July 09, 2009

ふとん丸けてものおもひ居る

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―表象の森― 精神分析の臨床と日常語

その著書「甘えの構造」はつとに知られるが、日本の精神分析、その黎明期をリードし後進に多大の影響を与えた土居健郎-5日死去、89歳-を悼む斎藤環の一文が、昨日の夕刊-毎日-に載っていた。
先達土居健郎の、卓越した臨床家としての側面は、名著「方法としての面接」でその片鱗をうかがい知ることができる、として続いた言挙げが判りやすくおもしろいので書き留めておく。

「わかる」という言葉を手がかりに
自分のことが「わかられている」と感じるのが分裂病
「わかりっこない」と考える躁鬱病
「わかってほしい」と訴える神経症
といった区分がなされる。

斎藤は、臨床において日常語がいかに発見的な機能を持っているか、このくだりからだけでも十分にうかがい知れよう、と結んでいる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-18

  雪の跡吹はがしたる朧月  

   ふとん丸けてものおもひ居る  芭蕉

次男曰く、折端、雑。天象を人事に奪い、「雪の跡吹はがしたる」に見合うのは「ふとん丸けて」だと作っている。敷いてないのではない、展べてあるか、展べかけて思い直したか、はだれ雪にさすおぼろな月かげに蒲団を丸める興を誘われた、とまず云っている。そして、じつは「ものおもひ」のたねがあったのだ、と恋含につないである。二句、待人来らず独り寝のさまか、つれなく帰った男に対する思いか、それとも亡き人の思出か、などなど話をさぐらせるところ、芭蕉はやはり恋上手である。尤も、句の人には当世風の女の姿はあるが、かぎる必要はない。

蒲団は現代では冬の季語である。蕪村の頃には冬に扱った例がいくつもあり、元禄頃にもそう見なしたらしい発句がある。支考の「削かけの返事」-享保13年-には「発句にすれば当季となり、平句にすれば雑となる物は、夜着、ふとん、居-すゑ-風呂の類也」と云う。平句では無季に扱うのが普通だったらしい、と。

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July 08, 2009

剥いでもらつた柿のうまさが一銭

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―山頭火の一句―
昭和5年の行乞記、10月4日の稿に
10月4日、曇、飫肥町、宿は同前-橋本屋-

長い一筋道を根気よく歩きつづけた、かなり労れたので、最後の一軒の飲食店で、刺身一皿、焼酎二杯の自供養をした、これでいよいよ生臭坊主になりきつた。-略-

今日は行乞エピソードとして特種が二つあつた、その一つは文字通りに一銭を投げ与へられたことだ、その一銭を投げ与へた彼女は主婦の友の愛読者らしかつた、私は黙つてその一銭を拾つて、そこにゐた主人公に返してあげた、他の一つは或る店で女の声で、出ませんよといはれたことだ、彼女も婦人倶楽部の愛読者だつたろう。-略-

行乞記の重要な出来事を書き洩らしてゐたーーもう行乞をやめて宿へ帰る途上で、行きずりの娘さんがうやうやしく十銭玉を報謝して下さつた、私はその態度がうれしかつた、心から頭がさがつた、彼女はどちらかといへば醜い方だつた、何か心配事でもあるのか、亡くなつた父か母でも思ひ出したのか、それとも恋人に逢へなくなつたのか、とにかく彼女に幸あれ、冀くは三世の諸仏、彼女を恵んで下さい。
※表題に掲げた句のほか9句を記している

特種二つとして、主婦の友や婦人倶楽部の愛読者だろうと決めつける前者と、丁重に十銭玉を呉れた行きずりの娘への山頭火の思い入れ、その対照がおもしろい。
雑誌「主婦之友」は1917-T6-年創刊、そのライバル誌ともいえる「婦人倶楽部」の創刊は1920-T9-年だ。大正デモクラシーの潮流のなかで、大衆的主婦層に向けた生活の知恵、暮しに根ざした教養と修養の啓蒙的雑誌だが、大正末期から昭和初期、飛躍的に愛読者をひろげ、主婦之の友は1934年-S9-新年号で108万部発行にまで至っている。その教養主義の大衆化は、古きよきものをないがしろにし滅ぼしていくことでもあったろうから、山頭火は苦々しい面付でこれを見ていたのだろう。

