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February 29, 2008

つゝみかねて月とり落とす霽かな

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―表象の森― 尾張五哥仙

芭蕉は、「野ざらし紀行-甲子吟行-」の旅で、貞享元(1684)年八月江戸を立ち、伊勢を経て、亡母追善のためにひとまず伊賀上野に帰郷、九月大和・吉野をめぐって、近江から美濃に入る。大垣の谷木因を訪い、十月初、同道して桑名に遊ぶ。別れて海路熱田に渡り、林桐葉の許に逗留、十月中・下旬名古屋に入った。
この芭蕉を迎えて、荷兮を中心に名古屋の蕉風連衆と興行されたのが「狂句こがらしの巻」を初めにおいた「冬の日-尾張五哥仙」-荷兮編、貞享2年春刊-で、「霽-しぐれ-の巻」はその第三の巻にあたる。

先の「狂句こがらしの巻」において、連衆については年齢を記したのみであったので、各々の略伝を参考までに記載しておく。
杜国-坪井氏、通称庄兵衛、御園町の米商。貞享2年8月、空米売買の罪に問われて領内追放となり、三河国保美村に謫居。同5年2月から4月末まで、芭蕉に随行して吉野・高野から須磨・明石に遊び、京で別れて保美に帰る。元禄3(1690)年歿、享年不詳-34歳説有り-。当時28、9歳か。「猿蓑」-元禄4年刊-に、「亡人杜国」として随行中の一句を入集。
重五-加藤氏、通称川方屋善右衛門、上材木町の材木商。享保2(1717)年64歳で歿。当時31歳か。
野水-岡田氏、通称備前屋佐次右衛門、大和町の呉服商。宜斎のちに転幽と号し、名古屋に町方茶道-表千家-をひろめた先覚者の一人である。元禄13年から享保元年まで、惣町代-今でいえば市助役-をつとめた。寛保3(1743)年86歳で歿。俳諧は「阿羅野」-荷兮編、元禄2、3年刊-を盛りとし、「猿蓑」に入集3句・歌仙出座1。当時27歳。
荷兮-山本氏、通称橿木堂武右衛門、桑名町の医にして業俳。「冬の日」に続いて「春の日」-貞享3年刊-、「阿羅野」と、所謂「七部集」の初三集を編んだ、尾張蕉門の中心人物。「猿蓑」入集2句。元禄5、6年頃から古風への志向著しく、一門とも離れ、晩年は連歌師となった。号、昌達。享保元年69歳で歿。当時37歳。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-01

  つゝみかねて月とり落とす霽かな  杜国

前書に「つえをひく事僅に十歩」と。
次男曰く、しぐれのひまに月の光がこぼれる、もしくは今にも零れ落ちそうなまるい月がしぐれの雲間からのぞいた、ということを発句に云い回せばこういう姿になる。「つゝみかねて」と字余りに理を立てたところや「月とり落とす」と作った見立の誇張に談林臭はのこるが、小夜しぐれに「霽」を当てたところに一工夫があり、加えて前書がよい。

「七歩ノ詩」「十歩ノ詩」という喩がある。早速の詩才について云うことばだが、「十歩ノ内」という、瞬時の変を表す含のある喩もよく遣われる。杜国の「つえをひく事僅に十歩」は、かつ降りかつ晴れるしぐれの迅速に適った吟興の催しを伝えんがためのものに相違なく、右の喩は二つとも合せて踏まえたものだろう。

霽はハレル、空合のはれることで降物の意味はないが、降りながらすでに霽れているのが晩秋・初冬に特徴的な雨の印象だと考えれば、「霽」は気転の当字である。尤も、小夜しぐれに目を付けたところはこの句の手柄だが、霽-シグレは杜国の発明ではない。芭蕉がまだ桃青と号していた延宝8年頃の句に「いづく霽傘を手にさげて帰る僧」が見られ、霽-シグレは、もみじを栬、ちどりを鵆、こがらしを凩と表記する類で、連俳好みの新在家文字の工夫と考えてよく、それもその頃に限って芭蕉が遣った字のようだ。

杜国は4年前江戸でのそれを目ざとく見覚えていて、さっそく裁入れ、以て江戸の珍客其人への挨拶としたものらしい。既に初巻-狂句こがらし-の興行で「野ざらしを心に」にと告げられて「しらしらと砕けしは人の骨か何」と作り、「秋水一斗もりつくす夜ぞ」-漏刻-と誘われれば「綾ひとへ居湯に志賀の花漉て」-大津京-と応じた男の機転は、霽月の取出しにも心憎いまでに顕れているだろう。

貞享4年冬、芭蕉が伊良湖にわざわざ彼の謫居を慰め、翌5年には吉野・須磨の行脚に伴い、「嵯峨日記」の元禄4年4月28日の条で「夢に杜国が事をいひ出して、悌泣して覚む」と慟哭の筆を以てその死を傷んだ人物の面目が躍如とする、と。

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February 28, 2008

廊下は藤のかげつたふ也

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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-36

  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て   
   廊下は藤のかげつたふ也    重五

次男曰く、挙句、一巻の祝言であるから、其の場に臨んでよどむことなく、浅々と付けるのが良いとされるが、言葉の骨組のない綺麗事でもこまる。

前句が落花を「漉」と作ったから、廊下に沿って藤の花の「影」がつたうと応じている。「つたふ」は湯上りの香を移したうまいことばだが-影映る、伸ばすなどではつまらぬ-、廊下沿いに藤棚を設ける作庭の面白さも予め知っていなければ出て来ない。因みに、一条兼良が編んだ付合手引「連珠合壁集」-文明8(1476)年頃成-には、「藤とあらば」として「廊をめぐる」も挙げている。藤は晩春の季だが、初夏にわたって咲く。前句を花じまいと読み取った、適切なうつりの付だろう。猶、匂の花から起す春は二句続きでよい、と。

「狂句こがらしの巻」全句-芭蕉七部集「冬の日」所収

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉  -冬 初折-一ノ折-表
 たそやとばしるかさの山茶花   野水  -冬
有明の主水に酒屋つくらせて     荷兮  -月・雑・秋
 かしらの露をふるふあかむま   重五  -秋
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき  杜国  -秋
 日のちりちりに野に米を刈    正平  -雑・秋
わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水  -雑 初折-一ノ折-裏
 髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉  -雑
いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五  -雑
 きえぬそとばにすごすごとなく  荷兮  -雑
影法のあかつきさむく火を焼いて  芭蕉  -冬
 あるじはひんにたえし虚家    杜国  -雑 
田中なるこまんが柳落るころ    荷兮  -秋
 霧にふね引く人はちんばか    野水  -秋
たそがれを横にながむる月ほそし  杜国  -月・秋
 となりさかしき町に下り居る   重五  -雑
二の尼に近衛の花のさかりきく   野水  -花・春
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉  -春
のり物に簾透く顔おぼろなる    重五  -雑・春 名残折-二ノ折-表
 いまぞ恨の矢をはなつ声     荷兮  -雑
ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉  -雑
 しばし宗祇の名を付し水     杜国  -雑
笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮  -冬
 冬がれわけてひとり唐苣     野水  -冬 
しらしらと砕けしは人の骨か何   杜国  -雑
 烏賊はゑびすの国のうらかた   重五  -雑
あはれさの謎にもとけし郭公    野水  -夏
 秋水一斗もりつくす夜ぞ     芭蕉  -秋
日東の李白が坊に月を見て     重五  -月・秋
 巾に木槿をはさむ琵琶打     荷兮  -秋
うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉  -雑  名残折-二ノ折-裏
 箕に鮗の魚をいたゞき      杜国  -雑
わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮  -雑 
 けふはいもとのまゆかきにゆき  野水  -雑
綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜国  -花・春
 廊下は藤のかげつたふ也     重五  -春

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February 27, 2008

綾ひとへ居湯に志賀の花漉て

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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-35

   けふはいもとのまゆかきにゆき  
  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て   杜国

綾ひとへ居湯-おりゆ-に志賀の花漉て-こして-

次男曰く、名残ノ折の花の定座、「匂の花」とも呼ぶ。
居り湯は釜で沸かした湯を、浴槽に樋で引きまたは汲移して遣うもので、下り湯とも云う。江戸時代に習俗化された行水は、さしずめ居り湯の一形態と見なせる。

句は「志賀の花漉て」と云っているが、志賀の宮-大津京-があったのは、天智天皇6年から弘文天皇元年までのの5年間で、壬申の乱によって廃都と化した。人麿や高市古人などの歌にも偲ばれ、後世、俊成がよみ人しらずとして「千載集」に選入した平忠度の歌、故郷花といへる心をよみ侍りける、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」-「平家物語-忠度都落」に話がある-によって、巷間さらに知られるようになった。云うなれば、志賀は旧都の代名詞のようなものである。

「志賀の花漉て」が事実であろう筈きはない、と気付くと俳言の趣向が見えてくる。居り湯には良水を遣うわけではないから、わかし湯を舟に移す前に塵を漉すが、「花」という季には「花の塵-花屑-」という遣方がある。花の座なら、只の塵も「花」に見える、という思付は俳になる。そしていま一つ、「志賀」と冠したのには、先に芭蕉が「秋水一斗もりつくす夜ぞ」と作ったからに相違ない。唐から日本に漏刻の法が伝えられた翌年、大津京は亡んだ。「志賀の花漉て」は、正客に対する、名残の花のみごとな挨拶だ。忠度の歌のことも、むろん、思い泛べていたろう。「綾ひとへ」は、いきなり読んでも何の用を暗示しているのかわからぬが、以下の部分が解ければ、湯帷子か漉布かのどちらからしいとわかる。前者と解しておく。そのほうが句にふくらみが出る。

はこびに即して云えば、妹が後宮に上ったのだと読んでもよいが、平凡な町家の姉妹でもよい。眉描きから戻り、肌着姿で簡単な行水を遣った、というごく日常的な暮しの一齣をたねに、夢はどのようにでも華麗に描ける。言葉の節々に染む女心が、かえってよく現れるだろう。空想裡の付に、人物や場所の特定は必要ではない。名残の花の座に及んで猶も謎めいた趣向を弄ぶなど、連句とは云えぬ。匂の花の座に典型的な「付」を以てした作りである。

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February 26, 2008

けふはいもとのまゆかきにゆき

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―表象の森― Turbulent Flow -乱流-

「大きな渦は、その勢いに力を得て
 ぐるぐるまわる小さな渦を含み
 その小さな渦の中には、これまた
 ひとまわり小さな渦がある。
 こうしてこれが遂には
 粘度となっていくのだ」 ――ルイス・F・リチャードソン

量子力学学者W・K・ハイゼンベルクは死の床で「あの世に行ったら、神にぜひとも聞きたいことが二つある。その一つは相対性のわけ、第二は乱流の理由だ」と。そして「神のことだからまあ第一の質問のほうには答えてくれるだろうと思うね」と結んだそうである。
乱流の理由など、神様のほうでも取るに足らぬと思し召して相手にはしてくれまい、とでもH氏は考えたか。
ことほどさように、20世紀前半の物理学者たち、その大多数にとって乱流などに時間をとられるのは剣呑にすぎると思われていた。

それにしても乱流とはいったい何だろうか?
大きな渦のなかに小さい渦が含まれているように、乱流とはあらゆる規模—Scale-を通じて起こる混乱のことだ。乱流は不安定であり非常に散逸的だが、散逸的とはエネルギーを消耗させ、抗力を生じるということである。
その乱流の起こりはじめ、つまり遷移のところが科学の重大な謎だった。

Strange・Attractor
これは現代科学の最も強力な発明の一つである位相空間という場所に住んでいる。
系のエネルギーは摩擦によって散逸するが、位相空間ではその散逸はエネルギーの外域から低エネルギーの内域へと、軌道を中心にひきつける「ひきこみ」となって現れる。
エドワード・ローレンツが作った骨組だけの流体対流の系は三次元だったが、それは流体が三次元の空間の中を動いていくからではなく、どんな瞬間の流体の状態をも正確に決定するためには、三つの異なった数-変数-が必要だったからである。
  ――参照:J.グリック「カオス-新しい科学をつくる」第5章-ストレンジ・アトラクタ p209~

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-34

  わがいのりあけがたの星孕むべく  
   けふはいもとのまゆかきにゆき  野水

次男曰く、一巻満尾まで二句をのこすのみで、次は名残の花の定座だ。あばれた句を作るわけにもゆかぬ。その女の行為を付伸ばして、表記も全部ひらがな書とし、やさしげに作っているが、妹の眉を描きにゆくという介添の思付が、話をけっこう面白くする。

荷兮の句はただちに恋句とは云えぬが、恋を呼び出す誘いがある。とすると、妹の方に恋の姿情が現れなければ、付が付になるまい。「わがいのり」とは、姉が自分ではなく妹の懐胎の兆を喜ぶ表現らしい、と野水の付は気付かせる。そう解釈すれば、太白の文才を欲しいという姉側の願、つまり荷兮の志も奪われずに済むわけだ。

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February 25, 2008

わがいのりあけがたの星孕むべく

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―表象の森― 伝承芸の型

奥村旭翠さんの筑前琵琶を初めて聴いてからすでに8年ほどを経ようとしているが、年に二度か三度、毎年のように聴いてきて、その弾き語りに耳慣れてしまった私には、このところどうしても一抹の不満を感じざるをえず、些かもどかしいような思いを抱いてきている。
昨日もまた一門の琵琶の会で聴いたのだが、その印象から自分なりに一つの結論めいたことをいえば、一昨年100歳の天寿を全うして逝去した山崎旭萃の場合には、明治末から大正期の筑前琵琶最盛期に修業したとはいえ、戦争を挟む昭和前半の冬の時代をくぐり、むしろ後半生に至って詩吟との融合を図るなど新生面を拓くといった試行を重ねたことを思えば、彼女にとって客観的な教科書-完全なる型-というものはなく、おのが感性を頼りに弾き語りの独自な世界を創りあげねばならなかった一面があったのではないかと想像しているのだが、その彼女のすでに晩年にさしかかった時期に師事した奥村旭翠は、筑前琵琶のあるべき教科書ともいうべきもの-語りと奏法の完全なる型-を思い描き、追い求めているのでなかろうかということであり、両者の生きた時代の違いとともに伝承芸の型に対する両者の姿勢に、微妙な、とはいえ無視できない、ズレがあるのではないかと思われてならないのだ。

たとえば歌舞伎なら、その伝承芸としての所作事や口跡の型は、それぞれ固有の肉体に宿っているとしかいいようがないだろう。ならばこうだああだといっても、なにがしかはその固有の肉体の刻印を帯びざるを得ないのだから、客観的な教科書-完全なる型-は存在し得ず、一定の公約数的なもの、もっと乱暴にいえば「あたり」のようなものともいえようか。
所作であれ口跡であれ、また唱法であれ奏法であれ、その型とは所詮約束事にすぎない。生きた肉体はその型に則りつつ芸の華を咲かせるもの。むろん小さな針の孔に細い糸を通すほどの精緻を極める型へのあくなき追究など要らぬではないかというつもりはさらさらない。ないが、おのれの感性を閉ざしてまで型に嵌め込むより、その型を破ってでも、逸脱してでも、おのが感性を解き放とうとすることも、また大切なことだろう。
むしろ伝承芸に生きようとする者にとって修業とは、時に型への執着と、時に型の破調へと、双方をたえず行きつ戻りつしながら、その芸が鍛えぬかれてゆくものであり、そうあってこそ固有の華がひらいてゆくものの筈だ。

奥村旭翠さんの現在-おそらくこの10年ほどの時期-は、自身の芸の錬磨と良き弟子を育てることが、表裏一体の作業として自覚しているのだろうと思われるが、その要請に対する過大な意識が客観的な教科書-完全なる型-への些か偏った傾斜となっているのではないか、とこれは門外漢の愚にもつかぬ杞憂にすぎないのかもしれないが‥‥。


<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-33

   箕に鮗の魚をいたゞき    
  わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮

次男曰く、前句の人の性別を知らせるために「わが」と冠し、仔牛を子宝祈願に引き移して作っている。コノシロは鮗の和訓で、もともと神饌魚である。また厄除の呪としては、夜間、覚られぬように明の方角へ-恵方-へ埋める風習がある。

