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May 31, 2008

さいさいながら文字問ひにくる

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―表象の森― 予感と徴候、余韻と索引

<A thinking reed> 中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房より

・生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すこと。

予感と徴候、余韻と索引、これら両者は現実には、ないまぜになり、あざなえる縄のようになって現れる。

予感は徴候の出現に伴うこともあるが、先駈けることのほうが多く、予感とは主体優位に云うならば、「徴候を把握しようとする構えが生まれるときの共通感覚」、逆に対象優位に云うとすれば、「明確な徴候以前のかすかな徴候-プレ徴候ともいうべきもの-を感受していること」である。

予感が微分的、すなわち微細な差違にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることであり、それは積分的といえよう。

しかし、余韻と予感には、ほのかな示唆的な性向とでもいうべき、相通じる性格がある。余韻の感受は、予感の感受と似ている。

徴候と予感との関係-徴候とは「在の非現前」、予感とは「非在の現前」と云えるかもしれない。

純粋徴候というものはない。徴候とは、必ず何かについての徴候である。対して、予感というのは、まだ存在していないこと、しかし、それはまさに何かはわからないが、何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。

同じことが索引と余韻についても云えそうである。
索引とは、過去の何かを引き出す手がかりであり、むろん純粋索引というものはない。対して、余韻はたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香に喩えられるが、存在したものが何かが問題ではない。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-32

  秋の田をからせぬ公事の長びきて 

   さいさいながら文字問ひにくる  芭蕉

次男曰く、無筆が何度も訴訟文の書き方を聞きにくる、と句の表は作りながら芭蕉は、ずいぶん越人の学問癖、尚古癖に悩まされた、と云っている。

どうやらこれで見ると、「源氏」にこだわり、第三の句を見咎めてわざわざ「窮屈」好みではこぼうと云い出したのは越人のほうだったようだ。親愛の情のなかにもちょっぴり皮肉を利かせた軽妙な付である、と。

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May 30, 2008

秋の田をからせぬ公事の長びきて

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―世間虚仮― Nepal、共和制へ

いよいよと云うかやっとと云うか、ネパールが王政から共和国へと移行したと伝えられている。

28日、新憲法を制定する憲法制定議会は、240年続いた王制の廃止と連邦共和制の導入を宣言して新生国家としての歴史的第一歩を踏み出し、「ネパール王国」から「ネパール連邦民主共和国」になった、と。
まずはめでたし、とはいえ前途もまた多難のようである。

実質上の行政権の長たる首相には、議会第1党となった毛派-共産党毛沢東主義派-のプラチャンダ書記長がなる見込みというが、屋上屋を架す、政治的権限をもたぬ象徴としての国家元首たる大統領を置くとされており、新政府の船出早々、この人選と権限をめぐって紛糾しているという。
民間へ降りビジネスに専念するという前国王ギャネンドラを支持する勢力もなおくすぶっているようだし、不安定要素に事欠かない情勢。

連邦共和制を採りながら大統領は象徴とし、イギリスやわが国にも似た議院内閣制ともいうべき奇妙な政治体制。
民主化へと、安定化へと、軟着陸させていく道のりは、まだまだ遠いのだろうか‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-31

   砧も遠く鞍にゐねぶり  

  秋の田をからせぬ公事の長びきて  越人

次男曰く、名残裏入である。

刈入れをすっかり遅れさせたのは、訴訟沙汰が長引いたからだ、と付けている。はこびを手間取らせたのは私の不手際からだ-申し訳ない-、と読替えればよい。越人の恐縮である。秋三句目を以てしたうまい付だが、「砧も遠く鞍にゐねぶり」がなければ思い付く筈もない人情である、と。

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May 29, 2008

砧も遠く鞍にゐねぶり

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―表象の森― 稗田阿礼は女?

古事記の編纂者と伝えられてきた稗田阿礼は女だったという説が有力なようである。

女性説は民俗学の柳田国男や国文学の西郷信綱も唱えているそうな。
古事記序文には舎人とあるから、従来男性と考えられてきたわけだが、女性説は平田篤胤など江戸時代からすでに唱えられていたそうだ。

抑も「アレ」という語は神の誕生を意味する古語で、これに立ち会う巫女の名にふさわしいと。
また、平安初期の文書「弘仁私記」の序には、阿礼が天細女命-アメノウズメノミコト-の後裔とされている。

よく知られるとおり、天細女は、天の岩屋戸神話、天孫降臨神話などでシャーマン的な能力を発揮した女神だが、猿女-サルメ-氏の祖ともされる。
猿女とは古くは原始的呪的伝統を引く「をこ」-痴・烏滸、滑稽の意-なる歌舞をもって宮廷神事に仕えた巫女で、天細女の話はその職掌起源譚でもあった。

稗田姓は大和国添上郡の地名にもとづくもので、猿女氏と稗田氏は同族であったろうと考えられている。
また、平安朝に猿女と同じく縫殿寮に属していた稗田氏出身の女官職は、オバからメイへと継承されていたという。これは生涯独身で過ごす巫女職ならではの継承法であった。

これらを考え合わせると稗田阿礼は猿女に属する巫女であり、その由縁をもって古事記編纂に関わったと考えるのが妥当、というのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-30

  行月のうはの空にて消さうに  

   砧も遠く鞍にゐねぶり   芭蕉

次男曰く、「八月九月正ニ長キ夜、千声万声了ム時無シ」、「和漢朗詠」にも採る白楽天の詩-夜、砧を聞く-である。

季節は、夕顔のはかない恋の始終に見合っているだろう。単に季続の必要上任意に「砧」を思い付いたわけではない、

「夕顔の巻」には、「見し人のけぶりを雲とながむれば」の歌に続けて、「耳かしがましかりし砧の音をおぼし出づるさへ恋しくて、まさに長き夜、とうち誦じて-源氏は-臥し給へり」と語っている。

「砧も遠く」とは、この「おぼし出づるさへ恋しくて」に照応する追憶の情を含としたものだ、とまずわかる。

当歌仙の対座の興にこれを執成せば、獲物を仕留めるまでに、「鞍にゐねぶり」するほど手間をかけたなあ、ということになる。よく辛抱して凌いだ、と越人を賞めてもいる。やれやれこれで終った、という自身の安堵の気分もむろんある、と。

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May 28, 2008

行月のうはの空にて消さうに

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―四方のたより― 行き交う人々:池田万太郎こと‥

一コマ漫画の「池田万太郎の楽画記」を一頁ずつ見、読みつつ、ひととき、遠い昔の高校時代を甦らせている。

作者万太郎こと池田義徳さんは先日も触れたが市岡の13期生、2年上だ。その面影を追えば、一見おっとりとしているようでかなりの道化者、茶目っ気たっぷりのハニカミ屋さんといったタイプで、スラリと180㎝近くの長身だったように記憶する。

彼が演劇部の部室に顔を出すようになったのは、60年、私が高一の夏、6月の新人公演も終えて、秋の文化祭や府下のコンクール予選に向けて、上級生たち、3年の吉岡保則さんや深海勝也さん、2年で新部長の上木英嗣さんらを中心に、レパ選に入っていた7月だったろう。

前年の部長だった吉岡さんは高校生最後の機会にどうしてもやりたいものがあった。木谷茂生の「太鼓」、この作品は都島工業の演劇部が前の年のコンクールで初めて演じている。当時の都工の演劇部は様式性の勝った簡潔な舞台づくりで一定の評価を確保していたかと思われるが、それが木谷茂生の些か観念的な象徴性の強い詩劇的ともいえる作品世界とよくマッチングしたのだろう、この舞台を観た吉岡さんたちには少なからず新鮮な刺激を与えたらしかった。私はまだ中学生だったからもちろん観ていない。

一方、深海さんは、自身が幼い頃過ごしたという和歌山の-湯浅あたりでなかったかと思うがはっきりしない-土地にまつわる伝承譚、丑の刻参りを材に、自ら書いた創作劇を候補に挙げて執着を示していた。

この場面通常なら、二者択一とならざるを得ないわけだが、いずれを落とすのも忍び難いといった体でみんな頭を悩ましたようだった。「太鼓」のほうは前年に都工の上演がありコンクール向けとしては疑問が付され、深海さんの執着とオリジナルだということを優先させるべきという意見に大勢は傾いていく。だが、吉岡さんたちの「太鼓」への執念も強かった。そこで異例のこととなるが、文化祭には「太鼓」と「丑の刻参り」の二作を上演することに、コンクールへは後者を、という双方ともに活かす案に衆議決したのだった。

高校生活はじめての夏休み、私はそれほど退屈する暇もなく過ごしたようである。高校野球夏の予選では、吉岡さん伝授で応援団の一員として試合のたびにアルプス席に立った。応援団長の吉岡さんは11期の三好征次氏直伝だったという。いつも太鼓を打っていたのは深海さんだ。7月いっぱいでこれが終ると、「丑の刻参り」の稽古に入っていった。8月のある日、深海さんの懐かしい地へ方言拾集にとみんなで出かけたこともあった。

9月、二学期が始まると「太鼓」のほうも稽古がはじまって、二本並行の準備は本格化、装置やら照明やらとずいぶん慌しいものだった。

木谷茂生の劇作「太鼓」や「火山島」はその出版が93年をもって絶版となっているようだから、高校演劇などで採り上げられるその寿命はかなり長いものだったようである。

「太鼓」の舞台は第二次大戦中の前線だが、それが大陸なのかあるいは南方方面なのか場所の特定はなくすでに抽象化されている。登場人物はおもに二人、初年兵らしい少年とその上官である軍曹、この二人が斥候として漆黒の夜の前線に立っている。長年の兵隊暮らしに馴れきってもう内地への帰参など望むことさえ忘れはててしまった、すでに職業軍人化した古参兵と、いかに生きるかがそのままいかに死ぬかへと反転して宙づりになってしまった少年兵が、前線という極限のなか、決して噛み合う筈もない対話をたがいのモノローグのごとく重ねていく。

劇のラスト、敵の戦車が来襲してきたかとみえる轟音が響き、少年は叫ぶ「軍曹!軍曹!」、返事はない、そば近くにまどろんでいた筈の軍曹の姿はいつのまにか消えていた。近づく戦車の轟音がさらに大きくなるなか、絶望の叫び声が暗闇に空しく響いて、幕となる。

おそらく人生最初で最後、一度こっきりの役者というものに挑んだ池田さんが演じたのはその軍曹の役、吉岡さんが彼の柄の大きさを見込んで言葉巧みに?誘い込んだのではなかったか。普段は茶目っ気たっぷりの明るい彼が、ニヒルさを漂わせながら抑揚を殺して台詞を喋る。標準語のアクセントやイントネーションにずいぶん悩まされたようだったが、本番の出来は、いわゆる味のある演技とでもいうか、なかなか上々の部で、その彼の地と演技の乖離がいまも鮮やかに残る。舞台全体としても緊張感の持続した叙情的で美しいものであった。

