July 08, 2008

湖水の秋の比良のはつ霜

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-30

  青天に有明月の朝ぼらけ 

   湖水の秋の比良のはつ霜  芭蕉

次男曰く、時分に景の付である。

比良山と云えば、古来、寄合の詞は雪・月・花それに山風と相場が決まっている。比良の初霜を詠んだ歌はあるまい。

去来の人柄には、月と雪よりも月と霜-秋霜-の取合せがよく似合う、と云いたげな作りで、翻転の下敷は例の「百人一首」の歌、「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」-古今集、坂上是則- だろう。

この歌が李白の「牀前月光ヲ看ル、疑フラクハ是レ地上ノ霜カト。頭ヲ挙ゲテ山月ヲ望ミ、頭ヲ垂レテ故郷ヲ思フ」-静夜思-を踏えていると確かに思われるだけに-芭蕉の念頭にもあったのではないか-、「比良のはつ霜」はいっそう面白く読める。初霜とだけでは冬の季だが、秋の詞を添えて霜は秋にも遣う。

貞享5(元禄元)年9月、越人・芭蕉の両吟「雁がねの巻」には、初裏十句目「物いそくさき舟路なりれり-越人」に付て、「月と花比良の高ねを北にして-芭蕉」と作っている。この時の俤は、「平家物語」巻十、本三位中将重衡の海堂送りだった。俳諧師は思出しながら、興を春秋に作り分けたに違いない、と。

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July 07, 2008

青天に有明月の朝ぼらけ

Haguregumo1

―世間虚仮― 池田久美子と小沢一郎

洞爺湖サミットで喧しい世間-マスコミ-だが、そんなの関係ねぇ話題を新聞紙面から二つ。

・今年はずっと不調をかこっていた走り幅跳びの池田久美子が、最後の機会になる南部記念でようやく五輪切付を手にした。助走や踏切の改良にずいぶん悩み苦しんできた末の「原点返り」だったという。そう、それでいいんだと思う。たえず肉体の限界に挑みつづけてきた一流の運動選手が、フォームであれ、助走や踏切であれ、改良の名のもとこれを弄ることは、とても難しいことだ。

残された最後の機会、いわば土壇場に開き直っての原点返り、「1歩ごとに、スローな感覚」に集中、助走したという。結果は昨年5月以来の6m70、「わけがわからなかった」との本人の弁、さもあろう。

彼女の祖父彌-わたる、故人-氏は戦争中開催中止となった東京五輪-1940年-の代表候補だったという。父実氏も五輪代表をめざした走り幅跳び一家、三代にわたる悲願がやっと実った、と。

・民主党の小沢代表が、なぜだか秋山ジョウジの漫画「浮浪雲」のファンだと、小学館から「選・小沢一郎/あちきの浮浪雲」なる本まで出したと、なんだコレ?

昔は私も喫茶店などでよく手にした「ビッグコミックオリジナル」は、今も健在で隔週刊らしいが、35年も前から連載の始まった「浮浪雲」も820回を数え、単行本なら計86巻、こいつをご自宅に全巻取り揃えていると云うから、イヤまいったね。

だけど小沢氏、「浮浪雲」に取り憑かれるようにご愛読がはじまったのは、自民党幹事長となる89年頃からだとかで、ずいぶんスロースタート。まあ、権力の頂上が見えてきた途端、とかく人生訓を求め、悟りめいたものを欲しくもなる政治家の習性か。それが江戸の問屋場などという俗にまみれた世間にあって超俗のはぐれどりに共感してしまう、というのも判らぬではない。
ならばさらに「浮浪雲」愛読三昧に精進なされ、彼の哲学を血肉とされたし。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-29

   おもひ切たる死ぐるひ見よ  

  青天に有明月の朝ぼらけ  去来

次男曰く、季は秋、名残の月の定座である。

去来がこれを務める意義は、初裏八句目-月の定座-「三里あまりの道かゝへける」のところで既に説いた。

句は佳句と思う人もあろうし、見てくれだけの修辞のとりまわしと読む人もあろうが、問題はそういうところにあるのではない。

これは、一巻中随一の晴-名誉-の句である。付方は前句の人情に寄せた時分だが、自ずと、「死ぐるひ」は男、さらに剛勇の士らしい、と覚らせる作りになっている。「青天」「有明月」「朝ぼらけ」、口当りのよい三つの素材を身に引纏うのに、去来は殆ど苦労らしい苦労をしていないだろう。史邦の介添「おもひ切たる死ぐるひ見よ」の手柄である。

