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December 31, 2007

夢のうちも移ろふ花に風吹けば‥‥

Kiyookamarronnier1

-表象の森- イサドラ・ダンカンの死

大晦日、今年最期の、年初から数えて161回目の言挙げである。
第一次と第二次の両大戦間のパリに花開いた芸術家たちの青春のすべて、藤田嗣治・ユキ夫妻を軸に、岡鹿之助、シュルレアリスム詩人のロベール・デスノス、写真家マン・レイ、哲学の九鬼周造や、金子光晴と森三千代夫妻、etc.‥‥、若き芸術家群像の青春の日々、その熱き交流を著者ならではの優しさに溢れた詩魂を通奏低音に響かせ、詳細なまでに描ききったEpisodeの数々、清岡卓行畢生の渾身の長編は上下巻1200頁におよぶ大作だが、長い日々を折にふれ読み継いでこのほどやっと上巻を読了。これほどに読む者の想像を掻きたて心愉しませてくれる書は稀有といっていいだろう。
さしあたりは、上巻の後半P476以降に登場する、20世紀モダンダンスの草分け的存在「裸足のイサドラ」ことイサドラ・ダンカンの悲惨な事故死にまつわる20頁余りの叙述からあらましを引いておきたい。

1927年、夏の休暇をドーヴィルで過ごした藤田嗣治・ユキの夫妻は、その後、美術評論家のジャン・セルツとその家族が待つ、ブルターニュの北岸からわずかに離れたブレア島に渡り、美しい風景を堪能しながら静かに落ち着いた日々をおくったので、パリに帰ってきたのはすでに9月になっていた。
「1927年の9月14日、ニースにおいて、イサドラは新しく知った青年が運転するスポーツカー・ブガッティに同乗したが、自動車が動きはじめるとすぐ、彼女が首に巻いてとても長いスカーフの端が車輪の心棒に巻き取られた。彼女の首は極度に強く締められ、その首は折れ、咽喉は砕けた。自動車は急停止されたが、もう間に合わない。彼女は倒れたまま死んでいた。」
イサドラと旧知の間であった嗣治とユキは、この報せに驚愕、二人に深い衝撃を与えた。
「彼らがすぐ思い浮かべたのは、ジャン・コクトーがときどきイサドラに向かって、その風にひるがえる長いスカーフは使わないほうがいいと、なにかを心配するように言っていたことである。コクトーはどんな審美にもとづいていたのか、このスカーフはイサドラを嫌っている、彼女を後ろからひっぱったり、よろめかせようとしたりすると感じていた。」
「それにしても、イサドラにとって、自動車は悲運をもたらすものであった。彼女は14年前に、二人の愛児を自動車事故で失っていた。」
「古代ギリシャの貴頭衣(トウニカ)風の寛やかな、ときに透明な衣を着て裸足で動くなど、革新的な恰好をし、自由で奔放きわまる創作、たとえば、踊りのために作られていない音楽と情熱的に合体する踊りなどで、おのれの清新のかたちを、いいかえれば新しい人間の悩みや喜びを語ってやまなかったイサドラ。」
「彼女はまた恋多き女でもあったが、27歳のときに結ばれたエドワード・クレーグとのあいだには娘があった。」
クレーグは俳優をしたのち、舞台演出・装置で活躍したイギリス人で、彼の演劇論は、フランスの類。ジューヴェやジャン=ルイ・バローなどにも影響を与えたとされる。
「イサドラは32歳のときには、ミシン王の跡継ぎで富裕なイギリス人のパリス・シンガーと結ばれたが、そのあいだには息子ができた。」
「1913年初夏のある日パリで、イサドラは6歳の娘、2歳の息子、シンガーと昼食をした。その後大人二人は仕事に出かけ、子どもたちは家庭教師と自動車で家に戻った。この車のエンジンが途中で止まったので、運転手が外に降りて操作したとき、車は急に後退し、慌てた運転手が飛びついたドアの取っ手ははずれ、車はセーヌ川に落ちて、内部の三人は溺死した。
そんな異常な事故が先に起こっていたのである。」

-ロダンはイサドラを「私が知っているかぎりで最も偉大な女性」とまで言っている。
-ブルデルは「彼女によって、一つのえもいわれぬフリーズが生命を得たようであった」と言っている。
-とりわけ、イサドラ・ダンカンの異常な死に強い衝撃を受け、そのことを戯曲や小説のなかの重要な部分において深く形象化している作家がジャン・コクトーである。
彼は「わが青春記」(1935年)のなかでイサドラを追悼しているが、そのなかで彼女を「このイオカステ」と呼ぶ。ギリシャ神話あるいは悲劇のオイディプスの実母になぞらえるのである。

「イサドラ! ぼくの夢想がしばし彼女のうえにとどまらんことを。彼女こそは嘆賞すべき女性であった。お上品な趣味のしきたりに収まらず、それを覆し、それを超える現代とその都会にふさわしい女性であった。ぼくはニーチェとワイルドの言葉を合わせてもじり、「彼女は自分のダンスの最高の形を生きた」と書きたい。-略- それはロダンの流儀であった。私たちの舞踊家である彼女は、着衣がずり落ちて不完全な姿を曝そうと、裸体に見える部分が震えようと、また、汗が流れ出そうと、そんなことには無頓着である。そうしたことはすべて躍動の背後に残される。恋人たちの子供を産むことを求め、その子供たちを得てうまく育て、しかも、たった一度の凶暴な不運によってその子供たちを喪い、パリのトロカデロ劇場でコロンヌ管弦楽団の伴奏で踊ったり、あるいは、アテネやモスクワの大きな劇場前の広場で蓄音機の伴奏によって踊ったりして、――このイオカステはその生きかたに似た死にかたをした、競走用の自動車と赤いショールの凶暴の犠牲者となって。ショール、それは彼女を嫌い、彼女を脅迫し、彼女に警告していたが、彼女はそれに勇ましく挑み、あくまでそれを身に着けていたのであった。」

つづいて、「ジャン・コクトー、彼の傑作の一つとされる「恐るべき子供たち」(1929年)。彼はこの作品を阿片中毒の治療中にわずか半月あまりで書いたと伝えられているが、たしかにそんな回復期の集中性にふさわしい主題の熱気がある。ギリシャ悲劇ふうの現代小説といわれるこの中編において、スカーフと自動車の車輪による偶然の事故死は、いわば登場人物たちを設定したときすでに必然であったような主人公たちの運命に先駆する傍らのある人物の最期として用いられている」とし、その視点からこれを分析詳述してくれている。

さらに、「コクトーは古代ギリシャのソフォクレスの悲劇を、自分の詩意識に深く合わせながら現代化するという仕事を行っていた。その一応の帰結のように思われる戯曲「地獄の機械(4幕)」(1934年上演・刊行)を書いたとき、それにふたたびイサドラの最期を」、彼女が身に着けていたスカーフを重要なマチエールとして、序幕から終幕にいたるまで、シンボリックに活かしきっているのを、場面を追って詳細に論じつつドラマの核心に迫っている。

のちに藤田嗣治は、日本に戻っていた第二次大戦後の1946(S21)年から48(S23)年にかけて、彼にしてみれば珍しく長い時間をかけた油彩の大作「三人の美の女神」を描いているが、この絵の動機について著者・清岡卓行は、嗣治の内面の奥深くに分け入って、「東京において苦渋に満ちた、しかしまた明るく輝く希望を秘めた自分の再出発を、どのように表現しようかという峨峨の意欲が生じたとき、30数年も前にベルヴュの舞踊学校で眺めたイサドラの「三人の美の女神」が、記憶の底から鮮やかに甦ってくる」と推量し、描かれた「そのうちの一人はイサドラがモデルであると言われるが、裸体である三人それぞれにイサドラの容姿は投影されているかもしれない」とも、この遠い昔のイサドラの「この踊りは、第二次大戦直後の、東京での3年間ほどを、嗣治の頭のなかではたぶん執拗に明滅を繰り返し、油彩の大きなキャンバスのうえでその美しい生命の躍動を揺るぎなく造型するまで消えないのである」と書かせる。

不慮の事故死を遂げたイサドラ・ダンカンには生前に書き残した「わが生涯」という自伝があるが、これに基づいたであろう彼女の伝記的映画が、1968(S43)年、その名も「裸足のイサドラ」として製作され、日本でも公開されている。もちろん私はこれを観ており、彼女にまつわる遠い記憶の彼方とはいえ、この著者が紡ぎだしてくれた彼女へのオマージュに満ちた一章のおかげで、いま鮮やかにいくつかのシーンが甦ってくる。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-96>
 泊瀬川凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風  細川幽斎

