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June 30, 2005

巌に花の咲かんが如し

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   「In Nakahara Yosirou Koten」

風姿花伝にまねぶ-<17>

物学(ものまね)条々-鬼

 是、殊更大和の物也。一大事也。凡、怨霊・憑物などの鬼は、面白き便りあれば、易し。
 あひしらひを目がけて、こまかに足手を使ひて、物頭を本にして働けば、面白き便りあり。
 真の冥途の鬼、よく学べば、恐ろしき間、面白き所更なし。
 まことは、あまりの大事のわざなれば、これを面白くする者、稀なるか。
 先、本意は、強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきは、面白き心には変れり。
 抑、鬼の物まね、大なる大事あり。よくせんにつけて面白かるまじき道理あり。
 恐ろしき所、本意なり。恐ろしき心と面白きとは、黒白の違ひ也。
 されば、鬼の面白き所あらん為手は、極めたる上手と申すべきか。
 さりながら、それも、鬼ばかりをよくせん者は、殊更、花を知らぬ為手なるべし。
 されば、若き為手の鬼は、よくしたりと見ゆれども、更に面白からず。
 鬼ばかりをよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。委しく習ふべし。
 たゞ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し。

物まね条々の最後の抄は<鬼>である。
先に、神と鬼の区別を述べたて、神は「舞懸り」と結んで、鬼についての語り口は俄かに冴えてくる。
冒頭、鬼の芸は、古くからの観阿弥・世阿弥たち大和申楽の十八番ともいうべき出し物であり、もっとも大事の芸だという。
「恐ろしき心と面白きは、黒白の違ひ」というように、相矛盾する「恐ろしき」と「面白き」をいかに統合し止揚するかが、世阿弥にとっての難題であった。
すでに「力動風鬼」と「砕動風鬼」の対照的な概念がこれまでに登場している。
世阿弥は晩年になるにしたがって、「形は鬼なれ共、心は人なるがゆへに」と、
手足を細やかに使う「砕動風」へと工夫を重ねてゆくが、観客から好まれ喝采を浴びるのはいつまでも大仰な「力動風」であったろう。
観客に迎合するのみの「鬼ばかりをよくせん者」が氾濫するなかで、世阿弥はそれらを「花を知らぬ為手」と断じ、「鬼の幽玄」の位をめざして殊更にこだわっていく。
「別紙口伝」には、「怒れる風体似せん時は、柔かなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手立なり。怒れるに柔かなる心をもつ事、珍しき理なり」という。
「怒れる風体」に「柔かなる心」を、「恐ろしき心」に「面白き」を。
互いに相反する二面がひそかに支え合い、高次のレベルで調和されるとすれば、その芸境は不可思議な格調を有しているにちがいない。
「鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し」とは、まさに鬼の幽玄体といえるだろう。

――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

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June 29, 2005

からつゆからから尾のないとかげ

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「闇に咲く花」公演チラシ

<四方の風だより>

<劇団大阪の「闇に咲く花-愛敬稲荷神社物語」を観て>

先週の土曜日(6/25)、劇団大阪の春の演劇まつり参加公演、
「闇に咲く花-愛敬稲荷神社物語」を観に出かけた。
井上ひさしの戯曲、演出は熊本一。
3月の自立演劇連名合同公演「グランド・ゼロ」の演出で関わりあったばかりだし、
出演者にもその時の馴染みもかなりいるようだし、重い腰をあげての観劇となった。
会場の谷町劇場は、劇団大阪の稽古場でもある。
午後7時開演の10分前に会場に滑り込んだのだが、予約席の確保をしておくべきだったか、
満員の様子で席待ちの羽目になったものの、10名余りの待ち客も、俄か仕込の客席になんとか押し込んでくれた。しかしその所為で開演が10分ばかり遅れた模様。
途中10分の休憩をはさんだ二幕で、終演はすでに9時45分頃になっていたから、幕間込みで約2時間半。
小さな座布団が敷かれているとはいえパイプ椅子での長丁場は些か辛いものだ。おまけに狭い小屋なのだから足を伸ばしたりするほどのゆとりはない。同じ姿勢をとりつづけるのはこの年になるとそれだけで疲れを溜め込むような気分にさせられるし、実際、身体に凝りが残ったような感触。

泣き言はこれくらいにして、さて舞台のほう。
まず、この劇団は、装置・美術がスタッフもしっかりしていて、いつも丹念な作り物をすることで定評があるが、狭い空間をよく工夫して、舞台となる稲荷神社の社殿を中心に据え、上手に鳥居、下手に水場、太い杉の木立などを配し、狭さを感じさせず、下町の小さなお稲荷さんの風情をほどよく醸しだしている。
このあたりの芸当は、劇団としても自信に満ちた取組みだろう。
私がとくに感心したのは上手の鳥居が大小二つ、これは会場入口にもあたるのだが、まず戸口で小さな鳥居をくぐり抜け、次に少し大きくなった鳥居と配されていたこと。
狭いながらも贅を尽した舞台美術である。
その装置・美術の完成度に比べれは、肝心の芝居の流れ、演技陣のアンサンブルは数段劣るといわざるを得ない。
戯作の人井上ひさしの昭和庶民伝三部作のその弐にあたるというこの芝居、当然喜劇仕立てだが、大戦という時局に翻弄された人々の悲しい運命が影を落とし、まだ爪あと生々しい戦後の混乱のなかで起こる悲喜こもごもの物語。
神主役の斉藤誠と5人のお面工房のご婦人たちのコミカルなやりとりは概ねよくこなれてはいるものの、緻密に細部を見てゆくとかなりの荒さが目立つもの。狭い小屋なればこそ神経の行き届いた細やかさが欲しい。
狂言回しのごとき役割の巡査役・清原正次の軽妙さは芝居全体に調味料よろしく風味を効かせたものとなって、成功といえるだろう。
問題は、芝居の本筋、悲劇の要となる人物、神主の息子役の上田啓輔。この役、グァムで戦死と伝えられていたものの、占領軍に捕虜となり、釈放されて突然の帰国となる。
ところが、戦中時、グァムの現地人と野球の遊びをした際に投げたボールで偶々一人の少年を負傷させた事件があった。この偶然的な事故を故意による傷害事件と解され、C級戦犯としてGHQによって再度グァムへと送還され、死刑に処されるという設定。
史実としてあったとは到底考えられないが、ありそうな話としてずいぶんと念のいった筋立てで、この息子、戦犯として追われていることを知った途端、ショックで健忘症となったり、狂気の淵を彷徨ったりするのだが、その心の患いにおける演技も、また記憶を取り戻してからの演技も、主観に寄り過ぎたものにしかなっていない観念的演技という典型なのが残念。彼にはまだまだ具体的な手だて、手がかりの材がなさすぎる。芝居をぶち壊しているというほどの破綻こそないが、もっとも大事な役どころだけにこの未熟さはあるべき位置からはほど遠く、他に適当な役者は居ないのかといいたくなる。

序でに、井上ひさしの劇宇宙について一言。
井上ひさしは日本ペンクラブの現会長である。戯作の人は小説に戯曲に多作の人でもある。
小説「吉里吉里人」に代表されるごとく寓意の作家と見える井上ひさし、寓意に満ちた世界がラディカルで抱腹絶倒の劇宇宙を現出するとするなら、この場合、昭和庶民伝三部作の二に挙げられるこの作品は、昭和庶民伝と総称される必然からか、場面や人物の設定が敗戦後の混乱期から抽出された特定のもの-末端の小さなひとつの神社-に見かけ上のことだがリアルな存在にならざるをえない。そこに幾重にも、いかにもありそうな物語としての仕掛け、見かけ上のリアルな虚構化が施されてゆく。だが、その要請は、寓意としての虚構がもちうるダイナミズム、ラディカルな表現へと止揚する力を削いだものとしてしまうのではないか。
この劇宇宙から、嘗ての大日本帝国の植民地主義的な侵略戦争の肥大化を、大君の赤子の民として支え続けてきた人心の拠りどころとなってきた全国津々浦々の神社の存在に相関を見ることは容易なことだし、いまなお騒ぎ立てられる靖国問題へとフィードバックさせていくこともごく自然な道筋ではあるのだが、そのぶんどうしても寓意としてのラディカリズムからは遠ざかっていくのである。

