« March 2008 | Main | May 2008 »

April 30, 2008

医のおほきこそ目ぐるほしけれ

Db070509t086

―表象の森― 砂山崩し

<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

-自己組織化臨界現象の典型例としての砂山崩し-
テーブルの上の砂山を考えてみる。砂山にはゆっくりとした一定の速度で砂を加えていく。砂が積み重なり、やがて雪崩が起きはじめる。小さな雪崩は頻繁に生じる。大きな雪崩は稀にしか起こらない。雪崩の規模を直角座標系のx軸にプロットし、その規模の雪崩が起きた回数をy軸にプロットすると、ある曲線が得られる。結果は、ベキ乗則と呼ばれる関係となる。それは同じ大きさの砂粒が、小さな雪崩も、大きな雪崩も引き起こせるという驚くべき事実を意味している。一般に、小さな雪崩の回数は多く、また大きな地滑りは稀にしか起こらない-これはベキ乗分布のもつ性質である-と論ずることはできる。しかし、ある特定の雪崩が、小さな微々たるものであるか、あるいは破局的なものであるかをあらかじめ知ることはできない。

砂山-自己組織化臨界現象-そして、カオスの縁
共進化の真の性質は、このカオスの縁に到達することにある。
妥協のネットワークの中で、それぞれの種は可能なかぎり繁栄する。しかし、次のステップで、最善と思われた一歩が、ほとんど何ももたらさないのか、それとも地滑りを引き起こすのか、誰も推定できない。この不確かな世界においては、大小の雪崩が、無情に系を押し流していく。各自の一歩一歩が大小の雪崩をもたらし、坂の下のほうを歩いている人を押しつぶしていく。自らの一歩が引き起こした雪崩によって、自分自身の命が奪われることもあるかもしれない。

秩序とカオスの中間の釣合いが保たれた状態では、演技者たちは、自分たちの活動が後にどういう結果を引き起こすのかをあらかじめ知ることはできない。均衡状態で起こる雪崩の規模の分布については法則性があっても、個々の雪崩については予測不可能なのである。次の一歩が100年に一度の地滑りを起こすかもしれないのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-08

  なに事も長安は是名利の地  

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

次男曰く、「なに事も」とは次句を呼び込む工夫だとは先に言ったが、仮にここを「暮れかぬる」-春-、「路多き」さらに「医の多き」などと作れば、「名利の地」相応のものを取り出す楽しみを次句から奪うことになり、ひるがえって前句の「帰る」向きもあいまいにする。たぶん付伸ばしただけの三句絡みになるだろう。

越人の思付について云えば、人間の考えることは昔も今もあまり変りがない、というところに可笑しみがある。

はこびはab・ba・ab-表六句-のあと、裏はb-長-a-短-の六巡を以てする。両吟初折の通例である。

露伴は「名利の地たる都の繁華にして、医にかかるも名聞利栄を衒ひ、医もまた門戸を張り勢威を誇るさまを、暗に譏刺せるなり」、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 29, 2008

なに事も長安は是名利の地

Db070509t067

―表象の森― クロスなき CROSSING POINT

一昨日-4/27-の兵庫県立美術館のアトリエで行われた日米のDance Companyによるコラボレーション「CROSSING POINT」を観ての感想を少し書きとめておく。

鑑賞まえ、二つのダンス表現の「似て非なるもの」との謂に若干の期待を抱かせるものがあったが、既視感に満ちたものとは云え初めの角正之君たちの即興はともかく、Ellis Woodの振付作品が始まるや、それは見事に裏切られ、此方の関心は雲散霧消してしまった。

この二つの世界、似て非なるもの、なんぞではない、どこまでも非なる遠く対極に位置する世界、それも非常に低いレベルにおいてのことだから、CROSSING POINTなどという視点からは語りようもない。

Ellis Woodの作品で、観るほどのものがあったのは、冒頭の彼女自身によるSoloだ。妊娠8ヶ月ほどにはなろうという丸い大きな腹部を、あからさまにそれと分かる稽古着の如き衣裳のままに迫り出させ、少々エキセントリックな身振りを交えて動く姿には、たしかに意表を衝いたものがあり、「オイオイ、そんなことまでして、胎児は大丈夫かいな?」などと客席をハラハラさせるなど、ダンスとは異次元のナマの迫力や驚きがあったのだが、成程、こういうものがダンスとして成立しうるということ、それは認めてもよいだろう。

だが、その彼女が4人の踊り手たちに振り付けた作品は、構成も展開も稚拙、構築の論理はDancerの思わせぶりな心象的身振りにしかなく、時折見せる激しい動きはいくら重畳しても表現としての形成力をもたない。4人の衣裳たるや見るも無惨、そのセンスはさらにひどいもので、ジェンダーに拘りつづけるという振付者の、観念上の劇的な意味づけばかりが虚しく空転しつづける舞台だった。

さて既視感に満ちたと云った角君たちの即興のほうだが、彼の仕事はこれまでにも何度か接してきているのでやはりそういわざるを得ない。収穫は、演奏者たち-Saxの坂本公成、Kontrabassの岡野裕和、Voiceの北村千絵-との協働作業がかなり煮詰まってきていると感じさせることだろうか。とくにVoiceにおいては些か煩瑣に過ぎるほどにDancerと共鳴あるいは干渉しあっているが、このあたり飽和状態に達しているかとみえ、今後はむしろもっと削り込んでいく作業が必要ではないかと思われる。

即興のDanceにおいては、あらかじめの決め事が意外に多いとみえ、意想外の展開へとはこぶことはなかったのではないか。それゆえ表象の世界は予定調和的、波乱の契機は伏在していたとしてもそれが顕わになってくるような場面はなかった。角正之をシテとし、二人の女性-小谷ちず子と越久豊子-を脇やツレのごとくみえてしまう三者の関係性が、この場合問題だろう。彼らの場合、Trioで臨むより、各々Duoで試みたほうが世界はおもしろくなるという気がする。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-07

   風にふかれて帰る市人   

  なに事も長安は是名利の地  芭蕉

次男曰く、場を見究めて二句一章としている。

逆-理由-付気味に読める作りだが、はこびは初裏の入に当り、折立にふさわしい句姿と起情を必要とする。むしろ「なに事も」と観相化して次句を呼び込んだところが工夫、と見るべきだ。「市」とは長安に立つ市で、長安へ帰っていくわけではない。

「白氏文集」の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」感傷詩に曰く、「‥、四十余月長安に客たり、長安は古来名利の地、空手にして金無きものは行路難し、朝に九城の陌-ミチ-に遊べば、肥馬軽車 客を欺殺-ギサイ-す、暮に五侯の門に宿れば、残茶冷酒 人を愁殺す、春明門外城高き処、直下 便ち是れ嵩山の路、幸ひ雲と泉の此身を容るる有れば、明日は君-白楽天-を辞し且帰り去らん」

延宝8(1680)年冬の句文に、芭蕉は既にこれを引いている。「こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し、と云いけむ人-張山人-のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや、

  しばの戸に茶を木の葉掻くあらし哉」

このとき芭蕉、37歳だった、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 28, 2008

風にふかれて帰る市人

Db070509t073

―温故一葉― 田中勝美さんへ

晩春の候、室生寺や当麻の石楠花、談山神社や壷坂の山吹も満開とか、花だよりに誘われ、そぞろ野山散策のひとつもしたくなる頃です。

ご夫妻にて2月の京都アルティにわざわざご到来戴いての御目文字以来のご無沙汰も、恙なくお過ごしであろうと思いきや、この4月早々、なんと胸部大動脈瘤の大手術をなされたと伝え聞き、びっくり仰天しましたが、術後の回復もすこぶる順調に、退院の予定も早まったと併せ聞き、ひとまず安堵しているような次第ですが、聞けば、この3月末、目出度く退職、永年の勤務からようやく開放され、ほっと一息つく暇もなく、3.4日後には症状の発覚、即手術に到ったとの事。それにしても、まこと一寸先は闇、災厄というものは前触れもなく訪れるものでありますネ。

此の度のこと、誰よりも貴女ご自身が一番驚き且つ衝撃に襲われたのではなかったでしょうか。また京都の折、初めてお逢いしたご主人でしたが、この間の彼の心労もさぞ大変なものだったでしょう。遅ればせながらお見舞いの辞とともに退院の朗報を言祝、向後の快方を心より念じております。

一昨年の6月でしたか、舩引君が住職を務める福島区の蓮光寺の法話に美谷君が登場するとあって拝聴しに出かけたのが、貴女と親しく言葉を交すようになった機縁となり、その後15期の幹事会などでもご一緒するようになりましたが、顔ぶれも多彩に賑やかなのは結構だとしても、船頭多くしての喩えどおりいささか迷走気味の会議には、貴女のような一言居士は寸鉄人を刺すが如くにしてまことに貴重なもので、折々に此方も助けられてきた感があります。

傍ら、長野君音頭の古都めぐりも賑わいを増し活況のようだし、片山さんや内山さんたちは写真のほうにずいぶんと凝り型のようだし、ゴルフの会もすっかり定着しているようだしと、それぞれ思い思いに好みのほうを向いておのが林住期を謳歌しているものともみえ、善哉々々。

これも03年秋以来の、なにやかやと試行錯誤の積み重ねが攻を奏したものと受けとめ、本体-幹事会-のほうは、しばらくはこのままゆるりゆるりと歩めばよいとのんびり構えていますが、夏から秋にかけてのあたり、一度くらいは一同に会すべしという声も起きようから、その折は是非に元気な姿でお出まし願います。

なにはともあれ、術後の養生、くれぐれも御身大事とお努めあるように。

 08戊子 卯月穀雨

田中勝美さんは高校の同期。同窓会仲間ではめずらしくDanceCafeなどに関心を示して観に来てくれるようになっていた。
胸部大動脈瘤は自覚症状が乏しいらしく、破裂した場合の多くは死に到ると云われる。彼女の場合胸部圧迫などの自覚症状からか破裂前に発見され、直ちに8時間余りの手術、翌日また再手術といった大手術のすえ、ことなきを得たらしい。それが定年退職後の第二の職場もこの3月末ようやく辞して3.4日後のことだったというから、この巡り合わせも驚きだが、診察を受けるのが遅れていたらどうなっていたか、いわば不幸中の幸い、運よく命拾いをしたにひとしいともいえようか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-06

  瓢箪の大きさ五石ばかり也  

   風にふかれて帰る市人   芭蕉

次男曰く、夕顔の忘れ形見のことはひとまず措いて、話を荘子へ持っていった越人の狙いは、「四山」瓢のよろしさひいてはその持主の心映えに寄せる賞讃だろう。それを含として、無用の用の極意を教えて欲しいと問掛けている。

答は、「子-恵子-、大樹有りて其の用無きを患ふ。何ぞ之を無何有-むかう-の郷、広漠の野に樹-う-えて、彷徨乎として其の側に無為、逍遙乎として其の下に寝臥せざるや。斤斧に夭-き-られず、物の害-そこな-ふもの無し。用ふべき所無ければ、安-いづくん-ぞ困苦するところ有らんや」-逍遙遊篇-。

