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September 29, 2007

さびしさや思ひ弱ると月見れば‥‥

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-世間虚仮- 秋近けれど‥‥

今日から明日、久しぶりの雨模様でやっと秋らしくしのぎやすくなった。昨日までのように下着一枚の格好で窓を開け放していると肌寒いほど。このまま一気に秋本番となって欲しいものだが、来週もまた残暑へと戻るらしい。

<同窓会近し> 
今日は市岡15期会の幹事会に出るべく母校の同窓会館へ。
昨夜の夜更かしが祟ってかなかなか起きられず20分程の遅刻、すでに会議は始まっていた。
一週間後に控えた同窓会総会の最終準備の会合だからか、いつもに比して出席者の多いこと、なんと20数名という賑やかさ。ところが本体の同窓会に何人の出席通知があったかといえば最終締切で60名弱、それに恩師勢が11名とか。こうして集まる幹事連の3倍弱とはネ、大層な案内書を送付してのこの結果はいかにも侘しい。あと10名ばかりは上乗せしないとあまりにも寂しすぎると、できるところで電話作戦をということになったが、はて如何に。

<報道カメラマンの犠牲>
ミャンマーにおける反政府デモの取材で犠牲となった長井健司氏は、軍治安部隊による至近距離からの、しかも正面からの発砲によるものであったことが、現場の証言やビデオ映像で確認されたと新聞・テレビが一斉に報じている。
日本からのODA援助が通算2000億円を越えるというミャンマーで、同胞ジャーナリストが殺されたとあっては政府もさすがに黙っている訳にはいかないと制裁措置の検討に入ったというが、そりゃそうだろう。デモ鎮静化を図ってなおも続く軍事政権の弾圧強化ぶりを詳細に伝える報道各紙も力が入る。89(S64)年の天安門事件を髣髴とさせるほどだ。
開発途上とはいえ天然ガスや石油など豊富な地下資源に恵まれた国情が、米英や中ロさらにはインドなど大国の国々の利害や思惑を複雑に絡み合わせ、この国をいよいよ混迷、泥沼の淵へと追いやる。
一人の尊い犠牲が、これを機にミャンマー問題をしっかりと構造的に捉え返し、願わくば民政の平坦なるを実らせ、その死への手向けとなることを切に願う。

<ODA無残-ベトナム>
26日だったか、日本政府によるめODAでベトナムに近代技術の粋を集めて建設中の大橋が崩落し、ベトナム人作業員に多数の死傷者を出したと伝えられていた。
今月初めには、パキスタンで同じく建設中の高速道路が崩落、多くの死傷者を出すという事故があったばかりだが、こんどの場合は日本のODA事業であり、日本企業によるJVの工事での崩落事故だから、わが国にとっては始末の悪いこと夥しいものがあろう。JVは大成建設と鹿島、新日本製鉄構成され、2750㍍の斜張橋という大規模なもので、予算も250億円だったとか。
死者52名、負傷者97名と、死傷者はすべて現地採用のベトナム作業員だった。悲惨極まる大事故だ。事故原因の究明と責任の所在を政府所轄においても明瞭にしなければなるまいが、日本人技術者の犠牲が出なかった所為か、今のところその後の報道は沙汰止みのままだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-119>
さびしさや思ひ弱ると月見れば心の底ぞ秋深くなる  藤原良経

秋篠月清集、一、花月百首、月五十首。
邦雄曰く、建久元(1190)年の秋、弱冠満21歳で主催した花月百首中の傑作。第四句「心の底ぞ」の沈痛な響きは、8世紀後の現代人にも衝撃を与えるだろう。月に寄せる歎きは、古来何万何千と例歌を挙げるに事欠かぬが、これほどの深みに達した作は他にあるまい。あるとすれば実朝の「萩の花」くらいか。この百首歌、他にも名歌は数多ある、と。

 初雁は越路の雲を分け過ぎて都の露に今ぞ鳴くなる  惟明親王

千五百番歌合、六百七十六番、秋三。
邦雄曰く、高倉帝三宮惟明親王は、後白河院の膝の上でむずかったために、帝位は後鳥羽院に渡った。それも一つの幸運であったろう。千五百番歌合中、三宮の歌は殊にみずみずと心に残る調べばかりだ。歌合では左が後鳥羽院の「ものや思ふ雲のはたての夕暮に天つ空なる初雁の声」で、これも堂々たる秀作ではあった。御判は勿論右に花を持たせて勝、と。

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September 27, 2007

から衣裾野の庵の旅まくら‥‥

Seibutumuseibutu

-表象の森- 生物と無生物のあいだ

今年5月に出版されたちまち多刷を重ねる話題の新書。
Amazonの新書・文庫部門のリサーチでは今も2位に君臨するセラーぶりだし、そのAmazonのカスタマレビュー欄には今日現在で88人もの読者が長短思い思いのレビュー記事を書いているという賑わいぶりなのだから驚き入るが、賛否両論入り乱れて侃々諤々の活況を呈しているのを場外から覗き見るのもまた面白い。
総じて文系人や一般の読者に大いに称揚され、それが過剰に過ぎるほどに見えようから、理系読者の反撥を買っているような様相だ。
著者福岡伸一は本書をもって、「生命体」を語らせて、この国における注目のエンタテイメント作家となったようである。
著者には「もう牛を食べても安心か」(文春新書)で初めてお目見得した。
その中の、生命体における「動的平衡」論に知見を得て強く印象に残ってはいたのだが、その折の読後と比べれば、本書に特段の新しい発見がある訳ではないように思う。DNAの二重らせん発見以来の生命科学というか、分子生物学における今日の常識的概括ともいえそうな知見が、著者自身の科学者として生きてきたその経験やそれにまつわる心象風景などを絡めながら科学的エッセイとして綴られてゆくもの。
したがってこうして話題になればなるほど理系読者たちからの厳しい批判の矢も夥しいものになるのは致し方あるまいかと思われる。

毎日新聞の書評欄「今週の本棚」7/29付には、詩人・小説家の大岡玲が「詩的な文体で生命の神秘を語る」と題して本書を称揚する一文が寄せられていた。
いささか賞讃が過ぎようかと思われるほどに美辞麗句で綴られているが、一般読者への道標としての書評とみれば、それほど妥当を欠いているものではないだろうと思える。
大岡は自身生物学者を志したこともあるという少年時代に読んだ本書と同じ書名をもつ川喜田愛郎の「生物と無生物の間―ウイルスの話」(岩波新書-56年刊)によって受けた遙か昔の知的興奮を喚起しながら、川喜田書と本書の間に横たわる50年という歳月に同心円状に重なる知を読み取りつつ書評を綴っている。
以下はその後半部分で長くなるがそのまま引用させていただくとする。

まるでボルヘスのような、と言いたくなる、きわめて文学的なたくらみを駆使して福岡氏が本書で提出するのは、川喜田氏が問いのまま残していた「生物体なるものに具現された秩序と持続性」の実相なのだが、そのたくらみを支える華麗な文体と仕掛けには唸らされる。生命の本質を捉える際に著者が最重要視する要素である「時間」が、全体の構造そのものにも組み込まれているのだから。
すなわち、半世紀前のすぐれた書物が内包していたその時点までのウイルス学の歴史時間、その書物よりもあとに生まれた著者自身の人生および研究者としての人生の歴史時間、そして分子生物学が発展してきた歴史時間が三重奏する中で、生命が保持する「動的な平衡状態」が舞台の中央にせりあがってくるのだ。

「動的な平衡状態」とは何か?
「その答えの前に、まず著者はいまだ決着を見ない「ウイルスを生物とするか無生物とするか」の論争に対して、「ウイルスを生物であるとは定義しない」という大胆な結論を出す。なぜなら、「生命とは自己複製するシステムである」という、分子生物学の分野で長らく常識とされてきた定義だけでは生命は捉えきれないと考えるからだ。「では、生命の特徴を捉えるには他にいかなる条件設定がありえるのか」
「生命は常に正のエントロピー、すなわち最終的には死に至る「乱雑さ」にさらされている。そのエントロピー増大の危機を、生物は「周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れる」、すなわち食べることによって乗り越え続ける。しかし、それは他の生物の秩序をそのまま受け入れるというような単純な作業ではなく、はるかに精妙なものだ。その精妙さの核心にあるのは、「生命とは代謝の持続的変化であり、」「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という事実なのである。これこそが「動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)」であり、生命とはその平衡状態を形づくり続ける「流れである」、と著者は言う。

