« July 2006 | Main | September 2006 »

August 31, 2006

おほかたの憂き身は時もわかねども‥‥

N0408280461

-表象の森- 秋色と東雲の空

  裏門に秋の色あり山畠  支考
日中の相変わらずの暑気はともかく、朝夕はめっきり秋めいてきた。

  身にしむやほろりとさめし庭の風  犀星
朝まだき頃、まだ寝ぼけた身体に秋の風が目を覚ましてくれる。
自転車をこぎだせば身も心も一気にシャキッと起き出してくるのがわかる。
大阪は、西は大阪湾、東は生駒・信貴や葛城連峰が連なっているから、沈む夕陽はどこでもよく目にするが、昇る朝日にはまずお目にかかれない。
ずいぶんと以前のことだが、元旦のご来迎を拝そうと、どこやらの橋で車を停めて待ったことがあったが、お日さまが山の端から姿を現わす頃は、空はすっかり白々と明けてしまっていて、あまり絵にならないご来迎に拍子抜けしたことがあったっけ。
そういえば、八甲田山の眼下にひろがる雲海を紅に染めながら、ゆっくりと姿を現わしてきた朝日、あれは圧巻だったが、そんな絶景をそうそう望んでもおいそれと行けるものではない。

  横雲の風にわかるる東雲に山飛びこゆる初雁のこゑ  西行
だが、このところ、東雲の空を眺めていると、これが日々千変万化でなかなか見て飽かぬことに、今更ながら気づかされた。
生駒の山脈の稜線だけが赤く染まり出すのがくっきりと見えたり、あるいは山の端にかかる雲々の下の部分だけが染まって、かえって黒と赤のコントラストを強めたりと、さまざまにヴァリエーションを見せてくれる。
これが一日として同じ景色がないというのもあたりまえのことだが、造化の妙とは至るところにあるものだと独り得心しているこの頃だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-49>
 おほかたの憂き身は時もわかねども夕暮つらき秋風ぞ吹く
                         後鳥羽院

続古今集、雑上、題知らず。
邦雄曰く、元久2(1205)年の元久詩歌合に「夕べは秋となに思ひけむ」と秀抜な歌句で、詩歌の帝の名をほしいままにした院が、ここに「夕暮つらき」と詠嘆の声をとどめた。初句から二句前半への鷹揚で悲嘆を帯びた姿は、天成の詩藻によるもの。また第二句のやや重い韻律は、武辺を好む院の自ずからなるますらを振りの類でもあろうか。知られざる秀作の一つ、と。

 わが涙なにこぼるらむ吹く風も袖のほかなる秋の夕暮
                       後土御門天皇

紅塵灰集、秋夕風。
邦雄曰く、巷に発つ塵と灰、転じて俗世間、浮世を表す語を家集の題とした後土御門天皇は、その治世をおよそ応仁の乱に蝕まれて終った。鴨長明の「秋風のいたりいたらぬ」の本歌取りながら、「なにこぼるらむ」の二句切れは、本歌を超えてあはれを伝え、順徳院の「草の葉に置き初めしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき」の余韻もまた蘇ってくる、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 29, 2006

秋吹くはいかなる色の風なれば‥‥

Dsc_002011

-表象の森- 似非箴言

 再会とは、ただ再びまみえるにあらず
 その隠れたる、未だ知らざる處を
 互いに見出さむとするならば
 畢竟、新しき出会いとなるべし。

 遠きも近きもなく
 知友、朋輩はいうにおよばず
 家族といわず、夫婦といわず
 吐く息、吸う息の如く
 時々刻々、日々新たなるをもって銘すべし。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-48>
 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ
                         和泉式部

詞花集、秋、題知らず。
邦雄曰く、身に沁むとはもと「身に染む」ゆえに、秋風の「色」を尋ねた。「秋風はいかなる色に吹く」とでもあるべきを、逆順風の構成を採ったことによって、思わぬ新しさを添えた。二十一代集に同じ初句を持つ歌は他にない。この作者ならば、青・紅・白とほしいままに色を決め得るだろう、それも格別の眺めだ。しかも疑問のままで終るゆえの深い余情、と。

 秋風の露吹く風の葛かづらつらしうらめし人の心は  九条家良

衣笠前内大臣家良公集、恋、寄風恋。
建久3(1192)年-文永元(1264)年、正二位大納言藤原忠良の二男、若くして定家の門弟となり、後に後嵯峨院歌壇の代表的歌人、続古今集の撰者に加わる。新勅撰集以下に118首。
邦雄曰く、「秋風・露吹く風」、「かづら・つらし・うらめし」等、音韻を連綿させ、結句を倒置して、ただならぬ心を巧みに表現している。また、「寄月恋」の題では、「知られじな霞にもるる三日月のほの見し人に恋ひ侘びぬとも」が見える、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 28, 2006

更けぬなり星合の空に月は入りて‥‥

Shinriaou

-表象の森- 乾坤一擲の失敗作? 「新リア王」

 嘗て旅した下北半島、真夏にもかかわらず、どんよりと曇った鈍い灰色の空の下、もう夕刻に近かったせいか訪れる人もなく、ただここかしこに硫酸ガスを燻らせたさいはての異形の地、恐山の荒涼とした風景も忘れ難いが、その途次に見た六ヶ所村の、広大な自然のなかに忽然と姿を現わした原子力関連施設や石油備蓄コンビナートらが、車を走らせながらどこまで続くかと思われるほどに連なっていた、大自然と先端的文明の不協和音というか、その異様な光景もまた忘れ難い。

 その六ヶ所村の光景と大いに関わるのが、「晴子情歌」に続いた高村薫の「新リア王」上下巻、このほどやっと読了したが、第一感、乾坤一擲の失敗作、とでもしておく。
前作では母・晴子と、東大を出た俊才ながら社会からスポイルし、マグロ漁の遠洋航海に暮らす子・彰之との間に交わされる手紙という形で、物語を進行させ、青森から道南・道東を遍歴する晴子の生涯が、戦前の鰊漁風景の活写など、昭和初期の北国の大地の厳しさと、これに抗って生きる人々が織りなす風景が現前され、抒情溢れた一大叙事詩となりえていたが、
本書「新リア王」では、晴子にとって一度きりの過ちの相手で、青森に巨大な政治王国を築き、作者に「現代のリア」と比させた老代議士、すなわち彰之の実の父である福澤栄と、その後曹洞宗の僧侶となった彰之との間に交わされる長大な会話で物語は進行するのだが、各々互いに語りつぐモノローグは観念の空中戦と化し、どこまでもリアリティの希薄なままに、互いに絡まり縺れ合うほどに現前してこない。
高橋源一郎は、朝日新聞の書評で「終結部にたどり着いた時、突然感動がやって来る」と書くが、たしかに父・栄の狂えるリアのごとき集約の一点に、すべては流れ来むがごとき構成ではあるが、その劇的な仮構は、栄が語る戦後政治の膨大で生臭いエピソードの数々も、心の闇を抱え座禅弁道に励む凡夫の彷徨える心を言葉に紡いでいく彰之も、互いの長大なモノローグが観念の空中戦としか読めないかぎり、寒々として虚しい。

 作者は「晴子情歌」「新リア王」につづく第三部となるべき世界を、すでに本書に胚胎させ、読者に予感させている。
これまた彰之のなさぬ子・秋道は「新リア王」の昭和62年時点ですでに18歳だが、父母という家族の愛に誕生のはじめからはぐれてしまった孤独な反抗者は、おのれの生そのものを呪いつつ世間に牙を剥きつづけるだろう。その子・秋道と、昭和の60年余を、ひいては日本の近・現代の暗部をひたすら見つめ、おのれの生を生たらしめんと希求する父・彰之との相剋が、どんな世界を切り裂いて見せてくれるのか。あまり期待を膨らませずに待ってみよう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-47>
 更けぬなり星合の空に月は入りて秋風うごく庭のともし火  光厳院

風雅集、秋上、百首の歌の中に。
邦雄曰く、天には銀河の二星に光を添える月、地には秋風に揺らめく庭の篝火。星合の星を殊更に言わず、これに増す光を歌って、七夕の雰囲気を伝える功者の歌いぶり。また、「秋風に動く」とでもあるべきところを、助詞を省いて、動くのは秋風自体とし、燈火の揺れを暗示するのも、風雅調というべきか。初句切れの重い響きもまた格別、と。

 松風の雄琴の里にかよふにぞをさまれる世のこゑはきこゆる
                         藤原敦光

金葉集、賀、巳の日の楽の破に雄琴の里を詠める。
康平5(1062)年-康治3(1144)年、藤原式家の儒学者明衡の子で、式部大輔、右京大夫。文章博士となって大学頭を務めた。金葉集に2首。
邦雄曰く、保安4(1123)年大嘗会歌合の悠紀方に列した作者は、序破急の破に近江の歌枕、雄琴を風俗歌として詠んだ。上句は徽子の松風、下句は詩経の大序、「治世之安音以楽」に依った。漢詩文で聞こえた人だが、この「雄琴の里」の如く歌才も見える、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 25, 2006

琴の音に嶺の松風かよふらし‥‥

Kafuka1056611707_

-表象の森- 不壊なるもの

 以下は、F.カフカの「夢・アフォリズム・詩」(平凡社ライブラリー)からの引用。

人間は、
自分のなかにあるなにか<不壊(フエ)なるもの>、
破壊できないものへの永続的な信頼なくしては生きることができない。
その際、不壊なるものも、また信頼も、
彼には永続的に隠されたままであるかもしれない。
こうした<隠されたままであること>を表す可能性の一つが、
人間になぞらえた<人格神>への信仰である。

 次に引くのは、講談社「現代思想の冒険者たち」シリーズの一つ、
 高橋哲哉による編著「デリダ-脱構築」から。

エルサレムのモリヤ山頂では、
三つの「アブラハム的メシアニズム」-ユダヤ教、イスラム教、キリスト教-が
「エルサレムの領有=自己固有化」をめざして争っている。
湾岸戦争は、このエルサレムをめぐる戦争が今日の世界戦争になることを示した。
「三つのメシア的終末論の爆発と、
三つの聖なる契約=同盟の無限の組み合わせとしての中東的暴力」は、
デリダの重大関心事の一つである。

ところで、<不壊なるもの>が、
<隠されたまま>でありさえすれば、
その現成するところが、
物質の三態=固体・液体・気体のごとき、
物理的な条件下における変様にすぎないのだとすれば、
果てしない殺戮の連鎖が、
9.11の破壊も、またイラクへの報復も、
さらには、イスラエルのレバノンへの攻撃も、
決して起こり得ないであろうに。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-46>
 きみ恋ふる心の空は天の河櫂なくて行く月日なりけり  平兼盛