先に続いて、規矩墨縄にもあたらぬ大儒についての問答だが、この句の作りにはもう一つ拠り所がありそうだ。

「唐土に許由といひける人の、さらに身に従へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさごといふものを人の得さしたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしがましとて捨つ。また手に結びてぞ水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。」

「徒然草」第十八段に載せる「蒙求-もうぎゅう-」の説話である。許由は潁川に耳を洗い、箕山に隠れた賢人、一方、素堂が芭蕉に与えた銘は「一瓢 黛山より重し、自ら笑って簑山と称す、‥」。

許由にはなれぬが、「風に吹かれ」るその瓢箪ぐらいになれる、と芭蕉は云いたいらしい。栽ち入れて翻したところが諧謔のみそだ。「市人」が商估-しょうこ-か客かはわからぬが、無用の大瓢をとりまく凡俗の「かしがまし」さは自ずと言外に現れる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 26, 2008

瓢箪の大きさ五石ばかり也

Db070509t091

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-05

   理をはなれたる秋の夕ぐれ  

  瓢箪の大きさ五石ばかり也   越人

次男曰く、初折五句目は最初の月の定座だが、ここは雑躰である。

秋の定座で始まった歌仙では月の座を第三、脇に上げ、季続も通例三句目まで、稀に四句目に伸ばすことがあっても、発句以下五句秋という例を見ない。月を引き上げたことが無意味になる。

夕顔・瓢の花は晩夏で、実は初・仲秋だが、云うところの「瓢箪」が生-な-り物でないことは一読してわかるだろう。といって性急に玉鬘の身の上をたねにするようでは、俤取りの楽しみはなくなるから、越人は、たくみに「荘子」を持ち出して、「理をはなれたる」を無用の用に移し、俳としている。

「恵子、荘子に請ひて曰く、魏王我に大瓢の種を貽-おく-れり。我之を樹-う-うるに、成りて実ること五石、以て水瓶を盛れば其の堅-おも-きこと自ら挙ぐること能はず。之を割いて以て瓢と為すに、即ち瓢落-こぼ-れて容るる所なし。云々‥‥」-逍遙遊篇-

後年、珍碩-酒堂-編「ひさご」-元禄3年仲秋刊-の序を請われたときにも、越人はこの話を引いて作っている。酒好だったから瓢問答はとりわけ気に入っていたのだろうが、じつは手本がある。

「顔公の垣穂に生へるかたみにもあらず、恵子が伝ふ種にしもあらで、我にひとつの瓢あり。是をたくみにつけて花入るる器にせむとすれば、大にして規にあたらず。ささえ-小竹筒-に作りて酒を盛らむとすれば、形見る所なし。ある人の曰く、草庵のいみじき糧入べきものなりと。まことによもぎの心あるかな。やがて用ゐて、隠士素翁に請ふてこれが名を得さしむ。そのことばは右にしるす。其句みな山をもて送らるるがゆゑに、四山とよぶ。中にも飯顆山は老壮の住める地にして、李白が戯れの句あり。素翁李白に代はりて、我貧を清くせむとす。かつ空しきときは、ちりの器となれ。得るときは一壺も千金をいだきて、黛-タイ-山も軽しとせむこと然り。」

  ものひとつ瓢はかろき我世かな  芭蕉

貞享3.4年の成稿らしい。芭蕉庵の瓢をいささか伝説的にした有名な句文だが、「瓢箪の大きさ五石ばかり也」と作って、蓬心の謂れや飯顆山の故事が話題にならなかった筈はなく、そもそもこの両吟の興のきっかけも、越人が深川で初めてその実物を手に取った「四山」だったのではないか、とさえ思われてくる。

折もよし、ちょうど後の月見-9月十三夜-のころだったから、併せてこれを玉鬘に執り成して夕顔の恋を偲ぼう、というぐらいのことは誘い誘われて十五夜を共にしてきた俳諧師なら容易に思い付く。更科の月見に続いて翌年の敦賀の月見-ほそ道-でも、芭蕉は等栽を誘って今源氏をきめこんでいる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

April 24, 2008

理をはなれたる秋の夕ぐれ

Crossing_point

―四方のたより― CROSSING POINT

角正之君からDance Performanceの案内がきている。
New York在のEllis Wood Dance Companyとのコラボレーション・イベントだそうな。
主催は兵庫県立美術館アートフュージョン実行委員会とあり、会場を美術館アトリエ-1としている。日時は4月27日、午後3時30分開演の1回のみ。
チラシには、二つのだんす表現の、似て非なるものの、クロッシング・ポイント、とある。
Ellis Woodのほうは振付作品でタイトルが「Falcon Project」、テーマはジェンダーについてということらしい。
一方、角正之のほうはもちろん即興Collaborationだが、演奏にSaxの山本公成とKontrabassの岡野裕和が参加、音と動きの即興対話 、「Body Tide-身体潮流-」と題している。
角君たちの世界だけでなく、未知の振付家の作品にも接しうる機会とあれば、少なからず興も湧く。
早めに稽古をきりあげてひさしぶりに出かけてみようかと思っている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-04

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  

   理をはなれたる秋の夕ぐれ  越人

次男曰く、三句で留めてよい秋を四句まで伸している。
しかも、打越に「この比の月」とあるのに、かさねて「秋の夕ぐれ」と、気分にたよった季節の印象を以てしたもつれかたが気になる。

「秋の夕暮れ空の気色は色もなく声もなし。いづくに如何なる故あるべしとも覚えねど、すゞろに泪こぼるゝが如し」-長明・無名抄-。

秋晩を理外と眺める感は越人ならでも覚えるが、藤袴をなぜ夕暮と結んだのだろう。と思って次句-これも越人である-に目を遣ると、「瓢箪の大きさ五石ばかり也」とあり、瓢箪は夕顔の実だということに気がつく。玉鬘は夕顔の娘である。「誰窮屈に」と問掛けられて、棟梁の俳諧歌に思及ばなかった筈はなく、「秋の夕ぐれ」の見定めもまずそのあたりからと読んでよいが、越人は、「源氏」好みの客に対する亭主の持成しの趣向にも気付いているらしい。「秋の夕ぐれ」の「夕」とは、師の「藤ばかま」の句が玉鬘つまり夕顔の娘のうえをかすめている、と読取った合図である。そう覚らせるように、次句を「瓢箪の」と起し二句一意の続としている。

両吟という形式は、長・短句の均分をはかるために、座順の取替を必要とする。したがって独吟による付合の箇所がいくつか生れるが、とかくこれは二句同根の発想に嵌りやすい。越人の二句作りも、「瓢箪」の執り成し、解釈のいかんによっはその危険があるだろう。

「秋の夕ぐれ」がたんなる時分ではなく、俤を立たせるための人情含の表現だとわかれば、「この比の月」-打越-とのもつれもこだわらなくて済む。手法、古風といえば古風だが、越人らしいしゃれた縁語の裁ち入れ方である、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 23, 2008

藤ばかま誰窮屈にめでつらん

Db070509rehea188

―表象の森― 悼、釜ヶ崎の詩人こと東淵修

むかし さんじゅうねんくらいまえは たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけであった
じゃんじゃんまちを いっしょうざけを はらにぶちこんで じぐざぐにに しょんべんを してまわった ことがある 
だから そのじぶんが わいの いちばんおもろかったことを おもいだす
きぶんがわるなったら そこいらに はいて まわった
いろいろ かんがえつめると そのじぶんが いちばんの わいの ごくどうぜんせいじだい だった
あるひ あんまり からだのちょうしが わるいので いしゃへ いった
おいしゃさんの いうのには あんた とうにょうびょうやで へたしたら ぽっくりやで といわれた
ほんで しらべたら しんぞうも わるいで けんさにゅういんせなあかん
ようようしらべたら しんぞうが ひだい している
それで こっちも びっくりしてしもうて けんさにゅういん することにした
けっか けんさで ふうせんちりょう することになり ぱあんと はれつ さした
それで いったんは なおった
とうにょうびょうのほうは くすりじゃなしに いつのまにか ちゅうしゃを うつことに かわっていった
いつのまにか いっしょうざけも たばころくじゅっぽんも ふっかつしていた
えんえんと ごくどうは つづいたのである
しあわせやったなあ
そんなときは さくひんも もりもり かけた
それが えいえんに つづくかとおもたが
あるひとつぜん しんぞうが くるしなって びょういんへ はこびこまれた
ついでに じんぞうも わるなって
いらい びょういんと このよに はいかい することになった
ごくどうの すえや しゃあない

  ―――東淵修-とうにょうびょうと、しんぞうびょうと、じんぞうびょうと-

釜ヶ崎の詩人こと東淵修氏の死が報じられたのは2月25日だったか、享年77歳という。

彼が主宰した「銀河詩手帖」は1968(S43)年11月創刊というから、以来40年の長きを、時に月刊として、時に季刊または隔月刊として、ずっと保ってきたことになる。まさに「えんえんと、ごくどうは つづいたのである」

嘗ての私の書棚にも、その詩誌は2冊か3冊、諸々の本に混じっていたと記憶する。
70年代のいつ頃のことであったか、いかつい体躯に人なつこいような柔和な笑顔を浮かべたこのおっさん詩人と、一度きり対座したことがある。なぜ、どんななりゆきで、そうなったものやら、だれかと一緒だったのか、てんで思い出せないのだが、とにかくその時の彼の印象だけはあざやかに脳裏によみがえる。その頃の彼はきっと「たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけ」の日々であったのだろう。

今月の13日、その「おやっさん」を偲ぶ会が催され、全国から詩人たち50人ばかりが駆けつけた、とも報じられていたのを眼にした。
遺された「銀河詩手帖」同人らが、おやっさんの遺志を継ぎ、詩誌発行の火を灯しつづけていく、ともあった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-02

   酒しゐならふこの比の月   

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  芭蕉

次男曰く、秋三句目。
フジバカマは漢名を蘭または蘭草と云い、藤袴はその花の色と管状の弁をの形とからつけられた和名である。

「万葉集」巻八の秋雑歌に「萩の花尾花葛花瞿麦-なでしこ-の花女郎花また藤袴朝貌の花」-山上憶良-とあり、呼称も表記も早くから定着したものらしい-蘭・らにという名も並んで用いられた-。連・俳では初乃至仲秋の季に扱う。

飲みたい酒を飲まぬというこだわりも窮屈だが、それを承知のうえで無理強いする行為はもっと窮屈な話だ。と気付いた可笑しさがこういう時宜の草花を思付かせる。袴の異名は窮屈袋である。句は、名づけの所以を咎めているとも読めなくはないが、「藤袴誰窮屈に」とあけすけに語縁をさとらせては、問答も興醒めだろう-「蘭草を誰窮屈にめでつらん」と作ればよい-。藤袴の名にふさわしい愛で様をさぐれ、と読んでおく。