「付意の精妙なる、句品の高雅なる、猿蓑風の佳処を代表するものの一なり。前句の切ぱつまれる死に身の執念の心を一転して、仇も怨みも恚りも悩みも一朝に坐断せるの意ある光風霽月の景象を描き出せり。不即不離の妙境言語に絶す」-樋口功-
この判じ方を押進めると「もう乱戦が果てて天地無声のひっそりとした光景である。そこには死物狂ひの果てに倒れた屍がある。血に染みた額には無念の怨みを刻みながら、然かも思ひきった働きをして、覚悟の討死をしたその心もちは、さながら青天のあさぼらけのすがすがしさであったろう」-太田水穂-、というところまでゆく。

連句興行を祭りに喩えれば、この句の去来はさしずめ行列の花形武者だ。「死ぐるひ」に相応しい扮装-いでたち-なり景なり時分なりをさぐれ、という連衆の要求に応えるのは正客たるの者の務めで、これは合点の上の趣向である。合戦の情緒的始末などどうでもよいことだ。諸家の評語は思入れの過ぎた、たわいもない作文に過ぎぬ、と。

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July 06, 2008

おもひ切たる死ぐるひ見よ

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―四方のたより― 船阪義一氏の急死に‥

船阪義一氏急死の報をひょんなことから知ったのはちょうど1週間前。驚き、騒ぎ立つ心を抑えつけ、たしかな情報を待つも、杳として掴めぬままに日が過ぎてきたが‥、
ようやくにして判ってきたことは、心臓動脈瘤破裂で緊急入院したのが6月25日、その4日後の29日、儚くもそのまま帰らぬ人となってしまった、という。
なんということ! 人はこうも呆気なく此の世から去りゆくものか、といまはただ月次な言いようしか思い浮かべえない私なのだが‥。

強いて自身を離れてみれば、畢竟、舞台の照明を本業とした彼は、どこまでも影の存在としてその生涯を、音楽に演劇に舞踊にと、さまざまな舞台芸術を文字通り裏から支える業にひたすら身を賭してきたばかりでなく、
91年から始まったアルティ・ブヨウ・フェスティバルにおいては事実上のプロデューサー的存在であったように、その手腕は数多の企画を実現させる影の仕掛け人としても大いに発揮されてきたことに照らせば、
彼の存在を頼みともする知己の人々、舞台人らそのひろがりは、狭い一路をただ歩んできた私などの想像をはるかに超えるものであるにちがいない。

彼の死という報が、その衝撃が、どれほど多くの人々の心を駆けめぐり、どれほど多くの動揺と傷痕を遺していくことになるのかは考えるだに難しく、その領野を俯瞰することなどきっと生半のことではない。
その激震の強さとひろがりは、いまのところ眼には見えず表れ出ていないにせよ、否むしろ何処からも公言もされずひたすら静かに潜航し伝播しつづけていればこそ、私などには到底量り知れないものがある筈なのだ。

おそらくは、魂鎮めと魂振り、これらはまさに相補的であり、且つその量においてほぼ等しくあるものなのだ。
船阪義一、1944年生まれ、はからずも私と同年であった。

「夢の破片を胸に抱き
 鬼の児よ。けふからまた、君の
 三界流浪がはじまるのか。
 ――鬼の児の鏡みる夜のさむさかな。」
        金子光晴-「鬼の児の唄」から-抜粋


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-28

  せはしげに櫛でかしらをかきちらし  

   おもひ切たる死ぐるひ見よ  史邦

次男曰く、「うき人を枳殻垣よりくゞらせん」以下、二句恋-芭蕉-、恋離れ-去来-、其会釈-凡兆-と継いできて、当句も亦其人-女-の科白とすることはできぬ。輪廻になる。

といって、合戦場などでの男の大見得と読替えれば、唐突な「櫛」が納得ゆかぬ。女の形見と考えても、打物執って死狂いする男が投櫛で未練げに、「かしらをかきちらし」たりなどしては、様になるまい。折角のはこびの流れを毀してしまう。

結局この句は、前二句の狂乱の体を見込んで、「死ぐるひ」と、一段摺上げた作りには違いないが、女と男の向付としたか、それとも第三者の掛声・間-あい-の手を以て演劇的地合とし、観想の作りとしたか、いずれかだ。

後者を採る。結んで前後句いずれにも執成せる作りは連句の常道で、この句について云えば、「死ぐるひ」の読取りを男の所作に奪えるからだ。

加えてもう一つ、重要な訳がある。先に、初折二つ目の月を零した去来の振舞に立会い、自ら進んで走使の役割を買って出た史邦には、今度こそ何を措いても去来をもてなす謂れがあった。次は名残の月の定座で、巡は去来である。

