだったろうが、世界に向けてとんだ恥を掻き捨てたのが磯村市政だった。

そんなこんなで、大阪市の芸術・文化の振興策やサポート事業は、おしなべて絵に描いた餅となって、ジリ貧の一途を辿っている。

と、泣き言ばかり並べていても致し方ない。さて、その一向進まぬ芸術家村計画にあって孤軍奮闘よろしく美術家たちにスペースを提供してきたCASOでの、どういう風のいたずらか、降って湧いたようなデカルコ・マリィ一党の企画、多数のDancerや役者たちとmusicianらが帯同し、造型、映像、写真と多分野にわたる人々が呉越同舟、各々の日程に合わせて自由参加、ごった煮の祝祭空間だ。

「デカルコマニィ」とはシュルレアリズムのルネ・マグリットの作品題、絵を見れば、ああこれかと誰でも思いあたるほどによく知られた構図だ。
デカルコ・マリィなれば、駄洒落の語呂合せも効いてコピー効果も抜群だが、ご当人はその控え目な気質そのままに素直な物言いで、気宇壮大に風呂敷をひろげているから、その言をそのまま引いて紹介しておこう。

これは「デカルコマニィ→シュルレアリズム→集団創造→風景の捏造」と展開します。
「表現とはイデオロギィ諸形態である!」に起想するのですが、それは押並べてコミュニケーションではないかと考えます。
古人の頃から人間関係が悩事、私と貴方、私達と貴方、私と貴方達、私達と貴方達、私と私達‥がテーマです。
何を根拠に、何(誰)に向けて、何を発するのか?
私は其れを「踊る」行為からアプローチしてみたい。
「踊手/役者」として舞台に立ってきた私の感想です。
演出家/振付家/音楽/衣装/舞台美術/大道具/小道具/宣伝美術/記録/踊手‥等、彼や是やで舞台空間(劇場)が在ります。
自分の行為なのに「私は誰の為に何故に踊っているのか‥?」の想いが浮かんだり沈んだり‥無責任とも思える「客席の拍手」に青褪める。
分野や世界は違え、そんな感覚が今の地球表を覆っているのだと思います。
何処かで釦の掛け違えをしたまま来てしまった‥?
出来るだけ水平(フラット)な関係で其処に居る事をやってみたい!
何かを水平な関係で展示する事から見えて来る世界を見たい!
私は「踊る」を展示します。
音楽、舞踊、写真、絵画、オブジェ、演劇‥等、私の知る人達に声を掛けてパノラマを展開します。

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三里あまりの道かゝへける

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-13

  吸物は先出来されしすいぜんじ 

   三里あまりの道かゝへける  去来

次男曰く、ハスの花は日の出とともに開き、午後3時頃に閉じる。散る時は一度に花弁が落ちるわけではないが、午後、ほぼ同刻頃までに散り終る。それを見届けてから三里の家路を帰れば、夏なら、日没までには着く。花も閉じかつ散る頃、ちょうど法事も終った、と考えれば句はわかる。日の暮れぬうちに帰りたい、と云っているのだ。含は二つある。

巡は初裏の八句目、二度目の月の定座に当るが、去来は後に零した。以下に見るとおり、史邦は遠慮し、十句目で-花の定座前-で凡兆がこれを詠んでいる。この歌仙の二花三月は、定座変更は一箇所だけである。結果は凡兆が月・花一つずつ、去来が月一つ、そして芭蕉が月・花一つずつとなった。

遅きに過ぎたとも云える初の撰集でありながら、無名の一新人を主役に推挙した男の心遣いが良く窺われる配分だが、月の座を譲って持成とするためには、自らの家路が夜分にかかっては具合がわるかろう。六里、七里ではなしに、「三里あまり」とした理由はそこにある。謙退とは斯くあるべきと思わせる即妙の付で、句ぶりは其の人の言葉と読んでよい。

道の捗-はか-を積ってみる興が動かねば、月の座を譲った去来の心遣いにも気付く筈はないが、「三里あまり」にはもう一つ、大切な含がある。水前寺苔の句が、語縁を巧みに利用した付だとは先にも言ったとおりだが、芭蕉が未知の苔の名を持出した本当の狙いは、月の定座にあたる去来の取り捌き方を見たかったからだろう。

実は、肥後は向井氏の発祥の地である。其処で新しく発見された珍しい苔-法-なら、王城の地で、きみ-去来-が正客となって、興行される新風の瑞祥たるに相応しいではないか、と水を向けているのだ。「猿蓑」は去来の兄震軒-元瑞-も特別に詩文を寄せ、一族5人の発句が入集している。内、亡妹千子を除いていずれも長崎住である。小なりといえども、これは九州にて初めて蕉風の砦を作ったわけで、記念すべき出来事だった。

「すいぜんじ」と持掛けられて、早々覚悟を問われたと、去来が気付かなかった筈はない。ならば、「三里あまりの道かゝへける」とは、凡兆に月を譲った成行上、慌しい仕儀となった無調法、倉卒についての謝辞である。二兎は追えぬ、志は改めて御覧に入れる、と躱しているのだろう

因みに、名残ノ折で去来がつとめた月の句は「青天に有明月の朝ぼらけ」、以下この歌仙はいずれ見るとおり、果たせるかな、筑紫の浜に旅寝の情を探り、一同意気盛んに巻き了えている。成就の興は新風の旗揚に相応しい行様で尽そう、という合意は予めあったのだと思う、と。

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June 19, 2008

草ふかく水のあふるるよ月

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―山頭火の一句―

昭和12年初夏の頃か、「層雲」発表の句。

この年の山頭火は其中庵にあって、読書に耽ることが多かったようである。道元の「正法眼蔵」を読む際などはかならず正座していたらしい。

とはいえ、むろん近くの湯田温泉へは知人らとよく遊蕩にも出かけている。
ある友人への手紙に
「‥、老いてますます醜し、私はどうしてもシンから落ちつけません。清濁明暗の境を彷徨してをります。」と綴り、
「身のまはりはほしいまゝなる草の咲く」
と句を添えている。

―表象の森― 処分されるペットたち

全国各地にある行政機関の動物愛護センター、ここには全国で1年間に14万頭の犬、23万匹の猫が保護され、そのうちの大半35万の犬猫が殺処分-H18年統計-になるという。
保護収容されてから「1週間」、この短い時間が彼らの処分猶与期間だ、と。
35万という数値にも驚かされるが、たった1週間の余命という事実はさらに衝撃だ。

ステンレス製の密閉された小さな室内に炭酸ガスを送り込み窒息死させる装置は「ドリームボックス」と名づけられている。
この残酷で醜悪なアイロニー。

―今月の購入本―
・J.ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店
訳者今村仁司は本書あとがきにて、生産主義的-経済学的-思考では把握不可能であったポトラッチ型消費の意義は、バタイユに発しボードリヤールを経て、新たなる社会学的概念へと鍛え直された、という。マルクスの価値形態論とソシュールの記号論を結合して社会現象の解析手法としたボードリヤール的消費概念とは‥、1979年初版、中古書

・ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」ちくま学芸文庫
「われわれはヴァージョンを作ることによって世界を作る」、芸術、科学、知覚、生活世界など、幅広い分野を考察し、人間の記号機能の発現としてのさまざまな世界を読み解き、現代哲学の超克をめざすという本書、87年初訳のみすず書房版の文庫化、08年刊

・マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫
80年初訳の紀伊国屋書店版には「言語から非言語へ」と副題されていたこの書は、ポストモダン思潮のひろがりのなかで栗本慎一郎らによってものものしく喧伝されていたが、本書はその新訳にて「暗黙知」再発見を問う、03年刊

・K.ステルレルニー「ドーキンスVSグールド」ちくま学芸文庫
進化の神秘を自己複製子にまで徹底的に還元して説明するドーキンスと、数億年単位の歴史に天体の楕円軌道にも似た壮大なパターンを見出すグールド。対照的な二人のあいだの相違点と共通点を簡潔に整理してくれる、2004年版中古書

・J.ドゥルーズ・F.ガタリ「アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症 上」河出文庫
     々      「アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症 下」 々
欲望が革命的なのは、それが荒々しいからではなく、意識によっては導かれない微細な未知の波動と流線そのものだからである。Globalizationと原理主義という相反するとみえる二つの傾向が、同じ一つの世界システムから出現することを、本書はすでに精密に解明し、警鐘を鳴らしていた、86年河出書房新社刊の新訳版、06年刊

・宮坂宥勝監修「空海コレクション -1-」ちくま学芸文庫
空海の主要著作のうち「秘蔵宝鑰」-十住心論の要約-と「弁顕密二教論」を詳説する、04年刊

・吉本隆明「カール・マルクス」光文社文庫
60年代、混迷の政治の季節、虚飾のまみれたマルクスを救出するべく、その人物と思想の核心を根底から浮き彫りにした「カール・マルクス」-試行出版部刊-に小論2編が付されている、06年刊

・保阪正康/広瀬順晧「昭和史の一級史料を読む」平凡社新書
国会図書館憲政資料室に永年勤めた広瀬順晧を相手に昭和史研究の著作で知られる保阪正康が読み解く、昭和前期激動の舞台裏と天皇ヒロヒトの実像に迫る、08年刊

・「遠田泰幸作品集」遠田珪子編集発行
52歳で夭折した画家遠田泰幸の私家版遺稿作品集、中古書

・広河隆一編集「DAYS JAPAN -処分されるペットたち-2008/06」

―図書館からの借本―
・末木文美士編「思想の身体-愛の巻」春秋社
書中白眉は終章、上野千鶴子と末木文美士の対論。冒頭上野千鶴子が吉本隆明「共同幻想論」の衝撃体験から論を起している。渡辺哲夫の「フロイト性愛論批判」はバタイユと対照させた論点が関心を惹く。GIDで女性から男性へと戸籍も変えた虎井まさ衛の「性同一性障害を生きて」は直截な語り口で読ませる、06年刊

・渡辺京二「江戸という幻景」弦書房
「逝きし世の面影」で、来日外国人たちの遺した記録を渉猟し、幕末から明治にかけての庶民の風景を描いた著者の、その続編とも云うべき、江戸の人々、その文化の風貌を活写する、04年刊

・文化科学研究所編「パフォーミングアーツに見る日本人の文化力」水曜社
演劇や舞踊に活躍する現代アーティスト30人へのインタビューで構成、07年刊

・セミール・ゼキ「脳は美をいかに感じるか」日本経済新聞社
著書に「脳のビジョン」をもつ視覚脳の研究者が、ピカソやモネなどの美術作品を、脳内で生じている事象から説明しようという試みの書、02年刊

