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July 30, 2005

つくつくぼうし鳴いてつくつくぼうし

<世間虚仮>

しろうさんの「公明党」にトラックバックしています。
<公明党>冬柴幹事長、民主党との連立の可能性に言及 (毎日新聞) - 7月27日23時55分更新 yahoo。


<足腰の弱体化がここまで-共産党の候補擁立問題>

しろうさんが公明党の政局絡みの両睨み姿勢について書いているので、此方は政局を左右しかねない共産党の異変について書いてみる。
「共産党:次期衆院選 相当数の選挙区で候補擁立せず」という最近の報道にまず驚いた。
記事によれば、これまでずっと衆院選の全小選挙区に候補を擁立してきた党の方針がこれにこだわらず、
ということは絶対目標が相対目標となって、そんなに無理をしないで組織の実態に合せてやっていくよとのことだが、この方針変更が郵政民営化の成否如何で解散かと浮き足立っている政局にからむ意味は大きなものがあるだろう。
共産党の下部組織、足腰の弱体化は巷間いわれるようになって久しいが、日本社会の急激な高齢化と軌を一にしたかのようにその器官を蝕んできたかと思えば、まさに昔日の感がする。
03年の総選挙において、300小選挙区のうち法廷得票数に充たず供託金没収の憂目にあった選挙区が235にものぼったという事実は衝撃的でさえある。
もし仮に、小選挙区の1/3で候補者空白となれば、ガラリと音立てて政局は動くだろう。
市田書記長は記者の質問に、
「民主がトクするとか自民党はどうかということは考えていない。関係も関心もない。自民党政権でも民主党政権でも何の変わりもない。民主党と選挙協力は100%あり得ないし、連立を組む可能性もない。」
と答えているらしいが、この発言あまりに真っ正直にすぎるのではないか。
小なりといえども政局のキャスティングボードは握りえるもの、それが政治というものだろう。
現実は候補擁立の方針変更そのものがすでに政局を動かす決定的な要因になるであろうにもかかわらず、我関せずのこの発言、こういうのを私は教条的というのだと思うのだが‥‥。

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July 29, 2005

ふるさとや少年の口笛とあとやさき

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「いまは住む者もなく荒れ果てた母の里家」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<四国・高知の山深く-おやじの生誕地へ>

ちょうど一週間前、21日(木)に日帰りで四国高知まで車を走らせた。
六十を越えたこの年になるまでおやじの生地を訪れたことはなかったが、おやじやおふくろのことをいざ描き出してみると、やはりどうしても訪ねてみないわけには心落ち着かなくなったとでもいうのだろうか。
私自身の心の動きが自分でよく読めないのだが、自制もできずに動くに委かせねばならぬこの胸のざわざわと波だつようは感触がたしかにあるにちがいなく、変化というべきなにかが起こっているらしいのだが‥‥。いったい私はどうしてしまったのか。

休みがとれたこの日-といっても私ではない、私のことなら一存でどうにでもなる、相方すなわちお内儀のことである-の朝早く、空が仄かにあかるい午前五時前、家族三人であわただしく出かけた。
目的地は高知県安芸郡北川村竹屋敷、ネットの地図で調べたところでは往路260km。徳島の鳴門ICあたりでちょうど半分ほどの距離となるのだが、そこまでは高速道路だから早かろうが、それ以降の125km余はずっと国道を走ってさらに山間部へと入っていくから、ノンストップでも片道5時間が相場だろう。若い頃ならともかくこの年ともなれば日帰りではかなりハードになること百も承知だが、観光目的でもなくこれといって気をおけないで厄介になれる親類先があるわけでもなく、贅沢もいえないし、ここは一番気力で乗りきるべしと決めての出立。
国道43号線で尼崎に入るとほどなく24時間営業のセルフサービスの給油所が眼にとまったのでひとまずガソリンを満タンに。これでおそらく往復600キロ近くなったとしても走行可能だろう。あとはいざ走れ、走れ。
芦屋から阪神高速の神戸線に入って第2神明道路へ。第2神明から明石大橋へのジャンクションが廻りまわって意外にわかりにくくややこしい。鳴門大橋は何回か通ったことがあるが、開通してもう七年も経つのに明石大橋を走るのは初めて。さすが世界一の吊り橋を誇るそのスケールは鳴門に倍する壮観さがあり、真夏とはいえ早朝の走行は涼風をうけて至極心地よい。瀬戸内の島々など変化に富んだ風光を楽しむならなんといってもしまなみ海道にかぎるが、海峡を一気に駆け抜ける大橋の壮快さもまた捨てがたいものかと思う。
鳴門の大橋を渡りきって国道11号線を徳島市へと走る。吉野川に架かる橋を越えると徳島市の中心街に入ってゆく。吉野川をたしか四国三郎と称したんだっけ。板東太郎が利根川で、とすると次郎もあるはずだがどの川だったろうなどと思いをめぐらせどいっこうに記憶は甦らない。そうこうしているうちに県庁前を通り過ぎて国道は55号線に変わっていた。-後日、調べてみると、次郎のほうは九州の筑後川と信州は信濃川と二説あるようで、筑紫次郎あるいは信濃次郎と呼称されているが、ひろく流布されているのは筑後川のほうか。-
さて、鳴門からざっと見てきたところコンビニはサンクスかローソンばかりで他のチェーンはまったくお目にかからない。そういえば愛知県ではKマートが圧倒的に多いところへセブン・イレブンが集中的に店舗展開をして局地的なコンビニ戦争が激化していると、何ヶ月か前にテレビで見たが、こうやって走ると地域々々でコンビニ地図なるものはきわめて特色あるものだとよく実感できる。そのいくつめかのローソンで一時停車してトイレ休憩をとる。
徳島市内から小松島市へと入ったころは午前8時すぎだったろうか。子どもの頃、毎年、夏ともなると祖父母がまだ健在だった母親の実家へ、一週間か長くて二週間、親が同伴せずとも我々子どもらだけでかならずといってよいほど帰ったものだった。
当時の帰省コースは、まず天保山から関西汽船の夜行で発つ。たいがいは二等乙の客室で横になって眠るのだが、これがなかなか寝つかれるものではない。小松島港へ着くのがまだ暗い午前4時半頃か、眠い眼をしょぼつかせながら、そこから鉄道の牟岐線に乗るため小松島駅まで15分位歩くのだが、荷物がかさばって重いときなどはこの徒歩が辛いから輪タクに一行の荷物を全部載せて、みんな身軽になって歩いていくというのがお定まりだった。波止場には客待ちの輪タクがいつも二十台は並んでいたろう。そんな懐かしい光景が甦ってくる。
阿南市へ入ってしばらく走ると津の峰神社参道の大きな立て看板が眼に入ってくる。そうかここを右折していくと津の峰さんに行けるのか。あれは高校へ入ったときの春休みだったが、母方の祖父と私ら二人(双生児の兄)と二歳下の従弟と四人でバスに揺られて登っていったっけ。祖父がなにやら願掛けをしていたお礼参りだといっていたが、バスを降りてから神社まで歩いた参道の桜並木はちょうど見頃の満開だった。
祖父と三人の少年たちの小さな旅はそれから徳島市内へと入り、祖父の知人宅を訪ねて眉山などを案内してもらったうえに一夜の厄介になって、翌日はたしか屋島、栗林公園とめぐって金比羅さんまで足をのばしたのだったが、とすると金比羅さんの門前宿で一泊して高松から船に乗って帰ったのだろうか。なにしろ45年も昔のことだしそのあたりの記憶がすっかりとんでしまっている。
阿南市をすぎると日和佐町に入っていくのだが、昔は山越えの峠道しかなくて曲がりくねったデコボコ道の難路だったのに、もうずっと前から国道55号線を走ろうと県道25号線を走ろうとずいぶん楽なコースになっている。そういえば中学生の頃だったろう、母親の実家からの帰りをいつもなら牟岐から小松島まで鉄道のはずなのに適当な便がなかった所為か、炎暑の日盛りを四、五時間、もちろん舗装もない地道や山道をドスンドスンとバスに揺られっぱなしで帰ったこともあったが、あれはたった一度きりの経験だっけれど、私ら二人はあの時いったいだれと道連れの帰参だったのだろう。

