« July 2005 | Main | September 2005 »

August 31, 2005

別れてきてつくつくぼうし

uvs050420-060-1

<芸能考-或は-芸談>-02

<空也の踊念仏>

 京都東山六波羅密寺には、口から六体の阿弥陀仏を吐き出しているあの有名な空也像がある。
脛を出したみじかい衣、腰に皮袋を巻いて、胸には鉦鼓をかけている。右手には撞木を、左手に鹿角杖をもっている。
この奇体な肖像にはどうやら空也を物語る背景があるらしい。
空也は若い頃からその生涯を遊行に明け暮れた。都の市中を乞食しながら間断なく念仏を唱えていたから「阿弥陀の聖」とか「市聖」とよばれることになった。
あるとき、空也が鞍馬貴船に籠もっていたとき、毎日のように鹿が訪れてくるようになって、これを無二の友としていたのに、平定盛という武士が狩にきて、この鹿を射殺してしまった。このことを悲しんだ空也は定盛から、鹿の角と皮を貰いうけて、角は鹿角杖とし、皮は腰に巻いて、以後つねにその身から離さなかったという。
件の平定盛は殺生にまみれた前非を悔いて出家し、定盛法師と名乗ったが、この子孫たちが空也僧となって全国を遊行し踊念仏をひろめ各地に空也伝説を残したのだろうとされる。その根拠地ともなったのが京都四条の空也堂(市中道場)で、十八家の空也僧が住持し、踊念仏を行い、鉢敲(ハチタタキ)と称されたりした。これを歓喜踊躍(カンギユヤク)念仏ともいったのである。
六波羅蜜寺の空也像とこの空也僧たちの踊念仏の違いは、彼らが太鼓と瓢箪を用いるようになったことである。金箔、銀箔を塗った太鼓や瓢を撥で打ちながら踊る。空也堂系の六歳念仏にはそれが今も伝わっており、焼香念仏ではこれらが用いられているという。焼香念仏とは鉦鼓念仏のことでもあるらしい。
空也像が首からかけている鉦鼓は、雅楽の楽器からきたものと見做されるが、空也僧たちが今に伝承する太鼓や瓢箪はどこからきたかといえば、直接には田楽などの太鼓が踊念仏に結びついたのではないかと思われる。太鼓はもとは鎮魂の咒具である覆槽(ウケ)からきたものだろう。これがやがては太鼓踊系の風流念仏踊となって全国に分布することになる。
瓢箪は、現在に伝承される郷土芸能が踊念仏系であることの証左・標識のように、踊念仏に特徴的な楽器となってきた。

 空也の時代には怨霊鎮魂のために御霊会がさかんに行なわれていた。もとは貴族たちのためのものだったが風俗化し民衆化していく過程にあったと思われる。空也が36歳の天慶元年(938)には、京都の大小の辻ごとに岐神(フナドノカミ)が祀られ、御霊祭といわれる祭式を行なっている。これは第一義には疫病の侵入を防ぐための祭りだったろうが、天慶元年といえば平将門・藤原純友の承平・天慶の乱で騒擾としていた頃である。疫病ばかりでなく市中の庶民を脅かし不安に陥れる凶事にはことかかない時代であったから、おそらくはそんな不安をかき消してくれるものとして仮託もされていたろう。こういった御霊祭などが仏教化すれば踊念仏となる。念仏は極楽浄土へ導くものとしてばかりでなく、疫神や悪霊を鎮め送り出す咒文としても民衆に受容されていったのである。また足踏を主体とする乱舞は悪霊を壌却するもっとも原始的な咒術であった。擬音的に「だだ」ともよばれ、陰陽道や修験道では「反閇(ヘンバイ)とよばれるのがこの咒術としての足踏である。

 ――参照 五来重「踊り念仏」 平凡社ライブラリー刊

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 29, 2005

岩かげまさしく水が湧いてゐる

gakusya-03-04-004-01

<日々余話>

ネパールの子どもたちと、政情不安>

ネパールの政情不安は依然改善しないままつづいているようだ。
外務省による渡航危険情報によれば、退避勧告の対象地域にこそなってはいないが、中西部の渡航延期を勧める地域、首都カトマンズ周辺やポカラの町周辺においては渡航の是非を検討すべき地域とされている。
数年前からマオイストたちによる王国制打倒をめざす反政府のゲリラ活動が活発化、全国土にひろがっているからだ。
そんな不安な情勢のなか、個人ツーリストさえほとんど訪れなくなったポカラから、重度身障者の詩人である岸本康弘氏が帰国してきているので、久々にあって近況報告など聞かせてもらった。以前、この欄でも紹介したことのあるネパールの最貧層の子どもらに無償で教育の機会を提供するためネパール岸本学校を運営している車椅子の詩人である。
政情不安がつづくなかで観光産業が落ち込みっぱなしのネパール経済は深刻なインフレがどんどんすすむ。カースト制度が厳しく職にもつけない貧しい下層の人々はさらに極貧の生活へと追いやられてゆく。
もちろん義務教育の無償制度などない。初等教育さえ受けられない子どもたちはまだまだ多いという。親が費用を負担しなければならないから、男尊女卑の風潮がなお色濃いこの社会で下層民の家に生れた女児たちはほとんど教育の機会を奪われている。
無償で教育機会を提供している彼-岸本のポカラの学校は、その差別にも挑戦している。
就学している男女比率は4:6で女子を多く採っているというのだ。
満一歳の頃に病んだ高熱から身体が不自由となり就学できなかった彼は、おばあちゃん子で育ったというから、そんな自分の幼年時代も影を落としているのかもしれない。差別に対する意識改革、そしてむしろ女子にこそ教育の機会をひろく与えたいと考えているそうな。
また、彼の学校でこんな事件もあったと聞かせてくれた話だが、ある日、通ってきている腕白盛りの男の子が遊んでいて腕を骨折してしまった。日本なら腕の骨折くらいたいした事件でもない。すぐに救急車を呼んで病院に行けば、子どものことだから治りも早い、まあ1ヶ月もあれば完治するだろう。
ところがネパールでは健康保険などという制度もないというから、治療費がそれこそ莫大な金額となるのである。一家の全年収をこえるような額を請求されることになるのが医療の実態らしい。だから医者にはかけられない。骨折した腕は不運とあきらめて切り落とすしかないというのだ。そんな事情だから、ただの骨折から片足のない子、片腕のない子というようにたくさんの身障者が生まれている。
校庭で遊んでいて骨折したその男の子を自分のような身障者にする訳にはいかないと、彼-岸本は費用を全部負担して治療を受けさせたという。

現在、ポカラの岸本学校では160人の子どもたちが通学している。
日本では幼稚園にあたる初級クラス6才児と7才児の二年。小学校にあたるのが一年生(8才児)から五年生(13才児)、全部で七学年にわたる子どもたちが遠くからでも元気よく毎日通っているそうだ。
政情不安のつづくネパールの子どもたちに、希望に満ちた明日をひらく仕事はなおもねばりづよくつづけられている。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 28, 2005

心とけた夕べの水をまく

uvs050420-010

<芸能考-或は-芸談>-01

<「踊り念仏」と「念仏踊り」>

<踊り念仏>と<念仏踊り>はカレーライスとライスカレーのようにまったくイコールというわけにはいかないようである。
<踊り念仏>とは、日本の多くの芸能がこれを母体にして生れてきており、あらゆる種類の信仰的要素がこれに結びつき庶民のあいだで伝承され、庶民信仰の本質がかくされているともいいうるものである。
<踊り>と<念仏>の出会いは、底辺の民の心と生活のなかからいわば自然発生的に生れたもので、いわば庶民ベースの上であったから、初期の<踊る-念仏>は宗教的要素が強かった。この場合、<踊り念仏>であるが、すべからく踊りや歌は宗教的発祥をもちながら、しだいにその要素を稀薄にして、娯楽的要素を濃厚にしてゆくものである。このような段階に至ると<念仏踊り>とよばれるように変化していく。

<踊り念仏>は近世に入って急速に<念仏踊り>化する。
<六斎念仏>はもとはといえば念仏の詠唱に簡単な所作=踊りを加えただけのものだったが、京都その他各地の六斎念仏は念仏がまったく脱落してひたすらさかんに踊るので、今では六斎マンボなどと冷やかされもするという話がある。
いまに残る各地の民俗芸能-太鼓踊りや羯鼓(カンコ)踊り、棒踊りや太刀踊りも、ほとんどすべてが<風流念仏踊り>、あるいは<風流大念仏>とよばれたものである。仮装や仮面をつける剣舞(ケンバイ)や鹿(シシ)踊り、角兵衛獅子のような一人立獅子舞や鬼浮立(オニフリュウ)、女装円舞の小町踊りなども、風流念仏踊りである。
かくしてすべての盆踊りが、多少宗教性を残した娯楽的念仏踊りということになるのだが、今日、阿波踊りを「踊る阿呆に見る阿呆」と踊る人々が、念仏踊りを踊っていると考えることはまずありえないだろう。江戸前の粋とされた「かっぽれ」もご同様で、勧進聖たちの零落した願人坊(ガンニンボウ)の念仏踊りであったとされている。

<踊り念仏>からさまざまな<念仏踊り>へと移りゆくなかで日本の芸能は多様な花を咲かせてきたのだが、これらの系譜をたどりなおすことはなかなか興味つきない世界ではある。

  ――参照:五来重「踊り念仏」 平凡社ライブラリー刊

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 27, 2005

重荷おろすやそぞろ吹く風ありたり

050826-007-2

050826-009-001

050826-016-001

<四方の風だより>


 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを -西行

山家集の夏の終りに近く「松風如水といふことを、北白河なる所にて人々よみし、また水聲秋ありといふことを重ねけるに」との詞書が添えられている。

台風一過の昨日から今日、爽やかな風が吹き清朗な蒼空が広がっていた。
残暑は厳しく高温だが、強風が湿気を一掃してくれたから不快感はそれほどでもない。
こんな日は温泉銭湯へでも足を伸ばして、凝り固まった首の辺りや腰に溜まった疲労をほぐし去ってしまいたいものだが‥‥。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 26, 2005

炎天の下を何処へゆく

050826-012-001

050826-026-001

050826-022-001

<四方の風だより>

幸いにも台風11号は近畿圏からは逸れて殆ど影響なく、
昨夜のDance-Cafeは無事開催することができた。
彫刻家の栄利秋さん、演出家の熊本一さんもわざわざのご到来。
おなじみのパフォーマー、デカルコ・マリィ君も顔を出してくれた。
9月中旬の滋賀県近代美術館での個展準備に忙しいはずの中原喜郎氏も。
氏の展覧会では9月18日に我々も昨年につづいてパフォーマンスを行なう予定だ。

今回、オブジェを置いたことで会場としての6m.四方の狭い空間がどう変わったか。
Dance-Performanceとの影響関係はどうだったか。
フリートークのなかでもいろいろと感想や意見が出たが、
これらの問題についてはなお検証したうえであらためて触れてみたい。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 25, 2005

