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November 30, 2005

夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く‥‥

041219-019-1

-今日の独言-
猿も環境で鳴き声が変わる

 今朝は冬本番もまぢかと思わせる冷え込み。ベランダのガラス戸を開けると冷たい風が吹き込んで思わずブルッと身を震わせた。
昨日の報道だったか、京大霊長類研究所による長年の実験調査で「猿にも方言、住環境で鳴き声の音程変化」という記事が紹介されていた。屋久島の野生ニホンザルを愛知県大平山に集団移住させて、両者の生態を十年かけて調査したところ、鳴き声の高低に著しいほどの変化が見られたとのこと。鳴き声の変化が遺伝よりも学習において身につくことの証明となり、ヒトの言語のルーツを解く手がかりにもなるとされている。その階梯にひろがる距離はまだまだ遠いだろうが、肯ける説ではある。
それはそれとして、大平山のサルたちは屋久島のサルたちに比べてずいぶん鳴き声が低く変化しているらしいが、ぐっと冷え込んだ今朝の寒空に、どんな悲鳴をあげたろうか。きっと低音化した鳴き声もその時にかぎっては一段と高くなったにちがいない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-1>
 たれぞこの昔を恋ふるわが宿に時雨降らする空の旅人  藤原道長

御堂関白集。康保3年(966)-万寿4年(1027)。平安朝、摂関政治全盛期に君臨し、我が世の春を謳歌。
「嵯峨野へ人々と連れ立って行った折、風情も面白く時雨が降り出したので、雨宿りかたがた水を飲みに、とある家に入って、土器(かわらけ)にこの歌を書いた」との長い詞書がある。
邦雄曰く、朗々として丈高い調べ、殊に初句の呼びかけ、結句の七音、美丈夫の立ち姿を遠望するかの趣きは、歌の位というべきか、と。

 夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く嵐のうちに時雨をぞ聞く  伏見院

玉葉集、冬、詞書に、五十番の歌合せに時雨を詠ませ給うける。
文永2年(1265)-文保元年(1317)。持明院統・後深草天皇の第二皇子、大覚寺統・後宇多天皇の皇太子となり、23歳で践祚。和歌を好み玉葉集勅選を命ず。和歌三千余首を自ら編集した自筆の御集が分散され「広沢切」と呼ばれ今に伝わる。
邦雄曰く、簡潔を生命とする短詩形に、無用とも思われるほどの描写用語、殊に動詞を連ねて、その錯綜から生れるただならぬ響きを以て、歌の心を如実に表現しようとする、これも玉葉歌風の一典型。「飛び・乱れ・荒れ・吹く・聞く」が生きているかどうか。「雲・嵐・時雨」と慌しく推し移る自然現象が、心の深みまで映しているか否かは疑問、と。

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November 29, 2005

言ひ渡るわが年波を初瀬川‥‥

041219-002-1-1

今宵は四方館Dance-Cafeにて

即興によるDance-PerformanceFree-Talkの一夜


四方館 Dance Cafe
  in COCOROOM Osaka-Festivalgate 4F

    Date 11.29 (Tue) 19:00 Start
    1coin(500) & 1drink(500)

-Improvisation-
  Transegression  ‐わたしのむこうへ‐

     フロイトの無意識を
     「他者の語らい」と読み換えたラカンによれば
     私の欲望は他者の欲望であり
     無意識とは、厳密にいえば、他者の欲望の場
     他者による止むことなき語らいの場、となる


        Dancer Yuki Komine , Junko Suenaga
        Pianist Masahiko Sugitani
        Host Tetsu Hayashida


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雜-2>
 明けぬなり賀茂の河瀬に千鳥鳴く今日もはかなく暮れむとすらむ
                                   圓昭

後拾遺集、雑。平安中期、十世紀の人。勅撰集にこの1首のみ。詞書に、中関白(藤原道隆)の忌に法興院に籠りて明け方に千鳥の鳴き侍りければ。
邦雄曰く、朝の歌に「今日もはかなく暮れむ」とは、哀傷の意も含んでいるが、初句切れ、三句切れの淡々とした侘しい調べも、特殊な余情を漂わせ、上・下句の脈絡も無類の味わい、と。

 言ひ渡るわが年波を初瀬川映れる影もみつわさしつつ
                                   顕昭

六百番歌合、老恋。生没年不詳、平安末期の人。藤原顕輔の猶子。歌論を能くし、新古今風形成期にあたり、俊成・定家らと激しく対立した存在。初瀬川は泊瀬川に同じ、三輪山の麓を流れ大和川へと合流する。「みつわさす」は「三輪さす」で、老いて腰が曲り三段に屈折した状態をいい、転じて耄碌(もうろく)したこと。
邦雄曰く、年甲斐もなく意中の人に言い寄ったものの、自らの頽齢隠れもなく、祈願の果ての初瀬川に映る影もひどく老けてしまって見る影もあらばこそ、と。

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November 28, 2005

空のふかさは落葉しづんでゐる水

ichibun98-1127-091-2
Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと(承前)

 ともかくも翌年(‘87:S62)の4月、出足の遅れた候補者であったにも拘わらず、本番の選挙戦に突入した後半の追い込みであれよあれよという間に知名度を上げ、初挑戦で当選してしまったのだ。得票は9000票を越えて、港区内の議席三名の2位当選。時に38歳、若きパフォーマーの見事な勝利であった。選挙戦のなかで、実は私も選対本部から依頼を受け、あるイベントの演出をしている。さらには街頭宣伝のウグイス嬢に劇団の女性を送り込むという協力もした。しかし、全電通の組織内候補であり、選挙の実態はといえばどこまでも組合の動員による組織型の選挙であった。表層は候補者の新鮮な魅力でブームを呼び、裏へ廻れば全電通の出身支部が動員力にものをいわせてガッチリと支えていたのである。

 そしてさらに一年を経て、88(S63)年の5月、私は市会議員となった彼の事務所である港市民相談センターに身を置くようになる。高校を出て大学へも進んだものの、演劇や舞踊などという、古めかしい謂いなら河原者と蔑まれ身すぎ世すぎもままならぬ道を歩き、我が身を世間からずらしつづけてきたばかりの四半世紀を、あらためてというより正確には初めて世間という坩堝のなかへ投じたのであった。当時の私にとってみれば、そのような180度の転身をするに充分な理由なり背景はあったのである。以来、2000(H12)年8月に身を退くまでの丸12年を、私は港市民相談センター事務局長という形で、日々来訪する相談者への応対や、議員の後援会づくりや、或は情宣のための会報づくりなど、煩瑣なほどのさまざまな人々と雑務のなかにどっぷりと浸りつづけ、4年に一度必ずめぐってくる選挙戦を三度まで陣営を率いる立場で経験する仕儀となったのである。だが永年の馴染みとはいえ、議員となった彼と私の二人三脚に、この12年はあまりに長すぎたように思われる。私自身にとっては初めての、彼にとっては二期目の選挙を勝ち抜くまでの三年間がもっとも充実した期間であり、その間に私の立場から可能なかぎりの手立てというかプレゼンスは出尽くしたといっていい。いわば設計図と実践の見取り図はほぼ出来上がり、あとはこれを踏襲していくことのみが課題となって日々が費やされてゆく。彼が市会議員にとどまるかぎり、日々を支える私にはだんだんと退屈で鮮度のない味気ないものになってゆく。ゆっくりとだが私は自分の身の退き時を本気で考えるようになる。こうして長い年月を経た紆余曲折の出逢いと別れの一幕に終止符を打つべき時が準備されてゆく。

 この稿をひとまず閉じるに際し、もう15年も遡る古いものだが、
1990(H2)年1月、後援会向けカレンダーに12の句を配し「おくの正美12月」として掲載したものを書き留めておく。
いわゆるイメージ戦略としての市会議員奥野正美像づくりのため作したものである。

 1月 四方の空澄みわたりたれ’90大阪
     -21世紀へつらなる’90年代の幕開け、清新の気を漲らせて大阪の未来へ

 2月 氷る夜やみなとみらいに熱き心
     -支援者との心を結ぶ会報「みなとみらい」を今年も必ずお届けします

 3月 重き税民の痛みに春告げむ
     -確定申告の月です、消費税の痛みが重なって庶民は泣いています

 4月 花を愛で花に集いて平らか成らむ
     -花博がいよいよ開催されます、平和のシンボルイベントになるように

 5月 五月晴れ港めぐりてひろがる出会い
     -広報船「水都」を利用した港めぐりが地道に出会いをひろげていきます

 6月 夕映えの弁天新しき活気満つ
     -弁天駅前に登場するナウい遊空間、港のターミナルが大きく変貌する

 7月 満天の星の輝きのごと我が仲間
     -いろんな輝きを持ったたくさんの仲間、支援のみなさんが仲間です

 8月 海に遊び魚に学ぶ生命かな
     -天保山に誕生する大規模な水族館は「海遊館」と名づけられました

 9月 天を突けサンセットパーティに響く歌声
     -4回目を迎えるサンセット、後援会最大のイベントに育てましょう

 10月 きりぎりす身は三歳の市政のおさな児
     -機織女の機打つ音のように一心に鳴きつづける虫に我が身を映して

 11月 行く秋やふれあう温みの旅の友
     -露天風呂にひたりながら行く秋を惜しむ、和気藹々の旅行会です

 12月 木枯らしの街を走って呼ばむや春を
     -来春は統一地方選挙、二期目クリアーへ懸命に港の街を走りつづけます

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November 27, 2005

結ぶとも解くともなくて‥‥

Nakahara050918-022-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
青い栞

    蛙等は月を見ない
    恐らく月の存在を知らない

 紅葉の見頃は今日あたりが最後の休日となるのだろうが、稽古のためそうもいかない。今年もまた出かける機会を失してしまったのはいかにも残念だが、明後日にDance-Cafeを控えているのだから致し方ない。
 午後2時半頃、帰宅してすぐに市長選挙の投票に行く。そういえばさすがに今回の期日前及不在者投票が6万7797人と前回(5万5762人)を上回っている由だが、財政再建という難題を抱えた出直し選挙という名分には選挙線自体ほど遠い低調さだったから、投票に行く前から結果に対する期待感はほとんどないにひとしい。考えてみれば奇妙な話だ。その行為に対してすでに意味を喪失してしまっているのにそれを為すというのは。この白々しさは愚劣きわまるものではないかとさえ思う。投票を済ませて青い薄っぺらな栞を手にしたとき、一瞬、虚しさが身体を突き抜けた。

