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June 30, 2006

さざれ石のおもひは見えぬ中河に‥‥

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-表象の森- 金子光晴をいま一度

 金子光晴の「こがね虫」や「鮫」などの初期詩編はともかく、その晩年についてはほとんど知らないにひとしい私だが、光晴忌に因んでネットに散見できるものをいくつか読みかじってみたところ、もともと初期詩編にかなりの衝撃を受けた身であれば、大いに惹きつけられ心が波立ったものである。彼が晩年に著わした「絶望の精神史」や自伝とされる「詩人」、あるいは詩集としての「人間の悲劇」など、近く読んでみたいと思う。さらには妻・森三千代との波乱に満ちた二人三脚ぶりにも触れてみたい。

 強靱な反骨・抵抗の精神と独特のダンディズムに生きた1895(明治28)年生れの金子光晴は、明治・大正・昭和と異なる三代を、まさに固有の魂として放浪しきった、とみえる。
1975(昭和50)年の今日、未刊詩篇「六道」を絶筆として、持病の気管支喘息による急性心不全で死に至る。満80歳だった。
奇しくも2年後の6月29日、たった一日違いで、妻・森三千代も76歳でこの世を去っている。
彼が1937(昭和12)年に発表した詩「洗面器」は、戦後、1949(昭和24)年刊行の「女たちのエレジー」に所収されるが、いくつか私の記憶にも残る詩編の一つだ。

「洗面器」
    僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは
    僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐ
    た。
    ところが、爪哇人たちは、それに羊や魚や
    鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて
    花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし
    その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは
    嫖客の目の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音をた
    てて尿をする。
       ―― ※ 爪哇人(ジャワ人)

 
  洗面器のなかの
  さびしい音よ。

  くれていく岬(タンジョン)の
  雨の碇泊(とまり)。

  ゆれて、
  傾いて、
  疲れたこころに
  いつまでもはなれぬひびきよ。

  人の生つづくかぎり。
  耳よ。おぬしは聴くべし。

  洗面器のなかの
  音のさびしさを。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-31>
 さざれ石のおもひは見えぬ中河におのれうち出て行く螢かな  宗祇

宗祇集、夏、河螢といふことを。
邦雄曰く、さすが連歌の名手、水中の螢に「おもひ」の「火」を見、「あくがれ出づる魂」を言外に潜ませて、趣向を盡した古歌の螢とは、別種の世界を招いた。「いたづらに身を焚きすつる虫よりも燃えてつれなき影ぞはかなき」も「螢」題、一首の中に螢を入れず、これを暗示するのも作者に相応しい技巧、と。

 樗咲く雲ひとむらの消えしより紫野ゆく風ぞ色濃き  正徹

月草、杜(モリ)の樗(アフチ)。
邦雄曰く、所謂、本歌取りとは趣を異にするが、この歌に匂う「紫」は、古今・雑上の詠み人知らず「紫の一本(ヒトモト)ゆえに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る」を思い出させる。正徹の紫は樗の花を幻想の源として、風の吹くままに、瀰漫する色と匂い。しかも「花」も「野」も、それ自体は表に出ず、「雲」と「風」が仲立ちをなすことの巧妙さは無類である、と。

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June 29, 2006

飛ぶ螢まことの恋にあらねども‥‥

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-表象の森- 百万遍

 今は昔のこと、京都は烏丸今出川の同志社へ通い始めた頃、
左京区の京都大学のそば、南北に走る東大路通りと東西の今出川通りが交差するところ、此処が百万遍と呼ばれるのに、どんな謂れがあることかしばらくは見当もつかなかったものだが、融通念仏における百万遍念仏に由来すると知って、その疑問符が氷解したのは、はていつの頃だったか。

 抑も、百万遍念仏のはじまりは、中国の浄土教、道綽に発するとされる。阿弥陀経などをもとに7日の間、百万回唱えれば往生決定すると唱え実修されたというから、この時点では自力行の色が濃い。
日本では平安時代も終り近くの永久5(1117)年、融通念仏宗(大念仏宗とも)の開祖良忍が、自他の念仏が融通して功徳あることを説いてより、他力易行の側面が強まって、百万遍念仏が下層社会にもひろまっていくことになる。
10人の者が、1080粒でなる大数珠を、車座となって繰り廻しながら念仏を100回唱えれば、合わせて百万遍の念仏となる訳だから、後代、民間にひろく流布していくのも肯けるというもの。
江戸時代ともなると、半僧半俗の聖であった円空や木喰が各地を放浪し、木仏を刻んでは堂舎に打捨てるが如く置いてゆくが、そこでは折々に村の民たちが集い、その粗末で素朴な木仏を拝みつつ、大数珠を繰り廻しながら百万遍の念仏を唱えたことだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-30>
 紫陽花の八重咲く如く彌(ヤ)つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ
                                     橘諸兄

万葉集、巻二十。
天武13(684)年-天平勝宝9(757)年、敏達天皇の裔、美努王の子、母は県犬養橘宿禰三千代、子に奈良麻呂。藤原広嗣の乱以後の聖武帝期の左大臣。万葉集に7首を残す。
邦雄曰く、右大弁丹比国人真人の宅に、諸兄が招かれての宴の席上の贈答歌で、「左大臣、あぢさひの花に寄せて詠める」とある。「わが背子」は主人真人。紫陽花は四弁花の一重だが、八重と強調したのだろう。幾代も幾代もの意の「彌つ代」の序詞的修飾としては相応しい、と。

 飛ぶ螢まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕闇の空  馬内侍

馬内侍集。
邦雄曰く、高貴の男性から、一度だけ手紙を貰ったが、その後訪れもなく過ぎ、五月の末頃にこの歌を贈ったとの、長い詞書が家集には見える。「ゆゆしき」には、眼を瞠りつつ、秘かに戦慄している作者の姿が顕ってくる。第二・三句の恨みが、この螢の青白い光を生んだように見える、と。

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June 28, 2006

晴るる夜の星か川べの螢かも‥‥

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-表象の森- 秋成と芙美子

 昨日27日は秋成忌、「雨月物語」などの上田秋成。
今日28日は芙美子忌、「放浪記」の林芙美子だ。

 上田秋成は、享保19(1734)年-文化6(1809)年、大阪・堂島の人とされるが、事実は遊郭に私生児として生まれたという。奇特にも4歳にして紙油商・上田茂助の養子に迎えられ、なに不自由なく育ったらしいが、好事魔多し、5歳のとき疱瘡に罹り、一命を取り留めるものの両手指に後遺症が残った、と。
6歳で養母も亡くしているというから、富裕な商家に育ったとはいえ、ことほど肉親や家族には縁の薄い星の下にあった。
秋成の「雨月物語」については、松岡正剛の千夜千冊「雨月物語」に詳しく、タネとなった中国の白話世界や背景に「水滸伝」の面影をみるなど、各説話を読み解く手際も見事なもので、とてもおもしろく読めるが、その長文の書き出しを、「秋成には、キタの上方気質と、浮浪子-のらものの血が脈打っていた」と始めるあたり心憎いばかりである。
「浮浪子-のらもの」とは一言でいえば遊び人ということだが、さしずめインテリ・アウトサイダーとでもしたほうが近いような気がする。
若い頃は、俳諧にも狂ったが、懐徳堂に通って五井蘭州に儒学や国学を学んでもいる。後には賀茂真淵門下の加藤宇万伎にも師事、同時代の本居宣長の著書に没頭するも、やがて宣長に激しく論争を挑むことにもなる。
「狂蕩の秋成」との謂いがある。「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。」とこれは晩年の秋成の言葉だが、反逆精神に溢れた狂者の意識とでもいうか、浮浪子-秋成の生き様をよく評したものといえよう。

 林芙美子は、明治36(1903)年-昭和26(1951)年、山口県下関の出身とされるが、流浪する行商の子として生まれた彼女の出生地は、鹿児島県の古里温泉または福岡県北九州市と両説あって判然としない。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と言った芙美子だが、出生地も判然とせず、幼い頃は行商の両親に牽かれ各地を転々としたことを思えば、かように心の奥深く刻印されるのも無理からぬものがある。
両親は彼女が12歳になってやっと広島県尾道に定住した。その年はじめて小学校へ編入された彼女はすぐにも文才を発揮するようになったという。恩師の強い薦めで尾道市立高等女学校に進学、卒業は大正11(1922)年だが、この女学校時代に、詩や短歌を地方新聞に盛んに投稿しており、また絵画にもすぐれた才を発揮した。
幼い頃の放浪の数々は彼女に積極果敢な行動派の気質をもたらしたか、この時期、文学青年との激しい恋にも落ちている。女学校を卒業すると東京の大学に通うその彼を追って上京したのだが、やがて破局を迎える。この恋の破局が、彼女の宿命的放浪の再スタートとなったのだろう。当初は詩人としてなにがしか注目された彼女だったが、昭和5(1930)年に至って発表された「放浪記」が記録的なベストセラーとなる。時代の寵児、女流作家林芙美子の誕生である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-29>
 晴るる夜の星か川べの螢かもわが住むかたに海人の焚く火か
                                    在原業平

新古今集、雑中、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語第87段、昔、男が布引の滝を見に行く挿話にあらわれる歌。第二句「星か」で切れて句跨りを生みつつ三句切れとなるあたり、例外的な文体で、歯切れの良い調べをなし、光の点綴をパノラマの如く描き出す趣向と表裏一体。「わが住むかた」は芦屋の里。漁り火と承知しながら、星・螢を煌めかすあたりに才気が横溢する、と。

 風吹けば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ蜩(ヒグラシ)の声
                                     源俊頼

金葉集、夏、水風晩涼といへることを詠める。
邦雄曰く、涼風にさざなみ立つ水は散り砕けて玉となり、蓮葉を飛び越える。その風はまた此方にも吹きおよび、折しも爽やかな蜩の声。納涼の歌としてまことに鮮明、作者の代表歌の一つとされる。潔い調べは当時の新風として耳をそばたたせたことだろう。浮き葉「を」ではなく、「に」であるところもまた微妙、と。

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June 27, 2006

移り香の身にしぼむばかりちぎるとて‥‥

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-表象の森- 引き続き閑話休題、22625日

 数日前の夕刻のこと。私がすっかり失念していたものだからだろうが、同居の連れ合いが「今日は私の誕生日でした。」と藪から棒に声高に宣うたものだから、そばに居た幼な児はビックリしたように母親をふりかえって一瞬ポカンとしていた。これには些か私もたじろぎつつ、「そうだ、そうだった、悪い、悪い」と忘れていたのを謝って、幼な児と一緒になり「Happy Birthday」を一節唄ってさしあげて、事なき?を得る。

 ところで、「こよみのページ」に日付の電卓なるコーナーがあったので、暇つぶしの一興に計算してみたところ、70(S42)年生れの彼女は、本日でもって延べ13152日生きたことになる。まだ4歳の幼な児はわずか1716日だが、44(S19)年生れの私はといえばなんと22625日を数える。
歩くにせよ、電車やクルマに乗るにせよ、仮に私が一日平均20㎞の移動を毎日してきたとすると、これまでに延べ452,500㎞の移動距離となる。赤道付近の円周は約40,077㎞だそうだから、この数字は地球を約11.3周したことになる。地球から月までの中心距離は384,400㎞だから、私の場合この計算でいくと、すでに月にたどりついて帰り道の途上にあることになるが、残りの寿命を考えると、どうみても無事に地球に帰り着けるとは思えない。

