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July 31, 2006

わが恋はおぼろの清水いはでのみ‥‥

Geinoumihonichi20

-表象の森- 舞台芸術・芸能見本市から

 消費文化批判をしながら、29日もまたぞろ舞台芸術・芸能見本市へ。
いまどきのダンスシーンの思潮や傾向を、たとえ頭で解っているにせよ、観ておくに若くはないと、夕刻より連れ合いも幼な児も伴ってのお出かけと相成った。
やはりお目当ては円形ホール。今回から登場したという「720アワード」と題された公募のコンクールタイプの企画。720秒=12分という時間に、持てるものを精一杯詰め込んだ6人(団体含む)のパフォーマーが競演するというもの。
折角連れ立って来たものの、いざ会場が暗転となり、ノイズにも似た強い音が流れて、演目がはじまると、幼な児には耐えられず早くも固まって泣き出す始末。母親やその仲間が出演している場合は、その苦行にもなんとか耐えられるようになってはきたが、まったく馴染みのない他所様の世界は、まだどうにも受け容れられない様子で、初めの作品の12分で限界に達したとみえて、止むなく連れ合いは館外へと子どもを連れ出した。結局、連れ合いは後の作品をすべて見逃す羽目に。

 以下は簡単に印象批評。
1. ダンス 「モスラの発明」 出演-ウラチナ。
一組の男女によるDuoだが、動きはミミックでありつつ器械的に処理されている。二人がunisonで動きながら、時にズレ、ハグレする、その変化をアクセントにして構成されていく。その背後には物語性が浮かび上がるが、私とてそれをしもnonとする積もりはない。だがもうひとつ反転するほどの展開がないのは、どうしても作品を矮小化してしまうだろう。12分でもそれは可能な筈だ。

2. ダンス 「worlds」 出演-〇九
女2と男1、決して絡み合うことなく、ただひたすら葬列のごとく、或いはまったく救いのない難民のごとく、とぼとぼと歩く。悲しみにうちひしがれて、やり場のない怒りを抱いて‥‥。時に、抑えがたい激情が迸り、身を捩らせ、哭く、喚く、また、狂う。それでも、なお、旅は終らぬ、行き着く果ては知らず、やはり、歩き続けねばならない。といった世界だが、延々と変化なくひとつの色で演じ通す。独りよがりが過ぎるネ。

3. ダンス 「handance 開傷花」 出演-伊波晋
Handanceとは、反-ダンスであり、Hand Danceをも懸けた命名かと思われるが、たしかに動きは「手」が主役だ。腕-手-指がしなやかに特異に動く、それだけで一興世界を創り上げようという訳か。だがこのdancer、その意味では体躯に恵まれたとは言い難い。四肢が長い方とは言えそうにないし、掌も小さく指もまた短いほうだろう。それでもHandanceへの拘り止み難くといったところか、ほぼ定位置で、どこまでも「手」を主人に、上体をいくらか伴わせ、延々と演じなさる。こういった拘り方に心動かせたり衝撃を受けたりするような、そんな偏向趣味を、他人は知らす、私はまったく持ち合わせていない。

4. 大道芸 「SOUL VOICE」 出演-清水HISAO芸人
風船の中に全身を入れ込んでしまえるとは、たしかに驚かされた。この人自身の案出かどうかは知らないが、初めて観る者は一様に驚き、おおいに愉しむのはまちがいないだろう。球形の中に人を入れ込んでしまった風船が、いろんな形を採ったり、ジャンプしたり、おそらく懐中電灯をしのばせていたのだろう、胎内から発光したり、とまあいろいろと、此の世ならぬ幻想世界を生み出しては愉しませてくれる。この夜一番の見世物ではあった。

5. 演劇 「ラジカセ4台を用いたパフォーマンス」 出演-正直者の会・田中遊
4台のラジカセから主人公に対して、時に父であっり、母であったり、先生、友人et cetera、さまざまな役で言葉を突きつけ、絡んで、主人公をパニックに陥らせるといった、ちょっぴり不条理劇風のパフォーマンス。こうなってくると、このごろマスコミでも流行りのピン芸人たちの世界と、もう地続きで、境界はすでに無いといっていい。

6. ダンス 「オノマトペ」 出演-村上和司
村上和司は、1988年、近畿大学に創設された文芸学部の一期生で、今は亡き神澤和夫の薫陶を受けているそうな。タイトルの示すように、身体の、動きの、オノマトペを探し、試みるといった趣旨だろうが、まず仮面を着用したこと、そして後半は動きから発語へと転じたことによって、本来の狙いはなんら達して得ていない。ただ客受けのする方向へ流れたという他はない。前日のDance Boxのショーケースでも出ていたが、此方はなお身体への、動きへの拘りのなかで演じられていただけに、私としてはいささか拍子抜けだった。

と、こんな次第だが、ついでに前日観たDance Box ショーケースの出演者たちを書き留めておく。
安川晶子、sonno、j.a.m.Dance Theatre、吾妻琳、北村成美、花沙、クルスタシア、村上和司、モノクロームサーカス、Lo-lo Lo-lo Dance Performance Companyの10組。

 こうしてみると、固有名で活動している者の多いことが目立つ。団体名を冠していてもまったく個人同様の場合もある。
この二十数年、ダンス界の際立った現象は、脱カンパニー、ソロ・パフォーマーによる活動が、むしろ主流化してきたことから、特徴づけられるといっていいだろう。
80年代の演劇現象としては、誰もが戯曲を書く時代となり、座付作者を筆頭にして劇団が組まれ、それこそ雨後の竹の子のように小劇団が誕生しては消えてゆくという、溢れるほどに生成消滅を繰り返すようになったことで特徴づけられるが、この現象と軌を一にしたようなのが、ダンスにおける個人活動の主流化現象だ。
一言でいってしまえば、演劇を支える劇団のバブル、ダンスを支える舞踊家バブルのようなものだが、これで片付けてしまっては身も蓋もない。しかし、この変容の背景に経済のバブル現象がおおいに与っていることも指摘しておかねばなるまい。
誰もが容易に座付作者となって劇団を組む、或いは、誰もがソロパフォーマーとして固有名でダンスをする。モノを創る者へ、表現する者へと、出で立とうとするその垣根が低くなったことは、一概によくないとはいえないが、問題はその姿勢、そのあり方だろう。

 水は低きに流れるが自然の摂理だが、モノづくりや表現の世界は、低きに流れるに棹さすこと、逆らってあるのが使命とも言い得る筈だが、そんなことをなかなか感じさせてくれないのが、昨今のありようだ。私が前稿で「演劇も舞踊も、――、消費財の一つになってしまった」と記したのは、演劇や舞踊を観る側、享受者にとっての消費財ということではない。演じる側、踊る側、創り手のほうが、表現者たちのほうが、日常の中のもろもろを消費するがごとく、演劇を、舞踊を、消費しているという意味だ。
実際、モノづくりを日常に親しみ楽しみ且つ消費する、さまざまなモノづくり文化が、今日のように巷に氾濫するようになったのも、バブル期に一気にひろがったのではなかったか。その潮流が、若い世代では、演劇や舞踊に、或いは他のさまざまな表現手段へと、なだれ込む動機を形成してきたのだ。若い世代はとりわけエンタティメント志向だ。「よさこいソーラン」などの可及的な全国化ひとつみてもよくわかる。そのエンタティメント志向のモノづくり文化が、最近は幼児領域にまで及んできた。「ゴリエ」のブームはその典型といっていい。私は偶々テレビで「ゴリエ杯」なるものを観て、ほんとに吃驚した。少女世代のコミック・マーケット現象以来のカルチャー・ショックだった。

 とまれ、流れに棹さすこと、逆らってあるのは、いつの時代もそうだったとはいえ、いよいよ成り難く困難窮まる。金子光晴に倣えば、私もまた「絶望の精神史」を綴らねばならないのだろうが、私などはとても彼ほどの器ではない。「絶望」を語る資格を前に、絶望とはいいえぬ我れに意気消沈せざるをえぬ己が姿を、じっと耐えるのみか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-36>
 野島崎千重の白波漕ぎいでぬいささめとこそ妹は待つらめ
                        覚性法親王

出観集、恋、旅恋。
野島崎-淡路国の歌枕、淡路島北淡町野島の海岸あたり。
邦雄曰く、愛人はほんのかりそめの旅、すぐ帰ってくると思って待っていることだろう。だが「千里の白波」すなわち海上千里を漕ぎ出た身は、南溟をさして、あるいは唐天竺へ行くことになるやも知れぬ。歌が終って後に不安と悲哀の寄せてくるような万葉ぶりがめずらしい。鳥羽帝第五皇子、後白河院の2歳下の同母弟、と。

 わが恋はおぼろの清水いはでのみ堰きやる方もなくて暮しつ
                          源俊頼

金葉集、恋上、後朝の心を詠める。
邦雄曰く、京は愛宕郡、大原村草生にある小さな泉が「朧の清水」と呼ばれた歌枕で、寂光院のやや西にあたる。岩間洩る水を堰くことも得ぬ。昨夜の逢瀬のあはれを思い、思いあまりつつ一日を暮すと。恋もまた朧、悲しみは言うすべを知らぬ。俊成は後に次の俊頼の作を千載集恋歌の巻首に飾った。「難波江の藻に埋もるる玉堅磐(タマガシワ)あらはれてだに人を恋ひばや」、と。

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July 29, 2006

玉くしげ明くれば夢の二見潟‥‥

Geinoumihonichi

-表象の森- 地下鉄と舞台芸術・芸能見本市

 大阪発信の「舞台芸術・芸能見本市」も今年で7回目だという。
類似の企画が東京にもあるが、こちらは「東京芸術見本市」といい、11回目が来春3月開催の予定とか。
東京と大阪では、イベントスケールにおいても開きがあろうけれど、それよりも名称の違いに表れているように、大阪のほうが良くも悪くもごった煮感が強い。
その見本市に、初めて足を運んでみた。
たしか一昨年まではグランキューブ大阪(大阪国際会議場)が会場だったが、集客面の問題もあったのだろうか、昨年からOBP(大阪ビジネスパーク)に会場を移している。

 ちょうど昼時の、夏の盛りとなった炎暑のなか、ただ歩くさえ滅入るような消耗感に襲われる。
地下鉄四つ橋線に乗って、長堀鶴見緑地線に乗り換えた。南港ポートタウン線のニュートラムにしろ、この鶴見緑地線のリニアにしろ、あまり乗る機会がないのだが、車両の狭小さには乗るたびに閉口する。慣れからくる身体感覚というものはおそろしいもので、従来線の地下鉄や環状線の車両に慣れた身には、平日の正午ちかくだから乗客も少ないのだけれど、それでも狭い車内ゆえの圧迫感から免れえない。
ちなみに、大阪市交通局によれば、
在来地下鉄の車両寸法  長さ18.7m×幅2.88m×高さ3.745m
鶴見緑地線のリニア 〃 長さ15.6m×幅2.49m×高さ3.12m
となつており、それぞれ2割ほど縮小された空間に過ぎないといえばそうなのだが、容積にすればほぼ半分である。これではちょいとした不思議の国のアリスの世界だ。
大阪ビジネスパークの駅は、大深度というほどでないにしても、かなり地下深く潜っている。長いエスカレーターを二本乗り継いでやっと改札を出たが、さらに長い階段をあがってやっと地上に出たら、またもや炎熱の空。まだ梅雨明け宣言のない大阪の副都心は、うだるような蒸し暑さで不快指数もうなぎ上りの感。

