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December 31, 2004

雪ふる一人一人ゆく

ichibun98-1127-082-3

申酉騒ぐ‥‥。

イラク情勢の混迷化とともに
幕を開けた2004年
十を数えた台風襲来や中越地震に加えて
暮も押迫ってスマトラ沖大地震の津波被害が
未曾有の規模でひろがっている
2004年は天変地異による災害の年として
記憶に残る年となってしまったようだ
鳥インフルエンザやBSE牛肉など
食をめぐる騒ぎや
いつまでも解決の見えない拉致問題も
記憶に残るだろう
スト騒ぎで野球界が大揺れした再編問題などは
寧ろ明るい話題に属するというのが
この年の特徴か

明くる年も酉年なれば
なおも騒擾として波乱の年か‥‥。

 平成16年甲申師走大晦日
                   四方館亭主

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December 27, 2004

凩に吹かれつゝ光る星なりし

「花はたださく、ただひたすらに」と、
国語教諭の発言問題



<花はたださく、ただひたすらに-の世界>

まず、
① 花はさく、ただひたすらに -上5音、下7音
② 花はたださく、ひたすらに -上7音、下5音
③ 花はたださく、ただひたすらに -上7音、下7音
この三つを比較してもらいたい。
三つとも日本語の伝統的な音数比率で構成されているが、
「ただ」という強調の意味をもつ副詞の用法が異なり、
その用法によって微妙な違いを生み出している。
①では-ひたすらに-を修飾強調、
②では-さく-を修飾強調、
③では-さく-と-ひたすらに-の両者を修飾強調するのに、-ただ-を繰り返し用いている。
①の五七調と②の七五調の場合、なんとなくおさまりがよいように感じられはしないか。
要するに「。」でおわる感じがするはずである。もちろん三者とも連用止めだから、完全なおさまり「。」ではなく、ずっと続いていくような余情はそこはかとなくあるのだが。
③の場合、ただの畳重ねがくどい感もあるが、おさまり感を希薄にして、それだけに余情を強める効果を持たせているといえる。
要約すれば、①②に比べて、③は-ただ-の繰り返しによって余情を強めているのだ、ということになる。
①②③ともに鑑賞とすれば、
だれかれに干渉されようがされまいが、時の移ろいのなかで、花は花として、ただ、ひたすらに、咲くのだ、それが花の宿命といえばそうだろうし、役割といえばそれもそうだろうし、花は花として自分の命を生きるのだ、ただ、ひたすらに。さらに、自分自身に照らせば、そんな花のように、人としての自分もまた、おのが生きる道を運命のようにして生きようよ、ただ、ひたすらに。
と、そんなところだろうが、
③では余情をさらに強めているのだから、花が花として生きるという覚悟にある、意志と情感のバランスが、情感により傾く。
私は、花が花として生きる覚悟-と言った、覚悟とはつねに意志と感情の両面から彩られているものだ。その意志と感情は、どちらが優越するでもなく、過不足なく折り合っている。どちらかが過剰になると、そこに凝りがたが生じるというもの。
情感により傾く、情感により訴えることは、意志よりも情感により彩られ、謳いあげたことになる。他方、情感が強くなることは、より濡れることでもあり、執着もまた強くなることである。
③の相田みつをの表現は、そういう特徴をもっている。
この表現を、深いと見るかどうかは、個々人の観方に委ねられる。
唯、ここで私見を述べれば、相田みつをの世界は、ここでも見たように情感性により傾斜する。その詩句の内容はといえば、つねに人生訓の域をでるものではない。人生訓的世界をより情感性を強めて表現しているのが彼の詩といわれる世界であり、その詩句が書の造型として一般に流布されているのが「相田みつをの世界」である。
人生訓的世界が新しい様式性をもって華々しく登場し、世にあまねく受け容れられてきた、というのが私の受けとめ方だ。それ以上でも以下でもない。


<国語教諭の発言に関して>

さて、書初めの宿題として、女子生徒から「花はたださく、ただひたすらに」を提出されたとき、件の国語教諭は、なぜ「やくざの世界の人たちが使うような言葉だ」と感じ、女子生徒にそんな反応をしたのか。
先に記したように、この言葉の「ただ」が繰り返し挿入されたことによる、情感により訴えかけた表現に、その謳いあげられ方に、感情の過剰な濡れを感じたろうし、過剰な執着を感じたろう。そのことが、任侠とか、義理と人情とか、やくざ世界の美学に通じるものと見てとってしまうことは、あながち飛躍とはいえないだろう、というのが私の思うところだ。
そこへ、さらに、この中三になる女子生徒が、普段からこの教師にどう見えていたか、どう見られていたかという事情が加担するのである。
これはもう私の推測の域を出ないことでしかないのだが、
中学三年生といえば、もう半分大人だ。しかも女子生徒だから、身体はもう成長期の盛りはすぎてすでに大人のそれだろう。仮に、今時の中三の女子生徒として、普段から彼女がやや派手目のタイプに属するとしたら、その要素が加担して国語教諭の「やくざ世界」の連想を生み出しかねない危険を孕んでいる、とみるのは飛躍しすぎているだろうか。
53歳にもなる分別盛りの国語教諭が、「とんでもない発言をした」という背景をできるだけリアルに捉えていこうするなら、私には少なくともそれくらいのことは言えそうだと思えるのだが。

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December 26, 2004

枝をさしのべてゐる冬木

shunboさんの「人間の器」にトラックバックしています。

<国語教諭>相田みつをの詩知らず、女子生徒けなす

このニュース、私も読んだけれど、第一感、マスコミの過剰反応の見出しが躍りすぎているのではないかということ、
この見出しではまたぞろ教師批判が必要以上に過熱するであろう事態が充分予測できること、また、すでにブログなどではその反応がかなりでており、
それら過剰反応の現象に対する警鐘として、大方の捉え方とは異なる視点から物申してみたい。

まず、報道による事実関係を列記すれば、
1. 慰謝料請求をした側は、当時中学三年生女生徒、被告側は横浜市だが、事件当該者は原告の国語担当教諭および担任女性教諭ら。
2. 事件の発端は、2001年1月、三学期の初め、国語の時間に冬休みの宿題の書初めの提出時、女生徒は相田みつを氏の書から採った「花はたださく、ただひたすらにさく」を提出。
3. その際、国語教諭は、女生徒に対し、頬に指を当て傷跡をなぞるような仕草をしながら「こういう人たちが書く言葉だね」と言った。
4. それを見ていたクラスメートたちは笑い、その後、女生徒は「やくざ」とからかわれるようになった。
5. その後、卒業文集で生徒たち互いの10年後を想像して似顔絵を描きあった際に、女生徒は頬に傷のある絵を描かれた。
6. 担任の女性教諭は、その絵を見ていながら修正することなく生徒たちに配布した。
7. その後、女生徒の母親が学校側へ抗議し、学校側は問題の文集を回収し、印刷し直した文集を配布した。
8. 女生徒側は、別件-女生徒が他の男性教諭から女生徒が腰を蹴られたこと-も含めて、学校の監督官庁である横浜市を相手どり、350万円の慰謝料請求の訴訟を起した。
9. 地裁判決は、国語教諭の発言を「嫌がらせを受けるのは当然予想され、不適切で軽率」と批判。文集についても「担任教諭が訂正の必要性を認識すべきだった」とし、別件に対する慰謝料5万円を含み、計25万円の支払を横浜市に命じた。
となっている。