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June 27, 2005

山から山がのぞいて梅雨晴れ

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<日々余話>

<啖呵の如く胸打つ、最後の宮大工棟梁のコトバたち>

西岡常一著「木に学べ-法隆寺・薬師寺の美」を読む。

法隆寺金堂の大修理、薬師寺金堂・西塔などの復元を果たし、1995年に惜しくも85歳で死んだ、
最後の宮大工棟梁・西岡常一が発する言葉は、激しくも簡潔明快に、法隆寺や薬師寺の堂塔伽藍に隠された、古代人の知恵と技法を語りつくす。
宮大工という謂いそのものが、ぐっと時代を遡る古い謂れの呼称ではなく、
明治の廃仏毀釈からだということに、まずは少なからず驚かされた。
その昔は「寺社番匠」と云ったそうな。廃仏毀釈で社の上にあった寺が外され宮大工といわれるようになった、と。
「番匠」=ばんじょう、又は、ばんしょう、とは辞書によれば、
古代、大和や飛騨から京の都へ上り、宮廷などの修理や造営に従事した大工、とあるから平安期に遡りうるか。

まるで啖呵のように威勢よくポンポンと飛び出すコトバは事の本質を衝いてやまない。
樹齢千年のヒノキを使えば、建物も千年はもつ。
木のクセを見抜いて木を組む。
木のクセをうまく組むには人の心を組まなあかん。木を組むには人の心を組め。
木を知るには土を知れ。
石を置いてその上に柱を立てる。
法隆寺の夢殿は直径が11m.やのに軒先は3m.も出てる。
大陸に比べて日本は雨が多い。
飛鳥の工人は日本の風土というものを本当に理解して新しい工法に変えたということ。
一番悪いのは日光の東照宮、装飾のかたまりで、あんなものは工芸品にすぎぬ。
人間でいうたら古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。
夢殿の八角形は、八相=釈迦が一生に経過した八種の相=降兜率・入胎・住胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅=を表す。
聖徳太子の斑鳩寺は、文化施設。人材を養成するため場所としての伽藍。
白鳳の薬師寺は、中宮の病気を治すための伽藍であり、その設計思想は、薬師寺東塔の上の水煙にあり。
天人が舞い降りてくる姿を描いているが、天の浄土をこの地上に移そう、という考え。
仏教は自分自身が仏さまであること。それに気づいていないだけだ、と。
神も仏もすべて自分の心のなかにあるということ。
自分が如来であり菩薩であるということに到達する、それが仏教。
飛鳥・白鳳の建造物は国を仏国土にしようと考えて創られた。
藤原以後は自分の権威のために伽藍を作っている。
聖武天皇の東大寺でも現世利益的な考えが六分まである。
等々と、達人の竹を割ったような舌鋒はどこまでも小気味良い。

なかでも、私を絶句させてくれたのは、法隆寺中門の柱の話。
法隆寺の中門は不思議な形をしている。門の真ん中に柱が立っている。左右に入口がふたつあるような格好。
この真ん中の柱を、梅原猛さんは、「聖徳太子の怨霊が伽藍から出ないようにするため、柱を真ん中に置いた。いわば怨霊封じだ。」というが、そんなことはない。
中門の左右の仁王(金剛力士像)は、正面左の仁王さんが黒くて、右の仁王さんが赤い。
人間は煩悩があるから黒い仁王さんの左から入って、中で仏さんに接して、ちゃんと悟りを開いて、赤い仁王さんの右のほうから出てくる。正面左側が入口、右側が出口ですな。
と、聖徳太子怨霊説で一世を風靡した梅原猛の「隠された十字架」の核ともいうべき推論をこともなげにばっさりと切り捨てる。
もう二度と現れえないだろう達人の、直観的に事の本質を赤裸にするコトバの世界は、一気呵成に読みついで爽快そのものだが、その知は決して伝承されえぬ永遠の不在に想いをいたすとき、詮方なきこととはいえ、人の世の習い、歴史というものの残酷さが際立ってくる。

今月の追加購入本
島尾敏雄「死の棘日記」新潮社
三浦つとむ「日本語はどういう言語か」講談社学術文庫
遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」ちくま文庫

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June 25, 2005

みんなたつしやでかぼちやのはなも

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   「浜辺に遊ぶ-宮古島にて」

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<記憶の中の-遥洋子>

東京や関東方面での知名度がどれほどのものかわからないが、
遥洋子といえば、関西の人ならまず知らない人はいないくらいの、有名タレントなのだろう。
1986年、上岡龍太郎とのコンビ司会に抜擢されて、読売テレビの「ときめきタイムリー」で本格デビュー。その後、関西のテレビやラジオではかなりの露出で知名度を上げ、人気も浸透していたが、
上岡龍太郎の突然の引退宣言頃からか、一時低迷していて、どうしているのだろうと思っていたら、
著書「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」がベストセラーになって、近頃は東京・関東へも進出。
現在のところレギュラー番組こそ持たないが準レギュラー的なものは結構あるようだし、フェミニストとして或は歯に衣着せぬタレントとして講演やイベントの司会に重宝され、なんとか全国版になつてきているらしい。

私は以前、「関西芸術アカデミー」という劇団及び養成機関で依頼を受け「身体表現」の講師をしていた時期がある。
現理事長・筒井庸助の先代(名前を失念)が、戦後まもなく、アカデミー児童劇団を立上げ、児童タレントの養成をしてきた関西の老舗なのだが、ここが昼間部と称して、高校生以上の大人を対象とした俳優・タレント養成を手がけ始めた頃に、身体訓練の講師として私に白羽の矢が立てられたのだった。
おそらくは、昼間部責任者の筒井庸助君と私との媒介役となったのは共通の照明スタッフ・新田三郎の存在だったのだろうが、とにかく、74年4月から81年3月まで丸7年間、週1回2時間の講師として天王寺区空清町にあるアカデミー通いをしていた。
記憶によれば、昼間部3期生から9期生まで、毎年30名から40名程度の若者たちにレッスンしたことになるが、この場所が縁で後々も交わり、私にとって記憶に残る人々となつた者たちは他にも何人かは居るが、それらの人々にはまた追々と登場してもらうとして‥‥。

さて、遥洋子、彼女の実名は避け置くとして、彼女がこの昼間部の何期生だったかすでに記憶は覚束ないが、多分7期か8期にあたるのではないか。
利発で機知にとんだ器量よしの娘はさすがに同期生のなかで目立った存在ではあった。あのTV画面を通しての舌鋒鋭いトークのなかに垣間見られる彼女なりの本物志向が、当時の姿勢にもっと素直な形で表れていたし、授業への熱心さにおいても眼の色が違っていた。
だが、天は二物を与えずの喩え、画面を通して見る彼女の姿からもある程度予測はつくだろうけれど、容貌に不足はないが哀しいかな容姿端麗とはお世辞にもいえなかった。私のレッスンではほとんどみんなレオタードやタイツ姿で臨むのだが、彼女のその姿は生気に溢れるような容貌の魅力と、できれば剥き出しに曝け出されるのを拒みたいというボディラインへの自意識過剰が、少しくアンバランスに交錯させたままレッスンに取り組んでいた。
それがあってか、卒業後の彼女は、私のレッスンにも強く惹かれてはいたらしいが、日舞や殺陣のほうを選んで続けた、と後になって聞かされたこともあったっけ。