    月は彼等を知らない
    恐らく彼等の存在を想ってみたこともない 
                     -中原中也「未刊詩篇」より-

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-3>
 妹等がりわがゆく道の細竹(しの)すすきわれし通はばなびけ細竹原
                                  作者未詳

万葉集、巻七、雑歌、草を詠む。「妹等(いもら)がり」は「妹許(いもがり)」と同義、愛しい人の許への意。細竹は篠。我れに靡けとばかり、肩で風切るようにして、腰の辺りまで伸びた青い篠原を、ただ愛する人に逢いたさに、駆けるばかりに急ぐ若者の姿が眼に浮かぶような一首。
邦雄曰く、結句「なびけ」の命令形も殊のほか爽やか。「われ」と「しの」の重複も弾みを与えて効果的。読後に、篠原が撓り、男の通った跡が水脈(みお)を引くかに、白々と光る光景も見えようか、と。

 結ぶとも解くともなくて中絶ゆる縹(はなだ)の帯の恋はいかがする
                                   大江匡衡

匡衡集。平安中期、10世紀後半から11世紀初期の人。小倉百人一首の「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を詠んだ赤染衛門を妻とし、碩学の誉れ高い大江匡房の曽祖父にあたる。
「縹」は薄い藍色、醒めやすい色なので色変わり、心変わりの意味を持つ。望んでも結ばれず、願わずとも繋がれることもあり、まこと人の心は思うにまかせぬもの。なんら手立ても施さずままに、いつのまにか心変わりして疎遠になってしまったこの仲はどうしたものか。
邦雄曰く、結句「恋はいかがする」と字余りの余勢で、にじり寄るかの重みを感じさせる。出典は催馬楽の「石川」に「いかなる帯ぞ、縹の帯の、中は絶えたる」云々と歌われる、と。

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November 26, 2005

やつと郵便が来てそれから熟柿のおちるだけ

ichibun98-1127-018-1

Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと

 前市長関淳一の突然の辞任で出直し選挙となった大阪市長選も盛り上がりを欠いたまま明日(27日)の投票日を迎えるのみとなったが、この選挙戦を奥野正美がどういう思いで見つめてきたのか、些か複雑なものがあろうとは想像できるものの、ずいぶんと遠ざかってしまった今となっては私のよく知るところではない。彼は現在、港区選出の大阪市会議員である。会派は民主党市民連合に属し、既に5期目のベテラン議員であり、本年は会派の幹事長を務めているから、このところの関市長辞任劇による市長再選挙騒動でTVの報道番組にもちらちらと顔を出していた。私の4歳下だから昭和23年生れの57歳。いわゆる団塊の世代の真っ只中、もっとも人口過密の生れ年である。

 彼が私の眼の前に登場したのは、ほぼ40年前、彼がまだ高校三年だったと記憶する。私が劇団9人劇場を立ち上げたのはいまからちょうど40年前(65:S40)の9月だった。創立メンバーが偶々9人だったせいもあるが、9という数字は無限に通じるという意味合いもあって、師の神沢が薦めてくれたものだった。そのメンバーのなかにたったひとり、中尾哲雄というまだ現役の高校生が居た。彼は私の出身高校と同じで演劇部の4年後輩でもあった。その彼の幼馴染みであり中学時代の親しい仲間のひとりが奥野正美で、たしか劇団が二年目に入った頃のある日、中尾に連れられて稽古場にやってきたのが初対面だった。奥野もやはり高校で演劇をしているということだったが、とにかく気散じな愛嬌たっぷりの少年というのが印象に残った。

 翌年(67:S42)、彼は高校を卆えるとすぐさま9人劇場に参加した。折もおり、大阪市大の劇団「つのぶえ」から宮本研の「明治の柩」に取り組むから、助けてくれないかと演出の平塚匡君から出演依頼がきた。平塚君とは嘗ての仲間でもあったし、私が神沢主宰のActual-Art同僚時代に京都で「サロメ」(64:S39)を演った時に助っ人をして貰ったこともある。私を含め4人で出演することにしたのだが、そのうちの二人は中尾と奥野のコンビだった。二人ともフレッシュな演技ぶりで溌剌と爽やかな舞台姿であったと印象に残る。この上演は5月だったが、それで勢いづいたのだろう、それから夏にかけて、このコンビの幼馴染みというか同窓仲間というか、同年の者たちをそれこそ芋づるのように誘い合って、劇団はいちどきに賑やかになった。さて若い者たちで活気づくのはまことに結構だけれど、経験もない素人ばかりが増えたのだから、どんどん勉強させ経験を積ませなければならない。秋には早速、勉強会と称しアトリエ公演に取り組んでみたが、まあ結果は推して知るべし、散々だったとは言わぬまでも、小額とはいえ金を払ってわざわざ観に来てくれた人たちに、あまり顔を上げられる出来栄えではなかったろう。そんなことから翌年(68:S43)、私は些か思いきった手を打つことにした。9人劇場の芝居小屋と称して、毎月ペースの稽古場での試演会である。といっても上演形式をとるには金もかけられないし、素舞台での素面のままの会とし、観客にも無料とした。これを2月から始めて暮の12月まで、客席は時に数人というようなお寒いかぎりの日もあったが、とにかくやりきって計13回をこなした。この芝居小屋シリーズをとおして、集まり来たった若い仲間たちも自然に篩いにかけられたことに、結果としてなる。仲良しグループくらいの感覚ではとても続かないのは当然で、上昇意欲をもって本格的に続けていこうとする者と、青春のほんのひとときを飾った思い出の一頁として自ら幕を降ろしてゆく者とに別れゆく。もちろん中尾と奥野は主力として残り、’75(S50)年頃まではつねに主軸として活躍してくれた。彼らとの舞台で強く記憶に残るのは、私の仕事としても20代のエポックともなった’72(S47)年の「身ぶり学入門-コトバのあとさき」に尽きる。それまでの実験的な試行錯誤にとにかくもひとつの終止符を打てたものだったと今振り返ってもそう思えるものだが、その成果も彼ら二人なくしてはあり得ぬ舞台だった。

 以後は間遠になったとはいえ、それでも’83(S58)年「鎮魂と飛翔-大津皇子」の舞台では久しぶりにご登場願ったこともあった。ところがそれから三年後(‘86:S61)の秋だったが、突然我が家に訪ねてきて、市会候補として港区から立つことになったとの報告に驚かされる。この藪から棒のような展開には遡っての解説が必要だ。奥野は高校卒業の翌年、68(S43)年春に日本電信電話公社(現NTT)に入社している。この就職については私も些か関与したのである。当時、喰えもしない演劇を続けていくに身すぎ世すぎをどう立てていくかは問題だった。どんな仕事に就くか、その勤務条件のなかで活動の幅もずいぶんと左右されるものだ。そこで私は当時、高校同期のT君が電電公社(現NTT)に勤務し、全電通労組末端の分会長をしていたので、彼が宿直で局に泊りの夜に訪ねて行って、勤務内容や採用基準などいろいろと聞き合わせた上で、その年の秋の採用試験を受けてみるように奥野に勧めてみたのだ。後に民営化されNTTとなってからは、大卒エリートの難関就職先としてつねにトップクラスに君臨するのだが、昭和42.3年当時は高卒で普通よりやや上位の学力程度であれば採用されるチャンスは充分あったのである。公社に入ってからもこの気散じな愛嬌たっぷりの若者は軽快なフットワークを発揮して組合活動でもかなりの活躍をしたようだ。組合関係の青年部は20代で構成されるが、そのなかではいつのまにか頭角をあらわしやがてリーダー的存在となり、仕上げは大阪総評青年部議長にまでなっていたそうである。ところが30代になって青年部を退き、組合支部に戻ってみれば、このまだ青年臭を残したパフォーマンスの得意な若きリーダーには、それに相応しいようなポストはなかったらしく、いわば組合内部で本流から外れ冷や飯を食うような存在となっていく。以後数年間、彼自身も長い停滞期と感じる日々ではなかったか。そこへ降って湧いたような市会候補としてのご指名による打診が組織上部からあったのである。86(S62)年当時、労働組合関係は総評・同盟が連合へと再編していこうとする転換期であり、全電通(現NTT労組)を中心にした情報労連委員長山岸章がやがて連合会長へと転身してゆく前夜である。政府与党は売上税導入を画策準備しており、自民党離れの現象も起こり国政は波乱含みであった。そんななかで山岸章らは国会議員だけではなく全国自治体に地方議員を拡大していくべしという作戦に出たのだが、そこで人受けのよい愛嬌者で大阪総評の青年議長という勲章をもつ奥野はその任に相応しいとされ、白羽の矢が立てられたというのが真相であったように思われる。 (この稿つづく)

