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March 31, 2006

はかなしな夢に夢見しかげろふの‥‥

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-今日の独言- マクドナルドと食育基本法

 昨夕、どの放送局か確認し忘れたが、TVニュース番組で、マクドナルドの店が一軒もないという奄美大島のとある小学校に、わざわざ業者が島に乗り込んで、マックのハンバーガーを給食として子どもたちに試食させている風景が放映されていた。子どもたちの半数以上は初めて食するマック処女だったろうか。みな一様に美味しそうに且つ嬉しそうにバーガーを頬張る姿が映し出されていた。ニュースの解説ではどうやら昨年7月に施行されたという「食育基本法」なる寡聞にして初めて耳にする法律と関わりがあるらしく、この新法の趣旨に沿った日本マクドナルドによる協賛行為のような意味づけがされていたように聞こえたが、学校給食とマックのハンバーガーという取り合せに違和感がつきまとって仕方なかったし、この話題を採り上げるマスコミの神経にも驚きを禁じえなかった。
「食育基本法」? なんだよその法律? マックのハンバーガーを子どもたちの給食にというような行為が奨励礼賛されるような法律って、いったいどんな法律だよ?
「食生活情報サービスセンター」なるこれまた耳慣れない財団法人のHPに「食育基本法」が全文掲載されていた。
=http://www.e-shokuiku.com/kihonhou/index.html
基本法と銘打つだけに、前文と四章三十三条及び附則二条から成るごく簡明な法である。
前文の中ほどには「国民の食生活においては、栄養の偏り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、過度の痩身志向などの問題に加え、新たな「食」の安全上の問題や、「食」の海外への依存の問題が生じており、「食」に関する情報が社会に氾濫する中で、人々は、食生活の改善の面からも、「食」の安全の確保の面からも、自ら「食」のあり方を学ぶことが求められている。」というような件りもあった。
総則としての第一章第十二条では、食品関連事業者等の責務として「食品の製造、加工、流通、販売又は食事の提供を行う事業者及びその組織する団体は、基本理念にのっとり、その事業活動に関し、自主的かつ積極的に食育の推進に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する食育の推進に関する施策その他の食育の推進に関する活動に協力するよう努めるものとする。」とある。
成程、日本マクドナルドが、店舗が一軒もないという奄美大島にわざわざ出向いて、小学生たちに自社のハンバーガーを給食代わりに食体験させるという行為が、この新法に則った食育キャンペーン事業の一環だという訳だ。給食とマックのハンバーガーという取り合せは話題性もあるといえばある。だからといってこれを積極的に採り上げるマスコミの神経もどうかしてるんじゃないか。なにしろ人口の60%以上という桁違いの肥満率を誇る?アメリカである。引用した前文にもあるように、肥満や生活習慣病の増加現象の一翼を担っているのが、まぎれもなくマクドナルドを筆頭とするアメリカ食文化のわれわれ消費者への圧倒的な浸透そのものじゃないか。
美辞麗句で飾り立てているものの、「食育基本法」などという新法の成立自体、拙速の牛肉輸入再開と同様、内実は超肥満大国アメリカによる外圧に発しているのではと、穿った見方もしてみたくなろうというものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-35>
 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
                                    大伯皇女

万葉集、巻二、挽歌。
詞書に、大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首、とある後一首。
邦雄曰く、諮られて死に追いつめられた悲劇の皇子大津を悼む同母姉の悲痛な挽歌。不壊の秀作であろう。馬酔木の蒼白く脆く、しかも微香を漂わす花と、この慟哭のいかに哀れに響きあうことか。時に朱鳥元(686)年、大津23歳、大伯25歳の春、と。

 はかなしな夢に夢見しかげろふのそれも絶えぬるなかの契りは
                                    藤原定家

拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、逢不会恋。
邦雄曰く、歌の心がそのまま彩となり調べとなり、余情妖艶の典型。初句でとどめを刺す表現は定家の好むところ、目立たぬ倒置法で、五句は纏綿と連なり、「絶えぬる」と歌いつつ切れ目を見せぬ。歎きの円環の中にさらに夢と蜉蝣がもつれあい、ほとんどはかなさの綾織の感がある。定家70歳、関白左大臣家百首中の恋歌、と。

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March 30, 2006

霞立つ末の松山ほのぼのと‥‥

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-今日の独言- 八百屋お七

 天和3(1683)年の今日3月29日は、男恋しさのあまり自宅に火付けをした江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七が哀れ刑場の露となった日だそうな。浄瑠璃や歌舞伎で名代の八百屋お七である。
天和・貞享・元禄と五代綱吉の世だが、この頃暦号がめまぐるしく変わっているのも、この「お七火事」事件と少なからず関わりがありそうだ。
天和2(1682)年の暮れも押し迫った12月28日、江戸で大火が起こった。駒込大円寺から出火、東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及び、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95を焼失、焼死者3500名という大被災。その際、家を焼かれ、駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避難したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさで、火事があれば会えると思い込み、翌年3月2日夜、放火したがすぐ消し止められ、捕えられて市中引廻しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたというのが実説。
 この八百屋お七がモデルとなって西鶴の「好色五人女」に登場するのが早くも3年後で、元禄期には歌祭文に唄われていよいよ広まり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色されていくが、とくに歌舞伎では曽我物の世界に結びつけた脚色が施され、八百屋お七物の一系統が形成されていく。

                 ―― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-34>
 霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空  藤原家隆

新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、春曙といふ心を。
末の松山-陸奥国の歌枕、宮城県多賀城市八幡、宝国寺の裏山辺り。二本の巨松が残る。
邦雄曰く、末の松山が霞む、霞の彼方には越えられぬ波が、ひねもす泡立ちつづける。うすべにの雲が、縹の波に別れようとする。横雲を浮かべた空自体が海から離れていく幻覚、錯視のあやういたまゆらを掴むには、これ以外の修辞はなかったろう。霞・雲・浪と道具立てが調い過ぎているという難はあろうが、これだけ流麗な調べの中に籠めるとその難も長所に転ずる、と。

 物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花
                                    大伴家持

万葉集、巻十九、堅香子草の花を攀じ折る歌一首。
物部の八十乙女(もののふのやそをとめ)-物部は八十=数多いことに掛かる枕詞。堅香子の花-片栗の花とされるのが通説。
邦雄曰く、寺の井戸のほとりには早春の片栗の、淡紫の六弁花がうつむきがちに顫えている。水汲む乙女らは三人、五人と入り乱れてさざめく。「物部の八十乙女」の鮮明な動と、下句の可憐な花の静の、簡素で清々しい均衡は、家持独特の新しい歌風の一面である、と。

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March 29, 2006

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ‥‥

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-今日の独言- 痩せ蛙の句

 一茶のあまりにも人口に膾炙した句で恐縮だが、蒙を啓かれた思いをしたのでここに記しておく。
 「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」
について、「一茶秀句」(春秋社)での加藤楸邨氏の説くところでは、
「希杖本句集」には句の前書に「武蔵の国竹の塚といふに、蛙たたかひありける、見にまかる。四月廿日なりけり」とあり、古来、「蛙いくさ」とか「蛙合戦」といわれて、蛙は集まって戦をするものと考えられていたが、実はこれは、蛙が群れをなして生殖行為を営むことである、と。いわば本能に規定された遺伝子保存をめぐる小動物たちの生死を賭した闘いだという訳である。
一匹の雌にあまたの雄が挑みかかるので、激しい雄同士の争いとなる。痩せて小さく非力なものはどうしても負けてしまうのだ。一説には「蛙たたかひ」というのは、蛙の雌に対して、多くの雄を向かわせ、相争わせる遊戯だという話もあるそうだが、楸邨氏曰く、いずれにせよ、単なる蛙の戦というような綺麗ごとではなく、そうであってこそはじめて、「一茶是にあり」と、軍記物よろしく名乗りを採り入れた諧謔調が精彩を発するのであり、この句の一茶は、痩せ蛙に同情している感傷的なものではなく、むしろ爛々と眼を光らせた精悍な面貌なのだ、と説いているのだが、成程そうかと膝を叩く思い。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-33>
 沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯
                                    京極為兼

風雅集、春、題知らず。
邦雄曰く、新古今時代も「霞める山」を幽玄に表現した秀歌はあまた見られ、これ以上はと思われるまでに巧緻になった。だが、為兼の「なほ奥の峯」にまでは修辞の手が届かなかった。雄大で微妙、華やかに沈潜したこの文体と着想が、二条派とは一線を劃する京極派美学の一典型。初句六音、三句切れ、体言止めの韻律は掛替えのないものになっている、と。

 荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立返り菫をぞ摘む
                                   二条院讃岐

千五百番歌合、二百四十八番、春四。
永治元年(1141)?-建保5年(1217)?。源三位頼政の女。二条院の女房となり、後鳥羽院の中宮宣秋門院にも仕えた。新古今時代の代表的女流歌人。小倉百人一首に「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」の作がある。千載集以下に73首。
邦雄曰く、「離(か)れ」と「枯れ」を懸けて、新古今調「故郷の廃家」を歌う。但しこの「ふるさと」には「古き都に来て見れば」の趣が添う。この歌合当時讃岐は60歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に20年余の歳月が過ぎていた、と。