そのアカデミー時代から何年も経ていたが、突然、彼女が私の稽古場での合宿に参加したいといってきて、どういう風の吹きようかと驚きながら迎えたことがある。もちろん、まだ鳴かず飛ばずのTVデビュー前のことだった。終日、みんなでたっぷりと汗を流して、にぎやかに一緒に炊事をして遅い夕食をとって床に就くことになるのだが、ご他聞にもれずその夜も遅くまでなにかと話し込んだはずだ。
あまり確かな記憶ではないが、どうやら自分の進路に迷いを生じていたようだった。所属事務所に関して、別の誘いもあるようで、そのことについても悩んでいたのだろう。だが、他の者も同席している場だから委しい事を語る訳にもいかないし、聞き出すのもままならない。
翌朝、私は太極拳のサークルに指導のため別の教室へ行かねばならなかったのだが、なかなか踏ん切りのつかないこの悩める子羊ものこのこ私についてきた。
一時間半ばかりの実習で軽い汗をかいたあと、やっと二人きりになって話を聞いた。今はもう何を聞いて何を語ったのか細部はまったく忘れ去っている。なかなか陽の目をみないタレント予備軍として何年も経てきている。そのなかでは恩やら義理やらしがらみもいっぱい付いてまわっていたのだろう。そんな折に新しい人脈からか別な事務所への誘い、はて行くべきか行かざるべきか、であったのだろう。
私なぞに言い得ることはたった一つしかない。「いま降ってわいたような出来事がそんなに自分を捕えて悩ますのなら、それは大きな機会なんだろうし、ワンチャンスしかないと思え。仮にそれを選び取ることがこれまでの関係者に義理を欠いたり裏切る行為となるとしても、裏切りそれ自体を恐れるな。そりゃ人間、誰だってできることなら人を裏切ることはしたくはないが、そうしない訳にはいかない時もどうしてもあるもんだ。」とそんなことを言ったかと思う。

さて、その後は、夜遅くに彼女から電話が何回かかかってきたりはした。
もうあの問題に触れるようなことはなかったから、裏切りを恐れず、所属事務所を移ったのだろう。
いつだったか深夜の長電話で、男と女あいだの話も、なにやら堂々めぐりのように喋っていたこともあったっけ。
それからしばらくすると、俄然、TVの画面に登場するようになった。
「遥洋子」、そういえば彼女の芸名をはじめて知ったのはTVを通してで、それまでついぞ聞いたこともなかった私であった。

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June 23, 2005

ずんぶり温泉(ユ)のなかの顔と顔笑ふ

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  「東条湖おもちゃ王国にあそぶ」

<日々余話>

<侮るなかれ、優れもの温泉銭湯>

近頃の温泉銭湯はなかなかに侮れないものと思い知らされました。
芦屋の足湯をいち早く一報してくれた芦屋の下町に住まいする友人T氏が、
これまた、こんないい銭湯があるよ、とばかり紹介してくれたのが、
神戸市灘区の水道筋商店街の東端に位置する、35℃の源泉かけ流しの湯がある温泉銭湯「灘温泉」

昨日(6/22)、K女が毎日喜んで通う保育園をなぜか今日はお休みすると宣うので、
ならばこの機に乗じて榊原温泉に匹敵?しようという源泉かけ流しを試すべしと、早速お出かけあそばした。
折角、神戸の王子付近まで行くのだから、王子動物園で充分楽しい思いをさせてやってから、あまりお好きでない温泉入浴を課そうと考えて、まずは王子動物園まで車を走らせたものの、玄関前は閑散として駐車場入口も閉ざされている。立て看を見ればなんと水曜日は定休日。南無三シマッタ!出かける前にネットで入園料のチェックはしたものの、あわてていたので定休日の確認までしていなかったのが運の尽き。
ご機嫌を損ねたK女に平身低頭、おやつで宥めすかしながら件の温泉銭湯・灘温泉へ。
銭湯客には一時間位までは無料の駐車場が併設されているのもありがたい。
平日のお昼時だからさすがに湯客は少ないが、それでも年配者ばかりでなくなぜか若い客も居た。源泉の湯槽は思ったよりもひろく詰めれば8人~10人は入れる。
榊原温泉元湯の源泉は公称32℃だが、体感としては27~8℃だろう。ここはご丁寧にも湯槽に温度計があって30~1℃あたりを指している。冷やりともせず馴染みやすい体感温度で、K女も愚図つきもせずなんとか一定時間は浸かっている。
泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉でpH7.1の低張性・中性温泉とある。
おとなしく長湯は望むべくもない幼な児には気分を換えてやらなければならない。10分あまり浸かってか、こんどは洗い場に行って身体を洗ってやる。シャンプーして頭からシャワーをかけたら眼に入ったか泣き出される始末で、普段馴れないことをやるとお粗末なこと夥しい。ゴメンゴメンとまたまた謝りつつこんどは露天の方へ。ここは40℃位だから5分ともたない。仕上げにもう一度、ぬるいぬるい源泉の湯槽へ浸かること15分ばかりか。ちょうど同年位の湯客が「女の子はおとなしくていいね。うちは男の子だからそんなにじっとしてくれない」なんて声をかけながらあがっていく。孫のことを引き比べて言っているのだろうけれど、此方は孫のようなお子様だから「そうですな」と肯き返しながらも些か面映ゆさが心の内に波立つ。
総二階建てで、一階が男湯、二階が女湯となっているから、ほぼ同じスペース取りの構造なのだろう。一階ロビーにはちょいとした待合になる喫茶風の空間があるのもうれしいが、全館禁煙なのが私などには辛いといえば辛い。
ジェットバスも、弱電の電気風呂、打たせ湯も、サウナも一通り揃って、洗い場もかなりのスペースを取っている。
大人380円、中人130円、小人60円と、サウナは別途150円也。普通の銭湯価格という安価でこの充実ぶりは頼もしいかぎり。これで泉質がK女のアトピー体質に合えば言うことなしだが、それは尚早に判断はできない。
約一時間の滞在にて車に乗り込む。帰路はお礼方々芦屋のT氏宅にお邪魔虫と相成る。
なにしろT夫人はK女の数少ないひどくお気に入りのおばちゃんだから、ご厚意に甘えてばかりのご訪問となるのである。

別事ながら、
先日(6/17付)、三浦つとむと吉本隆明の所縁>と題した一文で、
吉本隆明の「追悼私記」には三浦つとむへの悼辞の掲載はなかった、
と書いてしまったが、ふと手にとって確認したところ、「三浦つとむ・他」の項があったので、ここで訂正しておきたい。
吉本は三浦につとむについて、「インテリ見知り」の人だったと表し、「独学で刻苦して論理を学び、働き、喰べながら勉強した人だったから、インテリやくざと肌があわなかった」と述べ、また「『試行』の執筆者であり、協力して校正などに身を入れてくれた時期もあり、重要な存在だった」と記している。
夏目漱石には「文学論」という理論の書があった。遥か遠い記憶の彼方、その書を紐解いたことはあったが、はて最後まで読み通したのかどうかさえはっきりしないが‥‥。
吉本は、三浦つとむの漱石論に触れ、「漱石は文学とはなにかを科学的につきつめていって、自分のつきつめた或はつきつめきれなかった文学理論を実際に作品で試みるために小説を書き始めた」という「文学理論家が小説を書くようになった」漱石観を卓見として評価している。