―表象の森― KAORUKO、出色

いや、驚いた、胸中思わず唸ってしまうほどに、
「天国のお母さん、大切なことを言い忘れました。
私を生んでくださって、ありがとう。」
たった二行の、その発語は、出色のものだった。

板の上にのること、虚と実の二相に引き裂かれつつ身を置くといった、その特異な局面が、我が身に否応もなく、一方で昂揚感をもたらし、また緊張感に包まれもし、我が事にあって我が事にあらず、舞台という世界に潜む遊び神にでもまるで背中を押されたかのように、たとえ幼な児といえど、無自覚なままに豹変、憑依してしまうものなのだ。

まこと白川静の云う「言葉とは呪能」である。そしてまた、身振りとは魂振りであり、際において窮まれる振りとは呪能そのものであろう。

振り返れば、昨年9月、ほぼ2年ぶりに再びはじめたDance Caféも、昨夜でやっと4夜を重ね、これが見事なほどに起承転結に照応していることに、ふと気づかされたものである。

バレエの申し子のように育ってきたありさを、世界もキャリアもまるで異なる此方の手法のなかにどのように棲まわせるか、そんな試行にはじまり、13歳のありさの世代にまで降りてゆけるのなら、8歳のKAORUKOにも届き得ようかというのが「Reding」であり、転でもあった、そんな一面がある。

むろん4夜の起承転結、その照応はこの一事ばかりではない。むしろ核というか本質というか、孕むべき劇的変容はもっと要のところで静かに進行しており、こと此処に到っているのだ。

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July 07, 2009

雪の跡吹はがしたる朧月

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―四方のたより― 今夜はダンスカフェ!

弁天のオーク200でお逢いしましょう。
            四方館亭主 林田鉄

―表象の森― Body Gear、角正之の手法

昨夜は、Dance Caféの前日というに、山田いづみからの熱い誘いもあって、角正之君たちの即興Liveを観に出かけた。
場所は阪急六甲駅そばのLivehouse.Maiden Voyage、午後7時に間に合うように六甲駅に降り立ったが、直ぐ開演かと思いきやなんのことはない、開場が7時で、7時30分の開演だった。

二部に分かれた前半は、部分的にDuo partもあったものの、いわば短いsolo集といったもの。角君も含め、小谷ちず子、越久豊子、三好直美、山田いづみの5人5態、各人の踊り方、個別の骨法の如きものがよく覗えて、それなりに楽しめた。
暫時の休憩を挟んで後半は、女性4人による即興だが、時間にして20分ほどか。演奏トリオはVoiceの北村千絵を軸にした編成で一定のまとまりを有するゆえか、一面聞きやすいが、いくぶん意外性に乏しい。

いつも観念的言辞を弄してやまぬ角君だが、その手法、音と動き、そして空間、それらの関係性や組立ての論理は、どうやら形式的論理の思考で貫かれたものらしい。
あくまで即興の、4人のその踊りは、約束事とて僅かなものしかなかったのだろうが、結果としては、ずいぶんと構成的なものになってしまって、前半を些か楽しめただけに期待は膨らんだのだったが、案に相違、裏切られるかたちとなった。

私の眼からすれば、原因ははっきりしている。4人の動きは、それぞれ2人、3人、また全員と、あまりにも即物的、直接的に、絶えず関係を採りすぎた。個々ひとりひとりの動きの世界が生み出され際立っていくなかで、関係の網の目を形成していこうと、そういう視点に立っていないように、どうしても私には映る。即興をとおしてどんな世界を現出せしめるか、志向しているのか、角君のアプローチと私の方法論の違いが、かなりはっきりと浮かび上がってきた、そんな一夜だったように思われた。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-17