兼盛集、恋。
邦雄曰く、「櫂なくて行く=甲斐なくて生く」の懸詞を導き出すための天の河であるが、この恋の底には二星の儚い逢瀬がひそんでおり、それは「心の空」なる縁語でも明らか。いま一首、星合の恋歌に、「天の河川辺の霧の中わけてほのかに見えし月の恋しさ」があり、「月」とはすなわち思う人の面影、「遇ひて逢はざる恋」風の味わいがある、と。

 琴の音に嶺の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ
                       斎宮女御徽子

拾遺集、雑上。
邦雄曰く、「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに、「松風入夜琴」といふ題をよみ侍りける」の詞書あり、徽子の数多の秀作中でも、最も有名な一首。これまた後世、数知れぬ本歌取りの母となった。徽子は村上天皇の女御であり、この歌は娘の規子内親王が斎宮に卜定された天延3(975)年、神無月27日の作。徽子はその翌年規子と共に伊勢へ下向した、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 24, 2006

はるかなる唐土までも行くものは‥‥

0608210121

-表象の森- 子守の神

 円空が詠んだという歌一首。

  これや此くされるうききとりあげて子守の神と我はなすなり

「うきき」は「浮き木」、
打ち棄てられた流木の腐れ木のごとき材に、
鑿や鉈をふるい数知れぬ仏を彫りつづけたわけだが、
「子守の神」というのがいい、
たとえ野辺に朽ち果てようとも、
一再ならず、無辜の民の祈りを喚起したなれば、
おのが生命を吹き込んだ甲斐もあろうというもの。

どういう宿業、宿縁が、かほどの徹しようを可能にしたか、
かならずしも円空にかぎったことではないが、
私が、知りたいと思い、掴みたいと願うのは、そのことのみ。
だが、これはもう、そのまま自問自答の世界なのかもしれぬ‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-45>
 袖振るはほのかに見えて七夕のかへる八十瀬の波ぞ明けゆく
                        後二条天皇

後二条院御集、秋、二星別。
邦雄曰く、七夕歌「二星待契」、「二星逢」に続いて、この別れの歌が見える。あたかも眼前の、地上の河辺で、後朝の二人が袂を分つ趣、とくに「袖振るはほのかに見えて」の的確な表現は生きている。惜しむ名残を言外に濃く匂わせて、表には現わさぬところも老巧と言うべきだろう。ちなみに「待契」は、「心あらば川波立つな天の河船出待つ瀬の秋の夕風」、と。

 はるかなる唐土までも行くものは秋の寝覚めの心なりけり
                         大貳三位

千載集、秋下、題知らず。
生没年不詳。藤原賢子。母は紫式部。中宮彰子に仕え、藤原兼隆に嫁したが、後正三位太宰大弐高階成章の妻となった。小倉百人一首に「ありま山ゐなの篠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れゆはする」、後拾遺集以下に37首。
邦雄曰く、千載・秋下の巻頭第一首。歌人としての紫式部には厳しかった俊成が、彼女の息女の歌才には敬意を表したことになる。爽快、縹渺、悠々として、眼の覚めるような調べであり、二十一代集の秋歌中、絶唱十首に数えてもよかろう。後の世に数多の本歌取りを生み、その中には定家の「心のみ唐土までも浮かれつつ夢路に遠き月の頃かな」を含む、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 23, 2006

満潮の流れ干る間を逢ひがたみ‥‥

P31311

-表象の森- 円空の音楽寺と鉈薬師を訪ねて

 一昨日(8/21)のことだが、円空仏の12神将探訪とばかり名古屋方面に出かけた。
当初、車で行くつもりだったが、ブログで知り合った名古屋在住のT君が案内役を買ってくれるというので、お言葉に甘えて彼の車で移動することに。
という訳で、家族を伴っての初体験の電車の旅となったのだが、もうすぐ5歳になる幼な児は、なにしろ大阪市内の地下鉄くらいしか乗ったことがないから、すこぶるご機嫌だった。難波から近鉄の名古屋行は車中2時間あまり、幼な児には退屈するほど長くもなく手頃なものだったろう。

 名古屋駅に降り立って待つほどのこともなくT君の車がやって来た。
先ずは一路、江南市の音楽寺をめざして走ること一時間あまり。ごくご近所にお住まいなのだろうが、総代の坪内さんというお爺さんが、約束の11時半にはまだ少し間があるのに、お堂の前に立って待っていてくれた。
二、三年前に建てられたというまだ真新しい堂舎に入ると、正面中央に薬師如来と日光・月光菩薩の三尊像、左右に5体と6体、12神像のうち戌の像だけが欠けており、後世の模像が別に置かれている。その戌の像は、その昔、何故かだれかに持ち去られたのであろうが、現在、安城市の長福寺に無事在ると確認されているそうな。
他に、護法神像と荒神像が鎮座しているが、写真の荒神像を見ればおおかた納得もいこうが、この像、現代アーティストたちの覚え頗るよろしく、全国の円空展示企画には引っ張りだこだそうで、坪内さんによれば、今や世界で最も著名な円空仏だと曰う。昨年もドイツ・ベルリンをはじめ3ヶ月間、海外を巡歴してきたとのことだが、近・現代芸術のフィルターを通したとき、この大胆なデフォルメと省略の効いた像が世界中で注目を集めるのはよくわかる。
音楽寺所蔵のこれら円空仏が、国はおろか県指定でさえなく、江南市の指定文化財だというから、些か驚かされもする。
40分ほど滞在したか、総代さんに謝して別れた後は、次なる目的の鉈薬師をめざして名古屋市内へと戻る。千種区の覚王山界隈の中心をなす日泰寺の縁日は毎月21日とかで、近くの鉈薬師もこの日のみ円空仏を拝観できるというので、これに合わせての今日の計画である。

 T君は日泰寺山門のすぐ西側の駐車場に車を停めて、ちょうど昼時だし先ずは腹ごしらえと、一行四人は参道に並んだとりどりの露天を見ながら下り行く。今日の名古屋は曇り空のこととて暑さも少しばかり和らいでいるとはいうものの、日陰のないコンクリート道は輻射熱でやはり暑い。月曜日というせいか月に一度の縁日風景としては、往来の人々も露天の数も少しさびしい気がする。
T君存知よりのインド風カレーの店は参道を半分あまり下ったところにあった。店内は黒塗りの古い木造家屋で、ヒンドゥー教の神様の絵やインド更紗などが壁に掛けられ、それらしきムードを醸し出してはいる。四人四様の注文にゆっくりと一品一品がテーブルに運ばれ、出揃ったところで、お冷やで乾杯の真似事などして一斉に食す。ふだん昼食を摂らない習慣の私などには些か胃が重くなるほどにも満ち足りて、もと来た参道を山門の方へと戻りゆく。昼食になにやら別の期待もあったらしい幼な児が少々むずかるので、露天のかき氷屋さんに暫時寄り道。着色剤がたっぷりのどぎついほど真っ赤なシロップのかかった氷に、幼な児は歯も舌も赤く染まるほどにご機嫌で頬ばりつづけていた。

 日泰寺山門の西側を歩いて、細い道を左へ折れてさらに道なりにゆくと、こんもりと樹々に囲まれた鉈薬師のお堂が見えた。
此処で目的の二つ目の円空12神将とめでたくご対面出来るはずであった。ところが好事魔多し、というより事実は私の手抜かり以外のなにものでもなかったのだが‥‥。
私たちがちょうどお堂の前庭に立った時、堂横から中年の夫婦者らしき二人、その後ろから彼らよりもっと年配の男性が一人出てきた。その中年男性が、われわれの姿を一瞥するや、まるで独り言を呟くように、しかも此方に視線を合わせないようにしながら、ぶつぶつという言葉に私は耳を疑った。
「時間だからもう閉めさせていただきました。」 たしかにそう聞こえた。そう言いながら彼らは此方に眼もくれずそそくさと立ち去ってゆくのである。愕然としながらさらにお堂に近寄ったところ、堂前に掛かった小さな白い札に、「拝観は毎月21日、時間は10:00から14:00まで」とある。
脳天にガンと一発喰らったようなものだった。私たちが到着したのはすでに午後二時を廻って15分になろうとしていたのだった。念には念を入れて公開時間まで厳密にチェックをしていなかった自分の手抜かりに打ちのめされつつ、直かに物言わず立ち去る中年男性らの態度に無性に腹を立てつつ、私は一瞬言葉を失い立ち往生してしまったのだった。
堂の格子窓から、まだ仄かな明かりの灯る堂内がかすかに覗え、堂内左側に並ぶ12神将の六体の一部がうっすらと見えるのを、目を凝らすようにして覗き見ていると、先刻、中年二人組とは別の方角へ立ち去っていった年配の男性がいつのまにか戻って来ていたとみえて、申し訳なさそうに私たちに声をかけてきた。
「警備会社でセキュリティ管理されているから、入れてやろうにもどうにもできない」とのこと。どうやらこの人はご近所に住む堂守さんのような人らしい。そして夫婦者と見えた中年二人は鉈薬師、別名医王堂の所有者筋であろうか。
堂守さんはそういいつつ、これは先刻の音楽寺の総代さんもそうだったが、ご当地自慢を得意気に語り出す。「此処は、あの有名な梅原猛さんだって、誰が来たって、公開の21日以外はお断りしとります。」と曰うたり、「昔の話で、これは聞いた話じゃが、棟方志功さんが、この円空さんを見て、わだがお父だばと言って、抱きしめなさったと。」などと仰るのだが、さて、棟方志功がこの鉈薬師の12神将を観たのがいつだったのか、果たしてあの「釈迦十大弟子」を生み出す前だったのか、後だったのか、この一点は私の大きな関心事なのだが、そんなことはこの堂守さんに確かめようもないから、黙って相槌を打つしかないのだが、その前にせよ後にせよ、志功が鉈薬師の12神将を観ていたということはどうやら動かない事実らしい。