衆妙集、春。
邦雄曰く、落花雪の如しの景を歌ったものも、同工異曲、後世になるほど新味を生むのがむずかしくなるが、幽斎の作は泊瀬川の桜、天正9(1581)年47歳の春、長谷寺参詣の折、実景を見て歌った意味の詞書が添えられている。結句字余りが下句の調べをおおらかにした。「なほざりの花さへ愛でて来しものをまして吉野の春の曙」も現地に赴いての秀れた句、と。

 夢のうちも移ろふ花に風吹けばしづ心なき春のうたたね  式子内親王

邦雄曰く、萱斎院御集では、百首歌第三乃ち後鳥羽院初度百首詠進歌に見える。ほとんど勅撰入集という希有の百首詠だが、殊に新古今集へは4分の1。盛りを過ぎた花にわらわらと風が荒れ、それも夢の中、あたかも黒白の写真のネガ・フィルムを見る心地あり、不吉な華やぎは無類。新古今に洩れ、第十一代集まで採られなかったのが不審である、と。

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December 29, 2007

言の葉は露もるべくもなかりしを‥‥

Chaos

-表象の森- カオス入門

J.グリック「カオス-新しい科学をつくる」新潮文庫(1991年初版)
「進化とはフィードバックのあるカオスだよ」-ジョゼフ・フォード
この宇宙は、たしかにでたらめさと散逸の世界であるのかもしれない。
だが「方向」を持ったでたらめさは、驚くべき複雑さをつくることができるのだ。
そして散逸こそは、その昔ローレンツが発見したように、秩序のもとなのである。

「神はたしかに人間相手にサイコロを振っているのだ」とは、
アインシュタインの有名な問いかけに対するフォードの答えである。
「だがそのサイコロには、何かが仕込んである。現在の物理学の主な目的とは、それがどんな法則に従って仕込まれたか、そしてどうすればそれを人間のために利用できるかを突きとめることだ」-P525

現代科学の「相対論」「量子論」発見につづいた「カオス」論の展開をバタフライ効果にはじまり解き明かしてくれる非線形科学の入門書として、文系人間にとってはかなりの良書といえるだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-95>
 百千鳥声のかぎりは鳴き古りぬまだ訪れぬものは君のみ  恵慶

恵慶法師集。
邦雄曰く、百千鳥は春の諸鳥の囀りや群がり遊ぶさまを指す。曙から黄昏まで、梅の匂い初める頃から桜の散る三月盡まで、軒近く訪れて鳴き、今は聞き古りた。それほどまで春も更けたが、尋ねて来ないのはただ一人、愛する人のみ。この歌、年が変わって春二月になるまで顔を見せぬ人への贈歌。軽い諧謔を交えた淡泊な調べが微笑ましく、印象的な春歌、と。

 言の葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな  清少納言

清少納言集。
邦雄曰く、清麗な言語感覚は結句「花を聞くかな」にも躍如。清少納言も紫式部同様「歌詠みのほどよりも物書く筆は殊勝」と言われてもやむを得ない歌人だが、秀作に乏しい家集の中で、この一首はともかく出色の調べだ。「言の葉」も縁語として自然、しかも第二句に、いかにも清女らしい理智のきらめきが見える。なお、清少納言集はこの歌に始まる、と。

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December 27, 2007

ねやの上に雀の声ぞすだくなる‥‥

Alti200811_2

-四方のたより- Alti Buyoh Fes.2008

来年2月に行われる「アルティ・ブヨウ・フェスティバル2008」の総合チラシが届いた。
今回は2/9.10.11の3日間で18の演目が並ぶ。地元京阪神を中心に各地から18の団体または個人が参加するわけだ。
その陣容をみれば、東京からSoloistが2組、ひとりはMimeとDanceのあいだに遊ぶ人のようだ。もうひとりは京都出身のようだが東京へと転身、折田克子に師事しているらしい。
そして埼玉からの若松美黄、なんとこの御仁は’99年に紫綬褒章を受賞しているという舞踊家であり振付作家。「自由ダンススタジオ」を主宰して40年という名にし負う超ベテランが、単独名での参加だからSoloを饗されるのであろう。1934年生れというからすでに73歳、暗黒舞踏の大野一雄ならいざ知らず、動きも多いDance系では稀少だろう。
静岡から参加のGroupは美術など他ジャンルとの競演や屋外でのPerformanceに特色を示すようだ。さらに韓国から参加のCompanyが一つあるが、これがどんな踊りを見せるのか情報が取れなくて皆目見当がつかない。
あとはすべて京阪神のGroupだが、その13のうち神澤つながりが、私とはほぼ同時代から師事してきた浜口慶子、80年代前後の中村冬樹、そして神澤が近大芸術学部に奉職してからの阿比留修一と4人を数えるのには、ひとしきり微かな感慨がさざ波立つ。これを多いとみるか少ないとみるべきか別にして、神澤舞踊の精髄がそれぞれの表象に心身にどのように流れ、影を落としているのかいないのか。そのあたりを見定めてみるのも一興であるにはちがいない。
いずれにせよ3日のあいだで20分内外の小宇宙ながらさまざまなものを見られるというのは、自分たちが出品すること以上に貴重な機会とて、私などのように他者の作品を観るに腰の重すぎる者にとってはまことにありがたい企画である。
この催し、京都府の厚い援助あっての長年にわたる継続である。さらなる長寿を期したいと思う。

フェスティバル詳細については<此方>を覗いていただければ幸い。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-94>
 ねやの上に雀の声ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらむ  曾祢好忠

好忠集、毎月集、春、三月中。
邦雄曰く、やっと巣立ちできるまでに雀の子が生いた。集(スダ)く雀の愛すべきかつ騒がしい囀りが響いてくるようだ。古歌に歌われる鳥は限られ、雀はめずらしい。西行が歌った男童(オワラワ)なども稀少例の一つ。三月下にも浅茅生に雀が隠れるさまを歌った作があり、野趣と俗調はまことに清新だ。10世紀後半、丹後掾の身分で歌合に出ていた記録等があるのみ、と。

 初瀬女の嶺の桜のはなかづら空さへかけて匂ふ春風  藤原為家

続古今集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。
邦雄曰く、万葉に泊瀬女が造る木綿花の歌あり、その白木綿花の代わりに花鬘にしたいような山桜の盛り、序詞的な用法だがこの初瀬女、従三位頼政卿集の桂女の歌と共にめずらしくかつ愉しく、作品が躍動する。闊達な為家の個性が匂い出た精彩ある春の歌だ。貞永元(1232)年、作者34歳の壮年の作。この年、作者の父定家は、新勅撰集選進の命を受けた、と。

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December 25, 2007

うらうらに照れる春日に雲雀あがり‥‥

Kinoinochi

―表象の森― 西岡常一に学べ

今日は気分転換とばかり気楽に読める書を手にした。
最後の法隆寺宮大工棟梁、名匠西岡常一のイキのいい語り口が愉しめる新潮文庫「木のいのち木のこころ」の天の章(146p迄)だ。
以前、同じ西岡常一の聞き語り本「木に学べ」(小学館文庫)を紹介(05/06/27)したことがあり、かなり重複するところもあるが、いつ読んでも小気味よく心に響く。
なかでとりわけ胸打たれた一件は、現在「鵤工舎」を主宰し宮大工を束ねる小川三夫を内弟子として迎え入れた折のことだ。

小川の弟子入り志願を両三度聞き入れず断ってきた西岡だが、小川のひとかたならぬ覚悟のほどを知って内弟子を承諾したのは1968(S43)年のこと、小川21歳、西岡はすでに61歳になっていた。
棟梁の常一には4人の子がおり、うち二人は男子であった。祖父・父と三代にわたった宮大工棟梁の職を、常一は自分の息子たちに継がせることにはあまり拘泥しなかった。いや心の底では自分と同じように我が子へと継承を願っていたのだが、自身の恣意に拘りこれを強いるには時代の流れがあまりに悪すぎた。
そもそも法隆寺の宮大工棟梁と聞こえはいいが、百姓大工である。改修工事などの大仕事は何百年に一度と滅多にあるものではないから、寺から与えられたわずかな田畑で百姓をし、最低限の食扶持をみずから獲ながらというのが代々の暮し向きなのである。常一が26歳で棟梁となってすぐ法隆寺における昭和の大修理(1934-S09)が始まったから、彼の場合、まさに時の利に恵まれたといえようが、なにしろ終戦の年が長男10歳になったばかりというめぐり合わせである。子育ての真っ只中が仕事とてまったく途絶えた敗戦の混乱期であったから、家族を養うため代々継いできた山や畑を売ってはしのいできたという。おまけに常一は結核を病んで1950(S25)年から丸2年間床に臥していた。
こんな悪状況下では常一とて子どもらに後継を強いることは到底できなかったろう。また子どものほうでもいくらまっとうに親の背中を見て育ったとしても宮大工になることを望むはずはなかろうとは容易に想像がつく。
さて、小川を内弟子として受け入れた時、常一の家では他所へ勤めていた子どもらもまだ同居していた。その我が子らに向かって常一は小川を引き合わせた際、棟梁のあとを継ぐ者として内弟子としたのだから、これからはおまえたちの上座に座ることになる、それがこの家の定法だと言い聞かせたというのである。
少なくとも彼の息子たちは内弟子となった小川より11.2歳は年長であったろうが、職人の家としての徹底したこの遇しようには、然もありなんかと胸打たれた次第。