   かれし柳を今におしみて  

  雪の跡吹はがしたる朧月  孤屋

次男曰く、根雪かそれとも春雪か、はだらに土の覗くあたりに朧月がさしている、という眺めである。積った雪を風が吹起したとも読めぬことはないが、それなら「雪の跡吹きはがされし朧月」と云えばよい。さてはあの雪を吹きはがしたのは朧月であったか、と見立てるところに俳趣を生む作りである。したがってこの「朧月」は、単に俳諧特有の投込の技法というのとも違う。

孤屋が月の座をこぼして花の跡見とした成行は先に述べたとおり。「雪の跡」と加えて雪月花三位の興の設けとしたところが洒落た工夫で、月花一所のつとめは歌仙に間々見かけるけれど、こういうはこびは他に例がない。古い歌にも雪月花を合せ詠んで成功した例は稀であるから、猶のこと眼にとまる、と。

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July 06, 2009

子供ら仲よく遊んでゐる墓の中

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月3日の稿に

10月3日、晴、飫肥町、橋本屋
すこし寝苦しかつた、夜の明けきらないうちに眼がさめて読書する、一室一灯占有のおかげである、8時出立、右に山、左に海、昨日の風景のつづきを鑑賞しつつ、そしてところどころ行乞しつつ風田といふ里まで、そこから右折して、小さい峠を二つ越してここ飫肥の町へついたのは2時だつた、途中道連れになつた同県の同行といつしょに宿をとつた。-略-

朝、まだ開けきらない東の空、眺めてゐるうちに、いつとなつて明るくなつて、今日のお天道様がらんらんと昇る、それは私には荘厳すぎる光景であるが、めつたに見られない歓喜であつた、私はおのづから合掌低頭した。-略-
表題に掲げた句のほか8句を記している

飫肥-おび-町は、現在の宮崎県南部、日南市の中心街だが、九州の小京都と称される古い城下町である。古くは戦国の世、伊東氏と薩摩の島津との間で100年にわたる国盗りの舞台ともなった飫肥城は、江戸期になって5万1千石の城下町となって代々伊東家が治めた。1977年には重要伝統的建造物群保存地区として、城下町らしい景観と飫肥城を復元するために大規模な改修が行われている。

その古い町並の静かな佇まいを伝えるPhoto群が<此のサイト>で観られる。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.18-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.8、終幕である。

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July 05, 2009

かれし柳を今におしみて

Santouka081130065

IInformation – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―四方のたより― めずらしく連チャン稽古

昨日は夕刻の5時頃から、演奏の競演者たちに集まって貰ってリハーサル、今日は10時集合でいつものように稽古、わが四方館にすればめずらしい連チャンだが、即興-Improvisation-主体のDance Caféとはいうものの、やはりPlayerとDancerが一応の手合わせをしておくことは収穫があるものだ。

昨日から今日へと、Dancerたちは心的に昂揚もしてくるし、その分集中力も強まってくる。
Playerたちはといえば、昨年9月から常連となってきたvoiceのMさんを今回は余儀なく欠くものの、ほかのお三方は健在、同じ陣容で4回目となる今回、互いの手の内をよく知り得てきたなかで、此方の狙いどころを受けとめて貰いながら、意外性をいかに生み出し、ときに求心力をどう発揮していくかなど、それぞれ脳裡に具体像を結びつつあるのではないか。

残る心配は、会場のレイアウト-Installation-設営ときわめて限られたlight-照明-との兼合いだが、これは現場仕事、当日の設営作業のなかで判断していくしかないが、さて‥。

今日のYou Tube-vol.17-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.7

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-16

  この春はどうやら花の静なる  

   かれし柳を今におしみて  岱水

次男曰く、花どきも終り新茶が出始める候になったから、古茶の在庫を減らしておこうというのも人情なら、今となってはかえって古茶が懐かしい、というのも人情だろうと含を利かせて作っている。

