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May 31, 2006

それとなき夕べの雲にまじりなば‥‥

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-表象の森- 小栗判官

 滅多に戯曲など読まない私だが、このほど梅原猛の「小栗判官」を読んでみた。市川猿之助一座のスーパー歌舞伎「オグリ」の上演台本の元となったものだが、その舞台への関心からではない。嘗て私自身が一遍の踊り念仏と説経小栗をネタにして舞台を創ったことがあり、梅原小栗との対照をみてみたいと思ったからにすぎない。
梅原「小栗判官」は全編260頁の大部。全二幕二十五場、これをそのまま上演に供せば5時間に及ぶものとなろうか。説経小栗の伝承世界が、さまざまなエピソードを網羅して懇切丁寧に語り尽くしてくれるものではある。現代版小栗判官絵解き芝居とでもいえようか。だがあまり面白くないのである。梅原氏特有の理に落ちた場面なり言葉なりがずいぶんと目立ち、筋売りや説明に堕する箇所が多いのだ。

日本架空・伝承人名辞典によれば、説経小栗判官のルーツは「鎌倉大草紙」にその片鱗が見受けられることから、享徳年間(1452-55)の、鎌倉公方家と管領家の闘諍に連座して滅んだ常陸の小栗氏の御霊を鎮めるために、常陸国真壁郡小栗の地の神明社と所縁のあった神明巫女が語り出したものが、藤沢の時宗の道場に運ばれて、時宗文芸として成長したものと考えられている。小栗が鬼鹿毛を乗り鎮めるなどには、馬にまつわる家の伝承が流れ込んでいると見られるが、相模国を中心として御霊神祭祀を司り、牧をも経営した大庭氏の職掌に関係しているのではとされている。
また、小栗は鞍馬の毘沙門天の申し子とされ、照手は日光山の申し子とされており、さらに死後においては、小栗は墨俣の正八幡、異伝には常陸国鳥羽田ともされ、照手は墨俣の結ぶ神社、異伝には京都北野の愛染堂、に祀られたとするなど、ひろく各地の伝承が流れ込みながら形成されてきたとみえる。

蟻の熊野詣でと称されたように、古代から中世・近世へと、熊野古道(熊野街道)を経ての熊野詣では、伊勢参りと双璧のごとくひろく伝播した信仰行脚の旅であったが、この熊野への道を小栗街道と異称されるようになるのは、この説経小栗譚の民衆への浸透ゆえだ。

「この者を、藤沢の御上人の、明塔聖の、一の御弟子に渡し申す。
 熊野本宮、湯の峯に、お入れあってたまわれや。
 お入れあって、たまわるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」
と、地獄の閻魔大王の大音声が谺すれば、築いてはや三年の小栗塚は、四方へ割れてのき、卒塔婆はかっぱと転んで、餓鬼病みの姿に転生した小栗が、彼方此方を這い回る。藤沢の上人はこれを土車に乗せ、胸札には「一曳き引いたは、千僧供養、二曳き引いたは、万僧供養」と認めては、男綱女綱を打ってつければ、男ども女ども手綱を取って、えいさらえい、えいさらえい、と引き出だす。
と、これより熊野本宮は湯の峯までおよそ180里という道のりを、街道筋の善男善女や道中道すがらの者たちに、壮大なリレーよろしく引き継がれてゆくのである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-12>
 紫は灰さすものそ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰
                                    作者未詳

万葉集、巻十二、問答の歌。
海石榴市(つばいち)-大和国の歌枕、椿市とも。奈良県桜井市三輪町の金屋辺り、椿市観音が残る。
邦雄曰く、大和の三輪に近い海石榴市は、椿油・材・灰等を中心とする交易で栄え、雑踏引きも切らず、男女ひしめき、おのずと嬥歌(かがひ)の地として知られていた。紫紺染めの媒染剤として、椿の灰は不可欠である。序詞はそれを指し、意は結句の「誰」、名を知りたいことに尽きる。椿は国字、唐では海彼から来た安石榴(ざくろ)のような花ゆえに海石榴(つばき)とした、と。

 それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かは分きてながめむ
                                  待賢門院堀河

風雅集、雑下、夕暮に雲の漂ふを見て詠める。
生没年不詳。神祇伯顕仲の女。前斉院(令子内親王)に仕え六条と呼ばれ、後に待賢門院に仕えて堀河と名乗った。待賢門院出家に随って尼となる。金葉集以下に67首。
邦雄曰く、雲は死後の火葬の煙、たとえば、今あの西空に見える鱗雲が誰の亡骸を焼いたものかは、誰にも知れないように、自分もまた雲になってしまえば、地上の生ける人々は、見分けることもあるまい。微かに恋の趣を含みつつも、無常の嘆きひそかに漂う、あはれ深い歌である、と。

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May 30, 2006

熟田津に船乗りせむと‥‥

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-表象の森- 栃拭漆楕円ノ器

 3月12日付で触れた伝統工芸展で、村上徹君の木工作品「栃拭漆楕円ノ器(トチフキウルシダエンノウツワ)」が見事「近畿賞」の栄に輝いた。これはささやかなりとも彼を囲んで祝宴あげるべしと、昨日(5/29)が最終日の「日本伝統工芸近畿展」に京都高島屋へと出向いた。会場で落ち合ったのは、梶野哲さんと啓さん兄弟、谷田君と私の4名。展示総数は約270点、3月に心斎橋そごうで観たときの、所狭しと重なるように並べ立てられた展示に比べれば、それぞれの作品を堪能するに適した展示であり空間であった。

しばらくあって村上君登場、午後5時閉館で作品の搬出作業もあるので、彼とはあとで落ち合うことにして、我々4人はまだ明るい河原町界隈を、ほどよい居酒屋を求めて歩く。三条木屋町の角あたり、これは帰り際に知らされたのだが、近藤正臣の母者が営んでいるという旧いが少々品のよさそうな店に落ち着いた。

酉年と戌年という一歳違いの梶野さん兄弟、今どき70代をご老体と呼んではお叱りを受けようが、それにしても老いたるを知らぬ邪気たっぷりの溌剌コンビは、我が儘気儘に舌鋒冴えて飛び交う会話も変人奇人の迷走宇宙。年老いて子どもに還るというが、かたや高校美術教員として他方ドイツ文学・美学の学究の徒としてひたすらに生きてきたこの兄弟は、まだ頑是ない頃からずっと早熟な子どものまま変わらず年を経てきたような妖怪変化の類なのだ。

やっと合流した本会の主賓村上君を囲んで祝杯を挙げて、5者の放談はさらに空中戦の様相を呈す。したたかに酔いもまわって話の行方も定まらぬ。そろそろ潮時かとやっと腰を上げたときは飲み始めてから3時間半を経過していたろう。

村上君の供した話題で、先の大阪の展示会場、心斎橋そごうでは空調設備がお粗末で、なんと室内湿度が常時20~30パーセントとか。彼の作品は一枚物の木からの刳抜(くりぬき)漆器なのだが、一週間の会期楽日にわが作品と対面して、乾燥で木肌は痩せ艶失せて見る影もないほどに哀れな姿になっていたというのには驚かされた。私などその前日に出かけて観賞したわけだが、そんな精緻なことが分るはずもない。その道のプロの眼というものに感じ入るとともに、木の作品とはまさに呼吸し生きているものなのだと痛感させられた。

私にとって初会の梶野啓さんには、彼著作の「ゲエテ-自己様式化する宇宙」を、1万円也を越す高価本のこととて、図書館にはあろうから借り出して読んでみると約したものの、今日早速調べてみるも、残念ながら蔵書目録になし。他の著作はと調べてみれば「複雑系とオートポイエシスにみる文学想像力-一般様式理論」なる長題の本が一冊、これはアマゾン古書で廉価に手に入るようだから、どうもタイトルに気圧されそうだが、近い内に挑んでみようと思う。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-11>
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
                                     額田王

万葉集、巻一、雑歌。
夙に人口に膾炙した万葉歌。斉明期661年1月6日、斉明女帝は西征の船団を率いて難波の港を発つ。14日に四国松山の近く熟田津(にきたつ)に到着、道後温泉に行宮を設けた。天智中大兄、天武大海人の二皇子以下、その姫や寵姫らも船団に在った。
邦雄曰く、「今は漕ぎ出でな」と、船団の出立を、作者自身が朗詠し、士気を鼓舞したという説もあり、三句切れ四句切れと息も吐かせず、命令形結句へ畳み込む、雄渾な趣き溢れる名歌。

 都にも久しくいきの松原のあらば逢ふ世を待ちもしてまし  周防内侍

新続古今集、離別。
生没年不詳。周防守平棟仲の女という。名は平仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代に仕えた。後出家してまもなく歿。後拾遺集以下に35首。百人一首に「春の夜のゆめばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」。
邦雄曰く、大納言源経信が筑紫へ赴任する時、餞別に贈った歌。生(いき)の松原は福岡県早良郡壱岐村の浜。神功皇后征韓首途の際、松を逆さに地に刺して、凱旋したらこの松が「生き」ようと占われた故事あり。内侍の歌の底にも、この悲愴な趣は湛えられていよう。「あらば逢ふ世を待ちもしてまし」は、寧ろ再会を殆ど期待していない心が仄かに見える、と。

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May 29, 2006

さみだれに花橘のかをる夜は‥‥

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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-03

<間のび-思い入れ>-センチメンタリズム

 社会にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメンタリズムとして表現されるに至る過程とは、2/4拍子と同一のリズム原理を保持しつつ――2/4→4/4→6/8→3/4拍子‥‥と変貌をかさねてゆく過程である。
上限からの脱落は、<近代>的強弱拍そのものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想を西洋風の三拍子に癒着せしめそこに定住すること――「青葉の笛」がそうであり、また近代唱歌のひとつの到達点というべき「故郷」がもっとも典型的に示しているのも、それ以外ではない。この過程が意味するのは、上限から下限へ、また下限から上限へ、<根源=局限>がほとんど同一的に循環を繰り返している定型様式の所在である。

けれども、まずテンポの二重性<規範-心情>となってあらわれた違和の本当のモティーフは、<三拍子とはなにか>を深く本質的に問うことの涯に、みずからの根源を同一循環から切り離し解き放ち、まったく別の原基=原理に立たしめようとする志向ではなかったのか――もちろんあくまでも、<音楽>ではなく<詩>の問題として。
  ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-20>
 ほととぎす皐月水無月分きかねてやすらふ声ぞ空にきこゆる
                                     源国信

新古今集、夏、堀河院御時、后の宮にて、閏五月郭公といふ心を
延久元(1069)年-天永2(1111)年、村上源氏の裔、右大臣源顕房の子、権中納言正二位。堀河院歌壇で活躍、自らも源俊頼・藤原基俊ら当代歌人を集め歌合を主催。「堀河百首」を詠進。金葉集初出。
邦雄曰く、例年の五月の次に閏五月、五月が二度ある暦法の変則を、知らぬ鳥がとまどって、鳴こうか鳴くまいか、水無月なら季節外れになると、その弱々しい声を、遠慮がちに聞かせるとの趣向。12世紀初頭、金葉集時代の、詞書あっての面白さで、嫌う人もあろう。あくまでも出題に際しての、当意即妙を楽しむべき一首、と。

 さみだれに花橘のかをる夜は月澄む秋もさもあらばあれ  崇徳院

千載集、夏、百首の歌召しける時、花橘の歌とて詠ませ給うける。
邦雄曰く、たんに橘の花が香るのではない。五月雨の夜、月も星もない漆闇の中に、あの冴え冴えとした酸味のある芳香が漂うのだ。明月天に朗々たる秋夜も何しょう、私は雨夜の橘を愛するとのおおらかな宣言。一種悲壮な潔さを感じさせ、彼の惨憺たる晩年を予言するかのよう、と。

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May 28, 2006

菖蒲にもあらぬ真菰を引きかけし‥‥

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-表象の森- 栄利秋の彫刻「木の仕事」

 畏友というには先輩にすぎる。奄美大島の出身、南国の島の民らしい風貌と体躯に、人懐っこい柔和な笑顔がこぼれるとき、一瞬、黒潮に運ばれてくる暖かい大気に包まれるような心地よさがある。栄利秋兄、1937年生れの彫刻家。その作風は、素材が木であれ石であれ、あるいはブロンズであれ、生の根源に迫ってすぐれて雄大、太陽に、海に、そして宇宙にひろがるイメージがある。彼のいくつもの抽象的なオブジェが、パブリック・コレクションとして、全国各地、市民たちの群れ集う広場、さまざまな公共の空間に棲みつき、大気と共振し、宇宙と交感しながら、生命の輝きそのものを人々に伝えている。その作品たちのもっとも新しきは長野市の笹ノ井駅西口に魂振るがごとく立っているはずだ。