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行き帰る果てはわが身の‥‥

N-040828-026-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
引きつづき「逢ふ」談義

 白川静の字解によれば、「逢」や「峰」は形声文字だが、音符をなすのは「夆(ホウ)」である。「夆」は「夂(チ)」と「丰(ホウ)」を組み合わせた形で、夂は下向きの足あとの形で、くだるの意味がある。丰は上に伸びた木の枝の形で、その枝は神が憑(よ)りつくところであるから、神が降り、憑りつく木が夆である、という。したがって「峰」は、夆すなわち神が降臨し憑りつく木のある山、ということになるが、では「逢」はといえば、「辶」は元は「辵(チャク)」で、行くの意味があり、また中国の「説文」に、逢は「遇うなり」とあることから、「神異なもの、不思議なものにあうこと」をいう、と解している。
一方、明鏡国語辞典によると、「逢う」は会うの美的な表現で、親しい人との対面や貴重なものとの出会いの意で用いられる、とある。ところで、現在慣用的に人とあうことには「会」の字が用いられているが、またまた白川の字解によれば、「会」の旧字体「會」はごった煮を作る方法を示す字であり、むしろ元は象形文字の口の上に蓋をしている形である「合」のほうが、向き合うことであり、対座することであるから、人が会うことの意味に相応しいといえる。
これらのことを勘案するに、王朝人たちが「逢ふ」に込めた意味、しきりと歌に詠んだ意味は、今に残る「逢引」や「逢瀬」のように、特定の男女がかわす情交の意が込められた「逢ひ合ふ」ことなのだと得心がゆく。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-42>
 貴船川玉散る瀬々の岩波に冰(こほり)をくだく秋の夜の月
                                  藤原俊成

千載集、神祇、詞書に、賀茂の社の後番の歌合せの時、月の歌とて詠める。
邦雄曰く、第四句「冰をくだく」の表現も鮮やかに、二句「玉散る」と結句「月」がきららかに響きあい、神祇・釈教歌中では稀有の秀麗な歌になっている。歌の核心は「月」、月光の、氷を思わせる硬質の、冷え冷えとした感じが、殆ど極限に近いまで見事に表現されつくした、と。

 行き帰る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず
                                  藤原定家

拾遺愚草、員外、三十一字冠歌。定家三十四歳の秋の夜、藤原良経の命によって「あきはなほゆふまぐれこそただならぬはぎのうわかぜはぎのしもかぜ」の三十一文字による頭韻歌を制作したうちの、これは最後の歌と伝える。
邦雄曰く、三十一首、一連の末尾の作としての、涙を振り払うような潔さと、切羽つまった悲愴感が漲り人を魅してやまぬ。第四句「涙も秋も」の異質並列の離れ業は、この時期の定家の技法を象徴する、と。

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November 25, 2005

荒れわたる庭は千草に‥‥

051023-122-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
王朝の頃の「逢ふ」・「見る」

 これもまた丸谷才一「新々百人一首」からの伝だが、
王朝和歌の時代、「逢ふ」ことは単なる対面、出会うという意味にとどまるものではなく、契りを結ぶ、性交するという意味になることが多かった、とされる。
「竹取物語」にある、
「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす」
というのもそう受け取らないとまるで意味不明。
もっと古くは万葉集の大伴家持の歌で、
「夢の逢ひは苦しくありけり驚きてかきさぐれども手にも触れなば」
とあるのも、夢で契るのは苦しく辛い、との意味で、ともに男女の情交のことであろう。
さらには、「見る」においても同じ用法が含まれてくる。成人の女がじかに男に見られることは特殊な意味をもって、御簾とか几帳を仲立ちとしなければ対さなくなる。
小倉百人一首の
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」
では、この「逢ふ」と「見る」が合成され、「逢ひ見る」と複合動詞になるが、無論これも、契りを結んだあとの複雑な悩ましさを詠んだもの。
そういえば、年配の人なら大概ご存知の、大正の頃の俗謡「籠の鳥」の
「逢いたさ見たさに怖さも忘れ 暗い夜道をただひとり」
も、恋人と寝たいがために暗い夜道をゆく、ととるのが歌の真意なのだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-41>
 荒れわたる庭は千草に虫のこゑ垣穂は蔦のふるさとの秋
                                  藤原為子

玉葉集、秋、秋里といふことを。生没年未詳、二条(藤原)為世の子、後醍醐天皇の側室となり、尊良親王・宗良親王を生むも、まもなく早世した。
邦雄曰く、余情妖艶、これを写して屏風絵を描かせたいと思うほど、凝った趣向の豊かな晩秋の眺め。殊に「蔦」が生きており、上・下句共にきっぱりした体言止めであることも意表をついた文体。初句は荒廃よりも、むしろ枯れすすむことへの嘆きであろう、と。

 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜寒に衣うつ声
                                  後醍醐天皇

新葉和歌集、秋、月前涛衣といふことを。新葉集は後醍醐帝の皇子宗良親王の選。結句「衣うつ声」は、砧の上で槌などによって衣を叩く音。晩秋の張りつめた大気を震わせて届く響きは、冬籠りの季節が間近いことを告げる声でもあろう。
邦雄曰く、初句切れ、秋の後二月の名の連呼と「ながき」の押韻、下句の声を呑んだような体言止めが効果的で、太々とした潔い調べを伝える、と。

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November 24, 2005

おぼつかな何に来つらむ‥‥

051023-110-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
米国による「年次改革要望書」

 文芸春秋の12月号に「奪われる日本」と題された関岡英之氏の小論が掲載されている。筆者は昨年文春新書「拒否できない日本」で、日米で毎年交わされてきた「年次改革要望書」に透けてみえる米国側の日本蹂躙ともいえる改造計画にスポットをあて警鐘を鳴らした人。先の郵政解散で圧勝した小泉政権は直ちにそのシナリオどおり郵政民営化法案を成立させ、今後米国の提唱するグローバルスタンダードに簡保120兆円市場を解き放っていくわけだが、次なる標的は医療保険制度であり、国民皆保険として世界に冠たる日本の健康保険制度だと警告している。小論末尾、過去11回を重ねてきた「年次改革要望書」と、その受け皿である経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が命脈を保つ限り、米国による日本改造は未来永劫進行する、と筆者は結ぶ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-40>
 おぼつかな何に来つらむ紅葉見に霧の隠さる山のふもとに  小大君

小大君集、詞書に、十月に女院の御八講ありて、菊合せさは来ければ。生没年未詳、別称を三条院女蔵人左近とされ、三条天皇(在位1011-1016)の皇太子のとき仕えた。
邦雄曰く、われながら不審なことだと、口を尖らせて自嘲するような口吻が、いかにも作者らしい。しかもなお、霧に隠されて見えない紅葉を、わざわざ見に来たのだ意地を張って、逆ねじを喰らわすような示威ぶりが小気味よい。小大君集に目白押しに並ぶ辛辣な歌のなかでも、この紅葉狩りは屈指の一首、と。

 秋の月光さやけみもみぢ葉の落つる影さへ見えわたるかな  紀貫之

後撰集、秋、詞書に、延喜の御時、秋の歌召しありければ奉りける。「光さやけみ」は、光が鮮明なので、ほどの意味。
邦雄曰く、冷え冷えと降り注ぐ晩秋の月光のなかに、漆黒の影をくっきりと見せて、一葉々々が地に消えてゆく。葉脈まで透いて見えるような、この微視的な描写に古今時代の第一人者の才が証明されよう。結句「見えわたる」の叙法も、説明に似つつ、一つの調べを創るための重要な技巧だった。冴えわたった理智の眸で秋夜絢爛の景を、くっきりと見据えたような一首、と。

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November 23, 2005

夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の‥‥

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-今日の独言-
蜻蛉池公園に遊ぶ

 大阪府下には府営の公園が18ヶ所ある。著名なところでは箕面公園や浜寺公園などだろうが、子どもたちの遊具も充実し、休日ともなると家族連れでにぎわっているのが、岸和田市の丘陵地帯にある蜻蛉池公園だ。その名称はトンボを象った大きな池があるせいで名づけられたそうな。今日は幼な児のために一家で春先以来の訪問。池には冬越えに飛来しているらしい鴨の大群が水面に泳いでいた。肌寒いかと心配されたが、予想に反してポカポカするほどの小春日和の陽気。滞在二時間半ほど、4歳になったばかりの幼な児にはたっぷりというほどではないにしても適度な遊び時間だったろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-39>
 夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の雲より雲に跡ぞ消えゆく
                                 藤原道家

玉葉集、秋。詞書に、建保5年9月、家に秋三首歌詠み侍りけるに、雲間雁を。鎌倉前期の人、祖父は九条兼実、摂政藤原良経の長子、後堀河天皇の関白となる。歌意は「夕暮、ねぐらへ戻るのか、雁の列が遠ざかって行く。たなびく雲から雲へ移るごとに、その姿はいっそう霞み、やがて跡を消してしまう。」邦雄曰く、縹渺(ひょうびょう)たる視野の限りに、霞み潤んで雁の姿は見えなくなる。第四句「雲より雲に」は、その遥けさを見事に言いおせた、と。

 たれか聞く飛ぶ火がくれに妻こめて草踏みちらすさ牡鹿の声
                                 葉室光俊

閑放集、秋。鎌倉前期の人、法名は真観。父は藤原(葉室)光親、定家の弟子となり直接指導を受ける。邦雄曰く、およそ絵に描いた景色を出ない、息を殺して死んだような歌が多い中世和歌のなかに、この作の律動的な調べ、鹿の生態を活写した修辞は珍重に値する。第二句「飛ぶ火がくれに」、第四句「草踏みちらす」の新味は抜群、と。