さていまは万太郎画伯となった彼の一コマ漫画の世界、僅かながらもその人となりを知る者にとって、ほのぼの心暖かくなるような画調に、添えられた詞が寸鉄のごとくよく諷刺が効いている、彼ならばいかにも然もありなんかという世界である。
「楽画記」にはその一コマごとにごく短いエッセイの如きあるいは物語の如き一文が添えられているが、これまた彼らしい感覚と思考かと思われいかにも懐かしい味がする。

本書の奥付を見るにおよんで、この出版が私もよく知るところの安治川べりの石炭倉庫、あんがいおまること久保岡宣子女史の会社JDCだったと気づいて、なんだそうだったか、たしか彼の実家は市岡の尻無川近くにある池田製作所ではなかったか、同じ港区という地縁で知り合うこともあったかと納得。

彼の作品は「万太郎ギャラリー」という名で見られるが、もう一つ、大阪市の外郭団体大阪市道路公社が出す広報誌「POOL」にも池田万太郎の一コマ漫画の世界として連載されている。

写真は「楽画記」末尾の作品だが、おそらく原画はカラーなのだろうが、印刷の都合でかモノクロとなっている。
これに添えられた一文が、彼らしい一面を彷彿とさせて愉しいので最後に引いておく。

「私は自分が着けている、紳士面した仮面が無性に嫌になり、かなぐり捨てたくなるときがあります。
 でも、そうすることはとてもとても恐ろしくて、自分で剥がす勇気がありません。
 いっそ風が吹いて、私の意志でなく、仮面が吹き飛ばされたら良いのにと思います。
 ただし、仮面の剥がれた卑しい私を見つけてくれるのは、大好きなあなたでしかないと嫌です。」

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-29

   あの雲はたがなみだつゝむぞ  

  行月のうはの空にて消さうに   越人

次男曰く、名残ノ折の月の定座。

 「山の端の心も知らで行く月はうはの空にて光-カゲ-や絶えなん」
八月十五夜も明け方近く、何某の院に女を伴った源氏が、
 「いにしへもかくやは人のまどひけん我まだ知らぬしのゝめの道」
と詠掛けたのに対して、女が返した歌である。

越人の句は、いわゆる俤取りなどとは違う。そっくりそのまま持ち込んだ栽入で、これは師の「月と花比良の高ねを北にして」の作りと釣合わせる意図もあったのだろうが、この両吟のそもそもの興の種明しである。

やっと出来た、という越人の破顔が目に見えるような作りだ。
物語の順序と引き違えて、九月二十日ほどの源氏の追憶が前に出、十五夜の夕顔の心細さが後に出てくるところが、はこびの成行上そうならざるを得なかったのには違いないが、偶然とも云えぬ俳諧の面白さである、と。

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May 27, 2008

あの雲はたがなみだつゝむぞ

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―表象の森― 向こう側から見る-親鸞の還相

吉本隆明の「老いの流儀」-NHK出版-のなかに、親鸞の思想、とりわけ「還相」の捉え方を分かり易く説いてくれている一章がある。以下はその論旨に沿って要約してみたもの。

親鸞の場合、「本当の死」とは、肉体の死でもなく精神の死でもない。「ある場所」だという解釈をしている。それは実体化した死とも実体化した浄土とも異なる場所であり、これを親鸞は仏教用語で「正定聚の位」と云う。
比喩で云うなら、王や天皇になる前の皇太子のようなもので、王や天皇が退位-大概は死ぬことだが-すれば、これを継承することは約束されている。ある場所-正定聚の位とは、そういった約束された場所であり、そこへ行けば浄土へ行ける、それが「本当の死」だということで、「現世」と「来世」の間にある「ある場所」なのだ、と。

親鸞の師である法然は、ひたすら念仏を唱えれば、必ず浄土へ行ける、とした。ところが、親鸞の他力本願は、念仏を唱えれば浄土-来世-に行けるというのではなく、「ある場所」に行けると云っているのだと思う。さらに、その「正定聚の位」から「現世」の人にまみれて生きることができたときに、初めて衆生-民衆-の救済は可能になる、というのが親鸞の考え方だ。

念仏を唱え、「正定聚の位」に行って、そこから帰ってこなければならない。帰ってきたときに初めて救済の問題は出てくるのであって、そうでないかぎりは、どんな救済も不徹底なものでしかない。ひとたび「正定聚の位」まで行って、そこから帰ってきて人々の中にまみれたときに、初めて徹底的に人を助けおおせることができるのだ、と。

宗教者ではない立場から見れば、親鸞が云うこの「ある場所」とは、ある精神の場所というか観念の場所ではないか。現実のわれわれが物事にぶつかるとき、それはいつもこちら側から向こう側に、である。だがもし「向こう」から、あるいは「背後」から、また未来からその出会いを見られたら、その向こうからが「死」という場所だろう。向う側からの視点、それは、いわゆる生きている「生」でもなければ、息絶えた「死」でもない、「ある場所」であり、そこから見ることなのだ。そのある場所からなら、死や未来にあるべき姿を全体のイメージで見られるのではないか、生のこちら側から見ても、ある程度は見当もつくが、すべてが分かることはありえない。向こう側から見ること、向こう側の「ある場所」から見られるとすれば、完全に事柄の全体像が分かるはずだ、と。

※「正定聚-ショウジョウジュ-」とは、岩波仏教辞典に拠れば、
正性決定-ショウジョウケツジョウ-とも云い、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。
親鸞は「信心定まるとき往生また定まるなり」-未灯鈔-と云い、無量寿経に「即ち往生を得、不退転に住す」とある「即得往生」とは此の世-現世-において正定聚に住することである、と現世正定聚ということを強調する。「信心の定まらぬ人は、正定聚に住したまはずして、うかれまひたる人なり」」-未灯鈔-、とある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-28

  あやにくに煩ふ妹が夕ながめ 

   あの雲はたがなみだつゝむぞ  芭蕉

次男曰く、「夕ながめ」の内容を付けている。

他の作り-前句-のアシライと見るべき付で、次に自の答を誘うように問掛の体を以てしているが、打越に「露は-こぼれて」とあれば「なみだ-つゝむぞ」と寄添うたあたり、やはり上手のはこびである。-かくすぞ、染めるぞ、では連句にならぬ。

俤の選択の余地を残しながら、お目当てはむろん夕顔である。
「見しひとのけぶりを雲とながむれば夕の空もむつましきかな」

呆気なく頓死した薄幸の女を偲んで源氏が詠む歌で、右近と語り合う長月二十日ほどのくだりに出てくる。
 「こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかあらむ」
-土形の娘子を泊瀬の山に火葬る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌。万葉集・巻三-

 「ゆふぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なるひとを恋ふとて」 -古今集・恋-

原型はこのあたりだが、「源氏」より下って、「新古今」時代になると雲を物思いのたねにした歌は珍しくない。

露伴注釈は「恋する人の夕眺め、暮雲に涙を誘はるるなど有勝の事なるべければ、古歌など引くにも及ばぬことながら、特に家隆の歌-
 「思ひいでよ誰がかねごとの末ならん昨日の雲のあとの山風」-千五百番歌合-
は新古今和歌集巻十四にも出でて、源氏物語の夕顔の君を悲み傷める源氏の歌を思ひて吟ずれば、あはれ深き歌なり。‥流石に芭蕉なれば、一転して俳諧に扱ひて、誰が涙つゝむぞとは作れるなり」、と。

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May 26, 2008

あやにくに煩ふ妹が夕ながめ

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―表象の森― ふたつの画集

市岡OB美術展の最終日-5/24-、閉館も近い午後4時前の現代画廊は、生憎の雨模様にもかかわらず、懇親会に集った関係者で溢れていた。常連の出品者らはほぼ顔を揃えていたのはもちろんだが、生物の小椋さんのほか見知らぬ顔ぶれも幾人か交えて、テーブルを長く囲むようにして和やかに賑やかに団欒モード。
ところが、梶野御大の姿がまだ見えぬ。相変わらずの超遅刻で、お出ましは私が着いてからさらに20分ほど経っていたか。

幹事役の神谷君から昨日会場に到着したばかりだという「中原喜郎作品集」が紹介され、希望者らが各々手に取っていく。絹代夫人の精魂かけた画集は、判型285×225、152頁立て。手に取るも開いてじっくりと観られるようなその場でもなく、対座は帰宅してからのことだ。

ニューミュンヘン梅田本店へと会場を移しての宴は総勢23.4名か、長テーブル二つに窮屈なほど詰めて、相変わらずなかなかの賑やかさだったが、顔ぶれもほぼ固定、この会も十年を経てずいぶん高齢化してきた感が先立つばかり。
一瞬、石炭倉庫の情景を思い浮かべては隔世の感がすることに愕然としてしまうほどだ。

お決まりの三次会、カフェ・コースに落ち着いたのは8人だったか。席上、遠田珪子さんの夫君遠田泰幸作品集をざっと拝見させて頂いたのだが、隣に座る彼女に気の利いた感想の一つも発せぬ自身の無粋さに、みんなと別れて独りになってから気がつく始末では、我ながらまったくどうしようもないヤツガレである。

ともかくもこの日わたしは、異なる二人の画家の遺稿集-画集-を手にすることとなった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-27

   垣穂のさゝげ露はこぼれて  

  あやにくに煩ふ妹が夕ながめ  越人

次男曰く、ナデシコとトコナツは同じ花の別名と、越人も承知して付けている。そうでなければ、後の名月に寄せて前の名月を偲ぼうという興がこの両吟のそもそもの趣向であるにせよ、こう易々と-玉鬘と夕顔との-俤の取替はできぬものだ。

「煩ふ」は病とも恋とも、その他もろもろとも解せるが、苦悩を一つに限りたくない気分が作者にあるようだ。「夕ながめ」は、先の「秋の夕ぐれ」-第四-と同じく名をかすめた越人一流の栽入だが、遡れば、十一句を隔てて、朝・昼・晩と移る恋の情が現れてくる。

   足駄はかせぬ雨のあけぼの
  きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
   かぜひきたまふ声のうつくし
  手もつかず昼の御膳もすべりきぬ

そして「あやにくに煩ふ妹が夕ながめ」である。後朝の恋が昼まで尾を引けば、夕にはどうなったろうと考えるのは人情だが、その辺の目配りは越人にもあったに違いなく、事実「夕顔の巻」には、その年の八月十五夜がことのほか寒かったことも、翌十六日は源氏が「日たくる程に」起きてきたことも、ちゃんと書かれている。