西岡常一は1908(M41)年生れというから、尋常小学校を卆え、祖父・常吉の言に従って農業学校へ入ったのは大正の半ば。
この進学については、父は工業学校を薦め、めずらしく祖父と意見の対立があったというが、当時まだ現役の棟梁であった祖父がその意を通した。
「とにかくまじめに一生懸命勉強してこい。百姓をせんと本当の人間ではないさかいにな。土の命をしっかり見てこないかんよ、しっかり学んでこい。」と祖父はよく言ったそうだが、この「土の命」という語がなかなか重い。畑仕事の実習ばかりの3年の授業のあいだに、常一少年はこの語の意味に深く思いあたったようである。

「堂塔建立の用材は、木を買わず山を買え」
「木は生育の方位のままに使え」
「堂塔の木組みは木の癖で組め」
などと、宮大工棟梁には相伝の訓があるという。
法隆寺の檜は樹齢1300年を越えるような木であったから、創建より1300年を経てなお朽ちもしない。
檜といえば我が国で木曽の檜だが、その樹齢は600年というからこれでは1000年保つはずはない。台湾には1000年を越える檜の山があるというので、藥師寺金堂など再建の折には、当然自ら台湾に出かけ、山を見、木を見て、材を買いつけた。

また相伝の訓にいう、
「百工あれば百念あり、これを一つに統(ス)ぶる。これ匠長の器量なり。百論一つに止まる、これ正なり」
「百論を一つに止めるの器量なき者は慎み惧(オソ)れて匠長の座を去れ」
一つに止まる、「一」の下に「止」を書けば、まさに「正」そのものとなる、などと常一は洒落のめしてもいるが、この訓などは世間万般に通じよう。
今の世の政・官・業、どんな場面においても、斯くありたいものだが、耳の痛い御仁もまた多かろう。イヤ、そんな自覚があればまだ救われようか、痛くも痒くなく、身に覚えなどまったく感じない不感症が覆いつくさんばかりの現世だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-93>
 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば  大伴家持

万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十五日、作る歌一首。
邦雄曰く、夕かげに鳴く鶯と共に家持の代表作の一つ。巻十九掉尾にこの歌は飾られた。「宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆」の万葉仮名表記が天平勝宝5年、8世紀中葉に引き戻してくれる。「春日遅々にして鶬鶊正仁啼く。悽惆の意、歌にあらずは撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式ちて締緖を展ぶ」の高名な後期あり、と。

 蛙鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花  厚見王

万葉集、巻八、春の雑歌。
邦雄曰く、上句の五・七・五の頭韻を揃えたのは思案の他の効果であろうが明るく乾いた響は、鮮黄に照る岸の山吹と、鳴き澄ます河鹿らの、視・聴両様の感覚にまことに快い。もっともこの景、眼前のものではなくて想像。ゆえになお活写を迫られたのだ。作者は8世紀中葉の歌人。伊勢神宮奉幣使を務めたことがある。この「蛙鳴く」は代表歌になっている、と。

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December 23, 2007

しるべとや越の白根に向かふらむ‥‥

Kudakaretakami

―表象の森― ヒロヒト無慚「砕かれた神」

昨日(21日)は、J.グリックの「カオス-新しい科学をつくる」(新潮文庫)をようやく読了、今日(22日)はこれと併行しつつ読んでいた渡辺清・著「砕かれた神」(岩波現代文庫)を読み終えた。
「カオス-」についての所感をひとまとめに記すにはいささか気骨が折れようとて、「砕かれた神」について記しておきたい。

本書は「ある復員兵の手記」と副題されているように、著者・渡辺清は、高等小学校を卒業してまもなく海軍少年兵として志願、昭和19(1944)年10月24日、レイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の数少ない生き残りの乗員兵であり、翌年の終戦詔勅によって8月30日故郷へと復員してから翌年4月までの7ヶ月、絶対的信から180度反転し不信・否定へといたる天皇観、必ず死ぬはずであったわが身の荒廃と空虚に満ちた精神の彷徨と葛藤、さらには自己否定を通しての再生、新たな闘争への旅立ちにいたる心の遍歴を、日記形式で綴ったもの。
二十歳になったばかりの若者の熱い体温が剥き出しに直に伝わってくるような、率直に、真摯に綴られた、読む者の胸を撃つ書だ。
富士山の裾野に近い静岡県の山里の、自作農とはいえわずかな耕地ばかりの貧しい農家の次男坊であったれば、日本左衛門と揶揄され、日本中何処なりと行きたいところへ行きうる勝手放題の自由の身とはいえ、戦前・戦中の大日本帝国下であれば、海軍か陸軍にみずから志願し現人神ヒロヒトの赤子として戦場に花と散ることこそ男子の本懐と思い定めての16歳の志願であり、無垢の少年の出兵であったから、奇跡に近い無事生還は生き恥さらしの虚脱した干涸らびたような日々でしかなく、自己喪失以外のなにものでもなかったのだ。

9月30日付の冒頭は、天皇自らがマッカーサー元帥を訪問した際(9/27)の、身なりも容貌も奇異で滑稽なほどに対照的な二人が並んだ例の写真が一面五段抜きで載った新聞をその日の朝見た、そのショックから彼は書きおこしているのだが、
「天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭を垂れてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りを抑えることができない。」
「日本はやはり敗けたのだ。天皇ともども本当に敗けてしまったのだ。おれにとっての“天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。」
などと書きつけているが、この日を境にして彼の天皇観は180度の転回をなし、心のなかで欺瞞に満ちた天皇ヒロヒトへの忿怒の炎を燃やし、詔書や視察など天皇に関する報道を眼に耳にするたび激しく心を震わせ、直情径行のままに批判と痛罵の言葉を書きつけずにいられない。それは彼自身の内面の傷みの深さをあらわすものであり、救いがたいまでに病んだ心の叫びでもあるのだ。

そんな今となっては“逆縁”の天皇ヒロヒトに対し、怨恨や憤懣先行からやっと脱けだしてきて、まっとうな論理として天皇ヒロヒトの戦争責任の追究や天皇制そのものの批判へと形成されてくるのは、戦中横須賀から彼の実家近くに疎開してきていた8歳年上の淑子やその弟郁男との情の通った交わり、彼への思慮深い親身な思いやりが大きい。
この淑子らとの付き合いが遠縁にあたるゆえのなのか、あるいは疎開一家と彼の家が偶々近隣ゆえにはじまった家族ぐるみのそれなのかは、文中なにも触れられておらずよく判らないが、淑子は東京の女子大出で鎌倉の女学校で5年ほど数学を教えていた才媛というし、4.5歳上であろう郁男も大学は美学専攻とかで勤務もニュース映画会社と、少なくともこの家族は中産階級のインテリエリート層で、何代か続いた山里の小さな貧しい自作農の一家とは、当時としては明らかに階層的身分が異なる。
ある夜その郁男が、彼のために横須賀からわざわざ持ってきて「ぜひ読んでごらん」と呉れたのが、河上肇の「近世経済思想史論」と「貧乏物語」であった。
家では居候の身でしかない彼は、父や兄の野良仕事を日々手伝うかたわら、夜ともなれば疲れ切った身体に鞭打ち、河上肇の二書を貪るように読み継いでいくが、そんななかで自己への内省と客観的批判的思考に目覚めていく。
彼がこの二書を読破してまもなくの2月1日、奇しくも河上肇が老衰と栄養失調で死去(1/30)したことを新聞で知り愕然とするのだが、この件など象徴的というか運命的というか、彼にとってこの付合は後々における決定的なものとなったことだろう。

