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April 30, 2005

若葉めざましい枯枝をひらふ

uvs050420-089-1
      「Lesson Photo in Asoka」より


<身体・表象> -2

吉本隆明の<瞬間論>

私たちがいま、<瞬間>という概念をつくりあげようとすれば、ある時間の流れを考え、同時にその流れが停まったときを考えることになる。
流れてしまった時間は過去で、まだ流れてこない時間が未来として、いま<流れつつあり>しかも<停まっている>というふたつの条件が、瞬間という概念が成り立つために必要になる。

眼で見られる私たちの経験の世界では、瞬間という概念は、さまざまな測度をもった時間の系列が折り重なった<束>みたいなものとして像化されるほかない。折り重なりが多様なためにこの時間の束は流れていながら停まっているという瞬間の像を成り立たせることができる。
言い換えれば、この瞬間のなかには、ほんの少し以前に流れてしまった時間である過去と、ほんの少しあとからやってくるはずの、まだ流れてこない時間である未来とが、束のなかに<滲み>とおっている。

ところで瞬間の束に滲みこんでいる過去は、いちばん新しいもので象徴させればいま感覚の対象になった<そのもの>だとみなされる。どうしてかといえば、感覚で受け入れたものを即座に了解する時間が、単位の<極小の時間性>とみなされるからだ。
おなじように瞬間の束のなかに滲みこんでいる未来は、いちばん近い未来としては、空間的な対象となった自分の(行動の)<自己了解>の時間だとみなすことができるだろう。どうしてかといえば、この時間は極端にいえば、自己了解という(行動の)時間そのものだということもできるからだ。

<時間の束のなかにいる私>とは、ほんの少し過去に感覚し、同時にほんの少し未来に行為している自分が、おなじ身体に統一されているものをさしている。そしてもしかするとほんの少し過去に感覚したものを了解している自分の時間と、ほんの少し未来に行為する自分を了解している時間とが、<おなじ束のうちに統一されている>状態なのだ。
私は行為する自分の了解をつぎつぎに感覚する自分の了解のほうへ流れ作業のように送り込みながら、<現在>の瞬間という意識を保っている、といってよいのかもしれない。

ところで私が感覚するほんの少しの過去は、私のまわりに対象の山を積み上げる。これが誤解されやすい言い方ならば、さまざまの対象をさまざまな形や素材や表面として私のまわりに出現させている。私がそれを了解しているかぎり、私のまわりに積み重ねられ遠近をつくってゆく対象の群れもまた、出現することをやめないことになる。
私がこの状態を瞬間の束である現在として設定しようとすることは、感覚する過去と行為する未来とを、了解の時間として自分の身体で<統覚>することを意味している。
この瞬間には時間の流れは停滞し、切断されることになる。そしてこの状態を<俯瞰>することができたら、私が自分の関心のある事物に囲まれている現実の世界の風景がそっくり眺められることになっているはずだ。

<言葉>がこの瞬間に入り込めるとすれば、停滞し、切断されるこの時間の流れのところにしかありえない。そしてほんの少しの未来の行為とほんの少しの過去の感覚作用のあいだに手渡される時間の接続のかわりに、ほんの少しの過去の感覚とほんの少しの未来の言語行為のあいだに時間の回路をつくりだせばいいことになる。そしてこの言語行為の回路は、行為の回路とまるで直角にちがう方向に、未来を設定することになる。但しこの感覚と言語行為との回路はただ<話される>言葉にしかすぎない。

<書く>という言語行為が登場するとまったくいままでとちがったことになる。たぶん感覚のかわりに感覚の像が、ほんの少しの過去を了解する時間の像をあらわし、書く(記述する)という現実の行為と純粋の言語行為のふたつに分割される。そして記述という現実の行為と、まだ正体がわからない純粋の言語行為という、二重の行為をほんの少しの未来から招きよせることになる。
この二重の行為の<あいだ>、書くという現実の行為と純粋の言語行為のあいだをつないでいる回路は、<表現>だといってよい。

瞬間の束である私の<現在>はここまでやってきて、大きな<混沌>に出あうことになる。
むしろ混沌をつくりだすことで、感覚と行為のあいだに書くという言語行為を介在させているのだといった方がいい。

    吉本隆明著「ハイ・イメージ論Ⅲ」ちくま学芸文庫より抜粋。


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April 29, 2005

能の位上らねば、直面は見られぬ物也

uvs050420-009-2
       「Lesson Photo in Asoka」


風姿花伝にまねぶ-<13>


物学(ものまね)条々-直面(ひためん)

 これ又、大事也。
 およそ、もともと俗の身なれば、易かりぬべき事なれども、ふしぎに、能の位上らねば、直面は見られぬ物也。
 まづ、これは、仮了(けりょう)、その物々によりて学ばん事、是非なし。
 面色をば似すべき道理もなきを、常の顔に変へて、顔気色をつくろふ事あり。さらに見られぬものなり。
 振舞・風情をば、そのものに似すべし。顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。

能では面をつけないことを「直面」というが、
古語では「ひたおもて」ともいい、
1.顔をかくさないでいること。2.直接顔を合せてさし向うこと。などを意味する。
能においては、生身の「顔」を、ひとつの「面」として捉えようという意識があること。
ここでは、演者の「顔」も、単なる素顔ではなく、ひとつの「面」として止揚されている。
能の位-芸の格調、その人としての気品-、これらが備わらなければ、「直面」は見ていられないものだよ、という訳だ。

人の「顔」というものは、その表情も含めて、いかにも不可思議なものではないだろうか。
顔や表情には、その人の人生が深く刻み込まれている。
白川静の「常用字解」によれば
「顔」は形声。音符は彦(ゲン)、彦は厂(額の形)に文(文身。朱色などで一時的に描いた入れ墨)を加え、その色の美しさを彡で示している字である。
頁(ケツ)は儀礼のときに礼拝している人を横から見た形である。
顔とは、一定の年齢に達した男子が、額に美しい入れ墨を描き、おごそかに成人式をしているときの顔つきをいい、「かお」の意味となる。
とあるが、
この成り立ちを見れば、世阿弥が演者の顔を「直面」へと止揚した世界はまっすぐ一本道だ。
まったく「顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。」である。