コノシロならぬ「あけがたの星」を頭上に頂いて神仏に祈らせたのは、右の理由によるが、「わがいのり太白の星孕むべく」とは、作りたくても、作れぬところが味噌である。金星は宵の明星でもある。加えて太白は李白の字-あざな-だ。重出はできぬが-先に「日東の李白」と遣っている-、玉のような子を生ませたい本音は、李白にあやかりたい荷兮自身の願でもあるとは、連衆は容易に気付いた筈だ。個々の四季発句を切り捨て、歌仙五巻のみを以て、貞享蕉風の旗を尾張に挙げた男なら、さもありなんと肯かせる述志の句である、と。

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February 24, 2008

箕に鮗の魚をいたゞき

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―世間虚仮― 昨日、今日

イヤ、驚いた。今朝、新聞を取り込む際、眼に飛び込んできた一面トップ。
すでに日本では’03年に最高裁で無罪が確定したロス疑惑の元被告三浦和義を、ロス市警が逮捕、の仰天ニュース。
25年の時効がある日本と、時効のないアメリカ、属人主義の日本と、属地主義のアメリカという司法制度の違いと、同じ先進国たる法治国家といえども彼我の差違が浮き彫りになる。
この関連記事を載せる三面の一隅に、一審有罪で獄中にあった三浦被告は、当時過熱した一連の報道関係に本人訴訟も含めなんと530件の名誉毀損やプライバシー侵害訴訟を起こし、ご当人にいわせればほぼ8割に勝訴した、と伝えるが、事件以来マスコミの好餌となりつつ執拗に逆襲することでこれと同衾していくというしたたかな生きざまを示してきた彼のことを、われ関せずとはいえ、あまり知り合いなんぞにはなりたくはない輩だとは思ってきたから、すでに日本で無罪の確定した者が、事件のあった彼の地アメリカで有罪となるといった、世にも珍しいことが仮にもこれから起こるとすれば、この成り行き果たしてどうなるか見逃せないところだろう。

昨日は、幼な児が生後6ヶ月より通い続けた保育園の「生活発見の会」-昔なら学芸会-とかで、卒園を間近に控えて最後となる催しなれば、本人も朝早くから起き出して母親とともに意気揚々とお出かけあそばした。
私はといえば少しのんびりと朝の時間を過ごして後追いながら出かけたのだが、会場はもう保護者たちで満杯の状況。
以前の彼女なら、いざ本番ともなると異常緊張気味になってよく出演すっぽかしを喰らわせたものだが、ピアノの発表会など他人の飯(?)も経験してきた所為か、舞台へ上がるたびに客席のなかの我々に笑顔のサインを送っては些かハイテンションで歌ったり演じたりに興じていた。ひとり娘の成長をものがたるこの姿には母親もちょっぴり安堵の体で感慨深げ。

さて本日の奥村旭翠一門の琵琶の会。
連合い殿の演目を聞き逃す訳にはいかぬから、幼な児を連れて12時過ぎには文楽劇場に着。出番が少々早まったと見えて劇場に入ったらまもなく「筑後川」拝聴となった。いわゆる戦記物だけに相性の問題もあろうし、さらには仕事の忙しさゆえの稽古不足もあろうゆえ、少々こなれ不足とみえた。5年.6年と積み上げてきて、いまが肝心の成長期に差しかかって、昨年から今年へと、この滞留は辛い。
わざわざお運びいただいた谷口豊子さんと高居千登勢さんの両名と連れ立って一旦外へ出て暫時気分転換の芸談義。
他には、新家旭桜と高橋旭妙、そして最後の奥村旭翠師を拝聴。
三味線の名取りでもあったという旭桜嬢、演奏技術においては他の追随を許さぬ達者だが、従来は綺麗にまとまりすぎる語りに難があった。節にのせるとはいえ語りは語り、そこには横溢する気力が見えねばならぬ。彼女はやっとそんな語り世界のとば口に差しかかってきたと見えた。演奏の技巧はともかく語りにおいては旭妙嬢に一日の長がある。艶があり味わいがある。そこは山崎旭萃の直門であった旭妙と奥村旭翠の弟子として出発した旭桜との違いなのかもしれぬ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-32

  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに  
   箕に鮗の魚をいたゞき    杜国

箕-み-に鮗-このしろ-の魚をいたゞき
次男曰く、暮しの習俗を付け出して巧みに場の見定めをしているが、賤魚を頭に載せてはこぶ、という目付にまず俳がある。わざわざ海辺らしい趣向をもとめたり、コノシロを持ち出したりしたところ、「敦盛」を思い泛べたのは芭蕉よりむしろ杜国だったかもしれぬ。コノシロは子の代に通う。生長祈願の呪として昔から知られた魚だ。

「とぶらふ」人を旅の琵琶法師から村人-女だろう-に見替え、牛塚にコノシロを供えに来たのは仔牛安産-生長-の祈願のためらしい、と覚らせる工夫は、「平家物語」とはまた別のあわれがある。中-芭蕉-を振分に遣って三句の情を一変させた趣向はわかるが、「巾に木槿をはさむ」「箕に鮗の魚をいたゞき」は同意にならぬか。「箕に鮗をのせる蜑-あま-の子」とでも作れば、あきらかに輪廻である。「‥‥いたゞき」と連用形留めにして、次句に持成をのこした分だけ、きわどいところで救われているようだ。

「去来抄」に、「蕉門に同巣・同竈-どうそう-といふあり。是は前に作りたる句のいまた-鋳股-入りて作する句也。たとへば、竿が長くて物につかゆると言ふを、刀の小尻に障子がさはる、或は杖がみじかくて地にとゞかぬと吟じかゆる也。同じ竈の句は手柄なし。されど、先より生憎-うまれ-したらん句は又格別なり」。云うところはこの場合と少し違うが、言葉の考え方は同じである、と。

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February 23, 2008

うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに

Jyubyogenkintetsu

Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 死の贈り物-病原菌

図書館で借りていたJ.ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」-草思社刊-の上巻をざっと読み通したが、本書は世界史を習ったばかりの高校生にも充分理解がともなう平易な文体で書かれており、上下巻合わせて650頁といささか長大だが、いまどきの高校生にこそお奨めの良書といえそうである。
上巻の終章は、全4部構成のうちの第3部「銃・病原菌・鉄の謎」における初めの章として「家畜がくれた贈り物」と題されている。
前章や前々章において、羊や山羊、牛馬・豚などの大型草食哺乳類が家畜化されていった大陸間格差の事情を詳細に論じたうえで、それに伴いそれら動物由来の感染症-家畜からの死の贈り物-と共存しつついかに克服していったか、また、いかにしてそれら感染症の病原菌が旧大陸-ヨーロッパ-からアフリカや南北アメリカ、オーストラリアなど、或いは太平洋の島々に、どのように伝播されヨーロッパ支配の地球規模的な拡大をもたらしたかを詳述している。

「動物から人間にうつり、人間だけが罹るようになった感染症は、旧世界と新世界の出会いに影響を与えただけではなく、さまざまな歴史上の局面で結果を左右するような役割を演じている。ユーラシア大陸を起源とする病原菌は、世界各地で、先住民の人口を大幅に減少させた。太平洋諸島の先住民、オーストラリアのアボリジニ、南アフリカのコイサン族-ホッテントットやブッシュマン-が、ユーラシア大陸の病原菌がもとで大量に死んでいるのだ。それらの病原菌に初めて曝されたこれらの人々の累積死亡率は、50%から100%にのぼっている。たとえば1492年にコロンブスがやってきたときにおよそ800万人だったイスパニョーラ島の先住民の数は、1535年にはゼロになっている。1875年、当時のフィジー諸島の人口の4分の1が、オーストラリア訪問から戻ったフィジー人酋長とともにフィジー諸島に上陸した麻疹の犠牲になって命を落としている-大半のフィジー人はすでに、最初にやってきたヨーロッパ人が1791年にもたらした疫病がもとで死亡していた-。ハワイ諸島では1779年にクック船長とともに梅毒、淋病、結核、インフルエンザが上陸した。それにつづいて、1804年には腸チフスが流行した。そして、伝染病のちょっとした流行が次から次へとつづき、その結果、1779年に50万人あったハワイの人口は、1853年には84000人にまで激減してしまった。さらに、天然痘がハワイを見舞ったときには、残りの人口のうちの約1万人が犠牲になっている。」-P315~6-

50%はともかく100%-ゼロ-にまで到ったというイスパニョーラ島の場合などまったくもって驚きを禁じ得ないが、現在のアメリカ合衆国における先住民の人口比率が1%に過ぎないことと照らせば、限りなく100%に近い壊滅的打撃を受けた地域が大多数を占めるというのが歴史的事実であるようだ。
少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民たちにとってかわりその地を征服し支配していった要因として、よりすぐれた武器、より進歩した技術、より発達した政治機構を有していたというばかりではなく、彼らが家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌-とんでもない死の贈り物-が、彼らの意図せざることだったとはいえ、結果として先住民たちにもたらされたことが非常に大きかったわけだ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-31

   巾に木槿をはさむ琵琶打   
  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに  芭蕉

次男曰く、名残ノ折の裏入。景も情も、転ずるのに恰好の巡である。さいわい、秋三句のあとだから雑の句にも移せる。「琵琶打」の含みを取り出して無常を付けている。名残の裏に入ってまで俤さぐりは煩わしいが、たとえば、謡曲「敦盛」に思い及んだと考えてみてはどうだろう。須磨の浦の夕まぐれ、草刈男の笛の音を聞き咎めて敦盛の菩提を弔う蓮生坊-熊谷直実-を、「うしの跡とぶらふ」旅の琵琶法師に見替えれば、これは俳諧になる。いずれにしろ、この句作りは平家一門の滅亡と無関係ではなさそうである。琵琶の名手経正-敦盛の兄-が討死にしたのも一の谷だ。

「跡」がうまい。「夕ぐれに」が良い。「木槿」を一日の栄と読み取っていなければ、こういう言葉択びも出て来ぬ筈だ。第一、「夕ぐれ」が「月を見て」と差合になる。とりわけ感心するのは、先には野水の「郭公」を侘の実に奪い、今また、荷兮の「木槿」を無常の真に執り成した手際で、芭蕉という男の結庵と旅の生きざまを、したたかに見せられた気がする。「野ざらし」の途次、何処ぞで出会ったのではないか、と思わせるような臨場感のある句だ。

通説は、前句の「琵琶打」から平安前期の盲目の琵琶法師蝉丸に思い至り、その旧跡が「栄花物語」などに見える関寺牛仏の弥勒堂と同じところ-逢坂山-にあることに興を覚えた付だと云うが、牛塚の云伝えなど村々にある。ここも、名もなき牛捨場と考えて一向に差し支えない。むしろそう眺める方が風情になるだろう。「跡」が俳言だとわかれば、たまたま牛が一頭死んだらしい、と素直に読んでもよい、と。

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February 22, 2008

巾に木槿をはさむ琵琶打

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Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 流山児の楽道

小劇場運動華やかなりし70年代、「演劇団」を率いて全国を廻っていた流山児祥が、中高年の素人衆に「演劇で遊びましょう」と呼びかけて生まれた「楽塾」10年の歩みなど、生の体験記を聴く機会を得たのは、先週の金曜日-2/15-の夜、神戸学院大学の伊藤茂教授からのお誘いゆえだった。

毎週金曜の夜は、連れ合い殿が琵琶の稽古へと参じるので、いつも私は幼な児-愈々今春小学校入学だが-とお留守番と決まっており、外出するとなるとどうしても子連れの身となる。狭くて暗い小屋の中に詰め込まれるようにして2時間ほども芝居を観るなど到底無理なことだろうが、トークの席ならどうにか耐えられるかと思い、ながらくご無沙汰の続いたちょっぴり懐かしい心斎橋のウィングフィールドに出かけていった。

昨年10周年を迎えたという中高年劇団「楽塾」がとんな集まりでどんな活動をしてきたかは、その席で貰った資料とりわけ16頁だての記念パンフに年々の演目なども網羅されてあり、この冊子を見ればよく理解できる。
流山児のトークは、楽塾の本番舞台のビデオを選りすぐって紹介しながらのもので、どこまでも具体的、現場からの報告そのもので、だかろこそ一見に値し、拝聴するに愉しきものではあったが、彼がこの2.3年前に始めたという、高齢者劇団「パラダイス一座」に話題が及にいたって興は大いに盛り上がった。

昨年暮の12月、パラダイス一座の第2弾となった公演「続オールドパンチ~復讐のヒットパレード」は下北沢のザ・スズナリで10日間興業となり連日満員の盛況だったというが、ソリャ然もありなんである。なにしろ主演俳優は、失礼ながらとっくに此の世の人であるまいと思っていた、昭和12年の文学座創立当初から参加し戦後ずっと演出として君臨してきた戌井市郎センセイ、1916(T05)年生れというから御年92歳になられる妖怪の如き古老である。この怪事に遊び心を刺戟されたか我も我もと集った役者群・スタッフ群は多士済々にして豪華絢爛とも魑魅魍魎の世界とも映るから、このうえない祝祭空間の現出となろう。客を呼ばない訳はない。

流山児は「楽塾」や「パラダイス一座」を以て「楽道を見つけたり」というが、これまた然もありなん。
古来、芝居とは、河原者とは、道楽の極みである。
また、芝居とは、その時々、時代の申し子でなければなるまい。ならば、一介の市井の徒、無名のうちからこそ興るべきもの、それが正統というべきだろう。当節の如く役者の子がまた役者を志すなど例外と見るべきだし、能や歌舞伎のように子々孫々と受け継がれゆくものこそ異端とみるべきだろう。
未だ熟せぬ若年だろうと、不惑の中高年だろうと、はたまた遊行期を迎えた老年であろうと、無名から興るが王道であり、この道楽の極みこそおのが楽土ともなるものだ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-30

  日東の李白が坊に月を見て   
   巾に木槿をはさむ琵琶打   荷兮

「巾-きん-に木槿-むくげ-をはさむ琵琶打-びわうち-」
次男曰く、「槿花一日の栄」ということばがある。ムクゲは朝ひらいて夕にはしぼむ。どうしてまた月見などに取り合せたりしたのだろう、とまず思う。加えて、木槿は古来、初秋の季に一致している。一方、月は兼三秋ではあるが、「月を見て」といえば仲秋、とりわけ十五夜だろう。名月は二夜あるから、九月十三夜つまり後の月見とも読めなくはない。これなら晩秋もそろそろ肌寒い頃になる。

句は、約束に従って秋三句目、いくらなんでもこの季戻りは無茶だ。熟練の俳諧師がそれを承知で「巾に木槿をはさむ」と云うのなら、こだわり方に趣向も主張もあるに違いない、というところから読みが始まる。連句の面白さだ。

李白だけでは片手落ちだ、というところに笑があるだろう。といって、あからさまに杜甫を持ち出すわけにもゆかぬから、「飲中八仙歌」からもう一人を取り出した。
「汝陽ハ三斗ニシテ始テ天ニ朝ス、道ニ麴車ニ逢ヘバ口ヨリ涎ヲ流ス、封ヲ移サレテ酒泉ニ向ハザルヲ恨ム」。
汝陽王は、玄宗の甥である。手のつけられぬ呑んだくれのように読めるが、じつは玄宗が開元年間、最も深く信頼した賢王である。天宝9(750)年、いまだ壮年にして歿し、太子太師の称号を贈られた。その汝陽王が晩年、杜甫の良き庇護者であったことを、荷兮は知っていたのではないか。
若き日の汝陽王は騎射に長け、鞨鼓-両杖皷-の妙手であった。或時、玄宗は紅槿一朶を摘んで彼の帽上に挿して、舞山香を舞わせたが、これを打ち了えるまで花を落とさなかった、という故事が「開元遺事」などに見える。

杜甫の俤を探って、そのパトロンの若き日の故事に行きついたところに、俳諧師らしい心の動きがある。どうやら荷兮にとって「木槿」は趣向上欠かせぬ素材だったようだ。丸帽を頭巾か鉢巻-巾はもともと手拭状の布帛を云う-に、鞨鼓を琵琶に取替え、わざわざ木槿を挿ませ、弾奏を「打」と遣った思い付きは、風狂の工夫と云えなくはないが、「木槿」を実の季と読むには、夜通し月を見た翌朝のこととでも考えなければ、無理がある。