しぐるるや石をきざんで仏となす

041219-023-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<身体・表象> -9

<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ-2>

今宵は、三ヶ月ぶりの「四方館ダンス・カフェ」の第二夜である。
題して「Objetのある風景のなかで」
二ヶ月に一度くらいのペースで四、五回かさねてみたいと思っていたが、少しばかり長い間合いとなってしまった。
その三ヶ月余りのあいだに、私自身の頭のなかの交通整理はいくらかは進んだように思える。論理的明晰な頭脳とはほど遠いから歩みも鈍く、交通整理とはいったものの理路整然とは少しもならないのだが、なにやら煮詰まってきているとの感がする。ここを突破すれば視界は意外にひらけるのだろうと思われもするが、理論と実践は別次のことだし、私たちの世界は実践の場にしか価値はない。
さて、今宵の会-即興によるDance-PerformanceとFree-Talkの一夜は、オブジェと競演することとなったが、はたしてどんなことになるのだろうか。

以下は前掲載につづく菅谷規矩雄の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約の後半部分である。

13、用語について
このノートの主題は<構成力としてのリズム>を論ずること。
a、音-音節
b、拍-等時拍。無音の拍=休止を含む
c、小節-句
d、律-定型化された句、さらには行
e、行-リズム構成のマキシマム
f、篇-作品、短歌ならば一首
14、休止とはなにか
<休止が群団化の標識>であることを、時枝は指摘したが、
詩的リズムの構成にあっては、この休止が長短=二様のあらわれかたをすること
ハマノ(-)マサゴト(-)ゴエモンガ(-)
この十二の音節は、次の3・4・5音パターンとのあいだに、無音の拍=休止(-)を含むことを必須としている。
15、ゼロ記号
時枝も三浦つとむも、音数=拍数と前提したまま、<休止>を<無音の拍>として位置づけていない。
他方で構文論においては<ゼロ記号の陳述>とい概念を提起し、言語過程説の基幹に据えたにもかかわらず、リズム論においてそれと対応すべき<休止>の理論化に及んでいない。
16、加速の構造 & 17、複合 
タカイ ヤマカラ タニソコ ミレバ ウリヤ ナスビノ ハナザカリ
3・4・4・3・3・4と、最初の三音節を基準として、次の四音節のテンポは加速化されるが、それと同時に、日本語本来の等時拍を保持しようとする潜在力=規範性に対する圧迫でもある。この圧迫に対して生じる抵抗は、後続の小節のみならず、先行の小節にも反作用を及ぼさずにはいない。その結果、最初の小節に無音として潜在していた休止-モティーフ=発語のインパクトとしての無言-を拍として顕在化させる。
最後の音節-ハナザカリ‥‥の五音は、やはり同様に加速の傾向を含むが、しかし、それまでの小節群の規則性-ここでは4拍子、に対する矛盾をなす。
かくして、ハナザカリの五音は、基準テンポの加速の最大値を含むとともに、リズム単位=小節の複合・拡大をともなって、はじめい構成上固有の位置をうる。
このような複合小節-時価としては2小節の長さを含むが、構成上は分割し得ない単位、の成立こそ、日本語の詩的リズムにおいて主要な特質をなす。
18、減速
加速のピークは、当然、行末=休止の直前ということになる。 カとリの間に存在し、最後のリはむしろ休止に向かって減速の支配下に入るものと暗示されている。
/○ウリヤ/ナスビノ/ハナザカ/リ○○○/
 <加速>-―――――――――<減速>休止
行の構成力は、加速に対する反作用のあらわれである休止=無音の拍に求められる。
休止は、減速の作用を内包している。
19、上句と下句
20、歌謡の定型-行の転換
隆達節のように、七七七五の近世歌謡の定型-3・4・4・3/3・4・5‥‥の音構成は、それぞれ4拍子4小節からなる二つの行、8小節32拍の等時性とみなされる。
後半末尾の五音節は、3拍分の休止を含む2小節=8拍からなる複合小節であり、3拍分の休止には終止の機能が与えられている。
21、二部構成・三部構成
室町期の歌謡に、七・七・七・七(五)の型が多くみられるのは、短歌との対応と分岐の過渡的な状態が暗示されている。
短歌-五・七・五・七・七
歌謡-七・七・七・七(五)
本来、三部構成としの歌謡として発生した短歌が、二部構成へと強化されてゆくにしたがって、
初句五音の機能が無化されてゆき、ついには四句二部構成の作品としての固有の構成原理が求められたのである。
22、終止
○ハマノ/マサゴト/ゴエモンガ○○○/
○ウタニ/ノコシタ/ヌスットノ○○○/
○タネハ/ツキマジ/シ・チ・リ・ガ・ハ・マ/
行の固有性としては、3・4・5音における複合小節は加速のピークをなす-と同時に、5音=8拍の複合小節は、基準テンポに対する原則のマキシマムをなす。
シチリガハマの6音、いわゆる字あまりは、七五構成の行末を、より終止的に減速せしめ、それによって三行ひとまとまりとして完結せしめる。
23、「若菜集」における結句
七五調は、それ自体に終止を外化する定型性を有してはいない。
したがって七五調の長詩は、本来無構成的で、調子にのったら止まるところを知らないという条件を負っている。
島崎藤村は「若菜集」において、その作品或はストローフの終わりに7・7音節をもって終止の方法を際立たせている。しかもその殆どは、3・4音構成である。
しかし、この型を、古代の長歌における終止に関連づけるべきではなく、藤村の方法は新古今或は古今集以前には遡れず、短歌的なるものに類する。
24、<風の又三郎>-シンコペーション
現代にいたる近代詩人のなかで、詩的リズムの定型性に徹底した自覚を貫いたのは宮沢賢治だろう。
  どつどど どどうど どどうど どどう -8・7音の16拍
  ああまいりんごも吹きとばせ -8・5音の16拍
  すつぱいりんごも吹きとばせ -8・5音の16拍
  どつどど どどうど どどうど どどう -8・7音の16拍
日本語のリズム定型が、七七と七五の行の本源的な等時性を有し、本来は十五の音節と一つの無音の拍=休止を行とする単位でありうることを暗示している。
リズムに関するかぎり、賢治の到達したピークは、この歌や「北守将軍と三人兄弟の医者」の語りが示しているように、七五音律の完全な口語化にあったといえよう。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 24, 2005

是をささげ鉄鉢の日ざかり

050512-018-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<身体・表象> -8

<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ-1>

二十数年ぶりになるが一ヶ月あまり前から、菅谷規矩雄の表題の書を繰り返し読みながら、メモをとる作業をしている。
日本語としての言語表現たる詩のリズム論が、なにゆえ<身体・表象>を考えるに必然となるのかという疑問については、いまのところ確たることは言い難いのだが、私の仕事=身体表現の世界をじかにいくらかでもご存知の人ならば、なんとはなく心あたるものを感じていただけるかもしれない。
さしあたり菅谷の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約する。

-吉本隆明による跋から-
私には、和語の詩の韻律の問題は、音数律の構成的な美に帰するよりほか、すべがないようにおもわれた。それと同時に、言語の韻律を指示性の根源にあるもの、と定義するほかなかった。
本書において菅谷規矩雄は、この問題を、わたしなどが打ち捨てたところから遥かに遠くまで引っぱってゆくのに成功している。
菅谷がまったくあたらしく前提したのは、
等時拍である和語の言語的な特性と、詩歌の韻律としてあらわれるばあいの、音数律の時間的な長短との矛盾は、<無音の拍>で切り抜けられること、意味の時間的な流れには、<テンポの変化>が微妙だが存在することなどである。
この二つの前提があれば、音数律の長短は、ほぼ同一の時間性に収斂するすることが説明できるし、また詩歌の終りは、徐々にゆるいテンポによって大休止にいたる過程として説明しうる。
この着想は、たぶん詩歌を<韻律の意味化>と解する限り画期的なものであり、菅谷は詩の韻律の問題を、かつて何人もなしえなかったところまで普遍化したのである。

一、詩的リズム
01、定義について
リズムとは<時価の一定の組合せが、周期的にくりかえされることである>
言語-詩のリズムもまた、本質的に原理は時間性にもとめられるべきものであるが、
時価とはなにか、反覆はリズムの本質であるか-というふたつの反問を、根源的な問いとして見失わないこと。
02、時間-言語における
言語-詩における時間とは<観念-意識>としての時間性
03、構成力
リズムは二重の時間性からなる構造である-この二重性とは、
拍の等時的反覆と、それにたいする非等時的傾向性との相互作用が
表現-構造としてのリズムをうみだす
ふたつの相反する作用の矛盾が、その臨界点において、リズムの構成力たりえているということ。
04、等時的拍音
日本語のリズム特性は、強弱アクセントでも、長・短音節の組合せでもなく、等時拍であること。
05、群団化の標識-時枝説
リズム形式の群団化-音声の休止・間-構文の切れ目=文節と一致する
06、拍と音
初めの定義にもどって、反覆はリズムの基本的原理であるか。
07、五七五七七
岡井隆の直観-短歌形式の五七五七七の句分けは、明らかな長短リズムというよりは、等時的リズムを五回反覆したのに近いのではないか。
08、テンポの変化
音数=拍数の前提を保持しつつ、岡井隆の直観を裏付けようとするなら、<テンポの変化>を導入すればよいはずである。
 狭井川よ 雲立ちわたり
 畝傍山 木の葉さやぎぬ
  風吹かむとす
狭井川よ-という初句の五音にたいして、霞立ちわたり-の七音は、より早いテンポで読まれるのではないか。三句と四句においても同様に。-そして最後の七音は逆にもっとゆるいテンポで。
09、無音の拍
日本語の詩的リズムにおいて、休止-無音の拍とテンポの変化は、もっとも本質的な構成力である。
10、変速-上限と下限
この変化の規則性-恒常的なる基準テンポと、それに対する変速の上限および下限が、想定されるべきである。
11、弾性化
詩的リズムの構成においては、各音節はいわば弾性化される。
-等時的拍音が、本来の時価の動態化=可変性へとひきよせられる。
その変化の許容度は、最小のリズム単位=二音節と、最大のそれ=五音節とが、1:1の時間比をなすと想定した場合からはかられる。
言いかえれば、2音節、3音節、4音節、5音節のいずれもが、1:1:1:1の時間比をなそうとする傾向を有するのである。
12、加速
-ツキモ、オボロニ、シラウオノ‥‥のごとく、3・4・5という規則的な音数増加が美的でありうるのは、
テンポの加速による快感に起因している。
-浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種は尽きざる七里ガ浜‥‥
と、3・4・5の加速パターンが周期的に反覆されていくのだが、
a-このパターンは、3・4・5・6‥‥とさらに音数を増加させないのか
b-三回目のパターンはなぜ、七里ガ浜-と6音になるのか
aの解明は、日本語の定型音律について、七五調がなぜ優勢にいたったかの解明につながり、
bに答えるは、リズムは作品の構成にいかなる作用をおよぼすか、作品の構成力としてどこまで機能しうるか-という究極的な問いにつながりうる。