 と、まあ計算上はこうなるが、あまりピンとこないことではある。
そろそろ62年になるという自分自身の来し方を、おしなべて22625日としてみたところで、その数字の多量さにある種の感慨は湧くものの、22625日という数値が惹起するものは却って平々坦々としてどうにも粒だってくるものがない。年々歳々、62年として振り返ってこそ、そこに節目々々もあきらかに想起され、自身の有為転変、紆余曲折の像が結ばれもしてくるというものである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-28>
 樗(アフチ)咲くそともの木陰露落ちて五月雨はるる風わたるなり
                                    藤原忠良

新古今集、夏、百首奉りし時。
長寛2(1164)年-嘉禄元(1225)年、藤原五摂家筆頭近衛家の祖、六条摂政基実の二男。九条兼実や慈円の甥にあたる。後鳥羽院千五百番歌合では判者の一人。千載集初出、勅撰入集69首。
樗(アフチ)-センダン(栴檀)の古名、花の色が藤色にちかく亜藤(アフヂ)が転訛したかとされる。
邦雄曰く、建仁元(1201)年2月の老若五十首歌合中の作で、詞書は誤記であろう。忠良最良の作であり、新古今・夏の中でも際立つ秀歌。樗の薄紫の花の粒々が、雨霽れてしばしきらきらと息づいている。作者は家の中から眼を細めて眺める。単純な叙景歌だが、心・詞共に、爽やかに清々しく、味わいは盡きない、と。

 移り香の身にしぼむばかりちぎるとて扇の風のゆくえたづねむ
                                    藤原定家

拾遺愚草、員外、一句百首、夏二十首。
邦雄曰く、建久元(1190)年6月の作、満28歳。夏に入れてはいるが清艶無比の恋歌であり、殊に嗅覚をメディアとして官能の世界を描いたところ、名手たる所以であろう。上句から下句への軽やかに微妙な移り方も、感嘆に値する。薫香に混じって、二人の体臭まで匂ってくるようだ、と。

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June 26, 2006

これを見よ上はつれなき夏萩の‥‥

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-表象の森- 閑話休題、6.26?

  「6.26」を「ろてんふろ」と読むそうな。故に本日は「露天風呂の日」だという。
岡山県湯原温泉の若者たちのアイデアで昭和62年から始められたという町づくり事業である。
語呂合わせで記念日を制定し、街おこし事業の一環として取り組むこういった事業は、全国津々浦々、各地に点在し、数え上げればきりがないほどにあるのだろうが、微笑ましいといえば微笑ましくもあり、たしかに心和ませてくれる一面があるし、各々取り組んでいる当事者たちにすればそれこそ大真面目なイベントであり年に一度のお祭りにちがいない。

 そういえば「ふるさと創世」事業と称し、全国各市町村に1億円をバラマキ給うた宰相がいたが、あれは昭和63(1988)年だったから、湯原温泉の露天風呂の日制定はこれに1年先行していたことになるが、ともあれ80年代後半から90年代、地域発信の街づくりが主題化して全国に波及していったものである。その功奏して、ユニークで個性的な街への変貌が、街ぐるみ観光名所化したような例にも事欠かない。

 湯原温泉は全国の露天風呂番付でめでたくも名誉ある西の横綱とされているそうだが、もう何年前になるだろうか、松江からの帰路だったかあるいは蒜山に遊んだ帰りだったかに立ち寄ったことがある。湯原ダムの聳え立つコンクリート壁に隔てられた河床の大きな露天風呂にひととき身体を沈め、あたりの風情を堪能させてもらったのが記憶にあたらしいが、今日、露天風呂の日は、町を挙げてのさまざまなイベントに人出も多くさぞ賑わっていることだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-27>
 昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木(ネム)の花君のみ見めや戯奴(ワケ)さへに見よ                                紀小鹿

万葉集、巻八、春の相聞、大伴宿禰家持に贈る歌二首。
戯奴(ワケ)-上代語、1.自称、わたし。2.対称、おまえ。
邦雄曰く、紀小鹿は安貴王の妻で、別れて後家持に近づいたともいわれる。清純無比な合歓に自分をなぞらえ、夜の寂しさを暗示し、しかもやや諧謔を交える手法は注目すべき。家持の返歌は「吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも」とあるが、これは文飾で、日照・通風などが好条件なら、十に一つは結実するものだ、と。

 これを見よ上はつれなき夏萩の下はこくこそ思ひ乱るれ  清少納言

清少納言集、水無月ばかりに萩の青き下葉のたわみたるを折りて。
生没年不詳。村上天皇の康保年間に生れ、後一条天皇の万寿年間に歿したとされる。清原元輔の女、深養父の曾孫。結婚した後一条天皇の中宮定子に仕えた。枕草子。後拾遺集以下に15首。小倉百人一首に「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」
邦雄曰く、上は=表面は、下は=心の中では、この対照を上葉・下葉に懸けて、劇しい愛を告げたのだろう。続千載・恋一には「夏草も下はかくこそ」として入選。命令形四句切れの、理路はきわやかに、言い立てるような調子は、才女の性を如実に見せ、恋歌にしては異風で故に面白い、と。

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June 24, 2006

みよしのの吉野の瀧に浮かび出づる‥‥

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-表象の森- 白土三平の「忍者武芸帳」

 漫画-アニメの系譜における巨匠といえばなんといっても手塚治虫なのだろうが、漫画-劇画-コミックスの系譜で革命的な存在であったのは白土三平が屈指だろう。
私が嘗て長編の漫画をまがりなりも通読したのは、白土三平の「忍者武芸帳」と山岸涼子の「日出処の天子」くらいなのだが、それでも「ガロ」などに連載されていた白土の「カムイ伝」や「カムイ外伝」を時折は読んだりしていた。
このほど四方田犬彦の「白土三平論」(作品社2004年刊)をざっと読んでみたのだが、彼の代表作「忍者武芸帳」や「カムイ伝」に関する詳細な読解に導かれ、お蔭で遠い記憶が甦ってきた。
1950年代後半から60年代、貸本漫画のドル箱的名作、白土三平の「忍者武芸帳」は59年から62年まで、足かけ3年にわたって執筆された。当時としては型破りのこの長編劇画は、貸本漫画界において記念碑的ともいえる作品であった。

 白土三平の父岡本唐貴(1903年生れ)は、1946(S21)年の終戦まもなく矢部友衛と共著で「民主々義美術と綜合リアリズム」を上梓出版、1967(S42)年には松山文雄とともに大部の「日本プロレタリア美術史」を執筆刊行した左翼的理論派の画家であった。白土三平の本名は登、1932年、その唐貴の長男として生まれた。1948年から紙芝居の世界に関わるようになり、紙芝居作家として、また指人形劇団に所属し舞台の背景画家として、57(S32)年頃まで活躍し、以後、漫画家へと転身している。彼が紙芝居の世界に入った頃は、東京だけで3000人、全国では5万人の街頭紙芝居屋が居たと伝えられる全盛期であったが、昭和30年代のテレビの普及ともに、紙芝居は急速に衰退し消えゆく運命となった。三平に漫画家へと転身の機会を与えたのは牧数馬であり、牧の少女漫画などの下絵描きからスタートした。ちなみに「太郎座」という指人形劇団には、後に民話探訪などで活躍する瀬川拓男や児童文学者松谷みよ子らがともに居たというが、このあたりの事情については「白土三平ファンページ」に詳しい。

 白土三平の「忍者武芸帳」が貸本漫画に続々と登場してきた60(S35)年前後は漫画のみならず文芸や映画など大衆芸術でも時ならぬ忍者ブームであった。それは安保闘争に揺れ動いた激動の季節という時代相の反映でもあったろう。59(S34)年には司馬遼太郎の「梟の城」がこの年の直木賞を受賞。これと相前後するように、山田風太郎が「風太郎忍法」シリーズを次から次と世に出し大衆的人気を博していた。映画界では市川雷蔵主演の「忍びの者」シリーズの第1作が、名匠山本薩夫監督で62(S37)年12月に公開され、3作目からは監督が代わるものの、以後、66(S41)年12月公開の「新書・忍びの者」まで8作品を生み出しているが、この原作は、劇作家として演出家として戦前戦後の左翼的演劇につねに指導的役割を演じてきた村山知義の同名小説「忍びの者」であり、この小説は60年11月から62年5月まで、「赤旗日曜版」に毎週連載されたものであった。父親の岡本唐貴と親しい知己にあった村山知義の「忍びの者」が、ほぼ時を同じくするように書き継がれていった白土三平の「忍者武芸帳」に少なからぬ影響を及ぼしていたことは十分考えられることである。

 村山知義の「忍びの者」は、山田風太郎や司馬遼太郎作品に比べても、忍者というものの生態やその術のありようなど、あらゆる面ではるかにリアリスティックな描写世界となっている。上忍と下忍という身分差別や過酷な主従関係のもとに、敵対し死闘を演じつづける二つの忍者組織が、真相は同一人物によって支配されていたものであり、擬装の権力構造のカラクリが物語の進行とともに暴かれ、主人公石川五右衛門の人間的な苦悩に焦点が絞られていくという社会派時代小説だったのだが、この「忍びの者」がとりわけ日曜版とはいえ「赤旗」連載の小説であったことを考えると、映画化するについても当時の制作会社大映としては相当の勇気ある英断を要したにちがいない。

 社会の現実の悲惨を綺麗ごととして処理せず、あらゆる感傷を排除してリアリスティックな眼差しをそこに向けようとする強い意志は、村山知義と同様、白土三平の姿勢にもよく顕われているといえよう。エロティシズムであれグロティシズムであれ、人間的なるものの一切を隠蔽せずに描いてゆくとともに、その人間的なるものが大自然の法則を前にしてはほとんど無意味・無価値たらざるをえないことをも提示していくのが白土三平の「忍者武芸帳」であり、その後の「カムイ伝」であった。

 四方田の「白土三平論」に依拠すれば、「彼の忍者漫画を他の作家のそれから決定的に峻別しているものがあるとすれば、それは忍者を単に人間界における権力争いの中での暗殺者の位置に置くことに満足せず、さらに認識をひろげて、自然と人間のとり結ぶトリックスター的な媒介者と規定したところ」に特徴づけられよう。白土作品のなかの忍者たちとは、「彼らの活動の領域にあっては特権的な個人など存在せず、だれもが交換可能で本来的に匿名の存在であるという原理」に貫かれており、「忍者武芸帳」において主人公影丸が殺されても殺されても蘇生してくる超自然的なありようは、「歴史における個人の、抽象的な代替可能性ではなく、あらゆる個人が狭小な個人性の枠から離脱し、歴史的な闘争の主体として匿名を帯びることと本質的に複数制のもとにあるというシステムを体現するもの」であり、白土三平は「忍者武芸帳」において、「歴史が闘争を通して、みずからに必然的な自己実現を遂げてきたとする、ヘーゲル=マルクス主義を下敷きとした世界観に裏打ちされたかのように展開」された作品をものし、「60年代の新左翼の学生運動家たちにとって、当時の第三世界の解放神話と並んで、人民解放の神学的基礎ともいうべき言説として受けとめられ、漫画とはいえ一大叙事詩の世界を描きあげた白土三平はカリスマ的な存在」となったのである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-26>
 われはけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり
                                     紀貫之