「雨のあけぼの」以下四句のはこびが、単なる王朝趣味の恋句ではなく、じつは夕顔に狙いを付けた巧妙な伏線だった、と気付かせるように「夕ながめ」の句は作られている。

「物いそくさき舟路なりけり-越人」、「月と花比良の高ねを北にして-芭蕉」と、纏綿とした恋の情をひとまず預けて旅体に転じたエピソードにも、いきおい、あらためて心が戻る。作り物語と軍記は違うが、「源氏」も「平家」も通底する「もののあはれ」は同じだ。合せてみたくなってあたりまえで、「海道下り」の栽入-「比良の高ねを北にして」-が思いがけぬ興を生む。

「夕ながめ」の句は、重衡の亡骸を日野に取り寄せた北の方の悲歎-平家物語・巻11、重衡斬ラレ-とも読め、うまい添えかたをする。

須磨の浦に「其日のあはれ、其時のかなしさ、生死事大無常迅速」-四月二十五日付、伊賀の猿雖宛-の感を覚えた俳諧師にしてみれば、こういう目配りの利く相手はとりわけ気に入ったろう、と。

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May 24, 2008

垣穂のさゝげ露はこぼれて

Db070510093

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-26

  ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に 

   垣穂のさゝげ露はこぼれて  芭蕉

次男曰く、天井裏で鼠が暴れれば垣根の大角豆-ササゲ-が驚いて露を零-こぼ-す、というユーモアにはしほりがある。

二句一意、滑稽歌ふうに仕立てながら、二ノ折入以下のひそひそとした人情句続の息苦しさを、しばし庭の眺めに目を遣る体にほぐしている。

即妙の気転で、常人なら「こぼして」情で作りたくなるところを、「こぼれて」と怺-こら-えたあたり、景を景たらしめる作意充分の付だが、こういう応酬には必ずや素材に用の含がある。

タマカズラ-玉鬘は玉蔓-つる草の美称-に通じる。因みに、玉鬘はもともと蔓に玉類を吊り下げて頭飾りとしたもので、緒玉にこしらえたのは後の工夫だろう。「垣穂のさゝげ」は、玉鬘の俳言だとさとらせるように、句は作られている。「垣穂」と蔓は寄合、ササゲ-カキササゲ-はつる草だ。「露」も玉の縁語である。

ササゲは晩春・初夏に種を下ろし、晩夏・初秋の候、莢-サヤ-に実が入る。今の歳時記はこれを秋の季とするものもあるが、昔は晩もしくは仲夏としている。莢は若い頃がよい。夏季の扱いは旬の味に拠ったものだろう。秋になって成熟したササゲの莢の長さは2.30㎝、なかには1m余にも及ぶものがあり、十六ささげ-一莢に16子入-、十八ささげの呼名が生れた。寺島良案安の「和漢三才図会」-正徳3(1713)年-や貝原益軒の「大和本草」-宝栄5(1708)年-には十八ささげが、人見必大の「本朝食鑑」には十六ささげが挙げられている。ジュウロクササゲは今でも学名になっている。

その十六がどうやら、隠されたもう一つの含のようだ。頭中将の常夏の女-夕顔-が撫子-玉鬘-を宿したのは、十六歳の、季節も夏の頃である。三年後、八月十五夜の明け方近く、なにがしの院へ源氏に連れ出された女は、十六日宵過ぎに呆気なく頓死する。これはササゲの実入りの始終にとりなして-「垣穂のさゝげ-十六-露はこぼれて」-、面白く擬人化できる話だろう

「垣穂のさゝげ」を、玉鬘にとどめず、合せて夕顔の俳言でもあるらしいと覚れば、ササゲの蔓にヒョウタンが生るという冗談はわるくない。ユウガオもつる草である。因みに「常夏の巻」には、美しく成人した玉鬘を実父内大臣-前の頭中将-に見せたくなって、亡き夕顔を偲びながら源氏の詠んだ歌がある。
  「なでしこのとこなつかしき色を見ば本の垣根を人や尋ねん」

遡って「帚木の巻」には、女児を産んだ常夏の女が頭中将に書遣った歌
  「山賤-やまがつ-の垣穂荒るとも折々にあはれは掛けよなでしこの露」
が見え、「ほとゝぎす」以下二句の付合はこの歌をもからめているように思う、と。

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May 23, 2008

ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に

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―世間虚仮― 暴君ネロとや

橋下徹大阪府知事によるPT案-財政再建プログラム試案-が矢継ぎばやに次々と出され嵐となって吹き荒れている。今日も今日とて給与12%カットの報が所狭しと紙面に躍っている。おまけに聖域と云われた退職金まで当分の間5%カットという徹底ぶりだ。TVのワイドショーは批判もなくはないがこの異端児改革のお先棒担いだ礼賛派がかなり目立つ。

彼自身、暴君ネロにもなってみせようと自負してなんら痛痒のみられぬ御仁である。MASSでは数が質に変成してしまう。183万票の数がとんでもない妖怪を産み落としてしまった、としかいいようがない。

先に縮小やカットを取り沙汰されてきた福祉や教育関係、さらには文化やスポーツ施設の数々。これに反対の狼煙を上げる動きも一部にあるが、まだまだひろがりを見せるに至っていない。私のところにも反対運動の署名や賛同、あるいは集会への参加を求める案内文書の類が寄せられているが、まさに緒についたばかりという様相で、暴君ネロ殿のスピードのほうが今のところ数段勝っている。

このまま6月議会へと突入すればとんでもないことになる。
議会は混乱必至だろうが、なにしろ大量の数をバックに怪物化してしまった暴君である。彼らは勝負の初めからして数の亡霊に戦々恐々としてきたではないか。推して知るべし、結果は見えている。
といってこのまま手を拱いているばかりではなんら道も開けぬのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-25

   初瀬に籠る堂の片隅    

ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に  越人

次男曰く、「月と花」以下春三句、雑五句と来て、後続四句目には月の定座を控えている。はこびはこの辺で夏もしくは冬の一句も欲しいところである。

「ほととぎす」とはよい思付だ。ほととぎすはうぐいすと並んで、古来初音を待たれた。「かしましき程鳴き候へども、稀にきゝ、珍しく鳴、待かぬるやうに詠みならはし候」と、紹巴の「至宝抄」-天正13年-も云っている。

「初瀬」の移りだと容易にさとらせる名にうまく季をかぶせて初五に取り出し、「鼠のあるゝ最中に」と、和歌・連歌についぞ見かけぬ意表を衝いた合せを以てしたところ、なかなか俳の利いた作りだが、西行に「ほととぎす聞きにとてしも籠らねど初瀬の山はたよりありけり」-山家集・夏-という歌がある。参籠に鼠は付き物、というだけでは初瀬のほととぎすは聞けぬ。この歌は越人の作意にあったに違いない。

そろそろ種明しの潮時ではないか、と云いたげな芭蕉の唆誘に、先生の初瀬詣でのゆかりは玉鬘よりもむしろ西行さんだろう、と恍けた躱し方は巧い。むろん先の「春の夜や」の句を心にかけたうえでのことで、両吟という応酬を面白くする。
「笈の小文」行脚は、西行を通して肝胆相照らした指定の同行という点に格別の意義があり、伊良胡崎への案内を務めた越人がそれを思わなかった筈はない。

「初瀬にほととぎすは西行の歌からの連想もあろうが、鼠の騒音のうちに雅趣あるほととぎすを聞いたとしたところが俳諧的で、初瀬の山趣がよくあらわれている」-中村俊定-、と。

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May 22, 2008

初瀬に籠る堂の片隅

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―表象の森― 逝きし世の面影

英国の商人クロー-Arthur H. Crow、生没年不詳-は、1881(M14)年に木曽御嶽に登って、「嘗て人の手によって乱されたことのない天外の美」に感銘を受ける‥ -略- クローは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子供連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真ん中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走って行く。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。子どもたちは自分とおなじ位の大きさの子を背負った女の子を含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づき合いのよさと幸せな様子」を見てクローは感動した。 -「逝きし世の面影」P12~13より-

日本中のどこを探してももう見られることのないこういった叙景に、戦後の食糧難で徳島県南部の海辺や山里の田舎で疎開暮しをしたこともある昭和19年生れの私などには、遠い記憶の片隅に残るきれぎれの風景に少し想像を働かせ重ねてみるならば、些か紗幕のかかったようなおぼろなものとはいえ、響き合うような風景を想い起こすことは辛うじて可能であるが、少し世代を下ればもうそんなことも適わぬ望みなのかもしれない。

4歳上の次兄など、長じては「よく子守をさせられた」と愚痴ていたものだが、一昨年訪れてみたすでに廃屋となって久しい母親の里の隣家、此処はプレハブに建て替えられていたのにどうしたわけか無人と化し荒れ放題であったが、その家には次兄と同じ年のスガちゃんというひとり娘が居て、この二人がきまって4歳下の私ども-双生児の兄と-の子守役だったとよく聞かされたもので、たしかな記憶などさっぱりないけれど、乳飲み子二人に幼な児二人と帳尻もぴったりなれば、さもありなんかと幼な心にも得心がいったりしたものであった。

とまれ、ヒトの脳は可塑性に満ちているという。さまざまな記憶の断片が潜む海馬はとりわけ可塑性に富むともいわれる。ならば記憶と想像力のネットワークには無限ともいえる可能性があるともいえようか。
本書を繙く読者は、知らず知らず深層に眠る記憶の数々が呼び覚まされ、豊穣な想像の世界が涌き立ち溢れるにちがいない。

―今月の購入本―
・R.P.ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん-上-」岩波現代文庫
量子電磁力学のくりこみ理論で1965年に朝永振一郎とともにノーベル賞を受賞した著者の、名著の誉れ高いユーモア満載の自伝的エッセイ。1986年刊行の文庫版、2000年初版よりすでに17刷を数える。

・宮坂宥勝監修「空海コレクション-2-」ちくま学芸文庫
空海の著作「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「般若心経秘鍵」「請来目録」を収録、訳注・解説する。

・渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリー
滅んだ古い日本の文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らなければならない、という著者は夥しい幕末・明治の来日外国人の記録を博捜・精査することによって、失われしものたちの墓碑銘を刻んだ。目眩く桃源郷のごとき近代以前の庶民の姿。初版は1998年葦書房刊、ライブラリー版は05年初版で既に15刷。

・安東次男「芭蕉百五十句-俳言の読み方」文春文庫
昭和61年「芭蕉発句新注」筑摩書房刊に14句を追補し、々64年文庫版として発刊。中古書。

・吉本隆明「情況への発言-3」洋泉社
個人誌「試行」の巻頭を飾った「情況への発言」全集成の完結版、1984年から終刊の1997年12月までを収録。

・池田万太郎「池田万太郎の楽画記」JDC出版
一コマ漫画のみに執着したアマチュア漫画家の著者は本名池田義徳、市岡高校の13期生である。その高校時代、彼は一度だけ、「太鼓」という劇で舞台に立ったことがある。その印象はかなり鮮烈なものとして私の記憶の裡にある。偶々、その彼が作品集をものしているのを知って買い求めた。中古書。