いま、「栄利秋-木の仕事-」と題された作品展が大阪の信濃橋画廊で開催されている。
5月22日から6月3日までの2週間、今日はすでに中日を迎え折り返し点というわけで、遅きに失したとはいえ、なおまだ一週間あるので、此処に掲載紹介することは些かなりとも意義はあろう。

栄利秋 profile
現代彫刻・造型作家。
1937年鹿児島県奄美大島に生れる。
大阪学芸大学芸学部(美術)を経て、
65年京都市立美大美術専攻科(彫刻)を修了、優秀賞受賞。
翌年、現代美術の動向に招待出品。以後数々の美術展・彫刻展に招待出品し、
第3回現代日本彫刻展・宇部興産賞、ヨコハマビエンナーレ86彫刻展・協賛賞、
第13回神戸須磨離宮公園現代彫刻展・土方定一記念賞、第30回長野市野外彫刻賞など受賞多数。
初期の木彫から樹脂へそして石へと、その素材の遍歴は、故郷奄美の太陽や海といった雄大な自然がイメージの源泉となって、作品のスケールをよりダイナミックなものへと変容させ、「すべての生命への讃歌としての彫刻」に相応しい独自の造型世界を創出してきた。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-19>
 菖蒲にもあらぬ真菰を引きかけし仮の夜殿の忘られぬかな  相模

金葉集、恋上。
邦雄曰く、心のままに逢うこともできぬ人と、淀野で真菰を引きかけて、仮のしとねを作り、かりそめの夜を過ごした。普通ならば香気に満ちた菖蒲を敷いて寝たろうに、とは思いつつも、その慌ただしく、映えぬ夜殿が、かえって忘れがたいと歌う。この歌、男への贈歌だが、本来なら男から彼女へ歌い贈るべきだろうが、それもまたあはれ、と。

 よそにのみ見てやは恋ひむくれないの末摘花の色に出でずは
                                  詠み人知らず

拾遺集、恋一、題知らず。
邦雄曰く、末摘花は後の源氏物語巻名にも見え、あまねく知られる紅花。万葉集巻十「夏の相聞・花に寄す」には、「よそのみに見つつ恋せむくれないの末摘花の色に出でずとも」とあり。また古今集恋一の、「人知れず思へば苦しくれないの末摘花の色に出でなむ」と互いに響きあい、花と恋の照応を楽しませる、と。

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May 27, 2006

雨はるる軒の雫に影見えて‥‥

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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-02

<根源の解体>――「戦友」

 「敵は幾万」や「勇敢なる水兵」などの軍歌、「箱根八里」などの中学唱歌、そして寮歌から「鉄道唱歌」までをふくむおなじリズム型、単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきものが明治ミリタリイ・マーチの本質であった。
そして上限における強化に対して、下限からの自己解体を含んであらわれたのが、テンポの二重化であり、<規範-心情>の乖離そして<間のび-思い入れ>であり、ついには行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるのである。
――その分岐をなすのが明治38年の「戦友」である。
あたうかぎり理念化され――加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピークをすぎていまや減速――すなわちなんらかの現実化を迫られる。些か比喩的にいうなら、このリズム自体の内部に、<ゆきだおれ>を含まざるをえない――それを象徴しているのが「戦友」である。
「これが見捨てて置かりょうか、しっかりせよと抱き起こし‥‥」というように。

  ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-18>
 かきつばた衣に摺りつけますらをのきそひ狩りする月はきにけり
                                    大伴家持

万葉集、巻十七、天平十六年四月、独り平城の旧き宅に居て作る歌六首。
邦雄曰く、青紫色の花摺り衣を着て、出で立つは着襲(きそい)狩、すなわち鹿の若角等、後には薬用植物を採集した薬狩。雄渾壮麗ともいうべき、家持独特の美意識の横溢する秀歌で、調べも実に若々しい、と。

 雨はるる軒の雫に影見えて菖蒲にすがる夏の夜の月  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、南海漁夫百首、夏十首。
邦雄曰く、長雨は夕方になって霽れたがなおしたたる雨垂れ、その水滴の伝う軒に葺かれた菖蒲の彼方、消え残る月。すべて黒一色の影絵、宵ひとときの淡い三日月の逆光に見る一種慄然たる負の世界。冴え渡った詩人の眼は、すでに現実の風景から遙か他界を凝視しつつあったのだ、と。

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May 26, 2006

袖の香は花橘にかへりきぬ‥‥

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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-01

<洋楽>の土着形式

 「われかにかくに手を拍く‥‥」と中原中也は詩「悲しき朝」から身をふりほどくように、その最後の一行をしるしている。――中也の詩の根源には、<三拍子とはなにか>の問いときりはなせないような、ひとつの促迫が秘められている。
文明開化によってもたらされた<洋楽>の土着様式は、第一に――等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること。そのように変換され強化された<時間>が支配の理念とした<近代>であった。
本来、強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な<拍子-Tact>にのせようとすれば、強迫は音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応以外にまずありえなかった。
  2/4拍子 △▲△▲/△▲△▲/△▲△▲/○●/
        △=付点8分音符、▲=16分音符、○=4分音符 ●4分休符
日清戦争期から日露戦争にかけて定着したこのリズムは――明治24年の「敵は幾万」から明治38年「戦友」にいたるまで――明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を覆いつくしている。
旧制高等学校の寮歌のほとんどが、この長短長短のリズム形式でできている。――この貧しさを陶酔に逆立ちせしめ<青春>に居直っているところに、帝国大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部‥‥といった彼らの階級=特権はむきだしにされている。

   ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-17>
 袖の香は花橘にかへりきぬ面影見せようたたねの夢  藤原為子

新千載集、夏、嘉元の百首の歌奉りける時、廬橘。
邦雄曰く、本歌取りの作だけで詞華集が編めるほどの「花橘の香」であるが、名だたる為子は、さらに新味と趣向を添えようとしている。五句各々の用語は殆ど変えずに、「面影見せよ」と命令形四句切れにして、響きを強めたあたり面目躍如というべきか。たとえば式子内親王に、「かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕に匂ふ橘」あり、と。

 五月来てながめ増さればあやめぐさ思ひ絶えにしねこそなかるれ
                                   女蔵人兵庫

拾遺集、哀傷。
生没年、出自ともに不詳。10世紀の女官歌人、女蔵人は内侍の下位。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、康保4(967)年の5月、村上帝崩御、翌年の5月5日に英帝を偲んで、人に贈った悼歌という。長雨と眺め、菖蒲と文目(あやめ)、根こそと音こそ、縁語・懸詞の綴れ織りの感。詞書にはないが、忌日の季節にちなみ、菖蒲の根を添えての贈歌と思われる。歌を贈られたのは宮内卿兼通とある。と。

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May 25, 2006

夕暮はいづれの雲のなごりとて‥‥

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-表象の森- 八幡と稲荷

 東大寺境内の東の端には手向山八幡宮があるが、これは東大寺建造事業にあたり九州の宇佐八幡神が八百万の神を代表して祝福した故事に由来するという。この故事は仏教をもって鎮護国家をなそうとする聖武帝の強い意志の反映であろうが、この国ならではの宗教のカタチである神仏習合-神と仏がなかよく祀られるようになること-へと先鞭をつけたことにもなろうか。

 京都の伏見稲荷大社は弘法大師空海と所縁が深い。明治の神仏分離・廃仏毀釈以前は、真言密教の愛染寺が稲荷社の本願所として祀られていたという。
9世紀前葉、時の権力者嵯峨上皇の信任厚い空海は東寺を下賜され、密教の根本道場へと造営にのりだす。その建設資材にと伏見稲荷山付近の巨木を伐り出させたため、その祟りが淳和帝に降りかかり病に臥した。稲荷社の怒りを鎮めるため神格を上げ、平癒祈願をするも、淳和帝はあえなく死んでしまう。
この事件の奇妙なところは、稲荷神の祟りが嵯峨上皇-空海ラインにではなく、直接は関係のない淳和帝に降りかかったことだが、淳和帝死後の承和の変(842年)において恒貞親王(淳和の子)が皇太子を廃嫡されているところをみると、嵯峨上皇直系の皇統に執着する側の謀略かとみえてくる。
いずれにせよ、以後、稲荷社は正一位稲荷大明神と神格を上げられ、その境内には真言密教の茶枳尼天を本尊とする愛染寺が祀られるようになったという。

神社本庁によれば、八百万はともかく、この国には大小8万の神社があるとされる。そのうち4万余りが八幡社、約3万が稲荷社という、両系の圧倒的に占める数字には驚かされもするが、その背景にはこれらの故事が深く関わっているとすれば、少なからず得心もいきそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-16>
 さだかなる夢も昔とむばたまの闇のうつつに匂ふたちばな
                                   飛鳥井雅経

明日香井集、上、仁和寺宮五十首、夏七首、夜廬橘。
邦雄曰く、五月闇に香を放つ花橘、読み慣れ聞き飽いた主題だが、新古今時代の技巧派雅経の作は、情趣連連綿、五句一箇所として句切れなく、言葉は模糊と絡み合い、いわゆる余情妖艶の世界を創り出す。決して独創的ではないが、「夢も昔と」、「闇のうつつに」など、巧妙な修辞は、読者をたまゆら陶酔に誘う。

 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘に風の吹くらむ  藤原定家

新古今集、夏、守覚法親王、五十首詠ませ侍りける時。
邦雄曰く、「五月待つ花橘」の本歌取りながら、亡き人を荼毘にふした煙、そのなごりの雲から吹く夕べの風が、花橘に及ぶとしたところ、まことに独創的であり、陰々滅々の趣をも含みつつ、初夏の清かな味わいも横溢している。秀歌名作の多い御室五十首中のもので、新古今夏の部でも屈指の作の一つ、と。

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May 24, 2006

橘のにほふ梢にさみだれて‥‥

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-表象の森- 満年齢と新制

 5月24日、今日は何の日かとググってみれば、「年齢を満で数える法律」が公布されたとあった。昭和24(1949)年のことだ。法の施行は翌25(1950)年1月1日からだったという。
満年齢の適用は終戦後すぐのことだろうと、あまり深く考えもせず、てっきりそう思い込んでいたので、少々意外な気にさせられた。明治の帝国憲法から昭和の新憲法へと、公布が昭和21(1946)年の11月3日で、施行が翌22(1947)年5月3日なのだから、その日程に準じたあたりが順当だろうと思っていた訳だ。なんで戦後4年も5年も経ってから変わるんだよ、と首をかしげつつ、ほんの数秒ばかり頭をめぐらせてみて、これは旧制から新制へと学制の移行と歩調を合わしたに違いないと思いあたった。

戦後の学制改革、旧制から新制への移行には、昭和21(1946)年から旧制大学の最後の入試となる25(1950)年まで移行措置が取られているが、これに合わせて、学校教育法において学齢期の定めを設けている。曰く「満6歳に達した日の翌日(満6歳を迎えた誕生日)以後における最初の学年の初め(4月1日)から満15歳に達した日の属する学年の終わり(3月31日)までが学齢期」である。詳しくは「年齢計算ニ関スル法律」、満年齢を参照せよということになる。

さしずめ昭和19年生まれの私など、24年の正月には、今日からおまえは6歳だといわれ、翌25年の正月には7歳になるはずのところ、満5歳へと減じられ、7月の誕生日を迎えて、ふたたび6歳となった訳だ。まだ子だくさんの家庭が多かった時代、親たちこそ紛らわしくてさぞ混乱したことだろう。
そういえば、就学期の「七ツ行き・八つ行き」という言い様があったが、これは一向になくならず、大人たちはよく使っていた。誰それは早生れだから七つ行き、誰それは遅生れだから八つ行きなどと、親たちが言うものだから、幼かった私などしたたかに刷り込まれてしまったとみえ、自身大人になり子を持つに至って、はてこの子は七つ行きだったか、八つ行きだったかと、まことにお笑いぐさだが、つい考えてみたりしたこともあった。思わぬところに刷り込みや習い性のあるもので、それらの呪縛から自身を解き放つのはなかなかに難しいものなのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-15>
 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする  詠み人知らず

