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September 30, 2004

まつたく雲がない笠をぬぎ

運動会、体育祭といえば
高校時代のそれ。

まだバンカラ気風の残されていた時代だったが
当時のメインイベントは
仮装行列

祭りのあとの
ファイアーストーム

クラス参加の一年時の仮装行列で
当時の流行現象と安保デモを絡めて演出。
'60年頃のブームには、雷族或はマツハ族、第一次週刊誌ブーム、ダッコちゃん人形etc、
そして、安保反対のフランス式デモ。
同級のI君が中心なって作った、岸信介(安保改定の首相)のでかい張子の人形のカリカチュアライズぶりが圧巻だった。

闘い済んで日が暮れて、夜ともなれば、祭りのあとの祭り
ファイアーストームの初体験は
これぞまさに青春の一頁。

中央にドントが焚かれ勢いよく秋の夜空を焦がす
フォークダンスの輪が二重三重と運動場一杯にひろがる
時の経つのも忘れて遊んでいたな。
応援団のエールでフィナーレとなると
なんだか急にセンチになって泣きたくなるんだな‥‥

あーあ、日本人てなんでこうなんだよな
感極まって、行き着く果ては、感動の涙ってやつで締めくくり。
こないだのアテネなんか、その最たるもので
日本中が元気を貰ったんだろうね。

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ほつかり覚めてまうへの月を感じている

 卵が内側から割られるように

 それから さらに いくつかの夜がめぐりました

 そのいくつかの夜 あらいぐまのこどもたちは

 大地の温もりに包まれながら

 やすらかな眠りをくりかえすのでした

 そのいくつかの夜

 内なる時と 外なる時の ともに満つる

 そのいくつかの夜が そっと そっと 通りすぎて・・・・・


 そして ある日の よる!

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September 29, 2004

秋風こんやも星空のました

もうすでに旬を迎えているが
秋の食卓には、秋刀魚さえお目見得ならば
いたくご満悦。

これが晩秋ともなれば
我が家では湯豆腐のお出ましとなって
いよいよ冬の到来だ
善哉、善哉。

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てふてふひらひらいらかをこえた

遠い、遠い、むかしのはなし。


高校へ入学したばかりの初夏、六月。
私はまだ16才の誕生日を迎えていなかった。

多感な思春期の一頁は、
政治的行動への共感と疎外からはじまった。

高度経済成長期の初期は、戦後民主主義の徹底とともに、
反体制運動の潮流がいよいよ高まってゆく政治の季節でもあった。

時は’60年安保の真っ只中、 
当時の母校市岡高校は、大阪府下ではK高校と並んで学園民主化が急速に進んでいた。

‘58年の勤評闘争で教師達は大教組運動の中心的役割を果たしていた。
とりわけ三十代の教師たち、S氏、K氏、O氏らがその軸となって活動していた。

彼らの指導のもと、生徒会活動も活発化、自由・自治・民主化の校風が醸成され、
自ら思考し、自ら行動する者へと、目指される自己の確立は、
政治的関心へと傾斜し、直接的な行動へと駆り立てていくことが、青年の特権であり、
自らの立場の選択と実践が、青春の謳歌でもあった。

5月頃より日米安全保障条約の改正に対する反対運動が急速に盛り上がっていた。
学内でも全学生徒集会が開かれ、反対デモへの参加の是非が何時間もかけて議論され、賛否相半ば、高校生の政治的直接行動への容認派と否定派は拮抗していた。

6.15、国会周辺デモにおける樺美智子の死。
この事件は政治的関心に傾斜を強めていた市岡の生徒達の間でも衝撃をもたらし、非常に深刻に受け止められた。

6.19、御堂筋デモへ参加しようという200人に及ぶ生徒達が、気勢をあげ運動場を三重、四重に隊列をなし行進する、やがてどっと勢いよく校門を出て行く。
時間にすれば十数分のこの騒ぎの始終を、三階の講堂で近日に迫る新人公演の芝居の稽古をしていた私は、高い窓越しに覗き込むように見下ろしていた。
あっ、一瞬、私は小さく息を呑んだ。
突然、私の眼に飛び込んできた、クラスの馴染みの顔が五、六名、男子も女子もいた。
どの顔もみんな生き生きと、紅く熱く映っている。
私は、なにやら昂ぶりつつ、少なからぬ疎外感もおぼえ、言いようのない錯綜した心の揺れを感じながら、彼らが見えなくなるまで追っていた。