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November 22, 2005

玉章(たまづさ)の裏ひきかへす‥‥

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-今日の独言-
著者からの思わぬ書き込み

 エコログに珍しい書き込みがあった。このところ私はその月に購入した書物をひと月ごとにまとめて「今月の購入本」として紹介しているのだが、11月分の掲載した記事(13日付)に著者自身からわざわざ購入御礼のコメントを頂戴したのである。朝日選書版「われら以外の人類」の内村直之氏だ。19日の発言でも書いたが、著者は朝日新聞社の記者である。彼のコメントには「この本は、質問なんでも受付アフターサービス付きでございます。なにとぞよろしくお願い致します。」と付記されている。科学医療部という学究肌の部署を担う人ゆえか、或はご本人の人柄ゆえか、謙虚さと真摯な姿勢でコミュニケーションを大事にしようとする心が爽やかに伝わってくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-38>
 照る月にあはれをそへて鳴く雁の落つる涙はよその袖まで
                                 藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。邦雄曰く、凄愴の気溢れる「月」七首目。萩や鹿、或は葛や雁に配した月も情趣は深いが、良経の持味は雁がひとしお。第四句「落つる涙は」の表現は後々流行するが、この歌は結句の「よその袖まで」が要、と。

 玉章(たまづさ)の裏ひきかへす心地して雲のあなたに名のる雁がね
                                 鴨長明

鴨長明集、秋、雁声遠聞。「玉章」は手紙・便りの美称で、玉梓とも表記。「裏ひきかえす」は同じことを繰り返すこと。邦雄曰く、確信を写した上句が技巧の冴えを誇る。第二句「裏ひきかえす」の効大きく、薄墨色にかすれて中空に消え、声のみ響く雁の形容としては絶妙といえようか、と。

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November 21, 2005

白露の消えにし人の秋待つと‥‥

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-今日の独言-
出口探しのむずかしさ

 29日のDanceCafeに向けて先週の日曜から続けて杉谷君のピアノ演奏と共に即興をしているのだが、その昨日の稽古場に、養護学校に勤める友人が自閉症の女子生徒を伴なってやって来た。聞けば、この少女はピアノの演奏が好きで以前はよく上手に弾いていたのだが、なぜか最近はさっぱり弾かなくなっているので、我々の稽古での杉谷君の演奏が、彼女にとってなにか刺激にならないかと思ってのことだったらしい。さらには彼女が興にのってその場で演奏でもはじめれば、その演奏技量や才能のほどを杉谷君に診断してもらえれば、との思惑もあったらしいのだが、ことは自閉症の少女であるから見事にその淡い期待は外れてしまった。彼女にピアノの前に座らせ、いつもよく弾いていたという教本を杉谷君に弾いてもらい、彼女にその気を誘い出そうと試みるのだが、いくら試みても空しくその硬い殻は閉ざされたままに終わった。まこと出口探しはそんなに容易なことではないのだ。
 自閉症者で音楽に特別の才能を発揮する人の例は、大江健三郎の子息光氏の場合を引くまでもなく、意外に多いらしいという事実は私も知ってはいるが、では実際にその彼や彼女たちに、どういう場面を与えれば自由に振舞い、その隠れた才を引き出せていけるかは、おそらく個性に応じてあまりにも微妙かつ千差万別で、周囲の人間がその壁を充分に判別すること事態が非常に難しい。彼や彼女自身よりもその家族や周囲が果たさなければならないサポートは想像がつかぬほどに煩瑣なものがあるだろう。彼らの内部に埋もれ眠ったまま発揮されることのない才は夥しいほどにあるにちがいないが、それはなにも自閉症者に限られたことではなく、ヒトの無意識に潜む無辺のひろがりを視野に入れるとすれば、均しく我々のだれにも当て嵌まることであろうけれど‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-37>
 来む年も頼めぬうわの空にだに秋風吹けば雁は来にけり
                                 源実朝

金塊和歌集、雑。詞書に、遠き国へ帰れりし人、八月ばかりには帰り参るべき由を申して、九月まで見えざりしかば、彼の人の許に遣わし侍りし。邦雄曰く、実朝には、その時既に満27歳正月の鶴岡八幡宮における悲劇が、はっきりと見えていた。あはれ、「来ぬ年も頼めぬ」とは、彼自らの翌年の命にすら、確信が持てなかったのだろう、と。

 白露の消えにし人の秋待つと常世の雁も鳴きて飛びけり
                                 斎宮女御徽子

斎宮集、誰にいへとか。父・重明親王の喪が明けて後の作とされ、格調高く亡父を偲んだ歌と解される。邦雄曰く、雁は人の知り得ず行き得ぬ常世の国に生まれ、そこから渡っては訪れ、また春になれば還る。唐・天竺の他は別世界、別次元であった、と。

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November 19, 2005

跡もなき庭の浅茅に結ぼほれ‥‥

N-040828-082-1
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-今日の独言-
脳のルビコン

 われわれホモ・サピエンスの起源を探るここ数十年来の考古学はアフリカでの発掘調査を中心にずいぶん進んでいることは、時にニュースで伝えらたりする限りにおいて享受してきたものの、およそその手の知識も思考回路も乏しい私などには、それらの断片を手繰り寄せて全体像を把握することなどできる筈もなく、その努力もついぞしてこなかったが、先月末の新聞書評で内村直之著「われら以外の人類」が紹介されているのに触れ、現時点での総括的な知見を得られるものと思い手にしてみた。著者は朝日新聞社の科学医療部記者で「科学朝日」編集部なども経てきており、その職業柄か、猿人たちから多様なホモ属の系譜まで、わかりやすくまとめられており入門書としては良書といえるだろう。
 ここでわれわれが意外と知らないでいる事実をひとつ紹介しよう。ヒトの脳はとんでもなく贅沢な器官で、高カロリーのブドウ糖しか栄養にせず、体重の2%程度しか占めていないのに、消費するエネルギーは20%にもなるという。さらに新生児にいたっては、身体をあまり動かせないという事情もあるが、60%のエネルギーを脳で消費するというのだ。それほどにわれわれは脳化した動物だという訳だが、その脳の進化のためには、効率的にカロリーを補給できる「肉食」が不可欠条件だったし、数あるホモ属たちのなかで「脳のルビコン」を越え出るのに成功したのがホモ・サピエンスだった、と本書は教えてくれる。勿論、長いあいだの狩猟生活から、やがて農耕主体の定住生活へと変わって現在にいたるわれわれには、すでに肉食は絶対条件ではなくなっているが。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-37>
 跡もなき庭の浅茅に結ぼほれ露の底なる松虫の声  式子内親王

新古今集、秋、百首歌中に。平安末期、後白河院の皇女、以仁王は同母弟。邦雄曰く、第四句「露の底なる」と、魂に透き入るかの調べにて、松虫の音は際立って顕(た)つ。作者の百首歌第一には「月のすむ草の庵を露もれば軒にあらそふ松虫の声」があり、眺めはにぎやかで非凡ながら、「露の底」には及ばない、と。

 ゆく蛍雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ  在原業平

後撰集、秋、題知らず。伊勢物語第四十五段にて、男に恋焦がれ、忍びに忍んでついに儚くなった娘のもとへとその男が駆けつけて、死者への追悼をする件りに添えられた歌である。邦雄曰く、女の死に直接かかわらず、仄かに鎮魂の調べを伝える、と。

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November 18, 2005

黒髪の別れを惜しみ‥‥

051023-077-1
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-今日の独言-
月夜にしか通えぬいにしえの男たち

 引き続き丸谷才一「新々百人一首」から引いての話題。王朝歌人たちの活躍した時代の男女間が妻問い婚であったのは承知だが、男は毎晩のように女の居処へ通えるものではなかったらしく、男が通うのは月夜の晩と決まっていたのだ、という。さてその理由だが、なにも月夜が明るくて安全だろうなどという訳ではなく、当時のなお呪術的な迷信深い信仰心のあらわれのようで、日が落ちきって太陽の隠れてしまった夜ともなると、本来なら忌み籠もっていなければならないが、ほのかに光さす月夜はその月の呪力によって、女の元へと忍んで通うことも許されるものと解されていた、とこれはあくまで著者の推論であるのだが、逆に、新月(=朔)の闇夜ともなれば妖怪変化の魑魅魍魎が跋扈する世界であったことを思えば、充分肯ける説である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-36>
 鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞ悲しき
                                 曾禰好忠

後拾遺集、秋、題知らず。平安中葉の人、生没年未詳。「きりぎりす」は現在のそれではなく蟋蟀(こおろぎ)と解される。二句の「蓬が杣」は蓬の群生するさまを、蟋蟀から見て、薪用に植林された杣の林に見立てたのである。邦雄曰く、爽快な初句切れ、用法の天衣無縫さ、傍若無人な嘆声はひときわ意表をつき心の琴線にも触れる。王朝秋歌の中の一奇観だろう、と。

 黒髪の別れを惜しみきりぎりす枕の下にみだれ鳴くかな
                                 待賢門院堀河

待賢門院堀河集、枕の下の蛬(こおろぎ)。後朝(きぬぎぬ)の恨み哀しみをきりぎりすの鳴き声に託した晩秋のあわれ。女の息を殺した嗚咽が耳に響く。邦雄曰く、二句までにつづめにつづめた的確な表現も快い。闇に眼を見開いて枕の下、否底の、細々と途絶えがちな虫の音を聞く姿が顕(た)ってくる、と。