古今集、夏、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語第六十段に見える歌。愛想を尽かして出て行った妻が、他家の主婦となっているのに邂逅、酒を酌ませ、肴の橘を取ってこの歌を口ずさむ。女は過去を恥じて出家する。元は男の不実ゆえであろうに、あはれ深い咄である。橘と袖の香のアンサンブルは、この歌をもって嚆矢とし、後生数多の本歌となった、と。

 橘のにほふ梢にさみだれて山ほととぎす声かをるなり  西行

聞書残集、雨中郭公。
邦雄曰く、西行に時鳥・郭公の秀歌数多あるも、残集の冒頭近くに見える数首もなかなかの趣。殊に「声かをるなり」は独特の味わいをもつ。「かをる」は「にほふ」を受けつつ「靄(かお)る」の意もある。この即妙の移り、結句のきっぱりした響きは、いかにも西行らしい一首、と。

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May 22, 2006

照る月の影を桂の枝ながら‥‥

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-表象の森- 月の桂

 月には高さ五百丈の桂の木が生えているという。
「月中に桂あり、高さ五百丈、常に人ありて、これを切る‥‥」と、中国の故事に由来する。
ある罪人に月中の桂を切り倒すことが課せられるのだが、それはいくら切ってもまたすぐに生え元にもどるから、その男は果てしなく切り続けなければならないという咄で、今なお切り続けるこの男は「月読男」とも「桂男」とも呼ばれる。

万葉集巻四は相聞歌を収集しているが、そのなかには、志貴皇子の子、湯原王の娘子に贈れる歌二首として、
  目には見て手には取らえぬ月の内のかつらのごとき妹をいかにせむ
が見える。ここでは一目瞭然、「月の桂」を決して手の届きえぬ面影の君と見立てている訳だが、ロマン掻き立てる「月の桂」の語イメージが「面影の君」へと喩えられるのは、月並み凡庸の筋というべきだろう。

したがって古今以後の「月の桂」への憧憬は、むしろ叙景を強めつつ、抒情味を内に潜ませてゆく。
  ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ
                              壬生忠岑-古今集
  ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはるひかりに
                              俊成女-新古今集

山口県の防府には、その名も「月の桂の庭」という枯山水の庭がいまに残る。毛利氏分家右田毛利家の家老職にあった桂運平忠晴が造らせた一庭二景の枯山水庭園で、正徳2(1712)年の作と伝えられるもの。さほどの面積もない庭だが、借景を利用しつつ、石と砂だけの簡素な作りの中に、仏教的世界観を凝縮させた枯山水だ。

余談ながら「月の桂」を冠してよく知られているのは伏見名代の銘酒だ。320年余を遡る伏見最古の蔵元になる濁り酒「月の桂」は、石清水八幡宮例祭に参拝の勅使姉小路有長卿なる公卿が立ち寄り、この酒を召した際に詠んだ歌「かげ清き月の嘉都良の川水を夜々汲みて世々に盛えむ」に由来するという。歌は凡庸な世辞の類そのものだが、真偽のほども定かならぬこの手の由来譚には似つかわしいものといえようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-14>
 ほととぎす声も高嶺の横雲に鳴きすててゆくあけぼのの空
                                    永福門院

続千載集、夏、題知らず。
邦雄曰く、歌いに歌って類歌の藪、本歌取りの掃溜めいてくる時鳥詠、それも14世紀初頭ともなれば、よほどの新味を創り出さねば振り返る人もない。この時鳥など、懸詞を交えて、新古今集以上に複雑な技巧を凝らしている。殊に第四句「鳴きすててゆく」の、大胆で辛みのある工夫は、さすがと思わせる、と。

 照る月の影を桂の枝ながら折る心地する夜半の卯の花  鴨長明

鴨長明集、夏、夜見卯花。
邦雄曰く、月世界に生う桂は五百丈、古歌には憧憬を込めてさまざまに歌われているが、空木の花盛りをこれに譬えるのは、比較的珍しかろう。一首が、韻文調散文ともいうべき文体で、上・下は甚だしい句跨り。この変則的な調べも、歌より文で知られた長明の特徴と思われて面白い、と。

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May 21, 2006

時やいつ空に知られぬ月雪の‥‥

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-表象の森- 上京第27番組

 維新の明くる年、明治2年の今日、5月21日、早くも日本初の小学校が京都に登場している。その名が「上京第27番組」小学校である。上京第27番組とは奇妙な名と思われようが、いわゆる封建時代の遺制である町組制度に基づくものだ。
明治維新により東京遷都となって、千年の古都を誇った京都は一地方都市として衰退することを怖れ、近代都市をめざしていち早く取り組んだのが、町ぐるみでの小学校開設だった。京都市内では明治2年のこの年に早くも64の各町番組に小学校を開校させているという。その第一号が上京第27番組小学校だったという訳である。この各町番組の学校建設にはこぞって町衆(市民)たちが立ち上がり、惜しみない協力支援があったとされるが、さもありなん、この事業はむしろ市民たちこそが主体とならなければ成り立ち得なかったろうし、町衆たちの強い教育意識の発現でもあったろう。

明治政府が近代化への歩みとして学制(学校制度)を公布するのが明治5年(1872)で、これに先立つのはもちろんだが、この公布で直ちに全国津々浦々に小学校が開設されていったかといえば、なかなかそうはいかなかったようである。明治12(1879)年には学制を改め新たに教育令を発布、さらに明治19(1886)年には小学校令を発布することになるが、この小学校令はさらに明治23(1890)年の第二次、明治33(1900)年の第三次と後続することとなる。小学校開設が全国にくまなく波及していくのは、おそらくこの頃まで時間を要したのではなかったかと推測されるのだが、これに比べて古都の町衆たちの先取性はさすがと感心させられる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-13>
 時やいつ空に知られぬ月雪の色をうつして咲ける卯の花
                                   覚助法親王

玉葉集、夏、題知らず。
建長2(1250)年-建武3(1336)年、後嵯峨院第十皇子、母は藤原孝時女。幼少にて出家、聖護院宮と称される。歌才にすぐれ二条為世・為藤・頓阿らを招き歌会をよく主催した。続拾遺集初出、勅撰集に89首と、歴代親王のなかでも出色。
邦雄曰く、雪月花の、花は桜を夏の空木の花に転位し、その花の色を雪・月に譬えた。堂々たる初句切れの後に、あたかも白扇をひろげて天を望むかの第二句以下、実に気品のある浮くしい調べをなす、と。

 おぼつかないつか晴るべき侘び人のおもふ心やさみだれの空
                                     源俊頼

千載集、夏、堀河院の御時百首の歌奉りける時、五月雨の歌とて。
邦雄曰く、長雨の晴れ間を鬱々と待ち侘びる人の心、空はすなわちそのまま胸中を映す。溜息に似た初句切れは、切れるとも見えず第二句に滲み入り、二句切れもまたおぼろに三句に繋がる。思いはそのまま調べとなり、まさに薄墨色にけぶって、ものの輪郭も心の姿も定かならぬ五月雨の情趣を写した、と。

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May 19, 2006

ほととぎす鳴くや五月のあやめ草‥‥

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-表象の森- Pieta-ピエタ-

 Pieta-ピエタ-とは元来、福音書には記載のない、イタリア・ルネッサンス期に登場した新しい主題(画題)といえる。原義はイタリア語で「慈悲」だが、ここでは「哀悼」の意で用いられる。物語的には「十字架降下」の延長上の場面といえようが、この主題の中心となるのは、キリストの亡骸を抱いて悲しみにくれる聖母マリアであり、いわば「嘆きの聖母像」というべきもの。

ミケランジェロが弱冠23才の時に制作したという初期の傑作「サン・ピエトロのピエタ」(1499年)はあまりにも著名だが、彼にはその他に三つの「ピエタ」がある。1555年頃に完成したという「フィレンツェのピエタ」と、あと二つは「ロンダリーニのピエタ」「パレストリーナのピエタ」、どちらも未完ながら、それゆえに却って観る者の想像力を掻き立てる一面もあるといえそうだ。

絵画では、ミケランジェロとほぼ同時期のボッティチェリが同工異曲ながら二つの「ピエタ」を残している。1490年頃作の「ピエタ」-1、1495年頃作とされる「ピエタ」-2。
他、ベリーニの「ピエタ」1460年頃、デッラ・ポルタの「ピエタ」1512年作、デル・サルトの「ピエタ」1524年頃作、ティツアーノが晩年に描いたという「ピエタ」1576年作、といったところが主なもの。

「ピエタ」とは、ある意味でイタリア・ルネッサンスの最盛期に相応しいような新しいテーマであったと思えるが、1545年から1563年にかけて開かれた「トリエント公会議」において、ピエタ-嘆きの聖母像-は、マリアの人間的弱さを露呈する図像であると、聖母マリアの至上化をはかる教皇らによって否認され、この後は姿を消していく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-12>
 ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
                                  詠み人知らず

古今集、恋一、題知らず。
邦雄曰く、古今集恋の詠み人知らずには秀歌絶唱多く、この「あやめ草」は随一、後世数知れぬ本歌取りを生んだ。上句は第四句を導き出すための序詞、とは言いながら、この溢れきらめき、匂い立つような季節感は、単なる序詞に終っていない。結句「恋もするかな」の「も」一音でもって、真夏五月のものうさが伝わってくる、と。

 うちしめりあやめぞかをるほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮
                                    藤原良経

新古今集、夏、五首歌人々に詠ませ侍りける時、夏歌とて。
邦雄曰く、良経満26歳の作、「あやめ草」の本歌取り数多ある中、比肩を許さぬ秀歌として聞こえる。微妙な二句切れの呼吸が一首の要で、近景から遠景へとさっと眺めがひろがる、その瑞々しく匂いやかなこと、嘆声が洩れるばかり。複雑な手法が巧みの跡も止めない。恋歌を純粋な四季歌に変えた、と。

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May 18, 2006

ときも時それかあらぬかほととぎす‥‥

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-表象の森- 偏桃体と前頭連合野46野

 いわゆるよくキレる子にならないために、幼児期(3~6歳児)における「じゃれつき遊び」がとても有効だ、という。
幼児に対し、日課のようにして、情動的刺激-ある種の興奮状態-を、短時間集中的に与えることが、キレない子ども、集中力のある子どもを育てるという訳だが、この主張は直感的にさえおそらく非常に的を獲たものだろう、と私には思えた。
そこで最近の脳科学の知見をひもといてみるのだが、「じゃれつき遊び」の効用は、偏桃体と前頭連合野46野のはたらきにおいて裏づけられようか。

情動-Emotion-のメカニズムは大脳辺縁系の偏桃体が主要な役割を果たしている。喜びや悲しみの精神的状態から、食欲・性欲や喉の渇きなど生理的欲求がもたらす心理的状態や、それが満たされた時の快も、満たされない時の不快も、偏桃体の機能に大きく負っているということだ。
偏桃体と、同じ大脳辺縁系の記憶中枢である海馬体とが、お互いに密接に情報交換していることも今ではよく知られている。偏桃体には視覚などあらゆる感覚連合野からの情報が流れ込んできており、同じ辺縁系の海馬体の記憶情報と照合したうえで、その情報に生物学的な価値判断を与え意味を決定することとなる。

ヒトを人たらしめるもの、自我のはたらき-自己意識と自己抑制-は、大脳新皮質系の前頭連合野が中心的機能を果たすが、なかでもそのセンター的部位が46野である。逆にいえば、人の言語能力が社会関係を複雑化させ、46野を発達させてきたのであり、思考のはたらきもまた然りである。

「じゃれつき遊び」は、この情動のメカニズム、偏桃体のはたらきにすぐれて直結するものだろう。その快としての刺激と興奮は、大脳辺縁系のみならず新皮質系も含め、脳のはたらきをダイナミックに活性化し、子どもたちの情操を豊かなものに、ひいては理性をも育むだろう。
15分から30分間程度、集団で大人(先生や保育士または親)も交えて「じゃれつき遊び」に興じたあとの幼児たちは、先生の話を聞くとか後片付けの作業とかに、驚くほどの集中力と持続力を発揮するというが、これは前頭連合野46野における自我のはたらきへの高次の作用といえそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-11>
 かざこしを夕こえ来ればほととぎす麓の雲の底に鳴くなり  藤原清輔