このあらましを通覧する限り、成程、当該国語教諭の不適切な言動及び担任教諭の適性を欠いた文集への処理に対し、教諭らの過失責任を認め、監督官庁の横浜市に慰謝料支払を命じたものの、その額は、請求の350万円を大きく減額し、別件5万円もふくめての25万円であることを見る限り、マスコミがこれほどの騒ぎを起すほどの事件とも思えぬし、また教諭らの過失責任が重過失というほどのものではない、といえそうだということをまず述べておきたい。

そのうえで、以下は、私の常識的範囲内での推論による発言であるが、
見出しに踊る文言、「国語教諭相田みつをの詩知らず」や、「相田みつをの詩やくざ」などが、果たして事件の実態に即しているものか、ということ。
過剰な騒ぎ過ぎの見出しとなっていないかということ、について。

件の53歳の国語教諭が相田みつをの世界をまったく知らなかったとは、まず考えられない。ただ、このフレーズ「花はたださく、ただひたすらに」が相田みつをに結びつかなかったのではないか、「相田みつを」の世界は知っているが、「このフレーズ」が相田みつをのものだったとは、その時、気がつかなかっただけだろう、というのが真相だろうということ。
事実だけで云えばそのあたりがもっとも妥当なところだと思う。
冷静に考えてみていただきたい。相田みつを本といえば、少し大型の書店ともなれば、何冊もの類本が、入口付近の目立つところに平積みにされて並べられているのが実態ではないか。そんな状態がもう十数年近く続いているではないか。相田みつをの世界がどんなものであるかくらい、53歳にもなるベテランの国語教諭が知らない筈はない、と思うのがまず常識的なものだろう。
さらに云えば、相田みつをは詩人であり書家であるとされているが、彼を彼たらしめているのは、人生訓めいたごく簡潔な言葉を書で表したスタイル、あくまで書画のような世界として特徴だてられており、言葉の世界そのものに彼の独創があるのではないことを思えば、相田みつをの世界を知っていても、一女生徒が書初めの宿題として出してきた、この単純な詩句ともいえないようなありきたりのフレーズを相田みつをと気がつかないのも、国語教諭としてなんの恥にもならないだろう。

それをマスコミは、相田みつをの詩を知らず、と書き立てているのはあまりに軽率にも教師叩きのお先棒担ぎで、付和雷同の騒ぎの元凶ではないか。

この国語教諭が、現に裁かれている点も、「花はたださく、ただひたすらに」と認めた書初めを出した女生徒に対し、頬に指を当て傷跡をなぞるような仕草をしながら「こういう人たちが書く言葉だね」と云った、教師としてまことに不適切な行為だけだ。
もちろん、これだけでも到底見過ごしにはできない許されざる行為なのだが。
この点については、現場の実態、国語教諭の人柄や気質、女生徒の日常的な行動及びそれに対する教諭たちの評価など、卒業を控えた三年生なのだから、中学生活全般にわたる既存の関係模様の在り様によって、咎めだてるべき温度差も違ってこようというもので、報道されている表面だけを捉えては一概に判断し難いというのが、私の考えだ。

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December 25, 2004

月も水底に旅空がある

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<言の葉の記>

棟方志功-篇

<白と黒の絶対性で>

 ‥‥能のもっている幽玄さを、白と黒の絶対性でつかみたい。
 ‥‥この頃から、白と黒の世界というものが、大切なものと思い、
 この点を本当に板画でつらぬいてゆこうと思い立ったのです。

 白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、
 紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、
 からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかはない、と思ったのでした。
 指先だけの仕事では何もない。板業は板行であって、からだごとぶつかる行なので、
 よろこんで行につこう、心肉に自答決心したのでした。


<能のもっている幽玄さを、白と黒の絶対性でつかみたい>
と発願し、
<白と黒を生かすためには、
自分のからだに墨をたっぷり含ませて、
紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、
からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかない、と思った>
へと連なりゆく境地が、
その発意が、どうにも把みきれないまま、
しばし、ただ反芻する‥‥。

白と黒の-絶対性、
絶対的-距離、
天と地、
宇宙の縁のごとき、
有-無、‥‥
空虚としての-あらゆる仮象世界、
森羅万象、
世界-内-存在、‥‥
‥‥
‥‥

-棟方志功「ヨロコビノウタ」二玄社より

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December 22, 2004

一期の芸能の定まる始めなり

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風姿花伝にまねぶ-<6>

二十四、五

「この比、一期の芸能の、定まる始めなり。
 さる程に、稽古の堺なり。声も既に直り、体も定まる時分なり。
 されば、この道に、二の果報あり。声と身形(みなり)也。
 これ二は、この時分に定まるなり。年盛りに向ふ芸能の、生ずる所なり。
 さる程に、よそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
 もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立会勝負にも、一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ染むるなり。
 是、返々(かへすがへす)、主のため仇(あだ)なり。これも、まことの花にはあらず。
 年の盛りと、見る人の一旦の心の珍しき花なり。まことの目利(めきき)は、見分くべし。
 -略―
 されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花に猶遠ざかる心也。
 たゞ、人毎に、この時分の花に逢ひて、やがて花の失するをも知らず。
 初心と申すは、この比の事也。
 一、公案して思ふべし。我が位のほどを、能々(よくよく)心得ぬれば、
 それほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、元ありつる位の花も失する也。
 よくよく心得べし。

この時期、一生が決まる出発点ともいうべき、初心の花である。
新人と注目される24.5歳の頃は、「すは、上手出で来たり」と脚光を浴びる。
世間の注目も浴び、実力以上の評価を受けることもしばしばだが、
そこに慢心に陥り易い陥穽がある。才ある者の大きな落とし穴がある。
初心の花も、また当座の花、時分の花に過ぎないのだ、と知るべし。
「まことの目利は、見分くべし」と、
よく見える人には見えている。この一語は重い。
「我が位のほどを能々心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず」
自身の到達点を、とことん客観視しろ、と。
たえず謙虚さを忘れず、自分の技を反省検証すること怠らなければ、
その花はつねに新しく保たれてゆくものだ、と。

参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

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December 21, 2004

ことしもこんやぎりのみぞれとなつた

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<言の葉の記>

<ポストコロニアリズムからの視点>

いわゆる南北問題。
第二次大戦後、多くの植民地が政治的な独立を果たしたにもかかわらず、
なお多くのアジア、アフリカ、南アメリカ、太平洋の国々が、
それまでと変らない、あるいはそれまで以上の低開発と搾取にさらされてきたのが、
いわゆる南北問題なのだが、
大企業主導の金融グローバリーゼーションともいわれる多国籍企業の独占支配体制に見られるように、
いまや先進資本主義諸国の支配は、国際的な資本や情報と文化の操作によって、
より広範な支配体制を確立し、経済的な貧富の差を拡大させている。
それは、地球の北と南との差であると同時に、同じ国のなかでも富裕な少数と貧困な多数との格差を顕在化させ、
富める者と貧しい者との差をますます広げているといえるだろう。
南北問題は、世界中のいたる処へと肥大化したのだ。

ヨーロッパ近代を植民地主義に基づく他者の創出と周縁化による自己成型のプロセスと捉えること、
言い換えれば、植民地主義(コロニアリズム)が<自己>を理想的なものとして確立するために、<他者>を生産し周縁化しようとしてきたとすれば、
周縁化された他者の側からする歴史の再構築という視点に立つポストコロニアリズムは、
そうやって排除されてきた外部が逆に中心を侵す過程に注目していくことになろう。