――――――以下つづく

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 23, 2005

果てもない旅のつくつく法師

041219-049-1
Information「四方館 Dance Cafe」


<四方の風だより>

母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ


淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう


         ――中原中也「子守唄よ」より


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 22, 2005

膝にとんぼが、おのれを鞭うつ

041219-053-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<古今東西-書畫往還> 

<スコットランドの民族衣装、
    キルトとタータンは意外に新しい>

高橋哲雄・著「スコットランド 歴史を歩く」を読んでいると、あの民族衣装、男性がはく膝丈のヒダつきスカートのキルトも、氏族ごとに色や柄がちがうといわれる格子縞模様のクラン・タータンも、そんなに歴史を遡るものではなく、意外と新しい風俗だとあって、歴史や伝統の捏造とはいわないまでも、伝統性などというものは遡って虚構化されていくものだと、あらためて実例をもって気づかされる。

著者によれば、スコットランドは、ハイランド(高地地方)とロウランド(低地地方)の二つの異質の地域がこの王国のなかに居心地悪く同居しつづけてきた。ハイランドはスコットランドの北ないし北西に広がる高地地方と島嶼部からなる。深い谷と入江で分断され、人口密度は低く、ほとんど都市や産業らしきものはない。牛と羊の高地放牧を主な生業としてきた。18世紀まではケルト系のゲール語圏で、独特の氏族制が残っていた。いわば「化外の地」であって、わずかに古い城砦や石の十字架を見るにとどまる。
ロウランドは都市化の進んだ中央低地-エディンバラやグラスゴウがある-と東部海岸平野、それに南部の丘陵地帯を合わせた地域。地味、気候にめぐまれて早くから農業が行なわれ、産業化も進み、所得水準も相対的に高い。自治都市、王宮、司教座聖堂、修道院、裁判所、大学等はすべてロウランドに集中した。

キルトの場合、18世紀の初め頃に、ハイランド地方の森の作業場で、必要に迫られ生れた作業着にすぎないものが、19世紀初めの民族衣装ブームのなかで上・中流階級に急速にひろまって古来からの民族衣装へと昇格していったというのが事の真相らしい。
クラン・タータンとなるとさらに時代は新しく、ハイランド地方における氏族制度は1746年のジャコバイトの乱の敗北で解体されていくが、その頃でも氏族別のタータン柄というのは生れていなかったようで、ところが1822年のイングランド国王ジョージ4世がエディンバラ行幸したさいには、ハイランドだけでなくロウランドの貴族や郷士たちまでもが「わが家のタータン柄」と称してクラン・タータンを身につけていたという。

こうした<伝統が創られる>背景には、イングランド地方のイギリス国王とスコットランド地方の歴史的な長いあいだの相克から、統合・征服化されていくにしたがって、かえって征服される側=スコットランド地方の物語化、ロマン化が紡ぎ出されていくということがあるようだ。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 21, 2005

ふたたびここに草もしげるまま

050512-001-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<世間虚仮>

<小泉郵政改革=アメリカ資本が狙う郵貯マネー>

兵庫から東京へと鞍替え刺客の小池ゆり子にはじまって、カリスマ主婦の藤野真紀子、財務官僚の片山さつき、国際政治学者の猪口邦子、そしてホリエモンこと堀江貴文と、劇場型総選挙の小泉流パフォーマンスは反乱組を蹴散らかさんばかりの勢いでヒートアップしているが、こんなくだらなくも危うい選挙戦術に国民の大多数がのせられ取り込まれていくとすれば、自民党をぶっ壊すどころか、日本の近未来そのものが小泉ひとりにぶっ壊されてしまう危険がおおいに潜んでいることだろう。

日経BPに立花隆の「メディアソシオ・ポリティクス」という連載コーナーがあるが、その最新記事が「日本経済までぶっ壊す小泉改革の幻想と実態」と題され、小泉改革の実態とその危険性について論評している。
なかでも傾聴に値するのは、金融機関のあの莫大な不良債権処理とは、永年にわたるゼロ金利政策で本来なら国民が取得すべき富=預貯金の利息を国家あげて収奪したもので、結果として購われたのだという主張で、小泉内閣の経済政策に一顧だにしないひたすら改革ありきを痛罵している。
さらに前回の連載「海外メディアが伝えた小泉・郵政解散劇の評判」のなかで、小泉はなぜかくも郵政改革一辺倒かといえば、アメリカからの強いプレッシャーゆえであり、アメリカ政府が毎年、日本政府に突きつけてくる改革要求リストのトップにあるというのが最大の背景となっているとしている。350兆円という郵貯マネーをグローバルな国際金融市場に開放させ外国資本の草刈場とさせること、この一点だけがアメリカの関心事であり狙いなのだというわけである。
グローバリズムがすでに抗いがたい世界の潮流だとしても、やみくもにそれに妄信・追随し、改革ありきの小泉の政治姿勢は建設的理論や計画性のない破壊衝動にかぎりなく均しいのではないか。小泉に追随・推進する竹中平蔵はじめ今回刺客に立った者たちも、米国型の自由主義市場経済を信奉するオプティミストばかりと思われるが如何。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 20, 2005

入日まともに人の家焼けてくづれぬ

041219-048-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<言の葉の記>

<秋の色>

仲秋の名月はまだ先のことだが、昨夜、ふと夜空を見上げると大きく月は満ちていた。
残暑のなかにも秋の色、しのびよる気配が其処此処に感じられ垣間見られるようになった。
秋色の候である。
風鈴は夏の風物詩だが、夕暮どきの風のそよぎに鳴る音を聴けば、秋はもうそこまできていると告げているようにも思われる。
幼な児を迎えにいく保育園の傍で聴こえてくる樹々の葉陰で鳴く雀の声などにも、なぜだか秋の気配を感じているわたしが居る。
青空にたなびく雲のすがたにも秋の気配は満ちている。まだまだ暑いとはいえ炎天といい酷暑というには少しばかり違和があり、直射のなかにさえ仄かなやさしさも感じられる。
そういえば秋光とはこういうものかもしれない。
秋色、秋の色、秋光はもちろん季語でもあるが、同様に、秋容、秋望、秋景色などもある。
いずれも秋の気配であり、風光であり、気分である。

十干十二支をひとめぐりして、この夏わたしは満一歳の赤児となった。
年初から春へ、春から夏へと、なぜだかわからないけれど、貪欲な想いに衝き動かされるような、或いはなにやらあらたな憑きものを我知らず求めているような、そんな感覚を抱きつつずっと日々をおくっている気がする。
満一歳の赤児なら、もうみずから二本の足で立ってよちよちと歩きださねばならない頃なのだが‥‥。
さて。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 19, 2005

まいにちはだかでてふやとんぼや

041219-003-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<風聞往来>

<最下位球団楽天の不思議?な快事>

昨年の近鉄・オリックス合併問題から端を発して史上初のスト騒ぎやらの果てに誕生したパリーグ新球団の楽天は、仙台市民のみならず東北一円からファンを集めているが、開幕以来ずっと低空飛行をつづけ、8月に入ってからは7日のソフトバンク戦に5:3で勝ったのみで、18日現在、なんと1勝13敗という悲惨な成績で、通算32勝77敗1分で勝率0.294と3割にも満たない。こんな不成績では多くの俄かファンもさぞ落胆し、ずいぶんと球場から足も遠のいたことだろうと思いきや、どっこいそうでもないらしい。
些か吃驚するようなニュースだが「球団経営はおおむねトントン-楽天」の見出しが躍っているのである。三木谷オーナー曰く、参入初年度たる今年の年間収支はほぼ均衡となる見通しだというのだ。
パリーグの球団は軒並みに万年大幅赤字が常態できたというのに、一年目からほぼ収支トントンとは驚き桃の木ではないか。プラス要因はいくらも考えつこうがそれにしても画期的なことではある。記事は球界に一石を投じるビジネスモデルを示したといえそうだ、としているが至極もっともな話で、最終的な年度収支が出たうえで、ほかの5球団も他山の石と見習わずにはすむまい。
それにしても、古くは高橋ユニオンズという弱小チームもあったけれど、これを髣髴させるような低勝率の球団が、マネージメントにおいては他の5球団を圧するという不思議な事態は、素人目からみても快事であり面白い話題ではある。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

August 17, 2005

夕蝉のなくことも逢ひたいばつかり

041219-056-2
  Information「四方館 Dance Cafe」

<世間虚仮>

<だれのため、なんのための健康診断、大半が予防に根拠なし>

小泉流劇場、刺客選挙に煽られっぱなしで報道関係は総選挙の話題一色に塗りつぶされているが、
14日(日)の毎日朝刊のトップ記事は「健康診断:主要16検査項目、効果に疑問 予防に根拠なし」との厚労省研究班が出した報告書を据えていた。
一ヶ月ほど前の7月17日にも健康診断で行われる「胸部X腺の間接撮影が有効性疑問と判断され、厚労省で廃止検討の構え」との報道があったので気にかけていたところ、今回の総括的な報告となったようである。
健診検査項目の主要24項目のうち16項目に効果が疑問とされ予防に根拠なしとされているのだから、見方によっては恐るべき内容ともいえるものだ。
いくつか例を挙げれば、
胸部X腺については、肺がん発見に有効との証拠なし
心電図測定については、虚血性心疾患の発見には無意味
尿検査については、糖尿病発見には不適切。腎不全などを防ぐ証拠はない
血球数などについては、有効性を示唆する十分な証拠はない
との報告である。

法によって義務づけられている企業関係の年一回の健康診断対象者が5900万人、加えて市町村などで40歳以上の受診対象者2900万人。成人の大半が受ける健診の実施費用は総額で年間9000億円近くになるというから、そもそもさしたる科学的根拠もないままに何十年ものあいだ、:健康診断という美名の川に大金を垂れ流してきたわけだ。
この報告により見直し論議は高まりそうだというが、日本医師会や医療機器関連業界等の猛反発は目に見えているし、大幅見直しの実施に至る道程はまだ緒についたばかりで、山あり谷ありの長い道のりがつづくのだろう。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 16, 2005

燃ゆる火の、雨ふらしめと燃えさかる

4582765084


<古今東西-書畫往還>

<サウンドスケープ論-「平安京 音の宇宙」>

サウンドスケープ-Soundscape-というあまり耳慣れない言葉がある。
音のサウンド-sound-と、~の眺めや景を意味する接尾語であるスケープ-scape-の複合語で、カナダの現代音楽家R.・マリー・シェーファーによって60年代に提唱されたもので、日本語でいうならば「音の風景」となろうか。音の環境をあらゆる側面から総合的に捉えなおす視点から文化や環境デザインなど重層的な研究や実践が取り組まれているようだ。