決して他人事だなどと考えていた訳ではないが、結果として傍観者の位置に居る私。
彼方と此方、二者を隔てているものは何なんだろう。
この距離、この違いは、決定的なものなのか、否か。
私には明瞭な答えを見出すことはできなかった。不明なままだった。
ただ、この時、私は、なにかを逸してしまっている。
その感触だけが、残されたような気がする。

後年、この時の傍観者であることの自戒と、それでも感じていた昂揚や共感との間の心の揺らぎが、私の政治的行動への距離をずっと規定しつづけたように思える。

なにかを逸したという、その感触は、
小さな瘡となって、私の背にそっと貼りついたままだ。


あの時から、私は、私自身を生きはじめた。

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September 28, 2004

降ったりはれたりおのれにかえる

今日一日、腹を立てない事。

今日一日、嘘を云わない事。

今日一日、物は無駄にしない事。

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September 27, 2004

山あれば山を観る、雨の日は雨を聴く。

夢の翼

松浦ゆみという
大阪で活動している
まだあまり知られていない歌手がいます

いま唄っている
夢の翼という曲
ポップス演歌と云うのでしょうか
なかなかに良い曲です

作詞は30歳位で早世した今井佑香さんという人

イカロスの翼のごとく
たとえ炎に焼き尽くされるとしても
思春期の届かぬ想いを抱きつつ
遠い、遠い彼方へ、天空の果てまでも、と
そんなひとりの少女のイメージ

詩といい曲といい
夢や希望とその挫折、明と暗の交錯
いささか重しの効いた世界になっています
今時、こんな唄が受けるのか受けないのか
私なんぞには計りかねますが
いちど聴いてみて戴きたいと
お奨めします

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何を求める風の中ゆく

秋といえば
遠山紅葉す

大分以前になるが
11月も下旬になるころ
松江から米子自動車道を通っての帰路
周辺の山々の紅く黄色く染まった風景は忘れ難い

秋といえば
燈火親しむべし

だが、このところの私は
いまだ読書から遠ざかったまま
些か重い内容だということもあるのだが
読みかけの一冊を
三ヶ月も持ち歩くまま
一向に進まないでいる

秋といえば
物思いに耽るべし

昨年あたりから物思いに耽るというよりは
物思いに患う感あり
まことに悩まし、悩まし

秋といえば
芸術に親しむべし

昨秋逝去されたK師の夫人が
近く追悼作品を発表される由
周囲の状況や彼女の病身を思えば
おそらくは最期の舞台となるであろう

秋といえば
遠い昔の、思春期の文化祭

もう6年も前になるが
高校時代のT君が急逝したのを受けて
彼の知己を得た同窓の輪がひろがりひろがり
一周忌となる日に追悼の意を込めて
三十数年を経ての文化祭を催した
これが機縁となって
ここに集った仲間たちは
以後、グループ展を続けている
Tとは卒業後も長く交わりが続いたのだが
今では17.8才の頃の容姿が
つと鮮やかに甦ってくる

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September 26, 2004

ゆつくり歩こう萩がこぼれる

 自宅からオフィスへの往復の足に、車から自転車へと乗り換えてまだ三日。
大阪市内はJR環状線と市営の地下鉄、バスで通勤には概ね事足りるのだが、
もう一つ昔懐かしの渡しの船便がいくつかある。
私の通勤経路では地下鉄利用が常套なのだが、乗換えを二回して所要時間が45分から50分程度かかる。
ならば、自転車を駆って通ったとしてもそれほど変らないのである。
住之江区や西成区と大正区の境界を流れる木津川に架かる、俗に眼鏡大橋と呼ばれる橋の袂に千保松の渡しがある。
この渡しまで10分あまり。このところ朝夕はめつきりと秋めいてきて、川風に吹かれる船上のひとときが快適だし、なによりも単調になりがつな自転車の通勤の旅にリズムをもたらしてくれる。
大正区の西端に着いて、それから今度は大正と港区を分ける尻無川の甚兵衛渡しまで走ること15.6分か。
ここまで来るとさすがにじっとりと汗ばんでいる。
甚兵衛渡しを降りるとあとは5.6分でオフィスに。
乗り継ぎの連絡もスムースになって今日の所要時間は約45分。
運動不足も解消できて一銭もかからないし時間も変らないとあってはまさに一石三鳥。