本書の魅力、その良さは、彼自身の心情や思考を剥き出しのまま率直に綴る裸形の語り口にあるが、それを支えているのが、復員してからの数ヶ月の日々の暮らしのなかでたずさわる農作業や炭焼きのこまごまとした営みが活写され、その飾り気のない細部の描写がベースとなっていることだ。
根っからの百姓である父と兄のその実直なばかりの働きぶり、仮名しか読めない無学の母だが意外に肝の据わった彼女の他者への優しい思いやり、そして兄想いの控え目な妹と5人の家族だが、海軍少年兵だった帰り新参の彼には、日々の農作業の一々も炭焼きのあれこれも、手慣れた父や兄を見習いつつの身体にきつい堪える作業でありまた身体で覚えるしかないものでものであるから、その描写は細部が活き活きとしてくるのだ。
彼と同じように出征して、支那に満州にと散っていた同級生だった何人かの友も無事復員してきていたりする。そのうちの一人は、結核を病んで死期も迫っている。
もちろん戦場の露となった者も多く、紙切れ一枚きりの遺骨帰参があるたび、ひっそりとしたその迎えに出向いていく。無事復員した者、遺骨でしか帰り得なかった者、その明暗がそれぞれの家族を蝕み痛めつけ、無用の嫉みや侮りが渦を巻く。
近隣には淑子たちばかりでなく、他に何組かの疎開家族も住んでおり、食料を求めて彼の家を頼りに衣類などを携えて買い出し(物々交換)に来る一家もある。
少し離れた寺には集団疎開の子どもらの一群が、都会の食糧難の所為でまだなお帰れずに居着いたままだったりする。
そんな疎開の人たちの群れと村在住のそれぞれの百姓たち、異界の者たちの互のあいだに潜む妬みや蔑みが、さまざまな形となって露わになったりもする。
日本中のどこにでもあるありふれた山村の、敗戦直後に繰りひろげられたであろう悲しくも厳しい再生への歩み出しの風景がくっきりとモノクロトーンで迫りくるようだ。

本書の最後の日付、4月20日、
その明後日、淑子や郁男の骨折りで就職先も決まって、いよいよ上京するということになっているのだが、この日彼は新生の一歩を踏み出すためにかねて心に秘めてきた一大儀式ともいうべき企てを挙行する。
それは天皇ヒロヒトへの決別の私信であった。
彼の海軍生活4年3ヶ月と29日の間、天皇ヒロヒトの一兵卒として授けた俸給や手当にはじまり、食費や兵服等一切のものを金員に換算し直し、金4,282円也を為替にて同封、返却する旨の申し状を添えて、送ったのである。
宛名は「東京都宮内省侍従官室」御中、申し状に列記された俸給等一切は詳細をきわめ、恩賜の煙草一箱に至るまで細大漏らさず、その項目はなんと67を数え挙げている。
4000円は父に無理を頼んで借りたという。もちろん今後働いて返すという約束で。
その長い申し状の最後の一行は、
「私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。」と結ばれている。

この大胆かつ不遜きわまる決別の私信を、侍従らに守られ奥津城に居る天皇ヒロヒトが直かに眼にすることなどあり得るはずもなかったろうが、たとえ万に一つ眼にしたとしても、ぼそりと「人というものは悲しいものだネ」と呟いてみせるくらいがオチで、どうにも交叉のしようもない彼我の認識の、涯もない距離の遠さに、なんの疼きも痛みも感じることなどあるまいけれど、一介の無辜の民草である彼・渡辺清が、ヒロヒトへと放った直球勝負は、無辜の民であればこその、まこと稀なるものであろうし、その剣先の孤影は中天あざやかに鋭い光を放っているものとみえる。

彼・渡辺清は、後に鶴見俊輔や丸山真男ら同人による「思想の科学」誌発行の思想の科学研究会の研究員となったという。さらには、「きけ、わだつみの声」や機関誌「わだつみのこえ」を発刊しつづけたわだつみ会(日本戦没学生記念会)の事務局長を1970(S45)年より務めているが、おそらくは’81(S56)年56歳で死に至るその直前までその任をまっとうしたのだろう。
本書「砕かれた神」の初版は1977年の評論社版、
他に「海の城-海軍少年兵の手記」1969年、「私の天皇観」1981年、「戦艦武蔵の最後」1982年の著書がある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-92>
 しるべとや越の白根に向かふらむ霞めど雁の行くすゑの空  飛鳥井雅親

亞槐集、春、帰雁。
邦雄曰く、雁は越路の空を通って常世の国へ帰って行くと伝えられていた。「しるべ・白根」「霞めど・雁」と音韻の重なりが、帰雁の羽遣いをすら感じさせる。同題で「絶えず思ふ故郷なれや春の雁時しもよただ帰る声々」と、鳴き声を活写した珍しい作も見える。15世紀末宮廷歌壇の第一人者で、第二十二代集選集の勅命を受けたが実現に至らなかった、と。

 野べ見れば弥生の月のはつるまでまだうら若きさいたづまかな  藤原義孝

後拾遺集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。
邦雄曰く、「さいたづま」は虎杖(イタドリ)の異称であり、また春若草の総称でもあるが、詞書に従えば後者であろう。古歌でも稀用例の一つで、古今和歌六帖にも見えない。珍しい植物名は古今集の物名歌くらいで、八代集は春秋に十か二十の草木名のみ。夭折の貴公子、有数の天才歌人が、殊更にこの名を歌ったのが嬉しい。襲色目にもこのなあり。青朽葉の淡色、と。

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December 20, 2007

恨みじなおのが心の天つ雁‥‥

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―表象の森― リズム現象の世界

以下は、蔵本由紀編「リズム現象の世界」のまえがきとして付された一文からの引用。

 呼吸・心拍・歩行など、人が生きる上で最も基本的な活動はリズミックな現象、つまり同一の単純な事象が繰り返される現象である。広い意味の「振動」と言ってもよい。
太古から人類はこのような身近なリズムとともに生きてきた。日夜の交代や潮の満ち干、浜辺に打ち寄せる波など、外界もさまざまなスケールのリズムに満ちている。
また、時計、モーター、各種楽器など、人は種々のリズムを作り出し、それを制御することによって限りなく生活を豊かにしてきた。
情報化社会の基礎にもリズムがある。現代生活にあふれる電子機器内部では、高周波のリズムが生成され、それに同期して無数のプロセスが進行している。

 生命活動にとってリズムはとりわけ重要である。「生物振動-biological oscillation」や生物時計-biological clock-という言葉が暗示するように、高度な生命活動はリズムの生成とその制御によって支えられている。
神経細胞は適当な条件の下で周期的に興奮を繰り返すが、それは脳の情報処理の基礎である。
また、正確な日周リズムを刻む私たちの体内時計によって、睡眠、血圧、体温などの生理的機能は正常に維持されている。呼吸や心拍の意義についてはあらためて言うまでもないだろう。
 多くの場合、リズムは孤立したリズムとしてあるのではない。リズムは他のリズムと呼応し、微妙に影響し合っている。リズムは互に同調することで、より強く安定したリズムを生み出すが、逆にリズム感のタイミングを微妙にずらせることで情報伝播など高度な機能が生じる場合もあろう。同期、非同期という概念がそこでは鍵概念となる。

 同期現象は自然界に偏在している。
たとえば、釣橋を歩く歩行者たちの歩調が、橋という物体を媒介にして相互作用し、同期して橋を左右に大きく揺らせることがある。
私たちの体内時計は日夜の周期に同期している。マングローブの林に群がったアジア蛍の集団は同期して発光し、林全体が規則正しく明滅する。心臓のペースメーカー細胞群は同期することによって明確なマクロリズムを心筋に送り出す。大脳皮質では、神経細胞群が同期と非同期を複雑に組合せながら高度な情報処理を行っているにちがいない。

このような、振動する要素の集まりから生じる多様なダイナミクス-自然界に見られる多くのリズム現象-を、物理学では、「非平衡開放系」に現れる普遍的な現象であることを明らかにしてきた。
熱的な平衡状態やその近傍ではマクロなリズムが自発的に現れるということはない。しかし、身のまわりの多くのシステムは平衡から遠く隔たった状態に保たれており、エネルギーや物質の流れの中におかれた開放状態にある。地表面と上空との間には温度差が、したがってまた熱の流れがつねに存在し、それゆえ大気も開放系である。また、生物は数十億年かけて自然が生み出した最高度の開放系である。

