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August 31, 2007

それもなほ心の果てはありぬべし‥‥

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-表象の森- いじめ自殺

月刊「文芸春秋」の1月号などと遡って買い求めたのは、「いじめ自殺」について吉本隆明が小文を寄せているというのに食指が動いたからだ。
「いじめ自殺、あえて親に問う」と題された掌編の中で、吉本はハッとさせられるような大胆な言葉を発する。
「子どもの自殺は『親の代理死』」と見たほうがよいのだ、そう見るべきなのだ、と。
ただ眼を瞠らされ、しばし内省、黙考するしかないような重い言葉である。
ではあるが、子どもに自殺された親にとっては半狂乱と化さざるをえぬ凶刃とも映るだろう。
吉本の謂い様をかいつまんでいえば、
虐められる子も、虐める子も、みんな心の奥底に傷を負っているのだ。
その傷はどこからきているかといえば、幼い子どもにとって主たる庇護者たるもの、両親とりわけ母親なりが、子育ての時点あるいはそれ以前に、すでに負ってしまっている深層の傷であり、寄る辺なき身の幼な児は全面的に寄りかかるべき親の心の傷を、心から頼り切っている身なればこそ無意識裡に見逃せるはずもなく、自分自身もまた傷ついてしまうのだ、というようなことになろうか。
したがって、「子どもの-いじめによる-自殺」と、現在そう見られている悲劇の数々を、現象としていくら「いじめ自殺」と見えようとも、「いじめ自殺」と捉えて対処法を考えようとするかぎり、その努力はほとんど無効なものになるだろう、ということだ。
まだまだ未成熟な子どもが、遺書として「いじめによる自殺」を書き残したとしても、それは真の因から遠いものかもしれぬ、という視点は重要だ。抑も、成熟した大人の場合でさえ、その遺書に真の因を書き残すことは甚だ難しいにちがいない。
「いじめ」と「子どもの自殺」は結びつけられ、すでに「いじめ自殺」の語は、この国の現代社会の用語として成立してしまった感があるが、人というもの、人間社会というものはそうやって問題の本質からいよいよ遠ざかっていくものなのかもしれない。

-今月の購入本-
A.パーカー「眼の誕生-カンブリア紀大進化の謎を解く」草思社
吉本隆明「思想のアンソロジー」筑摩書房
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書
宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫
J.ジョイス「若い芸術家の肖像」新潮文庫
高見順「敗戦日記」中公文庫
月刊誌「文藝春秋 1月号/2007年」
広河隆一編集「DAYS JAPAN -地震と原発-2007/09」
「ARTISTS JAPAN -28 長谷川等伯」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -29 川端龍子」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -30 安井曾太郎」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -31 菱田春草」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -32 英一蝶」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -33 酒井抱一」デアゴスティーニ

-図書館からの借本-
松永伍一「青木繁-その愛と放浪」NHKブックス
阿部信雄・編「青木繁」新潮日本美術文庫

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-103>
 それもなほ心の果てはありぬべし月見ぬ秋の塩竈の浦  藤原良経

秋篠月清集、上、秋、月の歌よみける中に。
邦雄曰く、「月の歌」と題して歌は無月にしたところ、天才良経の面目の一端が窺い得よう。月の名所塩竈の眺めは、それでも心に残る何かがあろう。期待と諦観を揺曳して薄墨色にけぶるかの上句と、意外な下句が、独特の世界を映し出す。「久方の月の宮人たがためにこの世の秋を契りおきけむ」は、西洞隠士百首の中のもの、異色の秋月歌である、と。

 唐衣夜風涼しくなるゆゑにきりぎりすさへ鳴き乱れつつ  恵慶

恵慶法師集、きりぎりすの声。
邦雄曰く、初句の「唐衣」が、在来の枕詞から解き放たれて華やかな裾を翻しているような、季節感を存分にもたらす。結句の「鳴き乱れつつ」も、呂律の廻らぬ感と、群れて階調の整わぬ様とが、生き生きと耳の底に蘇ってくる。作者の自在な詠風が躍如としており家集中でも出色。「鳴く声もわれにて知りぬきりぎりすうき世背きて野辺にまじらば」も佳品、と。

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August 30, 2007

里は荒れて燕ならびし梁の‥‥

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-世間虚仮- 市岡、単位制に

大阪府教委による公立高校の再編整備のなかで、市岡が単位制高校へと09年度までに移行することが決まったようだ。
そういえばこの春から学区再編で従前の9学区制から4学区制へと変わり、おまけに前期・後期の入試があったりで、新聞の入試情報などなにがどうなっているのやらさっぱり判らずといった今浦島の思いで眺めたものだったが‥‥。
学区制の変遷でいえば、たしか私が卒業した年の昭和38年度から、この年は妹が進学した年だった所為なのだろう、それまで市内6、市外7の全13学区から5学区へと急拡大の広域化がなされたのを覚えている。
あと調べてみると昭和48年度に府下全域を9学区に再編され、今年の4学区編成まで延々と変わらずにきたわけだが、この長い年月にあって進学率における大阪の公立高優位神話が徐々に崩れ去っていき、その一因を学区制の硬直化に求められてきた傾向も否定できないし、また府教組攻撃の材料にもなってきただろう。それかあらぬか年下の友人の教員など偶に顔を合わせれば、教育現場の愚痴のひとつも必ず聞かされたものだ。
それにしても今浦島のこの身には、総合選択制だ、総合学科だ、全日制単位制だといわれても、一体どういう区別やら要領を得ないこと夥しい。府教委の公式サイトでは平成11年頃からはじまった再編整備計画の経緯が情報公開されているが、膨大な文書資料に及び、かいつまんで判りやすく解説してくれるものとてないから、骨折り損もいいところだ。
今度の再編計画で、総合選抜制19校、総合学科10校、全日制単位制4校となるもようだが、入試でいえばこれらはいずれも前期試験となり、府下全域から受験できることになるらしい。市岡が移行する単位制でいえば、先がけて堺の鳳高校が08年度から移行することになっており、市岡はこれを後追いした格好だ。単位制というからには年次の留年などはなく、3年間で課された単位を履修すればよいことになろうが、旧名門の鳳や市岡がこの制度を採るというのには、長年かけて進行してきた進学校としての地盤沈下に歯止めをかけたいという願いが些かなりとも込められているのであろうか。
こういうことの裏舞台や綱引きについては門外漢の私などにはまるで見当もつかないけれど、現校長K氏は、今は昔の面影に遠く落日の市岡復活にかなり意欲的な御仁らしく、OB連への啓蒙活動にもご執心とみえて、10月に開催予定のわが市岡15期会の総会にもわざわざ参席したいとの申し出があったと聞く。出るというからには当然挨拶のひとつもお時間頂戴と相成るは必定で、そこで名門復活をと鼓舞されてもねえ、ぼくらの世代はそういう風なのじゃなかなか踊らないんですがネ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-102>
 里は荒れて燕ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月影  木下長嘯子

挙白集、秋、古郷月。
邦雄曰く、唾と泥と藁で固められた、漆喰様の燕の巣の脱け殻を、白々と照らし出す秋月、題材からして既に、在来の古今伝授風の美意識から脱した破格の新味がある。第四句の「古巣さやかに」も、一抹の諷刺が含まれており、初句の重みを支えるに足る。雨月の歌に「名を立てし恨みも晴るる今宵かな月といへば雨花といへば風」もあり、異風また一入、と。

 有明の月も明石の浦風に波ばかりこそ寄ると見えしか  平忠盛

金葉集、秋。
邦雄曰く、月夜、明石の月を見て京へ上ったところ、「都の人々月はいかにと尋ねければよめる」と、ねんごろな詞書あり。月明りあまねく昼を欺くばかり、月も「明し-明石」、波ばかり「寄る-夜」の懸詞もさほど煩からず、なるほど、平家物語にまで引かれる即妙のゆかしさ。平氏隆昌の緒を開いた武人の、歌人としてのたしなみが偲ばれる、と。