前が「花の静なる」と云うから、春2句目に、わざわざ「か-枯-れし柳」と逆らって応じて見せたところが滑稽のみそで、「柳枯る」は冬の季語である。「今にお-惜-しむ」のは柳も芽吹いたころ、と覚らせるように強引に季を持たせている。春・秋は三句以上続という連句の約束があって出来る趣向の面白みだ、と。

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July 03, 2009

お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて

Santouka081130030

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月2日の稿に
10月2日、雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋

-略-、私の行乞のあさましさを感じた、感ぜざるをえなかつた、それは今日、宮ノ浦で米1升5合あまり金10銭ばかり戴いたので、それだけでもう今日泊まつて食べるには十分である、それだのに私はさらに鵜戸を行乞して米と銭を戴いた、それは酒が飲みたいからである、煙草が吸ひたいからである、報謝がそのままアルコールとなりニコチンとなることは何とあさましいではないか! -略-

岩に波が、波が岩にもつれてゐる、それをぢつと観てゐると、岩と波とが闘つてゐるやうにもあるし、また、戯れてゐるやうにもある、しかしそれは人間がさう観るので、岩は無心、波も無心、非心非仏、即心即仏である。-略-

同宿の或る老人が話したのだが-実際、彼の作だか何だか解らないけれど-、
  一日に鬼と仏に逢ひにけり
  仏山にも鬼は住みけり
鬼が出るか蛇が出るか、何にも出やしない、何が出たつてかまはない、かの老人の健康を祈る。-略-

※文中、表題に掲げた句のほかに、14句を記す

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.16-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.6

―表象の森― 「群島-世界論」-20-

意識の多島海にひとたび漕ぎ出せばもはや単純な帰還はない。世界の、海底での連結の事実に気がつけば、故郷という土地は樹々からこぼれ落ちる種子のように海上に散種され、世界の無数の汀へと流されてゆく。振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。<わたし>こそが水平線であることを発見するからだ。一人一人が自らに絡みつく歴史と政治の緯度や経度が錯綜した水平線を舟とともに曳航し、その<わたし>という水平線の出逢う交点に一つ一つ島が出現してゆく。自らが引きずるのと瓜二つの水平線、時空のはてなき拡がりと炸裂のなかで未知のまま結びあっていたもう一人の<わたし>、<わたし>の分身のような水平線がどこかの海から訪れ来る。背後に置いてきた故郷ではなく、前方にかすむ起源が、未来へと向かう水平線の運動のなかに書き込まれてゆく。

「私は群島」-I am the Archipelago-、<わたし>と<群島>とを、実存をしめすもっとも確固たる等号で簡潔に繋ぐこと。このようにシンプルにして果敢な言葉を発した詩人は、エリオット・ローチ以外にいない。
 -今福龍太「群島-世界論」/20.私という群島/より

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July 02, 2009

この春はどうやら花の静なる

Santouka081130016

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―世間虚仮― そのまんま劇場、終幕

昨日の朝刊トップ見出しに「東国原氏の入閣調整」と打った毎日新聞、今朝の紙面では一転「東国原氏起用見送り」とせざるをえなかった、そのまんま東の国政転身戦略に踊らされた騒動劇も、この一夜の、泰山鳴動の顛末でどうやら終幕がぐんと近くなったようだ。
ところが本人はまだまだやる気満々、「私が出馬すれば、自民を勝たせられる」と、ご当地の宮崎で県民相手に曰っている。そのOptimistぶり、ノーテンキな軽薄さは、麻生宰相殿といい勝負だ。

そのまんま東が、これまで宮崎県民の圧倒的な支持を得てこられたのも、またその人気がマスコミを通し全国に波及してきたのも、彼のキャラスタイル、下から目線ならぬ下からの物言いが、権力などとはほど遠い無力な存在の一所懸命さやある種の謙虚さを彷彿とさせればこそである。彼自身云うところの「この国を変える、今回が絶好のチャンス」も、かように自ら条件闘争にまみれていってしまっては、傲慢不遜と映るばかりで、正体見たりとなるは必定、ただ失墜あるのみだということに気づいていないらしい。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.15-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.5