「おもひ切たる死ぐるひ見よ」という傍白の本当の狙いは、「おもひ切たる-勇士の-死ぐるひ」を見せて欲しいということだ。「見よ」は観衆の期待を担った、煽りの云回しである、と。

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July 05, 2008

せはしげに櫛でかしらをかきちらし

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―表象の森― 鉄工所のなかの木造りの館-MULASIA

大阪市の西区、九条界隈は、嘗て小さな鉄工所が集積、軒先を並べる街であったが、いまはもうその数、往時の半分いや1/3にも減少したであろうか。

現在、阪神西九条駅と近鉄難波を結ぶ阪神電車西大阪線の延伸工事が来春-09年-の開通をめざして急ピッチで進められており、安治川を高架で越えてくる鉄路が地下へと急降下していくその入口あたり数百㍍にわたって、セミシェルター型という大仰な防音壁で囲われた偉容とも異様ともつかぬ現場の姿を、何日か前偶々まのあたりにし、この延伸による小さな街区の分断がもたらすであろう近い将来の変貌に想いを馳せては、些か憂鬱な気分に誘われたものである。

その突貫工事の進む近くに、外観は二階建ての鉄工所の姿そのままに、一旦内へ入ると寺の本堂かあるいは神殿かとも見紛う丸太造りの空間が静かな佇まいを見せ、突然異空間へ迷い込んだかと思わせるような場所、Free Space Mulasia-自由空間ミューラシア-がある。

此処のownerをよく知るという谷口君を煩って案内を請うたのだが、Event Spaceとしては01年からopenしたというのに、聞けば教室程度の用にしか供されていないという実情で、owner曰く近隣周辺に配慮し、夜の活動は午後7時を限りに自粛しているという。

自身民俗楽器などのPercussionistでもあるownerとしては、建設当初はイベントなど文化の発信基地として構想もし、musicianとしての自身の夢も紡ぎゆこうと、大いにこの場所に仮託されていたろうに、いまださして使い込まれもせず、いかにも町場の鉄工所然とした外壁の中に、隠れるようにしてひっそりとある白木の匂いを立ち籠める瀟洒な、人知れずこの埋もれゆく空間に、なんと侘しくも勿体ないことをと唖然としつつ慨嘆することしきり。

どうやら、あらためてこのSpaceを活かしていくには、なによりもowner自身の意識改革が必要かと思われるのだが、はて‥、どうしたものか。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-27

   いまや別の刀さし出す  

  せはしげに櫛でかしらをかきちらし  凡兆

次男曰く、二句一意、前句の人-女-の付だが、別れに寄合の語は刀よりむしろ「櫛」だろう、と見咎めたところに俳がある。

むろん、前句が「刀さし出す」と作った意味-恋離れ-を承知した上でのことで、ならば重ねて「櫛」を差し出す-投げ捨てる-訳にもゆかぬから、「せはしげに」「かしらをかきちらし」てみよう、と思付いたのが俳諧師の俳諧師たる転合ぶりだ。前句が「いまや別の」と仄めかした男への未練を、具体的な物と動作で受けた表現でもある。

櫛は古来呪術的性質を持ったものとして扱われ、投櫛は別れの凶兆として嫌われた。また平安・鎌倉時代には、伊勢斎宮の出立に際して天皇自ら斎宮の髪に櫛を挿し与える、「別れの御櫛」の慣しがあった。これは凶を転じて、神霊の加護を頼む呪いとしたものだろうが、「賢木の巻」にもむろん出てくる。

「‥帝、御心動きて、別れの御櫛たてまつり給ふ、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ」

凡兆の句作りの思付と無縁ではない、と。

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July 04, 2008

いまや別の刀さし出す

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―四方のたより― 山崎旭萃三回忌追善の琵琶の会

琵琶界で唯一の人間国宝だった山崎旭萃嫗が逝かれたのが06年の6月5日、1906(M39)年の生れだったからちょうど100歳の大往生であった。

その三回忌追善と銘打って「筑前琵琶橘会全国演奏大会」が、明後日-7/6-の日曜日、ご当地日本橋の国立文楽劇場で行われる。なにしろ全国大会とあるだけに、演目は二部に別れ全27曲、総勢140名におよぶ出演者が全国各地から寄り集う。

開演は午前11時からで、終演は午後5時頃になるもよう。
入場は無料だし、初見のお客も歓迎とか、長時間にわたるゆえ、始めから終わりまで日長一日客席に座すのはきつかろうけれど、ちょっと摘み食いよろしくお出かけあるも結構かと。