共同体の境界領域は、その共同体を底辺で支える行為や習慣を、境界線の外にあるとされた人々に押し付けることで形作られる。
近代においてはそれが植民地支配や先住民差別となって現出したのだが、
ポストコロニアリズムはその境界領域の形成プロセスを逆行させ、境界侵犯と自我の解体に照準を合わせ、
国境を越えた大企業主導の世界資本主義によるグローバリゼーションの現況下に対して、
激しく異議申し立てをしていくことになる。
植民地主義とそれに対する闘争は、むしろ情報や資本の世界大の発達によって激化しており、さまざまな局面で再生産され拡張され、<新植民地的(ネオコロニアル)状況>と化すなか、
この闘争は、自己対他者という二項対立を解体し、
他者が自己のアイデンティティの構成要素として自己の内部に入り込むプロセスを、
主体構成の交雑と相互干渉の過程を、ダイナミックに生きるものとなる。

ポストコロニアルの<ポスト>とは、永遠の現在進行形として、このような闘争の絶えざる過程を意味することになるだろう。

  -参照:「本当はこわいシェークスピア」本橋哲也著

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December 20, 2004

風のなかくらやみの木肌に触れし

Hitomaro-043-1

<K師のラバンの庭に、なにを捧げたのか>

昨日のささやかな稽古場での会も無事終了。
10人ばかりの馴染みの人が寄り合ってくれた。
うち、一人だけまったくの新参者、といっても今度私が関わる舞台の出演者だが。
名づけは、些か大袈裟なもので、「K師のラバンの庭に捧ぐ」ということだったのだが、
K師とは、昨秋急逝した舞踊の師、神澤和夫氏のこと。
舞踊と云っても、一般にそう馴染みのあるものではない。
モダンダンスの系譜に連なるが、昨今はコンテンポラリーダンスというような呼称もあり、いよいよどんな表現世界かは説明に窮する様相を呈している分野だ。
ラバンとは、ルドルフ・ラバンといい、20世紀ドイツ表現主義の人、新しい舞踊理論を提唱し、M・ヴィグマンなどの舞踊家を輩出した。
彼の舞踊理論とは、一口にいえば、舞踊とは空間の芸術だ、ということ。
舞踊は、バレエのように演劇性に従属するものではあってはならないし、
また、音楽性に仕えるものであってはならない。
当時の抽象主義的な潮流を汲んで、純粋な舞踊とは何かを考察し、舞踊を身体の動きそのものへと還元していく作業をした。
即ち、舞踊とは身体の運動による空間形成の芸術である、と。
そこにあるべきは、舞踊性のみであって、演劇的に語られるべきものでもないし、音楽的に観られるべきものでもない、と主張し、その身体技法を空間形成としての自然運動に求めた。
第二次大戦以後のラバンへの評価は、ナチスドイツに加担したという表層的な一面でもって、その業績に比して低く甘んじてきている。
事実、彼はヒットラーが世界に誇示したベルリンオリンピックで、芸術監督的な任務に着き貢献している。
K師、神澤和夫は、ラバンの直接の弟子ではない。
ラバンの流れを汲んだM・ヴィグマンに学んだ邦正美が、ラバンの方法論を日本で実践し、
その邦正美に師事した。
いわば、ラバン-ヴィグマン-邦正美-神澤和夫、と連なり、ラバンから見れば曾孫の弟子にあたる。
しかし、K師の後年は、私に云わせれば、ラバンその人へと直々に参入せんとした、とみえる。
彼はまず自らの実践を通して、ラバンの理論を肉化し、より深化し、より拡げようとした。
自らが、ラバン再生、ラバン復興の人となることをめざした、どこまでも実践の人として。
私など凡庸の徒からみれば、それは旺盛な気力と、凄まじいような執着であった、と思う。
戦時下の少年期を志願兵として自ら海軍兵学校へ身を投じ、戦後の混乱期を旧制大高(現大阪大学)、京大国文を最後の帝大生として卒業、抑圧と解放の動乱期に青春をおくったK師は、どこまでも戦中派知識人としての矜持があったのだろう。
その自覚、それは同時に強烈な自意識を伴うが、それなくしては、Ⅿ・ヴィグマンに対しては、実作者、舞踊家としての先達を彼女に求め、ラバンに対しては、舞踊のあるべき姿、唯一の舞踊形式論者としての彼を歴史的存在と認め、その唯一正しき継承者としての自己措定をし、自らの歴史への参入をそこに見定める、という行為に賭してはいけぬだろう。
私には、ラバンを師とし、師資相承、ラバンの単独相続者をめざした神澤和夫師という像が、どうしてもつきまとうのだ。

私は、K師の弟子として、師のようには決して振る舞えないし、べきとも思わない。
また、さような器でもなければ、かといって卑小になることもない。
どうしても異なる時代の刻印を帯びた者の、差異は差異として、率直に受け容れるしかないではないか、と思うのみなのだ。
ただ、K師の実践から、私が汲み上げるべきものがあるとすれば、それは何かを自らに問い、為していくことの必然だけは、この身に帯びていると思っている。
昨日のささやかな稽古場での会が、その意味で稀少な実践だと言い切れる、といことだけをここに刻んでおきたい、と思うのだ。
表題には充分答ええたとは云えないが、さしあたり自身の問題意識の在り処ぐらいは記述したかと思う。
あらためて機会もあるだろう。

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December 17, 2004

物乞ふ家もなくなり山には雲

1998080200018-1

<地球の生命-種の大量絶滅の危機について>

地球上のあらゆる生命の大量絶滅の危機が叫ばれている。
「鳥類の最大14%、今世紀末までに絶滅 米大学が予測」
という記事がasahi.com16日付にあった。 
現存する9787種の鳥類について、独自のコンピュータープログラムを使って2100年までの絶滅の推移を予測し、その結果、最も楽観的な予測でも、6%の鳥類が絶滅することが分かった。最悪のシナリオでは14%が姿を消し、約25%が絶滅の危機に瀕する恐れがある、という。
近代以降、とくに20世紀になって以来、文明の加速度的な進歩は、一方で生態系の激変をもたらしていることは、もう既定の事実だが、こういう具体的な数値を示されるといよいよ危機感をつのらされる。
昨日は、高校生の窃盗事件で、この社会の末期的症状に暗澹としたが、
今日は、加速する生態系の危機に、塞ぎこまなければならない。
下記参照記事によれば、
過去4億5000万年に5回の大量絶滅があったとされ、最後の大量絶滅が起きたのは6500万年ほど前で、恐竜をはじめ何万という種が滅びたのだが、このときの原因は、彗星か小惑星が地球に衝突した結果ではないかと考えられている。
6度目の大量絶滅が進行中だとすれば、その原因は、人間が地球の生態系を大きく変えてしまったからだ、とデューク大学の生態学者、スチュアート・ピム教授は語っている。
彼曰く、熱帯雨林の破壊は、伐採許可を買い取ることでほぼ完全に防止できるだろう。買い取るには50億ドル必要だが、莫大な金額ではない、と。
これは大量伐採が続く熱帯雨林だけの話だが、それにしても生態系保全の費用は、意外に高価なものではないのだ。
それなのに、世界の先進国は現状を放置したまま、いや、大量伐採へ補助金を出して破壊に手を貸しているのが、現実なのだ。

参照記事:種の大量絶滅を食い止めることはできるか?