そのサウンドスケープに関しての著名な書とされる「平安京 音の宇宙」という書を読んでみた。
著者中川真氏は現在大阪市立大学大学院教授であるが、バリ島の民族音楽「ガムラン」の演奏グループ「マルガ・サリ」の代表であり、80年代以降の日本でのガムラン音楽ブームの火付役でもある。
本書は、古代京都の原風景の香りを残すという下鴨神社の糺森の音風景に聴き入ることからはじまり、平安朝文学、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」を音の環境や風景から読み解いてゆくとどんな世界が展開し、どんな特色が見出されてくるかを紡ぎだしていく。
「今昔物語」にひそむ鬼の声や闇のなかの音、あるいは中世都市民たちのカオスというべき「永長の大田楽」のざわめき、静謐の侘び寂びへと徹した利休の茶の世界の音、さらには空也・一遍の踊念仏から盆踊りへとつらなる音風景の変容など、著者の軽快なフットワークは文学・美術・建築・都市環境・祭礼・日常生活その他のあいだを駆けめぐる。

著者は中世古都の音環境を論じつつ、「中世の音楽思想家は、管絃や声明の実現を単なる音現象としてではなく、方位や色彩などと関連しながら世界が開示される、全体的な経験の場として捉えようとしていた」と書く。京の梵鐘の配置そのものが、中世の「コスモロジー」を表現しているという「仮説」について容易に立証できる術もないだろうが、こういった仮説が著者自身の深く知るインドネシアの音環境の興味つきないフィールドワークとも通底しているところに、著者の壮大な音響コスモロジー解明を正統づけるような展望があるのだろう。

Information「四方館 Dance Cafe」

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

August 15, 2005

日ざかりの千人針の一針づつ

041219-018-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<日々余話>

<戦後60年をどう読むか>

終戦紀念の前日、14日付の毎日新聞は、書評欄-今週の本棚-で、「あの戦争から60年」と題して、丸谷才一、五百旗頭真、田中優子の三氏を水先案内として、戦後60年の節目にあの時代をいかに問い直すべきかを考えるよすがとしての読書案内を各々に寄稿させているが、是をなかなか骨太の良企画として評価したい。
なかでも丸谷才一氏選による書群構成とその文章は、私などにとっては刺激的で啓発されるところ大きいものとみえる。
氏が紹介する書群をそのまま列挙すれば、
1-「満州事変」臼井勝美著(中公新書)
2-「真珠湾の日」半藤一利著(文春文庫)
3-「暗黒日記」清沢冽著(岩波文庫)
4-「昭和二十年 1~11」鳥居民著(草思社)
5-「原爆を投下する日まで日本を降伏させるな」鳥居民著(草思社)
6-「靖国問題」高橋哲哉著(ちくま新書)
7-「野火」大岡昇平著(新潮文庫)
8-「父と暮らせば」井上ひさし著(新潮文庫)
9-「ねじまき鳥クロニクル 1~3」村上春樹著(新潮文庫)
となっているが、
冒頭「日付のはっきりしている最初の思い出は1931年9月19日の号外だ。六歳の私は「戦争だ戦争だ」と浮かれる声を聞いて、あゝ厭なことだと思った。言うまでもなく、この前夜にはじまる満州事変があの大戦争の第一章。それでわたしはこの紛争に自分史的と歴史的の二重の意味で関心がある。」
と書き出しているように、氏はこれらの書を自分史と重ね合わせながら巧みに紹介していく、その二重奏的な運びが氏の描くあの時代への全体像を浮かび上がらせてくれるようで、なかなかに説得力あるものとなっているように思われる。
未見の人にぜひ一読されてはと薦めたい。

今月の購入本
 高橋哲雄「スコットランド 歴史を歩く」岩波新書
 高村薫「半眼訥訥」文春文庫
 高田里恵子「グロテスクな教養」ちくま新書
 毎日新聞社編「魅惑の仏像十二神将-奈良新薬師寺」
 白川静「初期万葉論」中公文庫
 五来重「高野聖 増補」角川選書
 高村薫「レディ・ジョーカー 上・下」毎日新聞社
図書館からの借本
 菅谷規矩雄「死をめぐるトリロジイ」思潮社
 菅谷規矩雄「詩的リズム 音数律に関するノート」大和書房-再び

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 14, 2005

ゆふ風の夏草のそよぐさへ

050512-009-1
   Information「四方館 Dance Cafe」

<言の葉の記>

<盂蘭盆会>

お盆のことを正確には盂蘭盆会(ウラボンエ)というのはよく知られたことだろうが、
もとはといえば、盂蘭盆経(ウラボンキョウ)なるお経があり、この経典に由来する法要が盂蘭盆会なのだということは寡聞にして知らなかった。
岩波の仏教辞典によれば、この経の内容は釈迦十代弟子目連の救母説話となっており、目連の死んだ母親が餓鬼世界に墜ちて苦しんでいたが、仏の教えにしたがって旧暦の7月15日、僧たちが自恣-(自ら罪を告白懺悔すること)-し、布施供物をしたところ、その功徳で母親は救われたという故事だそうで、この故事にちなんで祖霊を死後の苦悩世界より救済する仏事として先祖供養の盂蘭盆会が慣習化したのだという。
日本では606年(推古14)に行なわれた記録が残されているというからとにかく古い。
盂蘭盆会は、歓喜会(カンギエ)、魂祭(タママツリ)とも別称され、これに類する盆踊りの習俗も、平安時代の空也の踊躍念仏や鎌倉時代の一遍の念仏踊りを経て、しだいにひろまり中世以後定着していったようだ。

私には先祖という観念はないにひとしいというのが実感に近いだろうが、身近な死者として父母の存在はとうてい無視し得ない。
また、この身に授けた彼らの慈愛については量りがたい固有のものを実感している。
自分自身の生の日々が、すでに死に向かって生きていると自覚せざるをえない昨今であれば、盆や正月ともなれば、彼岸の父や母をどうしてもより親しいものにさせることだ。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 12, 2005

お盆の御飯ふつくら炊けた

050512-004-1
Information「四方館 Dance Cafe」

<風聞往来>

<河内音頭はいいが‥‥、菊水丸は?>

「河内音頭ロボット、万博デビューへ 菊水丸さんと共演」という記事があった。
大阪府下の八尾はかなりの技術力を有する中小零細企業があつまるものづくりの街であることは、私もひょんな経緯からいくつかの会社をとおして承知しているが、この記事によると金型メーカーなどが中心となって、ロボットに河内音頭を演奏させようと製造に取り組んで、「河内音頭ロボット」の完成となったらしい。八尾の中小企業連の精密な高い技術力が、愛知万博でこのロボットをもって紹介されることは大変悦ばしいことで大いに賛成だが、新聞詠みの家元こと河内家菊水丸とコンビを組んで話題性を盛り上げなければならないのが、菊水丸嫌いの私にはなんとも苦々しく言いがかりのひとつもつけたくなる。

菊水丸嫌いといったがけっして感情論なんかではない。何回か彼の新聞詠みとやらの音頭を聞いたことがあるが、とにかく下手くそも下手くそ、リズム音痴なのかノリは悪いしコトバはよく聞き取れぬ、肝心の風刺もヒネリもなくストレートで、いいところなくとても音頭取りの芸とはいい難い代物である。なぜ彼がマスコミをとおして全国版になるまでうけたかといえば、今をときめく小泉流にも似て、単純明快な分かりやすさであったろうか。そんな安物芸がこの十数年まったく練れもせず、夏ともなると稼ぎ時シーズン到来と全国各地で引く手数多に出没なさる。
とにかく夏の風物詩として、私にとって不愉快な極みのひとつが、この菊水丸クンのご活躍なのだが‥‥。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 11, 2005

はだかいつぱいの月あかり

041219-001-1
  Information「四方館 Dance Cafe」

<身体・表象> -7

<心-こころ-凝ること>

異常と呼ばれ、病める心というものが、正常な健やかな心と思われているものと、どれほどの隔たりがあるのか、あるいはどんな壁に隔てられているのかということについて、精神病理など門外漢の私などには言うべきほどのことはなにもないのだが、ただ、自分のまだ幼い子どものその成長のなかで、時に垣間見せられる不可解な無意識の反応や挙動なりを考えてみると、正常と異常の心的領域のあいだには、本来比較的容易に往来可能な相互浸透的な帯状ともなった領域があるのではないかなどと思わされるのである。
人はだれでも無意識の裡に閉じ込められた異常な反応なり挙動が、自身に降りかかった出来事の緊迫性のなかで、突然顕わになることは稀にだとしてもありうるだろう。
私自身にだって、長い人生のなかで、少なくとも「我れを失った-心的危機状態」に陥ったことは幾度かあったように思う。その状態を脱してのちに、アイデンティティの危機とはこういうものだったかと思い返されたりしたものである。

心-こころ-とは、意識も無意識も含めてだが、凝る-こる-に通じているものだろう。
白川静の常用字解によれば、心という字は象形文字であり、心臓の形をあらわしている。さらに和語としての「こころ」は元来「凝り固まるところ」の意味である。
ならば、心-凝り固まるところ-のその凝り型が過ぎたれば、異常ともみえようし、病めるともみえよう。その逆に、凝り型が少なれば溶けるに似て心あらずとなり、これまた異常とも病める心ともなる。
その心-こころ-の凝り型において、個々に顕れるありようはそれぞれ固有の刻印を帯びていて、万能のものさしなどある筈もなく、つねに手探りで他者の心へと向かわねばならないが、ここにひとつの参考事例として、以前に読んだドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」の終章-エピローグ-から、自らを省みて「わたしの世界のことば」として列挙しているものを長くなるが要約紹介しておこう。