・荒井献「ユダのいる風景」岩波書店
著者は新約聖書学者にてグノーシス主義研究者。ユダとは誰か、古代・中世・近現代へとユダのいる風景の変遷を辿る、07年刊

・川村湊「補陀落-観音信仰への旅」作品社
聖母マリアから摩耶夫人、媽祖信仰へとひろがる観音信仰をめぐって、補陀落渡海にはじまり日本各地から韓国・中国またインドへと訪ね歩いた旅の文学的思索、03年刊

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吸物は先出来されしすいぜんじ

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-12

   芙蓉のはなのはらはらとちる  

  吸物は先出来されしすいぜんじ  芭蕉

先-まず-出来-でか-されし

次男曰く、供養に飲食-オンジキ-は付物と見込んだ付だが、見どころは、雑の作りを以て季の実を引き出した手際にある。

蓮をして蓮たらしめているのは、浄土を庭前の眺めに奪った芭蕉の工夫で、史邦ではない。仮にここを二句観相気味に継げば史邦の句は有季とも治定しがたくなるから、さしずめ、衆目一致の夏の句を付けて「芙蓉のはな」の根締-夏二句-にでも仕立てるのが妥当なはこび方だろう。史邦が、秋の筈はないがさりとて直に夏の季語とも云えぬことばをわざわざ持ち出して云回したのは、師の継ぎぶりをしかと見たかったからか。

「吸物」は会席料理の汁椀だろう。飲食は「先」汁からで、菜の賞味は後である。一汁一菜-鯰の向付-を以て膳組の基本とし、煮物-二菜-・焼物-三菜-の順に加える。

「すいぜんじ」は水前寺、水前寺苔のことである。「水」は蓮-水芙蓉-の縁、「寺」は供養の読取り。海苔は法-のり-に通い、法事のつきものである。スイモノ、スイゼンジの語呂もよい。

句は、汁椀の蓋を取っただけで篤志の程がわかった、と凡兆・史邦の息の合った付合ぶりを誉めそやしているらしく読める。

芭蕉は水前寺苔の名をどこで知ったのだろう。元禄頃、水前寺苔はまだ世に知られていなかった。「吸物は先出来されしすいぜんじ」と、句は甘い香りが鼻先に漂うように作られているが、じつは印象の騙しで、俳諧師は物の実際を知らず、ただ呼び名の興のみで作ったらしいと思えば、そこにもまた滑稽の一趣向が現れる。味わったと告げることと、味わってみたいということは、違うだろう。思いきったことをやるものだが、これは次句の作り-解釈-の決め手になるやもしれぬ、と。

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June 18, 2008

芙蓉のはなのはらはらとちる

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-11

  ほつれたる去年のねござのしたゝるく 

   芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦

次男曰く、「ほつれたる」とあれば「はらはらとちる」と応じ、彼が「去年のねござ」なら此は「芙蓉のはな」だと、言葉の工夫も素材選びも浄化を図る体に作っている。厭離穢土に欣求浄土を合せて二句一意とした、涅槃観相の趣向だろう。ならば、「芙蓉」とは蓮の漢名である。アオイ科の芙蓉-木芙蓉-のことではない。

蓮は古来、晩夏の季で、一方、芙蓉は「誹諧初学抄」-寛永18年-以下に初乃至仲秋、兼三秋の季としている。何故、紛らわしい呼称をわざわざ遣ったか、「はちすの花のはらはらと」ではいけないのか、と見咎めさせるところにちょっとしたひっかけの持成がある。

連衆は一瞬迷いかけて、すぐに蓮の花だと気付く。木芙蓉と解すれば前-かきなぐる墨絵をかしく秋暮て」と同季になり、間に雑の句を挟んだ意味がなくなる。何句続けても雑そのものに季のはたらきはないからこれは制式としても嫌うが、たまたま巡も同じ史邦に当っている。ここで秋のはこびはありえない。

木芙蓉は一日花で、凋めば丸ごとぽとりと落ちる。蓮は三日開閉を繰返し、4日目に花びらが散る、それとてもハラハラとは散らぬが、装飾経や蒔絵経箱など浄土教美術に見られる蓮華の意匠は、文字通り「はらはらと」、舞い散る桜花のごとく描かれている。史邦の作りを欣求浄土と見るのは、この美意識の伝統があるからだ、と。

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June 16, 2008

ほつれたる去年のねござのしたゝるく

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-10

   里見え初て午の貝ふく  

  ほつれたる去年のねござのしたゝるく 凡兆

次男曰く、「したたるし」とは言葉遣いや態度の甘え、べたつきを形容する語で、発生は仮名草子あたりか。近世のことばだが、物の状態に転用した例は珍しい。垢染みてべとつくさまを云うのだろう。

句は、行者が携えて下山する寝茣蓙と解しても通じるけれど、それではいかにも芸のない会釈-あしらい-付である。満願成就は出峰とはかぎるまい。そのまま岩屋で即身成仏した者も少なからずあった筈だ。

「里見え初て午の貝ふく」の凡兆解釈にも往生の含があるようだ。拠り所は「千載集」俳諧歌の、「今日もまたむまの貝こそ吹きなつれひつじの歩み近づきぬらん」だろう。「山寺に詣でたりけるとき、貝吹きけるを聞きてよめる」と前書があり、作は「栄花物語」の作者に擬せられる赤染衛門。式部大輔・文章博士大江匡衡の妻で、関白道長の妻倫子に仕えた。浄土門の信心厚く、「栄花物語」にも「往生要集」からの栽入が随所に見られ、釈教歌の数も多い。この歌も、云回しの利口さこそ滑稽だが、内実は釈教歌だろう。羊の歩みとは「涅槃経」に云う、屠所に引かれる羊のごとく死期に近づくことで、十二支に当てれば未は午の次である。

凡兆が前句のあしらいらしく持ち出した寝茣蓙が、単なる山臥の具ではなく、浄穢不二を含とした命終の行儀らしいと気付く。

そういえば蕉・兆の付合は、「栄花物語」の中心人物そのものの俳諧化と、読めなくはない作りである。法成寺入道・太政大臣道長が、九体の阿弥陀如来の御手に渡した蓮糸の紐を握って逝ったことは有名な話だ。金峰山上に經塚を建立し、平安貴族の間に御岳詣を流行させたのも、道長である。

十二支の巡-巳・午・未-をはこびの趣向として、「千載集」の俳諧歌に注目させたのは芭蕉だったかもしれぬ。「里見え初て」を上巳出峰とする絵解がなければ、山臥の寝茣蓙を赤染衛門の歌に結びつける興も亦生れまい、と。

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ここまでを来し水のんで去る

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-山頭火の一句-

句の詞書に「平泉にて」とあり。
昭和11年6月、逢うべく人に逢いたいとばかり急遽其中庵をあとにして仙台へと旅立った。その友らの歓待に、松島、瑞巌寺などを逍遙し、雨降る26日、平泉へと足を伸ばし、毛越寺や中尊寺を訪れている。

この数日後、山頭火はまたしても酒に溺れ、びとい失調に陥ってしまう。友らの眼を遁れ、湯治客の浴衣を着たきりのままに、夜汽車に飛び乗るようにして福井へ。無惨な姿で市中彷徨の末、永平寺の山門の前に立った、という。

―世間虚仮― 一炊の夢

京都の中京区、木屋町通り二条を下るとすぐの西側、鴨川に沿って伏見へと流れる高瀬川のはじまるところ、「一之舟入」の石碑がある。その下の水面、船溜り跡近くには高瀬舟が一艘、往時を偲ぶがごとく浮かんでいる。

慶長19(1614)年、角倉了以が開いた高瀬川は、京都市中と伏見を結び物資輸送の幹線となって、明治を経て大正に至るまでその役を担ったという。
石碑を挟んで東側の角倉家別邸跡は、明治以後その所有者は変遷すれど今に遺され、現在は「がんこ高瀬川二条苑」となっている。

日頃、食の贅などとんと縁のない暮しに、あろうことか昨夕は家族打ち揃ってこの地の川床料理に舌鼓を打ちすっかり堪能させていただいた。谷口夫妻よりの御招ばれである。

一行は幼な児を含めて6人、三条京阪を降りて、夕刻近いとはいえまだ明るい河原をそぞろ歩いたのも一興。生憎と今にも降り出しそうな空模様で、鴨川に吹く風は些か湿っぽかったが、それでも涼しさを満喫、三条の橋から二条までは意外に距離がある。

頃もよしと、エスコート役の谷口旦那に導かれつつ件の館の玄関を入る。広い客間を横目に山水の庭へと出る。小堀遠州作庭も一部に残すというものだが、侘び寂びの趣味とはとおく、緑と石と水の、天下の豪商ならではの贅を尽くした風流というべきか、これはこれで一見の価値なしとは云えぬ。

川床はさすがに涼味満点、酒を呑まぬメンバーのなかで独り私だけがほろ酔いとなり、なんだか申し訳ない心地、今宵は是れ一炊の夢の如し、か。

帰路、地下鉄を降りて地上に出れば雨、深夜に至って雨は激しく煩いほどに音立てていた。

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June 15, 2008

里見え初て午の貝ふく

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-10

  何事も無言の内はしづかなり  

   里見え初て午の貝ふく   芭蕉

次男曰く、無言といえば山伏の行、山伏といえば吉野の大峰入と見定めた付だろう。

その大峰修験のなかでもとりわけ大事で名誉とされてきたのが、笙の窟の冬籠りである。重陽の節句-9月9日-から、上巳の節句-3月3日-まで、半年にわたる長行を古式とする。

僧正行尊の、大峰の笙の岩屋にてよめる
「草の庵なに露けしと思ひけん洩らぬ岩屋も袖は濡れけり」-金葉集-

日蔵上人の、御岳の笙の岩屋に籠りてよめる
「寂莫の苔の岩戸のしづけきに涙の雨のふらぬ日ぞなき」-新古今集-

前は伝西行の「選集抄」にも、「香は禅心よりして、火なきに煙たえず、花は合掌にひらけて、春にもよらずして三年を送る」云々として見える歌である。白川法皇・鳥羽・崇徳両天皇の護持僧となった天台座主が、三年のあいだ、籠ったというのは笙の窟だけではなかった。熊野と金峰山の真中あたりに位置する深仙-神仙-の堂にも籠っている。