結局この「木槿」は「琵琶打」を平家琵琶の弾奏と面白く覚らせるための、隠喩的取り出し-槿花一日の栄-と読むしかなさそうだ。丈山遺愛の小楼で月を観るほどの風流人なら、相応しいのは雅楽ならぬ平曲だ、と解すれば肯ける。自他いずれとも読める前句の作りを、他と受け取って、琵琶という小道具のあしらいを以てした付で、むろん、嘯月楼に琵琶を持ち込んだと考える必要はない。
諸注いずれも、月見の宴の誰か、又は呼び入れられた琵琶法師と解している。それなら「木槿」を実と読むしかなくなる、と。

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February 21, 2008

日東の李白が坊に月を見て

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―世間虚仮― 大阪のホールがあぶない

昨日-20-、久しぶりに大阪市庁舎を訪れた。
行き先は8階の議員団控室、同行は大文連運営委員長の高田昌氏。
社会保険庁の外郭団体(財)厚生年金事業振興団が所轄運営するハコモノ「厚生年金会館」-西区新町-の売却が予定されており、今年9月以降のホール-劇場-存続が危機に瀕しているからだ。

この外郭団体が所轄運営してきた施設は全国に70ヶ所、みなウェルシティとかウェルハートピア、或いはウェルサンピアと称される宿泊施設をメインにしたもので、その内ホール併設は7ヶ所、札幌・金沢・東京・名古屋・大阪・広島・北九州の各都市にあるが、これらの施設すべて清算事業団である整理機構へとすでに移行しているというから、売却処分は時間の問題なのだ。

それぞれの都市にあってこれらのホールは、文化施設として中心的存在であったろうから、所在地の市民や文化団体のみならず、県や市の行政サイドをもすわ一大事と慌てさせた。札幌や金沢、北九州でも存続させるべく自治体による買取りを決めたと聞くが、財政破綻同然の大阪市は買取りなどとんでもないというわけで、希望の灯は一向に見えないままだ。

そんな騒ぎのなか事態逆転へ一縷の望みを託さんと動いてみた訳だが、少数与党で舵取りも思うに任せぬ平松新市長、はたして火中のクリを拾えるかどうか、ここ1.2週間が攻防のヤマだ。

それにしても、厚生年金会館ばかりでなく、中之島のフェスティバルホールは来年から改装工事のため5.6年は休館するというし、森之宮のピロティーホールは一両年の間に閉館とすでに決まっている。新大阪駅近くのメルパルク・ホール-郵政公社所轄-も近く消えゆく運命と聞く。

おまけに啖呵売の橋本新知事が、府関連の施設総見直しとぶちあげているから、ドーンセンターやエル・おおさかも危ない。
このままでは大阪市内の主要なホールは軒並み姿を消すことになりかねないが、これが暴挙でなくてなんだというのたろう。
大阪は文化不毛の地へと失墜して止まぬ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-29

   秋水一斗もりつくす夜ぞ   
  日東の李白が坊に月を見て   重五

次男曰く、二ノ折十一句目、名残の月の定座である。「秋水一斗もりつくす」夜長の情を尽せるものはどこぞにないか、と誘われて重五は、それは詩仙堂の添水だと云いたいらしい。丈山が創意を凝らした添水が、嘯月楼と共に、詩仙堂の風韻の目玉だと考えればこの作意はわかる。

石川丈山-寛文12(1672)年、90歳で歿-は木下長嘯子-慶安2(1649)年、81歳で歿-と並んで、近世隠士の手本として江戸中期頃までの文人の間で、特別もて映された。素人ばなれした作庭の妙も夙に知られていた-枳殻邸の庭も丈山である-。

「日東-じっとう-の李白が坊」とは、嘯月楼の俳言だろう。「新編覆醤集」の序文に、朝鮮の聘使が丈山を「日東ノ李杜」と称揚したことを伝えている。その「李杜」を「李白」としたのは、調子もあるが、「李白ハ一斗ニシテ詩百篇、長安市上酒家ニ眠ル」-杜甫、飲中八仙歌-からの気転に違いない。作者が杜甫だという点も目付だ。丈山が酒仙だったという聞えはないが、月見に酒が付き物ならこれは「秋水一斗」との容易な連想である。

また、楼を「坊」に見替えた思い付も、添水は僧都とも云うからだ、と考えれば俳が生まれる。「そうづ」は「そほど、そほづ」-案山子-の転訛だろうが、引水による仕掛が普及して、威-おどし-とは別に唐臼や遣水にも用いられるようになった鎌倉-室町期以降、添水の発明者を玄賓僧都-平安初期の興福寺僧-とする説がかなり広く信じられていた。

句はむろん俤の付だが、老丈山が嘯月楼で聞いた添水の「昼ト無ク夜ト無ク、遅カラズ駛-はや-カラズ、曲節度ニ中リ、心ニ適ヒテ以テ山潜ノ寂寥ヲ潤色スルに足ル」響きを偲びながら読まされると、なかなか俳言の利いた付である、と。

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February 20, 2008

秋水一斗もりつくす夜ぞ

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―四方のたより― 琵琶の会へのお誘い

今年も筑前琵琶奥村旭翠門下の琵琶の会が、この日曜日-2月24日-に例年の如く文楽劇場の3階小ホールで行われる。
生前は府下高槻市に在住した筑前琵琶の人間国宝だった山崎旭萃が逝かれてすでに2年。その直門の高橋旭妙をはじめ数名の高弟が奥村旭翠一門に加わるようになって、この琵琶の会の陣容は愈々充実の感を呈し、よくあるおさらい会とは一線を画する聴き処を備えるようになった。

我が連れ合いの末永旭濤、このたびの演目は「筑後川」とか。
建武中興の後醍醐天皇が征西将軍として九州に下らせた懐良親王を奉じた菊池武光ら南朝方4万の軍勢と、少弐頼尚を筆頭とする北朝方6万の足利勢が激戦をした、所謂「筑後川の戦い」に因んだ語り物。
この戦いの折、傷ついた菊池武光が刀に付いた血糊を洗ったという故事から筑後国「太刀洗」の地名が今に伝えられ、現在の福岡県三井郡大刀洗町とされる。

春弥生も近く、寒さもしだいにやわらぐ頃、
琵琶弾き語りに聴き入りつ暫しまどろむも一興かと、ご案内する次第。

<奥村旭翠と琵琶の会>
  2月24日(日)/午前11時~午後4時30分頃
  国立文楽劇場3F小ホールにて、入場無料

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-28

  あはれさの謎にもとけし郭公   
   秋水一斗もりつくす夜ぞ   芭蕉

次男曰く、天晴れな解きぶりだ、と映-はや-している。「漏り尽す」は「漏さぬ」があっての興らしい、と覚らせるところにまず俳がある。「水も漏さぬ」とは、もともと男女の仲から生まれたことばだが、後世、物事の攻守双義に遣われるようになると、とどのつまり、閉塞の状までゆきつく反語ともなる。とりなしの利くことばだ。

でたらめな謎をよくぞ解いた、と一応は前句に対する讃辞と読んでよいが、二進も三進もゆかなくなった場を、息の合った応酬で切り抜けたのはさすが尾張衆だと、杜国・重五・野水のはたらきを三つまとめにして、持ち上げる含みがあるようだ。
連句のはこびは、季を移すのに雑の句を挟む。但し、季節順か、季を他季もしくは雑の詞に執成せる場合は、この限りではない。「季移り」とこれを呼んでいる。とはいえ、春の鶯と並べて初音を待たれた短夜の鳥と、夜長もようやく深まった気配とでは、季節も端と端で、これで只順と云って済ますわけにはゆかぬ。「郭公」と「秋水」を寄合と眺めたそれなりの理由があるはずだ、と考えると趣向のたねが見えてくる。

「辺風吹キ断ツ秋ノ心ノ緒、隴水流レ添フ夜ノ涙ノ行」-大江朝綱-、
「三秋ニシテ宮漏正ニ長シ、空階ニ雨滴ル。万里ニシテ郷園何クニカ在ル、落葉窓ニ深シ」-張読.唐-。
前は、先にも引いた「王昭君」の一首-律詩の第二聯-、後は同じく「朗詠」の落葉題に「秋賦」として採る。共に広く愛誦されてきたものだ。胡地に連れ去られる女の怨嗟を、長安後宮の愁思と同じに語るわけにはゆくまいが、右の賦は、そっくりそのまま明妃の望郷の悲しみに当て嵌まる。

芭蕉が、秋風の漏刻らしきものを以て感究まる体に付を案じたのは、朝綱の「王昭君」に重ねて、張読の「愁賦」を自ずと思い浮かべたに違いない-三秋とは晩秋、宮漏は宮中の漏刻である-。違いあるまいが、水時計は中国から伝わり、天智十年に初設、平安末には既に絶えている。言葉の虚実にうるさい俳諧師が、季語の実体を伴わぬ「季移り」に満足したろうか、という疑問がのこる。「秋水一斗もりつくす夜ぞ」には、ひょっとして実体があるのではないか、と読み直させるところが、じつはこの句の一番の見所のようだ。君の「郭公」は謎解きのための止むを得ぬ虚辞だが、私の「秋水」はそうではない、夜長の情を尽す漏刻は今も猶あるから考えてみてくれ、というのが作意である。

この問掛けは重五が当然答えてくれる筈だが、たねを明かせば添水-そうず-だ。竹筒で山清水を受け渡してシシオドシとすれば、なるほど水時計の仕掛に似ていなくはない、と気付かせるところに第二の俳が現れる。因みに、添水は仲兼三秋の季語である。王昭君の泪の量をはかりながら-隴水流レ添フ夜ノ涙ノ行-、季情の「あはれ」を虚から実へ奪ってみせた手腕は、さすがと云うほかない。「一斗」という誇張も、昭君の泪から添水へと考えればわかる、と。

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February 19, 2008

あはれさの謎にもとけし郭公

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―今月の購入本―

中上健次「紀州-木の国・根の国物語」小学館文庫
小説ではない、故郷新宮を起点に熊野古道ゆかりの町や村を廻る叙事的エッセイ。初出は77~78年の朝日ジャーナル連載と一部他。

安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」ちくま学芸文庫
著者による芭蕉七部集評釈ものの決定版完本、講談社学術文庫上下本の「芭蕉連句評釈」を底本に一部訂正加筆され05年初版刊行。

S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」ちくま学芸文庫
訳は理論物理学者米沢富美子。要素還元論だけでは説明できない多くの複雑系に共通するキーワードは自己組織化であると、生態系、生命体、経済システム、技術系分野など、個々の要素の働きや相互作用が全く異なるシステムに共通するメカニズムを読み解く、99年日本経済新聞社初訳刊行の文庫版。

吉本隆明「情況への発言-1」洋泉社
吉本自身が主宰した雑誌「試行」の巻頭を飾った「情況への発言」を3巻に分けて全集成したその1で、1962年~75年を掲載。

乗越たかお「コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド」作品社
第二次大戦後からのダンス界の流れを大掴みに渉猟しつつ、近時のContemporary Danceに活躍するダンサーたちの顔ぶれを紹介。

広河隆一編集「DAYS JAPAN -アイヌの誇り-2008/02」ディズジャパン
パレスチナ難民発生60年を振り返る広河隆一の写真と文、アジアに蔓延するHIV感染状況などを掲載。

他にARTISTS JAPAN 52-土田麦僊、53-東郷青児、54-福田平八郎、55-村上華岳

―図書館からの借本―

S.ジジェク「快楽の転移」青土社
ラカン派の精神分析的手法で、芸術や思想における「女性」の立場の不定性を検証して権力と性的なるものの相関を明らかにし、現代の欲望のダイナミズムを解き明かす。95年刊。

J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄-上」草思社
著者は進化生物学者。はるか昔、最後の氷河期が終わった13000年前から、同じような条件でスタートしたはずの人類が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答は、地形や動植物相を含めた環境であり、本書のタイトルは、ヨーロッパ人が他民族と接触したときに武器になったものを表している。

鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-百済編」NHK出版
鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-新羅編」NHK出版

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-27

   烏賊はゑびすの国のうらかた  
  あはれさの謎にもとけし郭公   野水

次男曰く、「しらしらと砕けしは人の骨か何」、「烏賊はゑびすの国のうらかた」を合せの謎掛けと見て、「郭公」-杜鵑、時鳥に同じ-と解く、と付けている。その心は、王昭君だと云いたいらしい。

「あしびきの山がくれなるほととぎす聴く人もなき音をのみぞ啼く-実方中将」は、「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、白楽天ほかの詩聯七首-内四首は大江朝綱の律詩四聯-とともに見えるものだ。謎掛けの発端をつくった杜国の「しらしらと」が朗詠集満尾の歌の翻転なら、「ゑびすの国のうらかた」と続けられて、同じ集に「身ハ化シテ早ク胡ノ朽骨ナリ、家ハ留リテ空シク漢ノ荒門トナル」-紀長谷雄-、「胡角一声霜後ノ夢、漢宮万里月前ノ腸」-大江朝綱-という人口に膾炙した対句のあったことを、思い出さぬ筈がない。

前漢の元帝の世に、講話のため匈奴王単于の許に贈られて、呻吟、胡地に怨死した宮女の話は、「あはれ」なる主題の代表的なものとして平安朝以降、詩・舞曲・今様・歌留多などに取入れられている。
その「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、杜鵑の歌があったと思い出したのは、まずは自然な成行だったと思うが、さらに季詞の連想が働いたかも知れない。烏賊とほととぎす-初夏-を寄合の詞と見る理由は充分にある。二ノ折九句目、冬を挟んだ雑数句のはこびのなかに夏の句の一つも加えたいと思えば、ここよりほかにないことは誰の目にも瞭かだ-二句後に月の定座を控えている-。

野水の「郭公」は謎解きだけで生まれたものでもないようだ。とはいえ「和漢朗詠集」の「王昭君」がなければ、前二句の合せを「あはれ」と眺める興も浮かぶまい。発端-杜国-の作りを見咎めて、謎解きのたねも同じ「朗詠」に求めた気転が俳である。怪しげなイカの骨をとつぜん持ち込まれても手の出し様はないが、確かな出所がわかれば買える、と野水は云っている。うまい躱-かわ-し様だ。

作りは「あはれさの」で切れるとも、「あはれさの謎」と続くとも読め、これは留字の「郭公」が連句特有の投込として遣われていることとも併せて、兼用と見ておく。「あはれさの謎にもとけし-ことよ-、郭公-のあはれさは-」。「も」は強意の係助詞。「し」は助動詞「き」の連体形だが、終止に用いて詠嘆の語法としたものである。

尤も、古文の表記は通例、清濁の別を設けていないから、「謎にもとけし」は「とけじ」と、打消しの推量に読めぬこともない。ないが、この巻には先に、「たそやとばしるかさの山茶花」と、わざわざ濁点を付けた例-脇句-が出ていた。ならば、濁点の有無で意味が真反対になるような文脈のかなめは、表記どおりに読むしかなかろう。

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February 18, 2008

烏賊はゑびすの国のうらかた

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―表象の森― 長い冬

16日(土)の深夜というより昨日の未明というべきだが、この一週間ほどALTI Fes.絡みで少々疲れ気味の神経は読書に向かうほどの気力もなく、なんとなくTVのチャンネルを回していて、眼に飛び込んできたのが「スーパーチャンプル」とかいうStreet Danceを紹介している番組で、まだどこか幼さを残した雰囲気の少女二人組の激しくも達者な動きだった。どうやら「中学高校ストリートダンス選手権」なるイベントの一齣だったらしい。
番組はこの決勝戦の模様をオンエアしていたようで、出場していたのは3組のグループだが、私が観たのはその最後の組で、中学3年生と1年生の少女のコンビだったのだが、まだ大人へと育ちきっていない成長期にある彼女らの、その身体のキレ、動きの緩急のありかたは見事なもので、ちょっと惹き込まれるような感じでつい見入ってしまったのである。
勝敗の結果は、この少女たちが他の2組を圧倒して優勝、チャンピオンに輝いた彼女らは感激のあまり泣きじゃくるほどだった。
中京テレビ制作というこの番組は、これまでにも深夜の退屈しのぎのひとときを偶に眼にすることがあり、hip-hop系のStreet Danceが今の若い子らにどれほど滲透しているかについては相応に承知しているつもりだし、持て余すほどのエネルギー発散の対象としてはこういったsubcultureが恰好のものだろう。

思えば若い子らの表現型subcultureは80年代以降ずいぶんと大きく変わってきたようである。
いまやその最たるものが、お笑いであり、Street Danceのようだ。彼らは自己実現の方法として、かたや芸人をめざし、かたやhip-hopのDancerをめざす。
その流れはまだまだ続く、10年、15年くらいは大きく変転しそうにはない。