日和佐町のもっとも賑やかなあたりに四国八十八ヶ所の二十三番札所薬王寺がある。国道に面して参道の石段がそそり立つように連なり、山腹に点在する堂塔伽藍が樹木の合い間を突き抜けるように聳え立つのが見える。
その日和佐の中心街を抜けたあたりから牟岐町へは海沿いに走る南阿波サンラインという道路もあるが、先をいそぐ身には国道55号線のほうが距離も短くて利便だから、景観のほうは犠牲にする。
と、長いなだらかな峠にさしかかったころお大師様と同行二人、遍路の旅装をした若い男性がひとり前方を汗を拭きふき歩いてゆくのが見えた。昨夜は薬王寺の参拝をすませて日和佐泊りだったにちがいないが、いまこの辺りを歩いているなら朝6時前には出立しているだろう。次の24番札所は室戸岬の最御崎寺だからこの間なんと77㎞の行程である。この距離を季節柄もよくよほど自信の健脚ならば一日12~3時間歩いて二日で踏破してしまうのかもしれないが、この炎天下ではあまりに苛酷すぎようから三日間かけてゆくのではないだろうか。とすれば一日の行程26km平均となるから距離そのものは過重なものではないけれど、それにしてもそんなに頻繁な量でないとしても車がビュンビュン走るアスファルトの国道を、酷暑のなか延々と歩きつづけるというのは苦行以外のなにものでもないだろう。昔々の四国遍路は人も通わぬ山深い峠の道にあるいは道なき海辺の岩陰に、たとえ途上行き倒れて命を落とすとしても同行二人なれば往生疑いなしと覚悟のうえであったろうが、文明のゆくてに未来は望みえずただ終末しか描けぬ現代という病いのなかで、巷にあふれる果てしない逃避行を180度転換したごとくみえるいま流行りの遍路行には、これはこれで往時とはことなる別次の緊張もあれば容易ならぬ気力も要るだろう。
そんな遍路たちのひとりゆく姿に、さらに牟岐付近でと、宍喰あたりでと、野根街道へと入る手前でと四度出会ったのだが、年齢は一見したところ20代から50歳前後までかと見受けられたが、それぞれ一様にしたたり落ちる汗が熱い陽射しに光りの粒ともなって、ひたすら前へ前へと黙々と歩きつづけるその後姿からふと感じられたのは、新薬師寺で見たことのある十二神将像のバサラたちにも似て、闇の奥底ふかくを睨みすえるようにして立つ気迫に満ちた意志の放射だった。
それにしてもクルマに代表される現代のあたりまえの日常の移動のリズムと、それとは極端に異なる自分の身体だけをたよりにただひたすら歩くしかない古来より変わらぬ人としての歩行のリズムとが、まるで未開と文明のごとくまったく交わりようもない異次元の生命の営みとして、同じ時空に互いに乖離したまま存在しているというこの不可思議な現実をいったいどう受けとめるべきなのだろうか。 -(この項つづく)

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July 27, 2005

石をまつり水のわくところ

<日々余話>

moonbaseさんの「自力Vの消えた巨人の問題は?」にトラックバックしています。

<阪神優勝の確率は?>

オールスター前の数試合は打線低調でこのまま失速するのではと心配させたが、
昨夜の巨人戦で終盤は打線爆発、巨人の自力優勝の芽をもぎとった阪神は、このまま死のロードを乗り切って二年ぶりの優勝への道をまっしぐらに進むのではとの期待がいよいよ膨らむ。
表題のごとく「阪神優勝の確率は?」と予測投票するお遊び向きのサイトがある。
現在のところ、77.9%の人が阪神優勝と予想している。
いささか気が早いけれど、優勝となれば、MVPは「藤川球児」でいいんじゃないの?
との説が阪神ファンのあいだでは囁かれているそうな。
中継ぎ投手がMVPにというこの話、かなりイカシてる、と私は思うのだが、
みなさんはどう考えるだろうか。

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July 26, 2005

颱風吹きぬけた露草ひらく

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    「阿蘇の火口を背に」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<トライアングル-神澤茂子と天津善昭>

一昨年急逝した舞踊家K師の三回忌が近くなってきたので、昨日(24日)、およそ二年ぶりになるがK師宅を訪ねてみた。
阪奈道路から学園前の方へ入って数キロ走ると大渕橋に出る。ここから山中へ向かう道の突き当たるところが新興宗教らしき御嶽教大和本宮なのだが、その社殿に沿って横あいの細い道をアップダウンして、ちょうど裏山にあたるところ、森閑とした雑木林に包まれるようにK師の居宅と稽古場がある。
夫人の茂子さんは、若い近大OBの元研究生たちが稽古をしているのに付き合っていた所為だろうが、とても元気そうに振る舞っていた。
夫人はK師と同年だから満76歳。永年の舞踊家人生で苛酷に使い痛めた膝の故障以外は、すこぶる健康体でおられるようなのがなにはともあれ悦ばしい。
こうして逢うとお互いに三十年、四十年の星霜が二人のあいだに甦ってきて感慨ひとしきりと相成る。K師を取り巻いてつねに激しく動いてきた来し方、色々あった、ありすぎるほどにあったアレもコレも、
立場は異なるゆえその彩りはそのつど微妙に、時には大きく違ったのだろうが、今はもうその隔たりさえ優しく包み込んで受容できる雰囲気が満ちているような気がする。