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March 27, 2006

見ぬ世まで思ひ残さぬながめより‥‥

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-今日の独言- ドストエフスキーの癲癇と父殺し

 「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」の文豪ドストエフスキーが、癲癇性気質だったことはよく知られた話だろうが、亀山郁夫の「ドストエフスキー-父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、フロイトが1928年に「ドストエフスキーと父殺し」と題する論文で、ドストエフスキーの生涯を悩ました癲癇の発作について、彼の持論である「エディプス・コンプレックス」を適用してみせている、とこれを引用しつつ論を展開しているが、なかなかに興味深く惹かれるものがあった。以下、フロイトの孫引きになるが、
「少年フョードルは、ライバルでありかつ支配者である父親を憎み、その反面、強者である父親を賛美し、模範にしたいというアンビバレントな感情に苦しめられていた。しかし、ライバルたる父親を亡き者にしたいという願いは、父親から下される罰、すなわち、去勢に対する恐怖によって抑圧されていた。そして、その父親が(彼の支配下であった)農奴によって殺されたことで、図らずもその願いが現実化したため、まるで自分が犯人であるかのような錯覚にとらわれた」というのである。
「ドストエフスキーの発作は、18才のときのあの震撼的な体験、すなわち父親の殺害という事件を経てのち、はじめて癲癇という形態(痙攣をともなう大発作の型)をとるに至った」
或いはまた「この癲癇の発作においては、瞬間的に訪れるエクスタシー(アウラ)のあと、激しい痙攣をともなう意識の喪失に襲われ、その後にしばらく欝の状態が訪れる」といい、
「発作の前駆的症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験されるのであって、それは多分、父の死の報告を受け取ったときに彼が味わった誇らかな気持ちと解放感とが固着したものと考えていいだろう。そしてこの法悦の一瞬の後には、喜びの後であるだけに、いっそう残忍と感ぜられる罰が、ただちに踵を接してやってくるのが常であった」と。
フロイトはさらに、少年フョードルの心の深く根を下ろしている罪の意識や、後年現れる浪費癖、賭博熱などいくつかの異常な行動様式にも同じ視点から光をあてている、としたあとでこの著者は、
「60年に及んだドストエフスキーの生涯が<エディプス・コンプレックス>の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。フロイトの存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキーは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、表象化するほかに手立てはなかったのだ。」と、ドストエフスキー文学の深い森の中へと読者を誘ってゆく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-32>
 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春の曙  藤原良経

風雅集、雑上、左大将に侍りける時、家に六百番歌合しけるに、春曙。
邦雄曰く、六百番歌合きっての名作と称してよかろう。右、慈円の「思ひ出は同じ眺めに帰るまで心に残れ春の曙」と番。左右の方人ことごとく感服、判者俊成「心姿共にいとをかし。良き持に侍るべし」と、滅多に用いぬ最上級の判詞を認める。過去・現在・未来を別次元から俯瞰したような、底知れぬ深み、青黛と雲母を刷いたかの眺め、賛辞に窮する、と。

 春といへばなべて霞やわたるらむ雲なき空の朧月夜は  小侍従

千五百番歌合、五十四番、春一。
生没年未詳(生年は1120年頃-没年は1202以後とみられる)。父は石清水八幡宮別当大僧都光清。「待宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の恋歌で知られ、「待宵の小侍従」と異名をとる。後鳥羽院歌壇で活躍、俊成・平忠盛・西行らと交遊、源頼政や藤原隆信らと贈答を残す。家集に「小侍従集」、千載集初出、勅撰入集55首。
邦雄曰く、空前の大歌合に列席の栄を得た小侍従は、87歳の俊成に次ぐ高齢。ゆるぎのない倒置法で風格を見せるところ、さすがに老巧、と。

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March 26, 2006

はかなしやわが身の果てよ‥‥

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-今日の独言- 小野小町

 美貌の歌人として在原業平と好一対をなす小野小町の経歴は不明なことが多く、またそれゆえにこそ多くの説話が語られ、全国各地にさまざまな伝説が生まれた。
鎌倉初期に成立した「古事談」では、東国の荒れ野を旅する業平が、風の中に歌を詠む声を聞き、その声の主を捜し歩くと、草叢に髑髏を見出すが、実は其処こそ小町の終焉の地であった、という説話がある。小町の髑髏の話はこれより早く「江家次第」という古書に見えるという。また同じ平安後期の作とされる「玉造小町壮衰書」なる漢詩では、美女の栄枯盛衰の生涯が小町に託されて歌われているとか。さらには鎌倉初期、順徳院が著したとされる歌学書「八雲御抄」では歌の神として小町が夢枕に立ち現れたという話もあり、これらより天下一の美女であり歌人の小町伝説は、さまざまな歌徳の説話や恋の説話が展開され、老後には乞食となり発狂したという落魄の物語まで生み出される。
 今に伝わる小町の誕生地と終焉の地とされるところは全国各地に点在しており、かほどに小町伝説が広く流布するには、同じく生没年不詳の歌人和泉式部が書写山の性空上人により道心を起こし諸国を行脚したとされ、これより瘡蓋譚をはじめさまざまな説話が全国に広まるが、これら式部伝説と重なり合って流布していく一面もあったかとも考えられそうだ。
鎌倉期以降には小町伝説や式部伝説を語り歩く唱導の女たちが遊行芸能民化して全国各地を旅したであろうし、また神官小野氏の全国的なネットワークの存在も伝説流布に無視できないものだったのではないか。
 そんな小町伝説をいわば集大成し、文芸的な形象を与えたのは世阿弥以降の能楽である。今日にまで残される謡曲に小町物は、「草子洗小町」、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「雨乞小町」「清水小町」と七曲ある。なかでもよく知られたものは、小町に恋した深草少将が、百夜通えば望みを叶えようと約した小町の言葉を信じて通いつめたものの、あと一夜という九十九夜目にして儚くも死んでしまったという「通小町」と、朽ちた卒塔婆に腰かけた老女が仏道に帰依するという話で、その老女こそ深草少将の霊に憑かれた小町のなれの果てであったという「卒塔婆小町」だろう。
 江戸化政文化の浮世絵全盛期、北斎はこれら七様の小町像を「七小町枕屏風」として描いている。
また元禄期の俳諧、芭蕉らの巻いた歌仙「猿蓑」ではその巻中に、
  さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆
   浮世の果てはみな小町なり    芭蕉
と詠まれているのが見える。

――――――――――――――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-31>
 春霞たなびく空は人知れずわが身より立つ煙なりけり  平兼盛

兼盛集、春頃。
生年不詳-正暦元年(990)。光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。三十六歌仙。後撰集以下に87首。
邦雄曰く、小倉百人一首に採られた「しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」の作者兼盛は、逸話多く、家集も数多の恋の贈答を含む。この「春霞」も誰かに贈った歌であろう。「煙」は忍ぶる恋に胸を焦がす苦しい恋の象徴、と。

 はかなしやわが身の果てよあさみどり野べにたなびく霞と思へば
                                    小野小町

小町集。
生没年不詳。文徳・清和朝頃の歌人。小野篁の孫とも出羽郡司小野良実の女とも、また小野氏出自の釆女とも。古今集・後撰集に採られた約20首が確実とされる作。六歌仙・三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、哀傷の部に「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野べの霞と思へば」として入集。小町集のほうが窈窕としてもの悲しく、遥かに見映えがする。伝説中の佳人たるのみならず、残された作品も六歌仙中、業平と双璧をなす。古今集には百人一首歌「花の色は移りにけりな‥‥」が入集。貫之が評の如く「あはれなるやうにて、強からず」か、と。

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March 25, 2006

月影のあはれをつくす春の夜に‥‥

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-今日の独言- 袴垂と福田善之

 「袴垂保輔」とも別称される「袴垂-ハカマダレ」とは平安時代に活躍したとされる伝説の盗賊だが、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」では「袴垂」と「保輔」は別人とも見られるようだ。両者がいつのまにか合体して伝説的な大盗賊の名となったのだろうが、その経緯のほどは藪の中である。
今昔物語や宇治拾遺には「いみじき盗人の大将軍」たる「袴垂」が、笛を吹きつつ都の夜道を歩く男を襲って衣類を奪おうとしたが逆に威圧され果たせなかった。その相手が和泉式部の夫として知られる藤原保昌であった、という一節がある。また宇治拾遺の別段では、「保輔」という盗人の長がいて、この男は藤原保昌の弟であったとされている。
藤原保輔という名は「日本紀略」にその名を残しているようで、永延2年の条に「強盗首」と記されており、「追悼の宣旨を蒙ること十五度、獄中にて自害した」とあるそうな。
どうやらこれらの話が縺れ合わされて、いつのまにか「袴垂保輔」なる伝説上の大盗賊ができあがってきたらしい。