このあたりの思考過程を記述する第9章の「砂の城」の比喩や、ジグソーパズルを例にして説明される第10章「タンパク質のかすかな口づけ」、第11章「内部の内部は外部である」は、華やかな詩的レトリックが圧巻だ。大学の講義のような川喜田版『生物と無生物の間』の文体とはまるでちがう。これもまた、意図的なものであるのか、著者本来の資質なのか。あるいは、生命という神秘を正確に語ろうとする時、詩的であることは必須なのかもしれない。
特定の遺伝子が働かないようにする操作を施した、いわゆるノックアウトマウスの実験が、著者の予想とはまったく異なった結果になったことを記した最終章は、生命の神秘を深く実感させてくれる。「生命という名の動的な平衡は」「決して逆戻りのできない営み」、すなわち「時間という名の解けない折り紙」なのであり、「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはない」という著者の思いは、科学的精神がたどりついた敬虔な祈りそのものである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-118>
 さ夜深き雲ゐに雁も音すなりわれひとりやは旅の空なる  源雅光

千載集、羈旅、法性寺入道、内大臣の時の歌合に、旅宿雁といへる心を。
寛治3(1089)年-大治2(1127)年、村上源氏に連なるも血脈は諸説あって定かならず。従五位上治部大輔に至る。源広綱や藤原忠通らの歌合で活躍。金葉集初出、勅撰集に16首。
邦雄曰く、旅の「空」に居るのはわれのみ一人ではない。雁もまた夜もすがら虚空を旅して此処まで来た。雁を思って自らを慰め、わが身に引き替えては雁を憐れむ。雅光は三船の才で聞こえた源雅定の子とも伝える。金葉集に10首、他併せて16首勅撰に入った。金葉・秋の「さもこそは都恋しき旅ならめ鹿の音にさへ濡るる袖かな」もまたねんごろな叙情、と。

 から衣裾野の庵の旅まくら袖より鴫の立つここちする  藤原定家

六百番歌合、秋、鴫。
邦雄曰く、いわゆる達磨歌の典型、ここまで奇抜な修辞を敢えてするのは天才たる由縁だろう。歌合では当然「鴫の料に衣の事を求めたる、何の故にか」の論難が、右方から突きつけられる。判者にして父の俊成、「袖より鴫の」と云わん為、と迎えてやり、右の慈円を置いて左勝とした。奇歌とも言うべく、しかも抑揚・強弱が明瞭、快く愉しい作、と。

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September 25, 2007

雁の来る峯の松風身にしみて‥‥

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-四方のたより- Dinner Showの夜

もうずいぶん前から些か関わりのある歌い手松浦ゆみのディナーショーが弁天町オークのホテル大阪ベイタワーであったので、昨夜は連れ合いも幼な児もご同伴で、日頃の私などには不似合いの時ならぬ賑やかにて華麗なる(?)一夜と相成った。

長い間一向に陽の当たらぬ歌い手の道を歩いてきた彼女が、一応のプロ歌手ともいえるメジャーデビューを果たしたのは、7年前の落語家桂三枝が余技で書いたとかの詞を得て歌った「もう一度」という曲からである。
この業界でいわれるところのメジャーデビューというものが何を基準にあるかなど、その頃の私は知る由もなかったのは無論のことだが、それでも門外漢ながらとにかくもその発売記念のショー企画を頼まれ設定したのがはじまりで、その後リサイタルやディナーショーの制作や演出をいくつか裏で支えてはきた。
業界関係の事務所などに属さずいろいろとぶつかりながら徒手空拳でまがりなりにもその世界の登竜門に挑んでいく彼女のありように、門外の私などにも些かなりと心動かされるものがあったからだ。
関西など地方にあるままにプロ歌手をめざし生きていこうなどというのは、活躍する舞台とてあまりにもそのパイが狭小に過ぎるのだろう、周囲の人間関係にも翻弄され、やがて消耗し疲れ果てては露と消えてゆくのが宿命なのだろうし、彼女もまたきっとそうなってしまうにちがいない。
いずれ散ってしまうにちがいないのだけれど、そっと咲いた花なら花として、たとえそれほど陽のあたらぬ場所であったとしても、花の宿命を生きてみたいと、歌いつづけていくのを潔しとしているのだ。

唄は巧い。
以前にも書いたことがあるが、オールディズポップスから出ているからかノリもいいし、演歌からジャズまでなんでもこなすテクニシャンだ。
サービス精神もかなりのものだから260名ばかりの馴染みの客は2時間を越えるショーにも退屈することはなく、ほぼみなご満悦の体ではある。
おそらく彼らにとって15000円也は高くはない一夜の買い物だろう。
たとえ小さなささやかな夢ではあろうとも、その夢を売っている、売り得ていることにはちがいなく、彼女はまだ萎れず、散り去らず、昨夜も咲いていた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-117>
 雁の来る峯の松風身にしみて思ひ盡きせぬ世の行くへかな  慈円

千五百番歌合、千四百七十三番、雑二。
邦雄曰く、結句「世の行くへかな」に愚管抄の著者、天台座主たる気概が偲ばれるが、決して釈教歌や道歌の臭いは交えていない。歌合当時作者は40代後半に入ったところ、列して右は源通具の「過ぎにける三十路は夢の秋ふけて枕にならぶ暁の霜」。この巻自判ゆえ右に勝を譲っているが、その堂々たる風格だけでも左の勝、通具の作も珍しく良い出来、と。

 鳩の鳴く杉のこずゑの薄霧に秋の日よわき夕暮の山  花園院一条

風雅集、秋下、秋の歌に。
出自・伝未詳、花園院に仕えた女房、後期の京極派歌人として風雅集に10首入集。
邦雄曰く、古歌の鳩は珍しく、山家集の「古畑」の他は、この「杉のこずゑ」など特筆すべき清新な作。殊に素描に淡彩を施したかの味わいは忘れがたい。作者は風雅集にのみ10首、「院一條」の名で入選。秋中の「草隠れ虫鳴きそめて夕霧の晴れ間の軒に月ぞ見えゆく」や、秋下の「吹き乱し野分に荒るる朝明けの色濃き雲に雨こぼるなり」等、いずれも秀逸、と。

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September 24, 2007

わたのはら八重の潮路に飛ぶ雁の‥‥

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-世間虚仮- いやはや‥‥

国会議員票と都道府県連票(総数528票)で争われた自民党総裁選は、福田康夫330票、麻生太郎197票で、8つもの各派閥の領袖が支持に回った福田康夫が下馬評通り新総裁に。明日(25日)にも首班指名を受けて福田内閣誕生となるが、騒動の元凶たる現総理安倍晋三は慶応病院に蟄居したまま未だ姿を現さない。あの総理辞任の表明は同時に議員辞職即ち政界引退をも重ねてするべきではなかったか。

巨人との12ゲーム差をひっくり返して首位に立ったトラもここへきて4連敗、今年からセリーグでも採用されたクライマックスシリーズの一位通過もこれでかなり難しくなった。JFKトリオといくら球界一の抑えを誇っても、先発投手陣に柱不在の陣容では致し方なし、むしろ上出来というべきか。

昨日(23日)はやや曇り空でそれほどの暑さでもなかったようだが、一昨日の22日(土)は大阪市内では35.1℃という記録破りの猛暑日。’61年からの観測史上最も遅いもので、これまでの9月12日を大幅に更新とか。エルニーニョ現象とは逆の、東太平洋赤道上で海水温度が低下するラニーニャ現象の影響といわれるが、気象学などにはまるで蒙昧の徒にはラニーニャなどと耳慣れぬ言葉を聞くたびにアタマのほうも混濁気味となって暑さばかりがいや増しに増す。
夜は夜とてこういつまでも寝苦しくては、仲秋の名月も近いかというのに、これでは涼味も風情もあったものではない。

Wikipediaのご厄介になれば、エルニーニョもラニーニャもスペイン語だそうだ。エルニーニョは「男の子」の意味でイエス・キリストをも指し、一方ラニーニャは「女の子」の意味とかや。ならば聖母マリアを指すかと思えば、そこには触れておらず不明。