偶々、その日の午後、劇団「犯罪友の会」の武田一度君と電話で、演劇にとっても舞踊にとっても「冬の時代はまだまだつづく」と語り合っていた。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-26
  しらしらと砕けしは人の骨か何  
   烏賊はゑびすの国のうらかた   重五

次男曰く、うらかた-占形、占状、占方-の本義は卜兆のことだが、占の方法・人・材料などについても遣う。

古くは唐に亀卜、日本に太占-ふとまに-の法があった。夷国では烏賊-イカ-の灼兆を以て占ったかもしれぬ、ひとつ考えてみてくれ、というのが作意である。尾張のように海沿いの国なら、畑からイカの甲ぐらい出てきても不思議はない。ごく平凡で日常的なものを、野晒しよりも珍しげに取り上げてみせた思わせぶりが味噌で、もちろん、イカの骨を焙って卜兆にした故事など、何処にもないだろうと承知の上で作っている。

句はこびを売買に喩えれば、「人の骨か何」という貴方任せの謎を、吝-しわ-く仕入れて、色よく化粧して売るようなものである。真贋はお客さんが自分の目で確かめてくれ、謎が解けたら私にも教えて欲しい、とつけこまれれば買う方は悪い気はしない。この好心のくすぐり方は骨董屋の知惠だが、連句にも役立つ。互に気にかかる謎を間にして、売手・買手が顔を寄せ合う図は、おかしさとあわれがある。

句姿は幇間、埒もない遣句だが、しこりかけた座をうまくほぐしている。手柄はつね「人の骨か何」と作った前句の誘い方の軽さにもある、と。

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February 17, 2008

しらしらと砕けしは人の骨か何

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―表象の森- ALTIの競演<第三夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

-第3夜- 2/11 MON

◇Road ~みちの空~  -24’50”  -MOVE ON -大阪
  構成・振付:竹林典子
  出演:竹林典子、小平奈美子、山口香奈、家弓明子、竹中智子、戸島美季、北野万里子
Message
 Road 長く長く続く 終りのない道 時に流され 時に立ち止まる いつしか見つける myroad
私達は、いつからここにいるのだろうか?
遠い過去 巡る巡る 過去からの記憶 とてもあたたかい とても懐かしい あなたは誰? 私は誰?
ふと瞳を上げて空を見つめる 見えないもの 聞こえないもの 見えますか? 目を閉じて心で見つめると そこにいる私 ただ素直にありのまま受け入れる 大切な私がそこにいたから
Roadは続く 私の道を見つけて そらに向かって歩き出そう

<寸評> このグループを観るのは’06年につづいて2度目。
prologueを5人ではじめ、solo、solo、duo、soloとつなげ、lastに7人全員が思い思いの明日を胸に抱きつつこれからの長いroadを歩み出していくといったimageを、此所の舞台機構である段差を使って抒情あふれる絵にしている、と一応はいえよう。
Sceneごとに舞台の段差を変えていく演出はよく計算されており称揚すべきところだが、その反面少々煩わしいといわざるを得ない。これだけの機構があるなら一度それを駆使してやってみたかったというなら、それはそれでよしとしよう。だが、舞台の転換のための動きがつなぎとして生まれ冗長に堕してしまう落とし穴もあるのだから、演出上の必要最低限にして、こういう試みはこれっきりにして貰いたいものだ。

身体の使い方、動きのありようには好感のもてる素直さとのびやかさがある。だが動きの単位は小節ほどに短く、動きと動きのつなぎ方もたんに数珠繋ぎのものでしかなく、所謂切り貼り細工だ。もう少し息の長い動きの展開、動きの紡ぎ出しを可能にしていく研鑽を望みたいものである。

◇老犬と話す    -15’30”  -若松美黄 -埼玉
  演出・振付・作曲:若松美黄
  出演:若松美黄
Message
 愛犬のバロン君、18歳、肝臓に腫瘍、月に一度は病院通い。白内障が進んだか、段差にふらつく。このところ裏庭に狸が出てくる。「バロン見張ってないと狸が、裏口のサンダルを持って行くよ」。まだ逞しく吠えるが、痩せてきた。来春には千の風になるのかも?
物価高騰の年金生活。ダメ政府、ダメ企業!と怒る私も不器用な人生。
夕焼けだよ。散歩に行こうか? バロンと共有した18年か~。そんなひと時のダンス。

寸評> ほんとに犬と話しちゃったよ! というのが第一感、イヤ、驚きました。
戦後の現代舞踊を牽引してきた一方の雄たる73歳の身体が、遊び心もふんだんに、愛する老犬と語り合い、日常のあるがままの心象に身を泳がせていくさまは、虚心坦懐に胸打たれるものがありました。
されど、後進の身として願わくば、その短いsceneの重ねのなかで、若松舞踊における動きの骨法を、展開の論理を、ほんの少しなりとも覗き見たかったのだけれど、それはsoloゆえなのか、しかと覗えぬままに終ってしまいました。

◇Share   -22’00”  -n-chord -京都
  構成・演出・振付:蒲田直美
  出演:蒲田直美、長田直子
Message
  二歳になる双子の女の子が話してる。 「半分こ」「順番・交代-かわりばんこ-」「どうぞ~」‥‥
友達になるために最初に覚えたコト‥‥?
大人になって当たり前のコトだった。‥‥でもホントウに出来ているのかな???

<寸評> 舞台中央に小さな白いBox、イスともつかぬ、かといってオブジェというにはありきたりにすぎる。
左右に向かい合った二人の少女の手のみが、一条の光に照りだされて、動く‥‥それがprologue。
やがて少女たちは、反目し、諍いを繰り返し、離反、傷ついた孤独のなかで彷徨い、欠けた心を求め合う。
lsatにまたprologueのsceneに戻るが、むろんそれは成長した少女たちの姿なのだろう。

三夜の演目すべてにわたって共通にいえることだが、劇的構成の起承転結に照らせば、起があり承があっても転がないことだ、あるいは序がり急があるとしても、効果的な破がないということである。
20分の作品をいくつかの場面で構成するとすれば、主調音に対する反-主調音、「転」とも「破」ともなる場面を要請されようが、それがない、あったとしても弱くて成り果せていない。

それともう一つ、このグループなどには声を強めていわなければならないが、動きはimageの奴隷じゃないということ。先にImageありきで動きを引っ張り出そうとしても、そんなの大概つまらない。動いてみたその動きそのもののなかに偶然にも孕まれた、言葉になど言い尽くせぬimageを見出さなきゃ、固有の表現なんて、身体表現の可能性なんてないということだ。

◇白い夜   -20’40”   -河合美智子 -兵庫
  振付:河合美智子  音楽:O.Gplijof
  出演:張緑睿、宮澤由紀子、河合美智子
Message
 愛する人、何が起きたの? 私の目はたえず泣いている 
滅びたものを見下ろす高い崖の上で 時は過去を掬おうとむなしくめぐる
私には今日の自分がわかる でも、明日は何者になっているんだろう。

<寸評> ゆったりとしたBalladeとup-tempoな曲調が小刻みな交替を繰り返しながら、男と女2人のTrioが関係のvariationを繰りひろげていく。
Modern Danceを標榜するこの作者の振付は、動きを空間の軌跡へと展開していこうとする意志が明瞭にある。猫も杓子もの如きContemporary趨勢の現況にあって、この傾向は稀少に値するといえるだろう。

私がこの作者の作品を観るのはこれが三度目だが、そのたびに惜しいと思わされることは、形成されるひとつ一つの場面がかなり短いもので、次から次へと小刻みな展開に終始することだ。どんどん目先が変わるのだから退屈する暇もない代わりに、ざっくりとした強い印象を残さない。
おそらく作者の心の内では、流れるように繋がれる個々のsceneそれぞれに、意味づけなりimageが貼り付いているのだろうが、それが全体としてしっかり構築されてこないのである。20分余を起承転結の4場面、序破急なら3場面と、大掴みに捉える巨視的な作品への把握が必須と思われるのだが、今回もまたその壁を越え出ることは成し得なかったようだ。

◇I1 neige    -15’30”-   -MIKAバレエスタジオ -京都
  構成・演出・振付:丸山陽司
  出演:喜多智美、児島頼子、前田あずさ、平尾美由紀、秋山莉乃、伊藤宥香、西野実祐
Message
 かねてより、「雪」を表現してみたいと思っていました。
雪に縁遠い街で生まれ育った為か、雪を見ると胸が躍ります。
この作品に難しい意味はありません。ただ、「雪」そのものをイメージしました。

<寸評> 作者がMessageにいうとおり、「雪」なるものをimageとして追い、そのvariationを、Ballet-technicを駆使し、ひたすらsceneを重ねた習作といえる。
それにしてもDancerたちすべてToe-shoesを着用しなかったのは、どうした訳だったのだろう。Balletにしてはテンポの速い動きが次から次へと重ねられ、機敏で強靱な身体の切り返しが求められる動きの連続だったからかとも思ったのだが、それが決して功を奏していたとはみえない。ならばむしろ定法どおりToe-shoesを着け、その制約からくる動きの緩急を活かして振付けていったほうが、よい結果を獲たのではなかったか。

◇百ねずみ   -17’30”-  -セレノグラフィカ -京都
  構成・振付:隈地茉歩  演出concept:岩村源太
  出演:阿比留修一、隈地茉歩
Message
 深川ねずみ。利休ねずみ。銀ねず、白ねず、小町ねずみ。
この色に、百通りの名を付けるほど、日本人は恐ろしい。

<寸評> 三夜全体の演目のトリを務めたこのグループに対するコンテンポラリー・ダンス世界の認知のほどはすでに中堅の位置を占めているとみえる。
意表を衝いた新聞紙の多用、このモノとして存在のきわだつオブジェの効果は、この場合にかぎらず、底知れぬものがあるといえよう。
嘗て私もまた新聞紙を大いなるオブジェと化すまでに多量に用い、舞台全面を紙の海とも山とも化し、これを表象の場としたことがあるが、それはコンセプシャルアート華やかなりし’72年、すでに36年も昔のことだ。再びこのモノ、この手を使ったのはある演劇の舞台、ここでは演者たちの取り巻く世界を果てしなき荒野と化すに充分な効果をもたらしたが、これとて’83年のことだった。
ことほどさように、舞台に現前するオブジェとしてのモノは、繰り返し再生産され、新たな表象の世界に復活する。

さてこの作品だが、モノとしての新聞、オブジェの功用に惹かれて場面をつぎつぎと重ね、その存在が舞台全面を支配するまでに到ったとき、事の始まりよりすでに15分を過ぎていたか、壮大なる序章ともいうべき世界を現出せしめたが、そこへ架橋すべき身体の表象世界は未だ見ぬ課題として残されたまま、なかば無為に、なかば突然に、作品はそこで閉じられた、というしかない。
この試行による成功と失敗が、このグループの今後の作品にどのように係わるか、そこを見てみたいという期待はのこる。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-25

   冬がれわけてひとり唐苣   
  しらしらと砕けしは人の骨か何  杜国

次男曰く、朧化の狙い-「ひとり」-について思案をめぐらせた末、前句を「無理にもぬるゝ」人のあしらい-人物の二句続-と見定めれば、当然ここは場の付である。

「砕けしは人の骨か何」に「しらしらと」と冠したのは、先の「しばし」と同様、裁ち入れて証としたことを覚らせる暗示的手法だが、同じ「しらしら」でも梅花を手折る風流のすさび-和歌-と、白骨を拾う風狂-俳諧-とでは違う、と杜国は云いたいらしい。「雪月花」の真は、白尽しの花に迷う白頭翁ではなく、野晒しだと云いたいのだろう。そう読みほぐすと、この句にはもうひとつの作意が現れてくる。

「野ざらしを心に風のしむ身哉」、芭蕉が江戸を立ったのは同年-貞享元1684)年-8月だった。「紀行」の執筆は翌2年4月の帰江後のことだが、句はむろん行く先々で披露されていた筈で、杜国の作りは甚深なるもてなしでもある。場景を以て諷した、この付の狙い気付くと、戻って、荷兮-笠ぬぎて-・野水-冬がれわけて-二句一意の粋狂までも、なにやら「野ざらし」の俳諧師その人の姿に見えてくるから連句とは不思議なものだ。

俳の工夫は「人の骨か何」と謎のたねをのこしたところにあり、仮に「しらしらと砕けしは人の骨ばかり」「人のされかうべ」とでも作れば、珍客馳走の興など忽ち吹っ飛んでしまう。三句、只のしらけになる。「何」は次句に趣向一新をもとめるためのくつろぎの手立てには違いないが、はたらきはそればかりではない。

「唐苣」が「蕪菜-かぶら-」でも「清白-すずしろ-」でも、「独活-うど-の芽」でも一向に差し支えないような読み方をすれば、「ひとり」を朧化した面白さにも気付かず、ひいては人物の付と場景の付の見分けもつかなくなる、と。

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February 16, 2008

冬がれわけてひとり唐苣

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―表象の森- ALTIの競演<第二夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

-第2夜- 2/10 SUN

◇The Wheel of life, remade  -18’30”  -Oginos and Core -兵庫
  構成・演出・振付・音楽・照明:荻野佳代子-祐史
  出演:米田桃子、有井まりの、平屋有彩、有井はるか
Message
 そこにみえるのは私、知らないのはわたし‥‥
私はわたしではないのかな?

<寸評> Dancerとしての少女がふたり、そしてDancerとは未だ云えぬ幼女がふたり。
場面はAとBの二部構成。Aでは中央にイスが一つ、背景にはHorizontが使われ、少女の動きはシルエットが中心にはじまる、そこへ幼女ふたりが登場、上手から下手へ、また下手から上手へと歩くといった、別なる風景が挿入され、少女のシルエットの動きと交互に進行していく。Bではイスが二つとなり、背景は大黒幕へ変わる。音楽は電子音のnoise的音の連続。幼女たちと少女たちの交互に紡がれてゆく風景の積み重ねは、私には、過去と未来あるいはその反転とも見受けられたが、ミニマリズムを標榜する作者の意図はそのあたりにはないのかもしれない。
2年前のこのグループの作品には、7人の少女らが出演していた。これを照合してみるとこんどの作品の少女ふたりとは違い、7人はすっかり姿を消してしまったとみえる。たしか年長組が14歳だったというから、彼女らは高校生となるのを機にグループから離れたことになる。この事実は悲惨にすぎる。
素材としての少女の身体性をもって、作者の意図する表現の方法論が必ずしもmiss matchとはかぎるまいが、成長過程にある少女らの内面は、主体性をもってこれを選び取ろうとするとは到底思えない。悲惨な事実の問題の根は、グループが拠点とする三田という地の不利ばかりではあるまい。

◇月時計    -15’00”  -藍木二朗 -東京
  構成・演出・振付:藍木二朗
  出演:藍木二朗
Message
 月への祈りは遊び時。はるかなものになるための。
月への祈りは遊び時。それは月光で育つ時軸のはなことば。
月への祈りは眠り時。そして夜の子供がめざめる。
月への祈りは眠り時。子供は踊る、あの秘文字の楽譜を。

<寸評> ‘93年からSolo活動をはじめたというこの人は、mimeを主力とした表現者だ。その動きはどこまでも柔らかくしなやか、時にすばやく時にゆったり、流れるようにかろやかで、見せる芸としては達者なものである。
構成もまたsimpleそのもの、prologueとepilogueは舞台中央の仄かなサス明かりのなかで、身をくるませるようにして微かに動く。それは胎児のめざめとも、なにと知れぬ生物の呼吸とも云えようか。
問題は始めと終わり、閉じられたその円環性にあるとも云えるのだが、本領発揮であるべき10分余りのMovementの世界が、その動きの流れるような延々とした連なりとはうらはらに、imageの増幅が、造型性のふくらみや衝迫が一向に表れず、ひたすら卓抜な身体芸として賞翫するしかなく、円環のうちに閉じられるのもまた陳腐な見え透いたものと堕してしまうのだ。

◇象形図     -栗太郎とアルテンジャンズ -兵庫
  舞踏:栗太郎  三味線:重森三果  照明:大沢安彦
Message
 はじめからこわれているもの 
誰も居ない家‥‥魂すら消え去って 壁にはられた古いお札がゆれている 
台所の欠けた飯碗の中でアリの死骸が舞う カマドのうしろから病気の稲妻が立ち上がる