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August 27, 2007

声高しすこし立ちのけきりぎりす‥‥

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-世間虚仮- 信州子連れ旅

子どもが5.6歳ともなってくると、気ままな旅もどうしても子どもを軸に動かざるをえない。
それほど重症ではないのだが、日々、アトピー性皮膚炎と闘う幼な児には、なによりも空気清澄にして涼風爽やかなのがよかったとみえて、先週の21日から23日、信州滞在の三日の間はほとんど痒がりもせず、まずは結構な環境であった。
初日は行きがけに、観光の定番コースだが、安曇野の大王わさび農場に立ち寄った。以前に一度来たことがあったが、一面のわさび畑の緑と豊かな水の流れが快い記憶として残っていたからだ。昼下がりの夏の陽射しはきつかったが、木蔭は涼しく、せせらぎの水の流れに脚を浸すと痺れるほどに冷たく心地よかった。足湯ならぬ足水というわけだが、七月生まれの私などには寒冷によほど弱いとみえて、冷やりとした一瞬の快感もすぐに突き刺すような痛覚となって襲ってくるから、さっさと引き揚げて一度きりで止めてしまったが、母と子にはその痺れるほどの冷たさがよほど快感なのか、なんども浸しては揚げるの足水を繰り返していた。
先の稿でも書いたが、古民家の宿やきもち家は、その造りといい居住性といい、決して予想を裏切るものではなかった。こういう空間でゆったりと寛げるのはある種至福の時といってもよかろう。
東京から来たのだろう、まだ2歳半という男の児連れの若い夫婦が、われわれと同じく二泊していたが、はっきりしない片言しか喋れぬこの子が、環境の違いだろうがよほど躁状態になっているとみえて、うちの娘がちょっと手勝手やると「キャッ、キャッ」と奇声をあげてはうるさいほどに「オネェチャン、オネェチャン」と覚束ない足取りで追いかけ回していた。おかげで夕食の一刻が賑やかこのうえないものとなって、うちの幼な児にも愉しい時間だったろう。
二日目は戸隠高原へと足を伸ばした。クルマで一時間余り、中条から小川村へそして鬼無里へと、山越えの峠を二つばかり走ったか。嘗ての鬼無里村も戸隠村も平成の大合併で今は長野市に編入されている。
忍者の里でも聞こえた戸隠は、木曾義仲に仕えて功のあった仁科大介に由来するというから古い。昔から修業の山として天台・真言両派の修験道が栄えた戸隠であれば、忍者たちが派生してくるのも肯ける。
幼い子連れ家族のお目当ては「戸隠チビッ子忍者村」だ。要するにアスレチックの道具立てを忍者の里風にアレンジした子ども向け遊びの空間。これがまだ男の子も女の子も区別なく遊び興じる年頃の幼い子どもたちにとってはすこぶるご機嫌の遊び空間となる。ご丁寧にもわが幼な児も400円也で赤い忍者服に着替えて、修業の旅へとフルコースを堪能すること二時間余り、少々怖がりの気がある娘ながら、このときばかりは心技体充実して、次から次へと遊び興じていた。
午後からは戸隠神社奥社の2㎞に及ぶ山道を森林浴とばかりのんびりと歩いてみたが、折悪しく雨模様となって中ほどの山門から折り返した。
宿へ戻って夕食後、遊び疲れた子と母が深い眠りに落ちてからはしばらくは読書。この春先から読み継いできた新訳本の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」をやっと読了。その夜はずっと激しい雨音が続いていたが、それも朝方には曇り空ながらあがっていた。たしか最低気温19℃とテレビで言っていたが、帰路19号線を大町市へと抜けようというあたり、もう10時半頃になろうというのに、国道にある気温表示が同じ19℃とあったのには驚いた。この日は関西でも雷雨の荒れ模様でこの夏一番の涼しさだったようだが、さすが信州の涼しさには及ばない。
安曇野に着く頃には晴れ間も多くなり陽射しも強くなってきていたが、風は涼しくそれほどの暑さも感じない。このまま高速を走って直帰するには些か惜しいと、穂高駅前のレンタサイクルを借りてしばしロードサイクリング。店で道祖神めぐりなど記載のロードマップを貰って穂高神社を起点に風に吹かれつ安曇野一帯を周回する。犀川流域のこのあたり、水田やわさび畑のひろがる平地にこんもりと塚のようになった処々に樹々が生い茂っている。そういえば他谷(たや)遺跡とかの縄文文化を伝える竪穴住居址群や墓壙群も近年発掘が盛んなようだ。点在する道祖神や史蹟旧跡ポイントで自転車を止めてはスナップ撮影をしたりちょいと一服。二時間弱ののんびりゆったりのサイクリングだったが、こんどは子どもよりも連れ合い殿がご満悦のようだった。
自転車を返して近くで遅めの昼食となったが、腹を満たして帰りの高速道で眠くなってはと思い私のみ自粛、コーヒーだけにした。それでも豊科から高速に上がって中央道の駒ヶ根を過ぎたあたりで少し眠くなったものだが、冷たいものを飲んだり煙草を吸ったりと抗っているうち眠気も去って、とうとう名神に入って伊吹山のSAまでノンストップで駆けてトイレ休憩。
帰着は午後6時半頃だったが、この年に遠出のドライブはやはり堪える。嘗て4.5日かけて東北路を3500㎞走ったことも両三度あるけれど、それももう十年近い昔のことだ。とてもじゃないがそんなハードドライブは今後できそうもなく、今回の旅程あたりが体力相応と観念すべし、と思い悟らされたような旅でもあった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-101>
 秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む  三条院

詞花集、秋、月を御覧じてよませ給ひける。
邦雄曰く、次の秋まで生きているかどうかも知れぬ身、それは三条院にとっては、文飾でも誇張でもなかった。35歳で帝となり5年で退位、翌年41歳の崩御、その頃はすでに失明して月は心に映るのみであった。御製には「恋しかるべき夜半の月かな」の他にも月光哀慕の悲しい調べが多い。「月影の山の端わけて隠れなば背くうき世をわれや眺めむ」、と。

 声高しすこし立ちのけきりぎりすさこそは草の枕なりとも  藤原顕輔

左京太夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、虫。
邦雄曰く、初句切れ、命令形二句切れ、三句切れ、まことに珍しい文体で歯切れの良さ抜群。王朝のきりぎりす詠中、好忠作と双璧をなす。殊に第二句の「すこし」に、優しさがにじんでいるあたり、心憎いかぎりだ。子の清輔と共に俊成・定家らの御子左家とは対立する歌風ながら、胸の透くような簡潔さ、雄勁な調べは、さすがに詞花集選者の真骨頂、と。