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June 21, 2005

ほうたるこいこいふるさとにきた

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   「青森県下北半島仏ケ浦」

<風聞往来>

<どう変わってゆく、ブログ社会>

「ブロガーの増加が「匿名」を吹き飛ばす? 米国の例に学ぶ」によれば、
総務省は2007年3月末に、ブログ利用者が約782万人-アクティブブログ利用者数は約296万人-になるとの予想を発表しているそうです。
この数字が、蓋然性の高いものなのか、また、伸び率として急加速状況といえるのか、
ネット先進国のアメリカや韓国事情などに疎い私には特段の論評もできないのだけれど、
ブログというコミュニケーション・エリアが、一定の社会的影響力とか世論形成への効力を発揮していく存在になるであろうことは、遅かれ早かれ現実となってゆくのでしょうね。
その必然と見える流れのなかでは、「匿名」と「実名」、或は「サイバー」と「リアル」のような対立的問題も、一過性の問題に過ぎず、やがて克服されていくのでしょう。
といっても、いずれに軍配があがるのか、是か非か、というような問題ではないと見るのが相当でしょう。
相矛盾するようなその二面性を、相変わらず内部に抱えたまま進んでゆくのが、当然の成り行きでしょうし、また、健全な推移なのだろうな、と思われます。
ただ、この国では、これまでのところ、外に向かうベクトルよりも、内向していかざるをえないベクトルのほうが強く働いてきた、少なくともネット世界では。
いえ、本当は、ネットにかぎらず、政治であれ経済であれ、この国の社会全般にわたって、内向の時代なんじゃないか、ということではないでしょうか。
もともと、新しい世界やメディアに対してもっとも敏感にリアクションしていくのは、内在する問題がより深刻な世代や層であるのが、あたりまえのことなのでしょう。
その意味で、2チャンネルの肥大現象も、小・中・高の若年層や、引き篭もり層のネット世界への浸透も、我が国事情を正直に反映した現象なのだ、と考えれば納得のいくことではないでしょうか。

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June 19, 2005

生き残つたからだ掻いてゐる

shinotoge

<日々余話>


「死の棘」に侵されるままに>

以前にも触れたことがあるが、私は殆ど小説を読まない読書人である。
少年期の文芸への疎遠ぶりが尾を引いたのだろうが、私の守備エリアからは、小説世界がもっとも遠いところにあるという自覚で、もう何十年このかた過ごしてきている。
ところがどうしたはずみか、ここ数日は、島尾敏雄の「死の棘」ワールドに嵌まりこんだまま過ごしてしまった。
全十二章、文庫本で610頁というかなり長大の、その扉をたいした覚悟もなく開いてしまってからは、トシオとミホのなんとも形容しがたいくんずほぐれつの結ぼれように、なにか暗い洞穴に無理矢理押し込まれ逃れ出る術もないままに、ただひたすら読み進むしかなかったというのが実情にちかい。

なに、読んでみようと思った動機のほどはたいしたものではない。
何週間かまえに、小説「死の棘」の母胎ともいうべき 「死の棘日記」が単行本化されているのを新聞誌上で知ったのだが、その紹介の書評から此方に食指を動かせたのだが、待て待て、小説の本体そのものを敬遠したままでというのも、戦後文学の代表的傑作と称される本書に対し失礼千万だろうし、ここは一番、小説から入ってみるかと思ったのだ。
著者島尾敏雄は’55年(S30)に「死の棘」に着手、’77年(S52)の最終章発表にいたるまで23年に及んで書き継いでいる。この間、’61年(S36)に芸術選奨を受け。完成翌年の’78年(S53)には日本文学大賞と読売文学賞を受賞している。
高橋源一郎氏曰く、埴谷雄高の「死霊」や大西巨人の「神聖喜劇」、武田泰淳の「富士」を差し置いても、ぼくはこれを第一位に選ぶと、「死の棘」を戦後文学最高の作品と推奨している。

夫の不貞から心病み狂気に彷徨う妻・ミホにただひたすら向き合うしかないトシオとの、果てしなくつづく地獄図としかいいようのない日常。それは妻の快癒へと闘いにあけくれる日々でもあるのだが、その決してほぐれぬ縺れに縺れた泥まみれの日常の描写が全編を貫く。出口のない堂々めぐりの回廊、微かな救済の光さえ見えぬ、あまりに非日常的な結ぼれの日々が、なにか鉛の塊状のものとなって読み手の私の喉へと力づくで呑まされ、内臓深くにまで達したような感じがして、どうも日頃の身体感覚から遠く、その感触が五臓六腑になにやら重く沁みわたっているのだ。

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June 17, 2005

お山しんしんしづくする真実不虚

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  「In Nakahara Yoshirou Koten」

<日々余話>


<三浦つとむと吉本隆明の所縁>

偶々なのだが、吉本隆明のかなり詳細な年譜を見ていると
1989年の件に、(この年の1月、昭和天皇の死去があるが)
「10月、『試行』の支柱的執筆者で事務上の最大の協力者だった三浦つとむ死去」という記述があって吃驚した。
「ええっ? あの三浦つとむが、吉本隆明とそんな密接な形で繋がっていたのか!」と恥ずかしながら驚き入った。
三浦つとむといえば時枝誠記の言語課程説を踏まえて書かれた「日本語はどういう言語か」
に嘗ておおいに蒙を啓かれ、そのあとたてつづけに「認識と言語の理論」三部作と、「認識と芸術の理論」まで読んだのだったが‥‥。
たしかに吉本隆明も「言語にとって美とはなにか」などで時枝誠記を引用していたし、その論理立てにはかなり近接性のあるものだとは受け止めてはいたけれど。
言語理論の世界で時枝を媒介にして、この二人に一定の共通性があるとはずっと見てはきたものの、現実の日常世界に「試行」を通してこんなに密接な関わりがあったとは、まったくそういう事柄にアンテナをめぐらさない私には思いがけないことだった。
調べて見ると、
三浦つとむは1911年生まれ、吉本隆明は1924年生まれ、一回り以上の年齢差がある。
三浦の「日本語はどういう言語か」の初版は1956年。
吉本が「試行」において「言語にとって美とはなにか」の連載開始が61年、勁草書房での初版は65年。
三浦の書が吉本に時枝誠記の言語理論を媒介しているのは間違いないところだろう。
三浦つとむの葬儀にあたっては、吉本隆明が追悼文を草し読んだらしいのだが、吉本隆明の「追悼私記」には三浦つとむへのそれは掲載されていなかった。
このあたり三浦つとむへの社会的認知度の低さゆえの選択なのだろうか、とも思われるが‥‥。

今月の購入本
 西郷信綱「古事記注釈・第2巻」ちくま学芸文庫
 島尾敏雄「死の棘」新潮文庫
 新宮一成「ラカンの精神分析」講談社現代新書
 埴谷雄高「幻視の詩学」思潮社・詩の森文庫
 田村隆一「自伝からはじまる70章」思潮社・詩の森文庫
 西岡常一「木に学べ」小学館文庫
 横須賀寿子編「胸中にあり火の柱-三浦つとむの遺したもの」明石書店
 塚本邦雄「清唱千首」冨山房百科文庫

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June 15, 2005

しとどに濡れてこれは道しるべの石

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<風聞往来>

「空白の一行」の、事実は小説より奇なり>

先日の日曜日(6/12)、高校時代の同窓会に行ってきた。
旧制中学時代から今日に至る百年余りに巣立っていった全体の同窓会総会で、
対象者は3万人は優に越えるはずなのに、
例年は母校食堂で同窓会幹事連を中心に数十名規模でしか集っていないと些か寂しいもの。
本年はホテル開催とし、同窓会報誌でもひろく呼びかけたというが、それでも7、80名の集いか。
高校15期会としては協議の結果、年次例会をそこへ合流させたので、私も出向かざるをえなかった次第。
最近、同期のY.H君が「空白の一行」という小説本を出版したという話は耳にしていたのだが、
席上、その本人から「是非、読んでみてくれ」と名指しで言われたからには、
推理まがいはそう気乗りがしないのだが仕方あるまいと、手にしてみた。

文芸社刊「空白の一行」、初版第一刷発行が5月15日とある。
著者名は悪源太佑介、ペンネームからして推理作家を彷彿とさせる。
帯の表には、
 もし、公証人が、「遺言公正証書」を偽造したとしたら‥‥
 そして、裁判官は真実を闇に葬った‥‥
 立花凛子が悪に敢然と立ち向かう!
 最高裁までも巻き込んだ民事事件を、ルポルタージュ手法で小説化した意欲作登場!」
とあり、さらに帯裏には、
 賢明な読者ならもうお分かりであろう。
 公証人と弁護士が手を携え悪事に手を染めることなど容易に類推でき、
 「遺言公正証書」は、いとも簡単に偽造できるということである。
 偽造が容易にできる民法969条の条文に疑問を抱くのは、私だけであろうか?
とあるが、
これだけで、現実の民事訴訟で最高裁まで争われた「公正証書遺言偽造疑惑事件」に取材したノンフィクション小説だというのは明白なのだが、
読み進んでいくうちに、この事件、どう見ても作者の近親というより、作者の妻自身がヒロインの訴訟原告らしいこと、
当然、作者自身が原告の夫として訴訟の推移そのものに深く関与しているとしか思えないものである。