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November 17, 2005

夜もすがらひとり深山の‥‥

N-040828-017-1
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-今日の独言-

歌枕、知るや知らんや
 またも丸谷才一の「新々百人一首」を引いての話題。室町期の歌人正徹はその歌論書に「吉野山はいづれの国ぞ」と問われれば「ただ花にはよしの、もみじには竜田と読むことと思ひ付きて、読み侍るばかりにて、伊勢の国やらん、日向の国やらん知らず」と応ずるのがいい、と云っているそうな。要するに王朝歌人たちにとって、歌枕として詠まれる各地の名所旧跡の風景は、彼らの心の内にある幻視の空間で、未だ見ぬも委細構わず現実の地図の上にはないも同然なのである。
本書で丸谷は、藤原為家の詠んだ「くちなしの一しほ染のうす紅葉いはでの山はさぞしぐるらん」の解説で、この歌では「いわでの山」が歌枕だが、それが陸奥にあるとも攝津にあるとも説があり、いずれとも明らかでないとし、その考証に深入りするよりも、「いはで」の語が「言わずして」の意に通うせいで、歌の心としては「忍ぶ恋」を詠むのに王朝歌人たちに好まれ用いられたのだ、と教えてくれる。そういえば、初句「くちなしの」は四句・結句と響きあって、一首の見立てが忍ぶ恋に泣き濡れているさまにあることが判然としてくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-35>

 夜もすがらひとり深山の槙の葉に曇るも澄める有明の月  鴨長明

新古今集、雑、詞書に、和歌所歌合に、深山暁月といふことを。槙の樹々に遮られてはっきりとは見えなかった秋の月が、やがて暁の頃ともなれば処を得て、冴え々々と映え輝く。邦雄曰く、第四句「曇るも澄める」の秀句は時として、作者の真意を曇らす嫌いもあろうか。長明特有の、ねんごろな思い入れを味わうか否かで、評価も分かれる。時間の推移によって「澄める」とは、直ちには考えにくい、と。

 影ひたす波も干潟となる潮に引きのこさるる半天の月  岡江雪

江雪詠草、浦月。戦国期16世紀末、北条家家臣、後に徳川家康に旗本として仕える。邦雄曰く、干潮時の海面に映る中空の月が、次第に干潟に変る潮の上に「引きのこさるる」とは、さすがに嘱目が人の意表をつき、細を穿っているか。表現の細やかさも、いま一歩で煩くなる寸前に止まる。結句「半天の月」がきわだって佳い、と。

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November 16, 2005

都にて月をあはれと思ひしは‥‥

051023-063-1
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-今日の独言-

ドサクサ紛れのブッシュ来日
 昨夜から、ブッシュ米大統領が来日して小泉首相と相変わらずの日米蜜月ぶりを世界にアピールしている。そもそも此の度の邦日の日程そのものに大いに胡散臭さを感じている人も多かろう。昨日は紀宮の結婚でマスコミの報道もお目出度いニュースにシフトしているし、大半の国民がその祝賀ムードを享受しているなか、いわばドサクサ紛れに「世界のなかの日米同盟」などと高らかに謳い上げられては、露骨な作為を感じない訳にはいかない。イラク派遣延長も、牛肉輸入再開も、この来日でゴーサインとなる。イラク駐在の自衛隊のみならず、首都東京をはじめ日本の大都市もテロの標的となる可能性を本気で心配しなければならなくなってきたのではないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-34>
 都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬ遊(すさ)びなりけり
                                  西行

新古今集、羇旅、題知らず。邦雄曰く、理の当然を叙しているにも拘わらず、意表を衝かれたの思いに立ちすくむ。都における暖衣飽食平穏無事な日々の花鳥風月と、旅から旅への酷薄な環境で見る月は「あはれ」の域を遥かに超える。宮廷歌人たちはこのような「告白」に胸を搏たれ、不世出の、まことの歌人として、西行を認めたのでもあろう、と。

 忘れずも袖訪(と)ふ影か十年(ととせ)あまりよそに忍びし雲の上の月
                                 後土御門天皇

後土御門院御詠草、袖上月。室町末期、在位中に応仁の乱あり戦国の世へと。邦雄曰く、恋歌に数えても、述懐に加えてもよい思いの深さを湛えている。結句の「月」は単なる月ならず、そこには特定の人の面影が添う。文明8(1476)年、帝34歳の八月十五夜、時は応仁の乱も終りの時期であったことを考え合わせると、感慨はひとかたならぬものと察せられる、と。

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November 15, 2005

暮れもあへず今さしのぼる‥‥

041219-036-1
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-今日の独言-

勅撰集編纂の背景
 今様を好んで「遊びをせんとや生れけむ」で知られる「梁塵秘抄」を集大成した後白河院は、平安末期から鎌倉期へと転換する源平の動乱期に、時の院政者として君臨、源平のあいだや或は頼朝と義経のあいだにあって老獪な駆引きに暗躍したが、丸谷才一の「新々百人一首」によれば、自身は和歌を嫌い殆ど嗜まなかったにも拘らず、戦乱のただなかに勅撰集の院宣を出し、そうして成ったのが「千載集」とのことである。この背景には当時の都の荒れようや疫病の流行などがあり、それも20年程前に讃岐に流されそのまま配所で恨みを残しながら死んだ崇徳院の怨霊による祟りと解され、和歌を能くした崇徳院鎮魂のため、生前所縁の深い藤原俊成を選者の筆頭にして編纂させたという経緯が事細かに活写されていて、とても面白かった。日本書紀の国史編纂にしろ、代々の勅撰和歌の編纂にしろ、その裏にはどんな生臭いことどもが隠されていることか、なかなかに興味の尽きないものがある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-33>
 暮れもあへず今さしのぼる山の端の月のこなたの松の一本(ひともと)
                                 花園院

風雅集、秋。南北朝動乱期の13世紀前期、後二条天皇崩御のあと12歳で践祚。すっかり暮れ切ることもないまま今さしのぼった山の端の月、眼を転ずれば、その光を受けて佇立する一本の松の大樹。邦雄曰く、月明りの松一本に焦点を合せて、まさに「直線的」に、すっくと立ち、詠いおろした珍しい調べ。「今」の一語で臨場感、生き生きとした現実感をさへ添えたあたり、この時代の美しい曖昧調のなかで、ひときわ目立つ、と。

 秋も秋今宵もこよひ月も月ところもところ見る君も君
                                 詠み人知らず

後拾遺集、秋、題知らず。一説に八月十五日夜、宇治関白藤原頼通の高陽院で、叡山の僧光源法師が下命によって詠んだ歌との後註が添えられている。邦雄曰く、同語反覆によって抑揚の強い響きを生み出し、稀なる効果を見せた。結句の「君」は勿論関白を指すが、「これぞ最高無二のもの」と述べるのを省いて、挨拶歌としてより以上の強調を果たしえている、と。

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November 14, 2005

夕まぐれ木茂き庭を‥‥

041219-016-1
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-今日の独言-

蝦夷や入鹿の邸宅跡か
 古代のクーデターともいえる大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足に殺された蘇我入鹿やその父蝦夷の邸宅跡の一部と推定される遺跡が、日本書紀の記述どおり、明日香村の甘樫丘東麓遺跡で発見されたと大きく報じられている。正史に登場する蝦夷や入鹿はとかく逆臣・逆賊のイメージが強いが、今後の詳細な発掘調査で彼らの像は別の角度から照射されてくる可能性もあるだろう。明後16日には現地見学会が催されるという。そういえば、先日久し振りにお会いした小学校の恩師は、古代遺跡などにも関心深く、こういった報道記事をずいぶん几帳面にファイルされていたし、現地見学会にもよく足を運ばれていると聞いたが、ひょっとすると明後日は現地見学会に行かれるかもしれないな、とふと脳裡をかすめる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-32>

 夕まぐれ木茂き庭をながめつつ木の葉とともに落つる涙か
                                 藤原義孝

詞花集、雑。詞書に、一条摂政身まかりにける頃詠める。平安期中葉十世紀後半の人。父の一条摂政藤原伊尹(これただ)は天禄三(972)年48歳で薨去、時に義孝18歳。邦雄曰く、初冬、もはや木の葉も落ち盡くす頃、結句の「涙か」には、微かな憤りを交えた悲哀が感じられる。彼自身も後を追うようにこの二年後夭折、王朝屈指の早世の歌人、と。小倉百人一首の「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」も彼の歌。

 天離(あまざか)る鄙(ひな)にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける
                                 作者不詳

万葉集、巻十五。対馬の浅茅の浦にあって順風を待ち、五日停泊した時の歌として三首あり、時雨の歌、都の紅葉を偲ぶ歌の間に、この月明りの相聞は置かれている。邦雄曰く、心余って足りぬ言葉が、月並みな表現に止まらせているが、それがかえって歌の原型、初心の素朴さを味あわせてくれる、と。

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November 13, 2005

秋風ものちにこそ聞け‥‥

N-040828-083-1
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-今日の独言-

しばらくは塚本邦雄三昧
 図書館から塚本邦雄全集の13巻と14巻の二書を借りてきた。全15巻と別巻からなるこの全集、発行部数もきわめて少ないからだろうが、各巻9975円也ととにかくお高く、私などには容易に手を出せるものではない。そこで図書館の鎮座まします書棚から我が家へお運び願うことにしたのである。全集の13巻は「詞歌美術館」「幻想紀行」「半島-成り剰れるものの悲劇」「花名散策」を、14巻は「定家百首」「新選・小倉百人一首」「藤原俊成・藤原良経」をそれぞれ所収している。そろそろ年の瀬も近づいて慌しさを増してくる世間だが、半ば隠居渡世の我が身は、いましばらく塚本邦雄の世界に浸ることになりそうな気配。