K師と茂子夫人の出逢いが具体的にどんな経緯だったかよくは知らないが、K師は旧制高津中学、夫人は清水谷高女で同学年である。K師は終戦後すぐに学校で演劇部を立上げ、大阪の高校演劇の創生期をなすべくずいぶんと活動したというし、夫人のほうは牧場を有するような富豪のお嬢様とかで、モダンバレエと馬術に活躍していたというから、当時すでに互いに噂の人として聞き及んでいたかあるいは直接に見知っていたのかもしれない。
K師は旧制大高(現大阪大学)を経て、京都帝大(現京大)国文へと進み、夫人は府女専(大阪女子大・現大阪府大)へ進学したというが、どうやらこの学生時代から二人が交際していたらしいことは間違いないところで、眉目秀麗のエリート演劇青年がモダンバレエの法村門下で嘱目の男性舞踊家へと変身を遂げた背景に夫人の存在が深く関わっていたようだ。
私がK師の門に参入したのは63(S38)年だが、この時期すでにK師はドイツのR.ラバンやM.ヴィグマンから日本の邦正美へと連なる創作舞踊の系譜へと転身して五年余り経過しており、夫人を筆頭に十数名の研究生たちで一門を形成していた。そのなかには男性も若干名いたのだが、数年後には私の先輩としては天津善昭ひとりを残すのみで、惜しくもみな立ち去っていったのである。
天津善昭は私にとっては二年の年長。奈良と県境を接する京都府木津町の農家に育ったが、奈良県下随一の公立校である奈良高校を経て大阪市大文学部へ進学した。高校同期に60年代の三派系全学連委員長となった秋山勝行がいたと聞いたのもいまでは懐かしい。大学を卒えて、高校の国語教諭として大阪市教委に奉職した彼は汎愛高校へと赴任し、同校に二十年ほど勤務したのち他校へ転任している。
この茂子夫人と天津善昭に私を加えて、三人の会としてジョイントリサイタルが成ったのが68(S43)年の6月だった。各々小品を三つずつ作り計九つの作品集にK師の作品「Blues1.2.3」が添えられ一夜の会とした。作品の出来栄えはそれぞれ一長一短あったとしても、まがりなりにもK師門下より初の作家デビューというかたちである。さらに同年秋にはK師研究所創立十周年記念の公演を、K師の代表作によるプログラムでなされたのだが、いわばこの年は、K師の初期十年の成果を世に問うたメルクマールのごとき年だったといえるだろう。
K師の初期十年の歩みは、同伴者の夫人にとっては共に歩みつづけた十年であったろうし、今後の行く末もまた共に歩みつづけることになんの疑いを差し挟むべきものでなくまたなんの躊躇もないものであったろうが、自身の初心の七年を経てきた天津善昭や、同様に五年を経てきた私にとっては、自分自身における展望へのまなざしの向きをどう考えるべきか、徐々に内向していかざるをえない時期となっていく。それはK師や夫人にとっては、私たちの変節とも映らざるをえないものであったろうことは想像に難くないが、K師もまた次なる十年あるいは二十年へと変貌を遂げようとしていくなかで、天津善昭にしても私にしてもそれぞれ別様にではあるが、我が道を手探り同然で見えているものまた見ようとしているものが、K師とのあいだに齟齬をきたしていくのは止むを得ないことだったように思う。
こうしてK師初期の後半を支えてきたかにみえた夫人と天津善昭と私のトライアングルも形骸化していき、やがて夫人のみを残し、新しい戦力の育ってくるのをこの眼で確かめつつ、彼も私もそれぞれ立ち去りゆくのだった。

いま、天津善昭は生まれ育った木津の生家にひとり静かに俳句を詠みながら暮らしている。
数年前には細君に先立たれ、また自身も肺ガンに襲われ片肺を摘出、残されたほうの肺もまた肺気腫に見舞われ、酸素ボンベを片ときも離せない日々だという。
二年前にK師が急逝したおり、私はたしか一度きりだが泊まったかすかな記憶の残る彼の家を、それこそ三十年ぶりかという訪問をし、まさに積もる話も尽きぬとばかり何時間もお互いの近況について話しこんだのだった。
細君とともにある俳句の会に名を連ね句を詠んできたその結晶たる句集を、彼のものと細君のものと各々一冊ずつ頂戴して、私はやっと家路についたのだった。
病状ゆえにやむなく二年ほど前倒しして教師生活にピリオドをうち退職したというから、もう四年前からこの独り暮らしがつづいていることになる。
幸いにも二人の娘さんがすでに嫁いでいるとはいえ、日課のように交互にやってきて世話をしてくれているので、こうしていられるのだとも言っていた。
その彼が、酸素ボンベを抱いて、みずから車を運転して、この山中のK師宅へ、夫人を訪ねてきたと聞いて、私はほんとに吃驚してしまったのである。
「エッ! アマッチャンが?」 昔から私たちのあいだではアマッチャンなのだ。
「ほんとに、いつ?」
「5月や、二ヶ月くらい前や」と夫人。
そのあとつづける夫人の話を聞いて、私は二度びっくりしたのだが、まことに心あたたまる話に思わず一瞬涙があふれだすような強烈な感懐を抱いたのである。
夫人曰く、私も俳句をしたいから、教えてくれるか、といったら、一も二もなく、こんな私でよかったら、是非やりましょう、ということになり、
それからは二人のあいだで毎日のように、夫人は日なが一日をどこでも懸命に五七五と数えては詠み、夜になるとその日の成果である四つか五つの句をしたため、天津宅へファックスで送信する。
朝が明けると、彼から丁寧に添削され点付けされたものが返信されている、というのだ。
これがいま楽しくてしかたがない、一日二日と滞ったりしたら、なにか異変でもあったかと心配もさせるし、句を送れないときはちゃんとその旨を連絡しておかなくてはいけない。
孤独な独り暮らしをかこつ昔馴染み同士が、俳句が取り持つ縁とも頼みの綱ともなって、往時を懐かしみつつ、毎日交信している、というのだから、
「そりゃ、いい、絶対、いい。こんないい話はまたとないから、つづけなくてはいけません。」
と応じ、最近読んだ「ひねくれ一茶」が読みやすくて結構おもしろいから、とお節介にも勧めてみたりまでしたものだ。
彼、天津善昭には、自分と同じように連れ合いに先立たれた嘗ての師の夫人でもあり同僚ともいえるその人がずっと心に懸かってならかったのだろう。自分の寂しさよりもおそらく数倍は激しく今はなき者を追慕してやまぬであろう夫人の心情が手に取るように解っていたのだろう。夫人の心の支えとして自分にしかできないこともありうることが‥‥。
三十数年前のトライアングルがこんな形で復活してくるものとは思いもよらず、K師の三回忌を契機として、この先にいかほどの年月が残されているのかは神のみぞ知るで計りようもないけれど、老いてなお別次のトライアングルを描いてみるのも大いに実りある大切なことであるのかもしれない。

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July 24, 2005

身にちかく水がながれくる

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    「うしろすがたの山頭火」より

<四方の風だより>

<加齢もまた芸の肥やしとなるか-琵琶五人会>

22日、金曜日の夜、文楽劇場の小ホールの「琵琶五人会」に行った。
毎年この時期に開催され、今年はもう16回目とある。
この世界に些か縁ができてもう五、六年になるだろうか。
それからほぼ欠かさず聴くことにしているが、
今年の演目は、NHKの大河ドラマが「義経」のせいか、
平家物語のなかでも義経ゆかりのものばかりを選んでの会となっていた。
それも時代順に配列されるという心配り。
先ずは、薩摩琵琶の中野淀水氏の「鞍馬山」
五条大橋での弁慶との対決前の牛若丸時代である。
続いて、同じく薩摩琵琶で杭東詠水氏の「鵯越(ひよどりごえ)」
ご存知源平一の谷合戦の奇襲、鵯越の逆落としのくだりである。
三番はやはり薩摩琵琶の加藤司水氏の「舟弁慶」
能でもよく知られた曲だが、頼朝との不和から西国へと逃れる義経主従が、平家滅亡の壇ノ浦で知盛の亡霊に襲われるが、弁慶の折伏で難を逃れるという語り。
四番は筑前琵琶の竹本旭將氏の「安宅の関」
これまた能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」としてつとにお馴染みだが、奥州平泉へと逃れる山伏姿の義経主従が、安宅の関所にて関守の富樫に見咎められ、弁慶の機転で無事に通過するという一段。
最後に紅一点、筑前琵琶の奥村旭翠氏の「衣川」
義経終焉の地平泉は衣川の館と伝承されるが、頼朝の意を汲んだ藤原泰衡に襲われ悲劇的最期を遂げる義経主従の語りである。