-四方館-

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December 16, 2004

光と影ともつれて蝶々死んでをり

1998080200009-2

1億1千万円入り金庫盗み、使い切る 
-高校生ら5人逮捕

  clickで朝日新聞記事へ

師走もいよいよ押し迫ってくる頃、
多額の金にまつわる事件は特に話題になりがちなものだが、
それにしても、この事件、17.8歳の高校生ら5人が起こしたものとしては、被害額が桁外れに大きすぎて驚かされる。
記事によれば、犯行は5月半ばのことだから既に半年経っているのだが、
5人で2000万円ずつ分けて、逮捕される昨日までに、各々すべて使い切っていた、というから恐れ入る。
窃盗罪の法定刑は、30日以上10年以下の懲役だそうだが、むろん少年犯罪だからその適用外だ。
彼らへの刑がどうこうという関心などより、
未成年の若者が、わずか半年の間に、豪遊やら高級品の買物を重ね、2000万円という大金を残らず使い果たし、
この間、それが家族や周囲の者達になんの不審も抱かれず、そのまま罷り通っていたということに、
まったくもって驚かされるのだ。
この現実を、一体どう考えたらよいのだろう。
彼らのこの異常な行動にまったくチェックが効かなくなっているというこの社会は、そのシステム自体を異常と言わざるを得ないではないか。

飽食と放漫の日本よ、
お前の病巣はもうこんなにも腐敗し、爛れ、
快復の余地など欠片もないのかもしれないな。

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December 15, 2004

朝の土からひろふ

00000006-1

言の葉の記

またまた、棟方志功の詞から戴く。

 自分でないものから
 はじまってこそ、
 仕事というものの
 本当さが出てくる

 本当のものは
 他力なものから
 来なければならない

ものづくりにおける主体性の問題について、これほど単刀直入に、その本質に迫りえている言葉も稀少だと思う。
そもそも、自己というそれ自体が、さまざまな他者性を生きている存在だということ。
他者とは、自分自身が直接見知っているさまざまな他者から、
無名の他者性、無意識の他者性へ、と果てしなくおよぶだろう。
「自分でないものから、はじまってこそ」といい、
「本当のものは、他力なものから」という棟方は、
他者性というものを、直観的にそこまで拡げている、と思われる。

以下は、あの著名な「二菩薩釈迦十大弟子」についての弁。

 ただ、十人の釈迦の弟子の風体をした
 人間をつくったのです。
 名はあとからつければ良いと思って、
 あらゆる顔、形、あらゆる人を
 十人彫ってみたいと思ったのです。

 でき上がってから
 屏風に十人ではまずいというので、
 大乗の弟子として二人、
 左の端に普賢、
 右の端に文殊を置きました。
 そうしてみると、
 十人の弟子が右と左にわかれて、
 いかにも釈迦の哲理に添うような、
 陽になり、蔭になっていて、
 自分で考え得ない仕事に上がりました。

 -棟方志功「ヨロコビノウタ」二玄社より

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December 13, 2004

日ざかり落ちる葉のいちまい

00000023-1

言の葉の記

<五輪書>‐宮本武蔵-より

目の付けやうは、
大きに広く付くる眼也。
観見(かんけん)二つの事、観の眼つよく、見の眼よはく、
遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。
敵の太刀をしり、聊かも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。

心眼という言葉があるように、
視ることとは、その対峙するもの、対象に対して、
眼をとおして身体全体で、<心-身>を総動員してあることが前提とされていよう。
いわば、<身―構え>と云うべきものが。
通常、視るとは、自分の居場所、その固定点からのパースペクティブ―遠近法
的な座標なのだが、
大きく広く、<観>と<見>、強く・弱く働かせよ、遠き所を近く、近き所を遠く
ひとつの舞台を創っていく作業でも、或は作品を鑑賞する場合でも、
同じようなことが言える。
能では、<離見の見>と云う言葉があるが、
この語もまた、<観―見>と相似た地平にあるだろう。
俯瞰あるいは鳥瞰することにも通じるものを感じさせる。

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December 12, 2004

雪へ足跡もがつちりとゆく

1998080200012-1

言の葉の記

先日、板画の棟方志功の、
作品について語る彼自身の言葉を紹介したが、
あらためて。
彼は自分の作品に必ず、~の柵と名付けているが、
そのことについて記した一文。

<柵を打つ、際々無限に。>

柵というのは、垣根の柵、区切る柵なのですけれども、
むかしは城の最初のものを柵といったと聞いています。
何々の柵、どこどこの柵という城の形にならない、
ただクイを打っていく、そんなようなモノでしょうか。
「しがらみ」というものでしょうか、そういうことに、この字を使いますが、
わたくしの「柵」はそういう意味ではありません。
字は同じですが、四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、
首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。
この札は、一ツ一ツ、自分の願いと、信念をその寺へ納めていくという意味で下げるものですが、わたくしの願所に一ツ一ツ願かけの印札を収めていくということ、
それがこの柵の本心なのです。
ですから、納札、柵を打つ、そういう意味にしたいのです。
たいていわたくしの板画の題には「柵」というのが着いていますけれど、
そういう意味なのです。
一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一ツずつ、そこへ置いていく。
作品に念願をかけておいていく。柵を打っていく。
そういうことで「柵」というのを使っているのです。
この柵はどこまでも、どこまでもつづいて行くことでしょう。
際々無限に。

 ――棟方志功「ヨロコビノウタ」二玄社より

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December 11, 2004

窓あけて窓いつぱいの春

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言の葉の記

<色則是空><空即是色>

<色>はいろ・かたちあるもの、現象する対象、物質的な存在のすべてをいう。
いっさいを五蘊(五つの集まり-色・受・想・行・識-)に分かつその第一で、たんに<もの>とみなしてもよい。
<もの>に関して、通常はそれがそのものとして実在しているという素朴な日常的な考えを、このフレーズは根本から否定し、そのものが現象し存在しているとするのには、それを成立させ得る主体的・客体的なあらゆる諸条件が充全に備わってはじめて可能であることを明らかにする。
すなわち、ものはそれ自体が実体として現象し存在するのではないことを<色即是空>といい、
また実体としてではなくて、諸条件に支えられているからこそ、そのものがそのものとして現象し存在することを<空即是色>と説く。
いっさいの存在や現象の<空>を謡い、
<空>のゆえにいっさいの存在や現象が基礎づけられる。
徹底して実体・実体的なみかたを排除することによって、
独断や偏見はもとより、迷い・煩悩・執着が払拭され、
無限の多様のうちに自由な境地が解放されて、
多彩な思惟・判断・認識また実践活動の場が開かれる。

「色は即ちこれ空なるが故に、これを真如実相といふ。
 空は即ちこれ色なるが故に、これを相好・光明といふ」
-源信「往生要集」

   参照:岩波仏教辞典

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December 10, 2004

先づ声変りぬれば、第一の花失せたり

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風姿花伝にまねぶ-<5>

十七、八より

「この比(ころ)は、又、あまりの大事にて、稽古多からず。
 先づ声変りぬれば、第一の花失せたり。
 体も、腰高になれば、かゝり失せて、
 過ぎし比の、声も盛りに、花やかに、易かりし時分の移りに、
 手立はたと変りぬれば、気を失ふ。-略- 
 此比の稽古には、たゞ、指を指して人に笑はるゝとも、それをばかへりみず、
 内にては、声の届かんずる調子にて、宵暁の声を使ひ、
 心中には、願力を起して、一期の堺こゝなりと、
 生涯にかけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。-略-」