フジバカマはキク科の芳草で、その縁の色-紫-を主知らぬ香や形見の香にことよせ、もともと詠み口窮屈な花である。

「やどりせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ」-古今集・秋、貫之-
「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎ掛けし藤袴ぞも」-同、素性-
「おなじ野の露にやつるる藤袴あはれは掛けよ託言ばかりも」-源氏物語・藤袴-

三首目は、父源氏の使として玉鬘を尋ねた宰相の中将-夕霧-が、序でに、同じ祖母の喪に服している縁を口実にして藤袴の花を贈り、従姉に言寄る歌である。これには源氏も亦、夕顔の忘れ形見を養女として引取っておきながら且恋もしている、という窮屈な筋が下地となる。藤袴が玉鬘の別名というわけではないが、芭蕉の句仕立から自ずと思出さぬわけにはゆかぬ話だろう。

発句の、同意を求めたげな、止むに止まれぬ心根を汲んで、持成しとなる物語の上をかすめる含もありそうな返戻を以てしたところ、この歌仙の形式が両吟であるだけに、さっそく展開の利く第三である。

露伴は「春秋左氏伝」に鄭の文公の賤妾燕姞-エンキツ-が蘭に夢に見て公子-後の穆公-を身籠ったとしるす話を引く。穆公-名は蘭-、父母の恩愛を銘ずること深く、縁の草を大切にし、病みて卆するに臨んでは悉くこれを刈取らせた、と伝える。゛其の窮屈に愛でたることも太甚-はなは-だし。周茂叔の愛蓮、林和靖の愛梅、其愛は深しと雖も、窮屈の愛しざまにはあらず」と露伴は云うが、芭蕉の句は「蘭」の句ではない。尤も、この話は俊成はじめ「新古今」時代の和歌の判にも見え、芭蕉も知っていたかもしれぬ。それなら、王朝人の藤袴の愛で様を、古代中国の故事にまで遡らせて娯んでいる、という句になる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 22, 2008

酒しゐならふこの比の月

Db070509rehea173


―表象の森― 陽春の倦怠

昨日はめずらしく昼前から外出。
同期の旧友Kと逢うため地下鉄で梅田へ、約束の前に駅前第3ビル地下の古書店に立ち寄ってネットで注文していた書を受領、1500円也。
途中昼食をはさんでほぼ2時間半対座、話はとくに的もなくとりとめもなく進み、ただ声と語り口にともなうなにがしかの肉感が心地よいといえばいえそうな、そんな時間か。

そのあと連れ立って、同期4名が出品しているという市岡OBたちの写真クラブ作品展に立ち寄るべく、南森町のギャラリー「草片-くさびら-」へと移動。
会場にはT君が居た。写真はなべて4ツ切りサイズか、額も同じ仕様で統一されており、18人が各々2点ずつ、計36枚が整然と配列されているのだが、その平等主義?と些か空間の窮屈なこともあってか、却って個々の作品の鑑賞という行為を阻害させているような気がする。眼の動線に遊びが欲しいのだが、なんとかならなかったものか。

そこへU-出品者-さんが来て少し立ち話をしたが、暇と金にあかせた彼女の行動力は、写真というお道楽を得て、一気呵成に突き進んでいるようで、来週は岩手にとか、来月は礼文島にとか、云っていたのには少々面喰らってしまった。

汗ばむほどの陽春の昼下がり、地下鉄に乗り込んだ身体になにやら物憂いようなけだるさを感じていた。

―今月の購入本―

ダグラス.R.ホフスタッター「ゲーデル.エッシャー.バッハ あるいは不思議の環」白揚社
1985年初版の中古書。ウィキペディアに曰く「GEBの内容を一言で説明するのはむずかしい。中心となっているテーマは「自己言及」だが、これが数学におけるゲーデルの不完全性定理、計算機科学におけるチューリングの定理、そして人工知能の研究と結びつけられ、渾然一体となっている。エッシャーのだまし絵やバッハのフーガやカノンは これらをつなぐメタファーとして機能している」と。先に図書館から借りて少し囓ってみたが、とても読み切れずむなしく返本。のんびり時間をかけてみるしかない。

陳舜臣「曼荼羅の人-上」「 々 -下」TBSブリタニカ
1984年初版の中古書。若かりし私度僧空海の長安滞在期を描いた小説。作者の陳舜臣は、先に「空海の風景」をものした司馬遼太郎と、大阪外国語学校-現在の大阪大学外国語学部-の同期だったというのは偶然にしてはできすぎている。

黒田俊雄「王法と仏法-中世史の構図」法蔵館
初版は1983年だが、2001年増補新版の中古書。「黒田史学」と称される、天皇を中心に公家・武士・寺社など諸権門が相互補完をなして中世国家を形成していたとする「権門体制論」、あるいは、中世宗教の基軸を顕密仏教に求め、その構造と展開を論じる「顕密体制論」

篠田謙一「日本人になった祖先たち」NHKブックス
副題は「DNAから解明するその多元的構造」、2007年2月の新刊書。最近のDNAデータから、アフリカ出来の人類がどのような道をたどって東アジアに到達し、日本列島へ渡ったのか、また、先住の縄文人と大陸渡来の弥生人という日本人の二重構造論をも検証する。

松岡正剛「世界と日本のまちがい」春秋社
副題に「自由と国家と資本主義」、2007年12月の新刊書。公開講座の語りおろしによる著者独自の史観で読み解く近現代史。

吉本隆明「情況への発言-2」洋泉社
私誌「試行」の巻頭「情況への発言」、第45号-1976年4月-から第61号-83年9月-まで。

広河隆一編「DAYS JAPAN -戦争と人間と写真-2008/04」ディズジャパン

―図書館からの借本―

佐藤次高編「世界各国史-8-西アジア史①アラブ」山川出版社
嘗てオスマン帝国下に統合されていたアラビア半島からマグレブまでの範囲を各王朝毎に詳細に辿る通史。

松岡正剛「空海の夢」春秋社
71年の創刊から82年まで雑誌「遊」を編集した松岡正剛が工作舎を離れ、初めて書き下ろしたもの、84年初版。

大石直正/高良倉吉/高橋公明「周縁から見た中世日本-日本の歴史14」講談社
奥州と琉球および列島周辺の海洋世界から浮かび上がる日本の中世像。

別冊日経サイエンス№151「人間性の進化-700万年の軌跡をたどる」河出書房新社
別冊日経サイエンス№154「脳から見た心の世界-Part2」河出書房新社
別冊日経サイエンス№156「宇宙創生紀-素粒子科学が描き出す原初宇宙の姿」河出書房新社

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-02

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  

   酒しゐならふこの比の月     芭蕉

この比-ころ-

次男曰く、越人が陽性の大酒呑だった証拠はいくらもある。「性酒を好み、酔和する時は平家をうたふ」男は、貞享4年冬の伊良胡行でもさっそく酔態を師の前にさらけだしたらしい。「笈の小文」には入れていないが、「伊羅古に行道、越人酔て馬に乗る、ゆき-雪-や砂むま-馬-より落-おち-よ酒の酔」という句が「あま津なはて、さむき日や馬上にすくむ影法師」、「鷹一つ見付てうれしいらこ﨑」と共に「合歓のいびき」-蝶羅編、明和6年跋-なる集に収められ、芭蕉真蹟詠草も遺っている。

「酒しひならふ」と芭蕉が付けたところで、先の「しづかに聞ば」の滑稽ぶりがようやく見えてくる。乏しい暮しとはいえ、夜毎芭蕉が越人に酒を勧めなかった筈はない。又、居候の分際で、越人がこれを辞退しなかった筈もないのだ。当夜の状況に即して云えば、「この比の月」とは後の月-9月十三夜-の頃で、今宵ぐらいはせめて存分に飲みたまえ、というのが亭主芭蕉の唆誘-さゆう-である。対して越人の答は、水入らずで手ほどきを受ける記念すべき今宵だけは、誓って盃を手にしません、だろう。これは、飲まぬと云うなら代ってこちらが飲もうか、と煽ってでもその気にさせてみたくなる遣取で、充分に俳諧のたねになるものだが、客-越人-は「しづかに-素面で-聞ば」と、こだわって辛抱している。そう読んでよい。

時に越人33歳、芭蕉は45歳。この夜の興は挨拶の出ばなからして、李白が杜甫の拘泥癖を飯顆-ハンカ、めしつぶ-の粘着に喩えてからかった有名な話を思い出させる。天宝3-744-、4年、二人共河南・山東あたりで放浪の生活を送っていた頃である。「酔別、復幾日ゾ、登臨 池台ニ偏-あまね-シ、何レノ時カ 石門ノ路、重テ金樽ヲ聞クコト有ラン、秋波 泗水-シスイ-ニ落チ、海色 徂徠ニ明ルシ、飛蓬 各自ラ遠ク、且尽ス手中ノ杯」-李白、魯郡の東、石門ニテ杜二甫ヲ送ル-。天宝4年秋のことで、李白45歳、杜甫34歳だった。深交僅かに一年、その後二人はついにめぐり逢うことはなかったらしい。

越人と芭蕉の対吟は、後にも先にも「雁がねの巻」だけだった。状況と云い年齢と云い、偶然というには出来過ぎた符号である。。李・杜交遊のときのそれぞれの年齢を、芭蕉たちは知っていたのではないか。少なくとも大凡の一致には気付いた筈で、とすればこの付合は、芭蕉が李白を、越人が杜甫を演じるという、役どころ取替にも仕掛の妙を生むだろう。

むろん芭蕉の杜甫好は周知の話である。今宵のきみが強いて李白に倣わぬというなら、ぼくが代りに飲んで、大切な杜甫をきみに預けようか、と読めば俳諧になる。芭蕉も杜甫も下戸ではなかったが、無くて過せぬほどの酒好でもなかった、というところが満月にはなれぬもう一つの名月-9月十三夜-の興のミソである、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 21, 2008

雁がねもしづかに聞ばからびずや

Db070509rehea120

―表象の森― 両吟歌仙「雁がねの巻」

「雁がねの巻」は、貞享5(1688)年9月半ば、深川芭蕉庵において興行された、芭蕉と越人の二人による両吟歌仙。

越人は越智氏、通称十蔵、槿花翁・負山子とも号す。明暦2(1656)年北越の生れ、流浪して名古屋に到り、野水・杜国・重五らの庇護を受けて染物屋を業とした。俳諧は杜国に学び、入集は「春の日」-荷兮編、貞享3年刊、七部集の第二集-の10句が初見。

貞享元年「冬の日」興行のとき名古屋連衆に付して直門にむ移ったと思われるが、芭蕉に親炙したのは貞享4年11月、杜国の謫居を慰めるべく、鳴海から三河伊良胡崎に案内して以来のことである。

芭蕉の「更科紀行」-貞享5年-に「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹きはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、‥」と越人の名が見える。

杜国を伴って吉野・高野山・須磨・明石と巡遊した芭蕉が、京都から帰東の途に就いたのは同5月10日ごろ、大津・岐阜に逗留ののち7月尾張に入ったが、信州更科の月見を思立って、美濃へと越えたのは8月11日。この折、杜国と別れ代わりにと越人が尾張から同行したかとみえる。越人はそのまま江戸まで随行、8月下旬に芭蕉庵に帰りつき、食客となってしばらく江戸に滞在した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-01