十二支の巡は巳の次は午だ、という俳諧師らしい思付が、正午を告げる興を誘ったようだ。「里見え初-そめ-て」とは上巳出峰の云回しだろう。修験とかぎらず、山歩きで里が見え初めるのは頂上に出たときで、下りではないが、「午の貝ふく」の気分はそこにも体験的に響いている。

諸注いずれも下山の心にのみ急で、静から動へ移る活気が奈辺にあるか、まったく触れ得ていないようだ、と。

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日ざかり黄ろい蝶

Yamadaizumi

句は、其中庵の山頭火、昭和8年か。

-表象の森- 彫刻の小径と山田いづみ

14日、昼過ぎからOAP彫刻の小径2008「空と風と水と」を観に出かけた。
OAPプラザを通り抜け大川べりに出ると彫刻の小径がある。8点の彫刻が右に左にと15㍍ほどの間隔かで点在するのを観ながら歩いてゆくと、アートコートギャラリーに出る。その玄関前では出品の作家諸氏と思われる面々が打ち揃ってすでに野外パーティよろしく歓談していた。

栄利秋さんとは二年振りか、今は奈良市となった月ヶ瀬にある倉庫もずいぶんギャラリーらしくなったと云っていたが、その作業などに足繁く通っているものと、よく日焼けした顔から覗えた。

それぞれの作家が、自身の作品について語るのを聞くというのは、此方としてもめずらしい経験で、理論派あり直観派あり、流暢に雄弁をふるう者、訥々と弁ずる者と、その個性が作品とも対照されて、それなりに面白かった。

天神橋商店街へと向かう東西の道は寺町のように寺社が並んでいるが、与力町あたりか、緒方洪庵の墓所との石碑が眼についたかと思えば、さらに少し歩くと今度は山方幡桃の墓所とあった。

次の予定島之内のWF行きには長堀まで地下鉄一本、時間にまだ余裕があるので商店街の喫茶店に入って暫時休憩、安東次男の「芭蕉百五十句」を読む。

山田いづみ公演「そよそよ そより 彩ふ」の客席は10人余りとずいぶん寒いものだった。金曜から日曜、3日間で5ステージに少々無理があったのだろう。

さてその踊り、どうしても越えねばならぬ50歳となる年齢からくる身体的な壁と、生涯一舞踊家としての覚悟を、なにをもって拠り所となしうるか、いわば嶮岨な転回点にあることを示していた。

一見自信家で、旺盛な活動力もある彼女だが、それとてもこの転回はなかなかに至難の業ということだが、今日の踊りに即して、私にすればめずらしく、一点の問題を指摘しておいた。どう受けとめえたか知る由もないが、次の、あるいは次の次の、彼女の踊りに、その応答を見出すしかない。

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June 14, 2008

何事も無言の内はしづかなり

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-09

   ほきごゝろよきめりやすの足袋  

  何事も無言の内はしづかなり   去来

次男曰く、
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」-老子-
「天下の万物は有より生じ、有は無より生ず」-荘子-

墨絵といえども描きなぐれば有心となり、足袋といえども穿き心地がよければ無心になる。

前二句を相対と見た観相気味、傍白の付だが、もともと自ら「落柿舎」などと名告る羽目に陥らなかったら、やすやすと史邦・凡兆の軽口を宥すこともなかったわけだから、去来にしてみれば口は禍のもと、と含みを利かせた作りでもあった筈だ。呉れてやる風流は簡単だが、呉れてやらぬという風流は楽じゃない、と読めばこの去来のほろ苦い笑いはわかる。以て、次句に始動の工夫を求めている。

やや理に落ちた嫌を無しとせぬ句姿だが、前者のはしゃぎ過ぎをたしなめ一巻の流れを変えようと思えば、こうした箴言めいた遣句は間々必要になる。

芭蕉は去来を、杉風の「東三十三ヶ所奉行」に対し、「西三十三ヶ国の俳諧奉行」になぞらえた。凡兆に加えて史邦を抜擢し、若駒二頭の手綱さばきを大坪流馬術の巧者去来に任せてみよう、という芭蕉のたくらみが図に当ったはこびとも読める。この歌仙興行は、連衆の組合せの思付からしてまず俳が見える、と。

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June 13, 2008

はきごゝろよきめりやすの足袋

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-表象の森- 簡素とゆたかさ

渡辺京二「逝きし世の面影」より -№3-

・勝海舟に影響を与えたオランダの海軍軍人カッテンディーケ-W. J. C, Ridder Huijssen van Kattendyke、1816~1866、「長崎海軍伝習所の日々」-は云う、「日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」と。

またオールコック-既出-によれば、「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」と。

彼らをことに瞠目させたのは水田の見事さである。
1856(安政3)年、最初の駐日総領事となったハリス- Townsend Harris、1804~1878、「日本滞在記」-は云う、「私は今まで、このような立派な稻、またはこの土地のように良質の米を見たことがない」と。

また1827(文政10)年から30年まで長崎商館長を務めたメイラン-G.F.Meijlan、1785~1831-は「日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある」と。

・速水融の「勤勉革命-Industrious Revolution-」説というのがある-18世紀英国型の、経営面積の拡大と大量の家畜及び大型農具の導入といった資本集約的な農業革命に対し、徳川期日本では可耕地/人口比率が低く、家畜飼養の土地余剰もなく、「耕耘は、‥肉体的な力をエネルギー源とする鍬や鋤にかわったし、肥料の多投は除草という作業を増やし、またその購入資金維持のため農閑期の副業を強いた。土地利用頻度の向上は農民にとって自身や家族の労働投下量の増大をもって実現した」と云い、幕末から明治初期にかけて、前工業化段階としては最高の経済的・物質的繁栄は、この「勤勉革命」の成果だった、と言い得るのだろう。

また、トマス・C・スミス-Thomas.C.Smith-はその著書「徳川時代の年貢」-1965年-で、「徳川時代を通じて年貢は苛酷なまでに重圧的だった」という通説は、従来の歴史家の誤ったものであり、検地は一般に1700-元禄期-年以来殆ど行われず、「それゆえ19世紀の中頃には、年貢は100年から150年前の査定を基準としていた」、つまりは査定石高が固定していたのに、その間生産性は絶えず向上し、作物の収量も増加していた。江戸時代後半において「課税は没収的ではなかった」し、「時とともに軽くなった」のである、と説いている。

・衣食住において満ち足りている日本の民衆というイメージは、当時の観察者が一致して言及している彼らの生活の簡素さという点に触れないでは、その含意が十分明らかにならぬおそれがある。

日本人の家には家具らしきものが殆どないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真先に気づいた特徴である。
たとえばボーヴォワル-既出-は、「家具といえば、彼らは殆ど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸付きの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿がみんなきちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠しごとのない家に住むかぎり、何一つ欲しがらなかったあのローマ人のように、隣人に隠すものなど何もないのだ」と書く。

明治初期の東京大学で生物学を講じ、大森貝塚の発見者で知られるモース-Edward Sylvester Morse、1838~1925-は、1877(M10)年、日光を訪ねた際に通った栃木県の寒村の印象を、「人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子どもはおそろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼らの顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴した絶望の表情も見えなかった」と記している。

日本における貧しさが、当時の欧米における貧困と著しく様相を異にしていることに、モースは深く印象づけられたのだった。日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」というチェンバレン-既出-の言明もモースと同じことを述べている。日本では貧は惨めな非人間的形態をとらない、あるいは、日本では貧は人間らしい満ち足りた生活と両立する、と彼は云っているのだ。

・1857(安政4)年11月、オランダ以外の欧米外交代表として初めての江戸入りを果すべく、下田の領事館を発ったハリスは、神奈川宿あたりで増えてきた見物人たちの様子を、「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」と記している-「日本滞在記」-。

1884(M17)年頃からしばしば来日、日本通として知られるようになった米人イライザ・シッドモア-Eliza.R.Scidmore、1856~1928-は、「日本で貧者というと、ずいぶん貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安樂を手にする国民はない」、「労働者の住、居、寝の三要件」は「草葺き屋根、畳、それに木綿ふとん数枚」が満たしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しい者にも欠けはしない。それに「人や環境が清潔このうえないといった状態は、何も金持だけに付いて回るものではなく、貧者のお供もする」

その彼女が描く鎌倉の寒村は、貧しさが生活の真の意味での充溢を排除するものではないことを活写してやまない。「日の輝く春の朝、大人は男も女も、子どもらまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。‥漁師の娘たちが脛を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれを姉さんかぶりにし、背中に籠を背負っている。子どもらは泡だつ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうに転げ回る。男や少年たちは膝まで水につかり、あちこちと浅瀬を歩き、砕け散る波頭で一日中ずぶぬれだ。‥婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。だから鎌倉の生活は、歓喜と豊潤とから成り立っているかのように見え、暗い面などどこ吹く風といった様子だ」と。

英国公使ヒュー・フレイザ-Hugh Fraser、1837~94-ーの妻メアリ-Mary Fraser、1851~1922-も、1890(M23)年の鎌倉の海浜で見た網漁の様子を、「美しい眺めです。青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい躍る網をのばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。さてこれからが子どもたちの収穫の時です。そして子どもばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子を亡くした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠を差し出すのです。‥物乞いの人に対してけっしてひどいことばが言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです」と描く-「英国公使の見た明治日本」-。

いまやわれわれは、古き日本の生活のゆたかさと人々の幸福感を口を揃えて賞讃する欧米人たちが、何を対照として日本を見ていたのかを理解する。彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。モースがまさにその例だが、オリファント-既出-が乞食、盗難、子どもの虐待、口汚い女たちが日本に存在しないというとき、彼の念頭にあったのはまさに、エンゲルスの古典的著述「イギリスにおける労働者階級の状態」-1845年刊-が描き出した世界だったにちがいない。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-08

 かきなぐる墨絵をかしく秋暮て  

   はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

次男曰く、手の自由が「かきなぐる」なら、足の自由は「めりやすの足袋」の履き心地だ、と付けている。

メリヤス編みの技法が伝えられたのはずっと後のことだから、「足袋」と云っても、伸縮の自在さや指の股のないことに目をつけた、輸入物の靴下のことだとわかる。当時はまだ木綿足袋普及の初期で-天和・貞享頃から使用された-、足袋と云えば皮製が主だったから、「はきごゝろよき」が猶のことよく利く。

京談林の題別発句集「洛陽集」-延宝8(1680)年-の「足袋」の題には、
「唐人の古里寒しめりやす足袋 -眠松」なる句が早々と入っている。

西鶴の「大矢数」-延宝9年刊-にも
「紅毛-オランダ-よりも紙幟-ノボリ-売 - めりやすが脱れぬ事なら草履ぬげ」
「長崎下り住吉の浜 - メリヤスをはいて蛤蜊-ハマグリ-踏れたり」とある。