読了しての第一感、本書はノベルというべきものではないし、また推理小説ともいえないだろうこと。
作者のY.H君は、小説の体裁をなんとか保ちたかったと見え、ディテールにはそんな工夫も散見できるのだが、(例えば被告側の依頼者女性とその弁護士との情交場面の挿入などいくつかの虚構化らしき断片)、
また、訴訟相手側の細部の動きなどは厖大な訴訟記録を資料として、具体的に見えない部分については類推するしかない訳で、そこは書き手の想像力に負うところではあったろうけれど、
なんといっても、公正証書遺言にまつわる相続事件が、最高裁にまで及んで係争されたという訴訟事件の、事実の推移そのものの重みがどうしても前面に出てきて圧倒されるのだ。
本書は、現行の法制や司法権力、とりわけ公証人制度にありうる危険な陥穽に対する、ダイレクトなプロテストの書であり、法治国家を支える厖大な法の網にある綻びを衝いた警鐘の書である、というべきか。
その意味では、本書で問うている問題は深くて重いと思われるし、本書の書かれた意義も大いにあるといえよう。

民法969条とは公正証書遺言に関わる規定である。
 第969条 公正証書によって遺言をするには、次に掲げる方式に従わなければならない。
 1.証人2人以上の立会いがあること。
 2.遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授すること。
 3.公証人が、遺言者の口述を筆記し、これを遺言者及び証人に読み聞かせ、又は閲覧させること。
 4.遺言者及び証人が、筆記の正確なことを承認した後、各自これに署名し、印を押すこと。ただし、 遺言者が署名することができない場合は、公証人がその事由を附記して、署名に代えることができる。
 5.公証人が、その証書は前各号に掲げる方式に従って作ったものである旨を附記して、これに署名し、印をおすこと。
ところで、公証人というのは、判事、検事、弁護士、法務局長等を長年つとめた人々から法務大臣により任命される権威ある職制である。
全国におよそ550人の公証人がいて、約300か所の公証人役場で職務を行っているというのだから、その員数もまた極めて少なく、司法界の功なりとげたエリートたちがその晩節に与えられる特権的地位のようなものだ。

本書では、舞台を金沢へ移し、訴訟の係争も金沢地裁、金沢高裁においてとされているが、現実の係争事件は大阪で起こっていたらしい。
なにしろ最高裁で原判決を破棄、差し戻されたのだから、ネット上でも判例の検索が可能だ。
モデルとなった事件は、どうやら
「平成16年02月26日 第一小法廷判決 平成13年(受)第398号 公正証書遺言無効確認請求事件」
に該当するようである。
この判例を背景とし、本書における係争の推移を追えば、実際の事件の全貌はほぼ完全に明らかとなる。

この判例文を読んでみて、どうにも感じてしまう疑問というか、大きな問題点を一つだけ挙げておこう。
高裁の原判決を破棄し差し戻すというからには、あらためて十全な事実認定をなし、破棄理由を縷々述べたてているのだが、そのなかに
「大阪法務局は,毎年9月に公証原本の検閲等の公証事務の監査を行っており,B公証人が所属する役場においても,平成5年9月1日に同年8月31日 までの1年分の嘱託事件について抽出調査による検閲が行われたが,その際,署名押印漏れ等の不当事例や誤りの指摘を受けなかったこと」
を挙げているのだが、これがすべての公証原本の調査検閲ではなく、<抽出調査による検閲>でしかないというのに、不当事例や誤りはなかったとする傍証として言挙げしていることなどは、驚き入ったとんでもない事態である。
最高裁ともあろうものが、ざるで水をすくうような、こんないい加減な論理でもって有力な反証の一つとして掲げる、とは言語道断というべきだろう。
最高裁が高裁における事実認定をことごとく覆し、原判決が破棄され、差し戻された事件の再審は、見るも無惨なものだったろうことは想像に難くない。実際、半年も要さずあっけなく終ったようだ。

本書最終章には、原告本人からの最高裁判所長官宛の手紙が、おそらく原文のまま再現されている。
P196からP230にいたる35頁を要した、原告の思いの丈をあまり残さず述べたてた長文の抗議文書である。
その日付は、平成16年10月21日となっている。
まだほんの半年あまり前のことだ。

最高裁の判例という世界において、事実は小説より奇なりとばかり、かような怪奇な現実を垣間見せられるとは、
まだまだ権力機構のなかでは魑魅魍魎の跋扈するわが世であるらしい。


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June 14, 2005

てふてふうらうら天へ昇るか

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 「Ichi-Bun98-Santouka」より

<風聞往来>

<訃報二題-塚本邦雄さんと倉橋由美子さん>

稀少な存在感を示していた作家の訃報が相次いだ。
塚本邦雄さん-6月9日、享年84歳。
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2005/06/10/20050610ddm041040129000c.html
倉橋由美子さん-6月10日、享年69歳。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20050614k0000m060106000c.html

塚本邦雄氏は戦後の短歌界を牽引した前衛歌人と評された。
同じく戦後を代表する歌人の岡井隆氏は新聞誌上で「戦後短歌史において最も偉大な歌人を失った。戦後の第二芸術論で衰弱しかかった歌壇に、斬新で超現実的なモダニズムの手法を大胆に取り入れた。その手法は 現在の若い歌人に絶大な影響を及ぼした。寺山修司とともに前衛短歌運動の盟友だっただけに、寂寥(せきりょう)感は大きい。」と追悼している。
「500人を相手にしていれば十分」といっていたという塚本邦雄氏の覚悟には私のような者もしたたかに胸を打たれる。
彼の作品に初めて接したのは「半島-成り剰れるものの悲劇」という散文だったと記憶する。
旧仮名遣いと旧漢字で表記された詩情あふれる文体は能登の風土と故事を幻想の半島として見事に甦らせていたように思う。
今、手許にあるのは「源氏五十四帖題詠」。
その巻末近くに、紫式部の歌、
「年暮れてわが世ふけゆく風の音に心の中(うち)のすさまじきかな」
を引いて、和泉式部の
「夢にだに見てあかしつる暁の恋こそ恋の限りなれけれ」
に匹敵するものだと評している。

倉橋由美子氏には反リアリズムとか反小説の形容が冠せられるが、方法意識に貫かれた寓意や怪奇に満ちた虚構世界はその固有性において鮮やかな存在感を示していたとみえる。
代表作とされる「アマノン国往還記」は残念ながらいまだ読んでいないが、
よく知られた「大人のための残酷童話」や「老人のための残酷童話」「よもつひらさか往還」などが手許に残る。
訃報記事によれば、彼女が5月に訳しおえたばかりのサン・テグジュペリの「星の王子さま」が今月末にも刊行予定とか。
「星の王子さま」の新訳出版については、600万部に達するという岩波版の翻訳出版権が消滅したのを機に他の出版各社が競って新訳を続々登場させる、とのニュースもある。
http://book.asahi.com/news/TKY200505260088.html