昨年の会でも感じいったたことなのだが、やはりこういった語り物ともいうべき伝統の芸は、年期が物言うとともに実際の加齢もまたあなどりがたく、枯淡の味わいを深くするものである。
語りの確かさは瞑目するところであったが、決して達者、巧者と思えなかった旭將氏の語りが、加齢のせいか、剛から柔へと変化を遂げ、枯淡の味わい色濃くなっているのが印象深かった。
加齢とは、余分な執着を脱するに、必要欠くべからざる条件ではあるか、と思う。

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July 21, 2005

父が母が、子もまねをして田草とる

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「父母が眠る墓-箕面墓地公園」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<おやじのこと、おふくろのこと-承前>

私が小学校の三、四年になった頃には、おやじはもう一人で外の居酒屋などで酒を呑むことはしなくなっていた。軽いものとはいえ脳溢血の後遺症もあったのだろう。足の運びも手や指の動きも少しは不自由らしく、まだ四十過ぎたばかりなのにその外見はすでに初老然としていた。小学校も高学年になって学校の友達なんかが家に遊びにくるようになると、初めておやじを見かけるだれもがみんな決まって「アレ、お前のお祖父ちゃんか?」と尋ねたものだった。ことほどおやじは実年齢より老け込んでいたのである。高等小学校を終えてすぐというからまだ14歳だったろうが、その年で和歌山の製材所へ奉公に出たというおやじは成人にいたる思春期の何年もの歳月を頑健な身体だけを頼みの苛酷な仕事に従事し身を粉にしてきたのだろう。両肩の筋肉が盛り上がってまるで張子の虎のようになった首と丸く湾曲してしまった背骨がそのことをよく物語っていたように思う。
さて、外で呑まなくなっていたおやじは家内でのゆっくりと時間をかけた晩酌が日課となっていった。おやじとともに家族のみんなが夕餉の食卓をかこむ。八畳の座敷に大きな座卓がひとつ、それを囲んでおやじとおふくろ、そして五人の子ども、長兄(8歳上)、次兄(4歳上)、双生児の三兄、そして私と妹(4歳下)の計七人というところなのだが、実はまだ他にも何人かの同居人たちがいる。そのころはたいがい中卒や高卒のいわゆる住み込みの若い人たちが、時によって三、四人か多いときで五、六人が同居し、おやじの仕事に従事していたのであるが、その同居のお兄ちゃんたちもほぼ一斉にかあるいは交互にか食事となるから、いつも十人を越える大所帯の食事風景なのだった。我が家の業、おやじのその仕事については機会をあらためて触れることにしようと思うが、みんな食事を終えてもおやじの晩酌はなおもつづく。
たしか、我が家の茶の間にテレビが初めてお目見えしたのは私が五年生になった年だったから昭和30(‘55)年のことで、季節はいつだったか忘れてしまったが、ある日、学校から帰ると八畳の居間に見慣れぬモノが重々しくもデンと座っており、画面では大相撲の中継が流れていたのを見て吃驚した記憶がある。その頃のテレビといえば、近所の銭湯の入口付近にしつらえた高棚に置かれ、力道山のプロレス中継などに人々が群がって見入るという光景のいわゆる街頭テレビしか知らなかったから、我が家にテレビが登場したのには本当に驚いたし、まだ学校でも誰かの家にテレビがあるなんて聞いたこともなかったから、おそらく近所でも一、二番に早かったのではないだろうか。
そのテレビもまだ茶の間にない時代だから、食事を終えた兄たちや同居の人たちはさっさと自分たちの部屋に戻ってしまうし、母親は台所へと片付けにかかりだすから、どうしてもおやじの傍に取り残されるかたちで、まだ専用の学習机もない双生児の私らふたりやさらに幼い妹がなすこともなく居つづけることになる。酔うほどに寡黙で小難しいおやじも少しは機嫌もよくなってなんだかんだ口を開いてくる。といってもとくに話題もないから、いわゆる子どもをてがうというやつで、おやじがよくやったのが、世界の都市を人口の多い順に言っみろとか、日本の山や河川の高い順や長い順とか、同じく世界のそれとか、地理上の丸暗記の類でクイズまがいの遊びだ。おやじはそんなことをなぜだかかなり詳しく覚えていて、大概15くらいまで順番に挙げていく。けれどそんなネタも所詮は限られているから、いつのまにか此方は全部暗誦してしまって、この手のネタではもう通用しなくなった頃には、此方もだんだんおやじの子どもの頃の話に興味を抱くようになってきて、話題はおやじの子ども時代の昔語りへと転じていったりしたものだった。

おやじは両親をまったく知らない子どもとして育っている。
父親は不在あるいは不明、どこのだれともわからないままである。
母親は幼い頃亡くなったといい、その面影の記憶さえなく、
祖母の手ひとつで育てられたのだ、という。

これらのことについては、私がもう四年にはなっていたと思うが、夕食も終えたのにまだ相変わらず晩酌をチビチビとやっているおやじが、此方からどうやって話の矛先を向けたものか、どんなキッカケから自分で話し出したのか思い出す術もないが、もうその頃になると、此方もおやじの子どもの頃の話とか昔のことを知りたい盛りだったし、話のキッカケをつかむと此方もいろいろと聞き返していくといった調子で、相変わらず寡黙な小難しいおやじながらずいぶんと聞き出し上手になっていたものだった。それには4歳ずつ離れた上の兄貴たちとは違い、此方は双生児という願ってもないコンビがいつも一緒なのだから、別に打ち合わせなどせずとも二人して阿吽の呼吸で口の重い怖い面持ちで呑みつづけるおやじの機嫌とりも案外たやすくできるようになっていたのかもしれない。
 (この項つづく)

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July 20, 2005

燃えに燃える火なりうつくしく

20050720

<古今東西-書畫往還>

<おもしろうて、やがてかなしき‥‥、ひねくれ一茶>

これまでそれほど興味を示さなかったことに、ひょんなことからどうしても知りたくなったり、強い関心が惹き起こされる場合がときにあるものだ。
ひとつきほど前か、「これがまあ終の栖か雪五尺」と詠んだごとく、五十路になってから、義母や義弟とさんざ遺産相続で争った挙句、江戸から故郷信濃の生家に移り住んだ一茶の晩年が、近在から若い妻女を娶り「おらが春」をめでたくもたのしく謳歌したものとばかり思っていたら、老いらくの身にせっかく授かった四人の子どもを次から次へとはかなくも早世させ、おまけに妻女にも先立たれ、さらに二度、三度と後添いとの暮しに執しつづけ、六十五歳をかぞえてなお三度目の妻女にはからずも宿った子どもの誕生を待たずにコロリと往生した、というなんともいいがたい宿業にまみれにまみれたその生涯に、どうしても触れてみたくなったのである。
そこで、何を読むべきか少しばかり探索してみて、田辺聖子の「ひねくれ一茶」を選んだのだが、これはこれで正解だったようだとは読後の第一感。文庫本で640頁の長編だが、よく書けた手練れの一茶物だといえるだろう。
竹西寛子が書評にて「絶妙に配置されている一茶の句は、配置そのものが著者の鑑賞眼を示していて、それはすでに創作の次元にまで高まっていた鑑賞だということがよく分る。」というように、全22章の至るところに一茶の句が散りばめられて、その壮年から晩年へと、俳諧宗匠として立つべく江戸での千辛万苦の奮闘ぶりから、義母や義弟との相続争いを経て、不幸つづきとはいえ故郷信濃にやっと落ち着きを得た一茶晩年の暮らしぶりに、風狂に徹した反骨精神の凄まじいまでの生きざまが、決して重苦しくなることなく描き出されていて、一気呵成に読み継がせてくれる。
生涯に2万余句を残した一茶とは、まさに、吐く息、吸う息のごとくに句が生まれ出た、というにふさわしかろう。
漢籍の教養をもたぬ田舎者、無学の一茶が、当時の江戸において俳諧宗匠として立机するのはやはりどうしても無理があったのだろう。いやそれよりは己に正直すぎた由縁か、月並みの点取り俳句にその身をおもねることもできる筈もなかったろうに。