今月の購入本
 内村直之「われら以外の人類-類人からネアンデルタール人まで」朝日選書
 J.タービーシャー「素数に憑かれた人たち-リーマン予想への挑戦」日経BP社
 村上春樹「アンダーグラウンド」講談社文庫
 塩野七生「サロメの乳母の話」新潮文庫
 塚本邦雄「珠玉百花選」毎日新聞社
 安東次男「百首通見」ちくま学芸文庫

図書館からの借本
 丸谷才一「新々百人一首」新潮社
 塚本邦雄「塚本邦雄全集第13巻 評論Ⅵ」ゆまに書房
 塚本邦雄「塚本邦雄全集第14巻 評論Ⅶ」ゆまに書房

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-31>

 秋風ものちにこそ聞け下萩の穂波うちこす夜半の枕は
                                 正徹

草根集、秋、萩声近枕。邦雄曰く、秋風の、今をのみ聞くのなら通例に過ぎぬ。吹き過ぎて後の、遥か彼方の萩の群れに到る頃、さらには彼岸に及ぶ、その行く末まで、耳を澄まして聞くのが詩人の魂であろう。正徹の歌はその辺りまで詠っているような気がする。「夜半の枕は」の不安定で、そのくせ激しい助詞切れの結句は、白い秋吹く風の、幻の風脚まで夜目にまざまざと顕われ、消える、と。

 漁り火の影にも満ちて見ゆめれば波のなかにや秋を過ぐさむ
                                 清原元輔

元輔集、津の国に罷りて、漁りするを見たまうて。平安前期の十世紀、清少納言の父。
邦雄曰く、目前の漁火をよすがに、豪華な蓮火幻想を生んだ。点々と夜の海に映る漁船の火、海の底にまでとどくような遠い華やぎ。「波のなかにや秋を過ぐさむ」は悠々として遥けく、深沈にして華麗である、と。

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November 12, 2005

夕暮はいかなる色の‥‥

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-今日の独言-

 懐かしい記憶、幼い子どもの頃の、あるいは少年期、思春期の頃の。
その懐かしい記憶を、想い起こす時、人は、いつも、
あの時へ、あの情景のなかへ、その時の、そのままの、自分の姿へ、
戻ってみたい、と望んでいるものだ。
懐かしい記憶の、そこにはかならず、懐かしい人があり、懐かしい出来事がある。
生き生きと、あざやかに、その振る舞う姿が、まざまざと、脳裡によみがえる。

 今日の未明、というよりは、深夜というべきか、
懐かしい記憶のなかの、懐かしい人が、ひとり、
すでに五年前に、鬼籍の人となっていたことを知った。
たとえ、40年、50年という長い歳月を、それぞれ別世界に生きてきたとしても、
いつか、時機を得て、ふたたびまみえること、そんなはからいというものもあろうかと、
その記憶に触れるたび、思ってきたのだったが‥‥

 人は、未来に向かって生きるというが、はたしてほんとうだろうか。
私には、過去に向かってこそ、生きるということが、いかにも相応しいものに思える。
もう、ずっと、20年以上も昔から、私は、過去に向かって生きている、という気がする。
だって、そうではないか、人間、未来に向かって、いったい、どれほど、問えるというのか。
過去にならば、いくらでも、問える、汲めども尽せず、問える。
過去へと遡ることは、有限だが、問えることにおいては、無尽蔵だ。
未来へ志向することは、無限にみえるが、問えることにおいては、きわめて限られている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-30>

 夕暮はいかなる色の変ればかむなしき空に秋の見ゆらむ
                                 藤原教家

続古今集、秋、題知らず。鎌倉前期、藤原良経の二男、書を能くし、「平治物語絵巻」に名を残す。
邦雄曰く、虚空に「秋」が見えるという、類のない発想である。「色」はこの場合、趣き・様子・佇まい、黄昏の夕空に、なにか魔法にでもかかったように、「秋」そのものが立ち顕れてくる、その不可思議を、作者は何気なく透視、把握したのか。

 
 うなゐ児が野飼(のがい)の牛に吹く笛のこころすごきは夕暮の空
                                 西園寺実兼

実兼公集、笛。鎌倉後期、太政大臣を経て後に出家、西園寺入道相国となる。永福門院の父。
西行の「うなゐ児がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼臥(ひるぶし)」を本歌取りしたものとされる。邦雄曰く、昼寝の夢を覚ます素朴な光景ではなく、野趣溢れる一幅の風景画に仕立てた。「すごき」は淋しさの強調だが、墨色に遠ざかっていく後姿が浮かぶ、と。

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November 11, 2005

おしなべて思ひしことのかずかずに‥‥

051023-112-1
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-今日の独言-

屏風歌詠みの紀貫之
 丸谷才一の「新々百人一首」を読んでいると、採り上げた歌の解説に、よく屏風歌であると指摘する箇所が出てくる。屏風歌とは、一言でいえば、屏風絵に画讃として色紙型に書き込まれた歌のことだ。屏風絵-屏風歌の多くは、四季あるいは十二ヶ月の情景をあらわしている。四季折々の情景が、季節の順に画面右方から左方へと散りばめられ、各情景は、添えられた屏風歌とともに鑑賞される。描かれた情景を見、歌を読み、その情景のなかに入り込んでいくとき、画中人物には血が通い、生きる時間が流れはじめ、風景は瑞々しく生動してくるだろう。また、屏風絵全体を大きく眺めわたせば、その四季共存の光景は、彼岸ではなく此岸としての理想郷にほかなるまい。
この屏風絵-屏風歌が盛んになるのは、唐風の絵画から脱して、国風文化としての大和絵が成立してくる9世紀以降、古今集成立前夜頃であろうとされる。考えてみれば、その古今集もまた、屏風絵-屏風歌の構造と同型のものではないか。四季折々の歌が配され、自然を愛で人生を観じ、或は恋に悩み恋に生きる姿が謳歌される。丸谷才一によれば、古今集編者紀貫之の「貫之家集」888首の約6割は屏風歌であるとされ、屏風絵の画讃の歌詠みとして貫之は当世流行の職業的歌人でもあったろう、としている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-29>

 おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮
                                 藤原良経

新古今集、秋。詞書に、百首歌奉りし時。平安末期から鎌倉初期。関白九条兼実の二男にして、若くして関白、摂政に任ぜられるも37歳にして急死している。邦雄曰く、達観というには若い31歳ながら、すでに壮年の黄昏に、独り瞑目端座して過去の、四方の、永く広く深い「時」の命を思いかつ憶う。嘗ての憂いも悲しみも、この秋の存在はなおひとしお身に沁む、曰く言い難い思考であり、感嘆でもあろう。第五句重く緩やかに連綿して類いのない調べ、と。

 身をしをる嵐よ露よ世の憂きに思ひ消ちても秋の夕暮
                                 肖柏

春夢草、秋夕。秋の嵐に、草木も萎れ澆(しお)れるように、人の身もまた斯様な思いであろう。しをるには責(しお)るの意も微かに通わせているか。第二句「嵐よ露よ」と、並べ称えべくもないものを連ねているのも耳をそばだて、強い印象を与える。邦雄曰く、第四句の余韻に無量の思いを湛え、しかも敢えて切り棄てて「秋の夕暮」と結んだところに、深沈たる余韻が生れた。この一首、連歌風の妙趣をも感じる、と。

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November 09, 2005

見渡せば花も紅葉もなかりけり‥‥

Nakahara050918-035-1
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-今日の独言-

やはり複雑怪奇、大阪市長選挙
 13日告示、27日投票予定の大阪市長選挙に、やっと第三の候補者が登場した。出馬表明したのは民主党前衆議院議員の辻恵氏。東京弁護士会に属する弁護士で、03年11月の衆議院選挙で大阪3区から民主党公認で立候補し、惜敗率高位により比例区で復活当選した人。9月の郵政解散による総選挙で雪崩をうって惨敗落選した民主党議員の一人だ。当然、独自候補擁立を模索していた民主党の推薦候補かと思いきや、民主党大阪は一枚岩にまとまらず、公認も推薦もないとのことで、本人は離党してあくまで無所属で立つ。民主党大阪の国会議員たちは辻支援に廻るというが、民主党市議団は自主投票を決め込んで、その多くは市職労組との癒着批判を避け推薦依頼を忌避している関前市長を支援する模様だというから、市政内部の錯綜混沌ぶりは深刻で、この選挙、市民の眼には相変わらず争点もはっきりしてこない。市民レベルで候補者擁立を模索してきた市民団体「見張り番」らが主導の「大阪24区市民連絡会」は、辻恵氏の出馬意志を歓迎し、急遽、推薦することにしたが、さて、これから選挙本番に向けて、冷え切った市民の関心をどこまで喚起できるか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-28>

 問へかしな浅茅吹きこす秋風にひとり砕くる露の枕を
                                 俊成女

新勅撰集、恋。詞書に、恋の歌あまた詠み侍りけるに。新古今の華、定家の姪である。
邦雄曰く、この歌、家集中の「衛門督の殿への百首」即ち、自分を棄てた夫、源通具への綿々たる思いを綴った連作のクライマックスをなす一首。閨怨の情趣が濃厚である、と。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
                                 藤原定家

新古今集、秋上。詞書に、西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに。定家満24歳の二見浦百首の秋。邦雄曰く、西行の「鴫立つ沢」、寂蓮の「槙立つ山」と共に「三夕」の一つであるが、他とはまったく趣を異にする凄まじい否定の美学をもって聳え立つ一首。春秋の美の粋もないと、舌打ちするかに詠い払った三句切れは、逆に花と紅葉を鮮やかに幻に描き出してたちまち消える。源氏物語「明石」の面影を写している、と。