<寸評> 事情のほどはいっさいあきらかにされなかったが、出演者側の理由でこの日突然の出演中止となった。
この人の作品に格別の期待や思い入れがあった訳ではないが、結果として5作品の配列が些か冗長感を強め、不満の残る一夜となった。

◇まほろば -Complex’08-  -12’30”  -FUUKI DANCE VISION -京都
  振付・構成・美術・衣裳・出演:冬樹  映像:竹田雅宣
Message
 景色を見るように、風を感じるように、小鳥の鳴き声に耳をすますように
あなたの時間を私たちに下さい。砂のように時は流れ、風のように過ぎ去ってゆく。人の魂は時の集合体である。

<寸評> 結論から云えば、これは板の上にのせるべきではなかった。
背景のHorizontに映し出された映像はすべて冬樹の旧作のエッセンスによる編集、群舞などのショットの数々。その前を下手から上手へと、橋掛かりに登場する演者よろしく、そろりそろり思わせぶりな動きとともに歩いていく。背景の映像とこの登場の仕方の合成はモンタージュでもなんでもない、冬樹という私のただの履歴書であり、夢の跡形を追うしかない老いさらばえた者の現実の似姿である。
冬樹ダンス・ビジョンとして彼がものしてきた旧作の数々を直接知る訳ではないが、そのかれの前身たる出自を知る者としては、Messageとは別にパンフに、「動きが空間を創る」とか「動きを洗う」という言葉を弄し、ラバンや神澤の名を列ねるという尊大且つ軽薄な言挙げをしつつ、このていたらくとは言語道断、何をか言わんやである。
映像の消えたそのあとに、Soloらしき動きをする場面、これまた見るべきほどのこともなく、恣意的なままに時間だけが過ぎゆく。
見せられた世界は、ひたすら冬樹の私小説としかいいようなく終始した。

◇大原音日記 春の歌  -19’00”  -京都 DANCE EXCHANGE -京都
  構成・演出・振付:片岡重臣、植木明日香 振付adviser:山田珠実
  出演:乾光男、植木明日香、片岡重臣、北川道裕、藤井幹明、吉田輝男 演奏:青井彰、片岡重臣
Message
 大原音日記「春の歌」は片岡の亡き母靖子が2003年2月に本ホールで踊った人生最後となる舞台「春の歌」を題材に構成され、その後片岡が京都大原の自宅で母を偲びながら作曲した曲を中心に大原の春を表現しています。

<寸評> 身体表現には素人の中年男性というよりすでに初老男性と云うべき5人と、Ballet Dancerの女性ひとりで演じられたこの作品も、私小説的に発想された世界には違いないが、その構成は客観的なフィルターを通され、些か稚拙とはいえ一応の作品化がなされていた。
50年、60年と長い人生を経てきた個別の垢がこびりついた習慣的身体は、各々バラバラに固有の癖をもつ制度的なものであり、それをそのままに活かした開放的な表現を試みるならば、回転などのハレエテクニックを基礎にした振付はMiss match以外のなにものでもない。
彼ら自身がいきいきと開放的に、楽しく愉快に表現に遊ぶ動きの領域というものは別なところにあるのだ。明瞭にその視点をもって可能な動きの選択からはじめるべきだ。

◇Yurari    -15’00”  -舞うDance~Heidi S.Durning-京都
  構成・演出・振付:Heidi S.Durning  映像:八巻真哉
  出演:Heidi S.Durning  演奏:野中久美子-能管-
Message
春、竹が風にゆられ桜の花びらが風の中をゆらゆら優しく散っていく。
静けさ、美しい無、時間が止まる中ゆっくり思い浮かべる。 現実? それとも夢?

<寸評> この人の舞を観るのは’06年に次いで二度目。
下手に橋掛かり風の思い入れで段差を利用した能舞台の空間を作った。Horizontに映し出された映像は、自然風景の実写だろうか、雲の動きや地上の景色が超高速度で撮られたものか、焦点をぼかしたりさまざまな工夫で、カオスの世界のように揺らぐ。
音は前回のnoiseの強い電子音とはうってかわって能管だから、舞の世界と溶けあいつ、時に緊張を生み出す。
だが、この人の舞や所作、佇まいといったものに、初見の時に覗えた新鮮さはずいぶん遠くなった感がした。2年の間にこの舞手は、非常に繊細・微妙なところで大きく変容したのではないだろうか、それもよくないほうへと。
「舞うDance」というambivalentな要素を孕むnamingが、奇妙なbalanceを期待させるのにも係わらず、この日の彼女は、動けばどこまでも舞の人であり、あるいは能の居曲の如くそこに在りつづける人であった。
「舞うDance」から、Danceは何処かへ消え去り、隠されてしまった。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-24

  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   
   冬がれわけてひとり唐苣    野水

唐苣-トウチサ-南欧原産、アカザ科の越年草。夏菜の代表的なもので、解熱・消炎などの働きがあり、唐苣の粥は暑気あたりの良薬と云われる

次男曰く、句は、冬枯れを分けてひとり夏菜をちるちも、冬枯れをよそに夏菜ばかりが青々しているとも読め、其の人・其の場いずれの付にも解される作りで、どちらに読んでも、「無理にぬるゝ」を見咎めた滑稽の工夫だとはわかる。

わかるが、唐苣は畑に栽培するもので、野生ではない。野山は枯れても畑の青物にはむしろこと欠かぬ季節に、唐苣ばかりが畑にある、というのは有りそうで実際は無理な話だ。「語の理解より云えば。両解いづれも通ずれど、気味より云へば、ひとり唐苣の冬枯れ分けて存せりとする方を勝れりとすべし」-露伴-と、大方がまず考えたがるだろう云回しにちょっとした仕掛けがある。

ならば、「ひとり」下七文字の頭に表したのは、両義の間をとつおいつさせるための、意識的な朧化-ろうか-だと見てよい。結局は、ひとり冬枯れを分けて夏菜を欠き取る風狂の方に分がある、と覚らされることになるだろう、と。

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February 15, 2008

笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨

Db070509rehea109

―表象の森- ALTIの競演<第一夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

 アルティ・ブヨウ・フェスティバルの公募公演シリーズの三日間が無事終了し、私としては三度目の辛口評に挑む。
映画では監督、演劇では演出が、その作品を全体的視野で統轄するのを担うが、Modern Dance やContemporaryの世界では、なにゆえ構成・演出・振付と三題噺のようにみな列記したがるのか、以前から大きな疑問、というよりNonの思いを抱いてきた。嘗て舞踊劇とも訳されたバレエの世界ならいざ知らず、Modern Dance やContemporaryにあって、構成と演出の境界はいかほど明瞭に意識され、その仕事の領分を別しているだろうか。
私らの場合、動きのその殆どが踊り手の即興によるものであるから、構成上の一部決め事をした所為で、私を構成としたが、なにやらご大層に、一人をして構成・演出・振付と並べ飾り立てるのは犬の遠吠えにも似て、実体のない影法師のようなものだ。
だいたい、振付それ自身において、構成を孕みうるし、したがって演出をも規制し決定づけていくものだ。何人かの分業ではなく、一人の作業ですんでいるなら、振付の一言で万事すむ筈なのだが、どうしてこうなってしまったのか、不思議といえば不思議、奇怪至極なことではある。
今回出演予定の18演目の内、第二夜の一つが出演者の事情で休演となり、結果として17演目となってしまったが、これら一つ一つを評するにあたって、私自身今は踊る人でなくとも舞踊家に違いなかろうから、実践の徒として自身の舞踊の論理、方法論というべきものを当然有しており、明確にその拠って立つところから裁断するのを旨とした。したがって前2回に比べても、さらに辛口の度を増したかも知れぬが、そこはご容赦願いたいと思う。
   2006.02.15  四方館 林田鉄

-第1夜- 2/09 SAT 

◇KASANE Ⅱ-襲- TorioによるImprovisation Dance -21’30” -四方館-SHIHOHKAN--大阪
 構成:林田鉄
 出演:小嶺由貴、末永純子、岡林綾 演奏:杉谷昌彦 衣裳:法月紀江
Message
 春ならば桜萌黄や裏山吹や、秋ならば萩重や女郎花など、襲-かさね-の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象あるいは生々流転の心象曼荼羅を象る綴れ織りとも化そう。

<寸評> 自分たちの演目だから評という訳にはいかぬ。いわば後口上よろしくといった体で。
即興-Improvisation-というものは、つねに一回かぎり、けっして再現することができないのは自明のこと。ならば鑑賞に値する作品として成立するのかしないのかといえば、それが為される一回々々において成り立つ、たとえいかなる変容があろうとも。
この作品、21分余りを前半に8分ほどと後半に6分ほどを完全に踊り手の即興に任せ、prologueにあたる3分ほどと中盤あたりに4分ほどを、一応の決め事をし、いくらかの動きも固定させた。そんな次第で私が構成者を名告ることになる。
この日のRehearsalの前、控室で私は踊り手たちに二つばかりのダメ出しをしておいた。特にその一つは受けとめる彼女らにとって具体的で共通に理解しうるものだった筈だ。
そのRehearsalでは、このダメ出しが前半の即興においては見事に攻を奏した。「KASANEⅡ」の取組みをはじめてもっともよい出来、おもしろい空間造形が現出していた。しかし、後半においてはいつもながらの暗中模索といったレベルで此方の願う世界に達しないままに終始した。それは大きな課題を残す現在の踊り手たちの限界でもあった。
さて、本番の出来だが、Rehearsalで一度巧くあたりのついたことを、即興とはいえ踊り手たちはどうしても当て込むようにその意識をはたらかせてしまいがちになる。それが些か露わにはたらいた分、Rehearsalの前半の出来に達し得なかった。残念だが、即興であるかぎりこういうことはよくある。

◇幸せのロケット花火  -21’30” -山本 裕 -東京
 構成・振付・演出:山本 裕  演奏:杉本徹
 出演:石澤沙羅、加藤真愛、佐々木由美、萩原綾、福島千賀子、高橋純一、山本裕
Message
 そして僕らは生まれてきた
NEWSはほんの他愛もないBGM
幸せの‥‥ それはほんの少しの晴れ間から打ち上げる永遠の願い

<寸評> このグループみんな若いが、Dancerとしての表現力は個々それぞれにかなりの達者揃い。細部は個性を活かした振付であり、動きの連続は溌剌とのびやかでしなやか、評家諸氏がアクセスしやすい作品と云ったのは肯ける。
だが、短いSceneの積み重ねはいかにも叙事的、悪く云えば観念で描いたimageの羅列にすぎないのが構成上の弱点だ。ましてや、動きの紡がれかた、繋がりも手持ちのTechnic Essenceのたんに見映えのする羅列にすぎず、それらのJointは身振りやactionめいたものに頼るしかなく、タネが見え透いてしまう。
よって作品の構成としては、細切れのsceneをひたすら繋ぎ合わせ時間を延ばしていくのみであった。作者は、造形の内部に潜む論理、構成力といったものへの問題意識が欠如したまま作品づくりに対しているとしか思えない。

◇The Sun Song -23’00 -red sleep -京都
 構成:red sleep 演出・振付:Peter Golightly 
 出演:Peter Golightly、伊藤文、西村淳、相模純江、那須野浄邦、三國創
Message 
詩、ライブ演奏、ビデオアート、ダンス、そしてHuman Voice。
これらを通じてThe Sun Songは「時間、人生、愛、神と私達の関係を」見直します。
これら4つは同じ物ですか?本当に美しい物ですか?
本作は基本的な転回はあれど即興を多く含み、またこの作品を通じ、時に辛く、そして時に理想主義的な立場から私達と廻りの世界の関係を見直します。

<寸評> Messageにあるように「即興を多く含み」とはまるで見受けられなかった。Peter GolightlyはSingerではあろうがDancerとは評しがたい。彼の身体とその動きは厳しい表現の錬磨を潜りぬけてきたものとは到底思えぬ。それをしもPerformerというならばそれはそれでよいのだろうが、私はその価値を認めるわけにはいかない。
Duoの相手の女性はたしかにDancerではあった。その彼女とともに動いた振りは単純至極な基本のTechnicだったし、その他の動きは舞踏的ふるまいにすぎない。
「The Sun Song」とタイトルにあるように、この舞台での表現の主力は歌にあった。その生の歌と演奏はPerformanceとして臨場する魅力はあるが、これをフォローアップするべきDance sceneは底の浅い観念ばかりが先立つ空疎なもので、演奏ばかりがきわだっていた。

◇myaku -14’40” -much in little DANCE -静岡
 構成・振付・演出:鈴木可奈子+much in little DANCE
 出演:大石文子、鈴木可奈子
Message
 めぐる、めぐる。
違う毎日、違う景色、違う空気。確実なものなんて存在しない。
けれど、その気配はめぐりめぐってワタシの内側に、積み重なっている。

<寸評> 上手と下手に階段状の段差を90度角度を変えて配し、その前にそれぞれが板付きではじまるDuo。展開はMessageの言葉がそのまま当て嵌まるように進行するが、その表現は過剰でもなければその真逆でもなく、舞台空間は緊張も孕まなければ、意想外のことも起こらない。
いまどきの高校生や大学生のGroup DanceはContemporaryであれModernであれかなりのレベルだが、この二人、それがそのままに登場してきた感があるが、如何せんDuoであるがため、そうは問屋が卸さない。実際のところは’99年にグループ結成とあるから、10年近い年季が入っている筈なのに、この程度の試行錯誤をしているようではダメだろう。ショック療法が必要だ。

◇Pleasure    -20’40” -浜口慶子舞踊研究所 -大阪
 構成・振付:浜口慶子
 出演:森本裕子、服部まい、小幡織美、中島友紀子、奥山友希子、西村和佳乃、松尾侑美、浜口慶子
Message
 Pleasure -パラレルな風景-

<寸評> 大きく3つのsceneで構成された。初めに耳慣れたピンク・フロイドの名曲が流れたのには懐かしさのあまりびっくり仰天した。懐かしさのあまりとは、’75年の神澤作品「奴等がどうなったか誰も知らない」でも使われていた所為なのだが、あとの2つのsceneとの整合をみれば、どうしてもこの曲でなければならぬとは思えず、問題は残る。
二番目のDuo、似て非なるAとBが前後にparallelなままに、これまた似て非なるparallelな動きを重ねていく。その表現の位相のずれが見どころなのだが、これがなかなか巧妙に繋がれ相応に展開していくあたり、作者ならではの飄逸味もあり、なかなか愉しめる世界になった。欲を云えば、sceneの終盤でもう少し大胆な破調があれば、ぐんと面白く豊かにもなったろう。
2のDuoから3の群舞への展開に無理はなく、むしろスムーズに過ぎると云えよう。ならばこそ初めのsceneの群舞が、曲といい踊りといい、乖離が甚だしく、全体としては構成に破綻を来しているとしか云いようのないのが問題だ。

◇飛天舞 –Dance of a flying fairy- -11’30” -Oh regina Dance Company -韓国
 構成・演出・振付:Oh regina
 出演:Choi SugMin 外11名
Message
 韓国で基も古い鐘には空を飛びながら楽器を演奏する飛天像が描いている。
飛天像を蓮の舞、飛天舞に構成し、世界平和を願う作品である。

<寸評> わが国ならさしずめ平等院鳳凰堂の内壁に舞う52体の菩薩像か、韓国古典舞踊の飛天の舞は、両の手で艶やかな細布を宙に舞わせ、あるいはシンバルの如き鐘を打ち鳴らしては、ともに身体をくるくると回転させつつ飛翔をあらわす。優雅と云えば優雅この上ないが、単純といえばまた単純この上なく、ただ見とれているしかあるまい。
Prologueの男性Solo、身体のしなやかさ、その表現力もたしかなものであり、Dancerとしての魅力はあるが、その表現とは別次の、女性陣の群舞とまるで異なる世界に棲む孤独の寂寥が漂い、違和がつきまとう。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-23

   しばし宗祇の名を付し水   
  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮

次男曰く、旧ると降るを通用にして、雑の句を季に移した付である。前句に「しばし」とあれば、時雨-冬-は誰が考えても思い付く-「しばし時雨」と云い回した例は和歌にある-。それをわざわざ「北時雨」としたのは、前の相対付を謡曲仕立てと読み取って応じたからだろう。出所は、「山より出づる北時雨、行くへや定めなるからん」という謡曲「定家」の冒頭である。「これは北国がたより出でたる僧にて候」と、このあとワキの名告が続く。宗祇は先のほかにも文亀2(1502)年春、越後から美濃に入り、同年7月に箱根湯本で病没した-82歳-。