――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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April 28, 2005

わかれたままの草鞋をはく

NYTimes050426

「ニューヨークタイムズ紙面」より


<風聞往来>

<How Late Is Late?>

JR西日本の脱線事故による死者が100人に達しようとしている。
28日午前0時過ぎ現在、97人の死亡が確認され、さらに一両目には8人が取り残されているが、
この車両からの生存者反応はないという絶望的事態。
衝撃的なニュースは世界を駆け巡っている。

How Late Is Late?
どれくらいの遅れを、遅れというのか。
ニューヨークタイムズがこんな書き出しで、
日・英・米の交通機関における「遅れ」認識の比較を報じている。

JR西日本では、1分。
イギリスの旧国鉄では、5分。
ニューヨークの地下鉄では、6分。

国民性や生活習慣が背景ともなろうが、この彼我の差はあまりにも大きい。
この悲惨な事故の原因究明が盛んに取り沙汰されているが、
この「遅れ」認識の差が本質的原因と深く自戒して、
国民全体の生活習慣そのものが問い直されなければならない。


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April 27, 2005

もう死んでもよい草のそよぐや

Meikyu_27-1 「迷宮のシンメトリー」より

<行き交う人々-ひと曼荼羅>


<行き交う人々>と題して、私の60年の生に縁深き人々について記していこうと思い立った。
生死の別なく、過去となった人も、現在につながる人も、さらにはなお未来においてある人も。

<久本勝巳君のこと>

彼は5歳か6歳年下だったから、昭和24年か25年生まれということになる。
私を師とし、先生と呼んだ最初の人である。
私が師の神澤和夫に「自分なりに舞踊をやってみます」と厚顔にも宣言して、
現・四方館の前身でもある林田創作舞踊研究所を立ち上げたのは1974(S49)年4月だった。
ちょうど30歳を眼前にしてのことだった。
その開設宣言には
「はなはだ抽象的にすぎるが
 舞踊原理としてありうべきいっさいの対象(潜在的な意味での)
 に対するわれわれの身体の支配力が
 ただひとつの空間を築きあげるといってみるならば
 研究所はこの身体的表現の開発・形成に
 ひとつの道をつけていく場として実現されねばならない」
と、些か気負いすぎのフレーズが躍っている。
大学に入ってまもない19歳の夏から演劇と舞踊の二足の草鞋をはいていた私は、演劇においては小さいながら<9人劇場>なる劇団を65(S40)年から主宰しすでに9年を経ようとしていた。
劇団のほうに集った仲間たちとは別に、舞踊の集団を作ること。
身体表現を主軸に不断に稽古を重ね、創造主体=舞踊家を育成すること。

この立上げとともに我が門を最初に叩き、以後86(S61)年秋の「林田鉄の舞踊展」の公演まで一線で踊りつづけた人が彼・久本勝巳君である。
郷里は島根県と聞いた。子沢山の農家の三男坊に生まれたとも。おそらく小作農あがりだったのだろう。
戦後の農地改革で耕地を得たとはいえ充分なものであるはずもない。
彼は中学卒業と同時に、神戸のクリーニング店に就職したという。
65(S40)年頃なら大阪では高校進学率も90%近くに達していたのではなかったか。
とにかく生真面目でとても粘り強い人だった。身体は細身、筋肉質でなくどちらかといえば骨格も華奢で、腰骨や骨盤などは男性とは思えぬほどに細かったが、そこは育ちゆえか身体を酷使する激しい稽古にも決して音を上げない精神力をつねに発揮していた。
稽古場へはいつも一番乗りし、床の雑巾がけを黙々としていた。後輩がたくさんできて大先輩になってもこの姿勢はずっと変わらなかった。
私の初期における舞踊作品で記憶に残るものといえば、すべて彼が中心に踊っている。
「出会いに関する4つの章」では25.6分を踊りきっている。
「冒険者」のsoloや、「橋は架けられた」の群舞を経由して、78(S53))年の劇的舞踊「走れメロス」ではメロス役として1時間40分の舞台を、時に演じ、時に踊り、跳ね、走り、ひたすら動きつづけた、20数名からなるコロスの仲間たちと。
メロスを演じる彼は決して巧みな表現者ではなかったが、その清楚で簡潔な美しさが客席の心を打った。
メロス上演の成果以後、その舞踊の表象世界に変容を重ねていこうとする私に、前述の「林田鉄の舞踊展」までの長きを辛抱強く付き合ってもくれた。
足かけ13年、20代前半から30代後半、その間に結婚もし、一男一女だったと記憶するが二人の子どもにも恵まれ育てている。
仕事と家庭と、そのなかで舞踊家として立ってゆくこと、続けていくことには、当時の関西では誠に厳しいものがあった。

現在、彼の音沙汰について私は知らない。
93(H3)年の秋、私がプロデュースしたPlanet5シリーズのなかの「迷宮のシンメトリー」上演の際、
17.8歳になっていただろうか大きくなったお嬢さんを連れて観にきていた彼を見かけたものの、ゆっくり言葉も交わす暇もないままに立ち去っていった。
以後、いつだったか人伝ながら、仕事が立ち行かなくなったのか転身せざるを得なくなり、何処かへ移っていったらしいと聞いたことがあったが‥‥。
いずれにしても音信なく、行方知れずのままだ。