 お目当ての円形ホールに着いたときは1時を10分あまり過ぎていたか。大谷燠が主宰するDanceBoxプロデュースの「関西コンテンポラリーダンス・ショーケース」はすでにはじまっていた。
ほとんどがsoloによる作品、なかにDuoが一つ二つ。10分前後の小品が次々と矢継ぎ早に演じられる。
「関西を拠点に国内外で活躍中の今最も注目すべきアーティスト10組を厳選、紹介」するという謳い文句を額面どおり受取るなら、コンテンポラリーダンスを標榜する昨今の若手・中堅の動向が、この舞台でほぼ了解できることになるはずだが、果たしてそうか。90年代以降、大谷燠のDanceBoxによる十数年の活動が、関西のダンスシーンを新たに作りかえてきたことは応分に評価されるべきところだが、今日舞台で演じられたこのアーティストたちの表現世界をもって、関西のダンスシーンを代表されるとなると、それではあまりにミニマムに過ぎないか。

 Contemporaryとは、「同時代の」、「現代・当世風の」といった意味だから、Contemporary-Danceといってみても、抑も抽象的にすぎて掴み所のない概念ではある。
70年前後、黒テントの佐藤信たちが、すでに既成勢力と化して旧態依然とした「新劇」を解体し、演劇性をもっと多様なものへと解き放つべく、「同時代の演劇」を標榜していたことがあった。60年代から70年代は、日本の政治的レベルにおいても、文学や美術や演劇などの芸術的レベルにおいても、まさに時代の転換期だったといえる。佐藤信たちが標榜した「同時代の演劇」は、この言葉自体が市民権を得ることはなかったけれど、彼らが遠望した射程は広く遠く、それこそ同時代のさまざまな演劇的現象と交錯、共振しあって、時代の変相のなかで演劇もまた大きく変様を遂げたといえる。
その点、90年代以降のダンスシーンでは、「Contemporary-Dance」が世界中を席巻して、猫も杓子もコンテンポラリーといった態で、もはや世界共通語化しているといっていい現象なのだが、多様化する個性は果てしのない細胞分裂を繰り返すがごとく、極小の世界にひたすら分立していく傾向に流れている。60年代、70年代と、80年代、90年代では、世界は大きく変転して、高度資本主義下の消費文明の勝利となったように、演劇も舞踊も、もちろん他の芸術たちも、巷に氾濫するたんなる消費財の一つになってしまったといえるだろう。
まこと、よくぞ舞台芸術・芸能「見本市」といったものである。消費天国ならではの命名のとおり、Contemporary-Danceにかぎらず、ものみなすべてただ消費されてゆくのだが、何故ここでとことん開き直って「蕩尽」へと立ち向かえないのか、それが絶対の岐路だろうと、時代おくれの小父さんなどには思われてしかたないのだ。

 長堀鶴見緑地線の車両の狭小さからくる身体感覚の違和や圧迫による不快感と、舞台芸術・芸能「見本市」の消費文化としての極小さが感じさせる違和と焦燥に、同じようなものを見てしまったハグレドリの暑い一日の記。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-35>
 玉くしげ明くれば夢の二見潟ふたりや袖の波に朽ちなむ
                         藤原定家

拾遺愚草、上、内大臣家百首、恋二十五首、寄名所恋。
邦雄曰く、定家53歳9月十三夜の作。この中の名所に寄せる恋は秀歌が多く約半数が勅撰入集。ただし最優秀と思われる「二見潟」は洩れている。玉櫛笥は蓋の枕詞、したがって二見との懸詞。「夢の二見潟ふたりや」の畳みかけるような、しかも細やかな技巧は抜群。「いかにせむ浦の初島はつかなるうつつの彼は夢をだに見ず」は、新拾遺集入選の名作、と。

 武庫の浦の入江の渚鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
                         作者未詳

万葉集、巻十五。
武庫-摂津国の歌枕。兵庫県、武庫川の西側、六甲山南側の旧都名。神宮皇后が三韓出兵の後、兵器を埋めたことに由来するという。
邦雄曰く、詞書には「新羅に遣はさえし使人ら別れを悲しびて贈答し、また海路にして情を慟み思ひを陳ぶ」と。武庫川の入江にたぐえられた男こそ新羅への使人、彼の懐で愛された女人が、悲しみのあまり贈った歌。答歌は「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを」。女歌の不安な二句切れと、激しい推量の響きは、男歌に遙かに勝る、と。

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July 27, 2006

きぬぎぬに別るる袖の浦千鳥‥‥

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-表象の森- 蝉と螢と人間と

 長梅雨もやっと明けて、一気に夏本番。
早朝、近くの公園の樹々の下をそぞろ歩くと、ひととき蝉時雨に包まれ、不意に異空間に滑り込んだかと思われるほどだ。
蝉たちのさんざめきは夏の一炊の夢にも似て儚いが、それにしてもこの大合唱の同期現象は造化の奥深さに通じている。

 4月頃に読んだのだが、マーク・ブキャナンの「複雑な世界、単純な法則-ネットワーク科学の最前線」(草思社刊)に出てきたホタルのファンタジック・スペクタル。
「パプア・ニューギニアの熱帯雨林の黄昏時、10メートルほどの高さのマングローブの樹々が150mほどにわたって川沿いに伸びるのをタブローにするかのように、何百万匹ものホタルが樹々の葉の一枚一枚に止まり、2秒に3回のリズムでいっせいに光を明滅させて、そのきらめきの合間には完全な漆黒の闇に包まれる」という。なぜホタルたちは同時に光を放つことができるのか。この驚くべき壮観な光景も、造化の不可思議、蝉時雨と同様、同期現象のなせるわざだが、これは我々人間における心臓のペースメーカーにも通じることだそうだ。

 人工ではない心臓のペースメーカーは大静脈と右心房の境目にある洞結節と呼ばれる部分の働きによるらしい。この心筋細胞の集まりは、心臓の他の部分にパルスを発信し、これが心臓の収縮を引き起こすもととなる。蝉時雨やホタルのファンタジック・スペクタルと同様、厳密に同期した信号を発生させ、それらの信号が各部位の細胞に伝えられたびに、心臓の鼓動が生じているということだ。心臓のぺースメーカーたる洞結節に不調が起これば、心拍は乱れ、たちまちに死が訪れることにもなる。

 先に紹介した「海馬-脳は疲れない」でも触れられていたが、最近の脳科学の知見においても、知覚の基本的な働きでは、脳内の何百万もの細胞が同期してパルスを発信させることが不可欠であることが明らかとなっているように、これもまた同様の同期現象ととらえうる訳だが、どうやら、自然界には組織化へと向かうなにか一般的な傾向があるようだと、「スモールワールド」をキーワードに最近のネットワーク科学を読み解き、さまざまな視点から紹介してくれているのが、本書「複雑な世界、単純な法則」だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-34>
 知らせばやほの三島江に袖ひちて七瀬の淀に思ふ心を  源顕仲

金葉集、恋上、忍恋の心を詠める。
邦雄曰く、「七瀬の淀」は万葉の「松浦川七瀬の淀はよどむとも」等にみる「数多の瀬」を意味し、固有名詞にあらず。ほんの一目の恋に、涙にくれる日々ながら、思いよどんで告げるすべさえ知らぬと悲しみを訴える。「明日香川七瀬の淀」とともに松浦川のほうも歌枕と解する書もあるようだが、この歌、第二句に摂津の歌枕「三島江」が懸詞として現れるから関りあるまい、と。

 きぬぎぬに別るる袖の浦千鳥なほ暁は音ぞなかれける  藤原為家

中院集、元仁元(1224)年恋歌、海辺暁恋。
邦雄曰く、最上川河口の「袖の浦」は、古歌に頻出する「袖」の縁語として、殊に恋歌に愛用された。新古今・恋五巻首の定家「袖の別れ」は、ここに「浦千鳥」となって蘇り、霜夜ならぬ未明の千鳥は忍び音に鳴き、かつ泣く。後朝の癖に「暁は」と念を押すあたりに、為家らしい鷹揚な修辞の癖をみるが、「きぬぎぬ=衣々」と「袖の浦」の縁語は意味深い。

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July 26, 2006

近江にか有りといふなる三稜草‥‥

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-表象の森- 非協力という抵抗

 「その写真は、最近まで、とこかに保存されてあった。それは、僕のむつきのころの俤だが、それをみるたびに僕は、自己嫌悪に駆られたものだった。まだ一歳か、二歳で、発育不全で、生っ白くて元気のない幼児が、からす瓜の根のように黄色くしわくれ痩せ、陰性で、無口で、冷笑的な、くぼんだ眼だけを臆病そうに光らせて、O字型に彎曲した足を琉球だたみのうえに投出して、じっと前かがみに坐っている。この世に産み落とされた不安、不案内で途方にくれ、折角じぶんのものになった人生を受取りかねて、気味わるそうにうかがっている。みていると、なにか腹が立ってきて、ぶち殺してしまいたくなるような子供である。手や、足のうらに、吸盤でもついていそうである。」

 金子光晴の「絶望の精神史」「詩人-金子光晴自伝」(両者とも講談社文芸文庫)と、牧羊子著作の「金子光晴と森三千代」をたてつづけに読んでみた。
いかにも刺激的な幼少期における環境の変転ぶりと、繊細で気弱な一面と頑ななまでの劇しい性格の矛盾相克が、異邦人としての破天荒なまでの放埒と放浪を生み、非協力を貫き通した抵抗詩人たる独自の詩魂にまで結実し、金子光晴的唯我独尊の、かほどの光彩を放ったかと、相応に合点もいったが、したたかにぐさりともきた。

 「非協力――それが、だんだん僕の心のなかで頑固で、容赦のないものになっていった。」という彼は、ずっと慢性生気管支カタルを病んでいた病弱な息子にまで招集令状が来たとき、徹底した忌避作戦に出る。息子を部屋に閉じこめて生松葉でいぶしたり、重いリュックを背負わせ夜中にやたらと走らせる。また、ひどい雨の中を裸で長時間立たせたりと、あらゆる手を尽して、気管支喘息の発作を起こさせようとするのである。首尾よく医師の診断書を手にした彼が、軍の召集本部まで出向いて、やっとのことで応召を一年引きのばしてもらえたのが、敗戦もまじか、昭和20年3月の東京大空襲のあった日だったという。

 「日本人について」という小論のなかで彼はこうも言っている。
「人間の理想ほど、無慈悲で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間を見殺しにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悲惨から身をまもることができるかもしれない。理想とは夢みるもので、教育や政治に手渡された理想は、無私をおもてにかかげた人間のエコでしかない。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-33>
 よしさらば涙波越せたのむともあらば逢ふ夜の末の松山  正徹

草根集、十二、康正元年十月、百首の歌を祇園の社に奉る中に、不逢恋。
邦雄曰く、海の潮ならぬ涙の波が松山を越えよと歎く。初句切れの開き直ったような、その言葉もすでに涙に潤んでいるのも巧みな技法の効果であろう。「あらば逢ふ夜」は、むしろ「世」すなわち一生の趣が濃く、絶望の色さえ漂う。「かたしくも凍れる袖の湊川なみだ浮寝に寄る船もなし」が「冬恋」の題で見え、これも技巧の勝った歌である、と。