古今集、物名、さうび。
邦雄曰く、薔薇(ショウビ)、和様に訛って「さうび」を上句に詠み込んだ物名歌。現在の野茨に類する花だが、貫之は李白の詩等に用いられた文字による知識で、歌に採り入れたのだろう。実際に舶来栽培されるのは鎌倉期頃とされている。また夏の襲(カサネ)色目にも薔薇(サウビン)が見える。今日見る薔薇は、唐代では長春花等の名で呼ばれた。古歌に薔薇はこれ一首のみ、と。

 みよしのの吉野の瀧に浮かび出づる泡をか玉の消ゆと見つらむ
                                     紀友則

古今集、物名、をがたまの木。
邦雄曰く、詠み込まれたのは木蓮科の香木「小賀玉の木」。花は泰山木同様芳香を放ち、多く神域に植えられている。古今伝授三木の一。一首の表層の意味も悠々たる眺めをもち、主題の木と両々響き合うところがある。友則はこの物名歌で、「女郎花」「桔梗の花」「龍膽(リョウタン)の花」等に、物名に止まらぬ秀作を見せている。古歌の小賀玉の木も他にない、と。

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June 23, 2006

あづまのに紫陽花咲ける夕月夜‥‥

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-表象の森- 独歩忌

 「武蔵野」や「忘れえぬ人々」の国木田独歩は、明治41年6月の今日(23日)、肺結核で死去、明治4年7月生れだから37歳に至らずの早世だった。
野口武彦によれば、独歩が「あのころ私煩悶してました」と振り返り語ったという「あのころ」は明治10年代終りから20年代にかけての頃を指しているという。それは自由民権運動が全国各地に燃えさかり、そして政府の弾圧によりやがて沈静化、消滅していく過程に符合する。透谷も独歩も岩野抱鳴も、若き政治青年として出発し、その挫折感から文学者の自意識に目覚めていくのだが、その横糸にはキリスト教の強い感化があり、信仰そしてそれからの離反があったのだろう。
「煩悶ばかりして居る訳には行かなくなり、パンを口に入れる道を急ぐ場合となれば、先づ其時分の自分の如き青年は、教師にでもなるか、宗教家を本職とする外には使ひ道がないのでありました」と独歩は「我は如何にして小説家となりしか」(明治40年)で自身の明治20年代を回想している。
明治24年にすでに洗礼を受けていた独歩は、「吾只だ活ける関係を以て此天地と此生命とに対せんことを希ふ」(「苦悶の叫」明治28年)とほとんど叫ぶようにして真の信仰を希求しているのだが、「このとき彼は<信仰>を信仰しているのだ」と野口武彦は指摘する。
独歩をキリスト教への<信仰>に結びつけまた離反させたのが、後に有島武郎の「或る女」のモデルとなった佐々城信子との恋愛だったのである。「爾の心霊は偉大なり。爾の天職は重し。-略- 天われを召す」(「欺かざるの記」)と、彼女との恋愛について綴る独歩にとって、恋愛の成就は宗教的使命にも等しかったのではないかと思われる。
恋愛と信仰の化合ゆえの燃焼といえば、透谷の場合もまた、おそらくは同様の心性ではなかったか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-25>
 秋ならで蓮(はちす)開くる水の上は紅ふかき色にぞありける
                                    大江千里

大江千里集、夏、蓮開水上紅。
生没年不詳。寛平・延喜頃の漢学者。在原行平・業平の甥にあたる。寛平6年(894)、句題和歌を宇多天皇に詠進。古今集に10首、後撰集以下に約15首。小倉百人一首に「月みればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」。
邦雄曰く、或る本には初句「秋近く」、結句「色ぞ見えける」と。一面に蓮が咲きそろって、水面が紅に煙るさまを五言で盡し、歌は初句と結句に作者自身の思いを託し、かつ強調した。仏教ゆかりの花だが、夏の部に、このように歌われる例は少ない、と。

 あづまのに紫陽花咲ける夕月夜露の宿りは今朝ならずとも
                                    藤原家隆

壬二集、大僧正四季百首、花。
邦雄曰く、紫陽花は万葉集に2首のみ、古今集以後の勅撰集、私家集を通じて、殆ど見あたらない。野末の宿に一夜寝て、その露けさに歌い出でた趣。家隆の何気ない三句切れのあたりにも覗いうる。百首歌の花は4首、桜・紫陽花・萩・菊で四季を歌う。紫陽花の花、思えば、家隆にふさわしい、と。

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June 22, 2006

忘らめや葵を草に引きむすび‥‥

Sikinoiro

-表象の森- 写真展「四季のいろ」

 昨日(21日)、日本風景写真協会が主催する、「四季のいろ」と題された会員選抜展を観に出かけた。
会場は梅田のマルビル3Fの富士フォトサロンにて。観終わった後、中務さん(市岡13期)に初めての顔合わせができたのは幸いであった。
会報誌によれば全国各地に1300名ほどの会員を擁する全国組織の団体だ。この写真展は5月の東京開催を皮切りに、今月の大阪、さらには名古屋・札幌・仙台・福岡・富山・愛媛へと来年1月にかけて巡回するようである。中務さんはこの大所帯の事務局長とあるから、色々とご苦労も多いことだろうと推察される。
作品総数103点の展示、出品者各1点限定なので、103の個性が居並んでいることになるから、ひととおり鑑賞しつくすのはかなりの気力を要する。総体にいえば予想に反して、風景写真というものの芸術生に偏向した作品が多かったように受けとめられた。
こうしてみると、風景のなかのある瞬間を切り取るだけに、写真とは実を写すものというより、むしろ虚像を生み出していることに気づかされる。眼前の風景のある一瞬が残像として自身の網膜-脳裏に刻まれることと、一枚の写真として印画紙に定着されることとは、どうやら似て非なるものであるらしい。
大自然の造化の不可思議、そのある瞬間を捉え、フレームのなかに切り取られた静止画像は、それゆえにこそ、時間とのせめぎ合い、時間の凝縮あるいは引き伸ばし、悠久なる時間へとも飛翔しようとする。無限の時間と瞬間への凝縮は実際裏腹なものなのだ。なるほど、写真が無意識に表出してしまう世界とは、すぐれて時間性の芸術なのだろう。
私自身の嗜好で少なからず惹かれた作品を列挙すると、
№9「紅葉天狗岳」、№12「蒼い森」、№13「昇陽」、№15「払暁の輝き」、№24「MEMORY」、№25「春の足音」、№26「新緑の頃」、№45「瞬」、№48「陽光」、№49「夕照の出船」、№71「秋霖」、№85「雪簾」、といったところだが、これを記しているいま、記憶に残る像たちと作品名がすでに紛れてしまっていて、どれがどの作品にあたるのか分からない始末なのだから、いやはや年は取りたくないものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-24>
 忘らめや葵を草に引きむすび仮寝の野べの露のあけぼの
                                   式子内親王

新古今集、夏、斎院に侍りける時、神館にて。
邦雄曰く、作者は平治元(1159)年から十年間、ほぼ十代を通じて賀茂の大神の斎院として仕えた。四月中の酉の祭礼に、潔斎のため一夜を過した神館の想い出。反語初句切れの愁いを帯びた響きについで、祭りにゆかりの葵を歌い、下句は「の」の珠を連ねた追憶の詞。閨秀歌人の純潔で匂やかな志と詩魂が、一首を比類ない光彩で包んだ作といえよう、と。

 咲く百合の花かあらぬか草の末にすがる螢のともし火のかげ
                                   後土御門院

紅塵灰集、螢。
邦雄曰く、仄白く浮かぶのは百合の花だろうか。螢のともす青白い灯で、時々照らし出されるおぼろな形。螢の題ではあるが、さだかならぬ花影が、むしろ強く印象に残る。土御門院は明応9(1500)年の崩御まで、36年間在位、宮廷歌会の指導者でもあり、その御製集名にも鋭い言語感覚は明らか、と。

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June 20, 2006

わがためは見るかひもなし忘れ草‥‥

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-表象の森- 円空仏と生誕の地

 生涯12万躰の造仏を発願し、5200余躰の現存が確認されているという円空仏の飄逸で素朴な味わいは、観る者の心を和ませ、惹きつけてやまない魅力に溢れている。木っ端(こっぱ)仏と呼ばれ、だれもがかえりみないような木の屑にも数多の仏の姿を刻んでいるが、どれもこれもその荒削りのままの木肌に無心の微笑みが宿っている。

 江戸の初期、寛永9(1632)年の生れの円空は、元禄8(1695)年64歳で岐阜県長良川畔にて即身仏として入定を遂げたといわれるが、その遊行遍歴の生涯は、北海道から関西に至る各地に残るさまざまな円空仏や書画によって類推されている。円空の入寂の地は先述の長良川畔と確定され異論はないようだが、生誕の地について同じ岐阜県内にも異説があり、両説相譲らずご当地争いの種となっているようだ。
そもそも従来は、「近世畸人伝」の「僧円空は美濃国竹ヶ鼻という所の人也」とあるを根拠とし、美濃の国、現・羽島市説がほぼ定説となっていたようだが、民俗学者の五来重氏が、同じ美濃国ながら郡上郡の南部にある瓢(ふくべ)ケ岳山麓(現・美並町)で、木地師の子として生まれたのであろうとの説を採って以来、この異説のほうが優勢になりつつあるのが現状だろうか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-23>
 ひさかたの雨は降りしく石竹花がいや初花に恋しきわが背
                                    大伴家持

万葉集、巻二十。石竹花(なでしこ)-撫子。
兵部少輔大伴宿禰家持の宅にうたげする歌四首の第二首。大原真人今城の石竹花の讃歌(ほめうた)に答へる歌。
邦雄曰く、その快速調の呼吸、鮮烈な映像、贈歌とは雲泥の差があり、眼を瞠らせる。この花、今日言う河原撫子で、唐渡りの石竹ではあるまい。尤も、用字は瞿麦とも書き、後世では常夏とも混同されて紛らわしい、と。

 わがためは見るかひもなし忘れ草わするばかりの恋にしあらねば
                                    紀長谷雄

後撰集、恋三、いひかはしける女の、今は思ひ忘れねといひ侍りければ。
貞和12(845)年-延喜12(912)年、菅原道真の門下、権中納言従三位に至る。漢詩文を能くし、和歌は後撰集に4首入集。
邦雄曰く、悲しみを忘れる呪いに萱草を植えたり、この草を身につけたりするのは唐渡りの習い。忘れ草は野萱草に似てやや大きく、ゆかしい微香のある一種。苦しい恋を忘れるためのこの花も、私には所詮むなしい。忘れ得るような生やさしい恋ではないと歌う。漢詩文の天才長谷雄のめずらしい恋歌、と。