 抑も、鉈薬師の円空12神将像を写真集で見たとき、棟方志功の「釈迦十大弟子」と、構想といいその形式といい、木像と版画の手法は違えど、あまりにも酷似している、同根類似の発想そのものではないか、とどうしても思ってしまうのだが、それは志功がこの12神将そのものから発想を得ているのだとしか思えぬし、時空を超えた円空と志功の、稀にあり得る偶然の一致という可能性についても、ありえぬことではないとも考えつつ、否、やはり直かにこの円空仏にまみえたからこそ、志功は啓示を受け、その導きのままにおのずと「釈迦十大弟子」が成ったのではないか、との思いがだんだんと膨らんできてしかたがないのである。
ずいぶん前に私は、長部日出雄が書いた「鬼が来た-棟方志功伝」をかなり印象深く読んではいるのだが、そのなかで志功と円空仏との出会いについて明瞭に記されていたものかどうか、この疑問に答えてくれる記載があったかどうか、いくら記憶を呼び戻そうとも思い出せないで、疑問氷塊は暗礁にのりあげたままなのである。
この問いの決着は早晩どうしてもつけないわけにはいかない私ではあり、宿題はいよいよ大きくなった一日でもあった。

 といった次第で、残念ながら鉈薬師の12神将をまじかに観ることは叶わず、あらためての機会を得なければならなくなってしまったが、この日帰りの電車の旅は、その口惜しさを残した分、却って意義あるものになっているのかもしれぬと思いかえし、わが身を慰めつつ、またぞろT君の車に身を預けて名古屋駅まで送ってもらい、帰路についたのだった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-40>
 満潮の流れ干る間を逢ひがたみ海松の浦によるをこそ待て
                        清原深養父

古今集、恋三、題知らず。
生没年不詳。舎人親王の末裔といわれ、清少納言の父元輔は孫。琴をよくし、古今集の有力歌人だが、三十六歌仙に入らず。小倉百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」。古今集以下に41首。
邦雄曰く、潮流の干る間=昼閒は人目を憚り、海松(みるめ)=見る目の浦に寄る=夜を待つという。縁語と懸詞が裏表に絡み合って、水に身を任せたかの不安で冷え冷えとした心象風景が浮かんでくる。新古今には「恨みつつ寝る夜の袖の乾かぬは枕の下に潮や満つらむ」が採られ、これまた「寄潮恋」の趣あり。古今集の歌の方に、深養父の個性はうかがい得よう、と。

 なごの海潮干潮満つ磯の石となれるか君が見え隠れする  源頼政

従三位頼政卿集、恋、時々見恋。
なごの海-歌枕だが、越中国、摂津国、丹後国と諸説。那古の海、奈呉の海、名児の海とも、また奈呉の浦、奈呉の江とも。
邦雄曰く、愛人の顔が見えみ見えずみ、浜辺の石が潮の満干で隠顕するのと同様だとの意を、「石となれるか」と言い伏せ、一首に泣き笑いに似た諧謔味を漂わす。破格な発想と磊落な修辞では並ぶ者のない武者歌人。この歌など、まるで20世紀の「劇画」の手法を先取りしているようだ。「なごの海」は、摂津が「那古」、越中では「奈呉」だが、いずれか、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 20, 2006

今人の心を三輪の山にてぞ‥‥

0511292001

-表象の森- 夏の汗と不易流行

 やはり、夏の汗は甲子園の高校野球がよく似合う。
早実と駒大苫小牧による決勝戦は、延長15回にても決着つかず、再試合となって勝負は明日へと持ち越された。
決勝戦の延長引分けによる再試合は、青森・三沢高校の太田幸司が悲運のヒーローを演じた1969(S44)年以来だという。
TVの画面を通して早実の斉藤投手の力投を見ながら、私の脳裏に甦ってきたのは、太田幸司もさることながら、古い話でまことに恐縮だが、あれは1958(S33)年の準々決勝だったか、坂東英二を擁した徳島商と富山・魚津高との延長18回引分けの試合だった。ちなみにこの延長戦、坂東投手は魚津から25の奪三振を記録し、翌日の再試合も投げきって勝利の女神を引き寄せるのだが、この大投手と熱闘を演じた魚津ナインたちの敢闘の汗は、清新な情熱の迸る結晶そのものだった。

 高校野球も時代とともに移ろいゆきずいぶんと様変わりしてきたこと、とりわけ野球留学という名の他府県への流出が、甲子園出場の早道とばかり全国に席捲しているという問題もあり、野球にかぎらず幼少からのスポーツ・エリート育成のあり方が、この社会に一定のネットワークやパターンを形成し、構造化されるようになってしまったのを見るにつけ、スポーツの本然たる姿は隠され埋没してゆくことに、些かなりとも焦慮の念を抱かざるを得なかったのだが、
偶々休日の昼下がり、見るともなく眼にしたこの試合は、高校野球における、いまだ不易なるもの、本然と変わらざるものを、この私にも垣間見せてくれたようで、少しばかり胸の熱くなるものをおぼえたことを記しておきたい。

 「不易流行」とは、蕉風俳諧の理念として芭蕉が説いたものだが、はじめは<不易>と<流行>という二つの句形ありきと受けとめられたようだが、芭蕉の真意は然に非ず、不易は本(もと)、流行は風(ふう)と、次元の異なるものと見るべしで、<不易流行>は一句の内に込められている、込められ得ると見るべきだと、弟子たちにも認識されるようになったといわれる。
岩波の仏教辞典をひもとけば、
<本>とは、宋学的世界観にもとづく<風雅の誠>という理念である。それが<新しみ>を求めて創られる句の<姿>にあらわれるのを<流行>という。
去来の「三冊子」にては、「不易を知らざれば実(まこと)に知れるにあらず、不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがたなり」と、人口に膾炙した章句となる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-39>
 橘の蔭履む路の八衢に物をそ思ふ妹に逢はずて  三方沙弥

万葉集、巻二、相聞。
生没年、伝不詳。持統朝から文武朝に歌を残す万葉歌人。
八衢(やちまた)-いくつかの道の分かれるところ
邦雄曰く、詞書に「三方沙弥、園臣生羽の女を娶(ま)きて、未だ幾許の時を経ずして病に臥して作る歌三首」とあるその一首。上句は第四句を導き出す序詞ではあるが、傑作の黒白映画の一場面を見るように夏の繁華街の橘並木の蔭と、行き交う人を活写して、結句の歎きに精彩を添える。逆に下句の悲しみは上句のための、抒情的な修飾をしているかにも見える、と。

 今人の心を三輪の山にてぞ過ぎにし方は思ひ知らるる
                        前斎宮甲斐

金葉集、恋下、恨めしき人のあるにつけて昔思ひ出でらるる事ありて。
生没年不詳、天永元(1110)年、第56代斎王・恬子(やすこ)内親王につき従った女官・甲斐のこと。
邦雄曰く、昔の安らぎ、来し方の幸せが、今ようやく身に沁みて思われる。冷たい人の心を見たゆえに。詞書も歌の心を語っているが、三輪山と杉は数多の恋歌の本歌となった古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと」。甲斐は千載集にいま一首「別れゆく都の方の恋しきにいざむすびみむ忘れ井の水」が入選、堀河院皇女喜子内親王群行の時の作と伝える、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 19, 2006

蓬生の末葉の露の消えかへり‥‥

0511271051

-表象の森- それでも帰りたい

 「それでも帰りたい」、昨日付、毎日新聞の一面見出し。
20年を越えてつづいたスーダン南北内戦による破壊は、約400万人の家を奪ったという。記事はケニア北部のカクマキャンプに暮らす9万余の難民たちの実態を伝える。
昨年1月の和平合意で、国外に逃げた難民や国内避難民の帰還が始まったが、家族の離散やインフラ破壊の影響は深刻だという。なにもかも破壊され、疫病の流行にもなすすべがないという故郷に、「それでも帰りたい」との思いだけはつのる。

 以下は2004年時点の数値のようだが、
世界で約4,000万人が、武力紛争により家を追われて生活しており、
03年だけでも、新たに640万人が難民または避難民となったという。
安全を求めて国境を越えた難民が1,190万人、
自国内で避難している国内避難民が2,360万人。
ほとんどの国が難民を受け入れてはいるが、そのなかには多くの最貧国が含まれているという、坩堝のような実態の理不尽さには、言葉を失うばかりだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-38>
 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
                         作者不詳

万葉集、巻十四、東歌、常陸国の歌。
筑波嶺(ツクバネ)-常陸国の筑波山のこと、男体山と女体山の二つの峰。
新桑繭(ニイグワマヨ)-新しく取れた繭、今年の繭。 御衣(ミケシ)-「けし」は「着(ケ)す」連用形の名詞化。衣服の尊敬語。
邦雄曰く、筑波嶺は女男の二峰を持ち、春秋の歌垣で知られていた。繭紬の織りたての香が漂うように、初々しく健やかな調べ。あなたの衣が着たいとは、なんと素朴な、大胆な愛の告白か、と。

 蓬生の末葉の露の消えかへりなほこの世にと待たむものかは
                         藤原良経

六百番歌合、恋、待恋。
邦雄曰く、恋歌のほとんどは遂げ得ぬ愛の悲嘆で占められ、六百番歌合・恋五十題にひしめく六百首もまたこの例に漏れないが、惻々として魂を冷やすかの趣、この蓬生を超える作は少ない。逢うのはもはや死後と、暗に決意したこの調べの凄まじさ。第三句「消えかへり」の末細る調べは天来とも言うべく、絶妙、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 17, 2006

あきづ羽の袖振る妹を‥‥

C0510241441

-表象の森- ともすれば地獄のほのを

  花を愛し月を愛する、やゝもすれば輪廻の業、
  ほとけをおもひ経をおもふ、ともすれば地獄のほのを‥‥

 「一遍聖絵」の冒頭には、長い果てしのない遊行の旅へと、伊予の国を出立する際の姿が描かれているが、旅立つ一行は5名、一遍と、超一、超二、念仏房、そして一遍の弟とされる聖戒-一遍聖絵の制作者-である。
この超一、超二と名づけられた尼僧は、一遍が還俗していた頃の嘗ての妻であり、その女児だという説がある。
時に、文永11(1274)年2月8日、蒙古襲来の元寇、文永の役はこの年の10月であった。

 この超一が旅の途次儚くも死んだと思われる記載が、往生の記録である「時衆過去帳」に、弘安6(1283)年11月21日、超一房とあり、これが同一人物であり、嘗ての妻であるとすれば、彼女は9年の歳月を一遍に付き随い、野路の草の露と果てたことになる。
無論、男女の愛欲を打ち棄て、乗り超えんとした同行の旅であったろう。
一遍時衆は、その遊行においても、念仏踊においても、つねに男女が同行し、愛欲破戒の危機を孕みつつ、集団として動きつづけた。
それは、捨てきる事への試練のくびきでもあったろうが、
捨てても捨てても捨てきれぬ心への慈しみであったのかもしれない。
さもなければ、
花を愛し月を愛する心が、仏を思ひ経を思ふ帰依が、
ややもすれば輪廻の業ともなり、ともすれば地獄の焔ともなる、
という絶対的矛盾の内に、宙吊りのごとくある、生きることの相を捉えきれないだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-37>
 あきづ羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへわが君
                          湯原王