・広河隆一編集「DAYS JAPAN -第4回Photojournalism大賞-2008/05」

―図書館からの借本―
・蒲島郁夫「戦後政治の軌跡」岩波書店
この春、長崎県知事に転身した著者の「自民党システムの形成と変容」と副題された、80年代以降の詳細な選挙リサーチに基づいた日本の政党政治分析理論。

・安富歩「貨幣の複雑性」創文社
2000年11月初版。本書表紙裏に、複雑系の新しい手法と、開放系・知識・選択権・市場性・多様性・創発・自壊といった新たな概念を導入、経済理論の革新を試みる、とある。

・Y.シュミット「ピナ・バウシェ-怖がらずに踊ってごらん」フィルムアート社
ルドルフ・ラバン、クルト・ヨースに連なる現代舞踊の大御所ピナ・バウシェの作品世界の軌跡を同伴者的に解説した書。1999年初版。

・R.ホーゲ「ピナ・バウシェ-タンツテアターとともに」三元社
著者はピナ・バウシェの作品制作にも協働したフリージャーナリスト。1979年から86年にかけて、演劇批評雑誌や総合雑誌、また上演パンフなどに掲載されたものを収録。原書は86年刊、日本語訳は99年初版。

・「別冊日経サイエンス№159-脳から見た心の世界Part3」河出書房新社
・「別冊日経サイエンス№158-温暖化危機-地球大異変Part2」河出書房新社

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-24

  人去ていまだ御坐の匂ひける  

   初瀬に籠る堂の片隅    芭蕉

次男曰く、ふさわしい場を見定めた付である。

大和桜井の長谷寺詣では平安中期には既に遊山行事と化していたから、とくに俤など探るまでもないが、この巻のはこびについて云えば、流浪の玉鬘が筑紫から上って、開運祈願のために詣でたのが、ほかならぬ初瀬だったということは見逃せない。たまたま其処で亡母の乳母子右近-今は紫上の侍女-とめぐり逢うことが、源氏の許に引き取られて養女となり、彼女に運をもたらすのだ。

芭蕉が越人の謎掛けを、夕顔の霊が引き合せる源氏の俤と読み取っていたことは間違いあるまいが、古来初瀬籠りに貴賎の別ないことを興として同工の発句を彼は先にも作っている。

  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅

杜国を伴って行脚に出た、同5年3月下旬のことである。ただの籠り人-こもりど-も初瀬で会えば俤の添う尊い人に見える、ということを「ゆかし」と云い回したまでで、特別の含を持たせた句ではあるまいが、六ヶ月後、付句としてこれを栽ち入れたのは、その時の興に特定の俤を添わせてみたい気分が動いたからに違いない。

「旧解源氏物語玉鬘の巻のおもむきと為す。されど玉鬘の君初瀬に籠りて、亡き母夕顔の上の乳母にして今は源氏の六条院に仕へ居れる右近に邂逅することは有れども、前句に当るべきこと毫も無し。‥玉鬘の君は此時は筑紫より上りたるばかりにて、御坐の匂ふほど佳き香など身に薫染め居れるにもあらず、‥此句はただ前句を転じて、よき人の初瀬詣でしたる後に、参籠の者の、如何なる貴き方にや、去り給ひしあとの猶ほ香の匂ふと云ふまでのさまなるべし」-露伴-、亡母の霊の手引で開運するという簡単な趣向を見落とすと、こういう解釈になる、と。

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May 21, 2008

人去ていまだ御坐の匂ひける

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―世間虚仮― QahwahからCoffeeへ

日なが家に居て、本を読んだり、パソコン相手にMemoをとったりと過ごしていると、どうしても喫煙や喫飲の量が多くなる。私の場合、飲料のほうはもっぱら珈琲、それも安上がりで手間のかからぬインスタント一辺倒だ。

そのコーヒーのルーツはといえば、意外なことに13世紀頃のアラビアだという。「カフワ-Qahwah-」と呼ばれたが、アラビア語のQahwahは元来ワインを意味し、これが転訛したとされる。

原産地をエチオピアあたりとするコーヒー豆は、6世紀頃アラビア半島で栽培されるようになる。バターでボール状に固められ遊牧民たちが移動の際に携行したという。熱砂の地域では活性効果をもたらすものと重宝されたとみられる。

この豆が煮出しされるようになり飲用となっていくのが13世紀頃で、イスラムの神秘派スーフィーの僧侶たちに愛飲された。この「カフワ」がモカの港からオスマン帝国の首都コンスタンティノーブルに渡り、やがて街中に「カフワの家-coffeehouse-」が立ち並ぶようになる。16世紀後半にはその数600軒を越えたという。

これがヴェネチアの商人たちによってヨーロッパへと伝えられ、彼らは焙って香りを出すように変えて、ロンドンやアムステルダムついではパリでと、サロンやクラブで紳士淑女たちの嗜好飲料となってひろまり、現代のコーヒー文化へと連なる。
3000~4000店も軒を並べたというロンドンのコーヒーハウスからは「ジャーナル」が発行され、いわゆる雑誌メディアが誕生し、さらには保険会社や政党までもがこれを拠点に起こったという。

オランダから日本に伝わったのは17世紀とされるから、これまた意外に早い。だが、茶の全盛期を迎えていたこの国ではまったく普及せず、かの蘭法医シーボルトが「なぜ日本人がコーヒーを飲まないのか不思議でならない」と書き残している、と。
時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元が意外なことにマニアであったとされるが、このあたり父-景晋-が長崎奉行だったという縁からか。
いずれにせよ、日本にコーヒー文化がひろがり根づくようになるのは、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と囃された明治も20年代になってからだ。

インスタントコーヒーにまつわる話題では、これまた意外や意外、この発明者は日本人だったというから驚きだ。時に1899年、彼の人は加藤サトリ-一説にサルトリとも-、時に1899年、シカゴ在住の化学者であった彼は、液化コーヒーを真空乾燥法という手法で粉末化することに成功、のち1901年にパンアメリカン博覧会に「ソリュブル・コーヒー-可溶性コーヒー-」という名前で出品されたものの、彼はよほど無欲の人だったとみえて特許出願などしていなかったため、アメリカ人のなる人物に特許の権利をみすみす掠われてしまったらしい。漁父の利を得た件の人が初代大統領と同名のG・ワシントンというのが、これまたアイロニーたっぷりで面白すぎる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-23

   ものおもひゐる神子のものいひ  

  人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

人去-さり-て、御坐-おまし-

次男曰く、「ものいひ」の内容を付けている。「人去ていまだ御坐の匂ひける」とは、そのまま霊媒のことばと読んでよい。

「家なくて」服紗に包んだ鏡だけが残った、「人去て」御坐の余香だけが残った、というのは発想の差合にならぬかと気になるが、余香を嗅がせて素性を探らせる仕掛は巧い。立ち去った「人」が高貴の位なることは分明の作りだが、男女いずれとも分からず、むろん、鏡の持主の尋ね人だとただちに云っているわけではない。

越人も亦、たのしみを後に残しながら、話作りの暗示的工夫によく即いていっているようだ、と。

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May 20, 2008

ものおもひゐる神子のものいひ

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―表象の森― 重さに聴く

先の日曜-18日-は例によって稽古だったが、靱帯損傷のYukiは相変わらず顔を出せないから、JunとAyaのふたりっきりだ。そこでいつになく趣向を変えて少し私流に拘ってみた。

先ずはひとしきり「ゆすりふり」をさせて、それから足を肩幅ほどにして微かに左右にゆっくり移動させながら重心を尋ね、じっくりと身体の重さに集中しこれを知覚させる。いわゆる「重さに聴く」とでもいうべきもの。

その重さの感覚を把持しながら、おもむろにあらためて重心を移動させつつ、上体を或いは左右の腕をもゆっくりと動かしていく。そんなに難しいことでも込み入ったことでもない。ただ、身体の内側への集中を、けっして求心的に強めていくのでなく、むしろ遠心的かつ可変的に発揮していく感じだろうか。

そんなことに30分ちかく要しただろうか。そのあと音楽をかけて即興をさせてみた。このとき撰んだのはもう長いこと使わなかったMariah Carryの「Emotions」。1曲の長さは4.5分程度、これを交互に3回。

結果はズバリ速効あり、JunnもAyaも見違えるようなのびやかな動きで、身体の各部位のつながりにしなやかで有機的な連関がある。それぞれの動きの展開は明らかに豊かなものになり、無意識裡に発想の変化もみられたようだ。

無論、その30分ほどのあいだに、二人にはそれぞれ個別に講釈めいた注意というか能書きの類も垂れた。

Ayaには、誰にでもある一般的なことだが、右利きゆえの偏りの癖が強いこと。だから腕や脚の重さの感覚が左右においてどれほど異なっているか、それを知覚する必要があることなど。

Junの場合はもう少し厄介な壁がある。彼女は此方がひとつのnonを指摘すると、それをすべてのnonと受け取ってしまってピシャリと自らを閉ざす傾向があり、私の知るかぎりにおいてこの性癖はかなり極端な部類のものだ。此方に云わせればごく些細なこと、ちょっとした問題にすぎないのに、ひと言そんな指摘をしようものなら、まるで自己同一性の危機に瀕したかの如く反応してしまう。だが無意識の本人はそんなヤワなものではない、本当はむしろもっと図太いものが奥深いところにある筈だが、表層のレベルですぐ硬化してしまって鉄の仮面を被ってしまう。

彼女には条理と不条理のあいだに常人には計り知れないような乖離があるのだろう。おそらく断絶にも似たその乖離がなにがしか繋がってきうるとしたら、それはきっととんでもなくおもしろい風景を、いまだ見知らぬ地平を垣間見せてくれるにちがいないのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-22

  家なくて服裟につゝむ十寸鏡  

   ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

神子-みこ-

次男曰く、「ものいひ」と云うからには、この「神子」は神楽神子ではなく、神降ろしをする梓巫女だ。「ますかがみ」は「面」「影」などの枕に遣い、鏡と神子は付合である。

芭蕉は流離の人が口寄せを神子に頼んだと趣向を設け、呼び出す霊は生者死者いずれとも知れぬが、はこびは、ここに来てようやくこの巻の主題-夕顔・玉鬘の運命-につなぐ糸目が見えてくる。工夫のたのしみを残す。

「ものおもひ」はのり移った霊の物思いには違いないが、取持ちながら神子自身も亦そこはかとない物思いに耽るらしいと読ませ、そして当人には相手が居ないというところが面白い。「服裟につゝむ」は、そういう未通女の心理にも働いているようだ、と。