 近江にか有りといふなる三稜草くる人くるしめの筑摩江の沼
                         藤原道信

後拾遺集、恋一、女の許に遣はしける。
天禄3(972)年-正暦5(994)年。太政大臣為光の子。母は伊尹の女。従四位左近衞中将にいたるも23歳で夭折。歌名高く、大鏡などに逸話を残す。拾遺集以下に49首。小倉百人一首に「明けぬれば暮るるものとはしりながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」が採られている。
三稜草(ミクリ)-ミクリ科の多年草。沼沢地に生える。球状の果実を結び、熟すと緑色。
筑摩江(ツクマエ)-筑摩神社のある現・滋賀県米原市朝妻筑摩あたりの湖岸。
邦雄曰く、朝妻筑摩の筑摩江には菖蒲や三稜草も生うという。繰る繰る三稜草のその名のように、人を苦しめるだけの女であった。大鏡にその名を謳われたいみじき歌の上手、貴公子道信は23歳を一期として夭折する。それゆえに、なおこの呪歌は無気味である。その苦しみは近江=逢ふ身につきまとう業と、作者は諦めつつ、なほ女を恨んでいた、と。

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July 24, 2006

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の‥‥

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-表象の森- 紫色の火花と芥川の自殺

 昭和2(1927)年の今日、7月24日未明、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」なる言葉を遺して自殺したのは芥川龍之介。薬物による服毒自殺だが、35歳というまだ若い死であった。
芥川の忌日を「河童忌」というようだが、もちろん晩年の作品「河童」に因んでのこと。
龍之介の実母は、彼の生後7ヶ月頃、精神に異常をきたしたといわれ、それ故に乳飲み子の彼は、母の実家である芥川家に引き取られ、育てられたというが、そのことが龍之介の内面深くどれほどの影を落としたかは想像も及ばないが、彼の憂鬱の根源にどうしても強く関わらざるを得ないものであったろう。

 久米正雄に託されたという遺作「或阿呆の一生」は彼の自伝とも目される掌編だが、いくらか脈絡の辿りにくい51のごく短い断章がコラージュの如く配列されている。
例えば「八、火花」と題された断章、
 「彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は相変わらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」
彼の命と取り換えてでも掴みたかったという、「紫色の火花-凄まじい空中の火花」が何であったかはいかようにも喩えられようが、同人雑誌に発表するという懐に抱いた彼の原稿が、その一瞬に輝いた閃光に照射されるという僥倖が、ここで自覚されていることはまちがいあるまい。
だが、彼を生の根源から揺さぶる憂鬱は、その僥倖さへなおも生き続けることへの力と成さしめなかったようで、「四十四、死」では、
 「彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死しようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。」
と書かしめ、最終章の「五十五、敗北」へとたどりゆく。
 「彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。」
この稿了は昭和2年6月と打たれているが、すでに久しく彼の生と死はまだら模様を描き、ただその淵を彷徨いつづけているのみ、とみえる。
7月24日の龍之介の自殺が、早期の発見を自身想定した狂言自殺だったとの説もあるようだが、よしんば事実がそうであったにせよ、この遺稿を読みたどれば、その真相の詮索にはあまり意味があるとも思えないし、後人が狂言説を喧しく言挙げしないのも納得のいくところだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-32>
 見し人の面影とめよ清見潟袖に関守る波の通ひ路  飛鳥井雅経

新古今集、恋四、水無瀬の恋十五首歌合に。
邦雄曰く、歌合での題は「関路恋」、本歌は詞花・恋上、平祐挙の「胸は富士袖は清見が関なれや煙も波も立たぬ日ぞなき」。袖の波とは、流す涙の海の波。番(つがい)、左は家隆「忘らるる浮名をすすげ清見潟関の岩越す波の月影」で、持(じ)。いずれも命令形二句切れの清見潟ながら、右の本歌取りの巧さは比類がない。この歌のほうが新古今集に採られたのも当然か、と。

 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間ぞなき
                        二条院讃岐

千載集、恋二、寄石恋といへる心を。
邦雄曰く、源三位頼政の女、讃岐は、この代表作をもって「沖の石の讃岐」の雅称を得た。家集に「わが恋は」として見え、千載集選入の際、選者俊成が手を加えたものか。「わが恋は」のほうが、より強く、しかも「乾く間」に即き過ぎずあはれは勝る。父の歌にも、「ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに」があり、併誦するとひとしおゆかしい、と。

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July 22, 2006

いさ知らず鳴海の浦に引く潮の‥‥

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-表象の森- 古層の響きと近代ナショナリズム

 昨夜(7/21)は、「琵琶五人の会」を聴きに日本橋の文楽劇場へ。
毎年開催され、今年でもう17回目というから平成2(1990)年に始まったことになるが、私が通い出してからでも6年目か、7年目か?
文楽劇場3階の小ホールは、その名の通り小ぶりで席数160ほどだから100名余りも入れば、まあ淋しくはない。このところ降り続いた豪雨も午後からはあがったせいか、開演前から客足は好調と見えて空席は少ない。
大阪やその近郊で活躍する琵琶五人衆のこの会は、薩摩琵琶の中野淀水、杭東詠水、加藤司水と、筑前琵琶の竹本旭将、奥村旭翠で構成されているから、四弦の薩摩と五弦の筑前を聴き比べられる点もうれしいことではある。

今夜の演目は、中野淀水の「河中島」で幕を開けて、
二番手に、杭東詠水が「本能寺」を、
つづいて加藤司水の「小栗栖」と、薩摩が三番並び、
四番手に竹本旭将が「関ヶ原」を、
そして紅一点の奥村旭翠が「勝海舟」で切りを務める。
「河中島」は、信玄と謙信と「川中島」のことだが、これを作した錦心流の祖・永田錦心が他の「川中島」と区別するため「河」の字を用いたらしい。
「小栗栖(おぐるす)」は明智光秀が最期を遂げた所縁の地で、現在の京都市伏見区小栗栖小坂町に「明智薮」と呼ばれる碑がある。
「勝海舟」は、江戸城無血開城を決した西郷隆盛との両雄対決の場面。

ざっとした感想だが、この二年ばかり、語りに枯淡の味わいを滲ませるようになった旭将さんは、そのレベルを維持しているように思える。演奏には定評あるものの語りは未だしの加藤君は、演目の所為もあろうけれど、哀調の音色を少しく響かせてくれた。

琵琶の音色は古層の響きをかすかに伝えてはくれるが、四弦の薩摩と五弦の筑前においてその楽曲は些か異なれど、ともに明治の富国強兵盛んな日清・日露を経た世相を反映して、近代ナショナリズムを色濃く蔵している。
平家の諸行無常の響き、滅びゆくものの哀調よりも、むしろ太平記的軍記物、武勇伝の類を題材としたものが多い。要するに、さまざまな地域に埋もれた中世以来の伝承芸能だった琵琶世界も、明治末期から大正期にかけてのナショナリズム的思潮のなかで、近代化の装いを凝らしつつ復活再生させたわけであるが、それは伝統の古い楽器を用いた新しい文化様式だといったほうが相応しいのかもしれない。しかも当時作られた新しいレパートリィ群は、主題も曲想も語りの技巧も似たり寄ったりで、ほぼおしなべてステロタイプ化している。それだけに琵琶の語り芸が本来有していたはずの古層の響きを、現在われわれが聴くことのできる多くの弾き語りからは表面だって聴き取ることは難しい。それは琵琶という楽器そのものがどうしてももってしまわざるをえない音の質として、通奏低音のようにかすかに響き、ナショナリズム化した主題も曲想も語りの技巧をもほんの少しだけ裏切りつつ、聴く者たちにほのかな余韻を残すのだ。
古いものが新しい皮袋に盛られるのは、歴史の常とするところだが、そろそろこの琵琶の弾き語りの世界も、温故知新とばかり、大きく反転させる必要があるのではないかと、私などは頻りに思わされる。決してもういちど新しくなれというのではない、むしろほんとうに古くなって貰いたいものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-31>
玉津島磯の浦みの真砂にもにほひて行かな妹が触れけむ  柿本人麿

万葉集、巻九、挽歌、紀伊国にして作る歌四首。
邦雄曰く、紀伊国の歌枕玉津島、その玉が「真砂」と響き合って、「妹」がさらに匂い立つ。「匂ふ」には元来、まず第一に草木や赤土などの色に染まる意があった。彼女の触れて通った海岸の砂ゆえに、わが衣も摺りつけて染めていきたいほどだとの、愛情表現であったろう。「いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも」も挽歌四首の中の作、と。

 いさ知らず鳴海の浦に引く潮の早くぞ人は遠ざかりにし  藤原為家

続古今集、恋五、六帖の題にて歌詠み侍りけるに。
邦雄曰く、この歌、続古今・恋五の終り、すなわち恋歌の巻軸に置かれた。潮の退くように人の愛情も引いていった。冬の千鳥で歌枕の名の高い鳴海の海が、恋の終幕の舞台になったのもめずらしい例の一つ。初句切れの「いさ知らず」と結句の連体形切れが、心細げに交響して、これまためずらしい細みのあはれを奏でているところ、巻軸歌としての価値があろう、と。

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July 21, 2006

夢のうちに五十の春は過ぎにけり‥‥

Kaiba

-表象の森- 「海馬-脳は疲れない」

 新潮文庫版「海馬-脳は疲れない」は、とにかく解りやすく、面白くてためにもなる。新進気鋭の脳科学者・池谷裕二と糸井重里による対談で、脳と記憶の最新の知見に触れながら、老若を問わず読む者をあかるく元気にしてくれる本といえる。初版単行本は糸井重里の「ほぼ日ブックス」で2002年7月刊だが、新潮文庫版はその後の追加対談も増補して昨年6月に発刊、すでに20万部を突破しているというからベストセラーといっていい。
池谷裕二物としては出版のあとさきが逆になったが「進化しすぎた脳-中高生と語る大脳生理学の最前線」(朝日出版社)をたしか刊行直後に読んでいるが、こちらはアメリカのハイスクールの生徒たちを相手にレクチャー形式でディスカッションを交えながら、柔軟性に富んだヒトの脳のメカニズムについて語って、先端の脳科学に触れ得たが、解りやすく面白く読める点では本書が数倍するのは、やはり聞き手・糸井重里の引き出し上手の所為だろう。