万葉集、巻三、雑歌、宴席の歌二首。
生没年未詳、志貴皇子の子、兄弟に光仁天皇や春日王。天平前期の歌人、万葉集に19首の短歌。
邦雄曰く、紗か絽か羅か、脈翅目の羽根さながら、透きとおる衣を着る麗人に、直情を披瀝するその言葉の彩に、君の艶姿がおのずから浮かび上がってくる。題に即するなら、宴の席に侍る舞姫の一人でもあろう。必ずしも愛の告白とはかぎるまい。自然、調べは軽快で、挨拶歌の楽しさも溢れている、と。

 見せばやな君しのび寝の草枕たまぬきかくる旅のけしきを
                         藤原忠通

金葉集、恋上、旅宿恋を。
承徳元(1097)年-長寛2(1164)年、道長の直系にて関白太政大臣忠実の子。兼実・慈円らの父、忠良・良経らの祖父にあたり、法性寺関白と号す。金葉集初出、勅撰入集59首。
邦雄曰く、旅の夜毎に引き結ぶ草枕のその草にも、君を恋いつつ、逢えぬ歎きに流れる涙は、玉となって、あたかも緒に貫くように落ちかかる。袖はしとどに濡れて乾くまもない。「見せばやな」の願望初句は常套手段の一つながら、一首自体が美しい工芸品に似た光と潤いをもち、恋歌の一典型として鑑賞に耐えよう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 16, 2006

思ふことみな盡きねとて‥‥

20060719165102

-表象の森- 円空の十二神像

 円空の十二神像は四様の彫像群が残されている。
一は、愛知県扶桑町の正覚寺、

-正覚寺の12神将-

二は、愛知県江南市の音楽寺、
円空がこの寺に立寄り逗留したのは延宝4(1676)年とされるから45歳である。
-音楽寺の12神将-

三に、名古屋市千種区の鉈薬師堂(別名医王堂)に残されるもの、寛文9(1669)年というから38歳の作。
-鉈薬師の12神将-

四に、大垣市の報恩寺に残されるもの、これは寡聞にしていつ頃の作か不明。
-報恩寺の12神将-

 五来重はその著「円空と木食」のなかで、正覚寺と音楽寺の12神将を比較して次のように手短に記している。
「正覚寺十二神将の装飾過剰に対して、愛知県江南市の音楽寺の、薬師、二脇侍、十二神将、大護法善神は、円空芸術の最高位を示したものである。物象の立体的な捉え方と、その表現技巧が、間然するところなくゆきとどいている。堅い木材を塑泥のごとく自由自在にこなし、かつ無駄がない。忿怒が内面的に抑えられて微笑となる。しかし、欠点をいえばそれはあまり巧みすぎて力動感にやや欠けることである。」
 五来氏が、名古屋千種区の鉈薬師の12神将を観られていたかどうか判らぬが、私などからいえば、この若書きの、しかも簡略化のよく効いた、素朴・単純な形の12神将のほうが、よほど魅力的に感じられる。
サイトの説明によれば、「堂内には像高1.2㍍の本尊薬師仏のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝えられる脇侍の日光・月光の二菩薩、十二神将像が安置してある。円空仏は毎月21日に開帳される。」というから、是非、ナマの円空12神将を観てみたいものである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-50>
 夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ
                        凡河内躬恒

古今集、夏、六月のつごもりの日詠める。
邦雄曰く、夏の初めの貫之の傑作「花鳥もみな行き交ひて」と鮮やかな照応をなす発想。縹渺たる大空のどこかで、衣の袖を翻しつつ、夏と秋が擦れちがうさまを幻想する。下句のことわりめくのは、作者のかけがえのない発見・創意の証ととるべきだろう。この歌、古今集夏歌の巻軸。「かたへ」は片一方の意。今一方は熱風が鈍色に澱んでいると見るべきか、と。

 思ふことみな盡きねとて麻の葉を切りに切りても祓へつるかな
                         和泉式部

後拾遺集、雑六、誹諧歌、水無月祓へを詠み侍りける。
邦雄曰く、勅撰集あるいは私家集の夏の巻末を占めるのがほとんど六月祓。ほとんど同趣同技法だが、この麻の葉は作者独特の鋭く劇しい気魄に満ち、読む者の胸に迫る。しかもこの歌、「みなつき」を物名歌風に詠み込んで、部類も誹諧歌だ。第四句の「切りに切りても」のあたり、憑かれて物狂いのさまを呈する巫女の姿が、まざまざと顕って凄まじい、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 15, 2006

宿は荒れぬうはの空にて影絶えし‥‥

Zetsubou

-表象の森- 終戦と靖国と玉音と。

 8.15、終戦記念日である。
9月に任期満了を控えた小泉首相は、念願だった?靖国神社への8.15参拝を、どうやら初志貫徹とばかり強行するらしい。先頃マスコミを賑わした、靖国へのA級戦犯合祀問題に触れた昭和天皇の発言、いわゆる富田メモに、内心深く動揺もし、心の棘となって刺さっていたろうに、変人奇人の宰相は、どこまでも平静を装い、01年の総裁選公約どおり、本日の参拝をもって有終の美としたいのだろう。
と、これを書き継いでいるおりもおり、午前7時30分過ぎ、TVでは小泉首相靖国参拝の報道を伝え始めた。
本人としては、おのが信念に基づく行動であり、美学とも考えているのだろうが、多くの国民には、餓鬼にも似て、ただの天の邪鬼にしか映らないだろうと思えるのだが‥‥。

 61年前の終戦の詔勅、すなわち玉音放送だが、「絶望の精神史」によれば、金子光晴は山中湖畔の落葉松林の小屋のなかで、召集をぬらりくらりと逃げとおさせた息子と二人で、良く聞こえもしないラジオで聞いたらしい。妻の三千代は、五里の道を歩いて富士吉田まで、食糧を手に入れるために朝から出かけていたという。
玉音を聞くには聞いたが、良く聞き取れないラジオで、終戦の詔勅とは判らず、「何かおかしいぞ」といいながら、壊れラジオを叩いたり振ったりした、とも書いている。結局午後4時過ぎになって、出かけていた三千代らが帰ってきて、戦争が終わったと街で大騒ぎになっていると聞かされて、やっと玉音の意味が判った、と。

 終戦の詔勅、61年前の8月15日の正午きっかりに始まった、この玉音放送を、日本国民のどのくらいの人々が聞き、またその意味が正確に伝わったのかは、実際のところはよく判らない。
当時、ラジオの受信契約数は全国で5,728,076件、全世帯への普及率は39.2%だったというから、現在のようなテレビのほぼ100%普及をあたりまえの日常として受け容れている感覚からすると、彼我の差は甚だしく、とても想像しにくいところだ。

 まだ幼い子どもだった頃、よく親に連れられていく映画館の暗闇のなかで、上映されるニュースに、偶々8.15の時期でもあったのだろう、この終戦の詔勅の一節が流されるのを、なんどか聞いた記憶があるが、ほとんど肉感を感じさせないモノトーンのあの調子が、まるでなにか不吉なおまじないか呪文のようにも聞こえ、なんともいえない居心地の悪さを感じたものだが、子ども心に何回も重ねて反復強化されてしまった、あの玉音の語りの調子は、耳の底深くはっきりと痕跡を残して、この先も決して消え去ることはないのだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-49>
 水上も荒ぶる心あらじかし波も夏越の祓へしつれば  伊勢大輔

後拾遺集、夏、六月祓へを詠める。
邦雄曰く、後拾遺・夏の巻軸歌。拾遺・夏・藤原長能の「さばへなす荒ぶる神もおしなべて今日は夏越の祓へなりけり」の本歌取り。「夏越」に「和む」を懸けて第二句に対置させつつ、同時に祓の真意も伝えているところ、夏の締めくくりにふさわしいヴォリュームと言うべきだろう。なお、古代では6月半ば以降にも、便宜があれば随時に祓をしたと伝える、と。

 宿は荒れぬうはの空にて影絶えし月のみ残る夕顔の露  心敬

十体和歌、有心体、疎屋夕顔。
邦雄曰く、仄白い瓢(ふくべ)の花影と露、それ以外には見る影も無いあばら屋の姿であるが、何か物語めいて、恋の面影さえ浮かんでくるような味わいのある歌。連歌風の臭みさらになく、「影絶えし月のみ」が上・下に分かれて、ぴしりとアクセントを強調し、初句6音の思い入れも効果的である。空にはもはや見えぬ月が、夕顔の露に映っているとは、実に微妙だと。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 14, 2006

手にならす夏の扇と思へども‥‥

Nakahara0509181391

-表象の森- 金子光晴の関東大震災詩篇

 金子光晴の初期詩篇に「東京哀傷詩篇」と名づけられた、大正12(1923)年9月1日の、関東大震災に遭ったときに綴った詩群がある。明治28(1895)年生れの金子光晴はこの年28歳。被災の後、西宮市に住む実妹の嫁ぎ先、河野密の家に、その年の暮れまで厄介になっている。

「焼跡の逍遥」

もはや、みるかげもなくなった、僕らの東京。
なにごとの報復ぞ。なにごとの懲罰ぞ。神、この街に禍をくだす。
 花咲くものは、硫黄と熔岩。甍、焼け鉄。こはれた甕。みわたす堆積のそこここから、余燼、猶、白い影のように揺れる。
 この廃墟はまだなまなましい。焼けくづれた煉瓦塀のかたはらに、人は立って、一日にして荒廃に帰した、わが心を杖で掘りおこす。
 身に痛い、初秋の透明なそらを、劃然と姿そろへて、
 夥しい赤蜻蛉がとぶ。

 自然は、この破壊を、まるでたのしんでゐるようだ。
 人には、新しい哀惜の情と、空洞ににじみ出る涙しかない。
 高台にのぼって僕は展望してみたが、四面は瓦礫。
 ニコライのドームは欠け、神田一帯の零落を越えて
 丸の内、室町あたり、業火の試練にのこったビルディングは、墓標のごとくおし並び、
 そこに眠るここの民族の、見果てぬ夢をとむらうやうだ。