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May 19, 2008

家なくて服裟につゝむ十寸鏡

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―世間虚仮― 赤い天地:砺波平野の散居村風景

写真は毎日新聞5/17付夕刊より拝借

一昨日の土曜日-17日-は、同じマンションに住む新一年生のお嬢さん母娘を誘ってまたまた蜻蛉池公園へと出かけた。いわば人見知りが強いひとりっ娘の友だちづくりにわざわざ親が手を差しのべているといった親バカの図である。

出かけたのが午後だったから、たっぷりと遊ばせて帰路につく頃はもう閉園間近の6時に近かった。黄昏の迫りくるドライブは湾岸線に沿って走ったから、西に落ちかかる夕陽を横に受けながらの走行となって、車内の子どもらは「わあ、見て見て、真っ赤だ、綺麗だネ」などと喧しいほどに歓声をあげていた。

夜、四川大地震の傷ましい被災報道が大半を占める夕刊のなかに眼に止まった一服の清涼剤の如き写真、「守りたい、天地の赤」と見出しされたそれは、富山県砺波平野一帯の夕陽に赤く染まった散居村の幻想的な風景だった。一面の田んぼに水が張られる5月の田植期だけ、天地がすべて茜色に染まる見事な夕映えの造型が見られる、と云った記事が付されていた。

Netをググって散居村の風景写真をさまざま眺めてみた。いろいろ楽しませて貰ったが、その中に「散居村フォトコンテスト」なる観光キャンペーンイベントでの入賞作品を網羅した頁があったので、これ-http://www.city.tonami.toyama.jp/kanko/photo/index.html-を紹介しておこう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-21

   みせはさびしき麦のひきわり  

  家なくて服裟につゝむ十寸鏡   越人

服裟-ふくさ-、十寸鏡-ますかがみ-

次男曰く、幽閉の俤は越人に思い浮かばなかったか。話を流離零落の身の上にもっていっている。

「家なくて」は鏡匣-かがみばこ-もいつしか無くなったこと云回しで、前句に店と遣っているからだが、落ちぶれた人の様子は自ずと現れる。十寸鏡は真澄の鏡である—万葉では真十見、真十-。何がさて鏡だけは大切にしていると云う以上、其の人は女だろう。

破れ戸に釘を「うち付ける」-「(麦の)ひきわり」の掛合いを受けて、「(家)なくて」-「(服裟に)つゝむ」と一句に有無を収めたところ、なかなか味なことをやる。打越以下よく呼吸の合った、快調なはこびである。

「鏡匣は即ち鏡の舎なれば、匣を家とは云へるなるべし、はこと云はずして家と云へるは、言葉も雅にして、且又別に意のかかるところあればなるべく、陳徐乱にあひて分散し、家を失へること-中国南北朝時代の故事、陣が隋に滅ぼされたとき、陣の徐徳元の妻が鏡を二分して夫に与え、流離分散の再会を誓ったことを唐の「本事誌」に伝えられてあり、この話謡曲「松山鏡」にも採り入れられている-を利かせたるなり」-露伴-、と。

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May 17, 2008

みせはさびしき麦のひきわり

Gakusya060324

写真は岸本康弘と学舎の子どもたち

―四方のたより― 岸本康弘帰る

昨日-16日-、岸本康弘がネパールから帰ってきた。
自ら運営するポカラの岸本学舎へ赴くため発ったのが昨年の11月20日ごろだったか、ほぼ半年ぶりの帰国である。

ソウル経由の搭乗便が関西空港に着くのは午前11時30分だったが、いつも空港へ迎えに行っているM君がどうにも都合がつかないとのことで、急遽私が代役を務めるべく関空へと車を走らせたのだ。
国際便の搭乗者出口で待つこと30分余り、大柄なネパール人らしき青年に押されて車椅子に乗った岸本氏が姿を現した。出迎えの私に気がつくと、半年ぶりの彼はずいぶんと日焼けした顔がクシャクシャになるほどに笑いかけてきた。
付き添ってきた青年はシャム君といった。いわば岸本のネパール滞在中のヘルパーでもあり、2ヶ月ほど日本に滞在する予定で岸本宅に身を寄せ身の回りの世話をしてくれるらしい。

近年体力の衰えが目立つ今年70歳となる彼にとって、私のような五体満足な者からみれば日々生きること自体が重苦とも云えようものを、そんな彼が、こうしてネパールに半年、日本に半年、といった苛酷このうえない往復の暮しをもう十年以上も続けている。

彼、岸本康弘がはじめてネパールの地を旅したのは94年の秋だった。
翌年2月にも再び訪問、この時、彼は低い識字率のネパールで最貧の子どもたちのために学校の建設を思い立った。
97年5月、東奔西走の末ようやくポカラで無料の岸本学舎開校にこぎつけたのだが、観光産業しかないようなヒマラヤの麓、亜熱帯の温暖な高源の穏やかな風土と素朴な国柄が、この頃より紛争の絶えない地へと化していく。

96年2月、ネパール統一共産党の武闘派が共産党毛沢東主義派として分離し王制打倒を掲げて武装闘争を開始して以来、山間部を中心に国土全域にわたって争乱状態が長らく続いてきた。この間、01年6月には、なお記憶に新しい、一挙に9人もの王族が殺されるといういまだ真相は藪の中のあの惨殺事件も起こっている。

06年5月ようやくマオイスト-共産党毛沢東主義派-との和平交渉がはじまり、同年11月にネパール政府とマオイストは包括的和平協定に署名、10年にわたる紛争も終結したものの、以後、約束された制憲議会選挙は準備の遅れで延期されるなど紆余曲折があったものの、本年4月にやっと小選挙区240議席、比例代表335議席の選挙が引き続き実施され、愈々今月28日にも憲法制定議会が召集、共和制への移行宣言がされる運びとなる。

いわば、ネパール民主化運動の動乱の10年余と重なりつつ、子どもたちの学び舎に懸けつづた岸本靖弘苦闘の10年余があるのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-20

  破れ戸の釘うち付る春の末  

   みせはさびしき麦のひきわり  芭蕉

次男曰く、「ひきわり」は碾割、自筆控えには「引割」としている。
麦は夏の季語だが、麦の碾割は季とも云えぬ。句は雑の作りである。

格別の曲を設けるでもなく前と二句一意に仕立てて、暮春のそこはかとないさびしさを出したたげのように見えるが、「ひきわり」は「破れ戸」の移り、さらに、前は屋外、後は屋内の作業というあたりにも細かな目配りがある。釘打ち付ける人と麦を碾く人とは別人-男女-と見ればよい。つくろいの後の破れ-ひきわり-はいっそう「さびしい」だろう。滑稽の狙いはそこで、話を歴史にとれば、幽閉-する人、される人-の情もかくや、とばかりついつい想像を誘われる。

「裏の方にかたことと破れ戸に釘打付居る其店は、淋しく麦の挽き割などなし居る田舎町の小家の体なり。みせはの、はの字ただ一つに、古びくすぼりたる家の裏表を見せたる手段、まことに筆に分寸あり、敏妙驚くべし」-露伴-、と。

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May 16, 2008

破れ戸の釘うち付る春の末

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―四方のたより 市岡高校OB美術展

「2008市岡高校OB美術展」のお知らせである

98年11月、故・辻正宏一周忌に因み偲ぶ会として催された「いまふたたびの‥市岡文化祭」を本展の第1回とするなら、今回は数えてちょうど10回目にあたるのではないか。

2回目以降、昨年までは例年2月頃に行われてきたのだが、今年から新緑薫風の5月開催となった。

今回は一昨年の師走急逝した中原喜郎氏の遺作も数点特別展示されるという。さらには中原夫人が編集出版に精魂を傾けてきた故人の画集も完成なってお披露目となるもようで、二重三重に意義深い会となろう。

「2008 市岡高校OB美術展」は

大阪現代画廊&現代クラフトギャラリィにて
5.18(SUN)~5.24(SAT) AM11~PM7
但し最終日はPM5迄 懇親会ありPM2~5

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-19

   雲雀さへづるころの肌ぬぎ  

  破れ戸の釘うち付る春の末   越人

次男曰く、二-名残-ノ折入、はこびは以下a-長-b-短-の九巡を以てする。

「肌ぬぎ」から「破れ戸」を連想したところ、いかにも越人らしい滑稽である。興に乗って、春も仕舞-末-なら「釘うち付」けて破れを留めよう、と作っている。面白いがそこまで云っては寓言に過ぎるだろう。句意のうえでは、肌ぬぎの人の用を付けたと読めばよく通じる付だが、それだけのことならどんな仕事でも合わせられる。下の下の遣句になってしまう。越人の狙いは、晩春気分の表現工夫にあるのだ、と。

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May 15, 2008

雲雀さへづるころの肌ぬぎ

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―表象の森― 顕密体制:王法と仏法

<A thinking reed> 黒田俊雄「王法と仏法」法蔵館より

「顕密体制論」-顕密体制は10世紀末頃にその特徴をみせはじめ11世紀後期にはもはや確固たる体制となるが、それを積極的に推進したのは南都北嶺などの大寺社勢力であった。

中世の顕密体制の全体像をみるとき、神道なるものが仏教と別に並立して存在したとは考えられない。このことを敷衍して日本宗教史の全般についてみると、はたして仏教と対等の意味での神道という宗教は実在したのか-明治以後は別として-、固有信仰としての神道の独自的存在という認識は幕末・明治のナショナリズムが創出した歴史観-国家神道的信念を伴う-の所産ではないかと、疑わざるを得ない。

天台・真言それに南都の各宗、さらに陰陽道・神祇信仰まで含めて、およそあらゆる宗教的なものが、密教を中心に統合された「顕密」仏教という大枠を形成しながら発展したのが、平安仏教の実態であった。加持・祈祷、念仏、神仏習合、物忌み・占いなど、日本の宗教に根強くつづいた特色は、すべてこの時代に発達し、民衆にも浸透していったのである。

中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたというのは明白な事実である。鎌倉時代に新仏教が興って宗教が一変したように云うのはある程度あたっているが、「旧仏教」なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化された教科書によって普及された虚像でしかない。

8世紀後半から11世紀に至る期間は、神仏習合が徐々に進行していくが、その実質は神々への信仰が種々の論理と形態のもとに仏教の一部として包み込まれていく時代であった。
その論理とは、a-神は自身が輪廻の世界を流転する存在であることを歎き、仏法によって解脱することを願っている。B-神は仏教を守護する善神である。c-神は仏教経典に説く仏-本地-が、生きとし生けるものを救済するため化身して現れた-垂迹-ものである。D-神は仏の清浄な魂-本覚-である、などである。
中世では「神道」はすべて仏教の一部として説明された。それは大乗仏教がその原理のなかに、土俗的信仰をその体系のなかに吸収する論理を備えていたからである。