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歩けばかつこういそげはかつこう

山頭火の句を頭にふって、特段それとは関りもなく書きとめてゆくことにしてみる。
もう古い記録だがここに置いてみようと思う。

ALTI BUYOH FESTIVAL 2004 <寸評>

2/28 Sat 18:00~
◇紗笈(SAOI)&紗芽(SAGA) -東京
ダンス・パサージュ羽衣
居上紗笈・居上紗芽
評-1. 吹雪、海と紗幕に映像。その中に浮かぶ天女のゆるやかな動き。段差をつけた蹴込みの生木が目障り。
2. 上手前へと移って、男。中央に白紗幕が剥きだしのままで興がそがれる。ナレーションの言葉も邪魔。
3. 男と天女、動きはヒップホップ系か、それに気孔を取り入れたようなゆるやかさが加わる。
4. 天女は天空へと帰る。取り残された男に、ブッシュのイラク攻撃かラジオのニュースが流れる。
イメージを貼付けていくだけの構成。コラージュの手法が相乗的なイメージの喚起力に至らない。

◇新美佳恵 -神奈川
天上の渦
小林美沙緒・新見佳恵
評―左右のサスなかに男役と女役ひとりずつ。特に男役の動きに持続性があり、増幅していく力があった。
クラシカルな調べの主調に対し三度挿入されるフリージャズの音楽が程よいコントラストを超えて、ハードに過ぎる。選曲ミス。後半挿入された女役の走りの場面に構成上の破綻を感じた。惜しい。

◇サイトウマコト -大阪
RESONATE
評―ダンサーの男と女、役者の女。構成は動きの場面と言葉の場面が交互にくり返されていくなかで、渾然としていく展開なのだが、ナジャの言葉を吐き続ける役者が主導権を取った場面での、ダンサーたちの動きがあしらい的な振りにすぎる。女性ダンサーはクラッシック系でシャープな表現力があった。役者の女もなかなかの演技力であった。役者の吐く言葉のリアリティー、存在感に比して、ダンサーたちの動きの構築力は弱い。
狙いの転移、逆転移現象など図式としてしか浮かんでこない。

◇菅原勝代現代舞踊研究所 -京都
女人心象
評―モダンバレエの系譜か。6つのシーンで構成。スケッチ集のような短いもの。1-3までの暗転転換はいただけない。4のソロは先生、お上手。5-6は一転して女の夜叉性といったところだが、表現力としては弱い。

◇ダンスユニットセレノグラフィカ×ゴゾウロップ ―京都
卵のコロンブス
阿比留修一・隈地茉歩
評―女の動きはもっぱらマイム的であり、ヒップホップ的とも。阿比留がピアノに合わせて動くのが、神澤の動きのカリカチュアライズに見えたのが皮肉。イメージの異なる短いシーンをコラージュしていって、やがて収斂させていこうというわけだが、成功とは言えない。

◇Asha and dd.punch ―大阪
静かな声
布谷佐和子
評―マイムコミック或はコミックコミックなのに、とにかく長い、長く感じるのはなぜ? やばり外からイメージを貼り付けている。動きの紡がれ方からイメージが喚起されてくることにならない。

2/29 Sun 18:00~
◇四方館 ―大阪
WALTZⅡ 輪舞―Camille.Claudelの彫像より―
評―大黒幕を引き割り中央にホリゾントを露出させ、黒紗幕を使ったことが、私の大きなミスであった。
このことで客席と舞台の境界はより鮮明となり、演じられる舞台は向こう側の絵の世界となってしまったし、より照明効果を引き出し、物語としての抒情性を強めてしまったことは、表現の身体性そのものから遠ざかる結果となった。

◇笠原千裕 ―京都
clutch,crash,and trash
評―クラッシック・テクニックがベースの、造形力や構成力から程遠く、作品というべきものではない。

◇河合美智子 ―兵庫
Shield~を越えて貴方に触れ
評―男三人のクラッシックダンサーとご本人。それぞれの男といろいろな絡みを見せていくのだが、それ自身に展開があるようには見られない。平板なのだ。ラストシーンのイメージだけで全体を締めたのは救いだが。