-D.ウイリアムズ「自閉症だったわたしへ」エピーローグより要約-
1; 物を二つずつペアにすること、あるいは同じようなもの同士をグループ分けすること
  -物同士の関係、つながりがあることの確認。
  -物のつながりが可能ならば、「世の中」とのつながりを感じ、受け容れることへの希望。
2; 物やシンボルを整理したり秩序立てたりすること
  -物がどこかに属していることの確認。「世の中」の秩序を感じとることへのアプローチ。
  -自分の特別な、決定的な居場所が「世の中」にあることへの希望、いつの日か感じられる。
3; 模様や図形、パターン
  -連続性を意味する。同じ状態でいられることは、安堵感を与えてくれる。
  -何かを囲むような丸や境界線は、自分の外部、「世の中」からの侵入を防ぐための防波堤。
4; 激しいまばたきの繰り返し
  -物事の速度を弛め、周囲をより遠ざけることで、現実感は薄らぎ、恐怖心も和らぐ。
5; 明かりをつけたり消したりすること
  -⒋に同じ。カチカチとスイッチの音が、感覚的に快く、安らぎさえ感じる。
  -パターン化されているほど、予測がつきやすいほど、安堵感は強まる。
6; 繰り返し物を落とすこと
  -自由を意味する。自由への逃走が可能であることを示す。
7; 跳び下りること
  -6に同じ。自由に向かって逃げるといえ概念を、体で確認させてくれるものでもある。
8; 片足ずつに体重をかけて、体を揺らすこと
  -自分と「世の中」との間には、つねに不吉な予感がする暗闇が口を開けている。
  -この暗闇を飛び越えて向こう側へ行きたい衝動に、跳ぶ前のウォーミングアップのように。
  -しかし、決してその恐怖を克服して跳ぶことはできなかった‥‥。
9; 体を揺らすこと、自分の手を握ること、頭を打ちつけること、物をたたくこと、自分の顎をたたくこと
  -自分を解放してやすらぎを得るため。不安や緊張を緩和し、恐怖を和らげる。
  -動きが激しいほど、闘っている不安や緊張も強い。
10; 頭を打ちつけること
  -心が金切り声を上げている時、その緊張と闘い、頭に物理的なリズムを与えるために行う。
11; 物自体を見ずに、その向こう側を透視するように見ること、何か他のものを見ているように見えること
  -周りで起こっている事を受け容れるため、間接的なものに換え、恐怖心を取り除こうとする。
  -物事を受け容れるのに唯一の方法。自動操縦的な手法。
12; 笑い
  -恐怖、緊張、不安などを解放する手段。
13; 手をたたくこと
  -喜びの表現だったり、終りを意味する表現だったり。
14; 宙を見つめたり物の向こう側をじっと見つめること、ものを回したり自分がくるくる回ること、同じ所をぐるぐると走り回ること
  -自分をリラックスさせたり、あるもどかしさをやり過ごしたり、
  -或は、絶望した時に陥る、精神の上での自殺のようなものでもありうる。
15; 紙を破くこと
  -近しさや親しさからくる脅威を払いのけようとする、象徴的な行為。
16; ガラスを割ること
  -自分と他人との間にそびえる眼に見えない壁を打ち砕こうとする、象徴的な行為。
17; きれいな色の物や光る物に対する愛着
  -自分を落ち着かせたり、リラックスさせたりするための道具。
  -これらは各々ある人たちを特別に思う気持ちが込められてもいる。
18; 自分を傷つけること、他の人をとまどわせるような行為をわざとすること
  -自分、或は他人が、どの程度現実のものであるのか試そうとしている。
19; 故意のお漏らし
  -私はこの行為を卒業した時に、自分の殻から出ようとする勇気が、再び湧いてきたのを覚えている。
  -自分の周りを「自分の世界」の一部にしてゆくという、象徴的な行為。
20; 物理的な接触で、可能なもの、安心していられるもの
  -顔に触れられることは脅威だが、腕や髪に触れられるのはある快さもあり、安心でいられる場合がある。
  -自分がダメな時は、あらゆる接触が苦痛となるが‥‥。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 10, 2005

野分あしたどこかで家を建てる音

041219-042-1
Information「四方館 Dance Cafe」


<古今東西-書畫往還>

<懐かしい日々の記録-「輝いた日々」>

先日、日経大阪PR社から出版された「輝いた日々」という書が送られてきた。
著者は知人の川島慶造氏。
「1960年代参加型市民運動より現代を問う」と、
些か大時代な感の否めぬ副題がついている。
帯には、東大名誉教授、篠原一氏の
「第二の近代と呼ばれる21世紀に、
私たち市民はどんな課題に取り組まなければならないのか。
‘60年代に行動を起こした川島さんの足跡を記した、本書は明日への示唆を与えてくれる。」
と推薦の弁があるが、これまた隔靴掻痒、的を得たとはいえそうにないコピーだ。
著者の川島氏は1933年生まれ。若い頃、社青同(日本社会主義青年同盟)に身を投じ、
大阪市内の港区において公営住宅建設運動や住民主体のコミュニティづくりに、
住民の立場から献身的に行動し、たしかに一定の実効をあげた運動の旗振り役を任じた。
60年代から70年代、地方自治と住民のあいだのパイプ役として参加型地域住民運動を盛り上げたパイオニア的存在だというわけである。

'61(S36)年に大阪に襲来した第二室戸台風の被災は、'50(S25)のジェーン台風による大水害の恐怖を喚起した。ジェーン台風の災禍に学び、土地区画整理事業による区内の盛り土工事と、湾岸河岸のすべての防潮堤が3.5メートルへと高く築かれ、もう二度と水害騒ぎは起こらぬと安心していた市当局も港区住民も、この浸水騒ぎで慌てふためいた。当時、池島地区に密集していた木造平屋の市営住宅はすべて床上浸水した。この被災から木造平屋の市営住宅建替問題が市当局と住民双方にとって急浮上してくるのである。
いわば状況として行政当局と住民側双方に建替問題という緊急なニーズは沸騰しつつあったわけで、つねに対立しがちな両者をいかに具体的に結びつけ、付け焼刃的な解決策に終らないようによりよいコミュニティ像を描き出しつつ、いかに実効をあげるかに腐心工夫し、住民運動的な展開をさせていくか。ここに氏の奮闘ぶりもひとつの要の役割を担ったようである。

惜しむらくは本書、あとがきをかねた終章を含め8章からなるが、各章において重複する部分が多く散見されることである。内容から推察するに、1章と終章はあらたに書き起こされたもののようだが、あとは60年代、70年代に各所に発表された報告記のようだが、同趣旨の文のため随処に重複箇所がでてくるのでいかにも煩瑣にみえる。
一書として出版するには労を惜しまず全面的な改稿をして体裁を保って欲しかったといわざるをえない。

一読者としては、1章における書き起こしのジェーン台風の水害描写が、55年も昔の幼い頃の記憶へとタイムスリップさせてくれ、懐かしく楽しめた。
私の場合は隣区の九条であったがやはり床上浸水し、一階の畳はすべてめくりあげ、一週間あまりは二階生活を余儀なくされたのだが、満6歳だった子ども心には不便きわまりないその日々も心ときめくほどに楽しく、あちらこちらに急場づくりの筏で往来する人々や、荷物や衣類を頭上に載せてハダカ同然で泥水のなかを歩く人々の姿など、さまざまな懐かしい風景を甦らせてくれた。
是、本書を読んだ功徳の最たるものである。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 08, 2005

夏山のトンネルからなんとながいながい汽車

041219-002-1
 Information<四方館 Dance Cafe>

<世間虚仮>

<狂信の徒と化した小泉純一郎>

衆議院解散となった直後の小泉首相の記者会見をテレビで見た。
相変わらず単純明快な口説だが悲壮感を漂わせたその表情は硬く内面の苦渋を覗わせる。
二日前に森前首相が記者団に囲まれて「変人を通り越している」と呆れ果てたように慨嘆していたが、
記者会見の小泉首相はもうそれどころではなく、
郵政解散だといい、国民に直接信を問うとする、その思い込み、自身の追い込み方はファナティックそのものではないかと見える。
その狂信性も4年前の自民党総裁選のように「自民党をぶっ壊す」という単純明快なスローガンとともに新鮮さと明るさに包まれ装われていた時は、国民的人気となって熱狂的に支持されたが、今回の解散総選挙はけっしてそうはいくまい。
この4年間で、彼のあまりに直線的なリーダーシップはすでに大きな疑問符が付されているにもかかわらず、猪突猛進するがごとく国民に信を問いたいとは異常としか言い難く、みずから危機感を募らせ非常時を生み出し世論を煽るような手法は、私には犯罪的でさえあるとみえるのだが。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

線路がひかるヤレコノドツコイシヨ

050512-015-1
 Information<四方館 Dance Cafe>

<世間虚仮>

<狂った夏。-郵政法案参院否決、衆院解散総選挙へ>

平成17(2005)年8月8日午後1時、テレビのどのチャンネルも国会中継をしている。
1時45分ごろ、採決の結果が出た。
賛成票108
反対票125
うち、自民議員の反対票22
郵政民営化法案が参議院で否決された。

不思議なことだが、この結果を受けて、まもなく小泉内閣は衆議院の解散を宣するだろう、とされる。
なお残暑厳しい暑い夏に、自民分裂か解体か、さらには政権交代劇が演じられるのか、
総選挙の熱い闘いが繰りひろげられる。
自民内部の造反劇という異例の騒ぎのなかで衆議院の可決をして以来、
異例は異例を呼び、すわ狂乱解散かと世間の耳目を集めてきた国会騒動は、
小泉首相のご乱心で全国民に新たな舵取りの判断が付託されることになる。

小泉純一郎はとうとう烏滸の人となった。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 07, 2005

雷遠く雨をこぼしてゐる草の葉

050512-002
「Dance Cafe-Sou-Mon 相聞」より 2005.05.12

<四方の風だより>

<四方館ダンスカフェのお知らせ>

二ヶ月に一度くらいのペースで、3回から4回重ねてみようと思っていたのだが、
会場との段取りやらで結局5月の第1回から三ヶ月ぶりの開催となるが、
悪名高い大阪市三セクの失敗作、新世界のフェスティバルゲートではじめた
「Dance-PerformanceとFree-Talkの一夜」とした
「四方館 Dance Cafe」の第二弾をご案内。

今回は題して「オブジェのある風景のなかで」
友人の彫刻家で高校の美術教師をしているK氏にオブジェ製作のプランニングをお願いした。
日時は8月25日(木)の午後7時から、
場所はフェスティバルゲート4階のCOCOROOMにて。
即興のダンスと演奏をご覧いただいたうえで、自由なトークをおたのしみいただこうという企画。
参加費はフリードリンク込みで1000円。

詳細は<コチラ>をご覧ください


<菅谷規矩雄の「詩的リズム」のこと>

菅谷規矩雄という詩人がいた。
1989年の大晦日の前夜、53歳の短い生涯を終えている。惜しまれる早世であったと思う。
昔、この人の詩集も一冊だけだが読んだことがあるはずだが、
それよりも記憶に鮮明に残るのは、「詩的リズム-音数律に関するノート」という正・続の二巻からなる日本語の詩の韻律に関して、等時拍的な音数律の視点からきわめて原理的にリズム論を展開した書で、著者は本書において、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」に触発され、詩の韻律の問題に的を絞って、日本語固有の等時拍的音数律に存するリズムとテンポの問題を原理的に解き明かし、欧米語や中国語・ハングル語とも異なる強弱アクセントのない特殊な言語構造の日本語における詩の韻律-リズム論をうちたてようとしたといえるだろう。

すでに絶版となっていて古書ともなれば版価より高価になったものしか手に入らないようなので、市の図書館から正続二冊借り受けて、二十数年ぶりにこの書にじっくりと対座してみた。7月初旬から貸出し二週間の期限を一度だけ延長できるので延べ四週間を手許に置いて、処々遠い記憶を甦らせながら通読したうえで、メモも取りはじめたものの予想外に手間どり作業は半端なままに返却となってしまったので、あらためて借り直し挑戦しなければならない。まことに読むべき書、なすべき課題はいつまでも尽きないものである。

本書を再度読み直したいと思ったのは、
これまで、われわれの身体表現の位相において、そのディテールについては「フォルム」としての視点からはかなり徹底して捉えてきたのだが、リズムの問題としては「場面におけるリズム」というように大きな構成のなかのリズムという視点でしか捉えきれておらず、ディテールにおけるリズム問題については曖昧なまま看過してきたのが実情といえる。
しかしこれでは方法論として、メソッドとしてやはり具体性に欠けると指摘されても致し方ないというもので、やはりディテールの基本的な成立レベルをリズムの問題からきちんと押さえるべきだと考えるようになったからである。
この課題、少し時間を要するだろうが、われわれなりに相応の解決をみるまで中心に据えていきたいものである。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 06, 2005