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先づ座敷を見て、吉凶をかねて知る事

051023-050-1
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風姿花伝にまねぶ-<18>

問答条々-1
 問ふ。抑、申楽を初むるに、当日に臨んで、先づ座敷を見て、吉凶をかねて知る事は、いかなる事ぞや。
 答ふ。此事、一大事也。その道に得たらん人ならでは、心得べからず。

能舞台には、嵐窓と称する連子窓があり、見物席の様子を鏡の間から覗くことができるようになっている。会場の雰囲気を窺って、その日の舞台が成功しやすいか否かを見定め、いかに対応するかを思案するのは、一座の長の重い役目でもあろう。まずは、見物席が静まること、見物の心が一つになって、今や遅しと心待ちとなる頃合を捉えて、幕を上げ、シテの登場となれば、「万人の心、為手の振舞に和合して、しみじみとなれば、何とするも、その日の申楽は、早やよし」ということになる。
かように<場>を心得る、ということについて、世阿弥は「夜の申楽」と「昼の申楽」を陰陽の論理を用いて演じ分けるべし、と説く。夜の申楽ではとかくしめりやすいから、初めが大切。初めに侘しくしめりこんでしまえば、いかにも立ち直りがたい。陰の気の支配しがちな場には、営為ある陽の活力を、陽の気の支配しがちな場には、物静かな心を満たした陰の気を配し、陰陽の和に心配ることが成功の秘訣だ、という。

――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

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November 08, 2005

染めやらぬ梢の日影‥‥

Nakahara050918-082-1

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-今日の独言-

小学校時代の恩師を訪ねる
 今日の午後は、小学校の恩師宅へ初めての訪問。藪から棒の如く昨日電話を入れてのことだが、さぞかし驚かれたことであろう。逢うのは二年半ぶり、というのも一昨年の春の同窓会以来という次第。その折、次回の幹事役を押しつけられる羽目になったので、三年後あたりに開くとすれば、喜寿のお祝いを兼ねてのことにしましょうか、などと話し合っていた。来年の春にせよ、秋にせよ、喜寿を祝うなどと構えるとなれば、些か仕掛けも必要かと思い、せめて恩師の個人史的なプロフィールぐらいは紹介できる形が望ましかろうと、その取材のため突然のお邪魔をと思い立ったのである。
先生は昭和5年生れの満75歳。20年ほど前に胃潰瘍で2/3の摘出手術をしたというが、術後はなんの問題もなくいたって健康そのもの。夫人にも初めての御目文字だったが、まことに気安い方で昔談義に興じると話題も尽きず口跡滑らか。およそ三時間、話題はあれこれと飛び交いつつ、たっぷりとお聞かせいただいて、はや釣瓶落としの夕刻ともなったので、名残りを惜しみつつ辞去してきた。
宿題ひとつ、そう慌てることもないけれど、年明け頃にはモノにしておきたいと思っている。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-27>

 浅茅原はかなく置きし草のうへの露を形見と思ひかけきや
                                 周防内侍

新古今集、哀傷。平安中葉、白河・堀河期。白河帝中宮賢子は応徳元年九月薨去。その御殿は荒れ草ばかり茂っていたが、七月七日は梶の葉に歌を書く慣わしあり、童子が硯に、草の葉の夜露を取り集めているのを見て、という意味の長い詞書が添えられている一首。その露が27歳ばかりで早逝した中宮賢子の形見だったとは思い及ばなかった、と詠っている。邦雄曰く、並々の贈答歌とは異なる、澄み透ったあはれがにじむ、と。

 染めやらぬ梢の日影うつりさめてやや枯れわたる山の下草
                                 永福門院内侍

風雅集、秋下。室町中葉、伏見院の女御永福門院に仕えた。第三句「うつりさめて」の字余りのたゆたい、四句「やや枯れわたる」の微かな限定。邦雄曰く、自然観照の細やかさ、一首の微妙な時刻の移ろい、山野の眺めの照り翳りは特筆に価しよう。草紅葉することもなく、枯れ草となっていく、秋の終りの山ふところの八重葎の原の幻が、墨絵のように浮かぶ、と。

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November 07, 2005

荒れわたる秋の庭こそ‥‥

051023-025-1

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-今日の独言-

市町村合併に伴なう地名破壊
 平成の大合併が進み、それに伴なって地名破壊も日本中に拡がっている。
合併特例法の大号令で、1999年3月末に3232だった全国の市町村数は、来年3月末には1821に減る見込みだそうだ。総務省は、合併の功罪を検証し、今後の課題や合併推進策を探る研究会を発足させる、という。ここ両三年の合併履歴はコチラのサイトで見られる。栃木県に「さくら市」という名の市が誕生して、物議を呼んでいる。あまりにも地域の特定性がない、という訳だ。合併に伴う新地名選定には、昔から連綿と継がれてきた歴史的地名があまりにも軽んじられていると歎き、消されゆく地名の大洪水に、これはある種の文化的大破壊だ、と怒りの声をあげる批判の書も出版されている。だが、残念ながらこういうことは今に始まったことではなく、明治維新の近代化以来、国の号令のもと何回かの大合併が取り組まれてきたし、また戦後60年を見ても、市町村合併とは別に、各地方自治体では、利便性を求めた町づくりのために、区画整理事業をかさねて、たえず由緒ある旧地名は抹消されてきたのである。歴史的事象といえどもつねに文明の濾過器にふるいにかけられ、歴史は再創造されてゆく、或は、捏造されてゆくのだ。歴史と文明という座標の変容のなかに棲みつづける人間社会というものは、所詮はそんなものではないのかというのが、私の思うところだが‥‥。
 ―― 平成の大合併履歴サイト 
 ―― 合併で進む地名破壊サイト

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-26>

 荒れわたる秋の庭こそあはれなれまして消えなむ露の夕暮
                                 藤原俊成

新古今集、雑、千五百番歌合に。
邦雄曰く、上三句に「あ」の頭韻を押し、冷え侘びた調べに明るみを添えたあたり絶妙。時に作者、87歳、三年後の死を思わせつつ澄み渡った心境、と。

 風吹かばなびく浅茅はわれなれや人の心の秋を知らする
                                 斎宮女御徽子

後拾遺集、雑、題知らず。平安初期、醍醐天皇第4皇子重明親王の娘。
邦雄曰く、冷やかにしかも渺茫とした心のなかの眺め、「われなれや人の心の秋」の神韻ともいうべき調べは格別、と。

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November 06, 2005

いづかたにしをれまさると‥‥

Nakahara050918-085-1

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-今日の独言-

35歳の初志貫徹
 私は将棋や麻雀など勝負事はからきしダメなのだが、35歳のアマチュア棋士がプロ資格への挑戦をして、晴れて四段棋士となったニュースには他人事ながら快哉の声を上げたい。一旦は26歳で立ち塞がるプロ資格の壁の前に挫折して、苦節十年、その熱意と辛苦は、資格規定の定法を破ってまでの異例の挑戦となり、執念のプロ入りを果たした快挙は、近頃滅多に出会えぬ、人として生き抜くことの範に値する。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-25>

 いづかたにしをれまさると有明に袖の別れの露を問はばや
                                 後崇光院

沙玉和歌集、別恋、詞書に、永享四年二月八幡社参じて心経一巻書写してその奥に。室町後期。後朝(きぬぎぬ)の名残りを惜しむ涙を「袖の別れの露」とした。冷え冷えとした暁の薄明りのなかに別れてゆく二人の姿が浮かぶ。邦雄曰く、技巧を凝らした構成の、殊に結句の吐息に似た響きが佳い。身は皇族に繋がりながら終生不遇であった人の、詞に懸けた凄まじさを、と。

 思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末やこがらしの風
                                 藤原家隆

新古今集、恋、水無瀬恋十五首歌合に。恋に深く心を沈めた我が身は、深草に宿る秋の露か。頼みとしえたはすでに過去のこと、果ては木枯しの風に吹き散らされる儚き定めか。邦雄曰く、上・下句共に体言止めの、ひたと対峙して響き合う文体、しかも惻々と心に沁む趣き、と。

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November 05, 2005

はかなさをわが身の上に‥‥

Nakahara050918-020-1
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-今日の独言-

<納音=なっちん>
 山頭火の俳号は納音(なっちん)から採られたことはご承知の向きも多いだろう。その種田山頭火が自由律俳句へと参じ、彼より年少ながら師匠格となったのが「層雲」を主宰した萩原井泉水だが、その俳号も同様に納音である。ご存知だろうが、本来、納音とは運命判断の一種で、十干十二支(=六十干支)に五行(=木火土金水)を配し、これに種々の名称をつけ、生年や月日にあてて運命判断をするものである。萩原井泉水の場合は1884年生れで、納音が井泉水にあたるので、これを俳号としたのだが、山頭火の生れは1882年で、納音は白鑞金にあたり矛盾する。どうやら山頭火は語彙・語感からのみこれを好んで採ったようである。もし仮に生年の納音どおり白鑞金と号していたら、遺された句の世界も些か異なっていたのかもしれない。
山頭火とは、山頂にて燃えさかる火。非常に目立った存在で、優れた知性を持ち、人を魅了する。
白鑞金とは、錫(すず)のこと。金属でありながら柔軟であり、臨機応変に姿を変えることができる。
 因みに私の生まれ年の納音は井泉水で、生年月日の納音は揚流木にあたるらしい。
井泉水とは、地下から湧き出る井水。日照りでも枯れることの無い豊かさと穏やかさを持つ。
揚流木とは、柳の木のこと。向上心は旺盛だが、流れに逆らわず、従順で素直な面を持つ。
 ―― 納音の解説はコチラのサイトを参照
    http://www.freedom.ne.jp/inukai/cgi-bin/setumei.html