少年期から青年期へとさしかかる成長期であり、変声期でもある。
やけに背丈が伸びて腰高になるから、安定性に欠ける。
少年期独特の澄んだ声を失い、第一の花も消える。
小姓のような、男にして女を感じさせる身形(みなり)の花も露と消え失せてしまう。
この変化は「気を失ふ」ほどに衝撃的なもので、この時期の克服が難しいのはいつの世でも同じことだ。
通俗的な例をあげれば、アイドルから大人のタレントへ変身することなど、
声の届かんずる調子-無理のない声の出し方で、
宵暁の声-声の出しやすい宵や明け方など、時を選んで稽古せよと。
いずれにせよ、一代の危機を克服するには、
「願力を起して、一期の堺こゝなりと」の気迫でもって稽古に励むしかない。

世阿弥の童形が義満に愛されたのは十六歳頃までで、
十二歳の童形美がたちまち義満の心を捉え、
十三歳では二条良基を魅了して「藤若」の名を賜らせ、
十六歳になってもなお元服せず、義満の傍に近侍していた、というから、
十七、八のこの頃が元服の時期と重なるのだろう。
この時期、世阿弥にとっては、絶頂から奈落へというほどに、過酷な変化だったろう。

 参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫

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December 09, 2004

いつもつながれてほえるほかない犬です

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横田さん夫妻、偽りへの怒りと安堵が交錯 (朝日新聞) - goo ニュース

やっとDNA鑑定を終えた横田めぐみさんの遺骨は
やはり他人のものだったと判明した。

それもご丁寧にも、二人の骨が混ざり合っていたというから呆れかえる。
我々国民の大多数はどうせそんなことだろうと思っていたし、この結果について驚きもしないが、早速抗議声明を出した政府筋もこうなることは充分予測していただろう。
結果については誰も驚きはしないが、この事実を受けて、さてどうするかはまことに深刻で大きな問題だし、
小泉首相を筆頭に政府及び外務省の日朝交渉に国民の注視がいよいよ厳しくなることは必至だ。
もうこれ以上、北朝鮮ペースの交渉は許されない状況となったことを肝に銘すべし。
戦後処理を含めた日朝友好と喉元に刺さった棘の拉致問題の並行解決路線で、思いやり外交を進めてきた首相は、ここで大きく舵を切り直さなければ、内閣支持率の急降下は避けられないことになるだろうし、いまや小泉内閣の命数は尽き果てんと風前の灯だ。

郵政も、道路公団も、年金も、結局は中途半端な棚晒しのまま、小泉内閣も露と消えちまうのかしらん。

小泉さんも、我々国民も、
タイトルに挙げた山頭火の句のような、
繋がれたまま吠えるほかない犬にはなりたくないものだが、果たして‥‥。

どうやら2005年も、新年早々から波乱含みどころか、混迷の幕開けとなりそうだ。

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December 08, 2004

飲みたい水が音たててゐた

中国の大盗賊・完全版

「中国の大盗賊・完全版」
   高島俊男著/講談社現代新書


中国歴代王朝の殆どは盗賊による創業だ、
というユニークな視点から迫る中国王朝史。
漢の高祖劉邦から現中国共産革命の祖毛沢東までを
大盗賊だと宣うのだから痛快な書ではある。

先ず、著者は盗賊の発生する要件を
氏族社会と近代資本主義社会との中間段階にある農業社会とする。
農村の過剰人口が盗賊の発生母体だ。
農村地域に、働き場のない、あるいは働いても食えない人間が、不断に、また大量に発生する。彼らは流れ歩く閑民となり、盗賊となる。
中国には、大昔から20世紀の今日に至るまで、常に盗賊がいた。
その彼らが権力争いの表舞台へと勇躍登場しては歴史を作ってきたのだ。と。

彼らへの呼称は、単に「盗」といい、また「賊」ともいい、また「寇」ともいう。
清代以後には「匪」とも。
曰く、山賊、海賊、水賊、馬賊、妖賊、教匪、流賊または流寇、土賊、などなど、
活動場所や行動様式によって呼称が異なる。

漢の高祖、劉邦
明の太祖、朱元璋
清王朝の、李自成
太平天国の、洪秀全
そして共産革命の、毛沢東
これら建国の祖はなべて盗賊から出て王朝の開祖となったのだ、という訳で、
各々、章を設けてその経緯をたどる。

1927年に毛沢東が作った中国共産党の軍隊は、中国歴史上の、盗賊の流れに位置づけられるべきもので、
それは、マルクス主義を信仰し、不平知識人が指導し、貧しい農民の味方を標榜する、一大盗賊団なのだ、と。
実際、毛沢東らが政権を取るまでは、「共匪」「紅匪」「毛匪」と呼ばれていたことからも、時の権力や一般の民からは、中国古来からの盗賊扱いの位置づけだったことがわかる、と。
中国独特の「革命」思想にも触れえて、成程そうかと肯かせる。
著者は中国文学のれっきとした学者であり、故なき論を展開しているのではなく、歴史の事実を踏まえたものだけに説得力は充分。
まあ、肩の凝らない書ではある。

  四方館記

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December 07, 2004

月かげのまんなかをもどる

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またひとつ墜ちむとするや阿呆鳥‐記

こんな同窓会もある、‐あった。

「40年目の再会、それぞれの来し方行く末」

神沢先生急逝を悼み、
  阪神優勝に元気を貰った40年目の再会。
  
     2003.9.23‐市岡高校15期会同窓会報告記 

‐神沢さんが死んだ。‐
 2月の幹事会からはじまり、毎月のように会合を重ね、順調に準備を進めてきた高校15期会の同窓会開催に、驚天動地、突然の暗雲が垂れ込めた。卒業後40年の記念開催に講演をお願いしていた神沢先生の訃報が届いたのである。9月7日、日曜日の朝だった。前日の夕刻、入院先で家族のみに看取られての臨終だったという。享年74才。考えられない悲報であった。5月にお願いにお伺いした時は、あんなに元気だったじゃないか。昼過ぎから夕刻まで、独り舞台のように喋りつづけていた。7月の時だってそうだ、咳がでて仕方ないんだと云いつつ、先と同様、夕刻まで神沢節の独壇場はつづいた。入院すると聞き、駆けつけた時も、「なに、検査入院だから心配するな。15期会には行けるさ、きっと行くさ。」なんて、神沢さんらしくまだ強がっていた。だから、ひょっとすると出席できなくなるかもしれない。そのときはせめて録音で挨拶くらいは貰わないといけないな、とは思っていたけれど、まさかこんなに急に逝ってしまうなんて、まったく想像の埒外だった。葬儀は密葬に近いかたちで粛々と執り行われ、9月10日付、新聞各紙に訃報記事が掲載され、広く知られるところとなった。9月23日の開催を前に、もう二週間しかない。神沢さんの話を楽しみに来る者もきっと大勢いる。訃報を知らないで来る者もいるだろう。あろうことか講演のタイトルは「神沢流老いの流儀」だったのである。さてどうすべきか。講演に代えて追悼のセレモニーをするしかないが、同窓会という性格を考えると仰々しくはすべきでない。短かい時間で、しかも神沢さんの晩年の日々を、出席者に相応に伝えることができ、それぞれの思いで偲んでもらう。そんな仕掛けが必要だ。さてどうしよう? なにができる? 