その宗祇に、世に名高い「世にもふるさらにしぐれのやどり哉」があることを知れば、荷兮の作意はいまさら説くまでもないようだが、工夫はむしろ上の十二文字の方にある。「手づから雨のわび笠をはりて、 世にふるもさらに宗祇のやどり哉-芭蕉」-虚栗、天和3年刊-。「手づから雨のわび笠をはりて」が面白く心にのこっていたから、そして今その人が、「笠は長途の雨にほころび」て風狂の席を共にしているから、「笠ぬぎて無理にもぬるゝ」と翻したのだ。「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗也」-虚栗跋-と云い放った俳諧師に対する、一拶の工夫である。美濃路ならともかく尾張名古屋で、北時雨などに常なら濡れたいと思わぬが、濡れずに治らぬ今日その場の成行が風狂の風狂たるゆえんだ、と読んでもよい。「方角や水をしらする北時雨-加慶」、加慶は荷兮の若き日の号である。北時雨は気に入った季語でもあったようだ、と。

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February 14, 2008

しばし宗祇の名を付し水

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-温故一葉- 竹田雅則さんへ

立春も過ぎお水取りの時候とはいえ今冬一番の寒波がつづくこの頃、
時節はずれながら、寒中お見舞い申し上げます。

年末から年始にかけ、この大阪はとうとう市も府も、舵取りの顔が替わってしまいましたネ。
これが果たして吉と出るのか凶と出るのか、両者ともにあまりに未知数な部分が多く、乱流-カオス-の如く予測し難いところへ、昨年来のサブプライムの暗雲がこの国の経済に影を落とし、いよいよ深刻さは増すばかり、まことグローバリズムとは、世界中を混沌の坩堝と化し、底辺への競争を加速するものでもあるようです。

それにしても、九条界隈の変貌もまた激しいものがありますネ。先日も偶々立ち寄る機会があり新道の商店街を歩きましたが、書店かっぱやは閉店、付近の店舗も様相は一変しており、些か驚きつつ往時の姿を偲んでおりました。

阪神西大阪線の難波延伸の工事も来春あたり完成とか、それに伴いドーム横には大規模店イオンが出店するとか、これらによって九条界隈にもたらす陽と陰の変様はどのような地図模様を描いてみせるのか、予想するさえ空恐ろしくもあり、想いの羽は却って懐かしき頃へ、過去へとばかり遡ります。

振り返れば、わが四方館が先輩より「九条おどり」への出演招聘を戴いたのは86(S61)年で、もう22年も経てしまいました。この折はたしか25周年の節目だったと聞きましたから、この名物行事もほぼ半世紀を生き抜いてこられた訳ですネ。

その「九条おどり」の歴史ひとつ紐解いてみても、戦前はともかく、戦後の九条の変遷を語るにおいてその象徴たるに相応しいものがあることを思えば、きっと先輩の脳裏には、近く50周年を迎える「九条おどり」の一齣々々が想い出のアルバムとして色鮮やかに刻まれていることでしょうネ。
  08 戊子 如月鶯鳴  

市岡高校で私の長兄と同年で8年先輩の竹田雅則さんは、九条新道の商店街にある老舗の洋服店「京都屋」の二代目。演劇部でも先輩にあたり、大学も同志社へ行かれているから、直かに面識はなかったが隠れた縁の糸は太かったともいえそうである。

初めてお目にかかったのは、もうずいぶん古い話だが、たしか神澤師の公演パンフの広告原稿を貰いに行った時で、私はまだ学生ではなかったか。神澤にとっては数少ない常連の広告スポンサーであり、その線で神澤と彼との師弟の間は細くとも長く紡がれていたようである。
したがって、神澤師とのお別れの会にも、奈良の自宅兼稽古場での一周忌の集いでも、彼と顔を合わせたのはなんら不思議がなかったし、お互い「ヤア、ヤァ」といった感じであった。

竹田先輩の強い推薦で「九条おどり」に招かれた際のPerformanceはなかなかの見ものであった。このイベントに決して似つかわしいとはいえぬ表現は、通りがかりの客衆にとってずいぶん途惑いもあったろうが、その意外性と衝迫力は、そんな思惑や通念を超えて強い印象を与えたようであった。
80年代半ばのこの頃、こういった街頭におけるPerformanceをあちこちの機会を捉えてはよくしたもので、20回近くを数えるが、「九条おどり」でのそれもそのうちの0一つ。
今は懐かしの一齣である。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-22

  ぬす人の記念の松の吹おれて   
   しばし宗祇の名を付し水   杜国

次男曰く、尾張の隣には、熊坂長範物見松と宗祇忘れ水-白雲水-という二つの伝説がある。前者は美濃国不破郡青野原、後者は同郡上郡山田庄宮瀬川のほとりと云う。発生は片や謡曲「熊坂」、片や、宗祇が東常緑から古今伝授を受けた因縁に拠るものだろう。常緑は郡上の領主東氏数の弟。宗祇が常緑から古今伝授を受けたのは文明3(1471)年、伊豆三島に於てだが、同年秋常緑の帰国に附いて山田庄にも赴いている。

評釈は、懐古の観相を作意とした故事の対付-ついづけ-と読み、地縁-美濃-による取合せだと説く。そうには違いないが、対という考の面白さは、仲を取持つ縁の巧拙によってきまるものだ。

杜国が芭蕉を承けて、目を付けた仲人は西行である。というよりは、謡曲「遊行柳」だと云ったほうが正しい。

「新古今集」夏の部に「題知らず」として挿入された一御障子歌「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ-西行法師-」を、那須郡芦野の朽木柳に結びつけて伝承流布させたのは、「遊行柳」という夢幻能である。

事情は、「義経記」鏡の宿-近江国蒲生郡-の盗賊噺を美濃赤坂にすり替えて、熊坂長範なる伝説上の人物を作り上げた「熊坂」の場合も同様であって、こういう、時代・風体友に適切な仲人を連れてくることなしに、「しばし」などというつなぎの言葉が出てきた筈もない。

宗祇の忘れ水は、西行の遊行柳に見込まれたから、長範物見松のヨメになることができるのである。

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February 13, 2008

ぬす人の記念の松の吹おれて

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-温故一葉- サンデー太極拳の仲間、玉瀬富夫さんに

 鶯鳴く立春とはいえ今冬一番の寒さが続きますが、如何お過ごしでしょうか?
メール拝見、イヤー、吃驚しました。あの雪降るなかをわざわざ京都までお運び戴いたとは思いもよりませんでした。私もずっと会場に居たのですがまったく気づかず、懐かしいお顔に接する機会を失し誠に残念、とんだ失礼を致しました。それにしてもほんとに久し振りのこと、遠路わざわざ駆けつけて戴きありがとうございました。

洋子夫人は骨折なされたとか、とんだ災厄に遭われましたね。それも背骨とは身体の要ともいうべき箇所、ましてや林住期を健やかに謳歌すべく、太極拳指導員の資格を取られていたと聞き、また指導に勤しんでおられたとも聞き、さぞ無念やるかたなきことだったでしょうに、お見舞いの言葉もありませんが、じっくりとご養生、リハビリにお努めなさいますようお伝え下さい。

それにしても懐かしい音信に接し、しばし往時のサンデー太極拳などの風景が蘇り、当時のみなさんのお顔がまざまざと脳裏をめぐりました。勝本さんご夫婦や渡辺さんもご壮健の由、折につけ仲良く顔を合わせる機会を持たれているようで、心和む思いが致しました。

春にはカンボジア・ベトナムへと旅をなさる予定とか、ご一緒なさるのは英会話のクラスメイトですか、いいですね。私もインドネシアのバリ島やシンガポールには行ったことがありますが、其方のほうへは残念ながらまだ機会を得ておりません。タイ・ビルマも含め東南アジア各国へもいつか行ってみたいものと思うのですが、はてそんな機会が訪れるかどうか、今のところ予測もつかないといったところでしょうか。

山頭火は時折とはいえ演じておりますよ。昨年は6月に明石の山手にある神戸学院大学に招かれ、200名近く集まったでしょうか、地域のお客を前に演じてきました。今年はまだ予定なしですが、ま、一生ものですから、焦らずじっくりと続けていく所存でおります。
いずれ懐かしいみなさんともお逢いしたいものですね、そんな折があるようでしたら是非にも声を掛けてください。
とりあえずお礼旁々。
  08 戊子 如月

泉北の晴美台に住んでいた頃、四方館「からだのがっこう」と名づけた活動のなかで、地域の人たちに呼びかけて、日曜日の朝のひとときを太極拳につどう、その名も「サンデー太極拳」なる講座を、82(S57)年の春から転出するまでの数年間を続けたが、玉瀬富夫・洋子夫妻はその開始当初からずっと欠かさず通ってこられた人である。その彼がどこででどう聞きつけたか、ALTI Fes.の第一夜に、わざわざ京都まであの雪の中を観に来てくれ、メールを頂いたのであった。

私自身の太極拳歴を云えば、この年の1月、楊名時指導の1泊2日の合宿にて簡化24式を受講したのがその初めで、同じ年の5月、大阪太極拳協会主催の講座で、中国から招かれた陳式の講師による48式を受講している。このときはたしか週に一度の4回のlessonだった。さらに84(S59)年の春、-染色家の千葉綾子の家族に帯同して台湾台中に10日間ほどの旅をした際、その滞在の間、羅彩文女史より個人指導を受け楊家太極拳64式を習得したくらいで、要するにバラバラのつまみ食いといった体なのだが、体技であれなんであれ技の修得をめざすには、師に付き従って習いつつ同時にこれを別の他者へ伝える作業、すなわち教えることを自身併行させるのが上首尾をもたらすもの、「習わば教えよ」が私流の実践哲学であってみれば、自身の太極拳習熟と地域住民との交流をひろげる目的で始めた「サンデー太極拳」であった。

この会は来るたびに100円也を場所代として納めるという形にした。それ以外にはなんの制約もない。こうすれば自由に出入りできる。来たいとき来れるときに来て汗をかけばよい。泉北に居住する中高年の男女が、多いときは50名ほどの賑やかさをみせ、少ないときは数名の日もあるなど、人の出入りはかなり激しかったが、一時間余ひとしきり身体を動かしたあとは、ぐるりと円座となってみんなで茶を飲みながらひとときの閑談となる、そんな集いが5年あまり続いたか。ふりかえれば懐かしい人々である。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-21

   いまぞ恨の矢をはなつ声   
  ぬす人の記念の松の吹おれて   芭蕉

「記念」は-かたみ-。
次男曰く、荷兮の句が掛け声の見栄なら、芭蕉の句は洒落た書割のようなものである。動・静の呼応を以てした軽口のはこびに過ぎないが、たかが書割作りに懐古の情を持たせたところがさすがである。

「吹折れし松に大盗の名を残し」もしくは「――松は大盗の名を負ひて」、とでも作り直してみるとよい。「記念-かたみ」と取り出し、「吹おれて」と据えた巧さがわかるだろう。
次句もおのずと興を誘われる、と。

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February 12, 2008

いまぞ恨の矢をはなつ声

Tadasunomori

下鴨神社・糺の森

―表象の森― 糺の森とALTI第三夜

日中は10度を越えて春到来を告げるような穏やかな日和だった昨日、三日続きの京都行はALTIに入る前にしばしのあいだ下鴨神社糺の森を散策。
上賀茂神社のほうへは昔行った記憶があるが、この年になるまで糺の森を歩いたことはなかったのでぶらりと立ち寄ってみたのだが、此方は出町柳から近いこともあって人出は多い。若いカップルのそぞろ歩きもよく見かける休日の黄昏ちかくだ。
一の鳥居をくぐったばかりの西隅には河合神社、この境内には大原の里に隠棲した鴨長明の方丈庵が復元され置かれている。一丈-約3㍍-四方のプレハブにも似た粗末なものだからいかにも置かれているとするが相応しい。
参道を歩いて二の鳥居あたりから東に糺の森へと入ってゆく。小さなせせらぎとしか云えぬ泉川の瀬音に、時折、烏の鳴き声が大きく谺する。もう少し鬱蒼とした森を想像していたのだが、やはり市街地の一隅である、思ったほどのことはないし、樹齢数百年の古木ばかりが森を成しているという感もしないで、些か拍子抜けの体だが神社境内も観て歩き小一時間ばかり時を過ごした。

ALTI第三夜の6演目は今期一番の充実を示した内容であったとはいえよう。
なにしろ、モダンダンス界にあって紫綬褒章-1999年-を受けたという大御所若松美黄氏が埼玉からわざわざのご到来でSoloを踊るというのだから、客席もまた一番の賑わいであった。
その紫綬褒章だが、昭和30(1955)年の栄典制度改正で新設され、その第1号が舞踊家石井漠であったとは、この際調べてみて知ったところで、ここに付記しておく。
アフタートークにおいても講評者5名が勢揃いし、関係者以外の居残り参加も多かったのは、これまた若松効果であろう。その若松氏を中心に話題はめぐり、終演後のたっぷり一時間余を和やかな雰囲気で終始した。
生前の神澤師が、当初よりこのFestivalのプロデューサーを任じてきた船坂氏に「若松美黄を招ぼうよ」と執心していたというエピソードを、幕間に彼から聞かされたのには些か驚きもしたが、成程、その踊りも為人も好漢、好々爺であった。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-20

  のり物に簾透く顔おぼろなる  
   いまぞ恨の矢をはなつ声   荷兮

次男曰く、「簾透く顔おぼろなる」に、間を隔て、朧化する作意を読み取って、掛け声の気合いを以て付入る趣向である。「いまぞ恨の矢をはなつ」はそれに見合った、荷兮好みの一曲節だが、「矢を放つなり」とも「放つとき」とも作るわけにはゆかぬ。「声」が句眼だ。

評注は口を揃えて、前句の女-上臈-を憎げな男-仇敵-に見替えて、此所で大いにはこびの転換を図ったと云うが、そうした物々しい作りは、やるならもともと折立の仕事で、次なる短句がうろたえて工夫すべきことではない。荷兮の句は、「おぼろ」を本来の用-雑の詞-に戻し、女にもてる男の横顔を憎さげに見遣ったまでの滑稽だ、と読めばよい。

前句の俤を見定めてかかれば-重五の仕立てのたねは一座に披露されたと思う-、名の縁で自ずと平氏を思い浮かべたというような他愛もない事が、ひょっとして「恨の矢」を思い付かせたかもしれぬ。それでもよい。きっかけと作意は別のものだ。俳は-思考や言葉の-成行にも生まれる、と。

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February 11, 2008

のり物に簾透く顔おぼろなる

Doumotoinsyoukoukyo

写真は堂本印象作品「交響」

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 堂本印象の世界とALTI第二夜

伝統的手法から抽象に到るまでドラスティックなまでにその画法を変遷させてきた日本画家堂本印象の美術館を訪ねてみた。
昨日は、前日の大雪とうってかわっての青天に誘われ、ALTIの第二夜を観る前に行きがけの駄賃とばかり立ち寄ったのである。場所は衣笠界隈、金閣寺と龍安寺の中ほどあたり、市内西北のはずれといった閑静なところ。

「芸術家の前におかれた画布のうちには、芸術家の手が任意に造型し直すことの出来ぬ唯一にして独自の美が先在して隠されている。そして、それは潜在せる造形の構造を辿らねばならぬほどに造形する人の意志を超えている。芸術家はこれを見ぬいて開発に専念すべきである。」
「芸術が大きく変革される時には、いつも現実に大きな恐怖がつきまとうものである。現実は自由ではなく不自由でさえあるが、この受難を媒介として無の底辺から立ち上がって、規制の執着から脱出することによって変革が完成する。」
「地上の形態を超えたる永遠なるものの美を、屈従と苦悩の伝統からではなく、抽象することによって、自由な公共芸術は生まれる。」-1963年-