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-24>

 はかなさをわが身の上によそふれば袂にかかる秋の夕露
                                 待賢門院堀河

千載集、秋。詞書に、崇徳院に百首の歌奉りける時詠める。平安後期の院政期を代表する女流歌人。
露のはかなさは、たとへば我が身、我が命の儚さそのまま。そう思えば夕暮の冷やかな露、否、悲しみの涙は袂を濡らす。
邦雄曰く、初句にあるはずの露を消して、余韻を生んだ。歌のなかから光り出るものがあるかの如く、と。

 もれそめし露の行くへをいかにとも袖にこたへば月や恨みむ
                                 足利義尚

常徳院詠、寄月顕恋。8代将軍足利義政と日野富子の子、9代将軍となるも24歳で早世。
邦雄曰く、題も「月に寄せて顕わるる恋」などと趣向倒れ一歩手前。恋も歌の表から可能な限り隠して「露の行くえ」「月や恨みむ」に托し、間接話法の粋をみせる技巧は、弱冠18歳と思えぬ老成振り。上句と下句のかそけきほどの脈絡も見事な技巧、と。

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November 04, 2005

ともにこそあやしと聞きし‥‥

051023-157-1
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-今日の独言-

子どもたちの甲高い声が鳴り響いている。
今は四時限も終わって給食の時間なのだ。
ベランダの洗濯物には秋の陽射し。
遠い雲は白々と霞み、先刻までの微風もはたと止んで、
子どもたちの声が遠ざかる。
きっと給食を終えて、みんな運動場へ飛び出していったのだろう。
二車線の、さして広くもない道路を挟んで、対座している
加賀屋東小学校の校舎と高層マンション五階の我が家。
クルマが一台、かなりのエンジン音をたてて、西から東へと通りすぎていった。
あれは、きっと、
このあたり便も少なくなった、市バスにちがいない。
子どもたちの声は、やはり、遠くなったままに、
時折、みじかい歓声の尻尾だけが、耳に届く。

と、時報が鳴った。
さて、いまから、なにをしようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-23>

 ともにこそあやしと聞きし夕べなれはかなやひとり露も忘れぬ
                                 三条西實隆

雪玉集、秋恋。
邦雄曰く、初句「ともに」と第四句「ひとり」の間に、二人の愛は流れ、移ろった。記憶は消えず、秋がまわれば涙を誘われるのだ。溢れる思いと言葉を削り、つづめにつづめて、最後に残った三十一音。優に一篇の、あはれ深いロマンを創りうるような、豊かな背景を思わせる、と。

 おほかたの露には何のなるならむ袂に置くは涙なりけり
                                 西行

千載集、秋、題知らず。
草木に置かれた朝露夕露は大空の涙か、わが袂に降るのは人の世に生きるゆえの悲しみの露か。
邦雄曰く、秋思の涙と解するのが通説だが、もっと広く深く、無常に通ずる思いであり、それも秋なればと考えよう、と。

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November 03, 2005

東雲におきて別れし人よりは‥‥

N-040828-027-1
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-今日の独言-

ヴェネチアで生まれた文庫本
 塩野七生の「ローマ人の物語」が三年前から文庫化されはじめてすでに23冊まで発刊されているが、その第1冊目「ローマは一日にしてならず」の前書に、こういった文庫形式の書は今から500年も遡るルネサンス期のヴェネチアで生まれ出版されるようになった、と紹介されている。印刷技術を発明したグーテンブルグはドイツ人だったが、この発明がもっともよく活かされ広く普及したのは、ルネサンス発祥の地イタリアであり、とりわけ当時の経済大国であったヴェネチア共和国で企業化され、文字のイタリック体の考案なども経て、持ち運びに苦もない書物の小型本化も進んだという。17世紀初めには現在のようなポケット版が生まれ、またたくまにヨーロッパ各地に広まったというから、我ら東方世界との落差にあらためて驚かされる一事。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-22>

 やどり来し野原の小萩露置きてうつろひゆかむ花の心よ   肖柏

春夢草、秋、野萩。15世紀後半~16世紀初期の人。宗祇に師事し、和歌・連歌を学ぶ。旅の途次、野原に仮庵を結んで幾日かを過ごしたが、そのあいだ親しんだ小萩の花は、秋の深まりとともにやがて色褪せてしまうかと思い遣る趣向か。邦雄曰く、初句「やどり来し」を、第四句「うつろひゆかむ」が発止と受け、「小萩露置きて」には結句「花の心よ」が響き合う。この呼吸、連歌で緩急を心得た技か、と。

 東雲におきて別れし人よりは久しくとまる竹の葉の露   和泉式部

玉葉集、恋。陰暦八月の頃訪れて来た人が、露置く竹の葉を描いた扇を忘れていったので、暫くしてから、この歌を添えて返してやった、という意の長い詞書があるそうな。邦雄曰く、まことに穿った、巧みな贈歌であり、忘れ扇が故意ならば見事な返歌と言うべきか、と。

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November 02, 2005

散らば散れ露分けゆかむ‥‥

Nakahara050918-016-1
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-今日の独言-

JulyとAugust
 ユリウス・カエサル(Juliuss Caesar)が暦のJulyにその名を止めたのはつとに知られたことだが、そのカエサルが制定した太陽暦としてのユリウス暦は、ローマで紀元前45年から採用され、以後、より誤差の少ないグレゴリオ暦が制定される16世紀までの長い期間、ヨーロッパ世界に普及していたことになるから、彼の誕生月にその名を残しているのも肯けようというもの。もう一人、カエサルの後継者でローマ帝国の初代皇帝となったオクタヴィアヌス(アウグストゥス=Augustus Caesar,)もAugust=8月にその名を止めるが、そこに面白いエピソードが一つ挿入されていた。それまで8月は小の月で30日だったのを、7月と同じ大の月として31日に変えさせたのだという。理由は勿論、カエサルの7月より自分の月が一日少ないのを嫌ったからで、他の月を一日削って調整したらしい。カエサルの場合は決して自分から望んで名を残したのではなく、彼の死後、贈られたものだが、後塵を拝する権力者というものはその偉大さを競うあまり在世のうちにそれを欲したがる。同じような歴史的事象にも表と裏ほどに実相は異なることに気づかされるのは愉しいことだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-21>
 散らば散れ露分けゆかむ萩原や濡れての後の花の形見に
                                 藤原定家

拾遺愚草、上、秋。定家27歳の詠。狩衣の袖をひるがえして颯爽と、花盛りの、露もしとどな萩原を分けて歩む若き公達の姿は、無論自身の投影だが、邦雄曰く、若書きの烈しい息遣いが命令形の初句切れにはじまる快速の調べにも、顕わなくらいだ、と。

 頼まずようつろふ色の秋風にいま本荒の萩の上の露
                                 藤原家隆

壬二集、恋、恋歌あまた詠み侍りし時。藤原俊成を師とし、俊成の子定家と並び称された。「本荒-もとあら-の」は、根元もまばらなの意。そんな萩の露のようにひと思いに散るなら散ってもよい。秋風と共に移ろう人の心などもうあてにはせぬ、とやや捨て鉢に愛想づかしをする。邦雄曰く、技巧的でしかも激情をひしひしと伝えるところ、家隆の特色か、と。

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November 01, 2005

なげくかな秋にはあへず‥‥

051023-008-1

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-今日の独言-

ガリア戦記のカエサル
 さすがに、ガリア戦記のカエサルはおおいに読ませてくれる。塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズ「ユリウス・カエサル」(文庫本)はルビコン以前、ルビコン以後を各々上・中・下に分け6冊になっているが、現在4冊目を読み進んでいる。
著者自身、本書に記すように、西ヨーロッパの都市の多くがガリア戦記に描かれたローマ軍の基地を起源としていることがよくわかる。後年、カエサルは、退役する部下たちを、現役当時の軍団のままで植民させるやり方をとったから、彼らが軍務で身につけた土木・建設の技術力に加え、共同体内部での指揮系統まで整った形で都市建設をはじめることになり、彼らのまちづくりが、二千年後でも現存することになった、という。
古代ローマを中心にしたヨーロッパの形成が絵巻物世界のごとく綴られてゆくのを享受する醍醐味はなかなかのものだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-21>

 葛はうらみ尾花は招く夕暮をこころつよくも過ぐる秋かな
                                 夢窓国師

正覚国師御詠、暮秋を。秋風に靡いて葉裏を見せる葛と、人を誘うように揺れて手招く薄の、いずれも無視しがたい強さで迫ってくる情意を、潔く、きっぱりと振り切って秋は通り過ぎてゆく。邦雄曰く、葛・尾花・秋三者の擬人化は微笑ましいくらい整っており、秋を男に見立てているのであろう、と。

 なげくかな秋にはあへず色かはる萩の下葉を身のたぐひとて
                                 宗尊親王

竹風和歌抄、萩。13世紀中葉、後嵯峨天皇の皇子。続古今集には最多入集。邦雄曰く、結句にあるべき言葉をわざわざ初句に置き換えたような、訥々とした調べがめずらしい。我が身もまた凋落の秋に遭い、免れがたく移ろっていく歎き。口篭るように「とて」で終る、むしろ余韻を残さぬのも一つの味であろう、と。

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