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January 31, 2008

いつはりのつらしと乳をしぼりすて


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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

―表象の森― 中西武夫

嘗て、中西武夫さんという劇評家がいた。今は懐かし、ABCTVの長寿番組「部長刑事」の演出を1958(S33)年の第1話から第1513話までの間、なんと865本の演出を手がけた-Wikipedia参照-という人であるが、当時の私はそんな来歴も詳しく知らず、すでにかなりのご高齢とお見受けするも、ただいつからともなくわりときちんと私の創る舞台を観に来てくださるめずらしい御仁と思っていた。
私の仕事はいかほどか演劇的であっても舞踊が主体の世界であったから、当時流行りの小劇場演劇を中心に関西の演劇評を書かれていた中西さんが、何故私の舞台にマメにお出ましになるのかよく解せなかったし、またその舞台評を書くべき掲載どころもなかったであろうから、折角ご覧頂くもなかなかそのご高見に触れる機会とてないままに年月ばかり流れていった。
その中西さんにやっと筆を揮っていただけたのが以下の一文である。83年の何月号だったか、演劇雑誌「テアトロ」誌面に掲載された。

螺線館/四方館/風浪舎の3劇団の合同で「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」可能あらた作、林田鉄・嶋田三朗演出<夢の道行‘83夏三都連続公演>と肩書するこのダンスドラマは、尼崎のピッコロ中ホールからはじまり、大阪のオレンジルーム、神戸の生田神社のテントと三つの異なる空間で演じられた。私のみたのは第1回のピッコロでの公演であったが初日に拘わらず、混乱なくその熱演に感動さえ感じた。
おびただしい古新聞紙をまるめて作った塊りを積み重ねた山、それは照明で、紫陽花の花のように美しく私には思えた。その中でうごめき、その山をくずし、現れる鶏たち ― 雄も雌も、タイツとレオタードの踊り手、演技者たちである。―略―
1.ブロイラーの逃亡、2.鶏たちの夢、3.狂った鳥と松ボックリ、4.鶏たちの体験飛行、5.空を飛ぶための肉体と精神、6.可能性の空間に挑む者、6つの章で、なぜ鶏は鳥ではないのか? なぜ飛べないのか? を次々に問いつめていく。
原作の叙事詩らしい台詞は短いが、台詞を超す動きと踊りがたしかに<肉体で語る言語>として、観客の心に浸透し、揺さぶっていく。羽ばたけ、くちばしと爪を研げ! 自由の空へ飛翔せよ! ブロイラーは鶏たちに教え、鶏たちは人間に教える。
林田鉄の「螺旋の河をゆく阿呆船」「走れ、メロス」「アンネ・ラウ」「大津皇子」の作品は全部みてきた。彼はこんどの作品で、彼の詩的感覚とエネルギーを彼のいう身体表現の中で結合させている。―― いい仕事だった。

末尾に添えられた文章を眼にしたとき、私は心の中で快哉を叫ぶほどに悦んだが、だからといって私から謝辞の信書を出すとかそんなコンタクトは採らなかった。舞台を創る側がこれを観て評する側をどう遇すべきか、当時の私はそういう術を心得ていなかった。いや現在に至っても変わらずそうなのかもしれない。

この当時すでに70歳代後半であったろう中西武夫について、昨夜ネット探索してみて、いまさら判ってきたことなのだが、彼は昭和初頭すでに宝塚歌劇団座付の若手作家としてデビューしている。驚いたことに「東亜の舞踊」という書を編著者として出版しているが、これが戦時下の昭和18(1943)年である。訳書には「ベートーベン書簡集」というのもある。この初版が昭和3(1928)年らしい。さらにはシュールリアリズムの画家としてまた写真家として活躍したマン・レイと知友だったようで、マン・レイの書いた中西武夫宛の手紙が残されているという。
ざっとこんなところで、略年譜さえどこにも見あたらず、戦後はともかく、戦前の中西武夫の足跡は、点と点が線へとつながらず、その像は漠として描けない。
しかし、このわずかな情報からでも、晩年の劇評家としての彼の前身は、むしろ詩や舞踊や音楽、20年代、30年代の表現主義世界によりSympathyがあるように見受けられる。
劇評家中西武夫が、70年代から80年代、演劇というよりは舞踊主体の世界である私の仕事をずっと観つづけてくれていたのは、そのもう一つの視線からの関心ゆえだったのかもしれない。

たった一度だけだが、その中西さんと言葉を交わしたことがある。というより正確には彼の方から直に声をかけていただいたのだが、それは81年4月、劇団きづがわの舞台で、兄-双生児-の時夫が自身係争中の解雇撤廃闘争を描いて木津川筋争議団ミュージカルと副題した「船と仲間とど根性」の振付をしたもので、偶々終演後のロビーで中西さんと出会したところ、「やっぱり、貴方の手が、しっかり入っていたんだネ」とか云われ、「いやあ、どうも畏れ入ります」とかなんとか応じたのだが、後にも先にもこれきりだった。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-09

   髪はやすまをしのぶ身のほど    
  いつはりのつらしと乳をしぼりすて  重五

次男曰く、恋含みとも読める前を承けて「二句恋」とした作りだが、野水・芭蕉の付合を男女の問答体と読めなかった後世の評釈は、いずれも、其の人を任意に女と見立てた付と解し、芸のない恋話をここで設けたがる。殆どの説が、「いつはりのつらし」とは男の裏切りに対する女の恨みだと云っている。

そうではあるまい。「いつはりのつらし」とは、世間-庵主-に対して身上を偽る-身一つを装うて宿を請うた-女の切なさ、と読んでごく自然に解釈がつく。「乳をしぼりすて」は「しのぶ身のほど」から取り出した表現の移りで、人目を憚る行為と読めばよいが、託して云いたいことは、空虚を忘れるためには実を棄てるしかない、ということだ-虚は棄てられぬ-。与える相手がなく自ずと張ってくる乳は、なるほど女にとって実の最たるものである。この見究めは俳諧になる。

「いつはりのつらし」を、庇ったり憎んだりする値打ちもない男への恨みなどと考えては、まったく話のさまにならぬと思うが、露伴にして「いたづらに乳を絞りすてつ、これもまた人の吾に誠の情無きよりなりと、つれなきを悲しみ歎けるさまにて、姿情おのづから明らかなり」と説いている。信じがたいことだ、と。

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January 30, 2008

髪はやすまをしのぶ身のほど

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 岸本敏朗さんへ

 寒中お見舞。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

昨年は劇団創立50周年だったとか、さぞかし感慨深く、また、さまざまな周年企画で多忙と充実の一年をおくられたことでしょうね。
秋に上演された「新開地物語・後編」も好評且つ盛況の裡に終えられたようで、心よりお慶び申し上げます。

もう久しくお逢いする機会を得ませんが、ご壮健にてご活躍の様子を眼にしては、80年の「猫は生きている」でしたか、いつのまにかこんなに年月を経てしまったのだと些か吃驚しつつも、元町の稽古場へと通った日々などを懐かしく想い起こしおります。

近頃の私はといえば、時に「山頭火」を演じることもあるとはいえ、その機会もまだまだめずらしく、また舞踊の方では、稽古とはいえ即興を専らとするものであってみれば、私はただひたすら観照するを自身に課すばかりですから、暢気といえばこれほど暢気なものはなく、日常は読書三昧とMemoの如き由無し言のブログ綴りの日々といえましょうか。

ふりかえれば理知的な思索よりはまず直感的な行動ありきだった往時とはずいぶんと遠ざかったもので、われながらこの変容は何処からやってきたものかと些か奇異な感じさえ抱いているような始末です。

いずれなにごとかの機会を得てまたお逢いできる日もありましょうが、その節はいろいろとお話などお伺い致したく存知おります。
益々ご壮健にてご活躍のほどを。
 08 戊子 睦月晦日

岸本敏朗さんは神戸の劇団四紀会の演出家で、現在71歳。自立劇団として1957(S32)年発足した四紀会は昨年創立50周年を迎え、記念の公演として採り上げたのが「新開地物語・後編」で彼の演出。

彼が「走れ、メロス」-78年-神戸公演を芦屋のルナホールで観たのをきっかけとして、「猫は生きている」の振付を依頼された。上演が80年4月だったから、彼から突然の連絡を受けたのは前年の暮れ近くだったろう。四紀会の稽古場は元町駅前のビルの6階だったが、此処へ週2回ほどのペースで3.4ヶ月通ったのではなかったか。

「メロス」の舞台は、全編を貫く20数名のコロスによる群舞や集団演技が表現の要ともなるもので、その出演者の大半が公募による素人の若い人たちであり、彼らをほぼ半年かけて鍛えながら創り上げていったのだが、彼と偶々一緒に観た宝塚歌劇団の研究生が「こんなに激しい動きを、これほど揃って踊っているなんて、凄い。私たちだってこんなにはとてもできない」と感嘆しきりだったという話を、彼自身の感想とともに私にしてくれていたのが、私の脳裏に焼き付いている。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-08

  わがいほは鷺にやどかすあたりにて  
   髪はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉

次男曰く、「わがいほは」の句は、喜撰の歌を下に敷いて、当世風隠者のことばをうまく見定める付だが、起情をはかった狙いは別にある。興業の発端が「狂句こがらしの身は竹斎に似たるかな-芭蕉」、「たそやとばしるかさの山茶花-野水」で、併せてみみ裏入にあたる座巡が偶々野水・芭蕉でなかったなら、右の応酬はまず生まれなかったろう。旅の風狂者を迎えた興のなごりが、亭主の好き心をあらためて唆したと考えればよい。

あなたが鷺なら一夜の宿をかすところだが、という野水の挑発に、ではひとつアマサギ-尼鷺-になるか、と芭蕉は答えている。冬羽は白だが、繁殖期にかけて胸や背に朱紅色の飾り羽が生え、頭・頸部が狐色に変わる中型のサギである。体形はややゴイサギに似て、首が短くて太い。別名、猩々鷺とも呼ばれ、本州には夏鳥として渡る。そこが読み取れれば、なにやら訳ありながら尼の還俗ばなしも、問答の下地もおのずと見えてくる。

   天王寺へ詣で侍りしに、俄に雨降りければ、
   江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ詠み侍りける
 世の中を厭ふまでこそ難からめ仮のやどりを惜しむ君かな  西行
   返し
 世を厭ふ人とし聞けば仮の屋に心留むなと思ふばかりぞ  遊女妙

新古今集・羈旅歌に選び、選集抄にも見え、謡曲「江口」でおなじみの問答歌だが、芭蕉は、右の男女の位相を翻し、道心の一興を「恋の呼び出し」-恋の示唆を以て作意とした句-に奪って作っている。併せて、事実上「野ざらし」の旅を終えた男の、当座の心境もまた一種の還俗だったと考えれば、「髪はやすまをしのぶ身のほど」とは濃尾逗留中の自画像とも読めて、この七・八番は発句・脇のみごとな打返しになる。まったく、したたかなことをやる俳諧師だ、と。

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January 29, 2008

わがいほは鷺にやどかすあたりにて

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 多和田葉子とRASENKAN

螺線館の嶋田三朗が市川ケイととりのかなの「三人関係」で活動の場を世界へと求めて旅立っていったのは89(S64)年からで、もうかれこれ20年になる訳だ。
昨夕、その嶋田君と市川さんの二人と、小嶺由貴を交えた4人でゆっくりと話し込む機会を得た。彼らとともに合同公演として取り組んだ「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」が83(S58)年のことだったから、まさに四半世紀を経ての語らいか。

もちろんこの25年の間、お互いにまったく疎遠であったわけではない。彼らの舞台でいえば、たしかウィングフィールドだったと記憶するが、近松世界を寓意化したかのような芝居を観ているし、ドイツに住んで日本語とドイツ語で小説をものする多和田葉子が彼らのために書き下ろした戯曲「サンチョ・パンサ」の上演が、OBPの松下IMPホールで行われた際にも出かけていっている。彼らのほうも帰国した折には、私らの公演に二度、三度とひょっこり顔を見せてくれていたのだから。
彼らは2月初旬にはまたドイツへ戻るという。やはり多和田葉子が書き下ろした新作「出島」のベルリン公演を控えているからだ。

作者の多和田葉子自身がベルリンでの「サンチョ・パンサ」観劇記にこう記している。
「自分は本来、演劇そのものに関係のある作家ではないという気がいつもしていた。それでもこれまで何回か演劇プロジェクトに関わってきたのは、小説にも内容だけでなく音と文字という言語身体があるように思えてならなかったからだ。つまり、ジャンルとしての戯曲を選んで書いたわけではなく、どんなテキストにも声や動きになりたがっている部分があるという意識から戯曲を書いた。それをよく理解してくれているらしいらせん館は、わたしにとって舞台動物であると同時に読書集団でもある。」

「今回の公演における言葉の変身術では、スピード調節、断片化、繰り返し、などの音楽的要素の他に、母国の異なる俳優のそれぞれが、自分の故郷の言語だけを話すというのではなく、ドイツ語をしゃべり、更に日本人がスペイン語を話したり、他の人たちが日本語を話したりもした。もしもそれぞれが自分の言語だけを話していたら、アイデンティティ押し付けの民俗劇に似てしまう危険もあっただろう。しかし、この演出では、ルーツを探しているわけじゃない、ということがはっきりしていた。祖国などという幻想にしがみつくのではなくて、今現在をその場に共生する人たちと言葉を交わしながら作り出していく<移動民>の言語である。」