などの言葉を遺す堂本印象-生1891-没1975-は、昭和27(1952)年初めて渡欧、約半年をかけてパリを中心にイタリア、スペイン、西ドイツやスイスなどを巡っているが、この旅は伝統的な日本画家印象にとって大きな転換点となったようで、その後の画法は具象から抽象へ、新しき造形へとあくなき変貌を遂げていく。
この日、彼のメルクマールともいうべき代表作の一つ「交響」を観ることは叶わなかったが、54歳で終戦を迎えた一日本画家の、その戦前と戦後における造形意志の変遷ぶりを垣間見ることはできた。
帰りに画集「堂本印象新造形作品展」-H17刊@1500-を求めて、館をあとにしALTIへと移動。

ALTIの第二夜は、北方舞踏派の出身という栗太郎作品が突然の休演で、5作品となったので、終演も予定より早かった。昨夜の睡眠不足と心身疲労でいささか鑑賞すること自体辛いのだが、演じられる各々作品も凡庸にすぎ不満がつのって不調に追い打ちをかける。
アフタートークの講評者の顔ぶれは、昨夜に引きつづく上念省三と古後奈緒子、加えて小林昌廣と樋口ヒロユキの4氏。

身体表現には素人の中年男性というよりすでに初老男性と云うべきか、その5人組とバレエダンサー植木明日香が演じた「大原音日記-春の歌」に対し、素人ゆえの動きのぎこちなさが異化効果ともなって衝撃的な新鮮さをおぼえたと総じて賞賛されていたが、いささか称揚が過ぎよう。
50年、60年と人生を経てきた個別の垢がこびりついた習慣的身体は個々バラバラに固有の制度的なものであり、それをそのままに活かした表現を試みるならば、回転などのハレエテクニックを基礎にした振付はミス・マッチのなにものでもない。そのミス・マッチが面白いのだと評されるなら何をか云わんや。嘗て身障者たちとの身体表現を7年もの間、いろいろと試行・模索しつづけてきた経験に照らせば、コチコチに固まった彼らの習慣的・制度的身体をそのままに活かしつつ、彼ら自身がもっと開放的に、もっと愉しく再生しうる動きの領域というものは別なところにあるのだ、ととりあえず云っておこう。

昔、神澤同門であった中村冬樹の12分ばかりのSolo作品も目を覆うばかりのものであった。冒頭に照らし出された映像が、驚くべきことに嘗ての彼の作品の数々、その群舞を中心にした舞台世界をコラージュしたものだったのだが、それを背景にしつつ、暗い舞台を下手から上手へ向かってゆっくりとなにやら蠢きつつも歩を進めてくるすでに初老の彼の肉体は、栄光と悲惨の過去と現在の写し絵、自身の履歴書ともいうべき私小説世界を剥き出しのままに顕わにしただけではないか。これをして「まほろば」と題し、また「Complex’08」と副題してしまう彼のセンス、思考にもズッコケてしまったが、自戒を籠めて云うならまこと無慚やな冑の下のきりぎりす、昔からの顔馴染みながら声をかけることさえする気にならず、早々に会場を退散、車を走らせ帰路についた。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-19

   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   
  のり物に簾透く顔おぼろなる   重五

次男曰く、ここから二-名残-ノ折に入る。春三句目。現代の歳時記は「朧」を春として扱うが、貞徳の俳諧式目「御傘」-慶安4(1651)年刊-には「おぼろげ、と云詞春にあらず、月を結ては春たるべし」としるしている。其の後江戸中期になって初朧・朧影など朧月の傍題とする作法書は現れるが、朧とだけでは雑の詞と考える解釈の伝統は江戸時代を通じて変わらなかったようだ。尤も、句例は元禄ごろから散見する。その多くは、取合せて春季とするか、全体の仕立てが朧夜を感じとらせる底の句である。

牛車か駕籠か、乗物の簾ごしに見た顔がおぼろに見えたということを、春と云うわけにはいかぬ。あきらかに雑の詞だが、春秋の句は三句以上続くという連句の約束に照らせば、この「おぼろ」は季として一座の承認を取り付けたことになる。
「簾透く顔」は「蝶はむぐらに」の、「おぼろ」は「鼻かむ」のうつりである。後の方は誰でも容易に思い付く連想だが、前は、葎の蝶とは花そのものではなく花の面影の表現だ、と詠み抜いていなければとても思い付かない。簾ごしの顔は花のかんばせだ、とさとらせるように作られている。

仕様は、「鼻かむ」を見送りと見立てた、あしらいの付で、駕中のむ人はむろん貴人、葎の「蝶」と見られる人物である。作意は別離の無常にあり、見どころはその駕中の人を女ならぬ男とした意外性で、身分も下居の尼よりも一段摺上げて高貴の人らしく匂わせている。

打越以下三句のはこびだけを取り出せば、「簾透く顔」はごく自然に女人と読めそうだが-古注以下そう読んでいる-、そうではない。季の句が双方の折にまたがるという、気分転換の難しい巡にたまたま当たってはいるが、名残の折立-初句-を趣向の一つもない只のあしらいで逃げるようでは、連句などやる資格はあるまい。人物や舞台を見替えてはこぶならここは一巻中絶好の箇所である。失意と懐旧-「蝶はむぐらに」-を女から男に奪って、それらしい俤の一つもさぐらせる話ぐらい、設けてあるに違いないと気付かされる。それはまず、光源氏の須磨流寓を措いてはほかにないと考えるのが、常識ある古典の読みというものだ。除名されて退京の余儀なきに到った直接の原因が、じつは朧月夜君-弘徽殿女御の妹-との密会だったということがこの付句には、したたかな俳として利かされている。

そう読める。「おぼろ」は、「鼻かむ」の語縁で情緒的に思い付いただけではないのだ。二句は、この巻で初めて出てきた俤らしい俤の工夫である。「鼻かむ」は源氏の退去を悲しむ人々で、とくに誰某と考える必要はない。

折立のはこびにきて、源氏と朧月夜との出会いが春なら-花宴-、六年後の退京も春-須磨-という程度のことに、これは私も含めてだが、どうして気付かなかったかと思う。不思議である。
「逢瀬なき涙の川に沈みしや流るる澪のはじめなりけむ」、退去にあたって源氏が朧月夜の許へ、余所目を憚って届けさせた消息だ、と。

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February 10, 2008

蝶はむぐらにとばかり鼻かむ

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

―表象の森― 雪降るなかのALTI第一夜

本州の南海上を低気圧が通過した影響で近畿も東海も大雪に見舞われた昨日-9日-、大阪もこの冬初めての積雪で大坂城も雪化粧となったが、よりによってALTIの本番の日にとはネ。

10時頃から降り出した雪がますます勢いを増してきたので、名神が通行不可にでもなったら大変とばかり、12時半から出ようとのんびり構えていたのを急遽変更、慌てて出かける支度をして車を走らせたのが11時半過ぎだった。
吹田を過ぎたあたりから雪はいよいよ勢いを増してきて、京都南を降りれば古都の街並はもうすっかり雪景色だった。

雪の京都に降り立つとなんといってもまず想い出すのは、遠く40数年も昔の同志社受験の日、2月のやはりこの頃だったろう、その日も大雪に見舞われ電車の足はかなり乱れた筈だが、私の場合、たしか今熊野のあたりだったか、身分不相応にも前夜から京都に宿泊していたから、その影響はからくも免れたのだった。

夕刻近くなっても雪は降りつづき勢いは衰えそうもない。他の出演グループたちのゲネプロの進む合間を縫って、わざわざ京都まで観に来てくれるという知友たち数名に、ダイヤの乱れなどで開演の間に合わないではまずいと電話をかける。こういう時、出番がイの一番というのは気を揉ませられて叶わない。

われわれ四方館のゲネプロが始まったのはほぼ予定どおりの4持30分過ぎ。その始まる前に2、3のダメ出しをしておいたのが攻を奏したか、21分余りの踊りきりで、前半部分の即興はこれまでに見られぬよい出来だったが、已んぬるかな、後半の即興が相変わらずいただけない。それも大きな不満だが、もっといただけないのが照明の作り。一昨日のテクニカル・リハで初面識の照明スタッフと打合せをしたのだが、「この人、ウチの踊りが判るのかしらん」とよぎった不安がものの見事に的中、どうしてもゆるがせに出来ないポイントの4箇所だけに絞って注文をつけておいたが、肝腎の本番でも最後のアカリが決まらぬまま幕を降ろす仕儀となって、さすがの私もカッとばかり頭に血が昇った。四十路、五十路としだいに角が取れ円みを帯びて、六十路となってまあるくまあるくなった私でさえ、こんなに熱くさせる御仁は、そりゃとてもプロとはいえませぬ。

韓国の古典舞踊を最後に演目の6作品がすべて終えたあとは恒例のアフタートークだが、今年は模様替えして舞台と客席でそのまま引き続いて行われた。船阪義一氏を進行役に、コメンテーターは上念省三氏と初お目見得の古後奈緒子女史の三人が舞台に、客席には出演関係者以外にも居残り参加の観客がちらほら。観客にとっても分かり易く「ダンスの観方」といった視点から6つの作品にそれぞれ言及しあう-私の場合は出品作の構成について自身で解説させられる羽目になってしまったが-ことほぼ一時間を費やして9持40分頃終了。

急いで帰り支度をしてやっとALTIをあとにしたのはとっくに10時を過ぎていたが、雪はもうすっかり止んで心配された路面の凍結もなにほどのことはなくスムーズな走行で、午後11時半無事帰宅。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-17

  二の尼に近衛の花のさかりきく  
   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉

次男曰く、「諸説明らかならず」-七部通旨-と既に錦江も云うとおり、読みようが有るようで無い句。つまり遣句である。はこびは初折の末ではあるが、芭蕉ともあろう俳諧師がと思いたくなる。

数句、というよりこの巻は発句以下、とりわけ作に作を設けた展開で運んできたから、ひとまず挙句-一巻成就の句-の体を以て、穏やかな折端-初折末の句-の詠み様としたらしいと気がつく。ならばこれは前句に寄り添う体の作りだろう。

先の二つの解の前をとれば、「鼻かむ」のは二の尼で、葎-むぐら-にとまる蝶は、「近衛の花のさかり」を尋ねた人つまり下衣の尼の現況である。さびれた御所の噂ではない。連句のはこびは間に只答えるだけでは進まぬが、話を摩り替えて、相手の身上を慰める、もらい泣きすると打返しに作れば輪廻は避けられる。下位の人の華やかなりし女官時代を思い出させて答えとする体に、芭蕉は作っている。この花の面影の遣いようは巧い。「蝶はむぐらに」と云いさして二の尼に絶句させたところも、転じの工夫である。むろん、慰める人自身の感慨もそこに映る。

遣句とは逃句ではなく、前句の作りに立ち向かう-向付-の心意気の一つもなければ遣句にもならぬ、という好例。
連句の要諦は、連想の範囲をむしろ限定したがる相手の用辞を見据えて、いかにしてその緊縛から上手に逃れるかに尽きる。芭蕉が晩年、「軽み」の提唱にたどり着いた意味はまさにそこにあるのだ、と。

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February 09, 2008

二の尼に近衛の花のさかりきく

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

四方館-SHIHOHKAN-の出演は、愈々今夕。
「KASANE Ⅱ –襲-」 TrioによるImprovisation Dance
   構成:林田鉄/演奏:杉谷昌彦/衣裳:法月紀江 
   出演:小嶺由貴、末永純子、岡林綾

春ならば桜萌黄や裏山吹や、秋ならば萩重や女郎花など、襲-かさね-の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象あるいは生々流転の心象曼荼羅を象る綴れ織りとも化そう。

-世間虚仮- 340億円→26億円

大阪市の土地信託事業で破綻した新世界の「フェスティバルゲート」が26億円でとうとう売却されることになった。
落札したのは韓国系企業で、この施設を商業施設として再開発するために韓国の複数企業が出資して昨年6月に設立された「FESTIVAL PLAZA APP」という開発会社だという。
当初建設費は300億円とも340億円ともいわれた施設が、市有地14,000㎡とともに、26億円で露と消える訳だ。

入札の予定価格はたった8億円という査定だったから、26億円というのは予想外の高値ともいえるのだが、4200坪余の土地を坪単価61万円ほどで売却することになるのだから、既存の建物をそのままにリニューアルするという計画がかりに失敗、頓挫したところで、買い手の韓国企業にとってはたいした痛手にはなるまい。

そもそも8億円という入札予定価格は、素人考えながら私はてっきり、建物のみの価格で、土地の方は市有地のままに賃貸借するものとばかり思っていたのだが、豈図らんや、取り壊すとなればあの頑丈なる構造物、多大の費用がかかるものとて、それを減殺しての査定だったのかといまさらながら吃驚している。
千代﨑のドームなどに続いて、これで一つの大きな泡が、完全に藻屑と消え去るわけだが、まだまだ多く問題の泡を残している大阪市のこと、解決の道のりは果てしなく遠い。
それにしても、なんという結末、なんという災厄。
行政のしでかした罪過だけに始末が悪すぎる。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-17

   となりさかしき町に下り居る   
  二の尼に近衛の花のさかりきく  野水

次男曰く、初裏十一句目、花の定座である。はこびは、秋三句のあと、雑一句で挟んで春。

「二の尼」は、「となり嶮しき町に下り居る」という句作りに釣り合わせて思い付いた、いわゆる「位」取りのことばだが、いきなり「二」と取り出した興が気になる。下居の人は一の尼だとさとらせたいのかもしれぬ、と思う。下居ということばは天皇の退位から女官などの宿下がりにいたるまで、広く遣う。重五の句は身分も男女別もことわっているわけではないから、この取り出しは工夫になるだろう。一の尼が、尋ねて来た二の尼から、花だよりに言寄せて御所の近況を聞く、と読めば話になる。

意想外の展開はその次だ。「賢し」は、「栄え」「盛り」と同根の言葉と考えられ、「源氏物語」には「さかしき世」、「蜻蛉日記」にも「己-兼家-がさかしからんときこそ」と遣った例が見える。「嶮」から「賢-口さがない-」ら引き移させるのが前句の注文だと承知していて、躱して「盛」を取り出す芸は並の気転ではない。偶々、花の座にあたっていたからこそ思い付いたことには違いないが、野水は原義を知っていたのかもしれぬ。成行で生まれた言葉の面白さかもしれぬ。別に物の盛りの話を聞くなら「一」ではなく「二」から聞きたい、というひねりにも滑稽がある。

別解。下居の人を二の尼と見て、話を聞きたがるのは町娘たちだと解釈することもできる。この方が、「嶮」を「賢-口さがない-」に読み替える意図は自明だが、前句の注文にはまった分だけ、花の座を「さかりきく」と作る面白さは無くなる、と。る

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February 08, 2008

となりさかしき町に下り居る

Daisannonou

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 皮膚は第三の脳?