千載集、夏、郭公の歌とて詠める。
かざこし(風越)、風越の峰-信濃国の歌枕、長野県飯田市西方の風越山。
邦雄曰く、時鳥に配する歌枕は、老蘇の森・待兼山・入佐山と数多あるが、これは稀有な信濃の国は木曽山脈の風越の峰。おのずから風が颯々と吹き越える峠路を思い、「雲の底」も光景がさながらに目に浮かぶ。清新な時鳥詠として記憶に値する。技法の巧みさ、当時無双であったと伝えるが、この地味の味など巧みを超えている、と。

 ときも時それかあらぬかほととぎす去年の五月のたそがれの空
                                    藤原家隆

千五百番歌合、夏二。
邦雄曰く、数多ほととぎす歌の中でもユニークな文体の一首だろう。初句から畳みかけるような疾走感に、「黄昏の空」と簡潔に切り捨てて終る。家隆の斬新な技法を示す好例。番は左が後鳥羽院の「心あてに聞かばや聞かむ時鳥雲路に迷ふ嶺の一声」で無判だが、私なら家隆を絶賛の上勝たせる、と。

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May 17, 2006

おのが音は誰がためとても‥‥

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-表象の森- 50年を経てなお‥‥

 「おとろしか。・・・人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは。・・・これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死にぎわのごたった。ふくいく肥えた娘でしたて。・・・」
石牟礼道子「苦海浄土」、第一章「椿の春」の一節である。

八代海の水俣付近一帯で猫の不審死が多く見られるようになったのは1955年のことだ。翌56年には類似の発症が人においても見られるようになり、5月1日、「原因不明の中枢神経疾患の発生」が水俣保健所に報告され、この日が水俣病公式発見の日となった。

一昨年(2004年)の10月15日、最高裁第二法廷は、「チッソ水俣病関西訴訟」上告審において、
「国と県は1959年12月末の時点で、水俣病の原因物質が、有機水銀であり、排出源がチッソ水俣工場であることを認識できたのに、排水を規制せず、放置し、被害を拡大させた」と認定し、国・県に対して、原告患者37人に計 7150万円(1人当り150万円~250万円)の賠償を命ずる判決を下した。
また、水俣病の病像については、二点識別感覚など中枢性大脳皮質感覚の障害を基本とした、有機水銀中毒症を認定した大阪高裁の判決を妥当と是認して、国・県からの上告を棄却して、最終的に「阪南中央病院の意見書」を元にした「水俣病々像」を認め、切り捨てと選別の「従来の水俣病認定基準」を真っ向から否定した。

最近の朝日新聞の伝えるところによれば、
1968年の公害認定以来、熊本・鹿児島両県での認定申請は延べ約2万3000人という未曽有の被害を招いたが、認定は死者を含め2265人。95年には村山政権がまとめた救済策を約1万人の未認定患者が受け入れた。しかし、行政の認定基準より緩やかな基準で被害救済した04年10月の関西訴訟最高裁判決以降、認定申請は約3800人に急増。このうち約1000人は原因企業チッソや国・熊本県を相手に損害賠償訴訟を起こしているが、国は「最高裁判決は認定基準を直接否定していない」との考えで「認定基準は変えない」と強調、被害者との対立が続いている、という。

最高裁の判例をもってしても、国の「認定基準」を変ええないという一事を、どう解したらよいのか。
「直接否定していない」と強弁する国の姿勢に、50年の歳月を他者の量りえぬ苦界に生きてきた患者たちはどれほどの絶望を感じたことだろう。
これがわれわれの戴く行政権力の姿であり、この国のカタチであるとすれば、われわれの明日もまたなきにひとしく暗雲に閉ざされていよう。

アジア諸国のなかで、負の遺産たる公害の先進国である日本は、後続の発生予備軍たる国々に対し、あらゆる面で範を垂れるべき重い責務があるはずであった。この20年の中国の経済発展をみれば、やがて押し寄せる公害の嵐が、はかりしれない規模においてこの地球を襲うだろうことは必至である。いや、いまのところわれわれの眼には映っていないだけで、すでにさまざまな苦界が生れ、どんどんその腐蝕の域をひろげているにちがいない。その加速度はわれわれの予測をはるかに超えているはずなのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-10>
 さみだれの月のほのかに見ゆる夜はほととぎすだにさやかにを鳴け
                                   凡河内躬恒

玉葉集、夏、夏の歌の中に。
邦雄曰く、五月雨の晴れ間に淡黄の月は木の間にかかる。五月闇ももの寂しい。雨夜はさらに寂しい。だが、なまじうっすらと月が見えると、一層身に沁む。せめて一声、爽やかに鳴けほととぎすと、一息に五句まで歌いつづけての命令形止め。玉葉集では五月雨と橘に配する時鳥は夏の半ば、と。

 おのが音は誰がためとてもやすらはず鳴きすててゆくほととぎすかな
                                    二条為定

大納言為定集、夏、子規(ほととぎす)。
永仁元(1293)年-延文5(1360)年、鎌倉期末より南北朝期の代表的歌人。俊成・定家の御子左家嫡流二条為世の孫、父は為道、母は飛鳥井雅有女。続後拾遺集、新千載集を選集。出家後は釈空と号す。
邦雄曰く、ほととぎすはいったい誰のために鳴くのか、妻呼ぶ声、夫を誘う声、あるいは子を友を父母を。いずれにせよ、ためらいもなく、一声をしるべに翔けり去る。第四句の「鳴きすててゆく」に、はっとするような発見がある。同じ題の「なほざりに鳴きてや過ぐる時鳥待つは苦しき心つくしを」と並んで佳い調べ、と。

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May 16, 2006

鳴きくだれ富士の高嶺のほととぎす‥‥

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-表象の森- 透谷忌

 今日、5月16日は透谷忌。
「恋愛は人生の秘鑰(ヒヤク)なり」 あるいは
「人の世に生るや、一の約束を抱きて来れり。人に愛せらるゝ事と、人を愛する事之なり。」
と言った夭折の詩人北村透谷は、日清戦争(1894年)前夜、「我が事終れり」と25歳の若さで縊死した。
自由民権運動、キリスト教と恋愛、そして文芸へと、あまりにも早く近代的自我に目覚めた透谷は、明治近代化の波を激しいまでに鮮烈に生き、みずから燃え尽きた。

哲学者の中村雄二郎は、西田幾多郎の「善の研究」における<真の自己>論に、透谷の「内部生命論」を惹きつけて、
「真の自己が内部生命のありかとして求められたという点で、西田との関連でとくに興味深く、西田の真の自己の孕む問題を映し出しているのは、西田より二つ歳上ながら若くしてみずから生命を絶った詩人思想家北村透谷の<内部生命論>である。死の前年に書かれた「内部生命論」は、身をもっての民権運動への参加、絶望、挫折を経たのちに内部生命の立場に立って自己の再生をはかろうとしたものである。-略- 透谷は人間的自己の自覚や内部経験を内部の生命‥‥表層の人生の背後にある深層の生命‥‥に結びつけるとともに、そのような生命を観察する詩人や哲学者はそれにふさわしい知的直感を働かさなければならないとしている。なお透谷はこの「内部生命論」のなかで、内部生命を<生命の泉源>とも<人間の秘奥の心宮>とも言いかえている。-略- たしかに西田の求めた真の自己と透谷が明らかにしようとした<内部生命>とは、いろいろな点で呼応し結びつくところが多い。」といい、
「そのことに早くから着目して山田宗睦(「日本型思想の原像」1961年)は、両者の関連を、明治の青年たちの詳細な思想史的考察をとおして明らかにし、西田幾多郎の「善の研究」は、この透谷の「内部生命論」の哲学化であった。」
と山田宗睦の言を引き、実に射程の大きい指摘であると論じている。

吉増剛造は「透谷ノート」のなかで
「これは私の独断だが、透谷には終生閉所願望のようなものがつきまとっていたのではないだろうか。そこには鏡面や壁面の魔物が出没する透谷独自の光景が出現するのではないか。うつむきがちにふくみ笑いをしていたという透谷像が伝えられている。-略- 透谷と云うと大変な行動家らしい強烈なイメージをついもってしまっている。しかしながらむしろ内省的で、じっとうつむきがちに惨野を漂白していた一人の青年の像を想い浮かべる方が正確なのであろう。志士的なあるいは自由民権家透谷の像が強すぎるのかも知れない。」
と詩人らしい眼で、固定化した透谷像をずらしてみせる。

過ぎにし遠い昔、20歳前後だったろうか、夢幻能の如き劇詩「蓬莱曲」や評論「内部生命論」を読んだ記憶が懐かしい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-09>
 心をぞつくしはてつるほととぎすほのめく宵のむらさめの空
                                    藤原長方

千載集、夏、時鳥を詠める。
保延5(1139)年-建久2(1191)年、父は権中納言藤原顕長、母は藤原俊忠女、従二位権中納言。藤原俊成の甥にあたり、定家とは従兄弟。千載集に初出。
邦雄曰く、今にまのあたりの空でたしかな一声を聞かせてくれるだろう、もうひととき待てばあきらかな声で鳴くに相違ないと、さまざまに心を盡して待ちわびるのだが、驟雨の去来する夕暮の空に、仄かに、鳴くともわかぬ声がするのみと、ねんごろな調べが心に残る、と。

 鳴きくだれ富士の高嶺のほととぎす裾野の道は声もおよばず
                                      源頼政

従三位頼政卿集、夏、野径郭公、範兼卿の家の会。
邦雄曰く、武者歌人の作のめでたさは、平談俗語を試みてもさらにその調べの品下らず、むしろ朗々と誦すべき韻律を得ることであろう。この富士山の時鳥も、頼政集中に数多見る例の一つ。命令形初句切れ、駄々をこねているようで微笑ましく、まだ初音の、里馴れぬ鳥に早く降りて来いと呼びかける趣。勅撰集にはまず見られぬ独特の味である、と。

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May 15, 2006

やよや待て山ほととぎすことづてむ‥‥

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-表象の森- 厄除神の将門 

 昨日、東京の神田界隈は、天下祭りともいわれた神田祭で一日中賑わっていた筈だが、今日は京都の葵祭、御所から下鴨・上賀茂神社へと斎王代の巡行で王朝絵巻をくりひろげる。

葵祭りの起源には薬子の変(810年)が伏線としてある。嵯峨院と既に退位した平城院の皇位争いに薬子と藤原仲成が絡んで乱となり、嵯峨院は賀茂の神にこの乱の調伏を祈願したことに由来する。

一方、神田祭の神田明神の祭神は、一に大己貴(オオナムチ)即ち大黒さん、二に少彦名(スクナヒコナ)即ちえびすさん、三に平将門の三神とされる。創建は天平2(730)年と伝えられるが、将門が祭神として祀られるのはぐんと時代も下って延慶2(1309)年である。当時の時宗真教上人が祟り神と恐れられていた将門を鎮魂慰撫のため祀ったとされる。

承平天慶の乱における関東の雄平将門は、桓武平氏上総介平高望の孫、鎮守府将軍良将の子と伝えられる。将門は侠気に富んだ人物だったとみえて、その気質が朝廷に対抗し関東一円を手中に収め新皇を名乗るまでに至らせた。新皇将門の関東支配は数ヶ月にすぎない。天慶3(940)年、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛らに討たれ、その首は京都へと運ばれ晒し首となったが、その三日目の夜、関東を指して飛散したといわれ、将門の首塚とされる処が数箇所ある。神田明神付近もその一つだったわけだ。

11世紀中葉に成立した「将門記」以後、将門伝説は妙見信仰(北斗七星信仰)とも結びついて潤色が重ねられ、怨霊・祟り神としてその虚構性は、ギリシャ神話のアキレウスや北欧のジークフリート神話にも似た伝承となって肥大化していく。これを利用し取り込むのが徳川幕府で、京都朝廷に対する江戸城の鬼門除けとして神田明神が尊崇されるようになる。やがて神田祭の神輿は将軍上覧のため江戸城内にも入るようになり、天下祭りと称されるところとなったのである。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-08>
 郭公ふかき嶺より出でにけり外山のすそに声の落ちくる  西行

新古今集、夏、題知らず。
邦雄曰く、山ほととぎすが初めて里近くへ下りて来る、まだ初々しい声。颯爽たる三句切れ、それになによりも「声の落ちくる」と歌い放ったますらお振り、まことにめずらしく快く、新古今集の夏の精彩足りうる、と。