00(H12)年9月28日付、朝日新聞夕刊の「文芸時評」では津島佑子が「サンチョ・パンサ」についてほぼプロットを要約したあとにつづけて
「戯曲というこの形式で、多和田氏の本領がのびのびと発揮されたという印象があり、これまでともすると氏の小説にとまどいを感じずにいられなかった言葉の過度な運動力が、ここで疑いようのない魅力となって定着している。戯曲とは、本物の人間の肉体によって、現実の場で、そして現実の観衆の前で演じられることが前提となっている言葉の世界なので、どれだけ言葉が抽象的に浮遊しても、その言葉を支える肉体の現実性とのバランスが働く。むしろ、戯曲では言葉はあくまでも身軽に、大胆に動きつづける必要があるということらしい。」と評している。

多和田葉子とRASENKANの嶋田三朗君たちの出会いは、どうやらお互いにとってよき協働者となっているようである。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-07

   日のちりちりに野に米を刈
  わがいほは鷺にやどかすあたりにて  野水

次男曰く、初折・裏入。雑の句である。鷺という季語はない。打越と合わせれば前句は一意の風景だが、遠見の人物に姿情がないわけではない。野水はそれを掬って、すかさず起情している。当然だが「野に米を刈」人と「わがいほは」と名告る人は、別人でなければならない。

鷺が宿借る、鷺が寝に来るなどと作らずに、「やどかす」としたのは連句的云回しの面白さで、「(有明の主水に酒屋)つくらせて」なども同じ手法だが、とりわけ問答を誘うと知らせる体の作りにおいて利く。

仕立ての型は「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」だろう。小倉百人一首にも採られた喜撰のこの歌は、古今集の雑歌で、「しかぞ」は「然ぞ」、鹿ではない。ないが、鹿と解する俗伝が却って滑稽の種を提供したようだ。宇治山の隠者と鹿の取合せは俳諧になる。むろん、当人も会衆も「しかぞすむ」の本義を知っていて、作者が野水だと気付いていなければ、こういう句の面白みはない、と。

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January 28, 2008

日のちりちりに野に米を刈

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-06

  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき
   日のちりちりに野に米を刈    正平

次男曰く、散散ならチリヂリだが、物の縮むさま、日の薄れるさまを表す副司ならチリチリである。
打越-前々句-を朝、前句を昼と、時分を見定めて晩景を付出している。稲刈りを「米を刈(る)」と云回したところも、単なる貞享頃の流行りと見過すわけにはゆかぬようだ。「米を刈」は季語とも云いきれぬ。春秋の句は三句以上-五句まで-という制式に照らせば、はこびは次のように読める。

  有明の主水に酒屋つくらせて-雑(月-秋)
   かしらの露をふるふあかむま-秋
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき-秋
   日のちりちりに野に米を刈-雑(秋)

続きを秋三句と見るか四句と見るかは、人それぞれで、当座のことは作者たちにでも聞くしかないことだが、「米を刈」は「有明の主水」をにらんで合せの秋とした一趣向と読んでよい。ならば、雑の詞を以てしたこの稲刈りはよほど季節外れで、さては晩稲刈なるか。思いがけぬところに滑稽の狙いをさぐらせる。「にほひなき」を細り芒から落日に移した付には違いないが、そもそも思い付きのヒントは前句の作者-杜国-が米屋だったかからかもしれぬ。

五人の連衆で歌仙を巻けば、七巡と一句を余す。初折・表六句目に執筆-この場合、正平-の座を設けて、初巡abcde(f)、二巡以下をbadca・ecbedの繰り返しとするのが通例である。正平は尾張の人で小池氏を称したと伝えるが、詳らかにしない、と。

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January 27, 2008

朝鮮のほそりすゝきのにほひなき

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-世間虚仮- 弱り目に‥‥

鬼の霍乱(?)といえば、ウンウンと唸って床に臥せっている者に対してあまりにつれないか。
イヤ、困った。とうとう連れ合い殿がインフルエンザに罹ってしまった。
京都のアルティ・フェスを間近に控えてなんたることか、昨日も今日も、いわば追い込み、仕上げの稽古と組んでいたのに、まったくもって想定外、ホント、弱った。
もちろん近頃とみに脅威の伝えられている新型インフルエンザではないから、そこは一安心ではあるが、ここへきて稽古にならないのは、とにかく痛い。

それにしてもこの7.8年、彼女の職場環境は年毎に苛酷さを強めてきている。昨春の配置転換で、休日出勤もめずらしくはなくなったし、いわゆるサービス残業というのも常態化している始末だから、かなりの疲労が蓄積されてもいたろう。ウィルスへの抵抗力はよほど弱まっていたものとみえる。
弱り目に祟り目、病魔はちゃんと見逃さない。

まこと鬼神ならば病魔など懼れるに足らずだろうが、そこは人である。気力と体力、どちらが過剰となってもいいことはない。忙しく立ち振る舞わねばならない身であれば、なおさら己をよく知る養生訓が必要だ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-05

   かしらの露をふるふあかむま  
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国

次男曰く、碩学の露伴や折口信夫の評釈では、朝鮮芒なるものに拘り、「にほひなき」をその生態と眺めているが、「朝鮮の」は、前句「あかむま」を虚から荷馬の実へ奪うために思い付いた詞で、「ほそりすゝき」にとっての枕にすぎない。

赤馬-朝鮮馬は、当時すでに半島系の馬が日本種に代わってもてはやされていた証拠になるだろう。無さそうで有るもの、有りそうで無いものが連想を紡ぎ出す興の本質だとわかっていれば、初めから朝鮮芒などという怪しげな名に捕まることはなかったわけだ。

尾張酒は、西浦を中心に知多郡各地で醸造された。杜国の句は、前を景に奪って駄送りと見た作りで、新酒の香に酔いながら匂い無き野を行くとしたところに俳を持たせている。諸注は、其の場を見立て替えて活気から侘びしさへ転じた付だと説明するが、それではせっかくの「かしらの露」が死語になる。其の人にせよ其の場にせよ、連句のはこびに見立てを濫用したがるのは、物の晴陰・乾湿・長短・高低、言葉の虚実が見えていない証拠である。

露も芒も兼三秋の季だが、「にほひなき」と括れば季はおのずと深秋へ、時刻も朝から昼へと動くだろう。露消えて陽すでに高く、秋気かえってそこに充つと感じ取らせる、さりげない座五文字の遣い方がうまい、と

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January 26, 2008

かしらの露をふるふあかむま

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 外磯定光君へ

 寒中お見舞い。
お年賀拝受。遅ればせながら、貴家ご一同、さぞ宜しき新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

こうして年に一度とはいえ、届いた年詞の数々から貴方の名前を拝見するたび、私の脳裏に浮かぶのは、現在の-近頃ではいつお眼にかかったのだったか、亡母の法事の際であったか-貴方の面差しや姿形から、それこそ一気に50年ほどもタイムスリップして、あれは貴方が8歳か9歳頃だったか、遠路はるばる長崎から叔父さん叔母さんに連れられて、九条の私ら一家の許へと初めてのお目見得となった、その数日の間過ごした折の、同じ年頃の子ども同士とはいえ、私らの常識をはるかに超えたハチャメチャぶり、茶目っ気たっぷりのおどけた像で、それがまざまざと甦ってきては、ついニヤリと笑ってしまうのです。

その何日かの滞在のあいだに、お互いの家族打ち揃って枚方パークへ遊びに行った時に撮った一枚の集合写真が、ずっと私の手許にもありますが、この日も貴方は他を圧してハチャメチャぶりを発揮していたのですが、そういった諸々の像がいつしか圧縮されて私の内に貯め込まれたのも、その一枚の写真ゆえで、偶々これを眼にすることのあるたび反復強化され、この脳裏に焼き付けられてきたのでしょう。

これは長じての後知恵ですが、子のできぬ叔父・叔母夫婦に貰い子されたのが貴方だったとかで、あの心優しい叔父・叔母のことゆえ、その慈しみよう、可愛がりようも並大抵のものではあるまい。下にも置かぬ大切ぶりも、心遣いが過ぎればほんの薄皮一枚気を置いたものとなってしまうこともあろうか。実の親以上の大事にすればこその細やかな気配りが、子どもの頃の一時期とはいえ、あの気散じな、過剰なほどの茶目っ気を育てたか、と考えてみたりしたものでした。

戊子の年もすでに大寒、このところその名に恥じずこの冬一番の寒気とか、ご家族ともども呉々もご自愛下さい。
いつまでも和やかにお健やかに。
  08 戊子 大寒

相手は3歳下の従弟。私の父には兄弟とていなかったから遠縁はともかくいわゆる親戚の類はみな母方に繋がる。
業が漁師とかで当時は遠く長崎に住んでいた叔父・叔母夫婦が定光君を伴い揃って我が家を訪れたのは、私が小5、彼が小2となるその春休みではなかったか。

今のご時世なら、幼い子どもの達者なエンターテイメントぶりも縦横無尽のハチャメチャぶりもまったく珍しくはないが、50年も遡れば稀なることで、彼のその道化ぶりは、大袈裟にいえばちょっとしたカルチャーショックものであった。とにかくこの家族が滞在した数日間の我が家は、賑やかこのうえなく笑いの絶える間もないほどに明るかった。

そんな強烈な印象を残して風のように去っていった彼と、再び会ったのはもうずいぶん年月を経てからの筈だが、これがどうにも思い出せないのである。彼に会えば決まって私はあの時の像へと還っていくので、その折々の印象を作らないのかもしれない。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-04

  有明の主水に酒屋つくらせて 
   かしらの露をふるふあかむま   重五

次男曰く、
「前句、恋とも恋ならずとも片付けがたき句ある時は、必ず、恋の句を付けて前句ともに恋になすべし」-三冊子-という芭蕉の言葉がある。
作法は恋句にかぎらぬ。前(第三)は「とばしる」を時分-有明-に見定めた、もともと雑の作りだが、月とも月でないとも読める詞を含んでほかに季語を持たぬ句を承ければ、継句は秋季以外にない。

当然、付を得て季-秋-と月の座が定まることは予め荷兮自身の計算の内にもあるが、表六句の月の定座は五句目である。解釈も期待もなしに勝手に月を引き上げているわけではない。「とばしる山茶花」と結べば、寒造りも近いと悟らせ、「露」と結べば、新走り-今年酒-の仕込と読み取らせる。
荷兮句は、亭主介添えの重責を果たしながら同時に、次座を抱え込んで運びの一転をはかる狙いの作りだ。

重五の句は雑を秋に奪った二句一意で、朝露にぬれて人も馬もきびきびと働く、というほかには特に云うべきこともなさそうに見え、従来の評釈はいずれも、其の場を付けた遣句(ヤリク)と見ているが、そうではない。前句を「まず一献」の云回しと考えれば、解釈は全く別になる。「かしらの露をふるふあかむま」とは馬も甘露-新走り-の香に酔う、ということだろう。

酒を「赤馬」と呼ぶ隠語は、貞享頃まだ無かったと思う。句は、杜氏の名をまず有明月の実に執り成して秋露を付け、次いで「露」を甘露の虚に執り成して、白も色に出るさまに作り進めている。したがって「あかむま」は、云うなれば「露」の陰-含-を暗示する表現である。景に即せば、新酒一駄-二樽-を背に負い、陶然と首振り歩む詩神の姿でも思い描けばよく、実用馬の骨格などここになぞる必要はない、と。

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January 24, 2008

轍ふかく山の中から売りに出る

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

  轍ふかく山の中から売りに出る

山頭火、昭和9(1934)年2月初旬の句。
故郷近く小郡に結んだ其中庵の暮しも2度目の新春を迎えてまもなくだ。
庵の近くを歩いた際に見かけたか、雪も積っていよう山深い里から重い籠を背負って、なにを売りに来たのであろうか。自身乞い歩く身であれば、声をかけ品定めをするはずもない。遠目にやり過ごしつつふと口をついたか。
2月4日の日記に
「村から村へ、家から家へ、一握の米をいたゞき、
 いたゞくほどに、鉢の子はいつぱいになった」
と記し、また翌5日には、
「米桶に米があり、炭籠に炭があるということは、どんなに有難いことであるか、
 米のない日、炭のない日を体験しない人には、とうてい解るまい。」
「徹夜読書、教へられる事が多かった」
とも書きつけている。

-温故一葉- 大深忠延さんへ

 寒中お見舞い申し上げます。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。
大寒の列島は低気圧の発達で北日本一帯大荒れになる模様とか、大阪市内では今年もまだ雪を見ませんが、このところの冷え込みは、夏場生まれの所為でしょうか、恥ずかしながら私などには些か身に堪えます。

平成の代もはや20年。昭和天皇が薨去し、当時の小渕官房長官が「平成」と書かれた紙を持って新元号を発表した記者会見に、「バブル景気」というまことにおぞましい言葉が生まれてまだまもなくの波乱含みの世相を背景にしながら、「平らか成る」などといかにも日和見めいた言辞を弄するセンスに強い違和を感じ、この元号にずっと馴染めぬまま年月ばかりが過ぎていきます。

実際のところ、私の感覚において、昭和と西暦はいつでも直感的に代置可能で、折々の出来事もその年号とともに記憶のアルバムに鮮明に残っているというのに、平成になってからは西暦とどうにも相生悪く添いきれぬまま、はて木津信の破綻から何年経ったか、あれは平成なら何年、西暦なら?と混濁ばかりが先立ち、挙げ句は資料などを引っ張り出さねばならない始末です。
そんな訳でこれを認めつつも、「金融神話が崩壊した日」を書棚からわざわざ引っ張り出してきましたよ、お笑い草ですね。