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-15

   茶の買置をさげて売出す  

  この春はどうやら花の静なる  利牛

次男曰く、四吟歌仙の巡をabcd・badcの通例に従えば二花三月の定座の人は次のとおり。初折の表5句目・月-芭蕉、同裏8句目・月-孤屋、同裏11句目・花-孤屋、二ノ折の表11句目・月-芭蕉、同裏5句目・花-岱水。利牛の座はない。
二句上げて9句目、利牛の「花」は孤屋の譲によめものだと容易にわかるが、孤屋自身も定座の花の跡見を「朧月」と作っている。8句目で予め月をこぼしておいた所以だ。

「静なる」が見どころ。前句の「下げて」に即応した言葉択びもさることながら、二句上げて譲られた「花」が飲めや唄えの浮れ気分では具合がわるかろう。

句はこの興行で初めての春季である。雑の句からの移りだから進行に問題はないが、前々から時季の含みを以て読むと、いきなり花の座というのは逆接の印象を免れまい。ならば、気早な老人は八十八夜を待兼ねて古茶を売出す、と前句を茶化した滑稽の気転と読めばよい。茶摘は晩春の季である。利牛は「花の」と作って、もとはしていない。分説すれば主観が表に立ち、人情がらみとなる。裏入から人事句で継いできたこの巻のはこびからすれば、観相とはいえ眺めやる写生体の句が欲しい。利牛の眼のはたらきはそこにもあるだろう、と。

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July 01, 2009

泊めてくれない村のしぐれを歩く

Santouka081130036

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月1日の稿に
10月1日、曇、午后は雨、伊比井、田浦といふ家

-略-、朝夕の涼しさ、そして日中の暑さ。今日此頃の新漬-菜漬のおいしさはどうだ、ことに昨日のそれはおいしかつた、私が漬物の味をしつたのは四十を過ぎてからである、日本人として漬物と味噌汁と-そして豆腐と-のうまさを味はひえないものは何といふ不幸だらう。
酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもある、いはば不幸な幸福であらうか、「不幸にして酒の趣味を解し‥」といふやうな文章を読んだことはないか知ら、酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ-ここでまた若山牧水、葛西善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うてニコニコするのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである-。-略-
文末に掲げた句のほか5句を記している

―世間虚仮― ピナ・バウシュ死す

松岡正剛に「ハイパーピース・ダンス-Hyper Peace・Dance-」と献辞を送らしめた舞踊家ピナ・バウシュ-Pina Bausch-が、昨日-6/30-急死したという。

自らは「Tanz Theater-タンツテアター-」と称した、ラバンやM.ヴィグマンとともにドイツ表現主義の舞踊を築いたクルト・ヨースに学び、独自の方法論として開花させたそのDramaticなDanceは、80年代から90年代、世界のModern Danceに衝撃を与えつづけた、といっていい。

まだ68歳、若すぎる死である。癌だったというが、その告知の5日後の、突然の死であった、と。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.14-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.4

―表象の森― 「群島-世界論」-19-

15-6世紀のVeniceは、ヨーロッパ、アジア、アフリカを結んで地球大の拡がりを持ちはじめた海上交通のほとんど唯一無二の要衝として、世界でもっとも多くの知識と情報と文物を集積する能力を持ったことで、かえって事実の領域の彼方へと逸脱してゆくような白熱した知性を生み出した。「世界」という限定された観念の極限を踏み越えてしまう過剰かつ驚異的な事実の数々が、外界への想像力を意識の内面へと反転させ、未知の世界は謎の群島の連なりとして魂の多島海に浮上した。マウロの地図は、そうした新しい心性そのものを描いた精緻な認識地図だった。