 あとは煩瑣を省みず長くなるけれど、本書よりアトランダムなピックアップ・メモ
脳がコンピュータと決定的に異なる点は、外界に反応しながらどんどん変容する自発性にある。すなわち脳はその「可塑性」において、経験、学習、成長、老化と、人の本質ともいえる変化の相を生きる。-脳の「可塑性」という事実は、個人のだれもが潜在的な進化の可能性を秘めているということであり、個を超えた「可塑性の普遍性」は科学的に実証されている。
「ホムンクルス」の図、1950年、カナダの脳神経外科医ペンフィールドによる、大脳皮質と身体各部位の神経細胞関連図。-好きか嫌いに反応する「偏桃体」と、情報の要不要の判断をする「海馬」とは隣り合っていてたえず情報交換している。-好きなことならよく憶えていて、興味のあることなら上手くやってのけられるのも、脳機能の本性に適っている。-宗教の開祖はみんな喩え話上手なのは「結びつきの発明」に長じているから。-ものや人との結びつきをたえず意識している力、コミュニケーション能力の高い人、一流といわれるような凄い人は、みんな自分流ではあってもお喋り上手で、「結びつきの発明」能力が豊か。-脳自体は30歳や40歳を超えたほうが、むしろ活発になり、独特なはたらきをするようになる。つながりを発見する能力が飛躍的に伸びる。-すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期であり、推理力も優れている。-ネットワークを密に深めていくことはどんなに年齢を重ねても、どんどんできる。
脳は1000億もの神経細胞の集合体だが、その98㌫は休火山のごとく眠っている。-神経細胞を互いにつなぐシナプスによる網状のさまざまなパターン、その関係性が一つ一つの情報であり、感情をつくり、思考を形成している。-「脳は疲れない、死ぬまで休まない」-夢は記憶の再生であり、夢も無意識も、tryとerrorの繰り返しを果てしなく続けて、いろいろな組み合わせをしている。-脳は刺激がないことに耐えられない。何の刺激もない部屋に二、三日放置されると、脳は幻覚や幻聴を生み出してしまう。-脳は見たいものしか見ない、自分の都合のいいようにしか見ない。
「海馬は増える」-脳はべき乗でよくなる。-方法的記憶=経験メモリーどうしの類似点を見出すと「つながりの発見」が起こって、急に爆発的に頭のはたらきがよくなっていく。-「脳の可塑性」、人間の脳の中で最も可塑性に富んだところが海馬。-海馬は記憶の製造工場、海馬の神経細胞は、ほぼ1000万個くらいだが、一つ一つの神経細胞が2~3万個の他の細胞とつねに連絡を取っている。-人は一度に7つのことしか憶えられない。Working-Memory=現在はたらいている記憶(短期記憶)の限界は7つ程度。-記憶は海馬の中に貯えられのではない、情報の要・不要を判断して、他の部位に記憶を貯える。-いろいろな情報は海馬ではじめて統合される。-脳の神経細胞は死んで減っていく一方だが、海馬では細胞は次々と死んでもいくが、次々と生み出されてもいる。その需給バランス次第で、海馬は全体として膨らんでもいく。-海馬と偏桃体の密接な関係は、好きなものは憶えやすいというように、偏桃体を刺激、活性化すると、海馬も活性化される関係にある。海馬は、偏桃体の感情を参照しながら情報を取捨選択していく。-ある一人の人間がその人である痕跡が残るように「入れ替えをしない構造」=固有性=を脳はつくるのだが、唯一、海馬は入れ替わるという不思議。しかもその海馬が記憶をつかさどるのである。-海馬にとって最も刺激になるのが「空間の情報」であり、絶えず偶発性の中に身を置いている状態は、海馬にとって刺激的であり、神経細胞の死と生が間断なく繰り返される。
クリエイティブな作業は脳への挑戦。-経験をすればするほど飛躍的に脳の回路が緊密に複雑になる。-凡人と天才の差よりも、天才どうしの差のほうがずっと大きい。-刺激を求めてはいるが、同時に安定した見方をしたがるのが脳の習性である。創造的な作業は、画一的なほうへと流れやすい脳への絶えざる挑戦であり、脳の高度化への架け橋となる。
シナプスの可塑性-海馬における可塑性は一つ一つの神経細胞に数万あるというシナプスにある。-ものを憶えるWHATの暗記メモリーとものの方法を憶えるHOWの経験メモリーでは、HOWの経験メモリーが重要。-眠っているあいだに考えが整理される。海馬は今まで見てきた記憶の断片を脳の中から引き出して夢をつくりあげる。朝起きて憶えていられる夢は1%もないといわれるが、夢というのは記憶の断片をでたらめに組み合わせていく作業であり、もし多くの夢を憶えていたら夢と現実の区別がつかなくなって、日常生活に危険が伴う。-睡眠は、きちんと整理整頓できた情報をしっかりと記憶しようという、取捨選択のプロセスなのだ。-眠っているあいだに海馬が情報を整理することを「レミネセンス(追憶)というが、この作業によって、突然、解らなかった問題が解けたり、なかなか弾けなかったピアノの曲が、次の日にすらすらできるようになったりする。
おなじ視覚情報が入ってくるにも拘わらず、認識するためのパターンの組合せが違う。だからそれぞれの人の見方に個性が出るわけだし、創造性が生れる。-認識のための基本パターンは現在のところ500くらいだとされているが、それだけでも、その中から適当に10個組み合わせるだけでも、10の20乗くらいの膨大な組合せが成り立つ。
カート・ヴォネカットが言う「世界は酸化していく歴史である。あらゆるものは酸化していく。」-酸化するプロセスは、「腐る」ということとほぼ同義であり、人間も酸化するプロセスで年を取るのではないか、と提唱されている。-「やる気は側坐核から生れる」が、自分に対して報酬があるとやる気が出るもので、達成感が「A10神経」という快楽に関わる神経を刺激して、ドーパミンという物質を出して、やる気を維持させる。-偏桃体を働かせ、感情に絡むエッチな連想をすると物事を憶えやすい、ということもある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-30>
 夢のうちに五十の春は過ぎにけりいま行く末は宵の稲妻 藤原清輔

清輔朝臣集、述懐。
邦雄曰く、知命までの歳月はたちまちに過ぎたと言う。清輔の五十年が「夢」であったはずはない。父の顕輔と不和が続き、鬱々たる日々を生きていた。「行く末は」と歌った時、十年先の永万元(1165)年、二条天皇崩御のため折角選進した続詞花集が、勅撰集とはならぬ憂き目に遭うのを、一瞬のうちに予感したのではあるまいか。清輔一代の秀作である、と。

 吹く風の目に見ぬ色となりにけり花も紅葉もつひにとまらで  慶雲

慶雲法印集、雑、寄風空諦。
生没年不詳、14世紀の歌人、二条為世門下で、兼好・頓阿・浄弁らとともに四天王と謳われた。
邦雄曰く、その昔、和泉式部は「秋咲くはいかなる色の風なれば」と歌い、定家は「花も紅葉もなかりけり」と歎じた。慶雲はいずれをも踏まえておいてさっと身をかわし、しかも題のような釈教的臭みもない。飄乎として麗しい一首を創り上げた。好ましい雑の歌として愛誦に耐えよう、と。

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July 19, 2006

底澄みて波こまかなるさざれ水‥‥

Ippenmokuzou

-表象の森- 承前・河野水軍の末裔、僧家と教職家系

 源平の戦いで名を馳せた河野水軍の河野氏は伊予国の豪族で、もとは越智氏と称し、伊予国越智郡を本拠とし、国郡制が定められてからは越智郡司として勢力を振るっていたとされる。
水軍を擁し源義経を助けて平家を壇の浦に全滅させた功績を認められて鎌倉幕府に有力な地位を築いたのは河野通信だったが、源家が三代で潰え、幕府が執権北条氏による支配となってからは、通信一族の殆どは後鳥羽上皇が新たに設置した西面の武士として参ずる。承久3(1221)年の後鳥羽上皇による承久の乱において朝廷方に味方したため、これに敗れた通信らは奥州平泉へと配流となっている。この事件によって河野氏の係累は没落の憂き目をみるのだが、唯一、通信の五男(?)通久のみ鎌倉にあって乱に荷担せず、その命脈を保った。所謂、元寇の第2次蒙古来襲(弘安の役-1281年)において、この通久の孫にあたる通有が戦功を立て、再び河野氏の勢いを盛り返した。以後、南北朝・室町・戦国の世を生き抜くが、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐に反抗した河野通直は所領を没収され、その二年後に没して河野氏の正系は断絶する。

 ところで、念仏踊をもって全国を遊行した時宗の開祖・一遍は、河野氏の出身であることはつとに知られていることだが、その一遍は河野通信の孫にあたり、父は通広といい通信の四男であるが、承久の乱の時はすでに出家(法名・如仏)していたか、或いは何らかの理由で乱に加わらなかったのであろう。乱後、一旦は捕えられるも、後に赦免されて無事だった。その通広の二男として生れた一遍は名を智真という。四国松山の道後温泉近くに宝厳寺という寺があるが、この寺は代々河野氏の菩提寺であり、通広(如仏)はこの別院に住していたというから、智真(一遍)の生地はその別院であろう。以前に訪ねたことがある宝厳寺では一遍の木像を拝したが、高さ113㎝ほどの、右足をやや前にして立ったその姿は、裾の短い法衣から素足のままに大地を踏みしめ歩くが如く、胸元で合掌した両手は慎ましやかながらも少しく前方へと差し出されるようにあり、印象深いものであったが、なにより強烈なのはその顔形骨相で、頬こけ痩せた顔つきながら、卑近な例を持ち出すならジャイアント馬場にも似て、異様な程に長く大きなもので、太い眉と伏し目がちなれど眼光は鋭く、鼻腔あくまで高く真一文字の口と相俟って、粛然と静かな佇まいにあって、観れば観るほどに此方を圧倒してくる強さがあった。なにしろ15年にわたって全国を遊行放浪した身であるのだから、余程頑健な体躯に恵まれていたのだろう。武士にあってはその恵まれた体躯も体力もまた出家の白き道をひたすら歩まんとする身には、人より何倍も煩悩多く業の深みとなって我が身を襲ったにちがいない、と思われるのだ。
一遍が従う時衆たちとともに遊行放浪した北限は、現在の岩手県北上市稲瀬町水越だが、この地には今も「聖塚」の名で残る小さな墳墓がある。祖父・河野通信の墓だ。一遍の死後、弟の聖戒が製作した「一遍聖絵」には、一遍とその一行20名余が一様に墳墓の周りにぬかずいている墓参の光景が描かれているが、この故事にちなんで後々に至るまで残ったのが「薄念仏」とされている。薄の穂の出揃う名月の頃、庭に薄を飾り、それを廻って円陣に念仏を唱えながら踊るという宗儀が、長く時衆では残されてきたと。

 おそらくは、河野氏の直系から一遍が登場したことは、以後その係累にとって陰に陽にさまざまに影響を与えてきたことだろうと推量される。時宗へと結縁する場合もあれば、他宗であれ出家して僧家へと転身する場合などさまざまあったのではなかろうか。
恩師・河野さんの親の代で僧家18代といえば、室町の終りか戦国の世に始まるのであろうか。代々の宗派が何であったかは、迂闊にも聞き漏らしたが、必ずしも時宗にかぎるまいし、一遍の時世からはすでに200年は経ていようから、宗派の別はさほど拘るところではあるまい。それよりも、室町の頃の時宗はすでに芸能民との結びつきがとくに色濃く、半僧半俗の聖や比丘たちの遊行民たちに支えられていくという一面が強くあることを考えれば、一遍の時宗はむしろ敬して遠ざけられる運命にあったかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-29>
 底澄みて波こまかなるさざれ水わたりやられぬ山川のかげ  西行

聞書集、夏の歌に。
邦雄曰く、水面に山河の投影を見てふと徒渉る足を止めた風情、「波こまかなる」とあるからには、その影も千々に崩れていたことだろう。旅の一齣が生き生きと描かれ、しかも心は風流に通う。「冴えも冴え凍るもことに寒からむ氷室の山の冬の景色は」は、夏にあって、厳しい冬の光景を思いやる作。四季を越えて、西行の人となりを映す歌の一例か、と。

 あつめこし螢も雪も年経れど身をば照らさぬ光なりけり  源具定

新勅撰集、巻二、述懐の歌の中に詠み侍りける。
生没年不詳、鎌倉初期の人。父は堀川大納言と称された源通具、母は藤原俊成女だが、若くして没した。
邦雄曰く、蛍雪の功もついに見られず、徒に努めたのみ、世に出ることは空しい夢となった。暗い諦めの歌の作者は、新古今きっての閨秀歌人俊成女と、別れた夫源通具の間に生れ、立身も果たさぬままに母をおいて世を去った。入選も二首のみ、いま一首は「春の月霞める空の梅が香に契りもおかぬ人ぞ待たるる」で雑一。母の歌の面影を伝える、と。