‐40年目の再会‐
― 総会、追悼、講演、そして記念撮影。

 9月23日、リーガロイヤルホテルの山楽の間。明るく楽しい話題で一杯だったはずの企画が、一転、悲哀と愉快の交錯する宴となった。開場前、受付では16頁立てのプログラム冊子と12頁立ての神沢先生追悼の栞が配布される。会場に入ると懐かしいフォークダンスの曲が流れている。まもなく曲が変わって音が大きくなる。おっ、今度は校歌だ。12時ジャスト、開会。司会のK嬢(?)の声はあくまでも明るく会場に響く。総会として、本会開催に至る経緯や会計報告、100周年記念植樹の事など、代表幹事T君の報告の後、拍手で諒承。次に追悼のセレモニー。今は亡き神沢先生の声が、15期生諸君へと、入院中自ら録音されたという、病臥の喘ぐような声が流れ、場内は一瞬しんと静まりかえる。最後に神沢さんの遺した一遍の詩を朗読。嘗ての市岡名物教師たる颯爽とした姿が参加者たちの胸にほうふつと蘇ったことだろう。神沢先生の急逝に対し、併せて、すでに物故された12名の同期生たちへ、黙祷を捧げること数十秒。哀しく重い気分が会場を包んだ後、一転、えっ、六甲おろし! いえいえ冗談じゃありません。大真面目に六甲おろしのイントロにのって登場いただいたのは、高校11期生でもある前阪神球団社長の高田順弘さん。社長当時、野村監督を招聘、闘将星野へと礎を築いた方で、いま関西を元気にしてやまない阪神タイガースの面白秘話をご披露戴こうと、先輩後輩の誼に甘えてお出まし願ったのです。約20分、後半は優勝後の選手達の年俸問題や、阪神グループへの経済効果など、話も佳境に入って我々聴衆も愉しく拝聴。これで無事第一部の終了。二部へのつなぎにみんなで隣の間に移動して記念撮影。同期のN君(プロの写真屋さんです)の指揮のもと、百名余りの初老軍団とご長寿恩師連がにぎやかに雛壇に居並び、見事カメラに収まりました。

‐それぞれの来し方・行く末‐
― 心を洗う愉快な宴に。

 あらためて 会場に戻るとオクラホマミキサーの曲が聴こえる。フォークダンス定番の懐かしいあれ。二部懇親会の冒頭は、来賓恩師方11名が壇上に並び、順々に一分間コメントを頂戴する。失礼千万な処遇ではあるが、時間の都合上致し方ない。周到、長広舌必至のお方にはタイムアウトを宣告する鐘を用意してある。司会のK嬢、遠慮なく鳴らすこと頻り。そのたびに会場はどっと沸く。お蔭でもう和やかムードだ。乾杯の音頭は1組担任の難波先生。8?才、矍鑠として明鏡止水の境、善哉々々。乾杯が終わると、お待ちかね、飲む・喰う・喋るのフリータイム。ビュッフェ方式だけれど、今回は立食ではなく椅子席だから、ゆったりと落ち着いた気分。BGMはいま流行りの女子十二楽坊だぜ、知ってるかい? 照明も明るいし、雰囲気も明るく愉しげだ。あっという間の30分が過ぎて、ゲストタイムへ。もう少しゆっくりさせてくれ、と云う声が聞こえそうだが仕方がない。場内の明かりが落とされ、舞台にはスポットに照らされて関西二期会の歌い手さんの登場だ。オペレッタの名曲から2題、それに落葉松という日本の曲。メゾソプラノの朗々と響く歌声に喝采しきり。まったくこの同窓会、粋な趣向だね。続いてリクェストトーク。同期の桜、あらかじめ選抜の4人、それぞれの来し方・行く末などを拝聴させていただこうという企画。K君には東京市岡会のことなどを。農を行として生きようと、炭焼の暮しをつづけるM君。未亡人になったのを幸いに、世界をまたに駆けて独り旅をたのしむUさん。職業柄、お得意の火星にまつわる話を披露してくれたW君。高校入学の折は前代未聞の定員割れで、上にも下にも肩身の狭い思いをした15期生だが、これで結構多士済々なんだよ。まだまだイカした奴は居るんだぜ、って心のなかで呟く。さあ、宴もたけなわ、最後にもう一つ、愉しいことをしよう。思い返してごらんよ、市岡時代はやたらと仲の良いカップルが目に付いたものだ。その同期生カップルがそのまま目出度くもゴールインして、40年を経た本席に3組ご出席あそばした。これを酒肴にしない手はないと、みんなでお祝い申し上げることにした。題して、永年の二人三脚を寿ぐ。T夫妻、N夫妻、Y夫妻と各々壇上に上がると、能書家のNさん直筆の色紙がまるで表彰の儀式よろしく各々に授与される。司会のN嬢は冷やかし半分のインタビューで客席を沸かせる。ま、およろしいこって、いつまでもお幸せに、が半分。だけど40年余りもさぞ大変だったろうね、ってのが半分かな。そんなこんなでやっと中締めまでたどりついた。締めの挨拶をKさんがして、お定まりの校歌斉唱は、S君を筆頭に柔道部連の登場だ。おいおい7.8人も舞台に上がったぜ。柔道部は全員お揃いだったのか、いつまでもいいチームワークだね、ちょいと吃驚。全員で歌って拍手のうちにお開き。あーあ、盛り沢山の3時間だったね。幹事連には裏方のお役目ほんとにご苦労さま。
さあ、お次は二次会々場へ、みなさんお誘い合せてどうぞ。


三年後か、はたまた五年後か、
今回出席の人も、残念ながら出席できなかった人も、
次の機会にお逢いできるのを楽しみに!……

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December 06, 2004

雪のあかるさが家いつぱいのしづけさ

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言の葉の記

<棟方志功展>を観に行った。
大阪南港のATCミュージアムで開催されており、
昨日の5日が最終日。
近いことだし、おまけに招待券が手に入ったことだし、出かけない手はないと。
6年前、東北を旅した際も、
生誕の地、青森の棟方志功記念館を訪ねているので、
直に作品に触れるのはこれが初めてではないが、
その記念館でも、所蔵作品の内、1/4ずつを
四季ごとに展示換えしているとのことだったから、
まだ見ていない作品にも
お眼にかかることができるという期待感もあった。
その期待どおり、
初めて相対する作品がいくつもあった。

とりわけ、志功曰く
「この版画で、はじめて、
 まっ黒い身体の中に刀(とう)をあてて、
 人間の身体を出す方法をつかみました。
 わたくしはこの線をいかすことによって、
 版画自体の根源的なものにふれてゆくことを
 身の程にしたいと思いました。」と解説する
「鐘渓頌(しょうけいしょう) 全24柵」を拝めたのは収穫。
 -志功は作品の一枚一枚を、~~柵と名づける。-

 版画ハ、
 色デイエバ
 金ヤ銀ノヨウナ、
 色アッテ、
 而モ無色ナモノデス。
 ソレ程ニ微妙ナ
 案配ノモノデス。
 イクラ人ガ
 出カソウトシテモ、
 出来ナイヨウニ
 ナッテイルトコロニ、
 版画ノ大キサガ
 アルノデス。
 ダカラコソ、
 生マレテクルノヲ
 待チ遠シクシテイルノガ
 嬉シイノデス。
 ヨロコビモ、
 オドロキモ、
 カナシミモ、
 湧イテ来ルヨウニ、
 版画ガ湧イテ来マス。
 有難イコトデス。

  ―棟方志功「ヨロコビノウタ」二玄社より―

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December 05, 2004

炎天のはてもなく蟻の行列

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言の葉の記

<シンボルとしての言語・神話・芸術>

言語、神話、芸術を <シンボル形式>と呼ぶとき、
この表現にはある前提がふくまれているように思われる。
それは、言語も神話も芸術もすべて精神の形態化の特定の様式であって、
それらはすべて、遡れば現実というただ一つの究極の基層に関わっているのであり、
この基層が、あたかもある異質な媒体を透して見られるかのように、
それらそれぞれのうちに見てとられるにすぎない、という前提である。
現実というものは、われわれにこうした形式の特性を介してしか捉ええないように思われるのだ。