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June 17, 2006

問へと思ふ心ぞ絶えぬ忘るるを‥‥

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-表象の森- 学名「オタクサ」

 紫陽花の学名をOtaksa-オタクサ-というそうだが、この名の抑もの由来、江戸も幕末の頃、長崎出島のオランダ商館付きの医師として来日したシーボルトが、その愛妾の呼び名「お滝さん」に因んでつけたものだ、というエピソードはかなり知られたことらしい。
昔の紫陽花はガクアジサイが本来の種で、現在に一般化した毬状のものは日本原産のガクアジサイを西洋で改良された品種というから、
芭蕉が詠んだ、
  紫陽草や帷子(カタビラ)時の薄浅黄
  紫陽草や薮を小庭の別座敷
の句など、うっかり毬状のアジサイを思い浮かべると鑑賞の筋もあらぬところへいきかねない、と安東次男が教えてくれている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-22>
 問へと思ふ心ぞ絶えぬ忘るるをかつみ熊野の浦の浜木綿
                                    和泉式部

続後撰集、恋五、いくかさねといひおこせたる人の返事に。
邦雄曰く、万葉・巻四、人麿の「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただに逢はぬかも」の本歌取り。式部のこの歌、すでに本歌を忘れさせるくらい文体を異にし、二句切れの息を呑んだようなアクセントや、三句から四句への凄艶な、思いを込めた調べも見事。続後撰集選者為家の炯眼が見出した一首、と。

 天の原空ゆく月や契りけむ暮るれば白き夕顔の花    藤原家隆

壬二集、大僧正四季百首、夕。
邦雄曰く、天にかかる月、地に花開く夕顔、いずれも仄白く短か夜のあやうい宵闇に、互に何かを約しているように見える。森羅万象のなかの不可思議を、「契りけむ」一句に集約して、この遙々とした秀歌は、静かに発光する。夕顔は瓢の花、今日言うビルガオ科のそれではない。瓜の花も窈窕として意外に美しいものだ、と。

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June 16, 2006

けふもけふ菖蒲も菖蒲かはらぬに‥‥

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-表象の森- ドナテッロの「マグダラのマリア」

 ものづくりにおける手技(てわざ)の果てしなき格闘というものは、時にその人の想念を超えて、思いもせぬ結実にいたることが、滅多とないことだが、稀にあるものだ。
わが師の神澤は、これを「Demonの宿りし」或いは「Demonに魅入られる」などとよく言っていたが、彼ほどには近代的自我に覚醒もせず、強靱な自己意識も持ち合わせ得ぬ私であれば、Demonなどという言葉はとても出てこない。さしずめユング流の「集合的無意識」あたりにご登場願うのが適当かと思っているのだが‥‥。

 もう6年も前になるが、フィレンツェのドウモ附属美術館で観たドナテッロの「マグダラのマリア」は衝撃的な作品だった。回廊からさほど広くない細長いその部屋に入った途端、壁に掛かった磔刑のキリスト像に向かって室内中央に立つ像の、そのモダニティ溢れる異容な佇まいが発する情念の衝迫力に、これがイタリア・ルネサンス期のものかと我が目を疑うような思いに囚われた。その驚愕の波がやや静まってから私の脳裏をよぎったのは20世紀シュールレアリスムのジャコメッティの彫刻作品だった。乱暴に過ぎるとおおかたの誹りを受けることだろうが、「マグダラのマリア」像とジャコメッティの彫刻に、ひどく近接するものを、私はそのとき感じていたのだ。
自身の浅学蒙昧ぶりを曝すようで恥じ入るばかりだが、このところ塚本博著の「死せるキリスト図の系譜」と副題された「イタリア・ルネサンス美術の系譜」を読みながら、ミケランジェロにほぼ1世紀先行したこの像の作者ドナテッロについて、私はほとんど何も知らなかったことを思い知らされつつ、あらためて「マグダラのマリア」の記憶を手繰り、想いをめぐらせていた。

 塚本博の評言をそのまま借りれば、
ルネサンス美術の舞台は、その前半をフィレンツェが務めるが、やがてその流れは北上し、パドヴァとヴェネツィアにも新たな潮流が生まれる。この北イタリアの動きをフィレンツェ美術に連動して把握することで、むしろ中世との関連も明らかとなる。この華麗な廻り舞台のような二幕場面を往来架橋する美術家が、フィレンツェの彫刻家ドナテッロであり、
ドナテッロの彫刻は、15世紀初頭にあって写実様式を打ち立てるだけでなく、物語性と記念碑性の両極に緊張関係をもたらした。これは彫刻における「ドラマの集約性」とでも呼ぶべき造型原理であり、S.リングボムに言わせれば「クローズ・アップされた物語」ともいうべき方法である、となるが、
たとえば、ミケランジェロの彫刻群と、ドナテッロのそれらを比較してみれば、ドナテッロからミケランジェロへと、イタリア・ルネサンスの造型がまさに花開き見事に完成態へと移行していくプロセスとして対照できるかと見えるのだが、ひとり「マグダラのマリア」像だけはそこからあきらかに外れてしまっているのではないか、と私には感じられる。「ドラマの集約性」ないし「クローズ・アップされた物語」との評言はまことに当を得たものと思われるが、この「マグダラのマリア」においては、それをも超えてなお過剰なる凝縮が、私を博ってやまないのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-21>
 みちのくの安積の沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ
                                  詠み人知らず

古今集、恋四、題知らず。
安積(あさか)-陸奥国の歌枕、福島県郡山市日和田町北東にある安積山の辺り。
邦雄曰く、恋四の巻首を飾る歌。「花かつみ」は野花菖蒲を指すのが定説。上句の序詞は名所を季節感と共に描き出し、その序詞に導かれた「かつ見る人」からの恋の趣に精彩を添えた。この同音異義のルフランの軽やかさが、初夏の花と初々しい恋の心を、ひときわ印象的にしている、と。

 けふもけふ菖蒲も菖蒲かはらぬに宿こそありし宿とおぼえね
                                    伊勢大輔

後拾遺集、夏。
生没年不詳。神祇伯大中臣輔親の女、能宣の孫。上東門院彰子に仕え、後、高階成順と結婚して康資王母らを生む。後拾遺集以下に51首。
邦雄曰く、永年住み馴れたところを離れて、他所に居を移した翌年の5月5日に作った歌。同語反覆による強調が、題詠等では生まれない感情の高まりを生き生きと伝える。たとえ茅屋から玉楼に住み替えたとて、宿に寄せるそれなりの懐旧の情はあろう、と。

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June 15, 2006

稀にくる夜半も悲しき松風を‥‥

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-表象の森- 永長の大田楽

 われわれヒトという種が死に向かって生きざるをえないかぎり、世の中どのように変われど、いつの時代においても終末観や末法観というものは大なり小なり世相に潜み、この地球も、われわれの社会も、たえずカタストロフィの予感に満ちているというものだ。

 賀茂川の流れと双六の賽と山法師を天下の三不如意と言挙げた白河法皇の院政は、応徳3(1086)年から大治4(1129)年に没するまで足かけ44年の長きにわたったが、地方における武士団の跳梁にみられるように、すでに支配システムは内部から構造的変化を起こしつづけている王朝貴族社会の平安期も後半のこの頃は、内心は忍び寄るカタストロフィに脅えつつも、表層は平静を装いつつ、ヒステリックな利己主義と刹那主義、頽廃と無気力、浪費と逸脱が横行し、過差(かさ)-華美で奇抜なもの-を好み、これをこそ風流とする嗜好が上層から下層まで次第にひろまっていった時代である。
さればこそ白河院は、法勝寺に八角九重塔などと度肝を抜く奇抜巨大なものを建てたり、六勝寺の法会などを殊更華美に飾り立てたり、はては9度までも仰々しく貴族たちを引き連れ熊野へ行幸したのだろう。熊野詣にかぎっていえば、源平騒乱期の院、「梁塵秘抄」を選した今様狂いの後白河院にいたっては、院政34年の間に行幸33度を数えたというから、これはもう正気の沙汰ではあるまい。

 嘉保3(1096)年3月、内裏が死の穢れに触れたとかで、すべての神事が延期されることになった。洛西嵐山の松尾大社の祭礼に突然中止命令が出たことに反発した民衆たちが、祭神は延期など欲していないと流行り歌をひろめ、田楽を囃しながら神社に集い騒擾となった。この騒ぎが肥大化して、5月末頃からは祇園御霊会(現在の祇園祭)をめざし、大勢の近在農民らが田楽を演じながら洛中に押し寄せる。洛内の民たちも御輿を担ぎ、或いは獅子舞・鼓笛などで騒ぎ立てながら合流、狂騒の徒と化した大田楽の群衆は石清水社・賀茂社・松尾社・祇園社など次から次と参っては狂気乱舞する。群衆はさらに白河院御所へと向かい、田楽好きと評判の院の愛娘媞子内親王が喜び興じるなか、院から下人までうち交じって田楽に興じる始末。
「十余日間、京中の民衆が祇園御霊会にことよせて連日、昼夜を問わず鼓笛を響かせ歌い踊り狂い、道路を埋め尽くした」と藤原宗忠が「中右記」に記しているように、7月には殿上人まで夢中になり、街路・社頭から院御所・内裏にいたるまで上下こぞって田楽に熱狂したのである。ところが8月7日、どうしたことかこの田楽騒ぎを喜んでいた媞子内親王(21歳)が急死するという変事が起こる。これには院や天皇、貴族たちは政治的凶事の前兆かと恐れおののき、またたくまに民衆たちへも動揺がひろがって、この永長の大田楽と呼ばれる一大狂騒も足早に収束していくのである。

      ――― 参照・講談社版「日本の歴史07-武士の成長と院政」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-22>
 澄める池の底まで照らす篝火のまばゆきまでも憂きわが身かな
                                     紫式部

紫式部集。
天元元(978)年?-長和3(1014)年?。越後守藤原為時の女。堤中納言兼輔の曾孫。藤原宣孝との間に大弐三位をもうけたが、夫の死後一条院中宮彰子に仕えた。源氏物語作者。拾遺集以下に約60首。
邦雄曰く、道長邸で法華三十講が催されたのは、寛弘5(1008)年の5月。5日の夜、作者は道長夫人の姪廉子を眺めつつ歌う。今、栄華を極める貴顕の人々も、その光輝の彼方には、暗黒が透いて見える。「まばゆきまでも憂き」には歌人としての才の疑いも思わず保留したくなるほどの、明らかな資質が見える、と。

 稀にくる夜半も悲しき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ  藤原俊成

新古今集、哀傷。
邦雄曰く、詞書に「定家朝臣母みまかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊りて詠み侍りける」と。その夜、定家は家に帰って「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風」と詠んだ。俊成の情を盡した哀歌、定家の冴え冴えとした秋風悲調、それぞれ稀に見る挽歌である、と。