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July 17, 2006

暗きより暗き道にぞ入りぬべき‥‥

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-表象の森- 「押し紙」と新聞配達員の苛酷な雇用実態

 今日は十干十二支ひとめぐりして赤子となって2度目の私の誕生日だというのに、なんの因果か、暗いというか重い話題について書くこととなっってしまった。お読みいただく諸賢にはいつもお付合いいただいてただ感謝あるのみ。
2003年10月に刊行されたという同時代社刊の森下琉著「押し紙―新聞配達がつきとめた業界の闇」を読んだ。これを読んでみようと思うに至った経緯について書けばまた長くもなるので、とりあえず此処では省かせていただく。
本書は、静岡県のある大手新聞販売会社(この会社は専売店ではなく全国に珍しい多紙を扱う合売店)とそこで働く配達員たちとの間で、苛酷な労働条件や巧妙な搾取形態をめぐって争われた訴訟とその闘争記録である。

全国には約22,000店の新聞販売店と、その下で働く新聞配達員が専従社員・アルバイトを含めほぼ470,000人を数えるというが、この世界に稀なる戸別配達制度を明治以来支えてきた、各新聞発行社-販売店-配達員の三者間には、旧態依然たる弱者泣かせの構図が今なお本質的に改善されることなく存在し続けているのが実態であるようだ。
まず、販売店は新聞社に生殺与奪を一方的に握られている。慢性的な過当競争に明け暮れている新聞社は過大なノルマを販売店に課すのが常態化しており、強制的なノルマは大量の売れ残り-「押し紙」-を発生させるが、これが販売店の経営を圧迫し、販売店はつねに経営的に「生かさず殺さず」の状況に追い込まれている。
再販制度と特殊指定に守られている新聞の公称発行部数と実売部数には、各紙共に2~3割程度の開きがあることはなかば常識となっているが、この数字の殆どが新聞社から各販売店に半ば強制的に押しつけられたもので、販売店は購読契約数以外のまったく売れる見込みのないものを恒常的に買い取らされているわけで、これが「押し紙」というものの実態である。
一説によれば、公称1000万部という読売新聞では全体ベースで2割、朝日新聞では約3割、毎日新聞にいたっては4割近くもの「押し紙」があるという凄まじさだ。全国の日刊紙で総発行部数の約2割、約1000万部の新聞が右から左へと毎日古紙として処分されており、その新聞代金は買い取りとして販売店にのしかかっているのだから恐るべき搾取構造だ。

新聞社と販売店におけるこの弱者泣かせの搾取の構図は、そのまま販売店と配達員の間に苛酷な雇用形態となって反映せざるを得ない。
販売店に卸される新聞の買取り価格は概ね月極新聞代金のほぼ半額とされるが、なにしろ「押し紙」相当分も余分に新聞社に支払わなければならないのだから、これを経営努力で吸収しなければならない販売店は、主たる配達業務自体がすべからく人手に頼るしかない性質上、その配達員たちにしわ寄せがいかざるを得ないことになる。雇用実態は販売店によってさまざまではあろうが、早朝勤務というよりは深夜勤務というべきが実情にもかかわらず、その賃金は労基法に照らして最低水準かもしくはそれを下回る場合も十分にありうる。専従の社員ともなれば集金業務も兼ねることになるが、期日内集金が叶わず未集金ある場合は集金の担当者が立て替えなければならないというのが当然の如く押しつけられているようだ。うっかりと誤配をすれば罰金500円が科され給料から天引きされるという。500円という罰金は、少なくとも1ヶ月間の1戸あたりの配達料より大きい金額なのだ。要するに一度誤配をすれば、まるまる1ヶ月間その家への配達はただ働きの勘定となるばかりか、さらにマイナスを背負い込むということになるのである。
と、まあ数え上げればきりがないが、この世界には戸別配達制度が全国網を形成してきた明治以来の古い因習的体質が遺されたまま今日に至っているというのが、配達員たちの雇用形態の実情といえそうなのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-28>
 木の間洩る片割月のほのかにもたれかわが身を思ひ出づべき
                           行尊

金葉集、雑上、山家にて有明の月を見て詠める。
邦雄曰く、弓張月といえばなにか雄々しく、明るく感じられるが、「片割月」は冷たく暗く、衰微する趣あり。序詞に含まれた負の幻影は、下句の悲しみをさらに唆る。誰一人、自分を思い出してくれる人などいようかと、みずからに問うて打ち消す。「大峰の笙の窟にて詠める」と詞書した、「草の庵をなに露けしと思ひけむ盛らぬ窟も袖は濡れけり」も見える、と。

 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
                         和泉式部

拾遺集、哀傷、性空上人の許に、詠みて遣しける。
邦雄曰く、法華経化城喩品に「冥キ従リ冥キニ入リテ、永ク仏名ヲ聞カズ」とあり、これを上句に置いて上人へ願いを托したのだろう。調べの重く太くしかも痛切な響きを、心の底まで伝えねばやまぬ趣。長明はその著「無名抄」で、式部第一の名歌と褒めている。「第一」は見方によっては幾つもあるが、確かに女流には珍しい暗い情熱で、一首を貫いているのは壮観である、と。

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July 14, 2006

北山にたなびく雲の‥‥

0505120181

-表象の森- 河野水軍の末裔、僧家と教職家系

 私の小学校時代の恩師について二度ばかり触れたことがある。
一度は昨年の暮近く居宅訪問した際のこと、続いてはこの3月、彼の趣味の版画の会・コラゲ展についてと。
恩師の姓は河野、決して少なくない姓だが、念の為問うたことがある。ひょっとして先祖は河野水軍に連なるのではないですか、と。源平の屋島や壇之浦の合戦で勝敗の帰趨を制するほどの活躍をしたとされる村上水軍や河野水軍のことだ。
「家に系図なんて残ってないけれど、堺で父親の代まで18代続いた僧家で、昔、寺を焼かれて以後再建されることなく、代々寺を持たない僧侶の家系だったのは確か。」との答が返ってきた。
寺を焼かれたというのには歴史的背景があって、豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に占拠されるようになった堺の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堺の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長20(1615)年4月28日のことで、大阪城の落城はその十日後の5月8日であった。
寺は焼失したとて、檀家は残る。それが昔の寺請檀家制度である。
子どもの頃、堺は宿院の寺町界隈に住まいし、少林寺小学校に通ったという恩師の家は、代々続く檀家筋を頼りに、同じ宗門の寺に寄宿しながら、細々とはいえ僧家として糊口を凌いできたのではなかったか。
明治になって、祖父は僧をしながらだが、小学校の教壇に立ったという。父親もまた僧籍を有しながら、大阪市の小学校教員に奉職していた。昭和5年生れの恩師は天王寺師範学校(現・大阪教育大)を経て、やはり大阪市の小学校教員になったが、彼の場合はすでに僧籍はなく、教職一筋をまっとうする。
こうしてみると、明治の学制以来の、教職家系における一典型ともいえそうであるが、おまけに恩師の夫人は嘗て幼稚園教諭であり、夫婦の間には男子と女子の二子がいるが、男子は大阪府の高校教員だそうである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-27>
 北山にたなびく雲の青雲の星離(サカ)り行き月を離りて  持統天皇

万葉集、巻二、挽歌、天皇崩(カミアガリ)ましし時。
邦雄曰く、天武天皇崩御の時、後の持統天皇-鵜野皇后は長歌、短歌の幾つかをものした。万葉に伝わるもののうち、「星離り行き」は最も鮮麗で、それゆえに深い悲しみが伝わる。完璧無比の、恐るべき好伴侶であったこの人の、心の底の映っているような深い翳りをもつ挽歌だ。青雲が星を離れ月を離れるようにとは、自らを「太陰」とする心。凄まじい執念ではないか、と。

 蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙  慈円

新古今集、哀傷、無常の心を。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者32歳の厭離百首の「雑五十首」中の一首。要約するなら、いつ死ぬかはわからぬというにすぎないが、慈円の線の太い華やかな詠風は、墓場を指す「蓬生」に緑を刷き、曙の露には紅を含ませている。同五十首中の「雲雀あがる春の山田に拾ひおく罪の報いを思ふ悲しさ」も、無類の面白みを見せた述懐の歌である、と。

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July 13, 2006

忘られてしばしまどろむほどもがな‥‥

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-表象の森- 円空の自刻像

  作りおくこの福(さいわい)の神なれや深山の奥の草木までもや

 円空の詠んだ歌とされる。和讃などにも似て、歌の技巧など特筆するものはないが、信仰の心の深さや、木仏を刻みつづける思いの深さが沁みわたる。
円空の遺した歌は発見されたものだけでも1600首もあるそうである。ずいぶんの数だが、その殆どは古今集の歌を出典とする円空流替え歌だといわれる。6月20日付で書いたように、12万体造仏の発願から、鉈彫りで大胆な省略と簡素化をなした独創的な円空仏の世界に比して、歌は本芸にあらず余技というべきか。やはり円空はその木仏を愛でるに如くはないのだろう。

 画像は岐阜県萩原町(現・下呂市)の藤ヶ森観音堂に遺る「善財童子像」である。朝日新聞社出版の「円空-慈悲と魂の芸術展」写真集より心ならずも拝借した。
円空が遺したさまざまな「善財童子」像の多くは自刻像であろうとされている。所謂、木彫による自画像という訳だ。その円空の自刻像について五来重はその著「円空と木喰」において次のように解説してくれる。
「自画像や自刻像をつくる芸術家は少なくない。しかし山伏修験、あるいは遊行聖の自刻像は、芸術家のそれとまったく異質な動機から出ている。それは自己顕示のためではなく、衆生救済の誓願のために作るのである。禅宗では一休のように自画像を描くこともあるが、多くは授法のために、自分の肖像画を頂相(ちんぞう)として、画家または画僧に描かせる。これも仏相単伝の禅を人格として表現するのである。山伏修験は自己を大日如来と同体化して、即身成仏を表現する。また自らの誓願を具象化するために、自刻像を残すのである。この自刻像を自分の肉体そのもので作ったのが、羽黒山に多い「即身仏」、すなわちミイラである。それは自己を拝する者には諸願をかなえ、諸病を癒そう、との誓願を具象化したものである。円空はミイラを残さずに自刻像を残したのであり、「入定」によって誓願を果たそうとした。円空の自刻像は「入定」とまったくひとつづきの信仰であった。飛騨の千光寺の円空自刻像が、「おびんづるさん」として、撫でた部位の病を癒すと信じられたのも、このような信仰から理解されるのである。」

 円空仏をいろいろと鑑賞していると、私などは棟方志功の版画世界によく通じるものを、つい観て取ってしまうのだが、信仰-宗教心から発したものと、西洋近代の自我を通した表現-芸術的創造から発したものと、その似て非なることの一点は、やはり押さえておかなくてはならないのだということを、五来重はよく示唆してくれている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-26>
 忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む
                           中務

拾遺集、哀傷、娘におくれ侍りて。
邦雄曰く、亡き娘を思うあまり夜々泣き明かして眠る暇さえない。ほんの一時のまどろみがほしい。夢以外に見ることはもう不可能なのだから。悲嘆に苛まれる母の心を、ほとんど悩ましいほどに歌っている。中務は、また孫にさえ先立たれ、「うきながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな」を、この集に並べて採られた、と。