メリヤスは、延宝末になって、俳諧師が先ず記録に採り上げた、と云ってよさそうだが、凡兆の句作りはそういうことと無関係ではない。云回しは眠松の句から借りたのかも知れぬ。

美術史上、室町時代を一名、水墨時代とも呼ぶ。如拙・周文・雪舟らを生んだ時代だが、その雪舟が歿した半世紀後にはポルトガル船が平戸に入っている。

二句は、片や唐絵好み、片や南蛮・紅毛物好み、という風俗の移りも見繕って、手と足のはたらきをそれぞれ面白く取出している。手法的には外向性に対して内向性を以てした相対の付だが、「かきなぐる」心を「はきごゝろよき」物で生捕った付、というふうにも見ることができる。「‥をかしく秋暮て」と作った修めが、情の渡しにうまく利いている。如拙の筆になる不思議な絵「瓢鮎-ひょうねん-図」を俳諧化すれば、さしづめこんな二句になる。

猶、二句は同一人物と読む必要はないが、前句のところで触れたように、去来と史邦の句を別人と読めば、「めりやすの足袋」は墨絵を描きなぐる人の用である。

打越以下、去来句の「くれず」と云えば「かきなぐる」と破り、「かきなぐる」と云えば「はきごゝろよき」と納めた興の応酬を見ず、史邦・凡兆の句を一体にして絵も足袋も去来句の実用と考えると、屋上屋を架す印象は拭えず、せっかく風俗・文化を以て四つ手に組んだ相対の面白さは失われてしまう、と。

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June 12, 2008

かきなぐる墨絵をかしく秋暮て

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―世間虚仮― 徳政令判決

今日の毎日新聞の社説、「徳政令判決」の見出しが眼を惹いた。

暴力団のヤミ金事件に、利息だけでなく元本をも賠償すべしとの最高裁判決が出されたのは10日だったが、法外な利息で生活破綻に陥ったヤミ金被害者に対し、元本も弁済無用と借り手側の全面救済へと踏み込んだ、ひらたく云えば借金をチャラにするこの判決、なるほど日本史で馴染みの「永仁の徳政令」にも似て、「徳政令判決」とは言い得て妙とちょっぴり感心したものである。

しかしながら、よくよく思いめぐらせば、住専問題などで大きく焦げついた銀行や証券会社の金融資本を国税投入で救済に全力を挙げたこの国の官僚や政治家たち、この膨大な債務チャラの施策こそ平成版徳政令の元祖ではなかったか。以来すでに十数年、弱者たる国民はなべて利息ゼロ状態に等しい低利に喘ぎ、ずっと犠牲を強いられてきたのではなかったか。

画期的と看做してもいい最高裁の徳政令判決も、金融資本の破綻救済劇といった政官の大悲?には比べものにもならぬ小善にすぎぬということだ。

それよりもこの先案じられるのは、770兆円を超えてなお刻々と増えつづける国の財政赤字、この巨額の国債をチャラにと、極め付けの平成版徳政令が、いつどんな姿で立ち現れるのかだ。

ところで「日本の借金時計」というページをご存じだろうか。

野村證券出身の経済ジャーナリスト財部誠一が自身のサイトに設けたもので、2000年の春から登場したというこの借金時計、時々刻々と増えつづける国の借金総額と、これを世帯割りで割り出した数字を並列させ、ともに一秒ごとに変化する数値を刻んでいく、といったいたってシンプルな仕掛。

参考までに、今日-2008.6.12-午後4時00分00秒現在、日本の借金は774兆2047億9538万円、世帯あたり負担額は1645万0481円を刻んだこの画面、遁れようのないこの国の破滅的危機を伝えてやまず、かなり衝撃の図ではある。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-07

   人にもくれず名物の梨   
 かきなぐる墨絵をかしく秋暮て  史邦

次男曰く、初の裏に入る。季は秋三句目だが、前句の起情に趣向の一つも添えて、人物のはたらきを取出してみせる箇所である。

名物の梨は墨絵の肥やしにした、とあっさり話のけりをつけながら、配るでもなし売れるでもなし、さりとて時分の口に入ったわけでもなし、窮屈な羽目に嵌ったお蔭で思いがけぬ闊達気分を味わった、かえって造化の広大な恵みに与れた、という痩せ我慢の滑稽が、実は云いたいことである。

この「無用の用」の見定めは最初からのものだと思うが、去来が捨てた「栗栖野」の段の後半を、史邦は拾っているのかもしれぬ。

「かきなぐる」を、囲いを開放したい、と挑むさまに読んでも俳になるからだ。それなら付様は向いで、前句の人とは別人の付になる。

「をかしく」は「墨絵」と「秋暮て」の双方にかかる云回しで、「秋暮て」は大暮-季節の暮-のことだ。日の暮と見ると、打越の「宵」と差合う、と。

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June 11, 2008

人にもくれず名物の梨

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―表象の森― 創発、しくじり或いは不祥事

<A thinking reed> 安富歩「貨幣の複雑性」創文社より

「暗黙知の次元」などの著書で知られるマイケル・ポランニー-Michael・Polanyi、1891~1976-は、

世界を単一レベルの原理で理解しうるという思想を拒否し、下位レベルの原理の内部からその原理によっては規定され得ない上位の原理の「創発」する階層的世界観を提出した。しかも、創発する上位の階層は原理的に下位の階層になかった新しい「不祥事」を生み出すと指摘する。

「生物に於いて、上位の原理はいずれも、そのすぐ下の原理によっては確定されない境界を制御する。上位の原理は、それがはたらくためには、下位の原理に依存し、そのさい下位の諸法則をやぶることはない。そして、上位の原理は論理的に下位の原理によって説明されえないので、上位の原理は、そのような下位の原理を通じてはたらくことから<しくじり>を犯す危険にさらされている。

生命の発生は最初の創発である。それは、より高い原理をもつますます高等な形態の生命を生み出す、その後の進化の全段階にとっての原形である。-略- 進化の結果、ますます包括的になる活動の系列は、ついに人間の出現をもたらすが、活動がより包括的になる段階ごとに、新しい<不祥事>が追加される。生物の成長能力は、それぞれの種に典型的な形態を生み出すが、その能力はまた奇形を生むかもしれない。生理学的機能は、機能不全やさらには致死性の諸病の危険にさらされている。知覚、欲求充足、学習には、過失という新しい不祥事がつけ加わる。そして最後に人間は、動物よりもはるかに広い範囲の過失にさらされているだけではなく、道徳意識をもつがゆえに、邪悪な存在になることも可能となったと見られるのである。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-06

  まひら戸に蔦這かゝる宵の月 

   人にもくれず名物の梨   去来

次男曰く、無住ではなかった、其人は独り者だとさとらせる付である。梨は兼三秋の季だが、別名、妻梨とも呼ばれる。

「もみぢ葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折りかざさむ」-万葉集・巻十-

「露霜の寒き夕の秋風にもみぢにけらし妻梨の木は」-同-

「妻」「無し」と「梨」を掛けた序だが、二首とも実情のある歌のようだ。
そして去来も亦、妻梨だったというところに、まず思付の俳がある。

その去来は、この興行の一年前、元禄2年の秋、嵯峨野に庵を設け、その周りに4.50本の柿の木のあるところから「落柿舎」と名付けて住まいしている。

  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山  去来

句作りのたねがわかれば、呉れたくても呉れるわけにはゆかぬ滑稽は容易に読めるが、そういう作者の人柄を承知していて、諸注の如く、吝嗇-リンショク-だの偏屈だのと勝手に想像してもはじまらぬ。前句を実と見定め-蔦・蔦紅葉は兼三秋の季語-、居の工夫を以て応じた落柿舎主人の体験的句作りに気付いた解など見当らぬ。去来は、被うに任せるのも落ちるに任せるのも、造化随順という点では同じことだ、と言いたいのだろう。この句作りは大いに一同の笑いを誘ったに違いない、と。

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June 09, 2008

まひら戸に蔦這かゝる宵の月

Db070509rehea013

―世間虚仮― ショック・ドクトリン-The Shock Doctrine-

「みすず」6月号を読んでいると、「ショック・ドクトリン」、惨事資本主義の真相、なる文字通りかなりショッキングな一文に出会した。

昨年の9月発刊と同時に「Democracy Now」で放映され全米で注目を集めてきた「ショック・ドクトリン-The Shock Doctrine-」の著者ナオミ・クライン-Naomi Klein,1970年生-への、そのインタビュービデオの邦訳だ。

1973年のピノチェト将軍によるチリのクーデターにはじまり、中国の天安門事件、ソ連の崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争、アジアの津波被害、ハリケーン・カトリーナetc.‥、人為的なものから自然災害にいたるものまで、暴力的な衝撃で世の中を一変させた、これらの事件に一すじの糸を通し、従来にない視点から過去35年の歴史を語りなおすというのが、「The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism-ショック・ドクトリン:惨事利用型資本主義の勃興」だと。邦訳書はまだだが近々出ることとなろう。

そのインタビューの全容は「Democracy Now! Japan」 で字幕版が見られるから、ご覧になるのをお奨めする。

Catastrophe的状況を反転、Reconstructionへの最大の機会と捉えようとする発想自体は、有史以来めずらしくもなくありふれたものではあろうが、直接間接に権力の作為がいかように関わってきたかを一つの視点から俯瞰してみることは有意のことではある。

N.クラインたちはその視点に「ショック・ドクトリン:惨事資本主義」を据えてグローバル・スタンダードの全体像を捉えようとしたわけだが、些かセンセーショナルに過ぎると見えようと、この意義は大きいものがあると思える。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-05

   たぬきをおどす篠張の弓  

  まひら戸に蔦這かゝる宵の月  芭蕉

次男曰く、月の座だが、「篠張の月」と誘われれば名月-満月-などを詠むわけにはゆかぬ。打越に朝とあれば、加えて、弓張月を有明とすることも出来ぬ。輪廻になる。宵月とまず見定めたゆえんだ。

取合せて蔦の這うままに任せた舞良戸と作ったのは、われらが行様はまるで蔦の細道-下道-だ、とみんなを笑わせているのだろう。舞良戸は入子板の表裏に間狭な横桟を天地いっぱいに取付けた書院造り用の引違戸で、舞良子-桟-と舞良子の間は云うなれば細道である。この目付はうまい洒落になる。