中世仏教においては名目上八宗派が並立していたが、全宗派に共通して承認されていた教理が密教であり、密教を基調にして、天台・華厳・唯識-法相-・律など各種の顕教を組み合わせた教義が、中世において正統的なものと認められていた仏教の教理であり、そのような顕密仏教が国家権力と相互依存の関係を公認しあって精神界を支配するのが基本的な体制であった。「神道」はこのような仏教の一部に組み込まれ、仏教教理ことに密教や天台の哲学によってその宗教的内容を置き換えられていたのである。

王法と仏法の相依り相助ける顕密体制は、中世末期の戦国の争乱のなかで、荘園制=権門体制の解体・消滅とともに歴史的生命を失う。

王法仏法相依論はもともと顕密仏教が世俗権力と結びついた体制の成立とともに、仏教の側の主導によって発展したものであり、その体制の決定的な否定は、信長・秀吉の叡山・根來などの焼き討ちと大殺戮をまたなければならなかった。

近世の統一政権の出現と幕藩体制の成立によって、ごく一部を除いてすべての仏法は王法に屈服した。そして明治初年の廃仏毀釈と国家神道の創出によって、仏法はまたあらためて王法に屈服した。

日本の民族的宗教としての「神道」は、本居宣長らの国学と復古神道から明治の国家神道の成立に至る近代ナショナリズム勃興の段階で、ようやく名実ともに備わった形で出現する。

「神仏分離」と「廃仏毀釈」という強制的・破壊的矯正がが、政治権力の手で推進され、神道はいびつながらも独自の宗教としての地位をはじめて獲得することになった。そして神道という名称の民族的宗教が古くから日本にあったという歴史的認識が、ここではじめて明確にされ定式化される。さらに「神道」の語義もこれが基本と考えられるようになり、学者もこの用語法に従い国民もそのように教育されて今日に至った。

だが、それとともに注目すべきことが起こった。神仏分離によって、神道は過去の日本人が到達した最高水準の宗教的哲理から切り離され、不可避的にかつ作為的に原始的な信仰そのもののような相貌を呈するようになった。神道は、自立性を与えられると同時に「宗教でない」と強弁されるような宗教に転落したのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-18

  月と花比良の高ねを北にして  

   雲雀さへづるころの肌ぬぎ  越人

次男曰く、初折の端、春二句目、時節の付である。

「海道下り」の「ひばりあがれる野路のさと」-瀬田の東北-を栽ち入れ、俤は読み取ったと相手に伝える二句続の仕立てだ。

「雲雀さへづる」と云えばヒバリの高上がり、比良の頂きもそろそろ残雪の候である。これを人情に引き移せば「肌ぬぎ」になる。この気転による悲歌の消しようは巧い。芭蕉自筆控えには「ひばり啼より肌ぬぎになる」とあり、これが初案か、板本形のほうが良い。

前句が「比良の高ねを北にして」とそのままの栽ち入れを用いていなければ、雲雀「あがれる」ころの肌ぬぎと作りたいところだが、そうはさせてくれぬところがみそだ。封じ手の工夫も俳諧の楽しみの一つである、と。

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May 14, 2008

月と花比良の高ねを北にして

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―世間虚仮― 四川省の大地震に

中国四川省にM7.8の大地震発生の報道に衝撃を受けつつ、彼の地は世界有数の地震頻発地帯であったということをいまさらながら思い知らされ些か暗澹とした気分。
そうだった、およそ7000万年前の白亜紀、インド・オーストラリアプレートが北上してユーラシア・プレートにぶつかり、その沈み込みで生じた造山活動の果てがヒマラヤ山脈であること。海底の堆積層が隆起したためネパールでの高地ではアンモナイトなどの化石がよく見出されること。
そして現在もなお、インド・オーストラリアプレートは動きつづけており、そのプレート間の軋みは膨大なエネルギーを貯め込み周辺一帯の活断層へとその放出先を求めているのだ。

報道によれば、震源は四川省の地下を北東-南西方向に300㎞ほど延びる竜門山断層の一部が動いたとみられ、その地震エネルギーは阪神大震災に比してほぼ32倍にも匹敵するという凄まじさ。
この地震では遠く上海や北京の高層ビルでもかなりの揺れを感じたという。成都-北京間、成都-上海間の直線距離はともにほぼ1800㎞、東京-札幌間の2倍近くにもなるが、震源からそれほど離れた所にまで影響を与えたのは、断層破壊に約45秒-阪神大震災は約11秒-を要し、長周期の地震波が生じやすかったためとみられている。

地震発生からすでに3日目、中国当局は、現時点では資金や物資の援助は受け入れるものの、国際救援隊などの人的援助を受け入れる態勢にはないと、サイクロン被災のミャンマー軍事政権と同様の表明をしているという。
「被災地に入るのが非常に困難で、今のところ救援隊の入国や被災地への案内を設定するのは難しい」と説明、「条件が整えば我々から積極的に連絡する。中国外務省が民政省や地震局など関係部門と協力して受け入れを設定する」などと云っているようだ。

生き埋めとなっている被災者たちの死線は72時間と云われる。
今なお記憶に新しい海外からの救援部隊もともに活躍した阪神大震災の経験を思えば、ひとりでも多くの人命救出が最優先されるべき非常事態に、どれほど混乱していようと恥も外聞もなく門戸を開放するが良いと思われるが、一党独裁・経済至上主義の彼の国はどうにもそうはゆかぬらしい。

8月開催の北京五輪を前に、先に発したチベット民主化騒動とともに、四川省の大地震という自然の猛威のなかに見出される人災の数々は、国家という名の強権を照射してやまず、その罪悪を世界衆知のものへと曝け出す。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-17

   物いそくさき舟路なりけり  

  月と花比良の高ねを北にして  芭蕉

次男曰く、初折の裏十一句目は最初の花の定座であるが、この歌仙は二つ目の月がまだ出ていないから、ここは花月抱き合せ-季は花-のつとめを免れない。

そしてそれは偶々そうなったというよりも、初裏八、九句目あたりで出すべき月をこぼした時から既に予定されていた演出であったように見える。

当然、越人の前句はかなり幅広い景情の選択を次句に許すように作られていなければならない筈で、事実「物いそくさき」云々の句は、遠国へ赴く受領の旅、海路で往く熊野詣、武人や公達の都落ちなど、いろんな物語の仕立てを誘うようにできている。

その選りどり見どりのなかから、芭蕉が「平家物語」巻十「海道下り」の一節を下に敷いたのは、同年夏須磨の浦で覚えた無常迅速の感を、改めて思い返したからだろう。

本三位中将重衡が生け捕られて頼朝の許へ送られたのは寿永3(1184)年3月のことである。その志賀の山越えを「平家」は次のように記す。

「合坂山をうちこえて、勢田の唐崎駒もとどろにふみならし、ひばりあがれる野路のさと、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹の嵩-ダケ-も近づきぬ」

ことばをそっくりそのまま栽ち入れたところが気になるが、志賀の里は、天智天皇の大津京が営まれた地だ。既に人麻呂や高市古人などの感傷歌があり、平安中期以降歌枕として盛んに詠まれた。山おろしの風、浪間の月、春の桜花などと取合せ、とりわけ、俊成が「千載集」に平忠度の「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を詠人知らずとして選入して以来、懐古の情を志賀の花に寄せて詠む好みを生んだ。

忠度の歌は「昔ながらの山桜」を長等山-大津の背山-に掛けたもので、ここは壬申の乱に敗れた大友皇子-弘文天皇-の自刃の場所である。この歌は「平家物語」-巻七-にも「忠度都落」として出てくる。

「物いそくさき舟路」で花月の情を尽すには、近江が相応しいと芭蕉が考えたのは尤もな訳がある、と。

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May 12, 2008

物いそくさき舟路なりけり

Syutu_africa

―表象の森― 何処より来たりて

篠田謙一著「日本人になった祖先たち」-副題:DNAから解明するその多元的構造-によれば、
現在のDNA分析と化石の研究といった知見から、現代人に直結する新人は20万年~10万年前にアフリカにあらわれ、出アフリカは8万5000年~5万5000年前頃、地球上の各地へと拡がっていったと類推されている。
写真の図は、その世界拡散の経路と時期のあらましを示したもの。

中東から東へと、アジアに向かった集団がオーストラリア大陸に辿り着くのが4万7000年前、東アジアにもほぼ同じ頃到達したと見られ、西のヨーロッパに現れたのははおよそ4万年前と考えられている。
日本列島へは、東南アジア諸島の南方海上の道から、あるいは東アジアの朝鮮半島から、さらにはシベリアからの北方ルートと、それぞれ時代を隔てつつ重層していることになる。
1万5000年前頃になると当時は陸橋だったベーリング海を越えてアメリカ大陸へ進み、またたくまに南アメリカの最南端にまで到達している。
人類にとって最後に残された未踏の地は、南太平洋に点在して浮かぶ島々やニュージーランドだった。このルートは、今から6000年ほど前、中国の南部か台湾あたりにいた先住民が農耕をたずさえて南下を始めたことに端を発し、東南アジアの海岸線を進み、パプアニューギニアへと辿り着く。そして3000年ほど前、そこをベースに南太平洋の島々へと乗り出し、ほぼ1000年以上の年月をかけてこの広大な海域に行き渡るようになる。最終の地とみられるニュージーランドに達したのは今からわずか1000年前のことだ。

わが連合いどのがいまジーン・M・アウルのベストセラー「エイラ-地上の旅人-Earth’Children-」を読み耽っている。舞台は3万5000年前のヨーロッパ黒海周辺、更新世、最終氷河期のおわり、滅びゆくネアンデルタール人の群のなかに、大地震で孤児となった新人クロマニヨンの少女エイラが拾われ、異形の子として育っていくといった、先史時代へといかんなく想像力を羽搏かせてくれる壮大な物語。

全6部16巻、現在第5部まで翻訳出版済されており、私が以前読んだ第1部にあたる「ケーブ・ベアの一族」をなにげなく書棚から引っ張り出して読み始めた彼女は、その上下巻を一気呵成に読み果せて、病膏肓、完全に嵌ったとみえて、続刊を図書館から借り出し、ただいま第3部「マンモスハンター」を読破中だ。

「我ら何処より来たりて」とは故人となった畏兄中原喜郎氏を貫いたThemaだが、人それぞれにみな、始原へと
遡行する旅は、己が想像力を掻き立ててやまないものがあるということか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-16

  手もつかず昼の御膳もすべりきぬ  

   物いそくさき舟路なりけり   越人

次男曰く、越人の「声のうつくし」の句は、後朝の面映さを包んで男が帰りがけに侍女たちに話しかけたことば、とひとます読んでよい。それに対する侍女たちの返しは、当然「手もつかず朝の御膳のすべりきぬ」だろう。この身分違いの男女の軽口は、情事を了解事項とした一種のくすぐりである。それが一応句案として念頭にあって、「昼」「も」と時違えをしたところが芭蕉の巧さである。