 ところで話は変わって、もう40年以上昔のことだが、「袴垂れはどこだ」という芝居があった。1964(S39)年初演で、たしか大阪労演にものった筈だ。脚本は福田善之。
頃は中世末期か、うちつづく戦乱と天変地異による凶作で逃散するしかない百姓たちが、伝説の盗賊「袴垂」を救世主として求め、尋ね探しゆく放浪の旅を果てしなくつづけ、最後には自分たち自身が「袴垂」に成ること、彼ら自身の内部に「袴垂」を見出すべきことに目覚めていくという物語。
福田善之得意の群像劇とでもいうべき一群の演劇シーンは、状況的には60年安保と呼応しながら、それまでの戦前からの新劇的世界を劃するものとなったと思われる。
彼の処女作「長い墓標の列」は57(S32)年に当時の学生演劇のメッカともいえる早稲田の劇研で初演されている。
60年安保を経て、翌61(S36)年発表された劇団青芸の「遠くまで行くんだ」は演出に観世栄夫を迎えたが、アルジェリア紛争と日本の60年安保を平行交錯させた展開の群像劇は、挫折感にひしがれる多くの知識人や学生たちにとって鮮烈に響いたにちがいない。
63(S38)年春に同志社へ入学、すぐさま第三劇場という学生劇団に入った私は、この「遠くまで行くんだ」を是非自分たちの手で演ってみたいと思ったが、先輩諸氏の心を動かすに至らず、残念ながら果たしえなかった。
福田善之的劇宇宙は、明けて62(S37)年の「真田風雲録」をもって劃期をなす。この舞台は当時の俳優座スタジオ劇団と呼ばれた若手劇団が結集した合同公演で俳優座の大御所千田是也が演出した。
このスタジオ劇団とは、三期会(現・東京演劇アンサンブル)、新人会、仲間、同人会、青芸、らであるが、今も残るのは広渡常敏氏率いる東京演劇アンサンブルと劇団仲間くらいであろうか。
「真田風雲録」は早くも翌63(S38)年に東映で映画化され話題を呼んだからご存知の向きも多いだろう。監督は加藤泰、主演に中村錦之助や渡辺美佐子。渡辺美佐子は舞台の時そのまま「むささびのお霧」役だった。新人劇作家による新劇の舞台が、なお五社映画華やかなりし時代に映画化となったのだから、ちょっとした驚きの事件ではあった。
さらに63(S38)年の秋、川上音二郎を題材にした「オッペケペ」(新人会)で福田善之の劇宇宙は健在ぶりを示し、翌年の「袴垂れはどこだ」(青芸)へと続く。どちらも演出は観世栄夫。
これら福田善之の一群の仕事と、同時代の宮本研や清水邦夫ら劇作家の仕事は、戦前から一代の功成った新劇界の旧世代と60年安保世代ともいうべき若き新しい世代との、時代の転換を促し加速させたものであり、新しい世代によるアンチ新劇は、アングラ演劇などと呼称されながら、小劇場運動として以後大きく花開いてゆく。それは新劇=戯曲派に対する、唐十郎の「特権的肉体論」に代表されるような役者の身体論を掲げた、演劇=俳優論への強い傾斜でもあり、遠くは80年代以降の演劇のエンタテイメント志向に波及もする潮流であったといえるだろう。
唐十郎の「状況劇場」の登場はこの64(S39)年のこと。劇団「変身」の旗揚げは翌65(S40)年、同じ年、ふじたあさやと秋浜悟史の三十人会が「日本の教育1960」を上演し、別役実と鈴木忠志の「早稲田小劇場」、さらには佐藤信らの「自由劇場」の旗揚げはともに66(S41)年であった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-30>
 人問はば見ずとは言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの
                                    藤原為氏

続後撰集、春上、建長二年、詩歌を合せられ侍りし時、江上春望。
貞応元年(1222)-弘安9年(1286)、藤原定家の二男である権大納言為家の長子。御子左家二条家の祖となる。後嵯峨院、亀山院の内裏歌壇において活躍。後拾遺集の選者として奉覧。続後撰集初出、勅撰入集232首を数える。
玉津島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれ、和歌の浦に浮ぶ小島。
邦雄曰く、春霞立ちこめた紀伊の玉津島の眺めの美しさは筆舌に尽しがたい。ゆえに「見ずとは言はむ」。思考の経過の一部を大胆に切り捨てて否定表現にしたのは、実は父・為家の示唆によるとの逸話もある。万葉集・巻七の「玉津島よく見ていませあをによし平城(なら)なる人の待ち問はばいかに」以来の歌枕、彼はこの歌の返歌風の本歌取りを試みた、と。

 月影のあはれをつくす春の夜にのこりおほくも霞む空かな
                                    藤原定家

拾遺愚草、上、閑居百首、春二十首。
邦雄曰く、定家25歳の作。言葉もまた入念に、殊更に緩徐調で、曲線を描くような文体を案出した。六百番歌合せはなお6年後、まだ狂言綺語の跳梁は見せぬ頃の、丁寧な技法を見せる佳品だが、勅撰集からは洩れている。春二十首には「春の来てあひ見むことは命ぞと思ひし花を惜しみつるかな」も見え、噛んで含めるかの詠法が印象的、と。

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March 24, 2006

見てもなほおぼつかなきは‥‥

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-今日の独言- 檸檬忌

   春の岬 旅のをはりの鴎どり
   浮きつつ遠くなりにけるかも

 三好達治の処女詩集「測量船」巻頭を飾る短歌風二行詩。
安東次男の「花づとめ」によれば、昭和2(1927)年の春、達治は伊豆湯ヶ島に転地療養中の梶井基次郎を見舞った後、下田から沼津へ船で渡ったらしく、その船中での感興であると紹介されている。
梶井基次郎と三好達治はともに大阪市内出身で、明治34(1901)年2月生まれと明治33(1900)年8月生まれだからまったくの同世代だし、同人誌「青空」を共に始めている親しい仲間。梶井は三高時代に結核を病み、昭和2年のこの頃は再発して長期療養の身にあり、不治の病との自覚のうちに死を見据えた闘病の日々であったろう。「鴎どり」には湯ヶ島に別れてきたばかりの梶井の像が強く影を落としているにちがいない。
 梶井は5年後の昭和7(1932)年、31歳の若さで一期となった。
奇しくも今日3月24日は梶井基次郎の命日、いわゆる檸檬忌にあたり、所縁の常国寺(大阪市中央区中寺)では毎年偲びごとが行われている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-29>
 見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞を分けて出づる月影
                                   小式部内侍

続後撰集、春下、題知らず。
生年不詳-万寿2年(1025)。父は橘道貞、母は和泉式部。上東門院彰子に仕えたが、関白藤原教通、滋井中将公成との間にも夫々一男をなしたといわれる。母に先んじて早世、行年25、6歳か。後拾遺集以下に8首。
邦雄曰く、秀歌揃いの続後撰・春下の中でも小式部の春月は、第四句「霞を分けて」が実に心利いた修辞。この集の秋にも「七夕の逢ひて別るる歎きをも君ゆゑ今朝ぞ思ひ知りぬる」を採られた、と。

 ほのかにも知らせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を  後朱雀院

後拾遺集、恋一。
寛弘6年(1009)-寛徳2年(1045)。一条天皇の第三皇子、母は藤原道長の女・彰子、子に親仁親王(後の後冷泉帝)や尊仁親王(後の後三条帝)。関白頼通の養女嫄子を中宮とする。病のため譲位した後、37歳にて崩御する。後拾遺集初出、勅撰入集9首。
邦雄曰く、靉靆という文字を三十一音に歌い変えたような、捉えどころもなく核心も掴み得ぬ、そのくせ麗しい春の相聞歌。暗い運命を暗示する趣もあり、忘れがたい作、と。
靉靆(アイタイ)-雲や霞がたなびくように辺りをおおっているさま。

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March 23, 2006

あかなくの心をおきて‥‥

Nakahara050918-137-1

-今日の独言- センバツの甲子園

 WBCでの王ジャパン優勝で湧き上がったかと思えば、高校野球の春のセンバツがもう始まっている。出場校32校のうち初出場が12校というせいか初めて眼にするような校名が多いのに少し驚かされる。センバツにしろ夏の大会にしろ、高校野球のTV中継なぞもう長い間ろくに見たことがないから、出場校一覧を眺めても、どの学校が強いのやら前評判のほども知らずまったく見当がつかない。
 そういえば「甲子園」というのはなにも高校野球にかぎらず、いろんな催しに冠せられるようになって久しいようだ。高校生たちによる全国規模の競合ものならなんでも「~甲子園」とネーミングされる。これもいつ頃からの流行りなのかは寡聞にしてよく知らないが、そういう風潮がやたらひろがっていくなかで、本家本元・高校野球の甲子園が相対的に色褪せてきたようにも思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-28>
 笛の音は澄みぬなれども吹く風になべても霞む春の空かな
                                    藤原高遠

大弐高遠集。
天暦3年(949)-長和2年(1013)、清慎公藤原実頼の孫、参議斉敏の子、藤原公任とは従兄弟。管弦にもすぐれ、一条天皇の笛の師であったという故事が枕草子に覗える。
邦雄曰く、朧夜に銀線を引くように、笛の音が澄みわたる。春歌にはめずらしい趣向である。道長の女彰子が一条帝後宮に入る祝儀の屏風歌として詠まれた。家集400余首に秀作も少なくはない。勅撰入集は27首にのぼり、死後一世紀を経た後拾遺集に最も多い。