「伊勢物語」第九段に見える
行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦・楓は茂り、物心ぼそく、すずろなる目を見ること思ふに、修行者あひたり。かかる道はいかでか在まする、といふを見れば見し人なりけり。京に、その人-或人-の御許にとて、文書きてつく-託する-、

「駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり」

宇津の山は以来駿河国の歌枕になり、蔦の細道は、託して、旅の心細さや難儀を展-の-べることばとなった。

「都にも今や衣をうつ山の夕霜はらふ蔦の下道」藤原定家/新古今集

「踏み分けてさらにや越えん宇津の山うつろふ蔦の岩の細道」藤原家隆/最勝四天王院名所障子歌

「まひら戸に蔦這かゝる」といえば、廃屋かそれとも無頓着に住み成すさまか、もとはいずれしかるべき旧家か寺の構えである。打越以下三句は凡兆・史邦で人情、史邦・芭蕉で景色、「まひら戸」の句は三句の渡りを考えた場の付だと容易にわかるだろう。

芭蕉の句は、舞良戸が蔦に被われる成行は梓弓が篠弓に変わるそれと同じことだ、と物の本末に於て二句の位をはかりながら、脅かすつもりの人が脅かされる-ギョッとする-羽目に陥った可笑しさを以て俳としている。

前句の過ぎたはしゃぎぶりを嗜めているとも、旦暮-タンボ、朝夕-は旅の常-宵月のある蔦の細道を怖がることはない-と宥めているとも読める句ぶりで、有無相通じる作りである、と。

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June 08, 2008

たぬきをおどす篠張の弓

Tukinosabaku

―表象の森― 「月の沙漠」と三好康夫翁と

劇団大阪の「月の沙漠」を観た。昨日-7日-の昼だ。

開演10分前に着いたのだが、100ほどのすでに客席は満杯状態、下手端の通路を埋める体でパイす椅子が置かれ、その前から2番目の席に着く。休憩なしの2時間、舞台が近すぎ、演技をする役者を至近距離で観るのが些か辛い。

パンフに演出の熊本一氏が「現代社会の諸問題を作者-橋本幸男(演劇集団和歌山)-一家族に盛り込んだ。だから一つ一つは大変なこと、切実なこと、深刻なことであるが、ここまで描けばもう滑稽なほどだ。作者の試みた容赦ない、ある意味てんこ盛り極端な異化が、現代社会をあぶり出す」と書くように、中年夫婦に二十歳の娘と中三の息子、現代のいかにも平均的な四人の家族に四様、どこにでも起こり得る日常性のまことに深刻な問題を抱え込ませ集約させた、現実の似姿ではあるが、ありそうでありえぬ悲喜劇。

中年の解雇も、若年層の派遣も、ひきこもりや家庭内暴力も、そのDetailにおいて、現実的で、アクチュアルな問題が、それぞれ語られ、演じられている筈なのに、リアル感ではなく、うらはらにシュールな感触に襲われることしばしば、とはいえ抵抗感に襲われるほどのこともなく、役のそれぞれの言葉に行為に、小さな異和があぶくのように立っては消えする‥、まことに奇妙なとしか云いようのない舞台であった。。

「月の沙漠」という名付も解せぬけれど、その表題の傍らにある惹句、
「夢じゃない。ゲームでもない。
      とにかく‥光の射す方へ」
どうやら、問題の根は、ここにありそうだ。

現実の諸問題は、どれもこれも、いまやすでに、あまりにおぞましすぎる。
たしかに、夢でもなく、ゲームでもない、に違いないが、その現実は、背後にはかりしれぬ闇を抱え、すでにわれわれのrealityを超えてある。

ならば、とにかく、光の射す方へ、などと、安直な光探しなど、この現実の、われわれの場所からは、見出しようもない筈ではないのか。
親鸞に倣えば、往相からではどうにもならぬ、往きて還れ、還相に立たねば、この現実、串刺しになぞ、とてもできぬ、ということか。

この日の収穫は、観劇後に、三好康夫翁とめずらしく長談義の機会を得たことであった。
偶々同じものを観ていたのだ。お茶に誘って2時間近くも話し込んだか。終戦後すぐの頃からの大阪の演劇事情など、昔話に花が咲いた。知らなかった翁の足跡など聞くに及び、私の未生-演劇のだが-以前からのことが、いくつか繋がってきた。

話の途中、互の年齢のことになったが、私は今年64歳、先生は?と訊き返せば、なんと88歳になられようとしている。肺気腫とC型肝炎と、おまけに糖尿病もある、お年だから泌尿器科にもかかっている、と。毎日薬剤を12錠ほど飲んでいるとも聞いた。薬の副作用だけでも身体にかかる負荷は大きいものがあろうに、矍鑠としたこの気力はどこから湧きたってくるのか、こういう人を前にすると自ずと頭が垂れてくるのもあたりまえのこと。

山頭火を欠かさずというほどに観に来てくれる翁に、もう少し寄り添ってみなくてはいけないな、とそんな想いを抱きつつ帰路についたのだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-04

  股引の朝からぬるゝ川こえて 

   たぬきをおどす篠張の弓  史邦

篠張-しのはり-の弓

次男曰く、四句目は平句のはじまり、打添の作りは脇に似て、しかも座を進める役目をする。ことさら故事や本説など持出して困惑を招くようなことは避けねばならぬが、事と場合による。

「宇陀法師-李由・許六編、元禄15年行か-にも「近年四句目・六句目は、点のなき所とて点取俳諧衆嫌ふよし。よき句ならば所にはよるまじ。師戯れに云、点のなき四句目・六句目に秀逸して肝つぶさせたるがよしとて、常に案じられたる事もありけり」と云っている。

句は、其人にひとふし趣を持たせるために衣食住などの素材を取合せる、いわゆる会釈-あしらい-付で、「弓」は「引」-前句-の縁語、「篠張の弓」は篠竹の弓と云っても同じだが、弓張月を匂わせて次句-月の座-への持成とした表現である。

その点を見逃して字面に捉われると、これは藪などに仕掛けた罠の弾き弓だという下手な考に嵌る。露伴以下現代の注釈の殆どがそう解している。

史邦の作りには、必ずや凡兆の起情に見合う地拵えがある筈だ、と考えるべきで、それは東大寺の大仏鋳造に際して、大伴家持が「‥梓弓、手に取り持ちて 劒大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り 吾をおきて 人はあらじと‥」と詠んだ、天平感宝元(749)年の歌以外にはない。本-梓弓-あっての末-篠弓-だということに気付けば、しかと骨組が見えてくるのだ。

竹弓を取って醜-シコ-の御楯となる、は俳諧なればこその思付だ。史邦は、及ばずながら吾々も-私も-、と腰を上げたがっている。どうやら興行は「猿蓑」撰を言寿ぐ趣向で始まったらしい、と。

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June 07, 2008

股引の朝からぬるゝ川こえて

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―表象の森― 陽気な人々

渡辺京二「逝きし世の面影」より -№2-

・19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人たちが最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。

「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」-ロシア艦隊の一員として函館に来た英国人ティリー-Henry Arthur Tilley、生没年不詳-1859(安政6)年。

「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人など居なくてもよいのかもしれない」-1860(万延元)年来日、プロシアのオイレンブルク使節団報告書。

1860(万延元)年来日した英国聖公会-Anglican Church-の香港主教ジョージ・スミス-George・Smith-(1815-71)-は、
「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れに乗ってなめらかに流れてゆくようになんとか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」

また、日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム-タイ-、中国を歴訪してきたボーヴォワル-既出-は言う、
「日本はこの旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴しい」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」「顔つきはいきいきとして愛想よく、才走った風があり」「女たちはにこやかで小意気、陽気で桜色」「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引き留める招待や花の贈り物」「地球上最も礼儀正しい民族、‥いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼に満ちた民族」だと。

・人々の表情にあらわれているこの幸福感は、明治10年代になってもなお記録に止められた。

横浜、東京、大阪、神戸などで水道設計をした英国技師ヘンリー・S・パーマー-Henry Spencer Parmer-(1838-93)-が、1886(明治19)年のタイムズ紙に書いたという、伊香保温泉の湯治客について、
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にピッタリと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」

ブラック-既出-の眼には、羽根つきに興じて顔に墨を塗りたくっている大人たちは、まことに愛すべき者に映った。
「そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見てもうれしがる」

・小さな物語的世界のなかでだれもが示す幸福感と、顕わに横たわる封建的身分社会という現実-その乖離した諸相になにを見出しうるのか

「幕末日本図絵」を著したスイスの遣日使節団長として1863(文久3)年来日したアンベールは、
「江戸庶民の特徴」として社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」を挙げ、「陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫」なことを数えあげる。「日本の庶民階級の人々は、まるで子どものように、物語を聞いたり歌を歌うのを聞いたりするのが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、仕事場の付近や四辻などで、職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円を作っているのを毎日のように見かける」

私は古き日本が「楽園」と評するに足る実質を備えていたかどうか、結局それは異邦人の垣間見の幻想ではなかったかと云った問題には何の関心もない、と著者はいう。‥重要なのは、当時の日本がある異形のもの、「楽園」と呼ぶのが妥当であるかどうかは別として、そんなふうにでも呼ばずにはいられない文化的なショックとして、欧米人の眼に現象したという事実のほうなのだ。なぜなら、そのような異質感をもたらした彼我の落差のうちに、彼ら欧米人がすでに突入し、われわれ日本人がやがて参入しなければならなかった近代、つまり工業化社会の人類史に対してはらむ独特な意味が、ゆくりなくも露出し浮上してくるからである。

日本人の顔に浮かぶ満足した幸せな表情-これらこそが、善良かつ明朗な民衆の性質とあいまって、実際には日本が地上の楽園である筈がないと知りながら、そうとでも呼んでみるしかない衝動を観察者たちのなかに生み出した要因といってよかろう。

明治年間、東大で哲学を講じたドイツ系ロシア人のケーベル-Raphael Koeber-(1848-1923)-にとっても、
日本人の最大の魅力はその「ナイーヴなそして子どもらしい性質」だった。
その彼が「日本はいよいよますます、その清新な本源的なところと、子どもらしさと、一種愛すべき<野生>-その残余は私の渡来当時にはまだ認めることができた、そしてそれは私にとってきわめて好ましい性質であったが-とを失いつつある」と書いたのは、明治も去りゆき1918(大正7)年のことだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-03