◇うまさきせつこ ―兵庫
Include
馬崎節子
評―ピンクの長く垂れた幅広の布、その布の先端が衣裳とつながっているのが着想。踊り手として表現力のある人だろうが、その冴えを観ることができなかったのは残念。

◇j.a.m.Dance Theatre
サボイ
構成振付:相原マユコ
久万田はるみ 森井淳
評―今回の出品作で一番注目を集めただろう作品。ラバンセンターに留学経験を有する演出と出演の森井淳、それにクラッシックの基礎も充分有する久万田のテクニック。今時のコンテンポラリーダンスの良質の部分を確かに感じさせたが、おそらく少し長すぎたように思う。後半の無理な時間の引張りが構成に綻びをもたらしたのではなかったか。

◇佐々木敏恵テアトル・ド・バレエ ―京都
白鳥伝説羽衣
評―見落としました。失礼。

3/5 Fri 18:30~
◇Idumi Dance Theater ―大阪
透明のかたち―海の虫姫抄-
山田いづみ
評―美術は下手よりのみとなってシンプルにまとまった感。前半、孵化或は脱皮のイメージ。後半、台座での動きが形を変えての繰り返しの感あり。そして、さなぎから成虫へと、背骨を伸ばし、立つ。最後に、飛翔或は昇天のイメージか。触覚器官が感じる独特の空間感覚というものがあるならば、人間にとってはかりがたいその異形な空間に対するイメージがあれば面白いのだが。

◇GROUPE Sur les Pointes ―京都
Players Flown Form Here part1 part2
水野永子(水野弘子バレエ団)
評―scene1 中央に垂れた白い布に動きのシルエット。二人の踊り手が前と後ろ(シルエット)に入れ替わったり、実と虚の変奏か。シルエットの多用が過ぎる。二人共に実になった時、表現としてさっぱり弱くなる。
―scene2 一本のエンタシスを囲んで、4人から6人がいくつもの短いパート重ねていくのだが、意図は伝わり難い。振付構成が稚拙に過ぎる、と見えたのはエンタシスを囲むという設定に拘ったためか。

◇TRASH ―東京
The Rite of Spring
佐藤信光・松崎しん
評―男性二人。AとBの異質な動きの二人から、ユニゾン形式へ移っていくのだが、ポーズからポーズへの連絡が延々と続く。やがて再び異なる動きへと戻っていく。各々身体の表現力は可成りの程度だが、質は相当異なると見えた。

◇鈴木可奈子+much in little DANCE ―静岡
dialogue
評―トリオでダイアローグ。動きの組み立て方や連続性に創作ダンス系かと伺える。場面の継ぎ目を、動きを止めてその場から降りることで次へと移行するのだが、それがつまらぬ。

◇Naturemade ―京都
Garden
川面暢子
評―マスクやら衣裳をコロコロと変えて目まぐるしい展開。踊り手の持ち芸を活かしただけの場面づくり。
にぎやかな展開で眼を愉しませてくれるのだが。

3/6 Sat 18:00~
◇今貂子+綺羅座 -京都
カボチャドキヤ
評―舞踏派コミックロマン或は活動大写真風。カボチャドキヤの民たちのとある一日。13.4名か、多勢の出演者たちは行き届いた身体訓練から程遠い。

◇森裕子+TAKE-BOW ―京都
キョウセイチュウ
評―とても身体の柔らかいモダンダンス系の人というだけ。長い時間三角倒立で静止したまま始まるのだが、演奏音がだんだん増幅してけたたましい程の音量となるなど、不愉快で過剰な演出。

◇古澤侑峯と吉田靖 ―神奈川
Kesho-源氏物語-夕顔・葵上・野宮より
評―日舞と洋楽弦楽器との出会い。染色された5枚ばかりの幅広の布を垂らし、場面によってその後ろに小面や般若の面が浮かび上がる趣向。モダンな装いだが、こういう仕事は絶対してもらいたくない。兎に角音が煩い。電子音を使い過剰なほどに時空を埋め尽くす。踊りは眼で触るもの、音は耳で触るもの。耳を通して触感覚機能を奪われた観客にとって、舞手の所作や息づかいに視覚を通して触れることがまったく不可能だ。ミュージシャンのこれ程の蹂躙を容易く許してしまう舞手とは一体何だ。