末永旭濤ことわが連合い殿が師事する奥村旭翠の一門は、開催地にあたり事務局も兼ねるとあって、幕開きと大詰めのトリをつとめるが、連合い殿は初めの演目「那須与一」を門下の11名とともに合奏することになっている。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-26

  うき人を枳殻垣よりくゞらせん  

   いまや別の刀さし出す   去来

別-わかれ-

次男曰く、「隣をかりて車引こむ」と同じく、「いまや別の刀さし出す」も単独では恋とは読めぬ作りである。打越以下三句、芭蕉が凡兆と結んで二句恋とした作りを、去来はほどいて恋離れとした点に工夫がある。

「刀」切-縁切-を匂わせたところがみそで、武士らしき男と女とのこの後朝は、単なるきぬぎぬではない、恋じまいだと読取らせる。

俤の付をここまで伸して考える必要はないが、六条御息所と源氏の間にも別れがある。そう思い出させるように話が運ばれているから、「別の刀さしだす」というひねりが、俳言として面白く利くだろう。源氏物語のほうはむろん歌の贈答だ。

「振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや –源氏-」
「鈴鹿川八十瀬の浪にぬれぬれず伊勢まで誰か思ひおこせん –御息所-」

「賢木の巻」には、六条御息所が斎宮-御息所の娘-の随いて伊勢へ下る顛末が、詳しく描かれている。上の贈答は、例によって焼棒杭に火のつきかける男女の仲のことがくどくどと語られたあとで、「-源氏-行く方をながめもやらんこの秋は逢坂山を霧なへだてそ 西の対-紫の上の対屋-にも渡り給はず、人やりならず物さびしげに、ながめ暮らし給ふ。まして旅の空は、いかに御心づくしなる事多かりけん」と結んでいる。

当歌仙では、相手を送り出したあと物思いに耽るのは男ではなく女のほうである、と。

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July 03, 2008

暑さきはまる土に喰ひいるわが影ぞ

Shimaotoshiobohi

―山頭火の一句―

大正6(1917)年夏の作か。この頃、当時五高の学生であった工藤好美-英文学者-と知り合い、歌誌「極光」の短歌会に誘われ出るようになっている。

この短歌会には木村緑平の従弟にあたる古賀某もおり、彼は偶々大牟田から訪ねてきた緑平を山頭火に引き合せた。この後の生涯を通じ、困った時の神ならぬ緑平頼み、ともなる山頭火にとってはかけがえのない友であり理解者との邂逅であった。

―表象の森― 島尾敏雄とミホ夫人

先に彫刻の栄利秋さんからOAP彫刻の小径2008展の案内を戴いた折、一枚の新聞記事の切抜きが添えられていた。
紙面は南海日日新聞の3月27日付、「思い出の地で安らかに」の見出しに「呑之浦で島尾さん墓碑除幕」と副見出し。

故島尾敏雄の妻ミホが逝ったのは昨年の3月25日、その一周忌を迎えての墓碑建設であり除幕式であった。敏雄とミホの出会いの場所でもある奄美諸島の加計呂麻島呑之浦、すでに島尾敏雄文学碑の建つ記念公園の小高くなったところ。この墓碑の製作を担当したのが栄さんで、彼は加計呂麻島のさらに南の請島出身、むろん先の文学碑も彼の製作で、同郷を頼りに依嘱されたとのこと。

島尾敏雄は海軍予備学生として魚雷艇の訓練を受け、のちに特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引きつれ、奄美諸島加計呂麻島に渡り呑之浦に基地を設営、終戦まで出撃-死-を待つ日々を送った。島民たちから「隊長さま」と慕われ親しまれていたが、やがて、翌20年の春頃からか、島の娘大平ミホと恋に落ちた。ミホは島長-シマオサ-で祭祀を司るノロの家系に生まれ、巫女の後継者たるべき娘だった。

弓立社刊の「幼年期-島尾敏雄初期作品集」の巻末には、「戦中往復書簡」と題した、敏雄とミホとの間に交された書簡が掲載されている。時に敏雄28歳、ミホ25歳。

「七月二日」
心を込めて御贈り申し上げます。今はもう何にも申し上げることはございませぬ様に存せられます。
此のしろきぬの征き征くところ、海原の果、天雲の果、ただ黙ってミホも永遠のお供申し上げまいります。
どうぞお供をおゆるし遊されて下さいませ
        ――ミホ