 僕の網膜にまだのこってゐるのは、杖で焼石を掘り起こしてゐた
 白地浴衣、麦藁帽の男の姿だった。
 その姿は、紅紫の夕焼空に黒くうかび出て。身にかへがたい、どんな貴重品をさがしゐるのか。
 わかってゐる。あの男は、失った夢を探しにきたのだ。
 そして、当分、この焼跡には、むかしの涙をさがしにくるあの連中の
 さびしい姿が増えることだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-48>
 手にならす夏の扇と思へどもただ秋風の栖なりけり  藤原良経

六百番歌合、夏、扇。
邦雄曰く、類歌は夥しかろう。だが扇を「秋風の栖」と観じたのは良経の冴えわたる詩魂であり、燦然として永遠に記念される。俊成は右の慈円の作「夕まぐれならす扇の風にこそかつがつ秋は立ち始めけれ」を勝としたが、曖昧な判詞で首を傾げるのみ。うるさい右方人でさえ、良経の歌に「夏扇に風棲むは新し」と讃辞を呈しているが、歌合にはめずらしい現象、と。

 六月やさこそは夏の末の松秋にも越ゆる波の音かな  飛鳥井雅経

千五百番歌合、五百十九番、夏三。
邦雄曰く、波の越えることはない歌枕「末の松山」を、「夏の末の松」と、季節の中に移して、遙かに響く潮騒に秋を感じさせる。手のこんだ技法は、30代前半の雅経ならではの感。左は小侍従の「禊川なづる浅茅のひとかたに思ふ心を知られぬるかな」で、良経判は右雅経の勝。左の歌、四季より恋の趣が濃厚で、80歳を超えてなお健在の小侍従だ、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 12, 2006

松風の音のみならず石走る‥‥

0505120291

-表象の森- 一茶の句鑑賞

  手に取れば歩きたくなる扇かな

文化15(1818)年、56歳の作。なにげなく手にした扇、その扇によって、思わず埋もれていた心の襞が掴みだされたというような感じがある。ふとなにかに向かって心が動いた、ふと歩きたくなったのである。そこには必然的なつながりなどなにもないが、この偶然と見える心の動きは、無意識の深いところでは、なにか確かなつながりになっているのだろうか、そんな気がしてくる句である。

  木曽山に流れ入りけり天の川

前出の句と同じ年の作。木曽の山脈、その鬱蒼としてかぐろい檜の森影に、夏の夜の天の川が流れ入っているという。その傾斜感が鮮やかだ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」はおそらく虚構化された自然の景なのだろうが、一茶の句はそこのところがやや曖昧にあり、景の中から滲み出てくる迫力においては一歩譲らざるを得ないが、茂吉流の実相観入からいえば、一茶のほうがそれに近いのではないか。

  虫にまで尺とられけりこの柱

「おらが春」所収、文政2(1819)年の作、一茶57歳。
尺取虫は夏の季語だが、「尺をとる」には、寸法をはかられることから、言外に軽重を問われるという一面がある。虫にまで寸法を測られている柱は、自分の分身なのだろう。心秘かにおのれを省みてなにやら自嘲している風情が色濃くにじむ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-47>
 身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方知らずも  藤原家隆

千五百番歌合、四百九十番、夏三。
邦雄曰く、秋がもうそこまできている。そよと吹く楢の下風に、扇も忘れがち。初句と結句が対立・逆転するところ、意外な技巧派家隆の本領あり。百人一首歌「風そよぐならの小川の夕暮は」などという晩年の凡作と比べると、まさに雲泥の差。この歌合では左が肖像画家藤原隆信、良経判は問題なく右の勝とした。「ならす」は「馴・鳴」の両意を兼ねる、と。

 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを  西行

山家集、夏。
邦雄曰く、山家集の夏の終りに近く、「松風如秋といふことを、北白河なる所にて、人々詠みし、また水声秋ありといふことを重ねけるに」の詞書を添えて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際だった秀句表現に感じられて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冴えた一首にする技巧は抜群、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

端ゐつつむすぶ雫のさざなみに‥‥

Uvs0504200661

-表象の森-  今月の本たち

 岩波文庫版の「金子光晴詩集」は清岡卓行によるアンソロジィだからたのしみ。
その清岡卓行は、去る6月3日鬼籍の人となった。1922年の生れだから83歳。
詩人だが小説もものした。中国大連に生れ、戦後までの20数年間を大陸に過ごした。
1970(S45)年に小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞している、やや遅咲きの作家。
清岡の晩年の代表作に「マロニエの花が言った」がある。「イマジネールな都市としての両大戦間のパリを舞台に、藤田嗣治、金子光晴、ロベール・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織物と言うべきこの小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリスムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している」と。近いうちに読んでみたい。

 それぞれ分野は異なるが、「人体-失敗の進化史」、「地中海-人と町の肖像」、「貝と羊の中国人」の新書類は、新聞書評による選択。「三島由紀夫」については、吉本隆明の解釈で充分じゃないかと思っているが、別な切り口からのアプローチも知るに如かずといったところ。
「名僧たちの教え」は共著に先頃読んだ「日本仏教史」の末木文美士も名を連ね、ともに信頼できようし、44人もの名僧・高僧たちをかいつまんで語ってくれようから、総覧して頭の整理に有効だろう。
「フーコー・コレクション」は、しばらくは積ん読になるだろうが、いずれ読みたくなる時がきっとあろう。

今月の購入本
 金子光晴「金子光晴詩集」岩波文庫
 M.フーコー「フーコー・コレクション(1)」ちくま学芸文庫
 遠藤秀紀「人体-失敗の進化史」光文社新書
 樺山絋一「地中海-人と町の肖像」岩波新書
 加藤徹「貝と羊の中国人」新潮新書
 橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」新潮文庫
 山折哲雄「名僧たちの教え-日本仏教の世界」朝日新聞社

図書館からの借本
 ヤーコブ・ブルクハルト「美のチチェローネ-イタリア美術案内」青土社
 中沢新一「芸術人類学」みすず書房
 葛飾北斎「初摺・北斎漫画(全)」小学館
 池上洵一「修験の道-三国伝記の世界」以文社
 高村薫「新リア王-上」新潮社
 高村薫「新リア王-下」新潮社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-46>
 夕涼み閨へも入らぬうたた寝の夢を残して明くる東雲  藤原有家

六百番歌合、夏、夏夜。
邦雄曰く、短か夜の、その黄昏の納涼に、ふと手枕でまどろんだものの、気がつけば暁近かったという。歌合の右が家隆の「澄む月の光は霜と冴ゆれどもまだ宵ながら有明の空」で、俊成は有家の上句を難じて負にしているが、家隆の「霜と冴ゆれど」なども常識的、有家の下句の余情妖艶を称揚すべきだろう。初句が平俗に聞こえるのは痛いところだが、と。

 端ゐつつむすぶ雫のさざなみに映るともなき夕月夜かな  鴨長明

鴨長明集、夏、夏月映泉。
邦雄曰く、涙の珠に月が映る趣向は、俊成女にも先蹤があるが、掬ぶ泉の、雫によって生れる波紋に月が映り、かつ砕けるさまは、むしろ淡々として墨絵のような新しさがある。第四句が工夫を凝らしたところであろう。新古今歌人中では、反技巧派の作者の周到な修辞だ。「樹蔭納涼」題で、「水むすぶ楢の木蔭に風吹けばおぼめく秋ぞ深くなりゆく」もある、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

August 11, 2006

木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏‥‥

0412190011

番外 <YahooBB光のトラブル>

 またもネットがつながらないトラブル、BBフォンだから電話も。
YahooBB光マンション(VDSL)は、なぜこうもトラブルが起きる?
昨日は朝の6:00頃から夕刻6:30頃までの12時間余り。
復旧してYahooBBサイトの障害情報を見れば、以下のごとき報告が掲載されていた。
 発生日時 8/10(木) 06:00頃
 対象のお客様  YahooBB光マンションサービスをご利用の一部のお客様
障害内容 上記お客様に対し、インターネット接続、BBフォン光、その他インターネットを用いる
オプションサービスが利用できなくなる障害が発生いたしました。
原因 お客様マンション内に設置している当社ネットワーク機器のソフトウェア不具合
対応 当該機器のリセットを行うことにより対応済み
実は、2ヶ月ほど前もまったく同じようなトラブルが発生、この時は復旧までに丸1日半を要した。
同じトラブルがあまり時日を置かない間に起こるなんて、ちょっとひどい話。
しかも、原因と対応の記載によれば、きわめて単純なトラブルのようにみえるし、現状では今後もたびたび起こるのではと心配される。

 Yahooに対し、速やかに改善を求めるには、どのように要請すべきか、
願わくば、詳しい方のお知恵を拝借したいと思うのだが、どなたかご教示いただけませんか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-45>
 道のべの清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ  西行

西行上人集、雑、題知らず。
邦雄曰く、技巧を盡した歌群の中で、この淡泊な調べにあうと、まさに一掬の清涼剤、まして夏の歌の中では救いさえ感ずる。たとえば新古今では、この歌の前に有家の「涼しさは秋やかへりて初瀬川布留川の辺の杉の下蔭」あり、良い対照といえよう。第四句に、ついつい快さに永く佇んで、時を越してしまった軽い驚きが、さりげなく込められている、と。

 木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏すずしき方の枝やあらそふ
                        飛鳥井雅親

亜槐集、夏、夏烏。
邦雄曰く、烏が納涼の場所の争奪戦を演じているという見立ての面白さが身上であろう。15世紀も半ば近く、父の雅世が編んだ第二十一代集、新続古今には、23歳で5首入選。壮年の頃は応仁の乱の真っ只中で、邸宅も兵火に焼け、第二十二代集は沙汰止みとなる。「夏烏」と並ぶ「夏獣」題「山川や牛引連れて総角(あげまき)の芝生に涼む夏の夕暮」もなかなか面白い、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 10, 2006

夏の池に寄るべさだめぬ浮草の‥‥

Hokusaimanga

-表象の森- 「北斎漫画」を観る、読む

 反骨と奔放、貪欲な好奇心と枯れることなき創作意欲を燃やし続けた北斎。
90年に至る生涯のいまわの際になお、「あと十年、いや五年生かしてくれたら、ほんとうの絵描きになれるのに‥‥」と洩らしたという北斎。
昨年の9月、小学館より刊行された「葛飾北斎-初摺-北斎漫画」は、原寸色刷りで全15編をすべて一冊の大部に収めた書なのだが、このほど図書館からやっと借り受けてひととおり飽かず眺めわたしてみていた。こういう時間は望外の喜悦であり、道楽以外のなにものでもないが、それにしても恐るべき巨魁とただただ感じ入るばかりだ。
彼が「北斎漫画」初編を出版したのは文化10(1813)年、54歳だったという。はじめは名古屋で出版されたこの絵手本シリーズは、ずいぶんと好評を博し、その後続々と出版され、60歳の年に第10編を出して一旦「大尾」と謳ったにもかかわらず、さらに11、12と続いたらしい。そして、北斎の死後、門人たちの手でもって3編が出版され、全部で15編となるのだが、最後の第15編が出たのが維新をはさんで明治11(1878)年だというから、恐れ入谷の鬼子母神。初編出版からなんと65年をかけての完結となった訳である。
各編にはそれぞれ当代きっての人気者文化人が、序文に北斎讃の健筆を奮っているが、これがまた愉しい。