◇ケン五月/KENMAI
MATRIX-その場所から何か新しい物が生まれる
評―舞踏系エンタテイメントでありました。ボーイソプラノの生唄にちょいと吃驚。マネキン、タンバリン、サービス精神旺盛にいろいろやってくれる。進行中の動きを同時録画しつつ、バックの紗幕に映し出す趣向が客席から喝采を浴びた。しかし長くやり過ぎた。前も後ろも特段必要はなかっただろう。

◇浜口慶子舞踊研究所 ―大阪
二十六時の夜鴉党
評―何本ものブランコに乗った踊り手たちと舞台いっぱいに敷かれた黒い大きな布のなかに一人。
ノンリズミカルな生演奏でユニゾンの動きを強制されるのは、踊り手にとっても観る側にとっても過酷なものです。魑魅魍魎が跋扈する丑三つ刻の夜鴉党なのだから、もっと個々の動きをばらつかせながら組み立てた方がよかったのでは。

◇Ogino’s & CORE ―兵庫
ahnen! ahnen!
荻野佳代子・祐史
評―シューズを履いているがトゥではない。モダンバレエのコンテンポラリー風。
まだ幼い小中生の踊り手たちにとって、たとえ題材がアリスだったとしても、この構成や演出が面白いはずはないだろうに、と思うのだが。

3/7 Sun 18:00~
◇尾上京 ―京都
かぐや
評―モダンな匂いを感じさせる日舞だった。芸風も年齢もまだ若い。日舞の所作の枠を割りと平気で越え出ていく。今回は扇の多用で場面を持たせたが、扇ナシでどこまでやりきれるのかを観てみたいもの。

◇片上守&Bold*2   Boys ―大阪
RAIN
評―中盤のRAIN一曲の踊りで充分。踊り手の表現力はかなりのもの。ラストの異様な風体たちの静かな行進、面白いがそれだけのこと。このラストイメージを活かすには前半部分にひとひねり工夫が要るだろう。

◇逢豪巣-あえらす -大阪
灯のさすほうへ
井上麻琴
評―身体技法としては古きよきモダンバレエの世界なのに、この過剰な美術セットはミスマッチだろう。おまけに美術に合わせたと思われる主役トリオの衣裳が動きと合わず、つらい。

◇TELESCOPIC ―大阪
フレスレス
構成振付:指村崇
出演:友廣満・坂本龍巳・指村崇
評―作品としてはこういった構成でもかまわないと思うが、トリオの身体的特徴(欠陥を含めて)の異質さが、共有される表象のレベルから浮かび上がってくるということにならないで、肉体的な限界や壁として見えてくるのがつらい。すべてをきっちりと振付けていたのなら、そこを技術的に克服しておかねばならないだろう。

◇Rosaゆき ―京都
黒い蝶
評―冒頭、無人の椅子にサスのみ。一転暗闇となって音が微かに聞こえ始め、徐々に音が増幅していき、再びサスが点ったら、女が椅子に腰掛けている。思わせぶりで決して悪くない演出だが、とにかく暗転が長すぎたこと、些か乱暴だ。いくつかの心象的なスケッチを重ねていくのだが、気にかかるのは、行為としての身振りレベルと身体的な表象レベルを演者が行ったり来たりする点だ。

◇グッディ2  (感動派) ―兵庫
いぐぢーすと
振付:黒木雄介
評―中央、不安定そうな置台にちょっとした大きな壷。地球の喩だそうだが少々乱暴だろう。全体に古いタイプのモダンダンスか。意味づけられたいくつもの場面が移ろうが、さっぱり伝わってこない。場面設定の意味から発想されたスケッチのみで演じられている。スケッチとは断片に過ぎない、だから意味の断片を継ぎ接ぎするだけに終る。結果として地球の喩として中央に置かれた壷と、終盤、ペットボトルを踏みつけ壊していく行為との寓意のみがこの作品の骨格となり、身体の表象は後景となり地となって、図にはなりえない。

<後書>
今はもうずっと、軽い動きの時代なんでしょうか。
そして、動きはコラージュにしかならないのでしょうか。
悪しきコンテンポラリーとは、ただの観念お化けですね。