 あかなくの心をおきて見し世よりいくとせ春のあけぼのの空
                                   下冷泉政為

碧玉集、春、春曙。
文安2年(1445)-大永3年(1523)、藤原氏北家長家流。御子左家の末裔。権大納言持為の子、子に為孝。足利義政より政の字を贈られ政為に改名したという。
邦雄曰く、春に飽かぬ心、幾年を閲しても惜春の心は変わらず余波は尽きぬ。「見し世」と「見ぬ世」、過去と未生以前を意味する、簡潔で含蓄の多い歌言葉だ。下句、殊に第四句も「見し」を省いてただならぬ余情を醸す。冷泉家の歌風を伝える碧玉集は三玉集の一つ。上冷泉為廣・三条西実隆とともに15世紀の風潮を示し、彼の作は殊に鮮烈な調べをもつ、と。

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March 22, 2006

見渡せば山もと霞む水無瀬川‥‥

051127-112-1

-今日の独言- 11年前の3月20日

 昨日は、素人目から見ても穴だらけの奇妙なWBCシリーズで、幸運にも恵まれて決勝戦に勝ち残った王ジャパンがキューバを降してチャンプになった騒ぎ一色に塗りつぶされたような一日だった。もちろんケチをつける心算は毛頭ない。あのクールな野球エリートだったイチローが、これまで決して見せなかった熱いファイターぶりを、まるで野球小僧のように惜しげもなくTV画面一杯にくりひろげる姿は意外性に満ちて、それだけでも見ている価値は充分にあった。
3月21日のこの日が、第1回WBCを王ジャパンが制した記念日として球史に刻まれることは喜ばしいことにはちがいないし、イチローを筆頭にこのシリーズの王ジャパンの活躍ぶりが、とりわけ一昨年からゴタゴタの続く斜陽化した日本のプロ球界に大きなカンフル剤となったことだろう。

 ところで、11年前の1995年の一昨日(3/20)は、オウム真理教団による地下鉄サリン事件が凶行された日だった。ちょうどこの日も一昨日と同じように、日曜と春分の日に挟まれた、連休の谷間の月曜日だった
この無差別テロというべき事件の被害者60人余への聞書きで編集された村上春樹の「アンダーグランド」を読みはじめたのは昨年の暮れ頃だったのだが、なにしろ文庫版で二段組777頁という大部のこと、折々の短い空白時を見つけては読み継ぐといった調子で、やっと読了したのは一週間ほど前だ。
本書のインタビューは事件発生の翌年の1月から丸一年かけて行われたらしい。被害者総数は公式の発表ではおよそ3800人とされているが、そのうち氏名の判明している700人のリストからどうやら身元を確定できたのは二割の140人余り。この人たちに逐一電話連絡を取り取材を申し込むという形で、承諾が得られインタビューの成立したのが62人だったという。
眼に見えぬサリンという凶器による後遺症やトラウマに今もなお苦しみ悩むそれぞれの日々の姿が縷々淡々と述べられているのだが、読む此方側がなにより揺さぶられるのは、彼ら被害者を襲う身体的な苦痛や心的障害がサリン被害によるものと、その因果関係を容易には特定できないということだ。このことは結果として被害者一人ひとりの心を二重に阻害し苦しめることになる。
本書を村上春樹がなぜ「アンダーグランド」と名付けたのかについては、彼自身がかなりの長文であとがきに書いているその問題意識から浮かび上がってくる。
「1995年の1月と3月に起こった<阪神大震災と地下鉄サリン事件>は、日本の戦後の歴史を画する、きわめて重い意味を持つ二つの悲劇であった。それらを通過する前と後とでは、日本人の意識のあり方が大きく違ってしまったといっても言い過ぎではないくらいの大きな出来事である。それらはおそらく一対のカタストロフとして、私たちの精神史を語る上で無視することのできない大きな里程標として残ることだろう。-略- それは偶然とはいえ、ちょうどバブル経済がはじけ、冷戦構造が終焉し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、日本という国家の有り方の根幹が厳しく問われている時期に、ぴたりと狙い済ましたようにやってきたのだ。この<圧倒的な暴力>、もちろんそれぞれの暴力の成り立ちはまったく異なっており、ひとつは不可避な天災であり、もう一つは人災=犯罪であるから、暴力という共通項で括ってしまうことに些かの無理はあるが、実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力の唐突さや理不尽さは、地震においてもサリン事件においても、不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。-略- 被害者たちに共通してある、自分の感じている怒りや憎しみをいったいどこへ向ければいいのか、その暴力の正確な<出所=マグマの位置>がいまだ明確に把握されないなかで、不条理なまま立ち尽くすしかない。-略- <震災とサリン事件>は、一つの強大な暴力の裏と表であるということもできるかもしれない。或いはその一つを、もう一つの結果的なメタファーであると捉えることができるかもしれない。それらはともに私たちの内部から-文字どおり足下の暗黒=地下(アンダーグランド)から-<悪夢>という形をとってどっと噴き出し、私たちの社会システムが内包している矛盾と弱点とを恐ろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対し、現実的にあまりに無力、無防備であったし、その出来事に対し機敏に効果的に対応することもできなかった。そこで明らかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な欠陥であり、出来事への敗退であった。我々が日常的に<共有イメージ>として所有していた(或いは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった、ということになるだろう。」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-27>
 見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ
                                    後鳥羽院

新古今集、春上、男ども詩を作りて歌に合せ侍りしに、水郷春望。
水無瀬川-歌枕。山城と摂津の境、現在の大阪府島本町を流れる水無瀬川。
邦雄曰く、元久2年6月15日、五辻御所における元久詩歌合の時の作。「なにおもひけむ」の鷹揚な思い入れが、上句の縹渺たる眺めに映えて、帝王の調べを作った。二十歳の時の院初度百首にも「秋のみと誰思ひけむ春霞かすめる空の暮れかかるほど」があり、作者自身の先駆作品とみるべきか、と。

 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人  九條家良

衣笠前内大臣家良公集、雑、弘長百首。
浜名の橋-歌枕。遠江の国、静岡県浜名湖に架かる橋。
邦雄曰く、橋は霞に中断されて、旅人は、その霞を渡り継ぐ他はない。言葉の世界でのみ可能な虚無の渡橋とでも言おうか。浜名の橋は貞観4年に架けられた浜名湖と海を繋ぐ水路の橋。袂に橋本の駅あり、東海道の歌枕としていづれも名高い、と。

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March 20, 2006

春雨はふりにし人の‥‥

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-今日の独言- 結婚式の二次会パーティ

 昨夕(3/18)はしのつく雨の中を、いまどきの若いカップルには恒例化した結婚披露パーティなる集いに家族三人で出かけた。
正規の式・披露宴の後、友人たち中心に行われる二次会というやつである。会場は中之島のリーガロイヤルホテルの一階にあるナチュラルガーデン。
当の若いカップルとは連れ合いが習う琵琶の師匠のお嬢さんとそのお相手で、ともに26歳同士とか。彼女も幼い頃から門前の小僧で母親から琵琶の手ほどきを受け、すでに師範の資格を得ているから、連れ合いにとっては若くても大先輩の姉弟子となる。加えて師匠一家とは家族ぐるみのお付合いにも近いものがあるから、牛に引かれての類で私も出番と相成る訳だ。
会場の出席者を見渡したところ、どう見ても私一人が突出して年嵩だ。おそらく私が占める空間だけがなにやら異なる雰囲気を醸し出して、周囲にはさぞ怪訝なものに映っていたことだろう。
しかし、春にも似合わぬ冷たい雨に祟られたのも大いに加担したかもしれないが、祝い集った友人たちにも、いまひとつ浮き立つような晴れやかさなり若者特有の躍動ぶりが、些か欠けていたように私には感じられたのだが、この手のパーティも既にあまりに常態化している所為ではあるまいか。
だれもがエンターテイメント化した軽佻浮薄さのなかで、こういうパーティがある種の興奮や熱気に包まれ、出席者たちに一様に宴の後のカタルシスをもたらすには、かなりの企画力と演出力がスタッフたちに要求されようが、どうやらバレンタインの義理チョコめいた、そんなお付き合いにも似た仲間内での請け合いでお茶を濁しているというのが実態に近いようで、だとすればこの二次会パーティ流行りもそろそろ年貢の納め時だろう。

今月の購入本
 富岡多恵子「中勘助の恋」創元社
 辻惟雄「奇想の系譜」ちくま学芸文庫
 M.ブキャナン
  「複雑な世界、単純な法則-ネットワーク科学の最前線」草思社
 J.クリステヴァ「サムライたち」筑摩書房
 安東次男「花づとめ」講談社文芸文庫
 安東次男「与謝蕪村」講談社文庫
 久松潜一・他「建礼門院右京太夫集」岩波文庫

図書館からの借本
 加藤楸邨「一茶秀句」春秋社
 山口誓子「芭蕉秀句」春秋社
 安東次男「澱河歌の周辺」未来者
 椹木野衣「戦争と万博」美術出版社

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-26>
 春雨はふりにし人の形見かもなげき萌えいづる心地こそすれ  道命

道命阿闍梨集、思ひにて、春頃、雨の降る日。
天延2年(974)-寛仁4年(1020)、大納言藤原道綱の子、兼家・道綱母の孫。13歳で比叡に入山、良源(慈恵)を師とし、後に阿闍梨となる。また天王寺別当に。和泉式部との浮名も伝わり、栄花物語・古事談・宇治拾遺・古今著聞集などに逸話を残す。
邦雄曰く、早春に我を偲べと降る涙雨、悲しい形見を亡き人は残していってくれたものだ。その春雨は、一度は収まっていた悲嘆さえも、また草木の芽が吹き出るように、むらむらと蘇ってくる。この歌、単なる機智ではない。出家らしい輪廻の説法でもない。薄れかけていた心の痛みが、ふとまた兆すことを独り言のように歌ったのだ。第四句が切ない、と。