   一ふき風の木の葉しづまる  
  股引の朝からぬるゝ川こえて  凡兆

次男曰く、朝鳶が鳴けば雨が降る、朝鳶に川を越すな-遠出をするな-という俚諺がある。

発句・脇の作りに時分-朝昼晩-の見込を立てて、景色を人情に移した雑体の句だが、敢えて、股引の朝から濡れるのもかまわず川を渡る、と逆らってみせたところが味噌である。

第三の句は、「脇と同じくなごやかに差し出たる詞なく」-紹巴、連歌教訓-、しかも「脇に能付候よりも長高きを本とせり。句柄賤しきは第三の本意たるべからず」と云われ、これは俳諧といえども常識である。句材-股引-と云い、風狂と云えば云える面白さはあるようだが、「猿蓑」集の映となるべき興行に、どんなつもりでこんな粗野な第三を作ったか、とこれは考えぬわけにはゆくまい。

「朝から濡るるといへるに其の人の情を具して、寒雨飄揺自ずから厲掲-レイケイ-の意にひびけり」-露伴-、「股引と云えば大方百姓であろう。‥何か特別に早朝かけて川越をしなければならない仕事をもっているものであるいう気配がある」-太田水穂-など、「股引の朝からぬるゝ」のみに気を取られて、「川こえて」を句作りの成行と手軽に考えてかかると、無くもながの印象批評に終る。

凡兆の目付は、持統天皇の吉野行幸に供奉した人麿の讃歌だろう。「万葉集」には「朝川渡」を詠んだ歌が3首あるが、その内、この人麿の歌は「拾遺集」の巻九・雑にも選ばれた格別の歌だ。

「やすみしし 吾が大王の 聞こしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませは ももしきの 大宮人は 船並めて 旦-アサ-川渡る 舟競-フナギオヒ- 夕河渡る 此川の 絶ゆる事なく 此山の 弥-いや-高しらす 水激-はし-る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも」

  反歌
「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆる事なくまた還り見む」

王城の地で正風を天下に問う映の興行に当って、さてどんな服装-いでたち-で「朝川」を渡ろうか、と思案したところが凡兆の作分で、吉野行幸讃歌が無ければ「股引の朝からぬるゝ」は俳言にもならぬ。仮にこれを、狩衣・指貫、あるいは簑笠などと取替えてみよ。新風の心意気も、口もと途端にゆるんで、只の綺麗事になってしまうだろう。

ちなみに股引は、脚絆と併用した半股引で、室町末・近世初ごろから用いられたらしい。軽衫-カルサン-裁着-タツツケ-をさらに簡便にしたものである、と。

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June 06, 2008

一ふき風の木の葉しづまる

Artcort

―四方のたより― お誘い色々

6月は意外に舞台やイベントの案内が多く寄せられてくる。
劇団大坂は、今日が初日で、熊本一演出の「月の砂漠」を劇団稽古場でもある谷町劇場で、今週末と来週末、いずれも金・土・日と行う。本拠での熊本演出は「時の物置」以来の1年半ぶりだという。

市岡OB美術展にめずらしく出品していなかった栄利秋さん、どうしていらっしゃるかと気にかけていたら、「OAP彫刻の小径2008」なるご案内をいただいた。「空と風と水と」をテーマに現代彫刻家8人が新作を競う野外彫刻展は、すでにこの4月から天満橋大川沿いの大坂アメニティパークで展示-09年3月迄-されているが、この10日から21日迄は場所を室内-アートコートギャラリー-に移しての展覧会となる。

舞踊の山田いづみは、島之内のWFでSolo Danceを、こちらも来週末の13-金-.14-土-.15-日-だ。

いつも案内をいただいては欠礼ばかりが続いているキタモトマサヤの「遊劇体」は、このところずっと泉鏡花の劇世界に挑んでいる。これまでに「紅玉」、「天守物語」、「夜叉ヶ池」を採り上げ、今度は「山吹」を舞台に。月末の26日-木-~30日-月-まで、場所はミナミの精華小劇場。

在阪の邦・洋文化団体が大同して艶を競う大文連主催の恒例アートフェスティバルは、28-土-.29-日-の両日、場所は吹田のメイシアター、大・中・小のホールから展示室や集会室も使ってとりどり盛り沢山の催し。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-02

  鳶の羽も刷ぬはつしぐれ  

   一ふき風の木の葉しづまる  芭蕉

次男曰く、「綴れ紙子に紙頭巾、取りさがしたる姿にて、さながら鳶が身振ひして、風に吹かれし如くなり」、仮名草子「竹斎」に見える描写である。鷹は直飛して空中で獲物を捕えるが、鳶は上昇気流に乗って帆翔し食は地上に求める習性があるから、浮力を得るために羽毛は長短不揃いで婆娑としている。風に吹かれれば猶のこと乱れる。

「一ふき、風の木の葉しづまる」-一吹き風ではない-とはそこに目を付けた、つまり鳶の羽を突風で煽っておいて、しかるのちに初時雨に整えさせる、と趣向を立てた打添の景色作りである。

季語は「木の葉」、連・俳で初兼三冬として扱い、枝に残ったままの枯葉る含めて遣うことばだが、「拾遺集」-勅撰第三集-までは冬歌に取合せた例はまだ見当らぬ。木の葉散る、-降る、などが秋よりもむしろ冬に相応しいものとして遣われるようになるのは「新古今」前後からで、これは山家思想の流行と関係がある。

句の「しづまる」木の葉は、立木のままの枯葉でも落葉でもよいが、前者なら戦慄のあと、後者なら乱舞のあと、相反する心象を以て打添うことになる。

「三冊子」は脇句と発句を因果関係と-逆付-と考えて、「木の葉の句は、発句の前をいふ句也。脇に一嵐落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込みて、発句の前をいふ也」と説いているが、これは見当が違う。逆付は句はこびに間々見られる便法だが、一巻の初に当って、亭主-脇-が客-発句-の言葉の絵解から入るようでは挨拶にもならぬ。先が思いやられる。第一、鳶の羽の普段の状態が土芳にはよく解っていないようだ、と。

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June 05, 2008

鳶の羽も刷ぬはつしぐれ

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―表象の森― 猿蓑

蕉風歌仙、連句の世界-安東次男の「風狂始末」も、「狂句こがらしの巻」にはじまり「霽の巻」「雁がねの巻」とつづいて、愈々「猿蓑」所収の「鳶の羽の巻」へと移る。

「猿蓑」は去来・凡兆の編。元禄4(1691)年5月末に選了、同7月に出板。
乾坤2冊、乾-巻1~4-には諸国蕉門118人の発句382句を、冬・夏・秋・春の部立順に収められる。

巻頭の句は「初しぐれ猿も小簑をほしげ也 芭蕉」で、
巻軸には「望湖水惜春、 行春を近江の人とをしみける 芭蕉」を置く。

坤-巻5.6-は、発句の部と同順の歌仙4つ、
「鳶の羽の巻」-発句「鳶の羽も刷ぬはつしぐれ」-去来
「市中の巻」-発句「市中は物のにほひや夏の月」-凡兆
「灰汁桶の巻」-発句「灰汁桶の雫やみけりきりぎりす」-凡兆
「梅若菜の巻」-発句「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」-芭蕉
が並び、さらには「幻住庵記」などより成る。

集の序は、古今集の仮名序・真名序の伝に倣い、其角が和文を以て著し、跋は漢文を以て丈草が著すという趣向。

「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや」にはじまる其角の序は、後段
「只誹諧に魂の入りたらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小簑を着せて、誹諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり、魂を合せて、去来・凡兆のほしげなるにまかせて書。」と結ぶ。

「鳶の羽の巻」連衆

・去来 向井氏、字は元淵、儒医向井元升の二男として慶安4(1651)年長崎に生れ、8歳にて一家を挙げて京に移住。青年時代-16歳頃より十年ほどか-は母方の叔父-筑前黒田藩士-の許で武芸・軍学に専念。延宝3(1675).4年頃、兄元瑞の家業を助けるためか、帰京した。貞享元(1684)年に上洛した其角と知ったのが縁で蕉門に入る。芭蕉との初会は同3年の冬かもしくは4年の春、江戸において。発句入集は「続虚栗」14句、「阿羅野」14句などを経て、「猿蓑」25句、これは凡兆44句、芭蕉40句に次いで、其角と同数。
「市中の巻」に「いのち嬉しき選集のさた」と自ら言うごとく、「猿蓑」は去来生涯唯一の選集である。宝永(1704)元年、54歳で京に歿。興行当時40歳。

・芭蕉 元禄2年9月末、伊賀上野に帰郷した細道の俳諧師は、11月末には早くも湖南に出向いた。京で師走の鉢叩きを聞き、戻って膳所で越年。膳所藩士菅沼曲水を後見-早伴-として、青年珍碩-後の酒堂-に「ひさご」-元禄3年秋刊-を編ませた。4月には国分山の幻住庵に入ったが、7月23日の出庵まで、籠りきりだったわけでもなく、「猿蓑」選集のへの動きはこの時期活発化したと見られる。最後の仕上げは翌4年の4.5月、落柿舎滞在につづいて凡兆宅-京都市上京-で行われた。興行当時47歳。

・凡兆 姓氏・通称・生没、ともに詳らかでないが、許六が「本朝文選」の「作者列伝」に「加州の産なり。医を業として洛に居す」と記している。はじめ加生と号し、発句の初見は「阿羅野」、「猿蓑」選者に抜擢されたのは去来の推挽によるものだろう。「猿蓑」発句の部に最多入集し、歌仙二つの立句-正客-を務めるなどは異例も格別。妻・羽紅も12句入集している。選後の凡兆は次第に芭蕉から遠ざかり、句も亦精彩を欠く。元禄6年から何事かによって入獄し、出後は大坂に移り住んだ。正徳4(1714)年大坂で歿。

・史邦 中村氏、通称荒右衛門。もと春庵と名告り、尾張犬山藩の御抱医。貞享年間、京に出、仙洞御所などに仕えたが、その後浪人して元禄6年江戸に下った。丈草とともに「猿蓑」初見の新人で、元禄3.4年頃の芭蕉側近の一人。同発句の部入集は13句。元禄9年春、追善集「芭蕉庵小文庫」を編み、師の遺文・遺句で初見のものを多く収める。生没年不詳。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-01

  鳶の羽も刷ぬはつしぐれ  去来

刷-かいつくろひ-ぬ

次男曰く、鳶はワシタカ科だが、鷹と違い食性・風采ともに下品なものの喩えにされ、そのぶんかえって庶民の生活になじみ深いとも云えるが、季語ではない。

刷-かいつくろふ-は「かきつくろふ」の転、古く「名義抄」に刷、聖の和訓として挙げ、乱れをととのえる意味の他動詞。したがって誤用と云えば誤用だが、声調上、他動詞を自動詞に転用した例は近世文には珍しくない。多くは漢文の訓読法に由来したものか。