近年の、高橋悠治によるバッハの鍵盤作品の演奏と解体をめぐる一連の作業ほど、私の「群島-世界論」へのVisionを鼓舞するものはない。その試みの先には、近代世界の成立を経てヨーロッパ大陸に収斂してきたあらゆる音楽文化の要素と意匠を、ふたたび群島世界の末端へと谺のように送り返したいという、刺戟的な音楽の反-方法論が見え隠れしている。

もちろんバッハは、はじめから高橋にとって西欧近代音楽の殿堂としての権威や正統性の源泉にはなかった。バッハはむしろ、近代の西洋音楽が平均律やHomophonyといった一元的な法則性や形式的演奏行為のイデオロギーによって自らの「音楽」という制度を確立する前の最期の音楽的混沌を体現する、きわめて豊饒な可能性と逸脱の宝庫として捉えられていた。
 -今福龍太「群島-世界論」/19.白熱の天体/より

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June 30, 2009

茶の買置をさげて売出す

Santouka081130026


Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― 読書三昧にはとおく‥

60年代、70年代ならいざ知らず、80年代、90年代以降の現代美術の動向にはまったく不案内の身であれば、23人もの現代作家たちへのインタビューと精神科医独自の作家論が響きあう、斎藤環の「アーティストは境界線上で踊る」は、現在進行形のさまざまなアートシーンに通暁するという意味ばかりではなく、ずいぶんと刺激的な読書であった。
その名も初めて耳にした精神科医西丸四方の自叙記とも思われる「彷徨期」を求めたのも、本書の草間彌生インタビューに紹介された話題からだった。

―今月の購入本―
・西丸四方「彷徨記」批評社
信州は東京から近いようで、最も遠い所にある、と語る精神科医が、信州松本にあってその生涯を、狂気の分析と治療に一切の情熱を傾けた、苦悶の彷徨記。-中古書-

・P.シャモワジー・R.コンフィアン「クレオールとは何か」平凡社ライブラリー
歴史に蹂躙され、歴史に忘れられた、地球上の小さな片隅、カリブ海地域で、300年ばかりのあいだに堆積し、だれにも属さない経験に耕され、地と汗と涙の滲みた大地から、やがて多彩な言葉の花が咲き匂う‥-裏表紙コピーより-。

・白川静「文字遊心」平凡社ライブラリー
中国人のこころの諸相を捉えた「狂字論」「真字論」、古代人の生活誌ともいうべき「火と水の民俗学」、あるいは「漢字古訓抄」や漢字の諸問題など、広大にして豊饒な漢字の世界に遊びつつ、中国の歴史の深処にせまる。

・白川静「漢字百話」中公文庫
太古の呪術や生活の姿の伝える、漢字の世界-厖大な資料考証によって、文字の原始の姿を確かめ、原義を鮮やかに浮かび上がらせる、10章各10話、100話の短章集。

・上野和男「縄文人の能舞台」本の森
考古学と民俗学の領野から、縄文期以来、この国の無意識を連綿と貫く宗教の本質を、「付会・習合・形の呪術」の三つの要素を媒介に解読を試みる。

・楠見朋彦「塚本邦雄の青春」ウェッジ文庫
「水葬物語」で鮮烈なデビューを果たした塚本邦雄の、謎に包まれた青年期あるいは習作期、知られざるその素顔に迫る。

他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」6月号、山田芳裕「へうげもの 5-8巻」講談社

―図書館からの借本―
・丸谷才一「後鳥羽院」筑摩書房
後鳥羽院は最高の天皇歌人で、その和歌は藤原定家の上をゆく、と称揚する著者の院を中心に据えた文学史論。73年初版の増補版。

・斎藤環「アーティストは境界線上で踊る」みすず書房
草間彌生・できやよいから、岡崎乾二郎にいたる現代美術の作家たち、現代日本のartist23人のインタビューと著者による作家論を並置した批評集。現代美術論として以上に、千差万別の個性が煌めくartistたちの肉声の記録として読み応えがある。