 山の端はそこともわかぬ夕暮に霞を出づる春の夜の月  宗尊親王

玉葉集、春上、春月を。
邦雄曰く、窈窕ともいうべき春夜の眺め、新古今調とはまた趣を異にした、雲母引きの、曇り潤んだ修辞の妙は13世紀末のものであり、玉葉調の魁とも思われる。勅撰入集190首は歴代王朝の最高で、その技法も卓抜。玉葉・春上ではこの歌の次に、藤原定頼の秀歌「曇りなくさやけきよりもなかなかに霞める空の月をこそ思へ」が続く、と。

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March 18, 2006

春の苑くれないにほふ‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅥ<錯綜体としての心-身>

 すでに価値のヒエラルキーによるパースペクティヴは、意味のパースペクティヴであったが、コミュニケーションの発達は、空間のパースペクティヴを時間のパースペクティヴ(時間地図)によっておきかえ、さらに記号(シグナルやシンボル)のパースペクティヴへと移行させる。隔たりは距離によって示されると同時に、時間によっても、また記号によっても示される。計器運行する列車や飛行機やロケットの操縦者にとって空間は、一連の記号によって構成されている。これらもろもろのパースペクティヴは、たがいに入り組み、われわれは錯綜したパースペクティヴをたえず変換しながら行動する。
 射影幾何学的なパースペクティヴから解放されたわれわれは、数量化された量的空間のみならず、質的な意味空間のパースペクティヴを回復し、より自由な仕方で世界を秩序づけようとする。もちろんこの意味空間は、権威のヒエラルキーによる一義的な価値空間ではありえない。むしろパースペクティヴそのものが、新たな意味空間を出現させるような仕方で構成され、あるいは生成するのである。

 こうしてわれわれは、多次元のパースペクティヴが錯綜する多重の過程を一挙に生き、またつぎつぎとパースペクティヴを変換してゆく。この多次元的な世界の風景は、自己の風景にほかならない。それにもかかわらず世界が一次元的にみえるとすれば、それはあたかも運動体をとらえるストロボ写真のように、われわれがとびとびに特定のパースペクティヴを固定し、また同時にはたらいている他のパースペクティヴを抑圧するからである。実をいえば、この抑圧は自己の風景を抑圧することにほかならない。われわれが世界を恐れるとき、われわれは同時に自己を恐れているのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-25>
 春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ
                                    大伴家持

万葉集、巻十九、春の苑の桃李の花を眺めて作る二首。
邦雄曰く、天平勝宝二(750)年三月一日の歌。巻十九の冒頭に飾られた、艶麗無比の一首。絵画的な構図色彩の見事さ、感情を現す語を一切用いず、しかも歓びに溢れる。桃李を題材としているところは、明らかに監視の影響だろう。越中に赴任して四年目の春鮒の作品、と。

 水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくも思ほゆるかな  笠女郎

万葉集、巻八、春の相聞、大伴家持に贈る歌一首。
生没年未詳、笠氏は笠氏は吉備地方の豪族、備前笠国の国造。万葉集には大伴家持に贈った計29首の歌があり、家持が和した歌は2首。
邦雄曰く、潤みを帯びた黒緑色を鴨の羽にたぐへたのだろう、新鮮な色彩感覚。愛人の家持にも「水鳥の鴨羽の色の青馬を今日見る人はかぎりなしといふ」があるが、春山のほうが遥かに効果的だ。もっとも歌の真意は、掴みがたい男心に悩む、間接的な訴えだ。万葉期の緑は青と分かちがたく鈍色・灰色をも併せて青と呼んでいたようだ、と。

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March 17, 2006

玉かぎる夕さりくれば‥‥

Nakahara050918-086-1

-今日の独言- パースペクティヴⅤ<遠近法の変奏>

 歴史上にあらわれた遠近法は、権威への中心化にはじまり、個への視点の奪還をへて、多様な視点への変換可能性の自覚を生み、さらには反遠近法主義と現実の時空構造のシンボル的変容の発見にいたる。

 視点が個をこえた権威におかれるとき、権威が構成するのは、価値のヒエラルキーによる遠近法である。エジプト芸術やキリスト教芸術にしばしばみられるように、対象の大きさは、宗教的あるいは身分的な価値の尺度に応じて決定される。神や人間は、動物、植物あるいは家よりも大きくえがかれる。王、貴族、男は、より象徴的・記念碑的に、民衆や女は、より自然主義的に表現される。奥行きは価値の奥行きであって、空間の奥行きではない。それゆえ空間は平面化される。空間の奥行きは意味あるものとは考えられていないのである。

 視点が個におかれるとともに、近代的な遠近法が成立する。個-in-dividuumとは、それ以上分割しえない、ゆずることのできない主体である。この主体の認識能力の基本を理性とみなせば、射影幾何学的な線遠近法が成立する。線遠近法が成立するためには、空間は均質的・連続的でなければならない。主体の認識能力の基本を感覚におくならば、空気遠近法、色彩遠近法、ぼかしの遠近法などの体験的遠近法が成立する。ここでは空間は、非均質的・非連続的なものとしてあらわれる。画家はこの二つの遠近法のあいだで動揺する。絶対的空間にたいする理性的信と、体験的空間にたいする感覚的信徒の間で引き裂かれているからである。しかしその視点そのものは絶対的な一視点である。ゆずりえない個への確信は、その一視点に対して現れる実在の姿の真理性を確信させる。

 しかしゆずりえない個に対する信頼の喪失とともに、個は多数のなかの任意の個となる。視点は、たえず任意の地の一視点へとすべってゆき、相対的な多視点の遠近法(キュビスム、他)が、構成される。空間もまた均質の絶対空間とはみなされない。移行する相対的な多数の視点が対象の空間を構成する。ここではパースペクティヴは空間を構成するものとして自覚されている。そのことによってパースペクティヴは、対象の内的構成をあきらかにするはずであったが、事実は、対象の内的分解をあらわにしたかに見える。個の解体に相応して、対象も統一を失い、モザイク化する。微分的な分解は、対象の奥行きを失わせ、空間的構造を平面のうちに展開される一連の記号と化す。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-24>
 玉かぎる夕さり来れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく  柿本人麿

万葉集、巻十、春の雑歌。
玉かぎる-夕・日・ほのか・岩垣渕などに掛かる枕詞。猟人(サツヒト)-サツはサチ(幸)と同語源といわれる。この歌では弓月が嶽を誘い出す枕詞化している。弓月(ユヅキ)が嶽-大和の国の歌枕。奈良県桜井市穴師の巻向山の峰。
邦雄曰く、きらめくような春宵、うるむ巻向山の峰。枕詞の「猟人の」が単なる修飾ではなくて、古代のハンターを髣髴させる。巻十春の雑歌冒頭は人麿の七首が連なる中に、「弓月が嶽」は抜群の眺め、と。

 を初瀬の花の盛りを見渡せば霞にまがふ嶺の白雪  藤原重家

千載集、春上、歌合し侍りける時、花の歌とて詠める。
大治3年(1128)-治承4年(1180)、六条藤家顕輔の子、兄は清輔、子に経家・有家ら。従三位太宰大弐に至る後、出家。清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継いだ名門。また詩文・管弦にも長じていたと伝えられる。
初瀬-泊瀬とも。大和の国の歌枕。奈良県桜井市初瀬町の地。
邦雄曰く、後撰集の詠み人知らず「菅原や伏見の暮に見渡せば霞にまがふを初瀬の山」の本歌取りだが、「花」を第二句に飾って、一段と優美にした。六条家歌風とは異なる新味あり、後に風雅集に、最も多く、七首入選したのも頷ける、と。

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March 15, 2006

散るをこそあはれと見しか‥‥

051127-016-1

-今日の独言- 西行忌

 建久元(1190)年2月16日、西行は河内の弘川寺で入寂した。時に73歳。
旧暦の2月16日は、新暦では今日3月15日にあたる。そういえば昨夜は満月、帰りの道すがら、東の空には大きなまんまるい月がかかっていた。
ところで入寂当時の1190年2月16日を新暦に読み換えると3月23日だったそうで、たとえ桜花爛漫といかないまでも、「花のしたにて春死なん」と詠ったように、ほぼその願いは叶えられ桜は相応に咲き誇っていたかもしれない。

以前に読んだ辻邦生の「西行花伝」では、その最終章に藤原俊成の遺した、
かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に
願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
かくよみたりしを、をかしく見たまえしほどに
つひにきさらぎ十六日、望の日をはりとげけること
いとあはれにありがたくおぼえて、物に書きつけ侍る
願ひおきし花のしたにてをはりけり蓮の上もたがはざるらん
と献じた一文を引いたうえで、西行の一首
   仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
でこの大作の幕を閉じている。

西行忌は涅槃の日の15日とされているようだが、あれほど全国を旅し、各地にゆかりの寺も数多いけれど、特別の修忌を営まれることが聞かれないのも、西行の生きざまや詩精神が後世の人々によくよく浸透し、「花あれば西行の日と思ふべし」の心があまねくゆきわたっているからかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-23>
 散るをこそあはれと見しか梅の花はなや今年は人をしのばむ
                                     小大君