 恋しくは夢にも人を見るべきを窓打つ雨に目をさましつつ
                         藤原高遠

後拾遺集、雑三、文集の蕭々タル暗キ雨ノ窓ヲ打ツ声といふ心を詠める。
邦雄曰く、白氏文集の上陽人歌の中にある一句を踏まえての句題和歌。恋の歌というにはあまりにも淡々たるところ、高遠の性格が躍如としている。家集には「耿々タル残ンノ燈、壁に背ケタル影」を歌った、「ともしびの火影に通ふ身を見ればあるかなきかの世にこそありけれ」等、長恨歌・楽府等から句を選んでものした作品が、40首近く飾られ一入の趣、と。

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July 12, 2006

をりをりのその笛竹の音絶えて‥‥

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-表象の森- 「日本仏教史」を読む

 思想史としてのアプローチと副題された末木文美士著「日本仏教史」(新潮文庫)は、土着化した日本独自の仏教を思想史的に概括したものとして、なかなかの好著とみえる。
1949年生れの著者は現在東京大学大学院人文社会系研究科教授にある。本書の初版は1992(平成4)年、1996(平成8)年に文庫版化された。

同じ仏教でもインドとも中国とも異なる日本の仏教は、どのような変化を遂げて成立したのだろうか。本書では6世紀中葉に伝来して以来、聖徳太子、最澄、空海、明恵、親鸞、道元、日蓮など数々の俊英・名僧たちによって解釈・修正が加えられ、時々の政争や時代状況を乗り越えつつ変貌していった日本仏教の本質を検証。それは我々日本人の思想の核を探る旅」と解説されるように、近世江戸期、近代明治までをまがりなりにも射程に収めた日本的仏教の「歴史」の入門書であるが、その時代々々の多様な変容を通して、神道や儒教とも渾然と融和しつつ展開してきた日本的仏教の裾野の広さをよく把握しえる一書である。

今月の購入本
 金子光晴「絶望の精神史」 講談社文芸文庫
 金子光晴「詩人-金子光晴自伝」 講談社文芸文庫
 牧羊子「金子光晴と森三千代」 中公文庫
 梅原猛「京都発見(六)ものがたりの面影」 新潮社

図書館からの借本
 ドナ・W・クロス「女教皇ヨハンナ-下」草思社
 山本幸司「頼朝の天下草創-日本の歴史08」 講談社
 筧雅博「蒙古襲来と徳政令-日本の歴史10」 講談社
 五来重「円空と木喰」 淡交社
 長谷川公成・監修「円空-慈悲と魂の芸術展」 朝日新聞社
 辻惟雄・編「北斎の奇想-浮世絵ギャラリー」 小学館
 ジョルジュ・タート「十字軍-ヨーロッパとイスラム-対立の原点」 創元社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-25>
 榊葉のさらでも深く思ひしを神をばかけて託(カコ)たざらなむ
                         藤原顕綱

顕綱朝臣集。
邦雄曰く、家集には恋の趣ある歌群の中に紛れて、この一首が見える。榊は神の縁語で、意は
、熱愛したことの決して歎きはすまいとの、潔い断念であろう。別に、「斎院に人々あまた参りて詠むに」の詞書で、「神垣にさす榊葉の木綿(ユフ)よりも花に心をかくる春かな」他、榊葉の歌二首があり、顕綱の好みであろう。特殊な言語感覚の持ち主として記憶に値する、と。

 をりをりのその笛竹の音絶えてすさびしことのゆくえ知られず
                     建礼門院右京大夫

建礼門院右京大夫集。
邦雄曰く、ひめやかに暗く、縷々としてあはれな建礼門院右京大夫集の中で、この「笛竹の音絶えて」の一首は、一瞬眼を瞠らせるような、気魄と語気をもって他と分つ。院の側近が笛を吹き、作者がそれに和して琴を奏でた栄華の日の思い出。結句の烈しさは、今はすべて夢と諦め、敢えて涙は見せぬという心ばえを映したか。治承2(1178)年頃の物語、と。

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July 11, 2006

友と見よ鳴尾に立てる一つ松‥‥

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-表象の森- 三枝と地底旅行寄席と大和田さん

 今年も7月の地底旅行寄席は、恒例の桂三枝登場で客席も賑わうだろう。
今夜の午後6時からだ。
三枝と地底旅行寄席の所縁については以前にも書いたので省略。
この寄席を主催する旧・田中機械工場跡のレストランパブ地底旅行についても、さらに以前に書いた。
月例の寄席がすでに75回を数えるから6年余り続いたことになるが、こうして毎月のように案内と招待状を送っていただくのが、なかなか足を運べぬこの身には些か心苦しい。

60年代の労働争議、70年代の田中機械自己破産突破争議を率いた大和田幸治さんは、1926年生れというから今年は80歳になる。5年前に歴年の闘争を総括的に回顧した「企業の塀をこえて-港合同の地域闘争」(アール企画刊)を出版している。私が大和田さんの存在を知ったのは、彼が先頭に立った田中機械労働争議をモデルに描いた関西芸術座の「手のひらの詩」を観たゆえだった。関西芸術座の公演年譜によれば昭和46(1971)年9月のことになる。この芝居を通して大和田さんの為人(ひととなり)を想い描いていた私は、後年近づきになる機会を得た折り、まるで懐かしい旧知の人に会うように思えたものだった。このところ2年ばかりお目にかかることもなく打ち過ぎているが、きっと今なお矍鑠としてご健在であろう。また近い内にお元気な姿を拝せずばなるまいと思うのだが‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-24>
 友と見よ鳴尾に立てる一つ松夜な夜なわれもさて過ぐる身ぞ
                         藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄松恋。
邦雄曰く、古事記、倭猛の「尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば」を、秘かに踏まえた上句、下句にそのように「一夜一夜を」と歎く。「寄松恋」とあるが恋の趣はうすく、まして女人に代わっての詠とは縁が遠い。勿論「友」は「伴・同類」ょ意味するが、悽愴、凜冽の気の漂うところは、良経の特色まぎれもない秀作、と。

 ふるさとを恋ふる袂は岸近み落つる山水いつれともなし  恵慶

恵慶法師集、恋。
邦雄曰く、題の意は郷愁の強調でもあろう。落ちる涙と、岸に打ち寄せる山水と、袂を濡らすものはこもごもに、いま故郷の岸に近づく。常套と見えながら、意表を衝く趣向を秘め、作者の特徴がよく現れている。「春を浅み旅の枕に結ぶべき草葉も若き頃にもあるかな」等、家集には、折に触れて当意即妙の、淡々として味わいのある作品が見られる、と。

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July 10, 2006

わが屋戸のいささ群竹吹く風の‥‥

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-表象の森- 「文月会展」再び、と「観潮楼歌会」

 昨日は、いつもの稽古を終えてから、京都へと「文月会展」の再度の訪問。
先日は旧知の市岡OBたちとの飲み会が目当てのようなもので、独りで出かけたため、あらためて連れ合いと幼な児とを伴って、という次第。
展示会の終了間際の時間帯はごった返すほどに人が次から次へと詰めかけていた。なかに先輩のT.Kさんが居たのでしばし歓談。先日「きづがわ」の芝居を観たという。劇団代表の時夫が私の兄弟だろうとは思っていたが、双生児の片割れとはご存じなかったらしい。神澤に纏わる市岡関係者の相関図とでもいうべき話題に昔を思い出しつつ興じたが、絡み合った糸を手繰ればいろいろと出てくるものである。
その後はN夫婦とそれぞれ個別にお話。N氏の持病は「間質性肺炎」だと聞いた。私には耳慣れない病名だったので、帰ってから調べてみたが、これが「特発性間質性肺炎」ともなると難病-特定疾患となるらしい。肺胞壁の炎症硬化が漸進的に進むものらしいから、呼吸器系に負担のかからぬ、なにより養生の生活リズムが肝要なのだろう。ご本人の自重こそ大切だが、周囲の我々もまたよくよく配慮せねばなるまい。

 話題転じて、昨日は「鴎外忌」でもあった。
  「處女はげにきよらなるものまだ售(ウ)れぬ荒物店の箒のごとく」
森鴎外の「我百首」に含まれる歌という。明治42(1909)年5月の「昴」五号に発表されたそうな。
奇異な、アフォリズム風とでもいうのか、肩透かしの思わず笑いを誘うような歌ではある。森林太郎、時に47歳。
この年1月に「昴」が創刊された。4月には与謝野晶子の好敵手、山川登美子が30歳の若さで没している。
これより2年前、明治40(1907)年の3月から、与謝野鉄幹の「新詩社」と正岡子規の「根岸」派歌壇の対立を見かねた鴎外は、「観潮楼」と名づけた自宅に招いて毎月のように歌会を催し、両派の融和を図ったという。
明治の文壇・歌壇において一つのメルクマールをなしたこの「観潮楼歌会」は43(1910)年6月まで続けられ、当初は両派の領袖、与謝野鉄幹・伊藤左千夫など少数であったが、次第に「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派 の斎藤茂吉・古泉千樫らの新進歌人らが加わり、主人鴎外を中心に熱心な歌論議が交わされたと伝えられる。
鴎外の夢みた両陣営の融合は果たし得なかったが、そこに溢れた西欧文化の象徴的抒情性は白秋・茂吉・杢太郎ら若い人々に多くの刺激を与え、彼らの交流を深める動機となったといえるのだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-23>
 わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも  大伴家持

万葉集、巻十九、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。
邦雄曰く、天平勝宝5(753)年2月23日、同じ詞書の「春の野に霞たなびきうら悲し‥‥」の次にこの歌は並ぶ。25日の「雲雀」とともに、家持抒情歌の傑作と誉れ高い歌。この群竹には春の気配は全くない。たとえ感じられても所謂竹の秋、陰暦3月の趣に近かろう。3首の中ではもっとも陰翳の冷やかな侘びの味わいに溢れている、と。

 ほのぼのと山の端の明け走り出でて木の下影を見ても行くかな  源順

源順馬名合せ、一番。
邦雄曰く、馬名合せは自歌合せ。一番は「山葉緋」と木下鹿毛」の番(ツガイ)。曙光が山の端に現れ、樹々が次第に暗みから明るみに出る様を、馬に類えて活写している。言語遊戯の達人順ならではの趣向。二番は「海河原毛」とひさかたの月毛」の番。「雲間より分けや出づらむ久方の月毛窓よりかちて見ゆるは」等、20首10番は、目も彩な馬名が珍しく楽しい。

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July 08, 2006

風さむみ岩もる水はこほる夜に‥‥

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-表象の森- 五百羅漢

 過去に二度ばかり北条の羅漢寺(現・加西市北条町)を訪ねたことがある。
此処の五百羅漢の石仏たちは、すべてが素朴な形状でそれでいてわずかに表情はみな異なり、なにやら儚く侘しげで、黄昏迫る頃ともなると、郡立する羅漢たちに囲まれたわが身が、ふと彼らとともにあるかのような感懐をおぼえるのだ。
五来重の教えるところによれば、五百羅漢は江戸時代にいたって庶民信仰に広く浸透し全国各地に造立されるようになったという。
石仏にせよ木仏にせよ、その多くの羅漢のなかに肉親の死者の顔が見出され、ここに来れば亡き人に必ず逢えるという他界信仰に支えられている。九州の耶馬溪の羅漢寺五百羅漢のように、幽暗な山中の洞窟に納められているのは、もともと洞窟が黄泉路にかよう入口であるという信仰であり、その黄泉路の境においてこそ死者と生者の対面も可能となることを、視覚的に現実化したものだということになろう。