 名月や江戸のやつらが何知って
江戸の奴らが何知って、とはよくぞ言い切った。信濃の山猿なればこその吟懐がある、風流があるの心意気。
 葛飾や雪隠の中も春の蝶
余人の真似手のない見事な赤裸の心は嘗てありえなかった俳諧の美を際立たせる。
 擂粉木(すりこぎ)で蝿を追ひけりとろろ汁
当意即妙の吟にも材の付合いに一茶の真骨頂があるとみえる。
 江戸の水飲みおほせてや かへる雁
江戸の水、江戸のなんたるか、40年にわたる江戸生活のすべてを飲みおおせて、故郷へいざ還りなむとす。

以下、寸鉄の如く心に響いた句をいくつか挙げておく。
 古郷や近よる人を切る芒
 天に雲雀 人間海にあそぶ日ぞ
 死にこじれ死にこじれつつ寒さかな
 五十婿 天窓(あたま)をかくす扇かな
 這へ笑へ二ツになるぞ今朝からは
 死に下手とそしらばそしれ夕炬燵
 花の世に無官の狐鳴きにけり

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July 17, 2005

ふるさとの水を飲み水を浴び

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<風聞往来>


「地底旅行寄席案内」


<7月地底旅行寄席に桂三枝登場>


今月の地底旅行寄席には、桂三枝が出演する。
掲載の案内チラシのとおり、7月19日の火曜日である。
ところで、桂三枝の誕生日は昨日の7月16日だそうで、
今日、17日は、実は私の誕生日である。
彼は43年生まれだから一年年長だが、大阪府立港高校から関西大学へ行った。
その高校・大学時代とマスコミに売れっ子になるまでの若き時代を、
私が通った母校・市岡高校の裏門(現在は建て替って正門になっているが)のすぐ近くに住んでいた。
高校時代にとくに仲の良かった友と隣同士だったというから縁は異なものである。
この地底旅行寄席の企画自体も、三枝と幼馴染みになるという田中機械のN氏との友情を背景に成り立っていることは前に紹介した。
そんな訳で、毎年一度や二度は必ず三枝自身が登場するのだが、それも誕生月の7月は必ず出演し欠かすことがないのである。
毎月一回の寄席をはねると出演者たちをねぎらって打ち上げの会をレストラン地底旅行で関係者集まってにぎやかに行なうのが恒例となっているのだが、この宴が7月の三枝出演の日はささやかな彼の誕生パーティともなって幼馴染みらとの旧交を温めるひとときとなるのだ。
おまけに彼らは宴会の後、決まって卓球大会に打ち興じるのが慣わしとなっているらしい。
なぜなら、三枝がこの卓球をなにより愉しみにしているからなのだが、酒も入り、食欲もほどよく満たされたあたりで、「ほな、腹ごなしに一丁いこか」といった調子で寄席の客席が卓球場に早変わりするのだ。
私も一度だけだが、歌手の松浦ゆみと一緒にこの打ち上げと卓球にお付き合いしたことがある。
ダブルス戦のトーナメント方式で、その日は4組だったか6組だったかもう忘れてしまったが、一時間半ばかり汗を流しながら打ち興じたのだったが、そんなに三枝自身が愉しみにしていると聞いていたから、さぞ上手いのだろうと思っていたら、豈はからんや、いわゆる下手の横好き、その腕前は卓球というよりピンポンというのが似合いのものだったのが意外で、対照的に幼馴染みのN氏のほうはアマチュア同好会で鳴らしているほどの上手だった。
卓球の腕のほどはそんな程度なのだが、三枝はどうやら心の底からそのひとときを愉しんでいるのだということは私にもよく伝わってきた。
三枝にとって、幼馴染みらと過ごすこのひとときは、幼かったころの懐かしき心のふるさとに立ち返りうる、年に一度のささやかではあるが此処にしかありえぬ濃密な時間なのだ、ということが此方の胸にもじんと響いた一夜だった。
この19日の夜も、寄席がはねた後は、いつものように三枝が童心にかえってピンポンに興じる姿がみられる筈だ。

――――――――――――――――――――
第64回「地底旅行寄席」
7月19日(火) PM6:00開場 PM6:30開演
田中機械ホール(レストラン地底旅行隣接)
出演  桂 三枝
     桂枝三郎
     桂 三金
     桂三四郎
前売2000円 当日2500円
電話予約受付有り 060-8526-0327
――――――――――――――――――――

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July 15, 2005

投げ出した脚をいたはる

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  photo「宮古島にて」

<日々余話>

<蔵書目録を作ってみた‥‥>

ここ数週間のあいだ、折々の閑な時間を利用しながら、蔵書目録を作ってみた。
以前にも触れたことがあったが、15.6年前にほぼ2000冊ほどあった蔵書を、
十冊に満たない僅かなものを手許に残したのみで、すべて処分した経緯がある。
言うなれば、清水の舞台から飛び降りるほどの、私ごとの大きな転換があったということだ。
したがって現在の蔵書は、それ以後の十数年で、ぼつぼつと新たに手に入れてきたもので、
約1000冊と踏んでいたが、厳密には現時点で987冊だった。
これらを自分なりの分類で整理をすると以下の如くとなった。

1-文芸作品-詩・小説・短歌・俳句・古典 -183
2-評論-哲学・思想系  -176
3-評論-歴史・宗教・民俗系 -173
4-評論-文藝・芸術系  -177
5-評論-心理・精神・医療系 - 78
6-評論-自然科学系 - 21
7-評論-政治・経済・法律系 - 49
8-趣味実用系、その他  -103
9-辞書・事典類 - 27

自分ながら読書傾向に顕著な偏向を示しているものだとつくづく思いいたる。
さらに著者別の多いものを挙げると、
吉本隆明、柄谷行人、山頭火関連、網野善彦、梅原猛、塩野七生、
と、その偏向ぶりはいよいよ際立ってくるのだが、
それでも、昔の読書傾向からすれば、間口はかなり広くなっているのだから善しとしなければなるまい。
この蔵書をほぼ6割がた通読したとして600冊ということは、
自分の年を考え、あと15年ほど同じようなペースで読んでいくとしても、たかがしれているものだ。
ならば、よほど精選して目的的にあらねばならないし、嘗て読んだものに幾たびも立ち返っていく作業も大事と心得ねばならないだろう。

今月の購入本
 赤坂憲雄「山の精神史-柳田国男の発生」 小学館ライブラリー
 E・W・サイード「オリエンタリズム-上」 平凡社ライブラリー
 中川真「平安京 音の宇宙-サウンドスケープへの旅」 平凡社ライブラリー
 E・フッサール「ブリタニカ草稿」 ちくま学芸文庫
 塚本邦雄「十二神将変」 河出文庫
 田辺聖子「ひねくれ一茶」 講談社文庫