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April 26, 2005

筍あんなに伸びて朝月のある空へ

uvs050420-008-1 「Lesson Photo in Asoka」より


<言の葉の記>


<たかんな-筍づくし>


筍が美味い季節。
筍、竹の子。古名を、たかうな、たかんな、ともいう。

花山院の詠んだ歌の前書に
-冷泉院へたかんな奉らせ給ふとてよませ給ひける、とあり
世の中にふるかひもなく竹の子はわが経ん年をたてまつるなり

孟宗竹の筍は、もっとも早生で、もっとも肥えて肉多く、柔らかく歯あたりが良いそうな。京都府大山崎界隈の孟宗竹の味は名高い。

筍が季題となったのは意外と新しいそうだ。勅撰集の頃はまだ認められていなかったらしい。
山本健吉氏は、連歌時代に夏として出たのが初出かと推測している。
江戸の俳諧になると季語としてすでに定着している。

  竹の子や児(ちご)の歯ぐきの美しき    嵐雪
皮を剥いだ筍と幼な児の歯ぐきの白さとの見立てが鮮やか。

  竹の子の力を誰にたとふべき       凡兆
この凡兆の句なぞは諧謔味あふれて川柳のセンスに近いかと思う。

  笋(たけのこ)のうんぷてんぷの出所かな  一茶
うんぷてんぷの出所、とは一茶らしい面白い思い付きだと感心させられる。

  筍や目黒の美人ありやなし        子規
東京目黒の筍飯は名物としてつとに知られていたから、子規はそこを踏まえて詠んでいるのだが、目黒の筍飯を知らないとなにがなにやら分からなくなる。


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April 25, 2005

春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏

uvs050420-104-1 「Asoka in Lesson Photo」より


<日々余話>


<岩崎玄龍の薩摩琵琶>

昨日の4月24日、皐月も咲き初め薫風爽天に誘われるように一家三人連れ立って外出。
先ずは、Kaoruko初お目見えとばかり、地下鉄を利用して天王寺動物園へ。
三歳半ともなれば動物園参りも早くもなく遅くもなく頃合かと思ったのだが、
彼の人、普段から人見知り激しく、近所の公園でも鳩たちや散歩の犬など、遠目にはよいのだが近くには寄れないという御仁だから、喜んではしゃぐかと思えば近寄っては怖がると、甚だ忙しい。
北廻りで最初に見たのが、フラミンゴの群れ。
このおとなしいピンクと白の鮮やかな鳥たちの動きにはずいぶん見入っていた。
園内にてお弁当も挟んでの約3時間。
コアラは眠ったままなのでよくわからなかったようだが、ライオンさんも、トラさんも、カバさんも、キリンさんも、ゾウさんも、サルさんも、
いっぱい見られて、よかったよかった。

動物園前から日本橋へと地下鉄を乗り継いで、今度は国立文楽劇場へ。
小ホールにて11時から16時まで演じられている「琵琶楽名流会」にご推参だ。
主催は日本琵琶楽協会関西支部。この手の会は大概無料なのだから大いに助かる。
Junkoの師、奥村旭翠の出番に間に合えば用は足されるというので、動物園とのダブルヘッダーとなったのだが、劇場に着いたのが2時半過ぎか、師の出番までにはまだ3曲ほどあった。
これが幸いした。
演題15番目の、東京本部から来演した、薩摩琵琶の岩崎玄龍氏の「鵯越(ひよどりごえ)」の一曲。
これはなかなか素晴らしいものだった。
年齢はまだ50歳過ぎくらいだろうか、この世界ではまだまだ若い方だ。
しかし、琵琶捌きといい、吟詠といい、ほぼ文句のつけようがないほどに達者のものだった。
はっきり言ってこの琵琶弾き語りの世界、私のこれまで聴いたかぎりでは、玉石混交、素人の旦那芸に毛の生えた程度のものがずいぶん多いのだが、この玄龍氏は格段にレベルが違う。
この人の語りには、能楽の謡の素養なんかがしっかりとあるのではないかと思ったくらいだ。むろん事実の程は知る由もないが。
それほどに見事な口跡としっかりした調子だった。
どうやら、彼は小椋佳が作・演出している歌語り一休シリーズや歌綴りぶんざ(紀伊国屋文左衛門)にも起用され出演しているようだが、この達者であれば然もありなむと納得。

滅多に味わえぬ上手の芸にほんのひとときながら堪能しえたこと、まことに幸いなるかなである。


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April 23, 2005

水のうまさを蛙鳴く

Titei-Yose-05-04 「地底旅行寄席」チラシ


<風聞往来>


<第61回地底旅行寄席>

今月の地底旅行寄席の案内が届いた。
平成鳥の会という若手落語家たちが登場する。
開催要領は以下のとおり。

日 時 4月26日(火) PM6:00開場、PM6:30開演
入場料 前売1000円 当日1500円
場 所 田中機械ホール(レストラン地底旅行隣)
問合せ 090-8526-0327 (8時~21時)

チラシ(写真)によれば、来月は
先月12日、鬼籍の人となった桂文枝の一門会が予定されているもよう。

Information <四方館 DanceCafe>


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April 21, 2005

まひまひしづか湧いてあふるる水なれば

uvs050420-020-1
「in ASOKA-Lesson Photo」


<四方の風だより>


<四方館 Dance Cafe>

大阪の通天閣付近、天王寺界隈というか、新世界界隈というか、
フェスティバルゲートなる施設がある。
悪名高い大阪市の第3セクター事業における代表的失敗作の一つである。
最初から民間事業として展開した大規模スパの方はなんとか賑わっているらしいのだが、
ジェットコースターのある此方のほうはオープン当初から閑古鳥が鳴いていた。
数年前から方向転換、賑わいを創出するためにだろうが、
採算度外視の「新世界アーツパーク事業」なるものが展開されている。
曰く、「この事業は各ジャンルの専門家がNPO(特定非営利活動法人)を設立し、公演・ワークショップ・文化交流など、多様でレベルの高い事業を継続的に展開する とともに、『大阪現代芸術祭』の一環として、大阪市主催による特定のプロジェクトを計画的に推進し、行政を民間が協力して先端的な芸術拠点づくりに取り組 みます。」だそうな。
現在、ArtsTheater dBなどが活動している。
そのうちのCOCOROOMなるイベントスペース兼カフェを利用して、
<四方館Dance Cafe>を始めてみようと思い立った。
以下は、その紹介。