龍谷大学の「正木文庫」にずっと関わってこられ、正木ひろし研究もライフワークのひとつとか。
映画「真昼の暗黒」となった八海事件は冤罪事件としてよく知られるところですが、事件そのものは昭和26(1951)年1月、二度の最高裁差し戻しを経て、判決の確定を見たのが昭和43(68)年、今井正監督が映画化したのが昭和31(56)年でしたか。

もう昔も昔、古い話になりますが、この大阪で「八海事件」を採り上げ、「狐狩り」という創作劇に仕立てて上演したグループ(劇団)がありました。大阪はもう今はない大手前会館と京都は岡崎の京都会館第2ホールと、2回だけの公演でしたが、実は私もこれに参加していたのです。今から45年前の昭和38(63)年のことでした。私は高校を出たばかりの大学1年、まだ19歳になったばかりでしたが、所謂学内ばかりの発表形態ではなく、私にとっては一応本格的な舞台づくりの最初の一歩、それがこの作品だったのです。

と、正木ひろしの名に誘われて、とんでもない昔の私事を記してしまいましたが、ご容赦下さい。
お礼が末尾になってしまいましたが、お仕事柄なにかと忙殺の日々でありましょうほどに、昨年の会にもわざわざお運びいただき、ありがとうございました。
またお逢いできる日もありましょう、益々のご活躍を念じつつ。
  08 戊子 大寒  -林田鉄 拝

書信の相手、大深忠延さんはベテランの弁護士、私よりは何歳か年長の筈。
バブル崩壊のあと金融機関の破綻が吹き荒れた90年代、阪神・淡路大震災の傷跡なお生々しく残る平成7(95)年8月末、木津信用組合と兵庫銀行が相次いで破綻、定期預金と見紛う抵当証券被害が白日のものとなって騒動となった。その「木津信抵当証券被害者の会」弁護団の団長を務めた人。

この事件が結ぶ縁で、1400名近くの被害者原告団でよく動いた人々と、30数名を擁した弁護団の人々と、平成9(97)年の大阪高裁による和解調停の第一次解決を経て、平成14(02)年の最終解決をみるまで、一連の活動を通して親しく交わらせていただいたことは、私自身が河原者にひとしく浮世離れの生涯ともいうべき身上であってみれば、まるで正反の、俗といえばこれほど俗な、泥にまみれた社会闘争ともいうべき世界に自身投入した数年間の体験として、まことに愉しく意義深いものがあった。

おかげで、人との交わりを大切にし、どこまでも義理堅い大深さんは、私がご案内する舞台に、なにかと都合をつけてわざわざ観に来てくださること幾たび、私にとっては望外の有難き人なのだ。

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January 23, 2008

有明の主水に酒屋つくらせて

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-03

   たそやとばしるかさの山茶花
  有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

次男曰く
起承転結は造化の理である。その「転」にあたる「第三の句」を「長(タケ)高く」作れと。また、発句が客で脇が亭主の位なら、第三は相伴の位だ。相伴には客側もあれば亭主側もある。礼法の基本は一客一亭ではなく、相伴を加えた三人と考えるべきだ。この興業の連客はいずれも尾張衆で、その内の次客は、一統の指導者であり最年長者でもある荷兮であった。

「有明」は月のとばしり-残-である。月齢に思い付いたところが着眼の妙。繊月といえども宵の月はとばしりではない。

「酒屋」-酒蔵-もとばしる。熟成したもろみ麻袋に盛り、槽のなかに積み並べて圧搾すると、槽中はむろんのこと、桶口からもさかんに迸る。

尾張二代藩主光友候は、奈良より杜氏を招き醸造せしめしより、元禄頃には城下の酒屋軒を並べ隆盛を誇っていた。客と亭主の改まった挨拶を「まず一献」と執り成せば、これは亭主側相伴の即妙な取持ちになるが、たねが、自慢の地酒であれば猶面白い。「酒屋つくらせて」の狙いは、どうやらそこにありそうだ。

「主水」については古来いろいろと解釈が分かれるところ。
抑も尾張名古屋城の造営に際し、小堀遠州と組んで本丸御殿を作った中井大和守正清は、家康が京で召し抱えた法隆寺棟梁であるが、その子孫は代々幕府の京御大工頭となり、当代は中井正知従五位下主水正であった。この正知は法隆寺の元禄修理を手がけた人物であり、またさまざまな禁中作事を城の修理も手がけており、名古屋へ下ることもあったろう。

どうやら荷兮は、名古屋城を造った宮大工の末が杜氏になれば、その名は中井主水ではなく「有明」-とばしり-の主水になる、と云いたいらしい。直接には亭主野水の譬えだが、名古屋の町づくりが京文化の写しだった歴史的事実に照らせば、二人主水は、さすがに俳諧師らしいうまい目付だとわかる。

客が「こがらし」を云回しにつかって、都の狂歌師にひとふし持たせた風狂を以て名告れば、相伴は「有明」を云回しにつかって、京大工頭の名にひとふし持たせた杜氏の噂を以て亭主を引き立てる。モデルも、片や草子の人物なら片や実在の人物、どちらも名古屋にゆかりがあるというところがみそである。

作の手順は、発句・脇の仕様から時分を按じて、「とばしる-有明」を見出したか、それとももてなしの趣向として酒に思いつき、「とばしる-酒造」を取り出したか、どちらが先とも云えぬが、これは一途に合うはずだ、と。

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January 22, 2008

いちりん挿の椿いちりん

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」


-表象の森-
 一輪挿しの椿

ひさしぶりに山頭火の句を表題に掲げた。
<連句の世界->を掲載しないときには、山頭火に返り咲いて貰おうという次第だ。
句集「其中一人」に所収されている昭和8年の句。
念願の庵を得てめでたく「其中庵」の庵主となった日が前年の9月20日。
その日、山頭火は「この事実は大満州国承認よりも私には重大事実である」と書きつけた。
同じく12月3日には50歳の誕生日を迎えている。
そして新しい年を迎えて、ひとり静かな喜びにひたる。
1月6日「まづしくともすなほに、さみしくともあたゝかに。」
「自分に媚びない、だから他人にも媚びない。」
「気取るな、威張るな、角張るな、逆上せるな。」
などと記したうえで、3つの句を添えている。
  枯枝の空ふかい夕月があった
  凩の火の番の唄
  雨のお正月の小鳥がやってきて啼く

表題の句「いちりん挿の椿いちりん」は、この後まもなく詠まれたか。
句自体なんということもない月次な句だが、6畳ばかりの座敷に小さな床の間らしきところ、ぽつんと一輪挿しに椿一輪、自身の姿そのものであろうが、やっと得た、ほのかなやすらぎがある。陽光に照り映えた、命の輝きがある。

―今月の購入本-

・広河隆一編集「DAYS JAPAN –忘れられた世界-2008/01」ディズジャパン
特集の忘れられた世界とは、ソマリア、パレスチナ、そしてビルマである。また「薬害肝炎の源流」として731部隊ついても触れている。ほかに「動物の治癒力」の特集、etc.。
・ゲーテ「自然と象徴-自然科学論集」冨山房百科文庫 -中古書
「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へ」、ニュートン以降の自然科学が、自然を眼には見えない領域へ、抽象の世界へと追いやろうとしていたとき、ゲーテは敢えてその敷居の手前に踏みとどまろうとした。彼にとって、直観によって認識された自然像は抽象的な数式ではなく、可視的にして具体的な「すがた」あるいは「かたち」だったからである。形態学と色彩論を軸にゲーテの自然科学論文を、文芸・書簡・対話録をも抜粋しながら、系統立てて編纂・訳出した書。
・ロバート.P.クリース「世界でもっとも美しい10の科学実験」日経BP社
美しい科学実験とは? 著者は「深さ-基本的であること、経済性-効率的であること、そして決定的であること」の3つをその条件として挙げる。帯のcopyには、ガリレオの斜面/斜塔、ニュートンのプリズム、フーコーの振り子など、科学実験の美しさを「展覧会の絵」のように鑑賞する、とある。
・スラヴォイ・ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」ちくま学芸文庫 -中古書
スロヴェニア生れの哲学・精神分析学者であるジジェクは、ナショナリズムの暴走や民族紛争が多発する今日のポストモダン的状況のなか、ラカンの精神分析理論を駆使し、映画やオペラを援用しつつ、カントからヘーゲルまでドイツ観念論に対峙することで、主体の「空疎」を生き抜く道筋を提示する。90年代、「批評空間」に連載された前半部4章に後半部2章を加え、99年太田出版から刊行されたものの文庫版(06年)。
・傳田光洋「第三の脳」朝日出版社
消化器官の腸神経系を「第二の脳」としたマイケル・ガーションに倣って、著者は皮膚もまた「情報を認識し処理する能力において神経系、消化器系に勝るとも劣らぬ潜在能力を有しており、皮膚を第三の脳と位置づけることで、新しい生命観が生まれる」と宣言する。著者は資生堂ライフサイエンス研究センター主任研究員。
・新井孝重「黒田悪党たちの中世史」NHKブックス
伊賀の国名張の黒田荘は、もとをただせば奈良東大寺の荘園であった。長年にわたる東大寺との確執・軋轢から惣国として強固な水平型の結集を果たしていった黒田悪党衆だが、封建的タテ型原理で天下統一をめざす信長の前に敗れ去っていく。
・松本徹「小栗往還記」文藝春秋
著者は説経「小栗判官」を、歴史的仮名遣を用いて、しかも総ルビ付で、現代版の物語として復刻した。中世語り物の世界にいきいきと脈搏つ肉声の響きを甦らせたかったのであろう。
・邦正美「ベルリン戦争」朝日選書 -中古書
日本教育舞踊の創始者である著者は、1936年から45年までドイツに留学、ベルリンに滞在した。ドイツ表現主義の舞踊理論を、ルドルフ・ラバンやメリー・ヴィグマンに師事。ドイツ敗戦間際の5月9日、遠くシベリア鉄道に乗って日本へと帰国するべく、モスクワへ辿り着くまで、10年にわたるベルリン生活の、いわゆるエッセイ風滞在記。
・角田房子「責任-ラバウルの将軍今村均」新潮文庫 -中古書
戦犯として9年の服役を終えた後も、ラバウルの軍司令官今村均には「終戦」はなかった。釈放後もなお14年を生きた彼は、自宅庭先の三畳の小屋に自らを幽閉して戦没者を弔い、困窮している遺族や辛くも生還した部下たちへの行脚の旅が続けられた。
・他に、ARTISTS JAPAN 48-前田青邨/49-浦上玉堂/50-歌川国芳/-渡辺崋山

-図書館からの借本-

・T.シュベンク「カオスの自然学」工作舎
西ドイツの黒い森地方のヘリシュードで流体の研究をする著者は、ルドルフ・シュタイナーの研究者としても知られる。水をひとつの生命体としてとらえることによって、水の未知の性質を把握する一方で、流体の研究を通じて現代文明の歪みを指摘する。
・斉藤文一「アインシュタインと銀河鉄道の夜」新潮選書
ほぼ同時代人であった宮沢賢治とアインシュタイン、この二人の生きざまや自然観の接点を語りながら、古典物理学・相対性理論・一般相対性理論のエッセンスを解説。アインシュタインの神と賢治の法華経を通しての宇宙観の対比など。
・有吉玉青「恋するフェルメール」白水社
著者は有吉佐和子の娘でエッセイスト。フェルメール作といわれている作品は現在、世界に37点。神話が神話をよび、伝説が伝説をつくる。フェルメール・フリークたちは、全点制覇を夢見て世界の所蔵美術館に出かけて行く。
・アートライブラリー「フェルメール」西村書店
17世紀のオランダ絵画を代表するフェルメール。その代表作から貴重な作品までカラー50点を含む多数の図版を掲載・解説してくれる。
・遠藤元男「日本職人史Ⅰ-職人の誕生」雄山閣
日本の古代・中世における職人世界の図説集、452の図版を網羅して解説している。

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January 21, 2008

たそやとばしるかさの山茶花

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 内海辰郷君へ

寒中お見舞い。
さすがに大寒、このところ冷え込み厳しく、山里近くの箕面はちらほらと雪も舞ったのではありませんか。
年詞に代わるFPレター拝読、充実のご活躍と見受けられ、誠に慶賀の至りです。
2年、3年と短いあいだに、FPとしての活躍の場をずいぶんと多彩に拡げられているご様子を見るにつけ、さすがと感じ入っております。
それにしても好事魔多し、災厄・不幸はいつ襲いかかるとも凡俗には計り知れず、まこと一寸先は闇ですね。先の便りでは、厚い信頼を寄せてこられた支援の同志が急逝された由にて、衝撃とともにさぞ悲歎に暮れられたことでしょう。私にとっても一夜かぎりの御縁になってしまったこと、惜しまれてなりません。心よりお悔み申し上げます。