・鈴木博之他「奇想遺産Ⅱ-世界のとんでも建築物語」新潮社
世界中の奇妙な建築、可笑しな家・不思議な家を網羅した奇想遺産シリーズのⅡ、朝日新聞日曜版の特集企画もの。

・j.ホール「西洋美術解読辞典」河出書房新社
キリスト教や古典文学など西洋美術に特有の主題・象徴・人物・動植物・観念・持物などについて、図像学の成果に基づきながら解説した、イメージを読むための美術基礎事典

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.13-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.3


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-14

  鯲汁わかい者よりよくなりて  

   茶の買置をさげて売出す  孤屋

次男曰く、打越の人茶舗のあるじらしき人に奪った付で、三句同一人物ではないが、景の句と違い人事句を渡りに使うと、はこびはとかく同じ一人の行為なり感想の付伸しと読まれやすい。それでは連句にならぬことぐらい、承知して作っている筈である。

「ながれたあとを見に行」と「さげて売出す」も、同巣と読まれかねない。捌きの考え方のむつかしいところだが、「家のながれた」は天災、「買置をさげて」は人情、と考えればきわどいところで縺れを避けた工夫も納得できる。どじょう汁で精力がついたら茶趣味がしらけた、という老人心理は納得がゆく。

新茶・古茶という季はあるが-初兼三夏-、茶、茶の買置は季語ではない。ないが、三句自ずと梅雨期頃と知られる遣方で、若返ったから古茶の大売出をしよう、と句は読んでよい。むろん新茶が含みだ、と。

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June 29, 2009

波の音たえずしてふる郷遠し

Santouka081130021

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月30日の稿に

9月30日、秋晴申分なし、折生迫、角屋
いよいよ出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を慰めいたはり救ひ助けてくれる。-略-

今日、求めた草鞋は-此辺にはあまり草鞋を売つていない-よかつた、草鞋がしつかりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。-略-

夜おそくなつて、国政調査員がやつてきて、いろいろ訪ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で受けるか、或は墓の下か、いや墓なぞは建ててくれる人もあるまいし、建てて貰ひたい望みもないから、野末の土くれとの一片となつてしまつてゐるだだらうか、いやいやまだまだ業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩んでゐるだらう。-略-

青島即事と前書して「白浪おしよせてくる虫の声」他5句記している。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.12-

林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.2

―表象の森― 「群島-世界論」-18-

こころみに「幸福」という言葉を英訳してみよう。おそらく誰もがごく自然にとするだろう。それは私たちのときに荒れ果ててもいる日常の、ささやかな憧れの表明でもある。だがもしと答える者がいれば、その人はずっと詩人に近いところにいる。happinessの幸は悲しくも軽く通俗的だが、blissの幸はたとえ一瞬であろうとも天上的で陶酔的な得難い至福の謂いである。happinessが求められるものであるとすれば、blissは思いがけぬ不意の到来である。他にもgood, welfare, well-beingといったそれぞれに文脈やニュアンスを異にする訳語が容易に浮かんでくる。「幸福」という言葉のこうした多様な変異が示すように、幸福は単一の感情へと収斂しえない、それ自体群島のような情動の揺れを抱く感情複合体である。幸福という真実に行き着く経路もまた、近代の歴史や宗教・信仰の道筋、さらには日常生活の刹那に訪れる得心のか細い稜線といった無数のルートを含みこんでいる。群島の想像力は、こうした感情語彙を多様な可能性に拓いてゆくときにも、私たちの内部でたしかにはたらいている。

詩は大陸から孤絶した島である。わが群島のさまざまな方言-Dialect-は、私にとって彫像の額の上の雨滴のように新鮮に思われる。それは威圧的な大理石の古典的な奮発による汗ではなく、雨と塩という清冽な要素の凝縮そのものである。-D.ウォルコット「The Antilles: Fragments of Epic Memory」
 -今福龍太「群島-世界論」/18.ハヌマーンの地図/より

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