 
「五百羅漢の世界へようこそ」というサイトでは、全国の主だった五百羅漢の所在地を教えてくれる。
40ヵ所ほどが紹介されたこの資料によれば、前述の耶馬溪羅漢寺が14世紀頃に成ったとされる以外、大半が江戸時代に集中しているのだが、意外なことに、昭和の終りから平成にかけてのこの20年ほどの間、発願造立されているのが9ヵ所を数えているというのには驚かされる。
二、三百年の時を隔てたこの現代に、時ならぬ五百羅漢造立のブームが起こっている訳だが、その背景に潜むものが奈辺にあるかは容易に語り尽くせぬものがあろうけれど、こうして現代に新しく生み出される五百羅漢たちを訪れてみたいものだとは、正直なところ一向に思えない私ではある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-22>
 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ  安貴王

万葉集、巻三、雑歌、伊勢国にいでましし時。
邦雄曰く、伊勢の沖には雲白の波が花のように砕け散る。花であってほしい。包んで持ち帰って妻への土産にしようものを。波の花を胸に抱えて夢に妻の許へ急ぐ男。安貴王は志貴皇子の孫にあたる。8世紀前半の万葉歌人、「明日行きて 妹に言問ひ わがために 妹も事無く 妹がため われも事無く」と情愛を盡した巻四の長歌にも、その心ばえを見る。と。

 風さむみ岩もる水はこほる夜にあられ音そふ庭の柏木  飛鳥井雅世

雅世御集、永享九年七月、石清水社百首続歌、柏霰。
邦雄曰く、細々として冴えた用言の頻出、「もる・こほる・そふ」と異例の文体が、冬夜の身も凍るたたずまいを如実に伝える。この「柏木」は檜・椹(サワラ)などの常緑樹ゆえ、霰の飛白(カスリ)に配するに暗緑の喬木、厳しくただならぬ眺めである。寄原恋の「人知れぬ涙の露も木の下の雨にぞまさる宮城野の原」もまた、冷え冷えとした趣、と。

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July 07, 2006

紅の千入のまふり山の端に‥‥

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-表象の森- 下下の下国

  下下も下下下下の下国の涼しさよ  一茶

 ゲゲモゲゲ、ゲゲノゲコクノ、スズシサヨ と読む。
文化10(1813)年、一茶51歳の句作とされる。

 これより遡って、まだ江戸にいた頃、文化3(1806)年の「俳諧寺記」に、病身をかこつ忌々しさも手伝ってか、一茶らしい、赤裸に思いをぶちまけている一文がある。
「沓芳しき楚地の雪といひ、木ごとに花ぞ咲きにけるなどゝ、奔走めさるるは、銭金程きたなきものあらじと手にさへ触れざる雲の上人のことにして、雲の下の又其の下の、下下の下国の信濃もしなの、奥信濃の片隅、黒姫山の麓なるおのれ住める里は、木の葉はらはらと峰のあらしの音ばかりして淋しく、人目も草も枯れ果てて、霜降月の始より白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると、口々にののしりて、

  初雪をいまいましいとゆふべかな

 三、四尺も積りぬれば、牛馬のゆききはたりと止まりて、雪車のはや緒の手早く年もくれは鳥、あやしき菰にて家の四方をくるみ廻せば、忽ち常闇の世界とはなれりけり。昼も灯にて糸繰り縄なひ、老いたるは日夜榾火にかぢりつくからに、手足はけぶり黒み、髭は尖り、目は光りて、さながら阿修羅の躰相にひとしく、餓貌したる物貰ひ、蚤とり眼の掛乞のたぐひ、草鞋ながら囲炉裏に踏込み、金は歯にあてて真偽をさとり、葱は籠に植わりて青葉を吹く。すべて暖国のてぶりとはことかはりて、さらに化物小屋のありさまなりけり。」

  羽生えて銭がとぶなり年の暮

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-21>
 雄神川紅にほふをとめらし葦附採ると瀬に立たすらし  大伴家持

万葉集、巻十七、砺波郡の雄神川の辺にして作る歌一首。
雄神川-現在の庄川とされる。葦附(アシツキ)-薄緑色した淡水の海苔で、現在は天然記念物。富山県高岡市に庄川に添って葦附の地名を残す。
邦雄曰く、雄神川はその源飛騨の白川、雄神村を通って日本海に入る。紅の裳裾を水に映して、川海苔を採っている少女ら、初句、二句、三句でぶつぶつと切れる珍しい文体が、この鮮麗な風景を活かした。なによりも「雄神川」と「をとめ」の照応がすでに目の覚めるような美を生み、しかも「紅にほふ・をとめらし」と極度に省くこの手法、まことに印象的、と。

 紅の千入のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける  源実朝

金塊和歌集、雑、山の端に日の入るを見て詠み侍りける。
千入(ちしほ)-何度も染めること。
邦雄曰く、落日の紅さを、茜草の赤の染料に千度漬けて出した濃さに譬えた。絶句したような二句切れはその赤さをいよいよ鮮明にする。自らに言い聞かせるかの「空にぞありける」の思いの深さは、二句切れの間と見事に響き合い、単なる夕映えの眺めを、一種運命的な一幅の絵に生まれ変わらせた。作者の負った詩歌の栄光であり、同時に業であろう、と。

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July 06, 2006

水鳥の浮き寝絶えにし波の上に‥‥

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-表象の森- サラダ記念日

 今日7月6日は「サラダ記念日」だという。
一冊のベストセラーとなった歌集が記念日を産み落とすという日本の消費社会。超資本主義といおうと高度資本主義といおうと、当節、ホリエモンにしろ村上ファンドにしろ、私などにはよく解らぬが、禍々しくも怪異としか言いえぬようなことがいろいろとあるものだ。その伝ではサラダ記念日など微笑ましいかぎりで、罪のないカワイイものではないか、と言い捨てておけばそれでよいのかもしれない。
読売新聞が「サラダ記念日・短歌くらべ」なるコンテストを企画していた。応募総数が2148首、審査を俵万智独りがしたものかどうか判らないが、優秀賞11首、入選作20首が選ばれ公開されている。最優秀とされた、
  七月のレタスになりゆく吾の腹でねむれよねむれ児よもうすこし
の一首こそ些か肯かされる趣もあるかと思われるが、他の作はおしなべて低調、見るべきものを感じられぬ。企画・制作が東京本社広告局で、協賛がキューピー株式会社となっているところをみると、ちょいとした便乗ものに過ぎないから、まあ、作品の質云々などすべきではないのだろう。

 そういえばこの4月に読んだ、岩波書店刊の「短歌と日本人Ⅳ-詩歌と芸能の身体感覚」のなかで久田容子は、俵万智「サラダ記念日」ヒットの理由を「アメリカ的なライト感覚」と「日本的な泥臭さ」とのミックスや、「可愛い女」という保守的な面と「男を棄てる自立女」というクールでドライな面の両面を併せ持っていたこととしたうえで、それぞれ例歌となるものを紹介している。
  空の青海のあおさのその間(アワイ)サーフボードの君を見つめる
     -アメリカ的ライト感覚
  今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日
     -日本的泥臭さ
  気がつけば君の好める花模様ばかり手にしている試着室
     -可愛い女
  ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
     -自立した女
さらに、「サラダ記念日」人気のもう一つのカギは「物語性」の高かったこと。短歌の「一人称性」のもと、まるで若い女の青春小説のように読み進んでいけることにある、と結論づけていたが、成程わかりやすい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-36>
 水鳥の浮き寝絶えにし波の上に思ひを盡きて燃ゆる夏虫 藤原家隆

壬二集、文治三年百首、夏十首。
邦雄曰く、家隆29歳の作。「思ひ」の火が燃え盡きて、しかもなお燃え続けねばならぬ虫のあはれを見ている。第一、二句で夜の河を描き出し、夏虫の死處を創るあたり、技巧的だ。秀句表現的な第四句も十分に奏功した。「夏虫をいとふばかりの煙にもあはれは深し夕暮の空」は、十年後の建久8(1197)年の作で題は「蚊遣火」だが、第四句が常識にすぎ凡庸に近い、と。

 行く方も定めなき世に水早み鵜舟を棹のさすやいづこぞ 藤原義孝

藤原義孝集。
邦雄曰く、古歌の鵜飼詠は、十中八九まで題詠で、いわゆる実写ではないが、義孝の鵜舟はすでにこの世から流れ出て、異次元を指している。無常の世から滔滔と奔り出て、さて行く先は無間地獄か西方浄土か。期待と不安こもごもの切迫した調べは20歳で夭折した詩人の、ただならぬ詩魂のきらめきでもあった。棹さすは神ならぬ、また人ならぬ魔の類か、と。

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July 05, 2006

須磨の浦藻塩の枕とふ螢‥‥

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-表象の森- 七夕の「文月会展」

 今年も七夕の如く「文月会展」がやってきた。
すでに昨日からオープンして、9日の日曜まで。
馴染みとなっていた三条柳馬場の吉象堂から会場を移して、
 昨年からは三条木屋町の「ギャラリー中井」での開催となっている。
日本画専攻で、各々美術教育に長く携わってきた3人の仲間で出発したグループ展が
いつしか、トリオそれぞれの夫婦が共々に出品するようになって、
3組の夫婦6名のグループ展となった、変わった趣向の会だ。
私は今夜、旧い友人たちと示し合わせて、観に行くことにしている。

第20回 「文月会展」
7/5(火)~7/10(日) 
am11:00~pm7:00 最終日のみpm4:00迄
会場の「ギャラリー中井」へは
京都市中京区、木屋町通り三条を上がってすぐの東側。
Tell 075-211-1253

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-35>
 須磨の浦藻塩の枕とふ螢仮寝の夢路侘ぶと告げこせ  藤原定家

拾遺愚草、下、夏、海辺見螢。
藻塩-海藻から採る塩、また、藻塩つくるための海水
邦雄曰く、建仁2(1202)年6月、水無瀬釣殿当座六首歌合の作。折から一方では千五百番歌合が進行中の、新古今成立を間近にした、その夏の「螢」。伊勢物語第45段の「行く螢雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ」の本歌取り。これに在原行平の、さらには源氏の、須磨閑居の風情まで加味して生まれる重層効果を、篤と楽しむべき歌であろう、と。

 稲妻は照らさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ  相模

新古今集、恋五、題知らず。
いづら(何ら)-どこだ。相手を促すときの語、さあ、どうした。
邦雄曰く、恋の趣はほとんど見えぬ恋歌。「いづら・ほのかに見えしかげろふ」の陽炎が、かつて愛した人の面影、もしくは恋心の象徴となり、四季歌調の作に恋が宿る。眼の前には夜々を閃く雷光、心に顕つのは春の日の陽炎。拾遺・恋二の詠み人知らずに「夢よりもはかなきものは陽炎のほのかに見てし影にぞありける」とあるが、これならば恋だ、と。

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July 04, 2006

みだれゆく螢のかげや‥‥

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-表象の森- 再び「竹の花」

 国内紛争の絶えないネパールのポカラで、学校に行けない最下層の子どもらのために、自ら小学校を作り、現地で徒手空拳の奮闘をつづけている車椅子の詩人こと岸本康弘は、20年来の友人でもあるが、その彼には「竹の花」と題された自選詩集がある。
その詩集の冒頭に置かれた「竹の花」の一節、