「かぜひきたまふ」と「手もつかず」の句は、このままでは問答体ではないが、男女の仲についての問答を句裏に覗かせていなければ成り立たぬ、というところがみそだろう。

それを踏まえたうえで、越人は、手もつかず昼の御膳もさがってきたのは、もの磯臭い船路のことだと転じている。いうなればこれも恋離れの一体で、句中の人物は貴人ではあるが女人のイメージからはすでに離れ、むしろ次に最初の花の座を控えてドラマを呼ぶ気配がある。

そう読まなければこの三句は輪廻の気味を生じる。風邪をひいたら食欲がない、食欲がないのは船酔いの所為だ、と云うのでは不様なもつれを見せるだけで、はこびにならない。そんなばかげた展開を芭蕉が許した筈があるまい。

女人の病体にのみ目を奪われた諸家-中村俊定「三句のわたりについて」、宮本三郎「蕉風連句手法の一考察」等-はここのところを輪廻だと指摘している。そうではなかろう。打越と前句とが男女向い合った噂の工夫であり、さらに芭蕉は朝から昼へ時間をずらして次句の展開を容易にしている。そういう恋離れの巧さに気付かぬと輪廻などという誤読が生まれる。曲斎も「病を舟心にかへたる甚だ拙し」と誤っている。

「前句を承けて、身分ある人の舟路の旅の憂さに悩める其場をあらはしたり」-露伴-、「旅慣れぬ身柄のよい人の、とくに舟旅であれば、食事なども進みかねたるさま」-樋口功-。
これらは、前に歩こうが後ろに這おうが、気にも留めていないふうに、ただ文字をなぞっている、と。

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May 10, 2008

手もつかず昼の御膳もすべりきぬ

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―世間虚仮― ミャンマー、サイクロン無惨

DAYS JAPAN 5月号の表紙を飾っていたのは、昨年の9月27日、ミャンマーのヤンゴンで民主化デモ鎮圧の銃撃で凶弾に倒れたフォト・ジャーナリスト長井健司氏が映ったあの写真だった。第4回DAYS国際フォトの特別賞としての掲載である。

これを撮影したA.ラティーフ氏はそのcaptionに「何千人もの群集に発砲する治安部隊を、負傷してもなお撮影しつづける男性。2007年9月27日、ヤンゴンの市中心部にて」と記した。

そのミャンマーを、今月2日夜から3日未明にかけて襲った大型サイクロンによる被害の甚大さがようやくにして明らかになりつつある。

ミャンマー軍事政権は9日現在、死者2万3335人になったと発表したが、一説にはラブタ-人口約21万人-という上陸直後の被災地だけで8万人が死亡したとも伝えられており、犠牲者は10万人を超えることは必至とみられる。

被害状況の深刻さが明らかになるにつれ、日本政府の緊急支援策も、5日に2800万円相当の援助物資、7日に援助物資3600万円の追加、9日に至っては国際機関を通じて1000万㌦-11億3000万円-の資金援助をすると発表、なにしろ被災の全容が泥縄式にしか判らぬだけに、こちらのほうもまたその伝だ。

だが、軍事政権は今日に至ってやっと米国輸送機の着陸許可を出したように、各国からの援助物資は受け入れるものの、医療チームなど人的支援の入国は頑なに拒みつづけている。

被災者の数はおそらく数百万に達しようという異常事態の渦中、新憲法制定の国民投票は被災地の一部を除いて強行された。その背景には、憲法承認を経て2010年に総選挙を実施し民政移管するという国際公約があるからだが、軍事政権はそのなかでいかに彼らの権益を守りぬくかを至上としているため、被災民救済を先行すべしという国連無視のなりふり構わぬ強硬措置とみられる。

また、ジュネーヴにあるWMO-世界気象機構-は、来週後半にもミャンマーが豪雨や強風に襲われる可能性があると予報、豪雨は15日或いは16日から始まり3日間ほど続く恐れがあるとしている。さればこそ一刻の猶予もなく救援活動に諸外国含め全力を挙げねばならぬ筈だが、このままでは二次災害が被災民たちを襲い被害は拡大、さらなる地獄絵図が展開されること必至である。

苛酷なまでの天災と人災、被災地の無辜の民たちに降り注ぐ雨はあまりにも冷たく非情にすぎる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-15

   かぜひきたまふ声のうつくし  

  手もつかず昼の御膳もすべりきぬ  芭蕉

次男曰く、前句の「声のうつくし」を男のことばから女どもの噂に奪って、場も別室にずらした付である。

今朝はあのひとの声がとりわけ美しいと男が言い残して去ったのに向かって侍女たちの別の噂を付けたか、それとも二句一意で侍女たちの噂に仕立てたか、いずれとも解釈できる。付伸ばしただけの遣句ではない。

「昼の御膳も」と云うからには、朝もそうであったということだろう。そこに女たちの心配のさまも見え、心配が募るにつれて女君の声の美しさにひときわ風情が添うさまに句は作られている。

打越句以下、対象が三句同一人物という点に気がかりの残るはこびだが、句の表はいずれも他からの観察あるいは噂であり、なよなよとした女人の姿は狂言廻しに過ぎない。床臥も風邪の所為ばかりとも云えぬのである。あとを頼んで帰ってゆく男と、残された侍女たちとの感情理のやりとりのほうが、話の本筋だろう。

そこに気がつけば、この越人・芭蕉の付合からは、女主人を気遣う表情のほかに、男女の仲についてあれこれと囁き交し、男の品定めなどもする女どもの様子まで浮かんでくる。場所も別室に移し替えられている。はこびの障りはあるまい。

「猿蓑-夏の月の巻」の

   待人入し小御門の鎰-カギ-  去来
  立かかり屏風を倒す女子共   凡兆

の付合と、男が帰ると来るとの違いはあるが、よく似た情景の作りである。
芭蕉の「手もつかず」の句はすでに恋から離れ、なお恋の余韻を遺していて、何ともうまい、と。

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May 08, 2008

かぜひきたまふ声のうつくし

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-14

  きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 

   かぜひきたまふ声のうつくし    越人

次男曰く、其の人-男-の感想の伸しである。
前句の「あまり」は、作った芭蕉の側から云えば語勢で、とりたてて意味はないが、付ける側から云えば、そういうことばを見咎めることにも優に連句の理由はある。越人がつけ込んだのはそこだろう。

「あまり」かぼそくあてやかなのは、後朝だけにかかわることではない、女が風邪気味だからだと越人は読んだか、それとも、「あまり」かぼそくあてやかなのを不審に思って女の様子を観察したら、風邪気味だったと読んだか、いずれとも解釈できるが、原因の付と読むと句味が浅くなる。後の解のほうが面白い。

いずれにしても「あまり」が微妙につなぎの役割を果している。この語がないと二句一意の平板な風俗になってしまう。「かぜひきたまふ」とその場を繕いながら、声が美しく聞こえるのは実は女が満足しているからだという余情も滲む。

付のきっかけは王朝時代の衣々の別れだろうが、前句とのあいだに直接の因果関係を持たせぬ方がよい。「かぜひきたまふ」の「たまふ」を戯れ気味に遣えば、元禄当世風の情景とも読めるし、女も然るべき上臈から町家の女の風情にと姿を替える。

いまひとつ、これは折口信夫も「恋の座」なる文で云っていることだが、連句は前句の表現全体に関わらねばならぬわけではなく、おのずからことばの係わり方に強弱がある。前句表現の一部を外して付けることもある。そうすることによっていっそう前句の詩情が瞭かになればの話だ。

折口はこの句の付味を、前句の後朝に関係なく付いている、と云う。つまり後朝は風邪気味の女の視界の外に在って、「惟漠と翳の如く、月暈-ツキカサ-のやうに、ぽつと」はみ出ている、と云うのである。

匂付ということをどこまで句の情景から引き離して読むか、これは難しい問題であるし、また「雁がねの巻」興行の頃それほど進んだ匂付の解釈があったか、と云うことも疑問になる。とりわけ句は芭蕉ではなく越人の付であるから、そこの判断は猶のこと難しいが、折口の云う解釈もゆるされぬ訳ではない。つけ加えておけば、柳田国男もこの付合は大変好きだったらしく、「私の師匠柳田栁叟先生、常に口誦して吝-おし-むが如き様を示される所の物」と折口は伝えている。

なお、この句は貞享5(1688)年6月19日、岐阜で興行された五十韻-発句は美濃・関の蕉門芦文「蓮池の中に藻の花まじりけり」、以下荷兮・芭蕉・越人・惟然ら、連衆15人-のなかで、

  土産にとひろふ塩干の空貝-ウツセガヒ-  落悟
   風ひきたまふ声のうつくし       越人
  何国-いづく-から別るゝ人ぞ衣かけて   芭蕉

としてすでに生れている。それを深川両吟に栽入れて-たぶん芭蕉が栽入れさせて-、別の展開をはかったものだ、と。

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May 07, 2008

きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-13

   足駄はかせぬ雨のあけぼの  

  きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに  芭蕉

次男曰く、「雨のあけぼの」は、単なる恨めしさでも噂でもない、と諒解した後朝の付である。

前句が女の男に対する感情なら此方は男が女を眺めやる場景としたところが設話の妙で、当然の呼吸とはいえ、王朝絵巻の一齣でも見るように優美に仕立てられていて、男を帰したがらぬ女の気持を、語が語を呼ぶ粘着気味の云回しでよく現している。

「余り繊麗にして婉美なる女なれば、足駄はかせて出しも得せず、また出も得ず、いたはる心、弱々しき姿、古歌の如くに、おのが後朝なるぞ悲しき纏綿の情尽き難きところを此句は描出せり。枯淡を喜ぶ平生の芭蕉には稀なる艶体の句ながら、所謂詩人の筆、有らざるところ無きものなり。前句、はかせぬ句を切りて読みてはおもしろからず、はかせぬ雨のと続けて読み、雨が足駄はかせぬなりと見るべし」-露伴-

「はかせぬ雨」は、男が生憎と眺めるのを女が遣らずの雨とよろこぶさまとでも解すれば面白いが、露伴の意はちぐはぐな情の滑稽などを思っているわけではないらしい。ならば、わざわざ「はかせぬ雨」と読んで女の帰したがらぬ情がかえって句裏に潜んでしまっては、人事句で展開する妙がなくなる、と。

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May 05, 2008

足駄はかせぬ雨のあけぼの

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―世間虚仮― 熊本県知事蒲島郁夫

先頃自らの報酬を月額100万円カットした知事が話題になっていたが、今朝の毎日新聞「ひと」欄ではそのご当人、熊本県知事の蒲島郁夫氏が紹介されていた。
政治学を講じる東大教授からの転身という、それだけのことなら格別驚くほどのことではないが、その来し方はかなり破天荒なもので、明治維新の志士の如き傑物ぶりが覗える。