さて、「2月頃に結論を出します」と付記されておられましたが、なかなか難しい選択なのでしょうね。
阿波踊りなら「踊る阿呆に、見る阿呆」で、「同じ阿呆なら、踊らにゃ損々」ですし、吾々のような板の上にのるをもっぱらとする浮かれ者、制外の者ならば、選択の余地もないわけですが、正俗にあって事理をわきまえ誠実に生きんと欲せば、どこまでも冷徹に、客観の動きを見きわめることに尽きるのでしょう。
あくまで初心たる首長の座か、議員としての返り咲きか、あるいはいっさい動かぬか、二者択一ではなく三択問題かと思われますが、還暦を過ぎて残された人生の、おそらくは最後の大事というべき選択であってみれば、どこまでも虚心坦懐、平常心にて決せられることを。

合縁奇縁、奇妙といえば些か奇妙な糸に結ばれたご縁、いずれの選択にせよ、このたびばかりは、お役に立つならいくらでもする所存です。
では、いずれまた。
  08. 戊子 大寒     林田鉄 拝

内海君は2歳下、彼とは切れ切れながらの縁とはいえ奇妙なほどにつながりがある。
同じ九条界隈に育っているが、小学校区は異なり、中学・高校を同じくしたけれど、学校生活では特別の縁はなかった。私の生家からごく近所に叔父の家があり、そこには従弟妹らが4人居たのだが、2歳下の従弟が彼と中学時代親しくしていたと見えて、長じてその従弟の結婚式の司会役を務めたのが彼だった。顔は見知っていた彼の、そんな思わぬ場所への登場に、「おうおう、そうだったのか」と思ったのが初め。

さらに、私が家業から離れ、一人で自営をしていた頃のある日、軽トラックで狭い路地裏にある下請の溶接所に行った際、不覚にも近所の小学生の子どもと接触事故を起こしかけた。幸いにも直かに当りこそしなかったものの、ビックリした子どもははずみで転んで、泣き出してしまった。此方も慌てて子どもの怪我の様子をよく調べたうえで、そのお子さんの家を訪ねたら、なんとその親御さんが彼だった。

さらにもうひとつ、こんどは奧野正美を介して縁があった。奧野が大阪市議になった時、彼はすでに箕面市議となっていた。彼は2歳下の妹と二人兄妹だったが、その妹御が奧野と高校の同窓で、どうやら二人はほのかな淡い想いを抱いた者同士だったと見えて、そんな縁から選挙の応援やらと時に行き来が生じるようになった。

そして昨年の統一地方選挙、西区で立った谷口豊子の選挙では、彼も私も別々の筋から頼まれたのだが、結局ともに支える羽目になり、2.3週間という短い期間ながら、私は参謀役、彼はいわば切り込み隊長よろしく熱戦した。

彼は4年前、5期務めた議員職を退き、同じ箕面の市長選に挑んだのだが、惜しくも一敗地にまみれ、野に下っている。再び市長選に名告りを挙げるか否か、改選は8月、どうやら選択を決すべき時期は差し迫っている。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-02

  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
   たそやとばしるかさの山茶花     野水

次男曰く、野水は名古屋の町方に侘茶をひろめた先覚者で、後に惣町代を退隠しては転幽と号し、もっぱら茶の湯を友とし、俳諧の方は元禄6年頃を境に次第に遠ざかったとみえる。

「とばしる」は「迸る」だが、季語「こがらし」の扱いと云い訪客の体と云い、乾き切ったさまに発句が作られているから、水を向ける工夫をしたらしい。事実、当日は時雨とか雪催しの空だったのかもしれぬ。

「山茶花」は「俳諧初学抄」-寛永18(1641)年刊-以下に初冬として挙げられ、連歌書にはまだ名が出てこない。当時、まだ一般には物珍しかったはず。

客発句・亭主脇、同季に作る、という約束は連句の基本を挨拶と見る現れだが、初冬の風が花木を枯らすことになるかもしれぬ、と告げられれば、受けて、四文字で取り出せる花木はあいにくと山茶花ぐらいしかない。寒椿、早梅、蝋梅などは晩冬である。

はからずも新旧の季語を取り合わせて挨拶の趣向につかえた点が妙である。竹斎と違ってあなたは名手だし、吾々は若い花木だから、枯らされる心配はない、と読めばこれはわかる。「とばしる」に初々しさも現れる。

当時まだ珍しい山茶花は、堀沿いか路地口にでも植えてあったか、たぶんこれは実景だろう。

時に芭蕉41歳、野水27歳、同座の連衆もなおまだ若く、旅人の笠に「とばしる山茶花」は、そのまま名古屋町衆の心意気、かれらの若き日の姿だったと読んでよい、と。

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January 20, 2008

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 連句の世界

塚本邦雄による、曰く「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった」とされる「清唱千首」-冨山房百科文庫-から、毎回2首を採りだし邦雄の解説とともに書き留めてきたのも500回を数え、前夜でようやく終えたことになる。
つづいてなにを採り上げるべきかと、いくつか思いめぐらせてみたが、わが四方館の身体表現、その即興のPerformanceを「連句的宇宙」などと事大に形容して憚らぬ厚顔の輩なれば、やはりここは一番、蕉風連句の世界にしくはないと思い定めた。
その昔折々に読んだ安東次男氏の「芭蕉連句評釈」-講談社学術文庫刊の上下本-をテキストに引いてゆくことになるが、この詳細な解釈・評言から要の部分を点描するのは、なかなかに骨も折れようし、浅学のわが身には荷が重すぎること必定、とんだ見当違いを犯すこと度々になるやもしれず、なにかと失笑やら叱責を買うことになろうが、そこは誰のためのものでもない、なによりこの痴れ者が手習いの忘備録、ここは恥も外聞もなく開き直ってはじめるより外はない。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-01
この歌仙は、貞享元(1684)年10・11月、「野ざらし紀行」中の芭蕉を迎えて名古屋で興行された「冬の日-尾張五歌仙」所収の最初の巻である。
この時、芭蕉41歳。他の連衆は、野水(ヤスイ)27歳、荷兮(カケイ)37歳、重五(ジュウゴ)31歳(?)、杜国(トコク)28.9歳(?)。

  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉

前書に「笠は長途の雨にほころび、帋子(紙子)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と。

次男曰く、藤原定家が建仁元(1201)年)千五百番歌合に出詠の恋歌
「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露」
まず初句切れに詠み起こし、秋に飽き、木枯しに焦がらし、杜には守を掛けて、こがらしの杜は駿河の国と歌枕に聞かされているが、凋落の杜を守る下露のような自分には、それどころではないと、云回しの曲を尽くしている。
歌枕に面影をとどめて跡絶えた、由緒ある恋の詞を芭蕉が、知らなかったなどということはありえない。再興してみたい、とも俳諧師なら当然思うはずだ。
「こがらしの、身は竹斎に似たる哉」、「こがらしの身は、竹斎に似たる哉」、両方に読ませるところが俳句という形式の面白さで、前なら「こがらしや身は竹斎に似たる哉」と言っても同じだが、後の方は自ずと二義にわたる。それを利用して、恋ならぬ、句の道に痩せると知らせたければ、「狂句こがらしの身は」としか云い様があるまい。
さらには、仮名草子「竹斎」の諸板に見える
「無用にも思ひしものを薮医師(クスシ)花咲く木々を枯らす竹斎」という戯れ歌。
芭蕉は、この戯れ歌を目当てとしたか、なれば「むかし狂歌の才子、国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と、ことわったうえで句を以て名告りとしたのであろう。
そこに気がつけば、私も竹斎同様にあたら花のある木々(あなたがた)を枯らしかねない、という虚実含みを利かせた謙退の挨拶も自ずと読み取れるはずだ、と。

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January 19, 2008

明日よりは志賀の花園まれにだに‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 鳥越修二君へ

 寒中お見舞。
年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めたので、悪しからずご容赦。
斯様に年詞ばかりの往返となってもう20年ほども経つのだろうか。
そういえば、夜分だったと記憶するけれど、一度きり西大寺のお宅にお邪魔したことがあったが、あれはいつ頃のことだったのだろう? なんでそういうことになったか経緯もなにも、車を走らせ何故か菖蒲池の側を通って行ったかと思うが、想い出そうにもそれ以上のことは少しも浮かんでこない。あの時、もうお子さんが生まれていたのだっけ、ひょっとするとそれで行ったのだったか?
そうそう、君の父上が亡くなられた折、弔問に宇治の萬福寺近くに伺ったこともあったが、あとさきでいえば、さてどちらが先だったのか?
それ以後、萬福寺へはたしか二度訪ねたことがある。中国風だという些か世俗臭のする滋味あふれた十八羅漢像が印象深く、一度は年の瀬も近かった頃なのだろう、その羅漢たちがプリントされた暦を買って帰ったのを覚えている。

さて私はといえば、奧野正美が大阪市議に初当選したのが87年、この時は君も影で動いて票を集めたと言っていたね。その翌年、私は彼の事務所に身を預けるように転身した。四方館という名を外さなかったものの、裸同然のゼロスタート、生き直しのようなものだった。以後丸12年を事務所で過ごして、独りで小さなofficeを構えたのが00年、それも2年前に畳んで、今は自宅で隠居同然といえば聞こえはいいが、日々読書三昧やら幼な児相手に細々と暮らす身だ。
そうだ、君も知らないままで吃驚させてしまったらまことに恐縮だが、私の現在の同居人たちは、27歳下の妻と、この春小学校へあがる6歳の娘との3人家族だ。健康診断や人間ドックなどさらさら縁もなく、昨年2月に左肩鎖脱臼で3日ほど入院したのが病院暮らしの初体験で、呼吸器臓器など異状の心配は露ほどもないような私だから、おそらくこの先、この形で10年、15年を生きるだろう。まだまだ残された時間はかなりあるようだから、いつかどこかで、懐かしく相見える機会も訪れようか。

君に向かってこうして綴りながらも、その傍らどうしても脳裏に浮かんで消え去らぬもの、それは馬原雅和の面影であり、東京での、その事故死の通夜の光景だ。
あの夜、遠く宮崎から駆けつけた彼の父親と弟さんから「生前はお世話に、云々」と丁重な挨拶を受け、ただ黙するのみだった私‥‥、なんという皮肉、なんという悪戯。
  08 戊子 1.18   林田鉄 拝

私は1974(S49)年の春から1981(S56)年の7年の間、関西芸術アカデミーの演劇研究所・昼間部に、週1回2時間・1カ年の身体表現の講座を担当していた。昼間部研究生でいえば4期生から10期生までにあたるはずだが、鳥越修二君はその6期生だった。馬原雅和君は4期生、私がアカデミーで指導した初めての生徒だ。
両君とも1カ年の研究生を了えて、それぞれ劇団に入団していたのだが、私との繋がりもまた保っていた。78年の「走れメロス」の準備に入った頃(77年)は、彼らは相前後してともにアカデミーを辞し、私方の研究生となっていた。
馬原君が演劇への新しい夢を追って東京へと、私の元を離れていったのは80年春だったが、その翌々年の春先か初夏の頃だったか、ある劇団に所属しながらアルバイトに明け暮れていた彼は、深夜というより明け方近か、首都高速上での工事車両の架台上で作業中、暴走した居眠り運転のトラックが激突、彼の身体は宙に舞って高架から地上へと落下、墜落死した。即死あるいはそれに近いものであったろう。
宮崎県の高鍋町出身だった彼は、180㎝を優に越える長身だが、木訥・篤実を絵に描いたような人柄で、地味ながら周囲から信頼の集まるタイプだった。惜しまれる無念の死であった。
鳥越君は京都宇治の人、隠元を祖師とする黄檗山萬福寺を中心にして煎茶の家元各流派が組織されているようだが、そのなかの一派をなす家元の家に生まれたと聞くも、彼自身は一時期レーサーに憧れたようないわゆる現代っ子で、モダンな一面と義理堅く古風な気質を併せもった青年であった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-110>
 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは問はむ春のふるさと  藤原良経

新古今集、春下、百首奉りし時。
邦雄曰く、新古今集春の巻軸歌は正治2(1200)年後鳥羽院初度百首・春二十首のこれも掉尾の一首。微妙な呼吸の二句切れ、朗々と、しかも悲しみを帯びた疑問形四句切れ、体言止め、古今の名作と聞こえ、その閑雅な惜春の調べは現代人の琴線にも触れよう。志賀の花園は天智帝の故京で桜の名所として聞こえていた。明日とはすなわち夏、四月朔日を意味する、と。

 行く春のなごりを鳥の今しはと侘びつつ鳴くや夕暮の声  邦輔親王

邦輔親王集、三月盡夕。
邦雄曰く、、惜春譜の主題を鳥に絞った異色の作。鶯と余花・残春の拝郷は珍しいが、春鳥の、それも「夕暮の声」に象徴したところがゆかしい。三月盡を「今しは」と感じるのは、鳥ならぬ作者自身、縷々として句切れのない調べも、歌の心を盡して妙。同題に「慕ひても甲斐あらじかし春は今夕べの鐘の外に盡きぬる」があり、これもまた「鳥」に劣らぬ秀作、と。

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January 18, 2008

たちどまれ野辺の霞に言問はむ‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 時夫兄へ

 寒中お見舞。
「美ら海」公演、盛況裡に無事終えられたことと推察、お疲れさまです。
師走の会合では相も変わらず同胞寄れば乱調を呈する倣い未だ修まらず、またしても不興を買ったようで恐縮の至り、一言陳謝申し上げます。