踊太鼓も澄んでくる月のまんまるな

980906-037
  「サンセットパーティのヤグラ風景」

<日々余話>

<盆踊りの音が聞こえる>

盆踊りの音が聞こえる。
そういえば今日の夕刻、近くの公園で盆踊りのヤグラが組まれ提灯がいっぱいに張りめくらされていた。
どうやら今夜と明夜の二日間、地域の盆踊り大会があるらしい。
ひとしきり祭りのシーズンが終ると、8月末近くまでは地域のあちこちで盆踊りがくりひろげられる。
そういえば、近頃のように盆踊りといえば河内音頭で明け暮れるというようになったのはいつ頃からなのだろう。嘗てはもっと地域々々でそれなりのカラーがあったかと思うのだが、此の頃は大阪府下のどこでも河内音頭の音頭取りを招いてそれをメインとしているようだ。
おそらく一時は盆踊りがずいぶん衰退した時期があったかと思う。戦後60年でいえば高度成長期だった60年代や70年代はむしろ衰退期にあたったのではないか。
80年代の時ならぬ漫才ブームからエンタティメント志向が非常に強まってくるのだが、ビジュアル・カラオケの登場は一億総タレント化へ拍車をかけた。
80年代は一方で身体ごと燃焼発散することのブームでもある。若い者はディスコに、中高年は民踊にと棲み分けされていたものが。境界が曖昧になり互いに侵犯していくような現象が起こってくる。河内音頭の踊りもリズミカルになりディスコ風な振りがどんどん採り入れられる。92年にはよさこいソーラン祭りが生まれ全国各地にひろがってゆく。

大阪のそれも河内という一地方に歌い継がれてきた民謡にすぎない河内音頭を全国的なものにしたのは大胆にそれをアレンジした鉄砲光三郎の鉄砲節だった。昭和36年のことである。だがそれはあくまで歌謡の世界、民謡の世界としてであり、盆踊りのレパートリーとして、民踊としてどれほど浸透し広まったかといえば、歌謡の世界のようにはまったくいかなかった。先述したように盆踊り自体がどちらかといえば下火だったからともいえるだろう。
しかし、近頃のように大阪府下はおろか相当の範囲でも盆踊りといえば河内音頭がメインレパートリーとなるには、一時的にせよ全国的にブームを起こした鉄砲節の存在が大きく伏線となっているのだと、私は思っている。

私は以前、大阪市内の港区で、サンセットパーティなるイベントを十数年の間、企画運営の中枢として取り組んできたことがある。実はこの催しはある市会議員による後援会向けのパーティなのだが、これをだれもが参加でき且つ大いに楽しめる一夜を演出するべく、場所はちょっとした体育館なみの室内空間なのだが、そこにヤグラを組んで輪になって踊る、それも河内音頭で盆踊りをと銘打って、これをパーティのクライマックスとするように企画した。この企画は図に当たった。評判を呼んで回を追うごとに参加者が膨らんでいった。たしか89年に初めて、この形式は一昨年までそのまま踏襲され続けられてきた。現在、この議員は5期目のベテラン議員となっているが、かように企画が当って成功する場合、むしろワンパターン化して偉大なマンネリズムとなっていくものである。目先を変えるのはそのマンネリズムのうちにあってほんの少しだけ新鮮味を加えるだけ、というくらいでちょうどいいのだろうと思われる。
大きな変化、時代の変化というようなものははっきりと潮目みたいなものがあるのだ、といえそうである。広い視野でそういう潮目を読みつつ、ワンパターン化したマンネリズムのなかでほんの少しだけ新鮮な工夫をしていくというのが、イベント企画の要所かとおもう。
地域の盆踊りも、時代の潮目とマンネリズムのなかで少ながらず変容しながらこれからもずっと生きつづけていくようだ。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 05, 2005

鉦たたきよ鉦をたたいてどこにゐる

IMG_0102
写真は記事に関せず「みんなマジ・レンジャーが大好き」

<日々余話>

<見事なだんじり囃子を堪能-住吉っさんの夏祭り>

昔から大阪の夏祭りの最後を飾るのは住吉っさんである。
7月30日の宵宮祭、31日の例大祭、8月1日の渡御祭とつづくが、
詳しくは7月の海の日から夏祭りはつづいているそうな。
わが家は住吉っさんこと住吉大社にほど近く、徒歩で12.3分くらいであろうか。
此方に住むようになってもう十年も経とうというのに、
正月の初詣には参るのだが、これまで夏の祭りを拝見したことがなかった。
幼な児も仲秋には4歳となるし、祭りの派手やかな賑わいにも興味を示すかと思い、31日の日曜の夜になってから出かけてみた。

初詣ほどの混雑ぶりではないけれど、参道ともなっている住吉公園の入口付近から人、人、人である。
しかし、夏祭りともなれば初詣の雑踏風景とはガラリと変わる。
まず若い者が圧倒的に多い。家族連れよりも中高生とおぼしき友だち連れの多いこと。
またその子たちのファッションが、昔のバサラ趣味よろしく徹底して破調ならば、それもよしと認めるのだが、だらしのない崩れとしか見えぬのが辛いのだ。
中高生の女の子たちが浴衣姿で連れ立っているのがやたら多いが、その着こなしや振る舞い、歩く姿が、本人たちはご機嫌で声を荒げて闊歩しているが、それが嫌でも眼に入ってくる此方はなんとも痛ましい思いに捉われる。
浴衣に茶髪といまどきのどぎついメイク、この三要素のアンバランスが生半可な破調となって、いまどきの少女たちの夏祭りの風俗ができあがっているようだが、まあ見苦しいこと夥しい。
まだ15、6の女の子なら、浴衣なんてものはすっぴんで着てもらいたいものだし、ならば涼味も感じて暑気払いになろうというものだが、これじゃ眼に入るたびに暑苦しくてやりきれぬ。
されど明日は我が身か、オイオイ、幼い娘よ、けっしてこんな姿にはなるまいよと、神頼みのひとつもせにゃならぬのか、とはイヤだねぇ。

屋台が立ちならんだ境内の雑踏をぞろぞろと人の背について歩き、太鼓橋をようやく渡って本殿の鳥居をくぐったら威勢のいいカネと太鼓が聞こえてきた。平野区地車囃子保存会と大書した横断幕が張られ、鳥居の横の回廊を舞台にお囃子の実演たけなわだった。
中央奥に、三尺はあろうかという大太鼓が置かれ、バチの捌き手は観て側に背を向けて座り足を大の字にひろげて太鼓を打つ。左右に鉦ふたつ。その前には演舞台が置かれ、時に二人あるいは一人が囃子に合せて踊るというより身振りにちかい動きを繰りかえしている。なんの身振りかとしばらく見入っていてやっと気づいた。小さな地味な動きでなかなか判りにくかったのだが、これはやはり竜神を模した動きなのだ。そもそも地車そのものが船に由来するのだから、海の神々の筆頭たる竜神が海から陸に上がってきた地車に降臨するのはもっともなわけだ、とこの年になるまで考えもしなかったことにいまさら気づかされた。
一度の演奏が5,6分ないし長くて7,8分だろうか。そのたびに太鼓も鉦も踊り手もメンバーが入れ替わる。
鉦は単調なリズムで打ちつづけられるが、太鼓のバチ捌きはかなり複雑。鼓面よりむしろ鋲やフチを叩くほうがずっと多く、それで複雑で高度な技を要するリズム変化が生み出されている。
どうしたことか幼な児がさっきから熱心に見入っていて、いっかなその場を離れようとしない。
たしかに軽快なリズムとかなり豊かなヴァリエーションの音の洪水が、まじかに居るとはげしく揺さぶられつつも心地よく身体を包んでくれる。
二度入れ替わって三番を終えたところで、やっと一旦はその場を離れて本殿へと移ったが、幼い子どもに手を引っ張られるようにして、またぞろ地車囃子のほうへ舞い戻った。
あらためて聴いたこの時の太鼓のバチ捌きは見事なものだった。まだ若く年のころは三十前後というところか。さっき聴いた三人もかなりの上手だったが、アップテンポで流れるようなバチ捌きは複雑微妙な小技がこれでもかと駆使されてこんなにも豊かなヴァリエーションを生みだすものかと感じ入った。市井のなかの達人芸といえるものだ。
成程、これほどの見事なバチ捌きは身体全体でリズムや調子をとらねばとてもできないし、あの大の字に足をひろげて座った姿勢がよくあのスピードと変化についていけるのだと得心したが、それにしてもあの姿勢では体力の消耗も激しくてとても長つづきできるものではない。一番ごとにチェンジしなければそりゃ大変だろうと肯かされる。
しかし、私たちが見たり聞き入っているのとはちがい、まだ4歳に満たぬ幼い子どもがいったいなにに見入っているのか、なにに聞き入っているのか、それとも囃子の激しくもノリノリの音に包みこまれるほどの体感に魅入られてしまっているのか。

思いがけなくいい拾いモノをした気分で境内を立ち去って、住吉公園のほうに戻ってきたら、若い男性コンビが路上ライブしているのに、またまた幼い子どもが立ち止まって聞き入る始末。
一曲聴き終えたタイミングで帰ろうと手を引っ張っても動こうとしないで、さらに二曲聴かされる羽目となったのだが、当夜の祭りのお出かけは幼ない彼女にとってライブ鑑賞の一夜へとうってかわったようだった。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 03, 2005

橋とゞろ水は流るとなく流る

<風聞往来>

<秋浜悟史さんの急死に想う>

劇作家として演出家として関西にも多大の足跡を残した、秋浜悟史氏の訃報を思わぬ意外なところ-Nadjaさんの記事-で知った。
ネットの訃報記事で確認したところ、「7月31日、転倒による脳挫傷で死去、享年71歳」とあった。まだ現役で演出に講座に多方面で活躍していたのに突然の事故のような急死である。関係各所には大きな衝撃が走っているものと推測される。
ある記事の略譜によれば、「岩手県生まれ。早稲田大学で学生劇団「早大自由舞台」に参加。岩波映画製作所を経て、劇団三十人会を主宰し、東北方言を自在に使いこなした「幼児たちの後の祭り」で、1969年岸田国士戯曲賞を受賞した。」とある。
そうだったのか、出自が東北であることはその初期作品から匂いたつほどに感じられたから岩手県というのはいかにもさもありなんだが、早稲田の自由舞台に参加していたとなれば、別役実や鈴木忠志の何年か先輩ということになる。やはり50年代から60年代にかけて早稲田の自由舞台が「新劇から演劇へ」の転換に果たした役割は大きいのだと再認させられる。ここから輩出した小劇場運動の旗手たちの存在は、世界の演劇事情がずいぶんと狭く感じられるほどになった現在へと、導火線ともなったであろうし、いまなお重い役目を担っているだろう。
藤田あさやと秋浜悟史を擁した「劇団三十人会」は、新劇から演劇へと転換していくその端境期を百花繚乱のごとく彩った60年代演劇のなかでいささか地味であったとしても独自の存在感を示していたように思う。
69年に彼の劇作「幼児たちの後の祭り」が岸田戯曲賞を受賞した際には、この作品にいたるまでの諸作品の成果に、との言葉が付されている。これは秋浜が「さじきっぱら」や「冬眠まんざい」など実験的ないくつかの小品を作・演出し積み重ねてきたうえに「幼児たちの‥‥」へと結晶させた成果を充分意識した評言なのだろう。
「劇団三十人会」がいつどのような事態で解散されたのか、寡聞の私には不明だが、秋浜悟史は80年前後、大阪芸大からの教授招聘や兵庫のピッコロ劇場における指導活動などからか、その主な活動拠点を関西へと移し、奈良市内に居住するようになる。
この二十数年、彼の薫陶を受けた若い演劇人が数多く育って、関西の演劇地図を塗り替えてきたといっても過言ではあるまい。
まだまだ、仕事をしなければならない人であった、と思う。
胸中、アレもコレもとさまざまなやりたいことのイメージが渦巻いていたことだろう。
無常は世の常だとしても、残念である。
‥‥ 合掌。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 02, 2005