 やよや待て山ほととぎすことづてむわれ世の中に住みわびぬとよ
                                     三國町

古今集、夏、題知らず。
生没年未詳、9世紀初から中葉の人か、大納言紀名虎の女にて名は種子。仁明天皇の更衣と伝えられる。勅撰入集はこれ1首のみ。
邦雄曰く、命令形初句切れ、願望の三句切れ。時鳥はその別名を「死手の田長(たおさ)」と呼ばれ、死出の山から来て農業を勤めるとの古譚がある。季節の歌として時鳥と厭世の配合はめずらしい。死の国に我れを誘えと呼びかける暗い夏歌、と。

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May 13, 2006

心のみ空になりつつほととぎす‥‥

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-表象の森- 迷走の日々

 網野善彦ら編集の講談社版日本の歴史03巻「大王から天皇へ」は、5世紀の倭五王時代から7世紀後半壬申の乱を経て古代天皇制成立の天武期までをかなり詳細にカバーする。昔なら史実としてはほとんど藪の中だった世界が、60年代以降の考古学や歴史的考証のめざましい発見や知見によって、学としてほぼ整理された形で読めるという意味では、こびりついた旧い知を洗張りにかけるようで、新鮮かつ愉しめる読み物となった。

今月は購入本の冊数が多くなったが上記5冊は古書、Amazonのユーズド本からで格安モノばかり。「京都発見」は(三)と(四)を既に所有、資料的価値あり。千夏の「古事記伝」はタレントあがりの健闘に敬意を表し覗いてみようと。「逆髪」は小説だがタイトルに惹かれて。賎民の側からの民俗学を貫いた赤松啓介については、その存在をすら知らず、己の偏狭を恥じ入りつつ。「物理学入門」は理系に弱い頭のリハビリに。「じゃれつき遊び」は偶々見た報道番組から確認のため。
図書館からは、猿之助スーパー歌舞伎の先駆けとなった梅原猛の戯曲「オグリ」と「日本の歴史」以外の4冊は美術書だから、それほどヘビーにはなるまい。
それにしても近頃の読書傾向はいささか迷走気味か。

今月の購入本
 梅原猛「京都発見(一)地霊鎮魂」新潮社
 梅原猛「京都発見(二)路地遊行」新潮社
 中山千夏「新・古事記伝-神代の巻」築地書館
 中山千夏「新・古事記伝-人代の巻1」築地書館
 富岡多恵子「逆髪」講談社
 赤松啓介「差別の民俗学」ちくま学芸文庫
 米沢富美子「人物で語る物理学入門-上」岩波新書
 米沢富美子「人物で語る物理学入門-下」岩波新書
 正木健雄・他「脳をきたえる-じゃれつき遊び」小学館

図書館からの借本
 熊谷公男「大王から天皇へ-日本の歴史03」講談社
 渡辺晃宏「平城京と木簡の世紀-日本の歴史04」講談社
 梅原猛「オグリ-小栗判官」新潮社 
 「ホルバイン・死の舞踏-双書美術の泉82」岩崎美術社
 「アンドレア・マンテーニャ-ファブリ世界名画集」平凡社
 塚本 博「イタリア・ルネサンス美術の水脈 -死せるキリスト図の系譜」三元社
 「蕭白-水墨画の巨匠第8巻」講談社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-07>
 昔おもふ草の庵の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす  藤原俊成

新古今集、夏。
邦雄曰く、九条兼実主催の治承2(1178)年右大臣家百首の中、白楽天の詩「盧山草堂、夜雨独宿」等による。六・七・六音の調べの上句は稀な例で、重みとたゆたいを秘め、殊に第三句は効果あり。第四句の過剰とも思われる情の盡し方に、作者の特徴は躍如としている。懐旧と五月雨とほととぎすの三要素が渾然として一首を成し、飽和状態寸前の感なきにしもあらず、と。

 心のみ空になりつつほととぎす人だのめなる音こそ鳴かるれ
                                     馬内侍

新古今集、恋一、郭公の鳴きつるは聞きつや、と申しける人に。
邦雄曰く、逢瀬も間遠になり、この頃はなんとなく恋冷めの趣もみえる愛人の言葉への、縋りつくような恨み。待ち焦がれて心はうわの空、郭公もさることながら、頼みにさせておいて来ぬ人を恋いつつ、声をあげて泣きたいと、美しい調べに託して訴える。一条院中宮定子立后の際、掌侍となった彼女は、清少納言や紫式部に比肩しうる才媛であった、と。

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May 12, 2006

ほととぎすそのかみ山の旅枕‥‥

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-表象の森- くりくりしたる

 一茶47歳、文化7(1810)年の句三題。

  雪解けてくりくりしたる月夜かな

「くりくりしたる月夜」という把握が実にいい。擬態語「くりくり」は、いかにもその内部から充実した、弾むような形容だ。楸邨氏は「雪解けから月へ微妙な感覚の推移する把握は、事象を外から観察しただけでは描ききれない鋭さがある。視覚的なものに、触覚的なものさえ加味されて、一茶の全身で受け止める力が出ている。自然の中に人間的な肌ざわりを発見してゆく傾向こそ、一茶的な自然把握の大きな特色」と鑑賞を導く。

  五月雨や胸につかへる秩父山

詞書に、「けふはけふはと立ち遅れつつ入梅空いつ定まるべくもあらざれば五月十日東都をうしろになして」と。継母・異母弟との遺産相続をめぐる何度目かの交渉に、江戸を発って柏原に帰ろうとする、その気重が「胸につかへる」と些か異様ともみえる形容をさせたのだろう。行く手をふさぐように聳え立つ秩父山が、降りしきる五月雨とともに、帰参を急ぎつつも塞ぐ一茶の心をそのままに映し出す。

  暮れゆくや雁とけぶりと膝がしら

「暮れゆくや」の初語に対して、「雁」はごく順当に誰でも詠む。「けぶり」を付合せるとなると、もうかなり鋭い着眼だろう。「暮れゆく-膝がしら」へと到る把握となれば、これはもう一茶ならではの直観か、自然と人生の観照に深い眼がなくては、とても生み出し得ない世界だ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-06>
 ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ
                                   式子内親王

新古今集、雑上、いつきの昔を思ひ出でて。
邦雄曰く、式子内親王は十代の大半を賀茂の斎院として過した。12世紀中葉平治元年4月中酉に、初めて彼女は賀茂の祭りを宰領した。夏の「忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野べの露の曙」とともに、窈窕としてその麗しさ限りを知らぬ。各句の頭韻をたどると「ほ・そ・た・ほ・そ」と溜息のような響きがひそかに魂にこだまする、と。

 いまだにも鳴かではあらじ時鳥むらさめ過ぐる雲の夕暮
                               章義門院小兵衛督

玉葉集、夏、夕時鳥。
生没年未詳、14世紀前後に活躍。伏見院の皇女章義門院に仕え、後に永福門院にも仕えたとされ、永福門院上衛門督と同一人説あり。玉葉集に4首。
邦雄曰く、玉葉集の時鳥は、花鳥の別れ・遅桜・藤・卯の花に続いて、34首がそれぞれに個性的な初音・遠音を聞かせる。驟雨の空の時鳥を耳にとらえようと構えた姿が浮かぶ小兵衛督の歌。下句の「雲の夕暮」に尋常ならぬ工夫が窺える、と。

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May 11, 2006

一声はおもひぞあへぬほととぎす‥‥

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-表象の森- 狂水病と朔太郎

 今日は朔太郎忌。
萩原朔太郎といえば「月に吠える」、「青猫」あるいは晩年の「氷島」。
白秋に師事した朔太郎が処女詩集「月に吠える」を世に問うたのは大正6(1917)年、彼はこの一作で全国的に名を知られるようになるほどの鮮烈なデビューを果たした。
その序の冒頭近く「詩の本来の目的は、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。」と標榜した朔太郎は序文半ばにおいて、「私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。」と記している。

「狂水病」とは狂犬病の異称だが、発症すると錯乱・幻覚・攻撃などとともに恐水発作の神経症状があることからこの名で呼ばれてもきたようだ。この狂犬病が大正の初め頃には年間3500件もの発症を記録したというから、朔太郎がこれに触れた当時は狂犬病の猛威に世情騒然ともなっていたわけだ。
神経錯乱に陥り狂気悲惨の症状を示してほぼ確実に死に至るという狂犬病は、やすやすと種の壁を越えて哺乳類全般に感染するという点において、このところ話題の狂牛病よりも性質が悪いといえるのかもしれない。

未曾有の狂犬病流行という事象を背景として朔太郎の序文末尾を読むと、奇妙なリアリティとともに結ばれる像も些か異なってくる。
「月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-05>
 一声はおもひぞあへぬほととぎす黄昏どきの雲のまよひに
                                   八条院高倉

新古今集、夏、郭公を詠める。
邦雄曰く、まだ声も幼い山ほととぎすは、一度中空で鳴いただけでは、それかどうか定かではない。ほととぎすとは想いぞ敢えぬ。まして夕暮、雲の漂う暗い空、姿さえ判然としない。声も姿もおぼろなほととぎすを捉えたところに、かえって新味が生れた、と。

 ほととぎす夢かうつつか朝露のおきてわかれし暁のこゑ
                                  詠み人知らず

古今集、恋三、題知らず。
邦雄曰く、愛する人との朝の別れ、朝露はあふれる涙、気もそぞろ、心ここにないあの暁闇に、ほととぎすの鳴いた記憶があるのだが、後朝の鳥の声の辛さは、殊に女歌に多い。初句切れ、二句切れの悲しくはりつめた呼吸も、また結句「暁のこゑ」の簡潔な修辞も、後世の本歌となる魅力を秘めている、と。

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May 10, 2006

鶯の古巣より立つほととぎす‥‥

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-表象の森- 死せるキリスト

 「こんな死体をまのあたりにしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」と、ドストエフスキーは「白痴」のなかで死の直前のイッポリートに語らしめたが、その問題の絵が、木版画シリーズの「死の舞踏」で知られた16世紀前半に活躍したドイツの画家ハンス・ホルバインの描いた「死せるキリスト」である。「墓の中のキリスト」とも呼ばれるこの絵は、横2m、縦30cm余りの横長の画面一杯に棺が描かれ、その中に仰向けに長々とイエス・キリストの死体が眠るという異様な構図は、たしかに復活など思いもよらず、ここにあるのはキリストの屍骸そのものであり、まるでイエスの肉体が墓そのものに化したかのごとく、ひたすら自然としての肉体の死そのものを突きつけられる感がある。

 ホルバインが現に見もし、この絵の動機ともなったというのが、イタリア・ルネサンス期のマンテーニュ(1431-1506)の代表作といわれる「死せるキリスト」だが、触発されたというもののその構図といい画調といい両者はまるで別世界だ。マンテーニュの絵ではイエスの遺体を縦に、足元から描いている。ベッドの上に仰向けに寝かされた遺体の横には、聖母マリアとマグダラのマリア、二人のマリアが歎き祈るがごとくかしずいており、ゴルゴダの丘での磔刑になぞらえるなら、十字架の真下からイエスの遺体を仰ぎ見るような構図となっているが、これは観る者をしてキリストへの崇敬を暗示させるものかもしれぬ。

 それにしても、ホルバインのキリストが骨と皮ばかりの痩せ細った、まるで解剖学的な屍骸としかいいようのない様相であったのに対し、マンテーニュの遺体はボリューム感にあふれ筋骨隆々として、ただ眠るがごとくで体温まで伝わってきそうな絵である。描かれた時期がたかだか半世紀足らずの隔たりしかないなかで、彼我のかほどの相違がなにに因るのか興味深いものがある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-04>
 ほととぎす声をば聞けど花の枝にまだふみなれぬものをこそ思へ
                                    藤原道長

新古今集、恋一、兵衛佐に侍りける時五月ばかりによそながら物申し初めて遣しける。
邦雄曰く、道長まだ二十歳になるならずの初々しい恋歌。ほととぎすとは想う人、その声を気もそぞろに聞きつつ、文を贈ることもできずただ悩んでいると訴える。ほととぎすの踏むのは橘の花の枝、縁語・掛詞を駆使しながら、なにかたどたどしい技巧が微笑ましい。馬内侍への贈歌だが、彼女からの忍恋のあはれ深い返歌「ほととぎすしのぶるものを柏木のもりても声の聞こえけるかな」と並ぶ、と。