近親にあってその愛憎はとかく自制効かず赤裸々に表れやすいものとの分別はあっても、ほぼ年に一度きりの寄合に、滅多に顔を合わせぬ者同士が会えばかならず一波乱あるは、四十、五十と齢を重ね、四角の角もほどよく取れて、他人様からはようよう円くなったものと評されるというのに、これも他人様と違ってなに憚りない骨肉ゆえと思うけれど、すでに赤子に還って三つ四つと歳を重ね、おのが人生もそろそろ黄昏時なのだから、いかなる場合においても互いに他者としてきちんと必要な距離を置けるようにありたいものです。

さてここからが本題ですが、近頃読んだ本で「砕かれた神-ある復員兵の手記」(岩波現代文庫@1100)というのがあります。砕かれた<神>とはもちろん昭和天皇のこと。著者の渡辺清は、静岡県富士山麓の農家に生まれた次男坊で、高等小学校を卒えてすぐ志願して海軍の少年兵となり、昭和19年10月のレイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の砲兵だったが、奇跡的に生還した人。終戦を迎えて復員後の虚脱感のなかで、生家へ身を寄せた昭和20年9月から再起をかけて故郷を立つ21年4月までを、嘗ては限りない信仰と敬愛を捧げ、生きた偶像であった天皇の、戦中-戦後における<神から人へ>の変貌を正視しつつ、その像の瓦解と幻滅、そして怒りと否定へと、自身の天皇観の劇的な変化を、田舎暮らしの生活感あふれる細部とともに、日記の体で綴っているもの。厳密にいえば、本書初版は昭和52(77)年だから戦後30余年を経ており、部分的には後書きともいえる文章整理がされていると見られるのだが、それはたいした瑕疵にはなりますまい。素直に読んでなかなか感動ものです。

再起後の彼は働きながら進学、後年、作家・野間宏を囲み、雑誌「思想の科学」の研究員を経て、「わだつみのこえ」-日本戦没学生記念会-の事務局として活動、本書の他に「海の城」「戦艦武蔵の最期」「私の天皇観」の著書があるようです。余談ながらジョン・ダワーの大著「敗北を抱きしめて」(上下)のなかで、著者と「砕かれた神」について20数頁にわたって触れられています。

こういったものが劇化されるのを私などは望むのだけれど、さて其方の眼鏡に適うかどうかはなんとも図りかねますが、一度読んでみてはとお奨めします。
  08 戊子 1.17   林田鉄 拝

時夫は一卵性双生児の兄、一家の三、四男として、ともに生れともに育った。
高校卒業まで常に一緒で、クラブまで同じで、まさにシャム兄弟同然だったが、大学で関学・同志社と分かれた。
物心ついた頃から濃厚な親和力に包まれていた二人が、果敢な青春期を異なる道へと歩みはじめた時、反感情が渦巻き、激しく牙を剥きあった。この間の事情をあきらかに書き留めるには相当な労苦を要するので、いまはこれ以上触れない。
間遠になってから40年余となるが、たがいに大阪を離れることはなく、現在もともに市内に住んでいるのだが、相見える機会といえば、冠婚葬祭の類かどうにも避けられぬお家の事情といったところで、年に一度か二度きり。
年詞のやりとりもないから、書面をもって音信するなどもちろん初めてのことだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-109>
 たちどまれ野辺の霞に言問はむおのれは知るや春のゆくすゑ  鴨長明

鴨長明集、春、三月盡をよめる。
邦雄曰く、命令形初句切れ、願望形三句切れ、疑問形四句切れ、名詞止めという、小刻みな例外的な構成で、しかも霞を擬人化しての設問、好き嫌いはあろうが、一応珍しい惜春歌として記憶に値しよう。晩夏にも「待てしばしまだ夏山の木の下に吹くべきものか秋の夕風」が見え、同趣の、抑揚の激しい歌である。いずれも勅撰集に不截。入選計25首、と。

 春のなごりながむる浦の夕凪に漕ぎ別れゆく舟もうらめし  京極為兼

風雅集、春下、暮春浦といふことを。
邦雄曰く、結句に情を盡したところが為兼の特色であり、好悪の分かれる点だ。初句六音のやや重い調べも、暮れゆく春の憂鬱を写していると考えよう。作者の歌には、表現をねんごろにする結果の字余りが、多々発見できる。風雅集は巻首に為兼の立春歌を据え、計52首を選入した。人となりは「快活英豪」であったと、二十一代集才子伝に記されている、と。

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January 17, 2008

根にかへるなごりを見せて木のもとに‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-表象の森- 客観が動く

吉本隆明が「思想のアンソロジー」(P21)で「イエスの方舟」の千石イエスが使った表現として言挙げしている。
以下、吉本の解説に耳を傾ける。

「鮮やかに耳や眼にのこる独特な、水際だった言葉で、とてもいい言葉だと思う」

「意味は、<自分の魂の動き(心の動き、情念や理念状態)とは違った外側の条件が変わる>ということだと受けとれる」

「信仰は(主観)は無際限に自由で限界など一切ないけれど、客観的な情況の変わりように従って形は無際限に変わるものだという、千石イエスの宗教者としての真髄がこの独特の言い方のなかに籠められている気がする」

「わたしは比喩的にこの宗教者を、受け身でひらかれている点で、中世の親鸞ととてもよく似た宗教者だ思う」

「客観が動けば、信仰(主観)はそのままで変わらなくても、信仰(主観)の行為は変わりうる」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-108>
 今日暮れぬ花の散りしもかくぞありしふたたび春はものを思ふよ  前斎宮河内

千載集、春下、堀河院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる。
邦雄曰く、千載・春の巻軸歌に採られただけのことはある。選者俊成の目は各巻首・巻軸に、殊に鋭い。初句切れ・三句切れ・感嘆詞止めの構成は、惜春の情纏綿たる趣をよく伝えた。第三句の字余りで、たゆたひを感じさせるあたり、選者は目を細くしただろう。下句の身をかわしたような軽みも面白い。作者は斎宮俊子内親王家女房、勅撰入集は計6首、と。

 根にかへるなごりを見せて木のもとに花の香うすき春の暮れ方  後崇光院

沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春。
邦雄曰く、和漢朗詠集の閏三月に藤滋藤作「花は根に帰らむことを悔ゆれども悔ゆるに益なし」云々の詩句あり。出典未詳の古語を源とするが、これの翻案和歌は甚だ多い。後崇光院は十分承知の上で、「花の香うすき」の第四句を創案、一首に不思議な翳りを与え、非凡な暮春の歌とした。散り積った花弁の柔らかな層まで顕つ、巧みな修辞である、と

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January 16, 2008

ながめやる外山の朝けこのままに‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 三好康夫さんへ

 寒中お見舞い申し上げます。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

昨夏は、神戸学院Green Festivalの「山頭火」に、明石の山手という遠方まで、わざわざお運びいただきありがとうございました。「山頭火」につきましては、たびたびのご愛顧ご贔屓に与り、まことに感謝に堪えません。
大文連のほうも、私とほぼ同年の高田昌君が会長にと、ぐんと若返った陣容となり、ながらく沈滞気味の関西文化に大いに刺激剤となるのを期待したいものですね。

敢えて高田君としたのは、昔は彼とも縁の深い一時期もあった所為なのですが、70年代、彼が関芸を退き、舞台監督として自立をはじめた頃でしょうか、照明の新田君の強い薦めもあって、私方の舞踊や演劇公演で舞監として支えて貰っていたのです。高田・新田両君という、私にすれば最良の舞監・照明コンビがStuffとして、この時期よくその才を発揮し、支えてくれたからこそ、78(S53)年の「走れメロス」へと結実し得たのだという想いは、昔も今も変わりません。

さらに遠く十年ばかり遡って66(S41)年の春、「港文化の夕べ」なる、いまでいう港区民ホールで行われた地域文化の小さな催しが、大先達の貴方と私の出会いでありました。私たちは、当時大阪税関であった労働争議を描いた創作劇に関係者より依頼を受け、演出及び協力出演をしたのでしたが、この終演後に貴方からさりげなくいただいた一言が、弱冠21歳の私にとっては忘れ得ぬ宝となって、いまなお鮮やかに胸中深く抱かれております。
後にめぐりめぐって、大文連事務局の西美恵子女史の夫君が、当時の税関労組の闘士であり、この創作劇の出演者でもあったという、そんな不思議な縁の糸に繋がっていたとは、さすがに驚き入ってしまいましたが‥‥。

翌67(S42)年の春、遅まきながら私は、関芸演劇研究所に第11期生として入所します。当時の指導責任者は道井直次さんでしたが、12月になって前期卆公のレパ選の際、私が推した作品で一悶着あって、私は研究所を退いたのでした。この時、問題の収拾に指導力を発揮されたのが小松徹さんで、これまた十年を経て、その小松さんと「走れメロス」で協働することになるのでした。
まこと人と人との綴れ模様、不可解ともまた隠れたる糸ともみえ、おもしろ可笑しきものですね。

なにはともあれ、朝夕の冷え込みも厳しくなり、ご高齢の御身、呉々もお気をつけてお過ごし下さいますように。  
  08戊子 1.16  林田鉄 拝

三好康夫さんはもう90歳にも届かれよう高齢の大先達。
関西芸術座の創立メンバーであり、劇団にあって主に制作や経営の人。私が初めてお逢いした67(S42)年当時は代表者であったはずだ。
関芸は創立時から演出家であり俳優でもあった岩田直二氏が代表を務めたが、中ソ論争の激化のなか、63(S38)年に志賀義雄らが日本共産党に除名されるが、こういった路線対立の紛争が劇団にも影を落としたのであろう、岩田直二が代表を退き、中間派の三好さんが推されてなったのであろう。
60年代から70年代、政治と文化のあいだは党派性をめぐる相剋にたえず揺れ動いた時代でもあった。その激しい波のなかで、やがて三好さんも代表の座を辞し、関芸を去っていく。
その三好さんが中心になって、大阪府内を拠点に活動する芸術・文化団体の相互交流のため、大文連(大阪文化団体連合会)を全国に先駆けて結成するのが、いまから30年前の78(S53)年である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-107>
 つれなくて残るならひを暮れてゆく春に教へよ有明の月  二条為世

新後撰集、春下。
邦雄曰く、命令形四句切れの擬人法、技巧を盡した第一・二句あたりが、二条家流の特色でもあろう。鎌倉時代後期の歌風は、新古今調に今一つの新生面を拓くことに懸命な様が見られる。この歌は後宇多院在位時代に、「暮春暁月」の題で歌を召された時のもの。「て」が重なるところが煩わしいが、口籠りがちに歌い継いでゆく呼吸も感じられて捨てがたい、と。

 ながめやる外山の朝けこのままに霞めや明日も春を残して  藤原為子

玉葉集、春下、暮春朝といふことを人々によませさせ給ふけるに。
邦雄曰く、作者の玉葉集入選56首、春は6首を占め、いずれも心に残る調べだが、春下巻末に近い、「外山の朝け」は一入に余情豊かである。「このままに霞めや」の、願望をこめた命令句が、上・下句に跨るあたりも格別の面白さで、結句の「春を残して」なる準秀句が一際冴える。調べの美しさは、春の巻軸歌、為兼の三月盡を歌った作を凌ぐ感あり、と。

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January 15, 2008

あさましや散りゆく花を惜しむ間に‥‥

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-温故一葉- 旧師河野二久さんへ

 寒中のお見舞いとともに年詞に代えて一筆啓上申し上げます。
一昨年の九条南小同窓会以来ご無沙汰しておりますが、恙なくご壮健にてお過ごしのことと推察、またご趣味の版画のほうにも腕を奮っておられるご様子にて、併せてお慶び申し上げます。

同じく一昨年の春でしたね、所属されている版画のグループの「コゲラ展」に同窓有志連れ立って大挙?してお邪魔しましたが、その後二次会よろしくみんなで和気藹々と過ごしたのも愉しい時間でありました。
今年も三月頃には同じ真砂画廊で開催され、先生も自作出品されるのでしょうね。其の折はご足労ながら是非お知らせください。またみんなに呼びかけてお邪魔しようかと思っておりますので。

先生の生い立ちの話などお聞きしようと不躾にもお宅をお訪ねしたのが、もう二年余り前になるというのに、つい先日のように鮮やかに想い起されます。奥様にも初めてお目にかかりましたし、その節、若い頃は中加賀屋の幼稚園に勤務されていたと伺い、吃驚してしまいました。
私が、お二人ともども縁の深い現在の地-東加賀屋-に引っ越してきた際には、この付近を歩いては、小学校の4年生の時でしたか、二年上の小間(?)さんに連れられ、汐見橋の駅から電車に乗って、中加賀屋にある教職員住宅の先生のお宅に遊びに行った時のことが、懐かしく思い出されたものでした。

その教職員住宅は、建物のほうはもちろんとっくに建て替えられていますが、おそらく昔と同じ場所に在るのでしょう。二階だったか三階だったか、コンクリ-トの階段をトコトコ昇っていく幼い頃の自身の姿がモノクロの映像のように甦ってきて、その細い一本の記憶の糸が、知り合いとていないほとんど見知らぬはずのこの地を、なにやら昔からゆかりのあるものと感じさせ、ほのかな温もりを与えてくれたものでした。

現在地に落ち着いてもう十年を経ようとしていますが、この先もうおそらく動くことはありますまい。私にとっては終焉の地となるのでしょうね、きっと。
大寒も近く、急に寒さが厳しくなりましたが、風邪などお気をつけて、いつまでも若々しいお姿そのままに、のんびりゆったり、ご長寿を謳歌されますことを。 
  08戊子 1.15  林田鉄 拝