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August 24, 2007

きりぎりす夜寒に秋のなるままに‥‥

Yakimochiya

-世間虚仮- 古民家の宿

お盆も過ぎたというのに炎熱地獄の続く都会を逃れ、3日間という束の間ながら涼を求めて信州に遊んできた。
宿泊先は信州でもめずらしく観光資源らしきものはまったくないような山村の中条村。人口は一昨年の国勢調査時点で2593人。平成の大合併で長野県でもいくつもの村が消えていったが、どうやらこの村の場合、周辺二村との合併協議も不調に終わったらしい。
観光資源がないのだから民宿とて一軒もなく、古民家を移築したという公共の宿が一軒あるのみ。ネットで見つけたその古民家の佇まいに食指が動いて、連泊の予約をして出かけたという次第。
その名も信州名物「おやき」から採られたらしい「やきもち家」は、近在の古民家を移築したという中央の萱葺の母屋は間口12間となかなかの威容で、向かって右側には温泉の湧く浴場家屋と客室4室の新館を配し、左側には集会など団体用とみられる大広間を配している。
我々が宿泊した二日目には、千葉から山村体験にやって来たという小学生の団体がこの大広間に泊まって、蝉の鳴き声ばかりの静かな山あいに子どもたちのにぎやかな声を響かせていた。
客室は母屋の3室と合わせて計7室で、定員は最大38名というから、建物全体の規模に照らせば贅沢なほどにゆったりとしている。我々の泊まったのは母屋の一室だが、これがなんと15畳もあり、おまけに平家造りで剥き出しの天井の梁そのままに高いこと、ひろびろとして居心地はほぼ満点をつけてもよいくらい。
費用対効果でいえばかくのごとく文句なしの環境であり施設内容だが、なにより人のぬくもりが肝要のもてなし、客への応接ぶりに未熟さがあったのは惜しまれる。
地域振興施設として国の補助金制度を利用して整備された道の駅「中条」と同様に、村の事業として生まれたこの宿は、昨今の公共施設全般と同じく、その運営を指定管理者制度で民間に委託しているのである。それが100%民間委託ならばまだしもだろうが、どうやら外郭団体のごときものとなっているとみえて、もてなしの主役たる宿の主人も女将も誰が誰やらはっきりしないどころか、人が日毎に代わってしまっては、客の此方としてもとりつくしまもない。これでは贅を尽くした萱葺の古民家風の宿も形無し、仏作って魂入れずでなんとも心許ないばかり。
金に糸目をつけず成った折角の村興しの一策も、どこにでもある箱物行政と同様の歪みを曝け出していては、造りはどこまでも見事なこのお宿、はていつまで健在でいることやらと、悲しい心配ばかりが先立つのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-100>
 草若み結びし萩は穂にも出でず西なる人や秋をまづ知る  清原元輔

元輔集。
邦雄曰く、詞書には「西の京に住み侍りし人のとはぬ心ばへの歌よみて侍りし返事に」とある。恋の趣き、殊に心変わりをひそかに恨む趣きも見えながら、爽やかな味が捨てがたい。即吟を得意とした元輔ならではの作。人の住む「西の京」は右京のこと、現在も桂・嵐山・嵯峨は右京区の中にある。西は秋、東は春、秋は「飽き」心において読むべきであろう。

 きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく  西行

新古今集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者69歳の御裳濯(みもすそ)河歌合中の二十一番に見える。「松に延ふまきのはかづら散りにけり外山の秋は風荒むらむ」との番、俊成は左右適当に褒めて持とし、新古今集には二首とも入選しているが、西行の個性横溢、素朴な味比類のない「きりぎりす」こそ記念さるべきだろう。第四・五句の句跨りが、また一入悲しみをそそる、と。

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August 20, 2007

三日月の秋ほのめかす夕暮は‥‥

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-表象の森- 定家の「よそ」

今日は定家忌だそうな。
仁治2(1241)年8月20日に崩じたとされる藤原定家は享年80歳。但し旧暦であるから現在の歴に直せば9月26日ということになる。
塚本邦雄によれば、定家の詠んだ歌には歌語としての「よそ」が多用されているという。3652首を集めた一代の家集「拾遺愚草」に、その数どれほどを占めるのか知る由もないが、そのすべての歌から秀歌を選りすぐったという邦雄の「定家百首」では5首採られている。

 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ   (1)
 袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその滝つ瀬   (2)
 ふかき夜の花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春のともしび  (3)
 契りおきし末の原野のもとがしはそれもしらじよよその霜枯れ  (4)
 やどり来し袂はゆめかとばかりにあらばあふ夜のよその月影   (5)

「よそ」とは此処ならぬ場所、すなわち「余所・他所」にはちがいないが、その曖昧模糊とした限定し得ぬ不確かさから、時空を限りなくひろげ表象の深みへと誘う詩語となりうる。
たとえば、邦雄は「定家百首」のなかで(1)の歌について
「年も経ぬ」の恨みを含んだ初句切れが、「よその夕ぐれ」の重く沈んだ体言止め結句にうねりつつ達し、ふたたび初句に還る呪文的構成が出色であり、さらに初瀬山の一語は、恋愛成就を参籠祈願する意を込めつつ、内には「果つ」の心を響かせているのだが、歌は「祈恋」から発して「呪恋」となり、ついに祈りを呪うまでに凄まじい執念と成り果せてある。その上、夕ぐれを恋人の相逢う時刻と捉えるなら、恨みはさらに内攻しよう。
定家の得意とする「よそ」の用法、一種虚無の色合いさえ感じさせるこの言葉は、憎しみと諦めにくらむ心と、その心をあたかも第三者として見すえるかの冷ややかな眼の、両者交叉すると「よそ」とでもいうべきもの、つまりは、鐘は無縁の虚空に響き、作者は黄昏の中に取り残されて沈んでゆくばかり、救いのない「よそ」に他ならない、と。

また(3)の歌について、
燈火は「よそ」に消える。終夜の宴に華やいだ心はまだ醒めきらぬ。燈火はかの非在の境に揺らぐものか、あるいは宴の座に連なりながら、月光に紛れて見えなかったのか、いずれにしても陶酔を断つ滅びの予兆として今消えようと瞬く。暁の暗示は「あかしつつ」の間接的な時間の経過によるものであり、春夜の逸楽に耽溺した作者の肉と魂は、離れ離れにうつつと夢を漂うのだ。
もちろん「よそ」は「ここ」ならぬ場と時を示す。つまりは他界であり非在の境であろう。さらに作品に即するならば、現世にありながら不可視、不可燭の空間、経験を拒む時間の謂となる。そのような茫漠としたひろがりと靉靆としたふくらみをもつ詩語は、西欧における「彼處(ラバ)」よりもさらに虚無の翳りを帯びた言葉である。
この歌、「よそ」という言葉のもっとも定着した定家の歌の典型であり、(1)の「よその夕ぐれ」の凄まじい呪文と双璧をなす、と。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-99>
 三日月の秋ほのめかす夕暮は心に萩の風ぞこたふる  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。
邦雄曰く、秋篠月清集巻頭、良経の天才振りを証する花月百首の中でも、技巧的な冴えを示す一首。上・下句の軽妙な照応を試みながら連歌的なくどさは微塵もなく。仄かな今様調が快い。良経の若書きに見るこの破格の調べこそ、新古今集には現れぬ今一つの新風だろう。萩と三日月を近景・遠景とする見事な心象風景に、のどかな鼓の音色が響いてくる、と。

 くつわ虫ゆらゆら思へ秋の野の薮のすみかは長き宿かは  曾祢好忠

好忠集、毎月集、秋、八月初め。
邦雄曰く、くつわ虫も王朝歌には珍しい。きりぎりすや鈴虫とは些か趣を変えて、諧謔を感じさせるため、用例は極めて少ない。あの喧しい秋虫に「ゆらゆら思へ」と悠長な第二句を続けるのも、意外性があり、先の短い歎きを第三句以下に盡しながら、「薮のすみか」と、また聞き慣れぬ歌詞で耳を楽します。ほろ苦い面白みが一首の底に漂い、忘れがたい、と。