 第3編の序文は、蜀山人こと太田南畝だ。
「目に見えぬ鬼神はゑがきやすく、まぢかき人物はゑがく事かたし。-略- ここに葛飾の北斎翁、目に見、心に思ふところ、筆を下してかたちを成さざる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さざる事なし。これ人々の日用にして、偽をいるる事あたはざるもの、目前にあらはれ、意表にうかぶ。しかれば、馬遠(中国南宋の代表的画人)・郭熙(中国北宋の代表的画人)が山水も、のぞきからくりの三景に劣り、千枝常経が源氏絵も、吾妻錦の紅絵に閉口せり。見るもの、今の世の人の世智がしこきをしり、古の人のうす鈍(のろ)なるを思ふべし。」と記しているが、蜀山人は第6編にも序文を寄せている。

 第7編は天下の名所図絵特集となっているが、これにはやはり戯作者の式亭三馬が序文を担当。
「-略- きのふは深川の渡り、広幡の八幡の御社に為朝の神の拝まれさせ給ふを、これかれ誘ひつれて行きつ、けふは橋場の浅茅が原にほととぎす聴きに等、-略- 待乳の山をこえ、猿橋をわたるに、田鶴の諸声、雲井にひびくは、尾張の桜田なるべし。-略- 花に、紅葉に、月に、雪に、春秋のながめも只ここ許にあつまりて、楽しとも、嬉しとも、いふばかりなきを、小野の瀧のみなぎり落つる音、耳に入りて身じろげは、云々。」と書く。

 「大尾」のあとの第11編では、柳亭種彦の登場とあいなり、
「畫論に凝りて筆の動かざるは、医案正しく匙のまはらざるにひとし。古人の説を活動し、病を癒すぞ良医なるべき。されば、画人も亦然り。古法の縛縄をぬけいで、花を画かばうるはしく、雪を画かば寒く見ゆるを、上手とこそはいふべけれ。-略- 真をはなれて真を写し、実に一家の画道を開けり。往ぬる文化それの年より意に任せ、筆に随ひ、何くれとなく画きたるを既に十巻刊行なししが、それにさへ飽きたらず、需(もとむる)者しげきにより、翁ふたたび筆をくだし、漏たるを拾ひて、速かに此巻成りぬ。-略-」といった具合だ。

 これは巻末の対談のなかで紹介されているエピソードだが、所はアメリカのニューオリンズ美術館。館内のミュージアム・ショップで「RULERS of ART WORLD」なる物差しが売られているのだが、この物差し、片面はセンチとインチの目盛りが入ってなんの変哲もないが、もう片面には、ギリシャ時代から現代までの35人の美術家の名が、年代順に刻まれており、日本人で唯一人、葛飾北斎の名があるという。北斎の次にはイギリスのジョン・コンスタブル、その次がフランスのエドガー・ドガが並んでいるそうな。
RULERS of ART WORLD-美術の世界の支配者たち-というほどの意味だが、世界の美術史のなかで北斎への評価はかほどに高いことを、日本のわれわれはあまり意識したことがないし、そういう物差し-価値基準で北斎を観ることもあまりない、というギャップにいまさらながら驚かされる始末だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-44>
 夕顔の露の契りや小車のとこなつかしき形見なりけむ  足利義尚

常徳院詠、文明19(1487)年5月21日庚申に詠める、夏車。
邦雄曰く、夏の夜のはかない逢瀬、牛車で忍んで行って、暁の来ぬまに帰るあわただしい後朝、昨夜開いた夕顔の花に残る夜露のような、かすかな契りではあったが、常懐かしく、忘られぬ人であったと歌う。車の床との懸詞の技巧めくところもこの時代の特徴であろう。「あやめぐさおなじ姿におきなれて枕の露や光添ふらむ」は、「夏刀」題で、同趣向の老巧な歌、と。

 夏の池に寄るべさだめぬ浮草の水よりほかに行く方もなし
                         藤原興風

亭子院歌合、夏。
邦雄曰く、宇多法皇の故后温子の邸亭子院で歌合の催されたのは延喜13(913)年3月、貫之・躬恒・伊勢ら錚々たるメンバーが連なった。小町の名歌「侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」に似て、水に委ねる運命を、わが身の上にたぐえての述懐歌。なお、この歌、続後撰集の夏の部には、詠人知らずで採られている、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 09, 2006

夕立の雲もとまらぬ夏の日の‥‥

N0408280781

-表象の森- 大沼の浮島伝説

 山形県のほぼ中央、最上川中流域に位置する朝日町には、浮島伝説、小さな島々がポカリポカリと湖面に浮き動いているという、不思議な島々があるらしい。大沼浮島稲荷神社の浮島だ。
私は嘗て3度ばかり東北を訪れたことがあるが、当時はこの言い伝えも知らず、残念ながら訪れたことはない。
大沼浮島稲荷神社の浮島には、近世、出羽三山-月山、羽黒山、湯殿山-に参詣した人々が見物に立ち寄り、30余あった宿坊は大いに賑わったと伝えられる。
浮島のある沼は、狐形で周囲765m、水深3mというごく小さなもの。湖上に大小60余りの島があり大きいものは3.6m、小さいものは30cm。中央の動かない島は葦原島と呼ばれる。浮遊する島の動きによって吉凶を占ったとも伝えられる。この島々が浮遊するという不可思議から、大正14年に「大沼の浮島」として国の名勝に指定された。湖畔には幾つか名所もあり「烏鵲(かささぎ)橋」は、七夕の夜牽牛星と織姫星が年に一度会うために、かささぎが翼を並べて天の川を渡した故事から名付けられ、相愛の男女が橋を渡ると縁が結ばれるという。

 浮島稲荷神社の宮司でもある最上氏が、語り部として今も語る浮島伝説、その地の語りに耳を傾けてみよう。
「沼の鳥居さある島が本島で、出島とも言うでんだな。日照りの夏は出島に雨乞い壇を設け、昔からうちの神社に伝わる龍を沈めた水盤を置いで祝詞さあぐると雨が降っだという。私の代では雨乞いをしだごとはないけんども。
出島に向がって右側の入り江が水の湧く場所でな、浮島が集まるところ。島は、朝、ここからスーッと出でぎで、夕方さ、まだここさ戻ってぐる。風さないのにな。時には風に逆らって島は動ぐ。ちっこいもので直径約1メートル、大きなものは畳三枚分ほどもあるな。島数が六十を超すことから日本の「六十余州」になぞらえ、昔は島の位置で吉凶を占っとったそうだ。浮島さ乗るなんて、とんでもね。御神体だがらな。
なぜ島が動ぐか、大学教授がやってぎで研究されたことがあっけど、いまだによく分からね。奇怪だと。北海道にも浮島があるやに聞いとるけっど、そこはただ浮いでいるだけ。こごは動ぐ。早さはすごーく遅い時もあるし、ちょっとばかり目え離しでるあいだ、どっか行ってしまうぐらい早い時もあるな。
朝、湖面に落ち葉が落ちでいる。夕方さ行ってみると、落ち葉が帯状に一列に並んでんだな。落ち葉は沼の中には沈まね。それがな、どういうわけか翌朝になるとさっぱり、なぐなる。この辺の老人クラブのじっちゃんなんか、夜中にお姫様が現れて、みんなきれいに掃いてぐれるんだあ、と言ってるみたいだな。
不思議なことはたぐさんある。中でも不思議だったのは、六つか七つの島がな、一列に列を組んでズーッと入り江の方に動いているのを私自身が見だごとだ。遠くから見に来た人が動くのを待っとっても、全然島さ動かん時もある。気の毒だけんどな。かと思うとスーッと人に寄ってきだり、目の前でクルクル回るのを見だ人もある。なぜそうなるか、分がんね。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-43>
 夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声
                        式子内親王

新古今集、夏、百首歌の中に。
邦雄曰く、窈窕玲瓏、その比を見ない式子の作品群の中では、これが? とわが眼を疑うような単純な叙景歌の一つ。五句中、ただの一語も現代に通じないものはない。しかもその上、各句にまったく句切れがなく、一息に誦し終れる調べに、晩夏の夕立の後の、ほっとするような涼しさを生み出している。作者にしてこの歌ありという意味でも、記憶すべき歌、と。

 蝉の羽の薄らごろもになりにしを妹と寝る夜の間遠なるかな
                         曾禰好忠

好忠集、毎月集、夏、五月中。
邦雄曰く、情の薄さと蝉の羽、比較の次元の異なるものを、ただ言葉の音韻の上だけで照応させる、そのかすかなおかしさ。下句の万葉東歌を連想させるようなあらわな修辞が、それゆえにかえってあはれにひびく。好忠の独特の味わいの一つといえよう。「妹」はこの場合、妻をはじめとする女性の総称。夏の衣は絽や紗のような薄物で作られた単衣である、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 08, 2006

暑き日の影よわる山に蝉ぞ鳴く‥‥

Dsc_00961

-表象の森- 田中康夫3選ならず

 立秋というのに台風の接近で天候は荒れ模様、明日未明にも紀伊半島から東海方面にかけて上陸かとみられている。
おまけに南方洋上には、8号、9号も北上中だが、こちらは列島本土を直撃することはなさそうで一安心。それにしても異常気象か、海水温の上昇が台風発生の緯度を押し上げているという。

 一昨日の長野県知事選挙で田中康夫が3選ならず落選。
単独選挙にも拘わらず投票率65.98%は、大阪府知事選や々市長選とちがって、県民の関心の高さをあらわすが、それでも知事不信任に端を発した出直し選挙の前回に比べれば7.8ポイント低く、その減少が田中落選に作用したかともみえるが、県議会や市町村と対話路線を求める県民感情からすれば、相変わらずの田中手法は独善に過ぎたと映ったのではないか。おまけに昨年の小泉流郵政解散で新党日本の代表になるなど国政への積極的な発言や活動は、県民にとって理解を超えたパフォーマンスとしか映らなかったろう。2期目の4年間で田中知事への期待値は、とっくに潮目が代わって引き潮になっていたのだ。