 このような開放系は一般に自己組織化能力をもち、さまざまな空間構造やリズムを生み出すことが知られている。そこにはエントロピーがたえず生成されるが、流入したエネルギーや物質とともにこれを外部に排出しつづけることで動的に安定性が保たれている。流入と排出がうまく釣り合って、時間的に一定の流れを作り出しているかぎりリズムは存在しない。しかし、このバランスが失われると、定常な状態は不安定となり、しばしば流れが周期的に変動することでより高次の安定性が回復される。これがリズムの起源である。
周期的リズムがさらに不安定化し、カオスに至るシナリオについては近年の力学系理論がその詳細を明らかにしてきたところである。

 このように、マクロリズムの普遍的起源は熱力学・統計力学のことばによって理解することができる。しかし、先にも述べたように、リズムは単に孤立したリズムとしてあるのではない。多数のリズムが干渉しあい、さまざまな時間構造を形成するとき、それは通常の意味での物理学の記述能力を超えている。むしろそこでは、エネルギーやエントロピーなどの物理的概念からも自由な、より抽象化された数理的アプローチが適している。すなわち、システムの物理的な成り立ちを度外視して散逸力学系としてモデル化するところから出発しなければならない。システムは連立非線形微分方程式によって定義されこの方程式が示す安定な時間周期解をリズム現象の基本的要素とみなすのである。このような要素的力学系は「リミットサイクル振動子」と呼ばれる。

 このアプローチをさらに一般化すれば、相互作用する多数のリミットサイクル振動子を散逸力学系モデルによって記述することができ、さまざまな手法を用いてその解析を試みることができる。そのように数理的研究から得られた結論の多くは、物理的対照の違いを超えてリズム現象一般に内在する普遍的様相を明らかにするであろう。しかし、リズム現象の研究にとっては、それのみではもちろん不十分である。これらの数理的結果を再び現実の場に戻し、個々の場面における物理的意味や摘要限界を明らかにし、具体的肉付けを行う必要がある。それによってリズム現象の科学はいっそう実りのあるものとなるだろう。数理と現実の間に起こるこのような往復運動は、リズム現象に限らず非線形現象の科学一般にとって必要不可欠のものである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-91>
 鳥が音も明けやすき夜の月影に関の戸出づる春の旅人  藤原為家

大納言為家集、下、雑、暁、建長五年二月。
邦雄曰く、新古今前夜、六百番・千五百番歌合の頃は「春の故郷」さえ目に立つ新悟であった。四半世紀後れて世に出、父定家選の新勅撰集あたりを重んじた為家に、「春の旅人」は眼を細めたくなるような発見であり、秀句の一端だ。柔軟でよく撓う一首の律調、あらゆる武技、遊技に堪能の好青年であったと伝える作者の一面が、一瞬顕つ思いがする、と。

 恨みじなおのが心の天つ雁よそに都の春のわかれも  後花園院

後花園院御集、下、帰雁。
邦雄曰く、春の雁、それも「おのが心の天つ雁」と、不可視の雁の、虚無の空間を翔る姿を言葉で描いた独特の作。初句のやや重い思い入れも、結句の軽妙な助詞止めと、アンバランスの均衡を保つ。よそに見て、都のと続く懸詞も気づかぬほど。御集二千首にあふれる詩藻滾々、典雅な詠風である。院下命の第二十二代集は、応仁の乱のため成立を見ず、と。

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December 17, 2007

匂へどもそことも知らぬ花ゆゑや‥‥

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-表象の森- 科学知へのパースペクティヴを

お恥ずかしいかぎりだが、近頃、蔵本由紀の「非線形科学」や「新しい自然学」を読んだおかげで、私のような理系コンプレックスの徒にも、現代における科学的知へのパースペクティヴとでもいうべきものが、この年にしてようやくというべきか、まがりなりにも形成されていくような感がある。
そんな次第で、このところ科学関係やその啓蒙書の類を渉猟することしきり、購入本や借本にも色濃く影を落としている。

―今月の購入本-
・広河隆一編集「DAYS JAPAN -ジャーナリストの死-2007/12」ディズジャパン
すでに‘07年中に命を落としたジャーナリストは77名にのぼるという。’06年は85名であったとか、’03年のイラク開戦から世界各地でジャーナリストの犠牲者はうなぎのぼりの状況だ、と。リストカットを重ねる少女の写真もまた痛々しいことこのうえない。
・マレイ・ゲルマン「クォークとジャガー-たゆみなく進化する複雑系」草思社
還元主義から複雑適応系への転換によっていかなる新しい科学が生まれるかを展望した書、‘97年版中古書。
・イアン・スチュアート「自然の中に隠された数学」草思社
カオスから複雑系まで、共通する数学の構造から多様な現象を貫く単純な原理が明かされる。ホタルがいっせいに明滅する現象とムカデの歩行が同じ仕組みのものとわかる。’96年版中古書
・ジェイムス・グリック「カオス-新しい科学をつくる」新潮文庫
相対性理論や量子論からカオスの世界へ、現代科学の新しい知を総合的に論じてくれる入門書に相応しい書、‘91年版中古書。
・山口昌哉「カオスとフラクタル-非線形の不思議」講談社ブルーバックス
カオスやフラクタルが話題になり始めてまもない頃の、その基本構造を分かり易く説いてくれる啓蒙的入門書、‘86年版中古書。
・臼田昭司・他「カオスとフラクタル-Excelで体験」オーム社
カオスとフラクタルの基本理解と、Excelを使って体験できるようにまとめたテキスト、’99年版中古書。
・松井孝典「地球システムの崩壊」新潮選書
温暖化や人口爆発など、21世紀が抱える深刻な課題の本質を地球システムのなかで捉え警告を発する文明論、本年の毎日出版文化賞・自然科学部門受賞の書。
・西岡常一・小川三夫・塩野米松「木のいのち木のこころ」新潮文庫
「木に学べ」の法隆寺宮大工西岡常夫の弟子小川三夫らが語る西岡・小川・塩野の棟梁三代、匠の心。
・V.E.フランクル「夜と霧-ドイツ強制収容所の体験記録」みすず書房
著者自身のナチス強制収容所体験を克明に綴った本書は’02年に別人訳で新版が出たが、旧版には他の多くの証言記録や写真が豊富に資料として添付されている。‘85年版の中古書。
・渡辺清「砕かれた神-ある復員兵の手記」岩波現代文庫
著者についてはジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」にほぼ20頁を費やして詳細に言及されていたが、海軍の一復員兵が自身の戦中と終戦直後の天皇観への激変を通して、天皇の戦争責任を追及するようになる心情を綴る復員日記。
・アンドレ・シャストル「グロテスクの系譜」ちくま学芸文庫
ルネサンス美術の陰で産み落とされてきた怪奇や滑稽・アラベスクなどグロテスクなるものの系譜をたどる美術史。
・他に、ARTISTS JAPAN 44-田能村竹田/45-狩野山楽/46-岩佐又兵衛/47-司馬江漢

―図書館からの借本―
・J.L.キャスティ「ケンブリッジ・クィンテット」新潮社
人工知能は可能だとする数学者チューリングを最左翼に、不可能とする言語学者ヴィトゲンシュタインを最右翼に置き、この二人の間に物理学者シュレディンガーと遺伝学者ホールディンを配して、人工知能の原理的な側面から認識論や認知作用まで架空論争を闘わせ、精神と機械の本質を明らかにしようとする。この架空対話を取り仕切る進行役は、文系人間と理系人間の不幸な分裂を鋭く指摘したC.P.スノーである。’98年版。
・ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて-上」岩波書店
・ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて-下」岩波書店
長く日本にも滞在し、日本近代史を専攻する米国リベラル派の歴史学者が、終戦の8月15日からサンフランシスコ講和条約締結までの約7年間を膨大詳細な資料を渉猟しながら戦後日本を克明に描いた日本論。’01年版。
・蔵本由紀・編「非線形・非平衡現象の数理-1- リズム現象の世界」東京大学出版会
平衡系から非平衡系へとパラダイム転換した科学知の世界、その非線形・非平衡現象の数理科学的方法論の新たな展開を総合的に網羅紹介しようという全4巻シリーズの1。
・蔵本由紀「新しい自然学-非線形科学の可能性」岩波書店
集英社新書「非線形科学」の前著にあたるが、小誌ながら、新しい科学知の世界の啓蒙書としては、簡潔にして高邁によく語りえており見事。’03年版。
・フランソワ・イシェ「絵解き・中世のヨーロッパ」原書房
祈る人々としての修道士たち、戦う人々としての騎士たち、働く人々としての農民たち、ルネサンス以前の混沌とした中世が、表象とイメージの彩なす風景の中に、豊富な図版と解説を通して眼前化してくるF.イシェの書。’03年版

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-90>
 匂へどもそことも知らぬ花ゆゑやあくがれゆかむ有明の空  後奈良天皇