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June 14, 2006

家にあれば笥に盛る飯を草枕‥‥

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-表象の森- ATOK2006

 先頃、語入力ソフトをMS-IMEからATOKに変えた。
私のような圧倒的に日本語でしか作業していない者にとって、MS-IMEの非効率、頭の悪さは苛立たしいばかりで、もういい加減うんざりでしていたところ、ATOK2006の試用版があるのに気づいてダウンロードしてみた。1ヶ月無料体験版というやつだ。Officeとの連携機能も進化しているようだし、辞書の引継ぎや文書からの取込み機能などずいぶん便利、MS-IMEに比べるべくもない快適さである。という次第で、試用期限も残り少なくなったことだし、9000円強はちょいと痛いが、このほどATOK2006の電子辞典セットを購入。
 その分、今月の購入本は些か自粛気味。このところ積ん読本が机の周りに文字通り積み重なっているし、図書館の利用も多くなっている。梅雨入りしてじめじめと蒸し暑いばかりで、時候はあまり適しているとは言い難いが、精を出して消化に励むべし。

 今月の購入本
末木文美士「日本仏教史-思想史としてのアプローチ」新潮文庫
池谷裕二・糸井重里「海馬-脳は疲れない」新潮文庫
梅原猛「京都発見(五)法然と障壁画」新潮社
梶野啓「複雑系とオートポイエシスにみる文学構想力―一般様式理論」海鳴社

 図書館からの借本
四方田犬彦「白土三平論」作品社
下向井龍彦「武士の成長と院政 日本の歴史07」講談社
辻惟雄「遊戯する神仏立ち-近世の宗教美術とアニミズム」角川書店
辻惟雄「日本美術史」美術出版社
葛飾北斎「北斎の奇想-浮世絵ギャラリー」小学館
中村幸彦「中村幸彦著述集 第8巻」中央公論社
ドナ・W・クロス「女教皇ヨハンナ-上」草思社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-21>
 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
                                    有馬皇子

万葉集、巻二、挽歌、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首。
舒明12(640)年-斉明4(658)年、幸徳王の皇子、母は小足媛。蘇我赤兄らに謀られ謀反の廉で処刑さる。
邦雄曰く、有馬皇子は斉明朝4(658)年、唆され謀反を企てて捕えられた。断罪のため護送される途中、紀伊藤白坂での詠二首。あと一首は「磐代の浜松が枝を引き結び真幸あらばまた還りみむ」。時に18歳。願いに背いて再び松を見ることなく絞首されて果てた。草枕とはいえ、これは黄泉への旅の道行歌であり、悲嘆の最たるもの、と。

 石間より出づる泉ぞむせぶなる昔をしのぶ声にやあるらむ  平兼盛

新拾遺集、雑中、荒れたる宿にて詠める。
邦雄曰く、懐旧の情に堪えず岩石の隙から噴く水がむせび泣くような音を立てる。それほどに宿は荒れ果てて、栄えていた往時を偲ぶ心さえも、過ぎ去った恋に似る。新拾遺の雑中には、この他、西行や能因など、昔を恋う趣の作が配されている、と。

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June 13, 2006

はかなしなみつの濱松おのづから‥‥

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-表象の森- 連光寺の法話

市内福島区の海老江5丁目に、市岡期友の船引明乗君が住職の浄土真宗連光寺がある。この寺では毎月2回昼と夜に檀家を相手に法話を行うのを、もうずいぶん長く続けているそうな。
昨夜はこの法話に、同じ期友のスミヤキスト美谷君が登場するというので、何人かの期友たちと示し合わせて拝聴に出かけた。

スミヤキスト美谷君とは、東大を出た俊英だが、現在は富山県の久利須という山里で炭焼きをしながら、地域ボランティアを通して、環境問題など市民運動レベルの全国的なネットワークに積極的にコミットしつづけている、筋金入りの山村活動家とでもいうか、炭焼き暮しを始めて20年、もうすっかり富山の山里に根を下ろしているその風貌は、日焼けした顔に口髭をたくわえ、心なしか道家然とした味わいがある。

ところが、昨夜の彼の話は法話に類するどころか、彼ら市民オンブス小矢部が前富山県知事を相手取り、高額退職金の違法性と一部返還請求を提訴した、その経緯と活動報告という、俗事といえばこのうえなくナマで俗な話題。
まずは住民監査請求にはじまり、富山県監査委員会の「違法性はない」との監査結果報告を受けて、昨年9月富山地裁へ提訴に踏み切る。4回の公判を経て8月2日には判決が下るという。経緯は「スミヤキスト通信ブログ版」に詳しいが、寺での法話と山里暮しの風貌と行政訴訟という、意外といえば意外な、これほど不釣り合いで奇妙な取り合せもない場面に、多少の違和を感じつつも面白く聴かせてもらった。

終って期友たち5名ばかりで近所の呑み屋に直行、もちろん件の美谷君も一緒で、プチ同窓会のごとき宴会となる。美谷君の義弟上田君も飛び入り参加、酒を酌み交わしつつ談笑すること二時間、ほろ酔い気分で家路についた。
 
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-30>
 明けぬとて別るる袖の浦波に身は遠ざかる奥の浮雲  堯恵

下葉和歌集、恋、袖浦恋。
永享2(1430)年-明応7年以後?、出自不詳。噸阿以来の二条家歌風を継ぐ歌僧で、堯孝の弟子。「下葉和歌集」は堯恵の家集。
袖の浦-出羽国の歌枕、現在の山形県酒田市宮野浦。袖の裏と掛けたのが地名として固定したと見られる。
邦雄曰く、夜明けとともに袖を分つ二人の、その袖は涙に濡れ、波に濡れ、茫然と隔たっていくこの身は、あたかも陸奥の北へと漂い去っていく浮雲。出羽の袖の浦ゆえに「奥」が生き、縹渺たる大景が恋歌のなかにひろがる、と。

 はかなしなみつの濱松おのづから見え来し夢の波の通ひ路
                                    藤原家隆

続拾遺集、恋五、建保二年、内大臣の家の百首の歌に、名所恋。
みつの濱(三津の浜)-歌枕、摂津国の難波から堺へかけての海浜と、近江国坂本あたり比叡東麓の琵琶湖岸の両説あり。
邦雄曰く、夢にのみ逢う恋の通路が見えたのか、否、それは波の通う路で、みつの濱松は「見ずの濱松」。初句切れの溜息のような響きで一首を統べ、淡々しく美しい。「みつの濱松」はまた、名作「浜松中納言物語」の別名でもあったか、と。

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June 12, 2006

忘れずよほのぼの人を三島江の‥‥

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-表象の森- 念は出離の障り

 嘗て私が一遍の15年におよぶ遊行と踊り念仏を捉え、説経小栗の世界とを重ね合わせて舞台を創る、というその動機とヒントを与えてくれたのが、栗田勇の「一遍上人-旅の思索者」(新潮社-昭和52年刊)であった。
その書の終章近く、一遍の語録を引いたこんな行(クダリ)がある。以下要約的に引用するので語法・語尾等に些かの改変があることを断わりおく。

―― 念は出離の障りなり
念仏とは、口に名号-南無阿弥陀仏-を唱えることであるが、「念仏」という以上、たとえ幾らかなりとも、念=想念の入る余地があるというもの。
一遍の説くところは、極論すれば、「念仏」の「念」を捨てれば「仏」が現前するというのだ。
またこの「念」は「心」でもあるという。
―― 名号に心を入るるとも、心に名号を入るべからず
―― 心は妄念なれば虚妄なり。頼むべからず
他力・易行の浄土門が、理智を排するのは分かるが、法然は、常に、称名しながら、念々相続して、弥陀を念じつづけることを勧めた。
親鸞は、むしろ、心の内なる信に救いの根拠を求めている。
一遍は、法然の立場を「念」と捉え、親鸞の立場を「心」と捉え、両者の矛盾をつき批判しているといえようか。
この矛盾を克服止揚するに、一遍は、融通念仏の思想にたどりつく。
口称念仏を、おのれ独りで行じているかぎり、その念仏は、おのれという個人性を離れることは難しい。いかに心を工夫しても、畢竟、念仏は、おのれの心により、おのれの口から発せられ、おのれの生死にのみ拘わらざるを得ない。
だが、何十人、何百人とともに、合唱する名号は、すでにおのれの口から出る名号ではない。
合唱する南無阿弥陀仏の声は、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を唱えている、というわけだ。
この合唱形式こそ、浄土教の主観性から念仏を解放することを可能ならしめたのであり、
ひとつの共同体のなかへの参入、融合によって、逆に、そのなかで、おのれを再生する、こととなる。
合唱による、また、踊るという行為による、自己からの、「念」と「心」からの解放と脱却、
おのれを捨て、おのれを超え、時々刻々、生まれかわるおのれを体験する、
という共同体と行為によるこのあり方は、演劇的なカタルシスにも似て、名号における実存的存在感を現出することになるだろう。
このあたり、一遍時衆が、中世以降の芸能者の系譜に、色濃く浸透してゆく事情も読みとれようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-29>
 忘れずよほのぼの人を三島江の黄昏なりし蘆のまよひに  藤原良経

六百番歌合、恋、見恋。
邦雄曰く、ほの三島江の、それも蘆の葉交い、時刻は黄昏、淡彩を施した墨絵さながらの優美な歌。殊に初句切れの、軽やかな今様調が、六百番歌合時代の一特徴。右は隆信の「花の色にうつる心は山桜霞の間より思ひそめてき」、俊成の判は良経の勝、と。

 なみだ川底は鏡に清ければ恋しき人の影も見えぬは  藤原興風

興風集、寛平の御時、花の色は霞に込めてといふ心を詠み奉れとあるに。
生没年不詳。正六位上、下総大掾。古今集時代の有力歌人、琴の名手。三十六歌仙。古今集に17首、後撰集以下に21首。小倉百人一首に「誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」
邦雄曰く、恋歌に必ず現れる涙川は歌枕とする説もあるが、そう取る必要はなかろう。流す涙が袖に川をなす誇張表現として定着している。涙の玉に恋しい人の面影の映るを歌った例は少なくないが、水底の鏡は異例に近い。とはいえもともと鏡は水鏡、心に願えば俤も顕つと信じられていたから、この恋は既に心の通わなくなったか、或いは片思い。ただ泣くのみの忍ぶ恋、と。

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June 10, 2006

あづま路の木の下暗くなりゆかば‥‥

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-表象の森- 琵琶界の巨星墜つ

 琵琶奏者として唯一人の人間国宝だった山崎旭萃さんが5日未明逝去。
各紙一斉に報じていたのだが不覚にも気づかず、昨日偶々、数日前に草稿なった説経小栗「くまのみち」を携え、節付をお願いするべく奥村旭翠さん宅を訪ねて知るところとなったのは、皮肉というか、妙なめぐり合せとなってしまった。
明治39(1906)年生れ。昨年は白寿を大勢のお弟子さんたちに祝され、なおも日々元気に指導にあたっていたという、満100歳の大往生である。