 だが、結果として壊し屋田中に終ったにせよ、長野県政にその功績は大きなものがあったのでないか。トリックスター田中康夫としてみるなら、その役割はすでに充分に果たしたというべきだろう。それよりも余所事ながら心配なのは、通産官僚を経て衆議院議員となり、国家公安委員長や防災担当相を経てきたという69歳の村井新知事には、頑迷な守旧派が巣くう県議会を相手に、いみじくも前回選挙で田中が標榜した「壊す」から「創る」への県政の転換という難しい舵取りが重くのしかかることになるが、彼は県民の期待と負託に応えきれるだろうか。
一旦田中康夫という新鮮で過激な個性を媒介に目覚めた県民の意識は、田中以前とは些か異なっているといえるだろうし、少なくとも変化に対してはかなり大胆になれるだろう。このいかにも保守色の強そうな新知事が、田中県政を経験し、新奇さや変化に対する抗体反応が以前とは違ってぐんと逞しくなっているであろう県民意識を、大きく読み違えることにならなければよいのだが‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-42>
 暑き日の影よわる山に蝉ぞ鳴く心の秋ややがて苦しき  宗祇

宗祇集、夏、百首歌中に、蝉。
邦雄曰く、上句は尋常である。第二句の細心な観照もさほど目に立たぬ。だが下句は一転、求心的に抽象世界を描き出す。今は夏、夏も暮れる。やがて秋、心もまた秋に入り、思えば悩みは深い。第四句は数多先蹤がすでに新古今時代に見られるが、第五句の暗澹たる独白調は独特だ。今一首続いて「遠からぬ秋をもかけじ鳴く蝉のうすき羽に置く露の命は」、と。

 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ吾が来る妹が目を欲り
                          泰間満

万葉集、巻十五。
泰間満(はたのままろ)-泰真満に同じ、伝不詳。
邦雄曰く、恋人に逢いたい一心の、弾む息、アレグロの足取り、耳には生駒の蝉時雨。それも黄昏どき、頂上は標高642㍍のこの山、ひいやりと涼しかろう。大和へ行くのか河内へ来るのか。ヒグラシは陰暦6月末から9月半ばまで、朝の一時と夕の数刻鳴きしきる。結句の「妹が目を欲(ほ)り」は慣用句だが、切なくきらめく男女の眼が顕つようだ、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 07, 2006

をりはへて音に鳴きくらす蝉の羽の‥‥

0511290461

-表象の森- 突出する大阪の「野球留学」

 夏の高校野球が甲子園で始まった。
初日第3試合、横浜と大阪桐蔭の強豪激突は桐蔭が制した。
ところで、大会前日の5日、高野連が発表したという野球留学=他府県流出組の実態調査について各紙が報道しているが、他県を圧倒して全国に球児を流出する大阪のあまりの突出ぶりには、かほどまでにかと吃驚させられた。
ちなみに、毎日新聞の伝える数字をそのまま列挙すると
流出は、①大阪409、②兵庫128、③神奈川91、④東京82、⑤京都62、以下、福岡、奈良とつづき、
流入は、①愛媛73、②東京65、③山形56、④島根55、⑤香川54、以下、岡山、静岡とつづく。
但し、この調査対象は、今大会予選出場校4112校の、あくまで登録選手のみというから、留学したもののレギュラーになれなかったベンチ外の球児たちも加えると、実際の流出入の規模はさらにぐんとひろがっていることになる。
なぜ、大阪がかくも突出して野球留学という名の他府県流出組を全国的に供給しているのか、その要因については、少年野球(中学生野球)でレベルも高く最も有力とされるボーイズリーグ(日本少年野球連盟・本部大阪市)の隆盛ぶりが大いに与っているようだ。
現在、ボーイズリーグには全国で428チームが加盟しているが、そのうち71が在阪チームだというから、高校球児たちの予備軍において、すでに大阪は全国的に突出している状況があったわけだ。
このあたり、いつ頃からかは知らぬが、積年かけてボーイズリーグの各監督たちは、自らの教え子たる野球少年たちを、檜舞台の甲子園へと導くため、野球留学=他府県流出のネットワークを全国に張り巡らせてきた、という背景が浮かび上がってくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-41>
 をりはへて音に鳴きくらす蝉の羽の夕日も薄き衣手の杜
                         藤原為氏

続拾遺集、夏、弘長3(1263)年、内裏の百首の歌奉りし時、杜蝉。
衣手の杜-山城国の歌枕、現・京都市西京区嵐山宮町の松尾大社の近くにあったとされるが、古来より諸説あり。
邦雄曰く、時長く鳴き続ける蝉、蝉の羽は夕陽に透きとおる。その森の名は衣手の杜、いわば袖の森。薄いのは蝉の羽であり、また黄昏に入る前の夕光。第三句以下の、あやふくきらきらしい雰囲気は、蝉の歌群中の白眉であろう。続拾遺集はこの為氏が選進した。自作選入は21首、と。

 空蝉はさもこそ鳴かめ君ならで暮るる夏ぞと誰か告げまし
                         壬生忠見

忠見集、納殿より夏麻たまへるに。
邦雄曰く、明日からは秋、今日で終わる夏の、その日に賜わる「夏麻(なつぞ)」、作者の胸に溢れる慕わしさが、さんさんと降る蝉の声によせて読者の胸に伝わってくる。形ばかりの、ステロタイプの贈答歌が多い古歌の中に、忠見の、この空蝉の歌に溢れる流露感は、めずらしく、かつ貴い。返歌はやや調べ低く、「唐衣着るる夏ぞと思へども秋も立つやとなどかきざらむ」、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 05, 2006

月も日もいかに行きけむかきくれし‥‥

0511270891

-表象の森- 盆踊りの夏

 昨夜はいち早く盆踊りの音が聞こえてきた。
この界隈では毎年先陣を切って、中加賀屋のグランドで行われている民商主催のもので、たしか今夜と二晩つづくはず。
音頭取りのゲストなどに華やかさはないが、そこは民商さんのこと、出店の類は盛り沢山だし、子どもたちへも抽選会などで惹きつけ、賑わいぶりはなかなかのもので、広いグランドも人で埋めつくされる。
昨夏は我が家でも幼な児を連れて出かけたものの、人一倍警戒心の強い彼女は、踊りの輪などに入れる筈もなく、せいぜいかき氷を頬ばるのが関の山で、徒に時間を費やしたものだったが、それでも「今夜は行こうネ」と、母親と約束していた。

  六十年踊る夜もなく過しけり

と詠んだのは一茶だが、これは文政5(1822)年の句で、五十路となって故郷へと舞い戻った一茶が、ちょうど還暦を迎えた数え60歳の年。
14歳で独り故郷を出奔して以来、この年まで、盆踊りの踊る夜とてなかった人生だったろう。
「踊る夜」とは青春の謳歌であり響きである。若衆たちの乱暴狼藉も許容され一種の治外法権ともなるハレの一夜だが、一茶にとって故郷の盆踊りは無縁のままにうち過ごしてきたものだ。
60年の我が身には「踊る夜もなく」去った青春への疼きや歎きが、胸の奥に熾火のように静かに燃えていたことだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-40>
 水色の梢にかよふ夏山の青葉波寄る風のあけぼの  十市遠忠

遠忠詠草、大永7年中、新樹。
邦雄曰く、遠忠は16世紀初頭の有数の歌人で、しかも一時衰微した家が大領主となるまで敏腕を振るった。この青葉風まことに爽やかで優雅清心、官能的でさえある。初句の「水色」など古歌でも稀な用例に属する。その新感覚もさることながら、結句の「風のあけぼの」は、玉葉・風雅を承けて、さらに麗しい。二十一代集以後の特筆すべき歌人の一人、と。

 月も日もいかに行きけむかきくれしその世ながらの五月雨の空
                        三条西實隆

再昌集、寒暑遷流。
邦雄曰く、15世紀末から16世紀初頭にかけての、記念碑的貴族文人の本質を、一瞬映し出したかに味わい深い歌。永世16(1519)年姉小路済継一周忌に際しての作。「その世ながらの」に込めた感慨はただならぬものがある。上句の宇宙的な発想も、歌の柄をひときわ大きくした。家集の再昌集は和歌・発句・漢詩等、晩年の多彩な作品群の集成である、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 04, 2006

天の川八十瀬も知らぬ五月雨に‥‥

Ichibun9811270941

-表象の森- 朝湯所望

 まこと60過ぎての手習いのほどは身に堪えるもの。
このところうちつづく体力消耗の日々に、疲労快復、気分一新と、朝風呂を所望。
下駄をつっかけ、チャリンコを駆って、幼な児を保育園に送り届けては、
そのまま、近頃、近所に見かけた扇湯なる、薬草風呂を謳った銭湯に初見参。入浴料390円也。
午前9時前の銭湯はさすがに閑散として、湯客はちらりほらり。
お蔭で、一坪ほどの狭い薬草風呂も、その隣の露天も、一人きりでゆったり堪能。
ヨモギ、オオバコ、ドクダミ、その他の混合されたのが、白布に包まれて、ポカリと重そうに浮いているだけの、ありきたりのものだが、いまのわが身にはありがたやの湯の峯だ。
ジャクシィも気泡もひととおり浸かって、またぞろ、薬草と露天を。
そりゃ、神戸の灘や処女塚のような、すぐれものの温泉銭湯に比ぶるべきもないけれど、
そこまで車を駆ってとなると、帰りがほろほろ眠くなって仕方なかろう。
湯から上がって、とろけたような身体を椅子に投出すようにして、煙草を一服、またぞろ一服。
これぞつかのまの太平楽。

  朝湯すきとほるからだもこころも   山頭火

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-39>
 おしなべて深緑なる夏木立それも心に染まずやはなき
                       殷富門院大輔

殷富門院大輔集
邦雄曰く、緑陰のそのしたたる緑に心を染めて、さていかに悲しみを遣ろうと言うのか。王朝歌の夏の中ではめずらしい発想であり、第四句の「それも心に」の転調は、作者の才質をあらわす巧みさ。定家・家隆の先輩格の千載集初出歌人だけに、家集中には、放膽と見えるような自由な歌い放しの作が多々現れる。俊恵主催の歌林苑にも度々出席している、と。