時雨は冬、初-と遣ってもその点に変りはなく、連・俳いずれも陰暦十月の季に扱う。九月わたりに降る一時雨は秋時雨、露時雨などと呼んで区別する。初時雨の気配・自然が、かいつくろった、鳶の羽の印象をととのえた、読むこともできそうだ。中七文字の次に切れをもつ、俳諧特有の表現効果である。

元禄2年、細道の旅を終え、伊勢の遷宮を拝んだ芭蕉はその脚でひとまず帰郷するが、途中の伊賀越えの山中-長野峠だろう-で、「初しぐれ猿も小簑をほしげ也」の句を詠んだ。

去来も「猿みのは新風の始、時雨は此集の美目」と「去来抄」に著している。「鳶の羽の巻」は初巻にあたる。当季当座という挨拶の約束に照らせば、吟会は元禄3年初冬のことであろうが、「鳶の羽-も」と遣い、「はつ-しぐれ」を取り出したところに記念すべき師の吟声に寄せた一年後の唱和だ、とさとらせる興が現れる。

ならば去来の発句は、あの日の野猿に替って今度は吾々があなたの冬ごもりを祝う、と師に告げている送別の句になる、と。

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June 04, 2008

田にしをくふて腥きくち

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―世間虚仮― おから工事提訴に門前払い

四川省地震でとくに目立った校舎倒壊、おから工事の呼称にはゾッとさせられたが、ずさんな建築であまりに脆かった公共財たる校舎群、子どもたちの犠牲が多数を占めたのはその所為だが、これら手抜き工事に賠償責任を求める親たち住民の提訴が、中国当局の事実上の阻止や裁判所の受理拒否など、次々と門前払いになっているのが報じられている。

北京五輪を控えて、外国の援助隊や報道関係を受け入れ、開かれた国をアピールしてきた中国政府だが、この問題、どこまでも強権で抑えつけていく手法では、収拾のつく筈もなかろうものを‥。

さらに気がかりは、被災地の四川省は核の要衝地帯といわれるが、震源地に近い核施設損壊の疑惑もいまだ消えず。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-36

  花の比談義参りもうらやまし  
   田にしをくふて腥きくち  芭蕉

腥-なまぐさ-き

次男曰く、病弱の子をだしにしているが、談義参りに気が進まぬのは実は口が腥いからだろう、とからかって挙としている。田螺は仲春の季。

挙句は前に寄添うて一巻成就を寿ぐ、平らかな作りを通例とする。逆付気味に理由を読替えた作りは輪廻になりかねないが、むろんその辺は承知のうえで田螺などを持ち出したのは、「痩てかひなき」を虚-冗談-とするはからいである。

こういう減らず口の終り方が出来るのも両吟という応酬あってのことで、句姿は、ほろ苦さと感傷の程よくのこるうつりの趣だ、と。


「雁がねの巻」全句-芭蕉七部集「阿羅野」所収

雁がねもしづかに聞ばからびずや   越人  -秋 初折-一ノ折-表
 酒しゐならふこの比の月      芭蕉  -月・秋
藤ばかま誰窮屈にめでつらん     芭蕉  -秋
 理をはなれたる秋の夕ぐれ     越人  -秋
瓢箪の大きさ五石ばかり也      越人  -雑
 風にふかれて帰る市人       芭蕉  -雑
なに事も長安は是名利の地      芭蕉  -雑 初折-一ノ折-裏
 医のおほきこそ目ぐるほしけれ   越人  -雑
いそがしと師走の空に立出て     芭蕉  -冬
 ひとり世話やく寺の跡とり     越人  -雑
此里に古き玄番の名をつたへ     芭蕉  -雑
 足駄はかせぬ雨のあけぼの     越人  -雑
きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉  -雑
 かぜひきたまふ声のうつくし    越人  -雑
手もつかず昼の御膳もすべりきぬ   芭蕉  -雑
 物いそくさき舟路なりけり     越人  -雑
月と花比良の高ねを北にして     芭蕉  -花・春
 雲雀さへづるころの肌ぬぎ     越人  -春
破れ戸の釘うち付る春の末      越人  -春 名残折-二ノ折-表
 みせはさびしき麦のひきわり    芭蕉  -雑
家なくて服裟につゝむ十寸鏡     越人  -雑
 ものおもひゐる神子のものいひ   芭蕉  -雑
人去ていまだ御坐の匂ひける     越人  -雑
 初瀬に籠る堂の片隅        芭蕉  -雑
ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に     越人  -夏
 垣穂のさゝげ露はこぼれて     芭蕉  -夏
あやにくに煩ふ妹が夕ながめ     越人  -雑
 あの雲はたがなみだつゝむぞ    芭蕉  -雑
行月のうはの空にて消さうに     越人  -月・秋
 砧も遠く鞍にゐねぶり       芭蕉  -秋
秋の田をからせぬ公事の長びきて   越人  -秋 名残折-二ノ折-裏
 さいさいながら文字問ひにくる   芭蕉  -雑
いかめしく瓦庇の木薬屋       越人  -雑
 馳走する子の痩てかひなき     芭蕉  -雑
花の比談義参りもうらやまし     越人  -花・春
 田にしをくふて腥きくち      芭蕉  -春

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June 03, 2008

花の比談義参りもうらやまし

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―表象の森― ある文明の幻影

渡辺京二「逝きし世の面影」より -№1-

著者渡辺京二は、幕末から明治にかけ来日した多くの外国人たちが書き残した記録や文書、邦訳されているものだけでも130にも及ぶ夥しい資料を踏査、彼ら異邦人たちなればこそ語り得た、この国の姿、庶民たちの生活実相を、12の章立てで本書を構成、近代日本の夜明け前の風景が一大絵巻の如く眼前にひろがる感がある。

1.ある文明の幻影

・まずは本章の最後に置かれた著者の言を引く。
私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。

・また、本章半ばあたりに展開される論
文化人類学の青木保によれば、翻訳-interpretation-不可能性の自覚こそ、異文化の核心に近づくための前提である。
Singular-風変わりな-とかstrange-奇妙な-というのは、理解不能あるいは理解の必要のないものとして対象を突き放す-そういいたければ差別する-態度の表白でもありうるが、おのれの異質なものに接した驚きを起点として、おのれの文化的拘束を自覚し、他文化をその内面に即して理解しようとする真摯な努力に道を開くものでもありうるのだ。

・オズボーン-Sherard Osborne、1822-75-と、オリファント-Laurence Oliphant、1829-88-はともに、1858(安政5)年日英修好通商条約締結のため来日したエルギン卿使節団の一員、Osborneに「A Cruise in Japanese Waters」、Oliphantに「エルギン卿遣日使節録」などの著書

Os「この町でもっとも印象的なのは男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」
「衣服の点では、家屋と同様、地味な色合いが一般的で、中国でありふれているけばけばしい色や安ぴかものが存在しない。ここでは、上流夫人の外出着も、茶屋の気の毒な少女たちや商人の妻のそれも、生地はどんなに上等であっても、色は落ち着いていた。役人の公式の装いにおいても、黒、ダークブルー、それに黒と白の柄がもっとも一般的だった。彼らの家屋や寺院は同様に、東洋のどこと較べてもけばけばしく塗られていないし、黄金で塗られているのはずっと少ない」「あらゆる懐旧の普段着の色は黒かダークブルーで模様は多様だ。だが女は適当に大目に見られており、その特権を行使して、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる」

Ol「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」「われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照がきわめて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らの引き起こした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせる嫌な連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた」

・ブラック-John Reddie Black、1826-80- 1860年代初めから15年を超える滞在、著書「ヤング・ジャパン」
「思うに、他の国々を訪問したあとで、日本に到着する旅行者たちが、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」

・いわゆるジャパニーズ・スマイルについて-フランス人画家レガメ-Felix Regamey、1844~1907- 著書「日本素描紀行」
日本人のほほえみは、「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。それは金で購われるのではなく、無償で与えられるのである。
このようなほほえみ、後年、不気味だとか無意味だとか欧米人から酷評される日本人の照れ笑いではなく、欧米人にさえ一目でわかったこの古いほほえみは、レガメが二度目の来日を果たした1899(M33)年には、「日本の新しい階層の間では」すでに「曇り」を見せ始めていた。少なくともレガメの目にはそう映った。

・リュドヴィク・ボーヴォワル-Ludvic Beauvoir-1849~1929、1867(慶応3)年来日、著書「ジャポン1867」
彼にとって、日本は妖精風のLilliput-小人国-であった。「どの家も樅材で作られ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。感じ入るばかりに趣があり、繊細で清潔且つ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である。‥日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色の小店の中に、色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、魔法のランプの前に立つ思いがする」
「漆塗りの小さな飾り物、手袋入れの箱、青銅のブローチ」など、「つまらぬものだが可愛い品々」、この「こまごまとした飾り物」こそ彼が発見した日本だった。彼はそういったものに「目がまわらんばかりに酔わされた」、漆器にいたっては、彼の魅了されぶりは「まさに熱病そのものであった」

・エミール・ギメ-Emile Guimei、1836-1918- 世界有数の東洋博物館として知られるギメ博物館の創設者1876(M9)年来日、滞在3ヶ月、著書「1876ボンジュールかながわ」「東京日光散策」
日本の第一印象は「すべてが魅力にみちている」、古代ギリシャのような日本人の風貌や、井戸に集う「白い、バラ色の美しい娘たち」や、ひと目で中を見通せる住居の、すべてが絵になるような、繊細で簡素なよい趣味や、輝くばかりの田園風景について、惜しみない讃嘆の声をあげる。
サンパンの漕ぎ手たちが発する「調子のとれた叫び声」、重い荷車を引く車力が一引きごとに繰り返す「ソコダカ・ホイ」という歌に似た叫びや、漁師たちの櫓のひとかきごとに出す「鋭い断続的な叫び」、ホテルの窓の下を通る「幅の広い帯を締め、複雑な髪を結った」女たちの、笑い声や陽気で騒々しい会話や、宿屋で見送りの女中たちが叫ぶ「サイナラ」という裏声にいたるさまざまな音に心奪われ、ギメにとって日本はなによりもまず、このような肉感的な物音のひしめく世界として現れた。
彼は、鎌倉の八幡宮や大仏を見たあと、片瀬の宿屋に泊まった。床について灯りを消すが、耳慣れぬ物音が続いて眠れぬ夜を過ごした。まずは波の音-海が震えている、その規則正しい音に混じって、ジ・ジというリズミカルな「一種の鳴き声が家の周りを走る」。そして「木から木へ飛び移る恐ろしい呻き声」、その正体は、風が聖なる杉林を揺り動かし、山が震え唸っているのだ。「星がきらめく夜空の下で、山が海に応え、陸と海とが」二重唱を歌っているのだった。日本の夜にはさまざまの霊や精が呼吸していて、人々はその息吹に包まれて眠るのだと感じて、感銘を覚えずにおれなかったのだ。