大阪市内の西区出身だという。まだ幼い8歳にして、活動写真の弁士の横で奏されていた琵琶に魅せられたというから、おそらく商家のお嬢さんだったのだろう。幼くも芸道の鬼神に魅入られ病膏肓に入るか、大正4年10歳で倉増旭陵に本格入門、同11年には早くも自らの「山崎旭萃会」を創立主宰するが、このとき弱冠16歳という早熟の天才ぶりだ。同14年、筑前琵琶橘会宗家初代橘旭宗の直門となり、その後長らく琵琶界の代表的な奏者として活躍するとともに、後進の指導育成に努めてきた。
昭和39(1964)年には、琵琶と詩吟を融合した「大和流琵吟楽山崎光掾会」を創始している。
同42年、初代旭宗の死後、筑前琵琶日本橘会の最高位である「宗範」となる。
琵琶奏者として初の国重要無形文化財保持者-人間国宝-に認定されたのは平成7年、すでに89歳に達していたが、以後10年余をなお琵琶界の象徴的存在として矍鑠と生きた。

彼女の弾き語りを生で聴く機会を得たのは五年前か、高槻現代劇場での山崎旭萃一門会だったが、なにしろ96歳の高齢のこと、プログラムの最期にこれもご愛敬とばかり、琵琶を小脇に抱えるようにして、とても女声とは思えぬほどの野太い低い声で一節弾き語っておられた、この一度きり。
私の手許には彼女の「茨木」の入ったCDがあるが、この弾き語りは力強く情感あふれる見事なものである。この演奏の録音が昭和40年代のものか50年代のものか或いはもっと以前に遡るのか判らないが、ここにはただ一道、芸の熟練が結晶した達人の世界がたしかにある。

彼女の略年譜をたどって、成程と気づかされたことは、昭和20(1945)年の終戦間近に、鹿児島へと疎開、その後14年間の長きを、農作業に従事しながらも琵琶を手放すことなく日々を送っていた、という疎開暮らしの時期が、明治の終り頃から大正を経て昭和初期に、広範に大衆芸能化していった民俗的伝統芸能の諸様式が、戦後の長い冬の時代に遭遇、各々ひたすら耐えてその燠火を絶やさず守ってきた時期と、ちょうどぴったり重なっているのではないかということだ。
日本の歌謡界に浪曲出身の三波春夫や村田英雄が「雪の渡り鳥」や「無法松の一生」を引っ提げて華々しいデビューを果たし、一躍大衆的人気を得たのが昭和33(1958)年だが、ある意味でこの出来事は時代の潮目であったろう。民俗的伝統芸能に携わる人々にとって三波や村田の活躍は、彼ら自身の復活の希望のサインと映っていたにちがいない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-20>
 あづま路の木の下暗くなりゆかば都の月を恋ひざらめやは
                                    藤原公任

拾遺集、別れ、実方朝臣陸奥国へ下り侍りけるに、下鞍遣はすとて。
康保3(966)年-長久2(1041)年。三条太政大臣頼忠の長男。正二位大納言。学才和漢に長じ、管弦をよくし、有職故実に詳しかった。北山抄・和漢朗詠集・拾遺集・和歌九品・三十六人選など多くの編著。拾遺集以下に89首。小倉百人一首の「滝の音は絶えて久しく‥‥」の詠者。
邦雄曰く、藤原実方は行成と口論、宮中で冠を打ち落し、その廉で奥州へ左遷され、作者はその餞別に馬の下鞍を贈る。第二句に「下鞍」が物名歌風に隠してある。道のみならず心まで暗くなりまさる陸奥への旅ゆえに、さぞ都も恋しかろうと、公任の友情が隅々にまで沁みわたっている。贈答の物名歌という制限の中で、心を盡した技倆を称えるべき一首、と。

 別れぬる蘆田の原の忘れ水ゆくかた知らぬわが心かな  源兼昌

宰相中将国信歌合、後朝。
生没年不詳、12世紀前葉に活躍。美濃介源俊輔の子。従五位下、皇后宮少進。内大臣忠通家歌合や国信家歌合などに出詠。金葉集以下に7首。小倉百人一首「淡路島かよふ千鳥の‥‥」の詠者。
蘆田の原-大和国の歌枕、明日の原とも表記している。奈良県王子町、香芝町界隈を指す。
邦雄曰く、歌合の判詞では「忘れ水ぞあやしう聞ゆれども」とあるが、そのあやしさがむしろ、恋歌の埒を越えて人生への歎きに転じる趣き。さして秀作を伝えられてはいない兼昌の、あるいは最良の作かと思われる、と。

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June 09, 2006

影見れば波の底なるひさかたの‥‥

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-表象の森- 賈島の「推敲」

 中国唐代の詩人・賈島(カトウ)のことが下記の貫之詠の解説に登場しているので、この賈島に因んだ「推敲」の故事来歴について。
詩人というものすべからく言葉の用法には吟味熟考あって当然といえば当然のことだが、この賈島という詩人はとりわけ熟考呻吟の人であったらしい。

  鳥宿池中樹-鳥は池中の樹に宿り
  僧推月下門-僧は月下の門を推す

との対句を案出したものの、「推す」に対して「敲く-たたく」はどうであろうかと思い浮かんで、さあ考え込んでしまった。「敲く」のほうが、視覚的効果だけでなく聴覚的効果もあり良いのではないかと思いつつも、「推す」もまた捨て難いと考えあぐねつつ、馬の手綱引く手もおろそかに道を行くうち、不覚にも向こうからやってくる貴人の行列にぶつかってしまった。この貴人が当代きっての詩人韓愈だった訳だが、賈島から謝辞とともに件の事情を聞いた韓愈がしばし考えて「敲く」が良いでしょうと応じると、賈島も我が意を得たりとばかりに喜んだ、との故事より、詩文の字句をあれこれと何度も練り直すことを「推敲」というようになった訳だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-19>
 われを世にありやと問はば信濃なる伊那と答へよ嶺の松風
                                    宗良親王

李花集、雑。
邦雄曰く、李花集の大半は羇旅歌と思われるほどに、作者半生の波乱を物語る漂白の歌が夥しい。信州伊那に数年過し、都の便りも絶え果てた頃の作には「伊那=否、と答へよ」と自らに語りかけるかの悲調が籠る。歌枕を詠んだ作も、たとえその修辞は常套を出でずとも、生きてその地を歩んでいる作者の、重い呟きと切なる希求が伝わってくる、と。

 影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞ侘しき  紀貫之

土佐日記、承平五年一月十七日。
邦雄曰く、延長8(930)年、土佐守となって赴任した作者は、5年後に帰京する。帰途船中の記に現れる秀作。唐詩人賈島(カトウ)の「棹は穿つ波の底の月、船は壓ふ水の中の空を」からの着想であるが、70歳近い貫之の爛熟しきった技法が、幻想の空を走るように、瑞々しく駆使されている、と。

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June 08, 2006

秋風のいたりいたらぬ袖はあらじ‥‥

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-表象の森- 長明忌

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし

いわずと知れた「方丈記」冒頭の一節だが、今日6月8日は長明忌にあたるとか。
とはいっても旧暦のことで、長明の没したのは建保4(1216)年閏6月8日、新暦でいえば7月も下旬頃にあたる。享年62歳といえば奇しくも現在の私の年齢だ。

下鴨神社の禰宜鴨名継の二男として久寿2(1155)年に生まれた長明は、20歳過ぎ、高松女院歌合に和歌を献じてその才を認められたが、まもなく清盛の福原遷都があり新都へ赴くも、やがて壇之浦の平家滅亡で京への復都となり帰洛するというように、動乱の時勢に翻弄されている。そういえば「方丈記」には福原遷都の件りもあった。

正治2(1200)年46歳の折、後鳥羽院に召され院主催の歌合などに和歌を献じ、翌年には和歌所寄人に任ぜられているが、元久元(1204)年50歳の春、宮中を辞し出家、洛北大原に隠遁する。
方丈の庵に暮す身となった隠遁のつれづれに、随筆の「方丈記」や歌論書としての「無名抄」を著すのだが、その庵暮しは「ゆく河の流れは絶えずして」の如く、大原に留まることなくずいぶんと転々としたらしい。

現在、糺の森の一角、河合神社の庭に、長明が暮した方丈の庵が復元公開されている由だが、おもしろいのは組立て式というか移転が至極容易な構造となっていることである。そもそも神社というのは式年遷宮の習慣があるから、造り替え自在の構造を有した一面があるが、長明はこれにヒントを得てか、自らの方丈も簡便な組立て式のものとし、気の向くままに任せてあちこちと移り住んだということらしい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>


長明忌に因み春秋の歌二首

 吉野河浅瀬しらなみ岩越えて音せぬ水は桜なりけり

鴨長明集、春、花。
邦雄曰く、春も末、落花が渓谷の石間から、波に乗り流れに揺られて、峡へ瀞へ落ちてゆく様子を、調べそのもので描き出す妙趣。第一・二句は名詞のみを巧みに配し、軽やかに第三句に移る。水面を覆い盡す桜花、「音せぬ水は桜」は秀句に近いが、この隠喩いささか尋常に過ぎる。「無名抄」の厳しい批評精神は、この名手にしても他作についてのみか、と。

 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮

新古今集、秋上、秋の歌とて詠み侍りける。
邦雄曰く、誰の袖にも悲しみの秋風は届き、それゆえの涙ならば例外はあるまい。この夕べ涙が頬をつたうのは、決して秋風のみの所為ではない。自身の心より湧く悲しみゆえのもの。随分まわりくどい理のように聞こえるが、歌の調べは第四句「ただわれからの」に到って哀切を極め、修理を盡した歎きが読む者の身に沈む、と。

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June 07, 2006

渡れどもぬるとはなしにわが見つる‥‥

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-表象の森- 蕭白讃

 「郡仙図屏風」の奇矯破天荒な異様世界に圧倒されるかと思えば、「蓮鷺図」の滋味溢れる柔和なタッチと構図のこれぞ水墨画という幽谷世界の対照に眼を瞠りつつ、蕭白の画集(講談社刊-水墨画の巨匠第8巻)に眺めも飽かず日ながひとときを過ごす。

岡田樗軒の「近世逸人画史」では、「曽我蕭白、勢州の人なり、京摂の間に横行す。世人狂人を以て目す、其画変化自在なり、草画の如きは藁に墨をつけてかきまはしたる如きものあり、又精密なるものに至りては余人の企て及ぶものにあらず。」とあるそうな。「世人狂人を以て目す、其画変化自在なり」とは然もありなん。「画家なら誰でも狂人に憧れるはずだ」と横尾忠則も畏敬を込めて書いている。
白井華陽の「画乗要略」には「曽我蕭白、号蛇足軒、又号鬼神斎、不知何許人、-略-、山水人物皆濃墨剛勁、筆健気雄、姿態横生寛以怪醜為一派。」とあり、「怪醜」を以て一派を為す、とは蕭白画の本質を一言でよく突いている、と言うのは狩野弘幸。

双幅と二曲一双の二様ある「寒山拾得図」の面妖なる人物造型も惹きつけてやまぬものがあるが、「松に鷹図」や「鷲図」など、稠密な描線と荒々しいまでの筆致を同じ画面に混在させ、過剰なまでの生動感を現出せしめている図にもまた魅入られてしまう。