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June 12, 2005

ぬるい湯で話がつきない

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 毎日新聞「はんしんeyes」記事

<日々余話>


<芦屋de足湯>

先に「ありがたやの足湯処情報」として芦屋に住む友人から紹介された
「潮芦屋げンき足湯」に幼な児を連れて行ったのが先月29日の日曜日。
いつもなら定例の稽古日だが、メンバーの都合でお休みになったのを幸い、二度目の湯参りへとお出かけしたのだ。
すでに午後3時を過ぎていたが、休日とあって満員の盛況。平日と違って子連れ組も多い。
細長い湯舟に対面で、詰めれば30人ほどが座れる木造りの座面。その周囲には簀が置かれあがり場となっている。大屋根もあり雨もしのげる立派な代物。
空いた隅のほうでしばし幼な児とともに浸かっていたら、中央付近に座っていた夫婦連れらしく見えたうちの男性が、やおら立ち上がったかと思えば、広角レンズを付けた一眼レフカメラを持ち出して、
「実は私、毎日新聞の者ですが、この足湯情報を聞きつけて、今日は取材に来たのです。みなさん、お愉しみのところを撮らしていただいてもいいでしょうか?」とのたまう。
居合わせた湯客はみなさん大喜びして撮影に協力。
と、そして10日余り経って、6月9日付、毎日新聞の阪神版面に記事となったのが掲載の写真。
幼な児K嬢、初の記事デビューである。

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June 11, 2005

神は舞懸りの風情によろし

N-040828-072-1
    「In Nakahara Yoshurou Koten」

風姿花伝にまねぶ-<16>


物学(ものまね)条々-神

 およそ、此物まねは、鬼懸り也。
 何となく怒れる装ひあれば、神体によりて、鬼懸りにならんも、苦しかるまじ。
 但、はたと変れる本意あり。神は舞懸りの風情によろし。鬼は更に舞懸りの便りあるまじ。
 神をば、いかにも神体によろしきやうに出で立ちて、気高く、
 殊更、出物にならでは、神といふ事はあるまじければ、
 衣裳を飾りて、衣紋を繕ひてすべし。

脇能の主人公は神、切能の主人公は鬼というのが通常とされている能の世界ではあるが、
日本の古代や中世では、神と鬼は対照されつつも、この世ならぬものとして通じ合っていると考えられていた。
紀貫之の古今集の序には「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るのも和歌の力だという件りがあるが、この謂いにもそのことは伺えるだろう。
また、「ちはやふる神」、邪悪なるものを撃退する荒ぶる神とは、より鬼的な威力に満ちた存在であったろう。

したがって世阿弥は「此物まねは、鬼懸り也」とまずはじめる。
神と鬼に、「何となく怒れる装ひ」と共通するものがあり、演ずる神の性格によっては、鬼の風体となることも差し支えないだろう、という。
では、神と鬼を隔てるものは何か、如何に演じ分けられるべきか?
それを述べるのが、但、以下である。
神と鬼のあいだには「はたと変はれる本意」がなければならない。
その工夫の要とは、「神は舞懸りの風情によろし。鬼は更に舞懸りの便りあるまじ」と対照されるところであり、神を演ずる場合、たとえ性格によって「怒れる装ひ」があるとしても、あくまで舞としての風情のうえに、とでもいおうか。

鬼神系の能面に「小ベシミ」というのがあるが、「申楽談義」によれば、
「鵜飼」の後シテとして登場する閻魔大王に、世阿弥ははじめてこの小ベシミを用いたとされる。
その狙いは、殺生禁断の川で漁をした猟師の罪科を、生前の善行によって救ってやろうとする、人の情の通う閻魔大王であれば、従来もっと猛々しい面を着けるべきところを、より抑制された「小ベシミ」を用いたところに、世阿弥の工夫があるのだろう。
所謂、先の「修羅」の項でも出てきた「砕動風鬼」へと繋がる心であろうかと思われる。

――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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June 09, 2005

草は咲くがままのてふてふ

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 写真は表題公演のチラシ

<四方の風だより>

<一千一体のナイフ-ペルソナの告白>

ウィングフィールドという
80年代から90年代、大阪の小劇場演劇を牽引した、
ミナミの周防町にある小さな芝居小屋。
其処で、BRICKS DANCE COMPANY を主宰する山田いづみが、
6月11日(土)、12日(日)の両日公演する。
そのタイトルが表題の「一千一体のナイフ-ペルソナの告白」
一千一体とは、いわずとしれた三十三間堂の仏像群を指す。
山田いづみは、私の同門後輩にあたるが、
さてその公演案内チラシに謳われたコトバのイマージュから抜粋紹介しよう。

 一千一体の仏像の表情が、たったひとりの心の中に住んでいるそうな。
 静寂と孤独に包まれて、一千一体の仏像たちの目が私の仮面を射抜く。
 線香の香りと重い読経の中で、悪徳家である私にも一千一体の仮面がある事を‥‥。
 心の仮面を幾千枚外さねばならないのだるう?

 
山田いづみのソロDance主体の内容だろうが、この人舞台美術にも凝る。
演奏に、Vocalistでもある梅木陽子とDrummerの梅本啓介が特別参加。

関心ある向きは、ウィングフィールドTell 06-6211-8247か
 E-Mail bricks@cwo2.bai.ne.jp へ問い合わせられたし。


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June 08, 2005

あざみあざやかなあさのあめあがり

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マンション下、紫陽花咲くオープンスペースにて

<日々余話>

<3歳半は反抗期の真っ只中>

生後6ヶ月から保育園に通うK君(女の子デス)は、
満3歳になった頃から、ご他聞にもれず、第一反抗期に突入。
女の子なのに言葉づかいは男児同様、
お気に召さぬとなると、親にも、乱暴なことばを投げつけてきます。
混合保育のなかで、園児たちのコトバの伝染力は、おとな社会の比ではない。
といってもこの時期の彼らには、
男の子ことば、女の子ことばの自覚は、まだないでしょうが‥‥。
大のお気に入りも、あんぱんまんから、ポケモンを経由して、
ただいま、マジレンジャー一辺倒。
ずっと、色のお好みは、赤でもピンクでもなく、なぜか青。
なので、K君はいつもマジブルーに、ご変身あそばします。

そういえば、写真の自転車も、青が基調。
三週間くらい前でしょうか、赤ベースと青ベースの自転車のなかから、
K君みずから選んだのでした。


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June 06, 2005

日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ

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          photo-恐山にて

<世間虚仮>

<我が国は、仏教の国か、神道の国か?>

頑なな小泉首相の靖国参拝の関連発言をめぐって、靖国問題がなお喧しい。
首相のこれみよがしの柳に風、馬耳東風の態度も、ここまでくるとただのガキ同然に見えてくる。
彼の人を喰ったような答弁は、郵政民営化問題でもあからさまに見られるが‥‥。

あまりに靖国問題がケンケンガクガクと論じられているので、
ちょっと待てとばかり、表題のごとく、
果たして我が国は、そもそも仏教国なのか、それとも神道国なのか、を考えてみたい。

成程、確かに、縄文・弥生の時代から、我が国には森羅万象に神は宿りたまうという自然信仰はあった。
しかし、これはアニミズム、いわゆる呪術的な原始信仰であり、地球上の何処にでもあまねくあったものであり、
今日の世界宗教へと明確に繋がる系譜のものではあるまい。
では、小規模な部族的国家が群立した段階、
九州説と大和説でいまだに決着を見ない卑弥呼の時代はどうだったのだろうか。
すでに農耕が一定の大きな規模で定着しなければ、小なりといえども部族国家的なものは成り立たないということを考えると、巫女の祀りのなかに、本来狩猟的文化段階の呪術儀礼を主体としたもののなかに、農耕儀礼的な要素も入ってきたであろうことは想像に難くない。しかし所詮は呪術的信仰にとどまっていたものとみて差し支えないのではないか。
さて、仏教伝来は蘇我馬子への538年と、公式な伝来といわれる552年の両説を、私の場合でいえば中学の歴史で習った。現在はどう教えているのか知らないが‥‥。
聖徳太子は、仏教をもって鎮護国家思想を唱え、十七条憲法を作ったのだ。
太子は隋に倣い律令制国家への展望を開こうとした、その礎に仏の教えをもって為そうとしたのだ。
大和の豪族たちの中心としてあった大王たちの係累がさまざまな争闘を経て、672年の壬申の乱を制した大海人皇子が大王となり、天皇の称号を初めて用い、死後天武と諡名された、というのが今や古代史の通説である。
古事記が成ったのが712年、日本書紀は720年、ここではじめて国生み、国づくりの神話が明瞭な形を成し、後に書紀のほうは史書として見做されてもきた。
しかし、神話の世界は、所詮口承伝説である。そのなかにあらわれる祭祀にまつわる記述などが、そのまま神道の確立を意味するものではあるまい。内実は呪術的自然信仰の延長であり未開の文明そのものとみるべきだろう。