山ふところのはだかとなる

IMG_0135
    「高知県北川村竹屋敷にて」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<四国・高知の山深く-おやじの生誕地へ-終章>

高知県安芸郡北川村字竹屋敷。
風もなく真夏の陽射しが照りつける小さな山里は、谷川の流れる水の音のほか、森閑として聞こえるものとてなにもない。人の気配もまったくしない。クルマから降りて歩いてみる。少し奥まったところ、細くなった川に石橋が架かっていて、その石橋の向こうの道沿いに一軒の民家らしからぬ建物が見える。「はぁ、そうか、これが営林署の出張所の跡かもしれないな」などと考えてみる。林道は細くなってさらに山深くへと延びているがこれ以上クルマを走らせるのはおよそ危険というものだろう。と幼な児の手を引いた連れ合いが明るい声をはりあげて私を呼んだ。振り返ってその指さすほうを見ると、小さなしもた屋に酒の看板と「林田商店」という文字。これにはちょっと吃驚したが、そういえばおやじは竹屋敷というのは林田の姓が多かったと言っていたことがあった。みんな遠い親戚みたいなものだったんだろうとも。また竹屋敷は平家の落人部落だったと言っていたこともあったが、こちらのほうは私はあまり真に受けてはいない。九州にしろ四国にしろ平家の落人伝説は山里深いところならいたる処に点在している。そういった集落ではご丁寧に家系図まで贋造してまことしやかに主張している場合もあると聞いてきたから、私はその手の話は大きく疑問符を付けておくことにしている。いずれにしてもおやじと同じ林田姓の、おそらくは親戚筋であろう家がこの「林田商店」の主であるのはまちがいないのだろう。おやじ所縁の土地や家々にこうしていま近しく接していることに胸が熱くなるのを覚えた。しかしおやじがはたしてどの家で生まれたのか、そんなことはもうどうにも探しようもないし確かめようもない。ひとつひとつの家をなにか懐かしいようなものを見る心地で放心したようにただただ眺めやるのみだ。
そうやってぼんやりと歩いていると、突然、犬の吠える声がして幼な児が怖がって泣き出した。犬の姿は見えないから繋がれているのだろうか。声高に吠えるのはいっこうに止まない、私らの気配が遠のくまで鳴き止まないだろう。と道端に面した一軒の家に洗濯物が干してあり、子ども用の小さな自転車もあった。ああ、此処に、さっきの郵便局で聞いたとおり、この家だけ人が住んでいるのだ。しかし家人は出払っているらしく人の気配はなく、犬の吠える声がなおつづいているのみだ。それにしてもこんなに人里離れた山中深くに子どものいるまだ若いらしい家族が住んでいるのだとしたらいったいどういうことなんだろう。たとえUターン組だとしてもなにか特別な事情でもないかぎり、こんなところに一軒だけで住むというのは侘しいとか淋しいとかいうまえに暮し向きさえどうやって成り立つのか、およそ都会の下町に生まれ育ってきた我が身には想像の埒外というものだ。

それにしても、竹屋敷というこの場所、此処はおやじが生まれたという明治44年、あるいは幼年期を過ごしたと思われる大正初期の頃は、今から90年ほど昔はいったいどんな在所だったのだろうか、とふと捉えどころもないような想いがよぎる。
そんな想いに関連して、近頃、赤坂憲雄の「山の精神史」という民俗学者の本を読んでいていまさらながら気づかされたことなのだが、日本民俗学の創始者とされる柳田国男がとくに人口に膾炙されるあの「遠野物語」を書いて世に出したのが明治43年だったという事実に、おやじの生い立ちなどについていろいろと想いをめぐらせていた私は、柳田の遠野物語の世界とおやじの出生地竹屋敷とが同じ頃のことではないかというなんでもない符合に、はっとさせられたのである。遠野の世界は東北の岩手県遠野地方の古老たちからその地に伝わる説話や異界譚、山の民やムラの習俗などを柳田が聞き書きしてまとめたもので、出版されるや大いに衆目を集めるものとなったということだが、柳田はこの「遠野物語」出版の前年、明治42年に「後狩詞記」という書を初版出版しており、「遠野物語」とはちがってこちらのほうは九州宮崎県の山間部で日向奈須と呼ばれる椎葉村の村長自身が柳田に語ったとされる話を、柳田は著書としてではなく報告記のかたちで出版したものだという。平家落人伝説の残された椎葉村村長が柳田に語ったという「後狩詞記」の内容はといえば、山の民としての信仰や習俗、狩猟や焼畑、樵、木地師などの暮らしぶり、とりわけ毎年四、五百頭を数えたという猪狩りなど猟師としての実態についてというものらしい。
柳田は後の自著「故郷七十年」というエッセイで、「明治41年、九州と四国に行った。5月下旬から約三ヶ月に及ぶ長旅で、内地における私のいちばん長い旅行であった。」と書いており、この旅の徒次に「後狩詞記」出版となる椎葉村村長宅での一週間の滞在があったということである。
柳田の九州・四国への三ヶ月におよぶ長旅のなかで、高知の山深いこの竹屋敷に立ち寄ったかもしれぬという可能性について考えるべくもないが、当時の「遠野物語」に代表されるような民俗学が照射した世界、そこに描かれた山の民たちの伝承や習俗の世界が、そっくりそのままこの竹屋敷という地にあてはまるものではないにしても、類似の響きあうような日々がこの地で営まれていたであろうことは疑いのないところと推測される。そういえば、私が小さい頃は我が家に、おそらくこの地の親戚筋の人からであろうが、毎年のように猪の肉が届けられて、これがくるときまって二日ほどは夕餉にシシ鍋がつづくという、そんなことを思い出したが、この符合を考えてもこの地の人々の昔からの暮らし向きは猟師としてがその本分であったろうし、加えて明治初期からの山林の国有林化制度のなかで山林の保全と育成のため日本各地に営林署が置かれ、その支所や出張所がさらに山深い集落付近に置かれ、林道が開かれていき、猟師や樵としての暮らし向きもゆるやかに近代化への変容を被っていったのだろうと思われる。調べてみれば竹屋敷に営林署の出張所がはじめて置かれたのは明治19年で、昭和61年にその役目をおえて閉ざされるまでちょうど100年の間あったことになるが、この営林事業関連の業務がこの竹屋敷の住民たちの暮らし向きに陰に陽に作用もし、また一時代の活気を呈したこともあったろう。おやじはその父の存在をまったく知らぬといういわば私生児であったが、おそらくこのこと自体に営林署出張所の存在が深く関わっていたであろうことは想像に難くないというものだ。
実をいえば、柳田民俗学が描いた山の民たちの世界が、おやじ生誕の竹屋敷の地もまたこれに類縁する世界だったのではないかとの想いが私の脳裡に浮かんできたとき、どうしても我が眼でたしかめるべくこの日帰りでのおやじの故里訪問の旅が企図され、やもたてもたまらずこの日の強行軍となったのだった。

一度きりの、もうこの先ふたたび訪ねくることはないであろう竹屋敷を立ち去り、帰路についた。
途中、もう一箇所、この眼でたしかめるべくおふくろの生家へ立ち寄った。海部町奥浦まで戻って海部川の南岸を5kmほど走ると、バス停近くの道沿いに二軒並んだ家がある。手前の一軒は見慣れない大きなプレハブの家に変わっていたので些かとまどいを覚えたが、隣の民家は子どもの頃なんども訪れた懐かしい佇まいそのものだった。だが隣地もおふくろの生家の周囲も草は伸び放題で荒れ果てた印象は否めない。
「ほら、母屋の裏に小さいけど二階建ての離れのような家があるだろ。あれは親父が建てたんだよ。だからではないけど、お倦怠みたいにして毎年のように此処へ遊びに来れたんだ。」と指さしながら連れ合いに説明すると「へぇー、そうなんや」と感嘆しきり。当時はおふくろの末の妹が婿取りをし三人の娘をもうけて住んでいたその母屋も表札こそかかったままだがだれも住んでいるような気配はない。隣はたしか夫婦と私より4歳上の一人娘の三人家族だったはずだが、せっかく新しく建て替えただろうに住む人もないらしく荒れるにまかせているといった感じだ。先刻の竹屋敷のようにもっと奥まった山里ならともかく海岸からたかだか5kmあまり離れた川辺のバスも通っている道沿いで、二つ並んだ家が主もなく荒れ放題なのはいかにも淋しすぎるし勿体ないような気がするというものだが、21世紀の日本の田舎風景にはもうあたりまえの光景としてどこにでもあることなのかもしれない。
その昔、海部町は川西村といった。おふくろの旧姓も「川西」だったから子ども心にその符号がおもしろくいろいろ想像もしたのだけれど、しかしおふくろの父、私には祖父だが、これは本家ではなく分家だったらしいし、本家と呼ばれる家も同じ集落の奥のほうにあるらしかった。いずれしても本家も分家も庄屋格といったものでもなく豪農といったものでもないようだから、この川西姓がそう由緒あるものではないと思われる。おそらく明治の苗字制度で生れたにすぎないのだろうが、川西村の住人だから「川西」と名のった人たちはかなりの数にのぼったのではないか。おふくろの生家もそのうちの一つだったのだろうと私は勝手な推測をしているのだが‥‥。
小六の夏だったか、せっかく遊びにやってきたのに台風のもたらした大雨で川はあふれ濁流と化し、水嵩は堤防の高いところにおよびドォードォーと音立てて流れているし、雨もまた降りつづいたりするから一週間あまり家に閉じ込められたまますることとてない。おかげでその夏は祖父の本棚にあった立川文庫の古い講談本を片っ端から読みつくしてしまい、おかげで講談ものの世界についてはなんでもござれの博学の徒となった。困ったことにこういう時に身についてしまった知識(?)はいつまでたっても消えることなく残っているもので、残ってほしいと思う知識は記憶のどんどん深いところへ降りていって呼び戻しようもなく身につかないままだ。