「七月七日」
山の上を通ったら 海も静か山も静か
満点に星がいっぱい うそのやう
これが戦のさなか大いなる日のしまかげ
ぼくはただひとり峠道を歩いて
大空の星に向って 力のかぎり一つのよびなをよんだ
mi-ho
涙がわいた
杖をふり廻して峠を下りて来た
mi-ho ,mi-ho, mi-ho,
いろいろのうつそみかなしみは
考へません
ただ任務と mi-ho
ただ二つ
mi-hoのかなしみを 沢山知ってゐます
ぼくは弱虫ですが
任務とmi-hoがあるから
強い
        ――トシオ

「七月」 -日付不詳-
‥‥
どうぞお元気をお出しになって下さい。
あなたがお淋しそうになさると、ミホかなしくなります。でもあなたがお淋しくなった時、ミホもいっしょにさみしがってはいけませんわね、ミホ元気を出します。
島尾隊長の歌をうたって元気を出します。
 あれみよ島尾隊長は
 人情深くて豪傑で
 僕等の優しいお兄さま
  あなたの為なら喜んで
  みんなの生命捧げます
 (村うちでは一ツの児も知ってゐます)
‥‥
あなたと御一緒に生のいのちを生き度い。
死ぬ時は、どうしても御一緒に。
悲しみに顫えながら、戦争に怯えながら生きてきましたミホ。
何時もあらゆるものと立ち向ひ乍らミホをお護り下さった「あなた」
この悲しい迄に切ない私達のせめて最後のたまゆらなりと、二人一緒に昇天する事を、神さまがおゆるし下されたらと切ない程に願はずには居られません。
「武人」の道にはそれは許されない事でございませうか。
とても、とてもミホ悲しみます。
‥‥
        ――ミホ

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July 02, 2008

うき人を枳殻垣よりくゞらせん

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―世間虚仮― イラク油田外資参入と豪鉄鉱石96.5%値上げ

・72年にサダム・フセインが国有化して以来、排除されてきた外資メジャーによる油田開発がとうとう規制解除されるという。イラク戦争からすでに5年、国内の産油量は戦争前の日量250万バレルにまでほぼ回復しているが、外資参入で長期的には倍増レベルにまで増産をめざすもの。

アメリカのイラク侵攻は石油利権獲得のために違いないと受けとめている人々が世の中には意外と多くいる筈だが、そういった視点からみれば「ヤッパリネ」といった感を抱くにちがいない報道記事。

・新日鐵など国内鉄鋼大手が豪州産鉄鉱石の輸入価格を07年比96.5%値上げで合意したという。
原材料としての鉄鉱石には塊状のものと粉状のものとがあり、塊状鉱石が96.5%、粉状鉱石が79.8%の値上げだというのである。
これより先、ブラジル産鉄鉱石の粉状鉱石を前年比65%値上げでこの2月合意されており、豪州産の大幅値上げへの波及は必至と見られていたというが、それにしても驚きの数値。豪州産は国内輸入の6割を占めるというし、この5.6年このような大幅値上げが続いているというから、国内基幹産業に与える打撃は計り知れないものがあろう。
さらに逼迫すること必至なのは基幹産業に連なる末端の中小零細企業だ。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-25

   隣をかりて車引こむ  

  うき人を枳殻垣よりくゞらせん  芭蕉

枳殻-きこく-

次男曰く、「隣をかりて車引こむ」という作りは、それ自体は恋ではない。含に付入って恋句-二句恋-に変えたのは、芭蕉の作りである。

もっとも、凡兆に起情の意図があったことは去来文にも明らかだから、老女の病気見舞にかこつけた男の好心から一見なよなよとしたさまの女の生活の智慧まで、イメージの幅を生む作りのどこからどこまでが凡兆の計算で、どの部分が芭蕉-次句-の解釈か、ということは当人たちにでも聞いてみなければ判らない。

たぶん「車引こむ」のは源氏を俤にした男の行為だというところまでが、凡兆の一応の守備範囲だったろうと思う。それを女の智慧に読替えて、夕顔の恋を当世風に成就させたのは、芭蕉の工夫ではあるまいか。

前句が男の好心で挑めば、迎えてただちに相手の女の手管を付けてもよさそうに思われるところを、それは駄目押になると見抜いて、もう一人の女-六条御息所-の妬心を持出してきて向かわせたのは理由のあることだ。連想のぎりぎりまで、前句の解釈を拡げたからである。

「うき人を枳殻垣よりくゞらせん」には、そう易々とあの女の垣根を-むろん自分の垣根もである-くぐらせてなるものか、と云うもう一人の女の怨念が十二分に現れている。つれて、片方のなよなよとした姿はいやが上にも焙り出される仕組だ。