   参照:<シンボル形式の哲学> E.カッシーラー より

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December 04, 2004

みごもつてよろめいてこほろぎかよ

災害支援の超勤手当、
2日間で最高8万5千円 大阪市

あいた口が塞がらない!
またしてもお前か-大阪市よ。
度を越したお役人天国よ。

もう、ほんとうに、いい加減にしてくれないか。
WTCも
ATCも
大阪ドームも
クリスタ長堀も
債務引受を地裁に申し立てたんじゃないのか?
すべて市民負担へと、ツケを廻そうとしているってのに。
財政破綻の深刻さは、もう全国トップになろうというのに。
一体、何をやってるんだよー。
大阪百年の計と、御堂筋を整備して、
名市長と称された関一(せきはじめ)の孫と、
鳴り物入りで登場した筈の、関淳一殿よ。
こんなことしてていいのかよ。
これじゃ、
大阪再生、関西復権など、
うたかたの露と消えちまうよー。
どうにかしろよぉー。

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月も水底に旅空がある

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いまひとつ堕ちむとするや阿呆鳥‐記

あれからもう15年の歳月が流れた。
私が呼びかけて集まった十数名で編成した、
日中交流現代舞踊の旅。
天安門事件直前の緊迫した情勢のなか、
いかにも慌しい訪中の旅だった。

<現代舞踊の訪中交流記>

‐6月4日、流血の日曜日‐
天安門広場に集結した民主化要求を掲げる学生や市民に向かって、人民解放軍という名の同胞たちが狙撃と蹂躙をくりかえし、世界を震撼させた日
 その2週間前、連日百万人をこえる学生や市民に沸きかえり、天安門前広場が最大の盛りあがりを見せていたゴルバチョフ訪中の数日間と相前後して、ぼくらの中国への旅がはじまる。

‐5月19日、大阪を発って上海へ‐
民主化要求デモが南京路を埋めつくしていた。
 私たち一行(中国評劇交流祭出演のため訪中の現代舞踊家12名)は上海雑技団を観るため南京路にさしかかっていた。魯迅公園前のホテルを一時間前に出た車からやっと解放されて、道路いっぱいにひろがったデモ隊の流れを見ていた。
 雑技団の大きな劇場の中は外国人観光客があふれ、なかでもアメリカ海軍の兵士たちが五、六百人はいたろうか、缶ビール片手にパンダたちの出番を待っているのが喧噪した雰囲気をかもしだす。外の騒ぎからは隔絶された奇妙に退嬰的な空間がそこにはあった。たしかに上海の雑技はみごとなアクロバットだ。だがぼくらはなぜか疲れをおぼえた。見知らぬ土地へやってきた異邦人の境遇がそうさせるのかもしれない。二部三時間のプログラムにとても耐えられそうもないので、中盤のパンダの芸を見てから失礼して外に出る。
 夜の九時ちかく、通りにはもうデモ隊の姿はなかったが、行き交う人は多い。近代化が急速に進む中国の、その先端を走る上海ならではのファッショナブルなアベックの姿も多い。ホテルへ戻って、十時きっかり国際問題研究所の燓氏がロビーに現れた。大阪話劇人社の柳川清さんに紹介してもらった人だ。急な申し出にもかかわらず彼の親切なはからいで、上海人民芸術劇院の人たちと稽古交流の機会が得られる。明日の午後だ。さっそくメンバーに集合をかけて打ち合わせ。朝はホテルのホールを急遽借りうけて練習、そして午後は人民芸術劇院へ訪問となる。予定の観光はカットされた。

‐20日、北京では戒厳令がしかれた‐
 その日の午後、上海人民芸術劇院の人たちは、熱いまなざしでぼくらの踊りをみつめていた。
 二十数名の若い劇団員は「月祭り」という民話風な創作劇の稽古に汗を流していた。因習にとらわれた村の掟を破る若い男女の恋物語だが、恋ゆえの掟破りか、掟ゆえに悲しくも激しい恋が生まれるのか。いずれにしろ制度からの逸脱であり、厳しい掟へのプロテストであり、ひとりの若者の自由と尊厳をかけた孤独な闘いが描き出されようとしていた。女性演出家の指示で稽古が一段落。出迎えてくれたベテランの女優張引棣がぼくらを若い劇団員たちに紹介してくれる。
 さあ、ぼくらの作品をこの清新な若者たちに観てもらおう。ゆるやかなスロープがつくられた稽古場の高くなった所に彼らが座る。そこが客席だ。半分ほどの平らな部分が舞台、足場も悪く、少々狭いが贅沢は言えない。ぼくらはまず二つの作品を演じた。浜口慶子のソロ「優しさをください」、つづいて長川堂郁子と飯柴啓子のデュエット「洗礼の鏡」。その間約十五分ほど、私は喰い入るようにみつめる彼らの真剣なまなざしを追いつづけていた。五月の明るい光がさしこむ異国の部屋で、照明や衣装もない素のままのぼくらの踊りが展開されている。踊り手の熱い息づかいをそのまま呼吸しながら観つづける見知らぬ若い芸術家たちが、ぼくらの眼の前にいる。ソロが終わって拍手が沸いた。デュエットが始まると、さらに静まりかえった緊張がつづく。この時だ、私には予測を超えた事態が起こっていた。女優張引棣の瞳が潤んだように熱く燃えて、凝視しつづける真摯な表情は鮮やかに紅潮しているだ。激しいものが彼女をとらえて離さないのか、こんなにも僅かな出会いのなかでこれほど激している彼女に、私は驚いていた。私にとっても貴重な事件となりうる経験だ。

‐新しい出会いがここにひとつ生まれていた‐
ホーと解き放たれたような一瞬とともに強い拍手が響く。演出の女史は私の方へ駆け寄ってきて、もっと見たい、みせられるものはもうないか、と言葉の通じない私に、大きな身振りでせきたてるようにはなしかけていた。心の準備をしていなかったぼくらは予定外の群舞をひとつだけ見せることにした。私の「道成寺縁起」終盤の群舞。踊り手10人が立ち上がって着替えに走る。彼女らが現れると、親しさを込めた拍手で迎える彼ら。今度は初めて見るような緊張感に縛られていない。すでに彼らにとってぼくらは遠来の友だった、なにかが通じ合った者同士が、新しい共有の事件をまえに胸をときめかせながら待っている。烈しいロック調の曲にのって五分余りが一気呵成に過ぎた。熱っぽい拍手と嬌声をあげながら。踊り手の一人一人に握手を求めてくる。とりわけ動きの振りをあれやこれやと模倣に興じる者たちもいて、私は本当にびっくりしてしまった。
 ぼくらの踊りが劇場で演じられるより、稽古場でのほうが強く体験され、深い理解をえられる場合がある。私自身、師の神沢の作品を舞台で観るよりも、学園前の稽古場でなんの装飾もなく生地のままに観る場合のほうが、感銘を受ける度合がいつも大きい。また、大槻能楽堂で何回か拝見させてもらった素のままの稽古能が、面と装束につつまれた幽玄の美を現出させたどの能よりも、能楽の様式性とその美学の奥義に私自身よく触れえたと思った経験がある。この上海芸術劇院の若い劇団員たちとの幸福な邂逅も、劇場の舞台でななく、直に触れあえる彼らの稽古場であったからこそ衝迫力のある出会いとなったのではなかったか。
 短いが稀に味わう幸福な時間を経験した。言葉が通じ合わない者たちの、ハンデを超えた原型的な出会いが生まれていた。出会い、それは新しい出会いだった。ひとりの人間の、その人生でかけがえのない出会いが、だれでも二つや三つあるものだ。この日、この出会いは私にとってその貴重なものとなった。
 人は共時の体験のなかに、自分自身の内側からもっとも見たいものを見る。共有の出会いというものがあるのではない。共時の体験のなかに共にあって、互いに新しい発見が生まれる。それぞれが新しい自己の可能性と出会う。実体のない虚像などではなく、実体験に根ざした幻想を見ているのだ。女優張引棣はぼくらの踊りに彼女自身の見るべきもの、彼女の心の奥底で見たいと願われているものを見ていたのだ。他の若い団員たちもそうだったかもしれない。彼らもまた彼ら自身の見たいと望むものを見ていたにちがいない。そして私もそうだ。この彼らとの邂逅に、おのれの見るべきものを見いだしたと思っている。それは私の向後の人生を少なからず転換しうる出来事かもしれない。私には女優張引棣や彼らの燃えるような視線が忘れられないものとなった。