このフェスティバルの出品作品を観つづける期間の私は、まるで今浦島のようでありました。
この5日間の全ての作品を観ることを自分に課したのには理由がありました。
昨年の秋、神澤和夫が急逝してしまったことが、その理由のすべてといってもいい。
78年の「走れメロス」の群舞構成の一応の達成を経て、
80年ごろからの私は、この二十数年間を自分なりの方法でのみ歩いてきました。
少しばかりの変容があったとしても、単なる延長にすぎないものだったと思います。
むろん、ポストモダン、コンテンポラリーなどの現象が席巻していたことを知らなかったわけではありません。
どんなものだろうと、およその察しをつけてもいました。
しかし、舞踊の現実として、世界の舞踊の現象として、しっかりと把握していたかといえば、絶望的なほど遠いものがあります。
神澤の遺した著書「20世紀の舞踊」と「21世紀の舞踊論」に、
実作者である神澤が、これほどまでに世界の舞踊を見て歩き、論じなければならなかったことに、大変な悲痛さを観じていました。
また、神澤が作った300をも数える作品譜を眺めれば、やはり80年代以降は半分ほどの作品としか接していない自分に、今更ながら驚かされもしました。
神澤が逝ききって、神澤の舞踊のトータルに対し、自分なりに像を結ぶことと、
舞踊の現実に、世界の舞踊の現象に向き合うことは、私にとって同義のこととなりましょうから、
このたびの苦行ともいえる行為に、自分を駆り立てたのだと思われます。

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山は今日も丸い

18日の土曜日、約一ヶ月ぶりに榊原温泉まで遠出をした。
遠出と云っても大阪から片道100キロ余、車で西名阪を利用すれば2時間半から3時間、充分日帰りできるコースである。
我が家の幼な児のKが乳幼児性のアトピーで、なかなか薬石効果もなく、このまま手を拱いている訳にもいかず、このところ幾つかの温泉を巡って、その治療効果を試しているのだ。

十津川村の道の駅にあった足湯の効果はなかなかのものだった。
幼な児にとっては、まず湯にじっくりと浸りきるということがとても難しい。熱い湯にどっぷりと浸かるということをまずしてくれない。ところがこの温めの足湯には、もちろん膝下だけなのだが、30分余りも気持ちよさげにじっとしていてくれた。
その効果のほどは一目瞭然、浸かっていた膝下部分だけは、その後の二週間ほど、あまり痒がりもしなかったし、炎症もほぼ治まっていたのだ。
ならば、Kが全身を湯に浸らせ、できるだけ長く持続させられる、そんな湯治場があれば最適なのだろうと、溺れる者は藁をもで、親ならば誰しもそう考えるのではないか。

元湯榊原館の源泉の湯は公称32℃~となっているようだが、少しばかり硫黄臭のする源泉をそのままかけ流している湯船に浸かると、丁度プールに入ったときのように冷やりとする。
実際には26~7℃位なのではないだろうかと思われる。
定義では25℃以上が温泉とされているのでそうには違いないのだが、限りなく冷泉に近い。
ところが身体全体をひんやりと包み込むこの湯?に5分、10分と浸りつづけていると、微かだがじわっと身体の芯から温まってくるのがまさに体感できるのだから、とても身体に良いのじゃないかと思われるのは当然至極。
なにしろ湯客の多くは狭い湯船に長い時間ゆったりと寝転ぶようにしていて、少し空いた所に身体を割り込ませていくのにも気を使うほどに、この源泉の湯船だけはいつも満杯なのだ。
大概の人が10分や15分ではなかなか上がろうとしない。延々30分、或は1時間以上もひたすら陶然として浸かっている湯客も居るようだ。
そういえば日帰りの入浴客用の休憩室には、お風呂での滞在は2時間以内にして下さい、との貼紙があったが、これには然もありなむと得心させられたものだ。
来月でやっと満3歳になるという幼な児のKは、残念ながら30~40分と浸かりつづけるなど、まだまだそんな長湯はできそうもないが、それでも効果のほどは歴然、炎症に対して抑制がかなりの程度効いている。
ここしばらくは、幼な児を連れての温泉通いも、月に一度くらいは果たさなければなるまい。