後奈良院御製、春暁花。
邦雄曰く、桜花憧憬の歌も時を隔て歳月を重ねるに従って、その技法は多岐にわたり、新古今・風雅・玉葉のまねびもようやく古びる。御製の第四句「あくがれゆかむ」など、あたかも花を求めての空中遊行と思わせ、新生面を拓いているようだ。昧爽の万象淡墨色に霞む眺め、見えぬ花が中空に朧に匂う。作者は後柏原帝皇子。和歌は三条西実隆を師とする、と。

 別れ路にまた来む秋の空とだにせめては契れ春の雁がね  公順

拾藻集、春、帰雁。
生没年未詳、13世紀後半から14世紀初頭か、九条金頂寺別当禅観の子。権大僧都にして二条派歌人として活躍。
邦雄曰く、四句切れ命令形の「契れ」が、応答を頼むすべもなく虚空に消え去る。秋・春の照応、初句の置きよう、ねんごろに過ぎるほどの構成が、個性を反映する。「いつはりに鳴きてや雁の帰るらむおのが心と花に別れて」も別種の面白みを見せているが、「別れ路」の艶には及ぶまい。作者は新古今の歌人藤原秀能の曾孫で、父の禅観は東大寺の高僧、と。

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December 15, 2007

霜まよふ空にしをれし雁がねの‥‥

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―表象の森― 金楽寺だより

私のところに「金楽寺だより」というハガキ一枚にガリ版刷りで短い詩と日常を描いたようなペン・スケッチが添えられた便りがまるで定期便のように舞い込むようになったのはいつ頃からだったか。今日手にしたハガキには二十七話とあるからこれが27通目ということだが、たしか私の記憶によれば、「金楽寺だより」と題されるようになったのは、彼が引っ越しをしたらしく、ハガキに書かれた住所地が尼崎市金楽寺町‥となってからで、それ以前はなんと題されていたかすっかり忘れてしまっているが、2ヶ月に一度くらいか気ままなペースできていて、もう5年や6年は続いているのではないか。
この人、岩国正次という。
知人には違いないが、友人というには相手のことをあまりに知らなさすぎる。
もうずっと昔のことだが、つい先日またもやネパールのポカラ学舎へと旅立った岸本康弘に付き添って車椅子を押してくるのに、何度か見かけたことがあるだけで、互に名告り合いくらいはしただろうが、まともに言葉を交わしたというほどのこともない間柄に過ぎないのだ。
しかし、折にふれたハガキ一枚の、掌編の詩だよりも、何十編となく積み重なってくれば、これが一方的なものにせよ、いつしか知己の間柄とも思えてくるもので、いつしかその人と姿やその温度まですでに既知のものとして感じている不可思議に気がつく。
このさい今日届けられた掌編を書き留めておこう。

「確執-父よ」
母子家庭に育った
長男である父は
自分の母を
どう見詰めていたのだろう

ぼくが誕生し
手放しで慶んでくれた祖母も
手足の不自由な妹を
 出産した途端に
母を見る眼が
 ドンドン変わっていく

厳格な家にと
異質を拒み続け
玄米から白米にしたことだけで
嫁姑の確執が生じた

常に上座にいる祖母に
萎縮して口も利けずにいる
あの人と妹そして祖母
どう舵取りするのですか

極貧に喘ぎつつ
なお蔑むのは
崩壊しきった
ぎつぎつした人の集団だ

ぼくを残してでも
三人でこの家を捨てて
必ず会いにいくから
これがあなたへの
 最後通告だ

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-89>
 霜まよふ空にしをれし雁がねの帰るつばさに春雨ぞふる  藤原定家

新古今集、春上、守覚法親王の五十首歌に。
邦雄曰く、八代集、否二十一代集に現れる帰雁詠中の白眉とされる歌。春雨にしとどに濡れる眼前の雁と、去年の秋、霜乱れ降る空を飛来した記憶の雁を、一首の中に重ね合わせる妙趣、はたと膝を打つ巧みさ。良経の「月と花との名」の品位と並べ、まさに双璧と称すべきか。院初度百首の帰雁は「思ひたつ山の幾重も白雲に羽うちかはし帰る雁がね」で尋常な詠、と。

 たづねみむ蝦夷が千島の春の花吉野泊瀬は珍しげなし  十市遠忠

遠忠詠草、天文二年中、玉津島法楽五十首、尋花。
邦雄曰く、蝦夷は慈円が述懐百首中に「ゑびすこそもののあはれは知ると聞け」と歌ったが、千島の現れるのは珍しい。単刀直入、修辞など念頭になく、放言に類することを歌にしてしまった趣き、大和の豪族十市氏らしい持ち味だが、武士ながら三条西実隆門の有数の歌人。歌風は単に豪放なばかりはでなく、「千島」は一面を示すのみ。16世紀半ばの没、と。

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December 13, 2007

待つ人のくもる契りもあるものを‥‥

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―表象の森― 賤者考と穢多二十八座

森鴎外の「山椒大夫」は荷役にしたがう部落民を統率する頭領であった。また彼の「高瀬舟」は花曳とよばれる部落民の舟曳きによって、大坂との間を上下した箱舟であった。
部落の民は芸能の徒であるほかに、半面労役の民であった。彼らは船頭であり、馬子であったばかりでなく、市中や大きな寺社の掃除人夫であり、貴族の家の井戸掘人足であり、祭の御輿の篭かき、または墓守でもあった。

江戸後期の国文学者、本居内遠の「賤者考」によれば、以下の如く52種に分けて賤民の職種を解説している。これを見れば驚くほどひろく当時の万般の業に及んでいることが判る。
 古令制良賤差別- 雑戸、官戸、家人、官奴婢、私奴婢、陵戸
 今時色目   - 用達、陪臣、被官、家子、賤職数色
 夙      - 宿トモ書く、守戸之弁
 散所     - 他屋
 陰陽師    - 西宮
 梓巫女    
 神事舞    - 代神楽、獅子舞、千秋万歳
 田楽法師   - 祭俄、坐敷俄
 猿楽     - 四坐、喜多、幸若、狂言、四拍子、地謳
 放下師    - 品玉、綾織、軽業、籠抜、手妻
 遊女     - 遊行女婦、芸子
 白拍子    - 舞子、踊子
 傾城夜発   - 女郎、立君、辻君、船娼、大夫、新造、禿
 傀儡女    - 傀儡師、西宮、夷下、淡路人形、簓与次郎
 飯盛女    - 茶汲女、出女
 越後獅子   - 軽業
 願人僧    - 住吉踊、戯開帳、戯経、ちょんがれ祭文
 俳優     - 阿国歌舞伎、素人狂言、身振、物真似、声色、
           女歌舞伎、猿狂言、軽口、小児芝居、茶番狂言、
           俄茶番、乞食芝居、浄瑠璃芝居  
 踊      - 盆踊、かかひ、歌垣、ここね、伊勢音頭
 観物師    - 機関、畸疾、異物類
 舌耕     - 軍書読、落噺、軽口、物真似
 術者     - 飯綱、犬神、役狐
 弦売僧    - 鉢叩
 高野聖    
 事触     - 鹿島踊
 偽造師    - 山師、マヤシ、呼売、読売、拐児
 狙公     - 猿狂言
 堂免     - 風呂
 俑具師    - 土師
 刑殺人    - 牢番
 青樓     - 忘八、女衒、幇間、仲居、引舟、まはし男、軽子、花車、
          遣手、女髪結、芸者、風呂屋、密会宿
 肝煎     - 町役、歩役、夜番、番子、辻番、番太郎
 勧進比丘尼  - 巫女、お寮
 犬神     - 出雲狐持、妖僧、聖天狗、僧尼穢
 男色     - 治郎
 髪結     - 一銭刺
 伯楽     - 馬子、牛子、曲馬芝居、女曲舞、曲鞠
 盲目     - 配当、積塔会、女瞽、三弦弾、町芸子、琵琶法師
 放免     - 犬、猿、合壁、間者、俘囚
 浄瑠璃語   - 女太夫、操り、釣人形師、仙台浄瑠璃
 妖曲歌    - 長歌、小歌、木遣り音頭、説経、祭文、船唄、馬子唄、
          国々童謡、ちょんがれ
 浮浪     - 宿無し、雲助、逃亡、追放
 行乞     - 袖乞、六十六部納経、西国巡礼、四国遍路、善光寺詣、
          踊念仏、鉢開、雲水僧、抜参宮、大社巡り、金比羅詣、
          廿四峯巡り、常房勧化
 乞食     - 片居、癩疾、物吉、畸疾、癩狂
 伎巧     - 諸伎数種
 丐頭     - 長吏、ハイタ、散在
 難渋町    - 棄児
 番太     - 非人番、ハチヤ
 慍房     - ハチ
 穢多     - 餌取、皮田、廿八箇条
 革細工    