 天の川八十瀬も知らぬ五月雨に思ふも深き雲の澪かな
                         藤原定家

千五百番歌合、夏二。
邦雄曰く、五月雨も五月雨、淀川でも飛鳥川でも富士川でもない。それは銀河のさみだれ。「八十瀬も知らぬ」とは、まさに本音であろうし、「雲の澪(みお)」で天上の光景に思いを馳せているのも明らか。左は藤原保の橘の香を歌った凡作。天の河が溢れて、とめどない霖(なが)雨となる幻想なら、現代でも通ろう、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

August 03, 2006

はかなしや荒れたる宿のうたた寝に‥‥

0507210125

-表象の森- いごっそうの美学

 「志」を白川静の常用字解で解説するところを引けば、
形声。音符は「士」、字の上部の「士」はもと「之」の形である。「之」は行くの意味であるから、心がある方向をめざして行くことを「志」といい、「こころざす(心がある方向に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味となる。

 昨年の暮れ近くだったが、40余年ぶりに再会した高校時代の友K.T君と、昨日は余人を交えず二人きりで逢った。同窓会がらみの野暮用もあった所為だが、暮れの再会の機会が多くの友人たちの輪の中でのことだったから、お互いの40年、積もる話がこの日に持ち越されたような体で、ほぼ4時間ちかくも対座した。

 親に勘当同然で仕送りもない境遇にあったとはいえ、学科生10名に教授連4名という、よき時代の信州大学に学んだというK.T君は、高校時代にはまだ、内部でとぐろをまく熱情の火照りが、出口を求めて彷徨っていたか、お互い明瞭な像を結ぶべくもなかったのだが、どうやら信州松本における、少数精鋭の濃密な人間関係に支えられた4年の学生生活が、これを克服してあまりあったのだろうと受け止められた。
鉄鋼メーカー大手の系列、K商事に就職してからの、現在に至るほぼ40年の企業戦士としての道程は、固有性に満ちた、かなり波乱に富んだものであったということが、彼自身の語るかいつまんだ40年史で、此方には充分すぎるほどに伝わってきた。無論、語り出せばだれにでもある、ありうる固有の物語だが、俗に肝胆照らすというか、互いに聴きたい・聴いて貰いたいという間柄、打てば響く相手でなければ、熱く語る動機も起こり得まい。
商社マンとして営業畑の表街道から、どういう巡り合わせにせよ、いつのまにか社内中枢部の黒子役へと、貧乏籤といえばそうもいえる、だが「志」のもっとも要される仕事を、彼が歴任していくようになるのは、意外に早く、入社10年目頃だったようで、それからの語り口は俄然熱を帯びたものとなって、私をなかなかに愉しませてくれた。

 私は、彼自身の40年史の語りのまにまに、彼の父親のことをいろいろと訊ねては聞き出す。「志」の生れ出づる処、またその実相を知るに、その父子を知るに若くはない。父と子のそれぞれの像やその関係の像が此方に結ばれれば、無論あくまで私自身にとってというだけのことだが、ほぼ了解に達しうると思うからだ。
彼の父は、高知県安芸郡田野町の出身だという。日中戦争のさなか、当時は田野村だったろうが、私設の開拓団を組織して、満州へ渡ったという。全国的によくあったケースだろうが、ともかく自らその核として行動を起こしたわけだ。第二次大戦の激化するなかでは、満州の特務機関員となって働いたという父は、その情報能力のお蔭で、自ら組織した開拓団を、ソ連軍侵攻の危難を前にいち早く無事帰国させている。終戦の直前のことだったろうが、勿論、特務員の父は一緒になど帰れないから、その後はただひたすら潜伏、あちこちと逃げ回ることになって、やっと故郷へ舞い戻ってきたのは戦後1年経ったころだった、と。

 その後の父は、県会議員に打って出たりもしているそうである。一度はめでたく当選して議員を務めるも、なにしろ典型的なムラ型選挙のこと、やがて選挙違反が明るみとなって逮捕者も出たか、やむなく辞職して、大阪へと転身するが、病膏肓、これに懲りないで、ほとぼりが冷めた頃を見計らっては、また故郷へ舞い戻って選挙にと打って出る、こんなことを何度か繰り返したという。お蔭で彼の小学校6年間は、高知-大阪-高知-大阪と、三度の転校生活だったというから家族こそ翻弄されっぱなしで迷惑そのものだ。
ムラの選挙は財産を食い潰す。かなりの富裕家だったらしく、いくつも所有していた山林もほとんどがそのたびに売られ消えてしまったという。大阪での父親の暮しは、逃避行の場所であり、どこまでも仮の宿、最後まで故郷での名誉回復、再興することこそ悲願であった。晩年の父自身は選挙参謀と金庫番にまわり、若い議員を当選させるのに成功して、有為転変の果てにやっと平穏無事を得たという。

 安芸郡田野町には、「二十三士の墓」という史跡がある。武市半平太こと瑞山(号)が率いる土佐勤王党が、開国・公武合体派勢力の盛り返しのなか、瑞山は投獄され、支柱を失った志士たちが脱藩を企てるも果たせず、清岡道之助以下22名が、奈半利河原で処刑され露と消えた、その志士たちの墓である。隣村の北川村には中岡慎太郎の生家もある。
 土佐のいごっそうには、志士たちのDNAが脈々と流れているのかもしれぬ。いごっそうとしての父の美学と、その父の変奏としての、子の生きざまの美学が、彼自身の語る40年史から私なりの像を結んだ一日だった。
 白川静の「志」解説をさらに引けば、詩経に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」とあり、「志」は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。また、「志」は「誌(しるす)」と通用する、と。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-38>
 はかなしや荒れたる宿のうたた寝に稲妻かよふ手枕の夢
                         藤原良経

六百番歌合、秋、稲妻。
邦雄曰く、あくまでも創り上げられた、見事な心象風景で落魄の悲しみに、こぼれる涙の露の玉に、紫電一閃が刹那映るという下句は、技巧の粹であろう。右は寂蓮で左の勝。但し判者俊成は、「姿・詞艶には見え侍るを「はかなしや」と置ける初句や、今すこし思ふべく侍らむ」と再考を促しているが、作者はこの儚さの潔さ、すべて計算済みだったはず、と。

 川上に夕立すらし水屑せく簗瀬のさ波こゑさわぐなり  曾禰好忠

好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。
邦雄曰く、家集の毎月集では、6月3日あたりに配置されている。魚を獲るための簗をしかけるため水中の塵芥を堰いてあるのか。単純素朴な叙景歌に見えて、原因の夕立を見せず、結果の波だけで暗示する。詞華集の夏に入選、但し「題知らず」で、結句は「立ちさわぐなり」。言うまでもなく家集の「こゑさわぐ」のほうが、水嵩を増した川を活写している、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 01, 2006

これもやと人里遠き片山に‥‥

Binotiteroune

-表象の森- 美のチチェローネ

 八朔、旧暦ならば新しく実った稲の取り入れの日であり、互いに贈答しあったりの祝い日だが、現在の盆時の贈答習慣である中元とは伝が異なるようだ。

 すでに返却期日がきていたヤーコブ・ブルクハルトの「美のチチェローネ」(青土社刊)を駆け足で読む。
ドイツロマン派の19世紀半ばに書かれた、イタリア美術案内の古典的名著の抄訳本だが、その簡潔な文章からブルクハルトの鑑賞を堪能するには、私自身において聖書や西欧史への知があまりに貧しすぎる。
それに加えて、ドイツ文芸学者とみられる編訳者の翻訳が、どうにも逐語訳めいた文章で、こういった美術評論・解説の類においてはいかがなものかと思われる。

 たとえば、ラファエロ(1483-1520)とほぼ時を重ね、パルマで活躍したというコレッジョ(1494-1534)の絵について、
「コレッジョはまず、人間の肉体の表面が薄明と反射の中で最も魅力的な光景を呈することを知っていた。
彼の<色彩>は肉体の色の中で完成し、空気と光における現象に関する果てしない研究を前提とする方法によってもたらされる。他の素材を特色づける際に、彼は技巧を凝らさない。全体の調和、移行の快い響きが彼にはもっと切実な問題なのである。
彼の様式の主要な特徴はしかしながら、彼の描く人物像の一貫した<流動性>にある。それがなければ、彼にとって生命も完全な空間性も存在しない。空間性の本質的な尺度は、動く人物像であり、しかも現実の完全な外見とともに動く人物像、それゆえ状況に応じて容赦なく<短縮された>人物像である。彼は先ず彼岸の栄光に立体的に計測可能な空間を与え、その空間を力強く波打つ人物像で満たす。――この流動性はしかしたんに外的なものではなく、それは人物像を内部から貫いている。コレッジョは神経組織のこの上なく繊細な活動を推測し、認識し、そして描く。
大きな線、厳密に建築学的な構図は彼においては問題にならない。雄大な開放的な美についても問題にならない。感覚的に魅力あるものを彼は豊富に提示する。あちこちで深く感じた魂が明るみに出る。その魂は現実から出発して、大きな精神的秘密を開示する。確かに雄大ではあるが、徹底して高貴で感動的で、無限の精神によって貫かれた苦悩の絵が彼にはある。ただ、それらは例外なのである。」

 と長く引用してしまったが、この箇所などは私がまだしもある程度理解しえて、且つ印象深い内容と感じている件りの一例なのだが、美術評論の専門諸氏ならば、もっと直截簡明に本意を伝えてくれるだろうに、と思われてならないのだ。名著として誉れ高いロングセラーだけに惜しまれる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-37>
 いとかくてやみぬるよりは稲妻の光の間にもきみを見てしが
                         伊勢大輔

後撰集、恋四。詞書に、道風忍びてまうで来けるに、親聞きつけて制しければ、遣はしける。
邦雄曰く、隔てられて逢えぬ恨みであろう。一目見たい、ただそれだけの悲しみを、喘ぐように、緩急強弱巧みに配して、歌う技法は見事だ。道風の歌も、やや離れた位置に入選、「難波女に見つとはなしに蘆の根のよの短くて明くるわびしき」。やや迂遠で真情が見えぬ、と。

 これもやと人里遠き片山に夕立過ぐる杉の叢(ムラ)立  慈円

六百番歌合、夏、晩立(ユウダチ)。
邦雄曰く、俊成判は「右の歌の「これもや」と置ける、心多くこもりて詞をかしく聞え、「杉の叢立」も好もしく見え侍れば、右尤も勝つとすべし」。左は顕昭法師。夕立と叢立の無造作な照応も、直線的な調べも、慈円の持ち味の一つで、華奢流麗に傾くこの時代に、雄々しさはまことに貴重な要素であろう。この年、作者はまだ38歳の男盛りであった、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« July 2006 | Main | September 2006 »