1947(S22)年生れで、出身は熊本市の北方30㎞ほどの山鹿市。子ども時代、白飯を食べられるのは正月だけだったという。高校は地元の鹿本高校だが、この学校の興りは済々黌の分校として明治29年の開校とあるから由緒は古い。その高校で成績のほどは230人中200番台であったものの、「牧場主、作家、政治家のどれかになる」という夢を抱きつづけたというから、泰然自若として物に動じぬ少年であったとみえる。

高校を出ると農協に就職、3年後の68年、農業研修生として渡米、ネブラスカ大学農学部で豚の精子を研究していたが、どういう機縁でかハーバード大学の政治学博士課程へと転身、政治経済・行政学の博士号を取得した、と。「文明の衝突」のサミュエル・P・ハンティントン教授の薫陶を受けているわけだ。
帰国後は筑波大の講師にはじまり、助教、教授を経て、97年より東京大学大学院教授を務め、知事選出馬のため今年3月退職。

財政再建は全国いずれも同じ重い課題だが、熊本の場合、川辺川ダム建設の是非やなお残る水俣病の救済問題など難題を抱えている。熊本県のHPで知事就任時の記者会見を読んでみたが、記者らとのやりとりは学者らしい緻密さと生来の大胆さや志の高さが覗われ、県民にとっては期待も大きく膨らもう。

91年、後に首相にもなった細川護煕が三選を目前に知事を去った際の知事選に出馬要請を受けたものの、この折は断ったという。此の度の学者から首長への転身は、おそらく彼自身にとって天命の如きものとして自覚されているのではないか。この間の17年の年月はその時熟に充分なるものであったろう。

マス・メディアはタレント出身の東国原知事や橋下知事なら過剰なまでに追いかけ報道するが、大悟して首長の王道を往くといった感のこういう御仁を時に採り上げてこそ、画竜点睛の絵となろうものを。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-12

  此里に古き玄番の名をつたへ  

   足駄はかせぬ雨のあけぼの   越人

次男曰く、玄蕃をやさしげな名だと思う者はいまい。ことばの用を見定めて、雨の日も「足駄はかせぬ」頑固者を取出している。明時-暁-、明方、さらには夕暮などと作らずに「あけぼの」としたのは、次句に対する恋の呼出しの工夫である。むろん、つなぎの「雨」は両義に利かせている。

家人である女の側から見た向付、もしくはその女に同情を寄せる噂の付で、前句の伸ばしではない。「古き玄蕃の名」の用を付足しただけなら、「此里に」の句を中にして前後句は扉にわたる。せっかくの「あけぼの」が知友に浮いてしまうだろう。

また、仮にここを「雪のあけぼの」とでも作れば、あけぼのはあけぼのでも恋とは別種の情が現れてくる。約束上も、先に「師走」とあればここを冬季とするわけにはゆかぬ。「雨のあけぼの」は、一見七音に見合う表現としてごく自然に思い付かれたように見えながら、じつはそうではないのだ。あれこれと思案の末である。「足駄はかせぬ」にも、旧情-前句-を断切り新しい情-次句-を誘う含が読取れてくる。

「其威勢を付たり。足駄はかせぬ雨の曙とは、村民の畏怖-おそ-れて敬ふ様を、玄蕃よりはかせぬ様に意地ある人のさかな口する様也」-婆心録-

「玄蕃の家の威焔おのづと強くして、村民の足駄はきたるままには挨拶もせぬほどなるを、傍より言ひて、雨の曙にも足駄はかせぬ土豪といへるまでなり」-露伴-、など、と。

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May 04, 2008

此里に古き玄番の名をつたへ

080503

―表象の森― 承前:高槻ジャズでオツカレ

件の高槻ジャズに出かけて、昨日は家族一同おつかれさん。

実はデカルコ・マリィに呼応してうちのDancerの小嶺由貴が競演しようと、岡林綾も誘って二人して出演する筈だったのである。ところが前夜になって、先に痛めていた捻挫箇所を悪化、ドクター・ストップがかかってしまったと小嶺から電話が入った。此方も古い衣裳をひっくり返しては豪華な?打掛2枚を探し出すなど準備を整えてやっていたから拍子抜けもいいところ。それに綾も清水君とのPerformanceは初めてだし、おまけに独りじゃ可哀相だろう。準備した豪華な打掛とはその昔折につけ座興の芸などに私がよく使ったご愛用の一着だったのだが、冷やかし半分、清水君への餞半分と、足腰、体力にはまったく自信がないけれど、ここは一番、挨拶代わりに私が一差し舞ってみるかと、やおらその気になってしまったのであった。

その20分足らずのPerformanceはともかく、かさばる衣裳などを背負い込んでの往き帰りの移動に疲れ果ててしまったのが寄る年波の懐けなさで、今日は朝から身体が重く気怠いことこのうえない。

アー、ア、ク、タ、ビ、レ、タ‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-11

   ひとり世話やく寺の跡とり  

  此里に古き玄番の名をつたへ  芭蕉

「玄番」、正しい表記は「玄蕃」
次男曰く、其人の性別を設け、寺に縁のある名を寄せている。

玄蕃はもともと令制玄蕃寮の役人で、名のごとく-玄は僧、蕃は外蕃-仏寺・僧尼の名籍や外国使節の接待を司った。一読誤記のように見えるが、「番」は「跡とり」相応の面影をさぐらせるためのもじりかもしれない。芭蕉自筆の控にも「番」とある。

当節玄蕃など珍しくもない名だということを踏えて、代々「玄番」と書くと云えば、ひょっとしてこちらが古いのかもしれぬと迷わせる面白さにもなる。「理をはなれたる」一巻に相応しいだろう。

「番」を見咎めて判じ物の工夫と読んだ評釈はない、と。

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May 02, 2008

ひとり世話やく寺の跡とり

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―表象の森― 高槻ジャズストリート

今朝の紙面にも紹介されていたが、「高槻ジャズストリート」なるイベントがある。

明3日と4日の両日、その名の通りジャズをメインに全国からミュージシャンが集結、99年から開催され10回目を迎えた今年は、参加のミュージシャンら、なんとその数610組の5100人に及ぶという一大イベントにまで膨れあがっている。

JR高槻駅や阪急高槻駅周辺の大小ホール、公園や学校、公共施設、民間の各ショップからカフェやライブハウス、神社に到るまで会場は47ヶ所ですべて無料、出演はみな1ステージのみというから、盛り沢山このうえない。

訪れる人たちも例年10万人を越えるといわれ、ボランティアたちによる手作りの街おこしイベントとしては、そのスケールといい充実ぶりといい稀にみる成功例なのだろうが、10年目という今年、そろそろ飽和の極に達するかともみえる。

その47会場の一つ、高槻城跡公園の野外特設会場に、四方館にも縁のあるKontrabassの森定道広氏らのメロンオールスターズが出演することになっているが、このグループ、ミュージシャンばかりでなくDancerや役者などいろんなパフォーマーが集まったエンターテイメント集団で、デカルコ・マリィこと清水君もパフォーマーたちの中軸を占める。

彼らの出演は、3日(金)の12:00~12:45

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-10

  いそがしと師走の空に立出て  

   ひとり世話やく寺の跡とり  越人

次男曰く、三句を

  医のおほきこそ目ぐるほしけれ -他
 いそがしと師走の空に立出て   -自他
  ひとり世話やく寺の跡とり   -自

と読めば、自他を分って人物の取替とした工夫が肯ける。

「おほき」に対して「ひとり」と遣ったところが作で、打越と結んだ「いそがし」が虚なら、寺の後生を決めるために頼まれもせぬ世話を焼く「いそがし」は実らしい、と読取らせる。

「-前- いそがしいそがしと年の暮の空に立出たる人の、或は陸尺に駕籠かかせて見識を見せ、或は供人に薬箱持たせて反り返り歩く医者共に、往来忙しき大路なれば不思議は無けれども、幾度も行逢ひて、目ぐるほしと打つぶやくなり。-後- 前句を逆に扱へり。師走の空にいそがしと立出たるは、何の用かと思へば寺の後住を定むる世話を焼くなり。其の老人の出たる後の、人もかまはぬことを酔興千万なとの噂するさま、賭-み-るが如し」-露伴-

「-前- 前の繁激の気勢に応じた寄せ。前の医者と直ちに取る必要はない。‥無論掛取などではなく、何かのっぴきならぬ急用のためである。「空に」が例の巧みに置かれてあり、この押詰った時季にの意、近からぬ旅である趣、足も心も空にの気をこの一語におのづから感ぜしめている。-後- 師走であるのに家の事は措いて出歩くなどは、寺の跡取りの事でも世話焼くが相応しいとしての寄せ。‥多少有閑な人であろう」-樋口功-

ことばの自他や虚実を弁ぜずに人情三句のわたりを解くことはできない。いずれも連句とは無縁の評語である、と。

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May 01, 2008

いそがしと師走の空に立出て

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―世間虚仮― 皐月朔日

今年も早や4ヶ月が過ぎた。
3月末の参議院による審議時間切れで撤廃されたガソリンなどの暫定税率が、昨日、衆議院の再可決で復活。
安いガソリンの供給も僅か1ヶ月、一炊の夢と消え元の木阿弥。御多分に洩れず私もまた昨夕セルフのGSに並んだ駆け込み組だ。

その昨日、豊岡で30.5度と早くも真夏日を記録したと思ったら、なんと今日は、フェーン現象とやらで北海道のオホーツク海側や内陸各地11ケ所で30度以上を記録したそうで、このGW、向こう一週間もずいぶんと汗ばむ陽気が続くことになるという。格別の予定もないこの身だが、はてさてどうしのいだものか。

昔なら5.1といえばメーデーが定番だが、全国バラバラに催されるようになって労働者祭典の話題も乏しくなった。
大阪の連合系メーデーは大阪城公園で今日の開催というが、橋本知事は慣例破りの欠席宣言、理由は「民主党色が強すぎる」というものだが、連合結成以来、初めて袖にされた主催者側も困惑を隠せぬことだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-09

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ  

  いそがしと師走の空に立出て   芭蕉

次男曰く、都に医者は多いが国手と呼べるほどの者は少ない、と越人の句は云っているだろう。引移して、対に作れば、たいした用事もない者ほど忙しげに歳暮の街を走り回る、という滑稽になる。

句は、自他いずれにも読める人情で、前と結べば医の用、次句には人物の取替を促すように作られている。

この歌仙は「阿羅野」板本のほかに、当座と思われる芭蕉自筆の懐紙が伝存している。それによれば初五が「いそがしき」とあり、これでは無くもがなの字数合せ-五七五-に過ぎない。「と」一字の改案は句眼である、と。

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