そのWikipediaといえば、近頃はWipedia-Scannerなるソフトがあるようで既に日本語版ウキスキャナーも開発されている由。このソフトにかかれば誰が何を書き込みしたかが一目瞭然となり、政府官庁筋の組織的な記事改竄が横行していることが判ったという。海の向こうでもCIAは勿論のこと、ローマ法王までが改竄編集に荷担しているという説もあって、なんとも「いやはや‥‥」言葉を失ってしまう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-116>
 草枕夕べの空を人問はば鳴きても告げよ初雁の声  藤原秀能

新古今集、羈旅、和歌所歌合に、羈中暮といふことを。
邦雄曰く、後鳥羽院寵愛の北面の武士秀能、建永元(1206)年、満22歳7月の作。どこで今夜は眠るのか、雁よ告げてくれと声高く呼びかける趣きは、若々しく爽やかに、一抹の哀愁を含んで、記憶すべき初雁詠。同じ歌合の同題、雅経の作は「いたづらに立つや浅間の夕煙里問ひかねる遠近の山」が入選している。新古今竟宴のその翌年の華やぎであった、と。

 わたのはら八重の潮路に飛ぶ雁のつばさの波に秋風ぞ吹く  源実朝

新勅撰集、秋下、秋の歌よみ侍りけるに。
邦雄曰く、新勅撰入集の実朝作品は、道家と同数であり、西園寺公経や慈円に次いで第6位だが、1位の家隆同様、秀作は殆ど含まれていない。「八重の潮路」例外的な佳品であり、強調、装飾表現に新古今調を見るものの、調べの重く響くところは、記憶に値する。「雁鳴きて寒き朝けの露霜に矢野の神山色づきにけり」が今一首の雁、と。

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September 23, 2007

古畑の岨の立木にゐる鳩の‥‥

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-表象の森- 忘れられた日本人

民俗学の泰斗宮本常一は、日本常民文化研究所にあって戦中から戦後の高度成長期まで全国各地をフィールドワーク、貴重かつ膨大な記録を残した。本書はその代表的な古典的名著。
俳優の坂本長利が一人芝居で演じてよく知られた「土佐源氏」も収録されている。
「対島にて」や「女の世間」、それに「世間師」など、すでに消え果ててしまったこの国の下層の民の暮らしぶりを生き生きと伝えて興味尽きないものがある。
放浪の旅に明け暮れた山頭火の日記を読んでいると、旅先で世間師たちと泊まり合わせたことなどがよく出てくるのだが、それに思わぬ肉付けをしてくれてイメージ豊かになったのも収穫の一。
各地をめぐり歩いて1200軒余りも家に宿泊したとされる宮本常一は1981(S56)年に鬼籍の人となるが、その活動の拠点たる日本常民文化研究所は網野善彦らの強い薦めで、翌年の82(S57)年、神奈川大学の付属機関として継承されている。
その網野善彦が本書の解説のなかで、宮本の自伝的文章の「民俗学への道」や「民俗学の旅」を引きつつ、宮本民俗学の特質と射程のひろがりを説いている。

以下は、宮本常一の死の3年前(78年)に書かれた自伝的エッセイからの一節。
「私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。(略) その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。(略) 進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。(略) 進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-115>
 秋ごとに来る雁がねは白雲の旅の空にや世を過すらむ  凡河内躬恆

躬恆集、上、旅の雁行く。
邦雄曰く、同じ詞書で3首、「秋ごと」は最後に置かれた。「世を過すらむ」とは、一生を送るだろうとの意。中空の鳥をみれば、地にあって営巣する場面が浮かんでこない。「年ごとに友引きつらね来る雁を幾たび来ぬと問ふ人ぞなき」「ふるさとを思ひやりつつ来る雁の旅の心は空にぞあるらし」と、他の2首もまた、ねんごろに情を盡したところが印象に残る、と。

 古畑の岨の立木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮  西行

新古今集、雑中、題知らず。 岨(そば)-山の険しく切り立った斜面。
邦雄曰く、収穫の終わった畑の一方の崖の木立に鳩が鳴く。「すごき」は深沈たる趣き、陰々滅々の感も交えた淋しさを表す。晩秋の鳩という素材も勿論珍しいが、この夕暮の寂寥感の表現も破格な新味がある。宮廷歌人の、知りつつも試み得ぬ主題・技法であり、これこそ西行が新古今時代に復権・再評価される要因の大きな一つだ。異論も生ずる一首だろう、と。

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September 20, 2007

秋風に山吹の瀬のなるなべに‥‥

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-世間虚仮- 安部首相脱税疑惑と独裁者たちの闇の財産

突然の辞任劇で敵前逃亡、今も慶応病院に入院したままの安部首相の相続税脱税疑惑は、グレーゾーンとはいえどうやら黒とは断じきれぬもののようだ。
直かに週刊現代の当該記事にあたったわけではないがその要約されているところをみると、父晋太郎が存命中に多額の資金を自分の政治団体に寄付献金していた。おそらくはこの折り晋太郎はその金額をそっくりそのまま寄付金控除を受けているだろうから大変な節税行為とはなるが(以前はそんなトンデモハップンが罷り通っていたのだ)、当時の政治資金規正法では政治家個人に資金管理団体が一つでなければならない現行法とは異なり、これを脱税行為とするに至らないのだろう。
晋三が父晋太郎の死後、その潤沢な資金を有する政治団体をそのまま継承したということならば、これを相続行為と見做し、課税対象とするのは当時としては法的に無理があったろう。
現行法における資金管理団体とは政治家個人の政治活動のための唯一の財布であり、金の入と出が一目瞭然となることを本旨としており、晋太郎の行ったこんな人を喰ったような脱税にも等しい行為は出来なくなっているから、現行法に照らして道義的責任は云々出来てもいまさら脱税行為と極めつけるわけにはいくまい。

ところで18日付夕刊の小さな囲み記事に眼を惹く話があった。
発展途上国における嘗ての独裁者たちが多額の不正蓄財をスイス銀行など国外の金融機関に貯め込んでいるのは北朝鮮の金正日を惹くまでもなく広く知られるところだが、世界銀行(WB)と国連機関の薬物犯罪事務所(UNODC)が連携して、これらの資産を取り戻し各々の国の開発資金として役立てようと、「盗まれた資産回復作戦」を着手するというもの。
世界銀行が推計する彼ら独裁者たちの汚職などによる蓄財の額はわれら庶民感覚の想像をはるかに超え出ているものだ。曰く、インドネシアのスハルト元大統領は150億~350億㌦、フィリピンのマルコス元大統領は50億~100億㌦、ザイール(現コンゴ)のモブツ元大統領は50億㌦などその巨額に驚かされる。ペルーのフジモリ元大統領も6億㌦とその名を挙げられている。
水は低きに流れるが、とかく金や財は高きに流れるもの。
世の権力者たちに巣くう闇の蓄財はまだまだ氷山の一角なのだろうが、世銀や国連によるこのUターン作戦が、悪銭身につかずとばかり洗浄され低きに流れるがごとく、大いに実効を結ぶとすれば時勢もずいぶん変わってきたものだと思わされるニュースではある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-114>
 秋風に山吹の瀬のなるなべに天雲翔ける雁に逢ふかも  柿本人麿

万葉集、巻九、雑歌、宇治川にして作る歌二首。
邦雄曰く、「金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 雁相鴨」、清麗なこと目をそばだてるばかり。「山吹の瀬」は所在不明だが、詞書によるなら宇治のあたりであろう。前一首は「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」。「射目人(いぬひと)」は狩のとき遮蔽物に隠れる射手、「伏見」の枕詞、いずれも強い響きが、凛々と秋気を伝えるような作、と。

 夕まぐれ山もと暗き霧の上に声立てて来る秋の初雁  北条貞時

続後拾遺集、秋上、題知らず。
文永8(1271)年-延慶4(1311)年、執権時宗の嫡男、母は安達義景女、高時の父。時宗早世て14歳で執権に。和歌を好み鎌倉在の冷泉為相・為守らと親交。出家して最勝国寺殿と称された。
邦雄曰く、来る雁も中空の声を歌うばかりではなく、14世紀初頭には「山もと暗き霧の上に」と、特殊な環境を創り出して、新味を持たせようとする。鎌倉武士、それも最明寺入道時頼の孫、元寇の英傑相模太郎時宗の長子である作者のこの風流は特筆に値する。勅撰入集25首、政村の40首、宣時の38首、宗宣の27首に次ぎ泰時を越える、と。