<四方館Dance Cafe>とは
即興によるDance-PerformanceとFree-Talkの一夜です。


四方館Dance Cafe
 in COCOROOM Festivalgate4 F

Improvisation Sou-Mon<相聞> vol.2

  Date 5.12 (Thu) 19:30 Start
  1coin(500)&1drink(500)

身体によって感受される現実(Actuality)は
言葉によって構成される現実(Reality)よりも
はるかに豊穣なものだ

表現は自己の表出ではない
むしろ自己表出に対する抑制だろう
だから、表現者の身体は、海のような沈黙をたたえている
表現する行為のまえには身体のざわめきがあり
表現されるものは、その息づかいの一瞬のうちに準備されている

Sou-Mon<相聞>、錯綜する身体が場としての空間を神話化する

Dancer/ Yuki Komine
   / Junko Suenaga
Pianist/ Masahiko Sugitani

Host/ Tetsu Hayashida


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April 19, 2005

寝床まで月を入れ寝るとする

<風聞往来>


アインシュタイン没後50年記念
彼の命日に、世界平和へ光のリレーを

茂木健一郎氏のクオリア日記「国際物理念、光で世界を結ぶプロジェクト」にトラックバックしています。

アインシュタインの没後50年を記念して、
その命日(4月18日)に、光のリレーで世界中をつなげようというイベントをしている。
日本列島では、今夕20時から21時までの間、東から西へと、各地で2分間ずつ電気を消すことで、夜の光のなかで、闇の部分を波のように伝えていこうというもの。
大阪では、20時33分から2分間、消灯すればよいのだが‥‥。

趣意書パンフはココ

みなさんのご家庭でも参加してみませんか。


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がちやがちやがちやがちや鳴くよりほかない

EVP_18-1 EVP「Sympathies-共鳴するものたち」


<世間虚仮>

いい加減にしろ!
姑息で恥ずかしいかぎりのリアクション

<中国関連施設への嫌がらせ10日間で25件に>朝日新聞

中国での反日デモが激化しているなか、対抗的に日本の中国関連施設への嫌がらせ事件が頻発しているそうな。
曰く、総領事館へ封筒にカミソリの刃、語学校に金属弾、協会事務所にパチンコ玉、などなど。
なんとも嘆かわしい姑息な腹いせめいたことを重ねているのだろう。仮にこんなことが日本の国民レベルのリアクションとして国際的に報道されたりしたら、ただただ失笑の極みではないか。

15年前(1989)の天安門事件という大きな危機から、経済の高度成長をひた走る中国が内向きにはどれほど困難な問題を抱え、どんなに抑圧政索を取り続けているか。
現在の日中緊張関係の主たる要因は、日本の首相の靖国参拝や教科書問題に指摘される歴史認識、尖閣諸島の魚釣島問題などに、果たしてどれほどの比重があるのだろうか。
中国の覇権主義的外交と、内政上極端な抑圧政索を取らざるを得ない矛盾にすべて起因していることではないのか。
確かに、現在唯一の覇権国家アメリカに近い将来対抗すべき中国にとって、日本が安保理常任国入りを目指しているのは問題視されるに充分な大事ではあるだろう。
私個人は、安保理入りを目指そうとすること自体、反対ではあるが、
かといって中国が、ドイツと日本を区別化する論理には到底首肯しがたいものがある。
反日デモで中国市民が一様に叫ぶ超論理的スローガン「愛国無罪」と同様、中国の主張は客観的合理性をここでも逸脱している。

とにかく、この緊張関係打開は国政トップの外交手腕が真に問われているのだ。
もちろん国際上からも甚だ憂慮すべき大問題なのだから、言挙げしたり行動するなら、国政トップそのものに向けてあるべきだろう。対中国に報復的措置を取りたければ、それに相応しい行動形式というものがある。
それができないようなら、ただ沈黙してしっかりと事態の推移を見詰めるしかないではないか。


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April 18, 2005

山からしたたる水である

Meikyu_21    「迷宮のシンメトリー」より


<身体・表象> -1


「わたしが知らないのをわたしが知らないならば、わたしは知っているとわたしは思う
 わたしが知っているのをわたしが知らないならば、わたしは知らないとわたしは思う」

イギリスの精神科医、R.D.レインの<結ぼれ>という変わった表題の書を、私が手にしたのはおそらく25年前ほど昔、79、80年頃であったろう。
ブランケンブルク「自明性の喪失-分裂病の現象学」で知られた<アンネ・ラウ>に出合うのも同じ頃だった。
演劇において舞踊において、その共通基盤であろう身体表現という作業軸で方法的問題を考えようと模索してきた私の大きな転換点でもあったこの時期、
身体や表象と意識-無意識との関わりにいよいよ眼を向けざるを得なくなっていくのは当然の帰結だったかもしれない。

 <結ぼれる> 広辞苑によれば、
  ①むすばれて解けにくくなる。
  ②露などがおく。凝る。かたまる。
  ③気がふさいで晴れ晴れしない。ふさぐ。
  ④関係がある。縁つづきである。

「ひとりのPerson(人)は、ある意味では、一組の関係であり、
 そして諸関係の-また、諸関係への-諸関係である」と
R.D.レインは別の著書「家族の政治学」で書いているが、
人格とはその諸関係の網の目の表象ともいいうるであろうし、
心(意識-無意識)の内には、さまざまな<結ぼれ>が生じ、配置されもしているだろう。