些か、話を端折るが、一度は、この国における<神仏習合>の歴史をきちんと読んでみるがいい。
この日本に、われわれの心性に、古来より脈々と流れているのは、仏教でもなく、神道でもなく、その意味では独特の、<神仏習合>の習俗であり伝統文化なのだ、ということが少しは理解できるだろう。

およそ、我々日本人は、祖先を敬い、祖先を祀ることにおいて、格別手厚いものがあるなどとのたまうが、そんな心性は歴史的存在としての人類普遍のものだろうし、
また、罪を憎んで人を憎まず、どんな罪人であろうと人はみなその死後、罪は消え手厚く葬られるなどとのたまうのは、神仏習合においてもより仏教の教えに寄り添ったものだろう。

また視点を変えてものいえば、荒ぶる御魂を祭るとは、怨霊としての祟りを怖れ、魂鎮めのため神祀りするものであり、英霊として靖国へ祀られるということは、怨霊としての祟りを怖れての行為だという意味を潜在させているともいえる。
その意味からいえば、母国のためにと潔く戦地に散った霊たちは、二重に貶められているということにもなりかねないのだが。


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June 04, 2005

紫陽花もをはりの色の曇つてゐる

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<言の葉の記>

<紫陽花>

紫陽花の季節だ。

花の多くは陽の光にそのあざやかさを増すのに、
紫陽花は雨の雫が似合い、その風情は愛おしさをつのらせる。

手鞠花、額の花、または七変化とも呼ばれもする。

紫陽花という表記については
唐代の詩人白楽天(白居易)の
 招賢寺に山花一樹あり、人その名を知るものなし、
 色は紫色に花は香気を宿し、芳麗にして誠に愛すべし、
 よりて紫陽花と名づく。
から源順が採ったとされ、我が国のアジサイとは別の花(ライラック説が有力か)で、
引用の誤用説がよく知られている。
中国ではアジサイの花のことを八仙花とか洋繍毬と呼ぶ。
洋とつくからには外国産の花の意味だろうし、
アジサイの原産は日本ともいわれるので、日本からの渡来説が有力だろう。

 紫陽花や藪を小庭の別座敷   芭蕉
 
 紫陽花やはなだにかはるきのふけふ   子規

 ひとつとせふるさといくつてまりばな   くにを


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June 03, 2005

蕎麦の花にも少年の日がなつかしい

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 山頭火ゆかりの種田酒造場跡地付近

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

<名代の蕎麦処「凡愚」を営む真野夫妻のこと>

大阪の西端、澱江と別称された淀川の支流木津川と尻無川に挟まれた下町界隈で、沖縄出身者が多いことでも知られる大正区。
その東西に伸びる幹線大正通りを横断する43号線(阪神高速西大阪)を過ぎた一つ目の信号を右に入ると、’90年代、蕎麦屋のニューウェーブとして全国に名を馳せた、そば切り「凡愚」がある。
古いしもた屋風情の家なのだが、その昔彼らは此処をアトリエとしていた時期もあって、当時の面影を残したままだから、一見蕎麦屋にはとても見えない奇妙な店構え。
なんと週の内の4日間しか開業せず、それも午前11時からで、売り切りで夕刻前には店仕舞いするという、悠々自適?の店。子どものいない店主夫婦のライフスタイルを前面に出した遊び感覚に満ちたものだ。
この店主夫婦が真野竜彦・恒代さんなのだが、この二人と私の間には因縁浅からぬものがある。
彼ら夫婦がこの蕎麦屋を始めたのは’91年(H2)のことというから、今年で15年目ということになるが、私との縁はさらにぐっと遡る。
夫君竜彦さんとは細君恒代さんを通して知己となった。
恒代さんは旧姓宮本、高校の同期生。在校時、同じクラスになることはなかったから、当時はまあ顔見知りという程度で、とくに交わりがあった訳ではない。
彼女と再会し、後にこの夫婦とそれこそ結ぼれの如き仲となる発端は卒業後4.5年を経た頃ではなかったか。
記録を紐解けば、‘68年(S43)の神澤茂子・天津善昭そして私との三人によるジョイントリサイタル「FITO-ひと」で衣裳デザインを担当したデザイナーH女史のアシスタントとしてH女史の後ろに畏まって付いて来ていたのが彼女で、ヤァ、ヤァとなった次第だ。
この会は、三人のジョイントながら、私にとっては舞踊作家デビューの記念すべきものであった。
三人が各々三つの作品を制作し、神澤和夫師の「Blues1.2.3」を加え、上演のプログラムとした。
公演は‘68年(S43)6月22日、大阪森之宮の厚生会館文化ホール(現・青少年会館文化ホール)にて。
因みに、私の作品タイトルは「吼えろ、吼えろ、ふくろう党」「蝕」「灰の水曜日」。
デザイナーのH女史は当時の阪神百貨店のデザインルームのチーフだったかで、打合せなどで私も何回か通ったのだろう、その部屋で彼女と話したりした記憶がいま微かに蘇ってくる。
この頃の私はすでに世帯(一度目の)をもって丸二年が経過、’75(S50)年春に泉北の晴美台に転居するまでの8年を大正区の三軒家枦町 (現・泉尾1丁目) に長屋住まいをしていたのだが、前述の再会からどれほどの時を経てか、家近くの街中で昼日中偶然にも彼女とバッタリ出くわしたのだった。聞けば結婚してこの辺りに住居しているという。昔から彼女は人懐っこい性格だからか、またしてもヤァ、ヤァだ。「旦那は写真をやっているから、是非紹介したいし、家に寄っていきませんか」とノリよくお誘い戴いたので、私も偶々閑だったのだろう、そのまま新居にお邪魔をして、竜彦さんと初のお目文字となった。
夫君は少し繊細な感じがするものの人の好さは一目瞭然、お世辞にも話し上手とはいえない人見知りするタイプ、人見知りの強いのは私もご同様だが。彼女はとても気散じで決して相手を逸らさない饒舌家だったから、これはこれで対照の妙。
仕事は写真の撮影のほうではなく、大判の紙焼きを主とする技術屋さんで、当時としてはちょっとした大型の機械を持っていて、そんな話題に興じたものだった。
それ以来、家が近いこともあって互いに行き来をするような付き合いが続いたのだが、私が自前の舞踊公演を打つようになって、細君に衣裳デザインを依頼してからいよいよ深くなる。夫君の竜彦氏も稽古や舞台の写真撮影を引き受けて、夫婦揃ってのスタッフ付き合いとなったものだ。
‘75年(S50)の芝居と踊りのジョイントシアター「風が立つ」にはじまり、翌年の劇「挑戦者たち」、舞踊の「螺旋の河をゆく阿呆船」と続き、以後も私の企画公演には欠かせぬスタッフとして付き合いは深まってゆく。
その付き合いが嵩じてか、‘80年(S55)2月には「ダンスとブルースによる真野恒代のファッション・ショー」まで致すことと相成る。遊び感覚に溢れた劇場型ファッショショーというわけだ。会場を芦屋のルナ・ホールとした。ここは円形型劇場だから企画に相応しかろう。出演者は真野夫妻と親交深いブルース・ミュージシャンたちと私のほうのダンサーたち。題してFashion, Dance&Blues「遊びにいけるさ土曜日に」。無名の服飾デザイナー真野恒代が、業界などというものとはまったく無縁の世界で歩み出した晴れの舞台だった。
すでにこの頃には、真野夫妻には自宅を改造してアトリエをやりたいという望みがどんどん膨らんでいた。夫君の写真と細君の服飾デザインというお互いの職能をそのまま活かした形のものをという願いだ。当初は、細君の服飾デザインを前面に押し出したものとなってオープンさせた。「アトリエ・シャンソニエ」の誕生である。
このシャンソニエの誕生とファッションショーのどちらが先行したのだったかは、残念ながら私の記憶は定かではない。ひとまず相前後して、としておこう。
’80年代、二人の工房であるアトリエ・シャンソニエのありようは、その二人、真野夫妻のありようを映して変貌していく。
子どもを持たぬ夫婦が、お互いにかけがえのない他者として、同伴者として生きてゆくことの変遷の歴史がここにも固有のかたちである。相剋と和合の螺旋のような繰り返しが。
まるでシテと脇の交代劇の如く、細君の服飾デザインを主体にしていたアトリエの様相が一変して、夫君のフォトアトリエ兼イベント空間へと変貌するのである。
数年前から撮影対象をアングラ系劇団や暗黒舞踏系へと足場を移していっていた夫君は、その交友関係のなかでいろんなパフォーマーたちに空間を提供し、アトリエ・シャンソニエを彩っていくこととなる。
私もまた、オープニングイベントの一つとして、店先の路上でのダンスパフォーマンスをしている。’84年(S59)12月のことだから、この時がGalleryシャンソニエへと転身した始まりであったのだろう。
イベント空間へと変身したGalleryシャンソニエがどれほど続いたかは、どうもはっきりしないのだが2年位ではなかったろうか。
夜もずいぶん遅い時間だったと記憶するが、ある日、突然、夫妻が泉北の我が家を訪ねてきた。
二人は「アメリカへ行く」というのである。「半年になるか、一年になるか。とにかく自分たちをそれぞれ見つめなおしたい」などと言い残して数日後旅立っていったのだ。
すでに40歳を過ぎた夫婦者が手を携えてアメリカ大陸へヒッピーさながらに放浪の旅へと、勇躍という形容が相応しいかどうか疑問だが、とにかく二人はアメリカ行きを敢行したのである。
帰ってきたのは丸一年後だった。
二人の家を訪ねていろいろ話し込んだが、心なしか細君のほうに一年の放浪のためだけではなかろうやつれを感じた。
私のほうにもいろいろあって、その後はお互い訪ねあうこともなく打ち過ぎていたのだが、そういえば夫君が蕎麦打ち修業をしているという話を聞く機会もあったのだが、それがいつの頃だったかは失念してしまっている。
兎に角、私にとっての彼らの記憶は、冒頭のそば切り「凡愚」の誕生となるのである。
一風変わったというより、かなり破天荒な蕎麦屋である「凡愚」はオープン以来、グルメ雑誌などにたびたび紹介され、話題が話題を呼び、全国から旅の寄る辺にわざわざ立ち寄る客が後を絶たないようだ。
結構なことではある。結構このうえないのだが、私の胸の内では、この夫婦、まだもう一度は大きく転身をはかるのだろうな、という予感がする。それがどういう形をとるものかは予想もつきがたいし、彼らの思いの内が語らずとも伝わりくるほど身近に接してはいない昨今は手がかりとてないというものだが。