因みに、先の話のあと源氏は何食わぬ顔をして六条に通う。春隣というものは、すぐそこにありながら、なかなか思うようには手に入れられぬ、という三者三様の呟きが聞こえてきそうな作りである。

ここまで読んでくると、「枳殻垣」取出しは、京連衆-京文化-に寄せる芭蕉の深甚なるもてなしだったと云うことがよくわかる。六条枳殻邸は、東本願寺法主の別邸として知られた京名所。平安時代に源融の河原院があり、その旧址を寛永16(1639)年家光が東本願寺に与え、承応2(1653)年に宣如上人が石川丈山に造園させたという。丈山に心を寄せた芭蕉が、それを知らなかった筈はない。

その六条がたまたま、物語ゆかりの土地であることがどうやら句興の下地になったらしい。そう思って読むと「枳穀垣」の句は、作そのものもうまいが凡兆の前句を奪って女二人の凄まじい絡みとしたところがとりわけ精彩を放つ。

むろん二句は、そのつもりになれば王朝草子の俤など捨てても当世滑稽咄としても読めるだろう。そう読ませる狙いは作者たちに先刻あった筈で、これは連歌にはなかった俳諧連句の面白さである。夕顔はじつはしたたかな女だった、というところまで芭蕉は話のおまけをつけているのかもしれぬ。いや、つけていない筈はない。そういう夕顔像は俳諧師ででもなければ思いつかぬ解釈である、と。

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July 01, 2008

隣をかりて車引こむ

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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-24

  痩骨のまだ起直る力なき  

   隣をかりて車引こむ  凡兆

次男曰く、自力で駄目ならせ人手を借りるしかない。背抱えに扶け起される病人の恰好は、荷車の後押を得て轅-ながえ-を抱え込む姿勢と同じだろう。「車引こむ」とはうまい執成だが「人出をかりて」ではいけないのか、と見咎めさせるところにまず興の誘いがある。

歳時記には春・夏・秋・冬それぞれに、-近し、-を待つ、の意味で「-隣」という季語を載せる。このうち春隣だけは「古今集」以来の伝統的遣方だ。
「あす春立たんとしける日、隣の家のかたより風の雪を吹きこしけるを見て、その隣へと詠みてつかはしける、

冬ながら春の隣の近ければ中垣よりぞ花は散りける –古今集・俳諧歌、清原深養父-」
年内立春ということのあった昔の暦では、春隣は特別だった。

凡兆の句は、病状の本復-春-も間近と見込んだ付に違いないが、この介添を必要とする作りには、話が前と合せて二句一意と読める以上、とりなして別途に興を求める仕掛がなければ連句にならぬ。

先の浪化宛去来文は、この句の趣向について、「隣をかりては夕顔、待人いれしは常陸宮-末摘花の異称-を存じよりて仕候。すべて此二句にかぎらず猿蓑集には古き草紙物語などの事存じ寄せ候句ども、処々に御ざ候」と俤のたねをあかしており、しかも該当句の作者は去来ではなく凡兆であるから、「隣-夕顔の宿」の連想について一座の合意があったこともわかる。

源氏が六条御息所の許へ忍んで通う途中、五条の尼君-乳母-の病気見舞に立寄るくだりである。急のこととて、むさくるしい大路にしばらく車を立てさせて開門を待つが、その間にも男の好心はさっそく兆す。その相手が隣家の女つまり夕顔である。先だって雨夜の品定めの折に頭中将から聞かされ、心に懸かっていたとこなつの女。そうこうする裡に到頭、尼君訪問を口実に源氏は情を通じてしまうのだが、男のお目当てが病気の乳母などではなく、初めから隣家の女の方だと判っていれば、「隣をかりて」にも「車引こむ」にも、次々と人物・状況の着せ替ができる。俳諧の俳諧たる所以だ。

源氏が網代車を入れさせたのは尼君の門だが、これは夕顔の宿から云えば隣家、尼君とその子惟光は隣人である。そればかりではない、「隣を借りて車を引込」んだのは源氏よりもむしろ夕顔の方だ、というところまで読取の興はひろげられよう。
病人が恋の取持をすると云うはこびの考え方も面白いが、
夕顔は
「山の端-源氏-の心も知らで行く月はうはの空にてかげや絶えなん」
と詠むような「いとあはれげなる」風情の女である。そういう女が男を引入れるときは、恋の手引から車寄せまですべて隣に頼る、という世相・人情の諷刺がいっそう面白く利く。俳諧師なら、ユウガオの蔓は中垣を越えて隣へ伸びたがる、と気付かぬ筈がない。深養父の俳諧歌が、そのまま「夕顔の巻」の垣覗きの好心にも当嵌る、と。