・チェンバレン-Basil Hall Chamberlain- 1873(M6)来日、1911(M44)年までの長きを滞在、著書「日本事物誌」「明治旅行案内」
「古い日本は妖精の住む小さくて可愛いらしい不思議の国であった」。しかし「教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」

・ポルスブルック-Dirk de Graeff van Polsbroek、1833-1916-オランダ商館員、著書「ポルスブルック日本報告1857-1870」
「私の思うところヨーロッパのどの国より高い教養を持っているこの平和な国民に、我々の教養や宗教が押しつけられねばならないのだ。私は痛恨の念を持って、我々の侵略がこの国と国民にもたらす結果を思わずにいられない。時がたてば、分かるだろう」

・エドウィン・アーノルド-Edwin Arnold、1832~1904- 1889(M22))年来日、原書「Japonica」
「地上でParadise-天国-あるいはLotus land-極楽-にもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のように優しい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」
「あなた方の文明は隔離されたアジア的生活の落ち着いた雰囲気の中で育ってきた文明なのです。その文明は、競い合う諸国家の衝突と騒動の只中に住むわれわれに対して、命を甦らせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質を育んできたのです」
「寺院や妖精じみた庭園の睡蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景の只中で、長く続く荘重な杉並木のもとで、神秘で夢みるような神社の中で、茶屋の真っ白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野から救われた気がしているのです」
などと歓迎晩餐会でスピーチをしたが、翌朝の主要各紙の論説は、彼が日本の産業、政治、軍備における進歩にいささかも触れなかったことに、日本の軽視であり侮蔑であると憤激した。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-35

   馳走する子の痩てかひなき 

  花の比談義参りもうらやまし  越人

花の比-ころ-

次男曰く、花どきともなれば、子を連れて法話の一つも聞きに参詣するのが世の親の常だが、生薬屋に「痩てかひなき」と云われては気後れする。先生などに首筋を掴まれたのが運の尽きかも。とぼやきながらも、陰気にふさぎ込んでいるわけではない、花疲れの微妙な心を読取らせる句ぶりである。

「花の比」という遣方は、芭蕉の脇「この比の月」と一対にする狙いだろう。腐されたりおだてられたり、まあそのうちなんとかなるさ、見ていてほしいと言いたげな口吻である。肚をくくった句姿はなかなか良い、と。

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June 02, 2008

馳走する子の痩てかひなき

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―表象の森― 嗅覚と観念の相似性

<A thinking reed> 中井久夫「徴候・記憶・外傷」より

T.S.エリオットは「観念を薔薇の花の匂いのごとくに感じる」と、ある評論の中で言った。

観念には匂いと非常に似ているところがある。それは一時には一つしか意識の座を占めない。二つの匂いが同じ強度で共在することはあり得ないが、観念もまた、二つが同じ強度で共存することは-ある程度以下の弱く漠然としたものを除いては-きわめて例外的で、病的な状態において辛うじてありうるか否か、というくらいだ。

また、匂いは、20秒くらいしか留まらない。匂い物質はなお送られてきていても、それに対する嗅覚は急速に作動しなくなってしまう。これは嗅覚が新しい入力に対応するためで、こうでなくてはならない。

観念を虚空に把握しつづけることも、20秒以上は難しいのではないか。とすれば、持続的といわれる幻覚、妄想、固定観念も、絶えざる入力によって繰り返し再出現させて維持されていることを示唆する。ただ、この入力は、決して<自由意志>によるものではない。

さらに、両者とも、起こそうとして起こせるものではなく、ともに、基本的には意識を<襲う>ものである。少なくとも重要な気づきは、はげしい香りと同じく、人を撲つ、科学的、思想的発見であっても、パーソナルな気づきであっても。

匂いも、観念も、ごく僅かな原因物質によって触発される。観念もきわめて些細な、しばしば意外な因子によって触発される。決して方法論に還元し得ないというところがある。

精緻な<意識的方法論>ら拠る研究は堂々たる構えを持ちながら、その向う側が意外に貧しい場合も皆無ではない。これは方法論に拠る人の問題ではなく、方法論に拠るということ自体の持つ欠陥である。観念は生き物であって、鮮度を失わずに俎上にのせることにはある職人的熟練を要する。

なお、匂いはしばしば同定しがたい。観念もまた、その由来を尋ねるに由ないところがある。また、的確な定義のはなはだ難しいことは、よく人の知るところだろう。

「限定され尽くせばその観念の歴史においては結末、いわばその観念の死あるいは化石死である」とさえ言いうる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-34

  いかめしく瓦庇の木薬屋   

   馳走する子の痩てかひなき  芭蕉

痩-やせ-てかひ-甲斐-なき

次男曰く、馳走は奔走である。設けなくして奔走することはないから、転じてもてなしの意にもなれば、大切にする意にもなる。

一読、伝統も学問も財産もあるらしい生薬屋には得てして病弱の子が生まれる、前を読んだ作りのようにみえるが、「馳走する子」を越人と読替えればここにも当意即妙の含が生まれる。

尤もいくらなんでも、お前は育て甲斐がない、では越人に酷と思われるかもしれぬが、ここは一巻中とりわけ大切な名残の花の座の前である。最初の花を芭蕉-亭主-が務めていれば名残は当然越人-客-が務める。

「砧も遠く」の句以下主客ところを取替え、師弟の位相が読取れる応酬の展開になっていた。その客の位をもう一度越人に返すところに、この付の妙味がある。こういう面白さは両吟であってのことで、数人で興行してもなかなか現れてこない。

「痩てかひなき」と云い一層大切にする狙いがある、とはおのずと納得できる。軽口で返しながらまったく骨太い句を作るものだ。

そういう句を諸注は、
「構へいかめしく裕福なる家の、愛児のためにさまざま骨折れども、萎黄憔悴して、其功無きなり」-露伴-とか、
「なかなかままならぬというのが世相の一面というものであろう。前句とあわせて、薬屋の子の病がちというところに、俳諧的な皮肉と笑いがこめられている」-中村俊定-などと読んで済ます。

これではどうにもならぬ。越人が心機一転して務める花の定座の心底も見えてこないだろう、と。

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June 01, 2008

いかめしく瓦庇の木薬屋

Db070510048

―表象の森― Mirror Neuron

脳科学におけるこの十年ほどの最大の発見は、大脳皮質前頭葉にあるミラー・ニューロン-Mirror Neuron-だといわれる。

ミラー・ニューロンとは、自分の動作と他者の動作-Gesture-に鏡のように同じような反応をする神経細胞のことだが、イタリアのリゾラッティたちのグループによってサルの前頭葉運動前野に対応する領域に発見され、ヒトにおいても同様に存在することが明らかになってきた。

相手の心の動きを察したり、共感するといった対人的なやりとりに、このミラー・ニューロンを中心とした神経回路システムは大いに関連しているらしい。自閉症のおもな症状のいくつかはこのシステムの機能障害として説明できるともいう。

最近の乳幼児における心の発達理論においては、このミラー・ニューロンがどのように影響し関連しているかを、以下のように説いている。

・月齢2ヶ月頃-脳の全域にわたってさまざまな感覚刺激に反応するニューロンが分布する。これはいろいろな知覚の間のリンクの形成に関わるとみられ、この過程でのミラーニューロンの役割は,生涯の初期に始まる動機づけや選好性の問題と結びつくものと考えられ、スターンの乳幼児発達理論ではこれを乳児の「自我の芽ばえ」の中心とみている。

・月齢2ヶ月6ヶ月-運動前皮質のミラーニューロンが発達に強い影響を及ぼし、感覚-知覚系の組織化が進むにつれて,乳児にとって母親など大切な人の顔に対する興味が増してくる。さらに運動コントロール能力が発達し、顔の微妙なジェスチャーに対する特徴的な反応様式を身につけ、社会的な能力が増大する。

いろいろな感覚刺激に反応するニューロンが母子の相互関係を通じて刺激され、どんな感覚がどんな感情を呼び起こすかといった,生まれつきの選好-価値判断機構-が、感情的調和の経験や調和能力に結びついていく。

・月齢7ヶ月から9ヶ月-ミラーニューロンの関与する神経生理的メカニズムが促進し、このシステムによってジェスチャーや姿勢、顔の表情の理解とそれに対する反応が瞬間的にできるようになり、他者を主観的な存在として認知する「主観的自我」の能力が発達する。ミラーニューロンを通じて観察者-乳児-は動作者-他者=母親-の意図を察知することができるようになるわけである。

非言語的コミュニケーションはさらに発達し、「注意の統合」ができるようになると、観察者-乳児-はミラーニューロンシステムをコントロールして自発的なシグナルを作りだし、「言語の母体」ともいうべき原始的な会話が始まる。

また、この時期の乳児は指差しなどの、感情を伝えるシンボリックな前言語的コミュニケーションの手段としてのジェスチャーを、意図的に用いることの前触れである「ジェスチャーのシンボル化」が起こる。ここではミラーニューロンシステムを通じて、内的な感情状態とジェスチャーが自動的に合致してコミュニケートされており、これは乳幼児の共感的理解の素朴な形態といえるだろう。

 -参照:別冊日経サイエンス№159「脳から見た心の世界Part3」、「心理臨床を考えるページ」-心理臨床における共感とは何か?/第3章-共感はどのようにして生じるのか?

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-33

   さいさいながら文字問ひにくる 
 
  いかめしく瓦庇の木薬屋   越人

瓦庇-かわらびさし-の、木-生-薬屋

次男曰く、「文字」を問いにゆく方が相手の身分や智識の程度を量る体に付けている。

くすぐりの応酬だが、芭蕉を、いかめしい瓦庇の家構えに住む「生薬屋」に見立てたところが、いかにも越人らしい。

妙薬処方の秘伝もあり、いつになってもこわい、ごまかしのきかぬ先生だ、と云っている。

初裏二句目「医のおほきこそ目ぐるほしけれ-越人」と対応させた作りでもあるだろう、と。

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