 鶯の古巣より立つほととぎす藍よりも濃きこゑの色かな  西行

聞書集、郭公。
邦雄曰く、時鳥はみずから巣を造ることなく、鶯などの巣に卵を産みつけ、孵すのも育てるのもあなた任せ。鶯の巣から出て、鶯にも勝る美声を、出藍の誉れに譬えて「藍よりも濃き」としたのだろう。「声の色」が面白い。言語遊戯の類ともみえるが、西行の歌の異色として忘れがたい、と。

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May 09, 2006

桜いろに染めし衣をぬぎかへて‥‥

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-表象の森- 家二軒

  さみだれや大河を前に家二軒

つとに知られた蕪村の句。子規以来、写生句の代表的なものとしてよく引き合いに出され、そのきわだった絵画的なコントラストが人口に膾炙されるが、安東次男はこの句の裏に隠されたもうひとつの面影を見る。

安永6(1777)年、蕪村62歳の吟だが、この句は娘を婚家から連れ戻したときの句であるという。娘の嫁ぎ先は三井の料理人柿屋伝兵衛といわれ、今に残る名代の茶懐石「柿伝」の先祖とみられる。嫁いだのが安永5年12月で、連れ戻したのは翌年5月というから、わずか半年の破綻。
幼い時よりなにかと病がちの娘だったらしく、掌中の珠のごとくにして育てた一人娘だったから、もともと商家との縁組に、必ずしも気乗りがしていなかった節もみえるとか。
蕪村は5月24日付のある人への手紙に「むすめ事も、先方爺々専ら金まうけの事にのみにて、しをらしき志薄く、愚意に齟齬いたし候事多く候ゆえ取返し申し候。もちろんむすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命ありての事と存じ候にて、やがて取戻し申し候」と書き送り、次の二句を添えている。

  涼しさや鐘を離るゝ鐘の声

  雨後の月誰そや夜ぶりの脛(はぎ)白き

「家二軒」という写生の句に、そういった背景から否応もなく色濃く浮かび上がっくるのは、大自然の力を前にして、身を寄せ合って生きるものの表象であり、それは蕪村と娘の姿と読み替えてよいものだろう。手紙に添えられた二句の、「鐘を離るゝ鐘の声」といい、「脛白き」といい、そこに立つ面影も、断ち得ぬ親の情にふと忍び込んできたイメージの幻覚があり、あろうはずもないその姿や状況に作者ははっと驚いている、と次男氏。

同じ日に詠まれたという一句

  網をもれ網をもれつゝ水の月

この「水の月」にも娘の面影がにじむ。

それにしても「鐘を離るゝ鐘の声」や「網をもれ網をもれつゝ」の、余情のしじまに微かに匂う憂愁の気とでいうか、その深遠になかなか届くものではない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-03>
 桜いろに染めし衣をぬぎかへて山ほととぎす今日よりぞ待つ
                                    和泉式部

後拾遺集、夏、卯月朔の日詠める。
邦雄曰く、桜が散って四月ともなれば、花染衣昨日のものとしてうすものに着替え、初夏の主役はほととぎす。それもまだ遠音の山ほととぎす。この歌、後拾遺・夏の巻首に選ばれた秀作。「ぬぎかへて」「待つ」の照応も律動的で、春巻首の年頭歌などとも、互いにめでたく呼び交わすような趣である、と。

 春さればすがるなる野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり
                                    作者未詳

万葉集、巻十、夏の相聞、鳥に寄す。
すがる-蜾蠃-ジガバチの古名。腰細蜂とも書かれるように、腹部が細く、美女の容姿に譬えられる。
邦雄曰く、夏の相聞の冒頭に選ばれている。春から夏へと、ジガバチの生れる野、その野に鳴くほととぎす、ほとんど危うく、愛する人に逢わずじまいになるところだったが、どうやら逢えたと吐息をついている。長い序詞のため、省かれた言葉が多く、あまた補わねば意味が通じない。そのもどかしさが新鮮で芳しいともいえようか、と。

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May 08, 2006

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

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<古今東西-書畫往還>


-富岡多恵子「中勘助の恋」を読む-


ずいぶんと面白かったし、非常に興味深く読んだ。
著者が雑誌「世界」に、折口信夫の歌人としての筆名「釈迢空」は戒名であったと、彼の出自と形成にまつわる謎に挑んだ「釈迢空ノート」の連載を始めたのは98年5月、以後季刊ペースで10回の連載のうえ、これをまとめ岩波書店から出版されたのが2000年10月だが、本書「中勘助の恋」は著者畢生の書ともいうべき折口信夫解読へと、勘助の少女愛と折口の少年愛ともいうべき同性愛的傾向の対照のみならず、女性嫌悪によって成り立ってきた家父長制を色濃く残したまま、近代的自我に目覚めていかざるをえなかった相克のうちに、ともに際立って固有の信仰と性を秘めた特異な作家であった点においても、後者は前者の露払いの役割を果たしているように見受けられる。

<引用>
「さあここへいらつしゃい」
と膝をたたいてみせたら向こうむきに腰かけた。
 「顔が見えないから」
といへば
 「ええ」
と同感なやうなことをいつてこちらむきに膝のうへへ坐らうとするのを
 「跨つたはうがいい」
といつてさうさせる。このはうが自由にキスができる。右の頬へいくつかそうつとキスをする、今日切つたばかりの眼が痛まないやうに。こなひだのものもらひを瞼の内側から切つたのだ。妙子さんは今日はなんだか沈んでる様子でしんみりと懐かしさうに話す。私はまたひとつキスをして
 「これどういふときするもの」
ときく。
 「知らない。」
 「あなた私にしてくれだぢやありませんか」
 「わかつてるけれどなんだかいへない」
ほんとにどういつていいかわからないらしい。
 「私あなたが可愛くてかはいくてたまらないときするのよ。あなたも私が可愛くてかはいくてたまらないときするの?」
 「ええ、さう」
今夜はどうしたのかいつまでも誰もでてこないので存分可愛がることができた。妙子さんもいつになく膝のうへにおちついてなにかと話す。私はただもう可愛くて可愛くて抱きよせては顔を見つめる。
 「あなた私大好き?」
 「大好き」
 「でも今に忘れちまうんでせう」
 「お稽古が忙しくなれば忘れるかもしれない」
 「私どんなに忙しくたつてあなたのこと忘れないのに、ひどい」
 「そりや私子供だから」
妙子さんは綴り方の話をしだした。点のわるいのが気になるのだ。
 「あなたがお嫁にくるまでに文章が上手にかけるやうに私がすつかり教へえてあげるから」
といへばさも安心したらしく、また嬉しさうに、習ひにくる といふ。いぢらしくて、いとしくてならない。さうしてるあひだにも時どき 私が好きでたまらない といふやうに胸を押しつけて、顎を肩へのせてそうつとすがりつく。
             ――――――(四月十九日)

日記体随筆というべきスタイルで書かれた中勘助の「郊外その二」のなか「四月十九日」と題された文の一節である。
この著作の初めの日付は大正15年12月26日となっているが、この時、中勘助31歳、一高時代からの親友江木定男の娘、妙子は8歳であった。
中勘助といえば「銀の匙」一作でもって文芸史に聳え立つ孤高の作家と目され、「銀の匙」愛好の裾野はたいへん広いものがある。もう20年近くさかのぼるが、1987(S62)年、60周年を迎えた岩波文庫は「心に残る三冊」というアンケートを、各界を代表する読者に行い、その結果を「私の三冊」として発表しているが、そこで最も多く挙げられたのが「銀の匙」であった、というほどの人気ぶりである。
「不思議なほど鮮やかな子どもの世界-和辻哲郎評-」が描かれ、「これを読むと、我々は自身の少年時代を懐かしく思い出さざるを得ない-小宮豊隆評-」と幼少年期への郷愁が掻き立てられ、「弱くとも正しく生きようと願う人間にとって、これほど慰めと力を与えられる愛情に満ちた作品は稀有-河盛好蔵評-」と静謐無垢なる世界によるカタルシス効果を賞賛されてきた「銀の匙」世界に比して、「郊外その二」に描かれた幼少女への些か異常ともいうべき偏愛は、意想外の対照を示して大いに驚かされる。

<抜粋-1>
幼児期の妙子を熱愛したときから、それは<永年の相愛の関係>であり、<相愛の因縁>である。勘助が「父」になろうとすればするほど、妙子の勘助への<愛恋>は濃くなる。
逆に考えれば、勘助が妙子からの「父になってくれ」との懇願を受け入れたのは、自身の妙子への執着に他ならない。代理であれ「父」となれば、その名分によって妙子との<永年の相愛の関係>を断ち切ることなく、曖昧に持続できる。勘助は理想としては、仏陀の慈悲によって妙子の<真の父>として「娘」を抱擁することだったといいたいのだろう。ただしその不可能性をはじめから認識しているからこそ、妙子への不憫が重なる。
この堂々巡りの苦悩の元は勘助の妙子への<熱愛の焔>であって、妙子の「父になってくれ」との懇願によるものではない。

ここにおいて、富岡多恵子は、勘助の無意識に内在する欺瞞の、または偽装の構造を喝破している。
以下長くなるが、彼女自身の語る中勘助解読の道筋を適宜かいつまんで追ってみよう。すれば理解の程も深まるというもの。

<抜粋-2>
「提婆達多」において若き悉達多に「生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である。それは実に簒奪よりも殺虐よりもさらに大いなる罪である‥‥」と言わしめた勘助は、日記「沼のほとり」で「私は死を望んではゐない。生を望んでもゐない。私が心から望むのは「私」が存在しなかったことである。」と記している。<生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である>というのは、色欲それ自体にいかにおぼれて死ぬともそれはその人間の一代限りであるが、生きることで数えきれぬ苦しみに悩まねばならない人間を生み出すとすれば、それは大いなる罪だとすることであるが、-これは転倒した危険な思想というしかない-人間の社会は生殖によって成り立ち、それによって永続していくという幻想の上にあるからである。いい代えれば、性の快楽自体が生殖を切り離しうるならば、それがゆがめられ拡大されても人間社会にとって本質的に「危険」なものではない。しかしここには、色欲を断つのは、快楽を断つのが目的ではなく生殖を断つためではないかとの、中勘助の見逃すことのできない強い「思想」がある。

注-「提婆達多」は「銀の匙」発表の8年後、大正10(1921)年刊行の小説。シッダルタ(仏陀)に嫉妬と復讐の念を抱き叛逆したといわれるデーヴァダッタを主人公としている。

<抜粋-3>
<生殖の罪>を糾弾し、<私が心から望むのは「私」が存在しなかったこと>だといった者が、妙子(友人江木の娘)や京子(和辻哲郎の娘)のような<小さな人達を可愛がるために生まれてきた>という。
「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルが、66歳で死ぬまで独身であったこと、成人した女性と関係できぬ「小児愛」者だったことは、今日ではよく知られている。精神医学では、「小児愛」には「本来の性対象に接近、交流する能力や環境に恵まれないために小児を選択する代償性小児愛」と、「未熟な自己イメージを小児に投影することによって対象と同一化する-ナルシズム的対象選択」である「真の小児愛」の二つの型があるとされている。
妙子を可愛がり、京子に恋文を書く、勘助の「不気味さ」は、万世(江木の妻、妙子の母)をはじめとする女性たちとの性的な関係忌避へとつながると思えるが、その指摘がこれまでにないのは、一つには勘助自身の隠蔽の巧妙さ(日記体随筆)があり、一つには家父長制の社会システムがあるのではないか。
<倒錯に対する親和性がきわめて高い>家父長制の社会に、勘助はじめ彼ら-友人江木や和辻哲郎ら-は生きていたからではないか。
強固な家父長制は、娘・嫁・母・妻・妾のような役割によって「女」を分断して、未分化の「女」が生きるステージを与えない。逆にいえば、そういう社会での「男」は「女」と対峙しないで過ごすことができ、母の息子、家族には家長、妾その他奉公人には雇い主、娼妓には客といった役割に、時と場合で出入りする。
そういう家父長制社会であったればこそ、たまたま男が「幼女」を可愛がったとしても、そこに性行動の入り込む隙があるとは認識されていないのだ。

<抜粋-4>
勘助の、「幼女」妙子への接触や京子への恋文は、明らかに彼の性的行動の発現ということができる。しかしそれは「女」に対するものではなく、あくまで「幼女」相手である。「幼女」たちは性的に未成熟であるために性的脅威を与えない。
このことによって、男(勘助)の性行動は「女」の性によって自己愛を阻害されることなく、自分のファンタジーの通りに「幼女」を愛の対象に造型できる。<私の愛には矛盾も齟齬もない><それは海のごとくに容れ、太陽のごとくに光被する>とはなんたる自己愛に満ちた肯定か。