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July 14, 2005

蚊帳の中なる親と子に雨音せまる

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                       「松島湾を臨む」

<世間虚仮>

<エッ、日本はニッポンだったの?>

今日、7月14日が、フランス革命のパリ祭だということはだれでも知っているだろうが、
1970(S45)年のこの日、日本の呼称を「ニツポン」に統一することを閣議で了承、とあった。
‘70年といえば、現在開催中の愛知万博でなく、大阪万博で国民の過半が大移動し騒ぎ賑わった年だったが、そんな渦中に日本を「ニッポン」に統一されていたとは、まったく失念していたのか、ニュースに気づかないままだったのか。
それにしても、私はこれまでずっと、ニッポンといわず、日本はニホンと発声することを習性としてきている。ニッポンという音感の弾みのよさにはなんとなく異和を感じてしまう無意識の心性を宿したままなのだ。
今なら、テレビで女子バレーの中継があり、昨年のアテネ・オリンピックやサッカーのワールドカップ予選など、スポーツ観戦の応援では、ニツポン、ニツポンとpの炸裂音で連呼しなければ、弾みもしないし盛り上がりもしないだろうから、こういう場合のみ致し方ないかと受け止めてきたのだけれど、とんだ勘違いだったという訳だ。

私の語感覚は、やはり少しばかりズレている、乃至は、ちょっぴりはみ出していると再認識させられた、些細な一件だが見逃しがたいことではある。

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July 13, 2005

くらがり風鈴の鳴りしきる

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   photo「うしろすがたの山頭火」より

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<おやじのこと、おふくろのこと>

父や母についてなにか書きとめてみようと思っても、父・母という表記では妙にあらたまって筆がすすまない。これもまた大阪の下町、ごく下世話な育ちゆえなのだろうが、やはり我が家ではおやじ・おふくろで運ぶのが似つかわしいし落ち着けるというもの。

もう半年くらいまえになるのだろうか。
ある日、なにを思い立ってか、小さなフォトフレームを買ってきて、死んだおやじとおふくろの写真をそれぞれ、いつでも眼に入るように居間の棚に並べて置いたのだった。食事をしようとテレビを見ようと或いは本を読んでいようと、視界には必ず入るところに小さな二枚の写真は仲良く鎮座している。
仲良くといっても、生前のおやじやおふくろが、とくに仲の良いほどの夫婦だったかといえばそんなことはあるまい。戦前のことだし、当時としてはありきたりの見合いというほどのこともなくお互い知らない同士の他人様の世話による紹介結婚のようなものだったろうし、戸籍によれば、長男の誕生後にやっと入籍しているところをみれば、跡取りを得てこそやっと夫婦たりえたというよくある家父長制色濃いパターンだったとみえる。
おやじは明治44(1911)年生れ、十年あまりにおよぶ長い闘病生活のはてに、昭和50(’75)年、おおかたの親族に見守られつつこの世を去った。享年64歳。あれからもう30年を経ている。
おふくろは大正3(1914)年生れ、連れあいに死なれてよりなお25年の歳月を平穏無事に生き、平成13年(’01)、その日は休日だっこともあってか同居の妹家族のだれにも気づかれぬままに息を引き取っていたという呆気なくも静かな往生だった。享年87歳。
私は5人兄弟の下のほうだから、したがって家には仏壇も位牌もないし、墓参だって年に一度行くか行かないかといったいい加減さで、供養とか祀りごとには縁遠い。長兄宅で毎年催される盆の行事にも、訳あって四年前から欠礼することにしている。
そんなこんなで、彼らの面影に触れる機会もずいぶん間遠になっていたのだが、二人の写真を並べて置いてからは、いやでも眼に入ってくるおやじやおふくろの決まりきった写真のなかのいつもの表情に、時折ふと甦ってくる古い記憶のなかに身をおいて、なんとはなく自分の来し方をふりかえり眺めているような時間をもつようになった。

あれは私が六つか七つくらいだったろか、小学校の一年かせいぜい二年までだったろう。
その頃のおやじは、すでに一度脳溢血で倒れていた筈なのだが、大事に至らなかったとみえて、夕刻近くになると、近所の居酒屋-この頃は居酒屋といういいかたはせずたんに飲み屋といっていたが-によく呑みにいっていた。
ある日、夕餉の支度を終えたおふくろが「お父ちゃん迎えに行くから一緒に行こう」と私に声をかけたのだろう。なんとなく気恥ずかしいような落ち着かない感じを抱きつつ、母親と手をつないで歩いて出かけたのだった。
近所といっても子どもの感覚からすると少しばかり距離はある。私たちの家は昭和通りとも租界道路とも呼ばれた幅25メートルほどの通りに面していたのだが、これは当時としてはかなりの大通りではあるが、その呼称からいっても空襲であたり一面すっかり焼け野原になったればこそ誕生しえた道路だったのだろう。
その我が家から裏のほうへ、というのは北東の方角になるのだが、2丁ばかり行くと九条新道という商店街が1km余り北西から南東へと伸びている。
この商店街は戦前からずいぶんと賑わった通りで、当時も映画館が六軒も七軒あったほどで、近在ばかりでなくかなりの遠方からも客足があったという。戦前にはちょいとした劇場もあって、人気者だったエンタツ・アチャコの漫才や市川右太右衛門の一座なんかがよくかかっていたと聞かされたこともあったっけ。
この商店街をまっすぐ横切って行くと、街並みの雰囲気がガラリと変わって松島遊郭の界隈となる。勝新太郎の映画「悪名」の主人公八尾の朝吉が女郎の足抜けだったかのエピソードを残したのは戦前の松島遊郭で、これは尻無川を挟んだ川向こうだっのだが、それが昭和20年3月の大阪空襲でほぼ壊滅状態となって、戦後は川の此方へと移ってきたのだった。赤やピンクのどぎついネオンの色に染まったこの界隈は、子ども心におどろおどろしくも妖しげで、中学生くらいまではそこを通る時はいつもなにやら後ろめたさと早まる動機に視線は定まらずキョロキョロと宙を泳がせながら歩いたものだ。
その遊郭界隈の戸口にあたるような通りの一軒の居酒屋の前で、おふくろが足を停める。店の中を覗きこむが自分からは入ろうとはしない。おやじの姿を見つけたらしく、店内のほうを指しながら「あそこに居るから入って呼んできて」と私にいう。ガラガラとガラス戸を開けたら、カウンターになつた奥のほうに背中を丸めて飲んでいるおやじの横顔が見えたので、そばまで駆け寄って声をかけた。「お父ちゃん、ご飯やから帰ろうって」 おやじの強面の顔つきが、それでも目尻の辺りだけニコリと皺を寄せて私のほうを見やる。
と、そこまでは記憶にあるのだが、それからはたして、おやじとおふくろと三人で家路についたものかどうか、まったく記憶が飛んでしまっている。ほんの少しだが屹り癖のあっただんまりやで無愛想なおやじが、子連れで女房が迎えに来たからといってすんなりと腰を上げる筈もなかろうから、おそらくは「すぐ行くから先に帰ってろ」という具合ではなかったか。まだ子ども心に怖いのが先立つようなおやじであったから、三人で連れ立って家路についたにせよ、楽しいほどに和気藹々ということにもならないのだが、記憶にないところを思えば、やはりおふくろと二人してもと来た道をすごすごと帰っていったのだろう。  -(この項おわり)