後拾遺集、雑三、世の中はかなかりける頃、梅の花を見て詠める。
邦雄曰く、人が散る花をあはれんだのは去年のこと、今年は梅の花がはかない人の世を追想してくれるだろうと詠う。次々と身辺に人が没したのであろう。後拾遺の巻頭が彼女の「いかに寝ておくる朝に言ふことぞ昨日を去年と今日を今年と」と、一捻りした諷刺の勝った作品は、小大君集にもあまた見られ、王朝の最も特色ある閨秀歌人の一人であろう、と。

 淡雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも
                                    駿河采女

万葉集、巻八、春の雑歌。
生没年、伝不詳。駿河より出仕した采女。
はだれに-まばらにはらはらと降るさま。
邦雄曰く、梅の花といわず、疑問のままで一首の終りをぼかしたところが心憎い。第四句までの24音で、泡のような雪の降るさまをまざまざと思い描かせておいて、結句で嘱目の花に移り、しかも明示しない。作者は他に一首見るのみの伝未詳の歌人だが、この春の雑歌では、志貴皇子や鏡王女に伍して、些かも遜色はない、と。

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March 14, 2006

聞くたびに勿来の関の名もつらし‥‥

051129-019-1

-今日の独言- パースペクティヴⅣ<脱中心化と可逆性>

 視点の変換がくりかえされ、中心を移動する操作がかさねられるにつれて、身体図式にひずみが生じ、臨界点に達するとともに、ゲシュタルト・チェンジによって、身体図式が構成し直される。個々の中心化作用は、いわば身体的に反省された中心化作用としてしだいに中心化され、仮説的になる。パースペクティヴは特定の状況への癒着から解放され、可動性と可能性をもつようになる。
 このような脱中心化は、感覚・運動レヴェルでもすでにはじまっているが、それが仮設的性格をもっているかぎり、想像力や思考がはたらく表象レヴェルの統合に達して、はじめて十全に実現される。<いま-ここ-私>に中心化されつつ、<別の時-あそこ-もう一人の私(他者)>へと身を移すためには、私は想像によって表象的な経験をしなければならない。

 私の経験のなかで、<いま>と<別の時>、<ここ>と<あそこ>、<私>と<もう一人の私(他者)>が表象として保存されることによって、私のパースペクティヴは互換性を獲得し、経験は可逆的となる。私は知覚的にはここにとどまりつつ、表象の上ではあそこに身を移してみる。さきほどまで<私>はパースペクティヴの原点であったが、いまは転位した私のパースペクティヴのうちに配置された仮設的な対象(他者)となる。あそこはこことなり、ここはあそことなる。他者は私となり、私は他者となる。この中心移動が再度くりかえされると、さきほどの対象はふたたび私となり、表象的経験は知覚的経験とかさなる。これはまさに生きられた反省といえよう。中心化された知覚的経験としてのパースペクティヴは、非可逆的性格が強いのにたいして、脱中心化された表象的経験は可逆的性格をもつのである。

 しかしそれが経験をとおして把握されるかぎり、幾何学的遠近法のような可逆的な構図も非可逆的経験の地平の上に成立する。もしこの地平が拒否されれば、経験はもはや誰の経験でもない空虚な経験、現実化することのない空しい可能性となるであろう。このような現実とのかかわりを拒否した<疎隔された脱中心化>においては、対象は一つのパースペクティヴによって中心化されていないかわり、中心を失ってばらばらの存在となり、現実感覚と自己所属感が失われるのである。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-24>
 車より降りつる人よ眉ばかり扇のつまにすこし見えぬる  正廣

松下集、五、僅見恋。
応永19年(1412)-明応3年(1494)、近江源氏佐々木氏の一族で松下氏。幼くして出家、13歳より正徹に入門、正徹没後の招月庵を継承する。一条兼良・飛鳥井雅親・宗長らと親交。
邦雄曰く、この恋歌の淡彩の爽やかな簡潔さなど、現代短歌の中に交えても佳作としてとおる。事実、寛から迢空にいたる作品中にも同種の歌は散見できる。「怪しげに人もぞ見つる白紙に紛らかしつる袖の玉章は」は顕るる恋、諧謔をさりげなく含ませたところなど、珍しい恋歌である、と。

 聞くたびに勿来の関の名もつらし行きては帰る身に知られつつ
                                    後嵯峨院

新後撰集、恋三、實冶の百首の歌召しけるついでに、寄席恋。
勿来(なこそ)の関は、陸奥の国の歌枕、常陸の国と境を接する関所で、いわば化外の地と分かつ所であればこそ、来る勿れとの意から生まれた呼称。現在の福島県いわき市付近とされる。
邦雄曰く、来るなと禁止するその関の名、通っていくたびに冷たく拒まれて、すごすご帰る身には、まことに耳障りなつらい名ではある。六百番歌合の「寄関恋」では、須磨・門司・逢坂などが詠まれ、家隆が「頼めてもまだ越えぬ間は逢坂の関も勿来の心地こそすれ」と歌った。後嵯峨院は勅撰入集200首を越え、うち恋歌は30余首、いずれも趣きあり、と。

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March 13, 2006

いつとなく心空なるわが恋や‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅢ<自-他、変換可能性>

 ここでは物は、単に対象化された受動的な存在としてではなく、<能動-受動>的な存在としてあらわれる。物は、われわれによって把握されると同時に、われわれにたいして自己を表現するのである。日常の明瞭な意識の基底にあるこの深層のレヴェルでは、主体の秩序と物の秩序、私のパースペクティヴ展望と対象からのパースペクティヴ展望がみわけがたく交叉し、原初的な両義性のうちで、私は気づかぬままに。一方の秩序から他方の秩序へと、一方の展望から他方の展望へと移行する。われわれが電車の窓から外をながめるとき、また林の樹々のあいだをとおりぬけてゆくとき、私は私のパースペクティヴ遠近法で、前景、後景の移りゆく風景や樹々の配置をながめているが、ふと私は、向こうからのパースペクティヴ遠近法にとらえられ、配置されているのに気づくことがある。私の存在は、深層において主体から対他物存在へと転換し、私が風景をとらえるのではなく、私が風景によってとらえられ、樹をみつめている私は、いつしか樹にみつめられていることを発見する。

 このようなパースペクティヴの変換可能性は、私の対他者存在の把握に暗に含まれている主体としての他者の了解によって顕在化され、かつ内面化される。私のパースペクティヴは、原理的には、つねに別のパースペクティヴでもありうること、すなわち具体的な個々の知覚や行動は、いぜんとして<いま-ここ-私>に中心化されているが、同時にいまは別の時でもありうること、ここはよそでもありうること、私は別の私あるいは他者でもありうることが了解されるようになる。それはまた自己と他者の視点の交換可能性を自覚することによって、癒着的な自己中心性を脱却し、より脱中心化された自己を確立する過程でもある。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-23>
 なぐさめし月にも果ては音(ネ)をぞ泣く恋やむなしき空に満つらむ
                                      顕昭

続古今集、恋三、後京極摂政の家の百首の歌合に。
邦雄曰く、秀歌には乏しい六条家の論客顕昭の、一世一代の余情妖艶歌とも言えよう。俊成が「月にも果ては」と言へる、優なるべしと褒めている。だが、なによりも下句の虚空満恋の発想が、独特の拡がりと儚さに白々と霞む感あり、見事と讃えたい、と。

 いつとなく心空なるわが恋や富士の高嶺にかかる白雲  相模

後拾遺集、恋四、永承四年、内裏の歌合に詠める。
生没年不詳。一条天皇の長徳末・長保頃の出生か。源頼光がその父或は義父という。相模守大江公資と結婚し、別れた後は修子内親王に仕えたらしい。後拾遺集以下に45首。
邦雄曰く、十一世紀半ばの繊細になりまさる恋歌の作のなかで、悠々たる思いを空に放つかの調べは珍重に値しよう。古今集に「人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそわが身なりけれ」がある。相模の作は下句が即かず、やや離れてまさに虚空に浮かぶ感のあるところ、本歌を遥かに超えている。富士山と恋心の照応の超現実性は万葉写しか、と。

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March 12, 2006

今はとて別るる袖の涙こそ‥‥

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-今日の独言- 伝統工芸展の粋美と貧相と

 すでに旧聞に属することになってしまったが、先週の日曜日、稽古を終えてから、昨秋新装なった心斎橋そごうで開催されていた「日本伝統工芸展」を観に出かけた。友人の村上徹君(市岡17期)の木工漆器、おまけに草木染の志村ふくみの直弟子と聞く細君の染織と、夫妻揃っての出展と聞いては是非にも観ておかずばなるまいと思った訳だ。
出品数736点という壮観ぶりに大いに驚かされつつ堪能もした。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、そして諸工芸と七部に分けられていたことも、この分野に疎い私には成る程そういうものかと得心させられた。
一人一品という出展だから、全国から名工達人がこぞって出品しているということだろう。会場で手渡された出品目録によれば、重要無形文化財即ち人間国宝の手になる作品が41点を数える。念のためググって調べてみると伝統工芸関係の人間国宝は平成16年度時点では48件57人となっているから、その大半が出品している訳で、伝統の匠の高度な技芸が一堂に会していることにもなろうから、見応えのあること夥しいのだが、まことに悲しくも情けないと思われるのは、会場のあまりにも狭いこと。
一点々々を鑑賞するに充分な余白の空間がなく、どれを見ても視界には必ずいくつもの作品が眼に入り、上下左右、隣近所の質の異なる作品同士が競合しあっているといったありさまなのだ。これでは各々の作品の質、レベルの高さが泣こうというもので、主催には大阪府教育委員会や大阪市ゆとりとみどり振興局、NHK大阪局、朝日新聞社と名を連ねており、文化庁の後援というには、あまりに貧相でお粗末な展示ぶりで、この国の文化度は畢竟この程度かと、作品世界の質の高さと所狭しとばかり雑多に並べられた展示会場の不釣合いな落差に憤慨しつつも、一緒に行った連れ合いと顔を見合わせて思わず嘆息してしまったものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-22>
 今はとて別るる袖の涙こそ雲の上より落つる白珠  藤原元眞