  少年のころ ぼくは粗末な田舎家で竹やぶを見やりながら悶々としていた
  強風にも雪の重さにも負けない竹
  六十年に一度 花を咲かす竹。
  半世紀以上も生きてきた今
  ぼくも一つの花を咲かそうとしている

  阪神大震災の時 落花する本に埋まりながらストーブの火を必死で止めて助かった命
  壊れた家をそのままにして
  数日後 機上の人になり
  雄大なヒマラヤを深呼吸していた
  太古に大地を躍らせて生まれたヒマラヤ
  あの大地震もこの高山も天の啓示のように思えてきた
  それが語学校作りの計画へ発展していったのである。

  ――略――

  初めは十三人で 十日目には六十人になっていた。
  薄いビニールの買い物袋にぼくが上げたノートと鉛筆を入れて
  幼子が雨の竹やぶを裸足で走ってくる
  ぼくは 二階から眺めて泣いていた
  こんな甘い涙は生まれて初めてのように思われる

  帰国する前日
  子どもたち一人々々が花輪を作りぼくの首にかけてくれる
  おしゃか様になったね!と職員らがほほ笑む。
  夜
  ヒマラヤを拝んだ
  竹は眠っているようだった
  螢が一匹
  しびれが酷くなっていく手に止まった
  その光で
  ぼくの花が開く音がした

 彼がこの詩を書いてより、すでに8年の歳月が流れた。
この8月で69歳を迎えるという彼は、生後1年の頃からずっと手足の不自由な身であれば、
おそらくは、健常者の80歳、90歳にも相当する身体の衰えと老いを日々感じているはずだが、
命の炎が尽きないかぎり、ポカラの子どもらとともに歩みつづけるにちがいない。
60年に一度きり、あるいは120年に一度きり、一斉に花を咲かせ、種子を実らせて一生を終え、みな枯死する、という竹の花の不可思議な運命。
それはこのうえなく鮮やかで見事な生涯でもあり、残酷に過ぎるような自然の摂理でもあるような感があるが、竹の花に擬せられたかのような岸本康弘の生きざまにも、また同じような感慨を抱かされるのだ。

   ※ 参考HP:「きしもと学舎の会だより

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-34>
 みだれゆく螢のかげや滝波の水暗き夜の玉をなすらむ  冷泉為相

藤谷和歌集、夏、永仁2年内裏歌合に。
邦雄曰く、定家の孫、母は阿仏尼。仏国・夢窓国師とも交わりあり、冷泉家の祖となる作者ゆえ、この一首にも深沈たる重みあり、しかも暗い華やぎは類を絶する。ゆらりと闇に懸かるかの二句切れ、三、四句への息を呑むような律調も心に残る。「岩越ゆる沖つの波に影浮きて荒磯伝ひ行く螢かな」も珍しく、殊に第三句あたりに独特の工夫がある、と。

 後の世をこの世に見るぞあはれなるおのが炎串(ホグシ)の待つにつけても                                藤原良経

秋篠月清、百首愚草、二夜百首、照射(トモシ)五首。
邦雄曰く、良経の眼は常に、対象を透き通していま一つの世界を視ている。真夏の山中に鹿を射るための松明の火口に、点火されるのを待っている時も、作者のは後世、死後の光景がありありと見えてくるのだ。獄卒に逐われて、焦熱地獄に奔る自らの姿を、夏山の鹿に予感する、とまでは言わぬところが、さらに「あはれ」を深くしている、と。

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July 03, 2006

篝火の影しうつればぬばたまの‥‥

Nakahara0509181381

-表象の森- 「竹の花」

 60年とも120年とも諸説紛々、極端に長い開花周期とされる「竹の花」だが、講談社刊「日本の歴史09-頼朝の天下草創」を読んでいて、当時の大飢饉が、その竹の開花周期と因果関係を推測しうるのではないか、という興味ある説の記述があったので書き留めておきたい。

 そのまえに、竹林の生態に関する調査を踏まえた知見によれば、
竹の類は発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けるが、ある一定の時期に達すると、花を咲かせ、種子を実らせて一生を終え、みな枯死する。竹類は花を咲かせるまでの期間が大変長く、その開花周期は種類によって、また地域風土によって大きく異なり、その周期の長さゆえにまだこれまでに開花が確認されていない種類があるなど、現代にいたってなお、まさに神秘的な状況にあるという。
また、これまでに確認されている、日本の竹の開花周期については、次のような記録があるそうだ。
  モウソウチク   67年   横浜市、京都大学などで確認
  モウソウチク   67年   東京大学、京都大学 〃
  マダケ      120年   昭和40年代に全国的に記録
これによれば昔から流布されてきた60年説も120年説も事実に基づく根拠あることになるわけだ。

 さてそこで、前掲書の指摘する鎌倉期の飢饉についてだが、
「立川(りゅうせん)寺年代記」なる史書によれば、「寛喜3(1231)年夏、天下一同の飢饉」で、人々はふだん食べない馬牛の肉を食べたりしてしのいだが、天下の1/3は失われた、と記している。さらにこの記録で注目されるのは、「諸国大鼠多く出来し、五穀の実を喰らい失う」とある箇所である。鼠が大発生した原因についての記録はないが、あるいはこれは60年ないし120年に一回ともいわれる竹の花の開花・結実と関係するのではないだろうか。山野に栄養分の豊富な竹の実が稔ると、鼠が大繁殖し、竹の実だけでは足りずにやがては農作物を食い荒らすという現象は、すでに周知のことであり、同様の大量の鼠の出現は「民経記」にも記されている、というのである。
飢饉はさらに貞永元(1232)年に及び、5月に至っても京都では賀茂の河原に飢えに餓えた人々が溢れ、目を覆うばかりであった、とも記され、
鴨長明が「京ノウチ、‥‥路ノホトリナル頭(髑髏)、スベテ四万二千三百余ナンアリケル。‥‥モロモロノ辺地ナドヲ加エテ言ハバ、際限モアルベカラズ」と「方丈記」に書き記した養和(1181年)の飢饉に、勝るとも劣らない地獄絵図が現出したのである、と。
竹の花の開花-鼠の大量発生-凶作・飢饉の因果関係に、相応の科学的根拠が認められ、巷説、竹の花が咲くと異変、凶事が起こると昔より伝えられてきたことも、謂れのないことではなかったのだ。

 これは余談だが、写真家でエッセイストの藤原新也は、竹の花になぞらえて、人間という種の寿命にも、滅びの前兆が訪れているのかもしれないと語った、その1ヶ月後に房総半島の山中で偶々竹の花に遭遇したというが、その奇妙な符節に彼自身少なからぬ戦慄をおぼえたことだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-33>
 思ひあれば袖に螢をつつみても言はばやものを問ふ人もなし  寂蓮

新古今集、恋一、摂政太政大臣家百首歌合に、夏の恋の心を。
邦雄曰く、忍ぶる恋の心を螢にかこつけて打ち明けようか、この歎きをさて問うてくれる人もないと、まことに婉曲に訴える。螢と胸の思ひの「火」、夏の虫が「身より余れる思ひ」を持つこと、すでに伊勢物語第39段、源至の燈火の螢でも至妙な効果を表して、13世紀では詩的常識に過ぎない。寂蓮の螢の恋、やや角張った一種の句跨り的な調子が面白い、と。

 篝火の影しうつればぬばたまの夜河の底は水も燃えけり  紀貫之

玉葉集、夏、延喜6年、内の御屏風十二帖の歌、鵜河。
邦雄曰く、10世紀初頭、古今集成立前後の作品で、月次(ツキナミ)屏風歌の6月。絵をはるかに超えた贅で、現代の写真家でも、「水も燃えけり」の迫真生を表現するのは容易ではあるまい。眼前に見える対象そのものでなく、これが水に映った相を詠ずるのは、貫之の独壇場で、「水底に影うつればもみぢ葉の色も深くやなりまさるらむ」など、十首近くを家集に見る、と。

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July 02, 2006

ものおもへば沢の螢もわが身より‥‥

0511290102

-表象の森- 「度し難い」人

 条理を尽してもわからせようがない、どうにも救いがたい人というのは、滅多にお目にかかることはないけれど、それでも世間には居るもので、恣意性百パーセント、自分のエゴばかりが前面に出る、そういう人と関わり合いにならざるを得ない場合、面と向き合うには此方にも大きな精神的負荷がかかるし、かなりの覚悟を要するものである。
この数日間、まことに久しぶりにそういう場面に遭遇してしまっていたのだが、それがある決め事を求められている会合であれば致し方なく、その「度し難い」人を相手にどこまでも対決姿勢を貫いて、とにかくその場を納めたのだが、自分の思うようにいかなかったその人は憤懣やるかたないだろうし、私を恨みにさえ思っているかもしれない。やはり虚しい徒労感が残る。

 「度し難い」の「度」は漢語の「済度」からきているようである。「済度」+「し難い」の意。
「済」は「氵」+「斉」の形声。「斉」は神事に仕える婦人が髪に三本の簪を縦に通して髪飾りを整える形で、整え終る、の意味がある。「済」は水を渡って事が成るという意味から、成就(実現)する、成るの意味と、白川静はつたえる。
同じく、「度」は「席」の省略形と「又」とを組み合わせた形の会意。「又」は手の形で、「席」は手で敷物の席(むしろ)をひろげる形で、席の大きさを物差しとして長さや広さを測ることをいう。そこで「度」は、「はかる、ものさし」の意味となる。また席をひろげて端から端まで敷きわたすので、「わたす、わたる、こえる」の意味ともなる。さらには「ものさし」の意味から、法度(おきて・法律)、制度(きまり・おきて)のように「のり、おきて」の意味に用いる、という。

 サンスクリット語の漢訳語としての「済度」は、迷いの境界を去って悟りにいたることであり、その「済度」が「し難い」とは、おのれの妄執や妄念をよしとし、そこへ身を投じてしまって、他者を顧みず、まったく条理につくところがないのだから、とにかく始末が悪いこと夥しいのだが、また、こういう人に限って世俗的な権力者まがいであったりするので、自信過剰だったり、奇妙なほどエネルギッシュでさえあるから、日頃から関わりのある周囲の者たちはさぞかし大迷惑なことだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-32>
 ものおもへば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
                                    和泉式部

後拾遺集、雑六、神祇。
邦雄曰く、あまた愛の遍歴の後、藤原保昌と結ばれ、またその仲も疎くなる頃、貴船神社に詣でて「みたらし河に螢の飛び侍りけるを見て詠める」と詞書。魂が蛍火となって闇に燃えるのだ。貴船明神の返歌が並んで選入され、「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ」とある。男の声で式部には聞こえたと伝える。凄まじい霊感だ、と。

 蚊遣り火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人知れずのみ
                                    曾禰好忠

好忠集、毎月集、夏、六月はじめ。
邦雄曰く、新古今・恋一にも入選しているが、家集の「毎月集」、1年360首詠中に、夏の歌として現われるのは格段の面白みがある。片思いの苦しさと蚊遣り火を「こがれ」で繋いだところは、別に新趣でもないが、連歌を思わすような上・下の呼応が快い。「懲りなしに夜はまみゆる夏虫の昼のありかやいづくなるらむ」も続きの中の一首だが、上句が滑稽、と。

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