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July 11, 2005

蓮の葉に雨の音ある旅のゆうぐれ

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「ローマのコロセウムにて」

<日々余話>

<瘡蓋-かさぶた>

人の死や喪失はどんな場合であれ哀しみや悲しみをともなうものだ。
死者はだれでも悼まれてよいだけの重さを此方側-生者たちにのこして立ち去ってゆく。

吉本隆明は「追悼私記」のあとがきにこんなことを記している。
「現在でも、ひととひととの関係は、あるばあい痛切-切実-でありうる。だが痛切-切実-な言葉がその関係を媒介することはありえない。それは言葉がイロニーや羞かしさを伴わないでひととひととのあいだの痛切-切実-にわりこむことが不可能になっているからだ。別の言い方をすれば、現在では言葉はその程度の信用度しかなくなっている。言葉がまったく信じられると思いこんでいるものも、言葉をまったく信じているふりをしているものも、あとを絶たないが、それこそ真っ先に消失しなくてはならない倫理のひとつだとおもえる。死の痛切-切実-はいよいよ瞬間的になってゆき、すぐに忘れられ、土砂を被せられてしまう。」

痛切-切実な感情や想いというものは、たしかにいくら言い尽くしたとしてもなおあまりあるものがある、というのはそのとおりだし、そこには言葉の限界というものがあるのかもしれない。
しかし、言葉とはあるものやことをその限りにおいて封じ込めてしまうものだし、また同時に呼び起こすものでもあろうから、どんな言葉もその痛切-切実-を覆い尽せはしないとしても、言葉を尽すことの意味が掻き消えるものでもあるまいし、記憶が<記憶を想起したそのときに作られている>とするものならば、言葉を尽くそうとしないかぎり記憶として想起することも起こりえないものとなるだろう。
たえざる想起とは、たえざる言語化に通呈するということか。
死や喪失からくる痛切-切実-な重さとは、それに耐ええないような、我が身がうちひしがれるものであってはならぬということ。その重さを受けとめきることは、たえざる想起のうちにあり、たえざる言語化のうちにあるといえようし、その瘡蓋-かさぶた-は剥がれつづけねばならないだろう。

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July 10, 2005

待つでも待たぬでもない雑草の月あかり

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<日々余話>

<環境変われば‥‥、文月会展>

昨日、雨模様のなか、「文月会展」へ。
いざ出かける寸前まで電車で行こうかと迷ったが、帰りは疲れて正体もなくぐったりと眠り込むであろう幼な児を連れての電車の乗り換えや雨中の徒歩を思うと、やむなく車を走らせることにした。
大阪市内から一時間半余り。
会場の三条木屋町を上がってすぐの東側、ギャラリー中井は予想外にもビルの一階だった。
路上からガラス越しに会場内部がほぼ一目瞭然、展示された作品群も外からよく見える。
室内の中央奥に懇談用のテーブルと椅子が置かれ、何人かの先客が腰掛けている。立ったまま別の客に応対しているN氏の姿が見えたと思ったら、向こうでもすぐ此方に気づいて、やぁとばかり手を振ってくれる。外からガラス越しにすかさず此方も挨拶を送るのだが、昨年までの会場は二階が貸し画廊になっていたので、些かカンが狂った。
三組の夫婦6人のグループ展とは先日の紹介記事ですでに触れているが、もう何年も観てきているから見慣れた筈の六人六様の作品が三方の壁面に居並んでいるのだが、会場空間の変化ゆえであろう、まず全体から受ける印象が昨年までとずいぶん異なることに驚かされた。
個々の作風というものは年々それなりの変化を示すとしても、初心の頃とは違ってみんなベテラン乃至中堅作家となれば、そうそう大変わりするものではない。
それに比して、環境としての空間の変化は、そこにたとえ類似の或いはまったく同じ作品が展示されたとしても、全体として受ける印象は大いに変容を被るものだ、ということをあらためて認識させられた。
これは路上に面した入口側が全面ガラス張りという画廊としては開放的にすぎるほどの空間設計によるものでもあろうから、正直な私の印象からすれば、必ずしもプラスに働いたというのではなく、全体としては散漫な印象に流れたということである。
路上に面し、外から内部がほぼ手に取るように見通せるのだから、通りすがりの人たちがふっと立ち寄ることも結構あるという。木屋町通りという人通りの多さを考えるとフリの客はかなりの量になるのではないか。
そのことはこの会場選定の大きなプラス面だが、時々刻々変わる外からの光の影響をもろに受けるというこんなにオープン感覚な会場では、個々の作品の求心力も減じてしまいがちになろうし、全体の展示における空間構成もまた非常に難しいものになる。
その意味では、会場変更への対応が、来年に課題を残した展覧会であったと思われる。

往きは名神を走ったが、帰りは1号線を走り、心配された渋滞もなく、守口で阪神高速へ。
なんとか午後9時前に自宅へと辿り着いたのだが、出発が午後3時半頃だったから延べ5時間半の外出。雨中のドライブはこの年には少々疲れを残す。遅い食事を摂ったら、はやばやと眠りについてしまった。

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July 06, 2005

こんなに耳くそが、いつまで生きる

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<風聞往来>

<米国産牛肉輸入再開、ほんとに安全か?>

先日、アメリカで2例目のBSE感染牛が確認され、
「輸入再開に影響はない」と農水省はしているものの、
消費者不安を払拭しきれるほどの情報公開もないまま事態は推移している。

ここで少し前に読んだ、狂牛病に関する警鐘の書「もう牛を食べても安心か」について紹介したい。
著者の福岡伸一は1959年生。訳書にR.ドーキンスの「虹の解体」などがある分子生物学専攻の学者で、時宜につきすぎるタイトルに比して、本格的な先端科学の知見に触れえる硬派の良書である。

先ず著者は、狂牛病の発生及びその蔓延の背景について、
そもそも「<スクレイピー>という羊の風土病であったものが、イギリスにおいて<BSE-狂牛病>へと変異し、世界へ拡がり、<CJD-ヤコブ病>という人間の病へと、種の壁を越えて乗り移ってきた連鎖の背景」を明らかにしていく。
発生国イギリスの致命的な責として、「<種の壁>を越えさせた人為である-レンダリング-という名のリサイクルで作られた高濃度の病原体が残存したままの「肉骨紛」がイギリスから世界へと輸出、分散された」ことを挙げて告発する。
「狂牛病の病原体はヒトの消化システムが不可避的に持つ<脆弱性の窓>を巧妙にかいくぐって私たちに乗り移ってきた。タンパク質、その構成要素である20種のアミノ酸に分解されるが、これはまだ身体の<外側>の出来事である。消化管は皮膚が身体の内部に折り畳まれた、いわば<内なる外>だからだ。消化管からアミノ酸が血液中に取り込まれるとき、初めて<体内>に入ったことになる。入れ替わっているのはアミノ酸より下位の分子レベルである。現在では、タンパク質、脂質だけでなく、私たちの身体を形作っているすべての臓器、すべての組織のありとあらゆる構成分子が、速度の違いこそあれ、代謝回転していることが判明している。」
などと、狂牛病の発症システムを詳述したうえで、いわゆるシェーンハイマーの<動的平衡論>に関して解説しつつ、対処の基本姿勢をどう考えるべきか結論づけてゆく。
「シェーンハイマーの<動的平衡論>-生命は<流れ>のなかにある。 チベット医学の生命観を記した17Cの「四部医典」によれば「身体という小宇宙と環境という大宇宙は絶えずともに手をたずさえて躍っている」とされる。食物を構成する分子のほとんどは高速度で分解されて外へ出てゆく。生体を構成している分子はすべて高速に分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。私たちの身体は分子的な実体としては数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。」
さらには、「<動的平衡>のもつ意味-外界(環境)の変化に応答して、自らを変えられる、という生物の特性、つまり生物の可変性、柔軟を担保するメカニズムとなる。動的平衡は、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるが、その仕組みは万全ではない。廃物の蓄積速度が、それを汲み出す速度を上回り、蓄積されたエントロピーが生命を危険な状態に追い込む。これはタンパク質のコンフォメーション(構造)病として最近注目されている。その代表例がアルツハイマー病やプリオン病である。」
「クールー病、ヤコブ病 CJD、狂牛病 BSE、スクレイピー。これらはいずれも同じ病気、すなわち伝達性海綿状脳症が異なる動物種で発生しているものである。動物とヒトとの界面にこれまでなかったような病気が現れる。あるいは単一ではほとんど問題とならなかったごく微量の化学物質が複合的に作用して予期せぬ問題を引き起こす。操作が新しい操作を必要とする事態を引き起こす。問題はすべて、人為的な操作に対して環境がその平衡を回復するために揺り戻しをかけている、その揺らぎそのものといってよい。ならば、第一に必要なのは、環境が人間と対峙する操作対象ではなく、むしろ環境と生命は同じ分子を共有する動的な平衡の中にあるという視点である。炭素でも酸素でも窒素でも地球上に存在する各元素の和は大まかにいって一定であり、それが流れゆくなかで作られる<緩い結び目>がそれぞれの生命体である。できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限に留め、この平衡と流れを乱さないことが、環境を考える-我々の生命を大切にする-ことに繋がるという認識が必要である。」