元眞集、賀茂にて人に。
生没年未詳、10世紀中葉の人。甲斐守従五位下清邦の子、母は紀名虎の女、従五位下丹波介。年少より歌才を顕し、屏風歌を多く遺すも、勅選入集は遅れ、後撰集が初にて、計29首。三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、恋よりもむしろ別離に入れたいような凛然たる趣きも見える。類型に堕した作のひしめく平安朝恋歌の海の中に、まことにこの一首は、決して紛れぬ一顆の大粒の真珠さながらに光る。涙雨の換言にすぎないのだが、細々と訴えるのではなく、朗々たる歌の姿を保っているところが、いかにもめでたい、と。

 さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
                                    作者未詳

万葉集、巻十四、相聞、駿河国の歌。
邦雄曰く、逢うて寝た間はほんのたまゆら、玉の緒よりも短いのに、胸の中の騒立つ恋心は富士の鳴沢の音さながら。万葉風誇大表現の一パターンながら、二句切れの弾む調べと快く華やかな詞とが、鮮やかな印象を創り上げた、と。

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年も経ぬ祈る契りは‥‥

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<今日の発言> PCトラブルのご難

 先の日曜(3/5)の夜からずっとPC故障の災厄に見舞われていた。
HPを弄っていたらどう無理が祟ったか、まったく動かなくなった。
仕方なく再インストールを試みるも、これもいっかな受けつけてくれない。
どうやら素人の私などの手には負えない重症と観念して、専門医に救急治療を要請。
ドクター曰く、ハードディスクと冷却ファンの取替が必要との診断。
哀れ、PC本体はお預けの身と相成り、今夕ようやくご本懐あそばした次第にて、
ちょうど一週間ぶりのお目見えとなりました。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-21>
 天雲のはるばる見えし嶺よりも高くぞ君を思ひそめてし  元良親王

続千載集、恋一、女に遣はしける。
寛平2年(890)-天慶6年(943)。陽成天皇の第一皇子。和歌上手、風韻の聞こえ高く、徒然草や大和物語などに逸話を多く伝える。元良親王集は女性との贈答歌の多いことで異色の歌集。後撰集以下に20首。
邦雄曰く、第十五代集続千載・恋の巻首は、風流男(みやびを)として聞こえた元良親王の作。選者二条為世の見識であろう。雄大にして鮮明、晴々として実にほほえましい。音吐朗々たることで有名であったという親王の面影を彷彿させる、と。

 年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮  藤原定家

新古今集 恋二、摂政太政大臣家に百首歌合し侍りけるに、祈恋。
邦雄曰く、六百番歌合きっての高名な作。恋の成就を祈願参籠したが験は現れぬままに満願、今宵も晩鐘は鳴り、よその恋人たちの逢う時刻。複雑極まる心境を圧縮して万感を余情にこめたところ、無類の技巧である。だが父・俊成は「心にこめて詞に確かならぬにや」と冷たくあしらい、定家の作をさほど認めていない、と。

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March 04, 2006

花の色も月の光りもおぼろにて‥‥

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-今日の独言- パースペクティヴⅡ<自己と二つの対他存在>

※以下は1月11日付<神とパースペクティヴと>と題して掲載した、市川浩著「現代芸術の地平」より抜粋引用した一文に続くものである。

 私の知覚や行動は、つねにいま-ここにある原点としての私に中心化されている。すべての知覚、すべての行動は、いま-ここ-私から発し、(いま-ここ-私)に貼りついた癒着的パースペクティヴのもとにある。生体は、自己を中心にして価値づけられ、意味づけられた世界をもつ。
 それは私の知覚・行動・思考に、私の知覚、私の行動、私の思考という意味と感覚をあたえる基盤ではあるが、さしあたって<私>はまだ未分化である。<いま-ここ-私>は未分化のまま生きられているにすぎない。逆説的のようではあるが、この<中心化>が、<自己化>を達成するのは、視点の変換によってである。

 自己性は、他なるもの(他性)を介する私の対他存在の把握をとおして確立される。ふつう他性としてはたらくのは他者であり、私の対他者存在にほかならない。しかしふつういわれる意味でのこの対他存在の下層には、もう一つの意味での対他存在、すなわち他性を介するもう一つの原初的な自己把握である前人称的な対他物存在が潜在している。私が石にさわるとき、同時に私は石によってさわられているのであり、こうして私は、他なるものによって対象化された私の対他物存在を把握する。

 二つの対他存在は、幼児期には、おそらく未分化のまま把握されていたのであり、他者が分化するとともに、対他者存在としての自己が、より明瞭に把握されるようになったのであろう。しかし意識されることがまれであるとはいえ、対他物存在による世界との入り交いは、われわれの世界認識の基底に潜在する基本的な構造であり、世界の深みをさぐる鍵ともなるものでもある。それは、われわれと世界との親和と異和の深い繰り返しを形成する。

    ―― 市川浩「現代芸術の地平」より抜粋引用

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-22>
 おほかたの春の色香を思ひ寝の夢路は浅し梅の下風  後柏原天皇

柏玉和歌集、春上、祢覚梅風。
寛正5年(1464)-大永6年(1526)、後土御門天皇の第一皇子、応仁の乱後の都の荒廃、朝廷は財政逼迫の渦中で即位。連歌俳諧時代の和歌推進者であり、書道にも長けていた。
邦雄曰く、早春、既にたけなわの春を思い描き、おおよそは味わい尽しつつ眠りに落ちる。短い春夜に見る夢はたちまちに覚め、その覚めぎわに、清らかな梅の香が漂ってくる。珍しい四句切れ体言止め。御製集は秀歌に富み、三條西実隆の雪玉集、下冷泉政為の碧玉集とともに、和歌復興期の三集をなす、と。

 花の色も月の光りもおぼろにて里は梅津の春のあけぼの  他阿

他阿上人家集。
嘉禎3年(1237)-文保3年(1319)、他阿弥陀仏と号し、はじめ浄土宗の僧であったが、建治3年(1277)九州遊行中の一遍上人に入門。一遍に従って全国各地を遊行遍歴。一遍没後はその後継者として時宗第二祖となる。北陸・関東を中心に活動し、嘉元元年(1303)、相模国当麻山無量光寺に道場を開く。
梅津-山城の国の歌枕、桂川の左岸の荷揚げ地で、梅宮神社がある辺り。
邦雄曰く、平家物語にも「比は如月十日余りのことなれば、梅津の里の春風に、余所の匂ひもなつかしく」とあり、梅津は梅の名所であった。花の名は言わず地名でそれと知らせるあたり洒落ている。他阿は京極・冷泉両家とも交わり、作歌をもよくした、と。

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March 03, 2006

袖ふれば色までうつれ‥‥

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-今日の独言- 桃の節句のヒナ

 3月3日、桃の節句だというのにまたしても厳しい寒波にうち震えているが、それでも桜の開花予想は例年より各地とも一週間余り早いという、よくわからない気象異変。
中国の古い風俗に、3月上巳の日に、水辺に出て災厄を払う行事があり、これが曲水の宴となって、桃の酒を飲む風習を生んだ、という。
日本でもこの風習は早くから伝わったようで、天平勝宝2年(759)のこの日、大伴家持が越中の館で宴を開いて
  からびとも舟を浮かべて遊ぶとふ今日ぞわが背子花かづらせよ
                              -万葉集、巻十九
と歌っている。
また、日本固有の行事としては、巳の日の祓いと言って、人形-ヒトガタ(形代とも撫で物ともいわれる)-で身体を撫で、穢れを移して、川や海に流すという風習があったそうな。
「源氏物語」の「須磨」の巻には、光源氏が巳の日に人形を舟に乗せて流す場面が描かれている。
この祓いの道具である人形から転じて、宮廷貴族の雛遊びとしての美しく着飾った雛人形が登場してきたのだろうとされている。
このあたりの事情から想像を逞しくすれば、和語としての「ヒナ」は「雛」でもあり「鄙」でもあったのではないか、同じ根っこではなかったか、などと思えてくるのだが、真偽のほどは判らない。
 現在に至る華麗豪華な内裏雛のように坐り雛になったのは室町の時代からとか。やはりこれも中国から胡粉を塗って作る人形技術が伝わった所為だそうで、桃の節句の雛祭りは、端午の節句とともにだんだん盛大なものに形を変えて、今日まで受け継がれてきた。