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August 17, 2007

時雨とはちくさの花ぞ散りまがふ‥‥

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-世間虚仮- 北朝鮮無残

我が国では8月に入ってから記録破りの猛暑つづきだが、その太平洋高気圧の煽りを受けてかお隣りの朝鮮半島ではこれまた記録的な集中豪雨が続いた。
とりわけ金正日独裁の北朝鮮では疲弊しきった国土に追い打ちをかける大災害となったようで大変な被害をもたらしている。
報道による被害数値を列挙すれば、8万8400世帯の住宅が全・半壊、被害者は30万人以上、さらには全耕地面積の11%が流失または浸水、400箇所の工場や企業が浸水、という。
自然の猛威であってみれば不可抗力と天を仰いでひたすら歎くしかないのだろうが、全耕地面積11%に及ぶ流失・浸水とは、積年にわたる土壌の疲弊や治水灌漑全般、国土の荒廃なくしては、これほどの被害には至るまいにと推量されるところだ。
そんな一方で、10万人以上の選良(?)の民が一糸乱れず繰りひろげる平壌での「アリラン」が、世界最大のマスゲーム・芸術公演としてギネスに認定された、という報道が並んで伝えられている。
目出度いといえばお目出度いニュースにはちがいなく、最貧国北朝鮮に君臨する独裁者金正日はさぞご満悦だろうが、われわれ対岸からみればこれほど噴飯モノの話はなく、貧困と災害と、さらには人災に喘ぎ、塗炭の苦しみのなかにいる人々を思えばただただ暗澹としてくるばかりだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-42>
 聞くたびにあはれとばかり言ひすてて幾夜の人の夢を見つらむ  順徳院

続後撰集、雑下、題知らず。
邦雄曰く、父帝後鳥羽院の作風をさらに微妙に屈折させて、一読真意を測りかねる歌も少なくないが、味わいはそれゆえに一入。「あはれとばかり言ひすてて」の冷ややかな響きなど、稀なる余情を残す。家集に同じく「題知らず」で「ながめわびぬ見果てぬ夢のさむしろに面影ながら残る月影」あり。前歌に似た恋の影を揺曳しながら、侘しい抒情は忘れがたい、と。

 時雨とはちくさの花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ  藤原義孝

後拾遺集、哀傷。
邦雄曰く、天延2(974)年9月、義孝が20歳で他界して後、賀緑法師の夢に現れて告げた歌と註記がある。極楽浄土は曼陀羅華に分陀利華、さまざまのめでたい花々が咲き乱れて、この身は至福、現世の人々は何を泣かれることがあろうとの言伝であった。死者の詠として勅撰に入るほどの天才、この歌も見事である。なお賀緑法師は比叡山の阿闍梨と伝える、と。

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August 14, 2007

いにしへを昨日の夢とおどろけば‥‥

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―世間虚仮- お盆のプール通い

お盆だというのに猛暑がつづく。北海道も連日の記録的な暑さだそうだ。札幌では4日連続で沖縄の那覇を上回る気温だという。
幼な児の通う保育園は13.4.5と三日間お盆の休みだが、連れ合いは変則勤務で14日のみで、その代わり来週に三日間の休暇を取ることになっているから、さしずめわが家の盆休みは世間から外れて来週と相成る。
そんな次第で昨日と明日は子守専従。
この夏、幼な児はプール通いにご執心だ。
住之江公園の中にある府営のプールはさほど大きくもないが、大人は300円だが子どもは中学生まで100円と、廉価で楽しめるのがありがたく、子どもたちや家族連れでかなりにぎわっている。
この程度ならたいした負担にもならないから、今夏はわが家でも休みのたびに親子連れで通っている。
昨日も、朝から待ちかねたように幼な児の催促を受けてプールへ行った。いつもは連れ合いがご相伴役で、私には今夏二度目の登板だった。
前日の日曜は、保育園の仲間たちも何人か来ていて、一緒に仲良くしてご機嫌だったと聞いていたから、この日もてっきり顔馴染みが来ているだろうと思っていたら、当てが外れてゼロ回答。
これには参った。友だちが一人でも居ればその子とさんざん遊べるのだから、此方は高みの見物で少しは自由もきくというものだが、これでは眼も離せないしおまけに適当に相手もしてやらねばならない。
まだ泳ぎにもなっていないのだが、誰に教えられたかほんの数秒、顔を水面につけて足をバタバタさせている。少し気になったので「眼を開けているの?」と聞いてみると、「少しだけ」と返ってきた。
ほとんど進みもしないのになんどなんども飽きずにやっていたから、あとでゴーグルを買ってやった。
今日も朝早くから連れ合いとお出かけで、昨日と同じくお友だちゼロ回答だったにもかかわらず、新兵器のゴーグルを着けてご機嫌に泳いで(?)いたらしい。
プール日参のお盆で日焼けがどんどんすすむ親子だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-41>
 いにしへを昨日の夢とおどろけばうつつの外に今日も暮れつつ  宗尊親王

竹風和歌抄、文永三(1266)年十月、五百首歌。
邦雄曰く、鎌倉第六代将軍、32歳の夭折、その迸る詩魂もおのずから三代将軍実朝を想起させる。宗尊親王の歌はまた別種の寂寥と不安を帯び、技巧はさらに巧緻だ。「うつつの外」を見つつ、しかも夢を見ることもできない一人の青年の「今日も暮れつつ」と呟く姿は傷ましい。親王一代の秀作と言ってよかろう。別の家集では「夢」題で収められる、と。

 歎きつつ雨も涙もふるさとのむぐらの門の出でがたきかな  斎宮女御徽子

玉葉集、雑四。
邦雄曰く、詞書には「式部卿重明親王かくれて後、内より参るべき由のたまはせければ」とある。父重明の他界した天暦8(954)年、徽子は25歳、村上帝女御となって規子を生んだ5年の後である。「葎-むぐら-の門」は文飾であろうが、高貴の身ゆえなお露わにはできぬ悲しみの、とめどもない様が覗われよう。女御歌合を催したのは天暦10(956)年であった、と。

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August 12, 2007

花もみぢ見し春秋の夢ならで‥‥

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-表象の森- ふたたび「海の幸」

「雲ポッツリ、又ポッツリ、ポッツリ!
 波ピッチャリ、又ピッチャリ、ピッチャリ!
 砂ヂリヂリとやけて
 風ムシムシとあつく
 なぎたる空!
 はやりたる潮!」

明治37(1904)年7月、東京美術学校を卒業した青木繁は、同郷の詩人高島泉郷の布良礼賛の言葉に誘われ、房州布良海岸へと写生旅行に出かけた。
同行3人、故郷久留米時代からの同僚坂本繁二郎と、画塾不同舎以来の友人森田恒友、それに不同舎の後輩で当時青木を慕っていたらしい福田たね。滞在はほぼ2ヶ月。
冒頭に引いたのは、布良滞在中、「僕は海水浴で黒んぼーだよ」との書き出しで同郷の友に宛てた手紙の中の一節だ。松永伍一の謂いを借りれば「生命の発条の凄まじさ」ともいうべき若者特有の本然たる躍動があるが、その背景にはこの滞在において進行したと見られる福田たねとの恋の焔も関わっているのだろう。
前年の「黄泉比良坂」などの出展で第1回白馬会賞を射止め、その俊才を高く評価された青木にとってこの写生旅行は、さらなる大きな飛躍を期したものでもあった。
同じ手紙の中で「今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰ってから御覧に入れる迄は黙して居よう。」と記した作品が、その年の白馬会展に出品され、当時の画壇を圧倒した「海の幸」だが、同行の坂本繁二郎によれば、この絵は眼前嘱目の光景を写したものではなく、青木自身は海辺で老若男女入り乱れて活況を呈する大漁風景を見てはいないのだという。
大漁の、夥しいほどの魚が浜に揚げられ、人々が鉈をふるい処分し振り分けられていく光景は、あたり一面血の海と化しまるで修羅場のごときさまを呈す。さらには血の滴るそれらの獲物を猟師たちやその家族が、三々五々背にかついで帰っていく。興奮さめやらぬ坂本らからこの様子を聞かされた青木の心中に、彼自身拘りつづけてきた神話的モティーフと、現し身の海人たちが繰りひろげたこの光景が交錯して想像の翼をひろげたようである。
翌朝よりほぼ1週間、彼はあたり構わず製作に没頭し「海の幸」は成った。
縦70㎝×横180㎝という横長の画面に、老若10人の海の男たちが獲物を担いで左から右へと隊列となって横向きに歩いているその中に一人、絵を見ている此方側すなわち観者に対して控え目にしつつも遠く挑むように此方を見ている者を配するという、この意表を衝いた着想が画面全体を引き締め統括しかつ格別の惹起力をもたせているのだが、そのモデルとなった顔が男性であるはずにもかかわらずどう見ても福田たねその人としか見えないのが、これまた後代の論議の種ともなったようである。実際その顔は同じ頃に描いた福田たねの肖像画とそっくりなのだから、彼はこの渾身の野心作に満々たる情熱と自負を抱きながら、いま現に身近にある恋人の顔をそこへ描き込んだのだろう。