旧師河野さんは小学校時代5年と6年の担任。それがどうしてか担任になる前の春休みのことだったか、その頃よく遊んで貰っていたのだろう、2年上の小間さんという今でいえば少々肥満タイプの兄貴分が、卒業式を終えたばかりの記念にか、先生宅の訪問をすると言って、連れに私を誘って二人して汐見橋の駅まで歩き、南海のチンチン電車に乗って、中加賀屋の教職員住宅を訪ねたのである。当時の先生はまだ独身で、ご両親夫妻と三人住まいであったように記憶するが、そのお宅でどのように過ごしたかは判然とせず、なぜか外階段を昇っていく自分の像がやけに鮮明に残っている。
当時まだ30歳前だった先生は、放課後の時間を校門の閉まるまで毎日のように、とにかくわれわれ子どもらと一緒になってよく遊んでくれた。50人のクラスの半数以上はいつも残っていたろう。大概はドッジボールに興じ、集団の縄跳びなども定番だったが、野球などはあまり得意じゃなかった私が、ドッジや縄跳びはどちらも結構得意にしていたようで、おそらく一日たりとも欠かさず遊んでいたはずだ。

若草山の山焼きは、今年は13日であったとか。
その山焼きを歌った「春日野は」の歌は、以前に一度この欄で紹介したことはあるが、その際、塚本邦雄の解説には触れていないので、重なるが今日の<歌詠み->に置いた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-106>
 春日野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり吾れもこもれり  よみ人知らず

古今集、春上、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語の第十二段には、盗賊に誘拐されて妻となった娘が夫の命乞いをする歌を、初句「武蔵野は」として挿入する。「春日野」のほうは、野遊びの夫が妻を率いて歌うのどかな調べ。夫・妻の枕詞「若草の」が、この歌では、萌え出た双葉、初花の草々を兼ねる。「こもれり」のルフランも、武蔵野は哀切に響き、春日野のほうはかろやかに弾む、と。

 あさましや散りゆく花を惜しむ間に樒も摘まず閼伽も結ばず  慈円

拾玉集、百首和歌、春二十四首。
閼伽(アカ)-梵語 argha;arghya 貴賓または仏前に供えるもの、特に水をいう、功徳水。-閼伽棚・閼伽桶
邦雄曰く、桜花との別れの悲しみに浸って、うっかり時の経つのも日の過ぎるのも気がつかず、はっと我れに還ってみれば、ながらく仏前の供花の樒を採るのも、水を汲むのも怠っていたと、僧侶にもあるまじき心の緩みを白状する。頭掻きつつ哄笑するさまが眼に浮かび、磊落で俗にも通じた作者の個性が遺憾なく表れ、王朝和歌中では、珍重すべき生活詠か、と。

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January 13, 2008

霞めただ朧月夜の別れだに‥‥

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-表象の森- 乞骸骨表

吉本隆明の比較的最近の著書に「思想のアンソロジー」(07年1月初版)というのがある。
著者自らあとがきで、「この本は日本国の思想史論を意図した研究の記述ではない。はじめからそんなことは考えもしなかった。ただ私自身の心にかかっている古代から近代までの思想に関与している記述を勝手気ままに択んで、気ままな解説や註をつけてそれを批評や批判に代えたかった。ただ、私自身がリアル・タイムで読んだ時代の書物には多昌の実感をこめたつもりでいる。」と記すように、奔放で意表を衝いた素材の選択と衰えを知らぬ縦横無尽の舌鋒が、著者自身の思想の深みに惹き込んでじっくりと読ませる。
さしあたり、材の簡潔なるも珍なる一片の句を、書き留めておこう。

「乞骸骨表」-骸骨を乞うの表

時は奈良朝、神護景雲4(770)年9月、右大臣吉備真備が公職引退の旨提出した辞表の表題として認めたもので、文意は「隠退の願いをお許し下さい」、この手の文書としては最古のものといわれる。
遠く現代の感覚からすれば意想外の「骸骨を乞う」という表記の面白さ、
これに吉本は「この言い方は中国式のものだ。現在の日本語の感覚で受け取れるように、<人間の骨ばかりになった身体を下さい>とか、<死んで骸骨になりたい>という意味にもならない。<骸骨>とい言葉が暗喩となっている中国式の綾をつけた表現」だと説く。
この辞表の背景には、この年(770)、真備を重用していた称徳天皇が崩じ、後継争いの末、左大臣藤原永手らの推した天智系の白壁王が即位し光仁天皇となり、彼の推した天武系の大室大市は斥けられたのである。
皇統に関与する勢力争いと、この時すでに75歳という老残の身である。真備の辞意は、一旦は慰留され、翌年再度の辞職願にて許され、隠居の身となり、宝亀6(775)年に薨去した。

以下吉本の解説の要点を引く。
「興味深いのは、現在、上役と衝突しても、対立きわまって追放同然であっても、辞表には<一身上の都合により>と書く習慣は、もう古典古代からはじまっていることだ。そこにはたくさんのアジア的な根拠と理由があるだろうが、その文体的な理由は、中国語を公文書の正規の公用文の形式に決めたことからきていると言えなくもない。」
「中国4千年の文化の高度さを、背伸びした採用したために、急速に上層からアジア的段階に入ったものの、原始や未開の遺制は<本音>になり、中国古代の様式は<建て前>となって二重化したとも言えなくもない。」
「この真備の<乞骸骨表>は簡明な名文で、現在に至っても官公職や株式会社を辞任退職する場合の<辞表>の模範だが、別の意味では事の真相に触れず一身上の都合にしてしまう、日本だけでなく東洋の悪習の元だとも言える。要するに一身上のことと、公的・社会的なこととの区別があいまいなのだ。」
「吉備真備の<乞骸骨表>は、東洋的道義で個の全体を覆おうとする礼儀と、個の恩愛を隠そうとする礼節(社交)を能く象徴して興味深い。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-105>
 霞めただ朧月夜の別れだにおし明け方の春のなごりに  後崇光院

沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春霞
邦雄曰く、伏見宮貞成親王43歳の春の別れの歌。初句切れとはいえ、声を呑むような響をこめ、「別れだに惜し」と「押し明け方」とが、第三・四句で裂かれつつ一つになるあたりも、特殊な味わいである。ついに帝位に昇ることなく、第一子が後花園天皇になったため、晩年太上天皇の称号を受けた。管弦のたしなみ深く、殊に琵琶は名手と伝える、と。

 行く春の今はのなごり霞みつつえぞ言ひ知らぬ今日の面影  法性寺為信

為信集、春、暮春。
邦雄曰く、惜春歌といえば各勅撰集、各家集に、必ず春の部の終りに暮春・三月盡と題して、残る日数の少ないのを歎くのは常道だが、この歌は春の名残とその面影の漠として捉えがたいことを、述べてそのまま調べに変え、独特の魅力を生んだ。作者は後鳥羽院が隠岐配流のみぎり、肖像を描いた絵師信実の曾孫、13世紀半ばの生れで、勅撰入集28首、と。

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January 12, 2008

暮れぬべき春のかたみと思ひつつ‥‥

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-世間虚仮- 地球儀回収騒動

触れるとその国の地理や文化などを音声案内する高機能地球儀なる学研トイズの「スマートグローブ」やタカラトミーの「トーキンググローブ」の回収騒ぎやら販売中止で話題になっている。
問題の発端はといえば、これら地球儀の生産が中国の工場であったため、その地理表記が「中国仕様」となったことにある。
具体的には、台湾(中華民国)について「台湾島」と表記、中国領土として色塗られており、さらには、帰属未定として白表記となるべき北方領土の千島列島や樺太の南半分がロシア領として表示されている、という。
すでに両社ともホームページに「お詫び」声明を掲載、15日より返品希望者には購入代金で引き取るとし、販売中止にするようだが、学研サイドの弁解にもならぬ経緯説明があまりにも常識を欠くとして火に油を注ぐ結果となっている。
曰く「もともと香港のメーカーが開発し、日本語版の製造、販売権を当社が取得した。当初は日本の学校教科書同様の表記をするつもりだったが、工場が中国にあり、中国政府から表記を変更しないと日本への輸出を認めないと迫られた。すでに玩具ショーなどで注文が殺到していたので、仕方なく中国政府の指示に従った」というお粗末さ。
教材玩具とはいえ「地図」という各国事情の根幹に関わるものであってみれば、この国なら国土地理院のそれに準拠せざるをえず、その認識の甘さ、非常識さは眼を覆うばかりだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-104>
 暮れぬべき春のかたみと思ひつつ花の雫に濡れむ今宵は  大中臣能宣

能宣集、弥生の晦日がたに、雨の降る夜、春の暮るるを惜しみて侍る心を。
邦雄曰く、桜花のこぼす露は淡紅に匂うだろう。それこそ、この春のなごり。逝く季節の形見に、今宵は樹下に眠り、花の雫のほしいままに濡れてみよう。着想は奇に似て切実、かつ、優雅である。大中臣能宣は梨壺の五人の一人。殊に春の歌に秀作が目立つが、「花の雫」はなかでも一、二を争う歌。なほ、百人一首歌「みかきもり」は作者誤伝とする説あり、と。

 散りまがふ花城木の葉に隠されてまれに匂へる色ぞともしき  大江千里

千里集、夏、餘花葉裏稀。
邦雄曰く、宇多天皇に奉った家集、一名句題和歌は寛平6(894)年4月25日付の漢文序が冒頭に置かれる。「側(ホノカ)に言詩をば聴けども未だ艶辞をば習はず」と謙遜の詞を連ねているが、百余首、「朧月夜にしくものぞなき」を含めて秀歌が多い。観照の細やかさは第三句「花は木の葉に隠されて」にも明らかに感じ取れる。結句を「色ぞともなき」とする本もある、と。

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January 10, 2008

さだかにぞ寝覚めの床に残りける‥‥

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-温故一葉- 河東けいさんに

年詞に代えて一筆啓上申し上げます。
お年賀拝見致しました。老いて益々意気盛んと、大先輩に向かってそんな形容をしては失礼千万なのでしょうが、毎年ご年詞に記されたご活躍ぶりを見るにつけ、まさに倒れ盡きるまで現役の、強い想いがひしひしと此方の胸に迫りきて感に堪えません。

思えば小松徹さんを介して共に協働させていただいた「走れメロス」より早くも30年が経たんとしております。光陰矢の如しとは、私にすればあまりに月次に過ぎるようで、「メロス」までのひたすら上を見て駆け抜けた15年と以後の30年では、その対照もきわまれりの感、想いはさまざま錯綜すること尽きませぬ。

それはさておき、もう何年になるのでしょうか、ご自身が海外へ数ヶ月の研修に行かれるとかで、不要になったという山頭火の句の日暦をわざわざ送って戴いたことがありましたね。まさにあれは嬉しい贈り物でありました。その年の暮れるまで仕事場の机に置いて愛用、一日々々を愉しませていただきました。送られた折り、驚きつつもお礼の電話を差し上げたきりで、あらためてのお礼、言上致します。

いまこれを書きつつ、ご年詞を眺めては、ふと気がついたのですが、芸名を「河東」とされたのは、本名「西川」から、西を東に、川を河にと転じた、洒落づくしだったのですね。何度も同じ差出人欄を見てきたはずなのに今まで気づかぬとは、まったくとんだ粗忽者ですね、お笑いください。

昨年は再びの「セールスマンの死」を拝見すること叶いましたが、ひとり芝居のほうも機会ありましたら是非ご案内ください。かならず駆けつけたく思っております。
「いつまでも若々しく、動きつづけて下さい。」とのお言葉を頂戴しましたが、まさに貴女にこそ相応しい謂いでありましょう。
いつまでも若々しく、倒れ盡きるまで舞台を!
  08戊子 1.10  四方館・林田鉄 拝

河東けいさんは関西における大先輩の女優。
1925(T14)年生れというから、今年11月の誕生日がくれば83歳になられる。
略歴によれば舞台へのデビューは‘55(S30)年、クライストの「こわれがめ」とあり、演劇世界に投じたのは意外と遅かったようである。
在阪の3劇団が合同して関西芸術座が誕生したのは‘57(S32)年であるから、もちろん創立時のメンバーの一人だが、その前身が五月座・製作座・民衆劇場のいずれに在籍したかは、ご本人に確かめたこともなく不明。
書中で少し触れたように、私には‘78年の「走れメロス」で演出の小松徹さんともどもご一緒いただいた有難き人。当時すでに50代になっておられたのに、コロスの長といった役回りで、20歳前後の若い男女たちに交じって汗ほとばしらせ奮闘していただいたのは忘れ得ぬ一齣。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-103>
 吹く風ぞ思へばつらき桜花こころと散れる春しなければ  大弐三位

後拾遺集、春下、永承五年六月、祐子内親王の家に歌合し侍りけるに。
邦雄曰く、桜の花はいずれの春にも、自分の心から、散りたいと思って散ったことはない。すべては理不尽な風の所為だと思う。11世紀の真中の晩夏、母紫式部よりも豊かな歌才に恵まれていた作者も、既に老年にさしかかっていた。古今集以後の落花詠中に、花になり変わっての悲しみを述べた歌が果たして幾つあったか。大弐三位の発想の自在、嘉すべし、と。