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September 18, 2007

今朝の朝明雁が音聞きつ春日山‥‥

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-四方のたより- 再び、中原喜郎展へ

9月も下旬にさしかかろうというのに日中の蒸し暑さはどうにもたまらない。
地球温暖化による異常気象もここに至っては疑いえぬ厳然たる事実かとみえる。
その残暑のなか、昨日(17日)は再び中原喜郎兄氏の遺作展も最終日とあって滋賀県立近代美術館へと出かけた。こんどは連れ合いと幼な児も打ち揃ってのことゆえクルマを走らせた。この7.8年続いた年に一度の、この時期の文化ゾーン詣でもこれを最後に遠のくかと思えば、胸の内も穏やかならず心ざわめくものがある。

時間に少々ゆとりをもって出かけたので、ギャラリーへと足を運ぶ前に、遊具のある子ども広場にてしばらく幼な児を遊ばせた。盛り土して小高くなったところは樹々も育って落葉樹のこんもりとした森ともなって、ちょっとした森林浴を味わえる趣きだが、陽射しを浴びるとやはり暑い。
遊具もたくさん備えているわけでなし、小一時間もすれば子どもも遊び飽きてくる。暑さゆえの喉の渇きもあったろう、「お茶が欲しい」と言い出したところで小さな広場を退散。自販機を探してお茶を与えてから、美術館のほうへ向かった。

美術館の前まで来ると、幼な児が「ココへ来たことある」と声を上げた。さもあろう、1歳の誕生を迎える前から年に一度とはいえ毎年通ってきた処だもの、幼な児とて記憶に留めていて不思議はない。否、たとえ成長し大人になっても、今のその記憶が中原喜郎という名とともに彼女の心に生きつづけていて欲しいものだと、心中秘かに念じたものだった。
会場のギャラリー受付のテーブルには中原兄氏のお嬢さんが二人出迎えていた。といってもお嬢さん方とはとくに面識があった訳ではないので挨拶は控えた。
連れ合いは順々に並んだ作品をゆっくりと追っていく。私はといえば二度目のことゆえ会場中央に置かれた長椅子に陣取ってあれをこれをと眺めてはのんびりと構えている。と、そこへ席を外していた夫人が戻ってきて丁重な挨拶を受けた。遺作展の後、兄氏の画集発行も手がけるという。まとまったものを遺しておきたいと爽やかに明るくいう言葉に縁の深さ、絆の強さが感じ取られた。
いつのまにか幼な児は受付の二人のお嬢さんの傍にピッタリくっつくようにして立っていた。知らないお姉さんたちの筈なのにもうすっかりお友だち気分なのだ。

そういえば思いあたることがあった。わが家には幼な児がまだ生後9ヶ月ばかりだった頃の数枚の写真がある。A4版のものでそのうちの一枚は今も居間の壁に懸けているのだが、これらを撮ってくれたのが兄氏で、文月会のグループ展を家族で観に行った際のものだった。そのときの写真が数葉、後日兄氏から丁寧に包装して送られてきたのだが、デジタルカメラだったから当然これをプリントした際に、兄氏の家族の間で話題にでもなったのだろう。お嬢さんたちが「あの時の写真の赤チャン? もうこんなに大きくなったんだ!」とばかり感激の初面(?)となったとみえて、そんな話題が幼な児にも優しいお姉ちゃんたちと映って嬉しくてたまらない気持になっていたのだろう。なるほどそうだったかと合点はいったが、とにかくしばらくの間、降って湧いたようなお姉さんたちの出現に、傍から離れようとしない始末だった。

会場では松石君と逢った。丁度帰り際に岡山君夫妻もやって来た。
もうなかなか来れないだろうからと、これまで一度も立ち寄ったことのない「夕照庵」で抹茶を頂戴しながら一服したが、折角の建物も座敷へは上がれず、離れの茶室も覗けずでは興醒めもので、このあたりが公営施設らしいサービスのいたらなさで、何処も同じだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-113>
 今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみぢにけらしわがこころ痛し  穂積皇子

万葉集、巻八、秋の雑歌。 -朝明(あさけ)
邦雄曰く、天武天皇第5皇子、母は蘇我赤兄の女、大津とは異母兄弟であった。異母妹但馬皇女との恋が万葉に隠顕する。恋とは直接に関わらぬこの「雁が音」の、沈痛で明晰な調べが心に沁む。万葉・八代集通じての、傑れた雁詠の随一であろう。「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐいて往なましものを」なる但馬皇女の作が、穂積皇子の歌に続く、と。

 もの思ふと月日のゆくも知らざりつ雁こそ鳴きて秋を告げけれ  よみ人知らず

後撰集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、初雁の鳴く声にふっとわれに還り、もの思いに耽っていたことをあらためて確認する。忘我の境に沈んでいたゆえよしは伏せたまま、「知らざりつ」と、例外的な時の助動詞に托する。「こそ-告げけれ」の強勢が、強まらず、かえってあはれを響かせるところも、この歌の美しさのもと。後撰集の秋雁は下の巻頭よりやや後に12首、佳品を連ねる、と。

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September 17, 2007

まどろひて思ひも果てぬ夢路より‥‥

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-世間虚仮- テロ特措法の本名?

夏バテゆえか昼閒の残暑は身に堪えるし、夜は夜でこのところよく眠る。
15日の土曜日、京都のアルティホールへとフェス応募の書類を持参、クルマでトンボ返りに所要時間5時間半、年がゆくとこういうのが思いのほか身体に堪えるのだ。

「テロ特措法に基づく艦船への給油は国際公約」と職を賭してこれを守るとブッシュに大見得を切ってきた安部首相の、国会冒頭、所信表明直後の突然の辞任というご乱心で、あわただしくも繰り広げられる自民党総裁選の迷走ぶりが残暑の暑苦しさをいや増しに増す。
その「テロ特措法」、16日の朝日新聞社会面に、この法の正式名称たるやなんと122字にわたる長いものでその長さは日本一と、第1案から4度の訂正変更を経て最終案に至る変遷を詳細に紹介していた。

「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法の一部を改正する法律」

と、まあだらだらとやたらに長いこと、他の法と比べても突出している噴飯物で思わず笑ってしまった。
慣例的にこの国の法の名称には読点を入れぬものらしいから、読み上げるのに何処で息継ぎをしてよいのかも判らぬ始末で、「寿限無々々々」じゃないが一気読みするしかない。
アメリカの対テロ武力活動に協力する旨を直接的な表現を避けて、「国際連合憲章」や「人道的措置」などと耳障りの良い語句を挿入し美辞麗句で包み込んでしまおうとする当時の内閣官房の思惑がこれほどの長大なものを生み出した訳だが、まことに膠着語たる日本語は、こんな化け物まで生み出してしまうものかと溜息も出よう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-112>
 まどろひて思ひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声  藤原定家

拾遺愚草、上、閑居百首、秋二十首。
邦雄曰く、夢うつつに聞いた雁の声、初めての雁の声、ただそれだけの歎声を、「夢路よりうつつにつづく」と、雁の列を暗示し、時間・空間を重ねた技倆はさすがである。閑居百首は文治3(1187)年25歳の冬の作。前年の二見浦百首の「初雁の雲ゐの声は遙かにて明け方近き天の河霧」よりもその調べ、心象の鮮やかさは、いずれも格段に勝っている、と。

 鳴きよわる籬の虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ  紫式部

千載集、離別。
籬(まがき)は竹や柴で目を粗く編んだ垣根。
邦雄曰く、「遠き所へ罷りける人のまうで来て暁帰りけるに、九月盡くる日、虫の音も哀れなりければ」とねんごろな詞書がある。さらぬだに悲しい虫の声、それも秋の逝く9月の末の日、まして人との別れを控えて、身に沁むこともひとかたならぬ心情ををくっきりと描いている。家集には「その人遠き所へ行くなりけり」で詞書が始まり、家族連れの地方赴任、と。

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September 14, 2007

行く月に羽うち交はす鳰の海の‥‥

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-四方のたより- 中原喜郎兄よ!