<抜粋-5>
勘助は「銀の匙」に登場する「伯母さん」に生まれた時から育てられた。母は同居してはいるが、勘助が母に「可愛がられる」ことは、絶対的守護者である伯母さんによって無意識に封じられている。妹(母)の家に<厄介>になっている伯母さんの善意のエゴイズムがそこにある。伯母さんが「ひと様に厄介になってなにもしないでいると心苦しい」という人物だったのは「銀の匙」にあるとおりで、勘助養育は妹の家に寄宿する伯母さんの「仕事」ともいえるからである。
<私どもは世の親と子があるやうにお互いに心から愛しあってゐながら、すくなくとも私のほうではよくそれを承知してゐながら真に打ち解けて慣れ親しむことができず、いつも一枚のガラスを隔てて眺めるような趣があった。>というように、勘助と母とのあいだにはつねに、もどかしい距離感があったとしても不思議ではない。「母の死」に、死に近い母の頬を見舞うごとに愛撫し、だれかれを識別できなくなった母に顔を近づけ<かはいいでせう>といい、<そりゃ子だもの>と母にいわせる場面があった。
そこには、母とのスキンシップを求め、言葉によっても「可愛い」と愛撫されたい「子」がいる。この「子」は、自身が「幼女」を可愛がったと同じようにして母に可愛がられたかった。
伯母さんの無私ともみえた絶対愛、生きものへの限りないいたわりを教えた<仏性>、遊びを通して発揮された芸術的感受性、それらを惜しみなく与えられてなお、その子は母に愛撫を求め、それが充たされぬ疎外感をもちつづけていたのがわかる。

-ここで参考までに、J.クリステヴァの言葉を引いておきたい。
「他人への配慮をする行為は、本質的に地味な一種の自殺を要求される。配慮と献身を混同してはならない。献身するということは利己主義的であり、利己主義は自己への憎しみの隠蔽以外のなにものでもない。それに反して、配慮は自己の清算から生じるのである。私の内実も、他の人の内実も、どんな内実も絶対的ではない。ならばこそ、配慮においては、私を消滅させるために、私は私自身の知を用いるのである。しかも、人目につかぬ地味な仕方で。」
この「配慮」と「献身」の、似て非なるものの対照は、伯母の勘助への、配慮というよりは献身的なまでの愛の包容が、実相はいかなるものであり、生涯を通して勘助の無意識にどのような影を落としたかを想像するに、大いに手がかりを与えてくれるのではないだろうか。

<抜粋-6>
日記体随筆の「日記体」こそは、時間のずれを利用しての現実の偽装に適している。現実を偽装することで、自己矛盾、自己否定はすべて隠蔽可能となり、自己の絶対的肯定-まるで聖書のコトバのような箴言に収斂していく。
「私小説」には、語り手(一人称)が中性化を体験し、三人称を通過してのちに獲得された、対象化、客観化が可能な「私」が必要である。中勘助は、そういう「私」を獲得しなかった。というよりそれを回避したのである。
「私小説」に必要な「私」には、対象化によって自己否定、自己批評が当然含まれる。それは自己愛と対立する。「私小説」はどれほど自己肯定、自己正当化を目論んでも、「小説」というその近代作法自体がそれを暴いてしまうという魔力、いや批評性を内包している。
したがって「私小説」によって生じる自己客体化と自己批評の危険を、日記体という型の利用で未然に防いでしまったのである。「私小説」という虚構は、残忍,酷薄のはずだ。
しかしそこには、<詩をつくることより詩を生活することに忙しかった>という詩人・中勘助の、小説=虚構にひそむ虚偽を見透すニヒリズムがあるともいえる。勘助は、求愛された成人女性との性的関係で一度も心身の傷を受けずに<道徳的>愛とやらで女性を脅迫しつづけたともいえる。
彼の「日記体随筆」は、他者(女性)との性による関係を周縁に追いやった、自己愛の円環的完結である。

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May 06, 2006

今朝よりは袂もうすくたちかへて‥‥

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-表象の森- 愚にかへる

  春立つや愚の上にまた愚にかへる

山頭火ではない、一茶の句だ。
文政6(1823)年、数えて61歳の還暦を迎えた歳旦の句である。
前書に「からき命を拾ひつつ、くるしき月日おくるうちに、ふと諧々たる夷(ヒナ)ぶりの俳諧を囀りおぼゆ。-略-今迄にともかくも成るべき身を、ふしぎにことし六十一の春を迎へるとは、げにげに盲亀の浮木に逢へるよろこびにまさりなん。されば無能無才も、なかなか齢を延ぶる薬になんありける」と。自分の還暦に達したことを素直に喜びながら、それも「無能無才」ゆえだと述懐している。
また文政5(1822)年の正月、「御仏は暁の星の光に、四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれのごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さへたのむ程の力なく、たまたま非を改めんとすれば、暗々然として盲の書を読み、あしなへの踊らんとするにひとしく、ますます迷ひに迷ひをかさねぬ。げにげに諺にいふとほり、愚につける薬もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を経ることをねがふのみ」とあり、ここにも愚の上に愚をかさねていこうという覚悟は表れているが、その胸底には、非を改めようとしても改めきれない業のごときものへの嘆きが、切実に洩らされているのだともいえようか。
類句に「鶯も愚にかへるかよ黙つてる」-文政8(1825)年作-がある。

山頭火もまた「愚にかえれ、愚をまもれ」と折につけ繰り返したが、その山頭火が一茶に触れた掌編があるので併せて紹介しよう。

  大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

一茶の句である。いつごろの作であるかは、手許に参考書が一冊もないから解らないけれど、多分放浪時代の句であろうと思う。
一茶は不幸な人間であった。幼にして慈母を失い、継母に苛められ、東漂西泊するより外はなかった。彼は幸か不幸か俳人であった。恐らくは俳句を作るより外には能力のない彼であったろう。彼は句を作った。悲しみも歓びも憤りも、すべても俳句として表現した。彼の句が人間臭ふんぷんたる所以である。煩悩無尽、煩悩そのものが彼の句となったのである。
しかし、この句には、彼独特の反感と皮肉がなくて、のんびりとしてそしてしんみりとしたものがある。
「大の字に寝て涼しさよ」はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出ているが、つづけて、「淋しさよ」とうたったところに、ひねくれていない正直な、すなおな一茶の涙が滲んでいるではないか。
切っても切れない、断とうとしても断てない執着の絆を思い、孤独地獄の苦悩を痛感したのであろう。一茶の作品は極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することができまい。
いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。

ちなみに「大の字に寝て」の句が詠まれたのは、文化10(1813)年、一茶51歳の時。人生五十年の大半を、江戸に旅にと、異郷に暮らし、しかも義母弟との長い相剋辛苦の末に得た故郷信濃の「終の栖」に、「これがまあつひの栖か雪五尺」と詠んだ翌年のこと。
この点は山頭火の記憶違いである。

   ―――参照 加藤楸邨「一茶秀句」、種田山頭火「山頭火随筆集」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-02>
 三島江に茂りはてぬる蘆の根のひとよは春をへだて来にけり
                                    藤原良経

千五百番歌合、夏一。
三島江-摂津国の歌枕、大阪府高槻市に三島江の町名が残る。嘗ては淀川右岸が入江を形成していた。
邦雄曰く、弥生も終りのその一夜を境として、彼方は春、此方は夏、水辺の青々と茂りに茂ったあの蘆の一節(ひとよ)もまた、春を隔ててすっくと立つ夏のもの。後鳥羽院第三度百首歌・夏15首の冒頭に飾られた、と。

 今朝よりは袂もうすくたちかへて花の香遠き夏ごろもかな  後花園院

新続古今集、夏、百首の歌召されしついでに、更衣の心を。
応永26(1419)年-文明2(1470)年、後崇光院の第一皇子。正長元(1428)年、称光天皇が崩ずると、皇位が南朝系に移るのを怖れた幕府に推され、立太子を経ず践祚。飛鳥井雅世に「新続古今集」を選進させた。応仁の乱勃発(1467)に際しては中立を保ちつつ、その年の末に乱の責をとって自ら出家。家集に「後花園院集」、勅撰入集は新続古今集の12首。
邦雄曰く、夏が立てば衣もうすものに裁ち変える。「花の香遠き」には、心新たに夏を迎えながら、なお花の春を忘れかねている躊躇いが匂う。類歌は無数に存在するが、洗練度はこの歌に極まろう、と。

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May 05, 2006

花鳥もみな行きかひて‥‥

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-表象の森- こどもの日

 端午の節句の由来は、中国の春秋戦国時代の屈原にあるというから今から2300年もさかのぼる。諫言に遭い楚王より左遷された憂国の士屈原は、故国の将来に絶望し、石を抱いて汨羅江(ベキラコウ)に入水自殺したのだが、その日が旧暦の5月5日と伝えられる。楚の民たちは、屈原の無念を鎮める為、或いはその亡骸が魚の餌になどならぬようにと、こぞって小舟を出し、太鼓などを打ち鳴らして魚をおどしたり、笹の葉に米の飯を包んだチマキを投げ入れたりしたという。これが今日東アジアの各地で行われている龍舟比賽(ドラゴンレース)の発祥ともなり、粽(チマキ)の由来ともなった訳だ。

 こどもの日につきものの鯉幟のほうはどうやら日本独自のものらしい。時代はぐんと下って江戸中期、武家社会では兜の飾りや幟などを立てる風習が古くから広くあったようだが、現在のような空高く泳ぐ鯉のぼりへと考案され広まったのは町民たちによったものとされる。その発想はもちろん中国の故事「竜門の滝を登りきった鯉は竜と化して天翔ける」すなわち「登竜門」に負っている。

 そのこどもの日、初夏の陽気に誘われるように、幼な児を連れて久しぶりに蜻蛉池公園まで出かけたが、さすがたいそうな賑わいで弁当持参の家族連れの人、人、人。府運営の公園だから入園料も要らないし、広大な園内には遊具もかなり充実している。半日遊びまわって過ごせば、小さな子ども達にとっては楽しい休日となろう。駐車料のみ600円也を要するが、商業施設のディズニーや遊園地などと違って金のかからぬささやかな楽園だ。大きな池と樹々と花々にも恵まれ空気も美味い。ここにはやすらいだ家族たちの、それぞれの絆のカタチがある。こどもは4、5歳児から小学校低学年くらいまでがほとんどだが、この時期、親子であるいは祖父母も交えてのこういった時間が、幾たびか重ねられ、たしかな懐かしい記憶として形成されるならば、いまどきの世間を騒がせる家族崩壊ゆえの悲惨な殺傷事件など起こる筈もないのだが。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-01>
 花鳥もみな行きかひてむばたまの夜のまに今日の夏はきにけり
                                     紀貫之

貫之集、四、天慶五年、亭子院の御屏風の料に歌二十一首。
邦雄曰く、旧暦4月1日の朝ともなれば、世界は一変して「夏」の光が満ち溢れる。桜も鶯も春に生きたものすべて、過去の国へ向かい、同じ道を奔ってくる「夏」とすれ違う。それも3月31日の深夜に。「行きかひて」の第三句が細部まで具象を伴って思い描けるのも、貫之の言葉の持つ力であろう、と。

 雲のゐる遠山鳥の遅桜こころながくも残る色かな  宗尊親王

続古今集、夏、三百首の歌の中に。
邦雄曰く、夏になってもなお春を懐かしむ人々は、遅桜に心を託しなごりを惜しもうとする。新古今・春下巻頭の後鳥羽院の「桜咲く遠山鳥のしだり尾の」を見事に復活して結句で夏を暗示した。作者は後嵯峨帝第一皇子、続古今集には中務卿親王の名で、為家らが67首を選入した、と。

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May 04, 2006

おもひやれ空しき床をうちはらひ‥‥

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-表象の森- 海神の馬

 19世紀末のイギリスで活躍した絵本挿絵画家ウォルター・クレインが残した油絵の代表作に「海神の馬」というよく知られた幻想的な作品がある。絵を見れば記憶のよみがえる人も多いだろうが、海岸に打ち寄せる波の、その砕けた波頭が、たてがみをなびかせて疾走する無数の白い馬に変身しているという絵だ。