 さだかにぞ寝覚めの床に残りける霞みて暮れし花の面影  貞常親王

後大通院殿御詠、夜思花。
邦雄曰く、あたかも花を愛人のように具象化・擬人化して、夜々を共にしたかに錯覚させる。痕跡などあろう筈もない。抽象の「花」の過ぎ去った面影が、残り香、移り香さながら、寝室に漂っているのか。類歌がありそうで実はまことに個性的な惜春歌。同題の「これもまた山風吹けばとだえけり花にかけつる夢の浮橋」も、巧みな定家本歌取りである、と。

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January 09, 2008

はかなさをほかにも言はじ桜花‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-表象の森- 賢治の緊那羅と四次元時空

先ずは岩波の仏教辞典を引く。
「緊那羅」はサンスクリット語kinnaraの音写。
歌神、天界の楽師で、特に美しい声をもつことで知られる。もとインドの物語文学では、ヒマラヤ山のクベーラ神の世界の住人で、歌舞音曲に秀でた半人半獣(馬首人身)の生き物として知られたが、仏教では乾闥婆(ケンダツバ)とともに天竜八部衆に組み入れられ、仏法を守護する神となった。
わが国では「法華文句」に見られる、香山の大樹緊那羅が仏前で8万4千の音楽を奏し、摩訶迦葉がその妙音に威儀を忘れて立ち踊ったという故事が著名。

宮沢賢治が篤く法華経に帰依し、田中智学の国柱会に入信していたことはよく知られるところで、「天の鼓手、緊那羅のこどもら」と「法華文句」のこの故事に倣った詩句が、「春と修羅」の中の長編詩「小岩井農場」に見られるのも人口に膾炙することたびたびである。

「小岩井農場・パート四」
  いま日を横ぎる黒雲は
  侏羅や白亜のまつくらな森林のなか
  爬虫がけはしく歯を鳴らして飛ぶ
  その氾濫の水けむりからのぼつたのだ
  たれも見てゐないその地質時代の林の底を
  水は濁ってどんどん流れた
   -略-
  すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
  ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
  またほのぼのとかゞやいてわらふ
  みんなすあしのこどもらだ
  ちらちら瓔珞もゆれているし
  めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
  緑金寂静のほのほをたもち
  これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら

また、引用の詩句冒頭の「侏羅(ジュラ)や白亜」の用語に見られるように、少年時代、鉱物採集などに熱中する地質学徒でもあった賢治は、その同時代とりわけ世界を席巻したアインシュタインの相対性理論に魅了されてもいる。
「春と修羅」における序詩が、
  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます
と結ばれているように、見田宗介「宮沢賢治-存在の祭りの中へ」に言わせれば、
「賢治はやがてこのすきとおった気層の中に遠心する巨大な時間の集積を、天空の地質学ともいうべき空間の像として構成することとなる」
「現代物理学の世界像に立脚し」つつ、「賢治がこのことから感受しているものは、虚無ではなく、虚無と反対のもの、世界という現象の奇蹟にたいする鮮烈な感覚である」となる。

時に大正11(1922)年、賢治26歳の11月17日、アインシュタインが来日、12月29日までの40日を越える滞在で、日本中が空前のアインシュタイン・ブームに沸き返った。
まさにこの渦中の11月27日、最愛の妹トシが病死するという悲劇に見舞われたのだが、この頃すでに賢治は、詩集「春の修羅」と童話集「注文の多い料理店」の草稿を仕上げていた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-102>
 はかなさをほかにも言はじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中  藤原実定

新古今集、春下、題知らず。
邦雄曰く、後徳大寺左大臣の家集、林下集には「花の歌とて詠める」の詞書あり。古歌における「はかなさ」の象徴は露に陽炎、夢に幻が通例であるが、桜の他にないと冷やかに、かつ軽やかに言いきる。その斜に流れるような細みの調べが、喩えようもない悲しみを誘い、「あはれ世の中」の謳い文句も魂に響く。世の評価は高くないが代表作の随一、と。

 逢坂やこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら  宮内卿

新古今集、春下、五十首歌奉りし中に、関路花を。
邦雄曰く、建仁元(1201)年冬の仙洞句題五十首歌、「若草」の宮内卿と謳われる千五百番歌合と、ほぼ同時期の冴え渡った技法を見る。第四句の「嵐ぞかすむ」は、この秀句に懸けた天才少女の息吹を聴くようだ。若草の歌と同じく、緑と白の鮮烈な対照が眼に浮かぶ。「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく船の跡見ゆるまで」も、同じ五十首歌の「湖上花」、と。

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January 08, 2008

残りゆく有明の月の洩る影に‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 同志社「第三」時代の先輩女性に

年詞に代えて一筆啓上
お年賀拝受、懐かしい想いとともに昔の貴女の面影が去来しました。
甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。ただMailは利用しております。

もう何年前になりますか、佐川隆二さんの提唱で「第三劇場」のOB会が初めて催されたとき、取る物も取り敢えず駆けつけ、徳さん、那須さん、山岡さん、辰巳さん、尾崎さん、邨チャン、お幣さんたち、懐かしい面々とひととき過ごしましたが、画竜点睛を欠くとは些か大袈裟なれど、貴女の姿が見られないのには一抹の淋しさがあったように想われました。その後の会からのお誘いには残念ながら参れぬままに打ち過ぎております。

到頭というべきか、やっというべきか、この3月で退職される由、それにしても長い間の教職生活でしたネ、月次ですが心から「お疲れ様でした」と添えさせていただきます。
いつでしたか一度きり、私が舞踊を初めてまだ2.3年の頃でしょうか、貴女がお務めの学校にお邪魔したことがありましたネ。貴女はクラスの担任をされていたのでしょう、お逢いした折のその教室の光景が遠い記憶とはいえ一枚の絵として甦えります。

学籍こそ3年ありましたが、私の同志社時代とは実質は2年の夏まで、「第三」に居た1年にほぼ集約されており、それは短い期間であったればこそ、いろんな他者に照り返された彩りのおかげで、原色の、つかのまの青春の一頁といった感がします。
そのなかで、大阪勢の3人、那須さんと貴女と私が、判で押したように連れ立って快速電車に揺られて帰った姿が、その色とりどりの一頁に、太い線でその画面全体を引き締めてくれるMotifになっている、といえましょうか。
10年、15年とまだまだ先の長い行路、きっとどこかでお逢いできる、そんなめぐりあわせのあることを期しつつ‥‥。
いつまでもお達者で。  08戊子 1.7  林田鉄 拝

彼女は同志社「第三劇場」時代の二年先輩だが、大学は京都女子大。おそらく今でもそうだろうが、部外団体だった「第三」には学外からの参加もO.Kで、同女や京女からの入団組も女性陣を構成していた。
私が入った頃の「第三」は創部10年目くらいで、当時学内に7劇団もひしめきあっていたという学生演劇のなお隆盛期でもあったなかで、その特色もかなり際立った感があったといえるだろう。
ここに登場している固有名はみんな先輩にあたり、そのなかの「徳さん」こと菊川徳之助氏は私と入れ違いの4年先輩だが、彼だけが卒業後も演劇を続け、現在、近畿大学文芸学部舞台芸術専攻の教授職にある一方、京都・大阪などで演出家としても活動している。
書面の相手の彼女も彼女なりに演劇に拘りつづけた。奉職した帝塚山学院の中等部でずっと演劇部の顧問として指導に明け暮れた生活であったろう。
相手はまだ中学生、それも女子ばかりの学校演劇の世界が、彼女の情熱のどれほどを占め得たかは計り知れないが、40年余をひたすら真摯に貫いてきたであろうことは、彼女の真っ直ぐな気質からして容易に想像できる。
その彼女と逢ったのは22.3歳の頃だったろうから、すでに40年の歳月が流れている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-101>
 残りゆく有明の月の洩る影にほのぼの落つる葉隠れの花  式子内親王

萱斎院御集、前小斎院御百首(百首歌第一)、春
邦雄曰く、萱斎院御集の三つの百首歌は、春秋の調べに妙趣一際であるが、殊に暮春は、ほとほと感に堪えぬ秀歌を見る。百首歌第一はほとんどが勅撰集に洩れているが、葉隠れの花など窈窕として優雅を極め、第四句「ほのぼの落つる」のあたり、後の玉葉集歌人に濃く強く影響を与えているのではなかろうか。初句は「残りなく」説もあり、これまた可、と。

 散りにけりあはれ恨みの誰なれば花のあと問ふ春の山風  寂蓮

新古今集、春下、千五百番歌合に。
邦雄曰く、花を吹き荒らした憎い風が、散り果てた山桜を訪ねている。恨みの誰にあれば、この問いかけは、他ならぬ風自身であろうにとの答えを隠している。激しい初句切れの響は、自然に「あはれ」を導き出す。歌合の番は藤原良平「散る折も降るに紛ひし花なればまた木のもとに残る泡雪」で、俊成判は持。寂蓮はこの歌合の後60余歳で世を去る、と。

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January 07, 2008

庭の面は埋みさだむるかたもなし‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-表象の森- 生命とリズム

以下は東京大学出版会「非線形・非平衡現象の数理1-リズム現象の世界」書中の「2. 生命におけるリズムと確率共鳴」からの抜粋引用である。

「太古においては、Circadian rhythm-概日周期-に同期しない、1日に数回のリズムを刻むものからまったくリズムを刻まないものまで、さまざまなリズムで生活する生命も存在したと考えられるが、地球の自転リズムに共鳴した化学反応機構をもった生命のみが選択され進化し、現在に生き残ってきたと考えられている。」

「異なったリズムを示す非線形振動子が、別の安定なリズムに引きずられて同期することを、<引き込み>と呼ぶ。」

「生命にはこのcircadian rhythmに限らず、年周期のようなマクロからミリ秒単位のミクロな周期まで多くのリズムを生み出す非線形振動子が階層的に存在し、それらの振動子が互いに相互作用して、カオスや各種の生理活動に必要とされるマクロリズムをつくっている。生命はこのようなリズムの存在によって時間を認識して活動し、ひいては高等生命では脳や神経で情報を生成・取得・認知していると考えられている。」

「引き込みによって生まれるマクロな同期現象が生体にとって機能障害となる場合もある。’97年に日本中を騒がせたいわゆる「ポケモン騒動」、TV番組のポケットモンスターを見ていた全国の子どもたち数百名が、10秒間ほど赤・青に強烈に点滅する画面(註-正確には4.5秒間で、1秒に12回の点滅が続いた)で、突然てんかん症のような引きつけや吐き気をもよおし、病院に担ぎ込まれた事件は、周期視覚刺激による一種の脳内リズムの引き込み現象によるもので、引き込み現象がてんかんなどと同様に、脳の機能障害を起こした例である。その他にも、手足に周期的な震え<振動>を導くチック症やパーキンソン病なども一種の引き込みによる機能障害といえる。このように引き込み現象は生体を維持し機能改善する面ばかりでなく、重大な傷害を導くこともある。」

「その一方、引き込みと雑音をうまく活用すると、このような機能障害をむしろ改善できることがわかってきた。通常の人工的なセンサーでは、雑音は信号を乱し、信号検出や情報伝達に雑音の存在は明らかに不利であるが、流れの急な川の石の下や滝壺の中に棲息する魚やザリガニは、周囲にさまざまな雑音がありながら、人が近づけばただちに感知し逃げ隠れる。ヘラチョウザメは餌であるミジンコの電気信号を感知して、ミジンコを捕らえるが、外部からある強度の電気ノイズを加えると、ミジンコをより的確に感知し捕捉できることがわかってきた。人間にしても、カクテルパーティ効果と呼ばれる雑音環境下の鋭い聴覚現象が知られている。」

「このように、生物はむしろうまく雑音を利用しているが、これは生物のセンサー系が非線形で、外力に対する応答に閾値をもっていることに起因している。つまり、潜在的に弱いリズムや双安定閾値をもつ系に、ある最適な雑音が加わるとそれまで隠れていたリズムがむしろ顕在化し感度が良くなる。すなわち信号対雑音比 signal-to-noise ratio:SNR が上がることがわかってきた。類似の現象は、BZ反応にも観測され、これらの事実は、これまでの雑音に関する通説とは逆であり、これを確率共鳴現象と呼ぶ。カオス現象と同様、非線形力学系の新しい一面を示す現象である。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-100> 花散らば起きつつも見む常よりもさやけく照らせ春の夜の月  大中臣能宣

続後拾遺集、春下、春の歌の中に。
邦雄曰く、祭主大中臣家は歌の名門だが、伊勢大輔の祖父能宣はわけても名手、その隠れた秀歌と言うべき落花春月の軽やかに重い二句切れ、潔い四句切れ、悠々としてしかも鮮烈なこの抒情は無類である。14世紀後醍醐帝勅撰の第十六代集に入選したことは、愉しくかつゆかしい。能宣集ではこの歌、「春夜月」の題で見える。「常よりも」が一首の要、と。

 庭の面は埋みさだむるかたもなし嵐にかろき花の白雪  津守國助

玉葉集、春下、題知らず。
邦雄曰く、定家の庭前落花詠「問はばぞ人の」の趣向もさることながら、一面に散り敷いて薄い層をなす桜が、強風にひらひらと舞い戯れるあやうさを、「嵐にかろき」と歌った國助の技法も並々ではない。亀山院北面の武士で、和歌の才抜群と謳われ、玉葉集はこの一首のみだが、続千載集には21首、総入選78首、摂津守、住吉神社神主の家系、と。