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  越人

詞書に「深川の夜」とあり。

次男曰く、「雁がね」は雁が音と読んでもよいが、「雁-かりがね-」でよい。
「からぶ」は枯ぶ・乾ぶ、これを枯淡・枯寂の趣にとりなして表現美の一様式としたのは「新古今」時代あたりからで、建仁2(1202)年3月22日、和歌所において後鳥羽院以下7人が試みた「三体和歌」に、「春・夏、此二はふとくおおきによむべし」と六題の約束を定めたのが、文献初出だろう。

晩秋から日本内地に飛来し、翌年仲春頃から北帰する雁の代表的なものは、真雁-マガン-と鴻-ヒシクイ-である。真雁の声はやや細く高く、鴻のほうは太い濁声だが。共に鳴き交しながら群飛する習性があり、けっこう騒がしくきこえる。「からぶ」という印象は必ずしもあたらない。

越人は「秋・冬、此二はからびほそくよむべし」という約束をよく承知していて、少々外れた物に目を付たのではないか。とすれば、句作りの工夫は中七文字にある、と容易にわかる。

その中七を、「深川の夜」とわざわざことわったうえで「しづかに聞ば」と駄目押をした、芸の無さが気に掛かる。下手と云えばそれまでだが、越人ほどのプロなら、「雁がねも水面にからびずや」という類の改案ぐらい思付かなかったとは考えられない。発句の挨拶は、亭主ぶりひいてはその住まいぶりなどを賞めるのが通例だが、「しづかに聞ば」とは、とはどうやらそれとは別のところに含を持った云回しらしい、と気がつく。

深川の夜は格別だ、と云っているわけではない。師弟二人水入らずの秋夜の興は何者にも替えられぬ、と云ってるだけでもなさそうだ。この「しづかに」の含は、当然、亭主芭蕉が釈いてくれる筈である、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 19, 2008

その望の日を我もおなじく

Db070509rehea127

―表象の森― ただ即きゆく‥。

「冬の日-霽の巻」も芭蕉の挙句「その望の日を我もおなじく」をもって了。
この安東次男の「芭蕉連句評釈」にはじめて触れたのは、季刊雑誌「すばる」-集英社-の連載であった。

70年代末には月刊となっている「すばる」だが、季刊時代であった1970(S45)年6月の創刊から5.6年は毎号欠かさず書店から取り寄せていたかと記憶する。

その創刊号で私の眼を惹きつけたのは、梅原猛の「神々の流竄」であり、もう一つがこの前書となる「芭蕉七部集評釈」であったのだが、当時の私にとってこの連載を読み遂せていくことは荷が勝ちすぎていたから、到底まともな読者であったと云える筈もない。ただ、ゆくゆくはこの鬱然たる樹海に迷い込んで存分に呼吸してみたいと思ったものだった。

本書「風狂始末-芭蕉連句評釈」-ちくま学芸文庫-巻末の解説で粟津則雄は、

「彼は、この座に身を投じ、それにとらわれ、とらわれることによって、そこでの連句のはこびを、あの緊迫した対話へ奪いとろうとする。そのとき、たとえば歌仙は、すでに巻きあげられたものとして眼前にあるものではなくなる。この対話を通して、再び新たに巻き始められるといったおもむきを呈するのである。対象にとらわれ、とらわれることによって対象とのあいだに緊迫した対話を生み出すことは、「鑑賞歳時記」においてすでにはっきりと見られる、安東氏の終始一貫して変わることのない姿勢であるが、対象が発句ではなく、たとえば歌仙である場合、彼はさらに強くさらに濃密にその場にとらわれることとなる。」

と書いているが、私もまた叶わぬまでも、新たに巻き始められるとみえるこの濃密なる場に、ただ即きゆきたいものと願っている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-36

  こがれ飛たましゐ花のかげに入 

   その望の日を我もおなじく   芭蕉

望-モチ-の日

次男曰く、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」。家集、異本家集、御裳濯河自歌合に入り、「続古今集」にも撰ばれた歌で、西行はこの願どおり文治6(1190)年2月26日、河内弘川寺に73歳で入寂した。歌は壮年修行中に詠置いたものらしいが、実は先の「ほとけにはさくらの花をたてまつれ」は「山家集」春の部で右の歌の次に配列されているものだ。これは芭蕉の意識に不可分のものとしてあったかもしれぬ。間髪を容れず裁入れている。

句のおもてに季語はないが、「その望の日」を新季語の工夫と見做したくなる心憎い作りである。むろん含は、私もそんな極楽を味わってみたいものだ-そんな可愛い女に会ってみたい-というジョークにある。味な挙げ方をする、と。

「霽の巻」全句-芭蕉七部集「冬の日」所収

つゝみかねて月とり落とす霽かな  杜国  -月・冬 初折-一ノ折-表
 こほりふみ行水のいなづま    重五  -冬
歯朶の葉を初狩人の矢に負て    野水  -春
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉  -春
馬糞掻あふぎに風の打かすみ    荷兮  -春
 茶の湯者おしむ野べの蒲公英   正平  -春
らうたげに物よむ娘かしづきて   重五  -雑 初折-一ノ折-裏
 燈籠ふたつになさけくらぶる   杜国  -雑・秋
つゆ萩のすまふ力を撰ばれず    芭蕉  -秋
 蕎麦さへ青し滋賀楽の坊     野水  -秋
朝月夜双六うちの旅ねして     杜国  -月・秋
 紅花買みちにほとゝぎすきく   荷兮  -夏
しのぶまのわざとて雛を作り居る  野水  -雑
 命婦の君より来なんどこす    重吾  -雑
まがきまで津浪の水にくづれ行   荷兮  -雑
 仏喰たる魚解きけり       芭蕉  -雑
県ふるはな見次郎と仰がれて    重五  -花・春
 五形菫の畠六反         杜国  -春
うれしげに囀る雲雀ちりちりと   芭蕉  -春 名残折-二ノ折-表
 真昼の馬のねぶたがほ也     野水  -雑
おかざきや矢矧の橋のながきかな  杜国  -雑
 庄屋のまつをよみて送りぬ    荷兮  -雑
捨し子は柴苅長にのびつらん    野水  -雑
 晦日をさむく刀売る年      重五  -冬
雪の狂呉の国の笠めづらしき    荷兮  -冬
 襟に高雄が片袖をとく      芭蕉  -雑
あだ人と樽を棺に呑ほさん     重五  -雑
 芥子のひとへに名をこぼす禅   杜国  -夏
三ヶ月の東は暗く鐘の声      芭蕉  -月・秋
 秋湖かすかに琴かへす者     野水  -秋
烹る事をゆるしてはぜを放ける   杜国  -秋 名残折-二ノ折-裏
 声よき念仏藪をへだつる     荷兮  -雑
かげうすき行燈けしに起侘て    野水  -雑
 おもひかねつも夜の帯引     重五  -雑
こがれ飛たましゐ花のかげに入   荷兮  -花・春
 その望の日を我もおなじく    芭蕉  -春

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 18, 2008

こがれ飛たましゐ花のかげに入

07120102

―世間虚仮― 子どもというものの激しさ

生活のリズム変化による子どもの体調管理というものはなかなか難しいものがある。
新一年生になって2週目に入ったK女がとうとう変調をきたしてしまった。

昨日の午後4時過ぎ学校から突然の電話、前日の水曜日から始まった「いきいき活動」の担当者からで、「熱はないが、お腹が痛いと云って、横になっている」とのことで、すぐ駆けつけてみると、なるほど朝出かけたままの制服姿のまま、ちょっぴり青ざめた表情で力なく横たわっていた。

「イキイキ活動」というのは大阪市が始めた学校内での放課後保育のことで、全市的に実施するようになったのは平成13年からだ。この施策には、すでに民間にひろまっていた学童保育への支援補助費がどんどん膨らんでいくことや、組織化された学童保育連絡会などが学校開放をめざした請願要求の盛りあがりへの対抗措置的な意味合いもあったのだろう。

このところ就寝につくとかならず軽いとはいえ喘息の発作も出ていたし、アトピーの湿疹もつねより増していた。保育園から小学校へと、環境と日常リズムの変化は、相当なストレスとなっているに違いないと思っていたが、それを上回っての旺盛なハリキリぶりが、起きている限りは快活で元気な振る舞いをさせていたのだろうか、どうやらそれが破綻をみせ、とうとう身体のほうが悲鳴をあげた、ということか。

とすると、新一年生になったという環境変化に対するK女の幼いなりの思い入れは、此方の想像をはるかに上回る強さだったとみえ、このところの彼女のハリキリぶりは、一種の躁状態を呈していたともいえそうなほどに、心身のバランスを欠いていたことになるが、幼い心理にそれほど激しい精神の運動があるなどと気づきもしなかった此方が迂闊だった。

なるほど、子どもの心身こそ、おとなたちの想像を超えて、激烈なものなのだ。だからこそ自身のコントロールも効かず、ここまで変調をきたしてしまうのだ。

報せをうけた母親も早々に帰ってきたので、雨降るなかを背負って、近くのかかりつけの医院へと歩いていった。折悪しく車を修理に出していたのでそんな羽目になったのだが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-35

   おもひかねつも夜の帯引  

  こがれ飛たましゐ花のかげに入  荷兮

飛-とぶ、入-いる

次男曰く、名残の花の定座である。帯引に負けた女は行灯消しに起つかわりにそのまま男の胸にとびこむ、と読取っていなければこういう付は出来ない。男二人の帯引では成立たぬというところが滑稽のみそで、甘えもくすぐりも可憐さも自家薬籠中のものとした付だが、座巡ecbed、挙句が芭蕉とあれば、荷兮には用意の作文がある筈だ。

伊勢に、吉野に、つい先頃西行の跡を尋ねてきたばかりの、風狂人を迎えての興行である。句はそのまま眼前のまろうどの姿でもある、とは誰の目にも瞭かだろう。
「西行山家集、あくがるる心はさても山ざくら散りなん後ぞ身にかへりなむ。この歌を踏みて、前句の恋のをかしみを巧みに花に添へて作れるは、流石に荷兮力量ありといふべし」-露伴-。

晩年、「思ひ返すさとりや今日は無からまし花に染めおく色なかりせば」-御裳濯河自歌合、寛文七年の板本がある-と述懐するに到った西行の花数奇は、挙げればきりがない。一つを以て証とするわけにもゆかぬ。

「思ひに堪へ兼ねて魂もうはの空に吾が思ふあたりに飛び去りしを花にあこがるる情に取りしにて、こがれに恋を含めしつもりならむも、此の付意また妙とは謂ひ難く、何かと言ひ方ありさうに思はる。談林臭を呈びし付方なり」-樋口功-

「女を花に喩へた心はもとよりであるが、桜咲く春の夜の艶なさまも想はれて面白い」-穎原退蔵-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 17, 2008