「画を望まば我に乞ふべし。絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」とは蕭白自身の言だそうだが、江戸も後半期へとさしかかった宝暦・明和の頃、上方文化の爛熟も愈々極みに達せんとしていたのだろうか、無頼の魂ともいうべき、内なる情念が迸るかの如き奔放な自我の表出が可能となる時代精神だったのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-18>
 渡れどもぬるとはなしにわが見つる夢前川をたれに語らむ
                                   壬生忠見

忠見集、播磨の夢前川を渡りて。
生没年不詳、10世紀中葉の歌人。忠岑の子。三十六歌仙。拾遺集以下に36首。
夢前川-播磨国の歌枕、中国山地の雪彦山に発して南流、夢前町、姫路市を経て、播磨灘に注ぐ。
邦雄曰く、名所詠でも歌枕詠でもなく、摂津大目に任ぜられた作者の現実の旅の作であるところが面白く、稀なる美しい名「夢前川」を見事に生かしている点も珍重するに足りよう。「濡る-寝る」の懸詞も、「見つる夢前川」の響き合いも、まことに自然である、と。

 松原の嵐やよわるほの見てし尾上の緑また霞むなり  後花園院

後花園院御集、下、霞、寛正四年閏六月。
邦雄曰く、吹き荒れていた春の嵐がやや鎮まって、松の緑の梢がようやくつばらかに見え、その彼方には青黛の嶺が、うらうらと霞みはじめる。動から静に移る海浜風景を捉えて、絵には描けぬ時間の経過をも歌った。第二・第三句が巧妙。15世紀中葉の和歌の一面を代表する、と。

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June 06, 2006

御手洗や影絶え果つるここちして‥‥

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-表象の森- ふたつの讃美歌

 西洋の曲に日本語の歌詞をのせる場合、日本語の高低アクセントはあたうかぎり無視された。
もともと高低アクセントは可変的で、さほどたしかな恒常性を有していないから、それは可能だったのである。
しかし、ことばのリズム、音数律に固有の法則性は、曲のリズムに対して強度の干渉作用を及ぼさずにはいない。――「神の御子の‥‥」はその点を示唆している。-明治36年版の第417番讃美歌
  かみの御子の  エスさまは
   ねむりたまふ  おとなしく
  かひばをけの  なかにても
   うたぬ藁の   うへにても
  うまが啼いて  目がさめて
   わらひたまふ  エスさまよ
  あしたのあさ  おきるまで
   床のそばに   居りたまへ
この稚拙な語調は、表現上の限界を示すものと受けとるべきである。六・五音の反覆からなる詩型からもあきらかなように、讃美歌の訳者たちは3/4拍子の曲になんとか六音の律を適合させようと試みている。
その場合、五音のほうは句としてのまとまりを保ちえているのに反して、六音のほうは、「あしたのあさ」をのぞけば、どれも3・3の音節群に分解せざるをえないという特性を示す。これは日本語の語句の構成からすれば、自然であり必然であるところの選択作用を示唆する。
  かみの御子の エスさまは‥‥
のごとく1:1:2の拍数比からなる3・3・5の音数律形式は、原曲がもっている3/4拍子リズムを、あたうかぎり日本語固有のリズム構成である4/4拍子へとひきよせずにはおかない。
西洋への同調を意図した訳者たちは、逆に土俗の根柢をよびだすことになった。それとともに旋律もまたリズムの下降に応じて、西洋式の音階から土謡的な音階へ移行するのである。

 明治36年といえば新体詩の爛熟期であった。讃美歌の編訳者たちも、それに呼応するかのように、美的な表現を志向する――その一典型ともいえるのが第409番である。
  やまぢこえて     ひとりゆけど
  主の手にすがれる  身はやすけし
  まつのあらし      たにのながれ
  みつかそのうたも   かくやありなん
  みねのゆきと      こゝろきよく
  くもなきみそらと    むねは澄みぬ
  みちけはしく      ゆくてとほし
  こゝろざすかたに   いつかつくらん
  されど主よ       ねぎまつらじ
  たびぢのをはりの   ちかゝれとは
  日もくれなば      石のまくら
  かりねのゆめにも   みくにしのばん
曲をはなれて、詩として読んでも美しい。とくに成功しているのは、六・六音の行につづく八音の句からもたらされるテンポの加速、そして一節ごとに四句目の七音の終止形である。
「山路越えて‥‥、松の嵐‥‥、峰の雪‥‥」というように、和歌的な道行の叙景様式を借りることにより、<旅>の主題を、伝統的な美意識の上限で定型化し、それをあらためてキリスト教的な理念の<喩>へと導くことがここで試みられているのだが、道行風の叙景様式は、むしろ理念に逆行して、はてしなく土俗の原型に下降してゆく――つまりは生活意識の倒立像にほかならないものと化す。-松の嵐も、谷の流れも、峰の雪も、生活の崩壊としての<旅>すなわち流浪の眼にさらされることを避けられない。孤独な旅路の終りが近いことを希ったりしない‥‥という彼岸的な逆説=理念の成就に到達する以前のところで、叙景そのものが無化される――それがこの歌の印象を、暗く不透明なものにしたのである。
      ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-17>
 契らずばかけても波の枕せじあはれとぞ思ふ磯の松が根
                                   木下長嘯子

挙白集、旅、旅の歌の中に。
邦雄曰く、海浜の松にことよせて、自らの海行く旅の寂しさを訴える。草枕に対して海路は「波枕・浮枕」の称がある。約束ゆえ敢えてこの旅にも出たがと憂愁の色は濃い。四句の強勢による一音過剰も、調べに重みを添える。羇旅歌にも修辞には技巧を駆使して、独特の趣向を誇っている、と。

 御手洗や影絶え果つるここちして志賀の波路に袖ぞ濡れこし
                                   式子内親王

千載集、雑上。詞書に「賀茂の斎変り給うて後、唐崎の祓へ侍りけるまたの日、雙林寺り皇子の許より、昨日は何事かなど侍りける」と。
御手洗(みたらし)-山城国の歌枕、本来は普通名詞、身を清め参拝するための神前の川。京都市左京区の賀茂社前の御手洗川が歌枕化した。
邦雄曰く、式子が斎院を退下したのは嘉応元(1169)年七月下旬、十代の後半であったが、その頃のことは後々幾度も、懐かしんで歌っている。第二句「影絶え果つる」にさえも、作者の詩魂は暗い光を発する、と。

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June 05, 2006

思ひやれ都はるかに沖つ波‥‥

Nakahara0509180981

-表彰の森- 「愛染かつら」-昭和十三年

「愛染かつら」の映画が全国の女性を熱狂させたという昭和13年。――
主題歌の「旅の夜風」
――花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる途、泣いてくれるなほろほろ鳥よ、月の比叡を独りゆく
一種行進曲風のスタイル、とくに第一節の歌詞は、股旅ものと軍歌を折衷させたようなところがある。
もうひとつの主題歌「悲しき子守唄」
――可愛いいおまえがあればこそ、つらい浮世もなんのその、世間の口もなんのその、母は楽しく生きるのよ
「旅の夜風」に対して、此方は<間のび=思い入れ>型三拍子の典型であり、しかもこの曲では、すでに感性の下降様式=センチメンタリズムは、いっさいの社会的意味を失って、母性本能といった自然性を装わざるをえないところにまでゆきついている。それが逆にこの歌の時代・社会的意味を体現する。その仮象は、裏返せばすぐにも愛国の母といった名辞=イデオロギイに転移するはずのものである。
      ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-16>
 思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心ぼそさを  崇徳院

風雅集、旅、松山へおはしまして後、都なる人の許に遣はさせ給ひける。
邦雄曰く、保元元(1156)年7月23日、崇徳上皇は讃岐に遷された。時に37歳、以後8年、崩御までついに都への還御を、8歳下の後白河法皇は許さなかった。命令形初句切れは哀訴を含んだ恨みの言葉。血肉の憎しみを知る崇徳は、おそらく都へ還ることは諦めて流されたことだろう。「立ちへだてつる」は波ではなく、弟であったかも知れない、と。

 かぎりなく結びおきつる草枕いつこの旅を思ひわすれむ  藤原伊尹

新古今集、恋三。詞書に、忍びたる女を、仮初めなるところにゐて罷りて、帰りて、明日に遣はしける。
邦雄曰く、隠し妻と過した一夜の暁の後朝の歌。旅寝の草枕の草を行く末限りなくと引き結ぶことに譬えての詠。下句は本によって幾通りかあるが、濁れば「何処の旅」とも読めることは一興。新古今には十首入集したが、それすべて恋の部ばかりというのも面白い、と。

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June 04, 2006

風変はる雲のゆききの夕しぐれ‥‥

0511291931

-表象の森- 琵琶弾き語りによる説経小栗の草稿-承前

<照手の車曳き>
生まれぬさきの身を知れば、生まれぬさきの身を知れば
哀れむべき親もなし
運命の糸の綾ふしぎ、今業平とうたわれし、判官小栗の成れの果て、
知るや知らずやともどもに、変わり果てたる互いの姿
善根功徳の一滴、せめて積みたや一重二重、情けが頼みの曳き車
照手この由聞こし召し、千僧万僧及ばぬとて、たとえ一刻一夜とて
夫の供養となるならば、一曳き雌綱を曳きたやな
愛し殿御の面影抱いて、二曳き雄綱を曳きたやな
心はものに狂はねど、姿を狂気にもてないて
曳きつまろびつ、まろびつ曳きつ
餓鬼阿弥乗せたる土車、一曳き引いたは千僧供養
めぐるえにしの土車、二曳き引いたは万僧供養
罪障消滅、餓鬼阿弥陀仏、補陀落浄土は熊野の道へ
えいさらえい、それえいさらえい、
えいさらえい、やれえいさらえい、と曳き出だす
姫が涙は垂井の宿、高宮河原に鳴くひばり
姫を問ふかよ優しやな、御代は治まる武佐の宿
眼なし耳なし餓鬼阿弥に、心の闇がかき曇り
鏡の宿も見も分かず、あらいたわしやと姫が裾
露は浮かねど草津の宿、えいさらえいと曳き過ぎて
三国一と聞こえも高き、瀬田の唐橋夕べに映えて
水面に映す二つの影も
やがてとっぷり暮れゆけば、夜のしじまに沁みわたる
石山寺の鐘の音に
餓鬼阿弥、照手もろともに、偲ぶ面影熱き胸
憂き世の無常を告げるごと、蕭条として響きけり
蕭条として響きけり

<小栗街道、くまのみち>
とも跳ねよ、かくてをどれ、こころこま
弥陀の御法と聞くぞうれしき
照手悲しや後ろ髪、逢ふは別れの逢坂の関、涙にくれて西東
頼みの綱はたれかれと、道行く人の気まぐれに、任せてあれや土車
雌綱を曳くはをなごども、雄綱を曳くはをのこども
やがて過ぎにし都の城、桂の川も、えいさらえいと引き渡し
淀の葦原風そよぐ、浮き草にさえ較ぶれぬ
藁にもすがる命の灯ならば、情けを頼みの土車
汝はいざ知らず吾れもまた、などか人の心は計り知れぬものなりや
曳きて継がれて、継がれて曳きて、あなかしこやなめでたやな
沈む夕陽に照り映えて、荘厳の輝きめくるめく
此処は難波津、聖徳の太子も所縁は、四天王寺へと着き給ひけり