その年の秋、白馬会展に出展されたこの作品は、他を圧して一大センセーションを巻き起こした。
当時すでに親交のあった蒲原有明は、
「わたくしは実際に青木君の『海の幸』を眼で見たのではなく、隅から隅まで嗅ぎ回ったのである。わたくしの憐れむべき眼は余りに近くこの驚くべき現象に出会って、既に最初の一瞥から度を失っていた。そして嗅ぎ回ると同時に耳に響く底力のある音楽を聴いた。強烈な匂いが襲いかかる画であると共に、金の光の匂いと紺青の潮の匂いとが高い調子で悠久な争闘と諧和を保って、自然の荘厳を具現しているその奥から、意地の悪い秘密の香煙を漂はし、それにまつはる赤褐色な逞しい人間の素膚が、自然に対する苦闘と凱旋の悦楽とを暗示しているのである。一度眩んだわたくしの眼が、漁夫の銛で重く荷れている大鮫の油ぎった鰭から胴にかけて反射する青白い凄惨な光を、おづおづ倫(ぬす)み見ているひまに、わたくしの体はいつかその自然の眷属の行列の中に吸ひ込まれていたのである。」と評した。
時あたかも、明治37(1904)年の秋といえば、この年の春に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟の身を案じた与謝野晶子が絶唱した「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、これまた大きな話題となった頃と偶々まったく重なっているのだが、ふたたび松永伍一の言を借りれば、青木繁の「海の幸」は、この晶子の話題作と「肩を並べていい芸術上の収穫として騒がれていった」というように、日本の近代絵画史上に燦然と君臨し、いわば伝説と化していくのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-40>
 むばたまのわが黒髪やかはるらむ鏡の影にふれる白雪  紀貫之

古今集、物名、かみやがは。
邦雄曰く、鏡に映る雪と見たのは、自らの白髪であったという老いの歎き、類歌は無数にあるが、これは京の北野の「紙屋川」を第二・三句にひそかに嵌め込んだ言語遊戯。遊びにも見えぬ優れた述懐歌と化したのは貫之たる所以。「今幾日春しなければうぐひすもものはながめて思ふべらなり」は「すもものはな」を象嵌した。勅撰集には不可欠の部立、と。

 花もみぢ見し春秋の夢ならで憂きこと忍ぶ思ひ出ぞなき  後崇光院

沙玉和歌集、堀河院百首題にて、雑、懐旧。
邦雄曰く、新続古今集の歌人中でも、後崇光院貞成親王は際だった存在であり、その生涯は波乱に富んでいる。春・秋の思い出のみが、鬱屈に耐える唯一の慰めであったという述懐が、さこそと察せられる。称光天皇の逆鱗に触れて薙髪したことは勿論、75歳で余映のように院号を得たのも、憂悶に鎖された人生の、殊に「憂きこと」であったろうか、と。

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August 10, 2007

昔見し蛍の影はなにならで‥‥

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-世間虚仮- 倒産大幅増

戦後最長の好景気というのに、近畿2府4県の6月の倒産件数が281件、前年同月比58%増と、件数において大幅増だが、一方負債総額は7ヶ月連続で1000億円を下回っているという。大手を中心に景気は相変わらず堅調に推移しているとされつつも、中小零細における小規模倒産が頻発しているわけだ。
同じくこの日発表された内閣府による7月の消費者動向調査では、2年7ヶ月ぶりの低水準だという。ガソリンの高騰もある。食品や生活用品に一部値上げの動きが続いている。
中小零細の事業者においても一般消費者においても、いざなぎ景気を越えたという好況感からはほど遠く、失われた十年以来のツケに困窮の度を深めているのが実態に近いのだろう。
参院選での安倍自民の大敗に、年金問題や事務所費問題ばかりが敗因とクローズアップされるが、なにやらじわりじわりと貶められていっているという感覚しかもてぬ、無辜の民の出口なし的状況への憤懣が、その背景にあるのだとは思えないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-39>
 夢の世に月日はかなく明け暮れてまたは得がたき身をいかにせむ  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、十題百首、釈教十首、人。
邦雄曰く、「十首」は他に、地獄・餓鬼・畜生・修羅、天・声聞・縁覚・菩薩・仏を数える。建久2(1191)年、良経22歳の作であるが、その老成した技法は翌々年の六百番歌合に匹敵する。「夢の世」も、釈教臭を持たぬ流麗な調べのなかに、限りない寂寥感・無常観が漂う。「朝な朝な雪のみ山に鳴く鳥の声に驚く人のなきかな」は「鳥部十首」の中の歌、と。

 昔見し蛍の影はなにならでわが世の月ぞ窓にかたぶく  滋野井実冬

新続古今集、雑上、寄月往事を。
邦雄曰く、掉尾の勅撰集に見える、応永16(1409)年9月十三夜の探題百首歌中の作、実冬は後三条入道前太政大臣。第四句の「わが世の月ぞ」に万感をこめ、緩徐調の滋味溢れる述懐歌を創った。第二十一代集きっての秀作として印象に残る。「契りしもあらぬこの世に澄む月や昔の袖の涙とふらむ」も同じく新続古今・恋五に見えるが、なかなかの佳品、と。

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August 09, 2007

暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる‥‥

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-表象の森- 青木繁「海の幸」

ここ3週間ばかりか、一枚の絵に、といってもナマのではなく画集の中の一枚にすぎないのだが、新しきOriginの底深い根の部分をめぐって、ともかくも心囚われて逍遙することしきりであった。
維新から文明開化を経て日清・日露の国威発揚とともに欧米近代化も一応成りつつあったかとみえる明治も終りを告げる44(1911)年の早春、3年間の九州放浪の末、28歳の若さで夭折した青木繁が遺した「海の幸」である。
悲劇の天才画家青木繁の名も、彼22歳の明治37(1904)年にものした畢生の作「海の幸」も、昭和23(1948)年の河北綸明の労作「青木繁-生涯と芸術」による再発見以来、日本の近代西洋画草創期にひときわ異彩を放った画業はつとに再評価され、美術全集などに定着してきたのだから、これまでもなにかの機会に眼にしたことはない筈はないのだが‥‥。

彼の遺した画業でいえば、「黄泉比良坂」の幻想性や、世紀末を漂わせる画風の「狂女」も好いが、「海の幸」は構図といい筆致といい群を抜いて好い。当時の画壇を先導した黒田清輝などの画を脇に置いてみれば、その斬新からくる衝撃は計り知れないものがあるだろう。白馬会第9回展において、裸体画ゆえに特別室に展示されたというこの作品に、画壇の人々は感嘆の声を挙げつつ賛否両論沸騰したという。
この絵を見て衝き動かされた若き詩人蒲原有明は「海の幸」と題するオマージュを捧げているが、有明はこの詩を生涯にわたり三度も改作するという執心ぶりを示しているのも愉しい。
「海の幸」青木繁画  ――蒲原有明
 ただ見る、青とはた金の深き調和。-
 きほへる力はここに潮と湧き、
 不壊なるものの跫音(あのと)は天に伝へ、
 互(かたみ)に調べあやなし、響き交はす。  -後略-