おもひかねつも夜の帯引

980906037

―温故一葉― 貴田知歌子の巻

花見に興じるほどの暇もなくいつのまにか桜の季節はうちすぎ、はや新緑も目映くなる頃、
なにはともあれ、長い人生のリセットをされた、との佳き春の報せに、
「おめでとう」の一言を贈りたいと思います。

此方も長い間ご無沙汰していた村上さんから「ひさしぶりに逢いたい」などと請われ、新一年生となった幼な児を伴い出向いてみれば、さまざま四方山話のなかから貴女の結婚話なども飛び出して、「そうか、そうか、そうだったか」と、昨年7月の奧野事務所を退くに際しての諸々騒動については、折々島尾夫婦から聞いたりしては、向後の沙汰はどうなっていくものかと、お節介にすぎぬ余計な心配もしていたのだけれど、聞いて吃驚とともに安堵の思いで心落ち着き、春風に吹かれるがごとく爽やかな気に満たされました。

もちろん、村上情報だけでは些か心許ないゆえ、あらためて和子さんからも詳細のほどを聞いたのだけれど、この再婚話、耳にした時から、きっと相手は貴女より若い男性にちがいない、と脳裏をかすめたのも当たりどころか、此方の予想を上回る年齢差で、二度吃驚。

世間の道理や親族たちの論理からすれば、あれこれ抵抗の想いが錯綜しただろうけれど、私の知るかぎりにおいて貴女というものを考えれば、このたびの選択は、仕方のないものというよりおそらく最善の決断となるのだろうと思われ、お節介ながらその旨、和子さんにも強調しておきましたよ。

長女のお嬢さんも、貴女の無事出産を待って挙式の運びとか、二重三重の慶びを、願わくば、かけがえのない家族みんなで分かち合えるように、と祈りおります。
貴女は、その実年齢よりずっと若いのだから、これからは二人のあいだの新しい生命とともに、賢明に、懸命に‥‥。

自戒を込めて云えば、
お互いに近くあれば、心労のタネ多くとも、万事うまくいきます。
逃げたり遠ざければ、我が身安らかなれど、周りは波風尽きず、です。

 08戊子 卯月清明  

ひさしぶりの温故一葉は、港市民相談センター時代の若い同僚、貴田-現姓・菅田-知歌子嬢。御年42か3歳か。
私の在勤12年の後半期をともに過ごした彼女は、二十歳そこそこで結婚し、すでに小学校に通う女、男、男と3人の子がいたのだが、その容姿は若々しく、誰が見ても20代半ば、独身と見紛う華があった。必ずしも事務職に適しているとはみえぬ彼女だが、そこは市会議員の後援会も兼ねる事務所のこと、能力云々より万人受けが第一、愛嬌者でサービス精神旺盛だから、訪れる者たちの受けは老若男女を問わず抜群に良かった。

そんな彼女をマドンナ化することに、私は積極的に演出していく。後援会の一大イベントSunset Partyの司会をさせたのを皮切りに、新年会や演説会など催し事には必ず登板させ、司会役として欠かせぬ存在にしていったのである。
仕上げは99年4月、おくの正美4期目の選挙だった。この選挙における彼女はウグイス嬢たちのエースとして君臨、期間中、桃太郎に街宣車にと港区の街をくまなく廻りマイクを握った。結果は、2期目、3期目と目減りしてきた得票を挽回したばかりか、飛躍的に伸ばしたものとなった。

翌00年の夏、私は事務所を退いたのだが、残された彼女にとっては少々辛い日々が続いたのではなかったかと推測される。私的には夫の経済的破綻から果てはやむなく離婚にまで行き着いた、と聞きもした。初めは夫側に残された子どもたちもやがて彼女とともに住むようになったとも。おくの議員サイドの意向であろう、一介の事務職員がマドンナ的役割を担うのは如何なものかと、司会役もウグイス役も次第に降ろされていった。生活の糧だけのために居続ける場所としては雇用条件など必ずしも恵まれた環境ではない。40を過ぎた女の先行きへの不安は心の内でどんどん膨らむばかりであったろう。

彼女の人生のリセットに撰ばれた男性について面識もなにもないけれど、10歳近くも若い初婚男性で、実家は神戸西区の山の手の、農家が本業の長男だという、そんな事実だけでこの取合せ、なんとも今様の感じがして微笑ましくもあり、再出発の将来は明るい予感がしてくるのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-34

  かげうすき行燈けしに起侘て 

   おもひかねつも夜の帯引  重五

帯引-オビひく-

次男曰く、何となく起きたくない気分を継いで、思案のあげく帯引をする、と二句一章の仕立で話を転じている。帯引は帯の両端を引合って力競べをする遊で、むろん負けた方がここでは行灯消しに起つことになる。共寝のさまだとおのずとわかり、男二人と読んでもよい作りだが、「夜の」と冠したところに想像を生む。色模様をからませれば、「夜の帯引」は恋含みの俳言として面白く読めるだろう。

一巻も終になって露骨な恋など仕掛けるべきではないから、そうとでも読まなければ作意がわからなくなるが、諸注はただちに恋句と読んでいる。「おもひかね」「帯引」共に恋の詞と受取り、夜這の云回しとする。相手のもしくは自分の帯紐に手をかけるとか、足音を消すために帯を敷延べるとか、あるいは越えぬ誓を立てて二人のあいだに帯を置くとか、いろいろ決ったわけではない。帯引は前説したとおり、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 16, 2008

かげうすき行燈けしに起侘て

Db070509rehea189

―表象の森― カオスの縁と共進化

<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

無償の秩序‥‥。

十分に複雑な化学物質の混合物は自発的に「結晶化」して、それら自身を合成する化学反応のネットワークを、集団的に触媒できる可能性がある。
これらの集団での自己触媒系は、自分たち自身を維持し複製する能力をもつ。これは、生物における物質代謝となんら変わりはない。

生命が出現する前の化学システムにおいて分子の多様性が増加し、その複雑さがある閾値を超えた際に、生命現象が創発したと考えることができる。
もしこれがほんとうなら、生命とはたがいに相互作用している分子系の集団的な性質の上に成り立つものとなる。生命は全体として創発し、つねに全体として存在してきたことになる。

卵から成体への成長、すなわち個体発生は、人間の場合一つの細胞、すなわち受精卵-接合子-から始まる。接合子はおよそ50回の細胞分裂を経て1000兆個の細胞を作り出し、新生児を形成する。
それと同時に、接合子では細胞の型は一つだったのに、成体ではおよそ260種の細胞の型-肝臓の腺細胞、神経細胞、赤血球、筋細胞など-へと分化していく。

成長をコントロールする遺伝的な指令は、各細胞内の核にあるDNA-2007年現在ヒトの遺伝子は2万数千程度と推定-に書かれているが、注目すべきは、すべての型の細胞で遺伝子の組はほとんど完全に同じであるにもかかわらず、それぞれの細胞が異なるのは、活性化されている遺伝子が異なり、さまざまな酵素やその他のタンパク質が作られるためである。

このゲノムのシステムは、化学物質からなる複雑なコンピュータと見做しうる。‥逐次処理型のコンピュータではなく、‥ある種の並列処理型の化学コンピュータである。

ゲノムのネットワークで見られる創発的な秩序、‥生物における秩序の多くは自然淘汰の結果などではなく、自己組織化された自然的秩序である。‥生物圏における秩序の根源は、いまや自然淘汰と自己組織化の両方を含むものでなければならない。

生命は多くの場合「カオスと秩序のあいだで平衡を保たれた状況に向かって進化」する。
生命は「カオスの縁」に存在する。さらに比喩を物理学から借りれば、生命は「相転移点」付近に存在する、ということになる。
「ゲノムのシステムは、カオスへ相転移する直前の秩序状態にある」とい考え方を支持するかなりのデータもある。

カオスの縁-秩序と意外性の妥協点-の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する方向を最も兼ね備えているのである。そして、調節のきいた遺伝子のネットワークをカオスの縁付近に位置づけたのが自然淘汰である、という仮説はとても魅力的だ。
この進化空間で最良の探索を行うのは、秩序と無秩序の相転移点のような状態にある集団なのである。

「カオスの縁」というイメージは、共進化にも現れる。
共進化の系では、それぞれの種が適応地形のピークを目指して登っていくが、その地形自体も、共進化の相棒が適応的に活動することにより、始終変形していくのである。こうした共進化の系も、秩序的な状態、カオス的な状態、そして転移状態をとる。そしてこれらの系は、転移状態すなわちカオスの縁に状態に向かって共進化していくようにみえるのだ。

おのおのの種は自己の利益のために活動しているにすぎないのに、系全体としては、まるで「見えざる手」によって操られているかのように振る舞う。そして、だいたい、各種が最善を尽くしたときに行きつくような安定な状態へと進化するのである。ところが、この最善の努力にもかかわらず、系全体の集団的な振る舞いによって、最終的にはおのおのが絶滅へと追いやられる。

技術の進化も、実は、生物が生まれる以前の化学進化や、適応的な共進化と同じような法則によって支配されている。

「急速な経済成長は、商品とサービスの多様性が閾値を超えたときに始まる」という理論は、化学的な多様性が閾値を超えたときに生命の起源がはじまるのと同じ理論にしたがっている。多様性が臨界値を上回ると、新しい種の分子が、あるいは新しいタイプの商品やサービスが、さらなる新種のためにニッチを提供する。そうして生まれた新種は、自らが「可能性の爆発」の中に置かれた存在であることに気づく。経済システムでも、共進化の系と同じように、多少とも近視眼的な行為者の利己的な活動が絡み合っている。また、生物進化や技術進化における適応的な動きが、種の分化や絶滅の雪崩的現象を引き起こすことがある。いずれの場合にも、まるで見えざる手にしたがっているかのように、システムは自らを安定なカオスの縁に向かわせていく。そこでは、すべての演技者が可能な限りうまく演じる。しかし、最終的には舞台から退場していくのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-33

   声よき念仏藪をへだつる  

  かげうすき行燈けしに起侘て  野水

起侘て-おきわび-て

次男曰く、念仏を聞いている人の付である。「起侘て」は、藪を隔てて「声よき」と感じる人なら、油も尽きかけた風情の灯しをわざわざ消しに起きようとはせぬ、と読めばよい。「声よき」に「かげうすき」を掛合せ、共に夜長を含ませた一興としている。

諸注、「寂しきを移したる」-秘注-、「心細きさま」-升六-、「藪の奥に庵結びて一人住みせる発心の隠者」-樋口功-、「何となく気味悪く心細く思はれて、行灯のところまで起きて行けない」-穎原退蔵-などと読んでいる。

露伴も「藪のかなたにて哀れに声澄みて念仏するが聞ゆる夜深き折柄、影薄くして明滅する行燈の光の鬼気人を襲ふやうなるを、寧ろ滅さんとは思へども、衾をぬけ出て起き行かんも好もしからず、徒らに躊躇すると附たるなり」と、見当外れなことを云う。

放生会の唱名に気付かず、隔てて聞くという侘びた興の発見に思到らなければ、こういう解釈になる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 14, 2008