上記のうち、穢多の廿八箇条というのは、江戸時代の穢多頭であった弾左衛門が先祖の由来書に述べた所謂二十八座のこととみられる。無論偽作の由来書だが、源頼朝から与えられたという判物には、
「長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目睡、非人、猿曳、弦差、石切、土器師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、簑作り、傀儡師、傾城屋、躰叩、鏡打」があげられている。

  ――参照:「鎖国の悲劇」第4章「身分制のくさり」-部落の民-

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-88>
 待つ人のくもる契りもあるものを夕暮あさき花の色かな  藤原家隆

壬二集、前内大臣家内々百首、春、春夕花。
邦雄曰く、花を歌いつつ心は待つ人を離れない。晴れやらぬ胸に頼めぬ人との約束を思う、「くもる契り」とは、家隆独特の凝った修辞だ。また「あさき花の色」も、元来が白に近い桜なのに、ふと紅の薄れるような錯覚を誘うところも心憎い。逆説助詞「を」でつながれた上・下句が、薄明の中で顫えているようだ。抜群の技巧派である家隆の一面を見る、と。

 くやしくも朝ゐる雲にはかられて花なき峯にわれは来にけり  源頼政

邦雄曰く、山上の白雲を花と見紛い、来てみれば山桜はそこになかった。ただそれだけのことながら「はかられて」の第三句が諧謔をしたたかに含み、磊落で武骨な幻の桜詠歌となった。歌合用の作品だが、結番や判に往生仕ることだろう。「尋山花」の題で「花誘ふ山下風の香を尋めて通にもあらぬ通を踏むかな」も並んでいるが、「花なき峯」を採ろう、と。

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December 12, 2007

明けぬれば色ぞ分かるる山の端の‥‥

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-世間虚仮- 人を喰った噺

今は昔の高校時代、一幕物の登場人物3人だけの「人を喰った話」という小さな芝居があったのを思い出した。
これは、昨日の朝刊の囲み記事で紹介されていたまことに人を喰った噺。
東京の港区にある米国の大使館が、国有地1万3000㎡の借地料を十年の間、滞納しつづけた挙げ句、このほどやっと一括で7000万円を財務省サイドへ支払ったというのだが、この一件に、なんとも人を喰ったような裏話が添えられていた。
十年前の98年、財務省が地価高騰に合わせて米国側に借地料の値上げを打診交渉したところ、米国側が待ったをかけた。その言い分がふるっている。「そもそも1896(明治29)年に交わした契約文書に値上げ規定はなく、応じられない」と、百年も前の古文書を引き合いに出して値上げを拒否、この十年改訂に応じず支払を拒否してきたというのだから畏れ入る。
この借地料改定問題がこのほどようやく双方合意をみて、米国は十年分7000万円を一括で支払ったというわけである。
今回の合意で、98~06年は年間700万円、08年~12年は同1000万円、13~27年までは同1500万円となったそうだが、因みに700万円の場合で坪単価を計算してみると1777円/年だから月額にすればなんと148円/坪という超安値なのだから、これにも驚きいるが、僅かな賃料改訂に百年前の契約書まで持ち出して駆け引きされていたとは呆れかえった話。
ついでながら明治の大使館創設以来、今回の改定はわずかに三度目だそうである。

などと記していたら、さらに人を喰ったような噺が飛び出した。
タレント弁護士橋下徹が、二転三転、とうとう大阪府知事選に出馬するという。
先の大阪市長選では、民主党と練合大阪推薦で出た毎日放送の元アナ平松邦夫市長が誕生したばかり。
その選挙速報のTV画面で平松候補のすぐそばで派手にバンザイして顰蹙を買った太田知事が、両親の家や甥のマンションを東京事務所にして賃料を払っていた問題や、「関西企業経営懇談会」主催の会食で高額の講師謝礼を受け取っていたなど、政治とカネのスキャンダルで、四面楚歌となって三選出馬を断念。自・公も民主も急遽候補者探しに奔走するという混迷の度深まる選挙情勢に、軽佻浮薄、ノリの良さと子沢山が売りの橋下が名乗りを挙げてしまった。
いまのところまだ推薦を決めていない自・公も候補者難なれば近々に橋下推薦を決めるだろう。
民主は独自候補を擁立するべく候補者探しをしているようだが、知名度先行の橋下への対抗馬として、そうそう容易く二匹目の泥鰌は見つかるまい。
橋下と同じTV番組「行列ができる法律相談」で売り出した丸山弁護士が、先の参院選で自民党比例区に出て国会議員へと転身したが、知事や市長などの地方自治体の首長の任務は、300であれ100であれ多数の議席のなかの一人にすぎぬ議員などとはまるで異なり、責任も重く激務でもある。
そのまんま東が自身の故郷の宮崎県知事となって話題をさらった一年でもあったが、地盤沈下の激しい地方にタレント知事の誕生は一時的な有効さもあろう。
中国なら政都北京に商都上海、嘗て東京オリンピックに対し大阪万博を成らしめた商都の栄華の夢をいまなお捨てきれぬ大阪の、その重い責めある首長の座を、38歳の若輩タレントに果たして託せるものか、関経連や経済同友会のお偉方たちもさぞ困惑顔で眺めていることだろう。
生まれてこの方60余年、ずっと大阪市民であり府民でもあるこの身だが、女性スキャンダルで失脚した横山ノック知事の誕生やら膨大な三セク出資の失政で財政破綻の尾を引きつづける大阪市など、一介の府民であること市民であることにどうにも居心地の悪さやら苛立ちが続くこの十数年に、諸々の権利も義務も投げ捨てて、府民返上、市民返上とはいかぬものかなどと背を向けたくなるばかりだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-87>
 明けぬれば色ぞ分かるる山の端の雲と花とのきぬぎぬの空  惟宗光吉

惟宗光吉集、春、花。
邦雄曰く、曙に、咲き白む山頂の桜とその上に漂う横雲は、一夜の夢から醒めて別れねばならぬ。「雲と花」が後朝の別れを惜しむ。さりげない擬人法が優雅に大和絵さながらの光景を描いている。特に第二句の「色ぞ分かるる」が出色だ。この後朝、人事を仄めかせているとまで解するのは邪道。光吉は14世紀半ばの没、和漢の才人で代々の医家、と。

 帰るさのすゑほど遠き山路にもいかが見捨てむ花の夕映え  守覚法親王

北院御室御集、春、桜。
邦雄曰く、どうして見捨てられよう、あの斜陽を浴びて淡紅に照り映える山桜の花群がと、帰路の遠さは思いつつ立ち止まって歎息を久しくする。初句から説き進めるかのねんごろな構成が、作者の個性の表れであろう。同題に「花と見るよそ目ばかりの白雲も払ふはつらき春の山風」もあるが、「花の夕映」なる天来の美しい結句の際やかな効果には及ばぬ、と。

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December 10, 2007

さくら色に衣はふかく染めて着む‥‥

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-表象の森- 安治川Live

お招ばれ戴いたこともあってめずらしく昨夜は安治川・心のライブと銘打たれた催しに家族で出かけた。
本人曰く子どもの頃から吃音があり手慰みのギターとばかり過ごしてきたという、歌う際もトークにおいてさえもほとんど客席に目線を合わせず、人見知りの激しい気質を思わせる訥々と語りとふるまいのヤスムロコウイチ=安室光一はもう50歳前後だろうか。
ギターの腕は達者と定評あるところらしいが残念ながら門外漢の私にはあまりよく判らぬ。音響の所為もあるのか些か単調に流れたようにみえて、私などには堪能するというには遠かった。歌は旨い、一曲の聴かせどころをよく心得たテクニシャンだ。ときに諷刺の効いた作詞も垣間見えたりして、持ち歌の幅は結構ひろいが、情感をこめると少々過剰に走って単調になりがちか。
乾かすことと濡れること、その対照を強くすればぐんと良くなる筈なのだが、惜しい。
この人、70年代の終わりから80年代、憂歌団などBlues全盛の頃から活躍していたらしい。天王寺の野音でよくライブがあった頃だから、ひょっとするとその頃どこかで眼にしているのかもしれない。
客席を占めたほとんどの人が、そんな文化?とかなり疎遠だったかとみえる年長世代であったから、彼にとってはこのライブ、自分を解放しきれず最後までノりにくいものだったように映った。
会場となったMODA HALL 1階のラウンジは従来ライブハウスでもなんでもない。そこへ「安治川を愛する会」なる市民団体がこの企画を持ち込んでの街おこし運動の一環としての初ライブという訳で、自ずと客層と出演者との距離が初めから少々遠かったのが、この企画の成否を決定づけていたようである。
これに懲りず馴染みを重ねていくことが課題になろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-86>
 さくら色に衣はふかく染めて着む花の散りなむのちら形見に  紀有朋