  草の戸も住替る代ぞ雛の家   芭蕉
  とぼし灯の用意や雛の台所   千代女
  雛の影桃の影壁に重なりぬ   子規
  古雛を今めかしくぞ飾りける   虚子

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-21>
 袖ふれば色までうつれ紅の初花染にさける梅が枝  後嵯峨院

続拾遺集、春上、建長六年、三首の歌合に、梅。
歌意は、袖が触れれば、匂いばかりか色までも移し染めてくれ、紅の初花染めのごとく色鮮やかに咲いた梅よ。
邦雄曰く、珍しい紅梅詠。初花染めはその年の紅花の初花を用いた紅。重ね色目にも紅梅は古代から殊に好まれた。この歌、律動感に溢れ、袖振る人の面影まで顕つ。人か花、花か人、鮮麗の極を見せ、歴代の御製中でも秀歌の聞こえ高い一首、と。

 梅の花咲きおくれたる枝見ればわが身のみやは春によそなる
                                   守覚法親王

北院御室御集、春。
邦雄曰く、「なにとなく世の中すさま゛じくおぼゆるところ」云々の詞書あり、季節に後れたる梅、世にとりのこされる自らを侘びしむ歌であろうか。後白河院第二皇子、式子内親王には兄、後鳥羽院には叔父。仁和寺六世の法灯を継ぎ、新古今時代の有力な後援者であった、と。

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March 02, 2006

きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ‥‥

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-今日の独言- ガンさんこと岩田直二

 ガンさんこと岩田直二氏の晩年は、一見するところいかにも飄々とした好々爺で、親しみやすい面貌であったが、内面夜叉ともいうべき筋金入りの演劇人であり、戦前・戦後の関西新劇界を牽引してきた人である。
 彼自身が回想するところによると、芝居を専門的にはじめたのは昭和8年(1933)頃だという。おそらく旧制中学を出てまもない頃のことだろう。その後、昭和10年(1935)にはいくつかの劇団が合同して大阪協同劇団が生まれるが、彼もこれに参加している。
 日本の新劇運動の幕開けともいうべき画期は築地小劇場の誕生に擬せられるが、この成立には大正12年(1923)の関東大震災が深く関わっている。当時、ドイツ留学中の土方与志は震災の報を聞き急遽帰国、震災復興のため建築規制が緩められたことから、小山内薫とともに仮設の劇場建設を構想、劇場建設と劇団育成の二軸を立て、半年ほどで築地小劇場の開場までこぎつけた。大正13年(1924)6月のことである。千田是也や滝沢修をはじめ日本の新劇の水脈はほぼ築地小劇場より発するといっても過言ではない。
昭和3年(1928)12月に小山内薫が急逝、翌年には土方与志・丸山定夫・久保栄・山本安英・薄田研二らが新築地劇団を結成、残留組の築地小劇場とに分裂した。
 岩田直二は、’30年代後半の一時期上京し、新築地劇団の薄田研二宅に居候し、この劇団の芝居に出演もしているという。やがて戦時下体制のもとで、リアリズム演劇を標榜していた新協劇団や新築地劇団は強制解散され、大政翼賛会支配下の移動演劇隊活動となっていく。太平洋戦争も敗色濃厚となった昭和19年(1944)11月には、徴兵検査の丙種合格であった岩田直二までが召集され、ソ連軍に対面する東満州に服役している。
 終戦の昭和20年(1945)12月、東京では新劇合同公演として「桜の園」が上演されているが、関西や他地域では復興の足取りは重い。昭和22年(1947)、岩田直二演出でドフトエフスキーの「罪と罰」上演あたりが復興の狼煙か。翌23年(1948)には、土方与志を演出に招いて、合同公演「ロミオとジュリエット」を上演したのが復興期のメルクマールともいうべきものだつたろう。この時、岩田直二はロミオを演じ、ジュリエットには当時民芸の轟夕起子が客演した。
 昭和24年(1949)に発足した大阪労演は’50年代にその会員を着実に拡大していった。この観客組織の成長が専門劇団としての「関西芸術座」の誕生を促進する一助となったのは間違いあるまい。昭和32年(1957)、五月座・制作座・民衆劇場の三劇団が合同して関西芸術座が創立され、岩田直二は劇団の中軸として長年のあいだ演出を担当。晩年になって退団して後も、いろいろな劇団で演出や指導を行なってきた。
 岩田直二はその生涯にわたり関西新劇界のつねに中軸にあって牽引役を果たしてきた。その功を偲びつつ、ご冥福を祈りたい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-20>
 明けやすきなごりぞ惜しき春の夜の夢よりのちの梅のにほひは
                                     亀山院

亀山院御集、詠百首和歌、暁梅。
邦雄曰く、春夜はたちまちに明方を迎え、見果てぬ夢はなお名残りを止める。夢の中に聞いた人の袖の香はうすれつつ、そのまま薄明の梅の花の匂いにつづく。夢とうつつのおぼろな境を、至妙な修辞で再現した秀作である。亀山院は後嵯峨院の第三皇子、続古今集以下に106首、御集には300首余伝わり、その堂々たる調べは13世紀末の歌群に聳え立つ、と。

 きぬぎぬの袖のにほひや残るらむ梅が香かすむ春のあけぼの
                                    宗尊親王

柳葉和歌集、弘長二年十一月、百首歌、梅。
仁治3年(1242)-文永11年(1274)、後嵯峨天皇の皇子、母は平棟基の女棟子、亀山院の異母兄。建長4年(1252)、執権北条時頼に請われ鎌倉幕府第6代将軍として鎌倉に下る。文永3年(1266)、謀反の嫌疑をかけられ京都に送還される。続古今集初出、最多入集。以下勅撰集に百九十首。
邦雄曰く、ほのかな光の中に漂うゆかしい香気は梅の花、否、先刻飽かぬ別れをした愛する人の衣の薫香の残り香であろうか。後朝の心も空の陶酔を裏に秘めた、まことに官能的な梅花詠。宗尊親王は後嵯峨院の第一皇子、鎌倉に将軍として迎えられるも、24歳にて京へ逐われ憂愁の日々を送る。一代の秀歌、実朝の塁を摩す、と。

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March 01, 2006

きみならで誰にか見せむ‥‥

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-今日の独言- ガンさん逝く

 関係者の誰からも「ガンさん」と親しみを込めて呼ばれていた関西演劇界の重鎮、岩田直二氏が2月11日心不全で逝った、享年91歳。親族のみで密葬を行い、3月11日に関西芸術座にて劇団葬が執り行われる予定と聞いたが、訃報記事に気づかなかったため時機を失しながら書き留める。
‘03年(H15)12月、「ガンさん」の米寿を祝う集いに出席させていただいた。戦後の関西演劇界に活躍してきた人々が殆どすべて集ったかに見えるような顔触れで、200名余り居たろうか、60歳になろうという私が駆け出しの若造にしか見えぬほどに、ご年配方が圧倒する祝宴の場であった。
 いま私の手許には、その集いで列席の各位に配られた「楽屋」と題された岩田直二著の冊子がある。楽屋鼎談、楽屋放談、楽屋独語と3章構成、1988年(S63)からこの年まで書き継がれてきた演劇時評的エッセイ。鼎談や放談はもちろん話体でしかも大阪弁で書かれているから親しみやすい読み物の筈が、これが私などには却って読みづらいものとなる。正確には読みづらいというべきではなく、論理の進展やその深まりがどうにも辿りにくいというか、もっといえば進展や深まりが感じられないものになってしまっている。話体なればこそ現に話されている方言で書かれるべきがリアルといえばそうなのだが、方言のもつリズムが思考のリズムに合わないのか、どうも読んでいて愉しめないから、ついつい拾い読みになってしまうのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-19>
 春日野やまだ霜枯れの春風に青葉すくなき荻の焼原  順徳院

続古今集、春上、春の御歌の中に。
建久8年(1197)-仁治3年(1242)。後鳥羽院の第三皇子。母は藤原範季の女重子。承元4年(1210)即位するが、承久の変に敗れて佐渡に遷御。在島20年で崩ず。和歌を定家に学び、しばしば歌合を主催。歌学書に八雲御抄、家集に順徳院御集。後選集以下に159首。
邦雄曰く、野焼きの後、一雨か二雨あって、いっせいに新芽を吹いた春日野であろう。黒焦げの枯草の傍らに早くも鮮やかな若葉を見せる芒、萱の類い、「青葉すくなき」と季節到らぬ嘆きの七音に新味あり。御製集、紫禁和歌草は1300首近い詞華を収めている。八雲御抄等は、崩御までの20年を過した遠島佐渡における研鑽の賜物であった、と。

 きみならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る  紀友則

古今集、春上、梅の花を折りて人におくりける。
生没年不詳。古今集の撰者。従五位大内記。三十六歌仙。古今集に46首、後撰集以下に約20首。
邦雄曰く、古今・春の代表歌の一つであり、ひいては古今集の典型を示す作品とも思われる。眉を上げて宣言に似た言挙げを試み、そのまま、香気高い一首に生まれ変わっている。躬恒の「春の夜の闇はあやなし」(2/24所収掲載)と共に古今梅花詠の双璧と言えよう。貫之の従兄弟、閑雅明朗な調べは自ずから共通するところがある。この歌、相聞の趣きを感じる要はまったくない、と。

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