少し長くなるが<結ぼれ>所収の.一例を引用しておこう

 もしそれがわたしのものならばそれはわたしのものではない
 もしそれがわたしのものでないならばそれはわたしのものだ
   もし《それはわたしのものだ》がわたしでないならば
   もし《わたしでない》がわたしのものでないならば
   もし《わたしのものでない》がわたしならば
   もしわたしが《わたしのものでない》ならば
   もし《わたしのものでない》がわたしでないならば
 そのばあいには、もしわたしでないならば、それはわたしだ
 もしわたしでないならば、それはわたしだ
 もしそれがわたしならば、それはわたしのものではない
 もしそれがわたしのものでないならばそれはわたしではない
 もしそれがわたしでないならば、それはわたしだ
 もしそれがわたしならば
   それはわたしのものではない
 もしそれがわたしのものでないならば
   それはわたしだ
 もしそれがわたしならば、それはわたしのものだ
   もしそれがわたしのものならば
                それはわたしではない
   それゆえもしそれがわたしでないならば
                それはわたしのものだ
     もしそれがわたしのものならばそれはわたしのものだ


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April 16, 2005

ふるさとは遠くして木の芽

ohgenki_2_011  「往還記Ⅱ-鬼小町」


<歩々到着>-5

 明治34(1901)年7月、山頭火こと種田正一は、上京してすぐ、早稲田大学の前身、東京専門学校高等予科へ入学している。地方延着者たちの為の入学試験に合格して、この7月の入学となったようだ。時に数え20歳。
大学部の政治経済学科、法学科、文学科への志望によってクラス編成されていたが、彼は文学科を志望していた。
翌35(1902)年7月、予科を終えて、いよいよ大学部文学科に進学。同期生85名のなかには、小川未明などが居たとされる。
当時は、自然主義文学の勃興期であり、ゾラ、モーパッサン、ツルゲーネフらが学生たちの間で漁るようによく読まれていた。彼が早稲田在学時に書いたものは残されていないが、数年後に発表したツルゲーネフなどの小説の翻訳は現存している。

 在学中の消息は詳らかでない。学籍簿には「明治36年一年級未済」となっている。また、彼自身が後に書いた或る履歴書には「明治37年2月、疾病ノ為、退学ス」とある。
この病気というのは強度の神経衰弱だったとされ、その背景には実家の経済不安が主たる要因のようだ。
防府の実家では、明治37(1904)年に大種田といわれたその屋敷が二度にわたって売り払われている。屋敷まで切り売りするからには、広大な田畑は当然すでに売り尽くされていただろう。家からの送金は少なくとも滞りがちだったのではないか。学業を続けられず悶々とする日々のなかで、神経衰弱に陥っていったということか。

 時代は日清・日露の谷間の時代。帝国主義化を強めていく日本の、戦争前夜である。
日露協商交渉に頓挫した日本は英国と、明治35(1902)年1月、日英同盟を締結、ロシアとの緊張は一触即発の危機へと高まりつつあった。
翌36年(1903)5月22日、東京大学の前身である一高生の藤村操が「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。」と、巖頭の感と題する遺書を遺して、日光華厳の滝へ投身自殺をした。一高の英語教師であった夏目金之助(漱石)は生徒であった藤村の自殺に大いに衝撃を受け、漱石後年の鬱病の要因の一つとなったとも考えられている。
このロマンティックでセンセーショナルな投身事件は、当時の学生や青年たちの心を激しく捉え、その後の4年間に185名という多数が、彼と同じように華厳の滝へ投身するというほどの流行現象となった。
自殺に至らないまでも、いかに生きるかと煩悶する若者は多く、虚無感に捉えられ、神経衰弱に陥るというのが、当時のエリートたちの或るパターンを形成したとまでいわれるような風潮であった。

 明治37年(1904)2月、日本はロシアに宣戦布告、帝国主義化を加熱させ、刻々報告される戦況に湧きたつ世相を尻目に、同年7月、3年間の在京生活を文芸への志虚しく結果として無為のうちに過ごした正一は、ニヒリズムに捉えられた心の病も改善することなく、言い知れぬ挫折感を抱きながら、転落急な防府の生家へと帰参したのだろうか。


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April 15, 2005

石仏しぐれ仏を撫でる

kinomusubi0411-01  「保育園にあそぶ親と子ら」


<風聞往来>


<国籍法違憲判決>

旧態依然の日本の国籍法にひとつの風穴を穿つ判決が出た。
今月13日、東京地裁による、比女性の子に日本国籍を認めた判決だ。
この事例の場合、フィリピン女性と日本人男性は婚姻関係にないが、男性は子どもを認知している。
男性には妻子が別にあり、この女性と子どもの生計は男性に依存しているが完全な同居生活ではないというもの。判決では、この事実関係を踏まえ、内縁関係にあるものと認め、子どもの日本国籍取得を認められるとし、婚姻関係の成立がなければ国籍取得を認めない現行国籍法を「平等権を定めた憲法に違反する」と初めて違憲の判断を示したもの。
さらに、毎日新聞は15日付社説で、この違憲判決を「嫡出子と非嫡出子の区別に合理的な理由がない」とした指摘は、国籍問題に限らず、最近の社会の要請にもかなった普遍的原理であろう、と述べ、子どもの立場や法的地位を重視する画期的な判断、と積極的に評価したうえで、
 「フィリピン人女性と日本人男性との間に生まれた子供は、両国に数万人もいるという。多くは両親の関係が破たんし、認知も受けられないでいるのが実情だ。男性の不誠実さが悲劇を招くケースも目立ち、日本人全体の責任を論ずる国際世論も軽視できない。せめて認知を受けた子供には、国籍取得の門戸を広げるべきではないか。
もはや司法で解決すべき問題ではない。立法府の国会が、時代の変化に対応する改善策を練り、法整備を進める必要がある。最高裁の補足意見も踏まえ、下級審の判断とはいえ、違憲とされた国籍法を早急に見直さねばならない。」と論じている。
夫婦別姓や非嫡出子問題など、旧態依然の硬直化したままの日本の戸籍法のみならず、国籍法をも含めて、立法府たる国会の責任は重いのだが‥‥。

参照:
朝日新聞<国籍法規定は違憲 比女性と日本男性の子の国籍認める>
毎日新聞<国籍訴訟:法規定は違憲、比女性の子に日本国籍 東京地裁>
毎日新聞社説<国籍法違憲判決 子の地位を国会が考える番だ>