 辻惟雄の「奇想図譜」では、このほとばしる波が疾駆する馬へと変身するという奇怪な着想の先駆をなした絵師として曽我蕭白の世界に言及する。「群馬群鶴図屏風」がその絵だが、蕭白は18世紀の上方絵師、生没年は1730年-81年で、クレインとは一世紀あまり隔たっている。波を馬に見立てた蕭白の趣向は、江戸の浮世絵師、北斎に受け継がれているとも見える。「富嶽百景」シリーズの「海上の不二」では、砕けた波頭のしぶきかとまがう群れ千鳥の飛翔の姿がみどころとなっている。

 クレインが「海神の馬」を描いた19世紀末は、パリ万国博のあと、フランスやイギリスではジャポニズム流行のまっただなかであった。海野弘も「19世紀後半にヨーロッパ絵画で波の表現が急に増えるのは、おそらく光琳から北斎にいたるジャポニズムの影響と無縁ではないはずである」と指摘している。時代も空間も隔てたクレインと蕭白の、波が馬にと変身するという着想は、おそらく偶然の一致なのだろうが、クレインの幻想的イメージ形成に、北斎の波の変奏が一役買ったのではないかと想像するのは、それほど突飛なことではあるまい、と辻惟雄は結んでいる。

 想像力におけるシンクロニズム-同時性-や伝播力について、さまざま具体的に触れることはたのしく刺激的なことこのうえない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-28>
 おもひやれ空しき床をうちはらひ昔をしのぶ袖のしづくを  藤原基俊

千載集、哀傷。
邦雄曰く、詞書には「女に後れて歎き侍りける頃、肥後が許より問ひて侍りけるに遣はしける」とあり、弔問への返事である。死におくれることの哀れは、来ぬ人を待ちつつ荒れる床にひとりを嘆く哀れよりも、袖の雫はまさろう。これこそまことに他界にまで続き、永久に絶えることのない相聞であろう。基俊の歌風は伝統重視、新風の俊頼とは対立した、と。

 菅原や伏見の里の笹まくら夢も幾夜の人目よくらむ  順徳院

続後撰集、恋二、名所の百首の歌召しける時。
菅原や伏見-大和国の歌枕。奈良市菅原町、行基ゆかりの古刹菅原寺があり、秋篠川支流域の菅の群生原野。
邦雄曰く、古今・雑下に「いざここにわが世は経なむ」と歌い、千載・秋上に俊頼が「なんとなくものぞ悲しき」と取って「菅原や伏見の里」も、伊勢物語の深草に劣らぬ名所となった。恋の夢の通い路をこの里の笹に取った趣き。作者の溢れる詩藻が、詞に咲き出たかのような優しい恋歌、と。

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May 03, 2006

妹が髪上竹葉野の放ち駒‥‥

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-表象の森- 予感と徴候、余韻と索引

 生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すことだ、と精神科医中井久夫はその著「徴候・記憶・外傷」の「世界における索引と徴候について」という小論のなかで言っている。

 「予感」と「徴候」は、ともにいまだ来たらぬ近-未来に関係している。それは一つの世界を開く鍵であるが、どのような世界であるかまだわかっていない。
思春期における身体的変化は、少年少女たちにとって単なる「記号」ではない。それは未知の世界の兆しであり予告である。しかし、はっきりと何かを「徴候」しているわけでもない。思春期の少年少女たちは身体全体が「予感」化する。「予感」は「徴候」よりも少しばかり自分自身の側に属しているのだ。

 「余韻」と「索引」にも同様の関係がある。「索引」は一つの世界を開く鍵である。しかし、「余韻」は一つの世界であって、それをもたらしたものは、一度は経過したもの、すなわち過去に属するものである。が、しかし、主体にとってはもはや二義的なものでもある。

 「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雰囲気的なものである。これに対し、て「徴候」と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とディテールをもっている。

 「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。「予感」と「徴候」とに生きる時、人は、現在よりも少し前に生きているということである。
 これに反して、「索引」は過去の集成への入り口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。「余韻」と「索引」とに生きる時、人は、現在よりも少し後れて生きている。

 前者を「メタ世界A」、後者を「メタ世界B」と名付けたとして、AとBはまったく別個のものではない。「予感」が「余韻」に変容することは経験的事実だし、たとえは登山の前後を比較すればよいだろう。「索引」が歴史家にとっては「徴候」である、といったことも言い得る。
予感と徴候、余韻と索引、これら四者のあいだには、さらに微妙なさまざまな移行があるだろう。

            ―――参照 中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-27>
 水まさる高瀬の淀の真菰草はつかに見ても濡るる袖かな
                                  殷富門院大輔

続後撰集、恋一、題知らず。
生没年不詳。建久末・正治頃の歿か。殷富門院(後白河院第一皇女亮子)の女房。父は藤原信成というが詳らかでない。歌は定家によつて高く評価された。多作家で「千首大輔」の異名をとり、家集「殷富門院大輔集」がある。小倉百人一首に「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」。千載集以下に63首。
高瀬の淀-浅瀬の水淀むあたり。 真菰草(マコモグサ)。 はつか-ちらと、ちょっとの意。
邦雄曰く、五月雨に水かさの増す初夏は、岸の菰も水面すれすれに靡き、かつ濡れどおし。菰こそ作者自身、一目ちらと見ただけなのに、その日から、遂げ得る筈もない悲しい恋に泣き暮らす。この歌の次に源家長の「菰枕高瀬の淀にさす叉手のさてや恋路にしをれ果つべき」が並び、ひとしおの興趣も生まれ、贈答の感あり、と。

 妹が髪上竹葉野(あげたかはの)の放ち駒荒(あら)びにけらし逢はなく思へば                                作者未詳

邦雄曰く、愛人の心が離れ、すさんでゆくことを放し飼いの馬になぞらえ、その野は竹葉野、序詞として「妹が髪上げ綰(タ)く=上竹葉野」と用いたが、駒のように荒れる妹の、その髪もたてがみのように乱れなびくさまを、作者も当然思い描いていよう。序詞や枕詞が、単なる修飾にとどまらず、なまなましいほどに生きて働く、好個の例のひとつ、と。

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May 02, 2006

逢ふことは遠山烏の狩衣‥‥

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-表象の森- Slow-motionとClose-up

 日常の行動であれ、スポーツの動作であれ、それがSlow-motionで再現されると奇妙に舞踊といったものに似てくるという経験はだれにでもあるだろう。

 動きというものはそれがゆっくりと展開されればされるほど、Reality=現実感から遠ざかるものなのだ。日常的な行動としての意味やスポーツの動作としての意味は失われ、既視感に満ちた一連のまとまりは解体させられ、なんともしれぬ不気味とも不可解ともいうべき世界が立ち現れてくる場合がある。

 それは空間的にいえば、micro-微視的からmacro-巨視的へ或いはその逆行、detail=細部の超Close-upにも似ているといえよう。Close-upが映し出すなにか得体の知れない不気味なものへの不安は、カメラが引きその全景が見えてくるにしたがい、それが眠っている人の瞼のひきつりに過ぎないことが分かってしまえばやっと安心することになるが、Slow-motion化はその逆の過程といっていいものだ。

 日常的な行動のひとつひとつにも、はじまりかけては抑止され、意識されないまま未発に終ってしまう可能的行動のさざなみのようなものがある。それらのさざなみにともなう無意識の情動は、日常的な行動の連鎖に覆い隠され、抑圧ともいえぬほどの軽微な抑圧によって滓(おり)のように沈殿し、われわれ自身気づかぬ鬱屈を積もらせていく。

 Slow-motionやClose-upは、日常的・実用的な行動の意味を解体させることによって、未発に終った可能的行動や表出されなかった鬱屈を滲み出すように現前させる。それと同時にわれわれの眼差しを非日常的な視線へと変換することによって、Metaの眼の可能性さえも開示することになる。
                  ―――参照 市川浩「現代芸術の地平」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-26>
 逢ふことは遠山烏の狩衣きてはかひなき音をのみぞ泣く  元良親王

後撰集、恋二。
邦雄曰く、秘かに通っていた女から、摺衣の狩装束を贈られたので、その返しにという意味の長い詞書あり。縁語と掛詞を華やかに配慮し、結句の涙が一首の挨拶と見えるほど、めでたい姿である。高貴の美丈夫にふさわしい朗々たる句、と。

 蘭の花うら紫の色に出て移り香さへも絶へしなかかな  木下長嘯子

挙白集、恋、恨絶恋。
邦雄曰く、蘭は藤袴の古名。花の色の「うら紫」と「恨むる」を懸け、絶えた縁を良経の六百番歌合にちなんで、「移り香さへも絶へし」としたところ、技巧派の面目はあきらか、と。

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May 01, 2006

思ひ川たえずながるる水の泡の‥‥

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-表象の森- 死ぬときはひとり

    生きることをやめてから
    死ぬことをはじめるまでの
    わずかな余白に‥‥

 私にとってはかけがえのない書のひとつである「詩的リズム-音数律に関するノート」を遺した詩人の菅谷規矩雄は、1989(H1)年の暮も押し迫った12月30日に53歳の若さで死んだ。直接の死因は食道静脈瘤破裂、肝硬変の末期的症状を抱え、死に至る数年は絶えず下血に悩まされていたという。
この年の春頃からか、彼は上記の3行を冒頭に置いて「死をめぐるトリロジィ」と題した手記を遺している。トリロジィとは三部作というほどの意味だが、古代ギリシアでは三大悲劇を指したようだ。

 悲しみはどこからきて、どこへゆく。
 死は、どこではじまって、どこで終るか。
 胎児は<生れでぬままの永世>を欲している。

 死ぬときはひとり―――
 いまここにいたひとりが、いなくなってしまったとしたら、それはそのひとが消えてしまったからではなく、どこかへ行ってしまったからだ。
 死がいなくなることであるなら、死んでもはやここにいないひとは、どこかへ行ってしまった、ということなのだ。
 どことさだかにできずとも、どこかへゆく、そのことをぬきにして、死をいなくなることと了解することは、できないだろう。
 じぶんにたいして、じぶんがいなくなる――ということは了解不能である。
 だから、わたしは、<いま・ここ>を「どこか」であるところの彼岸へ、やはり連れ込みたいのだ。
 どこへも行かない。この場で果てるのだとすれば、死とはすなわち物質的なまでの<いま・ここ>の消滅である。
 だから<いま・ここ>を、あたうかぎりゼロに還元してゆけば、その究みで<わたし>はみずからをほとんど自然死へと消去してゆくことになる。
 彼岸ではなく、どこまでもこちらがわで死を了解しようとすれば、それは<いま・ここ>の成就のすがたなのだとみるほかはあるまい。
 外見はどのようにぶざまで、みすぼらしくみにくくとも、死は、私の内界に、そのとき、<いま・ここ>の成就としてやってきているのだ。
 生きていることは悪夢なのに、なお生きている理由は、ただひとつ、死をみすえること。
 死が告知するところをあきらめる-明らめる-こと。

               ――― 菅谷規矩雄「死をめぐるトリロジイ」より

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-25>
 知るやきみ末の松山越す波になほも越えたる袖のけしきを
                                    藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、二夜百首、寄山恋。
邦雄曰く、二夜百首は良経21歳の若書きながら、その題、恋も雲・山・川・松・竹などに寄せて、後年の六百番歌合の先駆をなす。小倉百人一首・清原元輔詠の「末の松山波越さじとは」を逆手にとって、「越す波」と、さらに進めて「なほも越えたる」と涙に濡れそぼつ袖を言う。六百番の「末の松待つ夜いくたび過ぎぬらむ山越す波を袖にまかせて」は3年後の作だが、両者甲乙つけがたい、と。

 思ひ川たえずながるる水の泡のうたかた人にあはで消えめや  伊勢

後撰集、恋一。 詞書に「罷る所知らせず侍りけるころ、またあひ知りて侍りける男の許より、日ごろ尋ねわびて失せにたるとなむ思ひつるといへりければ」とあり。
思ひ川-本来、絶えることのない物思いを川の流れになぞらえた表現だが、中世には筑前の国の歌枕とされた。
邦雄曰く、うたかたは泡沫、水の泡、はかないことをいうが、転じて「いかでか」の意。泡もまたうたかた。縁語と掛詞の綴れ織りで、あなたに逢わずにどうして死ねましょうと、甘えかつ怨じている。歌枕も重い意味をもつこと無論である、と。

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