‐その日の夜、上海から瀋陽へ‐
 中国の日暮れは長い。もう八時をまわろうかというのに薄暮とはいえまだ明るかった。瀋陽到着が十時過ぎ。人民広場前の遼寧賓館にたどりついたのは十二時頃だ。
 翌朝、瀋陽評劇院長らと旧交を暖めつつ、公演の打ち合わせ。昼食の時間までに清朝開祖の故宮を見た。ヌルハチやホァンタイチゆかりの宮殿と名高い女真族八騎軍の遺跡。ホテルでの昼食後はフリータイム、各人思い思いに街を歩いた。つかのまのやすらぎのあと深夜おそくまで、ぼくらの上演場所、青年宮で舞台準備に立ち会う。予測はしていたものの、照明も音響も設備は古く、劇場というにはちょっと気の引ける代物だ。仕込には瀋陽評劇院のスタッフたちが数名、汗とほこりにまみれながら働いてくれた。午前二時過ぎやっと解放されてホテルへ戻る。さて、それから照明の仕込図を見ながらプランニングを試みる。五時近くまでかかったがまだできあがらない。明日に残してひと眠りする。
 22日、午前十一時からリハーサル。午後二時から公演という運びだが、リハで細かくアカリ合わせをする時間がない。ぼくらの作品を初めて見る異国の照明スタッフにすべてを託すしかない。直前までかかって準備をしたプラン表を渡して、あとは君の感覚でやってくれ、と。
 午後二時、客席の壁には線香がたかれ、会場にほのかな薫りがたちこめる。三百人ばかりの一般市民と文化・評劇関係者ら。
 舞台は7つの作品のあいだにナレーションを加えながら進行する。解説は私、私のあとをついで通訳の李敬敏女史が中国語で客席に語りかける。初めて見るであろうモダンダンスに戸惑いと直截な反応が交錯しながら、ひとつ、ふたつと演じられていく。踊るぼくらには思いのほかゆとりが感じられた。冷静に、客席の反応を確かめながら、大切なものを丁寧にそっと差し出すというふうに。ぼくらにはすでに上海の経験があった。それがぼくら異邦人の外国での公演という緊張の金縛りから救ってくれていた。
 演目のすべてが終わって関係者らが舞台へ上がってくる。ぼくらは解放感に満ちた快い汗を流していた。終わったという虚脱と安堵に包まれてもいた。この瀋陽の彼らはぼくらの表現になにを見ただろうか、ある手ごたえが彼らの胸のなかに落ちただろうか、などと自問してみる。上海の人民芸術劇院の若い友人たちが、自身の見たいものを見たように、この彼らもまたそうであったにちがいない。南京路を埋めた学生や市民らのデモ隊が不意に私の脳裏に浮かぶ。ぼくらの舞台を見た市民らが、上海や北京で、そしてこの瀋陽で起ちあがった学生や市民らと、どこかでしっかりとつながっていることを、関係者らの賛辞と歓迎の言葉を受けながら、私は秘かに願っていた。
 彼らのあいだにはなんの隔たりがあろうか。北京の天安門広場に集まった学生や市民ら、そして人民解放軍の銃撃の前に倒れていった若い命と、ぼくらの直に出会ったこの数少ない中国の人たちのあいだに、いささかの隔たりもないのだ。彼らはみな、おのれ自身の真摯なまなざしのうちに、見たいものを見つづけているではないか。彼らは私のなかで、親しく手をつなぎあってるではないか。私は、彼らのあいだに同じものを見いだし、見つづけようとしていた。

‐乾杯!‐
 評劇関係者らと交流の夕食会が催された。中国式もてなしの乾杯が何回もくりかえされる。ぼくらも数日間の緊張の糸をゆるめてなんども応じる。
 夜になってから評劇を観賞、たっぷり2時間半の古典的な舞台だった。疲れた身体に鞭打って観る者、とうとう眠りこんでしまう者に、各場の移りをしっかりカメラにおさめる者。12名の訪中団が重い役目を終えて、ほっとしながらの観劇だった。
 翌早朝、瀋陽空港から、空路北京へ。1日早い帰国組と別れて、戒厳令で市内に入れぬぼくら7人は、天安門広場に心ひかれながら、万里の長城へ。翌日は郊外にあふれた観光客に混じりながら渭和園を巡る。市中心部へはとうとう足を踏み入れずに北京を発った。
 再見! 上海、瀋陽、北京、そして中国。

  1989.6.20     

    <四方館T.H記>

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December 03, 2004

其中一人いつも一人の草萌ゆる

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言の葉の記

<不易流行>

これ、蕉風俳諧の理念なり。
不易は‐本(もと)、流行は‐風(ふう)という次元の異なるものであり、
<不易流行>は一句の内に込められていると見るのが、芭蕉の真意。
<本>とは、宋学的世界観にもとづく<風雅の誠>という理念であり、
それが、<新しみ>を求めて創られる句の<姿>にあらわれるのを<流行>という。

「不易を知らざれば実(まこと)に知れるにあらず、
 不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、
 誠によく立ちたるすがたなり」 三冊子-去来

    参照:岩波仏教辞典

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December 02, 2004

荒海へ脚投げだして旅のあとさき

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INVITATION

Shihohkan Echo Club 2004 in Asoka-Gakuen 

K師のラバンの庭に捧ぐ

あるいは、連句の心に遊ぶ即興世界


12.19(Sun) PM2:00
Improvisation 2:15-3:00
 Duo Komine Yuki/Suenaga Junko
Free-Talking 3:00-4:30


  K師の舞踊はあくまでも作品主体を振付者・作者に求めた
  近代の洗礼を受容した知識人として
  戦後の荒廃からはじまる現代日本に育ち
  近代的知識人像から遠く隔たった私は
  80年頃より作者としての主体性を放棄してしまっている
  舞踊は踊り手に、ドラマは演じ手に


     昨秋9月6日、K師薨る
     々12月7日、K師追悼の会に530名余
     々12月末日、K師のホームページ閉鎖
     今秋10月8日、K師夫人神澤茂子舞踊公演


 年忘れの気のおけない会としてお出まし下さい。

四方館主宰 林田鉄

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December 01, 2004

ひらひら蝶はうたへない

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言の葉の記

冬ごもり 春さりくれば 飯乞ふと 
草のいほりを 立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに 子どもらが 
今を春べと 手まりつく ひふみよいむな
汝がつけば 吾はうたひ あがつけば なはうたひ
つきてうたひて 霞立つ 長き春日を 暮らしつるかも

――良寛「手まり」

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