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April 13, 2005

老木に花の咲かんが如し

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「人麻呂伝説-鴨山」より

風姿花伝にまねぶ-<12>


物学(ものまね)条々-老人

 老人の物まね、此道の奥義なり。
 能の位、やがてよそ目に現るゝ事なれば、是第一の大事也。
 およそ、能をよき程極めたる為手(シテ)も、老いたる姿は得ぬ人多し。
 たとへば、木樵・汐汲の、わざ物などの翁形をしよせぬれば、やがて上手と申す事、これ校(あやまりたる)批判なり。冠・直衣、烏帽子・狩衣の老人の姿、得たらん人ならでは、似合ふべからず。稽古の劫入りて、位上らでは、似合ふべからず。又花なくば、面白き所あるまじ。
 およそ、老人の立振舞、老いぬればとて、腰膝を屈め、身を約(つ)むれば、花失せて、古様に見ゆるなり。
 さる程に、面白き所稀なり。たゞ大方、いかにもいかにもそゞろかで、しとやかに立振舞ふべし。殊更老人の舞懸り、無上の大事なり。
 花はありて、年寄と見ゆるゝ公案、委しく習ふべし。たゞ、老木に花の咲かんが如し。

世阿弥は、女体の風姿を「幽玄」の代表とし、老人の物まねを「此道の奥義」だという。
「能の位」、つまりはシテの演技、芸の力、心の位が、老人を演じた際には、隠しようもなくそのまま現れてくるものだ、というのである。かなりの修練を重ねたシテさえも、老人の演技はなかなかこなせるものではない、とつづけている。

「西行桜」や「遊行柳」の序の舞における老樹の精、
「老松」、「放生会」、「白楽天」などの序の舞における神格性を帯びた老体、
これらを演じうる老体とは、稽古の劫、即ち年期もよほどに積まれて、格式も最上部と見られるほどでなければ相応しくないだろう。
そのうえ、こうした老体にも、世阿弥は「花なくば、面白き所あるまじ」と花あることを要請するあたり、芸道の果てなき極致を見ている。

老体の演技の根本としては、「別紙口伝」の中に、
「物まねに、似せぬ位あるべし」という世阿弥らしい卓見がある。
「物まねを極めて、そのものに真に成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし」と説く<似せぬ位>とは、物まねから入りつつ、物まねを突き抜けて、幽境自在の境地というべきか。

さて、本文後段、老人の立ち居振る舞いは、老体だからと腰や膝を屈めたり、身を縮めるなと、そうすれば花もなくなり、醜態となるだけだ、と。
そぞろゆるやかに、しとやかにして、とりわけ老体の舞懸かりにおいては「花はありて、年寄と見ゆる」工夫が「無上の大事」であり、よくよく「委しく習ふべし」
「老木に花の咲かんが如し」

 -参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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April 12, 2005

念彼観音力洞門をくぐる

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  「うしろすがたの-山頭火」より


<古今東西> 


<柄谷行人のトランスクリティーク>

柄谷行人氏の「トランスクリティーク-カントとマルクス」を、とりあえずやっと一読した。
この書、著者自身曰く、ほとんど10年の間、この著作に取り組んできたという、力作であり大部の書である。
たしか私は3年前に購入した筈だが、じつくりと腰を据えて読まなきゃとても敵わないと、長らくツンドク状態になっていたのだ。
なぜか最近、その気になってあらためて手に取り、挑戦をはじめたのだが、先週末やっと読み終えたという次第。

著者は、序文冒頭でこう述べる。
「本書は二つの部分、カントとマルクスに関する考察からなっている。この二つは分離されているように見えるけれども、実際は分離できないものであって、相互作用的に存在する。私がトランスクリティークと呼ぶものは、倫理性と政治経済学の領域の間、カント的批判とマルクス的批判の間の<transcoding>コード変換、つまり、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである。」と。

著者柄谷は、カントでは「純粋理性批判」を主に、マルクスでは「資本論」を主に、それぞれを思惟的思想的体系の書として読み解くのではなく、あくまでカントとマルクスに通底する<批判>の意味を現前化しようとする。

「道徳的=実践的とは、カントにとって、善悪の問題などではなく、自由の問題であり、自己原因的であること、また他者を「自由」として扱うことを意味するのだ」と。
したがって、「カントの「自由の王国」や「目的の国」とは、コミュニズムを意味することは明らかであり、
逆に、コミュニズムはそのような道徳的な契機なしにはありえない」と。
あるいは、マルクスの「資本論」について、まず「ヘーゲルとの関係で読まれるのが常であるが、『資本論』に比べられる書物は、カントの『純粋理性批判』だ」といい、
資本論におけるマルクスの批判は「資本主義や古典経済学の批判などというよりも、資本の欲動と限界を明らかにするものであり、さらに、その根底に、人間の交換(=コミュニケーション)という行為に不可避的につきまとう困難を見出すものだ」という。
また「マルクスにとってコミュニズムは、カント的な『至上命令』、つまり、実践的=道徳的な問題である」と。

本書の序文をごく簡単にスケッチすればそのようなことなのだが、
一読したからといって、本書全体について、ごく短いものにせよ書評など私にはとても覚束ない。
なのでさしあたりは上記の如く引用紹介のみにとどめることでご勘弁願う。

この年になるまで、まったくのカント知らずの私であるのに、こんな書を読もうということ自体、冒険というより単なる向こう見ずなのだろう。
今後、再読、再々読しながら、かように愚昧な私でも本書に触れていく機会があれば幸いなのだが‥‥。
あらためて、他日に期したい。