中原喜郎兄氏の遺作展にて添えられた作品目録の小紙に、「ごあいさつ」と題された絹代夫人の簡潔にて胸を打つ一文がある。
ここに兄氏を偲ぶよすがとして之を引いておきたい。

「大阪空襲でおふくろに背負われ、炎の中を逃げたんや。」
戦争の焼け跡の中で育ち、中学1年のときに父親を亡くし、母親、祖母、幼い弟たちと生き抜いてきたこと、よく聞いていました。
母子像や、家族への思いを描いた作品には彼のそんな生い立ちが表れているようです。そして、それはまた、私たち家族への思いでもあるのだろうと思います。
たくさんの素敵な友達に恵まれ、人とのつながりを大切にしてきた人でした。
1999年からの個展「我ら何処より来たりて」は親しい先輩や友達を亡くしたことで、そこから立ち上がるために彼らへの鎮魂歌として、そして、自分の生きてきた人生を振り返るために取り組んできたのだと感じています。
本当なら今年この時期に、「我ら何処より来たりて Ⅷ」を開く予定でした。ようやく描くものが見えてきたと言い、制作に意欲を燃やしていました。
彼の作品の続きが見られないことは、とても残念ですが、ⅠからⅦの作品を展示し、彼の人生を振り返りたいと思います。
今まで皆様には、温かく見守り応援していただきました。仕事が忙しい中、こうして描き続けることが出来たのは、ひとえに、皆様方のお蔭です。本当に有難うございました。
 ――― 2007年9月 中原絹代

一年先輩であった中原兄氏にはたいへんご厚志を戴いた。
なんどか此処に記してきたこともあるが、とくにご迷惑をかけたのが、兄氏の個展において我らのDance Performanceを厚顔にも添えさせて貰ったことだ。それも懲りずに二度にわたっても。
私にすればいくばくかの成算あってのこととはいえ、藪から棒の意想外な申し出に氏はどれほど面喰らったことであったろうか、それを表に出さず例の優しいにこやかな笑顔で快く承知してくれたことは、私にはいつまでも忘れ得ぬものにる。
また、昨年の4月27日、Dance-Caféにも夫人とともに多忙きわめるなかを駆けつけてくれたのだが、思い返せばこの頃氏の病状はすでにかなり重くなっていたのではなかったか。あの時、無理に無理を重ねる夫を見かねて夫人も心配のあまり同行されたのだろう。
兄氏のこれら利他行に対し、不肖の私はなんの報いも果たせぬままに逝ってしまわれた。
あの笑顔に秘された苦汁の数々を私はいかほど慮ってこれたろうか。
恥多きは吾が身、度し難く救いようのないヤツガレなのだ、私は。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-111>
 行く月に羽うち交はす鳰の海の影まで澄める底の白雲  堯恵

下葉和歌集、秋、湖月。
邦雄曰く、琵琶湖の異称「鳰(にお)の海」を、固有名詞のままでは用いず、「羽打ち交はす鳰」と、生きて働かせたところが見どころ。湖面には夜半の白雲が月光を受けて浮かび、それが澄明な水を透いて底に映るという。重層的な視覚効果は、ふと煩わしいほどである。月・鳰・雲の三種三様の白が水に蔭を遊ばせる趣向は珍しく、単なる秋月詠を超えて特色を見せる、と。

 このごろの心の底をよそに見ば鹿鳴く野辺の秋の夕暮  藤原良経

六百番歌合、恋、寄獣恋。
邦雄曰く、胸に響くこの第二・第三句、名手良経ならではのものだ。右の慈円は「暮れかかる裾野の露に鹿鳴きて人待つ袖に涙そふなり」。俊成判は「姿、心艶にして両方捨て難く見え侍れば、これはまたよき持とす」。右の第二句も面白いが、良経の簡潔無類でしかも思いを盡し、太い直線で徹したような一首の味、恋の趣は薄いが稀なる調べである、と。

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September 13, 2007

露深きあはれを思へきりぎりす‥‥

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-世間虚仮- 殿、ご乱心!

とうとう安部首相はご乱心、突然の辞任表明に日本中ばかりか世界をも驚かせているとんだお騒がせ君だ。
与謝野官房長官が「健康に大きな不安を抱えており、これが最大の原因」と所感を述べていたが、以前から安部晋三は厚労相指定の特定疾患、いわゆる難病の「潰瘍性大腸炎」を患って長いと小耳に挟んだ。
免疫抗体の異常が原因かとみられる炎症性の腸疾患で、粘血便、下痢、腹痛、発熱などの諸症状が頻発するそうだ。若年成人に好発し罹患数は増加傾向にあるといわれ、合併症に腸閉塞や腸管穿孔を起こしやすく、そうなれば緊急手術が必要となる。また大腸癌の合併頻度が高く、この場合浸潤生が強く悪性度が高いらしい。ずっと深刻な病いを抱えてきたわけだ。

だがそれにしても、たとえこの病状悪化という背景を考え合わせたにせよ、国会冒頭の所信表明をしたばかりの突然の辞任劇は前代未聞の不祥事、国民の理解を超え出た異常事だというしかない。
先の松岡農相の自死といいい、この辞任劇といい、安倍内閣は見えざる腐臭に満ちた魑魅魍魎の跋扈する内閣であったか、その負の大きなるをもって歴史に残るだろう。

戦後の高度成長期世代の、それも政治家として由緒正しき血統書付き(?)の御曹司たる安部晋三の思考回路など理解不能とはなから深追いする気はないけれど、毎日新聞の夕刊によれば、週刊現代が安部首相の脱税疑惑をこの15日発売号で暴く予定だったとされ、詳細は霧の中だが、父晋太郎からの相続財産25億円分を安部首相自身の政治団体に寄付し、相続税を免れた疑いがあるといい、おまけに週刊現代はこの問題に関し、安部首相に質問状を送付、12日午後2時を回答期限としていたというから、その数時間前の退陣表明とはいかにも出来すぎた話のようだが、案外このあたりが真相の根幹に触れているやも知れぬ。
この寄付行為が合法か違法かは、晋太郎から晋三へと先に相続があるとすればまったくの違法で、相続税脱税の罪は免れないところ、この場合現行税率でも50%だから12億余の脱税となるが、もちろんすでに時効成立で国税庁は請求もできない。しかし著名政治家の25億の財産相続を当時国税庁がなぜ見逃したのか不審は依然残される。
晋太郎の遺言ありきで相続を経ず晋三の政治団体に寄付がされたとなれば一応合法となるのだろうが、晋太郎が膵臓ガンで死去した平成3(1991)年当時、政治資金規正法は現在に比べてもさらに抜け穴だらけのザル法であったから、こういう想定外ケースは法の外にあろうが、巧妙な脱法行為として道義上の問題は取り沙汰もされよう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-110>
 露深きあはれを思へきりぎりす枕の下の秋の夕暮  慈円

六百番歌合、恋、寄虫恋。
邦雄曰く、秋夕も百韻あろうが、「枕の下の秋の夕暮」は類を絶する。「露深き」は当然忍ぶ恋の涙を暗示しているが、俊成判は「わが恋の心少なくやと覚え侍れば」と言い、右季経の凡作「あはれにぞ鳴き明かすなるきりぎりすわれのみしをる袖かと思ふに」を勝とした。誤判の一例であろう。慈円の太々とした直情の潔さは、なまじいな恋など超えている、と。

 秋の夜の明くるも知らず鳴く虫はわがごとものや悲しかるらむ  藤原敏行

邦雄曰く、わが悲しみをおのが悲しみとして鳴き明かす虫、虫の悲しみをわれと等しいと察する哀れみ、古今・秋上では、藤原忠房の「きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜のながき思ひはわれぞまされる」以下、松虫を中心に8首つづき、2首以外はよみ人知らず。敏行の作が秋虫に寄せる思いを代表していたようだ。松虫は「待つ」に懸けて頻りに愛用された、と。