狂牛病と直接は関係しないが、シェーンハイマーの動的平衡論に基づいた論旨から臓器移植についてこんな記述もある。
「<臓器移植>という考え方は<生命連鎖>から遠い考えであり、生物学的に非常な蛮行と云うべきものであり、究極のカン二バリズムであるといえよう。臓器に対する強い免疫学的攻撃、つまり拒否反応にさらされつづける。牛の場合、胎児期に胎盤を通じて受け渡される抗体はほとんどなく、受動免疫のほぼすべてを出生直後の初乳に依存している。出生後まもない、生命がもっとも侵襲を受けやすいパルネラブルな時期に、経済的要請に基づく安易な人為操作として肉骨粉入りスターターを母乳代わりに与えた、という二重の操作の果てに、イギリスの狂牛病は立ち上がってきたのである。」

もう一つ、脳細胞も含めてすべての細胞が入れ替わっていくとすると、記憶というものは細胞内分子レベルの保持機能ではないことになるが、ではいかなる構造で保持されるのかについての記述が関心をそそる。
「記憶はどのようにして保持されるのか-個体も細胞も、それらを構成する分子自体は流れに流れ、数週間から数ヶ月間にはそっくり更新されてしまうのであれば、そこに不変性や同一性を求めるのは困難になる。個体の個別性、そこから派生する自己同一性、さらには記憶の一定性やその真実性は、すべて不確かな幻想とならざるを得ない。記憶を分子レベルの物質に対応させて保存することが、動的平衡の掟からいって不可能であるならば、個々の構成要素は入れ替わっても、全体として情報を保てるような、分子よりも上位の構造が記憶を保持している、と考えざるを得ない。それは細胞のネットワークである。記憶とは、一言でいえば、ある特別な体験に際して、脳の神経細胞ネットワークの中を駆けめぐった電気信号の流路のパターンが保持されたものだということだ。絵柄全体<神経回路網のパターン>を変えることなく、常にサブレベル(下位)で代謝回転が進行している。まさに記憶は、<記憶を想起したそのときに作られている>といってもよい。」

農水省の役人たちも本書を読めば、アメリカの外圧を跳ね返してでも、輸入再開にストップをかけたくなろうと思うのだが、そんな気配はまったくなく、あちらのお国事情に急き立てられるまま、われわれの食の安全を担保しようとしない。

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July 04, 2005

天の川ま夜中の酔ひどれは踊る

<四方の風だより>

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<七夕さまにも似た逢瀬、文月会展>

美術仲間の三組の夫婦6人で
毎年7月のこの時期にグループ展を開いているのが
「文月会展」である。
回を重ねて今年はもう19回目になるという。
当初は、男性三人のグループ展として出発したのが
いつの頃からか、夫婦相和し、それぞれの夫人も制作出品するようになり
微笑ましいを絵に描いたような熟年のオシドリ夫婦三組によるグループ展となったらしい。
その三組の内の中原喜郎・絹代夫妻とは因縁浅からぬ間柄となれば
毎年、此方も相和して通わざるを得ないし
それがまた恒例の愉しみとなるのも必定。
まるで七夕さまのような逢瀬である。

「文月会展」
7/5(火)~7/10(日) 
am11:00~pm7:00 最終日のみpm5:00迄
展覧会場のギャラリー「中井」へは
京都市中京区にて、木屋町通り三条を上がってすぐの東側。
Tell 075-211-1253

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July 01, 2005

炎天まうへにけふのつとめの汗のしたたる

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   「東北青森・十和田湖畔にて」

<言の葉の記>

<蝉時雨と空蝉>

昨日、今日と、少しばかりの恵みの雨となったものの、空梅雨である。
各地で断水や取水制限が起こっている。
かと思えば、局地的な豪雨が襲い、地震被災地に追撃ちをかける。
異常気象という言葉ももう耳に馴染み過ぎてしまったが、
もろに影響を受ける日々の暮らし向きには災厄そのもので、いつまでも馴染みきれるものではない。
ところで、早くも蝉しぐれの季節となった。
まだ五体を包み込むほどの幾百、幾千もの大合唱ではないが、愈々本格的な夏の到来だ。
蝉時雨-日本語の比喩的な語彙は豊かなものだ、とつくづく思わされる。
鳴くのはもっぱら雄の蝉だということはもちろん知っていたが、
鳴かぬ雌の蝉を「唖蝉」というそうな。
山本健吉によれば「蝉」の歌は、万葉集に一首あるのみで
 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師し思ほゆ
       -大石蓑麿(巻15)
他は、「蜩-日晩(ひぐらし)」と詠んでいて、古代の人はひぐらしを蝉の総称としていたようだ。
しかし、蜩なら秋の季語であったろうから、夏の季語としての蝉や蝉時雨の定着はぐっと時代が下ることになる。
「空蝉の-うつせみの」は枕詞だが、蝉の殻である「空蝉」は「現身-うつそみ、うつせみ」に結びつく。空蝉の音を借用した訳である。
現に生きているこの世を「仮の世」とする考えが、空蝉の表記へと誘っていったのだろう。
 うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背と我が見む
       -大伯皇女(万葉集巻2)
 うつせみの浮世のなかの櫻花むべもはかなき色に咲きけり
       -安達長景(長景集)
時代を違える二首に「空蝉」の微妙な変容がみられるようだ。

蝉の句散見
 ひるがへる蝉のもろ羽や比枝おろし    蕪村
 蝉なくや我が家も石になるやうに     一茶
 唖蝉をつつき落として雀飛ぶ        鬼城
 夜蝉ふと声落したる闇深し         年尾
 石枕してわれ蝉か泣き時雨        茅舎
 声悪き蝉は必死に鳴くと云ふ       瓜人

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