声よき念仏藪をへだつる

Zukin

―表象の森― 人形遣い吉田簑助の五十年

02年に歿した文楽の4代目竹本越路大夫は生前「修業は一生では足りなかった、二生欲しい」と語ったそうな。じんと胸に響く佳い言葉だ。
しかし、これも我執が嵩じ過ぎると果ては代襲制度へと行き着くようで自戒が必要だろう。

もうずいぶん前に出版されたものだが、文楽人形遣いの人間国宝である三代目吉田簑助の自伝的芸談「頭巾をかぶって五十年」-91年、淡交社刊-を読むと、なお手厚いとは言えぬまでも伝統芸能として今日のような国の保護政策を受けるまでの、戦前・戦中から戦後の困難な時代に、人形浄瑠璃がどのように生き延びてきたかがさまざま偲ばれておもしろい。

歌舞伎にせよ浄瑠璃にせよ、大大矢竹次郎率いる松竹が大スポンサーとして君臨してきたからこそ、その困難な時代を生き延びてこられたのには違いないのだが、敗戦後の混乱の時代、労働三法が成立する民主化運動の風潮のなか、映画・演劇関係者においても労働組合が結成されるにおよんで、様相はずいぶんと変化していく。

人形浄瑠璃においても、1948(S23)年5月、日本映画演劇労働組合大阪支部文楽座分会が結成され、全員参加が建て前で当初は関係者の殆どが組合員となったが、これが松竹側からの懐柔や干渉もあって、ただちに分裂の憂き目をみることとなる。

2代目桐竹紋十郎率いる組合派は三和-ミツワ-会、豊竹山城少掾や3代目吉田文五郎を中心とした松竹派は因-チナミ-会とそれぞれ称したというが、この分裂劇、スポンサーであった大松竹に逆らった組合派の三和会は、その後の15年を自主公演活動で全国を旅して廻るという辛酸を舐める。三越が救いの手を差しのべて東京・大阪の三越劇場へと定期的な公演をもつようになるのもこの頃だ。

簑助は、松竹側-因会-に残った父紋太郎とは離れて、師事していた紋十郎に随き多難の道を選ばざるを得なかった。

戦後もかなり遠くなった高度成長期の63(S38)年、三和会と因会は恩讐を超えて大同合流し、財団法人文楽協会が誕生することとなるが、やむにやまれず方向を違えた15年間の不幸が、互の燃焼、切磋琢磨をもたらし、却って人形浄瑠璃の伝統芸能としての芸の力を鍛え、貯め込んだともいえるかもしれない。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-32

  烹る事をゆるしてはぜを放ける  

   声よき念仏藪をへだつる   荷兮

念仏-この場合-ネブツ-と読ませている。

次男曰く、句は雑体で放生会-仲秋とくに陰暦8月15日-とは云っていないが、それを含として「声よき念仏」と作っている。僧は自ずと複数と知られる。

三句前に「鐘の声」とあるのに気付かなかった筈はなく、同字差合を承知のうえで「声よき」と遣ったとすれば、それなりの作文が下七文字になければならぬ、と読みの興を誘うところが見どころだ。「藪をへだつる」はそこに生まれた気転、妙案だろう。さらに沙魚は泥砂のなかに潜って棲息する習性があるから、併せてそこにも目を向けた滑稽なのかもしれぬ。たぶんそうだろう。作者の老練ぶりを遺憾なく発揮した差合嫌いの工夫だ。気分などで付ているわけではない。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 13, 2008

烹る事をゆるしてはぜを放ける

Db070510045_2

―世間虚仮― 初めて尽しの一年生

先週は月曜日-7日-の入学式に始まって金曜まで、晴れて新一年生となったK女のやや緊張気味の1週間をつぶさに観察。水曜日-9日-から早々と給食も始まっているが、食に偏りのある彼女の報告によると全部食べられたかと思えば次の日は殆ど食べられずといった体で、波の激しいこと夥しい。

給食のあと帰宅となるが、正門が家の前だというのに集団下校、20名位でぞろぞろ歩き出しては、いの一番に「さよなら」と角の信号で一団と別れるのが彼女を含めた何人か。

2時前には帰宅あそばすので、それから夜までの時間が長いこと。それでこのさい自転車乗りを克服させようと付き添ってやることにしたのだが、人一倍怖がりやさんの慎重居士もさすがに4日、5日と重ねてみれば、やっとどうやらこうやらバランスが取れるようになった。

まだカーブもまともに曲がれないような心許ないハンドル捌きなのに、昨日は歩けば20分はかかる保育園まで遠乗りを敢行、むろん母親が歩きながら付き添ってのことだが、この無謀ともみえるツーリングは、長い散歩に疲れ切った母親を尻目に、当の本人は意気揚々と無事ご帰還あそばした。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-30

   秋湖かすかに琴かへす者  

  烹る事をゆるしてはぜを放ける  杜国

烹-に-る、放-はなち-ける

次男曰く、名残の裏入、秋三句目。
湖上独り釣糸を垂れかつ琴を弾く隠士の付と読んでもよし、人物から観相を引出した対付と読んでもよい。しらべを変える弾琴の興を、釣った魚を放してやる興にうつして見合としている。沙魚-ハゼ-釣は隠士の楽しみだ。

「本朝食鑑」に「江都ノ士民、好事、遊嬉ノ者、扁舟ニ棹シ、簑笠ヲ擁シ、茗酒ヲ載セテ、竿ヲ横タヘ糸ヲ垂レ、競ッテ相釣ル。是、江上ノ閑涼、忘世ノ楽ミナリ。志和・亀蒙-シカ・キモウ、共に唐の隠士-ノ徒カ」とある。作りはただちに釈教ではないが、釈教を誘う旨い付である。

「清少納言の枕草子のもとづくところ也と俗伝さるる唐の李義山の雑簒の殺風景八事の中に、琴ヲ焼キテ鶴ヲ煮ル、といふがあり。それを俳諧にして、前句の琴とあるに因み、鶴を暇虎魚-ハゼ-とし、秋湖の気色に無風流を敢てせず、之を放ちやると滑稽に言へりとする方宜しからん。煮の字、意有りて下せるものの如し」と云うのは露伴だが、先に「琴かへす」を折角解明しながらそれが「虚栗」を踏まえた名古屋衆の持成-もてなし-の工夫だと気付かなければ、ここまで徒らな博捜に嵌ることになる。

「或は琴を弾じ或は魚を釣る。もと興に任せての事であるから、魚を釣っても必ずしもこれを煮ようとするのではない。そのまま又湖中に放ち去るのである」-穎原退蔵-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 12, 2008

秋湖かすかに琴かへす者

Kogeraten1

-四方のたより- コゲラ展と市岡写真クラブ展

写真は、小学校時代の恩師河野さんが老後の愉しみにしている木版画教室の年に一度の作品展「コゲラ展」で、会場も毎年同じの真砂画廊で本日最終日。夕刻終了まぎわに同窓の何人かと示し合わせ久し振りの邂逅をと目論んでいる。

もう一つ、市岡13期生の中務さんを中心に3年前から同窓会館を根城に集まっている市岡OBたちの写真クラブが初の作品展を開くというお知らせが舞い込んできた。どういう訳か同じ15期の輩が男女2名ずつ4人も参加しているらしく、私のところまで案内が寄せられたか。
此方は、来週の16日-水-から21日-月-までで、会場は地下鉄「南森町」駅そばのギャラリースペース「草片-くさびら-」。このギャラリーの店主はフォトクラブも主宰しているようで、どちらかといえば絵画や彫刻よりフォト・ギャラリーとして特化しているようだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-30

  三ヶ月の東は暗く鐘の声   

   秋湖かすかに琴かへす者  野水

次男曰く、「虚栗」に収める其角・芭蕉の両吟歌仙「詩あきんど」の巻には、
  詩あきんど年を貪ル酒債哉   其角 –発句-
   冬湖日暮れて馬ニ駕スル鯉  芭蕉 –脇句-

  詩あきんど花を貪ル酒債哉   其角 –花定座-
   春湖日暮れて興ニ駕ル吟   芭蕉 –挙句-

という起承転結の趣向が見られる。
その「冬湖」「春湖」の句主が「三ヶ月の東は暗く鐘の声」と問掛けるのなら、答は当然「秋湖」であり「かすかに」であり、さらに音声の転調の工夫だと案じている。
ならば五方で秋は西方にあたるということも目のつけどころだろう。

「琴かへす」は、むろん、琴の調べを変えるとしか読みようがない。「者」は「人」-三句前で遣っている-・「音」-前句の「鐘の声」ともつれる-を嫌う目配りの結果ではあったろうが、湖上から幽かにきこえてくる琴の音をさぐる風情が自ずと現前する韻字である。「虚栗」から一年、江戸新風の宗主を迎えて、野水のこの挨拶は佳い。

諸注、「中務親王と伊勢との贈答の歌
  あづま琴はるのしらべをかりしかばかへしものとは思はざりけり  中務親王
  かへしてもあすぬ心を添へつれば常より声のまさるなるらむ  伊勢
によりて、古き語のかへすといふを用ゐ、湖上にて琴を弾じ居れる者の、三日月の空に暮鐘の水を渡るを聴きて、時に応じ景に応じ、琴の調を改むる趣を云うなり」-露伴-

「湖上の清遊も早興も尽き夕の鐘も音づれ来れば借りし琴を返すさまにて、文人画などにあるべき図なり。秋の夕靄の模糊たる湖畔を童子に琴負はせつつ蒼茫と帰り行く人の遠くほのかに見ゆるさまを目に浮ぶるにて足る」-樋口功-

「かへすはただ安らかに掻き返すことと解して宜い。‥前句に鐘の声があり、ここに琴の音を出すのは些か煩はしい感がする。この句琴かへす音としないで、琴かへす者と言った所に、作者の細かな心遣ひがあることを見逃してはならない。即ちここには琴の音を言はずして、それを弾く人の姿を描いたのである」-潁原退蔵-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 10, 2008

三ヶ月の東は暗く鐘の声

51s2ctbjnl_ss500__2

―表象の森― サヴァン症候群の世界

「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。ほかの人にはわからない幸福感に。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出してもかまわないとさえ思うほどだ。
天国が降りてきて、私をのみこんでしまったのかと思った。神にたどり着き、神に触れたのだ。健康な人々は、これほどの幸福感があることを、私たち癲癇患者が発作の直前に味わうこの幸福感を、知りようもないのである。」

「恍惚の癲癇」と呼ばれもする非常に稀な側頭葉癲癇の患者であったドストエフスキー自身の発作体験を綴ったものだ。
数学者でもあった「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロルも同じ側頭葉癲癇を患っていたと考えられている。

映画「レインマン」のモデルとなったキム・ピークと同じ「サヴァン症候群」であり、「アスペルガー症候群」をも併症しているというダニエル・タメットの著書「ぼくには数字が風景に見える」は、ヒトに起こり得る脳異常の世界をまことに豊かに語り得ている点でだれにでも興味をそそるものがありお奨め本だろう。
冒頭のドストエフスキーの癲癇発作に関する一文も、幼い頃同じ側頭葉の癲癇発作に苦しんだ彼の、本書からの孫引きだ。