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September 12, 2007

ゆく秋に底なる影もとどまらず‥‥

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-四方のたより- 我ら何処より来たりて

昨年12月急逝した畏兄ともいうべき中原喜郎氏の遺作展が、昨日(9.11)幕を開けた。
会場は彼が生前毎年のようにこの時期に個展を開催してきた滋賀県立近代美術館。

初日とて、梶野哲さんはじめ市岡美術部OBの顔馴染み連も駆けつけるというので、いつもなら車利用なのだが、この日は午後から電車で出かけた。
JR瀬田駅に着いてバス待ちの一服をしていたら、宇座君と出会した。どうやら同じ便に乗っていたらしい。
美術館と図書館を中心にしたびわこ文化公園、俗に文化ゾーンと呼ばれるこの公園に、年に一度必ず足を運ぶようになったのは、ひとえに中原喜郎氏の個展がある所為だったのだが、バスを降りて園内の並木道をそぞろ歩くと、このたびは遺作展であってみればこの通い路も最後になろうかと、いつもならぬ感慨に襲われる。同行の宇座君が「此処へ来るとよく手入れされた植栽にいつも感心させられる」と言っていたが、成る程そのとおりで、かなり頻繁に剪定されているとみえるそこかしこの刈り込まれた植栽を見る眼にも、胸の内の疼きゆえか、かすかな潤みを帯びてくる気さえする。

会場に入るや絹代夫人のにこやかな笑顔に迎えられた。
だがどうにもまともな挨拶の言葉も出てこない。こういう場面で口重のおのが不肖が身につまされる。
展示はほぼ描かれた年次順に配置され、観る者にはゆきとどいた心配りだ。
「我ら何処より来たりて」と題された中原氏の個展は昨年9月のⅦに至るまで1999(H11)年より唯一2000年を除いて毎年開かれてきた。
主題に沿ったさまざまな意匠を綴れ織りにしたかのごとき第1回のパネル8枚(182×)の大作を中心に、居並ぶ作品は大小78。どれも一度は眼にしたものばかりだから親しく懐かしく、意表を衝かれるようなことは起こらないが、七度にわたった個展の文字通りエキスとあれば、時々の印象の切れ々々が織り重なって、迫りくるものはおのずと厚く中原喜郎世界の幽遠の森と化す。
あれを観、これを観、またあれを観、これを観ては、二巡三巡と会場をめぐること一時間近く、閉館の時間も迫って会場を辞した。

帰路は梶野さん、谷田君、村上君、宇座君と同道、瀬田の駅前で、私は初めてだが、彼らには年に一度の常連(?)となったという居酒屋に入る。
相変わらずの談論風発、梶野さんを囲んでは話の尽きぬこととてない。したたかに呑んで3時間余を過ごしたか。帰りの足が心配になってきたところでやっと重い腰を上げて帰参となった。

「中原喜郎遺作展」-我ら何処より来たりて-は、
9月11日(火)より17日(祝)まで
於:滋賀県立近代美術館ギャラリー

<中原喜郎氏略歴>
1943(S18)年6月10日、大阪市生まれ
金沢美術工芸大学美術科日本画専攻卒業
京都市立美術大学美術専攻科日本画専攻修了
京都日本画家協会会員・光玄会会員
聖母女学院短期大学名誉教授

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-109>
 なほざりに穂ずゑを結ぶ萩の葉の音もせでなど人の過ぎけむ  大弐三位

新千載集、秋上。
邦雄曰く、詞書は「権中納言定順、物へまかりける道に、門の前を通るとて、萩の葉を結びて過ぎければ、言ひ遺しける」とあり、大納言公任の子定順の言葉なき相聞への返歌。「おとづれ」のゆかしさが逆に、しみじみと伝わり、作者の即妙の託言も至極淡々として快い。「物へかへる」即ち「或る所へ行く」と言うのも、なかなか含みのあるところ、と。

 ゆく秋に底なる影もとどまらず阿武隈川の波の上の月  中院通勝

中院也足軒詠七十六首、阿武隈川。
邦雄曰く、水上と水底に重なって映る晩秋の月、露わに無常感を歌わず、歌枕も、敢えて懸詞風には目立たさず、過不足のない、しかも個性的な一首に仕上げた技倆は抜群である。16世紀末、20代半ばで正親町帝の逆鱗に触れて丹波に逐われるなど、数奇な運命を享受した堂上歌人、その師は細川幽斎。結句の八音、重く定めなく一脈の哀愁あり、と。

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September 10, 2007

わりなしや露のよすがを尋ね来て‥‥

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-表象の森- その名はKOKORO: 胡紅侶

偶々、中国舞踊を観る機会を得た。
昨日は連れ合いが休日出勤とて、幼な児連れの私は常よりもゆっくりとメンバーの待つ稽古場へ出かけたのだが、それもまたいつものごとく昼過ぎには終えてみれば、はてその後の時間潰しのあてがない。
そこで以前長い間私自身深く関わっていたサンセットパーティなる催しの仕込を陣中見舞とばかり、といっても別に手伝うわけでもないのだが、天保山ホールへと足を向けた。
昔からの相変わらずの顔ぶれが出揃ってセッティングをしているが、会場中央に組まれたヤグラ舞台やら他もろもろの設営も、嘗て私がやっていた昔ながらの風景がほぼそのまま再現されており、ちょっとしたタイムスリップの感がある。

天保山ホールとは、その昔関西汽船などが発着した天保山埠頭に付設された客船ターミナルのことで、大阪市港湾局の管理下にある施設なのだが、なにもないに等しいガランとしたその広い室内は、1000人や1500人規模なら使いよう次第でユニークなイベント空間を現出せしめる。
今年で21回目を迎えるという奧野正美市議後援会主催のサンセットパーティは、いわばその使いように工夫を重ね、これをある種濃密な祝祭空間と化さしめた事例として、深く関わった者のひとりでもある私の記憶に残ってよいものである。
そのイベントも、今年あたりでもう最後になるやもしれぬ、そうなる公算は高いだろうとの予感が、私に足を向けさせたということもいえそうなのだが、これを詮索しだしては長くもなろうからここではやめておこう。

出演者たちの音合せや簡単なリハを終えたら酒宴の始まる前に引き揚げようと思っていたのだが、本番近くなってくるといよいよ昔馴染みの顔ぶれが増えてきて、消えどきのタイミングを失してしまったような格好でとうとう最後まで付き合ってしまった。

さてやっと本題、出演者たちのなかにひとりの中国舞踊家、胡紅侶なる女性が居た。年は50歳過ぎくらいか。幼い頃から北京舞踊学院に学んだというから本格派にはちがいない。
観たのは短い曲だが、ウィグル民族舞踊に連なるものと、私見だが一部にベリーダンスの技巧を用いたとみられるアラブに連なるような舞踊の二つ。その身技はたしかなものがあるが、日本滞在がもう長いらしいその生活文化ゆえか一抹の芸の荒れといったものが覗われるようだ。
演じ終えたあと少し話をしたが、そのとき自己紹介代わりに貰った一枚のビラには、KOKORO舞踊教室とあり、その主宰者が彼女。大阪と神戸と教室を開いている。在日はもう17.8年になるらしい。名前の胡紅侶からKOKOROと音を採って「こころ」と愛称されているとも。

中国近代化は伝統的な「武術」と「舞踊」に身体技法の共通性を捉えて、そこへヨーロッパとりわけロシアのクラシックバレーの技法を接ぎ木し、総合芸術化を図った。それが中国古典舞踊だ。さらにはこれを中軸にしつつ各地さまざまにのこる民族的な舞踊の技巧を各々採り入れて、チベット族舞踊、モンゴル族舞踊、朝鮮族舞踊、ウィグル族舞踊や、タイ族あるいはミオ族舞踊と個別化もしてきた。
欧米化、近代化とはそういうもので、中国でなくとも、アジア・アフリカ・南米のどの国においても多かれ少なかれ欧米流の「普遍性」がいわば暴力的に押しつけられるようにしてなされてきたといってもいいが、これを完全主義的なまでに推し進めてしまうのが中国という国だ。正しく少数民族の伝承的な芸能が深化していく術はなく、その特質は換骨奪胎されどこまでも添加物のごとくただ花を添える役割を担わされるのみだ。それら似而非芸術は、ウィグルならウィグルに伝承される身技の水脈を枯渇させるほうへと働きはしても、今に甦らせ深化させるほうへと導きはしない。