その生家や周辺を写真におさめて海部町をあとにしたのはもう午後三時半を少しまわったころだったろうか、あとは往路と同じコースを引き返すのみ。途中、徳島市内の県庁前付近で1kmほどの渋滞にあったが思ったほどの時間も要さず抜けられて鳴門ICへ。往路で立ち寄らなかった淡路ハイウェイオアシスでゆっくりと休憩をとり、黄昏どきの明石海峡大橋をなどを飽かず眺めたうえで帰路に着いた。
第2神明も阪神高速もスムーズに流れて、我が家への到着はちょうど午後九時ごろ。延べ16時間、走行距離は590km余りか。さすがにぐったりと疲れ果てた一日だった。オツカレ、私に付き合わされた家族もお疲れさま、ほんとにお疲れさまでした。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 01, 2005

笠に蜻蛉をとまらせて歩く

IMG_0124-1
     「中岡慎太郎記念館前にある像」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<四国・高知の山深く-おやじの生誕地へ-承前>

徳島県の南部一帯、海沿いに位置する海部郡は6町からなるが、これを北部から数えあげると阿南市の隣町である由岐町、さらに日和佐町、牟岐町、海南町、海部町とつづき高知との県境に接する宍喰町となる。
ところで海南町の海南高校といえば、ゴルフのジャンボ尾崎こと尾崎将司を輩出した学校で、在校時の彼は投手として春の選抜で全国制覇をもたらし海南高校の名を全国に知らしめ、翌年鳴り物入りでプロ入りしたものの野球ではいっこうに芽が出ず、後にゴルフへと転身して大成功、華麗な変身をとげたことはだれでも知るところで、その彼の実家は宍喰町だったとどこかで聞いたことがあるが、現在でもこの界隈では出藍の誉れのごとき郷土自慢の種になっていることだろう。

クルマはやっと牟岐の中心部牟岐町役場にさしかかった。昔懐かしい牟岐駅の駅舎も見えた。
私が小学生から中学生時代にかけて毎年のように帰省していた頃、夜行の船で早朝まだ明けやらぬころに小松島の港に着き、こんどは小松島駅から鉄道に乗り換えるのだが、その頃は牟岐町が終点で、さらにそこから一時間以上は文字通り田舎のバスのご厄介になっていたから、忍従の移動の旅からやっと解放されるのはもう昼近くだった。まえの宵の8時頃から発ってほぼ14~5時間の長旅は子どもにもかなり疲れるもので、着くなりゴロンと寝ころがってお昼どきを待つというのが慣わしのようなものだった。
高校生ともなるとクラブ活動やらなにやら、それに田舎での川遊びくらいでは急激に社会意識や規範意識に目覚めた生意気盛りの多感な思春期の心が満たされるべくもないから、毎夏の帰省ももはや縁なきものとなってしまい、それからは妹の結婚式のため、というのも偶々夫君の実家が海南町だったからこの地での挙式となったのだが、その時に来たくらいのもので、あとは別な旅目的でなんどか通り過ぎるだけの地と変わり果ててしまっていた。
そういえば、妹の挙式に出席するためおよそ20年ぶりに海南町へ来ることがあり、そのとき私たちはクルマで来たのだが、鉄道の終点だったその牟岐から海南町へと鉄路は延びており、たしか海部町あたりでは高架工事をしていたのではなかったか。やがては宍喰町へも延び、県境を越えて甲浦町へと延びていったのだが、それはさらに室戸まで延びて、高知市から延伸してきた鉄路と一体となって周回の鉄道網が完成するはずだとばかり思っていたのだが、国鉄民営化のあおりだろうか、徳島側からは甲浦で終点となり、高知側では室戸までも届かず奈半利で終点となったまま延伸されていないようだ。そのうえ採算にのらない路線はJR四国からも外され、それぞれ阿佐海岸鉄道と土佐くろしお鉄道となっていてダイヤも一時間に一本程度の、はたしていつまで生きつづけられるのかまことに心許ないローカル線となっている。
その土佐くろしお鉄道の宿毛駅で今年3月に起こった電車の駅舎突入事故は、駅舎エレベーターに突っ込んでやっと停まった電車の衝撃映像が記憶に残っているが、翌月25日に起こったJR西日本の福知山線の脱線事故が死者100名を越え負傷者にいたっては500名を越える空前の惨事となり、連日の悲惨な報道ラッシュのなかで、駅舎突入のその衝撃映像の記憶だけが断片として鮮明に残るものの、あれはどこのどんな事故だったかとその事実関係は遠く後景へとおしやられて想起することさえかなわない。まことに記憶というものはたえず新しく想起されなければ反覆強化されることもなくあっというまに忘却の彼方へと消え去っていくものだとつくづく思い知らされる。

牟岐から海南町を経て海部川に架かる橋を越えると海部町の中心部奥浦だが、ここを通りかかったころにはすでにもう九時半になっていた。海部川が海に流れ込んでできた小さな三角州の南側が奥浦と鞆浦なのだがその境界には海が入り組んできて運河のようになっている。幼いころのおやじが祖母と二人きりで生地だった高知県北川村の竹屋敷を出奔して、十代半ばまでの少年期を過ごしたのはてっきり奥浦だとばかり私は思いこんできたのだが、こんどの訪問と戸籍関係をたどったところどうやら隣町の鞆浦説が有力になってきた。私の思い込みには私自身の幼児のころの原記憶ともいうべきあの懐かしい一コマが関わっていて、ひょっとするとそれをも書き換えねばならないのかもしれないが、このことについてはあらためて触れることにしてひとまず先を急ごう。
国道55号線は宍喰町にさしかかると海岸線に沿って走ることになる。海側は砂浜のつづく松原海水浴場となってその真ん中あたりに宍食温泉がありその横にはかなり豪華そうなホテルも併設されていたが今はのんびりと寄り道していくほどの余裕などない。松原がきれて宍食大橋を渡って隧道をぬけると、東洋町甲浦、いよいよ高知県に入ったわけである。甲浦といえば明石大橋が開通するまでは甲浦フェリーといって大阪や神戸からの便があったちょっとした漁港で、開通後もしばらくは運行していたようだが四年ほど前にとうとうなくなってしまったらしい。磯釣りなどの釣り人たちには牟岐の大島やこの甲浦はいまでも馴染み深い場所にちがいないだろうが、マリンレジャーや釣りなどにはとんと縁のない私などにはただ通り過ぎゆくのみの衆生でしかない。東洋町の海岸沿いの北端が甲浦で南端には野根という在所があり、55号線はこのあたりから室戸岬にかけてはずっと海岸沿いの道がつづくのだが、今日はこのコースをとらないで、野根川の袂で右折して国道493号線へと入っていく。この野根町から山越えで尾根づたいにいく奈半利町までの44kmの道は、いまでこそ国道493号線というが古くから野根山街道と呼ばれ由緒正しき道(?)であるらしい。なにしろ718年というから養老年間だが、土佐の国で最初に開かれた街道で、国司、流人の移動、調庸物搬出の道として利用されたというのだからたしかに由緒ある歴史の道である。江戸時代の参勤交代もこの道を通ったといい、宿屋杉という大杉もあり関所跡もいまに残している。鬱蒼とした樹木に囲まれた山道をぬけて小川川の渓谷に出ると北川村だ。目的地の竹屋敷はその川の上流に沿って山深くに入ってゆくのだが、まずは北川村役場をめざして渓谷沿いの野根山街道をさらに下ってゆくとやがて小川川は本流の奈半利川と合流するが、その川沿いにつづく街道を10km余り走ったろうか、やっとめざす村役場に到着したのはもう十一時近くになっていた。

役場でおやじの祖母の除籍謄本を申請して貰い受けた。750円也。「いまも、この竹屋敷という集落には何軒ほどの世帯が住んでいますかね。」と尋ねたら「さあ、登録上は二世帯なんですが、実際はどうかなあ?」と些か心許ない返事。役場の前には村に一つしかない小学校と中学校がなかよく隣接してというより校門こそ違えて一体のように建っている。小学校の児童数89人、中学校の生徒50人。総人口1575人で647世帯、奈半利川沿いに26の集落があるというが、半数近くがこの役場のある野友という地域一帯に住んでいるのだろう。近頃問題の郵政民営化の特定局がこの近くともう一箇所、平鍋という集落にあるだけだ。休憩がてらに入ったごく普通の民家の構えだが門前に喫茶の看板が立つ家の主人に聞いた話だが、「竹屋敷に以前は営林署の出張所があったが十数年前にそれもなくなって、今ではどの家も廃屋になってしまっているのじゃないか、さて住んでいる家があるのかよう知らんな。」とのこと。
一休みして少し元気が出たからまたクルマに乗ってこの近くにあるという中岡慎太郎の生家に立ち寄ってみる。道沿いにある記念館にクルマを停めて銅像を眺める。小高くなった道路から眼下の川べりのほうには復元された生家らしい茅葺の屋根が見えるが、幼な児を抱いて急な坂道を降ったり登ったりはまだ先の旅程もあるのでやめておく。僚友坂本龍馬とともに京都近江屋で暗殺された中岡慎太郎は北川村一帯の大庄屋の家に長男として生まれたという。龍馬はたしか郷士の倅だったが慎太郎は百姓とはいえ豪農の跡取り。幼いころから近在の私塾で学問を積んだのち、武市半平太に私淑し討幕運動へと身を挺していったのだが、道半ばにして凶刃に倒れたわけである。時に龍馬33歳、慎太郎30歳の若さだった。

もう十二時をとっくに過ぎてしまっている。本来の目的地、おやじの生地である竹屋敷に向かわねばならない。奈半利川に沿ってもときた野根山街道を走らせる。小川川の渓谷沿いへとわかれて平鍋という集落にさしかかると村に二つしかないという一方の特定郵便局があった。念の為、クルマを停めて局員に尋ねてみると、竹屋敷にはいまは一軒だけだが住んでいる世帯があるという。道は川沿いに車もあまり通ることもないが走れないことはない、注意していけば大丈夫とのこと。ほっと一安心してまた走らせる。野根山連山の山道にさしかかる分かれ道にきて深い山間の谷を流れる小川川を左にのぞむように北へと入ってゆく。
川沿いといっても左右から迫りたった山間を走る林道はほとんど谷底の川の流れも見えず細い峠道を走っているようなものだ。5kmほど奥へと入ったあたりで谷川と出合うと川向こうの山裾に家が十軒ほど寄り合うように立つ集落が見えたが、これは尾河という在所か。しかしこの集落にもはたしていまも人が住むのは二軒か三軒か、殆どは住む者もない廃屋と化しているのだろうなと思いつつ、さらに奥へ奥へと走っていくとこんどは川と接するようになった道沿いの右側がほんの猫の額ほどの広さでゆるやかな斜面になっていて、やはり十軒ばかりもあるだろうか家々がある。
ホゥーと思わず一息吐いた。アー、やっと着いた。そう此処が竹屋敷だ、高知県安芸郡北川村字竹屋敷、おやじの生誕地である。そしてものごころつくかつかないかの幼年期を過ごした、此処がその故里なのだ。 (つづく)

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« July 2005 | Main | September 2005 »