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枯草ふかう一すぢの水涌きあがる

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―山頭火の一句―

大正6(1917)年の句、「人来り人去る 十一句」と前書あり。

前年の春、破産出郷、山頭火は妻子を連れて熊本へと落ちた。
「寂しき春」前書した「燕とびかふ空しみじみと家出かな」は出郷の折の句。

熊本ではまず古書店を営むもうまくゆかず、やがて「雅楽多」の屋号で額縁屋の店を開いた。額縁や複製絵画、肖像やブロマイド、絵はがきなどを扱う。

明治天皇の肖像を額に入れて、小学校などを廻って売り歩いたりもするようになって、店番は妻サキノに任せきりにして、彼はもっぱら額縁売りの、道ゆく行商人となった。


―温故一葉― 遊劇体の鏡花世界「山吹」を観て

前略、昨夜は「山吹」拝見、お招きの程どうも有難う御座いました。
泉鏡花の世界にどういう造型や形象をするのかと、一度は観てみたいと思っていた遊劇体の舞台を、これまた未だ足を踏み入れていない、廃校となった難波の精華小学校を劇場化、2004(H16)年からopenしている精華小劇場での公演、という取合せに思わず食指が動かされたようで、日頃の重い腰もなんの、気もそぞろに出かけていった次第。

まずは演出氏の-「夢幻能」として-の謂、よくよく腑に落ちるものあり。
舞台に妖しげに咲く花弁を象った9つの方形の台座は、金剛界曼荼羅図をも想起させ、「南無遍照金剛」と唱和する声明とともに、この劇宇宙の地平を明瞭に象る形象としてお見事でありました。

その9つの台座に、時-話-の移りに応じ演者もまた移れば、白山吹が蓮の花にも見紛うか、まるで蓮の台座に鎮座する仏や菩薩の如くにも映り、座の移りは輪廻転生を孕んで、極限にまで「事」の劇性を強めましょう。

舞台空間を曼荼羅と化した9つの台座とその周辺、いわば明瞭に図と地に分け隔て特権化したこと、言い換えれば空間に大きな負荷をかけたことは、人物それぞれの形象の仕方にも自ずと方法的自覚を強いるものとなります。

シテ「縫子」、ツレ「傀儡師」、ワキ「画家」という登場人物の三様にあって、「縫子」を「声」と「振り」に分離し、「振り」を人形振にしたのも、ツレが「傀儡師」であってみれば物語の必然ともみえ、またその様式の徹底をめざせば自ずと生まれ出るものだったとも云えるでしょう。この場合、演出氏の方法的模索が実際には逆の過程であったかとも思われますが、そんなことはどうでもよいこと。

いずれにせよ、台座の上の「振り」としての「縫子」に負わせた人形振の加圧が、エロティシズムの止揚に大いに寄与したものとみえ、ひとかどの方法や技術では手に負えそうもないこの戯曲を、本歌取りの体よろしく換骨奪胎、ここまで舞台化しえた演出の冴えに感じ入りました。

声と振りの分離は、「縫子」の声をさらにまた分離させうるものとなり、「外面如菩薩内面如夜叉」の如き陰陽対照の二者ともなり、さらにはコロスとへ化し、ジェンダーそのものにまで拡げえることとなります。

コロスと化し、ジェンダーそのものにまで普遍化された「声」、その朗誦の術は、これまたきわめて方法的自覚に裏付けられねばなりませんが、条あけみと大熊ねこの朗誦はその自覚によく練り込まれたものであり、その対照はなかなか見事なものでした。惜しむらくは、要となる箇所において「声」をも発した「振り」におけるこやまあいの、二人-条・大熊-の声を吸収しつつ止揚せねばならぬその「身」振りにはまだまだ遠く未熟さが露呈していたことです。しかし、これは至難の技というもの、体現しうる女優を見出すのもかなり至難なこといわざるをえないでしょう。

この舞台、抑制された様式性をよく貫徹された演出であった、と思います。
私とすれば、滅多にないよきものを観た、との思いを抱いております。

取り敢えずお礼に代えて。 2008.07.01 -四方館/林田鉄


「遊劇体」のキタモトマサヤ君と逢ったのは、もう十年近くも前になろう、「犯友」-正式には「犯罪友の会」-の武田君ら関野連の祝祭の一夜であったろうか。
おそらくどちらも人見知りの強い性格なのだろう、とくに話し込んだという記憶もない。

しかし、その以前から「遊劇体」の公演案内はそのたびに送られてきていたように思う。時に食指を動かされる案内もいくつかあったのだが、ずっと機会を逸したまま今日にいたってしまっていた。