彼女自身、プロフィールによれば一時ニューヨークにも行き、ジャズ・モダン・バレエを学んだとあるが、私の眼にはどこまでも舞踊における中国近代化の申し子そのものにみえた。
どういう理由で来日することとなったか知る由もないが、長く日本という異国の地で、彼女の身に携えたその舞踊の技法を糧に生きねばならぬ彼女自身の存在の仕方そのものに、ふと一抹の悲哀を感じざるを得ず、まして今宵のこの出会いが、ひとつの舞台とはいえ一議員の後援会による酒宴のイベントのなかの座興に過ぎぬ見世物であってみれば、観衆から大きな喝采を得ていたとしても、否それだけにその哀れはなんともいえぬ相貌を帯びてくるのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-108>
 わりなしや露のよすがを尋ね来てもの思ふ袖にやどる月影  宜秋門院丹後

千五百番歌合、千二百十七番、恋二。
邦雄曰く、袖の露は涙、涙に映る月というパターンは春と秋の恋の一種の定石であるが、露のよって来る由縁、涙の故由を尋ねてと上句で深い歎きを盡すこの歌、他と異なって手練れを思わせる。歌合左は良経の「木隠れて身は空蝉の唐衣ころも経にけり忍び忍びに」で、この作者に似合わず低調、顕昭の判は勿論右丹後の勝。第四句一音余りの味わい無類、と。

 待つ人にあやまたれつつ萩の音にそよぐにつけてしづ心なし  大中臣輔親

祭主輔親卿集、萩。
邦雄曰く、萩の葉の風にそよぐ音さえ、待つ人の衣摺れかと心を躍らせて、またはかなく時を過ごす。言い捨てたような結句に、かえって悲しみが漂う。輔親は代々の祭主、大中臣家の大歌人能宣の息。長暦2(1038)年、伊勢への旅の途中、84歳で客死した。庭に天の橋立の景を作、風雅の士を招いて吟詠交歓、大いに風流を盡したという逸話が伝わる、と。

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September 08, 2007

あづま路の夜半のながめを語らなむ‥‥

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-表象の森- 三木清の獄死

高見順の「敗戦日記」に、10月1日付冒頭、
「三木清が獄死した。殺されたのだ!」と記されている。
はて、三木清の獄死は戦後すぐのことであったのか、てっきり戦時中のことだとばかり思っていたが、と気にかかり少しく調べてみた。

昭和20年3月、三木清は治安維持法違反の被疑者を仮釈放中に匿ったことを理由に拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移された。劣悪な衛生状態の獄中で皮膚感染症の疥癬(かいせん)を移され、さらには腎臓病の悪化とともに体調を崩し、敗戦後の9月26日、独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見された、という。
中嶋健蔵の説によると、「疥癬患者の毛布を三木清にあてがった。それで疥癬にかかり、全身掻きむしるような状態になり、26日の朝、看守が回ってみたら、ベッドの下の床に転げ落ちて死んでいた。もし占領軍当局がもっと早い段階で気がついていれば、彼の命は助かったかもしれない。」というのである。
事実、三木清の獄死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余を経ていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受けつづけている実態が判明し、これに驚いた連合軍司令部はすぐさま他の政治犯釈放の措置をとることとなる。すでに軍部による旧体制破綻は明々白々のことであったにもかかわらず、当時の日本の支配層はいかにその自覚が希薄であったかを曝け出している事件でもある。
この事件を契機として戦前の国体を護持した治安維持法は、連合軍司令部によって急遽廃止を命じられた。

マルクス主義をより大きな理論的枠組みで構想し直そうとした未完の「構想力の論理」、さらに晩年は親鸞の思想に回帰しようとしたとされる三木清の「哲学ノート」や「人生論ノート」を読んだのはもうずっと遠い昔のことで、その印象もベールに包まれて今は断片とて思い出せもしないが、岩波文庫巻末に岩波茂雄の名で付された「読書子に寄す」の格調高い名文が、実は三木清によって書かれたものと聞けば、その伏線に彼の若かりし頃のドイツ留学が岩波茂雄の資金援助あってこそ実現したという両者の交わりを思う時、成る程と合点もいき、あらためてじっくりと味わってみたい。

「読書子に寄す」 -岩波文庫発刊に際して-  昭和2年7月
真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。
かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。
岩波文庫はこの要求に応じそれに励ま されて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこ れを推挙するに躊躇するものである。
このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等 種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。
この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮 せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。
芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき 共同を期待する。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-107>
 照る月も洩るる板間のあはぬ夜は濡れこそまされ返す衣手  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、恋。
邦雄曰く、言語遊戯に神技をみせる順の歌は、一首一首に、すぐにそれとは気づかぬ珍しいはからいがあり、まさに「読み物」の感も生まれる。月光さんさんとふる夜、あばら屋の屋根の板葺きの目の「合はぬ」を、思ふ人に「逢はぬ」に懸け、月光に濡れ同時に衣が涙に濡れることを暗示する。第三句で転調を試みて第四句では強勢、よく緩急を心得た技法である、と。

 あづま路の夜半のながめを語らなむ都の山にかかる月影  慈円

新古今集、羈旅、旅歌とてよみ侍りける。
邦雄曰く、この歌、詞書とは異なり、出典は六百番歌合「旅恋」。当然「夜半のながめを語ら」うとするのは、愛人に対する盡きぬ思いであろうが、慈円の恋歌は例によって恋の趣がほとんどない。羈旅に部類されるゆえんだ。左は定家の「ふるさとを出でしにまさる涙かな嵐の枕夢に別れて」。俊成は秀歌揃いに満悦し、「感涙ややこぼれて」と絶賛の上、持とする、と。

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September 07, 2007

消えかへり心ひとつの下萩に‥‥

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-表象の森- 「敗戦日記」

高見順「敗戦日記」読了。
昭和20年の1月1日から終戦の詔勅を経て12月31日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。
おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また敗戦後のマッカーサー進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。

高見順は戦中転向派の一人である。
明治40(1907)年生れ、父は当時の福井県知事阪本釤之助だが非嫡出子、いわゆる私生児である。1歳で母と上京、実父とは一度も会わないまま東京麻生において育ったという。
東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸術」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をしていたが、昭和7(1932)年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獄され、獄中「転向」を表明し、半年後に釈放されている。
一旦、転向表明をしてしまった者に対し、軍部は呵責のない徴用を課する。昭和17(1942)年のほぼ1年間、ビルマに陸軍報道班員として滞在、さらには昭和19(1944)年6月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。
ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文人たちが住まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見弴、大佛次郎など。昭和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄、林房雄、川端康成、中山義秀などが続々と住みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格好である。

この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の収入も逼迫してきた事情もあっての企図であった。高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5月1日無事「鎌倉文庫」は開店した。この日100名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであったという。
この鎌倉文庫は終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」、「文藝往来」などを創刊していく。

8月6日、広島に原爆投下。
新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌7日、高見は文学報告会の所用で東京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に会い、原子爆弾による被災情報を得る。「広島の全人口の三分の一がやられた」と。
それから15日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して語らず。すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無表情の絶望がつづく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-106>
 人はいさ思ひも出でじわれのみやあくがれし夜の月を恋ふらむ  飛鳥井雅有

隣女和歌集、三、雑。
邦雄曰く、月明りの夜、初めて人に逢い、その後朝に贈った歌との詞書がみえる。一夜の逢いの後に歌を以て名残を惜しむゆかしい習いも、13期末なればこそであろうか。直接相手を言わず、その記念すべき夜を、夜の月を忘れぬと間接話法で強調したところも、独自の味わいと言えようか。新古今時代の一方の雄雅経の孫にあたる、作者の個性躍如、と。

 消えかへり心ひとつの下萩にしのびもあへぬ秋の夕露  飛鳥井雅経

明日香井集、下、恋、承久2年7月、影供三首に、寄萩恋。
邦雄曰く、承久の乱の承久3(1221)年、勃発の直前3月に逝去した雅経が、その前年50歳の秋に作ったもの。心詞の脈絡曲折を極める明日香井流詠法の、これも一例であろう。遂げぬ恋の悲しみに、隠す術もない涙を、婉曲にしかも鮮やかな初句の切れ味で描きおおせた。新古今のたけなわの新風は作者の30代後半であるが、技法は些かも衰えをみせていない、と。