   聞いたか、聞いたか、   聞いたぞ、聞いたぞ
   一曳き引いたは、千僧供養   二曳き引いたは万僧供養
   罪障消滅、功徳じゃ、功徳じゃ
   えいさらえい、それえいさらえい
   えいさらえい、やれえいさらえい
   信、不信をえらばず、とや   浄、不浄をきらわず、とや
   跳ねば跳ねよ、をどらばをどれ
   とも跳ねよ、かくてもをどれ
   小栗街道、くまのみち   ありがたやの熊野の宮は
   あっちか、こっちか   こっちか、あっちか
   補陀落浄土へ、くまのみち   ありがたやの湯の峯は
   あっちか、こっちか   こっちか、あっちか
   餓鬼阿弥小栗の、つちぐるま   これぞ亡者のくまのみち
   一曳き引いたは、千僧供養   二曳き引いたは万僧供養
   えいさらえい、それえいさらえい
   えいさらえい、やれえいさらえい
   エイサラエイ、エイサラエイ

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-15>
風変はる雲のゆききの夕しぐれ霽れ間を袖に知らぬ身ぞ憂き
                                   下冷泉政為

碧玉集、恋、聖廟法楽百首当座、宋世亭にて、寄雲恋。
邦雄曰く、袖は涙に濡れて乾く暇もないとは、沖の石の讃岐以来の決まり文句だが、この歌、むしろ「袖」を従として、冬空の慌ただしい変容を巧みに表現したところに見所あり。雑の部「薄暮雲」題の「名残ありと跡吹きおくる山風の声をうつまでかへる白雲」は叙景歌ながら、心理の彩をなぞらえて歌っている趣きあり。冷泉の流れの中では出色、と。

ともし火と頼めてあかき月をさへ雲にそむくるさやの中山  玄譽

玄譽法師詠歌聞書、大永六年三月十一日会、雑、佐夜中山。
生没年、伝不詳、16世紀前葉の人か。
邦雄曰く、詞書あり、「此の題にて、雲は閨月はともし火、と詠みたる歌侍るあひだ、如此仕候」 引用は藤原良経の秋篠清月集「院初度百首」、「かくしても明かせば明くるさやの中山」であろう。勅撰不載のこの歌を採るのは、良経に傾倒する徴か。本歌よりもさらに翳りの多い技巧的な詠風。冷泉家の風を享けた歌人と思われる、と。

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June 03, 2006

むらむらに雲のわかるる絶え間より‥‥

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-表象の森- 琵琶弾き語りによる説経小栗の草稿

 これは、妖怪Performer.デカルコ・マリィに捧げる、琵琶弾き語り台本の草稿である。

<餓鬼阿弥小栗の蘇生>
冥土黄泉もまた阿修羅道とは、こは如何せむ
冥土黄泉もまた阿修羅道とは、こは如何せむ
非業の死を遂げしよりはや三年の判官小栗
彼方に遠きは浄土門、身は餓鬼道の地獄門
是は如何なる宿縁なるか、あら口惜しや未練やな
魂魄とどめて定まらず、彷徨ふばかりに堕ち堕ちぬ
此処は地獄の閻魔とて
千に一つの理法有りや、万に一つの情法有りや

  我れこそは、地獄の閻魔大王なり
  この者を、藤沢のお上人の、明堂聖の、一の御弟子に渡し申す
  熊野本宮湯の峯に、お入れあってたまわれや
  お入れあって、たまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げうべき
と大音声、虚空をはったと打ちあれば、あら不思議やありがたや
築いて三年の小栗塚、四方へどどうと割れてのき
卒塔婆は前へかっぱと転びては、群烏ども笑ひける

跳ねば跳ねよ、をどらばをどれ春駒の
法の道をば知る人ぞ知る
信、不信をえらばず、浄、不浄を嫌わず、とや
念仏踊りは浄土の道ぞ、駿河の国は藤沢の
明堂聖の法灯はこの世を照らす白き道
一の御弟子のお上人、彼方此方を這ひ回る
餓鬼阿弥小栗をば土車にと乗せやりて
一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養
とお書きあれば
念仏踊りのをなご衆をとこ衆、吾も吾もと声々に
一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養
えいさらえい、えいさらえいと、曳き出だす
一曳き引いたは千僧供養、二曳き引いたは万僧供養
えいさらえい、それえいさらえい
えいさらえい、やれえいさらえい

<流浪する照手>
憂き世の旅に迷ひきて、憂き世の旅に迷ひきて
夢路をいつと定め得む、
生者必滅世の習ひとや、無常のこの世に定めなき
あらいたわしや照手の姫は、露も涙もそぼちつつ
流れ流れのゆきとせが浦
忍ぶもぢ摺り浮き草の、売られ売られてもつらが浦
鬼は塩谷か六道寺、珠洲の岬は能登の国
此は成り剰れるものの最果てぞ、波間に浮かぶ浜千鳥
本折、小松は加賀の国、三国港は越前の
敦賀の津へと売られゆく
あら恨めしや浅ましや、蝶よ花よは今ぞ昔
売り手買い手の胸先三寸
水面に漂ふ笹舟もかくとだにかや、照手の姫
この身にくだる因縁の、業の深みに破れ簑
さすらひ果つるは美濃の国、誰をとぶらふ青墓の
よろづの君の長殿の、下の水仕のをなごとて
常陸小萩と渾名され
上り下りの馬子どもや、春をひさぎし姫どもの
あなたこなたと召し使ふ、賤が仕業の縄だすき
これやこのかかるもの憂き奉公も
寄る辺なき身の定めとかは
時は流れて三年の、哀れとどめぬ照手の姫

<餓鬼阿弥、街道をゆく>
補陀落の渡海の道ぞくまのみち、補陀落の渡海の道ぞくまのみち
餓鬼阿弥陀仏誰ぞ曳くや、
熊野の宮の湯の峯に、お入れあって給われや、
雌綱雄綱の土車、一曳き引いたは千僧供養
餓鬼阿弥乗せたる土車、二曳き引いたは万僧供養
この世の救いなかれとて、あの世に光明あれかしと
をのこばかりかをなごまでも、一曳き二曳き引き出だす
えいさらえい、それえいさらえい
えいさらえい、やれえいされえい、と曳き継がれ
藤沢発って小田原と、足柄、箱根を越え出でて
伊豆の三島や富士川の、駿河入りして大井川
車に情けを掛川の、三河に架けし八橋の
熱田明神曳き過ぎて、餓鬼阿弥小栗の土車
やがてかかるは美濃の国、青墓の宿に入りたまふ
                       ―― つづく

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-14>
 古りにける三輪の檜原に言問はむ幾世の人かかざし折りけむ
                                    惟明親王

続古今集、雑下、題知らず。
治承3(1179)年-承久3(1221)年、高倉帝第三皇子、母は平義範の女(少将局)、安徳帝は異母兄、後鳥羽帝は異母弟にあたる。和歌に優れ、式子内親王や藤原定家と親交。新古今集初出、勅撰入集34首。
邦雄曰く、明記はないが、千五百番歌合の雑一にあり、判者慈円の判詞は「情ある三輪の檜原の挿頭をばさして思ひぞ山の里人」とある。主催者後鳥羽院の、兄君への表敬の意はさらにない。設問体三句切れは、調べを雄大に、豊かにして、下句のめでたさもひとしお、と。

 むらむらに雲のわかるる絶え間より暁しるき星いでにけり
                                   藤原為子

玉葉集、雑二、三十首の歌召されし時、暁雲を。
邦雄曰く、暁の明星を雲の絶え間に見る。東天に「しるき星」金星は煌めく。静かに、現れるように眼に顕つ星は、「むらむらに」のただならぬ雲の動きの表現によって、さらに鮮やかとなる。風雅集・雑上には「東雲のやや明け過ぐる山の端に霞残りて雲ぞ別るる」と、同趣の自然観照の、控え目ながら言い遂げた文体は、作者の殊に得意とするところ、と。

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June 01, 2006

誰が契り誰が恨みにかかはるらむ‥‥

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-表象の森- 竪筋と横筋

江戸中期の歌舞伎狂言作者、初世並木五瓶(1747年-1808年)は大阪道修町に生れ、大阪浜の芝居の戯作者として活躍、「楼門五山桐」など壮大なスケールの時代物が評判をとり、上方歌舞伎随一の人気戯作者となったが、寛政6年、当世人気役者の三世沢村宗十郎とともに招かれて江戸に下る。この折、五瓶は年俸300両という破格の待遇で桐座の座付作者として迎えられたという。

初世並木五瓶には、自らの戯作の方法論ともいうべき約束事を詳論した「戯財録」があるが、そのなかで「大筋を立てるに、世界も仕古したる故、ありきたりの世界にては、狂言に働きなし、筋を組立るゆえ、竪(たて)筋・横(よこ)筋といふ。譬えば太閤記の竪筋へ、石川五右衛門を横筋に入る。-略- 竪筋は世界、横筋は趣向に成。竪は序より大切りまで、筋を合せても動きなし。横は中程より持出しても、働きと成りて、狂言を新しく見せる、大事の眼目なり」と言っている。
芝居には竪筋と横筋がある。それは「世界」と「趣向」というべき対照のものだが、芝居の「世界」はその骨格をなすものだから、必要欠くべからざるものである。しかし物語世界の骨格すなわち竪筋ばかりでは芝居に「働き」というものが生まれてこない。そこで戯作者が工夫すべきは趣向すなわち横筋を注入することによって、初めて芝居に俄然「働き」が生まれることになる、というのだ。
たとえば「楼門五三桐」という狂言、この芝居は竪筋=世界としての「太閤記」に、石川五右衛門という横筋=趣向を加えることで、新味が添えられ、大向うを唸らせるような面白みが増そうという訳である。

観客にとって芝居の面白さや醍醐味は、竪筋=世界としての「求心力」と、横筋=趣向としての「遠心力」が、相互に働きあってこそ供せられるもの、是れ、文字通り縦横無尽の遊び心が戯作者に求められているといえようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-13>
 飛鳥川七瀬の淀に吹く風のいたづらにのみ行く月日かな  順徳院

続後撰集、雑上、人々に百首の歌召しけるついでに。
邦雄曰く、万葉・巻七に「明日香川七瀬の淀に住む鳥も」と歌われて以来数多の用例をみるが、言葉の美しい形象と響きが、一首に特別の効果を与える。この歌、古今・冬の「昨日といひ今日と暮して飛鳥川流れて早き月日なりけり」を本歌とするが、第四句「いたづらにのみ」の徒労感に、時代の移りがみえる、と。

 誰が契り誰が恨みにかかはるらむ身はあらぬ世のふかき夕暮
                                    冷泉為相

風雅集、恋五、題知らず。
邦雄曰く、恨むる恋の姿もさまざまあるが、死後の世界から、現世へと、わが恋の果てとその転生を想像するとは、もはや恋の領域を超えて無常の感すら添ってくる。上句の複雑な思考の曲線も見事だが、さらに下句の「身はあらぬ世のふかき夕暮」の響きは深沈として魂に及ぶ、と。

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