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April 11, 2005

また一枚ぬぎすてる旅から旅

santouka31  「山頭火」UPデフォルメ


<日々余話>


<ヴァーチャル・キャラ & なりすまし>

とうとう一週間のご無沙汰となってしまった。
それまでは三週近く、ほぼ毎日のように何かしら書いていたのに、
先週の我がブログは開店休業が続いてしまった。
なぜリズムが狂ったのか、心あたりは二つある。
一つは、些か私的に過ぎることなのでここで披瀝しないほうがいいだろう。
二つには、Echoo事務局広報の「ユーザーグループ主導のプロジェクト企画の取り扱いについて」に報告された事件の推移と処理に注視せざるを得なかった所為である。
一週間注視しつづけたなかで、私なりの問題意識は一応の整理もなったし、私見として事務局広報記事やToshikiさんの記事に概ねコメントしたので、重ねて言及しない。

ここでは、事件で取り沙汰されたなか問題ともなったキーワードである<ヴァーチャル・キャラ>や<なりすまし>について少しく思うところを書いてみたい。
<なりすまし>の場合、他人のIDを利用してネットワーク上で行う行為だし、この他者が当然その事実を知らない・知らされていないことを前提としているから、重大な違法行為となるだろう。
では仮に、相手との信頼関係の上にたって、もちろん相手の了解の許に、そのIDを利用して活動した場合、これをも<なりすまし>と見做されるのかという問題が残りそうだ。
言うなれば<なりすまし>ならぬ<なりかわり>とでもいうべき場合がありうる。
この場合をも違法・違反行為として摘発されべきか否かと問えば、否といわざるを得ないだろう。
取り沙汰された事件においても、本人の了解の許に為された行為だったようだから<なりすまし>というよりは<なりかわり>というのが事実に近い。
ならば問題になるとすれば<なりかわり>の行為によってもたらされる諸現象への評価という次元であろうし、それは倫理的にのみ問われるしかないというのが私の考えだ。

<ヴァーチャル・キャラ>とはたかだか仮想キャラクターというほどの意味でしかないが、これなくしてはゲーム世界が成り立たぬくらいだし、もちろん違法性などあり得ない。
ネット上では特定のグループや個人が積極的に<ヴァーチャル・キャラ>を創りあげてひろく関心を集める手法としてよく用いられもする。
ところで、ネット上で利用するハンドルネームは基本的には愛称のごときものではあろうが、ある意味で<ヴァーチャル・キャラ>に通底しているのではないだろうか。
SNS-ソーシャルネットワーキングシステム-においても、実名ではなくこのハンドルネームでお互いにコミュニケーションするのが一般的スタイルなのだが、お互いに直に対面することなく記述された言葉のみで紡がれていく関わりの織り模様が、仮想領域そのものではないか。
但し、私は仮想世界だからリアリティーがないのだなどと言っているのではない。アクチュアリティ(現実性)からは些か遠いかもしれないが、リアルなのだこの世界も。
アクチュアルな感覚からすれば、やはり人が有する五感すべてをお互いに働かせつつ交わりあうことが必要だろう。そういう意味でネット世界はアクチュアリティから遠いといわざるをえない。だが、リアリティの次元はそんなところにはない。アクチュアルかヴァーチャルかとは関わりなく、リアルか否かは問われつづけられなければならないのだ。

そもそも私などには、人が他者と関わり交わる場合、つねに<擬態>を重ねていくものだという認識がある。<擬態>とはミミクリ(模倣性)に近いものとして捉える限りにおいて、そういえるのではないかと考えている。ヒトが人として自己の確立をしていくこと自体において、いってみればヒトの成長過程そのものが、<擬態>の積み重ねのようなものだというわけだ。
さらにいえば、私を知る他者のひとりひとりが私というものをどのような人として観ているのかを、私は知らないし、確たることとしては知りようがないのだから、私は他者から観られた私の<像>を知りえない。その観られた私の<像>が実像か虚像かも判別しようがない。いや実像、虚像というけれど、そんな区別もほんとうのところはつけようがない。

すでに、このネットのなかで、約半年のあいだ私が重ねつづけた<擬態>の結果として、私のブログを読まれる他者のひとりひとりが、私に対してどんな<像>を描いているかを想像すれば、<四方館>という私の知りえぬいくつもの<ヴァーチャル・キャラ>がこのネット上を跋扈していることだろうと思われるのだ。


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April 03, 2005

ふりかへるふるさとの山は野は暮るゝ

manas_tetsu_091  「MANAS」より


<風聞往来>


<戦後60年、語り継がれるべきことひとつ>

4月3日付、毎日新聞の読者投書欄「みんなの広場」に、
「戦後60年‥‥今も自責の日々」と題する一文があった。
86歳の男性である。以下要約。

昭和20年3月、私は横須賀の空技厰にて航空発動機の整備と研究にたずさわっていた。
急に上司から「直ちに沖縄の基地に行け」と命令が下り、同僚部員十数人と軽爆撃機に乗せられ出発。
駿河湾上空あたりで「沖縄は米軍の上陸が始まるのでダメだ。大分空港で降りろ」と。
大分で着陸するや否や、今度は「すぐ鹿児島の鹿屋基地に行け」と。
そうこうしてやっと鹿屋基地に到着したのだが、眼の前には夥しいエンジンの残骸が山積みされていた。
「このなかから使用できる部品を使ってエンジンを組み立てよ、3時間飛べればよいから。」との命令。
同行の者たちみんなで手分けして部品を集めて組み立て、軍の整備員に渡したのだったが‥‥。
このエンジンが鹿屋基地を飛び立った特攻機用だったとことを、後になって知るところとなり、
以来、神風特攻隊として突入した彼らに対して、自責の念につまされて毎日を送っている私なのです。
と結んでいる。

哀しいというより残酷な戦争秘話だ。
自分の手がこういう形で戦争に、しかも多くの前途有為の青年たちを散らしむる行為に加担したことを思えば、慙愧に耐えないだろう。
戦後60年、戦争を知らない世代に戦禍の悲惨を語り継ごうと、いろいろな語り部たちの体験が綴られてゆくが、
背負わされた重い十字架に60年の歳月をひたすら沈黙のままに耐えてきたであろう、こういう人々の体験をこそ、もっと掘り起こされなければならないのでは、と痛感させられる一文だった。