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June 01, 2005

夏めいた月かげを掃く

N-040828-062-1
    「In Nakahara Yoshirou Koten」

<日々余話>

お断り:この記事はエコー内グループ「エコー!ユーザー会」の掲示板に寄せた一文とほゞ同じものです。

<書くこと・読むことの倫理を>

言行為にはパロール(話す行為)とエクリチュール(書く行為)があるが、
つくづくこの二者の相違は遠いものだと今更ながら思い知らされることが多い。
話す行為において、人はその瞬間々々の表情や身振りを伴い、言葉をもって話すには違いないのだが、いわば全身全霊でもって話す。
だから言語の本来有している多義性=曖昧性をものともせず、話し手の本意を悟ることができる。この場合、聞き手もまた言葉を媒介としつつも、身をもって知るのである。
思いや意志というものはつねに感情に彩られているものだということを決して忘れてもらっては困る。その思いや意志がいかに冷静に客観的に語られているかに見えようと、だ。
否、むしろ、思いや意志と感情とは別々の乗り物なんかじゃなく、同じものの両面、人の志向性としての表象=働きの表と裏といってもいい。
議論の場においても、お互いにその場に臨み意見を述べ合うのならば、その発言が甚だ論理性を欠き未熟なものであっても、誤解やそれに基づく諍いになることは比較的少ないし、仮に一時的にそうなったとしても、対面する場のなかで軌道修正をすることはそれほど困難ではない。

しかし、同じ言葉を媒介としても、書くとなればまったくそうはいかない。
そんなことは百も承知のうえ、わかりきったことじゃないかとみなさん仰りたいかもしれないが、止まれ、その一文をものするためにどれほどの推敲を重ねたか、なによりもまず我が身に問うべきだ。
ブログというもの、ネット上での書き込みという行為に、
人はかくも自己検証や内省を忘れ、かたときの推敲も惜しみ、逐語的な走り書きを繰り返し、泥沼化としかいいようのない堂々めぐりにも似た営為を繰りひろげてしまうものか、とつくづく悲嘆にくれるような現実に多々遭遇しているのは私一人の経験ではあるまい。
以下は、エコー内の或る人の記事に私がコメントとして寄せたものだが
「自慰行為にも似たレベルでネットを徘徊し、自己の卑小な存在証明を残して喜んでいる人たちが席巻しているのは、いまのところ必要悪として諦観するしかないのでしょうね。
そういう恣意的なレベルを離れて「読み」の問題を成立させていくことはとても困難なことではありますが、端的にいえば判る人には判るということではないでしょうか。
絶対的少数派ではありましょうが、対象への「読み」において、有意に展開しうる「読み」、発展性のある「読み」といものが必ずある筈ですし、仮に発言者に些かの恣意性が認められるに場合にせよ、それを捨象し、内在する問題を汲み上げ止揚していく「読み」というものを自らに課していくことが大切なのであろうと考えております。」
上述の「読み」の徹底、深化を我が身に課すことなしに、「書く」ことの倫理も身につく筈がないというものだ。

エコー内グループとしてエコー!ユーザー会が5月7日に発足し、瞬く間に100余名の参加を数えたが、
現時点(6/1 04:21)で、掲示板にスレッドが34件並び立っている。
この賑わいを是とするか、乱立とみて否とするか。
おなじく、足跡総数 13982件を数えている。
この来訪の数を、真摯な関心の強さとみるか、野次馬的物見遊山の顕れとみるか。
これらの判断は容易にはし難いものがある。
なぜなら、このグループの成立根拠たる理念と、その理念に基づいた戦略・戦術が充分に会員共有のものへと未だ形成されていないこの段階では、
いや、理念としては甚だ抽象的に過ぎるが、グループプロフィールの概要に謳われた
「エコー!が好きだから、もっと居心地のいい場所にしていきたい。「エコー!ユーザー会」はそんな私たちユーザーの気持ちや言葉が集まる場所です。ユーザーの、ユーザーによる、ユーザーのための場所。そしてそれらの声を運営事務局に届けることができるグループを目指します。」としてもいいだろう。
だが、戦略としては「エコー!ユーザー会ガイドライン」をもってしてそれとするには些か明証性に欠けるだろうし、戦術レベルではまだ影も形もないに等しい現況では判断留保せざるを得ない、と私は受け止めている。

まだまだ、この舟は、何処へ向かい、何処の岸辺に辿り着くのか、まったくもって未知数なのだ。
だが、有意の人々は、このなかに多数居られる筈と、私は確信している。

だから、再度、繰り返す。
「エコー!ユーザー会」が100余名からなるグループであることは、
参加者各個人にとってすでに明きらかに公的な場であること。
書くことは、いっさいが公的な発言であること。
ならば、読みに徹し、読みを深めるべきだ。
内在する問題を汲み上げ止揚していく「読み」というものを自らに課していくという「読み」の倫理を体現するなら、
そこには自ずと「書く」ことの倫理も発現してくる筈だ。


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