皮膚には第三の脳ともいうべき未知の思考回路があり、生物にとって最も重要な器官とさえ云いうると、資生堂ライフサイエンス研究センターの主任研究員を務める傳田光洋氏が自説を開陳する「第三の脳」-朝日出版社刊-は、たんに外界から分かつだけにすぎぬとみられる皮膚から捉えなおした人間観・生命観がずいぶんと刺戟的で興味深く読める。
著者の説くところを本書の終章にあたる「第6章-皮膚から見る世界」-p176~-から以下適宜引用すれば、

進化の過程において、ヒトの皮膚と同種の基本構造が現れるのは、両生類から爬虫類にかけてであること。
ヒト皮膚の原型はカエルの皮膚に認められる、といえよう。
爬虫類になると、角層は鱗に変わる。
爬虫類が成長に伴い脱皮するのは、その角層細胞が、カエルなどの両生類やわれわれ哺乳類に比べて、極性の強いリン脂質でできているからだ。
鳥類では、爬虫類の鱗あるいはヒトでいう角層は、羽毛に変わる。鳥類の皮膚そのものの構造は、角層のあるヒトあるいは哺乳類の皮膚に近い構造をもっている。
哺乳類では、鱗は毛に変わる。毛根には脂腺が付属し、毛に脂質を付着させる役割を果たしている。

-スキンシップが先か言語が先か-という問題
ヒトの顔-三木成夫の「脱肛」説
ヒトの顔は、魚類の口腔の内側が外に捲れ出したような形で形成される。譬えれば「脱肛」のようなもの-とこれは三木成夫「脱肛」説なるものだが-、その平面状の顔に、視覚や聴覚、味覚センサーが配置され、端には聴覚センサーが並ぶように集約される。
「顔に毛がない」理由は、感覚四種-眼・鼻・口・耳-が集まった場所で、もう一つの感覚「皮膚感覚」を高めるため、ではなかったか。
「はだかの理由」-「ヒトは全身を顔にした」-ヒトは毛をなくしたことで、スキンシップ-肌の触れ合い-という新しいコミュニケーション手段を獲た。スキンシップによって、ヒトは進化の新しい階段を一歩上がったのではないか。
有毛のヒトの祖先が、いきなり衣服をまとったとは考えられない。まず、裸でも生存できる温暖な環境で、ヒトは全身の毛を失ったのだろう。そしてその代償にスキンシップという新たなコミュニケーション手段を獲た。そして高度な組織性を獲得したヒトは、他の動物たちより優位な立場を得た。さらに環境に敏感になったヒトは、次第に生息域を拡げ、寒冷地を目指したものは衣服を発明し、さらに新しいコミュニケーション手段として言語も発達させた。
言語の定義を「適切な音声を使い分けることによる同種間コミュニケーション」と広義に解すれば、哺乳類はおろか鳥類にさえも見出しうるものである。しかし、皮膚刺戟によるコミュニケーションは、霊長類において頻繁に認められるもので、このためには細かな皮膚への刺戟に対して手の機能の発達が欠かせない。
広義の「言語」より「肌の触れ合い」によるコミュニケーションのほうが、動物全体の進化の過程では新しいに違いない。

―生体の非因果律―について
シュレディンガーによれば、生体は環境から負のエントロピーを取り込み、正のエントロピーを放出して内部環境の秩序を維持しているシステムである。
ブリゴジンの開放系の熱力学では、エネルギーや情報が出入りできるシステムのなかでは「自己組織化」が生じる、すなわち無秩序から秩序が立ち現れる。ここでも因果律は成立しない。
因果律の支配する閉鎖系と異なり、生体におけるような開放系システムでは因果律は成り立たず、その内部環境では、逆因果律とでいうべき現象、すなわち未来が過去を決定する、という原理もありうるのではないか-渡辺慧説-。時間の流れが存在しなかったり、あるいはその方向がわれわれの常識とは異なっている可能性がある。
生体内、とりわけ複雑な構造をもつ大型動物、そして人間の「精神」には、多様多彩な「時間の矢に逆行する」現象が隠れていることだろう。
皮膚は生体にとってその内的「非因果律的」世界を維持、発展させる境界であり、過去から未来へと流れる外界の時間の流れから、「未来から過去へ」流れる世界を護るシステム、なのだと。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-16

  たそがれを横にながむる月ほそし  
   となりさかしき町に下り居る   重五

次男曰く、「さかし」は賢明・明哲なるさまだが、こざかしい、口さがない、などの意味にも転用される。この語には、別に、「さがし-嶮し-」との混同がすでに中古頃から見られる。こちらの原義は山坂の険しいさまである。つまり「さかし」は、片や人情片や風景を形容する、別系統の二義をもつ面白いことばだ。

「横にながむる」を「隣」に執り成し、「月ほそし」に嶮を見込んで、話を下居-おりい-と作れば、次句は「さかし」を嶮から賢-口さがない-へ読み替えてくれるはずだ、というのが作意のみそである。

仲秋の三日月は鋭く立つ。月齢が秋分頃とかさなれば、殆ど垂直に見える。繊月の立ち具合を横手に見遣る興を「となりさか-嶮-しき」と取り出し、景を人情に移したければ、なるほど人物は「下り居」とでも作るしかないか、と読ませるところに俳諧師らしい話のこしらえ方がある。仮に前句が「春宵を横にながむる月ほそし」とでもあれば、こういう付句は生まれようがない。

下々の人間が高所に住む、という滑稽で「さかし」の両義をうまく丸めた付だが、秋の三日月の低さにも立ち具合にも気がつかぬと、徒にことばの意味を争うだけのことに終わる、と。

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February 07, 2008

たそがれを横にながむる月ほそし

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-世間虚仮- 地方分権、道遠し

国会はガソリンなどの暫定税率問題で紛糾が続き、中国製冷凍ギョーザの薬物汚染は消費者生活に時ならぬ恐慌をもたらす。ヒラリーかオバマか、米国大統領予備選で過熱する民主党候補の闘いが海の向こうから伝えられる。おまけにテレビ向けのパフォーマンスばかりが先行するタレント弁護士橋下徹が府知事就任で空疎なアジテーションをぶつ。

新聞もTVも騒擾として眼を覆うばかりだが、そんななかで「地方分権委-中間とりまとめの提言-にほぼゼロ回答」なる小さな記事が眼を惹いた。

地方分権委の中間とりまとめによる提言は、重点事項として医療・生活保護・幼保一元化・義務教育・道路-国道の維持管理や修繕-・河川・農業-農地転用の許可権限など-6項目を挙げ、その他主な事項としてさらに10項目を列ねているが、各々所轄官庁はほぼゼロ回答とケンモホロロ。丹羽宇一郎委員長-伊藤忠商事会長-は、笛吹けど踊らず、各省のやる気のなさに「総じて後ろ向き、大変残念」と溜息まじりに怒りの発言。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-15

   霧にふね引く人はちんばか   
  たそがれを横にながむる月ほそし  杜国

次男曰く、「月ほそし」とは繊月、秋とりわけ仲秋の二、三日ごろの月である。地平の夕空に低くかかり、日没後小一時間で沈む。「たそがれを横にながむる」とはそれを云うが、前句が「ちんばか」と戯れた、人物-舟曳-の身体の屈伸を見込んで付けている。

どんな上り月の工夫を見せてくれるかと一同が固唾を呑むなかで、下ゲと上ゲ-打越と前-の進取の興を睨んで「ちんば」を「横にながむる」と引き移す芸当は、景の儘とはいえなかなか出来ぬことだ。

曳綱と、前倒しになった人体との、均衡の一瞬が発見させた三日月の細み、幽けさが表現の狙いである。仕様は其の人に即した前句の伸ばしと考えればよいが、とくに舟曳と限る必要もない、と。

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February 06, 2008

霧にふね引く人はちんばか

Imamurahitoshi

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

―表象の森― ラバウルの将軍今村均

漫画家の水木しげるが、兵役でラバウルにいた時に、視察に来た今村均から言葉をかけられたことがあるという。その時の印象について「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いているそうな。-水木しげる「カランコロン漂泊記」-

あるいは「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐ許可するよう命じた。」とマッカーサーに言わしめたという。

また、1954(S29)年6月19日付朝日新聞の「天声人語」の末尾に、「自ら進んでニューギニア付近のマヌス島に行った。戦犯兵と共に労役に服している今村の姿は、彫りの深い一個の人間像とは言えよう」と書かれた今村均。

「聖書は父の如くに神の愛を訓え、歎異抄は母の如くに神-仏-の愛を訓えている――と。これは、一つのものの裏と表だけの違いである」
と、ラバウル戦犯収容所時代の獄中にあって、長息和男への手紙の末尾に認めた陸軍大将今村均は、戦時の前線においても聖書と歎異抄を携え日々読んでいたという。

角田房子「責任-ラバウルの将軍今村均」-新潮文庫S62刊、初版S59新潮社-は、1954(S29)年の晩秋、戦犯としての刑期を終えた今村が、かねて自宅の庭の一隅に作らせてあった三畳一間の小屋に自ら幽閉蟄居の身として、その余生を徹底して自己を見つめなおす罪責の意識のうちに過ごし、旧部下全員-それは戦死した者、刑死した者、運よく生還し戦後の荒波のなかに生きた者すべて-への償いのために生きて、1968(S43)年心筋梗塞で独り静かな往生を遂げたその生涯を詳細によく語り伝えてくれる。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-13

  田中なるこまんが柳落るころ   
   霧にふね引く人はちんばか   野水

次男曰く、連句とは一口に云えば月花をたねにした遊である。二折・三十六句の歌仙では、初折の表五句目・裏八句目-これのみ短句-・二折の表十一句目を月、初折の裏十一句目・二折の裏五句目を花の定座とする。連句の約束は勝負事のルールとは違うから、右はうごかしてもさしつかえないが、破るにせよ守るにせよ一座を納得させる工夫がなければ、文芸の約束など無意味に等しい。

秋二句目、その座-裏八句目-にあたる野水が月の句を詠まなかったのは、初表の月が引き上げられていること、それにも増して、次座が杜国に当っていることを、睨み合わせたからである。下げて譲ったのだ-初表五句目の月の定座は杜国だった-。見易いことだが-尤もそう指摘した人はいない-、話作り、言葉探しの面白さはその先の読みにある。初表の月の座を、引き上げて下り月-有明-と作れば、裏は、引き下げて上り月に作るしか合せようはあるまい。

「柳落るころ」に対して「霧にふね引く」-曳舟は下りだ-と付けたのは、片や風物片や人事を以て、自らも下り・上りの向合せに作る興もあったには違いないが、主としては、譲った月の座-杜国-に対するしつらいである。

この成行のおよその読みは、野水だけではなく座の誰もが持っていた筈で、荷兮の「柳落るころ」も単なる零落のとりなしではなかったことがわかる。「落る」と誘っておいて、次なる月の定座の対応を興味深く計っているのだ。承けて、野水は非力なる体の曳舟の滑稽でかわした。曳く力を抜けば-「ちんば」をやめれば-、川舟は落ちる。「霧に棹さす人はちんばか」とでも作れば、たちまち曖昧になってしまう。月の座を譲る興も現れないし、「ちんばか」も死ぬだろう。「柳落るころ」を季節感のみで受け取って、詞の寄合-柳と川舟-などに安心していると、手もなく荷兮の術中に陥る、と。

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February 05, 2008

田中なるこまんが柳落るころ

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-13

   あるじはひんにたえし虚家    
  田中なるこまんが柳落るころ   荷兮

次男曰く、初裏七句目。歌仙二つ目の月の定座を次に控えて、秋季に作っている。秋の句に続く雑のはこびのなかに他季-芭蕉の打越句-の挿入があるから出来ることだ。

句は、栄枯盛衰は世の習い、ということを季節に執り成せばこうなる、という見本のような作りだろう。「柳散る-黄柳-」という季語は、現代では仲秋に扱う歳時記が多いが、目立たぬさまに一、二葉が落ちるのは「薄柳ノ姿、秋ヲ望ンデ落ツ-世説新語-」の喩えのとおり、まだ青々と茂る立秋の頃で、昔の作法書や歳時記は、柳散るを、霧散る-桐一葉-とともに初秋の季としている。

「柳落る」という遣方は、「頃」留りにするための音数上の必要からには違いないが、かりに「柳散らすころ」「柳黄ばむころ」などと作れば、零落の情はあいまいになる。

「田中なるこまん」も、名物柳の伝承などにありそうな話をこしらえて、亡んだのは「万」とまではゆかぬ「中」ぐらいの分限者だ、と云いたいのだろう。これは同じ作者でも、先に「有明の主水」で見せた詩情とはやや似て非なる軽口だ。前句がせっかく「貧に絶えし」と誘った志は、辛うじて「柳落る」になぞられているにすぎまい。踏み込んだはこびが難しかったか、やや曲折倒れになったあしらいの付である。とはいえ、「田中」が田上、「こまん」が於国や小糸でもよいというわけにはゆかぬらしい、とは読ませるからやはり手合である。

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February 04, 2008

あるじはひんにたえし虚家

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-12

  影法のあかつきさむく火を焼(たい)て  
   あるじはひんにたえし虚家     杜国

春秋の句は三句以上-五句まで-。夏冬の句は三句限、月花の句を除く平句の場合は一句にとどめてもよい。いつ、誰が、どうやって決めたとも云えぬ約束だが、これは日永-春-・短日-冬-・夜長-秋・-短夜-夏-という季語と一体の考え方である。
前句の「影法の」を「影法が-影法ばかりが-」と擬人的に読めば、打越の悲寥の情を抜き去って、冷え侘びた一幅の景に作り直せるだろう。

影法師そのものが主だ、という見究めが興のたねなら、焚火に映し出されるのは何者かの影ではなく、廃屋という現実、世相だと考えるほかない。「消えぬ卒塔婆」の情を断つべく、「絶えし虚家-カライエ-」と遣った用辞にも観照の工夫は見えるが、「貧に」とことわた裁ち入れに、新たなる起情を次句に求める含みがある。

延宝3(1675).4(76)年から天和元(1681)年にかけて、各国に飢饉相次ぎ、尾張でも延宝4年と6年の両度にわたり、計23万石の水損を被ったことが「徳川実紀」ら見える。米問屋だった杜国が窮民の実情を知らなかった筈はない。「虚家」の句は、この歌仙で初めて、寒酸の世相に目を向けた句作りである。

こういう句を、焚火にうごめく影は浮浪者のたぐいか、それとも取り残された婢僕だなどと-諸注の如く-ただちに考えてかかると、打越以下三句はまったくの陳腐な見立て遊びになってしまう。

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February 02, 2008

影法のあかつきさむく火を焼て

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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-10

   きえぬそとばにすごすごとなく   
  影法のあかつきさむく火を焼(たい)て  芭蕉

次男曰く、「きえぬそとば」は死者の影法師だ、と見定めた執成-とりなし-付だが、人ではなく影法師を取り出して前句の会釈-あしらい-風に仕立てのは、打越以下三句同一人物の行為が続くと、はこびが輪廻になるからだ。

「影法のあかつき、さむく火を焼て」ではない。「影法のあかつきさむく、火を焼て」である。葦辺、喪屋籠りの人の傷心をあぶり出すところに作意はあるが、句の姿は叙景であって、特定の人情にはない。「火を焼て」は軽く、補助的に読んでおけばよい。

この句には、情景の一転を次座に求める重厚な工夫がある。「影法の」の「の」、「火を焼て」の「て」、それに「さむく」と遣った季語である。句は、人ではなく影法師が火を焚く、と非情に読むこともできる。一方、雑四句を挟んで季を秋から冬に移したのは、月の定座-初裏八句目-をすぐ後に控えての細かな配慮である。
連句では通例、季を移すために雑の句を間に挟むが、雑の句そのものに季をうごかす働きはないから、数句続きといえども雑の前後を同季とするわけにはゆかぬ。

「冬の日や馬上に氷る影法師」-貞享4年「笈の小文」-、
「日既に山の端にかかれば、夜座静かに月を待ては影を伴ひ、燈を取ては 罔両に是非をこらす」-元禄3年「幻住庵記」-。
芭蕉は影法師が好きだったようだ。それにしても、卒塔婆が死者の影だとは常人にはなかなか思い付かぬ、と。

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February 01, 2008

きえぬそとばにすごすごとなく

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<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-10

  いつはりのつらしと乳をしぼりすて  
   きえぬそとばにすごすごとなく   荷兮

次男曰く、虚を忘れるために実を棄てたが、その甲斐もなく新たな実が生まれた、と考えれば滑稽が現れる。卒塔婆は虚の最たるものだ。「きえぬ」という遣り方はそう伝えるための俳言の工夫で、その子は死んだのだと見定めた付には違いないが、「此の世はすべて虚仮にして実ならず、夢の如くまた幻の如しと、子を失ひて偽りの世をかなしむことに見たるは、衆解一致す。別に論無きなり」-露伴-と云っては身も蓋もない。むろん「きえぬ」の内容が夢の跡か、卒塔婆の墨色かなどというようなことは、考えたい人は勝手に考えればよいたぐいの想像で、連句解釈にとっては何の意味もない。

「乳をしぼりすてる」原因は、死別とはかぎらぬ。どのようにでも継げるだろう。荷兮が、わざわざ陰の極の句作りを以てしたのは、その原因を探って選択したと見ることはたやすいが、たぶんそうではあるまい。虚実の遊を重五の一句にとどめては、「乳をしぼりすて」る面白さが活きぬと考えたからだ。

ならば、句眼は「きえぬそとば」で、「すごすごとなく」は短句-七・七-の成行である。その辺の遣り様の見取が狂うと、「すごすごとなくというすごすごも実に良く利いた表現である。張りや力も全く崩れ抜けて、抜け殻のような気持の中に、悲しさばかりがいや増しに迫る感じは、この表現を他にしては求められまい」-能勢朝次-というような気分の拡張解釈が生まれてくる。

この種の読み方は、総じて諸家の全句注にわたって見られる。何度も云うようだが、表現の中心になる言葉の興が見えぬと云うことは、作るにせよ読むにせよ、連句を連句でなくする。
折口は「下手だ。ぎくしゃくとした句だ」、「面白味がわからぬ」と云い捨てている。

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