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April 02, 2005

花ぐもりの窓から煙突一本

Onikomachi_08-1 「鬼小町」より


<世間虚仮>

<4月29日は「昭和の日」に、
 5月4日が「みどりの日」に、-の不快>


エイプリル・フールの冗談噺であってくれれば良いのだが、
昨日、どうやら本気で衆議院の可決をみたらしい。
平成元年の制定以来これまで「みどりの日」で親しまれてきた祝日を「昭和の日」と命名変えし、
「みどりの日」を5月4日にする法案が、本日衆議院で可決、近く参議院でも可決をみること必至。
相変わらず、なんとも不快な気分に落とし込んでくれる小泉内閣殿だ。

もともと、昭和時代の天皇誕生日として祝日だったのを、崩御の際、みどりの日とされたのだが、
この時点から、「昭和の日」とすべしという意見が一部で燻っていたようだ。
ご承知のように、11月3日の文化の日は明治天皇の誕生日。
ならば昭和天皇の誕生日をみどりの日としてきたことは、自然と文化をともに愛し親しむという意味で、まだしもバランスのとれた命名ではあろうと思われるのだが、何故に、こんなに統一感のない収まり悪い命名に敢えて拘ったりするのか、
「象徴を元首に変更したい輩」たちの底意が見え隠れして、まことに憂鬱な気に襲われる。

「昭和の日Q&A」というサイトがある。「昭和の日」制定推進派の趣旨がQ&A形式で列挙されている。
読み進んでいくにしたがってさらに不快はひろがる。
先ずは、「みどりの日」制定時より、対案として「昭和の日」取り沙汰されていたことを伝えている。
各節で天長節という言葉がやたら横行するが、これまたずいぶん神経を逆なでしてくれる。
「昭和の日」推進議員連盟が超党派で334名が加盟しているというが、衆議院の議員定数480名、参議院の議員定数が252名、衆参あわせ計732名の議員総数で、半数に遠く及ばぬこの数字を多数派とみるのか。
また、超党派と言い繕っても所詮は大きく右に偏った数字ではないのか。
さらに「昭和の日」制定への請願署名が170万人集められたとある。
この数字を多いとみるか、さほどでもあるまいとみるか。
「象徴を元首に変更したい輩」たちが組織的且つ積極的に署名活動すれば、なんということもない数字だろうにと私は思うのだが、この署名は、あくまで個人々々によるものであり、命名変更を推進するに説得力ある数字だと仰る。
いちいち論うのはこの辺で止そう。不快は強まるばかりだ。

あの世から誰かさんが声を張り上げてるよ。
「なんで、ひとり昭和さんだけで、明治とセットにしねえんだよー」なんて。


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April 01, 2005

石ころに夕日しむのみ鳥も来ず

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<エコログのなかのある対話から-その7>


四方館

不動心というのがあるよね。
動かざること山の如し、とか、硬くて石のようなものなんかじゃなくて、
森羅万象、なんでもそのままに、万華鏡のように映し出して、いろんな模様にさざなみ立つ水面のような、
或はいろんな旋律を優しく奏でる弦のような、
そんな心を、思い描きたい。

愛を貪るなかれ。
愛の坩堝と化しちやいけない、のはほんとだけれど。
なに、応急の場合だってあるから、一時的には構わない。
かたとき、どうしようなく、そうなることはちっとも構わない。
ただ、毒を薬に変えてそうしているのだってことを、判ってさえいれば。

(2004/12/20 11:49)


な、何、四方館さん、難しいコメント書かれるんだから困りますよ。難しいじゃありませんか。相手が私だからですか(笑)

愛は貪ってはいけませんね。愛はけっして毒ではないですよ、それこそ森羅万象を映し出すような心以外の何物でもないです。そんな、一時的な応急措置の、毒を薬に変えるような愛に今更目がくらみませんのよ、私は。

私にはやりたいことがあるんです、四方館さんにお話したとおりにね。ここまで障害を負わなかったら、いえ、経済事情と家庭事情がひどくなかったら、もっと「大きな仕事」っていうのが出来たことでしょう。でも、いいんですよ。大きな仕事なんかに未練はないくらい、伊達に30年生きてきてません。だいぶ人生、 勉強したんですよ。で、大事なものを事細かに冷静に計算し、総合的に判断してるわけです。とりあえず今はそこまで来ましたから。計算、冷静に判断とか言っ たって、そりゃあ、私の一番の生き方は「心から生きる」です。私が実に多面的な人間だって、四方館さんご存知のはずなのに、そんなところでご心配なさらなくて大丈夫ですよ。

それよりね、やっぱり病歴を振り返ると、今出てきた統合失調症の症状はどうも本物だと判断できます。複雑性PTSDと 混じってるんだから、大変は大変、でも、人間理解の学問をするために精神病理学の中でも統合失調症中心に勉強・研究してきたんですから、私はこの程度の統 合失調症に負けるような人間じゃありませんのよ。これらをかかえて、余裕で健常者ばりの言述行為ができますよ。自分のためだけじゃない、他の人のためになる言述行為だって出来ます。一番耐え難い不安症状のほうは対策打ちましたからね、だいたい大丈夫だと、今の時間になれば冷静に病気に迎えに来てもらってますよ。

ただ、今までは生命力が地の底に落ちていたので、今日のエコログで少し大丈夫になってきたってわかるでしょう?

エコー!でリハビリばかりしていてもいけないんで、前進はしようと思います。病気との調節加減を考えているんです。

今の結婚生活の方も同時的に心の整理がついてきたので、良い方向です。なーにを、統合失調症の人間学専門の私が、統合失調症に負けるわけがないじゃないですか。やっぱりやってきましたね、ようこそ。って心情です。長年強まってきたことも思い出しましたから。
(2004/12/20 14:25)


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