早熟の文学少年でもあったされる青木繁の全遺稿集とされる「仮象の創造」を併せて読んだが、感じること思うことろさまざまに浮かんでは、茫々漠々、いまのところ纏まりそうもないので、遺された短歌群からいくつか列挙しておくにとどめる。
 宵春を沼の女神のいでたたし ひめごと宣るか蘆の葉の風
 黒髪をおどろに揺りて悶ゆる子 世の初恋を呪はしと泣く
 ねくたれやもろ手を挙げて掻いつづける 肩にうねりの蛇に似る髪
 晶(あか)き日を緑の波に子を抱きて 人魚(ドゲル)の母の沖に泣く声
 庭下駄に飛石忍ぶ手燭(てもとし)の 手を執りあへば散る桜かな
 故なくて唯さめざめと泣きし夜半 知りぬ我まだ我に背かぬ
 幾たびか噫いくたびかめぐりこし 如何に呪ひの恐ろしき渦
 蒲公英の野や手をつらね裳をあげて 謳ふや舞ふや世しらぬ乙女
 父となり三年われからさすらひぬ 家まだ成さぬ秋二十八
 わが国は筑紫の国や白日別 母います国櫨(はぜ)多き国

※現在「海の幸」は久留米市の石橋財団・石橋美術館に所蔵されている。
http://www.ishibashi-museum.gr.jp/collections/a.html

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-38>
 見るままに天霧る星ぞ浮き沈むあかつきやみの群雲の空  西園寺実兼

風雅集、雑中、文保三(1319)年、百首の歌の中に。
建長元(1249)年-元亨2(1322)年、太政大臣西園寺公相の三男、永福門院らの父。京極派の歌人として活躍し、また琵琶の名手でもあり、後深草院二条の「とはずがたり」では「雪の曙」の名で登場する主人公の恋人。続拾遺集初出、勅撰入集は209首。
邦雄曰く、後西園寺入道前太政大臣名で見える作者は、承久の乱後栄えた、定家夫人の弟西園寺公経の曾孫にあたる。玉葉60首入選のなかなかの技巧派で、「星ぞ浮き沈む」あたりの抑揚と明暗は人を魅するものあり。冬の部に見える「行きなやむ谷の氷の下むせび末にみなぎる水ぞ少なき」も、ややねんごろに過ぎるほど重い調べが心に残る。没73歳、と。

 暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長き眠りをおもふ枕に  式子内親王

新古今集、雑下、百首歌に。
邦雄曰く、院初度百首の「鳥」五首。夜明けの鶏鳴を聞きながら無明長夜の眠り、すなわち現世の生を歎いている。「あはれなる」はむしろわが身の上であり、釈教的な深みは作者の独壇場。式子は翌年正月永眠した。「はかなしや風に漂ふ波の上に鳰の浮巣のさても世に経る」も同じ「鳥」の中の秀歌で、新千載・雑上に入選、初句と結句との照応が微妙、と。

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August 08, 2007

世々を見し夢のおもかげ立つ塵の‥‥

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-世間虚仮- 8・8の悲喜劇

秋立ちぬ。
今日8月8日は算盤の日でもあるそうな。心は「8・8-パチパチ」とか、昭和43(1968)年に全国珠算教育連盟が制定したとされるが、この手の駄洒落・語呂合せで成る記念日の多いこと。
因みに「こよみのページ」で紹介されているものから二三引くと、パチンコ供養の日、これもパチパチからとて、平成6年の誕生。親孝行の日は、母-ハハ、父-パパ、とかで平成元年にできたらしい。
全日本愛瓢会なるものが制定したとかの瓢箪の日もあれば、蛸の日までもがあるのには驚かされるが、敬老の日の実現に中心となった日本不老協会が平成6年に「笑いの日を作る会」を発足させ、ハッ、ハッとばかり笑いの日が誕生したという。この人たちはこの日、笑いの日を国民の祝日にと毎年国会へ請願の行進をし、総理などに陳情しているらしいが、はてすでに選挙管理内閣と化した安倍総理へと今日も陳情しているのかな。

さて、甲子園では夏の高校野球が始まったが、来年の今日は北京五輪の開幕日だそうな。
中国では市民のマナー向上から大気汚染対策まで、不安解消とイメージアップに躍起だが、各国から視察に集まったIOC関係者らの不安視はそうやすやすと治まらない。
北京の大気汚染も深刻だが、食も不安を拭えない。水不足はさらに深刻らしい。
北京の北、河北省豊寧県はコメどころとして稲作中心の農家が大半だったが、乾燥に強い作物へと転作を強制され、この夏、一面のトーモロコシ畑へと変わり果てたという。「退稻還旱」と名づけられた政府による強制転作は今年1月に断行され、河北省3県で、総面積6700万㎡の水田が消えたというのだ。
偉大な国家事業の前に、弱者はとことん構造的変化の波をもろに被ることになる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-37>
 人知れず片晴れ月ぞ恨めしきたれに光を分きて見すらむ  藤原清輔

清輔朝臣集、秋、月三十首の中に。
邦雄曰く、天の一方の雲が晴れて、月の片面のみが明るむ現象を「片晴る」と称する。「片割れ月」と紛らわしいためか、名詞としては稀に見るのみ。月が一方にのみ光を与えているとひがんで、恨みを言うかたち。家集では「夜もすがら人を誘ひて月影の果ては行方も知らで入りぬる」等と並んで月の大作中にあり、何か暗澹たる翳りを、内に秘めた作が多い、と。

 世々を見し夢のおもかげ立つ塵の五十路の床をはらふ松風  正徹

草根集、二、永享元(1429)年卯月、法楽とて百首の題を分けてよみ侍る、夢。
邦雄曰く、人生五十年、顧みれば今日まで見たものが現であったのか、夢にすぎなかったのか、床の塵を払ふ風も、ただ虚しい空の深みから吹く。一句一句に趣向を凝らして、あたかも工芸品のような一首を作り上げる技巧は、作者が崇敬した定家を超えるものさえある。「還すべき夢にもあらずさ夜衣とほき昔の世々のうつつは」は「往時夢」、調べ深遠、と。

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August 07, 2007

夜もすがら心のゆくえ尋ぬれば‥‥

Ananda

写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「阿難陀の柵」

-表象の森- 釈迦十大弟子の十、阿難陀

阿難は阿難陀とも、多聞第一となり。
釈尊と同じ釈迦族の出身で、釈迦の従弟といい、提婆達多の弟とされるが、異なる諸説あって判然としない。
彼は侍者として25年のあいだ釈尊のそば近くに仕えた。したがって直に釈尊の説法を聴聞することがとくに多かったので、多聞第一と呼ばれる。
当初、女人の出家を認めなかった釈尊が、後にこれを認めるようになったのは阿難の説得によるものといわれる。教団に比丘尼の存在が登場するようになったわけだ。
侍者として25年も仕えた阿難であったが、どうしたわけか釈尊入滅に至るまで彼は阿羅漢=悟りを得た者になっていなかった。そのままでは入滅後の結集に参加することは許されないのだが、多聞第一の阿難を除いては、経典編纂の仕事もはかどらない。そこで摩訶迦葉が徹底指導をしたところ、その過酷さに疲労困憊のまま、まさに寝所に倒れ込まんとしたところ豁然と覚ったという。
阿羅漢となって結集に間に合った阿難は、25年の侍者としての体験をもって、経典編纂の会議を終始リードした、と。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-36>
 紀伊国や白良の浜の知りせねばことわりなりや和歌のうらみは  藤原顕綱