数字を見ると色や形や感情までもが刺激され浮かんでくるという彼のように、外界の刺激に対し近傍の認識領野で混線気味に連動するとみられる「共感覚」が超人的な計算能力や言語習得を生み出すといった脳内の不思議にも、最近の脳科学はかなり接近してきたようであるが、なにしろ140億の脳細胞からなるという複雑怪奇の脳内ネットワークのこと、そうそう容易くは解明されつくすものでもあるまい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-29

   芥子のひとへに名をこぼす禅  

  三ヶ月の東は暗く鐘の声   芭蕉

三ヶ月-三日月-

次男曰く、月の定座。夏-芥子の花-・秋の季移り。
李時珍の「本草綱目」に、罌粟-ケシ-は「花開いて三日即ち謝-お-つ」とある。「三ヶ月」の思付はたぶんこれだろうが、秋の三日月と白ゲシの一片とはよく似合う。

三日月は初魄-ショハク-とも云い、秋には新月の魄がとりわけよく見える。東は暮れ西はまだ明るいというのも秋の夕空で、折から、いずこともなく鐘声がこぼれるごとく聞えた、というのだろう。

「是、伸し句にして、芥子のひとへと云より入相のかねと附て、諸行無常のこころならん」-升六-
「此句ただ弦月暮鐘の景を叙するに過ぎねど、情趣幽曠、おのづから根塵心応時銷落の境をあらはすに似たり。前句とのかかり玄妙にして、如何にも精修幾年の衲子-のうす-の山寺の夕に立ちて忽然所得あるが如きさま見ゆ」--露伴
「妙句言詮-ゲンセン-を費すべからず。‥芥子の一重にこぼす風情の三日月の鐘にほのかに匂へる心地何とも言へず」-樋口功-
「前句はこれ色空一如と観ずる大悟の境地を拈-ねん-じ、附句はすなはち微茫の天地に諸行無常の鐘の声を聞く。日の間不即不離の情趣が相通ふを観取せねばならぬ」-潁原退蔵-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 09, 2008

芥子のひとへに名をこぼす禅

Db070509rehea194

―表象の森― ダンスの時間

先に引いた尼ヶ崎彬「ダンス・クリティーク」の終章「身体の時間-フレーズと引き込み」稿の結びとして「ダンスの時間」と題された一文があった。
複雑系や非線形科学いうところの同期現象、引き込み理論などに基づきながら、踊る者と観る者の間、「見る-見られる」関係に三様の位相を説いている。

「こうして舞踊を見る観客の身体は時間の観点からは三種類の喜びを見出すことになる。一つは引き込みによって舞台と一体となり、我を忘れて没入し陶酔する快感である。二つ目は観客の身体が予測する進行を踊り手がわざと外しながら、結局は寸法を合わせることで秩序が回復するという、スリルと落着感である。三つ目は踊り手の身体に決して観客の身体が同調できないにもかかわらず、観客は息を詰めてこれを追いかけ、そして追いつけないがゆえに未知の世界を垣間見たということに満足することである。」と記し、最後に挙げたような経験は稀にしか起こり得ぬとも追記している。

異を唱えるつもりでこれを引いたのではない。
「ダンスの時間」という表題に、数年前からロクソドンタで行われているContemporary Danceのプロデュース企画がそのものずばりこのタイトルで、成程あの洒落た名付けはこれから頂戴したものだったかと、河内山よろしくとんだところへ北村大膳、思わぬネタ噺に納得、ついでに書き留めておこうと思ったまでのことなのだ。

ロクソドンタの「ダンスの時間」は年に4回ペース位で開催されてきたようで、今月下旬で19thを数えるからもう5年近く続けられているのだろう。プロデュースの中心は上念省三氏。関西拠点のDancerのみならず東京方面からの出演もあるようだ。毎回4~5組の個人やグループがが出演しているから、常連組主体の構成とはいえこれまでに出演した個人・団体はかなりの数にのぼるだろう。近頃は夏にSummer FestivalなるDancerたちが一同に会するような特別企画も催され、大谷熾氏が主宰してきたDance BoxがFestival Gateを逐われるという災厄のあと、立地にも施設にも恵まれない東淀川の新しい拠点で立て直しを図っている現在、大阪のDance Eventを支える中軸的な存在となりつつある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-28

  あだ人と樽を棺に呑ほさん  

   芥子のひとへに名をこぼす禅  杜国

芥子-ケシ-
次男曰く、執成-とりなし-付である。婀娜びとを「芥子のひとへ」とはうまい。連れて、浮名--流す-を「こぼす」と遣ったのも成行とはいえうまい俳だ。古注に一休禅師などの俤と説くのが首肯できるか。

「夢ハ迷フ上苑美人ノ森、枕上ノ梅花花信ノ心、満口ノ淸香青浅ノ水、黄昏ノ月色新吟ヲ奈-いかん-セン」、
「楚台望ムベク更ニ攀-よ-ヅベシ、半夜玉床秋夢ノ顔、花綻ブ一茎梅樹ノ下、凌波-リョウハ-仙子腰間ヲ繞-めぐ-ル」、
晩年の愛人森侍者を詠んだ艶詩である。

露伴曰く、「前句豪宕狂逸の態なれば、一休如き不羈の禅僧のおもかげを仮りてここに点出したるなりと解せんことおだやかなるべし」、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 07, 2008

あだ人と樽を棺に呑ほさん

Db070509rehea123

―表象の森― 即興論:尼ヶ崎彬の‥

先だって図書館で借りたものだが、尼ヶ崎彬の「ダンス・クリティーク-舞踊の現在/舞踊の身体-」(勁草書房2004.02刊)を読んだ。近頃の舞踊評論家なるものがどんな視点から舞踊を論じているのか、一応知っておくのに若くはないとの思いからだ。
昭和22年生れの団塊世代で東大の美学・芸術科出身という彼は、主著に紀貫之以来の短詩形文芸に通底する美意識を独自の視点で読み解いた「花鳥の使-歌の道の詩学1-」「縁の美学-歌の道の詩学2-」などがあり、わが国固有の文芸へのアプローチから出発した人であるらしい。その彼がなにゆえ本来の道を些か逸脱したかのように90年代初頭から舞踊評論をものするようになったか、その辺の事情についてはよく分からない。よくは分からぬが、つかこうへい以後の80年代演劇ブームによく親しみ、90年代のContemporary Danceブームから舞踊へとその関心を転じたといった経緯が本書の中で綴られていたから、世代としては私などとごく近い人ながら、舞踊の評者としての眼は多分に時代のズレがありそうである。
書中、Improvisation Dance-即興舞踊-に関して論じた箇所-第2部「舞踊の身体」/「視線の中の身体」稿-を、長くなるが以下引用する。

(1)-「一人で行われる即興舞踊は、場合によっては憑依に近い作意の放棄に至ることもある。ふつう即興において身体の動きは無意識でも偶然でもなく、一瞬毎に次の動きが着想されている。ただしその着想は先取りされた目的から逆算されるのでもなく、統一的構成へ向かうのでもない。既に遂行された、つまり生成されてしまった動きをもとに次になすべきことが限定されていく。一瞬前には想像もしなかったものが、次の瞬間には必然として見えてくる。これを遂行すると、それを与件として次になすべきことが見えてくるのだ。もっとも与件として遂行された動きだけに頼るとき、生成されるものはたいていボキャブラリーの在庫の枠を超えず、変化に乏しいものになるようだ。では与件として他に何があるか。一つは自己の身体の内部に蓄積された-あるいは抑圧された-身体的記憶がある。それは精神分析における無意識のように、意識が把握している在庫ではないが、蓋を開けてやりさえすればパンドラの箱から飛び出した欲望のように身体の表面に現れるだろう。もう一つは身体をとりまく外部である。ダンサーが五官を研ぎ澄ませば、さまざまな刺激が身体を取り巻いているのがわかるだろう-この刺激を高めるために音楽家や美術家とコラボレーションすることもある-。身体は孤立した個体でもなく、世界に組み込まれた存在であり、いわば身体と世界との相互作用により刻々と新たな相が切り開かれていくのである。いずれにしても意識は明晰に保たれているが、その意識は自分のコントロールできない内部や外部と出会い、身体とともにそれに呼応し、次のステージを生成してゆくのである。このプロセスにおいては、いったん生成されたステージが、それでは対応できない刺激を内部または外部に見出し、生成されたばかりのものを自ら破壊して次のステージを生成することを繰り返す。この生成と破壊の循環にはまり込むとき、もはや身体に何かを演ずる余裕などありはしない。たださまざまな身体の誕生と死の繰り返しをさらすだけである。これが自由に行えるようになることが、古来武道で「融通無碍」「自在の境地」と言われるものかもしれない。」

(2)-「二人で行われる即興は、ダンサーにとっては前述のコラボレーションにおける一人の即興と似ている。外部刺激が音楽や空間などの環境であったものが、他者の身体になるだけである。しかしダンスとしては二つの身体があるためにまったく違ったものになる。というのも、観客にとっては、二つの身体で一つの作品になるからである。それは見るべき身体が二倍になるという足し算ではない。二つの身体を下位要素とする第三の身体が生まれるのである。それは二人のいずれとも異なる、四本の手と四本の脚をもつ、もう一つの生き物である。それは夫婦から生まれる子供に似ているかもしれない。部分だけを見れば確かに親のどちらかに似ているが、全体を見ればどちらでもない第三の人格であり、しかもその人格は両者の足し算からは説明できない。そしてどのような子供が生まれるかは、親でさえも予測も設計もできない。ダンサー二人の身体が互いに接触しているコンタクト・インプロビゼーションにおいては、ダンサー自身この第三の身体を感ずるときがあるという。二つの身体をもとに自己組織化してゆく新しい生命体の一細胞になったように感ずるのである。それは明晰な意識をたもちながら一種の憑依が行われている状態だと言えるだろう。このとき観客はダンサーの身体が何者かに「成る」のを見るというより、ダンサーを超えた第三の存在の誕生を見るのである。ダンサーたちはいわば両親となって、それを「生む」のである。生み出されたものを「作品」というのは適当ではない。それは必ずしも一貫して終演まで生きつづけるものではないからだ。むしろ二人の身体関係の中からとつぜん姿を現す第三の身体の誕生と消滅のプロセスこそが、私たちの眼にさらされている作品であるというべきだろう。」