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January 05, 2008

桜色の庭の春風あともなし‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- K師夫人に

かえりみれば、学生時代より芝居に踊りにと、常人ならぬ世界に迷い込んだ所為でか、知友へ便りをするとなれば、公演などの際のお知らせ・お誘いのごとき、まことに味気ないものばかりで、私信の類などこの年になるまでほとんど書いたことがなく、その意味ではこれほどすげない不人情の輩はめずらしいのではあるまいか。
昨年のいつだったか、ふと眼にしたことに心動かされ、その日その日の思いにまかせ、いまはただ懐かしき人々の、その一人ひとりに、一葉の音信をしたためていくべしと、心秘かに思い定めていた。
独りよがりの思いつきにすぎない振る舞いなれば、いかほどつづくものやらまったく予測もつかぬ。
数年ぶりやら数十年振りに、突然便りを貰うほうこそ迷惑千万、なにごとかと呆れるやら怪しむやらで、歓迎されざることも多かろうが、必ずしも返信を求めてのものではないので、そこは勘弁して貰おうと勝手に決め込んでもいる。
こうして数年のあいだ、ブログというものに、日々よしなしごとやらMEMOの類を書き留めてきて、もうずいぶんの量になっているが、これらも所詮みな私ごとのつれづれの草なれば、これからしばらくは、その一隅を、この極私的にすぎよう便りの一枚々々が座を占めることになろうとて、だれ憚ることもあるまいと思うのだ。
という次第で、このたびはK師夫人宛の一枚。

年詞に代えて一筆啓上申し上げます。
亡師三回忌にお伺いしたままご無沙汰ばかりしておりますが、その後如何お暮らしでしょうか。
山中の侘び住まい、足下の患いなどなにかとご不便な日々をお過ごしではないかと推察されるにも拘わらず、お見舞いにも参らぬまま打ち過ぎ申し訳ありません。

昨年の夏の終り、Aさん急逝の報を、大阪市教職員OBの会報誌かなにかで知ったI.K君からMailを貰ったのですが、すでにあとのまつり、如何ともしがたく胸の内でのみ彼の冥福を祈るばかりでありました。
それこそ何十年振りかに彼の家を訪ねた折り、傍らの酸素ボンベを指しながら「片肺を失くしたとはいえ、これさえ抱いていれば車で出かけることもできるし、それほど不便をかこっている訳でもないよ」と、此方の心配をよそに意外に明るい声で語っていた姿が想い起こされ、それから4年ほどの歳月がかほど症状の悪化を促していたものかと、時の流れの重さを感じ入るとともに、沙汰やみになりがちな自身の怠惰を唾棄したくなるような日々でした。

想い返せば、私がK師と初めてお逢いしたのは60年の市岡入学時でした。御堂会館での「山羊の歌」公演が62年の初冬で、これを観たのが二年生の終り頃。幾何学的構成の勝った抽象的な作品群は、当時の私には取り付く島もないほどに訳が判らず、この夜は一睡もできず、ただ頭がガンガンするばかりで夜を明かしました。
この苦行(?)にも似た経験が、その後の私の行く末を決する伏線となっていたことは、私の場合、自身を思い返して間違いのないところです。

若かりし頃の昔話などあまり尋ねる機会もなく打ち過ぎてとうとう逝かれてしまわれましたが、法村で舞踊もしていたとはいえ、どうみても演劇青年であったK師が、どんな心の変化で、或いはどんな機縁で、邦正美の、ラバンの舞踊へ、と大きく転身されたのか、この辺のところがどうしても腑に落ちないまま、今日に至っております。邦正美の代表作「黄色い時間」を観たという話は聞いたことがありますが、果たしてこれが直接の契機となったものかどうか、今となっては皆目見当もつかず、私の想像はそこで閉ざされたまま動き得ません。一度機会あれば、そんな昔話を是非お聴かせ戴きたいものと願いおります。

呉々もお身体お大切に、お健やかに過ごされますよう、お祈り申し上げます。
  ’08戊子1.5  林田鉄 拝

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-99>
 桜色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む  藤原定家

新古今集、春下、千五百番歌合に。
邦雄曰く、桜色は現実の桜花びらと庭の白砂が、天然に染め出す襲色目であろう。「あともなし」の三句切れの言明が風の色をなお鮮明に浮かばせる。定家独特の否定による強調。下句は「花の雪散る」と同趣異工に過ぎず、一に上句の水際だった修辞が見どころ。歌合では、番が隆信の「風馨る花の雫に袖濡れて空懐かしき春雨の雲」で、父俊成の判は持、と。

 春されば百舌鳥の草潜き見えずともわれは見やらむ君が辺りをば  作者未詳

万葉集、巻十、春の相聞、鳥に寄す。
邦雄曰く、春が来れば鵙は草深く潜ったかに、ほとんど平地にはいなくなる。山林に移るのだ。草隠れして見えないように、あの人も身を潜めているが、私は住居の辺りを見張っていようと、単純率直に恋心を歌う。鳥の習性が序詞風に使われながら、まだ「自然」は歌の中で息づき、若者の愛の表白の背景として、新鮮な働きを見せている。後世は「草茎」、と。

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January 04, 2008

瀧の水木のもと近く流れずば‥‥

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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-世間虚仮- ‘07 逝き去りし人々

昨年の物故者たち一覧-毎日新聞12/31付-を見つつ。
‘70(S45)年の「よど号」ハイジャック事件の元赤軍派メンバー田中義三(58歳)が1月1日死去している。
田中は’96年偽ドル事件容疑でカンボジアにて米国側に身柄拘束、タイに移送、起訴されるも無罪となり、タイ当局から日本に引き渡され、’03年懲役12年の有罪判決確定、熊本刑務所にて服役していたが、肝臓癌の病状悪化で’06年12月刑は執行停止され、千葉徳洲会病院に入院していた。
同じく1月には、即席麺「チキンラーメン」を世に出した日清食品創業者の安東百福(96歳)、版画家の吉原英雄(76歳)が鬼籍の人に。
2月、関西では馴染みの深い大衆芸能評論家の大久保玲(86歳)、蛇笏の息であり俳人の飯田龍太(86歳)、ベストセラー「14歳の哲学」の著者、池田晶子は早世の46歳。
3月、経済物や伝記物作家の城山三郎(79歳)、DNA研究の草分けでもあった分子生物学者の渡辺格(90歳)、無責任男で一世を風靡した植木等(80歳)
4月、ソ連解体から市場経済化のロシアへと強権を発揮したボリス・エリツィン(76歳)、
5月、スキャンダルで大阪知事から失墜、侘しく余生をおくった横山ノック(75歳)、日本のポストモダン思想に牽引的役割を担った今村仁司(65歳)、戦後の「文学座」を支え続けた俳優・北村和夫(80歳)、社会派の映画監督として息の長い仕事をした熊井啓(76歳)、芥川賞における初の女性選考委員ともなった作家の大庭みな子(76歳)、ZARDのボーカル坂井泉水の若すぎる不慮の死(40歳)。
6月、ピアニスト羽田健太郎(58歳)も早世に過ぎよう。古流にあって戦後の前衛演劇を牽引した観世栄夫(79歳)、保守本流の元総理・宮沢喜一(87歳)は大蔵官僚時代、講和条約交渉に深く関わってもいる。
7月、言語学・国語学の柴田武(88歳)、「小町風伝」や「水の駅」など沈黙劇を創出した演出家の太田省吾(67歳)、戦後の共産党に君臨しつづけた宮本顯治(98歳)は、妻・百合子の死よりなお56年を生きたことになる。晩年は文化庁長官となって、「関西元気文化圏」を提唱したユング心理学者の河合隼雄(79歳)、晩年の「九条の会」呼びかけなど生涯ラジカルに生きつづけたベ平連の闘将・小田実(75歳)、20世紀映画界の両巨頭イングマール・ベルイマン(89歳)とミケランジェロ・アントニオーニ(94歳) が奇しくも同じ30日に鬼籍へ。
8月、作詞家阿久悠(70歳)の死は大晦日のNHK紅白で特別編成をもって悼まれた。世界のトップモデルとして活躍した山口小夜子(57歳)、多作の大衆作家・西村寿行(76歳)
9月、戦中の大本営参謀が戦後は伊藤忠の会長としてなどへと転身、政財界の参謀役を演じた瀬島龍三(95歳)、三大テノール歌手ルチアーノ・ババロッティ(71歳)の死は世界中の話題をさらったが、パントマイムの神様マルセル・マルソー(84歳)の訃報はその影に隠れた感、60年代であろう彼の何度目かの来日公演を私は観ており、その卓抜した技巧の冴えには惜しみなく賞讃をおくったものの、いわゆる感動というものからは遠かったように記憶する。日本の女性科学者を顕彰する「猿橋賞」を創設した地球化学者の猿橋勝子(87歳)。
10月、「マニエリスム芸術論」の美術史家・若桑みどり(71歳)、昨年の都知事選や参院選で耳目を集めた風狂の建築家・黒川紀章(73歳)の急逝、曼荼羅を描きつづけた前衛画家の前田常作(81歳)、東京オリンピックの水のヒロイン木原光知子(59歳)、リクルート事件で独り泥をかぶった感の政治家・藤波孝生(74歳)、八千草薫を妻に得た映画監督の谷口千吉(95歳)は長老だが意外と話題作に恵まれていない。
11月、「裸者と死者」の米作家ノーマン・メイラー(84歳)、「神様、仏様、稲尾様」と謳われた鉄腕・稲尾和久(70歳)、映画「愛と哀しみのボレロ」を生んだモーリス・ベジャール(80歳)の振付は舞踊界を超えて世界を圧倒した。
12月、仏文専攻ながら大衆文化論に多くの著作をものした多田道太郎(83歳)、電子音楽の先駆けとなった現代音楽の作曲家シュトックハウゼン(79歳)、「悪名」や「眠狂四郎」シリーズを手がけた映画監督・田中徳三(87歳)、自らガン告白をしてなお参院選に挑んだ山本孝史(58歳)、そして暮れも押し迫った27日、パキスタンの元首相ベナジル・ブット(54歳)暗殺のニュースが世界を駆けた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-98>
 瀧の水木のもと近く流れずばうたかた花をありと見ましや  小大君

小大君集、遣水に桜の花の流るるを見て。
邦雄曰く、水泡に浮かび流れに揉まれる花弁を見て、源の散り散る桜樹を思う。上句のしっかと言い添えたことわり、後拾遺集巻首に、したたかな諷刺をこめた新年の歌を選ばれ、この人ありと知られた作者の面目も見える。小町集にもほぼ同じ歌が、詞書の桜を「菊」として編入されている。さていずれを採るか。菊の香と桜の色と、私は後者を楽しみたい、と。

 み吉野の嶺の花園風吹けば麓に曇る春の夜の月  西園寺實氏

玉葉集、春下、春月を。
邦雄曰く、山桜の群がるあたりこそ「花園」、志賀の花園に対する称であろう。嶺から山裾に吹き下ろす風を、後鳥羽院の制詞的秀句「嵐も白き」を向こうに廻して「麓に曇る」と、心憎い、味のある秀句で表現した。一首は夜目にも仄白い光景。實氏は常盤井入道前太政大臣、西園寺公経の長男。新勅撰集以下に250首近く入選を見、その数、父を凌ぐ、と。

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January 01, 2008

散る花も世を浮雲となりにけり‥‥

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-世間虚仮- 恥ずかしながら

戊は、茂(ボウ)をその語源とし、草木繁茂して盛大なるをあらわす。
子は、孳(ジ)にして、ふえるの意、新しい生命の萌し、活気のはじめなり。
されば、平成戊子は、激動の始めとなるか、ならぬか。
InternetやMailがかほどに普及するも、賀状の配達総数は年々増加の傾向にあるとか。
私の場合、賀状(ハガキ)の年詞は今年より止めることにした。
年に一度きりの音信なれば、より固有の刻印を帯びたものでありたいと思うのだ。
先は長いようで短い。
自身に残された日数は、かりになお20年あるとしても、たかだか7300日にすぎず、
きわめて限られたものでしかない。
昨日も一昨日も稽古に暮れた。
さすがに今日一日は休みだが、明日も明後日もまた稽古である。
他者からみれば、一介の老残、世捨て人に若かず。
ならばこの先、十年二十年の、物狂い。
恥ずかしながら、生涯、河原者です。

    2008年戊子 年詞   四方館亭主/林田鉄

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-97>
 散る花も世を浮雲となりにけりむなしき空をうつす池水  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、花月百首、花五十首。
邦雄曰く、珠玉の家集として聞こえる秋篠月清集巻頭の百首歌の、殊に心に沁む落花の賦。世を憂きものと観じるのは常道ながら、下句の醒めきった、冷ややかな眼はどうであろう。建久元(1190)年21歳の秋、天才良経は水面に虚無の映るのを視ていた。「明け方の深山の春の風さびて心砕けと散る桜かな」の斬新鮮麗な修辞に、新古今時代の曙光をありありと見る、と。

 またや見む交野の御野の桜狩花の雪散る春のあけぼの  藤原俊成

新古今集、春下、摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに。
邦雄曰く、そのかみ業平が惟喬親王に供奉して一日を楽しんだ桜狩りの禁野交野、太々とした初句切れ、三句切れが、景色そのもののように晴れやかにめでたい。建久6(1195)年、耆宿俊成満81歳の春2月、良経邸での作であった。まことの雪散る冬が元来は狩りの季節、春秋は獲物少なく、花・紅葉の余興とされたとか。なお新古今・春下の落花詠はこの歌に始まる、と。

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