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September 05, 2007

さらでだにあやしきほどの夕暮に‥‥

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-世間虚仮- パキスタンの高速道路崩落

3日前の新聞だったか、小さな囲み記事だが、パキスタンのカラチでこの8月に開通したばかりの高速道路が崩落するという事故が報じられていた。
記事の伝えるところでは、少なくとも5人が死亡、10人以上が重傷で、なお生き埋めになった人々が数十人おり、犠牲者はさらに増大するもよう。
地震などの自然災害によるものではない。工事上のなんらかの重大な欠陥から起きた崩落であり、100%人災の大事故だ。
パキスタンといえばインド国境近くのカシミール地方で9万人とも伝えられる死者を出した2年前の大地震が記憶に新しい。
その傷もまだ癒えぬ多くの被災民を抱え、災害復旧も遠く道半ばであろうし、また長びく紛争で経済も人々の暮しも疲弊するなかで、近代化促進のため全国に高速道路網の整備を進めようとする為政者たちへ、学者や識者たちからの批判が集中しているともいう、そんな折も折の欠陥工事による崩落事故とあってはどうにも救いがたいかぎりだが、人々はどんな思いでこのお粗末この上ない人災を見つめていることだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-105>
 おほかたに秋の寝覚のつゆけくはまた誰が袖にありあけの月  二条院讃岐

古今集、秋上、経房卿家歌合に、暁月の心をよめる。
邦雄曰く、建久6(1195)年正月、讃岐も五十路に入った頃の作品か。父頼政の討死も、既に二昔近く前のこと。源平の盛衰を眺めてきた女流の歌心は陰翳に富む。人はおほよそ悲しみの秋、夜明けは涙に濡れる。われのみならず、他の誰彼の、袖の涙に映る味爽の月。溢れる思いを切り捨てて突然結句を歌い終わる。その重い体言止めこそ作者の心であろう、と。

 さらでだにあやしきほどの夕暮に萩吹く風の音ぞきこゆる  斎宮女御徽子

後拾遺集、秋上。
邦雄曰く、詞書には「村上の御時、八月ばかり、上久しう渡らせ給はで、忍びて渡らせ給ひけるを、知らず顔にて琴弾き侍りける」とある。「あやしき」とは常ならぬ切なる思いを、実にゆかしく表現しており、馥郁たる秀歌だ。この歌、続古今・秋上では「題知らず」として「秋の夜のあやしきほどの黄昏に萩吹く風の音を聞くかな」の形で採られている、と。

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September 03, 2007

大比叡やかたぶく月の木の間より‥‥

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-表象の森- カラマーゾフ

光文社の古典文庫シリーズで出版された「カラマーゾフの兄弟」新訳本がずいぶんな売れ行きらしい。
訳者亀山郁夫のたっての拘りから、原作の構成に準じて四部とエピローグの形式をそのままに出版された大小5冊の文庫本は、8月下旬で延べ26万部に達したという。
これと呼応するかのように原卓也訳の新潮文庫版も昨年来より売れ行き好調で、こちらは上中下巻合わせ13万部を越えたというから、まさしく相乗効果、9.11以後の暴力的世界状況に人間存在の悪の根源に迫る帝政ロシア末期のドストエフスキー作品は共振するかとみえて、時ならぬカラマーゾフ・ブームではある。
火付け役亀山郁夫のこの訳業は、出版界における今年のトピックの一つとして数え上げられることになるだろう。

新訳の第5巻には、エピーローグが本文僅か60頁足らずという所為もあって、訳者による詳細なドストエフスキーの生涯を綴ったものと、懇切丁寧なカラマーゾフ・ガイドというべき200頁にも及ぶ解題が付されている。
本編の読後感と照らして成程と合点がいったのは、この小説の大半の部分が口述筆記によって成ったと推量されていることだ。元速記者であった妻アンナを相手にドストエフスキーは自らの創作ノートを手がかりに一気に語り聞かせ、アンナが書きとめ清書したものをさらに手直ししていくという方法で仕上げられていったというのだが、それゆえに文体の勢いも増し、同義反復の語の多用も合点がいき、またくどくどしさともなっているかとみえる。訳者は、このアンナとの協働が、登場する女性たちの形象に生き生きとしたリアリティを与え、多くの実りをもたらしたろうとも推測を膨らませている。
「カラマーゾフ」が未完の大長編と目されているのは定説のごとくなっているが、訳者は本編を一部とし、書かれざる二部の構成を思い描き読者に判りよくスケッチしてみせてくれる。アリョーショカと少年たちの集団が主役となる短いエピローグは、同時にその書かれざる二部のプロローグでもあり、本編4部においても、きたるべき「始まる物語」のモティーフが伏線として随所に張りめぐらされている、というのだ。

この訳者には「ドストエフスキー、父殺しの文学」(NHKブックス刊)なる上下2巻本の、ドストエフスキー読みにとっては見逃せぬ詳細な解説本があるが、私の場合、上巻はなんとか読み果せているが、下巻に入ったところで中座したままに打ち過ぎてきたのだ。そこへ「カラマーゾフ」の新訳登場というのでこの機に刊行に合わせつつのんびりと読んでみるかということになった。
たしか1月の末頃に第1巻を読みかけたのだが、なかなかリズムに乗れないままに打ち過ぎていたところ、偶々左の肩鎖脱臼で近くの病院に2泊3日の入院となったおかげで、一気呵成とばかり1.2巻を読み切ってしまった。ところが第3巻に入ってまたまたリズムに乗れないままに徒に日々が打ち過ぎてとうとう8月にまでなってしまうというていたらく。そこで第4巻にかかるまえに、5巻のエピーローグや解題を読んでから入るという逆順をとって、先の信州滞在の折やっと読了したという次第だ。

高見順の「敗戦日記」を読んでいると、すでに敗色濃厚、サイパンなどマリアナ群島陥落による米軍の空軍基地化で、昭和19年11月24日、武蔵野にあった中島飛行機工場への爆撃以来、以後間断なく日本全土へと空襲が拡大されていった、そのさなかの20年1月19日の日記に、
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読む。第1巻152頁まで。(河出書房版、米川正夫訳)-とあり、その前段に
「病いのごとく書け
 痴のごとく書け
 日記においても然り
 -略- 目的などいらぬ。作用を考えるに及ばぬ。病いのごとくに書け。
と、もはや否応もなく迫り来る死と隣接した日々の現実のなかで、ならばこそ自身の生を見つめるべく創作の衝動に抗いがたく襲われるのだろうか、狂おしいまでの筆致で書きつけている。
同じく、明くる1月20日には、
家に閉じこもり「カラマーゾフ」を読む。第1巻420頁読了。第2巻にかかる。
グルーシェンカとカテリーナとの会見の場面は、息をのむ思いだった。凄い。実に凄い。自分の仕事のつまらなさをいやというほど思い知らされた。
とあり、「日本文学報国会」の集まりや文壇との交わりで戦時下の慌ただしいなかを1月末まで読み継いでいったようだ。
高見順は1907(明治40)年生れだからこの年38歳だが、同じものを読むにも彼我の状況下の甚だしい差に慄然としつつよぎる想いも複雑なものが去来する。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-104>
 風の音も慰めがたき山の端に月待ち出づる更科の里  土御門院小宰相

新後撰集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、単なる名月、あるいは田毎の月の美しさを称えるなら陳腐になるところを、風の中の、まだ出盡さぬ月を主題としたのは、さすが大家家隆の息女であった。定家独選の新勅撰集入集はわずか二首だが、続後撰6首、続古今12首等、真価は後世に明らかとなり、総計35首入選。「慰めがたき」には、彼女一人の深い悲しみが籠っているようだ、と。

 大比叡やかたぶく月の木の間より海なかばある影ぞしぞ思ふ  十市遠忠

遠忠詠草、大永七年中、三十首和歌、湖月。
邦雄曰く、夜の比叡山を西から照らす月、比叡連山に遮られて、琵琶湖は半ば漆黒の影に覆われる。「木の間より」と真に迫りつつ、結句の「思ふ」で一つの心象風景となるところ、なかなかの趣向を盡している。享禄2(1529)年、32歳の作。「志賀の浦や向かひの山は影暮れて木の間に海を寄する月影」も同題同趣の作だが、大比叡の見えざる姿が勝る、と。

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