(3)-「コンタクト・インプロビゼーションは二人以上でもできないことはない。しかし身体が余りに多数になるとき、即興の舞踊作品は困難になる-カニングハムは怪我をするといってやめた-。ただ観客に見せるための作品としてでなければ、これに近いものは現実にある。クラブやディスコやライブで。フロアでは多様なダンスが思い思いに行われている。独り音楽に没入してまわりが眼に入ってない者、グループで予め用意した振りをそろって踊る者、ひとよりも目立って会場の視線を集めようとする者。流れている音楽は一つだが、行われているダンスは統一がなく、スクランブル交差点のように混乱している。だが交差点を渡る一人一人に注目すれば、それぞれ明確な方向性を持っているように、踊り手たちはそれぞれの流儀をもって踊っている。しかもそれらは同じ一つのリズムに同調している。個々の身体は同じ「ノリ」の中でのヴァリエーションとみなすことができる。とすれば、その全体を一つの「作品」とみなすことはできないとしても、一つの生命体としてみなすことはできる。つまり個々の踊り手はそれと意識することなく、新たな身体を生み出しているのである-最近はこれを意図的に舞台に発生させる振り付け家もいる。たとえばフォーサイスや山崎広太-。もし踊り手がこれを意識すれば、その身体の群は明確なうねりへと収斂されていく。そこには自己組織化された生命体が立ち上がる。

(1)のSolo-一人-の即興に関してはかくべつ異を唱えるべきものはないといってもいい。敢えて唱えるとすれば一点、たとえ即興においても「統一的構成」へ向かいうるということだ。
ところが即興者がDuo-二人-となる場合を論じた(2)で彼の射程にある表象世界は、80年代に登場したContact Improvisationにきわめて限定されているようにみえる。そうならざるを得ないのも、舞踊-Dance-は身体による表象世界にはちがいないが、身体そのものにまで還元した地点から発想するゆえではないか。たしかに舞踊が成り立つには舞踊する身体をぬきにはありえぬが、それは身体図式であり、所作や身振り-Gesture-であり、動き-Movement-であって、身体そのものではない。
Duoの即興がContact Improvisationしか視野に入らぬ世界の狭小さが、(3)におけるように二人以上の場合を考えるとき、Trio-三人-による表象世界を捨象し、一足飛びに多-Mass-の世界を論じることとなり、群の一様性へと収斂してこざるをえなくなるのだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-27

   襟に高雄が片袖をとく   

  あだ人と樽を棺に呑ほさん  重五

次男曰く、「あだ人」は婀娜-なまめかしく色っぽいさま-人。「樽を棺に」と云ったところが興の気転だが、前句のはしゃぎを承けたまずまずの遣句である。はこびの見所は、「襟に高雄が片袖をとく」が自とも他とも読める作りを見咎め、打越と自他を分かったところにある。

前二句が同一人なら他・他・自、別人なら他・自他・自となるはこびである。仮に「あだ人と樽を棺に呑ほして」と作ればとたんに話は朦朧体になり、出口を見失ってしまう。

「揚屋の大騒ぎと附たり」-升六-、「前句とのかかり、解せずして可なり」-露伴-、「あだ人とにて前句の高雄がと眼眼相対せり」-樋口功-。句はこびの興ということが全くわかっていないようだ、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 06, 2008

襟に高雄が片袖をとく

Db070510117

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-26

  雪の狂呉の国の笠めづらしき  

   襟に高雄が片袖をとく   芭蕉

次男曰く、「高雄」は誤記か、それとも高尾をもじったか。高尾は江戸時代、吉原三浦屋の大夫職遊女の源氏名で十一代続き、諸大名などと浮名を流した者も少なくない。

「本-もと-興ニ乗ジテ行ク、興尽キテ帰ル。何ゾ必シモ安道ヲ見ンヤ」-子猷、戴ヲ尋ヌ-という「蒙求」にのせる話が、念頭にあったかもしれぬ。雪夜訪隠の興を云うなら前句ではなくここのはこびで活きる。偶興を登楼のそれに切替え、恋句に転じている。被りものが「呉の国の笠」なら襟巻は「高雄が片袖」だと位を見計って対としたところが工夫と云えば云えるが、じつは労もない即付だろう。芭蕉は燥-はしゃ-いでいる。

「唐にやまと、雅人に遊女の対也。扨-さて-附は高雄がかた袖をとく人も同じ雪見の風狂人と附て、‥かなたにも己れにひとしく曲-くせ-ものありて呉国の笠をうち著て風狂を尽す、雪見の物好なるべし」-升六-

「四望皓然の雪を賞し酒を酌むに当り、名妓の繍袖-シュウシュウ-を解きて襟巻とする豪華至極のありさまをあらはせるなり。前には津波を出して、仏喰ひたる魚に驚かされ、今はまた唐物の笠を衒-てら-ひて、高尾の袖に圧さる、荷兮も蓋-けだ-し及ぶべからざるを歎じたらむ」-露伴-、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

April 04, 2008

雪の狂呉の国の笠めづらしき

Db070510037

―世間虚仮― 子どもの今昔

まこと子どもというのは、遊び仲間を獲るとそのエネルギーは足し算どころか乗算的に溢れかえる。
いつもなら親子三人連れかあるいは私と二人だけで、独り遊びに興じるしかない蜻蛉池公園への遠征?も、昨日は隣のマンションに住む同じ保育園に通っていたユウマ君を誘ってのことだったったから、そのはしゃぎようは往きの車の中からして運転の邪魔になるほど煩いほどのものだった。

岸和田の外れ、府立の公園としてはめずらしく大型遊具の充実した広場をもつ蜻蛉池公園は、春休みとはいえ平日なのに昼近くともなると、家族連れや子ども同士、数家族のグループ連れなどでかなりの人出になる。

霽れたり曇ったり、時に風も強く、やや肌寒い感もあったけれど、あれやこれやと二人してたっぷり3時間をうち興じていたが、片やひとりっ子の女の子、他方は半年ほど前に女児誕生したばかりで、それまではずっと兄と弟の二人兄弟で育ってきた男の子、就学前の春休みの一日はどちらにとっても遠足気分で、しばらくは記憶に残るほどの愉しさだったに違いなかろう。

帰宅後、夕刊を開けば、写真入りの訃報記事が眼についた。「ノンちゃん雲にのる」の石井桃子、101歳の大往生である。この童話の発表は47年で、数年後にはベストセラーに。鰐淵晴子主演で映画化されたのが55年だった。

その映画を学校からの団体鑑賞で近くの映画館に行って観たのを想い出す。日本人の父とドイツ人の母とあいだに生まれたという混血の、天才少女バイオリニストでもあった、銀幕のなかの美少女ぶりは、もちろんまだ白黒の画面だったけれど、子ども心にも眩しいばかりの輝きがあり、小さな胸に強く焼きつけられたものだった。

松岡正剛も千夜千冊で「ノンちゃん雲にのる」を採り上げたその文中で、「ぼくはこの銀幕のなかの美少女に魂を奪われるほどに恋をした。‥しばらくは寝ても醒めても鰐渕晴子だったのだ。」と告白?しているが、当時、日本中の同じ年頃の子どもらがほぼ洩れなく文部省推薦として団体鑑賞で観たであろうのこの映画、その所為でご同様の想いを抱いた男の子が、日本中のいたるところ、どれほどの数にのぼったことか、といま振り返れば微笑ましくもあり、また矛盾するようだが恐ろしいような心地さえする。あの頃の子どもらは、戦後教育の画一的環境のなかで、かほどひとしなみに心の洗礼を享けていたのだ。

今も昔も、子どもの本質とは変わらないものではあろうが、その時代々々の刻印を帯びて、差違もまた歴然としてあるもの。就学を迎え、現在の教育環境のなかに組み込まれていく子どものこれから先、易きについては危険きわまりなく、かといっていかに棹さすべきか、これがまたとんでもないほどに難しい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-25

   晦日をさむく刀売る年   

  雪の狂呉の国の笠めづらしき  荷兮

雪の狂-キョウ-、呉-ゴ-の国

次男曰く、子を捨て差料を売る時世には傾-かぶ-いた風狂がかえって珍重に値する、と観相で付けている。「刀売る人」ではこうは読めぬ。

むろん、「笠は長途の雨にほころび‥、狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」の吟を手みやげに当地入りした客に対して改めて酬いた作りで、荷兮は、まろうどが既に「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」、「沓-クツ-は花貧重し笠はさん俵」-共に天和2年吟、虚栗所収-とうそぶいた御仁だと承知していて、一座の注意を促している。

拠所は「笠ハ重シ呉天ノ雪、鞋ハ香バシ楚地ノ花」-閔(ビン)の僧可士-というよく知られた対句で、「詩人玉屑」や「禅林句集」など当時活用された詩法便覧にも載っているものだ。

露伴は、晋の王子猷-シユウ-が嘗て呉の地に住したとき、雪夜の興にまかせて長途、戴安道を訪うたが、興尽きて会わずにそのまま門から引き返した、という故事を引く、「旧案を翻して、世に在る者の日蔭の友を雪に乗じて訪へるとしたる、これ俳諧にして、主人は肩寒く、客は心暖く、主人が紙衣の膝の頭やつれ、客が刀の鐺-コジリ-の簑の端に光るも見ゆるやう想はれておもしろし」と。

また樋口功は、「呉国の笠といふ既に僧可士の笠重呉天雪の芭蕉が使ひし名句もありて一節ありて聞ゆるなれば、それだけにても一廉-ひとかど-の句となるなり。‥前句の人が刀を売り酒に代へて饗せしと見るも面白きも、又押詰りて明日の米にも困り居る処へふと風狂人の訪れ来れる趣と軽く見るも可ならむ」と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

April 02, 2008

晦日をさむく刀売る年

Db070510118

―表象の森― Neurath's boat

7日の入学式まで、毎日通った保育園という楽園を失ったK女は、いやでも日長家に居なければならない。
彼女にとっては退屈このうえないことだろうが、この一週間はわが家で年老いた父との二人暮らしがつづく。
保母さん代わりの務めを課せられた此方も、これはこれで荷厄介なこと夥しいが、ときに諦めも肝心、のんびり構えて彼女に合わせてやるしかない。

「ノイラートの船」
ウィーン学派のO.ノイラート(1882-1945)が「アンチ・シュペングラー」(1921) で用いた比喩だという。
知の体系というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。
「われわれは船乗りのようなもの-海原で船を修理しなけばならないが、けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの-である」。

この比喩は、foundationalism-基礎づけ主義-を批判して用いられている。デカルトらの古典的foundationalismにおいては、ある批判不可能な土台となる命題があり、その上に建てられた体系-諸命題-も、土台から論理的に導かれているかぎり批判を受けつけないものとなる。
これに対し、ノイラートの船の比喩が含意しているのは、知の体系には土台は存在しないこと、また、全体が沈んでしまわないかぎり、部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であること。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-24

  捨し子は柴苅長にのびつらん  

   晦日をさむく刀売る年   重五

次男曰く、前句を晦日の掛払いにも困り果てた浪人の感慨に奪って、二句一章に仕立てた。解をもちいぬ遣句だが、「年」と治めた韻字留がうまい。慶安の頃から30年、泰平とはいえ、世相いまだかくのごとき年の瀬の感は一浪人の暮しにとどまらぬと云いたげな作りで、次句に興を誘いかける。仮にこれを「刀売る人」とでも作れば、はこびはとたんに痩せて窮屈になってしまう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

« March 2008 | Main | May 2008 »