讃岐入道集、人々など呼びて和歌よむに、呼ばずとて恨み起せたりければ。
邦雄曰く、平家物語にも「或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、眺めて帰る人も有りけり」と称えられた紀伊国牟婁郡の歌枕。苦参の花の百和香の歌で名高い讃岐入道は、縁語と懸詞の綴れ錦を爽やかに織りなし、和歌の浦みに、辛みのある「和歌の恨み」を閃かせた。作者の女は、堀川帝の寵を受けた讃岐典侍日記の著者、と。

 夜もすがら心のゆくえ尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと  仏国

風雅集、釈教、題知らず。
邦雄曰く、見事な「虚無」の愉である。下句は魚の泳いだ痕跡でも、虫の這った名残でも、決してこの茫々たる悲しみは再現されない。「ば」とことわりながら、理詰めにならず、えもいえぬ優しさと安らぎを湛えているところは、一に作者の徳であり、同時に得がたい詩魂の賜物でもあろう。風雅・釈教の珠玉として、おのずから他と分かつところのある秀作、と。

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August 05, 2007

今朝見れば遠山白し‥‥

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-世間虚仮- 同窓会の案内文書

市岡15期同窓会の幹事会で同窓会館に集まった。昨日のことだ。
60も過ぎればみんなだんだん閑になってきたとみえて、このところ出席者も増えてきて23名という大所帯。
にぎやかなこと結構このうえないが、そのぶん意見の取り纏めは些か面倒臭くなってきた。
前回の幹事会で、ひろさちや氏の講演招聘がOKとなったので、同じ15期生で幹事会に出席している妹御に、演題を「林住期を生きる-遊狂の心」などでは如何かとメールで打診をば願ったところ、「それもいいネ」とのリアクションだっだと報告を受けて、
ならば案内のキャッチコピーに「市岡時代から45年、ワレラ『林住期』マッタダナカ!」と仮題して見ることにした。
私を含めた幹事代表者会5人に図ってこれでいこうと一旦はなったのだが、これを聞きつけた他の理事連からブーイングの火の手が上がったとみえて、回り廻って私の耳にも入ってくる。
曰く「なんだか難しそう」「同窓会だのに堅苦しい」「リンジュウキって『臨終期』かと思った」とかなんとか。
たしかに「林住期」という言葉自体、まだまだ一般には馴染みがうすかろう、知る人はおそらく2割に満たないだろうとは思っていたが、「林住期ってなに?」と判りやすく短くコメントしておいたから、此方にはそういうリアクションは想定外で困惑しきりであった。
そこへ、件の妹御からひろさちや氏も「林住期はちょっと違うんだ、てぎれば『そのまんま・そのまんま』として頂きたい」とのお達しだというので、此方も拍子抜け。
演題が「そのまんま・そのまんま」となっては、「林住期」をアタマに振るのも些か悩ましくなった。おまけに、水が低きに流れるがごとく人は易きに流れるの喩えじゃないが、一人が異を唱えれば付和雷同してかなり喧しくなるものだから、ここは一番白紙に戻して再考することとした。
とはいっても、此方も一定のこだわりをもって動いてきたことだから、クルマじゃあるまいし、ニュートラルに戻すのはそう容易なことではない。考えてもなんにも思いつかないから二三日はそのまま打棄っておいた。
3日も経つと、そろそろどうにかしなくちゃなとの思いが自然と擡げてくるもので、「はて、ラブレター擬きで、呼びかけ調にでもするか」などと考え出す。
私という者のイメージからはほど遠く気恥ずかしいくらいだが、「あなたお元気ですか」とでもやっちゃいますか。
「市岡時代から幾星霜、あなたお元気ですか!?」とアタマに振って、
「遊びをせむとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ。十干十二支ひとめぐりして、われら三歳の幼な児ならむ。」と添える。
あとは地となる挨拶文、
「市岡時代から幾星霜
 あなたお元気ですか!?
 いえいえ、きっとあなたのことだもの
 往時の面影をそのまま残し
 内からたぎる熱情は汲めども涸れず
 あれもこれもと貪欲なまでに
 あるいは、これと定めたひとすじの道に
 ひたすら日々多忙をきわめ
 あるいは、ゆるゆる鷹揚と
 愉しみ勤しみ生きておられることでしょう。」
「古人云う、還暦に至って赤子に還るなら
 われらみな三歳の幼な児にひとしく
 向後、いろいろのことどもすべて
 初発の歓びに充たされましょう。」
「此処にあいつどうひとりひとりの気と力とが
 遊び戯れる宴いっぱいにこだまして
 たがいに忘れ得ぬひとときに。」
エーイ、これで一件落着といかねば、わしゃもう知らん。
とそんな次第で、昨日の幹事会には、この案内書と表書き封筒と返信ハガキと会費の振替用紙にタックシールと5点セットを持ち込んで、無事発送へとこぎつけた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-35>
 渡りかね雲も夕べをなほたどる跡なき雪の峯のかけはし  正徹

草根集、五、冬、暮山雪。
邦雄曰く、夕雲が、前人未踏の峰の架け橋を、渡りかねて踏み迷うと歌い、雪は題に隠した。聞こえた代表作であり、定家の歌風を一流の解釈で分析敷衍し、「行雲廻雪の体」を創案した証歌。正徹の到達した世界として十分に評価さるべきだが、余情妖艶とは方角を違え、一歩過てば迂遠で煩わしいのみの感も否みがたかろう。上句の擬人法が賛否の分かれ目か、と。

 今朝見れば遠山白し都まで風のおくらぬ夜半の初雪  宗尊親王

玉葉集、冬、冬の歌の中に。
邦雄曰く、あの遠山の雪も都までは風が吹き送ってはこない。二句切れの「白し」、身に沁むばかり冷ややかに、「初雪」にこめた思いも深い。「浦風の寒くし吹けばあまごろもつまどふ千鳥鳴く音悲しも」、「大井川洲崎の蘆は埋もれて波に浮きたる雪の一むら」等、玉葉集の冬には親王の歌三首見え、いずれも水準以上の出来映えである。勅撰入集計190首、と。

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August 04, 2007

潮満てば野島が崎のさ百合葉に‥‥

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-世間虚仮- 防火管理講習とか

昨日と今日の二日間、防火管理講習の受講のため阿倍野防災センターに通っていた。
今のマンションに移り住んでからたしか10年目になるかと思うが、入居時の抽選で順番の決まっていた管理組合の理事の役目がとうとうわが家にお鉢の回ってきたのがこの6月。
前理事らとの引き継ぎの理事会に出て行ったら、新理事の中から防火管理者を新たに選任しなければならぬとかで、構成メンバーからみてもっとも時間的余裕のありそうな私が受けざるを得なかったのだが、他ならぬその資格取得のための受講だったわけだ。
拘束は両日とも午前9時20分から午後5時まで。会場の最寄り駅は地下鉄あべのだが、わが家からは二度も乗り換えるか、天王寺から歩かなければならない。時間にすれば40分あまり要するだろう。幼な児を8時過ぎに保育園に送り届けてから会場へと駆けつけるには間に合うかどうか不安があるので、暑さが堪えるが自転車で通うことにした。