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捨てきれない荷物の重さまえうしろ

空前のベストセラーとなつた養老孟司氏の「バカの壁」に倣って、
「カラダの壁」なるものを考えてみた。
というより、身体表現の現場で試してみた。
人という存在にとって身体というものは、
実は心や精神以上に制度的なものであり、
身体的な習性というものは如何ともし難いものであることを、
人はみな忘却していることが多いように思う。
心を病んだ人の症例報告などを書物で読んだりしてみると、
彼らが自分の症状について、実在する痛みのように、
身体上の痛覚そのもののように語られていることがよくある。
もちろん、ここでは心-身関係のあいだに神経機能がなんらかの媒介をしているのだろうが、
神経機能について臨床医学的に語る資格など、到底門外漢の私にはないので、
心-身問題としてのみの素人語りとして受けとめていただきたい。
人はよく、自分自身の心の壁や思考の壁を問題にし、その壁を少しでも破ろうと、いろいろ努力をしてみることがある。
ところがこの努力、なかなか報われるものではない。
眼から鱗が落ちる、という謂いがあるが、
この諺のように、我々をしてハッと気づかせたり、悟らせたりしてくれるような場合の言語表現に身体用語が使われていることが多いように、身体で気づく、身体でわかることが重要なのだ。
その人固有の身体というのは、まずその人固有の骨格、骨組みやその硬軟の度合いによく表れているもの。
したがってカラダの壁というのは、なによりもその人固有の骨格であり、
そこから派生もするその人固有の柔軟度の問題だといってもいいだろう。
これに気づき、これを知ること、みずからの骨を知れ。
自分の身体の壁を文字通り身をもって知るということ。
このために、私はある時、ひとつの身体操作を思いついた。
みずから身体の壁を感じ、身体を開放する術を、みずからの内に発見すること。
それはおそらく、心や精神の壁をも開く契機となるだろうこと。
私はこの問題に、ずっと心を砕いてきたのだが、閃きは一瞬のうちにやってくるものだ。
それは至極、簡単な作業、まことにシンプルな身体動作である。
床に寝転がること、そしていろいろ四肢を動かし、捻ること、寝転んだ状態で可能なあらゆる動きをしてみること。
決して起き上がってはいけない、あくまで寝転んだ状態で。
これを数分間、なにか軽快なリズム音楽をBGMとして、ひたすら動いてみること。
実は、これ、試してみるとわかりますが、とても身体を使うし、しっかりと4.5分もやれば、身体はフラフラ、かなりのダルサを感じます。
この相当なフラフラ状態、ダルくてダルくてしようがないという状態、この感覚までいくことが肝心。
この後、寝転んだまま少し身体を休めておいてから、起き上がって、なんでも自分なりの体操や身体動作をいろいろと試してご覧なさい。
いつもの自分自身の限界をほんの少しだけ上回るような、身体が以前よりほんの少し開いたような、そんな感覚が必ずあります。
その身体感覚、このような自分自身のカラダの壁の気づきの感覚は、心や精神の壁を開いていく作業に、きっと大きなプラス効果を与えてくれる筈なのです。


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月へひとりの戸はあけとく

「直したいけど直らない私の癖なんて、
あまり書きたくないんだけれど‥‥。
ほんとにどうにもならない癖ってのはあるもので、

昔の唄でありましたよね、
爪を噛むのはおよしよ、なんて。

映画を見ていたり、本を読んでいたり、
ふと我に返ると、そうなっていた。

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山の中鉄鉢たたいてみたりして

「山頭火に酒が止められなかったように
私にはタバコが止められない

と言えば言い過ぎになるでしようが
米欧の健康志向文化が席巻して、嫌煙権の広がりに
喫煙者は誠に肩身が狭くなりました

知人たちのなかで、禁煙を宣言し
きっちりと実行している人を見れば
少しく眩しく映る自分の心に
いささか恥じる思いを偲ばせながら
へぇ、そうか、立派なもんだね
と、感心してみせながら
かといってこちらも発心するほどの契機にはならぬ

時折、腹立たしくなるのは
禁煙を実践している知人が
貴方もそうすべきしょう、と言わんばかりの態度を見せる時
さも当然の如くの体で、そちらの正義を振り回されても
こちらに正義とはなるまいものを、と
天邪鬼が頭をもたげてくるもの

日に40本と云うペースは昔から変らず
元来、私は決してヘビースモーカーというほどの者ではないと思っていたのに
今では完全にその部類に入ってしまっている

時々刻々、これも世相の変容ということか、と

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朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし

先日、
三重県榊原温泉の元湯榊原館について触れましたが、
ここの源泉の湯は冷泉に近い温度ながら、とても良いと思いますね。
湯客のみなさん、ほんとにじっくりと長湯をしています。

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だまって今日の草鞋はく

旅の途中、放哉の死を知らされた
あの放哉が死んだ、‥
あれほど逢いたいと願っていた放哉が、
もうこの世にはいない、‥
‥‥‥‥‥‥‥‥

昨秋、師と仰いできたK氏が身罷った。
突然の、まだ早過ぎる死であった。
享年74歳。

 師は、なお3年か5年は現役の活動をされるものとばかり思っていました。
その最晩年の仕事をどういう関わりで見るべきかを考えていたのです。
豈図らんや急逝されてしまった。
病魔はすでに身体の隅々にまで侵食していたのですね。
我知らず、思わぬ不覚でした。
遅れをとってしまったこの劇的な幕切れにしばし呆然としてしまいました。
嘗て薫陶を受けた者として、いまはまだ惜別の辞を贈りますまい。
 -高校を卒業した'63夏、
偶然の機を逃さぬ師流の誘引術に見事に嵌まり、
Actual Art-状況芸術の会-へ参入。
引きつづき初秋には舞踊研究所の一員となっていた。
以来40年、逆らいのテツと渾名された若輩者ももう齢六十を迎えんとしています。

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ふとめざめたらなみだがこぼれていた

世を捨てたなどとうぬぼれてはいない‥

世に捨てられた自分をみつめている


わしは、砕けた瓦だ

わしは瓦であった

脆い瓦であった

自分から転げ落ちて

砕けてしまう瓦であった


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September 24, 2004

いつまで旅することの爪をきる

 きょうでおわかれなんて唄にしかならないのです。

きのう おあいしたんでしたね たしか
…ええ そうでした 
…きょうはおわかれですね …じゃ さよなら
…いや ちょっと まってください 
…きょう さよならするんですから きのう あったことは だれにも秘密にしときましょう …できれば なかったことに 
…だって さよならなんて 照れちゃうでしょ なんとなく おおげさで …うそみたいに ドラマティック 
…そんなものじゃありませんよ きのうおあいしたことよりも きょうおわかれするほうが あつかいが大きくなるってのは 
…いやなんですよ ぼくは …不公平ってものですよ ね 
…朝 あはよう っていって 夕方に さよなら 
…これは いいんですよ あしたまたおはようっていえるとおもっているし …たいてい やっぱり そうなるし 
…だから あしたになって おはようっていえなかったら …これは こまるんですよ 肩すかしくったようで …たまんなく やりきれなくて
…こんな日は きまって 風邪ひくんです …風邪なんかひいたら つまんないですよ 
…ほんと え ええ だから あったんですよ 
たしかに きのう そう 
…ええ きのう 
…でもね ないしょにしときましょう 秘密に …あなたと わたしの 
…だって ね おかしいですよ やっぱり 
…そう そうですよ なかったんですよ …なかった なかった 
…あわ …なかった …そういうことに 
…ええ …なかったことに

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あめふるふるさとははだしであるく

私は最近、これまでのマイカー通勤をやめて自転車で通っているのだが、
秋分の日も過ぎて、これから秋もだんだん深まっていくに、風に吹かれてのロード・サイクリングはなかなか乙なもの。
途中、木津川の渡しを利用するのだが、大阪湾も近いせいで、朝夕の潮風に吹かれての船上のひとときが、ほんとに心地よいもの。

もうひとつ、太極拳をお奨め。
春なら早朝、新芽の芽吹く頃もいいけれど、
秋なら夕暮れ、風の誘いにのって、
ゆるり、ゆるり、ゆったりと、おおらかに
舞うが如くに、

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September 22, 2004

もりもりもりあがる雲へ歩む

Santohka_28.jpg

 わしはの、放哉のように

 底の抜けた柄杓というわけにはいかなかったが

 いわば、社会の疣みたいなものですよ

 たとえば、顔に大きな黒い疣があるとすれば

 それは邪魔にもなろうが

 小さい疣なら、邪魔にはならないでしょう

 時には、愛敬を添える疣なら

 その疣だと思って堪忍してくださいよ

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