古今集、春上、題知らず。
邦雄曰く、桜襲は表白・裏二藍、または裏赤花で中倍紫の三重、他にも樺桜、白桜、薄花桜、桜萌黄とそれぞれ微妙な差はあるが、およそ淡紅の匂い立つような色目ではない。あくまでも心映えであり、春に盡す思いの深さの象徴だ。花が散った後のことまで、春たけなわに偲ぶそのあはれが、倒置法の調べによって、あえかに奏でられる。作者は友則の父、と。

 越えにけり世はあらましの末ならで人待つ山の花の白波  木下長嘯子

挙白集、春、冷泉為景朝臣、花の頃訪はむと頼めて違ひ侍りければ。
邦雄曰く、奔放で、人の意表を衝いた初句切れにまず驚く。此の世は予測の結果とはうらはら、山の桜が波頭のように白く泡立ち、人を待つと、一気呵成に、しかも曲線を描くような律調で歌い納めるあたり、長嘯子は鬼才というほかはない。冷泉為景への、やや怒りを含んだ贈歌ゆえ、独特の雰囲気をもつのは当然だが、詞書を抜きにしても、佳品として通る、と。

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December 07, 2007

我ならで見し世の春の人ぞなき‥‥

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-表象の森- 五色の賤

「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」-メアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」より
この短い文は鷲田清一「感覚の幽い風景」からの孫引きだが、ヒトが形成する社会はどんな社会であれ穢れ者-賤民を制度化してきた歴史を有する。

この国の場合、隋・唐に倣い律令制を導入した際に、良賤の区別を明確に制度化した。陵戸・官戸・家人・官奴婢(クヌヒ)・私奴婢からなる、いわゆる「五色の賤」と呼ばれたものだ。
彼らは衣服の色分けによって区別されたためこの呼称が生まれた。
良民とは租庸調など納税や労役の義務を負う者であり、賤民はこれらの義務からは外されたが、あくまでも主筋に従属する身分であり、陵戸は天皇や皇族たちの陵墓を守衛する者たち、官戸や官奴婢は官田の耕作に使役される者たち、家人や私奴婢は良民の私家に従事する者たちで、その生業は固定され、とりわけ官奴婢や私奴婢は主筋の意志如何で売買や質入れされるなど奴隷的身分そのものであった。

大化の改新以来の律令制によるこの賤民制度も、名田・名主などが登場してくる班田制から荘園制への移行で、律令制の実質的な崩壊から有名無実化してくる。公式には延喜7(907)年に奴婢制度が廃止となるが、遡って律令制と並行しつつ鎮護国家の拠り所として移入された仏教がひろく民心に浸透していくにつけ、殺生戒などによる穢れの観念から賤民視されるさまざまな生業の者たちが集団化・固定化していく。
延喜14(914)年に上奏された三善清行の「意見封事十二箇条」には「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」とあるほどに、屠者・濫僧(非人法師)らが都では鴨川などの河原付近にあふれ、河原者と賤視され、やがて穢多と蔑称されていくようになる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-85>
 我ならで見し世の春の人ぞなきわきても匂へ雲の上の花  後鳥羽院

続古今集、雑上、建暦二年二月、南殿の花を忍びて御覧ぜらるとて。
邦雄曰く、詩歌の帝32歳の壮年、千五百番歌合から十年後の酣の春。誇りに満ちた初句もさることながら、第二句の「見し世の春」に込めた思いは深い。昂然として華麗、しかもかすかな苦みを帯びた調べは院ならではの感あり。続古今選者の炯眼を慶ぼう。百人一首歌として聞こえた「人も愛し人も恨めし」は、この年の冬12月2日の作であった、と。

 山もとの鳥のこゑごゑ明けそめて花もむらむら色ぞ見えゆく  永福門院

玉葉集、春下、曙の花を。
邦雄曰く、暁闇の、四方の景色もさだかならぬ頃から、刻一刻明るみ、まず山麓の小鳥の囀り、やがて仄白い桜があそこに一群、ここに一群と顕ちそめる。第四句「むらむら」は玉葉時代新風の、癖のある、面白い副司の用法。聴覚に訴えたところなど心憎く、後朝の情緒など微塵も含まぬのも爽やかだ。溥明・微光を歌わせると新古今歌人を凌ぐ、と。

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December 05, 2007

亡き人の日数も今日は百千鳥‥‥

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-表象の森- 迷走の譜

先月の27日以来、久し振りの言挙げである。
このところ読むことばかりにかまけて些か私の脳は混濁気味なのだろう。書くこと、言挙げするにはなかなか気がいかない、どうにも腰が重かったのだ。
一つには宮本常一の「忘れられた日本人」から衝き動かされるもの、柳田民俗学や折口学にも掬い取られてこなかった被抑圧者たち、夥しい無名の人々の、文字通り忘却の彼方にしまい込まれたことどもに、もっと触れておかねばならぬと痛切に感じたこと。
二つには蔵本由紀の「非線形科学」が啓発してくれた世界。微分積分の数式などまったく解せぬ数学音痴の徒が、複雑系、偶然性の科学的知をまっとうに理解できようはずもないのは百も承知なれど、その世界のおよその図式というか見取り図というか、それくらいは解しておかねばなるまいと思い至ったこと。
まるで異なる二つの主旋律に囚われつつ、迷走のうちにあるというのが現況といえようか。

以下はこの一月ほどの乱読迷走譜
11/03. Y.ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化 -1-」読了。以前に途中まで読んでいたのを続読。
11/04. 小田実「大坂シンフォニー」を飛ばし読む。
11/05. 同じく小田実「GYOKUSAI/玉砕」を飛ばし読む。
11/08.  Y.ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化 -2」読了。
 〃  米沢富美子「物理学入門 -上-」これまた以前に途中まで読んでいたのを続読。
11/10. 米沢富美子「物理学入門 –下-」読了。
11/12. A.ネグリ・M.ハート「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 -上-」読了。
11/14. 西原克成「内蔵が生みだす心」読了。
11/15 池内了「科学を読む愉しみ -現代科学を知るためのブックガイド」読了。
11/17. 氏家幹人「サムライとヤクザ -「男」の来た道」読了。
11/18. A.ネグリ・M.ハート「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 –下-」読了。
11/20. 沖浦和光「日本民衆文化の原郷 - 被差別部落の民族と芸能」読了。
〃  辻惟雄「日本美術の歴史」読了。
11/22.  J.L.キャスティ「ケンブリッジ・クィンテット」読了。
11/27. 宮本常一・他編「日本残酷物語 -3- 鎖国の悲劇」読了。
11/29.  松下貢編「非線形・非平衡現象の数理 -2- 生物にみられるパターンとその起源」を飛ばし読む。
11/30.  宮本常一・他編「日本残酷物語 -2- 忘れられた土地」以前に飛ばし読みしていたのを再読。
以後、「日本残酷物語 -4- 保障なき社会」を併読しつつ、
12/05. ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて –上- 」読了。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-84>
 亡き人の日数も今日は百千鳥鳴くは涙か花の下露  仏国

仏国禅師御詠。
邦雄曰く、百千鳥はもともと数多の鳥の意で、万葉歌にも見るとおりだが、鎌倉期には鶯の別名に錯用され、慈円や定家の歌にも春の部に現れる。人の親の百箇日の供養の経と、古歌の「鶯の凍れる涙」を歌の背後に置き、鮮麗な哀傷歌に仕立てた。意外な技巧派の一人である仏国国師の代表作の中に入れてよかろう。家集に道歌紛いの釈教歌は意外に少ない、と。

 身に代へてあやなく花を惜しむかな生けらば後の春もこそあれ  藤原長能

拾遺集、春。
邦雄曰く、謙徳公の息、藤原義親の家の桜を惜しむ歌と詞書にある。花を愛し春を惜しむ心も、「身に代へて」「生けらば後」と、悲愴味を帯び深刻な趣を添え、かつ哀切を極めるのも、王朝歌の一面であろう。長能は右大将通綱母の弟、能因法師の師。雑春に「かた山に畑焼く男かの見ゆる深山桜はよきて畑焼け」あり、明快にして率直、これも作者の一面、と。

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