南港通りを東へ走っていくとすぐに帝塚山界隈の坂道を上がることになるが、難所はここだけ。下り坂になったら姫松の交差点はすぐだ。これを左に折れてあとは真っ直ぐ北へ向かって一本道。私のようにゆっくりとした走りでも30分足らずで会場に着いた。途中、姫松通りを走っていると松虫の駅のまだ手前のところ、並ぶ民家の間にひょつこり見えた石の鳥居は、熊野古道ゆかりの九十九王子社の一、阿倍野王子だった。
さらに北進すれば道は阿倍野筋と合流してどんどん直進、阿倍野の交差点付近にひっそりと立つ「熊野かいどう」と彫られた小さな石碑を横目に見て、ベルタの方へ渡って裏手へと廻れば温水プールを併設した阿倍野防災センターのビルがある。眼の前には阿倍野再開発のメインタワー、40階建てのあべのグラントゥールが中天を突くがごとくそびえ立って、見上げるばかりの近さにある。

会場の席に着いてまず驚かされたのは、机の上にデンと積まれた講習の教材や資料らしきものの人を圧するその物々しさ。全国消防協会発行の「防火管理の知識」はこの講習の主要教材だが、これが460頁もある厚手の代物。その下にさらに厚手の大阪市消防局編集なる2000余頁もある「消防関係法令集」が鎮座まします。さらに茶封筒にはA4版の資料集が数冊入っているというご丁寧さ。甲種防火管理講習は受講料8000円也だが、さすがお役所仕事の一環か、金に糸目をつけぬ過剰サービスぶりだと呆れかえる。
たった二日の講義で膨大なテキストや資料をあちこち拾い読みをしたところで門前の小僧にも届くまいが、この先、防火管理者となって日常の業務に就いたとすれば、参考書虎の巻の類はこれですべて揃っているわけだ。
台風5号の近畿地方直撃は免れて、夏の盛りの二日間のお勉強は無事終了と相成り、「修了証」なるものを頂戴したが、日長一日ひたすら硬い椅子に縛りつけられて拝聴する消防局OBたちの重複をものともしないかなり退屈な講義には辟易させられるばかりで、こんな年になってからのただ強いられただけの身につくはずもないお勉強などは、頼まれてもするものではないと骨身に沁みた二日間であった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-34>
 潮満てば野島が崎のさ百合葉に波越す風の吹かぬ日ぞなき  源俊頼

千載集、雑上、夏草をよめる。
邦雄曰く、紺青の海の中の淡路野島が﨑、咲きたわむ百合の白。そこへ打ち寄せる藍色の潮。百合はむしろ万葉風で珍しく、この鮮麗な画面、俊頼の詩才で、まことにめでたい歌となった。万葉に「夏草の野島が﨑」の先蹤あり、作者はそれにちなんでいる。また「さ百合葉」は「百合」と同義、葉のみを指すのではない、と。

 瀬を早みくだす筏のいたづらに過ぎゆく暮の袖ぞしほるる  後土御門天皇

紅塵芥集、寄筏恋。
邦雄曰く、待宵の刻の、思う人は来ぬままに、たちまち更けてゆく悲しさ。上句の序詞に、急湍を落ちる筏の危うく慌ただしい動きを幻覚するとき、第四句に対してはやや唐突ながら、それなりにありありと、濡れる袖と筏のしぶきを結ぶ。題が示されていなかったら、「暮」は年末を思わせる。月日の移ろいの早さに、ふと袖を濡らす述懐歌としても面白い、と。

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August 02, 2007

うち忘れはかなくてのみ過ぐしきぬ‥‥

Ragora

写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「蘿窓路浦の柵」

-表象の森- 釈迦十大弟子の九、羅候羅

羅候羅は密行第一、また学習第一となり。
釈尊の実子とされる羅候羅の誕生には諸説あって定かではない。
羅候羅(ラゴラ)はサンスクリット語Rahula(ラーフラ)の音写だが、意味は日食や月食を起こす魔神ラーフに由来し障りを為すもの。
子どもの誕生を知った釈尊が「障碍生ぜり、繋縛生ぜり」と言ったことからこの命名となったと。
出家の時期にも諸説あるが、いずれにせよ年少時のことで、実子ゆえの慢心もあればまた周囲からの特別扱いもあったか、若い頃はとかくの話が伝えられるが、成人後は智恵第一の舎利弗に就き従い、不言実行をもって密行をよくまっとうし、仲間の比丘たちからも尊敬を集めるようになったという。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-33>
 流れ出づる涙ばかりを先立てて井関の山を今日越ゆるかな  道命

新続古今集、羈旅、井関の山を越ゆとて。
邦雄曰く、井関山は三重の阿山郡布引村にある歌枕、謡曲「井関山」ゆかりの地。道命の歌もこの歌枕を詠んだ好例として頻りに引かれる。道命阿闍梨集では、熊野・志摩・伊勢あたりの旅の歌として現れ、題詠には見られない風情があはれで、かつ楽しい。涙川を堰くという縁語で歌枕を活かしたばかり、哀傷の意はあるまい。強いて言うなら郷愁の涙か、と。

 うち忘れはかなくてのみ過ぐしきぬあはれと思へ身につもる年  源実朝

金槐和歌集、冬、老人憐歳暮。
邦雄曰く、老残の身の、歳末になれば一入悔いのみ多く、行く末を思えばさらに暗澹、それこそ「あはれと思へ」であろうが、実朝家集の下限は精々二十歳と少々。その思いの深さ、むしろ無惨と言うべく、慄然たるものあり。「老いぬれば年の暮れゆくたびごとにわが身一つと思ほゆるかな」は太宰治の「右大臣実朝」ら引かれたが、やや調子低く同列ならず、と。

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August 01, 2007

人住まぬ不破の関屋の板びさし‥‥

Ubari

写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「優婆離の柵」

-表象の森- 釈迦十大弟子の八、優婆離

優婆離は、持律第一となり。
乃ち、戒律を厳守するに殊に優れてあった。釈尊が入滅してまもなく行われた初めての結集(=第1回経典編集会議とでもいうべきか)において、優婆離は戒律の制定においてその中軸となったとされる。
彼は身分低く、釈迦族の理髪師であった。ある時、釈迦族の6人の貴族たちが釈尊に帰依しようと旅立った際に従者として同行した。旅の途中、貴族たちは出家に必要のない財貨を彼に託して国へ帰すべく別れたが、このまま独り国へ帰れば、貴族たちの出家を止め得なかったとして、どんな咎めを受けぬとも限らないと考えた彼は、自分も出家しようと貴族たちの後を追った。必死に先を急いだ彼は、いつのまにか貴族たちを追い越してしまったとみえて、釈尊の許へ先に着いてしまい、そのまま弟子入りを果たしたため、身分の上下を問わない教団にあっては、彼を使役していた貴族たちの先輩となってしまったという。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-32>
 知らざりし八十瀬の波を分け過ぎてかたしくものは伊勢の浜萩  宜秋門院丹後

新古今集、羈旅、百首奉りし時。
邦雄曰く、院初度百首作品。本歌は源氏物語の「賢木」にみえる「鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢まで誰か思ひおこせむ」。独り旅の侘しい旅ゆえに、夜になって歎くのは伊勢の海辺に生う萩。初句「知らざりし」は連体形で「八十瀬の波」にかかる。もし初句切れなら「知らざりき」とあるはず、この場合は「片敷く」行為にも未知は関連するだろう、と。

 人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風  藤原良経

新古今集、雑中、和歌所歌合に、関路秋風といふことを。
邦雄曰く、建仁元(1201)年、良経32歳の秋の影供歌合の歌。不破の関は廃されてから、この頃すでに4世紀以上経過している。。この歌の要は、第三句「板廂」と結句の「ただ秋の風」であろう。ありふれた古詠歌が、これで別趣の寂寥感をもつ。殊に結句の、切って捨てたような冷え冷えとした語調は、良経独特の凄みさえ伴って一種不可思議の感あり、と。

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