とりわけ、彼らが泉鏡花を舞台化するようになって、女優の条あけみも常連となって出演しているのも重なり、これは一度は観ない訳には、と思っていたところ、精華小劇場での案内を貰って、この機会は逃すまいと思ったのである。
と、そんな次第で、とうとう昨夜、キタモトマサヤ君の「山吹」とご対面となった。

いい舞台だった。
方法的意識に貫かれた彼の演出は、その抑制された様式性に結晶している。
演者たちも、よく演出に応え、アンサンブルがとれていた。

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June 30, 2008

痩骨のまだ起直る力なき

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―四方のたより― 水平的集合の祝祭空間、その楽日は?

この24日から昨日-29-までの1週間行われた、CASOにおける「デカルコマニィ的展開/青空」展とはいったいなんであったか?
初めと終りの日だけにしか立ち会っていない私に、それを語る資格があるやなしやという問題もあろうが、敢えていうならば、その特質は「水平的集合の祝祭空間」といったものになろう。

多くのMusicianたちやDancerたち、加えて造形や絵画、映画、写真などのArtistたちが寄り集い、それぞれの表現行為を並列せしめる。その集合を可能ならしめているのはDancerとしての大道芸人デカルコ・マリィの存在にはちがいないが、彼自身の立ち位置、他の参加者たちへのスタンスが、横へ横へとひろがりいく水平的な交わりを大事にしようとの拘りゆえだろう。

だからこの集合-体を付すべきではない-によるMovementは、全体として親和性に満ちており、臨場する人々に快を与えるものとなりうるし、観る者を巻き込んだ祝祭空間ともなりえているのだろう。この点においては特筆に値するEventといってもいい。

とはいえまったく注文がないわけではない。
祝祭の1週間、楽日の大団円となったLIVE・音舞楽劇「青空」で演じられたものが、その水平的集合の祝祭に相応しいものになりえていないことで、これではまるで画竜点睛を欠いたものと云うしかない。

このLive-音と舞による楽劇-、時間にして正味30分程。音の演奏者たちは各々楽器が異なる。さまざまな音が連なり、重畳し、共振していく音世界‥。

ならば舞のほうはどうであったか。ほぼ前半はデカルコ・マリィのSolo世界、後半になって他の競演者たち10名ばかりか、まずは思い思いのactionなりimageをもって登場してくるが、やがて一団となって動きはunison化する。Imageの捉えやすい単純な動きが繰り返され、energyが増幅され、最後にはてんでに蒼穹の彼方へと舞っていったか‥、といった展開だが、いかにも段取りに終始してしまっている。

大勢でやるのだから一定の段取りは必要だろう、それは認めるとして、段取りのままに終ってしまってなんとする。その段取りの内に、破調を、波乱を、そのタネを仕掛け置かずになんとする。ひとしなみにDancerといっているが、その構成は、役者ありモダンありで、さまざまな個性をもった多彩な顔ぶれである。仕掛けひとつで意想外の世界を現出せしめること、それほど難しい業でもあるまい。

このユニークな水平的集合なればこそ自ずと生まれ出る表現のひろがりを期待してみたのだが、この祝祭の大団円たる時間を凭れ合いや馴れ合いで費消されてしまっては、いかにも悔いが残ろうというものだ。

親鸞に「横超-おうちょう-・竪超-じゅちょう-」の語がある。「横」は他力、「堅」は自力を表す。「超」はすみやかに迷いを離れることを意味するが、この水平的集合に親鸞の「横超」を垣間見た気がしたのだったが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-23

   ほとゝぎす皆鳴仕舞たり  

  痩骨のまだ起直る力なき  史邦

痩-やせ-骨の、起-おき-直る

次男曰く、季語はないが、晩夏・初秋の候にいたり、署をもちこたえた病人のさまだと判る。「まだ」と云い、「力なき」と云い、期待と努力は何度も-何年も-繰返されたのだ、と覚らせながらうまく前二句がつくった歴史の俤を絶っている。

冥途の鳥と異名をとった鳥の声を聞かなくなったということは、死はそこに来ているとも、ようやく危機を脱したとも受取れて、史邦が後者を択んだのは俳諧のはこびとしてごく自然な智慧だが、黒川玄逸の「日次-ひなみ-記事」-貞享2年-に、「俗に云ふ、床に臥して-杜鵑の-初音を聞けば、すなはちその年病あり。もし然らば、すなわち忽-すみやかに-起してこれを祝せ」とある。「起直る」は、この種の縁起かつぎから思付いたのかもしれない、と。

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